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2024/07/21

「疑殘後覺」(抄) 巻七(第六話目) 松重岩之丞鬼を討つ事

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「目錄」では、「松重岩鬼をとらゆる事」(「とらゆ」はママ)となっている。]

 

   松重岩之丞、鬼を討つ事

 ある人のいふやうは、

「おそろしき事こそ、あれ。このごろ、鳥羽の「つくりみち」には、日の、くれかゝれば、鬼のいでゝ、ゆきゝのものをとらへて、うちころするもあり、又は、あかはだかに、はがるゝものもあり、とうざ[やぶちゃん注:ママ。「當座(たうざ)」。]に、たゞいり[やぶちゃん注:ママ。「たえいり」(絕入り:失神し。)の誤記であろう。]。さるによりて、日のあるうちに、わうかんのたび人は、はしりまはりて、にげまどふ。」[やぶちゃん注:『鳥羽の「つくりみち」』岩波文庫の高田衛氏の脚注に、『京、羅城門跡からまっすぐに南下する古道の名。鳥羽、伏見等を経由する。』とある。当該ウィキ「鳥羽作道」がある。それによれば、他に「鳥羽造道」の表記がある。『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明』(しげあきら 延喜六(九〇六)年~天暦八(九五四)年:醍醐天皇第四皇子)『親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、兼好法師が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とあった。「京都市埋蔵文化財研究所」作成になる「32 鳥羽作道」PDF)が地図と各所解説があり、非常によいもので、私は保存した。]

と、いひふらするほどに、京中の人々、是を、きうて[やぶちゃん注:ママ。「きゝて」の誤記。]、

「うつけたる空ごとを、いひちらすものかな。『おに』といふものが、あるものにてあらばこそ、何ものゝいひふらして、かく、いちはやく、いふらん。」[やぶちゃん注:岩波文庫の補正本文では「あるものにてあらばこそ、」を「あるものにてあらばこそ。」としているのは、誤りである。ここは『「こそ」……(已然形)、……の逆接用法』だから、読点でなくてはおかしい。]

と、事おかしげに、とりやはぬ[やぶちゃん注:ママ。岩波もそのままだが、これは「とりあはぬ」であろう。「あ」は崩しがひどいと「や」に誤読し易い。]人もあり。

 又、一はうには、

「さこそ、ぞんずれども、おとゝい[やぶちゃん注:ママ。「一昨日(をとゝひ)」。]も、さいごくより、のぼりたる、れきれきの人、『おに』ゝあひて、荷物をすてゝ、にげたるよしを、からたち[やぶちゃん注:「族(うから/やから)達」の縮約。親族・家人・下人。]の、ものがたり侍る。」

と云(いひ)、

「うたがひなきことにて候。」

よしを、いふ人も、あり。

 又、ある人、儒者の許もとへゆきて、はなすやうは、

「鳥羽の鬼に、あひて、きのふ、やうやう、からき命を、いきて、もどりたる。」

よし、申《まうす》ほどに、

「其《その》鬼のかたちは、いかやうにか、侍る。」

と、とい[やぶちゃん注:ママ。]申《まうし》候得《さうらえ》ば、

「せい、六しやくばかりにして、かしらは、あかきかみを、七のずまで、とりみだし、身には、あかき『もうせん』[やぶちゃん注:「毛氈」。]のやうなるものをきて、『かたな』か、『ほこ』か、そこは、しかとぞんぜぬ打物、ぬいて、追《おひ》かけ候ときは、きも・たましゐ[やぶちゃん注:ママ。]も、なくなり、足、まどひ候ひて→[やぶちゃん注:ママ。]、たふれふす、おそろしさ、なかなか、ことばに、たとへがたき。」

よし、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]かたられける。

[やぶちゃん注:「七のず」岩波文庫の補正本文では、『七の図』で、高田衛氏の脚注に、『上から七番目の脊椎骨のある、背中の半ばあたりの部分。』とあった。とすれば、「ず」は「づ」の誤りである。]

