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2024/07/24

平仮名本「因果物語」(抄) 正規表現・電子化注 始動 / 因果物語卷之四 〔一〕戀ゆへ、ころされて、其女につきける事

[やぶちゃん注:「因果物語」は、江戸初期の曹洞宗の僧侶・仮名草子作家で、元は旗本であった鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:本姓は穂積氏)が生前に書き留めていた怪異譚の聞書を、没後、門人でああった誰かが、寛文元(一六六一)年以前に勝手に出版したものである。当該ウィキによれば、この平仮名本「因果物語」は、『正三の』生前の『戒めに反し』、『勝手に平仮名本が刊行され』、しかも、『その内容には偽作されたものなどが含まれていたため、弟子たちが正本として発表した』片仮名本「因果物語」(全三巻)である。『片仮名本の序文を書いた雲歩和尚は、先行して世に出ていた平仮名本を「邪本」と呼んで非難している』とある。以下、出版及び影響などが続くが、ご自分で見られたい。何故なら、私は、この事情をよく知っており、既に、このブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で、正本である『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版)』全篇の正字電子化オリジナル注附きで、完遂しているからである。

 底本は、「国書データベース」の「酒田市立光丘文庫」のマイクロ収集になるものの画像を使用する(リンクは第一話の「因果物語卷之四 〔一〕戀ゆへ、ころされて、其女につきける事」である)。私は、本書の活字本は、全十篇のみの抄録である岩波文庫の高田衛校注の「江戸怪談集(下)」(一九八九年刊)に載るものしか所持していない。高田先生の巻末の「解説」によれば、その抄録対象を選ばれた理由を述べておられ、この「平仮名本」の『巻四―六については、『片仮名本・因果物語』の内容と関係のうすい、『平仮名本』の独自な増補部分と見なすことができる。本巻収録の説話は、この巻四―六の部分に限定して、選抜したものである』とされておられる。そちらでの底本は、『東洋文庫蔵本』の『十二行本で大本三冊で刊記はない』とある。されば、同文庫のものを、OCRで読み込み、上記底本で、表記を正字に直して電子化する。ここに、高田先生に御礼申し上げるものである。

 因みに、これを以って、私は、この岩波の全三巻の「江戸怪談集」に所収する作品は、総て、正字表現で、ブログでの電子化を終えることとなる。言っておくと、その内、先の「疑殘後覺」(抄)と、『本平仮名本「因果物語」(抄)』以外の怪談集は、独自に全篇を、原本に当たって、正字表現で電子化したものである。この高田先生の「江戸怪談集」は、私が結婚する直前の三十二歳の時、貪るように読んだ、謂わば、私がブログの「怪奇談集」を始める遠い根っこに当たる、忘れ難い作品集であるから、個人的に、ある感慨がある作業となる。

 判読で、正字か異体字かを迷った場合は、正字を採用し、底本に振られている読みは、総てを( )で附し、難読と判断したものは、高田氏の振られたものを参考に、推定で歴史的仮名遣で、《 》で附した。

 底本では、「。」が、読点の代わりに打たれてある箇所が多くあるが、自由に読点に適宜代え、また、必要を感じた箇所には、句読点及び記号を私が挿入し、さらに読み易さを考えて、段落・改行を行う。濁音の記号がない場合は、私の判断で濁点を附した。それは、五月蠅いだけなので、注はしていない。

 但し、踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なので、正字或いは「〻・々」に代える。

 注は、高田氏の附されたものを参考にさせて戴く。引用させて戴く場合は、その都度、それを明記する。

 標題は、抄録なので、底本の各篇の標題を参考に、「因果物語卷之○ 〔○〕」の形で、標題の上に附すこととした。

 では、始動する。因みに、初篇の標題の「ゆへ」の歴史的仮名遣の誤りはママである。本文中の誤字の場合は、必ず、割注する。

 挿絵のあるものは、岩波版にあるものをOCRで読み込み、補正して掲げる。]

 

因果物語卷之四 〔一〕戀ゆへ、ころされて、其女につきける事

 伊勢の國、「かとり」といふ所に、淺原(あさはら)七右衞門と云《いふ》牢人(らうにん)あり。

[やぶちゃん注:『伊勢の國、「かとり」』現在の三重県桑名市多度町(たどちょう)香取(グーグル・マップ・データ)。]

