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2024/08/31

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 狗骨

 

Hiiragimoti

 

ひいらぎ  貓兒刺

      倭爲杠谷樹

狗骨   【和名比々良木】

      俗用柊字【音中】

      【柊本椎之名

       也】

ウクオツ

 

本綱狗骨樹肌白如狗之骨爲凾板旋盒噐甚佳其葉有

五刺如猫之形【猫之之字疑當作爪字】故名猫兒刺有木※在葉中

[やぶちゃん字注:「※」は、上部が「凶」の第三画を除去し、第一画を、下方の「虫」の第一画と第六画に完全に繋げた奇体な文字で、同一のものを見出せない。しかし、これは、「グリフウィキ」のこれの、下方の二つの「虫」を一つにしたものであり、所謂「虻」(アブ)の字の異体字と採れる(東洋文庫訳でも『虻』とする)。当初、訓読では、「蝱」で示そうと思ったが、躓くだけなので、「虻」の異体字と判る「」とすることにした。実際、「漢籍リポジトリ」の当該部では、「」となっている。以下同じ。

卷之如子羽化爲※又曰其樹如女貞肌理甚白其葉長

二三寸青翠而厚硬有五刺⻆四時不凋五月開細白花

結實如女貞九月熟時緋紅色皮薄味甘其核有四辨人

采其木皮煎膏以粘鳥雀謂之粘黐

本草必讀曰十大功勞葉【一名䑕怕草】。江南人毎取樹汁熬

黐其葉似蒲扇有五⻆⻆尖有刺取其葉置䑕穴旁則䑕

不敢出入故名䑕怕又取其葉【焙乾研末】治䑕膈病【妙】

 鼠隔病【人前竟不飮食凡物食毎于宻地偷取食之家人有見者則畏而置焉肌瘦靣黃色悞食䑕殘物中毒患此症服藥鮮効唯用此藥有奇驗

△按狗骨樹肌白滑堅以堪爲筭珠或象戱碁子甚美亞

[やぶちゃん字注:「筭」は「算」の異体字。]

 于黃楊其大者作板可旋盒然性難長大木希也

 續日本紀文武帝の大寳二年獻杠谷樹長八尋

 等以爲希有之物其葉四時不凋厚硬有五稜如剌有

 雌雄其刺柔者爲雌九月開小花碎白色結子小青色

 五月熟黒色似䑕李女貞之軰而大如小蓮子

 俗閒立春節分夜揷枝葉於門窓添以海鰮頭爲追儺

 之用魍魎怖其尖刺不可敢近之義乎

                             爲家

  夫木 世の中は數ならすともひいらきの色に出てはいはしとそ思ふ

 此云柊葉有五⻆而實黒也黐樹葉無⻆而實赤也如

 本草說者似二物相混不知柊汁亦爲黐乎

 

   *

 

ひいらぎ  貓兒刺《びやうじし》

      倭《わ》に、「杠谷樹《ひひらぎ》」と爲《な》す。

狗骨   【和名、「比々良木《ひひらぎ》」。】

      俗、「柊」の字を用ふ。【音「中」。】

      【「柊」は、本《もと》≪は≫、「椎(つち)」の名

       なり。】

ウクオツ

[やぶちゃん注:「ひいらぎ」の歴史的仮名遣は「ひひらぎ」だが、近世以前に「ひいらぎ」という表記が一般化していたかも知れない、という記載が小学館「日本国語大辞典」の「ひいらぎ」「柊」の項にあった。]

 

「本綱」に曰はく、『狗骨樹《くこつじゆ》は、肌、白く、狗《いぬ》の骨のごとし。凾(はこ)の板に爲《なす》。盒噐(ぢうばこ)[やぶちゃん注:「重箱」。]に旋《めぐら》さす≪に≫、甚だ、佳《よ》し。其の葉、五≪つの≫刺《はり》、有り、猫の形のごとし』≪と≫。【「猫」の字、疑ふらくは、當《まさ》に「爪」の字に作るべし。】[やぶちゃん注:この割注は良安に挿入である。]『故に、「猫兒刺(ねこのはり)」と名づく。「木䖟《もくばう》」、有り、葉の中に在り、之れを、卷きて、子(み)のごとく、羽化して、䖟(あぶ)と爲《なる》。又、曰はく、「其の樹、『女貞《ぢよてい》』のごとく、肌-理(きめ)、甚≪だ≫、白く、其の葉、長さ、二、三寸。青翠《あをみどり》にして、厚≪く≫硬≪し≫。五《いつ》の刺⻆(はりかど)、有《あり》。四時、凋まず。五月、細≪き≫白花を開き、實《み》を結ぶ。『女貞』のごとし。九月、熟する時、緋紅色。皮、薄く、味、甘し。其の核《たね》、四辨《しべん》、有り。人、其の木の皮を采りて、煎《せん》≪じて≫、膏≪と成し≫、以つて、鳥雀《てうじやく》を粘(さ)す。之れを『粘黐(とりもち)』と謂ふ。」≪と≫。』≪と≫。

「本草必讀」に曰はく、『「十大功勞葉」【一名、「䑕怕草《そはくさう》」。】、江南の人、毎《つね》に、樹の汁を取《とり》、黐《とりもち》に熬《いる》。其の葉、「蒲扇《ほせん》」に似て、五《いつつ》≪の≫⻆《かど》、有り。⻆の尖《とが》りに、刺《はり》、有り。其の葉を取りて、䑕穴《めづみあな》の旁《かたはら》に置けば、則ち、䑕、敢へて出入《でいり》せず。故《ゆゑ》≪に≫、「䑕怕《そはく》」と名づく。又、其の葉を取り【焙《あぶ》り乾≪かし≫、研末《けんまつ》す。】、「䑕膈病《そかくびやう》」を治す【妙なり。】。』≪と≫。

『「䑕膈病」は【人前≪にては≫、竟《つひ》に飮食せず、凡そ、物、食ふに、宻《ひそか》≪なる≫地、毎《ごと》に、偷(ぬす)み取りて、之れを食ふ。家人、見る者、有≪れば≫、則ち、畏《おそれ》て、置く。肌、瘦せ、靣《おもて》、黃色≪なり≫。悞《あやまりて》、䑕の殘-物(わけ)[やぶちゃん注:「分・譯」で、「食べ残しの食物・食い残し」の意がある。]を食《くひ》、毒に中《あた》り、此の症《しやう》を患《わづらふ》。服藥、効、鮮《すく》なし。唯《ただ》、此の藥を用ひて、奇驗《きげん》、有《あり》。】』≪と≫。[やぶちゃん注:これは「本草必讀」に載るものか。「本草綱目」には、ない。]

△按ずるに、「狗骨樹」は、肌、白く、滑かに、堅し。以≪つて≫、筭珠(そろばんのたま)[やぶちゃん字注:「筭」は「算」の異体字。「算盤の玉」。]、或いは、象戱碁子(しやうぎのこま)[やぶちゃん注:将棋や囲碁の駒・碁石のこと。]に爲《す》るに堪《た》ふ。甚《はなはだ》、美にして、黃-楊(つげ)に亞(つ)ぐ。其《その》大きなる者は、板に作り、盒(はこ)を旋《めぐら》さすべし。然《しか》れども、性、長《ちやう》じ難《がた》く、大木《たいぼく》、希れなり。

 「續日本紀」に、『文武帝《もんむてい》の大寳二年[やぶちゃん注:七〇二年。]、杠谷樹(ひいらぎ)長さ、八尋(やひろ)なるを獻《けんず》る』≪と≫。是等《これら》は、以つて、希有《けう》の物と爲《なす》。其の葉、四時、凋まず。厚≪く≫硬≪く≫、五稜、有りて、刺《とげ》のごとし。雌雄、有り。其の刺、柔《やはらか》なる者、雌と爲《なす》。九月、小≪さき≫花、開≪き≫、碎《こまかなる》白色≪たり≫。子《み》を結≪び≫、小≪さく≫、青色≪たり≫。五月、熟して、黒色≪たり≫。「䑕李《そり》」・「女貞」の軰《やから》に似て、大いさ、小《ちさ》き蓮(はす)の子(み)のごとし。

 俗閒《ぞくかん》、立春≪の≫節分の夜《よる》、枝葉《えだは》を門≪や≫窓に揷して、添《そふ》るに、海-鰮(いはし)の頭《あたま》を以≪つてす≫。「追儺(ついな)」の用《よう》と爲《な》す。「魍魎《まうりやう》、其の尖《とがれる》刺《とげ》に怖《おそれ》て、敢へて近《ちかづ》くべからず。」の義か。

                  爲家

  「夫木」

    世の中は

       數《かず》ならずとも

      ひいらぎの

       色に出(いで)ては

           いはじとぞ思ふ

 此《ここ》に云ふ「柊(ひいらぎ)」は、葉に、五≪とつの≫⻆《かど》有りて、實《み》、黒なり。「黐樹(もちの《き》」は、葉に、⻆、無くして、實、赤し。「本草」の說《せつ》のごときは、二物《にぶつ》、相《あひ》混《こん》ずるに似《にた》り。知らず、柊汁《ひいらぎじる》も亦、黐(もち)に爲《つく》るか。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫の後注に、『中国でいう狗骨はモチノキ科のヒイラギモチで『本草綱目』はこれについて説明しているのに、良安は狗骨をモクセイ科のヒイラギとみて説明している。混同しているのは良安の方ということであろうか。』とある通り、良安が「狗骨」に「ヒイラギ」の訓を当てているのは、致命的誤りである。この「ヒイラギモチ」は別名で、正しい標準和名は「ヤバネヒイラギモチ」(矢羽柊黐)であり、良安は引用で、「狗骨」とするが、「漢籍リポジトリ」[088-42a])でも、「維基文庫」のものでも、項目標題は「枸骨」であり、これは、「矢羽柊黐」、

双子葉植物綱バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta

である。なお、「維基百科」の「枸骨」を見ると、『ヨーロッパ・アメリカ・朝鮮、浙江省・江蘇省・湖南省・江西省・雲南省・湖北省・上海・安徽省等の中国本土に分布し、標高百五十メートルから千九百メートルの地域』の、多くは『丘の中腹や丘の低木』として『植生している』とあり、本邦には自生しないが、現行では各地で植栽されている。特に、多くの記載に載るが、国内で出回っているクリスマスで盛んに装飾される「クリスマス・ホーリー」は、実はヤバネヒイラギモチが殆んどであるそうである。本来の「クリスマス・ホーリー」はヨーロッパ原産のモチノキ属セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium  である。但し、調べたところ、ヤバネヒイラギモチが本邦に渡来した時期は明治時代であり、良安は全く知らない種なのである。

 一方、良安が評言で疑義を述べ、自身の同定にほぼ全体に自信を以って示しているのは、我々には、極めてお馴染みの、

シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus

である。しかし、その同定は誤りであったのである。

 ヤバネヒイラギモチは、「葉と枝による樹木観察図鑑」の同種のページが図版・写真も豊富で、よい。引用させて頂く。『①分布等:日本各地で植栽。中国東北部~朝鮮南部原産の常緑低木。雌雄異株。高さ』三~五メートル『になる。枝はよく分岐し著しく横に広がる。樹皮は灰白色で平滑』。『②分類:広葉樹(直立性)』。『単葉』・『不分裂葉』で、『互生』。鋸『歯あり』、『単鋸歯』。『側脈は葉縁に達しないか』、『不明瞭』で、『歯は葉身の全体にある』。『常緑性』。③葉は互生し、葉身は長さ』四~八センチメートル、『幅』二~三センチメートル『の亀甲状で四角張る。葉柄は』二~六ミリメートル。『先端は鋭く尖り、基部は円形。葉縁の角ばった先端は棘状の』鋸『歯となり、葉縁は裏側に反る。成木や上の枝では棘の数が少なく、老木では葉の先端のみが尖り』、『他は全縁となる。多くの栽培品種があり葉の形も変異が大きい』。『④質は厚い革質で硬い。表面は濃緑色で光沢があり、裏面は淡緑色で、両面とも無毛』。『⑤花期は』四~六『月。前年枝の葉腋から散形花序を』出し、二~八『個の花を束生する。花は白色~淡黄色で、直径約』六ミリメートル、『短い柄をもち、花弁と萼片は』四『個。雄花には雄しべが』四『個。果実は核果。直径』八ミリメートルから一・二センチメートルの『球形で』、十一~十二『月に赤く熟す』。『⑥類似種:同属の「セイヨウヒイラギ」』( Ilex aquifolium )、『「アメリカヒイラギ」』( Ilex opaca )、『モクセイ科の「ヒイラギ」に似るが、見分け方は「類似種の見分け方」参照』(同図鑑内リンク)。『⑦名前の由来:「矢羽ヒイラギモチ」の意で、ヒイラギのような鋭い鋸歯があり、矢羽根のような葉の形であることから。別名のシナヒイラギは、ヒイラギに似ていて、原産地が中国(支那:シナ)であることから』。ヤバネ『ヒイラギモチ』、別名『ヒイラギモドキも、同様にヒイラギのような鋭い鋸歯があることから』とある。

 なお、ここでは、良安は確信犯(しかし、誤りである)で柊(ひいらぎ)について述べている訳だし、実際にヤバネヒイラギモチとは、外見等の類似性があること、本邦での魔除けの民俗が語られている点で面白く読んだので、ここでは、「ヒイラギ」のウィキを引いておく(注記号はカットした)。漢字表記は『柊・疼木・柊木』。『常緑小高木』。『冬に白い小花が集まって咲き、甘い芳香を放つ。とげ状の鋸歯をもつ葉が特徴で、邪気を払う縁起木として生け垣や庭木に良く植えられる』。『和名ヒイラギは、葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、痛いという意味を表す日本語の古語動詞である「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」の連用形・「疼(ひひら)き・疼(ひいら)ぎ」をもって名詞としたことによる。疼木(とうぼく)とも書き、棘状の葉に触れると痛いからといわれている』。『別名でヒラギともよばれる。学名の種小名は「異なる葉」を意味し、若い木にある棘状の葉の鋸歯が、老木になるとなくなる性質に由来する』。『台湾と日本に分布する』(☜:「維基百科」の同種の「柊でも、「產地」の項に、『原産台湾以及日本本州(關東地方以西)、四國、九州、琉球山地』とあるので、ヤバネヒイラギモチとは対称的に中国には自生しない。『日本では、本州(福島県・関東地方以西)、四国、九州(祖母山)、沖縄に分布する』。『山地に生育する』。『樹高は』四~八『メートル』。『葉は対生し、葉色は濃緑色。革質で光沢があり、長さ四~七』『センチメートル』『の楕円形から卵状長楕円形をしている。その葉縁には先が鋭い刺となった鋭鋸歯がある。葉の形は変異が多く、ほとんど鋸歯がないもの、葉の先だけに鋸歯がつくもの、鋸歯が粗いもの、トゲが尖っているものまでさまざまである。若樹のうちは葉の棘が多いが、老樹になると葉の刺は次第に少なくなり、縁は丸くなって先端だけに棘をもつようになる。葉の鋭い棘は、樹高が低い若木のうちに、動物に食べられてしまうことを防いで』、『生き残るための手段と考えられている』。『花期は』十『月中旬』から十二『月中旬。葉腋に直径』五『ミリメートル』『ほどの芳香のある白色の小花を多数密生させる。雌雄異株で、雄株の花は』二『本の雄蕊が発達し、雌株の花は花柱が長く発達して結実する。花は同じモクセイ属のキンモクセイ』(モクセイ属モクセイ変品種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『に似た芳香がある。花冠は』四つに『深裂して、裂片は反り返る』。『実は長さ』一・二~一五センチメートル『の楕円形になる核果で、はじめは青紫色で、翌年』六~七『月に黒っぽい暗紫色に熟す。そして、その実が鳥に食べられることにより、種が散布される』。以下の「品種」の項はここでは不要と考え、カットした。『陰樹で半日陰を好む性質があり、日陰の庭でも植栽可能である。生長のスピードは遅い』方『で、乾いた土壌を好み』、『砂壌土に根を深く張る。極端な排水不良地や痩せ地でない限り、場所を選ぶことはほとんどない』。『低木で常緑広葉樹であるため、盆栽などとしても作られている。殖やし方は、実生または挿し木による。植栽適期は』、柔軟性があり、三~四『月』、六~七『月上旬』、九『月中旬』から十『月中旬とされ、堆肥を十分に入れて植える』。一~二『月は寒肥として有機質肥料を与える。剪定適期は』、四『月と』七『月とされる』。『ヒイラギは、庭木の中では病虫害に強い植物である。しかし、甲虫目カブトムシ亜目ハムシ上科『ハムシ科』Chrysomelidaeテントウノミハムシ属ヘリグロテントウノミハムシ Argopistes coccinelliformis『に食害されることがある。この虫に寄生されると、春に新葉を主に、葉の裏から幼虫が入り込み、食害される。初夏には成虫になり、成虫もまた葉の裏から食害する。食害された葉は枯れてしまい、再生しない。駆除は困難である。防除として、春の幼虫の食害前に、農薬(スミチオン、オルトランなど)による葉の消毒。夏の成虫は、捕獲駆除。冬に、成虫の冬眠を阻害するため、落ち葉を清掃する。ヘリグロテントウノミハムシは、形状がテントウムシ(』よく見かける益虫である『二紋型のナミテントウ』(甲虫亜目ヒラタムシ下ヒラタムシ上科テントウムシ科テントウムシ亜科テントウムシ族 Harmonia 属ナミテントウ Harmonia axyridis )『やアカホシテントウ』(テントウムシ亜科アカホシテントウ属アカホシテントウ Chilocorus rubidus )『によく似ていて、「アブラムシを食べる益虫」と間違えられ、放置されやすい。ヘリグロテントウノミハムシは、テントウムシ類より』、『触角が太く長く、また跳躍力が強く、人が触ると』、『跳ねて逃げるので見分けがつく』。『花は冬に咲き香りがよく、庭木として』、『よく植えられる。葉に棘があるため、防犯目的で生け垣に利用することも多い』。『幹は堅く、なおかつしなやかであることから、衝撃などに対し強靱な耐久性を持っている。このため、玄翁と呼ばれる重さ』三キログラム『にも達する大金槌の柄にも使用されている。特に熟練した石工はヒイラギの幹を多く保有し、自宅の庭先に植えている者もいる。他にも、細工物、器具、印材などに利用される』。『古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。厄除けの思想から、昔は縁起木として門前に植えられてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテン』(キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica )『の木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また節分の夜にヒイラギの枝に鰯の頭を門戸に飾って邪鬼払いとする風習(柊鰯)が全国的に見られる。「鰯の頭も信心から」という言い方があるのはこれによる』。『似たような形のヒイラギモクセイは、ヒイラギとギンモクセイ』(モクセイ属モクセイ変種ウスギモクセイ品種ギンモクセイOsmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『の雑種といわれ、葉は大きく縁にはあらい鋸歯があるが、結実はしない』。『クリスマスの飾りに使うのはセイヨウヒイラギ( Ilex aquifolium )であり、ヒイラギの実が黒紫色であるのに対し、セイヨウヒイラギは初冬に赤く熟す。「ヒイラギ」とあっても別種であり、それだけでなくモチノキ科に分類され、本種とは類縁的には大きく異なる。ヒイラギは葉が対生するのに対し、セイヨウヒイラギでは葉は互生するので、この点でも見分けがつく』。『その他、ヒイラギの鋭い鋸歯が特徴的なため、それに似た葉を持つものは「ヒイラギ」の名を与えられる例がある。外来種ではヒイラギナンテン( Berberis japonica )(メギ科)がよく栽培される。他に琉球列島にはアマミヒイラギモチ( Ilex dimorphophylla )(モチノキ科)、ヒイラギズイナ( Itea oldhamii )(スグリ科)』(キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連メギ亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica(引用先で以下にある『 Ilex aquifolium 』はシノニムであり、以下、叙述が学術的に不審なので、中略する)『ほかに、鋭い鋸歯を持つものにリンボク』(バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属リンボク  Prunus spinulosa )『があり、往々にしてヒイラギと間違えられる。また、ヒイラギを含めてこれらの多くは幼木の時に鋸歯が鋭く、大きくなると次第に鈍くなり、時には鋸歯が見えなくなることも共通している』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「骨」([088-42a]以下)の「釋名」と「集解」の主要部殆んどである。この項自体が、短い。

「杠谷樹《ひひらぎ》」「續日本紀」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』「第三 續日本紀」(上・中/武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の「續日本紀」卷第二の「天の眞宗豐祖父の天皇 文武天皇」の文武天皇大寶二年正月八日の条に、

   *

造宮職(ざうぐうしき)、杠谷樹(ひゝらぎ)を獻(たてまつ)る。長さ八尋(やひろ)。【俗に「ひゝらぎ」[やぶちゃん注:原文「比比良木」。]と曰ふ。】

とあり、次のコマの同年三月十日の条に、

   *

従七位(しようしちゐ)の下秦(げはた)の忌寸廣庭(いみきひろには)、杠谷樹(ひゝらぎ)の八尋桙根(やひろほこね)を獻る。使者(つかひ)を遣はして伊勢の大神宮(おほかむみや)に奉らしむ。

   *

とある。良安の評言にも出る「八尋」の「尋」(ひろ)は、両手を左右に広げた際の幅を基準とする身体尺で、当該ウィキによれば、『学術上や換算上など抽象的単位としては』一『尋を』六『尺(約』一・八『メートル)とすることが多いが、網の製造や綱の製作などの具体例では』一『尋を』五『尺(約』一・五『メートル)とする傾向がある』とあり、古代のそれは、当時の一般人の身長から後者を採るべきかと思う。それで換算すると、約十二メートルとなる。しかし、現存するものを見ても、四百年でも七メートルであり、これは献上物であるから、少し誇張があると考えるべきである。因みに、良安の言っているのは、これで、上記の後者の記事であることが判る。

『「柊」は、本《もと》≪は≫、「椎(つち)」の名なり』この「椎」は「つち」という訓から判る通り、樹木のブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis のシイ類を指しているのではなく、物を打つ道具としての「槌」を指すので、要注意。

『「木䖟《もくばう》」、有り、葉の中に在り、之れを、卷きて、子(み)のごとく、羽化して、䖟(あぶ)と爲《なる》』これは、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目Brachyceraに属するミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorpha・ハエ下目 Muscomorpha (これは一部)の所謂、「アブ」類である。なお、これを読む方々は、無意識に、葉にアブが産卵して……と読むであろうが、そうではない可能性が高い。民俗社会で永く信じられた、「化生」(かしょう)である。何の機序もなく、突如、出現する非科学的生物発生(古い博物学での「自然発生」である)を指している。

「女貞」先行する「女貞」を参照。そこでは、時珍も種を混同してしまっているので、必ず見られたい。

「鳥雀《てうじやく》」スズメを代表とする人里近く集まる小鳥の総称。

「粘黐(とりもち)」鳥黐(とりもち)。「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。

『十大功勞葉」【一名、「䑕怕草《そはくさう》」。】』これは、ここに入れるべきものではない、大アウトである。良安が直接引用したのが、何かは判らないが、「漢籍リポジトリ」で、一つだけ見つけた。明の繆希雍(びょうきよう)の「先醒齋廣筆記」のここの「極木」の項に、

   *

極木一名十大功勞一名猫兒【殘俗呼光菰櫪】黒子者是紅子者名樞木亦可用取其葉或泡湯或為末不住服譚公亮患結毒醫用五寶丹餌之三年不效仲淳云五寶丹非完方也無紅鉛靈柴不能奏功時無紅鉛姑以松脂鉛粉麻油調敷應手而減公亮先用喬伯珪所贈乳香膏止痛生肌甚㨗及用此二味功效彌良乃知方藥中病不在珍貴之劑也

  又方

銀硃【三錢】輕粉【三錢】白占【三錢】黄占【三錢】用麻油【三兩】先將二占化勻調前藥末攤成膏貼之戒房事必效

   *

とある。さらに調べたところ、完全アウトの決定打が見つかった。前にも使った中文サイトの「A+醫學百科」の十大功勞葉」だ! そこでは基原種の学名と中文名を、

Mahonia bealei (闊葉十大功勞)(検索したとことろ、和名は「シナヒイラギナンテン」)

Mahonia fortunei (細葉十大功勞)(同前で「ホソバヒイラギナンテン」)

Mahonia japonica  (華南十大功勞)(同前で「ヒイラギナンテン」)

と、三種、掲げている。以上の三種は、

キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連 メギ亜連メギ属 BerberisMahonia はニシノニム)

であって、モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta とは、縁も所縁もないのである。リンク先には強力な学術的記述があるが、これら三種がヒイラギモチと関係性があることは、どこにも書かれていない。但し、別名に「老鼠刺」があり、この名はヤバネヒイラギモチと同属のモチノキ属ペルニーヒイラギ Ilex pernyi の中文異名でもある点ぐらいか(「維基百科」の「猫儿刺」を見よ。中国固有種である)。

「蒲扇《ほせん》」これは本邦で言う(中国でも)「芭蕉扇」である。本邦のものは、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ属ビロウ変種ビロウ Livistona chinensis var. subglobosa の葉で作ったものが多いが、中国のものは、タイプ種のビロウの方で作るようである。

「其の葉を取りて、䑕穴《めづみあな》の旁《かたはら》に置けば、則ち、䑕、敢へて出入《でいり》せず。故《ゆゑ》≪に≫、「䑕怕《そはく》」と名づく」これは、物理的に、そのトゲトゲの葉をたっぷりネズミの穴に詰め込んでおけば、ネズミは厭がるだろうということのように見えるが、別に、実の形が鼠の糞に似ているという、類感呪術的なもののようにも思われる。

『「䑕膈病」は【人前≪にては≫、竟《つひ》に飮食せず、凡そ、物、食ふに、宻《ひそか》≪なる≫地、毎《ごと》に、偷(ぬす)み取りて、之れを食ふ。家人、見る者、有≪れば≫、則ち、畏《おそれ》て、置く。肌、瘦せ、靣《おもて》、黃色≪なり≫。悞《あやまりて》、䑕の殘-物(わけ)[やぶちゃん注:「分・譯」で、「食べ残しの食物・食い残し」の意がある。]を食《くひ》、毒に中《あた》り、此の症《しやう》を患《わづらふ》。服藥、効、鮮《すく》なし。唯《ただ》、此の藥を用ひて、奇驗《きげん》、有《あり》。】』これは非常に興味深い叙述であり、原文を是非とも見たいのだが、残念だ。通常、単に「膈病」と言った場合は、物理的に食べ物が通らなくなる病気で、現行の胃癌・食道癌などに当たるとされ、本邦では「膈(かく)の病ひ」とよく言われた。しかし、ここで語られている病態はそれではない。明らかに精神病疾患である。所謂、心身症或いは心気症の摂食障害である。黄疸症状のようにも見えるが、或いは、偏食による見かけ状のもので、身体を拭かない結果かも知れない。こうした総合病態が子細に叙述されているのは、そうそう見かけない。鼠の糞を食べるのも、憶測ではなく、異食行動として十分あり得るものである。同じような症状を記したものを見つけたら、ここに追記したい。

「䑕李《そり》」先行する「鼠李」を参照。但し、良安のそれは誤って、シソ目シソ科Lamiaceaeムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica に同定しているから、それを指す。

「俗閒《ぞくかん》、立春≪の≫節分の夜《よる》、枝葉《えだは》を門≪や≫窓に揷して、添《そふ》るに、海-鰮(いはし)の頭《あたま》を以≪つてす≫」「鰯の頭も信心から」(「一旦、信じてしまえば、どんなものでも有難く思える」ことの譬え。江戸時代、節分に鬼除けのために玄関先に鰯の頭を吊るす習慣があり、それに由来するという説が有力な諺)の「柊鰯(ひいらぎいわし)」である。当該ウィキを引くと、『節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』。『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』(この基原風習は、江戸時代に始まったことではないので注意)。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にも』、『この風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』。『また、奈良県吉野町では、一本だたらを防ぐため節分の日にトゲのある小枝に焼いたイワシの頭を刺して玄関に掲げるという』。『鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある』とある。私は中学生時代に民俗学に興味を持ち、早くにその風習自体は知識としては知っていたが、鎌倉・東京都練馬区・富山県高岡市・渋谷区下目黒に住んだが、自宅では、それをしたのを見たことがないし、各地でも、正月にそれを見た記憶は、残念ながら、一度しかない。その一度は、富山の新湊市の高校時代に所属していた演劇部の顧問の先生の家に招かれた際であった。

「追儺(ついな)」当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『大晦日』『に疫鬼や疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。儺(だ、な)』、或いは、『大儺(たいだ、たいな)、駆儺』(くだ)、『鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、儺祭(なのまつり)、儺遣(なやらい)とも呼ばれる』。『中国で宮中で行われる辟邪の行事として、新年(立春)の前日である大晦日に行われていた。日本でも大陸文化が採り入れられた過程で宮中で行われるようになり、年中行事として定められていった。儺人(なじん)たちと、方相氏』(元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺(ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく)『(ほうそうし)、それに従う侲子(しんし)』(方相氏に従う童子のことを指す。紺の布衣(ほい)・朱抹額(まっこう)を着けている。「振子」「小儺(しょうな)」とも言う)『たちが行事を執り行う。儺という字は「はらう」という意味があり、方相氏は大儺(たいな、おおな)、侲子は小儺(しょうな、こな)とも称され』、『疫鬼を払う存在とされている』。『中国で行われていた儀式(大儺などと称される)では、皇帝らの前で方相氏と数おおくの侲子たちによって疫鬼たちを恐れさせる内容の舞がおこなわれた後、その鬼たちを内裏の門から追い出して都の外へと払った。方相氏は』、四『つの目をもつ四角い面をつけ、右手に戈、左手に大きな楯をもつ方相氏が熊の皮をかぶり、疫鬼や魑魅魍魎を追い払うとされている。侲子たちは黒い衣服をまとっており、子供たちがその役をつとめた』。『日本での大儺(のちに追儺と呼ばれるようになる)は、儺人は桃と葦でつくられた弓と矢をもち、方相氏・侲子たちは内裏を回り、陰陽師が鬼に対して供物を捧げ祭文を読み上げる。方相氏たちが鬼を追いやって門外に出ると鼓を鳴らして鬼たちが出たことを知らせ厄払いをする。その後も都の外へ外へと四方に鬼たちを払い出すための行事があわせて行われた。しかし平安時代には、鬼たちに対して用いられる役割を持っていた桃と葦の弓矢を、方相氏・侲子たちに向かって使っていた描写も年代が進むにつれて見られるようになり、彼ら自身が儀式のなかで鬼を示す役割に変化していったと見られている。侲子たちは官奴がその役にあたるとされており』、『青紺色の衣服をまとう。追儺のおりに、春や秋の司召(つかさめし)の除目の際に漏れた者を任官することも行われ』たことから、『これを追儺の除目、追儺召除目とも』言った。『宮中行事であった追儺は、鬼を払う内容から』、『節分(太陰暦でいえば大晦日に行われる行事であり、同義』であった『)の豆まきなどの原形のひとつであるとも考えられている。しかし』、『豆まきについては』、『日本での追儺の儀式には組み込まれておらず、鬼を打ち払う他の行事から後の時代に流入をしたものである』。『追儺は鬼ごっこ(鬼事)の起源ともされる。民俗学者の柳田國男は伝統的な子供の遊戯は大人の真似によって生じたものとし、もとは神の功績を称える演劇を子供が真似たという説を唱えた。現在、民俗学では鬼ごっこの起源が追儺や鬼やらいにあるという意見が主流であるが、一方で』、『追う者と追われる者の鬼の役割が正反対だとする多田道太郎による反対論もある』(個人的には、神話・伝承に於ける二項対立の構造は常に正邪の相違で決定されることはなく、相互に立場が逆転するのは当たり前のことであり、私はおかしいとは思わない。以下に語られる逆転現象も、まさにそれを証明している)。『中国では』「論語」『に「儺」の語が見られる。古い時代には大晦日のみにおこなわれるものとは語られておらず、年間に三度おこなわれるかたち(三時儺)が執られていたりもした』。「隋書」に『よると』、『隋王朝ではこの方式を採用していたようで、年に三度(春・秋・冬)行われている。六朝時代ごろに大晦日とされるかたちが出来たと見られている。唐以後は行事に用いられる人数も増大してゆくようになったが、宋の時代には方相氏たちによる舞は失われて、武人や鍾馗などが儀式に登場するようになった』。『宮中のほかに』、『民間でも同様の疫鬼を追い払う儀式がおこなわれており、儺戯などと呼ばれており』、『現代も中国各地で民間行事として受け継がれてもいる』。『日本の文献では』「續日本紀」に『見られる』『天下諸國疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺』(慶雲三(七〇六)年十二月晦日の紀事)『という疫鬼払いをするために行われた記述が古いものとして挙げられる。日本の大儺でも用いられ始めた桃や葦の弓矢は、中国の儀式でも魔除けの効果をもつ武具として用いられていたものだが、後漢までの文献に見られる形式であり、それが伝来して固定化したものであるといえる』。「三代實錄」には、『追儺での方相氏役として関東地方から身長が』六『尺』三『寸』(約一・九〇メートル)『以上の者を差し出させたこと』が貞観八(八六六)年五月十九日の記事『など』に『見える』。『宮中での年中行事としての追儺は』、『鎌倉時代以降は衰微してゆき、江戸時代には全く行われなくなった』一方、『熟語としての「追儺」や「鬼やらい」は宮中儀式を離れて、鬼を追い払う節分の行事全般の呼称として幅広く一般で用いられるようになり、節分の豆まきを称する熟語としても使用されるようになった』。九『世紀ごろには、桃の弓や祭文の用いられ方の変化などから、儀式の中で目に見える存在として登場することは』なかった『鬼を追う側であった方相氏』『や侲子(儺)が』、『逆に、目に見える鬼として追われるようなかたちに儀式がうつりかわっていく様子が見られ、それと同時に』、『儺(鬼)を追い払うといった意味で「追儺」という名称が日本で独自に発生していったと考えられている。追儺という呼び方は』、「延喜式」等に『その使用が見ることが出来るが、それ以前の』「内裏式」等では』、『大儺が用いられている。また方相氏たち「儺」の役割をもつ存在が日本の宮中儀式のなかで「鬼を払う者」から「鬼」へ役割が替わったことは』、「公事根源」等の文献で、『方相氏を「鬼」であると表現している点などからも』、『うかがうことが出来る』。『歴史学者の神野清一』(じんのきよかず)『や三宅和朗』(みやけかずお)『は、方相氏が追儺以外の行事(葬送の行事)にも魔除けの意味で用いられていたことを挙げ、死にまつわる点をもっていたことが』、『方相氏を「鬼」と見る変化が宮中で起きたのではないかと論じている』。『日本では平安時代(』十一『世紀頃)から宮中以外でも公家・陰陽師・宗教者などを中心に追儺の行事を実施する者が増加してゆくことにより、各地の寺社にも儺と関連した行事が根付いていった。それらの中には現在も修正会』(しゅしょうえ)『・修二会』(しゅにえ)『をはじめとした節分の行事としておこなわれているものもある。寺社での鬼遣・追儺の行事には、鬼のほかに毘沙門天などが登場したりもする』。『古式を復活させ』、『方相氏の面が用いられる追儺式を行っている寺社もあるが、地方の寺社や民間で行われてきた鬼やらいや節分の行事に疫鬼として登場するのは鬼の面をつけた(一般的なかたちの)鬼であることが多い』とある。

「夫木」「世の中は數《かず》ならずともひいらぎの色に出(いで)てはいはじとぞ思ふ」「爲家」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原為家の一首で、「卷二十八 雜十」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14074」)。但し、そこでは、

   *

よのなかは-かすならすとも-ひひらきの-いろにいてては-いはしとそおもふ

   *

となっている。

「黐樹(もちの《き》」双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra 。先行する「檍」の私の注の同種の記載を見られたい。

「柊汁《ひいらぎじる》も亦、黐(もち)に爲《つく》るか」前掲のセイヨウヒイラギからは鳥黐が作れるが、同種は明治期に渡来したものであり、ヒイラギから採取できるという記載は確認できなかった。]

2024/08/30

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村入道谷毒氣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。ロケーションの「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、は高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示す。但し、潮江村の「淨眼寺山(じやうがんじさん/やま)」も、その「東」の「入道谷(にうだうだに)」も、それが「麓」にあるという「千躰山(せんたいさん/ざん/やま)」も、三つの名総て、戦前の地図でも、見出せない。ネットでも検索に掛ってこない。最後の注で、広域ロケーションの推理を示す。

 

   潮江村入道谷毒氣(どくき/どくけ/どつき)

 潮江村、「淨眼寺山」の東を「入道谷」と云(いふ)。「千躰山」の麓也。

 安永の頃、此所(このところ)に娶婦(ヤモメ)の老女(らうぢよ)、小(ちさ)き家居(いへゐ)して居(を)りける。[やぶちゃん注:「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]

 此老女は、川田氏に年久敷(としひさしく)勤(つとめ)ける故、其家より、少(すこし)の扶持(ふち)、來(きた)り、一人(ひとり)、住(ぢゆう)しける。[やぶちゃん注:「川田氏」土佐藩の郷士。 土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きもひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。]

 其頃、塩屋崎に傳助と云(いふ)もの、有(あり)。妻を迎(むかへ)て、末子(ばつし)もなかりしが、或日、父と物爭ひし、終(つひ)に、夫婦ともに追出(おひだ)されぬ。[やぶちゃん注:「塩屋崎」「ひなたGPS」のここ。前に出た「眞如寺」の後背の「眞如寺(筆山)」の南西麓の田の広がる町屋。現在の高知市塩屋崎町(しおやざきまち)(グーグル・マップ・データ)。「末子もなかりしが」傳助が嫡子で、弟もいないのに。]

 傳助、當時、行(ゆく)べき所やなかりけん、彼(かの)老女が方へ行(ゆき)て、その次㐧(しだい)を語り、

「親父が、機嫌(きげん)の直(なほ)る迄、四、五日、宿(やど)を貸したまはれ。」

と賴(たのみ)ければ、常に心安き傳助なれば、氣の毒におもひ、夫婦とも、老女が方(かた)に置(おき)ける。

 その夜(よ)、日暮(ひぐれ)て後(のち)、老女が愛する猫、外(そと)にて喰合(くひあふ)音[やぶちゃん注:何かと噛み合う、争そう音。]、しければ、傳助が妻、走り出(いで)て見るに、猫は、松の木の枝に登り居(をり)ける故、物干棹(ものほしざを)にて追(おひ)おろし、猫は、內(うち)へ、歸(かへり)ければ、女房も、內へ這入(はひり)ぬ。

 暫(しばし)して、傳助を呼(よび)て、いふ。

「氣分、𢙣(あし)し。背を、撫(なで)て給はれ。」

と言ける故、傳助、立寄(たちより)、撫さすり抔(など)する內に、手足、なえて、轉(コロ)び伏(ふし)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、傳助、驚き、

「水を吞(のま)せん。」

とて、立上(たちあが)りけるが、忽(たちまち)、傳助も、手足、軟(ナヘ)て、無言(ことばなく)し、夫婦共(とも)に、轉(ころ)び合(あひ)ける。[やぶちゃん注:「軟(ナヘ)て」漢字は当て字。「萎へて・痿へて」が普通。]

 老女は、囲庵裏(イロリ)の緣(ふち)に、假寐(うたたね)して居(ゐ)けるが、是も、目まひして、氣分、𢙣敷(あし)ければ、傳助を、呼(よび)かけながら、立上(たたちあが)らんとするに、手足、なえて、其儘(そのまま)、倒(たふ)れ伏(ふし)ぬ。

 三人(みたり)ながら、咽のかはく事いはん方なし。[やぶちゃん注:「囲庵裏(イロリ)」漢字表記はママ。「圍爐裏」「居爐裏」が一般的だが、これらも当て字であり、語源の定説は、ない。有力な一説は、「いろ」が、「圍爐」で、「爐を圍む」の意であり、「裏」は当て字とするものである。]

 傳助、轉(ころび)て、漸(やうやう)、水桶(みづをけ)の邊(あたり)までは、行(ゆき)しかども、水を吞不得(のみえず)して伏居(ふしゐ)たりぬ。

 爰(ここ)に、淸水庵(せいすいあん)の道心(だうしん)、庵室(あんじつ)は退轉(たいてん)して、當時、千体山の麓(ふもと)東側の山中(さんちゆう)に小(ちさ)き家、有りて、借宅(しやくたく)して暫(しばらく)居(をり)けるが、老女が茶吞友(ちやのみとも)にて、朝毎(あさごと)、吞(のみ)に行(ゆき)ける。

 此朝(このあさ)も、いつものごとく、起出(おきいで)て、老女が方へ行(ゆき)たれども、未(いまだ)、戶指(とざし)て有(あり)ければ、

『今朝(けさ)は、老女が長寐(ながね)するよ。』

と、おもひ、立歸(たちかへ)りぬ。

 暫(しばし)して、

「起(おき)もや、す。」

と、又、行(ゆき)たりしが、戶指(とざ)し有(あり)ければ、不審に思ひ、戶を扣(たたき)て見れども、返事もせざれば、

『必定(ひつぢやう)、老女、病(やみ)ての事成(なる)べし。』

と、外ゟ(そとより)、戶を明(あけ)、見けるに、三人、身を不叶(かなはず)して、轉びあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、伏しけるを見て、驚き、其邊(そのあたり)の人を、呼(よび)集め、來りて、介補(かいほ)し、藥を求(もとめ)て、服させければ、老女は、頓(やが)て、正氣に成(なり)、四、五日の内に快氣し、傳助は、十四、五日の後(のち)、快(こころよ)く、女房は、廿日余り、煩(わづら)ひて、快復せしとかや。[やぶちゃん注:「身を不叶(かなはず)して」「を」の箇所を、国立公文書館本34)を見ると、「も」である。「も」の崩し字には、「を」に酷似するものがあるので、底本の筆写者が誤認したものである。「近世民間異聞怪談集成」も「も」に補正傍注してある。]

「猫も、久敷(ひさしく)、物、不食(くはず)して、伏(ふし)ける。」

とぞ。

 三人ながら、

「夢のやうに有(あり)つる。」

と、始終を語りぬ。

 如何成(いかなる)毒氣にか有(あり)けん。

 

[やぶちゃん注:これは、間違いなく、囲炉裏の不完全燃焼による一酸化中毒である。猫と三人の皮膚は、恐らくピンク色を呈しつつあったと思われる。猫が戸外で何物か(猫かそれ以外の狸(木に登れる)辺りの野生動物。木に登れない狐は、当時、四国には棲息していなかったと考えられる)と争そったという偶然が、何らかの物の怪の齎(もたら)す瘴気(しょうき)として誤認されたものである。

 なお、以上の老女の住まいと、お茶のみ友だちの道心が近くに住んでいることから考えると、どうも、この『潮江村、「淨眼寺山」の東を「入道谷」と云(いふ)。「千躰山」の麓也』というのは、「眞如寺山(筆山)」の南西後背でないとおかしい。「ひなたGPS」の戦前の地図を見るに、その辺りには、相応のピークがあるのに、山名が記されていない。ところが、国土地理院図の方を見ると、塩谷崎町の南西直近にある163メートルのピークには、「皿ヶ峰」の名が附されてある。近世、こうした峰に名前がない方がおかしいから、この「皿ヶ峰」、或いは、その南の、現在の「嘆きの森」(グーグル・マップ・データ航空写真:名の由来は、「カメラ屋ケンちゃん」氏のブログ(失礼ながら、ブログ標題が異様に長い上、コピー出来ないため、カットした)の「高知市内にあるハイキングコース上の「嘆きの森」について・・・」を参照されたい。明治までのコレラ感染で亡くなった「コレラ墓」があり、敗戦の前月のアメリカによる高知市空襲での犠牲者が葬られた地であるそうである)、又は、さらにその南にある「土佐塾中学・高等学校」のある丘陵辺りを南限とする範囲に、本篇に広域ロケーションはあったと考えるのが、自然なようである。

2024/08/29

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 冬青

 

Masaki

 

まさき  凍青

     俗云末左木

     言正青木畧

冬青   俗用柾字

     又云玉豆波木

トラン ツイン

 

本綱冬青是乃女貞之別種也葉圓不尖五月開細白花

結子如豆大紅色伹以葉微團而子赤者爲冬青葉長而

子黒者爲女貞也冬青木肌白有文作象齒笏其葉堪染

緋其嫩芽𤉬熟水浸去苦味洗調五味可食

[やぶちゃん注:「𤉬」は「煠」(「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字で、原本では、「グリフウィキ」のこれ((つくり)が「棄」の字体)の中間部が「世」となった字体であるが、表字出来ないので、最も近いと判断した「𤉬」とした。]

子及木皮【甘苦凉】 浸酒去風虛補益肌膚皮其葉燒灰治

 癉瘃滅瘢痕殊効

△按冬青其葉冬亦正青光澤團長而不尖有輭鋸齒夏

 開小白花秋結子生青熟紅自裂中有白子揷枝昜活

 堪爲藩籬長出翹楚伐揃能茂盛相傳云用葉燒灰酒

 服治金瘡及竹刺入肉者伹不知食其嫩芽或用葉染

 緋色也然乎否

 

   *

 

まさき  凍青《とうせい》

     俗、云ふ、「末左木《まさき》」。

     言ふ心は、「正青木(まさあをき)」の畧なり。

冬青   俗、「柾」の字を用ふ。

     又、云ふ、「玉豆波木《たまつばき》」。

トラン ツイン

[やぶちゃん注:「心」は送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『冬青、是れ、乃《すなはち》、「女貞」の別種なり。葉、圓《まどか》にして、尖らず。五月、細《こまやかな》白花を開き、子《み》を結ぶ。豆の大いさのごとし。紅色。伹《ただし》、葉、微《やや》團《まろく》して、子の赤き者を以つて、「冬青」と爲《な》す。葉、長くして、子、黒き者、「女貞」と爲すなり。「冬青」の木肌、白く、文《もん》、有り。象齒笏(ざうげのしやく)に作る。其の葉、緋に染《そむ》るに堪(た)へたり。其の嫩芽(わかめ)、𤉬(む)し熟《じゆく》≪し≫、水に浸し、苦味(にがみ)を去り、洗《あらひ》、五味[やぶちゃん注:「鍼・苫・酸・辛・甘」を指す。]を調へて、食ふべし。』≪と≫。

『子及《および》木の皮【甘苦、凉。】 酒に浸《ひたし》≪たる物は≫、風虛[やぶちゃん注:東洋文庫後注に『産後などで臓腑・気血の弱っているところに冷氣をうけておこる。』とある。ちょっと不親切だ。その結果として発生する全身に及ぶ虚弱状態というべきである。]を去り、肌膚《きひ》≪の≫皮を補益す。其の葉、灰に燒≪きて≫、癉-瘃(しもはれ)[やぶちゃん注:腫れあがった重い凍傷。]を治し、瘢痕(みつちや)[やぶちゃん注:現代仮名遣「みっちゃ」で、「天然痘の瘢痕(あばた)が多いこと」を指す語。]を滅(け)す≪こと≫、殊に効あり。』≪と≫。

△按ずるに、冬青《まさき》は、其の葉、冬、亦、正青(まさあを)く、光澤《つや》≪ありて≫、團長《まるなが》にして、尖らず、輭(やはら)かなる鋸齒、有り。夏、小≪とさき≫白≪き≫花を開き、秋、子《み》を結ぶ。生《わかき》は、青く、熟≪せば≫、紅。自《おのづから》、裂けて、中《うち》≪に≫、白≪き≫子《たね》、有り。枝を揷≪せば≫、活《かつ》≪し≫昜《やす》し。藩籬《ませがき》と爲るに堪へたり。長く、翹-楚(すわい[やぶちゃん注:木の枝や幹から、真っ直ぐに細く長く伸びた若い小枝を指す語。「すわえ」「ずわい」「すわえぎ」とも読む。])を出≪だす≫。伐《き》り揃《そろへ》≪れば≫、能く茂≪り≫、盛《さかん》≪たり≫。相傳《あひつたへ》て、云《いふ》、「葉を用ひ、灰に燒き、酒にて服≪せば≫、金瘡《かなさう》、及び、竹、刺《さして》、肉に入る者を治す。」≪と≫。伹《ただし》、知らず、其の嫩芽《わかめ》を食い[やぶちゃん注:ママ。]、或いは、葉を用ひて、緋色(ひいろ)に染むることや、然《しか》るや、否≪や≫。

 

[やぶちゃん注:良安が最後に不審を述べているので判る通り、良安の種同定は誤っている。中国で言う「冬青」「凍青」は、

双子葉植物綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis

である。小学館「日本大百科全書」によれば、『モチノキ科』Aquifoliaceae『の常緑高木。高さは』十『メートルに達する。幹は灰褐色、若枝は緑色で稜(りょう)がある。葉は厚く、長卵状楕円(だえん)形、長さ』七~十三『センチメートル、低い鋸歯(きょし)がある。花は』六『月、葉腋(ようえき)から出た集散花序につき、淡紫色。雌雄異株。核果は球形、径約』六『ミリメートルで、赤く熟す。静岡県以西の本州、四国、九州、』(☜)及び、(☞)『中国に分布し、山地に生える。美しい実が多くなるのでこの名がある。材は器具材とし、樹皮から』「とりもち」『や染料をとる』とある。英文ウィキの同種の記載には、『ベトナム・中国南部・台湾・日本中部、及び、南部原産』とし、『冬青は伝統的な中医学で使われる五十種の基本生薬の一つであり』、『血行を促進し、鬱血や、熱と毒物を取り除くとされている。狭心症・高血圧・葡萄膜炎・咳・胸部鬱血・喘息などの症状を改善するとされている。同種の根は、皮膚感染症・火傷・外傷に局所的に、直接、塗布することが可能』である。『中国やヨーロッパの多くの都市で街路樹として使用されてい』るとあるのだが、不思議なことに中文ウィキは存在しない。なお、挿絵であるが、これは、良安の筆になるであろうからして、ナナメノキの特異的な形状の葉では、到底、なく、マサキの姿である。

 一方、良安が思い込みで訓じてしまった、本邦で言う「冬青(まさき)」「末左木(まさき)」「正青木(まさをのき)」「玉豆波木《たまつばき》」(最後のそれは、ネズミモチの異名、及び、椿(つばき)の美称)は、目タクソンで異なる、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus

である。良安の勝手な思い込みの方を詳述する気は、ない。当該ウィキでも、「コトバンク」の辞書でも、お好きなものを見られたい。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「冬青」([088-41a]以下)のパッチワークである。

『「女貞」の別種なり』前項「女貞」の私の注で示した通り、「本草綱目」の記載も甚だ錯誤がある。その記載では、まず、第一義では、現在の、

双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連イボタノキ属トウネズミモチ Ligustrum lucidum

を指しているが、後の部分では、同じモクセイ科 Oleaceaeではあるが、異なるトネリコ属 Fraxinusである、

モクセイ科トネリコ属シナトネリコ Fraxinus chinensis

に特異的な性質(白蝋を生ずること)を記載してしまっているのである。これは、所謂、汎世界的に主流であった古典的博物誌に於いての、大まかな外見上の類似による種(群)同定による弊害である。

「象齒笏(ざうげのしやく)」「笏」は官人が公式な行事などの折り、束帯を着用する際、右手に持った薄い板を指す。「さく」とも呼んだ。サイト「e國寶」の「牙笏 げしゃく」によれば、『象牙のほかに櫟(いちい)』(裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属イチイ Taxus cuspidata )、『桜などの木が材として用いられた。板の内側に必要な事項を記して、儀式の最中に参照できるようにするのが本来の目的だが、後には威儀を正すための持物として使われることが多くなったようである。なお』「延喜式」『には、牙製の笏は五位以上の高官が用いる、と定められており、この骨製の笏も牙笏に準じて用いられたものであろう』とある。しかし、「戸隠神社宝物館」公式サイトの「戸隠神社青龍殿」のこちらの「牙笏」によれば、『笏の素材はアフリカ象の牙で、牙笏と呼ばれるものは、日本に六枚しかない(象牙製が他に正倉院に二枚、大阪の道明寺に菅原道真の遺品と伝えられる一枚、鯨の骨製も牙笏と呼ばれ正倉院に一枚、元は法隆寺にあって現在は東京国立博物に一枚ある)。 本品は「通天笏」と呼ばれる正倉院御物と大きさが同じであり、双子の一つと思われる』。『なぜ戸隠に伝わるのか夢をかき立て、江戸時代に顕光寺の別当であった乗因は持統天皇奉納と伝える』とあった。中国は印材・装飾品・美術品等の材料として、シルクロードを通して、古くから象牙を手に入れていた。

「藩蘺(ませがき)」小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「藩蘺(ませがき)」既出既注だが、再掲しておくと、小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。]

2024/08/28

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同鄕荒瀨村黑白水

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、雨乞繋がりである。「同鄕」は前篇の「韮生鄕(にらうがう)」を指す。]

 

   同鄕(どうがう)荒瀨村黑白水(こくびやくすい)

 同鄕、五百藏村(いおろうら)、新田へ、かゝる、井本(ゐもと)は、荒瀨村(あらせ)也。大成(おほきなる)岩の下より、水、出(いづ)る也。

 此水(みづ)、旱魃(かんばつ)のしるしには、必(かならず)、白水(びやくすい)、流出(ながれいづ)る。

 又、洪水のしるしには、黑水(こくすい)出(いづ)る也。

 是を見て、里人、祈禱をする事也。

 

[やぶちゃん注:「五百藏村」前篇で既出既注。

「井本」水源。

「荒瀨村」現在の河北町有瀬(あらせ)「ひなたGPS」で確認。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 韮生鄕美良布社隆鐘

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、前回の雨乞繋がりである。]

 

   韮生鄕(にらうがう)美良布社(びらふのやしろ)隆鐘(ふりがね)

 韮生鄕、大川上美良布社(おほかはびらふのやしろ)に「降鐘(フリガネ)」と云(いふ)物、二つ、有(あり)。

「古(いにし)へ、五百藏村(いおろむら)へ、天(てん)より、降(ふり)たる。」

と云(いふ)。

 故に、世人(せじん)、「降鐘」と云侍(いひはべ)る由(よし)。

 半鐘(はんしよう)の形にして、兩方に、耳、有(あり)、半鐘より、大き也(なり)。

 「雌鐘(めすがね)」・「雄鐘(をすがね)」といふ。

 旱魃(かんばつ)の時、此(この)鐘を、大川(おほかは)に「膳が石」と云有(いふあり)【小川村の通り也(なり)。】、水中(すいちゆう)也(なり)[やぶちゃん注:この「なり」は宛て漢字であろう。並立助詞の「~なり、~なり、」で。「水中なりとも、岸辺なりとも、」の意で採る。]、其所(そのところ)へ、すへて、諸人(しよにん)、雨乞(あまごひ)を、すれば、忽(たちまち)、雨、降(ふる)也。

 「膳が石」といふは、膳を、一束(いつそく)[やぶちゃん注:百膳。]程、ならべたる如き石也。

 

[やぶちゃん注:「韮生鄕、大川上美良布社」この大川上美良布神社は、現在の香美市香北町韮生野(にろう)のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にある。なお、そこから北西直近の高知県香美(かみ)市香北町(かほくちょう)美良布(びらふ)のここに同神社の御旅所がある。これは「香美市」公式サイトの「大川上美良布神社の御神幸」によれば、『毎年』十一『月』三『日に大川上美良布神社において実施されています』。『神社の御祭神が行列を組んで』、『御旅所の神明宮を往復する秋祭りをオナバレといい、江戸時代末期には「奈波連」と読んだことが知られています』。『現在の神幸行列は、江戸時代の文政年間(』一八二〇『年頃)香北町太郎丸にあった文化人・竹内重意が「美良布神社奈波連」として記録した姿に近いと考えられています』。『行列に参加する人が持つ持ち物の中に「文化元年(』一八〇四)『年)」の記述があり、江戸時代末期に神幸の行事が行われていたことは確実ですが、いつの時代から行われていたのかは明らかではありません』。『高知県指定無形民俗文化財です』とある。本書の成立は文化一〇(一八一三)年であるから、この祭礼と御旅所は既に存在していた。

「五百藏村」現在の香美(かみ)市香北町(かほくちょう)五百蔵(いおろい)。

「小川村」現在の高知県香美市香北町小川

「大川」小川地区が左岸に当たる雄物川。

「膳が石」確認出来ない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久礼㙒村雨乞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、前回の雨乞繋がりで、それ以前の龍譚とも関連する。]

 

   久礼㙒村(くれのむら)雨乞(あまごひ)

 久礼㙒村に、阿彌陀堂、有(あり)。其所(そのところ)を「圓滿寺」と云(いふ)。昔、圓滿寺、有(あり)て、今は退轉也。此阿彌陀は、則(すなはち)、本尊也。

 境内に、池、有(あり)、「阿彌陀が池」と云(いふ)。

 此堂に、鍔口(わにぐち)、有(あり)。

「旱魃(かんばつ)の時、鍔口を、『阿彌陀が池』へ入(いれ)て、雨乞をすれば、忽(たちまち)、雨、降(ふる)。」

と、いふ。

 其鍔口の銘。

「一宮庄上久礼㙒禪樂寺 文安元甲子八月日円滿 大工 攝州 瓦森末」[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」は「州」を『列』と字起こしして、補正傍注で『(州)』としているが、これは崩し字の知識が足りない。これはれっきとした「州」の崩し字(「人文学オープンデータ共同利用センター」の『「州」(U+5DDE日本古典籍くずし字データセット』)である。

 

[やぶちゃん注:「久礼㙒村」現在の高知県高知市久礼野(グーグル・マップ・データ)。

「阿彌陀堂」跡地も現存しないので、場所不明(池も残ってないか)。但し、平凡社「日本歴史地名大系」の「久礼野村」によれば、『三谷(みたに)村の北東にあ』った『山間の村。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「東西二十五町余南北一里余」「其土黒」と記し、属村として入定谷(にゅうじょうだに)村をあげる。村の中央の盆地部を周囲の谷水を集めた久礼野川が西流し、北西の入定谷より流れ出る入定谷川と合流、さらに西流して重倉(しげくら)川と合流する』と記した後に、『文安元年(一四四四)八月日付久礼野村阿弥陀堂鰐口銘(古文叢)に「一宮庄上久礼野」とみえ、中世は一宮(いっく)庄に含まれていたと思われる』とあった。

「一宮庄上久礼㙒禪樂寺 文安元甲子八月日円滿 大工 攝州 瓦森末」訓読しておくと、「いつくみやしやう かみくれの ぜんらくじ ぶんあんがん(年)かつしはちがつにちゑんまん(「吉日」に同じ) だいく せつしう かはらもりすゑ」。「禪樂寺」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、寺の記号は同地区には見当たらない。国土地理院図の方でも、ない。一つ、先の引用にも出るが、同地区の西北の山間に「入定」(にゅうじょう)という地名があるのは、気になる。「文安元甲子八月」は室町時代の、義政が征夷大将軍に就任する前の六年の空位状態の初年で、グレゴリオ暦換算で同八月は一四四四年九月二十一日から十月二十日に相当する。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡下山橘村雨乞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ前回の雨乞繋がりで、それ以前の龍譚とも関連する。]

 

   幡多郡下山橘村雨乞(あまごひ)

 幡多郡下山の内楠[やぶちゃん注:「目録」は「橘」で、国立公文書館本(31)でも本文を「橘」とし、「近世民間異聞怪談集成」では、補正傍注『(橘)』を附す。]といふ所に、「白岩權現」といふ神あり。

 雩(あまごひ)をするに、不思義[やぶちゃん注:ママ。]に、雨、降る。

 渕の上の岩を「白岩」といふ。其渕に船を浮べ、棚を拵(こしらへ)、祭る、よし。

 神主は、

「右の白岩に、穴(あな)、有(あり)、其穴に這入(はひいり)て、祈念をする。」

由。

 神、納受(なうじゆ)あれば、黑き蛇、出(いで)て、川を渡り、棚の上へ、あがりけるに、果して、雨、ふる也。

 与州[やぶちゃん注:「伊豫國」の通称。]ゟ(より)、權現の石を盗む故に、盗まれぬやうに、制しければ、今は、石を借りに來(きた)る。」

と、いふ。

「桐の箱へ入(いれ)、借(か)せば、金子(きんす)を添(そへ)て、戾し來り、禮を云ふ。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡下山の内楠」(「楠」✕→「橘」○)この部分は、いろいろと調べてみると、最も妥当な読み方は、

