「疑殘後覺」(抄) 巻六(第七話目) 秀包懇靈つかせ給ふ事【「懇靈」はママ。】
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を参照されたい。「目錄」では、標題は「秀包懇靈つかせ給ふ事」(「懇靈」はママ)である。これは、本文でも以下の通り同じである。しかし、流石に、これでは、読めないので、本文標題では、特異的に下に【✕→怨靈】として挿入しておいた。
「秀包」は「ひでかね」と読み、織豊時代の武将で、後に秀吉の寵臣として「羽柴」の称を許された小早川秀包(永禄一〇(一五六七)年~慶長六(一六〇一)年)。毛利元就の子であったが、天正一〇(一五八二)年、毛利輝元と秀吉の和睦により、人質として大坂に赴いた。天正一一(一五八三)年、兄小早川隆景の養子となり、同十五年には筑後久留米城主に抜擢され、後、「久留米侍従」と呼ばれた。「関ケ原の戦い」では西軍に属し、所領を失ったが、毛利輝元から長門国内に所領を与えられている。この頃、小早川秀秋の裏切りへの謗りを避けるため、毛利姓に復し、大徳寺で剃髪、玄済道叱と称した。彼は、大坂から帰国する途上、結核を発症、長門赤間関の宮元二郎の館で療養していたが、翌慶長六年三月に喀血、三十五で病没した(以上は複数の辞書その他を使用した)。当該ウィキの「人物」によれば、『毛利一族の中では目立たない人物であるが、隆景が秀包を養子としたのは、その父の武勇を兄の吉川元春と並び』、『最も受け継いでいたためだと言われている。秀包は』、『その期待を裏切る事なく、毛利氏の一族として朝鮮に渡り、立花宗茂とも並ぶ抜群の武勇を誇り、小早川の名跡を汚すことなく活躍した』。『容儀端正の美少年にして勇猛壮健と評され』、『鉄砲術に長けていたとされ、毛利秀包略伝には「秀包銃ヲ善クス其銃ヲ雨夜手拍子ト云フ」と記されている』とあった。]
秀包、懇【✕→怨】靈、つかせ給ふ事
こゝに、筑後國に「馬が嶽《たけ》」とて、夜晝、もゆる嶽《たけ》あり。
[やぶちゃん注:「馬が嶽」岩波文庫の高田衛氏の脚注に、『現福岡県行橋』(ゆくはし)『市内。花崗岩を主とする怪異な形をした岩山。ただし火山ではなく、「夜晝もゆる……」は誤聞。』とある。現在の行橋市大谷(おおたに)にある「馬ヶ岳」(うあまがたけ)。標高二百十四メートルの低山。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
この所に、客僧[やぶちゃん注:行脚僧。]の有《あり》て、よろづおこなひども、しけるが、或《ある》時、いさゝかの事を、いひあがりて、他領の者と口論しけるが、事の是非をも糾明し給はず、この僧を刑罰し給ふ[やぶちゃん注:この主語は「秀包」である。]ときに、僧のいはく、
「凡人を罪におとすは、理非をせめて、至極したるとき、其の罪を害すれば、自業偈果《じがふげくわ》の理《ことわり》によつて、うらみなし。理不盡にて害する事、其のうらみ、深重なり。をんてき[やぶちゃん注:「怨敵」。]となつて鬱痕[やぶちゃん注:「痕」には、原本に右傍注で『恨カ』とある。]をのぶべし」と云ひて、うせにけり。
[やぶちゃん注:「至極したるとき」誰がどう見ても道理に適っていて『もっともである』と納得すること。
「自業偈果」「偈果」は見かけない熟語であるが、高田氏の脚注に『「自業自得」と同じ。
』とある。]
其後、十四、五日ありて、御小性衆《おこしやうしゆ》、二、三人、めされて、
「それがしが刀箱《かたなばこ》を、もちて、きたれ。」
と、仰せらるゝほどに、かしこまつて、二箱《ふたはこ》、もちてまいり[やぶちゃん注:ママ。]ければ、二尺三寸の刀を、
「すらり」
と、ぬき給ひて、「めさき」にある小性を、
「覺へたるか。」
と、の給ひて、うち給ふほどに、小性、こゝろへて、刀箱の「ふた」をもつて、刀をさゝへて、三人ながら、にげちらしけり。
其の後、侍從どの[やぶちゃん注:秀包。]、きつて、まはらせ給ふほどに、さぶらひ衆《しゆ》、出《いで》あひて、四方八方の戸を、たてつめて、「ざしき」に、とりこめ、
「ささ、これは、如何《いかが》すべきぞ。」
と、談合、まちまちなり。
とのは、うちにて、の給ひけるは、
