「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。]
㐧十 いせ參宮の者をはぎ天罸の事
○明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしけるが、ちいさき「かねぶくろ」を、とりいだして、みちすがら、ひた物、ぜにを、かいける。
[やぶちゃん注:『明曆の比、「はりま」の「ひめぢ」より、十四、五成《なり》むすめ、しのびて、たゞ一人、さんぐうしける』これは「抜け参り」と呼ばれるものである。後には、「御蔭参り」と呼ばれるようになった、幕末の「ええじゃないか」と同じ、一種の集団ヒステリーとまでは言えないが、爆発的な多数の人間が、主家や親に断りを入れずに、伊勢参宮をするという、宗教的な突発的信仰行動である。梗概はウィキの「お蔭参り」が読み易いが、私は『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」』以下で、詳細に記しているので、ご存知ない向きは、是非、読まれたい。後には、犬や豚が単独で参詣するという、驚くべき事実もあったのである。私の「譚海 卷之八 房州の犬伊勢參宮の事」や、「耳囊 卷之九 奇豕の事」を見られたい。]
「かいける」「掛(懸)く」(「かい」は「かき」のイ音便ととる)には、「複数のものを数えて加える」の意があるから、「数えていた」という意であろう。]
「つち山の九郞次郞」といふもの、京都へのぼり、下りに、「みなくち」の邊(へん)にて、此むすめの、かねぶくろを見て、[やぶちゃん注:「つち山」後の文で判るが、地名で、現在の滋賀県甲賀市土山地区である。以下の水口の南西方の広域である。「みなくち」現在の滋賀県甲賀市水口町(みなくちちょう:孰れもグーグル・マップ・データ)。]
『何とぞして、とらん。』
と、おもふ心、付て、それより、道づれに成《なり》て、わらんべの事なれば、みちすがら、さまざまの事を、いひをどし、すかしなどして、ゆくほどに、我家、ちかく成《など》ほどにて、此男、申やう、
「こなたは、わらんべ一人の事なれば、むさとしたる宿(やど)にとまり給はゞ、かならず、はがれ[やぶちゃん注:所謂、「身包み剥がれる」ことを指す。]給はん。さなくば、ころして、其かねを、とるべし。我、みちづれしたるこそ、さいはい[やぶちゃん注:ママ。]なれ。つち山にては、我らが所に、御やどめされ候へ。余人(よじん)に宿をかり給はゞ、心もとなく候。」
と、
「ひた」
と、をどし[やぶちゃん注:ママ。]て、つゐに、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が家に、とまらせけり。
扨《さて》、かれ[やぶちゃん注:娘。]がもちけるかねを、うかゞひ、よく、ねいりたる時分に、さがし出し、とりて、わづか、ぜに、一貫ばかりのあたい程、のこしをけ[やぶちゃん注:ママ。]り。
[やぶちゃん注:「ぜに、一貫」正規には一貫は銭一千文であるが、江戸時代には、実際には九百六十文が一貫とされた。現在の二千四百円程度に当たる。]
むすめ、よあけ、おきて、かねぶくろを、みれば かね、わづかあり。
『こは、いかゞ。』
と、おもひ、ていしゆにむかひ、
「しかぐかの事候。こよい[やぶちゃん注:ママ。]の事なれば、よも、よそへは、ゆかじ。わづかのこり候やう、ふしぎにおぼえ候。何と候や。」
「此方には、しらず候。もし、みちにても、おとし、給はぬか。よく、おぼえ給へ。」
と、いへば、此むすめ、さめざめと、なきくどきけるは、
「うらめしの事かな。此かねなくしては、さんぐうする事、ならず。又、國本《くにもと》へ、かへらん事も成《なる》まじければ、とやせん、かくや、」
と、あんじ、
「何とぞして、此かねの、出るやうにして、給はれ。」
と、なき、くどきければ、亭主、大きに、いかつて、いふやう、
「なんぢがかねのなき事を、我、しるべきやう、なし。はやはや、いでされ。」
と、大(だい)のまなこを、いからして、おどしければ、此いきをい[やぶちゃん注:ママ。]に、をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、なくなく、そこを、たち出《いで》てけり。
[やぶちゃん注:以上の経緯を見るに、この宿の主人は、確かに「つち山の九郞次郞」の親族か姻族の経営になるものであり、しかも、この主人もまた、「つち山の九郞次郞」の同じ穴の貉、「グル」であることが判明するのである。]
[やぶちゃん注:挿絵は、第一参考底本はここ、第二参考底本はここ。]
其後、此男、大ぶんのかねを、ぬすみ取《とり》て、是を、もとでとして、「あふみ」の「かづら河《がは》」へ、ゆき、大ぢしんにあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、山ぞこへ、うちうめられて、古鄕(こきやう)へ、また二度(《ふた》たび)とも、かへらざりける。
あらた成《なる》かな[やぶちゃん注:霊験あらたかなる。]太神宮(だいじんぐう)へ、さんけいするものゝ、ろせん[やぶちゃん注:「路錢」。]を、ぬすみし天ばつにて、おもひよらざる、かつら河の山下のつちとぞ、なりにけり。
古(いにしへ)、今(いま)に、いたるまで、參宮者の物を、盗(ぬすみ)、ばつをうるもの、おほし。
をそれ[やぶちゃん注:ママ。]、つゝしむべき事也。
是は、これ、ひとゝせ、道中にて、もつぱら、人ごとに、いひあへり。