   *

幡多郡(はたのこほり)、下山(しもやま)の内(うち)、「楠(くすのき)」といふ所に、

   *

と判断される。ウィキの「幡多郡」によれば、「旧高旧領取調帳」の中に、「下山上分」・「下山下分」があるとする。後、この二つの地区は、現在の四万十市に編入されており、また、「下山下分」には「橘村」が存在したことが判明する。而して、探してみると、現在の高知県四万十市西土佐橘(にしとさたちばな:グーグル・マップ・データ)であることが判る。

『「白岩權現」といふ神あり』さて、前注を受けて、同一箇所を「ひなたGPS」を見ると、戦前の地図のここに「橘」とあり、そのすぐ下に神社記号があり、その四万十川の対岸にも神社があることが判る。国土地理院図の方でも、この二つは健在で、同じ場所にある。そこで、グーグル・マップで、ここを拡大してみると、この対岸の方の神社が「白岩神社」であることが判った。右岸の方は「八坂神社」。ストリートビューのここで、鳥居が見え、そこに「白岩神社」の文字が視認出来た。而して、この二つの神社は関係があり、「橘の神輿渡し」という祭りが現存することも判った。「日本観光振興協会」公式サイト内のこちらによれば、『西土佐橘地区で毎年』十『月』二十九『日に行われているお祭で』、『八坂神社を出発した神輿』(=御神体)『が舟に乗り、白岩神社のある対岸まで渡』る、とあった。則ち、この二社は、孰れも水神を祀っているものと推定される。四万十川周辺には、古くから、広く水神信仰が盛んであるようであるから、それは「雨乞い」と密接な関係を持っているわけである。グーグル・マップの「白岩神社」の画像はここだが、残念ながら、「石」や「穴」らしきものの画像はなかったが、恐らく、神社名からして、御神体自体が岩であり、本篇の記載から見ると、それが複数個、存在するのではなかろうか? 今一つの「八坂神社」のグーグル・マップ・データの画像もリンクさせておく。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 西寺半鐘

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ前回までの龍巻奇談と親和性がある。]

 

   西寺(にしでら)半鐘(はんしよう)

 西寺の半鐘は、模樣に、諸魚を鑄(い)たる由。

「旱魃(かんばつ)の時は、山上(さんじやう)の池に入(いり)て、雩(アマゴイ[やぶちゃん注:ママ。])する也。若(もし)、降(ふら)ざれば、磯(いそ)へ入るに、忽ち、浪、立(たち)て、雨、降(ふる)。」

と、いふ。

 又、阿州、鈴ヶ森觀音の境内に、寺、有(あり)。此寺の茶釜の模樣も、諸魚を鑄付(いりつけ)たる、と也。

 此茶釜は、徃古(わうこ)より、磨(みが)く事、不成(ならず)。

 或時、旅人、來(きたり)て、いふ。

「聞及(ききおよび)し茶釜也(や)。模樣、分り不申(まうさず)、見ずして歸るも、殘(なごり)多(おおき)也(なり)。」

とて、鼻紙を、水にぬらし、ふきけるを、寺主(てらぬし)、見付(みつけて)、驚(おどろき)て云(いはく)、

「此釜を磨く時は、忽(たちまち)、風波に及(およぶ)故(ゆゑ)、古(いにしへ)より、磨(みがく)事、なし。足下(そつか)、今、是を、ふきたり。早く、下山し玉(たま)へ。必(かららず)、怪(あやし)み、有(ある)べし。」

と云(いひ)ければ、彼(かの)男(をとこ)も、驚き、急(いそぎ)て、下山するに、俄(にはか)に、空、かき曇(くもり)、雷(かみなり)、鳴(なり)て、道半(みちなかば)より、大雨(おほあめ)、降來(ふりきたり)、漸(やうやう)、下山しける、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「西寺」「西寺怪異」で既出既注。再掲すると、「西寺」は室戸岬の西の根方にある第二十六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ)の別称。これは、室戸岬で、岬の先端部にある第二十四番札所最御崎寺ほつみさきじ)を「東寺」と呼び、その対称名である(孰れもグーグル・マップ・データ)。

「雩」音「ウ」。この漢字は「夏の旱(ひで)りの時に、舞い踊り祈る雨乞いの祭礼」を指すほかに、「空に架かる虹」をも指し、これは別名「螮蝀」(ていとう)・「蝃蝀」(せつとう)とも呼ぶが、「虹」は古来、民俗社会では「龍」の一種と考えられていた。

「山上の池」「ひなたGPS」で国土地理院図を見ると、同寺の後背には、全部で四つの池を確認出来る(西側の垂直三角形の下方の流れにあるそれは数えない)ものの、東側の二箇所は、地図上の形状でも判る通り、グーグル・マップの航空写真で見ると、人工的に堰き止めて作ったもので、「山上」でもないので、除去出来る。小さな丸い池が、手前にあり(こちらはグーグル・マップの地図では示されていない)、奥に少し大きな池がある。しかし、グーグル・マップの航空写真のここで、中央の下方と上方で、確認出来るので、小さな方も明らかに現存する。なお、「ひなたGPS」の等高線を見るに、高さは同じである。個人的には手前の小さな丸い方が、映像的には「旱りの雨乞い」で入るに、いい感じはする。

「阿州、鈴ヶ森觀音」現在の板野(いたの)郡松茂町(まつしげちょう)長岸(ながぎし)にある、慶長七(一六〇二)年に阿闍梨継果(けいか)を開山として建立された阿波国の福聚山(ふくじゅさん)無量院觀音寺か? 本尊は十一面観世音菩薩(公式サイトの「沿革」に拠った)である。しかし、この観音を「鈴ヶ森觀音」と呼んだ記載は、ネット上には見当たらない。識者の御教示を乞うものである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村之龍

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。前回の龍巻奇談の続き。]

 

   潮江村(うしほえむら)之(の)龍(りゆう)

 宝暦七年七月廿六日、暴風、洪水し、其上(そのうへ)、潮(うしほ)、入來(いりきたり)て、浦々、破損、多かりし。

 其頃、利幾屋(りきや)五右衞門と云(いふ)者、本御藏前(もとおくらまへ)北側東角(ひがしかど)に居(をり)て、潮江にて、農業をし、此年も稻作しければ、風(かぜ)、氣遣(きづか)ひ、

「潮江へ、立越(たちこし)、可居(をるべし)。」

とて、急(いそぎ)、行(ゆき)けるが、眞如寺橋(しんによじばし)、下り、越戶へ至りける時、わいた風、方(かた)、變り、大風(おほかぜ)、吹來(ふききたり)、

『黑雲(くろくも)、一村(ひとむら)[やぶちゃん注:「一叢」。]、すざまじく、舞下(まひくだ)るよ。』

と、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、忽(たちまち)、卷上(まきあげ)られける。

 「天神の馬場」を西へ、眞如寺の「黑門通り」の「馬場」の堤(つつみ)へ落(おち)て、正氣を失ひける折節(をりふし)、潮江(うしほえ)の者、見付(みつけ)て、來(きた)り、肩に掛(かけ)、風雨、漸(やうやく)、しのぎ、人家へ連來(つれき)て、介補(かいほ)[やぶちゃん注:「介抱」に同じ。]せし、とかや。

 兩足、折れて、暫(しばらく)煩(わづら)ひけるが、後(のち)、快(こころよ)く、杖にて、往來せし也。

 眞如寺本堂の破損は、此時の事也。

 五右衞門も、龍に卷かれたる物ならん。

 

[やぶちゃん注:「潮江村」(現代仮名遣「うしおえむら」)先行する「吉田甚六宅光物」のロケーションで既出既注であるが、これは、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区(JR四国の高知駅の真南一キロメートル附近から、「潮江橋」を渉った鏡川右岸の広域の旧地名で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来のかなり広い干拓地である。まず、「ひなたGPS」で示す。行政地名としての「潮江」はないものの、グーグル・マップ・データのここで「潮江」を冠した城跡・天満宮や施設が確認出来る。

「本御藏前」不詳だが、旧高知城内の東のここ(グーグル・マップ・データ)には、土佐藩の重要な産業であった紙及び筆を貯蔵する「長崎蔵」があった(「高知市」公式サイト内の『高知市広報「あかるいまち」』の『歴史万華鏡コラム』(二〇二二年三月号)の「高知城と長崎蔵」を参照されたい)。但し、ここは城内であるから、当時の市街地で、屋号まで持つからには、相当に富裕とは思われるが、農民が城内に住もうはずはないから、私はこの蔵の前身が、この城の東の端に置かれており、その東側の町屋を「御藏前」と呼んでいたのではないかと推定した(後に「元御藏前」となる)。位置的にも潮江地区に近く、極めて自然である。

「眞如寺橋」恐らく、「ひなたGPS」の国土地理院図の「天神大橋」の前身の橋名であろう(明治の廃仏毀釈で、名を「潮江天満宮」(グーグル・マップ・データ)の方にズラして、以下に記すように復讐を果たしたのであろう)。その別当寺であろう(後文を見よ)直近東に現在の曹洞宗日輪山真如寺がある(南の後背の山は「真如寺山」というが、通称は、ご覧の通り、「筆山」である)。この寺は、山内一豊が遠江国掛川領主であった頃、当時、そこにあった真如寺の在川禅師へ参禅し、後に彼の土佐入封に伴い、慶長六(一六〇一)年、在川を開山として当地に伽藍を建立、真乗寺と名付けたのに始まる。当地には潮江天満宮があり、天満宮を西方に移して跡地に建造したと伝える。真乗寺は、その後、山内氏の菩提寺として栄え、二代忠義の時、真如寺と改称した。本書「南路志」によると、境内には惣門・座禅堂・鐘楼堂・本堂・客殿・庫裏・御霊殿・浴室などが立並び、回廊が廻(めぐ)らされ、塔頭に香積(こうしゃく)院・興陽(こうよう)軒・般舟(はんじゅ)院があった(以上の真如寺の詳細部分は平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。

「越戶」「ひなたGPS」の両地図を調べて見たが、この名はなかった。しかし、以下の「五右衞門」が吹き飛ばされた経緯を示す地名の順序から位置関係から考えると、彼の田圃は、「眞如寺山(筆山)」を東に回り込んだ「塩屋崎」等の鏡川河口の広い田圃ではなく、逆の西方向であろうと踏んだ。すると、山の北西の麓に「河瀨」(前のリンク地図はそこを中心に配した)の地名を見出した。ここには「神田川」という小流れが東北方向に流れて、鏡川に注いでいる。「越戶」という地名は、一般に川の分流地や、水域が何かを乗り越える地区を指すから、この附近ではないかと考えた。なお、ここには既に明治の段階で「湿田」の地図記号が打たれてある。

2024/08/27

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡柏島之龍

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「同郡(どうこほり)」は前回と同じ、「幡多郡(はたのこほり)」を指す。「柏島」「柏嶋」の混淆はママ。]

 

     同郡柏島(かしはじま)之龍(りゆう)

 柏嶋役(かしはじまやく)、山本伴藏、勤(つとめ)の內(うち)、書中に申越(まうしこし)ける由。

「去月(いんぬるつき)、中頃(なかごろ)、柏島、『いなや』、北の海にて、龍の、潮(うしほ)を卷上(まきあげ)たるを、見申候。

 扨々(さてさて)、すさまじきものにて御座候。

 間もなく、帶をはへ[やぶちゃん注:「這へ」であろう。]たる如く、雲の中より、黑き雲、三つ、四つ、降(くだ)り、海上(かいじやう)より、余程、間(あひだ)、有之(これあり)候に、下(した)ゟ(より)、夥敷(おびただしく)浪立(なみだち)、無程(ほどなく)、上の雲と一つに成(なり)、潮(うしほ)を卷上(まきあぐ)る事、煙(けむり)の如く、顯然(けんぜん)と、見へ申候。

『當浦(たううら)にては、珍敷(めづらしき)事。』

の由(よし)、浦の者ども、申候。

 遙(はるか)沖中(おきなか)へ鰹釣(かつをつり)に出(いで)候者は、偶々(たまたま)、逢申(あひまうす)者も有之(これある)、由。其時は、否迯也(にげられざるなる)由[やぶちゃん注:「否」はママ。]。鳥(とり)抔(など)、卷込(まきこみ)、死申(しにまうす)由に候。」

 先年、御疊方(おたたみがた)、孫助と云(いふ)者、御用にて、浦傳(うらづたひ)して、甲浦(かんのうら)へ行(ゆき)ける。

 或(ある)浦にて、宿(やど)へ着(つき)ければ、能(よく)、肴(さかな)を料理して、孫助を饗應しけるに、亭主、申(まうし)けるは、

「此肴は、不思義成(なる)事にて、不慮に有合(ありあはせ)候。昨日(きのふ)、この沖にて、龍、潮(うしほ)を卷上(まきがえ)候て、此邊(このあたり)へ、夥敷(おびただしき)魚を、空より落(おと)し、存不寄(ぞんじよらず)、魚を、取申(とりまうし)たる。」

由、語(かたり)ける、と、也。

 

[やぶちゃん注:「柏島」現在の高知県幡多郡大月町(おおつきちょう)にある柏島(かしわじま):グーグル・マップ・データ)。現在は二基の橋で陸と続いているが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、渡船場があり、陸繋島ではなかったことが判然とする。但し、古い石堤が島の陸側に存在することから、調べてみたところ、大潮の干潮時のみ、海の中から道が現われ、渡渉が可能であることが判った。

「いなや」漢字表記等も全く不詳だが、グーグル・マップ(以下、無指示は同じ)をよく見てみると、実は地名としての高知県幡多郡大月町柏島は、柏島の陸側の岬部分も行政地名で「栢島」であることが判り、しかも、そのここに、まさに「竜ヶ浜キャンプ場」があるのを発見した。さすれば、この冒頭の「栢島」は島を指すのではなく、この現在の陸と島の広域を指す「栢島」であると考えられ、ここが現在、「竜ヶ浜」と呼ばれているのは、本篇とは偶然ではないと考えられるのである。ここは、まさに、地区としての「栢島」地区の北の湾の周辺の旧広域地名を指すのではないだろうか?

「御疊方」土佐藩の作事方(さくじかた:城及び官庁の殿舎・家屋などの建築・修繕を司る役方)で、畳を専門に扱う奉行方のことであろう。江戸幕府のそれらがよく知られているが、一部の大名の藩でも、存在した。

「甲浦」これは、現在の高知県安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら)であろう。ロケーションが遙か東の端になるが、寧ろ、柏島とここは、当時の土佐藩の東西の国境という点で、対称をなし、不審な感じは、寧ろ、私にはしない。龍が東西を抑えているのだ! まさにそれこそ「龍馬」じゃないか!!

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 女貞

 

Tounezumimoti

 

[やぶちゃん注:図には二つの樹木体が並べて描かれてあり、左手のものが、キャプションにある「本草必讀」のものであろう。而して、上部には、葉の裏表の図が、二つ、並べて描かれ、右手には、葉の『靣』(おもて)を描き、『深青』色をしていることをキャプションで示し、左手には、葉の『裏』(うら)が描かれ、『色』は表に比して『淺』い青とし、恐らくは表も裏も『文理』(もんり:葉脈)は『明』(あきら)かであるとキャプションしたものと思う。「本草必讀」は、東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。]

 

いぬつばき 貞木 冬青

      蠟樹

女貞   【和名太豆乃木】

      俗云䑕乃久𭦌

      【又云狗都波木

       又云䑕黐】

ねずみのふん

ねすみもち

[やぶちゃん字注:「𭦌」は「曾」の異体字。左端に和訓名が並ぶのは特異点である。]

 

本綱女貞木凌冬而青翠有貞守之操故名之因子自生

最昜長其葉似冬青樹及狗骨木而厚長綠色靣青背淡

長者四五寸五月開細花青白色九月實熟黒似䑕李子

而纍纍滿樹冬月鸜鵒喜食之木肌皆白膩立夏前後取

蠟蟲之種子褁置枝上半月其蟲化出延緣枝上造成白

蠟民間大𫉬其利與冬青樹同名物異

實【苦温】補中安五臟養精神強陰明目黑髮除百病乃上

 品無毒妙藥也葉【微苦】除風散血消腫定痛諸悪瘡及

 口舌生瘡腫脹者皆佳

△按女貞木葉似海石榴而無鋸齒故名姫海石榴其子

 圓長初青熟正黒似䑕屎鸜鵒喜食之伹葉長不過二寸

 其文理不出于端與他葉異也而本草曰長四五寸者

 和漢之異然乎又造成白蠟者未知然乎否

 

   *

 

いぬつばき 貞木《ていぼく》 冬青《とうせい》

      蠟樹《らうじゆ》

女貞   【和名「太豆乃木《たづのき》」。】

      俗に云ふ、「䑕乃久𭦌《ねずみのくそ》」。

      【又、云ふ、「狗都波木《いぬつばき》」。

       又、云ふ、「䑕黐《ねずみもち》」。】

ねずみのふん

ねずみもち

 

「本綱」に曰はく、『女貞《ぢよてい》の木、冬を凌《しの》ぎて、青翠《あをみどり》≪たり≫。「貞守の操(みさを)」、有り。故に、之に名づく。子《み》に因《より》て自生す。最も長《ちやうじ》昜《やす》し。其の葉、「冬青(まさき)」に樹、及び、「狗--木(ひいらぎ)」に似て、厚≪く≫、長≪く≫、綠色≪たり≫。靣《おもて》、青、背、淡《あはし》。長き者、四、五寸。五月、細≪やかなる≫花を開く。青白色。九月、實、熟して、黒く、「䑕李子(むらさきしきぶ)」に似て、纍纍《るいるい》として、樹に滿《みつ》。冬月、鸜鵒(ひよどり)、喜《よろこび》て、之れを食ふ。木の肌、皆、白≪く≫膩≪なめらかなり≫。立夏の前後、蠟蟲《らうむし》の種子《しゆし》を取り、褁《つつみ》て、枝の上に置《おき》、半月にして、其の蟲、化《くわ》して、出《いで》て枝の上に延緣(ひきのぼ)り、「白蠟《はくらう》」を造成《つくりな》す。民間、大いに、其の利を𫉬《とり》、「冬青樹《とうせいじゆ》」と、名を同じくして、物、異《い》なり。』≪と≫。

『實【苦、温。】中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方で言う「脾胃」。]を補し、五臟を安んじ、精神を養ひ、陰を強くし、目を明《あきらか》≪にし≫、髮を黑≪くし≫、百病を除く。乃《すなは》ち、上品≪にして≫無毒の妙藥なり。葉【微《やや》苦。】風《かぜ》を除き、血を散じ、腫《はれもの》を消し、痛みを定《さだ》め、諸悪瘡、及び、口・舌≪に≫瘡を生じ、腫脹≪せる≫者、皆、佳《よ》≪し≫。』≪と≫。

△按ずるに、女貞木、葉、「海石榴《つばき》」に似て、鋸齒、無き故《ゆゑ》、「姫海石榴(ひめつばき)」と名づく。其の子《み》、圓長《ゑんちやう/だゑん》≪にして≫、初《はじめ》、青、熟≪せば≫、正黒にして、䑕《ねずみ》の屎《くそ》に似≪て≫、鸜鵒《ひよどり》、喜て、之れを食ふ。伹《ただし》、葉≪の≫長さ、二寸に過ぎず、其の文理《もんり》、端《はし》に出でず。他《ほか》の葉と異《こと》なりて、「本草」に、『長さ、四、五寸の者』と曰ふ≪は≫、和漢の異《い》、然《しか》るか。又、『白蠟に造成《つくりな》すと云ふは[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、未だ知らず、然《しか》るや、否や。

 

[やぶちゃん注:これは現代の植物種では、まず、中国の「女貞」自体からして、全く異なる二つの樹種を指し、しかも、良安の言う「姫海石榴」が、これまた、現代では、異なるツバキ科 Theaceaeの二種を指すという、時珍も、良安も、神経症的に錯綜した状態にあるように読めてしまうのである。良安の評言も異種であることは判っているようである。順を追って、示す。

 まず、中国で言う「女貞」は、第一に、

〘「本草綱目」①〙双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連イボタノキ属トウネズミモチ Ligustrum lucidum

を指すが、第二に、同じモクセイ科 Oleaceaeではあるが、異なるトネリコ属 Fraxinusである、

〘「本草綱目」②〙シソ目モクセイ科トネリコ属シナトネリコ Fraxinus chinensis

をも指し、しかも、「本草綱目」も、その二種が、混在して一種として記されてしまっているのである。時珍が混同してしまっている致命的な部分は、『「白蠟《はくらう》」を造成《つくりな》す』の箇所で、これは、後者にのみ見られる現象なのである。

 一方、良安の言う、「姫海石榴」というのも、現行の本邦では、同じツバキ科 Theaceaeながら、異なる樹種二種を指す。但し、良安が言っている「姫海石榴」は、

〘良安「姫海石榴」〙ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

である。これは、良安が『葉、「海石榴《つばき》」に似て、鋸齒、無』し、と言っていることが、決定打となる。しかし、現在、実は、「姫海石榴」を名にし負うている種が、本邦にはあり、それは、

〘現在の植物学上の「姫海石榴」〙ツバキ科ヒメツバキ属ヒメツバキ Schima wallichii

である。但し、この後者のヒメツバキは、当該ウィキによれば、『日本では小笠原諸島(硫黄諸島を除く)と、奄美以南の琉球列島に分布する。国外では東南アジアや東部ヒマラヤにまで分布する』とあり、分布の限定地は、凡そ、当時、良安が実見し得るフィールドの外であるから、良安自身が、この二種を混同しているわけではないので、問題はないと言ってよい。従って、この現代の真正の「ヒメツバキ」は以下では説明しないので、上記リンクを読まれたい。

 まず、〘「本草綱目」①〙のトウネズミモチLigustrum lucidum当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『唐鼠黐』。『常緑広葉樹の高木』。『葉は楕円形で厚く光沢があり、ネズミモチ』(イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum )『よりも大きく、葉脈が透けて見える。花期は』六~七『月頃で、枝先にネズミモチよりも大きな円錐形の花序を出して、黄白色の花を多数咲かせる』。『果実は』十二『月頃に紫黒色に熟す』。『トウネズミモチの場合、葉裏を光に透かしてみると』、『葉脈の主脈も側脈も透けて見えるが、ネズミモチの方は、主脈が見えるものの』、『側脈は見えないので判別できる。また、果実はともに楕円形であるが、トウネズミモチの方が球形に近く、ネズミモチはやや細長い。また、総じてネズミモチの方が樹高が低い』。『中国中南部原産。日本では明治時代初期渡来した』(☜:良安は本種トウネズミモチを全く知らないのである)、『帰化植物』。『大気汚染公害に強いことから、都市部を中心に公園緑化樹などに利用される。よく目にする生け垣の利用は、国産の近縁種ネズミモチが殆どである』。『漢名を女貞といい、果実を干したものは女貞子(じょていし)と称する生薬で、ネズミモチ同様に強壮剤にする』。『近年、鳥に依る糞の被害も拡大し、問題視されている。急速に日本各地に広がりだしているため、侵略的外来樹木としても注意が必要である(要注意外来生物)』とある。

 次に、白蝋が採取される、〘「本草綱目」②〙のシナトネリコ Fraxinus chinensis 当該ウィキを引く(同前)。漢字表記『支那梣』(中文名は「維基百科」の同種によれば、「白蜡」で異名「梣」「白荆」「青榔木」とあり、見逃せないのは、そのページのヘッドに、同属(「女貞属」)への「見よ見出し」が出ていることから、このシナトネリコを「女貞」と思って、このシナトリネコのページを見る人が多いことを裏付けている。則ち、現代中国でも時珍の如く混同している人が多いことを示していることに気づかれたい『モクセイ科トネリコ属の植物の一種。中国では白蝋樹(はくろうじゅ、パイラーシュー)と呼ぶ。伝統的な中国医学では樹皮を秦皮(しんぴ)』(この生薬名は日中で古くから非常に知られたものである)『と呼び、痢疾に対する処方とする』。『落葉喬木で、樹高は』十~十二メートル『に達する。樹皮は灰褐色で縦に裂ける。奇数羽状複葉でその長さは』十五~二十五センチメートル、『葉柄は』四~六センチメートル。『葉軸は真っ直ぐ張り、上面には浅い溝がある。小葉は通常』五~七『枚、倒卵長円形から披針形、葉縁は整正鋸歯である。円錐花序は頂生および側生し、長さ』八~十センチメートルで、『下垂する』。四~五『月にかけて開花し』、七~九『月にかけて披針形で扁平な翼果をつける。雌雄異株で、雄花と雌花は別の個体に生じる。雄花は密集し、萼は小さく釣り鐘状、長さは約』一ミリメートル、『花冠はなく、葯は花糸と同等の長さ。雌花はまばらで』、『萼は大きく』、『桶状』をなし、『長さは』二~三ミリメートルで、『浅く』四『裂し、花蕊は細く長く、柱頭は』二『裂する』。『ベトナム、朝鮮半島および中国大陸の南北各省に分布し』(☜本邦には自生しないので、良安は本種を知らないのである)、『海抜 』八百~千六百メートル『の地域に生育する。湿潤を好み、成長が早く、山地の雑木林の中に多く生える。中国での栽培の歴史は古く、分布も広い。特に中国西南部各省での栽培が最も盛んである。貴州省西南部の山間部の栽培種は枝葉が特に広く大きく、常に山地にあって半野生状態を呈する』。『シナトネリコの材は強靭で、家具、農具、荷車、合板などの製造に適している。樹皮は、中国伝統医学において秦皮(しんぴ、チンピー)と呼ばれ、内服では解熱、下痢、長血・おりものに、外用では目の充血・腫れ・痛み・かすみ目・角膜混濁に処方される。主成分はエスクレチン』(Aesculetin)『およびフラキセチン』(fraxetin:この二種は、桜の葉に代表される植物の芳香成分の一種であるクマリン(coumarin)の誘導体及び化合物である)。『中国では、白蝋虫(イボタロウムシ)を接種して養殖し、白蝋(イボタ蝋)を採集する。白蝋樹の名はここに由来する。また』、『シナトネリコは、痩せ地や旱魃に耐え、軽度の塩鹹地でも生育することができ、成長も早いため、砂漠緑化における固砂樹種に適している』とある(なお、「イボタロウムシ」は説明すると、異様に長くなってしまうので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 五倍子 附 百藥煎」の私の注の「蠟蟲の蠟子」を見られたい)

 次に〘良安「姫海石榴」〙サザンカ Camellia sasanqua (同前)。本邦の漢字表記は『山茶花』(中文名は「茶梅」)。『常緑広葉樹』『の小高木』。『別名では、オキナワサザンカともよばれる。童謡「たきび」の歌詞に登場することでもよく知られる。 神戸市の市の木にもなっている』。『漢字表記の「山茶花」は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。ツバキ属の一種であるが、ツバキ(ヤブツバキ)よりも花がやや小形であることから、ヒメツバキ』(☜)『やコツバキなどの別名もある』。『樹皮は淡灰褐色で表面は平滑である。樹皮が灰白色のツバキに対して褐色を帯びている。一年枝ははじめ紅紫色で毛が生えている。葉は長さ』二~五『センチメートル』『程度の鋸歯のある楕円形でツバキよりも小さく、やや厚くツヤがあり、互生する』。『花期は、秋の終わりから初冬にかけての寒い時期』(十~十一月)で、『枝の先に』五『枚の花弁の花を咲かせる。野生の自生種では花色は部分的に淡い桃色を交えた白色であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は、濃い紅色や白色やピンクなど様々である。花の奥には蜜があり、花粉の授受は昆虫と鳥の両方に頼っている。サザンカの開花はツバキよりも早い晩秋で、花弁が』一『枚ごとに散るので、ツバキとの見分けのポイントになる。また、サザンカの子房には毛があるが、ツバキにはない。花の付き方もやや異なり、ツバキが葉の裏側について葉陰で咲かせることが多いのに対し、サザンカは』、『むしろ』、『葉の表面側に付いて、目立ちやすい』。『果期は翌年の』九~十『月。花が咲いたあとに直径』二センチメートル『程度の球形の果実がつく。果実の表面には短い毛が生えていて、開花の翌年の秋に表皮が』三『つに裂けて、中から』二、三『個の黒褐色をした種子が出る』。『冬芽は葉の付け根につき、花芽や葉芽はツバキに似るが全体に小ぶりである。花芽は広楕円形で白い毛があり、夏頃に見られる。葉芽はやや平たい長卵形で毛があり』、五~七『枚の芽鱗に包まれている』。『冬の季語にされるなど、サザンカには寒さに強いイメージがあるが、開花時期に寒気にさらされると』、『花が落ちること、四国・九州といった暖かい地域が北限である事などから、原種のサザンカは特に寒さに強いわけでは無い。品種改良された園芸種には寒さに強く、真冬でも花を咲かせる品種も少なくない』。『サザンカ、ツバキ、チャノキなどのツバキ科の葉を食べるチャドクガ』(鱗翅目ドクガ科ドクガ属チャドクガEuproctis pseudoconspersa )『が知られている。この毒蛾の卵塊、幼虫、繭、成虫には毒針毛があり、触れると皮膚炎を発生させる。また、直接触れなくても、木の下を通ったり風下にいるだけでも』、『毒針毛に触れ、被害にあうことがある』『自生種は、日本の本州山口県、四国南西部から九州中南部、南西諸島(屋久島から西表島)などに、日本国外では台湾、中国、インドネシアなどに分布する。山地に自生するほか、人手によって植栽されて庭でもよく見られる』。『なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャは温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である』。『ツバキと共に、代表的な冬から早春の花木で、庭木として人気が高く園芸種も多数あり、生垣によく利用される。サザンカもツバキも、ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、多くの園芸品種が作出され、現在も多くの品種が作り出されている。ちなみに多くの言語でもサザンカと呼ばれている。種子からは油が採れる』以下、「栽培品種」の項があり、三群が示されてあるが、省略する。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「女貞」([088-39a]以下)のパッチワークである。

「冬青《とうせい》」この場合は「女貞」の異名。次項が「冬青」であるが、そこで詳細に考証するが、時珍の示すそれは、現行の「冬青」と異なり、トウミズネモチでもないもので、良安はそちらで種同定を誤っている。ざっくり言うと、「本草綱目」のそれは、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis である。

「蠟樹《らうじゆ》」先に示した通り、シナトネリコ Fraxinus chinensis を指す。

「太豆乃木《たづのき》」これもアウトである。これは、マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana の異名である。

「䑕乃久𭦌《ねずみのくそ》」これもマズい。現行では、先に示したイボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum の不名誉極まりない卑称異名である。

「狗都波木《いぬつばき》」「犬椿」。同じくネズミモチの異名。「犬」は本邦の植物名では、「本家本元に似ながらも違う嘘臭いもの」で、「役にたたない」のニュアンスも持つ卑称接頭語である。

「貞守の操(みさを)」「堅く正しい節操を守り続けること」の意。一年を通じて葉が青々と茂っていることをそれに喩えたもの。

「狗--木(ひいらぎ)」このルビはアウト。「ひいらぎ」は「柊」で、本邦の昔から、我々に馴染みのある、シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus であるが、ヒイラギは台湾と日本(北海道を除く)に分布し、中国には植生しないからである。では何かというと、バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta で、本種は当該ウィキによれば、『中国東北部、朝鮮南部に自生』するとあり、御丁寧に、『名前に「ヒイラギ」が付くが、ヒイラギはモクセイ科』Oleaceae『で』、『本種とは全く別の植物である』とある。「維基百科」の同種のページ「枸骨」にも、『ヨーロッパ、アメリカ、北朝鮮、浙江省、江蘇省、湖南省、江西省、雲南省、湖北省、上海、安徽省など中国本土に分布し、標高百五十メートルから千九百メートルの地域に生育』するとあって、こちらのヤバネヒイラギモチは、逆に日本には自生しないのである。

「䑕李子(むらさきしきぶ)」完全アウト。中国の「李(子)」は本邦の「ムラサキシキブ」ではない。前回の「鼠李」の私の注冒頭の考証部を参照されたい。

「鸜鵒(ひよどり)」またしても、アウトである。スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis ではなく、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis であると私は考えている。私の拘りは別として、そもそも、良安は自己矛盾を示しているのである。それは、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」で、良安は自身の評で、冒頭『按ずるに、鵯の形、鸜-鵒(つぐみ)に似て、尾、長く、蒼灰色。』と、はっきりそこでは「ツグミ」とルビを振っているからである。なお、ネットでは、圧倒的に「鸜鵒」をスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus に同定しているようだが、それはそれで、鳥類学的に正しいのであろうけれども(私は鳥類も冥い。嘗つては「日本野鳥の会」にも入っていたが、それは連れ合いの家族会員として入っていたに過ぎない)、私は、「和漢三才圖會」を読み、注を附す際には、「本草綱目」での李時珍の認識、及び、良安の意識の中での認識を第一優先しているのであり、当時の彼らが、現在のどの種と考えていたかを考証するのが、私の「和漢三才圖會」での、第一義的に重要な「立ち位置」であるからして、ハッカチョウ説を五体投地して拝み奉って譲る気は、全く「ない」のである。何より、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸜鵒(くろつぐみ) (ハッカチョウとクロツグミの混同)」を見て戴いても、良安に意識錯誤が手に取るように見えるのである。是非、参照されたい。いや、無論、そこで私は、抜かりなく「ハッカチョウ説」も紹介してあるのである。

2024/08/26

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡小浦之怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「同郡(どうこほり)」は前回と同じ、「幡多郡(はたのこほり)」を指す。]

 

   同郡小浦(こうら)之(の)怪異

 「瀨尾氏筆記」に云(いはく)、

『幡多郡宿毛(すくも)の内、「大嶋(おほしま)」の向ひに「小浦」といふ、有(あり)。此辺(このあたり)に、「鹿崎(しかざき)」といふ磯山(いそやま)、有(あり)。

 大嶋の漁人(りよじん)、諸用有(あり)て、父子とも、小浦へ行しに、舟をば、鹿崎につなぎ置(おき)て、暮時、彼所(かのところ)に來り、歸らんと、おもふ折(をり)に、一人(ひとり)の仙人とおぼしきが、立(たち)て居(を)れり。

 其姿、髮は、「おどろ」を戴き、「しゆろう」の如く、荒々敷(あらあらしく)て、眼(まなこ)、光り、手足の爪、長く、髮をかくなと[やぶちゃん注:「と」はママ。「近世民間異聞怪談集成」では補正右傍注が『お』とする。成程、「音」で躓かない。]、

「がりがり」

いふて、此人に向ひ、笑ふ故に、漁人も言葉をかけしに、都(すべ)て荅(こたへ)る事もなく、只、笑ふのみ也。

 しばし、立(たち)て、山に歸らんとするさま、手前に小川の有(あり)しが、それを一足(いっそく)に、またぎて、向(むかひ)の山の、はげしき峯を、步(あゆ)み行(ゆく)事、平地のごとし。

 間(あひだ)に、木(こ)の實を取(とり)て、喰ふて、又、笑ふ。

 しばらくして、山に入れり、と。

 その人に、あひて、直(ぢき)に話せるを、しるす。

 あやしき事也。

 

[やぶちゃん注:「瀨尾氏筆記」先行する「海犬」にも出たが、不詳。但し、土佐藩士系図に「瀬尾」は二家ある。

『「大嶋」の向ひに「小浦」といふ、有』高知県宿毛市小筑紫町内外ノ浦(こづくしちょうないがいのうら)。「ひなたGPS」の戦前の地図で、「小浦」の旧地名が確認出来る。「大島」は、その西北西の宿毛湾を隔てた湾奥にある大きな島(住所は宿毛市大島)である。因みに、戦前の地図でも、既に陸と道路(片島を経由)で繋がっているのが判る。

『「鹿崎」といふ磯山』やはり、「ひなたGPS」で「小浦」の北北西直近に「鹿崎」の地名が確認出来る。思うに、その二箇所の間を挟む、則ち、「小浦」の北の後背部が国土地理院図で見ると、五十三メートルの独立ピークがあり、その鹿崎側の麓は、岩礁帯の記号が振られていて、グーグル・マップ・データ航空写真で見ても岩礁であり、ストリートビューのこれで、確かにそれが視認出来る。古くは現代の田ノ浦漁港はなく、則ち、ピークの東北部を除く部分が岩礁であったと考えてよい。父子は鹿崎に舟を舫(もや)っておいたのだから、仙人は、このピークから鹿崎方向へ、ほいほいと軽い足で歩み、国土地理院図の水準点5.6の南にある、この小川(ストリートビュー)を一足で越えたのであろう(この川幅は、短く見積もっても、河口部で五メートル、少し遡っても、三メートルはある)。而して鹿崎の地名の記された箇所のここの斜面(ストリートビュー)を尾根に向かって軽々と一気に駆け上ったと私は考える。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡沖之嶋怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   幡多郡(はたのこほり)沖之嶋(なかのしま)怪異(かいい)

 「沖嶋」住(ぢゆう)、三浦氏、家僕(かぼく)、近年、沖嶋(おきのしま)の山中にて、異形(いぎやう)の物に逢(あひ)たる由。

 早朝、山へ、薪(たきぎ)を取(とり)に行(ゆき)けるに、山の尾崎(おさき)に、朝日に向ひ、立(たち)たるもの、有(あり)。

 ふと、見たるに、其尺、八尺[やぶちゃん注:二・四八メートル。]斗(ばかり)も有(ある)べし。

 火の如く赤き、髮を被(カブ)りて、立(たち)て居(をり)けるを見るに、身の毛、よだちて、二目(ふため)と見る事も怖敷(おそろしく)、地に伏(ふし)て居(をり)、良(やや)久敷(ひさしく)して、少し、首を擡(モタゲ)て見れば、何地(いづち)へ行(ゆき)けん、不知成(しらずなり)ければ、速足(ハヤあし)を出(いだ)して、山下(やました)へ迯歸(にげかへ)ける、と、なむ。

 飯沼半吾宅にて、右の僕(しもべ)、中川半右衞門に咄ける、と也。

 寛延二年八月十六日の事也。大方(おほかた)、「狒〻(ヒヽ)」成(なる)べし。深山には、たまたま、出(いで)て、人を害(そこな)ふ、と、いふ。

 又、谷氏の説には、

「四熊(シクマ)也。」

と云(いふ)。

 又、

「『猩〻《ひひ》』にても、可(あるべし)有。『猩〻は、髮、長く、色、赤き。』由(よし)。仁獸(じんじゆう)にて、物を不害(がいせず)。」

と、云へり。

 此(この)事、「胎謀記事」に見へたり。』。

 

[やぶちゃん注:前々篇前篇と同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の第三段落に本篇が載る。

「沖嶋」現在の島嶼住所である高知市宿毛市沖の島町にある「沖の島」(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『宿毛湾港』『から南西へ約』二十五キロメートル離れた『太平洋上に浮かぶ離島・有人島である。標高』四百四メートル『の妹背山』(いもせやま)『を中央に頂き、水量豊かな谷川がある。全島が花崗岩で形成されて』おり、『海岸部は大部分が断崖絶壁であり』、『平地は少ない』。『また、周りには透明度』三十『メートルの海が広がり、日本一の魚種の宝庫といわれている』とあり、また、この島は、『島内に令制国』時代『の国境があり、土佐国』と『伊予国にまたがってい』た、当時は特殊な島であったのである。

「山の尾崎」山の背の筋の端。尾根の先頭。

「飯沼半吾」土佐藩に飯沼半吾・飯沼友衛家系図が残る。

「中川半右衞門」不詳。

「寛延二年八月十六日」グレゴリオ暦一七四九年九月二十七日。

「狒〻(ヒヽ)」「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類 寺島良安」では、引用された「本草綱目」で、李時珍は、「猩猩」を、現在の真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科オランウータン(旧ショウジョウ)属 Pongo を想定していることは明らかである。無論、本邦にいるべくもない。次の、「四熊(シクマ)」も「ヒグマ」の近代(明治期)までの古称で、無論、違う。言わずもがなだが、ロケーション、及び、身長の高さ・赤毛の髪というところから、密入国した宣教師、或いは、難破した南蛮船乗組員の成れの果てと見て取れる。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡馬路村怪獣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   安喜郡(あきのこほり)馬路村(うまぢむら)怪獣(あやしきけもの)

 宝暦年中、安㐂郡馬路村に、怪敷(あやしき)獸、出(いづ)る。

 面(おもて)は、猫の如く、惣身(さうみ)、灰毛(はひげ)也。

 胴の丸(まろ)さ、五、六尺[やぶちゃん注:一・五二~一・八二メートル。]にして、長(ながさ)、七、八尺[やぶちゃん注:二・一二~二・四二メートル。]もありけるに、手足、無し。

腹行(ふくかう)する。

 髙き所か、岩抔(など)有(あり)て、行詰(ゆきづま)る時は、立(たち)て、先へ倒(たふ)れる、と也。

 里俗、名付(なづけ)て、「たてがへし」と、いふ。

 今、按(あんずる)に、「法華經」「譬喩品(ひゆぼん)」に、『更受蟒身(ヤマカヾチ)其形長大ニ乄五百由旬聾騃無足ニ乄蜿轉腹行』云〻。

 

[やぶちゃん注:前篇と同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の第二段落に本篇が載るが、上記の最終段落部はカットされている。また、この怪獣については、本記載以外のネット上の情報は皆無である。叙述を見るに、「猫」の顔や、「灰」色の「毛」に覆われていること、胴の廻りがえらく大きいことに目をつぶると、運動様態からは巨大な蛇であることは間違いない。この「ヤマカガチ」は漢字表記するなら、「山酸漿(やまかがち)」であり、「酸漿(かがち)」は鬼灯(ほおづき)の熟した赤い実が原義だが、これはそれを、上古以来、「ヤマトノオロチ」よろしく、爛々と輝く「山」中の蟒(うわばみ)=大蛇の二つの眼に喩えたものである。ただ、「カガチ」は必ずしも大蛇でなく、蛇の古名として用いられてきた経緯があり、ここで言っておくと、ヤマカガシ(爬虫綱有鱗目ナミヘビ(並蛇)科ユウダ(游蛇)亜科ヤマカガシ(赤楝蛇・山楝蛇)属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus )の語源は、これである。但し、認識が甘い人が多いが、ヤマカガシはニホンマムシ同様、立派な毒蛇である。ヤマカガシは「後牙類」(口腔後方に毒牙を有する蛇類の総称)で、奥歯の根元にデュベルノワ腺(Duvernoy's gland)という毒腺を持っている。出血毒であるが、血中の血小板に作用して、かなり速いスピードで、それを崩壊させる。激痛や腫脹が起こらないため、安易に放置し勝ちであるが、凝固機能を失った血液は、全身性の皮下出血を引き起こし、内臓出血から腎機能低下へ進み、場合によっては脳内出血を引き起こして、最悪の場合は死に至る。実際に一九七二年に動脈のヤマカガシ咬症によって中学生が死亡する事故が発生している。深く頤の奥で咬まれた場合は、至急に止血帯を施し、医療機関に直行する必要がある。水辺を好み、上手く泳ぐことも出来る。私は昔、富山の高岡市伏木の家の裏山の中型の貯水池で、悠々と中央を横切って泳ぎ渡る彼を見て、惚れ惚れしたのを忘れない。因みに、私は蛇好きで、全く平気の平左である。閑話休題。しかし、本篇の怪物級の蛇のモデルを「ヤマカガシ」に同定してはいけない。ヤマカガシの体長は一メートル二十センチメートル辺りまでで、匍匐する際に体を延ばしても、せいぜい見かけ上、一・五メートルほどに見える程度である。本邦に棲息する蛇の中で最も長くなるのは、ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora で、最大二メートルであるから、この「ヤマカガチ」のモデルは、百%、アオダイショウである。実は、つい先日、私の家の斜面に巣を持っているらしい巨大個体とやっと対面したが(前の月、私の連れ合いや、向かいの奥さんを道端で驚かしていた奴だ)、正味二メートルあった(彼らは、よく、体を、文字通り、奇麗に蛇行させて這うので、その時も二メートル超えかと、当初は思った)。ただ、この「髙き所か、岩抔(など)有(あり)て、行詰(ゆきづま)る時は、立(たち)て、先へ倒(たふ)れる」という匍匐行動は、本種や、ニホンマムシ・ヤマカガシでも普通に見られる運動形式である。というより、獲物や敵対動物(ヒトを含む)に対して、攻撃をかけたり、威嚇するために普通に行うものである。

「安喜郡馬路村」現在の高知県安芸郡馬路村(うまじむら:グーグル・マップ・データ)。この地名を聴くと、私は、ここを訪れたことがあった亡き親友永野広務(識字ボランティアとして行ったインドから帰国後、熱性マラリアによる多臓器不全で二〇〇五年四月に急性した)が、この村の名を懐かしそうに、何度も、「とっても、いい所だよ!」と語っていたのを、何時も思い出す。

「宝暦年中」一七五一年から一七六四年まで。徳川家重・家治の治世。

「たてがへし」これは、私は「縱(竪)返し」ではなく、「楯返し」のように思われる。

『「法華經」「譬喩品(ひゆぼん)」に、『更受蟒身(ヤマカヾシ)其形長大ニ乄五百由旬聾騃無足ニ乄蜿轉腹行「近世民間異聞怪談集成」では『聳験』となっているが、これは二字とも判読の誤りで、「聾騃」である。国立公文書館本27)を見れば、はっきりと判る。というより、実際に「法華經」の「譬喩品」の当該部を調べれば、一目瞭然なのだ。編者は、それを怠って崩し字を誤判読しているのだ。私は文字列が読めないので、「大蔵経データベース」で見たところ、この誤りを数分で発見出来た。この本、当時(二〇〇三年)、一万八千円もしたのに、原典に当たることをしていない、この初歩的ミスの為体は、何だ! と、大いに叫びたい気になったので、ここに晒しておく。それに直して、推定訓読すると(前に述べた通り、「やまかがし」ではおかしいのでこのルビは採用しない)、

   *

更(さら)に蟒(うはばみ)の身を受く。其の形、長大にして、五百由旬(ゆじゆん)[やぶちゃん注:三千五百キロメートル。]、聾(つんぼ)にて、騃(おろ)かして、無足(むそく)にして、蜿轉(ゑんてん)腹行(ふくかう)す。

   *

言っておくと、これは、仏法を信じない衆生が、死後、輪廻転生する具体例を掲げてゆく一節である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 豊永郷下土居村怪獣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   豊永郷(とよながう)下土居村(しものどゐ)怪獣(あやしきけもの)

 寬保二戌(みづのえいぬ)年六月、豊永郷下の土居村に、怪敷(あやしき)獸(けもの)、出(いづ)

 頭(かしら)は、牛の如く、大(き)さ八尺廽(まはり)[やぶちゃん注:頭部の廻り二メートル四十二センチメートル。]も有(ある)らんと、みゆ。

 首より上は、毛、赤く、又、角も、なし。

 首より下は、又、毛、黑し。

 胴の廽り、弐(に)丈[やぶちゃん注:六・〇六メートル。]も有(ある)らん。

 背は、くゞみ、手は短く、足は長し。

 人の如く、立(たち)ても、步む也。

 村の小川へ來り、深き所にて、水を浴(あび)ては、川原(かはら)へ、上(あが)り、休む。

 終日(ひねもす)、如此(かくのごとく)す。

 力(ちから)も、强きものと見えて、岩肌を起(おこ)す。

 村の者、恐れて、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。]斗(ばかり)、隔(へだて)て見るに、獸(けもの)、一日(いちにち)、有(あり)。

 翌日、隣村(となりむら)へ行(ゆき)、又、一日、有(あり)て、他村(ほかのむら)へ行(ゆき)、次㐧次㐧に、他(ほか)へ行(ゆき)て、終(つひ)に行方不知(ゆくへしれず)と也(なり)。

 一説に、𫪉龜の類(たぐひ)也。

 勝賀瀨山(しやうがせやま)にも、折々、出(いづ)る、と也。

「旱(ひでり)、續けば、出(いで)て、川辺(かはべ)に、のぼるもの也。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「豊永郷(とよながう)下土居(しものどゐ)村」現在の長岡郡大豊町(おおとよちょう:グーグル・マップ・データ)の旧豊永郷。近世では、現在の大豊町の内、北西部を除く大部分の地域を指す。「下土居村」は「ひなたGPS」の戦前の地図で確認でき、国土地理院図では、現在は「東土居」と「西土居」に分かれて地名が存続している。現在の土讃線「豊永駅」を含む吉野川上流右岸である。ロケーションは、さらに拡大した、この東土居と西土居の間に流れる「南小川」(みなみおがわ:両地図で明記されてある)が吉野川に流れ込む箇所である。

「寬保二年六月」グレゴリオ暦一七四二年七月二日から七月三十日相当。

「牛の如く」妖獣「川牛」がある。私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(22) 「川牛」(2)』の本文及び私の注を見られたい。そこでは、以下で述べるように、この妖獣の正体をニホンスッポンに同定している

「翌日、隣村(となりむら)へ行(ゆき)、又、……次㐧次㐧に、他(ほか)へ行(ゆき)て」先の地図で判る通り、下土居が吉野川への合流点であるから、まず、この南小川を遡上して、姿を消したということである。この川は概ね、グーグル・マップ・データ航空写真で示すと、国道四百三十九号(概ね右岸)に沿って流れがあり、京柱峠(きょうばしらとう)の手前で南東に折れたところ(小桧曽山(こびそやま)北西麓)が源流である。ざっくりと流域距離を実測してみたところ、十四・五キロメートルはある。但し、この川には十三の分流があるので、そのどこかに潜り込んだ可能性もある。

「𫪉龜」実は、これは、「近世民間異聞怪談集成」を採用したのだが、底本では、上部に「口口」を並べ、「一」を引いたように見え、国立公文書館本27)に至っては、それを「龜」に下方で合体させた一字のように書かれてある。ネットでも「𫪉」の読みさえも判らず、万事休すであったが、調べるうち、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の冒頭の第一段落に、本篇が載るのを見出し、そこでは『羆(ひぐま)の類なりしか』(文末表現の微妙な相違が気になる)とあった。しかし、狭義のヒグマは北海道にしかいないから、これはツキノワグマということになる(現在は、徳島県三好市東祖谷菅生(ひがしいやすげおい)にピーク(千九百九十五メートル)を持つ剣山(つるぎやま)周辺にしか生息していない四国では絶滅危惧種である。しかし、この漢字の下部(一字として考えた場合)は「熊」の崩し字では絶対になく、やはり「龜」である。また、本篇を現代誤訳したものが、サイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」の「豊永郷の怪獣」としてあるが、そこでは、『これは鼈(すっぽん)の仲間で』となっている。鼈の異体字にこの奇体な漢字はないが、叙述全体からは、「首より上は、毛、赤」いとか、「首より下は、又、毛、黑」いとし、「胴の廽り、弐(に)丈」という辺りに不審部分もあるが(沖縄県読谷村の「沖縄ハム総合食品」のスッポン養殖場で、甲長四十センチメートルで、体重七・九六キログラムが見つかっている)が、そもそも村人は恐れてかなり遠くから観察したものであるから、カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis の超大型個体を見間違えたとするのが、最も現実的ではあると思われる。

「勝賀瀨山(しやうがせやま)」既出既注であるが、再掲しておくと、現在の高知県吾川(あがわ)郡いの町(ちょう)(三村が二〇〇四年に合併して、その中の「伊野村」の名を継承して、ひらがな化したもの)の勝賀瀬地区。「勝賀瀨山」の山名は確認出来ないが、同地区内のピークとしては、「ひなたGPS」の国土地理院図の「602.8」が有力候補となろう。しかし、ここは四十一キロメートル以上南西に離れており、両地区の水系は繋がっていない。但し、ニホンスッポンは、陸上でも驚くべき速さで、長い距離を陸歩行出来る文字通り「怪獣並み」の離れ業をすることが可能であり、やや離れた別個の水系群を繋ぎながら遡って、この吉野川上流まで来ることは「絶対にない」とは、断言は出来ない。まあ、別な巨大個体とする方が現実的ではあるが。それに、古くから食用にされたニホンスッポンの近世の怪奇談は、実はかなりメジャーによくあるのである。絵入りの私の「北越奇談 巻之五 怪談 其五(すっぽん怪)」を見られたい。

2024/08/25

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 威德院全元嘉瑞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   威德院全元(ゐとくゐんぜんげん)嘉瑞(かずい)

 常通寺、脇寺、威德院、百年前の住僧を「全元」と云(いひ)、手習(てならひ)、子供、數々、指南す。

 梶浦孫作【今の孫作、祖父。】・瀨尾有閑【今の五郞衞門、祖父。】・森与兵衞【佐兵衞、祖父。】抔、手習に行(ゆき)し、と也。

 或時、庭の梅の木を、小蛇(こへび)、はひ上(のぼ)り、見る內に、尾の先、木の梢を、はなれける所に、須臾(しゆゆ)にして、寺中(てらうち)、大風(おほかぜ)にて、龍、起(のぼ)りける。

 其(その)折柄(をりから)、全元、長谷(はせ)へ登る支度(したく)最中成りしが、全元、甚(はなはだ)滿足にて、

「拙僧、長谷へ登る折から、かゝる嘉瑞の有(ある)事、直事(ただごと)に、あらず。我等、出世(しゆつせ)する瑞相也。」

とて、常通寺の現住「嚴唱法印」を初め、五臺山、其外(そのほか)、寺中(じちゆう)、數々、請招(せいせう)し、饗膳(きやうぜん)を取繕(とりつくろ)ひ、奔走し祝(いはひ)ける、と也。

 其後(そののち)、長谷へ登り、數年(すねん)、勤學(きんがく)、螢雪の功にて、昇進し、後には、「小池坊」の僧正に成(な)られける。

 右の梅、今、寺の式臺の前に、古木(こぼく)と成(なり)、朽(くち)て折(を)れけるに、近年、其根より、芽、立出(たちいで)て、存(そん)す、となり。

 

[やぶちゃん注:「常通寺、脇寺、威德院」「常通寺」は現在の高知市大膳町の東北部(現在の高知県立盲学校附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう)にあった真言宗賢法山(けんほうざん)悉地院(しっちいん)常通寺。本尊は千手観音。京都岩倉観勝寺(いわくらかんしょうじ:南禅寺南方直近の大日山の、この辺り)末寺。本書「南路志」によれば、元は岡豊(おこう:現在の南国市岡豊町(おこうちょう:この同町名を冠する複数の地区)にあり、賢法山悉地院安祥寺と称して、聖武天皇の御願によって行基が建立したとされる。その後、退転していたが、天文三(一五三四)年、長宗我部国親が再興し、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈等の七堂伽藍を建立、同十五年、国親の父兼序(かねつぐ)の菩提所とし、寺名も、その法号「覚誉常通」に因んで常通寺としたとされる。その後、長宗我部氏が大高坂(おおたかさ/おおたかさか)に築城を始めると(高知城の前身)、常通寺も石立(いしたて)村岩戸(いわど)に移り(現在の高知城南西の鏡川右岸の高知市石立町(いしたてちょう))、さらに山内氏入封後の寛永五(一六二八)年。小高坂(こだかさ)村(現在の高知城西方直近の高知市山ノ端町(やまのはなちょう))に移ったとする(平凡社「日本歴史地名大系」の「常通寺跡」の記載を、私が大幅に手を加えた)。「威德院」も当然、現存しない。

「全元」不詳。「百年前」とあるから、本書の完成は文化一〇(一八一三)年であるから、機械換算すると、正徳二(一七一二)年で、将軍は徳川家宣(同年十月病没)の治世。時代の家継の宣下は翌年三月。

「梶浦孫作【今の孫作、祖父。】」不詳。

「瀨尾有閑【今の五郞衞門、祖父。】」不詳。但し、土佐藩士系図に「瀬尾」は二家ある。

「森与兵衞【佐兵衞、祖父。】」不詳。但し、同前で、森与平が一家ある。

「長谷」知られた奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派総本山豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(はせでら)

「嚴唱法印」不詳。

「小池坊」長谷寺の本坊の別称。サイト「中世歴史めぐり」の「長谷寺 本坊」によれば、『本堂と谷を挟んだ南の高台にある』。『長谷寺復興のため豊臣秀長に招かれた専誉が入山した』天正一六(一五八八)年『の創建』で、『本坊は小池坊と呼ばれるが、専誉が根来寺の学頭時代の住居だった坊舎の名を受け継いでいるのだという』。『当初は本堂近くにあったが、第八世快寿が現在地に移』し、寛文七(一六六七)年、『四代将軍徳川家綱の寄進で再建』された。『護摩堂は三代将軍徳川家光の側室桂昌院の願いで造営されたのだという』。後、明治四四(一九一一)年『に焼失』し、『現在の建物は』大正八(一九一九)年『から』大正十三年『にかけて再建されたもの』であるが、『本坊・大講堂・大玄関及び庫裏・奥書院・小書院・ 護摩堂・ 唐門及び回廊・中雀門・土蔵・設計図面が重要文化財に指定されている』とあった。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 鼠李

 

Kuroumemodokimurasakisikibu

 

[やぶちゃん注:図は良安の評言の最後にあるように、「和」のキャプションがある右手のそれが、本邦の「紫式部」のそれで、左下方のそれが、「漢」のキャプションがある、中国の「鼠李」の図である。どこから引き出した絵かは書かれていないが、明らかに「三才圖會」の「鼠李」からの模写と思われる。注の最後を参照されたい。]

 

むらさきしきぶ 山李子  楮李

        烏巢子  牛李

鼠李      烏槎子  皂李

        鼠梓   椑【音卑】

チユイ リイ  【苦楸亦名䑕梓

        與此不同】

 

本綱䑕李生道路𨕙木高七八尺葉如李伹狹而不澤其

[やぶちゃん注:「𨕙」は「邊」の異体字。]

子於枝上四𨕙生生時青熟則紫黒色至秋葉落子尙在

枝又云其實附枝如穗人采其嫩者取汁刷染綠色

䑕李子【苦涼微毒】 治痘瘡黑䧟及出不快或觸穢氣黑䧟古

 昔無知之者惟【錢乙小兒直訣】必勝膏用之䑕李子黑熟者入

 砂盆擂爛生絹捩汁用石噐熬成膏收貯令透風毎服

 一皂子大煎桃膠湯化下如人行二十里再進一服其

 瘡自然紅活入麝香少許尤妙【如ム生者以乾者爲末水熬成膏也】

皮【苦微寒】 治大人口中疳瘡發背萬不失一䑕李根薔薇

 根各細切濃煎【忌鐵】盛銅噐重湯煎待稠瓷噐收貯毎少

 含嚥必瘥【忌醬醋油膩及肉】如發背以帛塗貼之神効

△按鼠李【俗云紫志木布】高五六尺葉似枔葉而畧團薄枝柔垂

 四月開小花毎葉間有花淺紫色結實紫色秋落葉後

 其子如穗遠視之則似萩花此與本草䑕李註相當也

 伹所圖之形狀略異故別出圖

 

   *

 

むらさきしきぶ 山李子《さんりし》 楮李《ちより》

        烏巢子《うさうし》 牛李《ぎうり》

鼠李      烏槎子《うさし》  皂李《さうし》

        鼠梓《そしん》 椑【音「卑《そ》」。】

チユイ リイ  【「苦楸《くしう》」も亦、「䑕梓《そしん》」

        と名づく《も》、此れと同じからず。】

 

「本綱」に曰はく、『䑕李《そり》、道路の𨕙《ほとり》に生ず。木の高さ、七、八尺。葉、李《すもも》のごとし。伹《ただし》、狹《せばく》して、澤《うるほ》はず。其の子《み》、枝の上、四𨕙《しへん》に生ず。生《わかやか》なる時、青く、熟する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、紫黒色。秋に至りて、葉、落ち、子、尙を[やぶちゃん注:ママ]、枝に在り。又、云ふ、「其の實、枝に附きて、穗のごとし。人、其の嫩《わかき》者を采り、汁を取《とりて、》刷《すり》≪て≫、綠色を染む。」≪と≫。』≪と≫。

