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2024/07/11

「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧九 女金銀をひろいぬしにかへす事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。標題の「ひろい」はママ。]

 

 㐧九 女、金銀を、ひろい、ぬしに、かへす事

○「するが」の「ふちう」に、さる人、下女を、一人、つかひけり。

[やぶちゃん注:駿河国の旧国府がおかれた場所で、現在の静岡市葵区の静岡中心市街地にほぼ相当する(グーグル・マップ・データ)。]

 武州より、ある人、京都へ上り、木佛(もくぶつ)を、一たい、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。]、さる寺へ、「きしん」申《まうす》べきために、のぼり、「するが」の「ふちう」に、一宿(《いつ》しゆく)しける。

 金子(きんす)五十兩、さいふに入《いれ》、立《たち》ざまに、うちわすれ、出《いで》て、京へつきて、かのふくろを、もとむるに、なかりけり。

「こは、いかに。」

と、おどろきて、

「はるばる、のぼりたる『かひ』も、なき事かな。此かね、なくては、『大ぐはん』の望(のぞみ)、かなひがたし。いかゞすべき。」

と、あんじ、わづらひける。

『正《まさ》しく、「ふちう」の宿(やど)にて、おとしつる。』

と、たしかに、おぼゆ。

『引《ひき》かへし、くだりたりとも、とても、くれまじ。しよせん、くだらぬは、しかじ。」

と、おもひ、

「とかく、佛《ほとけ》の御緣(えん)、うすき、いはれならん。」

と、ふかく、なげきしが、されども、當所(たうしよ)のやどに、くだんのとをり[やぶちゃん注:ママ。]を、具(つぶさ)に、かたりければ、宿(やど)の、いはく、

「心やすかれ。それがし、御望(《おん》のぞみ)を、かなへ參らせん。金銀、なくとも、あんぢ[やぶちゃん注:ママ。これは用法としては、おかしい。「安(やすん)じ」で、「安心して」の意であろう。]給へ。」

と申ける。

 此人、いよいよ、よろこび、やがて、おもふまゝに、つくり奉りて、其まゝ、もりて[やぶちゃん注:大切に所持して。]、くだりける。

 又、「ふちう」の宿(やど)へ、よりて、何んとなく、をと[やぶちゃん注:ママ。「音」。]を、すまして、きく所に、なにの「しさい」も、なくして、やゝありて、下女、ぜんを持《もち》て出《いで》、ひそかに、よりて、申やう、

「こなたには、御のぼりの折《をり》から、何にても、わすれ給ひたる物や、ある。」

と問(とふ)。

 此人、

「されば。此はしらの折《をれ》くぎに、ふくろを、一つ、かけをき[やぶちゃん注:ママ。]、とらずして、上り、京都にて、おもひ付《つき》、はるばるの道なれば、かへりて、とふべきやうも、自由(じゆう)ならず、うち過《すぎ》ぬ。」

と、申ければ、下女、かの、ふくろを、取出《とりいだ》して、

「此事にてや、あるらん。」

と、申せば、此人、

「扨《さて》も。ありがたき心ざしなり。」

とて、四、五兩、とりいだし、下女に、くれける。

 下女の、いはく、

「をろか[やぶちゃん注:ママ。]の人の心や。此かねを、すこしにても、うくる心のあらば、何事にか、此ふくを参らすべき。すこしも、申《まうし》うくる事、おもひも、よらず。まして、ほとけ、ざうりうの、かねなり。」

とて、とるべき気色(けしき)あらざれば、此人、

『扨は。世の中の「けんじん」とは、かやうのものをや、いふやらん。此女は、世に、また、たぐひなきものかな。』

と、おもひ、宿(やど)のあるじに、此下女(げぢよ)を、もらい[やぶちゃん注:ママ。]、武州へ、ぐして、くだり、我子に引合(ひきあはせ)ける。

 此女、來りてより、家、とみ、さかヘ、はんじやうする事、なゝめならず。

 さてこそは、『正直は、一たんの「ゑこ」[やぶちゃん注:ママ。「依怙」。たまたまの一時の頼り。]にあらず。つゐに[やぶちゃん注:ママ。]は、天の「あはれみ」を、うくる。』と、いふは、是なるべし。

 世に、人、おほしといふとも、「むよく」のものは、まれならん。一たんのよくを、はなるれば、「一しやう」のたのしみを、うくる。『げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。』也。

[やぶちゃん注:「げんせ、あんをむ、ごしやう、ぜんしよ。」「現世安穩後生善處」。「法華經」の「藥草喩品(やくさうゆほん)」から。『「法華経」を信ずる人は、現世(げんせ)では、安穏(あんのん)に生きることができ、後生(ごしょう)では、よい世界に生まれるということ。』。]

 おほくは、一たんの「よく」に、まよひ、現當(げんたう)二世(《に》せ)ともに、大《おほ》ぞんを、うる事、「がんぜん」の「きやうがい」なり。たれか、是を、あらそはん。はづベし、はづべし。

[やぶちゃん注:「現當(げんたう)二世(《に》せ)」現在世(げんざいせ)と当来世(とうらいせ)の二つの世。この世と、あの世。「現當兩益(げんたうりやうやく)」(現世の利益と当来(来世)の利益)の意にも用いる。単に「現當」「現未」とも言う。]

 此物がたりは、「あべ河」より、元三(げんさん)と申《まうす》人、上りて、はなされけり。近年(きんねん)の事也。

 

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