 學者、きゝ給ひて、

「世の中の人、いちかたよりも、かく、いふなり。それ、鬼といふものは、こんぽん、あるものにては、なし。まことの鬼といふは、一年、二年も、食物、とぼしく、やせ、をとろへ[やぶちゃん注:ママ。]、ほねと、かはとに、なり、身もくろく、ひかわつきて[やぶちゃん注:「干乾(ひかわ)盡(つ)きて」。]、かみは、空ざまに、もへ[やぶちゃん注:ママ。「燃え」。]あがりたるを、『餓鬼』といふ。これは、乞食・非人のこうじたる[やぶちゃん注:「困(こう)じたる」。極限まで餓え衰える者。]に多し。『うへ[やぶちゃん注:ママ。]たる鬼』と、かきて、『餓鬼』といふなり。ゑにかき、木につくるやうに、いかめしく、おそろしきものは、いづくにか、あらん。みなみな、ひが事[やぶちゃん注:道理に合わない間違った事柄。]。」

と、いへりけり。

 又、ある人、いはく、

「『おに』といふ物、むかしも、あればこそ。東寺の羅生門にて、『渡邊源五つな』は、おにを、したがヘたるよし、かき、つたへたり。又、延喜の帝の御宇に、都良香《みやこのよしか》と云《いふ》詩人は、東寺の南だいもんを、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふに、ころは、やよひごろにや、柳のさかり見えて、東風《こち》に、なびきければ、おもしろくおぼえて、

『き はれては 風 新柳の髮を けづる』

と吟じ給へば、

『氷 きへては なみ 舊苔《きうたい》の髭《ひげ》を あらふ』

とぞ、付《つけ》たりける。この下句は、もんのうちより、あかき鬼、いでゝ、付けたるよし、四條の公任《きんたう》、「朗詠」に、のせたり。かゝるたしかなる學言《がくげん》のあれば、なきにも、あらず。」[やぶちゃん注:「東寺の羅生門にて、『渡邊源五つな』は、おにを、したがヘたるよし、かき、つたへたり」私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「羅生門類話」』の本文と私の注で、ガッツリと伝承原話を電子化してある。別電子化のリンク先も多く、総て読むと、最低でも一時間弱はかかるので、御覚悟あれ。「都良香《みやこのよしか》と云《いふ》詩人は、東寺の南だいもんを、とをり[やぶちゃん注:ママ。]給ふに、……」の怪異譚は、私の『小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」』「三」の訳注と、それに附した私の注を見られたい。「四條の公任《きんたう》」言わずもがな、藤原公任。「朗詠」「和漢朗詠集」。]

などゝ、さまざまに比判[やぶちゃん注:ママ。]しけるところに、爰《ここ》に松重岩之丞とて、中國の人なりし。都に、ゆかりりて、のぼられける。

 又、こゝに、内山勘内とて、七條しゆじやか[やぶちゃん注:ママ。「朱雀(しゆじやく。」]に、心も、がう[やぶちゃん注:「剛」。]にて、ちからのある人、ありけるが、このほど、

「鳥羽の邊に、『おに』の、いできて、あるゝ[やぶちゃん注:「荒るる」。]。」

よし、いひふらするによりて、色々に、ふんべつすれども、なにとも、れうけん[やぶちゃん注:「料簡」。]にをよば[やぶちゃん注:ママ。]ず[やぶちゃん注:妄言として納得出来ずに。]して、ゐたりけるが、あまりのふしぎなれば、

『ゆきて、あるか、なきかの、せうこ[やぶちゃん注:「證據(しやうこ)」。]を、みるべし。十が九つは、たぬきか、きつねの、わざ、なるべし。さりながら、一人行《ゆき》ては、みて、もどりても、人に語らんに、證據なくして、しかと、せず。爰《ここ》に、太郎次と申《まうし》て、せいりき[やぶちゃん注:「勢力」勢いと臂力。]、すくやかに[やぶちゃん注:「健やかに」。]して、ことに相撲《すまひ》などをとるに、ならびなき名人なり。此者に、ひさしくあはず。かれを、さそひて、ゆかばや。』