『䑕李子《そりし》【苦、涼。微毒。】』『痘瘡≪の≫黑《くろく》䧟(くぼみ)≪たるもの≫、及び、出《いで》て快《こころよ》からざる≪もの≫、或いは、穢《けがれたる》氣に觸れて、黑《くろく》䧟《くぼめる》を治す。古-昔《いにしへ》、之れ、知る者、無し。惟《ただ》【錢乙《せんいつ》の「小兒直訣《しやうにちよくけつ》」。】、「必勝膏」≪のみ≫、之れを用ふ。䑕李子の黑く熟する者、砂盆(すりばち)に入れ、擂(す)り、爛《ただら》かし、生絹《すずし/きいと》にて、汁を捩《ねじりしぼり》、石噐を用ひて、熬《いり》て、膏と成し、收貯《をさめたくは》へ、風《かぜ》を透(とを[やぶちゃん注:ママ。])さしめ、毎《つねに》、一《ひとつの》皂子《くろきみ》の大《おほい》さ≪の量を≫、「桃膠湯《たうかうたう》」を煎じて、服す。化下《くわげ》≪すること≫[やぶちゃん注:いろいろ調べたが、意味不明。無理矢理、「一回目の服用が、体内で変化を加え、それが鎮まったステージに至るところの、」の意味で採ってみた。]、人≪の≫行《ゆくこと》、二十里[やぶちゃん注:明代の一里は五百五十九・八メートルであるから、十一・一九六メートルであるから、二時間二十分程。]如(ばか)り≪の時(とき)の後(のち)≫、再たび、一服を進《すすむ》。≪然(さ)れば、≫、其の瘡《かさ》、自然に、紅《あかく》活《いきいき》≪となれり≫。麝香、少許《すこしばかり》を入れて、尤《もつとも》妙≪なり≫【如(も)し、生《なま》の者、無《なく》んば、乾したる者を以つて、末《まつ》と爲《な》し、水にて熬《い》り、「膏」に成すなり。】。』≪と≫。

『皮【苦、微寒。】』『大人≪の≫口中≪の≫疳(はくさ)[やぶちゃん注:現代中国語の「疳」には、そのような用法はないが、進行した「歯槽膿漏」のことか。]、背を《✕→》發≪せる≫瘡を[やぶちゃん注:ここはそのままでは到底読めないので、勝手に返して読んだ。]治す。萬《まん》に一《ひとつ》を失はず。䑕李の根・薔薇の根、各《おのおの》細切《ほそくきり》、濃《こく》煎《せんじ》【鐵を忌む。】、銅噐に盛り、重湯《おもゆ》≪に≫煎≪じて≫、稠(ねば)るを待≪ちて≫、瓷噐《じき》[やぶちゃん注:磁器。]に收め貯へ、毎《つねに》、少≪し≫、含-嚥(ふく)む。必《かならず》、瘥《いゆ》【醬《ひしほ》・醋《す》・油-膩《あぶら》、及び、肉を忌む。】如(も)し、發《せるが》、背ならば、帛《きぬ》を以つて、之れを塗-貼(はりつ)くる。神効≪あり≫。』≪と≫。

△按ずるに、鼠李【俗に云ふ、「紫志木布《むらさきしきぶ》」。】高さ、五、六尺。葉、「枔(びさゝぎ[やぶちゃん注:ママ。])」の葉に似て、畧《ほぼ》、團《まろ》く、薄し。枝、柔《やはらかに》垂れ、四月、小≪さき≫花を開く。葉の間、毎《つね》に、花、有り、淺紫色。實を結び、紫色。秋、落葉の後《のち》、其の子《み》、穗のごとく、遠く、之れを視れば、則ち、萩《はぎ》の花に似たり。此れ、「本草」≪の≫「䑕李」の註≪と≫、相≪ひ≫當《あた》≪る≫なり。伹《ただし》、圖する所《ところ》の形狀、略《ちと》、異《こと》なり。故に別に圖を出《いだ》す。

 

[やぶちゃん注:これは、良安が、和漢の図の違いを気にして並べた如く、「鼠李」と「紫式部」とは、残念ながら、全くの別種である。

○「鼠李」は、双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ科Rhamnaceae(東洋文庫の本文解説初回の「鼠李」に附した割注は、この『(クロウメモドキ科)』である)

或いは、その下のタクソンである、

クロウメモドキ連Rhamneae

まで下げるか、或いは、属レベルの、

クロウメモドキ(黒梅擬:中文名「鼠李」)属 Rhamnus

或いは

中文名を「鼠李」とする Rhamnus davurica同学名のグーグル画像検索をリンクさせておく)

のクロウメモドキ類であり(「維基百科」の「鼠李科」及び「鼠李属」には驚くべき数の種群と種が羅列されてある)、とても絞ることが出来そうもない。取り敢えず、英文ウィキの“ Rhamnus davurica の記載を示しておくと、『中国・朝鮮・モンゴル・東シベリア・日本を原産とする。北米には、現在、外来種として分布している』。『本種は一般的なクロウメモドキ類と似ているが、茎は、より太く、葉も、より長い。原産地では、高さ十メートルに達する』。『葉は対生し、原産地では長十三センチメートル、幅六センチメートルに達する』。『雄花は長さ一センチメートル弱で、雌花は、それより、少し小さい。果実は核果で、種子が二つ入っている』。『原産地である中国では、運河の縁などの湿った場所に植生している』とある。

 一方、

「紫式部」は、シソ目シソ科Lamiaceaeムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica

である(東洋文庫の後注では、本種を『クマツヅラ科』Verbenaceaeとするが、これは古い「クロンキスト体系」(Cronquist system)や「新エングラー体系」(modified Engler system 又は updated Engler system)での旧分類である)。

 但し、

前のクロウメモドキの種群は、種によって、中国にも日本にも分布するし、ムラサキシキブも日中ともに分布する

しかし、今回は、クロウメモドキが、とんでもなく種が多いことから、両方を学術的に語ることが、かなり難しい。何故かというと、中国側の「鼠李」(クロウメモドキ類)を問題なく種同定することが、甚だ困難であるからである。これは、例えば、「コトバンク」の「日本大百科全書」と「ブリタニカ国際大百科事典」の項を見て貰っても、判る。前者は、

『北海道と本州の日本海側に分布する』。『漢方では干した果実を鼠李子(そりし)と称し、下剤とする。クロウメモドキ属は北半球を中心に約』百『種があり、日本には』七『種が分布する』

とする一方、後者では、

『日本特産』

と断言してしまっているからである。

 さらにぶっちゃけ、私的なことを言い添えておくと、私は二十代の頃、行きつけの飲み屋の老主人の美しい若い奥方から、ムラサキシキブの成長した若木を頂戴し、昔の今の家の猫の額の庭に植え、相応に大きく育てて、花も実も賞翫した経験がある関係上、どうしても語りたい欲求が異様に強く働いてしまうからである。しかし、それでは、「本草綱目」のクロウメモドキと解説のバランスが、とれなくなってしまう。ここは、懐かしい遠い記憶を抑えて、ウィキの「ムラサキシキブ」をリンクさせるに留めることとした。悪しからず。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「䑕李」([088-37b]以下)のパッチワークである。

「苦楸《くしう》」「中國哲學書電子化計劃」の「楸」の「康熙字典」の項に、『《曹植·名都篇》走馬長楸閒。又苦楸。』とあるのを見れば、これは、シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei としたい。そう時珍がそう認識している可能性が、先行する「𣾰」の中にあることを、私が注で指摘している。

「李《すもも》」バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属 Prunus

「錢乙《せんいつ》」(一〇三五年~一一一七年)は北宋後期の小児科医で、中国では「小児医学の鼻祖」と呼ばれている。

「小兒直訣《しやうにちよくけつ》」「小兒藥證直訣」が正式書名で、錢乙の著作中、唯一現存する小児科学書。東洋文庫版の巻末の書名注によれば、『上巻、脈證治法(小児の病の種類と症状)、中巻、記嘗所治法(実際の諸症の治療例)、下巻、諸方(薬)から成る』とある。

「必勝膏」中文(繁体字)のサイト「A+醫學百科」の「必勝膏」をリンクさせておく。ざっと見る限りでは、幼児の皮膚腫瘍疾患の性質(たち)のよくないものへの対症薬のようである。

「砂盆(すりばち)」擂鉢。この読みは東洋文庫のルビを採用した。

「桃膠湯《たうかうたう》」「株式会社癒雅 BtoB」の薬膳販売専用サイトのこちらによれば、『天然桃膠』『桃の樹膠』『天然植物コラーゲン』とし、『桃膠(とうきょう)とは桃の木から分泌された半透明の樹脂のことです。「桃の花の涙」とも言われ、古くから美容に貴重な薬膳食材です』。『桃膠(とうきょう)とは桃の木から分泌された半透明の樹脂のことです』。『日本ではあまり知られてないようですが、「桃の花の涙」とも言われ、中国では古くから仙薬として用いられており、滋養強壮や老化防止、特に美容効果が高い貴重な薬膳食材です』。『天然の桃の樹脂は真珠の粒ぐらいの大きさがあり、綺麗な琥珀色のものが一般的です。癒雅の桃膠は成分流出しないよう、桃の木から採った樹脂を直ぐに天日干しさせ無添加に仕上げております』。『水で戻すと』、十『倍ぐらいになります』。『白キクラゲや牛乳とあわせてデザートスープやドリンクを作る場合が多いです』。『味が優しくプリプリの食感で美味しい「桃膠」はいかがでしょうか』とある。なお、私は現代仮名遣で「とうこうとう」と読んでいる。このサイトの「とうきょう」の「きょう」は「膠」の呉音「キョウ(ケウ)」で読んでいる。私は、通常、漢字の音は、仏教用語等の特別な条件がない場合、迷わずに、漢音で読むことにしているための違いに過ぎない。

「其の瘡《かさ》、自然に、紅《あかく》活《いきいき》≪となれり≫」これは、瘡が潰れて陥没し、根を持って腫瘍化或いは壊死化しかけていたものを、正常な肌色に回復させることを言っていると採る。

「麝香」雄のジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に七種が現生する)の腹部にある香嚢(こうのう:麝香腺)から得られる分泌物を乾燥したもので、主に香料や薬の原料として用いられてきた。甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として古くから重要なものであった。また、興奮作用・強心作用・男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされて、本邦でも伝統的な秘薬として使われてきた。ジャコウジカ及び麝香の詳しい博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

 

少許《すこしばかり》を入れて、尤《もつとも》妙≪なり≫【如(も)し、生《なま》の者、無《なく》んば、乾したる者を以つて、末《まつ》と爲《な》し、水にて熬《い》り、「膏」に成すなり。】。』≪と≫。

「圖する所《ところ》の形狀、略《ちと》、異《こと》なり。故に別に圖を出《いだ》す」既に述べた通り、例の「東京大学」内の「三才図会データベース」の画像をトリミングして示す。絵の方は、かなり汚損を清拭した。

   

 

Sori1

 

Sori2

   *]

2024/08/24

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 濱田吉平幽霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   濱田吉平幽霊

 先年、浜田六丞(ろくじよう)と云(いふ)者、有(あり)。

 延宝二年の頃、茨木平右衞門、安喜浦(あきのうら)嶋村、甚太夫、六人[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]、浦々、銀取役に、橫目(よこめ)兼帶、不斷(ふだん)、浦〻、廽(まは)りし處、浜田六丞、吉井、平右衞門等(ら)、馴合(なれあ)ひ、公義の銀米(ぎんまい)を以(もつて)、手廽仕(てまはしつかまつる)處(ところ)、顯(あらは)れ、牢舍(らうしや)え、被仰付(おほせつけられ)、翌年、六月迄、色々、御吟味の上にて、右の者共、死刑に被仰付(おほせつけられ)ぬ。其身は勿論、子㐧(してい)迄も刑戮(けいりく)せられける。

 

[やぶちゃん注:ここで、複数の不審な疑問箇所を私なりに明らかにするために、ソリッドに注をする。長くなったので、前後を一行空けた。

「延宝二年」は一六七四年。家綱の治世で、土佐藩は第四代藩主山内豊昌(とよまさ)であった。藩主就任から僅か五年目の横領事件で、豊昌は剣術の達人であり、武術を奨励した人物であるから、この苛烈な処罰は納得出来る。

「安喜浦嶋村、甚太夫」ここで私が、読点を挿入したのには、慎重な配慮によるものである。これは、普通に読むなら、「安喜浦」の姓名が「嶋村甚太夫」とする人物の姓名と読まれるに違いない。しかし、そうすると、忽ち、以下で注する不整合が生じることになるのである。それに気づいた私は、前の二人は藩士であり、最後のこの「甚太夫」は、「安喜浦」の「嶋村」という村の、村内で村方役人を仰せつかった庄屋格の人物の名であろうと判断したのである。しかし、そのためには、江戸時代に、この「安喜浦」(あきのうら)に「しまむら」と読める村名がなくては、ならない。まず、「安喜浦」であるが、これは、旧「高知縣安藝町」であった現在の土佐湾に面した安芸(あき)市の江戸時代の海浜部を指す。平凡社「日本歴史地名大系」の「安喜浜村」によれば、正確には、当時は「安喜濱村(あきはまむら)」で、『安芸川河口付近は海上輸送の拠点ともされ、高知城下以東の政治・経済の中心地であ』った。『村名は』、『近世は安喜浜と記される場合が多いが、明治七年(一八七四)に安芸浜に統一された』とあった。そこで、調べてみたところ、ウィキの「安芸市」の「市町村合併と行政区域の変遷」の明治四(一八七一)年九月に実施された安芸郡行政区画全三十四区の中の、安芸郡第二十四区に含まれる村に『島村、別役村』(太字は私が附した。以下も同じ)を見出せた。次いで、明治二二(一八八九)年四月に行われた行政区画の町村制切り換え・合併のリストに、『奈比賀村、入河内村、黒瀬村、大井村、古井村、島村、別役村』が「東川村」(ひがしがわむら)となったことが判明する。そこでリンクされたウィキの「東川村(高知県安芸郡)」を見ると、『現在の安芸市の北東部、伊尾木川』(いおきがわ)『の上流域にあたる』とあった。そこで、今度は「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、ここで「東川村」を確認出来た。旧地図の東北部と南西部に「東川村」とあることから、かなりの広域の山深い一帯であることが判る。因みに、同じ箇所をグーグル・マップ・データの航空写真で見ると、この中央の南北の鬱蒼たる大森林地であることが判明する。点在する地名から、この地区は伊尾木川を導線として木材を切り出す生業に従事していた村落群であったと推定出来る。されば、この「甚太夫」は、そうした林業業者の元締めであったと考えてよかろうと思う。

「六人」「近世民間異聞怪談集成」で「六」を『(三)』とする補正傍注がある。国立公文書館本の当該部(24)では、正しく「三人」である

「銀取役」各種の漁村・農村・山村の農民を束ねている連中から、営業許可料その他を徴収する役目であろう。

「橫目(よこめ)兼帶」目付に同じ。武家の職名で、諸士の行動を監察し、その不正を摘発する役職。その役も兼任しているのだから、横領・汚職はやり放題ということになる。

「吉井」突如、出る姓名で、一見、不審だが、これこそが、「甚太夫」の姓と採れば、問題がない。

「銀米(ぎんまい)」役料・手数料ばかりでなく、農村の米の年貢米をも横領していたのである。

「牢舍え」江戸時代を通じて、かなり高い確率で、「へ」の代わりに用いられるので、最早、誤りとは言えない。

「子㐧(してい)」「㐧」は「弟」の異体字。当時、極悪な犯罪では、血縁者の連座は必然であった。

 

 然(しか)る處、六丞㐧(おとと)、濱田吉平(きちへい)と云(いふ)者、有(あり)、浪人にて有(あり)ける。

 男振(をとこぶり)、能(よき)若者にて、弓を、よく射(い)ける故、紀州へ弓修行に行(ゆき)、彼(かの)地に居(をり)ける故か、吉平事(こと)は、何の御構(おかまひ)も無く打過(うちすぎ)けるに、吉平、於紀州(きしうにおいて)、右の事を聞(きき)、甚(はなはだ)、不安(やすからず)思ひ、師匠へ斷(ことわり)を遂(とげ)て、國に歸(かへり)、陸目附役・橫山源兵衞方へ參(まゐり)、申(まうし)けるは、[やぶちゃん注:「陸目附」不詳。但し、古文書を見ると、確かに「陸目付」「御陸目付」という役職が、複数、確認出来る。読みは「をかめつめ」か。役職内容はよく判らぬが、古文書では、幕府から遣わされた人物にも、その肩書があるから、相当に藩内でも高位の目付であると知られる。]

「私(わたくし)義、濱田六丞㐧、吉平と申(まうす)者にて候。兄事(こと)、重き科(とが)を以(もつて)、死刑に被仰付奉(おほせつけたてまつられ)恐入(おそれいり)候。私義者(は)、他國に居(をり)申(まうす)都而(とて)、存不申(ぞんじまうさず)、此頃(このごろ)、於紀州承申候(きしうにおいてうけたまはりまうしさふらふ)故(ゆゑ)、急(いそぎ)、罷歸(かまりかへり)候。私義も、如何樣共(いかやうとも)可被仰付(おほせつけらるべし)。」

と屆(とどけ)ける。

 右、源兵衞より、此趣(このおもむき)、早速(さつそく)、及言上(ごんじやうにおよび)けるに、志(こころざし)を感じ思召(おぼしめし)て、成敗(せいばい)を、御赦(おゆる)し、切腹被仰付(おほせつけられ)、直(ただち)に、源兵衞、檢使にて、切腹致(いたし)ける。

「切腹の時、脇差の刄合(はあひ)を見申(みまうす)。」

由(よし)にて、

「自(みづか)ら股(また)を、一刀、試み、見事に、切腹致し、無殘所(のこすところなき)手際成(なり)し。」

と也(なり)。

 然(しかる)に、翌日、晝頃(ひるごろ)、源兵衞宅へ、案内(あない)乞ふ者、有(あり)て、申樣(まうすやう)、

「私義は、濱田吉平にて候。昨日者(さくじつは)御苦勞掛申(かけまうし)、忝存候(かたじけなくぞんじさふらふ)。申殘候(まうしのこしさふらふ)事、有之(これあり)、參(まゐり)候。」

と、申入(まうしいれ)ける。

 源兵衞、甚(はなはだ)、あやしく思ひけれども、吉平に、紛(まぎ)れなし。

 吉平、申けるは、

「只今、參候(まゐりさふらふ)事、別の事にあらず。紀州の師匠より、弓の許可の一卷を差越可申(さしこしまうすべく)、左候(ささふら)はゞ、封(ふう)のまゝ、火中(くわちゆう)、被成可被下候(なされくださるべくさふらふ)。右の段、申殘候故(まうしのこしさふらふゆゑ)、參(まゐり)候。」

と申ける故、源兵衞、

「如何にも。得其意候(そのい、えてさふらふ)。」

と請合(うけあふ)。

 扨(さて)、源兵衞、申けるは、

「水漬(みづづけ)を參(まゐり)候へ。」[やぶちゃん注:「水漬」「水飯(すいはん)」。柔らかく炊いた飯を、冷水で洗って、白っぽくふやかしたもの。夏の食用とした。「みづめし」「水づけ」「水飯漬け」とも言う。]

とて、檜物屋(ひものや)より、新敷(あたらしき)榧(ヘギ)を取寄(とりよせ)、新敷茶漬碗に、水漬をして、先ヘ、塩を添(そへ)て、出(いだ)しけるに、二杯迄、喰ひ、歸(かへり)ける、と也。[やぶちゃん注:「檜物屋」原義は、檜物(ひもの:檜(ひのき)の薄板を円形に曲げて作った器を作る職人。後には、一般に「わげもの」(曲げ物)を広く称した)を作り売る家、また、それを生業とする者を指すが、次の展開から、その原材料である薄板を取り寄せたのである。「榧(ヘギ)」「經木(きやうぎ)」。に同じ。木材を薄く削ったもので、食品の包装などに使用する。やや厚めの厚経木は曲げ物などに使用され、ヒノキ・スギなどが多く使用された。昔、これに経文を書いたことから、この名が出たとされる。ここでは、前者。後で「先ヘ、塩を添て」とある「塩」を置いたのが、「先」が「へぎ」、薄板を指しているのである。驚くべき正確にしてリアルな描写ではないか!

 勝手に、下橫目(したよこめ)・五右衞門【平尾弥五右衞門の事也。】、同役、淸太夫【内田喜兵衞事。今の喜兵衞、祖父也。】、兩人、相詰(あひつめ)て居(をり)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、吉平、歸る跡を、慕ひ行(ゆき)けるに[やぶちゃん注:秘かに尾行して行ったところ。]、橫山氏は浦戶町(うらどちやう)に居(をり)けるに、門(かど)を出(いで)て、「𣟧屋(ひしや)」が橫町(よこちやう)を、南へ、行(ゆき)ける。龍見長庵(たつみちやうあん)宅の、椎の木の本(もと)にて、見失ひける。

 𣟧屋は、昔、浦戶町、北の土手緣(どてぶち)に居(をり)たり。

 右、濱田六丞抔の科人は、淡輪四郞兵衞(たんなわしろべゑ)、下役也。

 此事(このこと)、「胎謀記事(たいぼうきじ)」に出(いづ)。

 

[やぶちゃん注:久しぶりに、実際にあった怪奇実話を読んで、非常に満足している。これは、稀れに見る、江戸の、徹頭徹尾、実録怪奇記録物で、ここまでリアルに書かれたものは、私の膨大な怪奇談の中でも、並び得るそれは、ちょっと見かけない。凄い!!!

「橫山源兵衞」サイト「四国インターネット」のこちら(検索での標題は「諸侍を方便討つ事」)の解説に出る『土佐介良』(けら)『城』(ここ:グーグル・マップ・データ)『主の横山氏の一族』の後裔であろう。

「平尾弥五右衞門」不詳。

「淸太夫【内田喜兵衞事。今の喜兵衞、祖父也。】」不詳。

「淡輪四郞兵衞」(?~元禄八(一六九五)年)は土佐藩家老で儒者であった野中兼山に認められ、万治元(一六五八)年、土佐高知藩の郷士となった。明暦かた万治年間の宇和島藩との境界争いでは、兼山を助けて働き、総浦奉行を務めた。著作に「淡輪錄」などがある。名は重信。姓は「たんのわ」とも読む(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」他に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここでは「たんな」と振る。

「浦戶町」現在の高知市浦戸(うらど)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。

「𣟧屋」不詳。

「龍見長庵」不詳。

「𣟧屋は、昔、浦戶町、北の土手緣(どてぶち)に居(をり)たり」吉平の霊が消えた場所が、よく特定出来ないのが、残念だが、「浦戶町、北の土手緣」となると、「ひなたGPS」で見ると、この中央附近で、そこから「南へ行」ったとあるが、戦前の地図を見ると、その真南は「南浦」という地名になって、その先は土佐湾、それも――湾のド真ん中――なのである! 陸から海へ歩いて黒潮寄せる南海へ姿を消す亡霊というエンディングも、これまた、見事ではないか!

「胎謀記事」同前の書のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。

 さらに、いろいろ調べている内、最後に国立国会図書館デジタルコレクションで、トンデモない関連記事を見つけた。「皆山集」『土佐之国史料類纂』第六巻 (社会・民俗(一)篇)編集委員平尾道雄他・一九七三年高知県立図書館刊)の「第十章 怪異談」のここにある「三、濱田基地平亡霊ノ事」である(右ページ終りに「四、井上新蔵好春御不審のケ条を受神ニ祈願得免事」とあるのは、誤って印刷してしまったもので、これは、次の次のページの頭にあるべきものである。その証拠に、「552」ページの最後は「553」ページの初行と繋がっている)。さて、これは、冒頭に「心の錦」からの抄出とあるのだが、内容の大枠は、本篇と完全に一致する。しかも、次のページ(「554」)には、本記事を『此事甚怪異成事誠しからす』(ず)『思ふ人有へけれとも』(べけれども)『慥成事成』と記し、『平尾老人ニ一座して直説聞たり』と記すのである! この『平尾老人』とは、当然、本文に出る亡霊を追跡した『下橫目』の『五右衞門』『平尾弥五右衞門』その人であるのだ! そこには、まず、前に須崎吉平が紀州から舟で、現在の高知県須崎市に着き、目的を土地の役人に正直に語って、私を搦め捕って高知へ送って下さい、と言ったところ、その誠実に打たれ、『からめるに及事ニあらす』(ず)『横山源兵衛方へ送状遣し可候間直々被参候と申からめさ』(ざ)『るよし尤成事也』とあるのである!! そして――その後には――官庁にあった書簿が記されてあるのだ!――この浜田六丞ら三人の処罰は『延宝六年卯六月刎首獄門ニ懸候事』とあり、吉平は、吉井平右衛門の子『吉井兵四郎』とともに『同年切腹被仰之』とあるのである!!!

 なお、この作品、私の好きな怪談作家田中貢太郎が「義人の姿」という題で現代語訳しているのだが、大昔に読んだので記憶になかった。というより、前半に部分を完全にカットして、生きている吉平が横山を訪ねてくるところから始まっており、今回、再読してみたが、この原古文を読んだリアルさは、望むべくもなく、ただの平板なクソ怪談目的の駄訳に終始していて、全く、ダメだ。因みに、「青空文庫」のこちらでそれは読める

2024/08/23

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 篠之實

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   篠之實(しののみ)

 享保庚戌(かのえいぬ)年、當國、所々(しよしよ)の山㙒(さんや)に、篠に実のなる事、夥(おびただ)し。

 其実、薏苡仁(ズヽダマ)の如し。可食(くふべし)。

 土民、寡婦・老幼(らうやう)となく、手毎(てごと)に、袋(ふくろ)・筐(はこ)やうのもの、携(たづさへ)て、取事(とること)、夥敷(おびただしき)事也。

 前代未聞也。

 其(その)取收(とりをさむ)る事、多きは、二、三石[やぶちゃん注:三百六十一~五百四十一リットル。]に及ぶ。

 農夫・嫠婦(リふ)[やぶちゃん注:「寡婦」に同じ。]、臨時の利德を得る事、勝(かつ)て[やぶちゃん注:ママ。「嘗て」「曾て」。]計(かぞ)ふべからず。

「是(これ)、畢竟(ひつきやう)、凶荒(きやうくわう)の兆(きざし)。」

と、古老の考(かんがへ)也。

 秋に至(いたり)、篠、悉く、枯(かれ)たり。

 

[やぶちゃん注:「篠」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科メダケ属メダケ Pleioblastus Simonii 。「ブリタニカ国際大百科事典」を引く(コンマを読点に代えた)。『イネ科のメダケ属の』一『種。関東南部以西、四国、九州に分布し、山野、河岸や海辺などに生える常緑のタケ。別名が多く』、『カワタケ、ナヨタケ、ニガタケなどと呼ばれる。地下茎で繁茂し、藪となって群生する。稈は高さ』六センチメートル『ほどになり、中空の円筒形で、上部は密に分枝し、節は低く、節』の『間は長い。葉は掌状に枝先から斜めにつく』。時折り、『開花をみるが、のちに枯死する。稈』(かん:十目に幹に当たる部分の学術用語)『は軟らかで粘性が強いので、ざる、うちわの骨。笛、建築用材に用いられる』とある。千葉県の「野田市」公式サイト内の「草花図鑑」の「メダケ(女竹)(イネ科メダケ属)」の解説PDF)が写真もあり、お薦めである。私は、今、住んでいる場所から、小学校卒業した三月、富山県高岡市伏木に転居したが、その直前の三月初め、家の傍の崖に密生していたメダケの大群落が花を咲かせたのを見た。実を食べた(味は覚えていない)。皆、枯れてしまった。

「享保庚戌年」享保十五年で、グレゴリオ暦一七三〇年。

「薏苡仁(ズヽダマ)」「數珠玉」は、私の好きな草で、イネ科ジュズダマ属ジュズダマ変種ジュズダマ Coix lacryma-jobi var. lacryma-jobi 当該ウィキを見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 吉田甚六宅光物

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   吉田甚六宅光物(ひかりもの)

「元祿十三年己卯(つちのとう)十月四日の夜、潮江村(うしほえむら)、吉田甚六、垣(かき)の下より、光物、出(いで)、一宮(いつく)をさして、飛(とび)ける。」

と也。

「初(はじめ)、其邊(そのあたり)、鳴る事、甚敷(はなはだしく)、牛の吼(ほゆ)るが如し。怪(あやし)みて見ける內(うち)、火玉(ひのたま)、出(いで)ける。其(その)音、雷(かみなり)の如く、照り渡(わたり)、數刻(すこく)の間(あひだ)、不消(きえざり)し。」

とかや。

「其火玉の出(いで)たる所、餘程、焦(こげ)ける。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:これは、所謂、「球電」と呼ばれる科学的には未だ解明されていない現象であろう。当該ウィキを参照されたい。

「元祿十三年己卯十月四日」元禄十三年は「庚辰(かのえたつ)」で元前年禄十二己卯年の誤りである。同年十月四日は、前月に閏九月があったため、グレゴリオ暦では一六九九年十一月十四日である。

「潮江村」(現代仮名遣「うしおえむら」)は高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示す。

「一宮」現在の高知市一宮(いっく)である。グーグル・マップ・データで、中央下に潮江地区を配し、そこから東北方向にあった一宮を右上に示した。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 土佐郡薊野山怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「薊野山」「薊野」は現行では「あぞうの」と読んでいるので、かく振った。グーグル・マップ・データの高知県高知市薊野で、高知市市街の東北直近の山間部で、東西と北を山に覆われた谷筋で、薊野山がどこなのかは、分からない。最も標高が高いのは、同地区の北西端である、「ひなたGPS」の国土地理院図の379.4メートルのピークである。]

 

   土佐郡(とさのこほり)薊野山(あぞうのやま)怪異

 齋藤平兵衞實純(へいべゑさねずみ)は、山崎嘉右衞門派の神儒の道を極め、生質(きしつ)、强精(きやうせい)にして、佛(ぶつ)を破り、怪異抔(など)は、曾(かつ)て、不用(もちひず)。薊野村に住ス。

 或時、山の上へ、

「鴨(かも)の引鳥(ひきどり)を、網にて取(とら)ん。」[やぶちゃん注:「引鳥」以下の割注にある通りで、「秋冬に日本へ渡って来て、越冬した渡り鳥が、春になって、北方の繁殖地へと帰ること。」を指す。]

とて、晚景、山へ至る【此山は春に至り、北へかへる鴨を取(とる)所也。】。

 此山には、魔所、有(あり)、人々、其所(そこ)を、よけて、鴨を待(まつ)也。

 平兵衞、恐れず、人の不行所(ゆかざるところ)に、行(ゆき)て、待つに、入相(いりあひ)[やぶちゃん注:黄昏時。妖魔が時。]過(すぎ)て後(のち)、空に、大成(おほいなる)鳥の、羽(はね)、ひらめく。

 則(すなはち)、平兵衞が上(うへ)也。

 宻(ひそか)に望見(のぞみみ)れば、五間[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]斗(ばかり)の羽也。

 得(とく)と、形を見る事、不能(あたはず)、惣身(さうみ)、すくみて、不動(うごかず)、漸々(やうやう)と、其所(そこ)を、はひ出(いで)、家に歸る。

 後(のち)、人に語(かたり)て、

「世に、天狗抔(など)といふもの、無きにも、あらず。」

とて、笑へり。

[やぶちゃん注:「齋藤平兵衞實純」(?~元文五(一七四〇)年)は土佐高知藩士で国学者。斎藤実之の子。父の跡を継ぎ、借用奉行。後に浦奉行を勤める一方、前に出た谷秦山(たにじんざん)に神道と儒学を学んだ。平兵衛は通称。著作に「明君遺事」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。

「山崎嘉右衞門」山崎闇斎(元和四(一六一八)年~天和二(一六八二)年)のこと。江戸前期の朱子学者・神道家で、名は嘉。嘉右衛門は通称。京の人。初め、僧となり、土佐で谷時中(たにじちゅう:谷秦山とは無関係)に南学を学ぶ。後、還俗し、失子学の純粋化・日本化に努め、門弟は数千人を数え、その学派を「崎門(きもん)学」派と称する。寛文五(一六六五)年、四十八歳で会津藩主保科正之に抱えられた。また、神道を修め、神道の「ツツシミ」に朱子学の「敬」を重ねた「垂加神道」を創始し、後世の尊王運動に大きな影響を与えた。著書に「垂加文集」・「文會筆錄」「中臣祓風水草(なかとみのはらへふうすいさう)」などがある。なお、前掲の谷秦山は、この闇斎の門人であった。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 香我美郡山北村笑男

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     香我美郡(かがみのこほり)山北村(やまぎたむら)笑男(わらひをとこ)

 樋口關太夫(せきだいふ)は、知行三百石にて、船奉行、勤(つとめ)ぬ。

 土佐國、「勝賀瀨山(しやうがせやま)の赤頭(あかがし)」・「本山(もとやま)の白姥(しろうば)」・「山北(きたやま)の笑ひ男」とて、三の怪獸、有(あり)ける。

 關太夫、知行所、山北に有(あり)ければ、或時、殺生(せつしやう)に行(ゆき)、山へ入(いら)むとせし時、百姓共、申(まうす)は、

「今日(けふ)、山へ御出(おいで)は無用に存(ぞんじ)候。所の者ども、申傳候者(まうしつたへさふらふは)、『一九十七(いつくじふしち)』と申(まうし)て、『月に朔日(ついたち)・九日(ここのか)・十七日(じふしちにち)には、此山へ入候得(いりさうらえ)ば、必(かならず)、「笑ひ男」に逢ふ。』とて、『半死半生の仕合(しあはせ)に罷成(まかりなる)。』と申候。」

と、いへば、關太夫、聞(きき)て、

「我等、役目に、『二月九日に舩を出(いだ)さぬ。』と云(いへ)る事は、あれども、『山へ不入(いらず)。』と云(いふ)事は、なし。今日(けふ)、九日也(なり)とて、何の遠慮の有(ある)べきぞ。」

とて、家來一人(ひとり)、召連(めしつれ)、山へ登りぬ。

 山腹(さんぷく)を往來して、雉(きじ)を、ねらひけるに、一町[やぶちゃん注:約百九メートル。]斗(ばかり)向ふの松林の端(はし)に、十五、六歲の小童(しやうどう)、出(いで)て、關太夫に、指をさして、笑ひける。

 次㐧(しだい)に、笑聲(わらひごゑ)、髙く成(なり)、小童、近(ちかづ)く程(ほど)、山も、石も、草木、みな、笑ふ樣(やう)に見へ、風の音、水の音迄も、大笑(おほわらひ)に響(ひびき)ければ、關太夫主從、坂を下り、迯歸(にげかへ)る。

「此笑聲、大忍鄕(おほさとがう)迄も、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。」

と也(なり)。

 家來は、麓にて、氣(き)を塞(ふさ)ぎぬ。

 百姓共、迎(むかへ)に來りて、無事に歸(かへり)けるが、其年過(す)ぎ、關太夫、病死するまで、耳の底に、笑ひ聲、殘りて、不斗(ふと)、其時の事、思出す時は、鐵砲、打込(うちこむ)やうに有(あり)し、とかや。

 

[やぶちゃん注:「香我美郡(かがみのこほり)山北村(やまぎたむら)」現在の高知県香南(こうなん)市香我美町山北(かがみちょうやまきた:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ。なお、現在は「やまきた」と清音であるが、ウィキの「香我美町山北」によれば、『かつて同区域に存在した香美郡山北村(やまたむら)』とわざわざ太字にしてあるので、古くは「やまぎた」と読んでいたことが判る)。この旧郡名は「香美郡」・「香我美郡」・「加々美郡」などとも書いたが、当該ウィキによれば、『郡名は「鏡」に由来すると言われ』、現在の同市の『香我美町』を冠する多数の地区は、『その名残であ』るとある。ここ一帯に確認出来る。

笑男(わらひをとこ)

「樋口關太夫」不詳。

「勝賀瀨山(しやうがせやま)の赤頭(あかがし)ラ」現在の高知県吾川(あがわ)郡いの町(ちょう)(三村が二〇〇四年に合併して、その中の「伊野村」の名を継承して、ひらがな化したもの)の勝賀瀬地区。「勝賀瀨山」の山名は確認出来ないが、同地区内のピークとしては、「ひなたGPS」の国土地理院図の「602.8」が有力候補となろうか。「赤頭(あかがし)ラ」は、当該ウィキがあるので引く(注記号はカットした)。『土佐国吾川郡勝賀瀬(現・高知県吾川郡いの町)に伝わる妖怪。赤い髪が太陽のように輝き、あまりに眩しくて』、『ふた目と見られないほどという』。二『本足で歩くが、その足元は笹やカヤなど草むらに隠れてよく見えず、人に危害を加えることもないという』。『江戸時代末期から明治時代初期にかけての作と見られる妖怪絵巻』「土佐化物繪本」には、「勝賀瀨の赤頭」『として記載されており、「山北の笑い女」「本山の白姥」と並んで土佐の』三『大妖魔の一つとされる。勝賀瀬』『で』、『ある者が』、『これに出遭い、朝日に向かったかのように再び見ることができなくなり、赤頭のもとを立ち去った後で』、『眼病を患って』、『失明しかけたが、手当てを受けてようやく治癒したという』。『江戸時代の』知られた『妖怪絵巻』である「百鬼夜行繪卷」にも『「赤がしら」という妖怪の絵が描かれている。同絵巻には名前と絵が記載されているのみで、どのような妖怪かは判明していない。赤い髪という特徴が土佐の赤頭と似ているのではないかとの指摘』『も存在するが、推測の域を出ていない』とする。同前者の絵本の絵もある。

「本山(もとやま)の白姥(しろうば)」「本山」は現在の高知県長岡郡本山町(もとやまちょう)。「ピクシブ百科事典」の「白姥」「しろうば」がある。それによると、『「勝賀瀬の赤頭」「山北の笑い女」と並ぶ土佐の』三『大妖魔の一つ』で、『「本山の白姥」として江戸末期~明治初期作の』「土佐化物絵本」に『名が掲載されているが、その姿やどのようなことをする妖怪なのかは一切不明である』。『白髪で白い服を着た老婆の姿が想像されているが、他の』二『者は妖怪画が存在しており、白姥のみ「土佐国三ツの妖魔随一本山の白姥」という紹介文しか記載されていないことから、名前しかわからないという設定自体が』現実安定世界を揺るがすところの『キモ』い『怪異である可能性がある』。『その他』、二『者の特徴である赤頭の赤、笑い女の若さとの対比という線も考えられる』。『もしかしたら今風の表現で言えば、認識阻害のスキルを持っているのかもしれない』と、判ったような、判らん記載である。

「山北(きたやま)の笑ひ男」ウィキには、「笑い女」を標題として、同様の妖怪が記されてある。『笑い女(わらいおんな)は、土佐国山北(現・高知県香南市)に伝わる妖怪。江戸時代末期から明治時代初期の作と見られる妖怪絵巻』「土佐化物繪本」に『記述がある。毎月』一日・九日・十七『日に山に入るとこれに遭い、半死半生になってしまうといわれた。「勝賀瀬の赤頭」「本山の白姥」と並び、土佐の』三『大妖魔の一つとされる』。『あるとき、樋口関太夫という者がこの言い伝えを無視し、家来たちを引き連れて山に入ったところ』、十七、八『歳程度の女性が関太夫を指差』(ゆびさ)『して笑っていた。次第に笑い声が高くなり、周りの石、植物、水、風までもが』、『大笑いしているように笑い声が轟いた。関太夫たちは慌てて逃げ帰った。家来たちは麓で気絶したものの、関太夫はどうにか無事帰還した。関太夫が死ぬまで、あの笑い声は耳に残っていたという』。『なお、文化時代の土佐の地誌』「南路志」(本書のこと)『に、これとまったく同じ物語があるが、題は「笑い男(わらいおとこ)」であり、登場する妖怪は女性ではなく、十代半ばの少年とされている。逃げ帰った関太夫が後にその笑い声を思い出すときには、耳に鉄砲を撃ち込まれたような音がしたという』。『「笑い女」の名の妖怪は、同じ高知の幡多郡宿毛市』(ここ)と旧『土佐郡土佐山村』(現在の高知県高知市土佐山)『にも伝わっており、夜の深山で姿を見せずに笑い声をあげるものといわれる』。『芸西村白髪』(ここ)『では、タカサデ山という場所に』二『人の老婆が山菜を採りに行くと、若い女が現れて笑い出し、老婆たちも』、『つられて笑い、女がいなくなった後も笑いこけ、その挙句に何日も熱病に侵されたという』(これはフウセンタケ科のオオワライタケやシロシビンを成分に持つオキナタケ科のワライタケ、ヒカゲタケなどの幻覚性キノコの摂食中毒症状と断定出来る。この手の擬似怪談は枚挙に遑がないが、よく纏めてある「柴田宵曲 妖異博物館 茸の毒」を強くお勧めする。以上の毒キノコの分類学名も、そこの私の注で示してある)。『香我美町(現・香南市)』(既に示したここ)『では、笑い女を退治した際に用いたという剣が、土居城の跡地』(ここ)『のツルギ様という祠に祀られている』。旧『土佐山村(現・高知市)では、笑い女は麦の熟す時分に現れるという』。旧『西土佐山村』(ここ)『では、山女郎が人前に現れて大笑いし、一緒に笑うと食われるといわれる』。『タヌキが笑い女の正体とされることもある』。『鳥山石燕による江戸時代の』著名な妖怪画集「今昔百鬼拾遺」に『「倩兮女(けらけらおんな)」という妖怪があるが、笑い声が恐怖を与えるという設定で描かれた妖怪であり、笑い男や笑い女と同種のものと解釈されている』とある。「土佐化物繪本」の「笑い女」の絵もある。個人的には、少年の方が、私は、いいな。

「二月九日に舩を出(いだ)さぬ」不詳。理由も、そのような記録も見出せない。

「大忍鄕」ここは、平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『中世末期には大忍郷を中心に広範な地が』、『紀州熊野社を領家とする荘園』であったとし、『現香我美町』(既に示したここ)『を中心に、土佐山田町』(ここ)『の東南の一部、香北町』(ここ)『の南部、および安芸郡芸西(げいせい)村』(ここ)『の北部にわたる』とあった。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 郁李仁

 

Niwaume

 

いくりにん 鬱李 車下子

      薁李 爵李

郁李仁 雀梅 棠棣

     【按今云山吹花亦

      名棠棣】

ヨツ リイ

 

本綱郁李生山中木高五六尺葉花樹並似大李惟子小

若櫻桃廿酸而香其花粉紅色詩小雅云棠棣之𬜻鄂不

韡韡乃是也人家園圃植一種枝莖作長條花極繁宻而

多葉不堪入藥【韡音委草盛皃】

[やぶちゃん字注:「皃」は「貌」=「㒵」の異体字。]

 畫譜云有粉紅雪白二種俱千葉甚可觀如紙剪簇子

 可入藥

郁李仁【甘苦】脾經氣分藥其性降故下氣利水治浮腫

 

   *

 

いくりにん 鬱李《うつり》 車下子《しやかし》

      薁李《いくり》 爵李《しやくり》

郁李仁 雀梅《じやくばい》 棠棣《たうたい》

     【按ずるに、今、云ふ、「山吹(やまぶき)」

      ≪の≫花も亦、「棠棣」と名づく。】

ヨツ リイ

[やぶちゃん注:下段の割注は良安が記したものである。]

 

「本綱」に曰はく、『郁李は、山中に生ず。木の高さ、五、六尺。葉も、花も、樹も、並びに、「大李《だいり》」に似る。惟(たゞ)、子《み》、小さく、櫻桃(ゆすら)のごとく、廿く酸《すつぱく》して、香《かぐは》し。其の花粉、紅色なり。「詩」≪の≫「小雅」に云はく、『棠棣の𬜻 鄂として韡韡(ゐゐ)たらず』と云≪ふは≫[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、乃《すなは》ち、是れなり。人家≪の≫園圃に一種を植《う》う≪は≫、枝・莖、長-條(ずわい)[やぶちゃん注:読みの表記は誤りで、歴史的仮名遣では「すはえ」で、「木の枝や幹から、真っ直ぐに。細く長く伸びた若い小枝。後に「ずはえ」ともなり、他に「すわい・ずわい・すわえぎ」とも言う。]を作《な》し、花、極めて繁宻《はんみつ》にして、《✕→なり。而れども、その内、》葉≪の≫多≪き、その一種は≫[やぶちゃん注:「多葉」は「ㇾ」点はないが、意味をすんなり通すために敢えてやった。]、藥に入《いるるに》堪へず【「韡」は、音、「委」。草《くさ》≪の≫盛《さかん》なる皃《ばう》。】。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「皃」は「貌」=「㒵」の異体字。]

「畫譜」に云はく、『粉紅・雪白の、二種、有り。俱に、千葉《せんえふ》[やぶちゃん注:葉が甚だ多く繁ること。]≪にして≫、甚だ、觀《み》つべし。紙を剪(き)りたるごとく、簇《むらがれる》子《み》、藥入』≪と≫。

[やぶちゃん注:この「畫譜」の部分は「本草綱目」の引用ではない。次の一行は「本草綱目」のものである。]

『郁李仁【甘、苦。】脾經氣分の藥。其の性、降《おろ》す故、氣を下《くだし》、水を利し、浮腫を治す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「郁李仁」とは、漢字表記で「庭梅」で「にはうめ(にわうめ)」であるが、花が梅の花に似ているだけの命名で、バラ科サクラ属ウメ Prunus mume とは、属タクソンで異なる、

双子葉植物綱バラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『中国語では郁李』(「維基百科」の「郁李」で確認した)。種小名は「ジャポニカ」だが、『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来した。観賞用のために広く栽培されている』。『落葉広葉樹の低木で、根元からひこばえを出して』、『株立状になり、大きさは』一・五✕一・五『メートル』『ほどの大きさになる。若木の樹皮は暗紫褐色で、次第に灰色を帯び』、『縦に裂ける。一年枝は赤褐色で無毛である』。『花期は』四『月で、淡紅色の花を咲かせる。花は雌雄同体で虫媒花である』。『実は甘い香りがし、径』一『センチメートル』『ほどの大きさになり、赤く熟して食べられる。パイやジャムなどに利用されることもあるが味はスミミザクラ』(サクラ亜科サクラ属スミミザクラ Prunus cerasus )『と似て』、『酸味が強い』。『各果実には種が一つ入っている。種から増やすことが一般的であるが、取り木』(とりき:立木の幼枝や若枝の一部から発根させ、または根から発芽させたものを切り取って新たな株を得る方法。参照した当該ウィキの一方法の模式図をリンクさせておく)『でも増やせる』。『冬芽は鱗芽で互生し、卵形や球形で』、五~六『枚の芽鱗に包まれており、一カ所に数個つく。花芽は球形で、葉芽は小さな卵形をしている。葉痕はほぼ腎形で、維管束痕が』三『個つく』。『森林地帯や日当たりの良い場所で発見された植物で、水はけは良いが湿り気のあるローム状の土を好み、ややかげる程度か日向を好む。土壌中にいくらか石灰が入っているほうが良いが、多くなくて良い』。『果実は乾燥させて利尿薬にする』。『ニワウメの仁は汎用性が高く』、『下剤、利尿剤、血圧降下などに使われ、便秘、浮腫、不眠症に内服として処方される』。『仁以外もまれに利用される。たとえば根は便秘、子供の熱、歯の問題などに利用される』。『葉は緑の染料となり、実は灰色がかった緑の染料になる』。以下、『品種および変種』として、品種七種、及び、変種十八種が、学名のみで列挙されてある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「郁李」([088-35b]以下)のパッチワークである。

「按ずるに、今、云ふ、「山吹(やまぶき)」≪の≫花も亦、「棠棣」と名づく」バラ目バラ科サクラ亜科ヤマブキ属ヤマブキ Kerria japonica は、「維基百科」の同種のページの標題中文名は「棣棠花」であるが、「維基百科」の「棠棣」の「見よページ」に、まことに親切にも、『・郁李,薔薇科落葉灌木之別名。』と『・棣棠花的别称。』が並置されてある。なお、ヤマブキの種小名も、これまた「ジャポニカ」だが、ヤマブキも日本固有種ではなく、東アジアに広く分布し、中国にも植生する。

「大李《だいり》」「跡見群芳譜」の「桜花譜」の「すもも(李)」のページの、スモモ属 Prunus の種群の解説中に、バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)の異名に『毛櫻桃・山豆子・梅桃・山櫻桃・大李仁』とあったので、本種に同定する。

『「詩」≪の≫「小雅」に云はく、『棠棣の𬜻 鄂として韡韡(ゐゐ)たらず』と云≪ふは≫』「詩經」の「小雅」(主に宮廷貴族の宴会の詩や述懐の詩をメインとしたもの)の「鹿鳴之什」の「常棣」の最初の四句の頭の二句である。「中國哲學書電子化計劃」のここで確認した。全文の訓読が、江守孝三氏の膨大な漢籍のサイト内の「《詩經-朱熹集傳》 読み下し・訳」で視認出来る。

「畫譜」複数回、既出既注。初回の「木蘭」を見られたい。

「粉紅・雪白の、二種、有り」これは品種・変種の違いかも知れないが、別種でなく、個体の花びらの色違いの可能性もあるように思われる。何故なら、グーグル画像検索「Prunus japonica」を掛けると、花弁が、鮮やかな紅色のものと、すっかり白いものとが、混在して出ており、白いものを見ても、記載は品種・変種ではないからである。

「脾經」東洋文庫の後注に『足の太陰脾経。身体をめぐる十二経脈の一つ。巻八十二香木類肉桂の注一参照。』とある。私の「肉桂」の注の「足少陰太陰經」の中に記されてあるので、参照されたい。]

2024/08/22

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 槿花宮

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。なお、底本では、途中の「或書に云、……」の部分が、行頭から始まっているが、明らかに、続いた記載であるからして、無視して、繋げてある。「近世民間異聞怪談集成」でもそのように処理されてある。]

 

   槿花宮(きんくわきゆう)

 窪川(くぼかは)に「飴牛ヶ渕(アメウシがふち)」と云(いふ)有(あり)。

 其(その)川下(かはしも)に「鵜(う)の江(え)」と云(いふ)小(ちさ)き山、川中(かはなか)に有(あり)。水は、兩方へ、流るゝ也。

 土佐の言傳(いひつた)へは、「徃古(わうこ)、『仁井田五人衆(にゐだごにんしゆ)』の内、西京氏の息女、嫉妬、ふかく、右の渕に身を投(なげ)て、死(しし)ける。」と也。

 今に七月七日、右(みぎ)「鵜の江」に、旗など、過分(かぶん)、拵(こしら)へ、「施餓鬼」する、と也。

 右の女の墓の近邊へ行(ゆく)者あれば、忽(たちまち)に祟(たたり)ける故、恐れて行(ゆく)者、なかりし。

 法名、「槿花妙榮(きんくわみやうえい)」と云(いひ)、今に、位牌、其邊(そのあたり)の寺に有(あり)、とぞ。

 或書に云(いはく)、

『幡多郡志和城主和泉守の女(むすめ)は、容色無双の美人也。

 西原藤兵衞重助、娶(めとり)て、比翼のかたらひなる所に、或時、夫(をつと)藤兵衞に申(まうし)けるは、

「吾に怪しき事、有(あり)。暇(いとま)を賜り候へ。」

と、淚を流し、いひけるに、藤兵衞、

「是は。心得ぬ事を、きくも[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本の当該部(19)では「の」がある。脱字。]かな、異心(いしん)有(あり)ての事可成(なるべし)。」

と云へば、妻の云(いはく)、

「恥敷(はづかしき)事なれども、夜毎(よごと)に、吾、寐間(ねま)へ通ふ者、有(あり)。夢とも、現(うつつ)ともなく、忍び入りぬ。彼(かの)者、歸れば、夢の覺(さめ)たる樣に覺へ侍りぬ。其(その)移り香(が)、腥(ナマグサク)覺へ[やぶちゃん注:ママ。]候。いか成(なる)化生(けしやう)の所爲(しよゐ)にや。淺間敷(あさましく)覺え候へば、暇乞(いとまごひ)し侍る。」

と、聲を揚(あげ)てぞ、泣(なき)けれ。

 藤兵衞、

「扨(さて)も。不思義[やぶちゃん注:ママ。]成(なる)事の有(ある)ものかな。」

とて、祈禱抔(など)して在(あり)けるところは[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本の当該部(20)では、「か」とあり、「が」で躓かない。]、大永七年三月廿二日未刻(ふつじのこく)斗(ばかり)の事成(な)るに、女房、藤兵衞に向ひ、世の中の、はかなき事抔、語居(かたりをり)けるが、何心なく立(たち)て、

『緣(えん)の方(かた)へ行(ゆく)よ。』

と、見れば、庭の木の梢を、平地(ひらち)を行(ゆく)が如く、步(ありき)て、塀(へい)の上に立(たち)ける。

 藤兵衞、驚き、走り掛(かか)り、引留(ひきとめ)んとすれば、

「さらば。」

と云(いひ)て、塀より、飛落(とびおつ)るを見れば、廿尋(ひろ)斗(ばかり)の大蛇と成(なり)、渕の底に、入(いり)ける。

 藤兵衞は、斯(かか)る姿を見れも[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本の当該部(20)では「とも」とあり、「ども」で躓かない。]、流石に、名殘(なごり)、をしまれて、十方(とはう)に暮(くれ)て、歎(なげき)ける。

 斯(かく)て、程へて後(のち)、女房の父和泉守が召仕ふ次郞助といふ下部(しもべ)、草刈(くさかり)に出(いで)、川上にて、鎌を落(おと)したりければ、尋𢌞(たづねまは)るに、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、廣き㙒(の)に出(いで)たる。

 見馴(みなれ)ぬ所成(な)れば、足にまかせて行(ゆく)に、大成(おほきなる)築地(ついぢ)、有(あり)。

 門(かど)を初(はじめ)、家作(かさく)・結構、いふ斗(ばかり)なし。

 門內(かどうち)に、人、なければ、奧へ立入(たちいる)所に、一人の女、機(はた)、織(おり)けるが、

「それなるは、次郞助か。」

と、言(いふ)を見れば、藤兵衞が妻也。

 次郞助、驚き、

「何迚(なにとて)、爰(ここ)に渡らせ給ふぞ。君(きみ)の失させ玉ひて後(のち)は、御兩親の御歎(おんなげき)にて、御母君(おんははぎみ)は、終(つひ)に、歎き死(じに)に失玉(うせたま)ひぬ。御供して、歸らん。」

と申しければ、淚を流し、

「我、斯く成(なり)て後(のち)は、親の御歎、推量(おしはかり)、し、明暮(あけくれ)、悲敷(かなしく)思ふぞよ。去れども、前世(ぜんせ)の宿業(しゆくがふ)なれば、力(ちから)、なし。責(せめ)て、此有樣ながら、命(いのち)、ながらへ、子供、繁昌して有(ある)事を知(しら)せ度(たく)、今日(けふ)は、爰(ここ)の殿(との)も、『あみやうし殿』とて、是より、廿丁[やぶちゃん注:二・百八十二キロメートル。]斗(ばかり)、北に、『あみやうしが渕』の主(あるじ)也。それへ、慰(なぐさめ)に、眷属、引具(ひきぐ)し行(ゆか)れたり。能(よき)隙(ひま)成(な)れば、汝に此所(ここ)をも見せ度(たく)、汝が鎌を、隱せし也。其鎌は、此梯(きざはし)[やぶちゃん注:豪壮な邸宅であるから、「階段」の意で採った。]に掛(かけ)て有(あり)。取(とり)て歸(かへり)、父君(ちちぎみ)へ、此有樣(ありさま)を申上(まうしあげ)よ。構へて、他人へ、語るな。」

と、申ければ、次郞助、

「御子達(おこたち)は、いづくに御座候。」

と、申ければ、

「晝寐して居(を)る也。」

と、いふを、見れば、小蛇、いくらともなく踞(ウヅクマ)り臥(ふし)て、有(あり)。

 身の毛もよだつ斗(ばかり)なれども、さらぬ躰(てい)にて、

「いざ、殿の御留守の間に、古鄕(ふるさと)へ歸らせ玉へ。御供仕(つかまつ)らん。」

と、申しければ、女房、淚に、むせび、

「吾も、さは、おもへども、再び、人界(じんかい)へ歸る事、成らぬぞよ。汝は、殿の歸らぬうちに、急ぎ、歸れ。」

とて、川端に出(いで)ける。

 顧(かへりみ)れども、來りし道も、なく、その行衞(ゆくへ)は、なかりける。

 藤兵衞、是を聞(きき)、

「扨は。蛇道(じやだう)に落ちたる事の淺間敷(あさましく)、責(せめ)て、其(その)苦(くるしみ)を助(たすけ)ん。」

とて、祠(ほこら)を建(たて)、「槿花の宮」とぞ、号(なづけ)ける。

 女(むすめ)の父和泉守も、悲(かなし)みに堪へず、「志和の里」に、天神の宮、有(あり)けるを、一座に、祭り籠(こ)めて、「北㙒天神」・「今天神」とて、社壇を双(なら)んで、祭(まつり)ける。

 其後(そののち)、蛇道を免(まぬか)れたる託宣有(あり)しを、諸人(しよにん)、聞(きき)し、と、言傳(いひつた)へり。』。[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]

 

[やぶちゃん注:戒名中の「槿」は、今なら、双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus を指すが、疑問がある(最終注で出す)。

「窪川」現在の高知県高岡郡四万十町窪川(グーグル・マップ・データ)。次の注で示した「五社神社」の対岸(四万十川右岸)に当たる。現在は、地名としては、極めて狭い猫の額ぐらいしかない地区のように見えるのだが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、この四万十川が蛇行する右岸の非常に広い地域が、嘗つては、大きな「窪川町」であったことが判る。

『「飴牛ヶ渕(アメウシがふち)」と云(いふ)有(あり)。其(その)川下(かはしも)に「鵜(う)の江(え)」と云(いふ)小(ちさ)き山、川中(かはなか)に有(あり)。水は、兩方へ、流るゝ也』この淵名や山名(この場合は四万十川の流れの中にある岩礁帯か砂州の名である)確認出来ない。しかし、上流の五社の方から下流の窪川附近の流れを「ひなたGPS」の戦前の地図を拡大すると、二つのそれが、有意に確認出来る。ここをグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、ここである。さらに、上流のそれを拡大すると、ほぼ完全な岩礁であり、今はかなり平たく小さく、上流部は、かなり細かく風化が著しいことが判る。一方、その直近の下流の大きな方は、直線で図ると、四百メートルはある巨大な川中の島であり、人手は入っていない様子である(但し、現在は高くはない。ストリートビューで国道三百二十二号から見たが、はっきり見えない。グーグル・アースで見ても、完全な平地(基底は岩礁らしい)である)。通常、淵は、こうした蛇行した川中の岩礁の下流に形成され易いから、私は、この二つの箇所の下流のどちらかに、「飴牛が渕」はあったと考える。そして、『其川下に「鵜の江」と云小き山、川中に有』とあるからには、二つの川中の「島」の間(この中央)に、「飴牛が渕」があって、『「鵜の江」と云小き山、川中に有』というのが、下流方の大きな島を指すものと考えるものである。なお、「飴牛」とは飴色の毛色の牛のことで、上等な牛とされた。

「仁井田五人衆」個人サイト「山車・だんじり悉皆調査」の、高知県高幡地域の四万十町のリストの中の「高岡神社」の項で、『高岡神社は、五社さんともいわれ』る『五つの神社の集まり』で、『元は』、『仁井田大明神と言われる一つの社だったのを弘法大師が、五つの社に分けたと言われて』おり、『それぞれの神社は、独立した神社で戦国時代に仁井田(旧窪川町)を治めていた仁井田五人衆と言われる武家の神社で』あるとされた上で、『一の宮(東大宮)仁井田五人衆の東氏』、『二の宮(今大神宮) 仁井田五人衆の西氏』、『三の宮(中宮)仁井田五人衆の窪川氏』、『四の宮(今宮)仁井田五人衆の西原氏』、『五の宮(森の宮』、『又は、聖の宮)仁井田五人衆の志和氏』とあった。而して、「近世民間異聞怪談集成」では「西京氏」に編者による、「京」は『(原カ)』という右傍注が打たれてあり、さらに、国立公文書館本の当該部(19)では、はっきり「西原」とあるので、誤写決定である。この五社は、現在の四万十町仕出原(しではなら)の四万十川上流の右岸にある。グーグル・マップ・データで総て入るように示した。