 一人のむすめを、もちたり。かたち、うるはしかりけり。

 被官(ひくわん)のものに、猪之介《ゐのすけ》とて、廿四、五のおとこ[やぶちゃん注:ママ。]の有りしが、此むすめを、思ひかけて、すきまを、ねらひ、さまざま、いひけれ共《ども》、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、なびかず。

[やぶちゃん注:「被官(ひくわん)のもの」この場合は、浪人「淺原(あさはら)七右衞門」が召し抱えている下人・使用人のこと。]

 かくて、猪之助[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、わづらひつき、うちふすまでは、なけれども、ものも、くはず、色、わろく、やせおとろへたり。

 「くすし」を、つけて、療治(れうじ[やぶちゃん注:ママ。])さすれ共《ども》、いかなるわづらひ共《とも》、しれず。

 日を、かさねてのちに、猪之助、ひそかに、傍輩(ばうはい)の下女に、かたりけるやうは、

「それがしのわづらひは、別(べち)の事に、あらず。かうかう、おもひそめたる事の、かなはずして、やまひと、成《なり》たり。此てい[やぶちゃん注:「體」。]ならば、さだめて、むなしく成《なる》べし。後《のち》の世こそ、悲しけれ。執心(しうしん)ふかく、まよひなば、むすめ子の御身も、思ふやうには、あるべからず。」

と、なみだを、ながして、かきくどきけり。

 下女、きゝて、大いに、おどろき、むすめの母に、かたりければ、母も、きもを、けして、七右衞門に、かたる。

 七右衞門、大いに、はらを、たて、

「譜代(ふだい)の下人として、主(しう)のむすめを、おもひかけて、その、のぞみを、とげぬ、とて、わがむすめの一代、『思ふやうにあるべからず。』といふこそ、いくけれ。」

とて、ふしてゐける猪之助を、ひき出《いだ》し、くびを、はねけり。

[やぶちゃん注:「譜代(ふだい)の下人」この場合は、「淺原」家に、代々、仕えていた使用人の意。]

 其夜《そのよ》より、かのむすめの目に、猪之介[やぶちゃん注:ママ。]が「ばうれい」[やぶちゃん注:「亡靈」。]、あらはれみえて、おそろしき事、かぎりなし。

 さまざまに、とぶらひを、いたし、門《かど》にも、窓(まど)にも、「牛王(ごわう)」を、をして[やぶちゃん注:ママ。「押(お)して」。]、ふせげ共《ども》、さらに、やまず。

 のちには、よる・ひるとなく、側につきそひて、はなれず。たゞ、むすめの目にのみ、みえて、餘人の目に、みえず。

[やぶちゃん注:「牛王」熊野神社・手向山八幡宮・京都八坂神社・高野山・東大寺・東寺・法隆寺などの諸社寺で出す厄難除けの護符「牛王(玉)宝印」(中世のものが「玉」が多い)のこと。図柄はそれぞれに異なるが、七十五羽の鴉を図案化した「熊野牛王」は有名(私は熊野三社総てのそれを書斎に配してある。私のブログのマイ・フォトの「SCULPTING IN TIME 写真帖とコレクションから」を見られたい。上段の一番左が熊野速玉大社(新宮)のもの、中央が一番のお気に入りの熊野那智大社、一番右が熊野本宮大社のものである)。その裏は、誓紙や起請文を書く際、神かけたものとするために用いた。]

 此《この》ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、むすめも、わづらひつきて、いくほどなく、むなしくなりけり。

 「繫念無量劫(けねんみりやうこう)」と、經に、とかれし也。

 執心(しうしん)、ふかく、思ひ入《いり》けるこそ、おそろしけれ。

[やぶちゃん注:「「繫念無量劫(けねんみりやうこう)」「一念五百生(ごひやくしやう)繫念無量劫」。「一念五百生」(たった一度だけ、妄想を心に抱いただけで、五百回も生死を重ねる輪廻の報いを受けること)と説かれるが、もし、妄想に強くとらわれてしまった時は、量り知れぬ長い時間に亙って、その罪を受け続けるということ。「般若心經」など、諸仏典に出るが、この語は、俗では、まさに、この話の如く、男女の愛執(あいしゅう)の持つ危うさについて言われることが多い。]

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