と、思ゐ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]て、宿へ、ゆきてければ、日も、はや、たそがれどきに成《なり》けるに、女ばうは、おもてを、とりあけてある[やぶちゃん注:家の前を片付けている。]ところへ行《ゆき》て、

「ひさしくこそ候へ。さて、太郎次は、うちにかや。」

と、とへば、女房、

「されば、ちと、ようじやう[やぶちゃん注:ママ。「養生」]御座候て、さるかたへ、まいり[やぶちゃん注:ママ。]へ、まいら[やぶちゃん注:ママ。]れ候。」

と申《まうし》ければ、六ツになる、むすこが、いふやうは、

「とゝは、鳥羽へ、『おに』ゝに、ゆきたまふ。」

と云ふ。

『ふしぎなる事を、いふものかな。』

と、おもへども、かれがおやぢが、鬼になるとは、ゆめにも思ひよりなければ、

『京中が子どもを、すかす[やぶちゃん注:「賺す」。おどす。]には、「鳥羽のおにゝ、かます[やぶちゃん注:「嚙ます」。]べし。ながなき、するな。」などゝて、すかす折《をり》からなれば、子どもの、かく、いふにや。』

と思ゐて、

「あすは、まいり[やぶちゃん注:ママ。]て、ちと、ものゝ、だん合[やぶちゃん注:「談合」。]を、すべし。」

と、いふて、かへりにけり。

 さるほどに、松重は、かゝる共《とも》、不知《しらず》、鳥羽の「つくりみち」をとをり[やぶちゃん注:ママ。]けるに、有《ある》森のこかげより、そのせい[やぶちゃん注:「背(せい)」。]、いかめしきおにの、あかがしら、みだしたるが、

「それなるおのこ[やぶちゃん注:ママ。]、のがすまじ。」

と、とんで、かかるを、見ければ、まなこは、すいしやう[やぶちゃん注:「水晶」。]のごとくにて、鼻は、一きは、高きが、きばを、むきて、かたなを引《ひつ》さげ、かゝる。

 松重は兵法の名人、そのうへ、心の、ごうなる事は、よにたぐひなき、つわものなりければ、少《すこし》も、おどかず、とある木のもとに、二尺五寸[やぶちゃん注:七十五センチメートル。]のかたなを、ぬきて、待《まち》かけたり。

 ほどなく、おに、きたつて、

「なんぢは、あくごう[やぶちゃん注:ママ。「惡業(あくがふ)」。以下同じ。]ふかく、物ごとに、じまんして、『我一人』と、ぞんずるものなれば、たちまち、命を取るべし。」

と云《いふ》。

 松重、いはく、

「『あくごう』とは、なに事ぞ。『じまん』とは、いかなる事ぞ。」

と云。

 鬼、いはく、

「なんじ、いのち、おしくば[やぶちゃん注:ママ。]、たすくべし。いのちのかはりに、たからを、まいらせ[やぶちゃん注:ママ。]よ。」

と云。

 松重。きいて、

「これはきだい[やぶちゃん注:「稀代」。]の、おに、かな。ものごしをきけば、たしかに、人ごゑ、なり。又、『たからを、おこせよ。』といふは、有無《うむ》につけて[やぶちゃん注:どう考えてみても。]、人《ひと》くさし。まことのおにが、たからとて、人のざいほう[やぶちゃん注:ママ。]を、とつて、なにかせん。『なんでう[やぶちゃん注:何が何でも!]、きやつめは、うつてくればや。』と思ひて、まいりそう[やぶちゃん注:ママ。「候」]。」[やぶちゃん注:「なんでう」は、本来は「何(なん)でふ」が正しい。ここは、感動詞で「何をほざくか! とんでもない!」と、相手の言い分を強く否定する用法である。]