「其邊の寺」最も近いと思われる寺院は、四国八十八ヶ所霊場第三十七番札所岩本寺であるが、同寺東の近くに日蓮正宗の開教寺もある。

「幡多郡志和城主和泉守」人物は判らぬが、この「志和城」は、先に調べたロケーションから、凡そ実測で四キロメートルほど、上流の、現在の高知県高岡郡四万十町七里(ななさと)にある「志和分城跡」がある(グーグル・マップ・データ)。「城郭放浪記」の当該城のページよれば、城主は西松兵庫とあった。別に志和城があったようだが、見つからなかった。

「西原藤兵衞重助」筑後守氏のサイト「長宗我部元親軍記」の「西原重助(生没年未詳)」に、『吉村(西原)清延の次男。清延は紀伊の住人だったが』、『土佐に来て一条氏に仕え』、『西原城主になったという』。『重助は長兄・則重と』、『その息子・重吉が、一条氏に従い』、『伊予で戦死したため』、『西原氏を継いだ』とあり、実在した人物でることが確認出来た。

「大永七年三月廿二日未刻」グレゴリオ暦換算で一五二七年五月七日午後一時から三時。因みに当時の将軍は足利義晴。

「あみやうし殿」冒頭に出た淵の名「飴牛ヶ渕(アメウシがふち)」の発音のズラしである。所謂、怪奇談でよく見られる呼称の呪的なズラしであって、現世の人間界とは異なる蛇道の異界の存在であることを示すための異読名称である。「古事記」の昔から、相手の名を正しく呼ばわった瞬間、その相手を征服出来るという「言上(ことあ)げ」に基づく呪術である。

『「志和の里」に、天神の宮、有(あり)けるを、一座に、祭り籠(こ)めて、「北㙒天神」・「今天神」とて、社壇を双(なら)んで、祭(まつり)ける』前にも紹介したサイト「四万十町地名辞典」の「志和」に、志和の『字「堂ケ原」は、元親の時代に槿花の宮があったところ(志和物語p28)』とあり、『地名の疑問』の中に、『2)槿花天神(今天神)』として、『槿花宮「おまん」の昔話は、鵜の巣の蛇界話だけでなく、志和轟の滝壺の大蛇秘剣の話、黒石・岡崎の山犬と鏡の話など数多い。今は天満宮の(北野天満宮)の境内へ』、『その尾の霊を祭ったものという。果敢ない槿(むくげ)の花の運命になぞらえて「槿花天神」と名付けた。槿花天神宮は弘見地区にもある』とする(この弘見地区はここで、目出度く「槿花天神社」も現存していた! ここはまさに、「窪川」と「志和」の中間地点に当たる。孰れもグーグル・マップ・データ)。『「高知県神社明細帳」の郷社・天満宮の段、及び窪川町教育委員会発行の「窪川町史蹟と文化財(p55)」に槿花天神の段として詳しく述べられている』。『「土佐一覧記」で川村与惣太は槿花を「朝顔」と詠んでいる。江戸時代「槿花」は木槿(むくげ)なのか』、『朝顔(あさがお)なのか』と疑義を示しておられる。私は「槿」が戒名由来であることから、安易に「むくげ」と読むのは抵抗があったのだが、この疑問は、私の拘りとよく連動する。「堂ケ原」は位置を確認出来なかったが、志和地区の「天満宮」はここに現存する(グーグル・マップ・データ)。ここは、先の「飴牛の渕」から東へ十キロほどの位置にある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 西寺怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「西寺」は室戸岬の西の根方にある第二十六番札所金剛頂寺(こんごうちょうじ)の別称。これは、室戸岬で、岬の先端部にある第二十四番札所最御崎寺ほつみさきじ)を「東寺」と呼び、その対称名である(孰れもグーグル・マップ・データ)。]

 

   西寺(にしでら)怪異

 文化元(ぐわん)子年(ねどし)[やぶちゃん注:一八〇四年。享和四年二月十一日(グレゴリオ暦一八〇四年三月二十二日に改元。]、西寺、大破にて、御作事(おんさくじ)、願出(ねがひいで)られしに、役人、見聞(けんぶん)有(あり)て、

「先(まづ)、當時御繕(まさにときにおんつくろふべき)にて、可濟(すむべし)。」

と、詮義、極(きはま)りけるに、西寺より、再願(さいぐわん)に、

「山中(さんちゆう)の良材、伐用可申間(きりもちひまうすべきあひだ)、何とぞ、御作事被仰付度(おほせつけられたく)。」

被願(ねがはれ)し故、其(その)儀に變(へん)じて、御作事、有(あり)。

 成就して、翌丑正月、役人・大工、一同に歸(かへり)ける。

 其二月初(はじめ)、上段と座敷との間、偶[やぶちゃん注:ママ。「隅(すみ)」。]の檜柱(ひのきばしら)の角(かど)を、何やら、くはへたる[やぶちゃん注:噛みついた。]と見へて、大成(おほきなる)歯の跡、三つ程、有(あり)。

 又、くはへ替(かへ)たるにや[やぶちゃん注:噛み変えたものであろうか。]、疊より、三尺ばかり上を、食(く)ひ裂ける歯の跡、數々、有(あり)。

 翌朝、寺主(てらぬし)、見付(みつけ)られ、

「何ぞ、入來(いりきた)るものや、有る。」

と、尋見(たづねみ)られけるに、座敷二方、雨戶指(あまどさし)にて、雨戶の立付(たてつけ)、五寸[やぶちゃん注:十五・二センチメートル。]斗(ばかり)、明(あ)き、有之(これ、あり)し由(よし)。

「外に何も替(かは)る事、無かりし。」

と也。

 否(いなや)[やぶちゃん注:ここは副詞で、「それを受けて、直ちに」の意。]、寺社方(じしやがた)へ屆出(とどけいで)、

「柱、取替可申哉(とりかへまうすべきや)。」

と被窺(うかがはせ)けるに、

「其儘(そのまま)、可置(おくべし)。」

由(よし)の御下知(おんげち)、有之(これあり)、とぞ。

 其後(そののち)、辰正月[やぶちゃん注:文化五年戊辰(一八〇八)年。]、平道、西寺へ行(ゆき)し時、見て來りける。

「誠に奇怪の事なり。」

と、語る。

 

[やぶちゃん注:前話の舟に噛みつく怪異「海犬」と、意識的に親和性を以って配したものであろう。この隙間なら、鼠や、夜行性の野生の獣類(或いは、その若い個体。例えば、狸。狸は木に登れる。当時、四国には既に狸がいた。但し、狐はいなかった)が入り込むのは容易である。

「平道」不詳。筆者の家人・下人の一人か、知人であろう。「ひらみち」と訓じておく。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 金櫻子

 

Naniwaibara

 

[やぶちゃん注:図の上半分に『「本草必讀」≪の≫圖』というキャプションを持った実(み)二個体の絵がある。「本草必讀」は、東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。]

 

のいばら  山石榴 刺梨子 山鷄頭子

 

金櫻子   山雞頭子

        【杜鵑花小蘗

         並名山石榴

         林檎何裏子

         亦名金櫻子】

キン イン ツウ   同名而異物也

 

本綱金櫻子叢生於山林閒大類薔薇有刺四月開白花

夏秋結實亦有刺黃赤色形似小石榴而長核細碎而有

毛冬熟采之熬作煎酒服寄餽人云補治有殊効

 

   *

 

のいばら  山石榴《さんせきりゆう》

      刺梨子《しりし》

      雞頭子《さんけいとうし》

金櫻子

       【「杜鵑花《さつき》」・「小蘗《きはだ》」、

        並びに、「山石榴」と名づく。

        「林檎《りんご》」・「何裹子《かかし》」、

        亦《また》、「金櫻子《きんあうし》」と

        名づく。】

キン イン ツウ   同名にして、異物なり。

 

「本綱」に曰はく、『金櫻子、山林の閒に叢生す。大《おほい》に薔薇《ばら》に類す。刺《とげ》、有り。四月、白≪き≫花を開く。夏・秋、實を結ぶ。亦た、刺、有り、黃赤色。形、小さき「石榴《ざくろ》」に似て、長し。核《たね》、細《こまか》に碎《くだ》けて、毛、有り。冬、熟して、之れを采る。熬《い》りて、煎酒《いりざけ》と作《なし》、服し、≪或いは、≫人に寄-餽(をく)りて[やぶちゃん注:読みはママ。「餽」は「贈(おく)る」の意である。]、「補治《ほじ》に、殊《こと》≪に≫、効、有り。」と。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:ここで、「金櫻子」として主文で語られているものは、日中ともに(但し、本邦では帰化植物である)、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科バラ属ナニワイバラ Rosa laevigata

である。「熊本大学薬学部薬用植物園」公式サイト内の「植物データベース」の同種の記載を引用する(コンマ・ピリオドを句読点に代えた。なお、当該の邦文ウィキは存在しない)。『中国南部の原産で、日本には暖地で野生化している。つる性常緑低木、茎はトゲがあり、毛は無い。葉は』三『出複葉、小葉は短柄をもち、楕円形、先端は尖り、基部はくさび型。縁には細かい鋸歯があり、両面無毛。花は小枝の先に』一『個』、『付き、大型で径』五~七センチメートル、『白色、花柄と萼筒にはトゲが多い。偽果は楕円形で、黄色に熟する』。「薬効と用途」の項。『偽果は下痢、頻尿、遺精などに用いる。葉は腫れ物や潰瘍に汁を外用する。花や根は偽果と同様の作用がある』。『花が大きく』、『病気や害虫も少ないため』、『観賞用に栽培される。江戸時代に』、『大阪の植木屋が普及したため』、『ナニワイバラの名がつけられた』とある。「維基百科」の「金樱子」によれば、『原産地は台湾・ラオス・ベトナム、及び、中国本土の長江以南の地域である』とする。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「金櫻子」([088-33b]以下)のパッチワークである。標題下の同名異物の列挙も、「釋名」で時珍が述べている内容である。

「杜鵑花《さつき》」本邦ではツツジ目ツツジ科ツツジ属サツキ Rhododendron indicum を指すが、サツキは日本固有種であるから、「サツキ」と良安がルビを振ってしまっているのは、アウトである。そもそも、

中文の「杜鵑花」はツツジ目 Ericales(中文「杜花目」)と、ツツジ属 Rhododendron(中文「杜鵑花屬」)で、二つの広義タクソン群を指し、

種としての本邦固有種「サツキ」は中文名「皋月杜

と言う。「維基百科」の同種をリンクさせておく(但し、日本固有種なので、記載は愛想もないもので、ゼロ解答に近い)。

「小蘗《きはだ》」これも前注と同様のアウトで、しかも二重に致命的にアウトである。

良安が振った「キハダ」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense var. amurense

であり、中文名は「黃蘗」「黃柏」(リンクは先行する本書のそれ)だからであるが、困ったことに、本邦で「小蘗」と書いて、「めぎ」と読む場合は、これまた、ジェンジェン違う、

キンポウゲ目メギ科メギ属メギ Berberis thunbergii の異名

であるからである。一方、前注と同じく、

中文で「小蘗」と言うのは、メギ科 Berberidaceae とメギ属 Berberis の総称

であるからである。これは、「維基百科」の「日本小檗」を見れば、歴然とする。

「林檎《りんご》」日中ともに、現在のタイプ種は、バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica である。ウィキの「リンゴ」によれば、『リンゴの原産地はアジア西部といわれ』、『北部コーカサス地方が有力視されている』。『DNA分析から、今日』、『食べられているすべてのリンゴの祖先植物は、カザフスタン東部に広がる天山山脈の斜面の森林に自生するマルス・シエウェルシイ( Malus sieversii )という野生リンゴの木であったことがわかっている』。『今から約』五千『年から』一『万年前に栽培植物化され、そこから好ましい性質を持つリンゴが徐々にシルクロード沿いに西に運ばれることになったと言われている』とある。一方、本邦で「和林檎」と漢字表記する、リンゴ属ワリンゴ Malus asiatica があり、ウィキの「ワリンゴ」によれば、『中国原産であり』、『日本に』は八『世紀頃』(『平安時代』)『に渡来したとされる。中国では「花紅」「沙果」「文林郎果」などと表記される』とあることから、ここは後者のワリンゴを比定すべきかとも思われる。

「何裹子《かかし》」不詳。東洋文庫は以上のルビをしながら、知らんふりである。識者の御教授を乞う。

「石榴《ざくろ》」日中ともに、フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum 。私の好きな樹。]

2024/08/21

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 海犬

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。標題は「うみいぬ」と訓じておく。なお、底本、及び、国立公文書館本ともに、「瀨尾氏筆記に云……」の行は、行頭で、一字、突き出て、話柄の新規起こしの形を採っているが、これは、明らかに続いた語りであるので(「目録」にも相当する独立標題は存在しないことからも断定出来る)、続き文とした。「近世民間異聞怪談集成」もそうした処理をしてある。

 

   海犬(うみいぬ)

 先年、内藤惣三郞、浦役(うらやく)の時、或(ある)浦にて、二月朔日(ついたち)の夜(よ)、猟舩(りやうせん)、沖へ乘出(のりいで)、魚を釣(つり)けるに、俄(にはか)に、浪(なみ)、立(たち)、舩も、危(あやう)く見へ[やぶちゃん注:ママ。]けるが、舩の舳(へさき)の方(かた)を、何かは不知(しらず)、かぶる[やぶちゃん注:「齧(嚙)(かぶ)る」で、「かじる」の意。]樣(やう)に聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、急ぎ、漕戾(こぎもど)り、漸(やうやく)、難(なん)を遁(のがれ)ける。翌日、見れば、幅五步(ぶ)斗(ばかり)の歯の跡、有(あり)て、何(なんの)齒成(なる)事、誰(たれ)も知(しる)人、なかりし。[やぶちゃん注:「五步」この「步」は、国立公文書館本でも同じなので、失われた原本自体のの「分(ぶ)」の通音誤記と思われる。距離単位の「步」(ぶ)はあるが、「一步」は一・八二八メートルで、「九步」となると、十六・四五メートルにもなってしまうからである(一人乗りの小舟で、これは、ない)。「五分(ぶ)」なら、一・五二センチメートルとなり、リアルである。]

 或古老の云(いふ)、

「『海犬』にて可有(あるべし)。」

とぞ。

 「瀨尾氏筆記」に云(いはく)、『幡多郡、外浦、内浦の事にか、其所(そのところ)は忘れたり。此浦の猟師、沖立(おきだち)して、夜分(やぶん)、歸帆の節、海中(うみなか)にて、舟を引留(ひきと)むゆゑ、漁人(れうじん)、あやしみ、樣々、祈念して、漸(やうやく)に、舟、進み得て、歸れり。「翌朝、楫(かぢ)を、改(あらた)め見れば、歯の跡、六、七ヶ所、有(あり)、其內(そのうち)、二ヶ所に歯の折込(をれこみ)たる有(あり)て、取(とり)たり。」と。宮林へ、もち來り、我も見たりしに、一つは、一寸斗(ばかり)も有(ある)べし。一つは、五步(ぶ)[やぶちゃん注:同前。]斗も有(あり)て、色、甚(はなはだ)、白し。「如何成(いかなる)ものにか、有(あり)し。」[やぶちゃん注:文末が終止形なのはママ。但し、寧ろ、強い疑問で、お手上げの、「一体、如何なる物のものであるかは、まるで判らぬ!」という正体不明への不安な詠嘆として、逆に、破格が、寧ろ、しっくりくる。]と、漁人も、いへり。』。[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]

 

[やぶちゃん注:この「海犬」とは、恐らく、中・大型のサメであろう。特に、不詳の「瀨尾氏筆記」の実見部で『色、甚、白し。』というのが、同定比定の極めつけとなる(以上の種までは同定出来ない。但し、候補は挙げられる。所謂、「人喰いザメ」がご希望ならば、本邦では、土佐湾が、ぎりぎり棲息域の北限に入る、軟骨魚綱板鰓亜綱メジロザメ目イタチザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier だろう)。御存知と思うが、サメの歯は、先端が尖った鋭い歯ばかりで、しかも、種によって、口吻内の上下の顎に六~二十列もあり、噛みついて歯が折れても、後続する予備の歯が繰り出すようになっている。そもそも、サメ類の歯そのものが、実は抜け易いのである。これは、ヒトの歯と異なり、歯を支える歯槽骨や歯根膜がないことによる。

「内藤惣三郞」不詳。但し、土佐藩士系図に「瀬尾」は二家ある。

「浦役」海村で、浦方や漁業を管理・巡察・警備する役目。藩から、海賊や不正を取り締まるために命ぜられた村の役職であろう。

「瀨尾氏筆記」不詳。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 谷秦山翁夢中之歌

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。原本では、上の罫線の外に頭書があり、『此條怪異部へ入ベカラズ』とある。この謂いは、無論、無視する。本篇、最初と最後に『「』と『」』があるのはママである。]

 

   谷秦山(たにじんざん)翁(をう)夢中(むちゆう)之歌

「正德壬辰十月廿六日、谷秦山翁の夢に、

   夕日さす日のくま川の河上に祝そ初る千世萬世を

といふ哥(うた)を見られし。

 此竒(このき)、正面は吉夢の樣(やう)なれども、翁の心に不叶(かなはず)、世を早くせん事を、兼(かね)て、はかり知られ、萬事(ばんじ)に付(つき)て、心を用(もちひ)られし、と也。

 夢より、七年のゝち、沒す、とかや。」

 

[やぶちゃん注:「谷秦山」(寛文三(一六六三)年~享保三年六月三十日(一七一八年七月二十七日))は儒学者・神道家。当該ウィキによれば、『名は重遠(しげとお)、通称は丹三郎、』秦山は号。『岡豊八幡(現・高知県南国市)の神職の』三『男として生まれる』。十七『歳の頃』、かの朱子学の一派「崎門学」(きもんがく)の創始者にして、また、「垂加神道」の創始者としても知られる『山崎闇斎・浅見絅斎につき、朱子学・神道学・暦学を学び』、三十二『歳の』時、『渋川春海について天文・暦学を学び、土佐南学を大成させるが』、四十五『歳の時』、第六『代土佐藩主の跡継問題で』、『無実の罪を受け』、『土佐山田の地に蟄居させられ』た。『土佐南学の学問は、長男垣守、孫真潮にも受け継がれ』、『門下生からは多くの人材が育ち、勤王運動に大きな影響を与えた』とあり、「香美市観光協会」公式サイト内の「谷秦山」のページには、より細かな事績が語られてあるので、読まれたい。

「正德壬辰十月廿六日」正徳二年十月二十六日(グレゴリオ暦一七一二年十一月二十四日)は、形式上は家宣の治世だが、実は家宣は十二日前の正徳二年十月十四日(一七一二年十一月十二日)に没している。次の第七代将軍として家継が宣下されたのは翌年四月二日のことであった。当時、家継は、僅か、数え五歳であった。

「夕日さす日のくま川の河上に祝そ初る千世萬世を」全部、平仮名で示す。

      *

   ゆふひさす

    ひのくまかはの

       かはかみに

      いはひぞそむる

          ちよよろづよを

      *

「七年のゝち」数え年と同じで、当該起年を足してあるのである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 長岡郡山田村與樂寺住持之歯

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   長岡郡山田村與樂寺住持之歯

 寛保三亥年、山田村、与樂寺住持、八十八歲也。七十八歲にて、一歯(いつし)、ぬけて、又、跡へ、齒、生ず、と、いへり。

 

[やぶちゃん注:私は、左の「親知らず」が(最近の若者の中には「親知らず」を生まれつき持っていない者が有意に多く出現している)、前の大臼歯に向かって押すように存在し、出てこず、痛みが起こったため、二十五歳の時、歯肉を切開して一時間もかけて抜歯した。根が異常な形状をした奇形歯であったためでもあった。面白かったので、歯科医に頼んで貰い、現在も所持している。この住持もそれで、前の歯が抜けた結果、「親知らず」が、すんなりと生えてきたものであろう。なお、私の母方の祖父は歯科医、叔父は歯科技工士で、母は歯科衛生士のようなことをやらされていた(大隅半島のど真ん中の岩川というド田舎で営業していたため、歯科以外の治療もやっていた。昔は、そんなもんだったのだ)。従って、私も歯科学には、人より詳しい。根で化膿した袋「チステ」(これが放置されて脳の視床下部に達すると、死に至る。現に私の勤めていた高校の女生徒がそれで亡くなっている)とか、神経を殺す猛毒の「アルゼン」(=砒素)とかね……。

「長岡郡山田村」現在の高知県香美市土佐山田町(やまだちょう)であろう(ひなたGPS)。

「與樂寺」前の地図の東北の位置に「豫岳」の地名が見える。グーグル・マップ・データで見ると、ここに曹洞宗萬松山(ばんしょうざん)予岳寺(よがくじ)がある。室町幕府八代将軍義政の頃の、長禄元(一四五七)年に山田氏の菩提寺として創建されたと伝える。「よがく」は「与楽」と音通なので、漢字表記を誤ったものと思われる。

「寛保三亥年」一七四三年。吉宗の治世。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 胡頽子

 

Nawasirogumi

 

ぐみ     蒲頽子 盧都子

       雀兒酥 半含春

胡頽子  黃婆

       【和名久美

        一名毛呂奈里】

ウヽ トイ ツウ 【本朝式云諸生子】

[やぶちゃん注:この最後の割注の「本朝式」は「延喜式」の方が通りが良いので、訓読では、そちらで示しておいた。

 

本綱胡頽子生平林閒樹髙六七尺其枝柔軟如蔓其葉

微似棠梨長狹而尖靣青背白俱有細㸃如星老則星起

如麩經冬不凋春前生花朶如丁香蒂極細倒垂正月乃

敷白花結實小長儼如山茱萸上亦有細星斑㸃生青熟

紅立夏前采小兒食之當果味酸濇核亦如山茱茰伹有

八稜軟而不堅核内白綿如𮈔中有小仁

子【酸濇】止水痢 根煎水治吐血不止者

葉【同前】能治喘咳劇者效如神甚者服藥後胸上生

 癮疹作痒則瘥也虛甚加人參等分名清肺散

  夫木 小山田の苗代くみの春過て我か身の色に出にけるかな爲家


木半夏【一名四月子又云野櫻桃】 本綱云其樹葉花實及斑氣味

 並與盧都同伹枝強硬葉微團而有尖其實圓如櫻桃

 而不長爲異耳立夏後始熟故俗呼爲四月子其核亦

 八稜大抵與胡頽子一類二種也

△按胡頽子大抵有三種其葉與實皆有少異耳【一種】當

 春月種苗時實熟大如小棗者名苗代胡頽子【一種】五

 月實熟大如棗而莖長五六寸下垂【一種】九月實熟小

 其大如櫻子而成簇

 

   *

 

ぐみ    蒲頽子《ほたいし》 盧都子《ろとし》

      雀兒酥《じやうじそ》

      半含春《はんがんしゆん》

胡頽子 黃婆《くわうばだい》

       【和名、「久美《ぐみ》」。

        一名、「毛呂奈里《もろなり》」。】

ウヽ トイ ツウ 【「延喜式」に云ふ、「諸生子《もろなり》」。】

 

「本綱」に曰はく、『胡頽子《こたいし》は、平《ひらたき》林《はやし》の閒《あひだ》に生ず。樹の髙さ、六、七尺。其の枝、柔軟にして、蔓のごとく、其の葉、微《わづか》に「棠梨(からなし)」に似て、長く狹《せばく》して、尖《とが》り、靣(おもて)、青く、背(うら)、白し。俱に、細《ほそき》㸃、有り、星のごとく、老《らう》する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、星、起《おこ》り、麩(むぎこ)のごとし。冬を經て、凋まず、春≪の≫前、花≪を≫生ず。朶《だ》[やぶちゃん注:花のついた枝。]≪は≫、「丁香《ちやうかう》」のごとし。蒂《へた》、極めて細くして、倒《さかさ》まに垂(たる)ゝ。正月、乃《すなはち》、白≪き≫花を敷《し》く。實を結ぶ。小≪さく≫長≪くして≫、儼《おごそか》に≪して≫、「山茱萸《さんしゆゆ》」のごとし。上に亦、細《こまか》なる星、有りて、斑㸃《はんてん》す。生《わかき》は、青く、熟せば、紅《くれなゐ》なり。立夏の前、采りて、小兒、之れを食ふ。果《くわ》に當《あ》つ。味、酸《すつぱく》、濇《しぶし》。核《たね》も亦、「山茱茰」のごとし。伹《ただし》、八稜(やかど)、有り、軟《やはらか》にして、堅からず。核の內《うち》、白綿《しろわた》ありて、𮈔(いと)のごとし。中《なか》に小≪さき≫仁《にん》、有り。』≪と≫。

『子《み》【酸、濇《しよく》。】水痢を止む。』≪と≫。『根は、水に煎じて、吐血≪して≫止まざる者を治す。』≪と≫。

『葉【同前。】は、能く喘-咳《せき》の劇(はげ)しき者を治す。效あること、神のごとし。甚だしき者は、藥を服して後《のち》、胸の上に、癮(かざ)[やぶちゃん注:腫物(はれもの)。]・疹(ぼろし)[やぶちゃん注:小さな吹き出物。]を生ず。痒(かゆがり)を作(な)せば、則ち、瘥(い)ゆなり。虛、甚だしくば、人參を加へ、等分にして、「清肺散」と名づく。

  「夫木」

    小山田の

     苗代(なはしろ)ぐみの

        春過ぎて

       我が身の色に

      出(いで)にけるかな 爲家


木半夏《もくはんげ》『【一名、「四月子《しがつし》」。又、云ふ、「野櫻桃《やわうたう/のゆすら》」。】』「本綱」に云はく、『其の樹、葉・花・實、及び、斑《まだら》・氣味、並びに、「盧都(ぐみ)」に同じ。伹《ただし》、枝、強≪く≫硬≪くして≫、葉、微《やや》團《まろく》して、尖《とがり》、有り。其の實、圓《まどかに》して、「櫻桃(ゆすら)」のごとくにして、長からざるを、異と爲《な》すのみ。立夏の後、始めて、熟す。故に、俗、呼んで、「四月子」と爲す。其の核《たね》、亦、八稜≪あり≫。大抵、「胡頽子」と、一類≪にして≫、二種なり。』≪と≫。

△按ずるに、胡頽子、大抵、三種、有り。其の葉と實と、皆、少異《しやうい》有るのみ。【一種は、】春月、苗を種《うう》る時に當≪りて≫、實、熟し、大いさ、小≪さき≫棗《なつめ》のごとくなる者、「苗代胡頽子(なはしろぐみ)」と名づく。【一種は、】五月に實、熟して、大いさ棗のごとくにして、莖、長く、五、六寸、下《さが》り垂《たる》る。【一種は、】九月、實、熟して、小《ちいさ》し。其の大いさ、櫻《さくら》の子(み)のごとくにして、簇《むらがり》を成す。

 

[やぶちゃん注:「胡頽子」は、グミ属 Elaeagnus ではあるが、この漢語=中文名は、その中の、本邦にも植生する、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目グミ科グミ属ナワシログミ Elaeagnus pungens

を指す。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。和名漢字は『苗代茱萸』で、『別名タワラグミ、トキワグミ。 盆栽としてはカングミの名で呼ばれることが多い』。『和名「ナワシログミ」は、稲の苗代』『を作る』四~五月頃に『果実が熟すグミで』ある『ことから名付けられている。中国名は「胡頹子」』(「維基百科」の「胡颓子」を見よ。但し、記載は極めて乏しい)。『日本の本州中南部(関東地方、伊豆半島以西)、四国、九州、および中国中南部に分布する。暖地に多く、海岸近くの山野や林縁に生える』。『常緑広葉樹の低木で、高さは』二・五『メートル』『ほどになる。茎は立ち上がるが、先端の枝は垂れ下がり、他の木にひっかかって』蔓『植物めいた姿になる。樹皮は灰褐色で皮目や縦筋があり、太いものは縦に裂ける。枝は褐色である。枝や葉の腋にはトゲがあり、若い枝は褐色の鱗状毛で覆われている。このトゲは枝の変異である』。葉は互生し、葉身は長さ』五~八『センチメートル』『の楕円形で、質は厚くて硬い。葉縁は全縁で』『多少』、『波打つ。新しい葉の表面には一面に星状毛(鱗状毛)が生えているため、白っぽい艶消しに見えるが、成熟するとこれが無くなり、ツヤツヤした深緑になる。裏面には褐色から銀色の鱗片が多い』。『開花期は秋』の十~十一月。『葉腋に数個の花をつけ、萼筒は淡褐色で長さ』六~七『ミリメートル』。『果期は翌年の』五~六月頃。『果実は長さ』一・五センチメートル『ほどの長楕円形をしている』。『冬芽は裸芽で、幼い葉が複数集まり、褐色の鱗状毛に覆われている。側芽は互生する。葉痕は半円形で、維管束痕が』一『個つく』。『公園木、海岸の砂防用、庭木として植栽されている。果実(正確には偽果)は春に赤っぽく熟し食べられる』。『葉にはウルソ酸(ursolic acid)オレアノリン酸(oleanolic acid)、クマタケニン(kumatakenin)、ルペオール(lupeol)、β-シトステロール(β-Sitosterol)、3,7-ジメチルカエンフェロール(3,7-Dimethyl kaempferol)などの成分が含まれる。中国では生薬として「胡頽子」(こたいし)の名で』、「本草綱目」・「本草經集註」『などに記載がある』。「本草綱目」は『葉の性質を「酸、平、無毒」とし、咳、喘息、喀血、出血、癰疽に効用があるとする』とある。因みに、これは「本草綱目」では、まず、『子氣味酸平無毒』とし、次いで、『根氣味【同子】』続き、『葉氣味【同子】』とあるのである。本ウィキの記事は、当該種の樹木の広義の「利用」の項にあるのだから、ここは子(み)・根・葉の総てが、そうした基本性質を持ち、それぞれに薬効が書かれてあるのだから、書き方としては、甚だ不公平にして不全であると言わざるを得ない。

 なお、本邦には、他に夏に熟する変種ナツグミ Elaeagnus multiflora var. multiflora (後述する)、秋に熟するアキグミ Elaeagnus umbellata  、蔓性常緑で初夏に熟するツルグミ Elaeagnus glabra 、ナツグミに似て大型の食用に栽培される変種トウグミ Elaeagnus var. hortensis 及び、同様の変種ダイオウグミElaeagnus var. gigantea など、約十五種がある。商業的にはあまり利用されないが、庭などで栽培されているのを、よく見かける。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「胡頽子」([088-32a]以下)のパッチワークである。

「棠梨(からなし)」中国では、バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科ナシ属Pyrus betulifolia(中文名「杜梨」。異名に「棠梨」「甘棠」)を指す。本邦では、現行、カラナシで「奈」「唐梨」と漢字表記するものは、ナシ類ではなく、「リンゴ」(良安の生きた時代は、現在のバラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica は伝来しておらず、日本に古くに中国経由で齎されたリンゴ属ワリンゴ Malus asiatica しかなかった)、或いは、「カリン」(バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis 当該ウィキによれば、『日本への伝来時期は不明であるが』、『江戸時代に中国から渡来したといわれる説もある』とあるので悩ましい)を指すが、これ以上、突っ込むと底なし沼になるので、悪しからず。

「丁香《ちやうかう》」これは、所謂、「クローブ」(Clove)のことで、バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum である。

「山茱萸《さんしゆゆ》」ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ亜属サンシュユ Cornus officinalis 。先行する「山茱萸」を参照されたい。

「水痢」固形物のない水様の下痢。

「癮(かざ)・疹(ぼろし)」既に割注したが、東洋文庫訳では、この二字を熟語として『癮疹(ぶつぶつ)』とする。

「清肺散」不詳。漢方薬に「清肺湯」はあるが、複数調べたが、本種を含まない。

「夫木」「小山田の苗代(なはしろ)ぐみの春過ぎて我が身の色に出(いで)にけるかな」「爲家」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原為家の一首で、「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14068」)。

「木半夏《もくはんげ》」先に出した変種ナツグミ Elaeagnus multiflora var. multifloraの中文名。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『日本の本州関東・中部地方(福島県から静岡県の太平洋側)、四国に分布し、山野に自生する。庭などにも植えられる』。「維基百科」の同種の「木半夏」には、『東アジア原産で、ヨーロッパや北アメリカでは園芸植物として利用されており、アメリカ東部では帰化種となっている』とある)。『落葉広葉樹の小高木。枝はよく分枝する。樹皮は暗灰褐色で皮目があり、若木のうちは』、『なめらかで皮目が多いが、太くなると縦に裂ける。若い枝には褐色を帯びた鱗状毛が密生し、赤褐色に見える。果実や葉の表面には、うろこ状の毛がある。葉は互生し、長さ』三~十『センチメートル』『の長楕円形から倒卵状長楕円形で、表面にある灰白色の鱗片は』、『やがて』、『脱落するが、裏面には灰白色と褐色の鱗片が残る』。『花期は』四~五月頃で、『葉のつけ根に』一、二『個の淡黄色の花が垂れ下がって咲く。花弁に見えるのは萼(萼筒)で、長さは』七~八『ミリメートル』『あって先端が』四『裂する』。『果期は』五~七月で、『果実は偽果で、長さ』十二~十二ミリメートル『の広楕円形をしており、長さ』二~五センチメートル『ほどの果柄がついて』、『アキグミよりも長い。果実は赤く熟すと、少し渋いが食べられる』。『冬芽は裸芽で』、『幼い葉が』、『複数』、『集まり、褐色の鱗状毛が密生する。枝先の頂芽は側芽よりもやや大きく、側芽は枝に互生する。葉痕は半円形か三角形で、維管束痕が』一『個』、『つく』。以下、「品種」の項に、

変品種ホソバナツグミ Elaeagnus multiflora var. multiflora f. multiflora(狭義のホソバナツグミ)

変種トウグミElaeagnus multiflora var. hortensis(本種はよく植栽されており。ナツグミ・トウグミは、よく似ているが、『葉の表をルーペで拡大し』、『鱗状毛があればナツグミ、星状毛があればトウグミである』)

ダイオウグミ Elaeagnus multiflora var. gigantea(『特に果実が大きい。ビックリグミともいう。鑑賞用兼食用(果実)として栽培されることが多い』)

とあった。

「盧都(ぐみ)」「維基百科」の「胡頹子」の異名に『盧都子』を確認出来る。

「櫻桃(ゆすら)」この良安の読みは――完全なるハズレ――であるので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

×バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

○サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

『【一種は、】春月、苗を種《うう》る時に當≪りて≫、實、熟し、大いさ、小≪さき≫棗《なつめ》のごとくなる者、「苗代胡頽子(なはしろぐみ)」と名づく』既に注した、ナワシログミ Elaeagnus pungens

「【一種は、】五月に實、熟して、大いさ棗のごとくにして、莖、長く、五、六寸、下《さが》り垂《たる》る」同前で、変種ナツグミ Elaeagnus multiflora var. multiflora

「【一種は、】九月、實、熟して、小《ちいさ》し。其の大いさ、櫻《さくら》の子(み)のごとくにして、簇《むらがり》を成す」同前で、ツルグミ Elaeagnus glabra 。]

2024/08/20

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小河平兵衞怪異

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   小河平兵衞怪異

 

 金吾中納言秀秋の士に、小河平兵衞(おがはへいべゑ)と云(いふ)者、有(あり)。武功も有しとかや。

 秀秋、滅亡のゝち、加賀に、しるべ有(あり)て、暫(しばらく)、住居せしが、

『兎角(とかく)、便(たより)を求(もとめ)て、身をも、立(たて)ん。』

望(のぞみ)、有て、加賀を出(いで)つ。

 此時、家に在(あり)し道具、又は、我(わが)手柄にて得たる感狀等を妻に預け、

「吾(われ)、何國(いづく)にも有付(ありつけ)なば、迎へ可取(とるべし)。」

と約諾(やくだく)して、西國に下り、當國の家臣、深尾主水(もんど)殿に、少々、しるべ有(あり)て、主水殿方へ、來(きた)る。

 主水殿、懇(ねんごろ)にもてなし、

「貴辺(きへん)は、人の下に居(を)るべき人に非(あら)ず。暫(しばし)、堪忍して、某(それがし)が方(かた)に居玉(をりたま)へ。折(をり)を以(もつて)、進め、知行(ちぎやう)に、つかせん。」

と約して、かくまひ置ける內(うち)、大坂御城石垣御普請(ごふしん)の時、深尾氏も當國(たうごく)よりの役人にて、彼(かの)地に至る。

 平兵衞、又、隨(したがひ)て、大坂旅宿に有(あり)。

 公義役手(やくて)の御旗本衆(おはたもとしゆ)、小河平兵衞が宿札(やどふだ)[やぶちゃん注:「しゆさつ」と読んでもよい。大名・旗本などが、宿泊する本陣や脇本陣の門、又は、宿の出入り口に、宿泊者の名を書いて掲げた札。「關札(せきふだ)」とも言う。]を見て、能(よく)知れる人、有(あり)て、平兵衞が今の樣子を尋聞(たづねきく)。[やぶちゃん注:原本では、敬意を示す字空けが「公義」の前にある。]

 其後(そののち)、於江戶(えどにおいて)、忠義(ただよし)公へ、[やぶちゃん注:原本では、敬意を示す字空けが「忠義公」の前にある。以下でもあるが、躓くだけなので再現しない。]

「御旗本衆の中より、小河平兵衞と云(いふ)士、御家臣深尾主水方(かた)に有(あり)と見へ[やぶちゃん注:ママ。]候。彼れは、武功の士にて、其儘(そのまま)にて可被差置(さしおくべき)者に非ず。」

と、言立玉(いひたてたま)ふ人、有(あり)。

 忠義公、聞召(きこしめし)て、

「曾(かつ)て、不存事(ぞんぜざること)也。國元にて詮義可致(いたすべし)。」

と、御返答、有之(これあり)。

 其後(そののち)、御國(みくに)にて、御尋(おたづね)、有之(これあり)、被召出後(めしいだされてのち)、「御郡奉行(おんこほりぶぎやう)」と成(なる)。

 其時分は、「郡奉行」、七郡(しちこほり)に、一人宛(づつ)、七人、有(あり)て、其郡に居住し、郡内(こほりうち)の事は、直(ぢき)に、忠義公へ申上(まうしあげ)て仕置(しおき)する事也。

 平兵衞、此時、髙岡郡(たかをかのこほり)の奉行として住(ぢゆう)す。

 然(しかる)に、加賀にて約せし事を、変じて、當國にて、妻を迎へ、平三郞といふ男子、出生す。

 此事を、加賀の妻、ほのかに聞(きき)て、大(おほき)に恨み、預る所の家財・感狀、悉く、燒捨(やきすて)て、自殺す。

 其後(そののち)、平三郞十九歳、或夜、部屋に、一人(ひとり)、未寐(いまだいねず)して有(あり)しに、戌(いぬ)の刻[やぶちゃん注:午後七時から九時。]斗(ばかり)、庭の枝析戶(しをりど)を、外(そと)より明(あけ)て來(きた)る者、有(あり)。

 見れば、母の傍(かたはら)にある下女也。

 手に燗鍋(カンなべ)と盃(さかづき)を持(もち)、皿に肴(さかな)を入(いれ)て來り、

「母の命(めい)[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」には、ここに編者によって『(也)』の補正割注がある。]。『今宵は淋敷(さびしく)あらめ。酒を、すゝめよ。』と仰(おほせ)にて、參(まゐり)たり。」

と、いふ。

 平三郞、悅び、

「吾、常に酒を不用(もちひず)といへども、母の志(こころざし)にて賜ふ酒なれば、一は、吞(のま)ん。」

と、押戴(おしいただ)き、一盃、吞(のむ)。

「今一。」

と、しひければ、

「誠に。是も、母の愛(あい)成(な)れば尤(もつとも)也。」

と、又、一、傾く。

 下女、

「又、一。」

と、すゝむ。

 平三郞、いふ、

「我、下戶(げこ)成(なる)事は、汝も、知れり。母の慈命、忝(かたじ)けなさに、二、吞(のみ)たり。此上、可吞樣(のむべきやう)、なし。」

と、いふ。

 下女、聞不入(ききいれず)、

「今、壱。」

と、進む。

 平三郞、止事を不得(えず)、又、一盃を、ほす。

 下女、

「猶(なほ)、一。」

と、すゝむ。

 平三郞、

「聞分(ききわけ)もなきものかな。」

と、いへども、下女、弥(いよいよ)、しひて、傍(かたはら)に寄居(よりゐる)。

 平三郞も、今は、怒(いかり)て、

「推參也(すいさんなり)。」[やぶちゃん注:ここは、「出すぎておるぞ!」「差し出がましいッツ!」「無礼なり!」の意である。]

と、氣色(けしき)を、かへければ、下女、忽(たちまち)、面色(めんしよく)、かはつて、肘(ひぢ)を張(はり)、

「如何樣(いかやう)とも、し給へ。」

と、云(いひ)て、詰懸(つめかか)る。

 其躰(そのてい)、すさまじく、平三郞、こらへかねて、拔打(ぬきうち)に、切る。

 切られて、外へ迯出(にげいづ)るを、追掛(おひかけ)て、外(そと)より、奧へ、掛入(かけいる)。

 奧の次の間(ま)には、平三郞母、未寐(いまだねず)して有(あり)ければ、平三郞、

「下女が、不屆(ふとどき)有(あり)て、斬(きり)たり。爰(ここ)まで、迯來(にげきた)れり。出(いだ)し玉へ。」

と、いふ。

 母、色(いろ)を正しくして、

「汝、夢ばし、見つるか。其女は、宵より、我側(わがそば)にて、衣(ころも)を縫居(ぬひを)る也。先(まづ)、心を、しづめよ。」[やぶちゃん注:「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」が付いたものが、濁音に変化し、一語化したもの。会話文に多く用い、強調で、ここは「夢でも」「夢なんぞを」の意である。]

と、いふ。

 平三郞、驚き、初(はじめ)よりの次第を語れば、母、聞(きき)て、奧に居(ゐ)る平兵衞へ、言葉を懸け、

「あれ、聞玉(ききたま)ふや。」

と云へば、平兵衞、動ぜぬ者故(ゆゑ)、

「若輩者、狸に化(ばか)されつらん。」

と、言(いひ)て、出(いで)もやらず。

 平三郞、手もちなく、退(しりぞ)き、若黨どもを呼(よび)て、此事を語り、屋敷の内を尋見(たづねみ)れども、何の怪(あやし)き事も、なし。

 部屋へ、歸(かへり)て見れば、燗鍋(カンなべ)も、なし。

 又、酒、吞(のみ)たる樣(やう)に[やぶちゃん注:「は」を補いたい。]、心持(こころもち)もなく、覺(おぼえ)たり。

 刀を見れば、川に有(ある)「さい」の樣成(やうなる)もの、少(すこし)、付(つき)たり。[やぶちゃん注:「さい」は恐らく「菜」で、淡水の「藻(屑)・水草」の意であろう。]

 其中(そのうち)に、俄(にはか)に、大雨(おほあめ)、降出(ふりいだ)しける故、皆、部屋へ入(いり)て、休みぬ。

 其雨、夜中、夥敷(おびただしく)降(ふり)て、

「二淀川筋(によどがはすぢ)、洪水にて、堤(つつみ)抔(など)、危(あやふ)し。」

と、百姓共、告(つげる)に任せ、平兵衞、早天(さうてん)[やぶちゃん注:早朝。]に、家人(けにん)お[やぶちゃん注:ママ。「を」の誤記。]、隨へ、船にて、川筋へ出(いで)て、人夫を集め、堤の危き所を、ふせがしむ。

 平三郞は、若輩なれば、別船(べつぶね)に有(あり)て、鉢卷に、裾(すそ)をからげ、すこやかに出立(いでたち)、下知(げち)をなす所に、平三郞が乘(のり)たる船の脇へ、水中より、女(をんな)、一人(ひとり)、浮(うか)み出(いづ)

 平三郞、是を見て、父に向ひ、

「夜前(やぜん)の女は、是(これ)にて候。」

と、いへば、女は、其儘、水中に入(いり)ぬ。

 上下(うへした)、驚き、

「又もや。出(いで)ん。」

と、守り居(ゐ)たる所に、思ひもよらず、船の艫先(ともさき)[やぶちゃん注:「艫」には船尾の「とも」と、逆に舳先(へさき)・みよし、則ち、船首の意がある。直後以下のヴィジュアルには舳先がいいように、一見、思われるのだが、「思ひもよらず」という前の添え文からは、乗っている人々が目を向けることが少なかろうと思うところの船尾の意の方がリアルであると私は考える。]に浮み出(いで)、船を、くつがへす。

 是を見て、水煉[やぶちゃん注:ママ。「水練」の誤記。]の達者なる人夫ども、我も、我も、と、平三郞を助(たすけ)ん爲(ため)、水中(すいちゆう)に飛入(とびいり)、水底(みなそこ)を尋廽(たづねまは)るに、船中(せんちゆう)の者、悉(ことごと)く助(たしか)り上(あが)るに、平三郞一人(ひとり)、形も見へず成(な)りぬ。

 平兵衞、今の妻に、語る。

「我、加賀に在(あり)し妻、恨(うらみ)を含(ふくみ)て自殺せしと聞(きき)しが、水中より浮(うか)み出(いで)たる女は、加賀に在し妻が顏形(かほかたち)に、少しも、違(たが)はず。かれ、吾を恨みぬれども、吾には、恐(おそれ)て、仇(あだ)をなさず、若年成(なる)平三郞が命を、取(とり)たると、覺(おぼゆ)る。」

と、言(いひ)し、とぞ。

 此(この)平兵衞、心行(こころゆき)、不宜(よろしからず)[やぶちゃん注:心持ちが悪しくなって。ノイローゼ・鬱病の類いである。]、終(つひ)に、當國(たうごく)に住居難成(すみゐなりがたく)、國を立退(たちのき)、後(のち)、行衞不知(ゆくへしらず)、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「金吾中納言秀秋」小早川秀秋(天正一〇(一五八二)年~慶長七(一六〇二)年)は安土桃山時代の武将。金吾は通称。左衛門佐・権中納言。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれ、秀吉の猶子となり、丹波亀山十万石を領し、羽柴秀俊と名のった。文禄三(一五九四)年、小早川隆景の養子となる。同年十一月、中国に下向して三原城(現在の広島県三原市)に入り、毛利輝元の従妹を妻とした。翌年、家督を嗣ぎ、隆景から筑前一国と、筑後の大部分、肥前二郡、計三十三万六千石を譲り受け、隆景は三原に隠居、代わって、秀秋は筑前名嶋(なじま)城に移った。慶長二(一五九七)年、朝鮮に出陣。釜山浦(ふざんほ)城の守将となり、また蔚山(うるさん)城の救助に活躍し、帰国した。しかし、その後、秀吉の怒りに触れ、越前北庄(きたのしょう)に移封されようとしたが、徳川家康の取り成しで筑前に留まる。慶長四年、秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後五十二万二千五百石を得る。翌年の「関ヶ原の戦い」では、西軍として伊勢口を守り、伏見城を攻めたが、九月の「関ヶ原決戦」時には東軍に応じた。戦功により、家康から備前・美作(みまさか)に於いて五十万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長七年、二十一歳の若さで死去した。秀秋には嗣子がなく、備前・美作は収公され、小早川本宗家は断絶した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「小河平兵衞」不詳。しかし、調べる内、長沢理永なる人物の土佐の随筆「土陽隱見記談」(どよういんけんだん:宝暦三(一七五三)年写本・高知県立高知城歴史博物館「山内文庫」蔵)に全く同じ話が載る。「国書データベース」の写本のここから視認出来る。というか、この本、ざっと見たところ、しかも、本書より六十四年も前のものであるから、寧ろ、本篇だけでなく、幾つかの怪奇談は、実は、先行するこの書に基づいて書かれたものと断定出来る。なお、古くには、よく覗かせて貰ったサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」の同書の同話の全現代語訳を参照されたい。

「感狀」功のあった者に対し、主家や上官から与えられる賞状。中世では、知行を宛て行なう旨を記した書状を指す場合が多い。「感書」(かんじょ)・「勘状」とも言う。

「深尾主水」山内家家臣で土佐藩筆頭家老、の深尾重忠(永禄一二(一五六九)年~明暦四(一六五八)年)の幼名。当該ウィキによれば、『南宗』(読み不明)『深尾家初代』とあり、『深尾重三の子として誕生し』、『その後』、同族の『深尾重良の養子にな』った。『山内一豊に近江国長浜へ養父・重良と共に招かれ』、百『石、次いで』二百『石を得る』。「小田原征伐」で『功を挙げ』、『さらに』二百『石を加える』。「関ヶ原の戦い」でも『功があり、一豊が土佐国藩主になると、重良は首席家老』一『万石、重忠は別に』二千『石を給わった』。『その後、人質として妻子と共に』十六『年間』、『江戸で暮らす。土佐藩』二『代藩主』『山内忠義を輔けて功を挙げ』、五千『を賜る。しかし』、『藩命により、重良は一豊の弟』『康豊の三男』である『重昌を養子とし、重忠の娘と配して家名を継がせることとなり、重忠は南宗深尾家を興し、家老の一員となる。元和』八(一六二二)年、『忠義の命を奉じて、野中直継、寺村淡路、乾和三らと共に土佐領内の仕置を定める』。明暦四年三月十一日に『病死した』とある。

「忠義公」土佐藩第二代藩主山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。当該ウィキによれば、『山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれ』、慶長八(一六〇三)年に『伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る』。同十年、『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長』一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦した。なお、この時』、『預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し、豊臣方に加わるという珍事が起きている』。翌慶長二十年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』慶長十七年に『法令』七十五『条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永』八(一六三一)年『からは』、『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月三日に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「七郡」当時の土佐藩は、安藝郡・香美(かみ/かがみ)郡・長岡郡・土佐郡・吾川(あがは)郡・高岡郡・幡多郡の七郡からなっていた。

「髙岡郡」旧郡域は当該ウィキ地図を見られたい。

「二淀川」当該ウィキと、地図(河川流域が紺色で示されてあるので拡大されたい)を見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     安喜郡(あきのこほり)甲浦(かんのうら)楠嶋(くすしま)傾城(けいせい)亡霊

 甲浦、湊口(みなとぐち)に、「クス嶋」[やぶちゃん注:カタカナ表記はママ。以下、同じで、さらに、「嶋」は「島」と混在する(単漢字使用の際を含む)のもママである。]といふ、有(あり)。今、燈明堂(とうみやうだう)あり。

 此嶋に大なる蝮(うはばみ)、住(すみ)て、夏の夜は、燈明の油を吞(のみ)て、燈明堂を、卷(まき)て、しむる內に、燈明番、是を、しかれば、卷を、ほどきて、歸る、と也(なり)。

 此(この)蝮に付(つき)て、物語あり。

 元親(もとちか)の時代、此所(このところ)に、「淡路屋(あはぢや)」と云(いふ)冨貴(ふうき)成(なる)町人、有(あり)。

 或時、大坂へ登りて、歸帆の時、傾城を、一人、連來(つれきた)りしが、「淡路屋」が妻、嫉(ねたみ)の深きもの成(なる)故(ゆゑ)、甲浦へ、入津(にふしん)の時、傾城を近付(ちかづけ)、申(まふし)けるは、

「吾(わが)妻は、嫉妬ふかき性質(たち)なるゆゑ、押掛(おしかけ)[やぶちゃん注:無理矢理。]、我家へ伴ふ事、難成(なしがたし)。暫(しばらく)、此(この)『クス嶋』に可待(まつべし)。吾妻に、納得させ、迎(むかへ)に、おこすべし。若(もし)、得心(とくしん)せずば、人に賴(たのみ)、他人へ嫁(か)せしむべし。」

とて、傾城は、『クス島』に、おろし置(おき)、其身は、家へ歸(かへり)ける。

 此事を、妻、聞(きき)て、大(おほき)に怒り、夫(をつと)を、立込(たてこめ)て[やぶちゃん注:無理矢理、部屋に押し込んで。]、不出(いださず)、下人一人(ひとり)も、「クス嶋」へ行(ゆく)事を、許さず。

 此故(このゆゑ)に、「クス嶋」へは、誰(たれ)有(あり)て、音(おと)づるゝものも、なし。

 傾城は、

「今や、今や、」

と、音信(おとづれ)を待(まて)ども、便(たより)もなければ、猟船(れうせん)の出入(でいり)を見て、扇(あふぎ)を以(もつ)て、まねけ共(ども)、見馴(みなれ)ぬ、いつくしき形(かたち)なる女の、金地(きんぢ)の扇を揚(あげ)て招くゆゑ、みな、

『龍女(りゆうぢよ)の出(いで)たるか。』

と、恐(おそれ)をなし、近付(ちかづ)かず。

 女は、苦(くるし)み、歎(なげけ)ども、甲斐なく、四、五日は、磯の藻屑、貝などを取(とり)て、食(しよく)しけれども、絕(たえ)て人も來(きた)らねば、終(つひ)に「クス島」の池に、身を投じ、死(し)しぬ。

 此有樣を、猟師ども、遙(はるか)に見て、浦中(うらぢゆう)、此沙汰、限(かぎり)なく、「淡路屋」方(かた)へも聞(きこ)へければ、妻、安堵して、立込(たてこめ)し夫、家人(けにん)を出(いだ)しける。

 扨(さて)、「クス島」へ、人を遣(つかは)し、見せしむるに、

「傾城の着(ちやく)したる衣裳・帶・扇抔(など)は、其儘、有(あり)て、死骸は、池の中にも不見(みえず)。」

と也。

「此嶋の蝮(うはばみ)は、彼(かの)傾城の亡霊也。」

と、云傳(いひつた)へぬ。

 此故に、「淡路屋」子孫、今に至るまで、此島へ近付(ちかづけ)ば、嶋、荒(あれ)て、蝮(うはばみ)抔(など)、數多(あまた)出(いで)て、怪(あやしき)事、有(ある)、とぞ。

 享保年中、明神氏(みやうじんし)、「淡路屋」方へ、まねかれ、酒宴の後(のち)、興に乘(じやう)じ、

「『くす島』の花盛(はなざかり)也。磯遊(いそあそび)せん。」

と、いへども、淡路屋一家中(いちかちゆう)は、

「彼(かの)嶋へ行(ゆく)事、不叶(かなはず)。」

とて、うけがはざるを、人(ひとびと)、押(おし)て誘引(いういん)しければ、嶋に近付(ちかづく)と、忽(たちまち)、波風(なみかぜ)、夥敷(おびただしく)起り、すさまじき事、云(いふ)斗(ばかり)なし。

 舩中(せんちゆう)、大(おほき)に驚き、彼(かの)島の辺り、壱町[やぶちゃん注:約百九メートル。]斗(いつちやうばかり)も漕退(こぎのき)れば、海上、しづまり、如常(つねのごとし)、とかや。

 年來(としごろ)、此島のほとりにて、猟舩、破損し、死人(しにん)、數多(あまた)あるを、歎き、彼(かの)傾城の亡霊を、神に祭(まつり)しより、「淡路屋」一家、疫病に犯(おか)され、悉(ことごと)く、死(しし)して、子孫、絕へ[やぶちゃん注:ママ。]ける、とぞ。

 「クス島」の池も、水、ませて[やぶちゃん注:「增せて」。]、蝮(うはばみ)は、上(うへ)の洞穴(ほらあな)に住(すむ)と、いふ。

 穴の辺(あたり)、四、五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]は、草、のべふし[やぶちゃん注:「延べ伏し」。]、白き油に、ぬれたるが、ごとし。

 蝮、常に出入りするゆゑ、とかや。

 

[やぶちゃん注:『甲浦、湊口(みなとぐち)に、「くす嶋」といふ、有(あり)』現在の高知県安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら)にある島(くずしま)」(グーグル・マップ・データ。接近して航空写真に換えたものが、これ。現在、島本体には燈明堂らしきものは見当たらないが、西に突き出るテトラポットの先に「甲浦港葛島防波堤灯」がある)。別に「甲浦磯釣センター」のこのページの写真もよい。

「蝮(うはばみ)」の読みは、本書で先行する「幡多郡上山之蝮」の読みに従った。特異な読みだが、そちらで注しておいた。

「元親(もとちか)の時代」長宗我部元親(天文七(一五三八)年~慶長四(一五九九)年)は国司家一条氏を追い出し、土佐を統一し、その後、各地の土豪を倒して、四国を統一した戦国大名。岡豊(おこう)城(現在の高知県南国(なんこく)市岡豊町(おこうちょう)のここに城跡がある)城主長宗我部国親の子として生れ、永禄三(一五六〇)年、父の死後、家督を継ぎ、以後、国内各地の有力土豪を従え、土佐を統一、次いで天正三(一五七五)年頃には阿波へ、翌四年には南伊予へ、同六年には讃岐へ侵攻し、同十三年春には遂に四国統一を果した。しかし、同年七月、豊臣秀吉の「四国征伐」の前に降伏し、土佐一国の領有を許された。同十四年、秀吉の「九州征伐」に長男信親とともに出陣、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かったが、豊後の「戸次(へつぎ)川の戦い」で信親を失った。同一五(一五八七)年九月より、土佐一国の検地を行った。これが現在m伝えられる「長宗我部地檢帳」である。その後、秀吉の「小田原征伐」、朝鮮出兵(「文禄の役」・「慶長の役」)にも参戦した。慶長二(一五九七)年には、「長宗我部元親百箇條」を制定し、領国支配の基本を確立した。しかし同四年、上洛中の京都伏見で病死した。遺骨は天甫寺山の天甫寺(廃寺)に葬られた。現在の、ここに墓がある(以上は平凡社「日本歴史地名大系」の「長宗我部元親墓」をベースとして、当該ウィキを参考にした)。

「龍女」龍宮の乙姫伝承から派生した水界の女怪。

『「クス島」の池』現在の葛島には、島内部の池らしいものは、見当たらないようである。深めのタイド・プールに投身したと採っておく。

「享保年中」一七一六年から享保二一(一七三六)年四月二十八日まで。

「明神氏」「日文研」の資料カード(PDF)のこちらに(これは国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」の「大蛇」の基礎データである)、三元社発行の昭和四(一九二九)年五月発行の『旅と傳說』に載った寺石正路「土佐傳說三篇」中に本話を訳したものがあるが、この箇所には、『享保年中甲浦の舊家明神氏』とある。]

2024/08/19

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡足摺山午時雨

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題中の「同郡」は前話を受けるので、「幡多郡(はたのこほり)」である。]

 

     同郡足摺山(あしづりやま)午時雨(うまどき)

 「足摺山七不思義」の内に、「午時(うまどき)の雨」といふ事、有(あり)。

「『龍馬(りゆうめ)の芝(しば)』の上にて、降(ふる)。」

と、いふ。

 

[やぶちゃん注:「足摺山」という山は存在しない。以下に示すリンク先の記載から、足摺岬の陸側の根にある四国八十八ヶ所霊場第三十八番札所蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ほだらくいん)金剛福寺の後背のピーク(百五十七メートル)と足摺岬周辺の自然物・自然現象を多く包括したものであり、名数「七」は他のケースと同じで、それ以上の数がある。本件を名前だけだが、載せているサイト「日本伝承大鑑」の「足摺七不思議」では、全部で二十一あると言われており、『それらの多くは弘法大師ゆかりの伝説が残されている』とある。怪奇談物のフリークの私は、この手の定番人寄せ型怪奇名数は嫌いである。最後の「その他の“七不思議”」に「午時雨」が入っているが、その前に「龍の遊び場」というのがあるので、そこが、ここで言っている「龍馬の芝」であろうと私は踏んだ。なお、「龍馬」は別に「りゆうま」「りようふま」でも、お好きな読みをしていただいて、私は構わない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡九樹村私雨(ワタクシアメ)

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題中の「同郡」は前話を受けるので、「幡多郡(はたのこほり)」である。]

 

     同郡(おなじこほり)九樹村(くじゆうむら)私雨(ワタクシアメ)