[やぶちゃん注:『「あふみ」の「かづら河《がは》」』近江と言っているので、原文の「かつら河」は「葛川」と採れる。琵琶湖の西岸の、この滋賀県大津市の南北の葛川地区である(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、明暦が終わって(明暦四年七月二十三日(グレゴリオ暦一六五八年八月二十一日)、万治を経た、寛文二年五月一日(一六六二年六月十六日)巳の刻から午の刻(午前九時から午後一時頃)、琵琶湖西岸の花折断層北部と若狭湾沿岸の日向断層を震源とする、二つの連動する地震が発生している。マグニチュード七・五前後と推定されるこの地震で、震源の近江国・若狭国を中心に、京都・大坂まで広域が被災した。参考にした「滋賀県文化財保護協会」公式サイト内の「ヨミモノ シバブン シンブン」の「新近江名所圖会 第198回 江戸時代の大地震―寛文地震とその痕跡-大津市葛川町居町・葛川梅ノ木町」(「葛川」の地名に注目!!!)によれば(北原治氏の記事)、『とくに琵琶湖岸の軟弱地盤に立地した膳所城では多くの石垣が崩れ、櫓や門などが破損・崩落し、再建にあたっては本丸と二の丸の間の堀を埋めて新たな本丸とするなど、縄張りそのものを変更しなければならないほどの大きな被害を受けました。また、現在の大津市浜大津一帯にあった幕府の大津蔵屋敷ではすべての蔵が破損したほか、彦根城でも』五百から六百『間の石垣が崩れるなどの被害が知られています』。『しかし、こうした琵琶湖周辺の被害は、震源付近の安曇川上流部の被災状況に比べれば』、『ずっと軽微なものといえるかもしれません。高島市朽木にあった旗本朽木氏の陣屋が倒壊し、元領主の朽木宣綱を圧死させた激震は大規模な山崩れ「町居崩れ」を引き起こし』、二『つの村を消し去っていたからです』。『かつて、大津市葛川明王院の北約』一・五キロメートル『の安曇川沿いには榎村と町居村のという』二『つの村がありました。これらの村は地震にともなう奈良岳の崩壊によって、一瞬にして土砂に埋まったのです。これにより両村の』五百六十『名もの村人が生き埋めになって死亡しました。町居村では』三百『人の村人のうち、生き残った者がたったの』三十七『名であったと伝わっています』。『村を襲った大量の土砂は』、『安曇川の流れを堰き止めて天然ダムを造り、新たな災害を発生させました。崩れた土砂は安曇川の流れを完全に堰き止め、湛水面積』四十八『万』平方メートルにも『及ぶ、巨大な天然ダムを出現させたのです。これにより』、『隣村の坊村は集落の大部分が水没しました』。「明王院文書」に『よると、葛川明王院の境内まで水位が達し、坊村の屋敷などが残らず』、『流失したと記されています。地元の言い伝えによると、明王院の本堂(重要文化財)の石段が下から三段目まで水没したとされます』。『さらに、恐れていたことが起こってしまします』十四『日後の』六『月』三十『日午前』九『時頃、最大湛水量』五百九十『万』立方メートルに『達した天然ダムが崩壊したのです。その結果、朽木谷などの安曇川下流域が洪水に襲われました。高島市朽木岩瀬にある志子淵(しこぶち)神社は、この時の洪水によって社殿を流されたため、現在の場所に移ったと伝わっています』。『寛文地震の被害状況を今に伝える「町居崩れ」跡は大津市葛川梅ノ木町にあります。江若交通町居バス停から国道』三百六十五『号線を北に』八百メートル『ほど進むと』、『道の東側に山頂付近から山の斜面をえぐるような大きな谷地形があります。これが「イオウハゲ」と呼ばれる「町居崩れ跡」です。崩壊長約』七百メートル『・最大幅』六百五十メートル『比高』三百六十メートル『・推定崩落土砂量』二四〇〇『万』立方メートルに『及ぶ大規模な山崩れの痕跡が現在も確認できます』。『また、この対岸には、高さ』百メートル『ほどの低い丘陵が川へ向かって伸びていますが、この小山は崩落した土砂が谷を堰き止めて造った天然ダムの一部です』。『ここから川の上流に目を転じて、はるか遠くに見える家並みが』、『当時』、『水没した葛川坊村ですが、天然ダムは坊村を越えて、さらに上流の中村付近まで達しました。現地で災害の痕跡を見ていただければ、当時起こった寛文地震の被害の大きさを理解できると思います』。『被災した町居村は災害の後、生き残った』三十七『名の村人により、現在の地へ移転して再建されました。旧村は集落のはずれにある観音寺の北側であったと伝わっています。なお、観音寺には、旧村跡から掘り出された宝篋印塔が移築されています』とあり、現在の被災地の跡地の写真が載るので、是非、見られたい。これは、寛文末年から四年後に実際発生した激甚地震とその後に続いた大災害である。この怪奇談、多くの読者は、さっと読んで、そんな悲惨な地震が、事実、あったことを検証しようとは、あまり思わないだろう。私のマニアックな癖で、調べてみて、愕然とした。江戸時代の、この地震を知っている庶民は、この一篇を読んで、恐れ戦いたことは、間違いない。本書の開板は元禄一〇(一六九七)年以前と推定されているから、この災害から三十五年以内の刊行である(因みに、この作者は不詳だが、関西の人間であったであろうことが、感じられるのである)。――則ち――この話は、当時の恐るべき悲惨極まりない現実のカタストロフを交えた「都市伝説」となっている――のである!!!]
« 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 木欒子 | トップページ | 「善惡報はなし」正規表現オリジナル注 卷五 㐧十一 妄㚑とくみあふ事 »