と、いふまゝに、うつて、かゝる。

 おには、うけつ、ながいつ[やぶちゃん注:「流(なが)しつ」のイ音便。]、たゝかひしが、松重は、兵法の上手なれば、うで、かたさき、かたがたを、三ヶ所、手をおほせ[やぶちゃん注:ママ。「おはせ」。]たり。

 おには、

『いやいや、きやつは、ことのほか、手者《てしや》[やぶちゃん注:手練れの者。]にて、このぶんならば、きられぬべし。』

とや、思ひけん。

「なんぢ、かやうなる惡人は、いのち、たすけて、長く、ごう[やぶちゃん注:ママ。「業(がふ)」。但し、原文は『こう』であるから、『「業(ごう)」を背負って、永き苦界の現世の永がの年月、則ち、「劫(こう)」を生きさせて苦しい人生を見せてやる!」と啖呵を切った可能性もあるか。]をへさして、みつべし。」

とて。かいぶいて[やぶちゃん注:ママ。岩波文庫の改訂本文では、『傾(かい)ぶいて』とする。松重から受けた複数の傷によって、自身の身体の正立を保てなくなったことを言っているのであろう。]、にげにけるを、松重、

「なんでう、おにどの、いづちを、さして、にげ給ふぞ。やるまじきは、それがしなり。せうぶ[やぶちゃん注:ママ。「勝負(しやうぶ)」。]を、し給へ。」

とて、おつかけ、うしろずね[やぶちゃん注:「後脛」。]を、かたなのむねにて、たたみかけて、なぐれば、鬼が、うつぶさまにぞ、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

 松重、のりかゝつて、ちつとも、はたらかせず、

「ざいしよのものども、いであへ。おにを、したがへたるぞ。」

と、いきを、かぎりに、よばゝりければ、これを、きゝつくるにや、「たいまつ」を、とぼし、つれて、一、二百人、おりあひ[やぶちゃん注:ママ。「折(を)り合(あ)ひ」。]たり。

 さて、とりて、からめてみれば、「めん」[やぶちゃん注:鬼の面。]あり。

 とりて、みれば、人、なり。

「さても、さても、にくき、やつめ、かな。このごろ、せけんを、さはがせて、「よたう」[やぶちゃん注:「夜盜」。]を、なしたる、にくさよ。」

とて、やがて、鳥羽の「つくりみち」に、三日、さらして、ほそ川殿へ申《まうし》ければ、

「さりとては、大きなるてがらをして、よのなかの忩劇《そうげき》を、やめ給ふ、しんべう[やぶちゃん注:ママ。「神妙(しんみやう)」であろう。]さよ。」

とて、かずのほうびを、いだされて、かんじ給ふこと、かぎり、なし。

[やぶちゃん注:「ほそ川殿」不詳。実は、岩波文庫の高田氏の脚注には、『当時の京都町奉行、細川左京亮貞重』とあるのだが、この人物、ネットでは名前が挙がってこない。そもそも京都町奉行は寛文八(一六六八)年に置かれたので、本書の成立である文禄年間(一五九二年~一五九六年)には、未だ置かれていない。不審。

「忩劇」「怱劇」とも書き、「そうけき」とも。ここは「いざこざなどによる世の騒ぎ」を指す。岩波文庫補正本文では『怱劇』となっている。]

「ものしりたちのさげすみ給ふところ、いさゝかも、たがはず。」

と、跡にこそ、おもひあたりける。

 あるが中にて、

「手だてを、なしたる盗人《ぬすびと》。」

とて、きんごく[やぶちゃん注:「禁獄」。]せられにけり。

 むすこが、

「とゝは、おにに、いき給ふ。」

と、いひしを、のちにぞ、思ひあたりける。

 おかしかり[やぶちゃん注:ママ。]し事どもなり。

[やぶちゃん注:内山勘内の友人太郎次が「鬼」の正体だったわけだが、それを、敢えて最後に名を出さななったこの語り手は、息子の気持ちを汲んでいて、ラストに、一抹の人情に哀れを漂わせているところが、なかなか、よい。]

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