 

 幡多郡九樹(クジユウ)村に、「私雨(ワタクシアメ)」といふ事、有(あり)。

 榎舩戶(えのきふなと)といふ所の近辺也。

 昔、此所(このところ)にて、寺山(じざん)[やぶちゃん注:「寺山院(じざんゐん)」で寺の院号。]延光寺の住持、明俊僧正の、雨を祈りしに、即時、雨、降(ふり)ける。

 それより、今に、折々、午時(うまのとき)に、霧雨(きりさめ)、降(ふる)と、いふ。

 是を、里人(さとびと)、「私雨」と、いふ、よし。

 文化五年三月四日、平道寺山へ行(ゆき)し時、延光寺の住持の、かたられしを、しるし、おきぬ。

 又、榎舩戶といふは、明俊僧正、榎の杖を以て、

「我(わが)法力(ほふりき)、榮(さか)ゆるならば、此(この)榎、繁茂すべし。」

と、此所へ、さしければ、枝葉、繁茂せし、とかや。

「今に、大木(たいぼく)の榎あり。」

と、いふ。

[やぶちゃん注:「幡多郡」「九樹(クジユウ)村」現在の高知県四万十市九樹(くじゅう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。四万十川の右岸に流れ込む中筋川の右岸である。

「榎舩戶」「ひなたGPS」で戦前の九樹の附近を見たが、当該の地名は見当たらなかったが、周辺を眺めていたところ、九樹から南へ山を越えた場所に、高知県幡多郡三原村宮ノ川の「船ヶ峠」というのが、目に止まった。右の現在の国土地理院図にも地名として「船ヶ峠」の地域名として載る。不思議に思ったのは、「峠」で、細流れの川しかないこの峠が、「船」を地名に冠していることが、興味を引いたのである。そこで調べてみたところ、サイト「四万十町地名辞典」の『Vol.17 大川の渡し 「舟」地名』の「■船戸 行路の安全を守る岐神」を見出した。そこに、『高知県下の船戸の地名は、かつて行路の安全を守る道の神、岐神(ふなと)が祭られていたことであろうと述べ県内の船戸地名を次のように拾っている』として『土佐民俗選集Ⅱ「土佐地名覚え書き」』で現存する「船戸」地名を列挙し、『岐神は片足神であるということから草履の片足を奉納し、結願で』、『残り一方を奉納するという神社もある(土佐民俗選集Ⅱ)』と引き、『川は水運の要であるとともに』、『あちらとこちらを遮るモノでもあった。その遮断性を克服するのが、山は「峠」であり、川は「渡し」である。この「渡し」を地名に刻んだひとつが「船戸」である。船戸に関連した四万十町内の地名分布は、次のとおりである』とあって、細かなリストがあった。残念ながら、九樹地区のそれは、既に失われて久しいのであろう、載っていないけれども、以上の民俗信仰と「船ヶ峠」の存在から推して、必ずしも、「船戸」は河川の沿岸にあるものとは限らない祭祀地を示す宗教的な土地を示すものだったことが判ったのであった。

「延光寺」現在の高知県宿毛(すくも)市平田町中山にある「四国八十八ヶ所霊場第三十九番」である真言宗赤亀山(しゃっきざん)寺山院延光寺(右中央に「九樹」を配した。九樹地区からは六キロ圏内)。奈良初期の神亀元(七二四)年に聖武天皇の勅命で全国を行脚していた行基菩薩によって開山された寺。

「明俊僧正」僧名は「みやうしゆん(みょうしゅん)」と読んでおく。この僧正、樹木絡みの霊力を持った名僧らしい。「宿毛市」公式サイト内の「宿毛市史【古代編―式内社と仏教―】」の「寺山延光寺」に、現在の延光寺に什宝としてある「笑不動」の項があり、『清和天皇の貞観』一七(八七五)年、『京都御所の右近の橘、左近の桜が枯れそうになった。これを心配された天皇』(当時は清和天皇)『は名僧たちに』、『この木をよみがえらすよう命じ、祈祷させたが』、『効果がない。足摺蹉陀山』(さだざん)『の金剛福寺住職忠義和尚(坂本の生まれで南仏上人と称す)と、寺山の延光寺住職明俊僧正にも詔勅があったので』、二『人は同行して参内した。そして、宮廷の宝庫より巨勢金岡筆の不動明王の画像を出して祈願した』。七『日後の満願の日の明け方、橘と桜はよみがえった。その時、それまで難しい顔をしていた不動明王は、橘と桜がよみがえったので』、『にっこりと微笑した。それからこの画像を笑不動というようになった』。『天皇は非常に喜』ばれて、『何かほうびに欲しいものはないかと言った』。二『人の僧は、不動の画像を頂きたいといって、延光寺の明俊僧正は笑不動を、金剛福寺の忠義和尚は赤白不動の画像を頂き、持ち帰』って、『寺宝とした』『(笑不動縁起)』。『寺山の笑不動は』、『藩政時代』に『は、土佐の宝として藩から保護されていた』。しかし、『明治維新の廃寺』(おぞましい廃仏棄釈のことであろう)『の時から』、『行方不明となっていたが、現在では、延光寺に保存されている。昭和』三八(一九六二)年、『宿毛市の文化財に指定』された。『箱書きの銘に「笑不動」「御再興料金拾両拝領予時寛保三亥年霜月廿八日表具成就処延光寺中興恵巌京都表具師山本市兵衛」とある』とあった。

「文化五年三月四日」グレゴリオ暦一八〇八年三月三十日。

「平道寺山」不詳。「びやうだうじさん(びょうどうじさん)」と読んでおく。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 山茱萸

 

Sannsyuyu

 

[やぶちゃん注:上部に実の図が、二つ、描かれてあり、右のもの(三個体)には、「乾者色枯」(乾(かは)く者は、色、枯れ、)とあり、左のもの(二個体)には、「鮮者色紅」(鮮(あたら)しき者は、色、紅《くれなゐ》なり)とある。]

 

さんしゆゆ  肉棗 雞足

       鬾實 䑕矢

山茱萸  蜀酸棗

 

サン チユイ イユイ

 

本綱山茱萸【與呉茱萸甚不相類治療亦不同未審何緣𠇭此名也】出近道諸山中

[やぶちゃん注:「𠇭」は「命」の異体字。]

木高𠀋餘葉如梅有刺二月開白花如杏四月結實如酸

棗初熟未乾赤色如胡頽子亦可噉既乾皮甚薄

氣味【酸温】 強陰益精安五臟通九竅止小便利補腎氣

 堅陰莖仲景八味丸用之爲君其性味可知矣

 凡使宜去核【實能壯元氣秘精核能滑精不可服】 悪桔梗防風防已

 按倭亦希有之葉無刺花細小黃似女郞花【三才圖會出此別種】

[やぶちゃん注:最終行の良安の評言の頭に「△」はない。通例に合わせて、訓読では挿入した。しかし、この「△」の欠は、実は、本書編集に係わる非常に重大な意味を示していると私は考えている。それは注で詳述する。

 

   *

 

さんしゆゆ  肉棗《にくさう》 雞足《けいそく》

       鬾實《きじつ》  䑕矢《そし》

山茱萸  蜀酸棗《しよくさんんさう》

 

サン チユイ イユイ

 

「本綱」に曰はく、『山茱萸、【「呉茱萸《ごしゆゆ》」とは、甚だ相ひ類せず。治療も亦、同じからず。未だ、何に緣して此の名を𠇭《めい》せしや、審らかならず。】。』[やぶちゃん注:「𠇭」は「命」の異体字である。]『近道《きんだう》[やぶちゃん注:集落近く。]の諸山中に出づ。木の高さ、𠀋餘。葉、梅のごとくにして、刺(とげ)、有り。二月、白≪き≫花を開く。「杏(あんず)」のごとし。四月、實を結び、「酸棗《さんさう》」のごとし。初め、熟して、未だ乾かざる≪は≫、赤色≪にして≫、「胡--子(ぐみ)」のごとく≪して≫、亦、噉(く)ふべし。既に乾けば、皮、甚だ、薄し。』≪と≫。

『氣味【酸、温。】』『陰を強くし、精を益して、五臟を安《やすん》じ、九竅《きうけつ》を通じ、小便の利するを止め[やぶちゃん注:頻尿を正常に戻し。]、腎氣を補ひ、陰莖を堅くす。仲景、「八味丸」に之れを用ひて「君(くん)」と爲し[やぶちゃん注:配合する主薬とすること。]≪たるを以つて≫、其の性・味、知んぬべし。』≪と≫。

『凡そ、使ふに、宜しく核《たね》を去るべし【實は、能く、元氣を壯《さう》にし、精を秘《かく》す。核は、能く、精を滑《なめらかに》す≪故に≫、服すべからず。】。』≪と≫。『桔梗《ききやう》・防風《ばうふう》・防已《ばうい》を悪《い》む。』≪と≫。

△按ずるに、倭にも亦、希《まれ》に、之れ、有り。≪但し、≫葉に、刺、無く、花は、細≪く≫小≪さく≫、黃≪なり≫、「女郞花(をみなへし)」に似≪たり≫【「三才圖會」≪は≫、此れ、別種を出だす。】。

 

[やぶちゃん注:「山茱萸」は、日中ともに、

双子葉植物綱ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ亜属サンシュユ Cornus officinalis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『中国原産』。『別名でハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれる。季語は春。庭園樹や公園樹として多く植栽されている。果実は漢方に使われる』。『山茱萸(サンシュユ)は漢名(中国植物名)で、この音読みが和名の由来である。日本名の別名ハルコガネバナ(春黄金花)は、早春、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることからついた呼び名で、日本植物学者の牧野富太郎が山茱萸に対する呼び名として提唱したものである。秋になると』、『枝一面にグミ』(バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus )『のような赤い実がつく様子から珊瑚に例えて、「アキサンゴ」の別名でも呼ばれる』。『中国浙江省及び朝鮮半島中・北部が原産といわれ、中国・朝鮮半島に分布する』。『江戸時代』、『享保年間』(一七一六年~一七三六年)『に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになった』(「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年の成立である。より正確に渡来を示してあるのは、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「さんしゅゆ(山茱萸)」で、そこには、『日本には、享保』七(一七二二)年、『薬用に朝鮮から導入され、小石川の御薬園で栽培された』。十九『世紀初には世に多く栽』え『ていた』とある。一見、不審に思われるであろうが、実は、寺島良安は承応三(一六五四)年生まれで、没年は不詳なのだが、朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」の彼の項の最後には、『没年は享保年間』『末期ごろと思われる』とあり、一般に本書の成立とする正徳二(一七一二)年というのは、「自序」に記された最初の稿本の成立であり、実際には、現在、細部に違いがはっきりとある「五書肆名連記版」と「杏林堂版」の二種の版本「和漢三才圖會」があり、良安は、自身でその後に改稿し、改刻されたことが判っているのである。されば、彼は享保六年から享保十六年の十一年間のどこかで、渡来した実際のサンシュユを直に観察し、その新たな評言を添えたものと思われるのである。だからこそ、この、他の項では、まず、見られない評言の前の「△」が落ちているのも、私には得心されたのである)。『日本における植栽可能地域は、東北地方から九州までの地域である。日本では、一般に花を観賞用とするため、庭木などに利用されている。日当たりの良い肥沃地などに生育する』。『落葉広葉樹の小高木から高木で、樹高は』五~十『メートル』『内外になる。枝は斜めに立ち上がる。成木の幹は褐色で樹皮が剥がれた跡が残ってまだら模様になることがあり、若木の幹や枝は赤褐色や薄茶色で、表面は荒く剥がれ落ちる』。『葉は有柄で互生し、葉身は長さ』四~十センチメートル『ほどの』、『卵形から長楕円形で、全縁、葉裏には毛が生える。側脈は』五~七『対あって、葉先の方に湾曲する。葉はハナミズキ』(知られた「花水木」だが、これは、ミズキ目ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属アメリカヤマボウシ Cornus florida の異名であるので注意!)『や』、『ヤマボウシ』(ヤマボウシ亜属ヤマボウシ亜種ヤマボウシ Cornus kousa subsp. kous )『に似ているが、やや細長い。秋は紅葉する。葉が小さめのため』、『派手さはないが、色濃く渋めに紅葉する』。『花期は早春から春』(三~四月上旬)『にかけ』て、『若葉に先立って木全体に開花する。短枝の先に直径』二~三『センチメートル』『の散形花序を出して』、四『枚の苞葉に包まれた鮮黄色』(☜!)『の小花を多数つける。花径は』四~五ミリメートル。『花弁は』四『個で反り返り、雄しべは』四『個』。『果期は秋。果実は核果(石果)で、長さ』一・二~二センチメートル『の長楕円形で』、十『月中旬』から十一『月に赤く熟し、グミの果実に似ている。生食はできないが、味は甘く、酸味と渋みがある。核の長さは』八リメートルから十二センチメートル『で、中央に縦の稜がある』。『冬芽は枝の先端に頂芽を』一『個つけ、枝に側芽が対生する。花芽が球形で総苞片に包まれ』、二『枚の小さな芽鱗が基部につく。葉芽は楕円形をしている』。『日当たりがよく、やや湿った場所を好む性質で、栽培は実生・株分けによって繁殖する。土壌の質は全般で、根の深さは植栽樹としてはふつうである。植栽適期は』十一~三『月とされる。剪定は』一~三『月、施肥は』十二~三『月に行う』。『夏には葉がイラガやカナブンの食害を受ける』。『樹木は、庭園樹、公園樹、切り花の用途で使われる。マンサク』(満作・万作:ユキノシタ目マンサク科マンサク亜科マンサク属マンサク Hamamelis japonica )『とともに早春に咲く花木の代表として日本人にも親しまれ、洋風の庭よりも和風の庭に』、一『本立ちで使われることの方が多い。果実には薬効があり、生薬に利用されて漢方など薬用にされる』。『種子を取り除いた果実には、リンゴ酸、酒石酸、没食子酸、酸性酒石酸カリウムなどの有機酸、タンニン、糖などを含んでいる。種子にはパルミチン酸、オレイン酸、リノール酸などの脂肪油を含んでいる。一般に人間の腸はアルカリ性と言われ、有機酸が入って一時的に酸性化すると、細菌はpH7以上の弱アルカリ性でないと繁殖しないため、サンシュユに含まれる有機酸類が制菌に役立つと考えられている』。十『月ごろに赤熟した果実を採取し、熱湯に数分間浸してからザルに上げて種子を取り除き、日干し乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬に利用され、山茱萸(さんしゅゆ)の名で日本薬局方に収録されている。強精薬、止血、滋養強壮、頻尿、収斂、冷え性、低血圧症、不眠症に効用があるとされる。果肉は長さ』一・四センチメートル『程の楕円形。滋養強壮の目的で、牛車腎気丸、八味地黄丸、杞菊地黄丸等の漢方方剤にも使われる』。『民間療法では、腎臓に力をつけてくれる薬草として知られ、膝と腰軟弱、頻尿の人に』、『煎じ』『て服用する用法が知られている。疲労回復、滋養強壮、冷え症、低血圧症、不眠症などに果実酒も用いられ、水洗いした生果実を』三『倍量のホワイトリカー(焼酎)に入れて冷暗所に』三ヶ『月おいてから、適量のグラニュー糖などを入れてさらに』二十『日ほど熟成してから』『飲用する。また、赤く熟した果実を使ってジャムなどにしてもよい』とあった。

 さて、次に「維基百科」の同種のページ「山茱萸」を見よう。別名が半端なく多く、『山萸肉・藥棗・棗皮・蜀酸棗肉棗・薯棗・雞足・實棗・萸肉・天木籽・山芋肉・實棗兒・山萸』を挙げる(下線太字部は本項の異名と一致するもの)。『山茱萸の花は、清明節』(二十四節気の第五の三月節。旧暦二月後半から三月前半)『の頃に葉に先立って咲き、枝の上部、又は、葉腋から咲く。萼は黄緑色』(☜!)『で、花びらは四裂する。黄色』(☜!)『で、 雄しべは四つ』であり、『花托は輪状である』とある。

 さて、私が『(☜!)』で注意喚起した意味が、もう、お判りであろう。まず、グーグル画像検索「Cornus officinalis flower」を見てみよう。明らかにサンシュユの花である画像の内、やや白っぽく見える薄黄色のものはあるが、白色の花は、一つも、ないのだ。ところが、「本草綱目」は、「白≪き≫花を開く。杏(あんず)のごとし」と言っている。「杏」は日中ともに、バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu であるが、アンズの花はこれである(当該ウィキの画像)。逆立ちしても「如し」とは言えない。良安の評言でも、「花は細かく、小さく、黄色で、女郎花(おみなえし:マツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia )に似ている」と正確に述べていて、サンシュユの花の実際と完全に一致するのである。

 これは、一体、どういうことか?

 実は、サンシュユ亜属には、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「みずき(水木・瑞木)」によって、中国にのみ分布するサンシュユの近縁種である(冒頭は中文名)、

川鄂山茱萸・緣杞 Cornus chinensis

があることが判ったのであった。リンク先によれば、分布域は『河南・陝甘・湖北・廣東・四川・貴州・雲南産』である。そこで、今度は、グーグル画像検索「Cornus chinensis flower」を見てみる。すると、サンシュユとは全く異なる派手な形の白い四弁花であることが判明したのである。これこそ、良安が言っている白い花ではなかろうか?(但し、相変わらず、アンズとは、これジェンジェン、違うんだけどね……私に出来たディグは、これまでだ……)

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」では、版本上のミスか、何故か判らぬが、「山茱萸」が存在しないので、「維基文庫」の「本草綱目」で見た。ここである。例によって切り張りパッチワークである。

「呉茱萸《ごしゆゆ》」既出既注だが、再掲すると、「ごしゅゆ」はムクロジ目ミカン科ゴシュユ属ゴシュユ Tetradium ruticarpum 当該ウィキによれば、『中国』の『中』部から『南部に自生する落葉小高木。日本では帰化植物。雌雄異株であるが』、『日本には雄株がなく』、『果実はなっても種ができない。地下茎で繁殖する』。八『月頃に黄白色の花を咲かせる』。『本種またはホンゴシュユ(学名 Tetradium ruticarpum var. officinale、シノニム Euodia officinalis )の果実は、呉茱萸(ゴシュユ)という生薬である。独特の匂いと強い苦みを有し、強心作用、子宮収縮作用などがある。呉茱萸湯、温経湯などの漢方方剤に使われる』とあった。漢方薬剤としては平安時代に伝来しているが、本邦への本格的渡来はこれまた、享保年間(一七一六年から一七三六年まで)とされる

「酸棗《さんさう》」日中ともに、双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ科ナツメ属サネブトナツメ Ziziphus jujuba var. spinosa である。

「胡--子(ぐみ)」前の引用に割注で出した。日中同じ。

「仲景」東洋文庫後注で、「張仲景」は『後漢の人。長沙の大守であったが、一族のほとんどが十年あまりの間に傷寒(惡性伝染病)で亡くなったのに発憤し、『傷寒雑病論』十六巻を著した。』とある。「本草綱目」では、よく彼の記載が引用される。

「八味丸」富山県の「池田屋安兵衛商店」公式サイト内の「八味丸」を参照されたい。

「桔梗《ききやう》」キク目キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras の根を乾燥させた生薬名。当該ウィキによれば、『鎮咳、去痰、排膿作用があるとされ』、『代表的な漢方処方に桔梗湯(キキョウ+カンゾウ』(マメ目マメ科カンゾウ属スペインカンゾウ Glycyrrhiza glabra の乾燥させた根を基原植物とする生薬名)『)がある』。『炎症が強い場合には石膏と桔梗の組み合わせがよいとされ、処方例として小柴胡湯加桔梗石膏がある』とあった。

「防風《ばうふう》」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎を乾燥させた生薬名。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。。

「防已《ばうい》」長くなるから、「酸棗仁」で既出既注してあるので、そちらを見られたい。

『花は、細≪く≫小≪さく≫、黃≪なり≫、「女郞花(をみなへし)」に似≪たり≫【「三才圖會」≪は≫、此れ、別種を出だす。】』「女郞花(をみなへし)」は日中同じで、マツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia である。なお、東洋文庫後注に、『この部分、杏林堂版では「木には皮がないようである。花は杏のようで淡黃色である」とある。』とある。最後の『「三才圖會」≪は≫、此れ、別種を出だす』は、例の「東京大学」内の「三才図会データベース」の画像をトリミングして示す。絵の方は、かなり汚損を清拭した。

 

Sansaizuesasie

 

Sansaizuesasiekaisetu

 

ここで良安が言っているのは、挿絵の二種が、山茱萸とは異なる種であることを指示しているものと読める。この二種は花の形が、孰れもサンシュユ Cornus officinalis とは、花の形状が異なり、また、川鄂山茱萸・緣杞 Cornus chinensis と、上の図は似ているように見えるものの、花弁の数が違うので、確かに「別種」と見える。但し、「三才圖會」の絵は、少なくとも実在する動物類でも、変なものが多く、トンデモ幻想博物画みたようなものが、有意に多いので、馬鹿正直にこの種を調べるのは、ちょっと、やる気が起こらない。悪しからず。しかし、解説文の方は、「山茱萸」の解説と見紛うものになっては、いるぞ!

2024/08/18

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡上山之蝮(「蝮」は「うはばみ」と読む)

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ標題中の「蝮」は「まむし」ではなく、本文中間部に出るルビ『ウハハミ』を参考にして読んだ。「蝮」(クサリヘビ(鎖蛇)科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii )を「うはばみ」と読むのは、一般的でないが、本邦で最強毒を持つ同種を以って、最強最大の仮想猛獣たる「ウハバミ」(うわばみ:蟒蛇)に当てたのであろうとは理解出来る。江戸前期終わり頃の俳諧に「蝮蝎」と書いて「ウハハミ」と訓じている例がある。

 

     幡多郡(はたのこほり)上山(かみやま)之(の)蝮(うはばみ)

 「上(か)み山(やま)」といふ所にて、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年から享保二一(一七三六)年四月二十八日まで。]、材木、仕成(つかまつりなる)場、有(あり)。

 其(その)材木を、流出(ながしいだ)す川に、いつの頃よりか、其所(そのところ)の人、云(いひ)ならはし、

「午時(ひるどき)に雨ふる、是は其川の主(ぬし)、有(ある)故(ゆゑ)也。」

とて、

「午の時、過(すぎ)ざれば、毎日、材木を出す事、不成(ならず)。」

と、也。

 然(しか)るに、雨の降るといふ所は、渕、有(あり)。

 其頃(そのころ)、人夫に「佐八」と言(いふ)者、有(あり)。

 此事を

『不審。』

に、おもひ、同輩を、三人(みたり)、言合(いひあは)せ、頃(ころ)は、夏の事也(なり)、午の時に近き時分、彼(かの)渕の邊(あたり)へ行(ゆき)て、凉(すず)み居(ゐ)て、雨の降(ふる)を伺ひけるが、暫(しばらく)有(あり)て、果して、雨、降出(ふりいだ)しぬ。

 いづれも、驚恐(おどろきおそ)れて、迯(に)げ、材木小屋へ歸りけるが、佐八壱人(ひとり)は、

「解(とく)と[やぶちゃん注:「解」はママ。底本では、筆者氏、或いは、旧蔵者によって赤字で『得』と傍注が打たれてある。]、見屆(みとどけ)ん。」

とて、渕の側(かたはら)なる山の岸へ上(のぼ)り、大成(だいなる)楠木(くすのき)の根に、つくばひ居(ゐ)て[やぶちゃん注:「蹲ひ居て」。しゃがんでじっとして。]、淵を、見おろし、能々(よくよく)見れば、水面(みなも)に、小蛇、數多(あまた)浮(うか)み、空へ向(むき)て、氣を、吹(ふく)也。

 其(その)水氣(すいき)、上へ登り、雨のごとく、降(ふる)にてぞ、有(あり)ける。

 佐八、猶も、

「渕の主の正体、見ん。」

とて、我足本(わがあしもと)に、大成(だいなる)石、有(る)を、力を入(いれ)て、押落(おしおと)せば、片岸(かたぎ)の渕の上なれば、渕の深みへ、落入(おちいり)ぬ。

 其音、材木小屋へ聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、初めともに行(ゆき)し者共、

「扨は、佐八こそ、難に逢(あひ)たるべし。」

とて、走り來り、佐八を呼へば、佐八は、彼(か)の木の下(した)に居て、彼等を、まねくゆゑ、此者共、宻(ひそか)に、佐八が居所(きよしよ)へ來り、

「何事ぞや。」

と問へば、佐八、石を落(おと)たる事を語り、互(たがひ)に、しづまり居(をり)て伺(うかがひ)けるに、暫(しばし)有(あり)て、牛の首の如く成(なる)もの、水中より浮(うか)み出(いで)、四方(しはふ)を見廽(みまは)しけるが、余り、手近(てぢか)故(ゆゑ)か、上に有(ある)佐八が徒(ともがら)は見ず、

『今の石は材木小屋の者どもの仕業(しわざ)。』[やぶちゃん注:かく思ったのだろうその主体者は、蟒(うわばみ)自身である。

とや、思ひけん、渕を出(いで)て、小屋の方へ行(ゆく)[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」の本文では編者によって『(に)』が補われてある。穏当である。]、其形、大成(おほいなる)蝮(ウワバミ)にて、足、四つ、有(あり)。

 是を見るより、

「渕の主、出(いで)たり。」

と言立(いひたて)て、人夫は、我先にと、逃行(にげゆき)ぬ。

 佐八等(ら)は、是を見て、山を下(くだ)り、彼(かの)蝮(うはばみ)の跡を從(したがひ)て行(ゆく)。

 蝮は、小屋へ入(いり)たれども、人無き故、材木藏の戶の開き居(を)るを見て、藏の內へ入(はい)る。

 佐八等、追付(ほひつき)て、藏の戶を立(たて)て、内へ立込(たてこみ)たり[やぶちゃん注:閉じ込めた。]。

「扨、如何(いかが)せん。」

とて、詮義すれども、鑓(やり)・長刀(なぎなた)の類(たぐひ)、なければ、丈夫なる竹の先を、鑓のごとく、切(きり)そぎて拵(こしらへ)る內に、此藏は、當分、小屋同前に建(たて)たれば、內より、蔀(しとみ)を押破(おしやぶ)り、軒の下へ頭(かしら)を出(いだ)すを見て、彼(かの)竹鑓にて、突くに、鱗(うろこ)、すべりて、少(すこし)も不通(とほらず)、其內に、終(つひ)に、壁を押(おし)たをして出)いで)たり。

 佐八等、不叶(かながず)して、皆、散々に迯行に、蝮、佐八が方へ、追來(おひきた)る。

 佐八は、外(ほか)に兩人(りやうにん)一所(いつしよ)に、足をばかりに迯(にげ)けるが、見返りみれば、彼蝮、紅《くれなゐ》の舌を、ふり、尾を上(あげ)、

「きりきり」

と廽して、追來(おひきた)る有(あり)さま、すさまじき事、いはんかたなし。

 佐八等、余り、急に追はれて、大成(だいなる)巖(いはほ)、有(あり)けるを幸(さひはひ)、登りけるに、蝮、すかさず、追來(おひきた)り、岩を卷(まき)て、

「ぎしぎし」

と、しむる。

 岩の上には、三人《みたり》、十方(とはう)にくれ[やぶちゃん注:これは「途方に暮れ」の誤記であろう。]、居(をり)たりけるが、佐八、云(いふ)は、

「此儘(このまま)にては、蝮、登り來(きた)るべし。その時は、一人も、助かるべからず。」

とて、彼(かの)竹鑓に、包丁・脇差を拔き、常にしたる手拭(てぬぐひ)を以て、結付(むすびつけ)持(もち)けるに、案の如く、蝮、口を上(あげ)て、吞(のま)んとするに、喉(のんど)の中(なか)へ、力(ちから)に任せて、庖丁を、突込(つつこみ)ければ、强く突(つか)れて、仰(あふ)のけに、はねかへり、轉倒(てんだう)するを見て、聲を上げ、呼(よば)はりければ、爰(ここ)かしこより、人、走り集(つどひ)て、終(つひ)に、彼蝮を、殺しけり。

「其長(たけ)、三丈[やぶちゃん注:九・〇九〇メートル。]ばかり有(あり)し。」

とかや。

「此後(こののち)は、材木を流すに、刻限もなく、少(すこし)も、障(さは)り、なかりし。」

とかや。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡(はたのこほり)上山(かみやま)」の「幡多郡」は既出既注だが、再掲しておくと、高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。その「上山(かみやま)」は、現在の高知県の四万十川上流の山間部に位置する、概ね大部分は、現在の高知県高岡郡四万十町(しまんとちょう)昭和や、その南東直近にある高知県高岡郡四万十町大正などを含む広域山間部の旧称である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡白濵之起龍

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     安喜郡(あきのこほり)白濱(しらはま)之(の)起龍(きりゆう)

 龍の起(おこ)るにも、色々、ありけるが、

「先年、白濵にて、夜分、大風(おほかぜ)、吹(ふき)、沖の方《かた》より、龍、起りけるに、一面、火の如くに成(なり)て通りけるに、翌日、見れば、木など、焦(こげ)ける。」

と也。

 龍の火(ひ)たる事、いちじるし。

 又、

「上瀧(かみたき)などには、風雨の烈(はげし)き時は、必ず、起る。」

と也。

「空中、火の如くに見ゆる。其時は壳鐵畑(カラてつぱう)を放(はな)し、聲を上(あげ)て、追ひ廽(まは)る。」

と也。

 一とせ、田野浦にて、龍の通りたる事、有。其道筋の家、悉(ことごと)く、倒(たふ)れける。

 

[やぶちゃん注:この龍とは、落雷を伴う強力な台風の通過を指していよう。ここに示された地域は、高知県、及び、以下の安芸郡や室戸岬は、場所的にも台風の直撃を食らい易い位置に当たる。

「安喜郡」現在の高知県東部にあった広域の「土佐安藝郡」の旧名の一つ。旧郡域をビジュアルに見るのは、当該ウィキの地図がよい。平凡社「日本歴史地名大系」によれば、現在の東洋町(とうようちょう)・北川(きたがわ)村・奈半利町(なはりちょう)・田野(たの)町・安田町・馬路(うまじ)村・芸西(げいせい)村で、『高知県の東端に位置し、南は当郡を割いて成立した室戸市、北西は同じく安芸市であるが、その西にある芸西村は現安芸郡の飛地となっている。北東は徳島県海部(かいふ)郡。南東は太平洋、南西は土佐湾に面する。北方の県境に近い甚吉森(じんきちがもり』:標高千四百二十三・三メートル)『・千本山』(せんぼんやま:同千八十四・四メートル)『などの馬路村魚梁瀬(やなせ)の山並が、まっすぐ南下して太平洋に突出したのが室戸市の室戸岬で、この山地は年間降水量』三千『ミリを超え、山ひだに刻まれた谷は深く、流れは速い』。三つの大きな河川は、『山地から』、『すぐ』、『海に注ぐため、扇状地と氾濫原の別がなく、平野らしい平地はない。室戸市・安芸市を分置する以前の旧安芸郡は、大きく四つの地域に分けられ、阿波と海岸続きで接し』、『甲浦(かんのうら)港をもつ現東洋町の地区、室戸岬を要』(かなめ)『に』、『扇形を描く現室戸市地区、奈半利・安田両河川流域の中芸地区、現安芸市と芸西村を合せた安芸西部地区に区分された』。『郡名は「続日本紀」神護景雲元』(七六七)年『六月』二十二『日』の『条に』「土左國安藝郡少領」と見えるのが『早い。戦国時代末期、長宗我部元親が安芸郡を掌握した時、表記を「安喜」に改めたといわれ、近世には安芸・安喜が混用され』た『が、明治四』(一八七一)年、『安芸に統一された』(太字下線は私が附した)とあった。

「白濵」現在の高知県安芸郡東洋町白浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「上瀧(かみたき)」この地名は現在の高知県内に存在しない。そうして探すうちに、気になる場所を見出した。高知県長岡郡本山町(もとやまちょう)下関(しもぜき)にある二箇所の清流中の滝である。川の名は吉野川に注ぐ支流の渓流「行川」(なめかわ)で、位置は高知から東北部の渓谷である。上流にあるのが、「上轟」(かみとどろ)で、直近の川下に「下轟」があるのである。取り敢えず、私はこの「上轟」を「上瀧」の否定候補地としておく。

「田野浦」高知県の土佐湾の安芸郡の西南西の対称位置にある幡多(はた)郡黒潮町田野浦。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 楤木

 

Taranoki

 

たらのき

       俗云太良乃木

楤木【音忽】

      【倭名抄以桵訓

       太良者非也桵

ツヲン モ  則蕤核見于前】

 

本綱楤木高𠀋餘直上無枝莖上有刺樹項生葉謂之鵲

[やぶちゃん注:「項」は「頂」の誤刻であろう。訓読では訂した。後も同じ。]

不踏以其多刺而無枝故也山人折取頭茹食謂之吻頭

△按惚山谷有之項上生葉秋凋春生取嫩葉可煠食有

 獨活之香氣葉間開小白花成叢隨結子小而黒色如

 椒月其木枝皆有刺

[やぶちゃん注:「月」は「目」の誤刻。訓読では訂した。]

 

   *

 

たらのき

       俗に云ふ、「太良乃木」。

楤木【音「忽《コツ》」。】

      【「倭名抄」、「桵」を以つて、

       「太良」と訓《くんずる》は、非なり。

       「桵」≪は≫、則ち、「蕤核」≪なり≫。

ツヲン モ  前を見よ。】

 

「本綱」に曰はく、『楤木《コツボク/たらのき》、高さ𠀋餘。直上≪して≫、枝、無く、莖の上に、刺《とげ》、有り。樹の頂《いただき》に、葉を生ず。之れを「鵲踏(《かささぎ》ふ)まず」と謂ふ。其れ、刺、多くして、枝、無きを以つて≪の≫故《ゆゑ》なり。山人、頭《かしら》≪の部分を≫を、折り取りて、茹でて食ふ。之れを、「吻頭《ふんとう》」と謂ふ。』≪と≫。

△按ずるに、惚は山谷≪に≫、之れ、有り。頂≪の≫上に、葉を生じ、秋、凋(しぼ)み、春、生ず。嫩葉《わかば》を取りて、煠(ゆで)て食ふべし。獨-活(うど)の香氣、有り。葉の間に、小≪さき≫白≪き≫花を開≪く≫。叢《むらがり》を成し、隨《したがひ》て、子《み》を結ぶ。小にして、黒色、椒《さんしやう》の目《み》のごとし。其の木、枝、皆、刺、有り。

 

[やぶちゃん注:「楤」は、前項の注で示した通り、

セリ目ウコギ科タラノキ属タラノキ Aralia elata

である。日中ともに同種である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『楤木・楤の木・惣木・桵木』で、『落葉低木。別名は数が多く、「タランボウ」「オニノカナボウ」など地方によって様々な呼び名がある。新芽が山菜として有名なタラの芽(楤芽)で、天ぷらなどに調理されて食べられる。葉は良い香りがする』。『標準和名とされているタラノキについては、名称の由来はよくわかっていない』。『別名は』以上の外に、『タラ(楤、桵)、ウドモドキともよばれるが、地方によってはタランボウ、オニノカナボウ、タラッペ、イギノキ、トゲウドノキなど』である。『中国名は「遼東楤木」』(「維基百科」の「遼東楤木」によれば、『分布は日本・朝鮮・ロシア』・中国では『吉林省・遼寧省・黒竜江省』の北方の、百~一千百メートルの森林中に植生する。ヨーロッパやアメリカでは園芸植物として導入されて』おり、『日本や韓国では山菜として食用とされている』とあり、中国での異名として「龍牙楤木」・「刺龍牙」「刺老鴉」が挙げられてある)。『春に萌える若芽は、タラノメ(タラの芽)とよばれている』(初任の頃のワンダーフォーゲル部の引率で丹沢で採取して食べたが、すこぶる私の大好物となった)。『日本の北海道・本州・四国・九州・沖縄のほか、朝鮮半島、中国、千島列島、サハリンの東アジア地域に分布する』。『平地から標高』一千五百『メートル以上までの山地の原野、河岸、森林、林道脇など明るい日当たりの良い山野に自生する。特に、野原や』藪、『崩壊地などの荒れた場所に生える。いわゆるパイオニア的な樹木であり、森林が攪乱をうけると、たとえば』、『伐採跡地に素早く出現し、大小の集団を作って群生する。栽培もされる』。『落葉広葉樹の低木から高木で、高さは』二~六『メートル』『程度になり、幹、枝、葉にも鋭いトゲが密にある。生育環境にもよるが』、一『年で』二十~六十『センチメートル』『ほど伸び』、五『年で』三メートルに『達するものも珍しくはない。幹は』、『あまり』、『分枝せずにまっすぐに立』つ。『細い幹の樹皮には、幹から垂直に伸びる大小の鋭い棘が多くつくのが特徴である。幹が太いものは樹皮が縦に裂けて、見た目の印象が変わる。春に萌える芽は枝の先に出る』。『葉は互生し、幹や枝の先端だけに集まってつき、夏には傘のように四方に大きく葉を開く。葉身は』これで(同ウィキの葉と葉身の画像)、『全体の長さが』五十~一メートル『にも達する大きなものであり、全体に草質でつやはない。葉柄は長さ』十五~三十センチメートル『で基部がふくらむ。小葉は長さ』五~十二センチメートル『の卵形から楕円形で先が尖り、裏は白みを帯び、葉縁に粗い鋸歯がある。葉軸にはトゲが多い。葉全体に毛が多いが、次第に少なくなり、柄と脈状に粗い毛が残る。秋には赤色や橙色に紅葉するが、紅葉しはじめは』、『紫色になりやすい』。『花期は晩夏』八~九月頃で、『幹の先端の葉芯から長さ』三十~五十センチメートル『ほどある総状花序を複数つけ、多数の径』三『ミリメートル』『程度の小さな白い花を咲かせる。花弁は三角形で』五『枚、雄蕊は』五『本で突き出ている。自家受粉を防ぐため、雄蕊が先に熟して落ちた後』、五『個の雌蕊が熟し、秋には黒色で直径』三ミリメートル『ほどの小さな球状の果実となり』、十~十一月頃、『熟す』。『枝先にできる冬芽の頂芽は大きく円錐形で、側芽は互生して小さい。冬芽は芽鱗は』三、四『枚に包まれている。葉痕は浅いV字形やU字形で、維管束痕が』三十~四十『個ほど見られる』。『分類上は幹に棘が少なく、葉裏に毛が多くて白くないものを』品種『メダラ』( Aralia elata f. subinermis )『といい、栽培されるものはむしろこちらの方が普通である』。以下「品種」の項には、『タラノキが本格的に栽培されるようになったのは』一九八〇『年ごろと新しく、系統はごく少ない。メダラと称するとげの少ない濃緑で多収系を選抜したものを、山梨県農業試験場八ヶ岳分場が全国に先駆けて育成普及した品種に、「駒みどり」と「新駒」がある。その他にも、全国各地の農業試験場や民間栽培者が、その地方の優良系を選抜育成した品種も普及している』として、『野生種』について、『とげが多いが、栽培種に比べて格段に風味、香りがよく非常に美味。収穫後の回復力が弱く、個体数が少なく希少である』とした後、四種の品種(系統を含む)が掲げられてあるが、新しい種なので、ここでは不要なので、省略する。従って、以下、長く続く「栽培」関連の項もカットする。以下、「利用」の項。『特に有名なのは、新芽の山菜としての「タラの芽」の利用であるが、樹皮は民間薬として健胃、強壮、強精作用があり、糖尿病にもよいといわれる。材は軽くてやわらかく、下駄や杓子などがつくられる』。『タラの芽』『とは、タラノキの枝先に出る若芽のことで、主に山菜として食用にされる主な旬は』三~四『月で、市場に出回っているものの多くは栽培品である。山菜としては苦味や灰汁は少なく、扱いやすい食材で、天ぷらや揚げ物によく使われるほか、軽く茹でてごま和えや胡桃和えなどの和え物や炒め物にされる』。『栄養素はタンパク質が多めでコク深い味わいがある。山村地域では、古くから春の高級山菜として珍重され、俗に「山菜の王様」と称される』。『トゲがあるため』、『作業用の革手袋などが必要になる。新芽の根元で容易にむしることができるが、鎌等の道具を用いることもある。採取する新芽は、まだ葉が開ききっていない枝の先端の若芽(頂芽)だけにする。枝先の芽を摘んだあとに、やや下から』二『番目や』三『番目の芽が膨らんでくるが、タラノキはあまり枝を出さず、弱りやすい木であるため、それより下の芽は残すようにする。一定の時期を過ぎると候補と成る芽の素は枯れて発芽しない。幼い一本立ちのタラノキ(高さがだいたい膝から腰くらい)の頂芽を取るとその幼木全体が枯れてしまう。なお、枝ごと切ると木が枯れてしまうため、無謀な採取は慎むように注意喚起されている』。『韓国のタラの芽農家では、収穫のあと適当な数だけ残して枝を切り取る(夏には再び大きくなる)。そのまま放置すると』、『タラノキは高さ』三~四『メートルに成長し、収穫も困難になる』。『園芸業者が販売している枝に棘のない品種(メダラ)や別種のリュウキュウタラノキ( Aralia ryukyuensis )を栽培し』、『販売することもある』。『新芽の採取時期は桜の』八『分咲きころに同期しており、里の桜がタラの芽の採取時期でもある。日本では中国地方・四国・九州が』四月頃、『関東地方などの暖地は』四~五月頃、『北海道・東北地方・中部地方の寒冷地は』五月頃『といわれる。栽培する場合、韓国南部では』四『月上旬、中部から北部にかけては』四『月中旬・下旬に収穫する。温室で栽培したものは早春や夏、場合によっては冬にも収穫可能』である。『根元のかたい部分を切り落として、袴(はかま)の部分を取り除く。生のまま、根元の底に切れ込みを入れて天ぷらにするのが一般的で、口いっぱいにひろがる独特の芳香、心地よい苦味とコクが特徴的である。天ぷら以外にも、茹でて水にさらし、おひたしやゴマの和え物、煮びたし、酢の物にしたり、油炒め、汁の実にして食べてもよい。生のまま火であぶって、味噌をつけて食べてもおいしく食べられる。韓国では浅く茹でてチェコチュジャン(酢コチュジャン)をつけて食べるのが一般的。また、しょうゆ漬けにすると苦みは減少し、独特の芳香は濃くなる』。『タラノキ皮として、樹皮は楤木皮(たらのきかわ)、根皮は楤根皮(そうこんぴ)とよんで生薬として用いられる。樹皮の部分は刺老鴉(しろうあ)ともよばれるが、中国薬物名の楤木はタラノキの仲間の別種である』。『乾燥させたタラノキ皮を煎じて』用いると、『血糖降下、健胃、整腸、糖尿病、腎臓病に効用があるといわれる。また、芽をたべることで同じような効果が期待できると言われている。根皮も「タラ根皮」(タラこんぴ)という生薬で、糖尿病の症状に対して用いられる。高血圧や慢性胃炎には皮つき枝を刻んだものでお茶代わりに飲用することもでき、常用しても支障は出ない。暖める作用がある薬草で、熱があったり、のぼせやすい人や、妊婦への服用は禁じられている』。『膵臓のβ細胞に障害を与えた糖尿病モデルに対してタラノメ抽出物を投与したが』、『改善効果は認められなかった』『一方、ラットへのブドウ糖やショ糖の負荷投与に際して血糖値上昇が』、七~八『割も抑制された。このことから、タラノメは糖尿病の治療というよりも予防や悪化防止に効果があると考えられるとする報告がある』。『なお、タラノキ材は小細工用に使われる』。『芽』の出し始め『は有毒のヌルデ』(ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis当該ウィキに、『葉にできた』虫癭(ちゅうえい)『を五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』とある)『やヤマウルシ』(ウルシ科ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum )『にも似ているが、これらの木はトゲがないことから見分けられる』とあった。但し、ここで最後の二種を『有毒』と言っているのはウルシかぶれを指しているに過ぎない。特に前者ヌルデは一般的には、ヤマウルシと比較すると、かぶれはそれほど強くはないとされる(私は四十代で発症し、両方ともダメだが)。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「楤木」([088-80b]以下。かなり短い)の「集解」からのパッチワークである。

『「倭名抄」、「桵」を以つて、「太良」と訓《くんずる》は、非なり。「桵」≪は≫、則ち、「蕤核」≪なり≫。前を見よ』は、既に前の「㽔核」で同じことを良安が言っているので、詳細に注をしてあるから、そちらを参照されたい。

「鵲踏(《かささぎ》ふ)まず」「鵲」はズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea同種の日本での分布は、限定的であり、良安は実物を見たことがない可能性が高い。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。

「獨-活(うど)」セリ目ウコギ科タラノキ属ウド Aralia cordata。若葉・蕾・芽・茎の部分が食用になり、香りもよい。蕾や茎は初夏五~六月と採取出来る期間が短いが、若葉はある程度長期間に渡って採取することが可能である。私も好物だ。参照したウィキの「ウド」によれば、『根茎を独活(どくかつ)と称し』、『独活葛根湯などの各種漢方処方に配剤されるほか、根も和羌活として薬用にされる』。『秋に根を掘り取って輪切りにし天日干ししたものを用いて、煎じて服用すると、体を温めるとともに頭痛や顔のむくみに効用があるとされる』。『また、アイヌ民族はウドを「チマ・キナ」(かさぶたの草)と呼び、根をすり潰したものを打ち身の湿布薬に用いていた。アイヌにとってウドはあくまでも薬草であり、茎や葉が食用になることは知られていなかった』とある。

「椒《さんしやう》」。山椒。ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 三谷山遊火

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

    三谷山(みたにやま)遊火(あそびび)

 三谷山の遊火は、

「徃古(わうこ)はなかりしに、元祿・宝永の頃より、出(いづ)る。」

と云へり。

 深更に及び、陽貴山(やうきざん)の「馬場先き縄手」に來り、又は、吸江(ぎうかう)の海上に來(きた)る。

 又、城下へも來り、見たる者、數々、有(あり)、とぞ。

 眼前に有(ある)か、と、すれば、須臾(しゆゆ)にして、五丁、十町[やぶちゃん注:五百四十五・五メートル~一・〇九一キロメートル。]斗(ばかり)、外(ほか)にあり。

 其火、別(わか)つて[やぶちゃん注:ここは「べつして」の方が躓かない。]、いくつといふ事もなく、又、一つに集(あつま)る事、度々(たびたび)也。

 吸江の海にて、夜釣する船に上(あが)りたる事、度々、あり。

 人に害をなしたる事なけれども、人、行逢(ゆきあ)へば、恐(おそる)る也。

 

[やぶちゃん注:「三谷山」は「国土地理院図」のここの標高三百七十九・四メートルのピークがそこ。グーグル・マップ・データ航空写真では、ここで、南の「JR高知」からは、真北直線で三・二十七キロメートル位置(椎名峠の東方)であり、この山は、別に「土佐山」とも呼ぶ。但し、この山の北西域には地区名に「土佐山」を含む箇所が、かなり、広く存在するので、注意が必要。私は、この「三谷山」に限定して読む。

「遊火」これについては、私の記事では、古くは、「耳囊 卷之九 鬼火の事」で、最近では(と言っても三年前)、『「和漢三才圖會」卷第五十八「火類」より「㷠」(燐・鬼火)』の注で、同じウィキの「鬼火」を引いた中に、この記事を参考にしたと思われる解説がある。

「元祿・宝永」一六八八年十月二十三日から一七一一年六月十一日まで。徳川綱吉・家宣の治世。

「陽貴山」現在の高知県高知市薊野中町(あぞうのなかまち)にある臨済宗相国寺派の「陽貴山國淸寺」である。本「南路志」によると、寛永一八(一六四一)年に日讃を開山として二代藩主山内忠義(一豊の同母弟康豊の子)が牛頭天王(現在の東北直近の森の中にある掛川神社)の宮寺として建立し、寺領百石が与えられていたという(寺伝は慶長五(一六〇〇)年創建とする。しかし、当時の藩主は、まだ初代山内一豊であり、忠義は僅か満八歳であって、藩主就任は慶長十五年である)。創建当時は天台宗東叡山末で門主支配の寺であったという。

「馬場先き縄手」土佐国の城下の絵図を探したが、この寺の位置は、城下の東北で、調べたものでは、その区域が絵図外であり、確認出来なかった。

「吸江(ぎうかう)」地名。地区名は高知県高知市吸江(ぎゅうこう:グーグル・マップ・データ)。国分川(こくぶがわ)の左岸河口。拡大すると、ここに臨済宗妙心寺派五台山吸江禅寺(ぎゅうこうぜんじ)があるが、ここの地名は、元は、この寺の名(厳密にはこの寺の南西直近の入江の名)が由来である。当該ウィキによれば、鎌倉末期の文保二(一三一八)年、『夢窓疎石が』、『北条高時の母』『覚海尼による鎌倉への招請から逃れるため』、『四国に渡り、土佐国の五台山』(吸江の西後背に広がる山体。グーグル・マップ・データ航空写真を参照)『の山麓に結んだ草庵を起源とする』。『夢窓が草庵の前に広がる浦戸湾を「吸江」と命名したことで、草庵は吸江庵と称されるようになった』。『疎石は』二『年余りで吸江庵を離れたが、義堂周信や絶海中津などによって引き継がれた』。『夢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこともあって、室町幕府の厚い庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれた。室町時代には長宗我部氏が代々当寺の寺別当を務めた。江戸時代の慶長』六(一六〇一)年『には、土佐藩主山内一豊の命を受けた義子の湘南宗化』(そうけ)『により中興され、この』時、『寺号を吸江寺と改めて現在に至っている』とあった。]

2024/08/17

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注 始動 / 「巻三十六」「目録」・「御城内蚊柱嘉瑞」

[やぶちゃん注:「神威怪異竒談」の正規表現電子化注を始動する。所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(土屋順子氏校訂)の土屋氏の「解題」に拠れば、これが収載されてある「南路志」は、土佐の歴史・地理・故実を記録した全百二十巻に及ぶ膨大な綜合民俗地誌で、高知城下の豪商(呉服・薬等を扱っていた)にして国学者でもあった武藤致和(むとうむねかず:寛保元(一七四一)年生まれで、文化一〇(一八一三)年七十三歳の時に本書を完成させ、同年九月五日に没した)と長男平道(ひらみち)の親子が中心となって編纂し、最終的に文化一二(一八一五)年に完成させたものである(致和の「序記」のクレジットは文化十年正月)。「南路志」原本は焼失して残っていないが、六つの機関に写本が残り、特に天理大学所蔵のそれは、全巻が揃っている。内、以上の二巻は、「闔國之部拾遺」(「闔國」は「こうこく」で「土佐国全国」の意)の中にあり、『土佐の国に伝わる神威・怪異・奇談・神社仏閣の来歴・大木の由来等について、多岐にわたって歴史的。故実的研究がなされている。対象年代は長宗我部元親の時代の話が六話あり』、『最古の咄は、平宗盛の時代に及ぶ。年次の確認ができるものは、古くは文明三』(一四七一)『年から、新しくは文化四』(一八〇七)『年までの咄が収録されている。土佐の国の地誌的要素も強く、咄の舞台も郡村名までが全話明示されている』とあった。記事の性質上、重複するものがあるが、土屋氏が内容別に数えられた話の数を総て足すと、百三十一に及ぶ。私の、このブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅰ」「怪奇談集Ⅱ」や、ブログ・カテゴリで独立させたその他(「耳囊」「宗祇諸國物語」等々)で電子化注したもの中では、創作されたものでないこと、時代が平安後期にまで遡ること、多岐に亙る奇談・怪談等を載せていることから、所謂、近世怪奇談集を超えて、遙かに古い時代までドライヴしている点で、非常に興味深い作品である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの写本の同巻(ここと、ここ)の画像を用いる。但し、前掲の「近世民間異聞怪談集成」に載るものを、OCRで読み込み、加工テクストとさせて戴く。ここに御礼申し上げる。但し、この当該パートは崩し字の誤判読が、結構、多いことが、電子化していて、早々に判った。しかも、初歩的な誤読で、ちょっと、呆れた。いちいち注記しないが、高価な本であるだけに(一万八千円)、ちょっと残念だ。「近世民間異聞怪談集成」の底本は、『国立国会図書館蔵(一部独立行政法人国立公文書館内閣文庫蔵)』とあるので、前者は私の底本と同じであるから、不審な箇所は「国立公文書館」の同巻の画像を調べる(底本は奇麗な草書体だが、国立公文書館本写本の方が、字が濃く、遙かに読み易い)。

 底本の写本では、ルビは極めて少なく、カタカナで記されてある。しかし、かなり難読な箇所も多いので、底本のルビは「カタカナ」で( )でそのまま添え、「近世民間異聞怪談集成」で土屋氏が添えた読みを参考にさせて戴き、「ひらがな」で( )で添えることとした熟語の一部の場合は「カタカナ」と「ひらがな」を混在させた)。二行割注は【 】で同ポイントで示した。また、濁点は殆どないが、読み易さを考えて、推定で濁音化した。これは注記はしない。

 各話の標題は以下の「目録」にのみあって、本文にはないが、本文の前に「目録」のそれを、再掲しておいた。「近世民間異聞怪談集成」も同じ処理をしている。

 各篇は、初行行頭で、ベタで二行目以降は一字下げとなって書かれてあるが、読み易さを考え、句読点・段落・記号・直接話法等の改行等を自由に起こした。

 草書体で、正字か異体字か迷ったものは、正字を採用した。約物(「ゟ」等)は正字化した。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字或いは「々」とした。

 注はストイックに、割注にしたり、段落後、或いは、各話の最後に附すこととする。

 以下、「目録」。字空けは、ブラウザの不具合を考えて、それらしくはしたが、同じではない。中標題「神 威 怪 異 竒 談」とある後は、直ぐに標題が続いているが、紛らわしいので、一行空けた。

 正直、「和漢三才圖會」植物部を、毎日一つは、やっつけていると、脳髄の底に、竹ならぬ、樹木の根が広ごって、悶々としてきて、百会(ひゃくえ)に尖った針状の長い棘が生えたような気になるものだから、それを、和らげるために、この仕儀を始めるのである。

 

 

南 路 志 巻 三 十 六

    闔 國 十 二 之 一 目 録

神 威 怪 異 竒 談

 

御 城 内 蚊 柱 嘉 瑞

三 谷 山 遊 火

安 喜 郡 白 濵 之 起 龍

幡 多 郡 上 山 之 蝮

同 郡 九 樹 村 私 雨(ワタクシアメ)

同 郡 足 摺 山 午 時 雨

安 喜 郡 甲 浦 楠 嶋 傾 城 亡 霊

小 河 平 兵 衞 怪 異

長 岡 郡 山 田 村 與 樂 寺 住 持 之 歯

谷 秦 山 翁 夢 中 之 歌

海 犬

西 寺 怪 異

槿 花 宮

香 我 美 郡 山 北 村 笑 男

土 佐 郡 荊 野 山 怪 異

吉 田 甚 六 宅 光 物

篠 之 實

濱 田 吉 平 幽 霊

威 德 院 全 元 嘉 瑞

豊 永 郷 下 土 居村 怪 獣

安 喜 郡 馬 路 村 怪 獣

幡 多 郡 沖 之 嶋 怪 異

同 郡 小 浦 之 怪 異

同 郡 柏 島 之 龍

潮 江 村 之 龍

西 寺 半 鐘

幡 多 郡 下 山 橘 村 雨 乞

久 札 野 村 雨 乞

韮 生 郷 美 良 布 社 降 鐘

同 郡 荒 瀬 村 黒 白 水

潮 江 村 入 道 谷 毒 氣

小 野 村 百 姓 古 法 眼 画

幡 多 郡 戶 内 村 鰐 口

潮 江 村 天 滿 宮 牽 牛 之 繪 馬

幡 多 郡 有 岡 村 真 静 寺 本 尊

享 保 十 二 未 年 大 災

髙 岡 郡 龍 村 無 盜 賊

幡 多 郡 伊 与 木 郷 庄 屋 不 閉 門

公 御 判

安 喜 郡 田 野 浦 地 藏

小 髙 坂 村 地 中 之 鰻

鸛 知 凶 事

種 﨑 浦 神 母 社 威 霊

國 澤 右 衞 門 祖 母 掌 文

[やぶちゃん注:「杦」は「杉」の異体字。

﨑 之 濵 鍛 冶 之 祖 母

比 江 村 百 姓 狼 之 毒

森 田 日 向 占

岩 佐 村 三 亟 竒 事

[やぶちゃん注:「竒」は「近世民間異聞怪談集成」では、「寺」となっているが、底本国立公文書館本も孰れも「竒」であり、本文を見ても、「寺」ではあり得ない。そもそも本文をちゃんと読めば、「寺」でないことは明々白々だ。そうした初歩的点検をも忘れた、呆れ果てた判読である。]

野 根 村 魔 所

同     奇 怪

宝 暦 六 年 赤 氣

山 狸

長 濵 村 三 平 蘓 生

鷲 𤔩 人 吉 本 蟲 夫 歌

[やぶちゃん注:「𤔩」は、この場合は「摑(つか)む」の意。「近世民間異聞怪談集成」では、「蟲」(そちらの表記は「虫」)を右補正注して『(義)』とする。これは、当該話で再検討する。]

神 祭 之 莭 キヨウジ

[やぶちゃん注:「莭」は、底本も公文書館本も、「節」を(くさかんむり)にしたそれで、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので最も近いと判断したこれとした。また、「キヨウジ」は本文を見るに、「ギヤウジ」(=行事)である。「近世民間異聞怪談集成」では、補正されてある。]

安 喜 郡 野 川 村 【百 姓 喜 市 郎 妻】 殺 蝮

永 田 段 作 殺 狼

伊 勢 國 與 茂 都 占

野 根 浦 之 内 並 川 村 【茂 次 兵 衞】 大災

九 反 田 之 鼠 喰 稲

三 津 浦 幽 霊

久 保 源 兵 衞 滅 亡

峯 寺 觀 音 威 霊

[やぶちゃん注:「峯」の下は、底本も公文書館本も、有意に通常の倍の字空けがあるが、本文を読んでも、特にそうする意味を私は認めないので、再現していない。「近世民間異聞怪談集成」でも「目録」でも、各篇冒頭でも、字空けは、ない。]

佐 川 西 山 洞 穴 之 和 銅 之 字

種 﨑 浦 稻 荷 社 怪 女

弘 岡 町 蛭 子 堂 之 大 黒

 

南 路 志 闔 國 第 十 二 之 一 目 禄

[やぶちゃん注:底本では、書写行数の関係上、この最後の一行は、底本のここの、見開き右丁の前を空白にした最終行に記されてある。

 以下、左丁の本文となる。本文の第一話以降の挿入標題では、字間はカットした。]

 

 

南 路 志 巻 三 十 六

               武 藤 致 和 集

  闔 國 第 十 二 之 一

 〇 神 威 怪 異 奇 談

 

   御城内蚊柱(かばしら)嘉瑞(かずい)

 

 元祿年中、御城内より、蚊柱、立(たつ)事あり。

「御城北の口の藪より、上へ、三、四尺も立(たち)ける。」

と也。

「本(もと)の大(おほい)さ、柱程の廻(めぐり)にて有(あり)けるが、何本も立(たち)し。」

と也。

 其比、秀都(ひでいち)と云(いふ)座頭、占(うら)を、よく仕(し)けるが、人々、蚊柱の事を問(とひ)ければ、

「何の事も無之(これなく)候。御加增にて候。」

と申(まうし)ける。

 果たして、幡多(はた)三萬石、御加增被遊(あそばされ)ける。

 

[やぶちゃん注:「蚊柱」小学館「日本大百科全書」より引く。『昆虫類のカ』(双翅(ハエ)目長角(糸角・カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae)・『ユスリカ』(カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae)・『ヌカカ』(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidae:こやつ等は刺されると、滅法、痒い)・『ガガンボ』(カ亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae)『など』の『双翅』『目長角群の昆虫が、上下左右に飛びながら』、『柱状に群集する現象をいう。蚊柱は全体として上下に移動するが、地上にある突起物や周囲と色の違う紋様を中心にその上方でつくられ、木の梢』『の上、枝先の下でみられることもある。構成は普通、雄だけで、雌がこれに飛び入り』、『雄と交尾することが観察されているので、生殖のための行動といわれているが、雌だけの群飛や』一『種類だけでない場合もある。蚊柱ができるのは』、『夕暮れ』や『夜明けが多いが、種類と天候により』、『日中にもできる。双翅類以外でも蚊柱と同じ現象が、カゲロウ』(有翅亜綱旧翅下綱カゲロウ(蜉蝣)目 Ephemeroptera)・『トビケラ』(毛翅上目トビケラ目 Trichoptera)・『カワゲラ』(カワゲラ目 Plecoptera)・『クビナガカメムシ』(カメムシ目異翅亜目クブナガカメムシ上科クビナガカメムシ科 Enicocephalidae)『などでみられる』。私は、少年時代、しばしばガガンボのそれを自宅のそばで、よく見かけたものだったが、最近は自然環境の破壊や変化で、トンと見なくなった。教え子の中には、「蚊柱はガガンボだから刺さないから平気ですよ。」と主張している者がいたが、それは、上記の通りで、誤りである。まんず、刺すのは♀だから、まんず、あの旋風の中に入っても、刺されることは少ないが、周辺に♀はくるから、ご用心。知られた痒いし、感染症を媒介するカ科ナミカ亜科ナミカ族イエカ属アカイエカや、コガタアカイエカ Culex tritaeniorhynchus も「蚊柱」を作りますぞ

「幡多」「幡多郡(はたのこほり)」。高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。

「幡多(はた)三萬石、御加增被遊(あそばされ)ける」いろいろ、調べてみたところ、「高知城歴史博物館」公式サイト内の「土佐藩の歴史-中期-」の冒頭の「中村支藩の成立と改易」を見ると、元禄二(一六八九)年に土佐国高知藩(土佐藩)の支藩土佐中村藩(現在の四万十市)藩主第三代山内豊明が、将軍綱吉の怒りを買い、改易処分となったとあり、『中村は一時』、『幕府の預地とな』った『が、最終的には土佐藩の直轄領に戻され、以後』、『中村には幡多郡奉行が置かれ』たとあることから、当時の高知藩(土佐藩)第四代藩主山内豊昌(とよまさ 寛永一八(一六四一)年~元禄一三(一七〇〇)年:藩主在位は寛文九(一六六九)年から没年まで)の閉区間の加増と判明した。]

2024/08/16

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 㽔核

 

Henkakuboku

 

[やぶちゃん注:上部に三個の種子の図がある。]

 

とりとまらず 白桵【㽔與桵同】

すいがく   【俗云不鳥止】

㽔核

 

スイ ホツ

 

本綱㽔核樹高五七尺叢生葉細似枸𣏌而狹長花白子

[やぶちゃん字注:「𣏌」は「杞」の異体字。以下同じ。]

附莖生紫赤色大如五味子其花實㽔㽔下垂故謂之桵

莖多細刺其子入藥用中仁或合殻用

仁【甘温】強志明耳目一切眼科良藥【春雪膏百㸃膏撥雲膏等眼藥入用】

△按倭名抄以桵訓太良者非也太良者楤也【見于後】

 山谷中有木髙三四尺葉小團長似黃楊葉又似枸𣏌

 葉而厚其子九月熟赤色枝葉間刺多鳥不能來止故

 俗呼曰鳥不止恐此㽔核矣

 

   *

 

とりとまらず 白桵《はくずい》【「㽔」と「桵」は同じ。】

すいがく   【俗に云ふ、「鳥止《とりとま》らず」。】

㽔核

 

スイホツ

 

「本綱」に曰はく、『㽔核≪の≫樹、高さ五、七尺。叢生す。葉、細くして、「枸𣏌《くこ》」に似て、狹《せば》く、長≪し≫。花、白く、子《み》、莖に附きて、生ず。紫赤色。大いさ、「五味子《ごみし》」のごとし。其の花・實、㽔㽔《すいすい》として[やぶちゃん注:「草木に多くの花・実がつき、その重みで枝が垂れるさま」を言う。]、下《さが》り垂れ、故《ゆゑ》、之れを「桵《ずい》」と謂ふ。莖に細き刺《とげ》、多し。其の子、藥に入《いる》るに、中の仁《にん》を用ゆ。或≪いは≫、殻を合≪はせて≫用ゆ。』≪と≫。

『仁【甘、温。】志[やぶちゃん注:精神。]を強くし、耳・目を明《めい》にし、一切≪の≫眼科の良藥≪なり≫【「春雪膏」・「百㸃膏」・「撥雲膏」等、眼藥に入れ、用ゆ。】。』≪と≫。

△按ずるに、「倭名抄」に、「桵」を以つて、「太良《たら》」と訓ずるは、非なり。「太良」とは、「楤《ソウ/たらのき》」なり【後《うしろ》を見よ。】。

 山谷の中に、木、有り、髙さ、三、四尺。葉は、小さく、團《まろく》、長《ながし》。「黃楊(つげ)」の葉に似、又、「枸𣏌《くこ》」の葉に似て、厚し。其の子《み》、九月、熟≪せば≫、赤色。枝葉の間、刺《とげ》、多く、鳥、來《きて》、止かること能はず。故《ゆゑ》≪に≫、俗、呼んで、「鳥止《とりとま》≪ら≫ず」と。恐らくは、此れ、「㽔核」≪ならん≫。

 

[やぶちゃん注:核」の「」が見慣れない漢字で、邦文で種同定しているものを探すのに、ちょっと手間取ったが、やっとこさっとこ、これは、

双子葉植物綱バラ目バラ科モモ亜科 Osmaronieae 亜連 Prinsepia(プリンセピア)属(中文名「扁核木屬」)ヘンカクボク(中文名「蕤核」) Prinsepia uniflora (プリンセピア・ユニフローラ)

であることが判った(「㽔」は「蕤」と同字)。「維基百科」の「蕤核」によれば、『中国固有種。陝西省・四川省・河南省・山西省・甘粛省・内モンゴル自治区などに分布し、主に日当たりの良い斜面や山麓の標高九百メートルから千百メートルの地域に生育する。未だ人工的に栽培されていない』とあり、「別名」の項に、『蕤李子(「救荒本草」)・扁核木(「中國樹木分類學」)・單花扁核木(「經濟植物手冊」)・山桃(河南)・馬茹(陝西)・茹茹(山西)』とあり、「異名」(シノニム)の項に、

Prinsepia uniflora Batal. var. serrata Rehd.