「我を、おのれら、害する罪は、なの事ぞや。にくきやつばらをば、いちいちに、とりころして、ながく、うらみを、のぶべきものを。」
とぞ、の給ひにける。
「さては。これは、馬嶽《むまがたけ》の客僧の、いひしごとくに、つき[やぶちゃん注:「憑き」。]たるぞや。まづ、殿を、いかにもして、とらへて、たち・かたなを、うばひ、けがを、したまはぬやうにしたき事にこそ。」
とて、いろいろに「ひやうぎ」しけれども、
「殿に、けがのなきやうに。」
と、存《ぞんず》るによつて、何とも、すべき「手だて」を、まふけ[やぶちゃん注:ママ。「設(まう)け」。]ず。
おのおの、なんぎにおよぶところに、こゝに、田良广摩彌介[やぶちゃん注:原本のママ。岩波文庫補正本文では、『多良摩(たらま)彌介』とされてある。後文で「たらま彌介」と出るので、それで正しい。読み全体は「たらまやすけ」と読んでおく。]とて、剛强の侍ありしが、申《まうし》けるは、
「所詮をあんずるに、殿のくたびれて、ときどき、ね入《いり》給ふ間《あひだ》に、板敷を、そろそろ、打《うち》はなして、「たゝみ」を、下より、はねのけて、いつものごとく、座敷中を、「たち」をつかひ、とびまはり給ふところを、「あし」を、とつて、引《ひか》すゆ[やぶちゃん注:「据ゆ」。]べし。ときに、刀にて、「えんのした」を、つかるべし。引《ひき》をとす[やぶちゃん注:ママ。]と、そのまゝ、「あし」を、くゝつて、「えん」のつか[やぶちゃん注:「緣の支(つか)」で「縁の下の柱」。]に、くゝりつくべし。とかくするうちに、人々、戸を、うちやぶりて、「たち」・「かたな」を、とり給へ。」
と、いふほどに、
「これこそ、しかるべき事なれ。」
とて、その用意をして、たらま彌介は、「えんのした」へぞ、入《いり》にける。
さて、板敷を、
「そろそろ」
打《うち》はなして、あひまつところに、あんのごとく、又、「かたな」引《ひき》ぬいて、しやうじ・から紙を、たてよこに、きりくだき給ふところを、「えんのした」より、彌介は、弓手《ゆんで》[やぶちゃん注:左。]の「あしくび」を、とつて、「えんの下」へ、引《ひき》すへたり。
とるといなや、「ほそ引《びき》」を、ひつかけ、板敷の「つかばしら」に、くゝりつけて、
「人々、いれや。」
と、よばゝりければ、
「我、おとらじ。」
と、うちやぶり、入《いり》て、刀・わきざし、うばい[やぶちゃん注:ママ。]とり、殿を、とらへて、さて、一間所《ひとまどころ》に入置《いれおき》、よる・ひる、とりまき、「ばん」をぞ、したりける。
そのゝち、
「馬がたけの僧をば、神にいはひて、うやまふべし。」
と、さまざま、「こんぼん」[やぶちゃん注:「懇望」。切に望むこと。後注参照。]し給ひければ、これにて、納受《なうじゆ》したりけん、五十日計《ばかり》ありて、ほんぶくし給へりける。
秀吉公、きこしめして、
「さうそく[やぶちゃん注:「早速」。]、快氣のよし。珍重なち。しかれども家老のものども、常に油斷つかまつるべからず。予がまへゝの出仕は、先《まづ》、五、三年も、くるしからず。こゝろやすくぞんじて、養生し給へ。」
との御諚《ごぢやう》[やぶちゃん注:主君の仰せ。]にて、それより、出仕は、なかりけり。
おそろしかりし事どもなり。
[やぶちゃん注:「こんぼん」小学館「日本国語大辞典」に「こんぼん」の読みで立項し、『「こんぼう(懇望)のした語』とし、初出例を『*かた言―三「懇望(こんばう)」を こんぼん」』として示す。この「かた言」は、慶安三(一六五〇)年に板行された、一種の俳諧で用いる語彙の正誤・訛(なまり)等を解説したもの。書名は「片言( かたこと)なほし」「仮朶言( かたこと )」ともする。作者は知られた江戸前期の俳人で、「貞門七俳人」の一人に数えられる論客でもあった安原貞室(やすはらていしつ 慶長一五(一六一〇)年~延宝元(一六七三)年)である。国立国会図書館デジタルコレクションの「片言付補遺物類稱呼 浪花聞書 丹波通辞」(『日本古典全集』昭六(一九三一)年刊)の、ここ(左ページ最終行)と、ここ(左ページ最下段後ろから四つ前)の二箇所で当該部を確認出来る。]
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