った。フランス語の同種のウィキには(珍しく英文ウィキは存在しない)、『二種の野生変種がある』とあって、

Prinsepia uniflora var. serrata Rehd.(中文の示すシノニムと同じ)

Prinsepia uniflora var. uniflora(これは種小名から見て、恐らくタイプ種のシノニムであろう)

を掲げ、同種は『高さ一~二メートルの低木で、丈夫な枝で、六ミリメートルから一センチメートルの棘(とげ)を持つ』。『無茎種の葉は長楕円状の披針形を成し、長さは二~六センチメートル✕〇・六~〇・八センチメートルで、縁には鋸歯がある』。『花は腋生で、一~三個、束状に咲き、直径八ミリメートルから一センチメートルの白色で、五~六ミリメートルの白い倒卵形の花弁を、五枚、つけている。カップ状の容器の端に十本の雄蕋がある』。『花は強い蜂蜜の香りを放つ。葉が成長する前、フランスでは四月(中国では五月)に開花が始まる』。『果実は赤褐色の核果で直径約一センチメートルで、光沢がある。食用となる』とし、本種の主たる原産地を『中国の青海省・四川省・内モンゴル自治区の三角地帯の』『海抜九百から一千メートルの高地に生育する』とある。『温帯地域で栽培される 観賞用低木で』、『果実は生で食べることができ、その種は、スープに入れて食される』とあった。最後に言っておくと、本邦には自生しない。従って、最後の良安の謂いは、ハズレである(最終注参照)。私は同種を見たことがない(と思う)ので、学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「㽔核」([088-30a]以下)のパッチワークである。

「枸𣏌《くこ》」ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 。根皮は、漢方で清涼・強壮・解熱薬などに用い、「地骨皮」「枸杞皮」と呼ぶ。

「五味子《ごみし》」被子植物門アウストロバイレヤ目 Austrobaileyales マツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica 。常緑蔓性木本の一種。当該ウィキによれば、『単性花をつけ、赤い液果が球形に集まった集合果が実る。茎などから得られる粘液は、古くは整髪料などに用いられた。果実は生薬とされることがあり、また美しいため観賞用に栽培される。古くから日本人になじみ深い植物であり』、「万葉集」にも、多数、『詠まれている。別名が多く』、『ビナンカズラ(美男葛)の名があ』り、『関連して鬢葛(ビンカズラ)』、『鬢付蔓(ビンズケズル)』、『大阪ではビジョカズラ(美女葛)と称したともいわれる』とあり、具体な精製法は、茎葉を二『倍量の水に入れておくと粘液が出るので、その液を頭髪につけて、整髪料として利用』した。既に『奈良時代には、整髪料(髪油)としてサネカズラがふつうに使われていたと考えられて』おり、それは、『葛水(かずらみず)、鬢水(びんみず)、水鬘(すいかずら)とよばれた』、『また』、『サネカズラを浸けておく入れ物を蔓壺(かずらつぼ)、鬢盥(びんだらい)といったが、江戸時代には男の髪結いが持ち歩く道具箱を鬢盥というようになった』とある。また、『赤く熟した果実を乾燥したものは』、『南五味子(なんごみし)と』呼ばれ、生薬とし、『鎮咳、滋養強壮に効用があるものとされ、五味子(同じマツブサ科』マツブサ属チョウセンゴミシ Schisandra chinensis 』『の果実)の代用品とされることもある』。但し、『本来の南五味子は、同属の Kadsura longipedunculata ともされる』とある。

「桵《ずい》」は「白桵・白㮃」(孰れも「ハクズイ」と読む)で、本種 Prinsepia unifloraを示す別漢字である。

「春雪膏」本邦漢方処方についての論文内に眼科薬として挙がっていた。

「百㸃膏」不詳だが、「百」「㸃」から所謂、何度も点眼できる薬であろう。

「撥雲膏」不詳だが、「撥」(はねる・はじく)と「雲」から所謂、眼の曇りを直す薬であろう。

『「倭名抄」に、「桵」を以つて、「太良《たら》」と訓ずるは、非なり』源順の「和名類聚鈔」の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版の当該条を参考に、推定訓読する。

   *

桵(タラ) 「爾雅注」に云はく、『桵【音「蕤」。和名、「太良」。】は、小木の叢《むらが》り、生《しやう》じて、刺(ハリ)、有るなり。

   *

『「太良」とは、「楤《ソウ/たらのき》」なり【後《うしろ》を見よ。】』最後の割注は、実は、この次の項が「楤木(たらのき)」であることの「見よ見出し」なのである。そちらで詳細に考証するが、「楤」はセリ目ウコギ科タラノキ属タラノキ Aralia elata である。当該ウィキをリンクさせるに留める。

「黃楊(つげ)」ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica である。当該ウィキをリンクさせておく。

「枸𣏌《くこ》」ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 。根皮は、漢方で清涼・強壮・解熱薬などに用い、「地骨皮」「枸杞皮」と呼ぶ。当該ウィキをリンクさせておく。

『俗、呼んで、「鳥止《とりとま》≪ら≫ず」と。恐らくは、此れ、「㽔核」≪ならん≫』これは、ハズれである。これは、キンポウゲ目メギ科メギ属メギ Berberis thunbergii である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『目木』で、『別名では、コトリトマラズ、ヨロイドオシともよばれる』(とあるが、「金澤 中屋彦十郞藥局」公式サイト内の「●鳥不止(とりとまらず、トリトマラズ)」で、メギの異名を『鳥不宿(とりとまらず)』とし、『関東以西、四国、九州に普通に分布するメギ科の落葉低木、メギの枝や幹の木部を用いる』。『枝には鋭いトゲがあり』、『トリトマラズといわれている』とあった)。『和名メギの由来は、茎や根を煎じて洗眼薬に利用されていたので「目木」の名がある。枝に鋭い棘を多く生やし、鳥がとまれそうにないことから、コトリトマラズの別名でも呼ばれる』。『落葉広葉樹の低木で、樹高』二『メートル』『ほどまで成長し、よく枝分かれする。樹形は株立ち。樹皮は灰褐色から褐色で、縦にやや不規則な割れ目がある。枝は赤褐色から褐色で、顕著な縦の溝と稜が目立つ。枝の節や葉の付け根には長さ』五~十二『ミリメートル』『の棘があり、徒長枝の葉の付け根には』三『本に分かれた棘がある。樹皮は黄色の染料になる』。『葉は単葉で、新しく伸びた長枝には互生し』、二『年枝の途中から出た短枝には束生する。葉身は長さ』一~五『センチメートル 』、『幅』〇・五~一・五センチメートル『の卵倒形から狭卵倒形、またはへら形で、先端は鈍頭または円頭、基部は次第に細くなって短い葉柄になり、最大幅は先寄り。葉縁は全縁で、表面は薄い紙質で無毛、裏面は色々を帯び』、『無毛』で、四~五『月に若葉を出す』。『開花時期は』四~五『月。新葉が出るころに単枝から小形の総状花序または散形花序を出し、直径約』六ミリメートル『の淡黄色から緑黄色の花を』二~四『個』、『下向きに付ける。花弁の長さは約』二ミリメートル『で』六『個。萼片は』六『個あり、長楕円形で花弁より大きく、淡緑色にわずかに紅色を帯びる。雄蕊は』六『個で花柱は太く、触ると』、『葯が急に内側に曲がる。雌蕊は』一『個』。『果実は液果で、長さ』七ミリメートルから一センチメートル『の楕円形』で、十~十一『月に鮮やかな赤色に熟す。アルカロイドの』一『種のベルベリン』(berberine:ベンジルイソキノリンアルカロイド(benzylisoquinoline alkaloids)の一種。「ベルベリン」という名は翻種の属名 Berberis に由来する。当該ウィキによれば、)『抗菌・抗炎症・中枢抑制・血圧降下などの作用があり、止瀉薬として下痢の症状に処方されるほか、目薬にも配合される』が、『腸管出血性大腸菌O157などの出血性大腸炎、細菌性下痢症では、症状の悪化や治療期間の延長をきたすおそれがあるため』、『原則として禁忌である』。『ベルベリンの抗炎症作用は』免疫反応において中心的役割を果たすとされる『NF-κB遺伝子』(nuclear factor κB)『の不活性化等に基づくとされる』。『動物実験では、糖尿病性腎症の発症・進展抑制効果が示唆された』とあった)『を含む。秋は熟した赤い果実と紅葉が美しく、冬になっても果実が残る』。『冬芽は枝に互生し、棘の基部につく。冬芽の大きさは小さく、長さは』二ミリメートル『ほどで、赤褐色をした数枚の芽鱗に包まれている』。『ブラジルではこの植物は日本のメギとして広く知られており、生垣や花壇で広く栽培されてい』るという。『日本では、本州の東北地方南部から、四国と九州にかけての温帯地域に分布する』。『山地から丘陵にかけての林縁や原野に生育し、蛇紋岩の地でもよく生育する。自然分布の他、人の手によって植栽されて生垣としての庭木や公園樹として利用されている』。『秋田県では分布域が限定され、個体数が希少であることからレッドリストの絶滅危惧種IB類(EN)の指定を受けていて、森林伐採や道路工事による個体数の減少が危惧されている。新潟県と鹿児島県では、絶滅危惧II類(VU)の指定を受けている。大阪府では準絶滅危惧の指定を受けている。国レベルではレッドリストの指定を受けていない』。『葉が赤紫色の栽培品種(アカバメギ)』(Berberis thunbergii 'Atropurpura' )『があり、黄金葉や歩斑入りの栽培品種もある』。以下の二種の「近縁種」が載る。

オオバメギ(大葉目木)Berberis tschonoskyana (『メギよりも葉が大きく、棘が少なく、枝に稜がない』)

ヘビノボラズ(蛇登らず)Berberis sieboldii (『葉に鋸葉があり、湿地周辺のやせ地に生育する』)]

2024/08/15

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 酸棗仁

 

Sanebutonatume

 

[やぶちゃん注:右上方に「仁」(=種)の絵が描かれて、キャプションがある。]

 

さんそうにん樲  山棗

 

酸棗仁

 

ワワン ツア

[やぶちゃん字注:「さんそうにん樲」の文字列はママ。訓読では一字空けた。]

 

本綱酸棗仁天下皆有之似棗木而皮細其木心赤色莖

葉俱青花似棗花八月結實紫紅色似棗而圓小味酸其

核中仁形微扁味甘此物纔及三尺便開花結子伹科小

者氣味薄木大者氣味厚今陝西山野所出者亦好

 凡平地則昜長大居崖塹則難生而其不長大者名白

 棘故白棘多生崖塹上及至長成其刺亦少

實【味酸性收】 主肝病寒熱結氣酸痺久洩臍下滿痛證

仁【味酸性收】 熟用療膽虛不得眠煩渴虛汗之證生用療膽

 熱好眠皆足厥陰少陽藥也【正如麻黃發汗其根節止汗也】

 本經不言用仁而今天下皆用仁【悪防已】


白棘 棘刺 棘鍼 赤龍瓜

     花名刺原 馬朐 菥蓂【大薺同名非一物也】

[やぶちゃん注:「瓜」は、原本では第五画がない「瓜」の異体字、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「瓜」とした。]

「本綱」に曰はく、『酸棗之未長大時枝上刺也有赤白二種而入藥當

用白者爲佳【辛寒】治心腹痛癰腫潰膿止痛

凡獨生而高者爲棗列生而低者爲棘故【重束爲棗平束爲棘】

 

   *

 

さんそうにん 樲《じ》  山棗《さんさう》

 

酸棗仁

 

ワワン ツア

 

「本綱」に曰はく、『酸棗仁《さんさうにん》、天下、皆、之れ、有り。棗《なつめ》の木に似て、皮、細《さい》なり。其の木、心《しん》、赤色。莖・葉、俱に、青し。花、棗の花に似にて、八月、實を結ぶ。紫紅色。棗に似て、圓《まろ》く、小さし。味、酸《すつぱし》。其の核《さね》の中の仁《にん》の形、微《やや》扁(ひら)たく、味、甘し。此の物、纔《わづか》に、三尺に及べば、便《すなは》ち、花を開きて、子《み》を結ぶ。伹《ただし》、科《ねもと》[やぶちゃん注:「根元」。]、小さき者は、氣味、薄く、木、大なる者は、氣味、厚し。今、陝西《せんせい》の山野より出《いづ》る所≪の≫者、亦、好し。』≪と≫。

『凡そ、平地にては、則ち、長大し昜《やす》く、崖《がけ》・塹《あな》に居《を》れば、則ち、生じ難くして、其の長大ならざる者を、「白棘《はくきよく》」と名づく。故《ゆゑ》、白棘は、多く、崖・塹の上に生ず。長成に至るに及びて、其の刺、亦、少《すくな》し。』≪と≫。

『實【味、酸、性、收。】 肝病、寒熱≪の≫結氣、酸痺《さんひ》の久しく洩れ≪て≫臍の下≪に≫滿痛《まんつう》≪せる≫證《しやう》を主《つかさど》る。』≪と≫。

『仁【味、酸、性、收。】 熟して、用ふれば、膽虛《たんきよ》して眠ること≪の≫得られざる煩渴《はんかつ》[やぶちゃん注:口の渇きが甚だしく、幾ら飲んでも飲み足りない病態を指す語。]、虛汗《ひやあせ》の證を療《いやし》、生にて用ふれば、膽《たん》≪の≫熱≪して≫好《このみ》て眠《ねむる》を療《いやす》。皆、足の厥陰・少陽の藥なり【正《まさ》に、「麻黃《まわう》」の、汗を發し、其の根の節《ふし》、汗を止《とむ》るごときなり。】。』≪と≫。

『「本經」に、仁を用ふること、言はず。而≪れども≫、今、天下、皆、仁を用ふ【「防已《ばうい》」を悪《い》む。】。』≪と≫。


白棘 棘刺《きよくし》 棘鍼《きよくしん》 赤龍瓜《せきりゆうさう》

     花を「刺原《しげん》」と名づく。 馬朐《ばく》 菥蓂《せきめい》【大薺《おほなづな》と名を同じくして、一物に非ざるなり。】

[やぶちゃん注:最後の割注は良安が附したものである。]

「本綱」に曰はく、『酸棗の未だ長大ならざる時の、枝の上の刺(はり)なり。赤・白の二種、有りて、藥に入《いる》るには、當《まさに》、白≪き≫者を用《もち》≪ふるを≫、佳《よし》と爲《なす》【辛、寒。】。心腹痛を治《ぢし》、癰腫《ようしゆ》≪の≫膿《うみ》≪を≫潰《つぶ》し、痛《いたみ》を止《とむ》。』≪と≫。

『凡そ、獨生《どくせい》して、高き者を、「棗《さう》」と爲し、列生して、低き者を、「棘」と爲《なす》。故《ゆゑ》に、【重≪ねたる≫「束」を「棗」と爲し、平《ならべ》≪たる≫「束」を「棘」と爲す。】。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:取り敢えず、メインの「酸棗仁」は「酸棗」の「仁」(種子)を意味する漢方生薬名であって、植物種としての中文名は「酸棗」であって、日中ともに、

双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ科ナツメ属サネブトナツメ Ziziphus jujuba var. spinosa

である。まず、「維基百科」の「酸棗」(解説はない)で、学名が一致することが判る。何より、最初に、所持する「廣漢和辭典」の「樲」で、同種であることを確認出来た。その後、「武田薬品工業株式会社 京都薬用植物園」公式サイト内の「サネブトナツメ」のページによれば、『生薬名:サンソウニン(酸棗仁) 薬用部位:種子』として、『ヨーロッパから中国にかけて分布する落葉小高木で托葉が変化したとげが見られ』(冒頭にキョワい棘の写真あり!)、『学名の spinosa は多くの刺があるという意味を示しています。生薬「酸棗仁」は種子を乾燥したものでジジベオシド(ベンジルアルコール配糖体)などの成分を含み、鎮静作用を有します。心因性、神経性の過眠症あるいは不眠症などを目的に酸棗仁湯(さんそうにんとう)、加味帰脾湯(かみきひとう)など一般用漢方製剤』二百九十四『処方中の』五『処方に配合されています』とあり、写真のキャプションに、六『月頃に黄色い小さな花を咲かせ』、『核果の中にある種子を生薬「酸棗仁」として使用します。酸棗仁はナツメ( Z. jujuba Mill. )と比べて果実が酸っぱいために呼ばれています』。『和名のサネブトナツメ(核太棗)は』、『ナツメより核の部分が大きいために名付けられました』とあった。また、「奈良県薬剤師会」公式サイト内の「サネブトナツメ」のページには、『中国各地』(本文で自信を以って「天下、皆、有り」が証明される)、『内蒙古に分布し、日当たりのよい乾燥地帯に自生し、日本では民家に植えられ、時には野生化している』。『落葉低木で、枝には托葉が変化した棘(とげ)があり、棘の長さは長いもので』三センチメートル『に達する。当年枝は、緑色で下垂し、葉は、長さ』三~七センチメートル、『幅』一・五~四センチメートル『の』三『脈が目立つ卵形~卵状楕円形で、葉の基部は、多くの植物と異なり』、『左右非対称』であるとし、『花期は』六~七『月で、短い集散花序を腋生及び頂生し、黄緑色の花を付ける。果期は』八~九『月で、近球形、直径』〇・七~一・二センチメートル『で、ナツメの果実より、小さい』。『薬用部分は種子で生薬名を酸棗仁(サンソウニン)といい、酸棗仁湯等の精神安定作用等を目的とした漢方処方に配合されている』。『芽吹くのが遅いことから夏芽→ナツメ(棗)、果実に酸味のあることから酸棗(サンソウ)、ナツメの果実と比べて種子(「サネ」……実、核のこと)の大きさの割合が大きいことから、サネブトナツメと名付けられたとのこと』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「酸棗」([088-26a]以下)のパッチワークである。

「酸痺《さんひ》」東洋文庫訳では、ルビで『けだるい』、『しびれ』とある。

「膽虛《たんきよ》」は、漢方医学で「消化器系など全般の機能低下により惹起される症状」を指す。

「虛汗《ひやあせ》」東洋文庫のルビを採用した。

「好《このみ》て眠《ねむる》」病的に頻りに眠る、眠ろうとする症状を指す。

「足の厥陰・少陽」東洋文庫後注に、『身体をめぐる十二経脈の一つ。足の厥陰経は巻八十二盧会注一参照』(私の「盧會」を見られたい)。『足の少陽は少陽膽經のこと。巻八十三秦皮注』(同じく私の「秦皮」を参照)『参照。』とある。

「麻黃《まわう》」中国では、裸子植物門グネツム綱グネツム目マオウ科マオウ属シナマオウEphedra sinica(「草麻黄」)などの地上茎が、古くから生薬の麻黄として用いられた。日本薬局方では、そのシナマオウ・チュウマオウEphedra intermedia(中麻黄)・モクゾクマオウEphedra equisetina(木賊麻黄:「トクサマオウ」とも読む)を麻黄の基原植物とし、それらの地上茎を用いると定義している(ウィキの「マオウ属」によった)。

「本經」漢代に書かれた最古の本草書「神農本草經」。

「防已(ばうい)」これは、キンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum (漢字名「大葛藤」。「維基百科」の同種「漢防己」も参照されたい)の蔓性の茎と根茎を基原とする生薬名だが、当該ウィキによれば、この基原記載は『日本薬局方での定義』とし、『鎮痛作用や利尿作用などを持つ。木防已湯(もくぼういとう)や防已茯苓湯(ぼういぶくりょうとう)などの漢方方剤に配合され、有効成分としてアルカロイドのシノメニン』『などを含む。しかし、作用が強力なので、用法を間違えると中枢神経麻痺などの中毒を起こす』としつつ、『中国では、防已をオオツヅラフジではなくウマノスズクサ科』(コショウ目ウマノスズクサ科 Aristolochiaceae)『の植物としていることがある。このウマノスズクサ科の植物の防已はアリストロキア酸』(Aristolochic acid)『という物質を含み、これが重大な腎障害を引き起こすことがある。このため、中国の健康食品や漢方薬には十分注意する必要がある』と添えてある。しかし、上記の「維基百科」でも同種を「漢防己」としているので、ここで、取り立てて、注意喚起する必然性はないと言える。「菥蓂《せきめい》【大薺《おほなづな》と名を同じくして、一物に非ざるなり。】」と同名異物と注意割注してある「大薺」である「菥蓂」というのは、日中ともに、フウチョウソウ目アブラナ科グンバイナズナ属グンバイナズナ Thlaspi arvense である(「維基百科」の「菥蓂」を参照のこと)。「ブリタニカ国際大百科事典」では、越年草で、別名を「グンバイウチワ」とし、『世界的に分布する雑草で原野』・『畑地によくみられる。高さ』三十センチメートルで、『全草』が、殆んど『無毛で平滑の淡緑色である。春から夏に』かけて、『長い穂を出して』、『細かい白色の十字形花を総状につける。果実は扁平で』、『周囲に翼をもち』、『軍配うちわの形をしている。この種に似て』、『花が』、『さらに細かく,扁平で円形の果実を多数つける雑草に』、『マメグンバイナズナ Lepidium virginicum があり』、こちらは『北アメリカの原産であるが』、『日本では都会地周辺に帰化している』とある。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ヨーロッパ原産であるが』、世界的『に帰化植物として定着している』当該ウィキでは、実は『日本や北アメリカなどに帰化植物として定着している』とするのだが、私はこの『など』が不審であるので、前記の「ブリタニカ国際大百科事典」で修正した)。『草高は約』十~六十センチメートル。『葉は長卵形で、やや厚く光沢がある。葉柄は長く、葉全体は軍配型となる。冬期には葉はロゼットとなる。花期は』四~六『月で、花弁は』二~五ミリメートル。『果実は広卵形または円形で、長さ』一~一・八センチメートル、『和名は果実が軍配の形に似ていることに由来する』。『サラダの材料やサンドイッチの具などとして食用にされることがある』。但し、『生では苦いため、油通ししてから食されることもある。またバイオディーゼル燃料の原料にされることもある』。『亜鉛を含む土壌を好む傾向があり、燃やした後に残った灰のうち』、十六『パーセントは亜鉛である。このような土壌に耐えられる植物は他にはあまり存在しないため、古来より中国では』、『グンバイナズナの群生地は亜鉛採取の指標とされた』。『一方』、『雑草として扱われることも多く、収穫された麦などの穀物の中にグンバイナズナの種子が混入する例も知られている』とある。

「重≪ねたる≫「束」を「棗」と爲し、平《ならべ》≪たる≫「束」を「棘」と爲す」面白い見解ではあるが、「束」と「朿」は全くの別字であるから、このようなことは、信じられない。

2024/08/14

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 巵子

 

Kutinasi

 

[やぶちゃん注:上部下方に巵子の普通の実二個で「赤色」のキャプション、左上方に実の「大なる者、色に染むべし」というキャプションがある。]

 

くちなし  木丹  越桃

      鮮支  梔【俗】

巵子

      花名薝蔔【佛書】

      【和名久知奈之】

     【巵酒噐此子

ツウ フウ    形象之故名】

 

本綱巵子南方及西蜀皆有之木髙七八尺葉如兔耳或

[やぶちゃん字注:「兔」は「兎」(うさぎ)の異体字。]

似李而厚深綠春榮秋瘁入夏開花六出白瓣黃蕋甚芬

香隨結實如訶子狀生青熟黃中仁深紅入藥宜用山巵

子皮薄而圓小刻房七稜至九稜者爲佳

伏尸巵子 形大而長入藥無力只可染色

紅巵子 蜀中有之其花爛紅色其實染物則赭紅色

 畫譜云有大花者有千葉者有福建矮樹梔子可愛髙

[やぶちゃん字注:「畫」は原本では同字の異体字の「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「畫」とした。]

 不盈尺梅雨時隨手剪扦肥土俱活


さんしし

山梔子

山梔子【苦寒】瀉肺中火其用有四除心經客熱【一】也除煩

 燥【二】也去上焦虛熱【三】也治風【四】也瀉三焦之火及痞

 塊中火邪最清胃脘之血其性屈曲下行能降火從小

 便中泄去【非利小便乃清肺也肺清則化行而膀胱津液之府得此氣化而出也】

 凡治上焦中焦【連殻用之】治下焦【去殻洗黃漿炒用之】治血病【炒黒用】

  古今耳なしの山の口なしえてしかな思の色の下染にせん無名

△按梔子葉似茶葉花單者結子出於播州三木郡者良

 和州山州次之 千葉者名玉樓春而不結子葉似畨

[やぶちゃん注:」は「番」の古い字体であると、中文サイトにあったが、原本が「椒」に「タウカラシ」とルビを振るので、「蕃椒」の誤記であることが判ったので、訓読では「蕃椒」と訂した。

 椒葉而厚甚光澤或抽一莖生大葉似茶葉此一本而

 異葉者也植庭院人要均刈不長也福建矮梔之種乎

 

   *

 

くちなし  木丹《ぼくたん》  越桃《えつたう》

      鮮支《せんし》   梔《し》【俗。】

巵子

      花を「薝蔔《せんぷく》」と名づく【佛書。】。

      【和名、「久知奈之」。】

     【「巵《し》」は「酒の噐《うつは》」なり。

        此の子《み》の形、之≪れを≫象《かた

ツウ フウ  ど》る故《ゆゑ》、名づく。】

 

「本綱」に曰はく、『巵子《しし》、南方、及び西蜀《せいしよく》[やぶちゃん注:現在の四川省。]、皆、之の木、有り。髙さ、七、八尺。葉、兔《うさぎ》の耳のごとく、或いは、李《すもも》に似て、厚くして、深綠《ふかみどり》。春、榮へ、秋、瘁《おとろふ》。夏に入《いり》て、花を開く。六《むつつ》、出《いでて》、白き瓣《はなびら》、黃なる蕋《しべ》、甚だ芬《かぐはしき》香《かをり》なり。隨《ついで》、實を結ぶ。「訶子《かし》」の狀《かたちの》ごとく、生《わかき》は青く、熟《じゆくせ》ば、黃なり。中の仁《にん》、深紅なり。藥に入《いれて》、宜《よろしく》用ふべし。山巵《さんし/くちなし》≪の≫子《み》≪の≫皮、薄くして、圓《まろく》、小《ちいさし》、刻《きざめる》房《ばう》、七稜より九稜に至る者を、佳《か》と爲《す》。』≪と≫。

『伏尸巵子《ふくししし》』≪は≫、『形、大にして、長し。藥に入≪れども≫、力、無し。只、色を染《そむ》べし。』≪と≫。

『「紅巵子《こうしし》」は、『蜀中[やぶちゃん注:現在の四川省。]に、之れ、有り。其の花、爛紅色《らんこうしよく》。其の實、物を染《そむ》れば、則ち、赭紅色《しやこうしよく》なり。』≪と≫。』≪と≫。

「畫譜」に云はく、『大花の者、有り、千葉《やへ》[やぶちゃん注:東洋文庫のルビを採用した。]の者、有り。福建に「矮樹梔子(ちやぼ《しし》)」、有り、愛すべし。髙さ、尺盈(み)たず。梅雨(つゆ)の時、手に隨ひて、剪《きり》て、肥土《こえたるつち》に扦(さ)せば、俱に、活(つ)く。』≪と≫。

[やぶちゃん注:この「畫譜」の引用は、「本草綱目」の引用ではなく、良安によるものである。但し、次の「山梔子」の条は、再び、「本草綱目」からの引用である。


さんしし

山梔子

『山梔子【苦、寒。】肺中の火《くわ》を瀉す。其の用、四つ、有り。心經《しんけい》の客熱《かくねつ》を除く【一つ。】なり。煩燥《はんさう》を除く【二つ。】なり。上焦《じやうしやう》の虛熱を去る【三つ。】なり。風を治す【四つ。】なり。三焦の火、及び、痞塊《ひくわい》の中の火邪《きわじや》を瀉す。最も胃脘《いくわん》の血を清くし、其の性、屈曲・下行《げかう》して、能く、火を降《くだ》す。小便の中より泄(もら)し去《さる》【小便を利するに非ずして、乃(すなは)ち、肺を清くすればなり。肺、清ければ、則ち、化《くわ》、行はれて、膀胱≪の≫津液《しんえき》の府、此の氣の化を得て、出《いだす》なり。】。』≪と≫。

『凡そ、上焦・中焦を治するは【殻《から》と連《ともにして》、之れを用ふ。】。下焦を治するには【殻を去り、黃漿《わうしやう》にて洗ひ、炒りて、之れを用ふ。】。血病《けつびやう》を治するには、【炒≪りて≫黒≪きを≫用ふ。】。』≪と≫。

 「古今」

   耳なしの

    山の口なし

      えてしがな

     思ひの色の

      下染(したぞめ)にせん 無名

△按ずるに、梔子《くちなし》≪の≫葉、茶の葉に似、花≪の≫單《ひと》への者は、子を結ぶ。播州三木郡《みきのこほり》より出づる者、良し。和州・山州、之れに次ぐ。千葉の者を、「玉樓春《ぎよくらうしゆん》」と名づく。而≪れども≫、子を結ばず。葉、「蕃椒(たうがらし)」の葉に似て、厚く、甚だ、光澤《つや》≪ある≫なり。或いは、一莖を抽《ぬき》て、大葉を生ずること、茶の葉に似たり。此れ、≪根を≫一本にして、葉を異《こと》にする者なり。庭院《ていゐん》に植《うゑ》て、人、均《ひとし》く刈《かり》て、長ぜざることを要するなり。福建(ホクケン[やぶちゃん注:ママ。])の「矮梔(わいし)」の種《しゆ》か。

 

[やぶちゃん注:この「巵子」のタイプ種は、日中ともに、

双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ品種クチナシ Gardenia jasminoides f. grandiflora (以上は狭義。広義には Gardenia jasminoides

である。但し、本邦のウィキの「クチナシには以下の、

 j.var. grandiflora

 j.var. jasminoides

 j.var. ovalifolia

「コクチナシ」 G. j. var. radicans(本変種はサイト「植物写真鑑」の同種のページの「原産地」に『日本(千葉県以西)、中国南部、台湾、フィリピン、インドシナ』とあった)

四種の変種が挙げられており(他の三種が総て本邦に自生するかは調べていない)、「維基百科」の同種のウィキ「梔子花」(冒頭にGardenia jasminoides の学名を掲げている)の「品種」では、まず、

原変種 Gardenia jasminoides var. jasminoides

を掲げた後で、『さらに、果実の形状によって、二つのタイプに分け、

『長楕円型の果実で大きいグループを「水梔子」(すいしし)』

とし、

『卵球形型の前者に比較して小さいグループを「山梔子」(さんしし)』

と呼称している。而して、以下に、

変種「白蟾」 Gardenia jasminoides var. fortuniana (八重咲きの花で、実を結ばない)

品種「山黃梔」 Gardenia jasminides f. grandiflora 本邦の「クチナシ」と同種

変種「水梔子」 Gardenia jasminoides var. radicans 先に掲げた「コクチナシ」と同種

変種「大花梔子」 Gardenia jasminoides var. grandiflora

品種「長果梔子」 Gardenia jasminoides f. longicarpa

が挙げられてある。更に英文の同タイプ種のウィキでは、『中国では少なくとも 一千年前から栽培されて』いるとし、『クチナシは形態が非常に多様であり、特に葉・萼片・花冠の大きさは個体によって大きく異なる。このことから、中国では他国では認められていない幾つかの変種が記載されている』ともあり、その直後に、先の変種「白蟾」の記事が記されてある。

 以上を総合して推測するに、明代には、既に、多くの変種や品種が存在したと考えるのが自然であるから、或いは、現在の上に掲げた変種・品種が、既に「本草綱目」に姿を見せていると考えてもよいかとは思われる。邦文の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『梔子・山梔子』で、『常緑低木』。『庭先や鉢植えでよく見られる。乾燥果実は、生薬・漢方薬の原料(山梔子・梔子)となることをはじめ、着色料など様々な利用がある』。『和名クチナシの語源には諸説ある。果実が熟しても裂開しないため、口がない実の意味から「口無し」という説。また、上部に残る萼を口(クチ)、細かい種子のある果実を梨(ナシ)とし、クチのある梨の意味であるとする説。他にはクチナワナシ(クチナワ=ヘビ、ナシ=果実のなる木)、よってヘビくらいしか食べない果実をつける木という意味からクチナシに変化したという説もある』らしい。『漢名(中国植物名)は山梔(さんし)であり、日本では漢字で、ふつう「梔子」と書かれる』。『八重咲きの栽培品種が多く、属名の英語読みからガーデニアともよばれる。花にはジャスミンに似た強い芳香があり、学名の種小名jasminoidesはラテン語で「ジャスミンのような」という意味である』。『東アジアの朝鮮半島、中国、台湾、インドシナ半島に広く分布し、日本では本州の静岡県以西・四国・九州、南西諸島の森林に自生する。日なたから半日陰に生える。野生では山地の低木として自生するが、むしろ園芸用として栽培されることが多い』。『樹高』一~三『メートル』『ほどの常緑の低木で株立ちする』。『葉は対生で、時に三輪生となり、長楕円形で全縁、長さ』五『センチメートル 』『から』十二センチメートルで、『皮質で表面に強いつやがある。葉身には、並行に並ぶ筋状の葉脈が目立つ。筒状の托葉をもつ。枝先の芽は尖っている。古い葉は、春先や秋に鮮やかな黄色に黄葉して散るが、下のほうの葉のためあまり目立たない』。『花期は』六~七『月で、葉腋から短い柄を出し、一個ずつ芳香がある花を咲かせる。花の直径は』五~八センチメートル『で、開花当初は白色だが、徐々に黄色がかるように変化していく。萼、花冠の基部が筒状で、先は大きく』六『裂または』、五~七『に分かれる。花はふつう一重咲きである。八重咲きのものがあるが、実はならない』。『秋』(十~十一月頃)『に、赤黄色の果実をつける。果実は液果で、長さ約』二センチメートル『の長楕円形』で、『側面にはっきりした』五~七『本の稜が突き出ており、先端には』六『個の萼片が残り、開裂せず』、『針状についている。多肉の果皮の中に』九十~百『個ほどの種子が入っており、形は卵形や広楕円形をしている。液果は冬に熟す』。『スズメガに典型的な尻尾(尾角)をもつイモムシがつくが、これはオオスカシバの幼虫である。奄美大島以南の南西諸島に分布するイワカワシジミ(シジミチョウ科)の幼虫は、クチナシのつぼみや果実等を餌とする。クチナシの果実に穴が開いていることがあるが、これはイワカワシジミの幼虫が中に生息している』か『、または生息していた跡である』。『温暖地で』、『やや湿った半日陰を好む。繁殖は梅雨時期に挿し木にて行われる。冬期は、ビニール覆いをするなど、乾燥と寒さを防ぐ。種蒔で繁殖する場合は、実を潰して種子を取り出し、春か秋に蒔く』。『栽培されることが多く、庭や公園に植えたり、生け垣にもされる。品種改良により』、『バラのような八重咲きの品種も作り出されている。ヨーロッパでは、八重の大輪花など』、『園芸種の品種改良が盛んに行われてきた』。『果実は薬用になり、カロテン、イリノイド配糖体のゲニポシド、ゲニポシド酸、フラボノイドのガーデニンや、精油などを含んでいる。カロテンはプロビタミンAとも呼ばれ、人間の体内で吸収されてビタミンAに変化する。また、果実にはカロチノイドの一種・クロシンが含まれ、乾燥させた果実は古くから黄色の着色料として用いられた。また、同様に黄色の色素であるゲニピンは米糠に含まれるアミノ酸と化学反応を起こして発酵させることによって青色の着色料にもなる。花も食用になる』。『果実を水で煮だしたエキスには、胆管や腸管のせばまりを拡張させる作用があるといわれている。このゲニピンはクチナシのゲニポシドの腸内細菌代謝により生成されるとされる』。十 ~十一月頃に、『熟した果実を採取し』、二、三『分』、『熱湯に浸したあと、天日または陰干しで乾燥処理したものは、山梔子(さんしし)または梔子(しし)とも称され、日本薬局方にも収録された生薬の一つである。漢方では、消炎、利尿、止血、鎮静、鎮痙(痙攣を鎮める)の目的で処方に配剤されるが、単独で用いられることはない。煎じて解熱、黄疸などに用いられる。黄連解毒湯、竜胆瀉肝湯、温清飲、五淋散などの漢方方剤に使われる。民間療法では』、一『日量』二~三『グラムの乾燥果実を』四百『ccの水に入れて、とろ火で半量になるまで煎じて服用する用法が知られている』但し、『妊婦や、胃腸が冷えやすい人への服用は禁忌とされている』。『外用による民間療法では、打撲、捻挫や腰痛などに、乾燥果実(山梔子)』五、六『個の粉末(サンシシ末)に、同量の小麦粉を混ぜて酢で練り、ガーゼなどに厚く塗って冷湿布し、乾いたら交換するようにしておくと、熱を抑えて炎症が和らぐと言われる。これに、黄柏末(キハダ粉)を加えると、一層の効果があるとされる。ひび、しもやけには、熟した果実の皮をむき、患部にすり込む』。『奈良県の下池山古墳から出土した繊維片から、クチナシの色素成分が検出されるなど、日本における染色用色素としてのクチナシの利用は、遅くとも古墳時代にさかのぼる』。『乾燥果実の粉末は奈良時代から使われ、平安時代には十二単など衣装の染色で支子色と呼ばれた。江戸時代には「口無し」から不言色とも記されている』。『現代でも無害の天然色素として、正月料理の栗金団』(くりきんとん)『をはじめ、料理の着色料としても使われている。食品に用いられるものには、サツマイモや栗、和菓子、たくあんなどを黄色若しくは青色に染めるのに用いられる。大分県臼杵の郷土料理・黄飯や、静岡県藤枝の染飯(そめいい)も、色づけと香りづけにクチナシの実が利用される。また、木材の染料にしたり、繊維を染める染料にも用いられる。クチナシの果実に含まれる成分、クロシンはサフランの色素の成分でもある。一例として、インスタントラーメンの袋などの原材料名の記載欄に明記があれば、「クチナシ色素」と書かれている』。『クチナシの花は食用にもでき、萼を取り除いて軽く茹で、三杯酢や甘煮、ドレッシングの和え物などに調理できる。食用では、一重咲きと八重咲きのどちらも利用できる。黄飯(きいはん、おうはん、きめし)は、クチナシの実で色を付けた黄色い飯』で、『郷土料理』として、『愛知県名古屋市周辺』で「きいはん」、『大分県臼杵市』で、「おうはん」、』『静岡県東伊豆町稲取』で「きめし」と呼ばれている。『クチナシの花は、見た目の美しさと香りが抜群によいため、生け花の切り花として使われる』。『ジンチョウゲ、キンモクセイと並んで「三大芳香花」「三大芳香樹」「三大香木」の一つに数えられる植物で』、『多くの人が親しみを感じている植物であり、日本の多くの「市の花」に選ばれている』。また、『足つき将棋盤や碁盤の足の造形は、クチナシの稜のある果実を象っている。「打ち手は無言、第三者は勝負に口出し無用」、すなわち「口無し」という意味がこめられている』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「巵子」([088-22b]以下)のパッチワークである。

「越桃《えつたう》」「維基百科」の「梔子花」に、『中國春秋時期越國的封地,是以梔子花別稱「越桃」』とあった。

『花を「薝蔔《せんぷく》」と名づく【佛書。】』「日本国語大辞典」に「瞻蔔(せんふく)」で載り、『西域の香りのよい名花という。ふつう、クチナシの花に当てる。せんふくげ。』とし、初出例を私の好きな「日本靈異記」(にほんりょういき)の下から、「薝蔔の花は萎ると雖も、猶諸の花に勝れり」(真福寺本訓釈)と引いてあった。「大蔵経データベース」で「薝蔔」で検索したところ、実に百五十五件がヒットした。古いもので知られた経典では、「長阿含經」に載っている。

『「巵《し》」は「酒の噐《うつは》」なり。此の子《み》の形、之≪れを≫象《かたど》る故《ゆゑ》、名づく』「維基百科」の「梔子花」に、『本草綱目解釋梔子︰「卮,酒器也。卮子象之,故名,俗作梔。」』,『因其果實的形狀很像古代的一種盛酒的器具卮的緣故,而採用「卮」之俗字「梔」』とあった。

「訶子《かし》」双子葉植物綱バラ亜綱フトモモ目シクンシ科モモタマナ属ミロバラン Terminalia chebula 。英語“myrobalan”。別和名カリロク。英文の当該ウィキが詳しい。そこには、『南アジアと東南アジア全域に分布している。中国では雲南省西部を原産とし、福建省・広東省・広西チワン族自治区(南寧)・台湾(南投)で栽培されている』とあった。ミロバランの実の写真もある。まあ、この場合は、似ているな。

「畫譜」「八種畫譜」。明の黄鳳池の編。「唐詩五言画譜」・「新鐫六言唐詩画譜」・「唐詩七言画譜」・「梅竹蘭菊四譜」・「新鐫木本花鳥譜」・「新鐫草本花詩譜」・「唐六如画譜」・「選刻扇譜」から成る。

『福建に「矮樹梔子(ちやぼ《しし》)」、有り』不詳。

愛すべし。髙さ、尺盈(み)たず。梅雨(つゆ)の時、手に隨ひて、剪《きり》て、肥土《こえたるつち》に扦(さ)せば、俱に、活(つ)く。』≪と≫。

[やぶちゃん注:この「畫譜」の引用は、「本草綱目」の引用ではなく、良安によるものである。但し、次の「山梔子」の条は、再び、「本草綱目」からの引用である。

「心經《しんけい》」東洋文庫割注に、『(身体をめぐる十二経脈の一つ。手の少陰心経)』とある。

「客熱《かくねつ》」東洋文庫の後注に、『外部の侵入によっておこる発熱。』とする。

「煩燥」東洋文庫の後注に、『体内が苦しくいらいらしてもだえる。症状に虚実・寒熱のちがいがある。』とする。

「上焦《じやうしやう》」伝統中医学に於ける仮想の「六腑」の一つ「三焦」(さんしょう)。「上焦」・「中焦」・「下焦」の三つからなり、「上焦」は「心臓の下、胃の上にあって飲食物を胃の中へ入れる器官で、心・肺を含み、その生理機能は呼吸や血脈を掌り、飲食物の栄養分(飲食水穀の精気)を全身に巡らし、全身の臓腑・組織を滋養する器官とされる」とされ、「中焦」は「胃の中脘(ちゅうかん:本来は当該部のツボ名)にあって消化器官」とされ、「下焦」は「膀胱の上にあって排泄をつかさどる器官」とされる。因みに、所謂、「病い、膏肓に入る。」の諺の「膏肓」とは、この「三焦」を指し、これらが人体の内、最も奥に存在し、漢方の処方も、そこを原因とする病いの場合、うまく届けることが困難であることから、医師も「匙を投げる」部位なのである。

「痞塊《ひくわい》」東洋文庫割注に、『(腹中のしこり)』とある。

「黃漿《わうしやう》」中国特有の黄土を溶かした水。

「古今」「耳なしの山の口なしえてしがな思ひの色の下染(したぞめ)にせん」「無名」「古今和歌集」の「卷十九 雜躰」の「よみ人しらず」の一首(一〇二六番)。「耳なしの山」は奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある「耳成山(みみなしやま)山」(標高百三十九・六メートル)。天香久山・畝傍山と並んで「大和三山」の一つを成し、最も北に位置する。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「播州三木郡《みきのこほり》」現在の兵庫県三木市

「玉樓春《ぎよくらうしゆん》」不詳。

「蕃椒(たうがらし)」ナス目ナス科トウガラシ属トウガラシ Capsicum annuum 。確かに! 葉は、ちょっと似ているかも。

「福建(ホクケン)」現代中国音では「フゥーヂィェン」である。ネットで、閩南語を聴いてみたが、「ホッキェン」で近かった♡

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 枸橘

 

Gezukaratati

 

げず    臭橘

       俗云介須

枸橘

 

ウキユツ

 

[やぶちゃん字注:「俗云介須」の「介須」には、珍しく、「介゛須゛」と濁点が打たれている。

 

本綱枸橘樹葉並與橘同伹幹多刺二月開白花青蕋不

香結實大如彈丸形如枳實而殼薄不香人家多收種爲

藩蘺亦收小實僞𭀚枳實及青橘皮售之不可不辨

蒙筌云臭橘皮微綠不堪藥用今市家欺世媒利無益有

△按枸橘卽枳之種類而樹葉實與枳無異伹實小堅青

 綠色深於枳𭀚之小枳實大非也故及贅言

 

   *

 

げず    臭橘《しうきつ》

       俗に云ふ、「介須《げす》」。

枸橘

 

ウキユツ

 

「本綱」に曰はく、『枸橘、樹も、葉も、並《ならびに》、橘《きつ》と同じ。伹《ただし》、幹に、刺《とげ》、多し。二月に白≪き≫花を開く。青≪き≫蕋《しべ》、香《かんばし》からず。實を結び、大いさ、彈丸のごとく、形、枳實《きじつの》ごとくにして、殼、薄くして、香からず。人家《じんか》に、多く、收《まとめて》種《うゑ》て、藩蘺《ませがき》と爲す。亦、小≪さき≫實を收(をさ)めて、僞《いつはり》て、「枳實《きじつ》」及び「青橘皮《せいきつひ》」に𭀚《あて》て之れを售(う)る。辨ぜざらんは、あるべからず。』≪と≫。

「蒙筌《もうせん》」に云はく、『臭橘の皮、微《やや》綠りなり。藥用に堪へず。今、市家《いちいへ》、世を欺(あざむ)き、利を媒(はか)る≪も≫、益、無くして、損≪のみ≫、有り。』≪と≫。

△按ずるに、枸橘《くきつ》は、卽ち、枳《き》の種類にして、樹・葉・實、枳と異なること、無し。伹《ただし》、實、小にして、堅く、青綠《あをみどり》の色、枳よりも、深し。之れを、「小≪さき≫枳實《きじつ》」に𭀚《あて》たり。≪之れ、≫大いに、非なり。故《ゆゑに》、贅言《ぜいげん》に及≪べり≫。

 

[やぶちゃん注:既に、前項「枳殻」で十全に考証した通り、全項と同じ、

双子葉類植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata

として問題ない。敢えて言うなら、本文で、散々に、ダメなカラタチの個体(群)で同種の個体の内、実が薬用に殆んど、或いは、全く堪えないものを指すと採ってよい。因みに、平凡社「世界大百科事典」の「カラタチ 枸橘」に、『カラタチやミカン類の成熟直前の果実を輪切りしたものを枳殻(きこく)と称し』、『薬用(健胃』。『利尿)とする。またカラタチの未熟果を乾燥したものを枸橘(くきつ)と言い』、『同様に薬用とする。熟果は飲料にし』、『マーマレードをつくることもある』とある通り、カラタチの未熟果を限定的に指すとしてもよいだろう。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「枸橘」([088-21b]以下)の「集解」のほぼ全文である。但し、良安は「枸橘」を全く薬剤に用いないと言い切っているが、実際には処方が挙げられているのを、総て、カットしている。短いので、全文を以下に示しておく(少し、手を加えた)。

   *

枸橘【「綱目」】

 釋名臭橘

 集解【時珍曰枸橘處處有之樹葉並與橘同但榦多刺二月開白花青蕋不香結實大如彈丸形如 枳實而殻薄不香人家多收種為藩蘺亦或收小實偽充枳實及青橘皮售之不可不辨】

 葉氣味辛温無毒主治下痢膿血後重同萆薢等分

 炒存性研毎茶調二錢服又治喉瘻消腫導毒【時珍】

 附方【新一】咽喉怪證【咽喉生瘡層層如叠不痛日久有竅出臭氣廢飲食用臭橘葉煎湯連服必愈夏子益奇病方】

 刺主治風蟲牙痛毎以一合煎汁含之【時珍】

 橘核主治腸風下血不止同樗根白皮等分炒研每

 服一錢皂莢子煎湯調服【時珍】

 附方【新一】白疹瘙痒【遍身者小枸橘細切麥麩炒黄為末每服二錢酒浸少時飲酒初以枸橘煎湯洗患處【救急方】】

 樹皮主治中風强直不得屈申細切一升酒二升浸一宿每日温服半升酒盡再作【時珍】

   *

「げず」小学館「日本国語大辞典」に『植物「からたち(枸橘)」の古名。』とある。初出例は天正一九(一五九一)年である。

「橘《きつ》」前項の私の注を、そのまま転写する。これはミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana ではなく、ミカン科 Rutaceae の一種としか言えない。何故なら、本邦で普通に名として知られる「橘」=Citrus tachibana 日本固有種であるからである。当該ウィキによれば、『本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する』とある。中国の「橘」は、調べてみても、種同定は出来なかった。ただ、後の「本草綱目」の話で、長江の北には、この「橘」(きつ)は分布しないとするから、ミカン属の中でも、温・亜熱帯に適応した種(群)であるとは言える。

「藩蘺《ませがき》」前項で既出既注だが、再掲しておくと、小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「蒙筌《もうせん》」「本草蒙筌」実用を主眼とした本草書で、全十二巻。明の陳嘉謨(かぼ)の撰で、嘉靖四四(一五六五)年成立。東洋文庫の「書名注」では刊行は万暦元(一五七三)年刊とする。当該部は「維基文庫」の同書の電子化の「卷之四」「木部」の「枳實」で全文が見られる。]

2024/08/13

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 枳殻

 

Karatati

 

[やぶちゃん注:樹図の上部右上に「枳實」(キジツ:同種の成熟した実)、同左下に「枳殼」(キカク:同種の初生・未熟に実)の絵とキャプションがある。]

 

きこく

    和名加良太知

    今多用字音

枳殻

 

ツウコ

 

本綱枳殻木如橘而小髙五七尺葉如橙多刺春生白花

至秋成實以皮厚而小者爲枳實完大者爲枳殻皆以翻

肚如盆口狀陳久者爲勝其樹皮名枳茹

周禮云橘逾淮而北爲枳然今江南枳橘俱有江北有枳

無橘此自別種非關變昜也蓋枳殻枳實一物也或呼老

者爲枳殻生則皮厚而實熟則殻薄而虛正如橘之青皮

陳皮之義也【近道所出者俗云臭橘不堪用】

枳殻【苦酸微寒】 破氣勝湿化痰泄肺走大腸蓋枳實枳殻氣

 味功用俱同無分別魏晋以來始分之大抵其功皆能

 利氣 氣【下則痰喘止行則痞脹消】氣【通則痛刺止利卽後重除】


きじつ

枳實

氣味【苦寒】 瀉痰去心下痞及宿食不消凡非白朮不能

 去濕非枳實不能除痞故潔古制枳朮丸方以調胃脾

[やぶちゃん注:「潔」は原本では「グリフウィキ」のこれ((さんずい)が上部の左に上がっているもの)だが、表示出来ないので、「潔」とした。]

 以𮔉灸用則破水積以泄氣除内熱氣血弱者不可服

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

 以其損氣也【枳實主下主血枳殻主高主氣】

  万葉まくらかの古賀の渡りのからたちの音髙しもなねなく子ゆへに

[やぶちゃん注:この一首、「からたちの音」は「枳殼(からたち)」ではなく、「唐楫(からかぢ)」の誤りであり、「ねなく子ゆへに」も「ねなへ兒(ご)ゆゑに」の誤りである。訓読では補正して示した。ただ、この補正の結果、この一首は「枳殼(からたち)」とは無縁な歌であることから、添え歌としては無効となる。

△按枳殻樹其刺一二寸多有之栽藩蘺以防盗害七八

 月摘其實爲枳實九十月徐大者爲枳殻

 於本朝亦植𮔉柑於奧州變成枳殻一異也其他諸國

 橘枳共有而多接柑橘類於枳故以柑橘核種之生枳

 者多矣枳實枳殻多出於備前

 

   *

 

きこく

    和名「加良太知《からたち》」。

    今、多く、字の音を用ふ。

枳殻

 

ツウコ

[やぶちゃん注:この下方に「今、多く、字の音を用ふ」とあるからには、良安は、「本草綱目」は勿論、誤認の和歌の一箇所を除き、自身の評言でも、敢然として「キコク」と読み、「からたち」とは絶対に訓じていないということを意味する。しかし、これは、良安が医師だから、生薬名で「キコク」と日常的に用いていたという本草学者の間での呼称の意味であり、だからと言って、現に、その時の一般大衆が「キコク」と音で呼んでいたとは、私には到底、信じられない。民間では、こんな漢字を知っている者はそう多くなく、「枳」を別な熟語で見ることもなく、専ら、この種を「からたち」と呼んでいたと考えるべきである。

 

「本綱」に曰はく、『枳殻《きこく》の木、橘《きつ》のごとくにして、小なり。髙さ、五、七尺。葉、橙(だいだい)のごとく、刺(はり)、多し。春、白≪き≫花を生じ、秋に至りて、實《み》を成す。皮、厚くして、以つて、小なる者を「枳實《きじつ》」と爲《なし》、完《まつたき》大なる者を、「枳殻《きこく》」と爲す。皆、以つて、肚《はら》を翻《ひるがへして》、盆《はち》の口の狀《かたち》のごとし。陳-久(ふる)き者を、勝《すぐ》れりと爲す。其の樹の皮を、「枳茹(きじよ)」と名づく。』≪と≫。

『「周禮《しゆらい》」に云はく、『橘、淮(わゐ)を逾(こ)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、北は、「枳《き》」と爲す。』≪と≫。然《しか》るに、今、江南に、枳・橘、俱に有りて、江北には、枳≪は≫有りて、橘≪は≫無し。此れ、自《おのづ》から別種にて、變昜《へんえき》[やぶちゃん注:「變化・變異」。]に關(あづか)るに非≪ざる≫なり。蓋し、「枳殻」と「枳實」≪とは≫、一物なり。或いは、老する者を呼びて、「枳殻」と爲す。生《わかき》は、則ち、皮、厚くして、實《じつ》す[やぶちゃん注:みっちりと充実している。]。熟する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則と、殻、薄くして、虛《きよ》す。正《まさ》に橘の「青皮(しやうひ)」・「陳皮(ちんぴ)」の義なり【近≪き≫道≪の邊に≫出づる所の者、俗、「臭橘《しうきつ》」と云ひ、用ひるに堪へず。】。』≪と≫。

『枳殻【苦酸、微寒。】』『氣≪の鬱滯≫を破り、湿に勝ち、痰を化《くわ》し、肺を泄《せつ》≪して≫[やぶちゃん注:鬱滞を押し出して。]、大腸に走る。蓋し、「枳實」≪と≫「枳殻」≪とは≫、氣味・功用、俱に同じく≪して≫、分別すること、無し。魏・晋より以來、始めて、之れを分《わか》つ。大抵、其の功、皆、能《よく》、氣を利す。』≪と≫。『【下る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。以下同じ。]、則ち、痰喘《たんぜん》[やぶちゃん注:喘息。]を止《と》め、行《ゆ》く時は、則ち、痞脹《ひちやう》を消す。】。』≪と≫。』『氣』≪の≫『【通《つう》ずる時は、則ち、痛刺《つうし》を止め、利≪する時は≫、卽ち、後重《こうぢゆう》を除く】。』≪と≫。


きじつ

枳實

『氣味【苦、寒。】』『痰を瀉《しや》し、心下《しんか》の痞(つか)へ、及び、宿食《しゆくしよく》≪して≫消《しやう》せざるを、去る。凡そ、「白朮《びやくじゆつ》」に非ざれば、濕を去ること、能《あた》はず、「枳實」に非ざれば、痞《つかへ》を除くこと能はず。故《ゆゑに》、潔古《けつこ》、「枳朮丸《きじゆつぐわん》」の方《はう》を制して、以つて、胃脾を調へ、𮔉《みつ》以つて、灸《あぶり》、用《もちふ》れば、則ち、水積《すいしやく》[やぶちゃん注:重い「浮腫(むく)み」のこと思われる。]を破《は》して、以つて、氣を泄《せつ》す。《✕→し、》内熱を除く。氣血≪の≫弱き者、服すべからず。其れ、氣を損ずるを以つてなり【枳實は下[やぶちゃん注:下半身。]を主《つかさど》り、血を主る。枳殻は、高《こう》[やぶちゃん注:上半身。]を主り、氣を主る。】。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

  「万葉」

    まくらがの

     古賀の渡りの

        からかぢの

       音髙しもな

        ねなへ子ゆゑに

△按ずるに、枳殻《きかく》の樹、其の刺《とげ》、一、二寸、多く、之れ、有り。藩蘺(ませがき)に栽(う)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、以つて、盗《ぬすみ》≪の≫害を防ぐ。七、八月、其の實を摘(むし)り、「枳實《きじつ》」と爲《な》す。九、十月、徐《とる》≪ところの≫大きなる者、「枳殻」と爲す。

本朝に於いても、亦、「𮔉柑《みかん》」を奧州に植《うう》れば、變じて、「枳殻《きこく》」と成る。一異なり。其の他の諸國、橘《きつ》・枳《き》、共に有りて、多く、柑橘類を枳《き》に接(つ)ぐ[やぶちゃん注:「接ぎ木」する。]。故《ゆゑに》、柑橘の核《たね》を以つて、之れ、種《うう》るに、枳《き》≪の實を≫生ずる者、多し。枳實・枳殻、多く、備前より出づ。

 

[やぶちゃん注:「東洋文庫訳」では本文の最初に出る「本草綱目」の『枳殻』に割注して、『(ミカン科カラタチか)』とある。思うにこれは、文中に「橘《きつ》」が出現すること、中文ではカラタチは現在は「枳殻」ではなく、「枳」とし、別名を「枸橘・臭橘」(本文割注に出る)とするから(「維基百科」の「枳」を参照)と、次の項の「枸橘」をカラタチに比定同定していることからの慎重な保留と思われるが、「枳殻」は、日中ともに、

双子葉類植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata

として問題ない。上記の中文のリンク先には同じ学名を当てている。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。本邦の漢字表記は『枳殻・枸橘』とし、『ミカン類に近縁の』一『属』一『種の柑橘類で、中国原産。学名の trifoliata は三枚の葉の意でこの複葉から。原産地は長江上流域。日本には』八『世紀頃』(飛鳥末から奈良時代を経て平安最初期相当)『には伝わっていたとされる』。『和名カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったものである。別名でもカラタチバナともよばれる。別名では、キコク(枳殻)ともよばれる。中国植物名(漢名)は、枸橘(くきつ)という』。『中国中部の原産』(「維基百科」の「枳」によれば、『北は黄河流域から、南は広東省まで分布している』とあった)で、『日本にも広く植えられている。日本へは古くに渡来し、奈良時代末期に成立したと』される「万葉集」『にも名が見られる』(言わずもがなだが、良安が誤って引用した一首ではない。後注の誤認引用された和歌の箇所で詳述する)。『平安時代には果実が薬用にされた。現代では、生け垣などに植栽されているのが見られる。柑橘類の中でも最も耐寒性が強く、やせた土地にも耐えて生育でき、東北地方でも生育する』。『落葉広葉樹の低木から小高木で、樹高は』二~四『メートル』『程。樹皮は暗灰褐色で成木は細かい縦筋が入り、若木では生長と共に緑地に褐色の縦筋が入り、皮目が多くざらつく。枝は緑色で太く、稜角があり』、三『センチメートル』『にもなる大きくて鋭い刺が互生する。この刺の基部が幅広いのは本種の特徴で、葉の変形したもの、あるいは枝の変形したものという説がある』。『葉は互生し』、三つの『小葉の複葉(』三『出複葉)で、葉柄に翼がある。小葉は』四~六センチメートル『程の楕円形または倒卵形で、周囲に細かい鋸状歯がある。葉はアゲハチョウの幼虫が好んで食べる』。『花期は春(』四~五『月)で、葉が出る前に』三~四センチメートル『程の』五『弁の白い花を咲かせ、芳香がある。花のあとには、径』三~四センチメートル『の球形で軟毛に覆われた緑色の果実をつけ、秋には熟して黄色くなる。果実は食用になるが、種子が多く強い酸味と苦味があるため、そのままでは食用には向かない』。『冬芽は側芽が枝に互生し、半円形で棘の基部の上側につき、赤褐色の芽鱗』二、三『枚に包まれている。棘の下側には葉痕が残り、この葉痕からも葉が芽吹くこともある』。『栽培品種として、枝やトゲが湾曲するヒリュウ(飛龍)』(Citrus trifoliata 'Monstrosa')『や、枝やトゲの湾曲がヒリュウよりもさらに激しく成長も極めて緩慢な「香の煙」』(品種学名不詳)『が存在する。どちらの品種も「雲龍カラタチ」の名前で販売されていることが多い』。『鋭い刺があることから、外敵の侵入を防ぐ目的で生垣によく使われる。畑の守りだけではなく、住宅の庭の周りにもしばしば使われてきた。しかし住宅事情の変化などからこの刺が嫌われ、また生垣そのものが』、『手入れの面倒からブロック塀などに置き換えられたため』、一九六〇『年代ころからカラタチの生垣は減少した』。『日本ではウンシュウミカン』(温州蜜柑:ミカン科ミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu )『などの柑橘類を栽培するときに、台木として使われる。病気に強いことや、早く結実期に達することなどの利点があるが、ユズ』(柚:ミカン属ユズ Citrus junos )や『ナツミカン』(ミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai )『の台木にくらべると寿命が短いという欠点もある』。『果実の利用は一般的ではなく、果実酒の材料として使われる程度である。果実には強い酸味と苦味があるため』、『果実自体の食用は難しい』。『オレンジとカラタチの細胞融合による雑種に「オレタチ」がある』(品種登録がされていることまでは確認出来たが、品種学名は探し得なかった)。(☞)『未成熟の果実を乾燥させたものは、枳殻(きこく)とよばれる生薬であるが、中国薬物名では枳実(きじつ)ともよんでいる』(☜☞)。『成熟果実の場合は、中国薬物名で枳殻とよんでいる。枳殻は、漢薬本来はナツミカンで、ミカンの大型の未熟果であるという説もある。また、日本ではカラタチ果実の生薬のことを枳実(きじつ・きじゅつ)と呼んで通用もしているが、これは日本での誤用でカタタチの漢名にあてたものだとする説がある。カラタチの漢名は「枸橘」と書く』(太字下線は私が附した。この箇所は、明代の「枳殻」が、そうした裾野を持った蜜柑類の総称を持っていた可能性を示唆しているとも言えるものである)。『カラタチ果実からつくる生薬は、果実を採って、輪切りで天日干しして調製したもので、芳香性の健胃作用、利尿作用、発汗作用、去痰作用があるとされ、未熟果よりも成熟果の』方『が作用が穏やかである。乾燥が不十分だと』、『吐き気が出る恐れがある』。『胃腸の熱を冷ます薬草で、妊婦、冷え性、虚弱体質に人への服用は禁忌とされる。民間では、皮膚を美しく保つ効果もあるとされており、果実や枝葉を随時浴湯料として風呂に入れると、皮膚をきれいにして、体を温め、発汗、去痰を促すといわれている』。『近年の研究により、カンキツトリステザウイルス(CTV)』(第四群(一本鎖RNA +鎖)クロステロウイルス科 Closteroviridae クロステロウイルス属 Closterovirus カンキツ・トリステザ・ウイルス Citrus tristeza virus 当該ウィキによれば、ミカン属の植物に感染し、全世界で多大な農業被害を与えているウィルスで、「トリステザ」 は一九三〇年代にこのウイルスの被害を受けた南米の農家が名付けたもので、スペイン語・ポルトガル語で「悲しみ」を意味する。ウイルスは、主に有翅亜綱同翅目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科トキソプテラ属ミカンクロアブラムシ Toxoptera citricida によって媒介される)『に対する免疫性を有する機能性成分の一つである』アウラプテン(auraptene:7-geranyloxycoumarin)『を高濃度に含有することが明らかになっている』。アウラプテンは、『その他にも発ガン抑制作用や抗炎症作用、脂質代謝改善効果や』、メタボリック・シンドローム(Metabolic syndrome)『に伴う炎症反応の緩和効果等を持つ』とする研究があるらしい。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「枳」([088-16a]以下)の長い記載を、かなり強引にパッチワークしている。多少、『 』で、そのオゾマしいやり口を示唆しておいた。

「橘《きつ》」これはミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana ではなく、ミカン科 Rutaceae の一種としか言えない。何故なら、本邦で普通に名として知られる「橘」=Citrus tachibana 日本固有種であるからである。当該ウィキによれば、『本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する』とある。中国の「橘」は、調べてみても、種同定は出来なかった。ただ、後の「本草綱目」の話で、長江の北には、この「橘」(きつ)は分布しないとするから、ミカン属の中でも、温・亜熱帯に適応した種(群)であるとは言える。

「橙(だいだい)」これは、ミカン属ダイダイCitrus aurantium で問題ない。当該ウィキによれば、同種は『インド、ヒマラヤが原産』で、『日本へは中国から渡来した』とある。

「肚《はら》を翻《ひるがへして》、盆《はち》の口の狀《かたち》のごとし」実は、花梗(かこう:果実までの枝部分)を強く伸長させて、その反対側である萼片部側(ここでおいう腹側)を翻して見せているようで、言い得て妙である。グーグル画像検索「カラタチの実」をリンクさせておく。

『其の樹の皮を、「枳茹(きじよ)」と名づく』確かに、現在も中医学の漢方生薬名として、カラタチの樹皮と果実の皮を乾燥させたものを「枳茹」と呼んでいることが、中文サイト「百度百科」の「枳茹」で判る。何故、「茹」なのかは分からないが、「廣漢和辭典」を見ると、「茹」には、大きな第一義に「食う」の意があり、第四義で「乾し菜」(乾燥させた野菜)、第五義で「湯引き菜」の他、第十三義で「臭い」の意があって、そのどれかであろうと思われる(なお、「茹(ゆ)でる」の意の用法は、実は厳密には国字の用法である)。

「周禮《しゆらい》」(しゅらい)は「礼記」・「儀礼」とともに「三礼」(さんらい)を構成する儒教経典の重要な書である。紀元前十一世紀に周公旦が作ったとされるが、偽書の疑いがあり、現代の研究では、戦国末期に成立したとの見方が示されている(当該ウィキを参考にした)。「漢籍リポジトリ」で見ると、「周禮卷第十一」の「冬官考工記第六」のガイド・ナンバー[011-3a]の六行目に出る。

「淮(わゐ)」淮水(わいすい)。現在は淮河と呼ばれ、長江・黄河に次ぐ中国の第三の大河である。山川出版社「山川 世界史小辞典」によれば、中国中部の河川で、河南省南端に源を発し、東流して大運河・黄海・長江に分注する。全長約一千百キロメートル。秦嶺―淮水線は、中国を風土的に南北に分かつもので、歴史的に南北朝・南宋は、この線を境界とした、とある。英文サイト「VoxChina」の“Brain Drain: The Impact of Air Pollution on Firm Performanceの“Figure 2”の地図のブルーの線がそれに当たる。以下、続く文では、長江の南・北での「枳(き)」と「橘(きつ)」の分布の相違(長江の北では橘は分布しない)が語られるが、サイト「中国語スクリプト」(日本語)の「長江」のページにある「黄河と長江」の地図を見られたい。以上の二枚の地図で、関係性が大まかに把握出来る。「維基百科」の「枳」では、カラタチの中国での分布域について、『中国中部を原産とし、北は黄河流域から、南は広東省まで分布する』とある。

「近≪き≫道≪の邊に≫出づる所の者、俗、「臭橘《しうきつ》」と云ひ、用ひるに堪へず」というのは興味深い。漢方生薬としての基原個体は人家や村落近辺に植えられている個体(群)では、効能が著しく低く、薬物としては使用に堪えないというのである。これが別種等ではないことは、先に示した「維基百科」の「枳」では、別名として「臭橘」を挙げていることで判る。

「痞脹《ひちやう》」東洋文庫の後注に、『気が滞溜して腹部がふさがりふくれるもの。』とある。

「後重《こうぢゆう》」東洋文庫の割注に、『(排便はあるが肛門部に痛みを感じる症)』とある。

「白朮《びやくじゆつ》」(びゃくじゅつ)は中国原産で本邦には自生しない双子葉植物綱キク目キク科オケラ属オオバナオケラ Atractylodes macrocephala の根茎を乾したものを狭義の基原とする浙江省などで生産されるものを指す(草体の画像はサイト「東京生薬協会」の「季節の花(東京都薬用植物園)」の「オオバナオケラ」を見られたい)。ここはそれである。なお、本邦では、別に、日本の本州・四国・九州、及び、朝鮮半島・中国東北部に分布する同オケラ属オケラ Atractylodes lancea を基原とするものを、特に「和白朮」と呼ぶが(草体の画像は当該ウィキを参照)、現行では、この二種を一緒にして「白朮」と称している。効能は、主として水分の偏在・代謝異常を治す。従って、頻尿・多尿、逆に小便の出にくいものを治す、と漢方サイトにはあった。

「潔古《けつこ》」東洋文庫の後注に、『金』(十二〜十三世紀に中国北部にあった女真族の国)『時代の医者。張天素のこと。運気論に從い、病気の質も時代の変るとともに変るので、古方に執着することなく、新しい時代には新しい処方を用いるべきだと説いた。』とある。

「枳朮丸《きじゆつぐわん》」(きじゅつがん)は「誠心堂薬局」公式サイト内のこちらの「白朮」の解説に、『最も一般的かつ重要な補気健脾薬(ほきけんぴやく)。山薬(さんやく)・白扁豆(はくへんず)とともによく配合される。良好な補気健脾作用を有する。補気健脾の重要薬』とし、冒頭の「補気健脾」の項で、『脾胃の気をよく補いその機能を高めてよく補気し』、『また』、『よく燥湿する。補気健牌の基本的かつ重要薬で』、『一般的な脾虚証に多用される』と総論を述べた上で、『(1)』の中の『④脾虚食積証のもたれ・心下痞塞脹満感(痛)・食欲不振などには』、『枳実・焦三仙などと用いる。〔代表方剤:枳朮丸〕。』とあった。

「万葉」「まくらがの古賀の渡りのからかぢの音髙しもなねなへ子ゆゑに」「万葉集」の「卷第十四」中西進氏の講談社文庫版を参考に示すと、「未だ國を勘(かんが)へぬ相聞往來の歌百十二首」の中の一首(三五五五番)、

 麻久良我(まくらが)の

      許我(こが)の渡りの

     韓楫(からかぢ)の

          音高しもな

           寢なへ兒ゆゑに

である。中西先生の訳では、『麻久良我の許我の渡に響く韓楫のように、人言が高いことよ。共寝もしてないあの子のために。』とあり、注で、「麻久良我(まくらが)の」は不明とされつつ、先行する歌(三四四九番)の注で、『地名か』とされる。「許我(こが)の渡り」については、『茨城県古河市なら利根川の渡しとなる』とされ、「韓楫(からかぢ)」には『渡来技術による楫。韓・唐ともにカラ』とある。……という訳で、「からたち」とは縁も所縁もないので、良安の引用自体が無効となる。因みに、「万葉集」には、一種だけ、枳殻(からたち)を詠んだ句がある。それは、「卷第十六」にある以下の一首(三八三二番)である。

   *

   忌部首(いんべのおびと)の、數種(くさぐさ)の物を詠める歌一首【名は忘失せり。】

 枳(からたち)の

    棘(うばら)刈り除(そ)け

      倉建てむ

     屎(くそ)遠くまれ

         櫛(くし)造る刀自(とじ)

   *

歌の本体の原文は、

   *

 枳 蕀原苅除曾氣 倉將立 屎遠麻禮 櫛造刀自

   *

である。中西先生の訳は、『枳』(からたち)『のいばらを刈りとって倉を立てよう。屎』(くそ)『は遠くにしてくれ、櫛を作るおばさんよ。』である。この訳は、恐らく、そうした労働者は『集団で労働する場があったのであろう』とされるから、謂わば、その仲間の娘などの気持ちを代弁する形で洒落ているものと私には思われる。

「藩蘺(ませがき)」小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

『「𮔉柑《みかん》」を奧州に植《うう》れば、變じて、「枳殻《きこく》」と成る。一異なり』これは、先の引用にある、『柑橘類を栽培するときに、台木として使われる』ことに由来すると考えれば、何ら、異常では、ない。

「備前」岡山県東南部、及び、香川県小豆郡と直島諸島、更に、兵庫県赤穂市福浦(孰れもグーグル・マップ・データ)。]

2024/08/12

甲子夜話卷之八 26 長橋局の居所幷赤前埀の事

8-26 長橋局(ながはしのつぼね)の居所(きよしよ)幷(ならびに)赤前埀(あかまへだれ)の事

 

 近頃、京都、御卽位のとき、諸大名より使者を上(のぼ)す。

 予が家の使者、上着(じやうちやく)してある間に、京邸の留守居某、使者に、

「禁廷を拜見すべし。」

とて、誘行(さそひゆ)く。

 紫宸殿など拜見して、長橋局の住所(すみどころ)に往(ゆき)たり。

 玄關を見れば、翠簾(すいれん)を掛け、上下(かみしも)着たる侍、並居(ならびゐ)たり。

 某、使者を案内(あない)して入らしむ。

『この住所は、御所につゞきて、有る。』

と覺ヘ[やぶちゃん注:ママ。]て、公家の家人(けにん)と見ゆる婦女、行通(ゆきかよ)へり。

 定めて、御儀式、拜見などするにや。

 又、その住所の奥の方に擂鉢(すりばち)の音、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、

「何(い)かに。」

と、問へば、

「長橋どのゝ厨所(くりやどころ)なり。」

とて、案内する故、入(いり)て見れば、はした女(め)と見えて、味噌を、する者もあり、野菜をきる者もありて、四、五人計(ばかり)居《をり》たるが、皆、赤き前埀を着たり。

 使者、

「こは、何(いか)なる者ぞ。」

と、問(とひ)たれば、

「これは長橋の婢(ひ)なり。緋袴(ひばかま)、着るべけれど、周旋、不便(ふべん)なれば、中古より、省略して如ㇾ此(かくのごとく)、赤布を、前にのみ、着(ちやく)せり。是より、京地(けいち)の婦女は、赤き前埀をきることになりぬ。」

と、云(いひ)けり。

 然(さ)れば、

『今、京・攝の間に、妓家・茶店などの婦女、赤前埀、着ることは、緋袴の餘風なり。』

と、初(はじめ)て心付(こころづき)しなり。

 古(いにしへ)は、女も、袴は貴賤とも、着せしこと、古畫など見ても知(しる)べきなり。

■やぶちゃんの呟き

「長橋局」宮中に仕えた女官で、勾当内侍(こうとうのないし)の別称。清涼殿の東南隅から、紫宸殿の御後(ごご:紫宸殿の賢聖障子(けんじょうのそうじ)の北側の広廂(ひろびさし)のこと)に通ずる細長い板の橋を「長橋」と呼、その傍(そば)に勾当内侍の局(つぼね)があったことから、この称が生まれた。後宮十二司の一つで、内侍司(ないしのつかさ)の女官の内、奏請(そうせい)・伝宣(てんせん)・陪膳(ばいぜん)のことに当たった「尚侍」(かみ)や「典侍」(すけ)は、その立場上、妃(きさき)となることが多く、三等官の「掌侍」(じょう)(定員四人)が、事実上、当司を代表する女官となった。そこで単に「内侍」と言った場合、「掌侍」のことを指すようになり、とくに掌侍四人の内、首位の者が、本来、尚侍や典侍の行うべき職掌に当たったことから「勾当」(「専ら、事に当たる。」の意)の内侍(略して単に「勾当」とも)と呼ばれるようになった(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「近頃、京都、御卽位のとき」十一項前の記事が文政四(一八二一)年の翌年の記事であるから、これは、仁孝天皇の即位式(文化一四(一八一七)九月二十一日)の前のこととなる(彼は在位のまま、弘化三(一八四六)年一月二十六日に没している。この仁孝から明治の一世一元の制への移行を経て、昭和までの歴代天皇は、孰れも終身在位で、先帝の崩御に伴う皇位継承をしている)。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 楮

 

Kajinoki

 

かうぞう

        穀【音媾】 構【同】

【音】   穀桑

         【和名加知】

        【俗云加宇曽】

       从𣪊从木五穀之

       穀从禾

[やぶちゃん字注:「かうぞう」はママ。歴史的仮名遣は「かうぞ」である。大標題下の割注の「音」のみ(欠字)もママ。「楮」は呉音・漢音ともに「チヨ」(現代仮名遣「チョ」)である。現在の一般的な漢字ならば、「緒・著・貯」等となろう。「穀【音媾】」もママであるが、本邦の「穀」の音は、一般には「穀」は「コク」であるが、「廣漢和辭典」を見ると、実は「コウ」と「ク」の音があることが判った。「媾」は漢音で「コウ」、呉音で「ク」であり、更に言うと、同辞典の「穀」の意味の⑫には、木の名こうぞ(かう◦ぞ)』とあるのである。而して、この『穀【音媾】 構【同】』の部分は、良安が附したのではなく、「本草綱目」の「楮」の『釋名』の冒頭に、『【穀、音「媾」。亦、「構」に作る。】』(私が訓読した)とあるのを引いたものなのである。]

 

本綱穀與楮乃一種枝葉相類不必分別惟有雌雄辨之

雄者皮班而葉似葡萄葉而無椏叉三月開花成長穗如

 柳花狀不結實

雌者皮白葉相似而有椏叉亦開碎花結實如楊梅半熟

 時水操去子蜜煎作果食之

二種樹並易生葉多澀毛剝皮擣煮造紙亦緝練爲布不

堅昜朽其木腐後生菌耳味甚佳好以楮樹皮間白汁和

白及飛麪調糊接帋永不脱解過于膠𣾰

[やぶちゃん字注:「帋」は「紙」の異体字。]

楮實【甘寒】 一名楮桃又名穀實治陰痿水腫益氣𭀚肌明

 目久服不飢不老壯筋骨補虛勞

△按楮皮今多造紙又織布徃昔稱木綿【訓由布】是也今亦

 祭祀人被木綿繈者象上古之衣服乎

 

   *

 

かうぞう

        穀《コウ》【音「媾《コウ》」。】 構《コウ》【同じ。】

【音。】  穀桑《こくさう》

         【和名、「加知《かぢ》」。】

        【俗、云ふ、「加宇曽《かうぞ》」。】

       「𣪊」に从《したがひ》、「木」に从≪ふ≫。

       「五穀」の「穀」は、「禾」に从≪ふ≫。

 

「本綱」に曰はく、『穀《こう》と楮《ちよ》と≪は≫、乃《すなはち》、≪同≫一種≪なり≫。枝葉、相《あひ》類《るゐ》して、必≪しも≫分別≪なら≫ず。惟《ただ》、雌雄、有りて、之れを辨《べん》ず。雄は、皮、班《まだら》にして、葉は、葡萄(ぶどう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「ぶだう」。])の葉に似て、椏叉《きれこみ》[やぶちゃん注:読みは東洋文庫訳を参考にした。]、無く、三月、花を開き、長≪き≫穗を成し、柳の花の狀《かたち》のごとし。實を結ばず。』≪と≫。

『雌は、皮、白くして、葉、相《あひ》似て、椏叉《きれこみ》、有り。亦、碎(くだ)けたる花を開き、實を結ぶ。楊梅(やまもゝ)のごとし。熟≪する≫の時、水に操《こし》て[やぶちゃん注:「漉して」。東洋文庫訳を参考にした。]子《たね》を去り、蜜《みつ》に煎じて、「果《くだもの》」と作《なして》、之れを食ふ。』≪と≫。

『二種の樹、並びに、生へ[やぶちゃん注:ママ。]易く、葉に、澀《しぶき》毛《け》、多し。皮を剝(は)ぎ、擣《つ》き、煮て、紙に造る。亦、緝(う)み、練(ね)りて、布《ぬの》に爲《つく》る。≪木は、≫堅からず、朽ち昜《やす》し。其の木、腐(くさ)りて後《のち》、菌-耳(くさびら)を生ず。味、甚だ佳好《かかう》なり。楮《ちよ》≪の≫樹≪の≫皮の間の白≪き≫汁を以つて、白及《はくきゆう》の飛麪《ひべん》[やぶちゃん注:東洋文庫割注に『(篩(ふるい)にかけた粉)』とある。]に和して、糊(のり)に調《ととの》へ、帋《かみ》を接(つ)く。永く脱-解(はな)れず、膠《にかは》・𣾰《うるし》に過ぎたり。』≪と≫。

『楮實《ちよじつ》【甘、寒。】 一《いつ》≪に≫、「楮桃《ちよたう》」と名づく。又、「穀實《こうじつ》」と名づく。陰痿[やぶちゃん注:インポテンツ(ドイツ語:impotenz)。勃起障害。近年は英語の「ED」(Erectile Dysfunction)の言い方の方がよく知られている。]・水腫を治す。氣を益し、肌を𭀚《みたし》、目を明にす。久《ひさしく》服すれば、飢へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、老いず、筋骨を壯にし、虛勞を補ふ。』≪と≫。

△按ずるに、楮《かうぞ》の皮、今、多く、紙に造り、又、布に織る。徃-昔(そのかみ)、「木綿(ゆふ)」と稱す【訓、「由布《ゆふ》」。】≪るは≫、是れなり。今も亦、祭祀の人、木-綿-繈(ゆふだすき)を被《きらるる》は、上古の衣服を象《かた》どるか。

 

[やぶちゃん注:この李時珍の言う「楮」(音は現代仮名遣で「チョ」)は、既に前の前の「柘」で詳細に考証した通り、

◎双子葉植物綱バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera

であり、「本草綱目」が「同一種」としつつ、「雌雄の別がある」と言っているのも、カジノキが雌雄異株であることに基づく謂いであり、その点では、誤ってはいないとは言えるのである。しかし、問題なのは、良安が、この「穀」=「楮」=「構」を、実際には「カウゾウ」(歴史的仮名遣「カウゾ」/現代仮名遣「コウゾ」)と訓じていると読め、それは、現行では、同一種ではなく、コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia monoica と、上記カジノキの雑種(交雑種)と考えられている、

バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia × kazinoki

として認識した状態で「本草綱目」を読み、自身の評言も書いてしまっているのである。但し、そちらで引用したように、ウィキの「コウゾ」によれば、『本来、コウゾは繊維を取る目的で栽培されているもので、カジノキは山野に野生するものであるが、野生化したコウゾも多くあ』り、『古代においては、コウゾとカジノキは区別していな』かったとある通りで、良安一人の誤りではなく、恐らくは、少なくとも江戸時代の本草学者は、皆、カジノキとコウゾを全くの別種としては、弁別していなかったと私は考える。例えば、本書の成立よしごく少し早く書かれた貝原益軒の「大和本草」では、「カジノキ」に相当する「項」はなく、国立国会図書館デジタルコレクションの「卷之十 木之上」の「楮」の項では、『紙ヲ漉ク木也一名カウゾ一名カヂノ木猶其種類アリ』と冒頭に記している。これは、この二つの名が一般に「楮」に当てられており、それとは別に似た種類や、似て非なる種類があり、又、違った種だが、紙の原材料となる植物(所謂、「楮」と並び称せられる和紙原料の「三椏」=バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ミツマタ属ミツマタ Edgeworthia chrysantha )や「雁皮」=ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana :益軒のそれでは「楮」のすぐ後の次のコマに「和品」「ガンヒ」がある)があるといった意味だろう。いや、何より、ウィキの「カジノキ」には、『和名「カジノキ」は、コウゾが古くは「カゾ」といい、本種はそれが転訛した名だといわれている』。『古い時代においてはヒメコウゾとの区別が余り認識されておらず、現在のコウゾはヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている』(この言い方が非常に気になる。これは、今も学術的には論争があると言った感じがするのである。しかし、そうなると、ますます面白い。近代になって突然に雑種が生まれたと考えるのは無理があるから、現代でも両種を同じだとする学者がいるということになるからである)。『また、江戸時代に日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも』、『この両者を混同してヨーロッパに報告したため』、『今日のヒメコウゾの学名が』、 Broussonetia kazinoki 『となってしまっている』とあるのを見ても、私の推定は外れていないと思うのである。

 なお、英文の同属のページを見ると、Broussonetia × kazinoki Siebold – Japan, Korea, and the Ryukyu Islands とあるのだが、これは誤りである。「維基百科」にはカジノキ相当の「楮構」があって、そこには、別名を「楮」(これまた、困ったちゃんの別名やなぁ)・「小構樹」とし、『中国の西南・華南等の地に分布し、宅地の近傍にも植生している』とあり、さらに、『中国で宋・金・元代に発行された「會子」・「寳錢」などの紙幣は、殆んどがこの樹皮から作った紙で出来ており、「楮幣」と呼ばれていた』とあった。英語のウィキも当てにならんな。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「楮」([088-11b]以下)のかなり分量があるところからのパッチワークである。

『「𣪊」に从《したがひ》、「木」に从≪ふ≫。「五穀」の「穀」は、「禾」に从≪ふ≫』は「本草綱目」には、ない。どこから引き出してきたかは、調べてみたが、判らなかった。何らかの、中国の辞書であろうとは思われる。この「𣪊」の字は、「K'sBookshelf 辞典・用語 漢字林」のこちらによれば、『㱿』=『𣪊』・『𣪛』で、音は『カク』・『コク』とし、『ものの表面を覆(おお)って中にあるものを保護している堅(かた)い外皮ガイヒ、カニ(蟹)やエビ(海老)などの甲羅コウラ、貝類や卵などの外皮、果実や実の表面の堅い外皮など、同「殼」』とし、また、『吐(は)く、口から声やものを外に出す』の意とする。

「楊梅(やまもゝ)」良安が「本草綱目」の引用で和名をルビされると、今までの異種同漢字問題の関係上、反射的に神経症的になるのだが、幸い、これは、ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra であった。ほっとした。「維基百科」の「楊梅」を参照されたい。

「葉に、澀《しぶき》毛《け》、多し」ウィキの「カジノキ」に、『葉は大きく、楕円形から広卵形で』、『若木では浅く』三~五『裂し、表面に毛が』、『一面に生えて』、『ざらつく』とある。

「其の木、腐(くさ)りて後《のち》、菌-耳(くさびら)を生ず。味、甚だ佳好《かかう》なり」調べてみると、一本の野生のカジノキの倒木上で採取された菌界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ Flammulina velutipes の野生種間の遺伝的差異についての論文があった。わざわざ特異的な発生を素材に選ばれるとは思われないので、これで決まりとしておく。ウィキの「エノキダケ」(榎茸)にも、『エノキ、カキ、コウゾ』(☜)、『イチジク、コナラ、クヌギ、クワ、ポプラ、ヤナギ、ケヤキ、ヤブツバキ、シイ、カシ、ユズリハなどの広葉樹の枯れ木や切り株に寄生する木材腐朽菌(腐生性)』とあった。

「白及《はくきゆう》」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科セッコク亜科エビネ連 Coelogyninae 亜連シラン属シラン Bletillastriata のことか。これ、及び、ラン科 Orchidaceae の一部の種に見られる茎の節間から生じる貯蔵器官である偽球茎(偽鱗茎:英語:pseudobulb)は、漢方生薬「白及」(ハッキュウ)と称し、止血や痛み止め・慢性胃炎に処方される。

「楮實《ちよじつ》」『一《いつ》≪に≫、「楮桃《ちよたう》」と名づく。又、「穀實《こうじつ》」と名づく。陰痿』「を治す」中文の「抖音百科」の「楮桃」を閲覧。写真と学名でカジノキと判った。その「功能主治」の項に『肾虚』と『阳痿』とあった。前者は「腎虛」で、漢方で、腎水(精液)が涸渇し、身体が衰弱すること。房事過度によって発症する性的衰弱症であり、後者の「阳」は「陰」の簡体字であるから、「impotenz」「ED」である。

「木綿(ゆふ)」「木-綿-繈(ゆふだすき)」ウィキの「木綿(ゆう)」を引く(注記号はカットした)。『木綿(ゆう)とは、楮(こうぞ)のことであり、それを原料とした布のことである。楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維である』。『伊勢神宮の神事など麻を原料として単に木綿(ゆう)と記される。神宮式年遷宮や他の神社でも遷座では頭に巻いたり、たすき掛けにして用いられる。真麻木綿(まそゆう)とも』。『古代、日本に木綿(もめん)が伝わらなかった時代には、麻を主としつつも、様々な植物が糸・布の原料として利用された。楮もその一つで、そこからとった「ゆう」(旧仮名遣いで「ゆふ」)が「木綿」と書かれた。これを織って作った布は太布(たふ)、栲(たえ/たく)、栲布(たくぬの)などと呼ばれる。ただし、太布は藤蔓(ふじつる)からとった布も含む。また、木綿(ゆう)から作られた造花を木綿花(ゆうはな)と言う』。『神道においては木綿(ゆう)を神事に用いる。幣帛として神に捧げるほか、紙垂にして榊に付けた木綿垂(ゆうしで)、冠に懸けた木綿鬘(ゆうかずら)、袖をかかげる襷に使用した木綿襷(ゆうだすき)である』。『木綿鬘は、厳重な斎戒の表象であり、実際には麻を用いて頭に直接巻き、神宮式年遷宮にて、また他の神社でも遷座の際に用いる。木綿襷は、同じく遷宮・遷座の際にかけ、ここでも実際には麻を使い、宮司が左右の肩から斜めに両脇にかけ、それ以下の者は左肩から右脇にかける。伊勢神宮の神事においては、木綿鬘や木綿襷、大麻(おおぬさ)には木綿(ゆう)と』『あるが』、『麻を用い、玉串や大麻の麻苧を木綿(ゆう)と呼ぶ。木綿襷は、最も古い事例では』、五世紀の『允恭天皇』四『年』『の』九『月に盟神探湯(くがたち)を行った際に各人がつけた』とあり、伊勢神宮の内宮の皇大神宮に於ける神御衣祭(かんみそさい)で木綿鬘を頭に巻いた神職らの写真がある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 奴柘

 

Kakatugayu

 

いぬくは

 

奴柘

 

本綱奴拓生山野此樹似柘而小有刺葉亦如柘葉而小

冬不凋可飼𧑯

[やぶちゃん字注:「𧑯」は「蠶」(=蚕)の異体字。]

 

   *

 

いぬくは

 

奴柘

 

「本綱」に曰はく、『奴拓《ドシヤ》、山野に生《しやうず》。此の樹、柘《シヤ》に似て、小《しやう》にして、刺《とげ》、有り。葉≪も≫亦、柘≪の≫葉のごとくにして、小さし。

冬≪も≫凋まず。𧑯《かひこ》を飼ふべし。

 

[やぶちゃん注:「奴柘」(現代仮名遣「どしゃ」)は、東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ」の「伊藤圭介文庫 錦窠図譜の世界」の「桑科」の「クワクワツガユ」の画像に(手書き稿本。下方に電子化されているものを参考に画像になるべく合わせて電子化した。本画像は所有権の関係上、無断では二次利用することが出来ない。伊藤圭介(享和三(一八〇三)年~明治三四(一九〇一)年)は幕末から明治の本草学者・博物学者。尾張の町医者の家に生まれた。長崎に遊学し、シーボルトに師事し、「泰西本草名疏」を著わして、リンネの植物分類法を紹介した。明治二一(一八八八)年には日本で最初の理学博士となった。著作に「救荒植物便覽」「小石川植物園草木目錄」など多数。当該ウィキもある)、

   *

                   雜木鈎

ソンノイゲ

 筑前ノ産

  葉两對

 葉間ニ刺アリ

 虎刺ノ如シ

 

クワクワツガユ 或云和活ハ人ノ名其人ノ家ニ

        植テ名ナシ仍テ其持主ノ名ヲ以テ

          和活カ柚ト呼トゾ

 

クワクワツガユ クスドギ江戶 ユキノキ

クストインゲ  ユスノキ

  クストキト混ス

九州辺ニ多小樹ニシテ枝多ク葉宻ニシテ葉毎ニ刺アリ木大

ニナレバ葉モ大ナリミカンノ葉ニ似テ小澤アリ冬ハ葉ナシ

大和本草ニ曰和活カ柚 葉ハ茶ニ似タリ其樹枝多シ、實ハ

楊梅ニ似テ微大也熟スレバ黄ナリ味甘シ柚ノ類ニハアラズ

世俗枳椇ニ對乄称漢名未詳

 

江戶岩崎源蔵奴柘ニ充ツ

此木ヲ以テ櫛ニツクルト云

 

       一葉一針大樹ニナレバ皀莢ノ如ク刺多四時不萎

   *

とあって、内容追記で、『名称:カカツガユ, 学名: Maclura cochinchinensis (Lour.) Corner var. gerontogea (Sieb. et Zucc.) Ohashi』(学名が斜体でないのはママ)とあった。則ち、本項の「奴柘」は、

双子葉植物綱バラ目クワ科ハリグワ連ハリグワ属カカツガユ Maclura cochinchinensis var. gerontogea

である。「熊本大学薬学部薬用植物園 薬草データベース」の「カカツガユ」のページに、現行の中文名を『构棘』とし、花期は五月、『生薬名』を『穿破石(センハセキ)』とし、『薬用部位』は『根』、その薬理『成分』を『キサントン類(gerontoxanthone A-C)』と『フラボノイド(morin)』とする。『産地と分布』として(以下、コンマ・ピリオドを句読点に代えた)、『山口県、四国、九州、沖縄、および台湾、中国南部に分布し、暖地に生える。』とあり、『植物解説』の項で、『常緑木本で、蔓状に伸びて』十五メートル『ほどに達することもあるが、普通は』三メートル『内外。葉腋から枝の変形したトゲが出る』。十五~二十五センチメートル学名でグーグル画像検索すると、外国の画像であるが、恐ろしく長い刺の写真が見られるので、これはトゲの長さである)。『葉は互生し』、『有柄、葉身は長楕円形または倒卵状長楕円形.葉腋から』一、二『個の花序を出し、果実は黄熟し』、『食べられる。』とある。『薬効と用途』の項によれば、『肺結核、黄疸型肝炎、肝臓や脾臓の腫れ、リウマチ性の腰脚痛などに用いられる。骨折や打撲などには煎液を外用する。中国で薬用にされる。』とし、最後に、『果実は甘く、ヤマミカンの別名がある。』とあった。また、「土佐清水市」公式サイト内の観光地情報」の「貝ノ川のカカツガユ自生地(県①)」で、『カカツガユ(和活が柚)は、本州(山口県)、四国南部、九州、沖縄の沿海部の山地に自生するクワ科ハリグワ属の常緑植物でトゲのある幹は、つる状になり他の樹木にからみついて生長しヤマミカン・ソンノイゲの別名があります。雌雄異株で花は夏に咲き果実はヤマモモ状で』十『月下旬赤橙色に熟します』。『名前のカカツ(和活)は、ホオズキの古名「カガチ」が訛った「カカツ」の当て字で、ユ(柚)は赤黄色に熟した実をホオズキに似た柚に例えて名付けられたと言われています』。『恩神社境内の自生地には、かつて目通り周径が』三十センチメートル『を超える』三『本の巨木がありましたが、これらについては残念ながら』、『枯死等により全て伐採されてしまいました。現在は、この自生地において数本の幼木が順調に生長を続けています』とあって、やっと漢字表記と、不思議な和名の由来が判った。

 さて。良安が本項の標題「奴柘」に附した和名「いぬくは」=「いぬぐわ」は、アウトである。「犬桑」は、

ミズキ目ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属ヤマボウシ Cornus kousa subsp. kousa

の別称だからである。因みに、この種には別種と紛らわしい異名が多い当該ウィキによれば、漢字表記は『山法師』・『四応花』(中文名は「四照花」)であるが、『和名ヤマボウシの由来は、中心に多数の花が集まる頭状の花序を法師(僧兵)の坊主頭に、花びらに見える白い総苞片を白い頭巾に見立てたもので、「山に咲く法師」(山法師)を意味するといわれている』。『果実が食用になり』、『クワの実に見立てたことから、別名でヤマグワ』(☜)『とよぶ地域も多く』、『赤い実からヤマボウ(山坊)』『やヤマモモ(山桃)』、『実の味からワランベナカセ(童泣かせの意)』『の地方名でよばれるところもある。実の形からついたと思われる別名に、ダンゴギ(団子木)、ヤマダンゴ(山団子)、ダンゴバラ(団子薔薇)、ダンゴボク(団子木)、シゾウアタマ(地蔵頭)というものもある』。『ヤマボウシの日本一の名所といわれる箱根』『では昔「クサ」と呼ばれていたので学名の種小名に kousa とつけられた』とある。

「𧑯《かひこ》を飼ふべし」サイト「奄美群島生物資源Webデータベース」の「カカツガユ」の『食用』の項に、『果実を生食または醸造に利用する。葉は蚕の飼育に利用する』とあった(この第二文、個人的には、直ぐ後の『加工と利用』の方に置いた方がいいように思う)。]

2024/08/11

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 柘

 

Hariguwa

 

やまくは  和名豆美

       俗云山桑

【音射】

      俗以柘字爲黃

シヱヽ   楊木訓甚非也

 

本綱柘山中有之喜叢生幹疎而直葉豊而厚團而有尖

其葉飼蠶取𮈔謂之柘𧑯然葉硬不及桑葉其木裏有紋

[やぶちゃん字注:「𧑯」は「蠶」(=蚕)の異体字。]

可旋爲噐或作琴瑟清響勝常弓人取材以柘爲上其實

[やぶちゃん字注:「弓」は「グリフウィキ」のこの異体字だが、表示出来ないので、「弓」とした。以下も同じ。]

狀如桑子而圓粒如椒名隹子【音錐】其木染黃赤色謂之柘

[やぶちゃん字注:「隹」は、原文では、どう見ても「佳」にしか見えないが、それでは、訓読不能であり、東洋文庫が『隹』としており、それでないと直下の音が「錐」と一致を見ないので、「隹」とした。因みに、「漢籍リポジトリ」は「木之三」の「柘」では([088-10a]以下の五行目の後半)「佳」としているのだが、「維基文庫」の「本草綱目」では、「隹」としている。

黃天子所服也柘木以酒醋調礦灰塗之一宿則作間道

烏木文物性相伏也

柘白皮【甘温】能通腎氣治耳鳴耳聾補勞損虛羸洗目令

 明又能治夢遺【釀酒用之】

△按柘阿州土州山中有之以爲弓木黃色

 農政全書云柘木堅勁皮紋細宻上多白㸃枝條多有

 刺葉比桑葉甚小而薄色頗黃淡葉稍皆三叉其椹亦

 飼蠺 又有綿柘刺少葉似柿葉微小枝葉閒結實狀

[やぶちゃん字注:「蠺」は「蠶」の異体字。実は原本では最上部は「夫夫」になっているが、そのような異体字はないので、最も近い「蠺」に代えた。]

 似楮桃而小熟則亦有紅蘃味甘酸

[やぶちゃん字注:「蘃」は「蕋・蕊・蘂」の異体字。]

 

   *

 

やまぐは    和名、「豆美《つみ》」。

        【俗、云ふ、「山桑《やまぐは》」。】

【音「射」。】

        俗、「柘」の字を以つて、「黃楊木

シヱヽ     (つげ《のき》)」の訓を爲≪すは≫、

        甚だ、非なり。

 

「本綱」に曰はく、『柘《シヤ》は、山中、之れ、有り。喜《このん》で、叢生す。幹《みき》、疎(うと)くして、直《なほ》し。葉、豊《ゆたか》にして、厚し。團《まろ》くして、尖《とがり》、有り。其の葉、𧑯《かひこ》を飼《かひ》て、𮈔《いと》を取る。之れを「柘𧑯《タクサン》」と謂ふ。然《しかれ》ども、葉、硬くして、桑の葉に及ばず。其の木の裏《うち》、紋、有り、旋(さ)して、噐《うつは》に爲《す》るべし。或いは、琴《きん》・瑟《しつ》に作れば、清響《すずしきひびき》、常に勝《まさり》たり。弓人《きうじん》、材を取るに、柘を以つて、上と爲《なす》、其の實、狀《かたち》、桑の子《み》のごとくにして、圓《まろく》、粒、椒《さんせう》のごとし。「隹子《スイシ》」と名づく【音「錐」。】。其の木、黃赤色を染む、之れを「柘黃《シヤワウ》」と謂ふ。天子の服する所なり。柘の木、酒・醋《す》を以つて、礦灰《カウカイ》[やぶちゃん注:石灰のこと。]を調《ちやうじ》て、之れを塗る。一宿する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、間-道-烏《しまくろ》の木の文《もん》を作《な》す。物性、相《あひ》伏《ぶく》すなり。』≪と≫。

『柘白皮【甘、温。】能く、腎氣を通し、耳鳴《みみなり》・耳聾《みみしひ》を治す。勞損虛羸《らうそんきよるい》を補す。目を洗≪へば≫、明《めい》ならしめ、又、能く、夢遺《むい》[やぶちゃん注:夢精のこと。]を治す【酒を釀《かも》して、之れを用ふ。】。

△按ずるに、柘、阿州・土州≪の≫山中に、之れ、有り。以つて、弓木と爲《なす》。黃色なり。

「農政全書」に云はく、『柘木《シヤボク》、堅勁《けんけい》にして、皮の紋、細宻にして。上に、白㸃、多し。枝-條《えだ》、多く、刺《とげ》、有り。葉、桑の葉に比《ひし》たれば、甚だ、小にして、而《しかも》、薄し。色、頗《すこぶ》る黃淡《わうたん》。葉の稍(すへ[やぶちゃん注:ママ。])、皆、三叉(《みつ》また)あり。其の椹《み》も亦、蠺《かひこ》を飼ふ』≪と≫。又、『「綿柘《メンシヤ》」有り。刺、少く、葉、柿の葉に似て、微《やや》小さく、枝葉の閒《あひだ》に、實を結ぶ。狀《かたち》、楮-桃(かうぞ)[やぶちゃん注:後で注するが、この良安の「カウゾ」という読みは致命的な誤りである(「農政全書」は、明末の一六三九年に刊行された、天才的科学者であった徐光啓の編纂になる中国の農業技術書である)。「維基百科」の「構樹」に、別名として『楮桃』があると記されてあるのである。而して、この樹種は本邦のカジノキと一致する。則ち、ここは「カジノキ」と記すべきものということになる]に似て、小さく、熟≪せば≫、則ち、亦、紅《べに》なる蘃《しべ》、有り。味、甘酸《かんさん》≪なり≫。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:まず、半否定法で示す。

「やまぐは」「山桑《やまぐは》」と言っても、双子葉植物綱バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus austrails ではない(同種は前項「桑」で既注)

△+✕「豆美《つみ》」は桑類の古名総称である(△)が、実は「柘」の正体は、クワ科Moraceaeではあるが、クワ属ではない(✕)

良安が『俗、「柘」の字を以つて、「黃楊木(つげ《のき》)」の訓を爲≪すは≫、甚だ、非なり』と全否定している通りで、日本のツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica ではない。

驚くべきことだが、大修館書店の「廣漢和辭典」を引くと、「柘」の項には、『①木の名。㋐山ぐわ。野ぐわ。桑の一種。』、『㋑柘楡(シャユ)は、やまにれ。』とあり、国字として、木の名。①つげ。黄植(つげ)。②柘榴(ざくろ)は石榴の誤用。』とあるばかりである。『桑の一種』は許せるが(クワ科Moraceaeではある)、『山ぐわ』は上記の通り、和名にヤマグワがあるから、アウトである。『野ぐわ』は「野生種のクワ属」の意味なら(普通の人はそう採る)、クワ属ではないので、アウトである。「廣漢和辭典」の本「柘」を執筆した人物は、中国で「柘」が如何なる種であるかを認識して書いていないと断言出来る(因みに、「やまにれ」はイラクサ目ニレ科ニレ属アキニレ Ulmus parvifolia の異名である。「柘楡」の文字列はないし、ここでは、「柘」とは無関係である。同種は既に「櫸」の私の注の中で「石櫸」として注もしてあるので、見られたい)

 さて。核心に入ろう。

 日本語のネット記事で、明確に種同定されてあるのは、私が絶大な信頼を寄せている「跡見群芳譜」の「外来植物譜」(これによって、本邦には、この「柘」なる樹木は自生しないこと、良安は、これが何であるかを知り得る余地はゼロだったということが判明する)の、ここのページ記された、「はりぐわ(針桑)」のみであった。則ち、

◎双子葉植物綱バラ目クワ科ハリグワ連(ハリグワ属一属のみの短型連)ハリグワ属ハリグワ Maclura tricuspidata が「柘」の正体

なのであった。そこには(学名は斜体になっていない)、『ハリグワ属 Maclura(橙桑 chéngsāng 屬)には、世界の熱帯・亜熱帯に約』十~十二『種がある』とあり、『漢名を柘(シャ,zhè)というものは』、『これだが、和名を柘(つみ)というものは、ヤマグワ』とあり、『朝鮮・河北・陝西・華東・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南・ベトナムに分布』するとし、『日本には、養蚕用に明治初期に入り、今日も』、『ときどき』、『人家に植える』とあった(これで良安が見ることが出来なかったことが確定される)。さらに、『葉はカイコを飼い、実は食用・醸造用にし、樹皮の繊維から紙を作り、根皮は薬用にし、木材は上等な弓を作り、また黄色の染料にする』。『福建・廣東では根を穿破石(センハセキ,chuànpòshí)と呼び、カカツガユ M.cochinchinensis(構棘)と同様に薬用にする』とあった。

「維基百科」の「柘」を見よう(邦文ウィキは存在しない)。別名を『柘樹・拓樹』とし、『東アジア原産』の』『低木或いは小木で、多の棘(とげ)があり、樹高は最大六メートル、卵形、又は、倒卵形の革質の葉、全縁、又は、前面に浅く三裂し、雌雄異株の花を腋に生じて咲かせる。直径は約二・五センチメートル』とある。『用途は桑の木と同様で、茎の皮は紙を作り、根の皮は咳を和らげ、痰を消し、痛みを和らげる薬として使用される。木材としては貴重とされ、「南檀北柘」と称される』。『また、黄色染料としても使用され、葉は、蚕を飼育するのにも』桑の代用として『用いられ、果実は食用又は醸造用として利用される。雞桑と混同されやすい場合もある』とあった(この「雞(=鷄)桑」はヤマグワのことである。前項「桑」で既注。「廣漢和辭典」は、まさにその混同をヤラカしてまったというわけだ!)。最後に『河南省柘城縣福建省柘榮縣西北京の潭柘寺(たんしゃじ:孰れもグーグル・マップ・データ)は、この植物に因んで名付けられた』とあった。学名でグーグル画像検索したものをリンクしておく。実の画像が多く、樹木全体の様子が、今一、ないのが残念である。

「幹《みき》、疎(うと)くして」先の「跡見群芳譜」のページの『2007/05/22』のクレジットのある『小石川植物園』の右側の写真を見ると、ナットク!

「旋(さ)して」不詳。円盤状に回し削っての意か。

「琴《きん》・瑟《しつ》」先行する「楸」で既出既注。

「隹子《スイシ》」この実の名前の意味は不詳。「隹」には、しっくりくる意味がないのである。「普及版 字通」によれば、象形文字で、『鳥の形』で、「說文」の四の上に『「鳥の短尾なるものの名なり」という。卜文』(ぼくぶん)『では、神話的な鳥の表示には鳥をかき、一般には隹を用いる。語法としては「隹(こ)れ」という発語に用い、文献では唯・惟・維を用いる。また動詞として「あり」、所有格の介詞の「の」、他に並列の「与(と)」、また「雖も」と通用することがある。隹はおそらく鳥占(とりうら)に用い、軍の進退なども鳥占によって決することがあったのであろう。祝詞の器』(さい)『の前で鳥占をするのは唯、神の承認することをいう。その祝に蠱虫の呪詛があるものは雖、保留がついて逆接の意となる』とあって、意味は「とり」・「ふふどり」・「これ/あり/と」・「雖と通じて『いえども』」とあるだけである。

「天子の服する所なり」皇帝が着用する服の色がそれである。

「間-道-烏《しまくろ》」「縞黑の紋」の謂いだろう。

「物性、相《あひ》伏《ぶく》すなり」意味不明。東洋文庫訳も『物性相伏の結果である』と訳しているだけで、何と何とが、「相伏」なのか、よく判らんわ!

「勞損虛羸《らうそんきよるい》」東洋文庫の後注に、『ながわずらいで栄養が失われ、体が弱って回復しないこと。』とある。

「阿州」阿波國。

「土州」土佐國。但し、ここで良安が言っているのは、本邦の「柘弓(つみゆみ)」であり、その材は、ヤマグワであった。ただ、恰も四国の山中にのみ分布するように書いているのは、誤認である。ヤマグワは、サハリン・千島列島・北海道・本州・四国・九州・朝鮮半島・中国南部などの東アジアに広く分布する。

「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「卷五十六 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[056-8b]に、

   *

柘樹 本草有柘木舊不載所出州土今北土處處有之其木堅勁皮紋細上多白枝條多有刺葉比桑葉甚小而薄色頗黄淡葉稍皆三乂亦堪飼蠶綿柘刺少葉似柿葉小枝葉間結實狀如楮桃而小熟則亦有紅蕋味甘酸葉味甘㣲苦柘木味甘性溫無毒

  救飢 採嫩葉煠熟以水浸作成黄色換水浸去邪味以水淘浄油鹽調食其實紅熟甘酸可食

   *

とあった。下線部が前者の引用で、太字部が後者の引用である。

「楮-桃(かうぞ)」割注した通りで、この良安の「カウゾ」という読みは致命的な誤りである。良安は、この「楮桃《チヨタウ》」を、無批判に、

✕バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia × kazinoki

に比定同定してしまったのである。但し、ウィキの「コウゾ」によれば、『コウゾは、ヒメコウゾ』(バラ目クワ科コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia monoica )『とカジノキ』『の雑種』(交雑種)『という説が有力視されている』。『本来、コウゾは繊維を取る目的で栽培されているもので、カジノキは山野に野生するものであるが、野生化したコウゾも多くある』。『古代においては、コウゾとカジノキは区別していない』(太字は私が附した)とあるから、良安一人が責められるわけではなく、種として区別していなかったのだから、しょうがないと言えば、しょうがないのだが、現代の我々が読む際には、そこを修正しなければ、話しが通らないのだから、仕方がない。再度、「維基百科」の「構樹」を見られたい。そこにはっきりと別名として『楮桃』があると記されてあるのである。これは、現在の、

◎バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera

なのである。而して、邦文の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『単にカジ(梶)またはコウ(構)』(「維基百科」の「構樹」 と一致する)『ともよばれる。枝の繊維は和紙の原料として用いられる』。『和名「カジノキ」は、コウゾが古くは「カゾ」といい、本種はそれが転訛した名だといわれている。中国名は「構樹」』。『古い時代においてはヒメコウゾとの区別が余り認識されておらず、現在のコウゾはヒメコウゾとカジノキの雑種といわれている。また、江戸時代に日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもこの両者を混同してヨーロッパに報告したために今日のヒメコウゾの学名が「Broussonetia kazinoki」となってしまっている』。『原産地は不明であるが、日本、中国、台湾に分布し、日本国内では中部地方南部以西の本州、四国、九州、沖縄に分布する。山野に自生するが、日本には古くから栽培されていたものが野生化したものとみられており、野鳥の糞から芽生えた若木がよく目立つ。自然分布以外でも、人の手によって植栽されて庭や公園に植えられているものも見られる』。『落葉広葉樹の高木で、樹高はあまり高くならず』、十~十二『メートル』『ほどになる。樹皮は灰褐色で黄褐色の皮目があり、若木には褐色のまだら模様が入り、縦に短く裂けて浅い筋が入る。一年枝はうぶ毛が多く生えるか、まばらに生えている。葉は大きく、楕円形から広卵形で若木では浅く』三~五『裂し、表面に毛が一面に生えてざらつく。左右どちらかしか裂けない葉も存在し、同じ株でも葉の変異は多い。葉柄は長く』、二~十『センチメートル』『ほどある』。『開花時期は』五~六月で、『雌雄異株[3]。雄花序は長さ』四~八センチメートルの『穂状に下垂し、淡緑色。雌花序は直径』二センチメートル『ほどの球状につき、紅紫色の花柱がのびている。果期は』九『月。果実は直径』二~三センチメートル『ほどの集合果で、秋に赤く熟して食用になる』。『冬芽は互生し、三角形で毛が多く生え、暗褐色をしている』二『枚の芽鱗に包まれている。冬芽の下にある葉痕はやや大き目の心形や半円形で、維管束痕は多数輪状に並ぶ。葉痕の肩の部分に托葉痕があり、しばしば托葉が残っていることもある』。『古墳時代には栲樹(たくのき)と呼ばれて』、『木皮から木綿を作っており、栲樹が豊富だった豊国(大分県)の「柚富」(ゆふ)の地名はこれに由来する』。『古代から神に捧げる神木として尊ばれていた』ため、『神社の境内などに多く植えられ、主として神事に用い供え物の敷物に使われた』。『樹皮は繊維が強く、コウゾと同様に和紙の繊維原料とされた。中国の伝統紙である画仙紙(宣紙)は主にカジノキを用いる』。『煙などにも強い植物であるため、中国では工場や鉱山の緑化に用いられる』。『葉はブタ、ウシ、ヒツジ、シカなどの飼料(飼い葉)とする』。『カジノキは』本邦では、古くから『神道で』『神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれている。また、昔は七夕飾りの短冊の代わりとしても使われた』とある。この樹種は、本邦のカジノキと一致するのである。

2024/08/10

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 目録・桑

[やぶちゃん注:「目録」は以下の標題の通り、次の「卷第八十五」もセットになっているが、ここでは、分離する。

 底本・凡例その他は、初回を参照されたい。「目録」の読みはママである。本文同様、濁点落ちが多い。表示不能な異体字は当該項で示す。

 因みに、「灌木」とは、小学館「日本国語大辞典」によれば、『丈が低く、幹が発達しない木本植物。ツツジ、ナンテンなどの類で、幹と枝とが区別しにくく、二~三メートル以内のもの。現在では低木という』とあり、「喬木」の反対語とする。]

 

和漢三才圖會卷第八十四之五目録

  第之八十四

   灌木類

 

(くは)

桑白皮(さうはくひ) 【桑椹】

(やまくは)

奴柘(いぬくは)

(かうぞう) 【かち】

[やぶちゃん注:「かうぞう」はママ。本文でも、そうなっている。]

枳殻(きこく)    【枳實】

枸橘(げす)

巵子(くちなし)

酸棗仁(さんそうにん)

白棘(はくら)

蕤核(すいかく) 【とりとまらす】

楤木(たらのき)

山茱臾(さんしゆゆ)

胡頽子(ぐみ)

金櫻子(のいばら)

郁李仁(いくりにん)

䑕李(むらさきしきぶ)

女貞(いぬつばき)  【ねづもち ひめつばき】

冬青(まさき)

狗骨(ひいらぎ)

黐樹(もちのき)

馬醉木(あせぼ)

吉利子樹(きりししゆ)

衛矛(にしきゞ)

狗骨南天(ひらきなんてん)

五加皮(ごかひ) 【むこぎ】

枸杞(くこ)

地骨皮(ぢこつひ)

溲疏(ちやうせんくこ)

楊櫨(うつき)

𣠽樹花(はしくは)

石南(しやくなぎ)

牡櫨(なまゑのき)

[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。当該項で考証するが、この「ゑ」は「柄」であろうと思われるので、「え」の誤りであろう。]

蔓荊子訓(まんけいし)【はなばひ】

紫荊(すはうのき)

木槿(むくげ)

扶桑(ふさう) 【ぶつさうげ】

白槿(はつきん)

木芙蓉(ほくふやう)

[やぶちゃん注:「やう」はママ。]

山茶花(さゞんくは)

海石榴(つばき)

蜀茶花(からつばき)

蠟梅(らうばい) 【をうばい】

伏牛花(ふくきうくは)

宻蒙花(みつもうくは)

木棉(ぱんや)

(くしのき)

黃楊(つげ)

賣木子(ちさのき)

𮅑樹(かうしゆ)

木天蓼(きまたゝひ)

藤天蓼(またゝび)

接骨木(にわとこ)

𣛴木(かんぼく)

大空(たいくう)

(ごねづ)

粉團花(てまり)

山牡丹(やまほたん)【附與曽々女(ヨソソメ)】

小粉團花(こてまり)

笑靨花(しゞめはな)

糏花(こゞめはな)

虎茨(こじ)

近雀花(きんしやくくは)

八手木(やつでのき)

列珠花(れたまのき)

梅嫌木(うめもとき)

瓢樹(ひよんのき)

珊瑚樹(さごじゆ)【附權𬜻(ゴンズイ)】

(さかき)

(ひさゝき) 【びしやしやこ】

山橘(やまたちはな)

平地木(からたちはな)

青木(あをき)

夏黃櫨(なつはぜ)

伊比桐(いひぎり)

讓葉木(ゆづりは)【附計羅(けら)】

三杈木(みつまたのき)

百日紅(ひやくじつこう)

猿滑(さるすべり)

加豆於之美(かつおしみ)

山茶科(りやうぶ)

槭樹(しくじゆ)

臭𦶓(さうこう)

[やぶちゃん注:「さう」はママ。本文でも同じ。「臭」は歴史的仮名遣は「しう」。]

白丁花(はくちやうけ)

䑕取樹(ねすみとり)

 

 

和漢三才圖會卷八十四

         攝陽 城醫法橋寺島良安尙順

   灌木類

 

Kuwa

 

[やぶちゃん注:上部に桑の「椹」(み:実)の添え図とキャプションがある。]

 

くは       子名椹

 

【音莊】   【和名久波】

 

サン

 

本綱桑箕星之精蠶所食葉之神木也有數種

白桑其葉大如掌厚○雞桑葉而花薄○子桑先椹而後

[やぶちゃん注:ここ以降の「○」の記号は良安が、続いているのを、読み易くするために打ったものである。されば、「≪と≫」を入れるべくもないほどのなので、訓読では、殆んどを二重鍵括弧を前後に入れるに留める。後も、今までにない、目を背きたくなる激しい継ぎ接ぎであるが、殆んど単漢字や熟語を組み合わせたジグソー・パズルのような呆れた仕儀であり、最早、二重鍵括弧で分離出来ない有様であった。

葉○山桑葉尖而長○女桑小而條長皆以子種者不若

檿條而分者桑生黃衣謂之金桑其木必將稿矣桑以構

接則桑大根下埋龜甲則茂盛不蛀


桑白皮 桑根白皮

       ○桑寄生【見寓木類】

[やぶちゃん注:「【見寓木類】」は良安の割注。]

氣味【甘辛寒】 治水腫喘滿去寸白治小兒天弔驚癇客忤

 如瀉白散能瀉肺火治喘嗽其火從小便去【伹肺虛而小便利者

 不宜用之】又用桑白皮作線縫金瘡腸出更以熱雞血塗之

 凡使采十年以上向東畔嫩根銅刀刮去青黃薄皮一

 重取裏白皮切焙乾用其皮中涎勿去之藥力俱在其

 上也【忌鐵及鉛】木之白皮亦可【出地上根有毒不可用】

 用煑汁染褐色久不落


桑椹 一名文武實

有烏白二種單食止消渴治關節痛久服不飢安神䰟令

[やぶちゃん注:「䰟」は「魂」の異体字。]

人聰明白髮變黒【黒椹一斤蝌蚪一斤甁盛封閉懸屋頭一百日盡化爲黒泥以染白髮染妙】

 山かつのそのふの桑のくはまゆの出やらぬ世は猶そ悲しき衣笠内府

△按桑養蠶之地皆多之栽有不實者俗謂之男桑其桑

 椹初青白漸々赤色熟黑味甜木堅實黃白色有橒堪

 爲箱噐

 古今醫統云白桑葉大而無子蠶食之繭厚𮈔堅而倍

 常取枝可壓熟地

桑葉 四月茂盛時采之又十月霜後多落葉時少殘葉

 名神仙葉卽采之與前葉同陰乾擣末服【丸散煎湯任意】或代

 茶飮之能止消渴除脚氣水腫及勞熟咳嗽

 

   *

 

くは       子《み》を「椹《じん》」と名づく。

 

【音「莊」。】 【和名、「久波」。】

 

サン

 

「本綱」に曰はく、『桑は「箕星《きせい/みぼし》」の精≪にして≫、蠶(かいこ)、葉を食《くふ》所の神木なり。數種、有り。』≪と≫。

『白桑は、其の葉、大にして掌《てのひら》のごとく、厚し。』。○『雞桑《けいさう》は、葉、花ありて、薄し。』。○『子桑《こぐは》は、椹《み》を先《さき》にして、葉を後《あと》にす。』。○『山桑《やまぐは》は、葉、尖《とがり》て、長し。』。○『女桑《めぐは》は、小にして、條《こえだ》、長し。皆、子《み》を以《もつて》種《うう》る者≪は≫、條《えだ》を檿(さ)して分《わか》つ者に若(し)かず。桑、黃≪いろき≫衣≪ころも≫を生ず≪る者は≫、之れを「金桑《きんくは》」と謂ふ。其の木、必ず、將《まさ》に稿(か)れんとす。桑を以《もつて》、構(かうぞ)に接(つ)ぐ時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。後も同じ。]、則ち、桑、大なり。根≪の≫下に、龜甲《きつかふ/かめのかふ》を埋む時は、則ち、茂《しげりて》、盛《さかん》にして、蛀(むしい)らず。』≪と≫。


さうはくひ

桑白皮『桑の根の白皮なり。』

       ○『桑寄生《さうきせい》』【「寓木類」を見よ。】

『氣味【甘辛、寒。】』『水腫・喘滿《ぜんまん》を治し、寸白《すばく》を去り、小兒の天弔《ひきつけ》・驚癇・客忤《かくご》を治す。「瀉白散《しやはくさん》」のごとき≪は≫、能《よく》、肺≪の≫火《くわ》を瀉して、喘-嗽《せき》を治す。其の火、小便より、去る【伹《ただし》、肺虛にして、小便の利《り》する者、之れを用ふるに宜《よろし》からず。】。又、桑白皮を用ひて、線(いと)作《つくり》、金瘡《かなさう》の、腸(わた)、出《いづ》るを縫(ぬ)ひて、更に熱《あつき》雞《にはとり》≪の≫血《ち》を以つて、之れを塗る。凡そ、≪それに≫使ふに、十年以上、東の畔《みづぎは》に向《むき》たる嫩根(わか《ね》)を采り、銅の刀にて、刮(こそ)げ去り、青黃《あをきいろき》薄皮、一重《ひとへ》を、裏の白皮を取りて、切《きり》、焙乾(あぶりかはか)して、用ふ。其の皮の中≪の≫涎《よだれ》[やぶちゃん注:粘り気のある樹液。]、之れを去ること、勿《な》かれ。藥力《やくりき》、俱に其の上に在≪れば≫なり【鐵、及び、鉛を忌む】。木の白皮も亦、可なり【地の上に出づる根には、毒、有《あ》≪れば≫、用ふべからず。】。』≪と≫。

『煑汁を用ひて、褐色を染む。久しく、落ちず。』≪と≫。


くはのみ

桑椹『【一名、文武實《ぶんぶのみ》】。』

『烏《くろ》・白の二種、有り。單《たんに》食して、消渴《しやうかつ》を止め、關節痛を治す。久≪しく≫服すれば、飢へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、神䰟《しんこん》を安《やす》んじ、人をして聰明ならしむ。白髮、黒に變ず【黒≪き≫椹一斤[やぶちゃん注:明代の「一斤」は五百九十六・八二グラム。]、蝌蚪(かいるのこ)[やぶちゃん注:オタマジャクシ。]一斤、甁に盛り、封閉《ふうへい》して、屋《おく》≪の≫頭《あたま》[やぶちゃん注:家屋内の天井の頂点。]に懸け、一百日≪せば≫、盡《ことごとく》、化《くわ》≪して≫、黒≪き≫泥と爲るを以つて、白髮を染む≪れば≫、妙≪なり≫。】。』≪と≫。

 山がつの

    そのふの桑の

       くはまゆの

      出でやらぬ世は

         猶《なほ》ぞ悲しき 衣笠内府

△按ずるに、桑は、蠶《かひこ》を養(か)ふの地、皆、多く、之れを栽う。實らざる者、有≪れば≫、俗、之れを「男桑《をぐは》」と謂ふ。其の桑の椹は、初め、青白、漸々(ぜんぜん)に、赤色。黑に熟し、味、甜《あま》し。木、堅實≪にして≫、黃白色。橒(もく《め》)、有り、箱・噐《うつは》に爲《つく》るに堪《へたり》。

「古今醫統」に云はく、『白桑は、葉、大にして、子、無し。蠶、之れを食へば、繭(まゆ)、厚く、𮈔《いと》、堅くして、常に倍《ばいす》。枝を取《とり》、熟≪させて≫地に壓《さ》すべし。』≪と≫。

桑≪の≫葉 四月、茂-盛(さかり)の時、之れを采る。又、十月、霜の後には、多く、落葉する時、少し、殘る葉を、「神仙葉《しんせんえふ》」と名づく。卽ち、之れを采り、前の葉と同≪じく≫【陰乾《かげぼし》】≪し≫、擣《つきて》、末《まつ》≪に≫して、服《す》【丸≪藥≫・散≪藥≫・煎湯《せんとう》≪藥≫、意に任《まかす》。】。或いは、茶に代(か)へて、之れを飮めば、能《よく》、消渴を止め、脚氣・水腫、及び、勞熱・咳嗽《せきがい》を除く。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱類バラ目クワ科クワ属 Morus

で一致する。但し、以上の「本草綱目」からの引用には、本邦には自生しない種も含まれているので、それらは個別に後で注する。例によって当該ウィキ(クワ属)を引く(注記号はカットした)。『クワ(桑)は、クワ科クワ属の総称』。『品種が多い。カイコ』(鱗翅目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori 。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠶」を見られたい)『の餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用される。土留色』(どどめいろ:当該ウィキによれば、『とは、その名前は知られているが』、『正確な定義のない色。方言では桑の実、また青ざめた唇の色や、打撲などによる青アザの表現に用いられ、赤紫から青紫、黒紫を指す』。『英語では桑の実の色』『マルベリー』(Mulberry)『はラベンダー色に似た色を指す』。『桑の実を利用した食品や染めものに言われることもある』。『この言葉は人や地方によって解釈が異なるものであるが、主には桑の実が関連する色である。「どどめ」とは、埼玉県や群馬県など関東の養蚕が盛んな地域で古くから使われている方言であり、蚕のエサである桑になる実の事を指す。それが転じて』、『どどめ色は桑の実の色として使われる。桑の実は熟すにつれて赤色から黒紫色へと変化するため、人によって意味する色が異なる原因にもなっている。また比喩表現としては特に熟した桑の果実を潰した際に紫色の汁が皮膚に付いたその状態にちなんで、青ざめた唇や青アザになった皮膚を表現する』。『他には土木業界において「土留め(どどめ、またはつちどめ)」という処置を施す際に使う板が汚れた泥色になったことを言うという説がある。なおその木材に桑の木の板が使われることもあり、また』、『堤防の植木として桑が植えられることもあるが、関連は不明である』とあった)『は』、『この植物の実の色を指すこともある』。『クワの名の由来は、カイコの「食う葉」が縮まったとも、「蚕葉(こは)」の読みが転訛したともいわれている。山に自生するヤマグワなどの種類があり、別名カイバともよばれている。果実は人気のベリーの仲間で、庭に植えられるマルベリー(英: Mulberry)があるほか、クワの果実は地方により俗にドドメともよばれている』。『クワ科クワ属は、北半球の暖帯もしくは温帯地域に』十『数種が分布する。中国北部から朝鮮半島にかけての原産といわれ、日本へは古代に渡来したと考えられている。日本には、北海道から九州まで全国に分布する。養蚕のために広く栽培されるほか、かつて盛んだった時期の名残で、放置されて野生化したものが土手や畑のわきなどでも見られる』。『落葉性の高木または低木で、高さは』五『メートル』『から大きいものは』十『メートル以上に達するが、ほとんどは灌木で、栽培するものは低木仕立てが多い。幹の目通り直径は、約』五十『センチメートル』『になり、樹皮は灰色を帯びる。葉は有柄で互生し、葉身は薄く、表面はつやのある濃い緑色でざらつく。葉縁にはあらい鋸歯がある。葉の形は変化が大きく、切れ込みのない葉や、切れ込みがあるもの葉などさまざまである。大きい木では葉の形はハート形に近い楕円形だが、若い木では葉に多くの切れ込みが入る場合が多い。葉には直径』二十五~百『マイクロメートル』『ほどのプラント・オパールが不均一に分布する』。『花期は春』四月頃で、『雌雄異株または同株。花弁のない淡黄緑色の小花を穂状に下げて開花する。花序は新枝の下部にあって、雄花は枝の先端から房状に雄花序が垂れ下がり、雌花は枝の基部(下部)の方に集合してつく。雌花の雌しべの花柱は長さ』二~二・五『センチメートル』『で、先が浅く』二『裂する。花柱はヤマグワ』( Morus bombycis )『では明らかで、果実になっても花柱の残りがついている』。『果実は』五~六月頃に『結実し、緑から黄、赤と変化し、初夏に黒紫色に熟す。果実は多くの花が集まった集合果で、キイチゴのような、柔らかい粒が集まった形で、やや長くなる。粒のひとつひとつは、萼が肥厚して種子を包み込んだ偽果である。熟した赤黒い果実は、甘くて生でも食べられる。果実は人間はもとより、野鳥にとっての重要な飼料になる。果実には子嚢菌門チャワンタケ亜門』ズキンタケ綱ビョウタケ(鋲茸)目ビョウタケ科ビョウタケ属キツネノヤリタケ(狐槍茸: Scleromitrula shiraiana )や、ビョウタケ目キンカクキン(菌核菌)科キツネノワン(狐の椀: Ciboria shiraiana )が『寄生することがあり(クワ菌核病)、感染して落下した果実から子実体が生える』。以下、『クワは変種や、品種が多い』と冒頭に記す「主な種類」のリスト。漢字名・学名は信頼出来る別なサイトやページで補塡し、並べ方も一部で変更した。

ログワ(ロソウ:魯桑) Morus lhou (中国原産で、栽培種でもある)

ヤマグワ Morus australis (後に詳述される)

ハマグワ (浜桑) Morus australis f. maritima(ヤマグワの品種)

ナガミグワ(長実桑) Morus laevigata

ケグワ(毛桑) Morus tiliaefolia

オガサワラグワ(小笠原桑) Morus boninensis (小笠原諸島だけに分布する固有種)

テンジクグワ(天竺桑) Morus serrata (ヒマラヤから中国南西部原産。英名Himalayan mulberry(ヒマラヤン・マルベリー)

レッドマルベリー Morus rubra (北アメリカ東部から中央部に自生する)

マグワ(真桑) Morus alba (後述する)

クロミグワ(黒実桑) Morus nigra (後述する)

ブラックマルベリー/アフリカマルベリー(英名:black mulberry or African mulberry) Afromorus mesozygia :シノニム Morus mesozygia

なお、以下、『登録品種としてポップベリー、ララベリーがある』とするが、この名の正式な基原種及び品種学名を探し得なかった。

 以下、「ヤマグワ」の項。『日本全土に自生するヤマグワは、養蚕のために栽培される種であり、多数の栽培品種がある。中国から伝来したマグワとの雑種もあり、種はさまざまである。日本の養蚕では一之瀬(一瀬桑)という品種が普及した。この品種は、明治』三十一(一八九八)年頃、『山梨県西八代郡上野村川浦(現在の同県同郡市川三郷町)で一瀬益吉が、中巨摩郡忍村(現在の中央市)の桑苗業者から購入した桑苗』(品種名「鼠返し」)『のうちから、本来の鼠返しとは異った性状良好なる個体を発見し、これを原苗としたものである。このほか日本では、ノグワ(野桑)』(この和名は調べた限りでは、ヤマグワ・ケガワの異名である)、『オガサワラグワ(小笠原桑)、シマグワ(島桑)』(これは「林野庁」の「西表森林生態系保全センター」の同種のデータPDF)によれば、ヤマグワで、そこでは正式和名を「シマグワ」としている)『など、南西日本の分布に由来することから名づけられた種がある。シマグワは別名をリュウキュウグワ(琉球桑)ともいい、台湾の大部分に分布する系統に由来する。伊豆諸島に生育するクワ属もシマグワとして珍重される』。『中国には原産で栽培種でもあるマグワ(真桑)やロソウ(魯桑)があるほか、中国北東部・朝鮮北部・モンゴルにかけて分布するモウコグワ(蒙古桑)』(中文名「蒙桑」: Morus mongolica :モンゴル・中国原産)『や、その変種で』、『葉の両面に著しく毛が多いオニグワ(鬼桑)』(Morus mongolica var. diabolica )『とよばれる種がある』とあるが、現在の中文名は「山桑」であった(「維基百科」の「山桑」を参照)。これによって、「本草綱目」の「山桑」は、本邦のヤマグワと安易に同種とすることは出来ない可能性が非常に高くなったと言うべきである。『ヤマグワ(山桑、学名:Morus australis 』:シノニム『 Morus bombycis )は、クワ科クワ属の落葉高木。養蚕に使われるクワに対する、山野に自生するクワという意味でよばれている。中国植物名(漢名)は鶏桑(けいそう)という』(「維基百科」の同種のページ「小桑樹」で正式種中文名に「雞桑」とある)。『学名の一つである Morus bombycis は、カイコの学名である Bombyx に由来する。日本、南千島、樺太、朝鮮半島、中国、ベトナム、ミャンマー、ヒマラヤに分布する。日本では北海道から九州まで、各地の山野に自然分布する』。『自然の状態では樹高』十『メートル』、『幹径では』六十『センチメートル』『まで生長する』。『枝振りは』、『やや』、『まとまりがなく、横に広がる傾向がある。樹皮は茶褐色や灰褐色で、若い木は滑らかだが』、『後に縦方向に不規則な筋が入り裂ける。一年枝は褐色で』、『ほぼ無毛である。葉は長さ』八~二十センチメートル、『葉縁に鋸歯がある卵形や広卵形であるが』、一~三『裂して不整な裂片を持つものも多くあり、基部は円形あるいは浅い心形で、さまざまな形がある』。『開花期は』四~五『月。ほとんどが雌雄異株であるが、ときに雌雄同株。花は小さくて目立たず、花後』の六~七月『に』、『つく果実は』一センチメートル『ほどの集合果で「ドドメ」などとよばれており、はじめ赤色であるが』、『夏に熟すと黒紫色になり、食用にされる』。『完熟果実を食べると唇や舌が紫色に染まり、昔は子供たちのおやつによく食べていた』。『冬芽は卵形で褐色をしており、芽鱗の縁は色が淡い。枝先の仮頂芽と互生する側芽はほぼ同じ大きさである。葉痕は円形や半円形で、維管束痕は多数が輪状に並ぶ。冬芽や枝の樹皮はサルの冬の食糧で、かじり取られた跡が見られることがある』。『養蚕用に栽培されることも多い。日本では一般には養蚕には用いられていない種であるが、栽培桑の生育不良で飼料不足となるときに用いられた。霜害に強く、栽培桑が被害を受けたときに備えて』、『養蚕地帯では』、『霜害が』、『割合』『に少ない山地に植えて置き、栽培桑の緊急時の予備とした。しかし、ヤマグワの葉質は栽培桑よりも硬いため、カイコの成長が遅くなり、飼料としては性質は劣る。北海道では、栽培種のクワの生育が困難だったため、開拓初期に各地でさまざまな試行錯誤が行われ、ヤマグワを用いて養蚕が行われた時もあった』。『若芽や若葉を採取して、よく茹でてから水にさらして、おひたし、和え物、煮物などにして食べられる。黒紫色に熟した「桑の実」は、甘くて美味しいと評されていて、一度にたくさん採れるのでジャムをつくることもできる。焼酎を使った果実酒は、強壮薬としての作用があるといわれる』。

 以下、「マグワ」の項。『マグワ(真桑)は養蚕に使われるクワで、名称はヤマグワに対するものである。別名をトウグワ(唐桑)ともいい、中国から朝鮮にかけての地域が原産である。中国植物名(漢名)は桑(そう)という。紀元前にインドや日本に伝わり、シルクロードを経て』十二『世紀にヨーロッパへと伝えられた』。

 以下、「利用」の項。『カイコがクワの葉を食べて絹糸を作るので、養蚕などのため栽培され、挿し木で繁殖される。強い繊維質を持つことから、製紙の原料にもなっている。クワの果実はヤマグワやマルベリーなど、どの種類も食用に利用できる』。『薬用では、マグワ(漢名:桑)、ヤマグワ(漢名:鶏桑)が使われる。根皮はソウハクヒ(桑白皮)とも呼ばれ成分本質』『が専ら医薬品に指定されている。葉・花・実(集合果)は「非医」扱い。有効成分として、葉にはペクチン、干した葉には蛋白質、フラクトース、グルコース、ペントザン、ガラクトンや、鉄、マンガンなどのミネラル類、葉緑素などが含まれている。果実には、転化糖、リンゴ酸、コハク酸、色素のシアニジン(アントシアニンの』一『種)、ビタミンA・』B1『・C、イソクエルシトリンなどを含む。また漢方で利用される根皮には、アデニン、ベタイン、アミリン、シトステロールなどを含んでいる』。『クワの根皮は桑白皮(そうはくひ)、葉は桑葉(そうよう)、枝は桑枝(そうし)、果実は椹(たん)または桑椹(そうじん)、もしくは桑椹子(そうしんし)という生薬である。桑白皮は、秋から冬にかけて根を掘り採って水洗いし、外皮を剥いで白い部分だけを刻み、天日干しをして調整される。葉は晩秋の霜が降った後に、枝は初夏に採集して天日乾燥させ調製する。果実と葉は乾燥させて調製されるが、生も用いられる』。『利尿、鎮咳、去痰、消炎、強壮などの作用があり、漢方では桑白皮を鎮咳、去痰に配剤され、五虎湯(ごことう)、清肺湯(せいはいとう)などの漢方方剤に使われる。民間では、根皮は咳、喘息、むくみ、高血圧予防目的や強壮。葉は咳、めまい、ふらつき、頭痛、病後の体力回復、滋養強壮、低血圧の補血。枝は関節痛、むくみ。果実は倦怠疲労、不眠、かすみ目、便秘に用いられる。民間療法で』も『服用する用法が知られる。煎汁の服用法では、ほてりや熱があるときなどに用いられるが、胃腸が冷えやすい人へは使用禁忌とされている』。『多少』、『未熟で紅紫色の果実を桑椹(そうじん)といって』、『焼酎』『に』『漬け込んで、冷暗所に』三ヶ『月ほど保存して桑椹酒を作り、低血圧、冷え症、不眠症などの滋養目的に、就寝前に』『飲まれる。同様に、果実と根皮を』『焼酎に漬けたもの』も『飲まれる』。『民間では、乾燥葉を茶の代用品とする、いわゆる「桑茶」が飲まれていた地域もあり、中風の予防にする。桑茶にするクワの葉は、大きく生長した葉を収穫して天日で乾燥し、揉み潰して堅い部分を除いて』、『すり鉢などで細かくすり潰したものを、抹茶のように湯を注いで飲む。効能として、便秘改善、肝機能強化、脂肪の抑制、糖尿病予防などの研究報告もされている』。『桑葉には1-デオキシノジリマイシン(1-deoxynojirimycin; DNJ)が含まれていることが近年の研究で明らかになった。DNJ はブドウ糖の類似物質(アザ糖類の一種、イミノ糖)であり、小腸において糖分解酵素のα-グルコシダーゼに結合することで』、『その活性を阻害する。その結果、スクロースやマルトースの分解効率が低下し、血糖値の上昇が抑制されるなどの効果がラットを対象にした動物実験で報告されている。クワを食餌とする蚕のフンを乾燥させたもの(漢方薬である蚕砂)も同様の効果がある』。『春に枝先の開いたばかりの若芽や、まだ緑色が濃くならないうちの若葉は、軟らかいうちに摘み取って食べられる。摘んだ若葉は生で天ぷらや掻き揚げにしたり、さっと茹でて水にさらし、おひたしや和え物、汁の実、塩味をつけて炊いた米飯に混ぜたクワ飯などにして食べられる。食味は淡泊で美味と評されている。乾燥してお茶代わりに飲むクワ茶にもできる』。『キイチゴの実を細長くしたような姿で、赤黒く熟した果実は、「桑の実」「どどめ」「マルベリー (Mulberry)」「クワグミ」とよばれ、生のまま食用にしたり、桑酒として果実酒の原料、シロップ漬け、ジュースの材料となる。赤黒く熟した果実は、ジャムにすると芳香と甘みに優れている。カフカス地方やアルメニア産のクロミノクワや、アメリカ産のアカミノクワは、いずれも生食用にしたり』、『加工してジャムなどに利用する』。『その果実は甘酸っぱく、美味であり、高い抗酸化作用で知られる色素・アントシアニンをはじめとする、ポリフェノールを多く含有する。蛾の幼虫が好み、その体毛が抜け落ちて付着するので食する際には十分な水洗いを行う必要がある』(私は幼少期、藤沢市になる裏山で、野イチゴに次いで、しばしば採って食べた。何かが舌にいらいらしたものだったが、実の間の毛みたいなものが引っ掛かるのだと思って、あの美味さには負け、一杯、食べたものだったが、ウヘエ! 毛虫の毛カイ! アジャパー!!……あの頃の家の周辺は、しかし、ヤマノイモやアケビ、ノビルにセリが自生して豊穣だったなぁ……)。『また、非常食として桑の実を乾燥させた粉末を食べたり、水に晒した成熟前の実をご飯に炊き込むことも行われてきた。なお、クワの果実は、キイチゴのような粒の集まった形を表す語としても用いられる。発生学では動物の初期胚に桑実胚、藻類にクワノミモ(パンドリナ』( Pandorina は細胞群体を作る鞭毛藻類の一種群である、緑色植物亜界緑藻植物門緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科パンドリナ属 Pandorina )細胞が互いに密接にくっついているのが特徴)『)などの例がある』。『養蚕の歴史は古く、中国では紀元前』三千『年ごろ、日本では弥生時代中期から始められたと考えられている』。『桑を栽培する桑畑は地図記号にもなり、日本中で良く見られる風景であった。養蚕業が最盛期であった昭和初期には、桑畑の面積は全国の畑地面積の』四『分の』一『に当たる』七十一『万ヘクタールに達したという。しかし、生産者の高齢化、後継者難により生糸産業が衰退した。そのため、桑畑も減少し』、二〇一三『年の』二万五千分の一『地形図図式において桑畑の地図記号は廃止となった。新版地形図やWeb地図の地理院地図では、同時に廃止された「その他の樹木畑」と同様、畑の地図記号で表現されている』。以下、「木材としてのクワ」。『クワの木質はかなり硬く、磨くと深い黄色を呈して美しいので、しばしば工芸用に使われる。しかし、銘木として使われる良材は極めて少ない。特に良材とされるのが、伊豆諸島の御蔵島や三宅島で産出される「島桑」であり、緻密な年輪と美しい木目と粘りのあることで知られる。江戸時代から江戸指物に重用され、老人に贈る杖の素材として用いられた。国産材の中では最高級材に属する。小笠原諸島の母島には、島の固有種であるオガサワラグワの大木が点在していた。だが銘木として乱伐され、現在ではほとんど失われている』。『また』、『古くから弦楽器の材料として珍重された。正倉院にはクワ製の楽琵琶や阮咸が保存されており、薩摩琵琶や筑前琵琶もクワ製のものが良いとされる。三味線もクワで作られることがあり、特に小唄では音色が柔らかいとして愛用されたが、広い会場には向かないとされる』。『なお、幕末には桑の樹皮より綿を作る製法を江戸幕府に届け出たものがおり』、文久元(一八六一)『年には幕府から』、『これを奨励する命令が出されているが、普及しなかったようである。桑の樹皮から繊維(スフ)』(植物体の中に含まれる繊維素を取り出して化学薬品で一度溶解した後に繊維状に再生した化学人造短繊維であるビスコース・レーヨン(Viscose rayon)であるテープル・ァイバー(staple fiber)の和製似非英語)『を得る取り組みは、第二次世界大戦による民需物資の欠乏が顕著となり始める』『昭和一七(一九四二)年頃『より戦時体制の一環として行われるようになり、学童疎開中の者も含め』、『全国各地の児童を動員しての桑の皮集めが行われた。最初』、『民需被服のみであった桑の皮製衣服の普及は、最終的に』昭和二〇(一九四五)年頃『には日本兵の軍服にまで及んだが、肌触りに難があったことから』、『終戦とともにその利用は廃れた』。『現在の中国新疆ウイグル自治区にあるホータン周辺の地域では、ウイグル人の手工業によって現在も桑の皮を原料とした紙(桑皮紙)の製造が行われている。伝承では、蔡倫よりも古く』、二千『年以上の製紙歴史があると言われているが、すでに宋の時代『(十二世紀頃)、『和田の桑皮紙は西遼の公文書などで使用されていた。新疆では、清及び民国期の近代に至るまで、紙幣や公文書、契約書などの重要書類に桑皮紙が広く使用されていた』。『中国の元王朝では、紙幣である交鈔』(こうしょう:金王朝と元王朝の時代に発行された紙幣の呼称)『の素材としてクワの樹皮が用いられた。中国広西チワン族自治区来賓市などでは、養蚕に使うために切り落とすクワの枝を回収して、製紙原料にすることが実用化されている。新たに年産』二十『万トンの工場建設も予定されている』。『カイコガとその祖先とされるクワコ以外にもクワを食草とするガの幼虫がおり、クワエダシャク、クワノメイガ、アメリカシロヒトリ、セスジヒトリなどが代表的。クワエダシャクの幼虫はクワの枝に擬態し、枝と見間違えて、土瓶を掛けようとすると落ちて割れるため「土瓶割り」という俗称がある。クワシントメタマバエもクワの木によく見られる。カミキリムシには幼虫がクワの生木を食害する種が極めて多く、クワカミキリ、センノカミキリ、トラフカミキリ、キボシカミキリ、ゴマダラカミキリなどが代表的である。これらのカミキリムシは農林業害虫として林業試験場の研究対象となっており、実験用の個体を大量飼育するため、クワの葉や材を原料としソーセージ状に加工された人工飼料も開発されている。なお、オニホソコバネカミキリも幼虫がクワの材を専食するカミキリムシであるが、摂食するのが農林業に利用されない巨大な古木の枯死腐朽部であるため』、『害虫とは見なされていない』(蛾の学名は面倒なので示さない)。『養蚕の普及とともにクワの栽培も広がりを見せたが、春一番目に発芽した葉は遅霜の被害に遭いやすかった。長野県では』大正一三(一九二四)年には百三万円、昭和二(一九二七)年には一千万円とも『見積もられる被害を出している。霜害に遭うと葉は黒く変色して』しまい、『養蚕には使用できなくなるので二番目の発芽を待つしかなく、春蚕の生産に大きな影響を与えた』。また、『古代バビロニアにおいて、桑の実はもともとは白い実だけとされるが、赤い実と紫の実を付けるのは、ギリシャ神話の』「ピュラモスとティスベ」という『悲恋による』、『この二人の赤い血が、白いその実を染め、ピュラモスの血が直接かかり』、『赤となり、ティスベの血を桑の木が大地から吸い上げて紫になったとされている』。『桑の弓、桑弓(そうきゅう)ともいい、男の子が生まれた時に前途の厄を払うため、家の四方に向かって桑の弓で蓬の矢を射た。起源は古代中華文明圏による男子の立身出世を願った通過儀礼で、日本に伝わって男子の厄除けの神事となった。桑の弓は桑の木で作った弓、蓬の矢は蓬の葉で羽を矧』は『いだ』『矢』がそれであった。さらに、『養蚕発祥の地、中国においてはクワは聖なる木だった』。幻想『地理書』である「山海経」において』、十『個の太陽が昇ってくる扶桑という神木があったが、羿(げい)という』伝説の名『射手が』九『個を射抜き』、『昇る太陽の数』を一『個にしたため、天が安らぎ、地も喜んだと書き残されている。太陽の運行に関わり、世界樹的な役目を担っていた。詩書』「詩經」に『おいてもクワはたびたび題材となり、クワ摘みにおいて男女のおおらかな恋が歌われた。小説』「三國志演義」では、かの猛将『劉備の生家の東南に大きな桑の木が枝葉を繁らせていたと描かれている』。『日本においてもクワは霊力があるとみなされ、特に前述の薬効を備えていたことからカイコとともに普及した。古代日本ではクワは箸や杖という形で中風を防ぐとされ、鎌倉時代』の栄西の書いた「喫茶養生記」には、「桑は、是れ、又、仙藥の上首」と、『もてはやされている』。古くからの成語として、「桑原、桑原。」があり、これは、『雷』除けの『まじないとして広く使われた言葉であるが、最も知られている由来は』、『桑原村の井戸に雷が落ち、蓋をしたところ』、『雷が「もう桑原に落ちないから逃がしてくれ」と約束したためという説があり、これにはクワ自体は関わりがない。しかし、諸説の中には宮崎県福島村でクワの上に雷が落ち、雷がけがをしたので落ちないようになったという説、沖縄県では雷がクワのまたに挟まれて消えたため』、『雷鳴の折には「桑木のまた」と唱えるようになったという説もある』。「ことわざ・慣用句」の項。「滄桑の変」は、『桑田滄海ともいい、クワ畑がいつのまにか海に変わるような天地の激しい流転の意』で、西晋・東晋時代の葛洪の著したと伝えられる「神仙傳」『が出典であり、仙女の麻姑』(まこ)『が』五百『年間の変化として話した内容から生まれた。月日の流れの無常を示す言葉として、唐代の劉廷芝の詩にも使われている』。「蓬矢桑弓(ほうしそうきゅう)」は、『もともとは上記にある中華・日本においての男子の祭事や神事であるが、払い清めをあらわす言葉の比喩として万葉集や古事記にも用いられ、「蓬矢」・「桑弓」それぞれ単独でも同じ意味を持つ』。「桑中之喜(そうちゅうのき/そうちゅうのよろこび)」は、『畑の中で男女がひそかに会う楽しみのこと。中国では、桑畑の中や桑の木を目印としてその下で逢引をしていたと言われ』、「詩経」の「鄘風」(ヨウフウ)には、『桑畑で美女を待つ「桑中」という詩が記載されている。永井荷風の随筆にも、色事について書いた「桑中喜語」がある』とある。なお、ウィキには、独立項の「マグワ」と、「ヤマグワ」、及び、「クロミグワ」等が、より詳細に書かれてあるが、前記引用とダブるところがあるので、引用しない。各人で見られたい。

 本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「木之」「灌木類」(「漢籍リポジトリ」)の冒頭の「桑」(リンク先の最終項)の長い記載を、腑分けするように、テツテ的にバラバラにして、強引に継ぎ接ぎしている。中には、繋ぎ方が悪くて、実際に綴られていることとは、ちょっと違う箇所が複数あるが、特に致命的ではないので、特に指示はしない。御自分で見られたい。

『子《み》を「椹《じん》」と名づく』「廣漢和辭典」によれば、大項目「一」の『①あてぎ。木などを切り割るとき、下にあてる台。また、首切り台。』とし、『②まと』=「的」、『③きぬた。⇒砧・碪』とした後、大項目「二」で、『①桑の実。⇒葚』とあった。なお、以下、『②木に生えるきのこ』とあり、更に国字として、『木の名。さわら。』(裸子植物亜門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科 ヒノキ属サワラ Chamaecyparis pisifera )とある。

「箕星《きせい/みぼし》」二十八宿の一つである、箕宿(きしゅく)。現行では、「射手座」の東半分の四星 (ζ(ゼータ)・τ(タウ)・σ(シグマ)・φ(ファイ))。南斗六星の頭部の方形を箕の形に見立てた和名。但し、地域により、北斗七星の四角形を指す場合もあり、一定しない。

「蠶(かいこ)」当該ウィキによれば、『養蚕は少なくとも』五千『年の歴史を持つ』。『中国の伝説によれば』、『黄帝の后』である『西陵氏が、庭で繭を作る昆虫を見つけ、黄帝にねだって飼い始めたと言われる』とあり、『東晋時代の』四『世紀』『に書かれたとされる』とし、終わりの方の「中国」の項に、干宝が著した志怪小説集「搜神記」の「卷十四」には、『次のような話がある』。『その昔、ある男が娘と飼い馬を置いて遠くに旅に出る事になった。しばらく経っても父親が帰ってこない事を心配した娘は馬に向かって冗談半分で「もし、お前が父上を連れて帰ったら、私はあなたのお嫁さんになりましょう」と言った。すると、馬は家を飛び出して父親を探し当てて連れ帰ってきた。ところが馬の様子がおかしい事に気付いた父親が娘に問いただしたところ』、『事情を知って激怒し、馬をその場で射殺してしまった。その後、父親は馬の皮を剥いで毛皮にするために庭に放置して置いた。そんなある日、娘は庭で馬の皮を蹴りながら「動物の分際で人間を妻にしようなどと考えるから、このような目にあうのよ」と嘲笑した。すると、娘の足が馬の皮に癒着してそのまま皮全体で娘の全身を覆いつくした。身動きが取れなくなった娘は転倒してそのまま転がりだして姿を消してしまった。これを見た父親が必死に探したものの、数日後に見つけたときには』、『馬の皮は中にいた娘ごと一匹の巨大なカイコに変化していたという』(引用元には、まことしやかに「馬頭娘」という題名みたようなものが丸括弧に入って、この最後にあるが、「搜神記」は私の愛読書であるが、同書の各篇には、標題は存在しないし、本文中にも「馬頭娘」等という文字列は、ない。これは、北宋初期(九七七年~九八四年)に成立した「太平廣記」に引かれた中唐以前に書かれたと推定される「原化傳拾遺」(不詳。ある論文では中唐に成立した小説集「原化傳」よりも遙かに古形の話であり、「原化傳」とは縁も所縁もないとしてあった)の「昆蟲七」の「蠶女」がそれ。二篇ともに後に原文を示しておく)。『この話をモチーフとしたと思われる伝説は日本国内にも伝わっており、柳田國男の』「遠野物語」にも』、「おしら様信仰」『にからんで』、『類似した話が載せられている』。但し、『中国におけるストーリーとは異なり、娘は馬と恋愛関係となり、殺された馬の首に縋りつくなど』、『娘と馬の関係が異なっている』とする(これは、私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 六九~七一 「おひで」ばあさまの話(オシラサマ他)』の「六九」を見られたい。確かに、これは以下に示す「搜神記」に似ている部分が多々あるが、そこの注で書いた通り、私は、「搜神記」を元にした翻案伝承であるとは考えていない。謂わば、たまたま偶然に生じた民話の平行進化である考えている)。まず、「搜神記」の「第十四卷」の当該原文を「中國哲學書電子化計劃」のこれを参考に、一部の漢字を正字化し、コンマを読点に代え、記号・改行・段落も加えて示す。

   *

 舊說、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女。

 牡馬一匹、女親養之。窮居幽處、思念其父、乃、戲馬曰、

「爾能爲我迎得父還、吾將嫁汝。」

 馬既承此言、乃、絕韁而去。

 逕至父所。父見馬、驚喜、因取而乘之。馬望所自來、悲鳴不已。

 父曰、

「此馬無事如此、我家得無有故乎。」

亟乘以歸。

 爲畜生有非常之情、故厚加芻養。

 馬不肯食、每見女出入、輒喜怒奮擊。

 如此非一。

 父怪之、密以問女、女具以告父、

「必爲是故。」

 父曰、

「勿言。恐辱家門。且莫出入。」

 於是伏弩射殺之。暴皮於庭。

 父行、女以鄰女於皮所戲、以足蹙之曰、

「汝是畜生、而欲取人爲婦耶。招此屠剝、如何自苦。」

言未及竟、馬皮蹷然而起、卷女以行。

 鄰女忙怕、不敢救之、走告其父。

 父還求索、已出失之。

 後經數日、得於大樹枝間、女及馬皮、盡化爲蠶、而績於樹上。

 其蠒[やぶちゃん注:「繭」と同義。]綸理厚大、異於常蠶。鄰婦取而養之。其收數倍。因名其樹曰「桑」。

 「桑」者、「喪」也。

 由斯百姓競種之、今世所養是也。言桑蠶者、是古蠶之餘類也。

 案「天官」、『辰、爲馬星。』、「蠶書」曰、『月當大火、則浴其種。』。是蠶與馬同氣也。「周禮」、『敎人職掌、票原蠶者。」注云、「物莫能兩大、禁原蠶者、爲其傷馬也。」。漢禮、皇后親採桑祀蠶神、曰、「菀窳婦人」・「寓氏公主」。公主者、女之尊稱也。菀窳婦人、先蠶者也。故今世或謂蠶爲女兒者、是古之遺言也。

   *

干宝の評言部が、素人には判り難いので、東洋文庫版(竹田晃氏訳・昭和三九(一九六四)年初版)より引用する。

   《引用開始》

『天官』を調べてみると、

「辰星は馬である」

とあり、また『蚕書』には、

「月がちょうど大火星のところに来たときに、蚕の卵を川の水で洗う」

 とある。これは蚕と馬が同じ気からできているためである。また『周礼』には人の職業を述べているところで、

「一年に二度繭をつくる蚕を飼うことを禁止する」

 とあり、注によれば、

「およそ二つの物がそろって大きくなるということはあり得ない。年に二度繭をつくる蚕を禁じたのは、それが馬を害するからである」

 という。また漢代の礼制によれば、皇后が手ずから桑の葉を摘んで蚕神を祀ったということである。そして蚕神の名は、「菀窳(えんゆ)[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「ゑんゆ」。]婦人」とか「富氏公主」とよんだ。公主とは婦人に対する尊称である。菀窳婦人は蚕の先祖である。だから今日でも、蚕を娘と呼んでいる人もあるが、これは昔から伝えられている呼びかたなのである。

   《引用終了》

後に、以下の竹田氏の注がある。判り切った一つを外して、総てを示す。

   *

・『『天官』 天文に関する書。史記の天官書とも考えられる。天官書にはこのとおりの記述はないが、「辰星が天馬と呼ばれる」という句がある。』。

・『辰星 星の名、二十八宿の一。房宿とも呼ばれる。蒼竜の形をしている。竜は天天馬であるから、「辰星は馬」ということになる。なお辰星は農業の季節をつくると考えられていた』。

・『『蚕書』 養蚕に関する書。現在は伝わっていない。』。

・『大火星 辰星のなかの星。アンタレス星。』。

・『蚕と馬が…… 蚕は別名竜精と呼ばれるように、馬と同じ気から発生したと考えられていた。』。

・『一年に…… 『周礼』夏官・馬質の項に見える。注の意味は、蚕だけが大きくなると、同じ気から生じた馬が弱るというのである。』。

・『漢代の…… このことは『後漢書』礼儀志に見える。』。

   *

次に、「太平廣記」の「蠶女」。同じく「中國哲學書電子化計劃」のこれで、同じ仕儀で手を加えた。

   *

   蠶女

 蠶女者、當高辛帝時、蜀地未立君長、無所統攝。其人聚族而居、遞相侵噬。蠶女舊跡、今在廣漢、不知其姓氏。

 其父爲隣邦掠【「邦掠」原作「所操」、據明鈔本改。】去、已逾年、唯所乘之馬猶在。

 女念父隔絕、或廢飮食、其母慰撫之。因告誓於衆曰。

「有得父還者、以此女嫁之。」

 部下之人、唯聞其誓、無能致父歸者。

 馬聞其言、驚躍振迅、絕其拘絆而去。

 數日、父乃乘馬歸。自此馬嘶鳴。不肯飮齕。

 父問其故。

 母以誓衆之言白之。

 父曰、

「誓於人、不誓於馬。安有配人而偶非類乎。能脫我於難、功亦大矣。所誓之言、不可行也。」

 馬愈跑、父怒、射殺之、曝其皮於庭。

 女行過其側、馬皮蹶然而起、卷女飛去。

 旬日、皮復栖於桑樹之上。

 女化爲蠶、食桑葉、吐絲成繭、以衣被於人間。

 父母悔恨、念之不已。

 忽見蠶女、乘流雲、駕此馬、侍衞數十人、自天而下。謂父母曰、

「太上以我孝能致身、心不忘義、授以九宮仙殯之任、長生于天矣、無復憶念也。」

 乃沖虛而去。

 今家在什邡綿竹德陽三縣界。每歲祈蠶者、四方雲集、皆獲靈應。宮觀諸化、塑女子之像、披馬皮、謂之馬頭娘、以祈蠶桑焉。稽聖賦曰、

「安有女【「集仙錄」六「安有女」作「爰有女人」】。感彼死馬、化爲蠶蟲、衣被天下是也。」【出「原化傳拾遺」】。

   *

なお、以上の訳はウィキの「蚕馬(さんば)にもあり、かなり不全だが、現代語訳もある。

本篇の「本草綱目」の引用は、「卷三十」の「木之」「灌木類」(「漢籍リポジトリ」)の冒頭のかなり長い「桑」を、ズタズタに切り張りしたものである。

「白桑」クワ属マグワ Morus alba 。真桑。中文名「白桑」「維基百科」のこちらを参照)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『成長が早いクワの一種で』、十~二十メートル『の高さまで成長する。ヒト程度の比較的短寿命の木であるが』、二百五十『歳を超える個体もいくつか知られている。中』『国中央部に自生し、アメリカ合衆国、メキシコ、オーストラリア、キルギスタン、アルゼンチン、トルコ、イラン、インド、その他多くの国で栽培されたものが帰化している』。『絹の商業生産に必要なカイコを飼育するために、広く栽培されている。また、音速の半分という速さで花粉を射出することでも知られている。果実は、熟すと食用になる』。『若木では、葉の大きさは最大』三十センチメートル『の長さになり、深く複雑な裂片を持つ丸い形である。古い木では、葉の大きさは』五~十五センチメートル『で、裂片はなく、根元の部分はハート形であり、先端は丸か尖っており、葉縁は鋸歯状である。通常は温帯では落葉性であるが、熱帯では常緑のものもある』。『花は単性で尾状花序であり、雄花は』二~三・五センチメートル、『雌花は』一~二センチメートル『の長さである。通常、雄花と雌花は別の木に生じるが』、一『本の木に両性の花が生じることもある。果実は、長さ』一~一・五センチメートル『である。野生のものは深紫色でるが、栽培されたものでは、多くは白色から桃色になる。味は甘いが、強い風味を持つレッドマルベリーやクロミグワとは異なり、風味は弱い。果実を食べた鳥等により、種子は広い範囲に運ばれる』。『科学的には、尾状花序から花粉を放出する際を含め、RPM』(Rapid plant movement:植物に於ける急速運動)『の事例として有名である。雄蕊がカタパルトとして働き』二十五『マイクロ秒の間に蓄えた弾性エネルギーを放出する。その結果、動きの速さは音速の約半分』の毎時六百十キロメートル『に達し、植物界の既知の運動の中で、最も速いものとなっている』。『中国では』四千七百『年以上前から、カイコの飼育のためにマグワを栽培してきた。古代ギリシアや古代ローマでもカイコの飼育のために栽培された。少なくとも』二百二十『年には、ローマ帝国皇帝ヘリオガバルスは絹のローブを着用していた』。十二『世紀にはヨーロッパの他の国にも伝わり』、十五『世紀にスペイン帝国に征服された後には、ラテンアメリカにも導入された』。二〇〇二『年には、中国国内において』六千二百六十平方キロメートルが、『この種のために用いられていた』。『インド亜大陸西部からアフガニスタン、イランを経て南ヨーロッパに至る広い範囲で』、一千『年以上にわたり、カイコの飼育のために栽培されてきた』。『最近では、北アメリカの多くの都市部に加えて、道端や植林地の端等の荒れた土地でも広く帰化しており、原生するレッドマルベリーと交雑している。いくつかの地域では広範な交雑が起きており、レッドマルベリーの長期的な遺伝的生存が危惧されている』。『標高』四千メートル『まで生存でき、温帯の他、亜寒帯地域においても栽培されて広く帰化している。貧土壌にも耐えることができるが、弱酸性で水はけが良い砂質または粘土質のローム土を好む』。『葉は、カイコが好む餌として用いられる他、乾期の植物が少ない地域では、ウシやヤギ等の家畜の餌としても用いられる。大韓民国では、桑の葉茶(ポンイプチャ)が作られる。実も食用となり、しばしば乾燥させたり』、『ワインが作られる』。『アメリカ合衆国では、造園用途で、絹生産のためのマグワからのクローンとして、果実をつけないマグワが開発されている。果実なしで木陰を作ってくれる鑑賞樹として用いられている』。品種『シダレグワ( Morus alba f. pendula )は、鑑賞樹として人気が高い』。一八〇〇『年代末から』一九〇〇『年代初めにかけて、デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道のニュージャージー州内のいくつかの大きな駅では、この植物が植えられた。影ができることと』、『甘い実を付けることから、アメリカ合衆国南西部の砂漠都市では、芝生に植えられる木として人気があった。一方、花粉に悩まされる都市も多く、花粉症を増やしたとして非難もされた』。『クワノンG、モラシンM、ステポゲニン-4'-O-β-D-グルコシド、マルベロシドA等の様々な抽出成分が広範な薬効を持つと言われている。マグワから抽出されるシアニジン-3-O-β-D-グルコピラノシド』、『及び』、『サンゲノンGは、動物モデルにおいて、中枢神経系に対するいくつかの効果が実験されているが、まだその効果を確認する臨床試験が必要である』。『生理活性物質としてアルカロイドやフラボノイドを含み、伝統中国医学でも用いられている。研究により、これらの化合物は高コレステロール、肥満、ストレス等を減らす効果を持つことが示唆されている』とあった。

「雞桑」 Morus australis 「維基百科」のこちらによれば、日本には分布しない。別名を『小葉桑(河南)』(=小桑樹)『・山桑(「爾雅」)・島桑とも呼ばれる』。『高さ』十五『メートルまでの落葉低木または小高木。葉は楕円形で互生し、葉縁には粗い鋸歯があり、葉の表面はやや粗く、雌花には小さな柄がなく、花柱は柱頭より長く、果実は熟すると暗紫色になる』。『ブータン・インド・スリランカ・北朝鮮・ネパール・中国(浙江省・河南省・チベット自治区・雲南省・遼寧省・広東省・江西省・陝西省・山東省・四川省・湖南省・広西チワン族自治区・湖北省・河北省・福建省)に分布し、安徽省・甘粛省・貴州省等や、中華民国では、標高五百メートルから一千メートルの地域によく生育しており、石灰岩の山地や林縁・荒地などに生育する。人工的に導入され、栽培されてもいる』とあった。

「子桑」 Morus australis 「維基百科」のこちらによれば、正式な中文名は「雞桑」(「雞」=「鷄」)のようである。『小葉桑(河南)・山桑(「爾雅」)・島桑とも呼ばれ』、『高さ十五メートルまで』。『葉は楕円形で互生し、葉縁には粗い鋸歯があり、葉の表面は』、『やや粗く、雌花には小さな柄がなく、花柱は柱頭より長く、果実は熟すると暗紫色になる』。『ブータン・インド・スリランカ・北朝鮮・ネパール・中国(浙江省・河南省・チベット自治区・雲南省・遼寧省・広東省・江西省・陝西省・山東省・四川省・湖南省・広西チワン族自治区・湖北省・河北省・福建省)に分布、安徽省、甘粛省、貴州省など)や、中華民国では、標高五百メートルから一千メートルの地域によく生育しており、石灰岩の山地や林縁、荒地などに生育する。人工的に導入され、栽培されている』とある。

「女桑」これは、クワ属ではない。調べたところ、「維基百科」では検索に掛らないし、何より、「新木場 吉田商店」の公式サイト「のうがき」の「材木の名前」のこちらに、『先日御贔屓にして下さるお客さんから「メクワって木、しってる?漢字で書くと女桑。」と、問い合わせがありました』、『自分:「・・・知らない」。「桑」なら知ってるんですけど、「メクワ?」』。『インターネットで検索をかけてみました』。『材木屋関係のサイトでこれを解説してあるところは無く、木材図鑑のサイトで見つけました』。『検索結果:「メグワ」=雌桑、女桑。着色して桑材の代用として使われる事があり、その場合本桑と区別される』。『これは黄肌「キハダ」の解説文の中の一節でした。つまり、本当は「キハダ」に色を付け桑に見せ掛けてるって事』。『なぁんだ、「きはだ」なら知ってるのに』…『「メグワ」なんて言わないで』、『初めから「きはだ」って言えばいいのに。ちゃんと「きはだ」は「黄肌」で通用してるのに。材木屋でさえ』、『この状態。一般の方なら分からなくて当たり前です』とあったからである。則ち、「女桑」は、

ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense

の木材関係者の間で用いられてきた通称であった。

ウィキの「キハダ(植物)」を引いておく(注記号はカットした)。『黄蘗は』『落葉高木。山地に生える。外樹皮を剥がすと見える内樹皮が』(☞)『黄色いのが特徴で、和名の由来となっている。この内樹皮は薬用にされ、オウバクという生薬になる』。『和名は、樹皮の表皮と内部の木質部との間にある内皮が、鮮やかな黄色であることから、「黄色い肌」の意に由来する。別名は、シコロ、シコロベ、オウバク(黄檗)、キハダが転訛してキワダのほか、内皮に苦味があることからニガキともよばれている。米倉浩司・梶田忠(2003-)「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList)』(ここ:私もよくお世話になるサイトである)『によれば、ヒロハノキハダ、エゾキハダ、アムールキハダ、ミヤマキハダはキハダの別名とされる』。『中国植物名(漢名)は、黃蘗/黄柏(おうばく)という』。『アジア東北部の台湾、朝鮮半島、中国の河北省から雲南省にかけて、またヒマラヤの山地に自生しており、日本では北海道(渡島半島・後志・胆振・日高・石狩)・本州・四国・九州・琉球に分布する。山地に生え、沢沿いに多い』。『落葉高木で雌雄異株。樹高は』十~二十五『メートル』、『目通り直径』三十『センチメートル』『程度になる。樹皮はコルク質で、成木の外樹皮は淡褐灰色から暗褐色で、縦に深い溝ができ、内樹皮は濃鮮黄色で厚い。若い樹皮はサクラに似ていて、赤褐色で滑らか、無毛である』。『葉は、対生葉序で奇数羽状複葉、長さは』二十~四十五センチメートル『ある。小葉は』五~十三『枚で、長さ』五~十センチメートル『の長楕円形、裏は白っぽく、葉縁は波状になる。春に冬芽から芽吹き、展開した後から花序も出てくる』。『花期は』五~七『月。雌雄異株。本年生の枝先に円錐花序を出して、黄緑色の小さな花を多数つける。果期は』十『月。果実は核果で、直径』十『ミリメートル』『ほどの球形で緑色から黒く熟する。核は、柿の種のような形をしている。冬でも黒く熟した果実が雌株によく残っている』。『冬芽は半球形の鱗芽で褐色をしており、落葉するまで葉柄基部に包まれている葉柄内芽である。芽鱗は』二『枚で、毛が密生する。枝先には仮頂芽を』二『個つけ、側芽は枝に対生する。冬芽を囲む大きな馬蹄形やU字形の葉痕が目立ち、維管束痕が』三『個』、『つく』。『カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハの幼虫が好む食草である』。『樹皮からコルク質を取り除いて乾燥させたものは、生薬の黄檗(おうばく、黄柏)として知られ、薬用のほか染料の材料としても用いられる。蜜源植物としても利用される』。『樹皮からコルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏(おうばく)となり』、十二~二十『年で採取できるようになる。樹皮が厚いほど良品とされる。夏の』頃(六~七月)、『樹液流動の盛んな時期に根際から切り倒して枝を払い、幹や枝の太い部分を』一『メートル間隔に輪状と縦傷をつけて切れ目を入れ、傷口にくさびを差し込んで樹皮をはぎ取り、外皮を除いて内皮の鮮黄色の部分を日干しして採取したものである』。『黄柏にはアルカロイドのベルベリン、パルマチン、マグノフィリンをはじめ、オバクノン、タンニン、粘液質などの薬用成分が含まれており、特にベルベリンは苦味成分と抗菌作用を持つといわれる。主に苦味健胃、整腸剤として、製薬原料として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また、黄連解毒湯や加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。粘液質やタンニンには収斂や消炎作用があり、打ち身や捻挫に外用される。日本薬局方においては、黄柏を粉末にしたものを「オウバク末」として薬局などで取り扱われており、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『民間療法では、胃炎、口内炎、急性腸炎、腹痛、下痢に、黄柏の粉末(オウバク末)』『を』『服用する』。『強い苦味のため』、嘗つては、『眠気覚ましとしても用いられたといわれている。妊婦や胃腸が冷える人への服用は禁忌とされる』。『このほか、打撲や捻挫、腰痛、関節リウマチなどに、中皮を粉末にして同量の小麦粉と合わせて酢でドロドロに練り、布やガーゼに塗って冷湿布にして患部に貼り、乾いたら』、『張り替える』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』。『海外では、シナホオノキ』(支那朴の木:中文名「厚朴」:モクレン科モクレン属シナホウノキ Magnolia officinalis 。先行する「厚朴」を参照)『の抽出物と』、『キハダからの抽出物を合わせたサプリメント製品』『が販売され、コルチゾールを低下させるとの報告がある』。『キハダは、黄蘗色(きはだいろ)ともよばれる鮮やかな黄色の染料で、黄色に染め上げる以外に赤や緑色の下染めにも利用される。なかでも、紅花を用いた染物の下染めに用いられるのが代表的で、紅花特有の鮮紅色を一層引き立てるのに役立っている。なお、キハダは珍しい塩基性の染料で、酸性でないと』、『うまく染め上がらない。このため、キハダで下染めをした後は』、『洗浄を十分にする必要がある』。『虫食いを防ぐ効果を期待し、仏教経典用紙の染色にも使われた時代もある。現存する正倉院文書や薬師寺伝来の』「魚養經」『などは経年によって茶色く変色しているが、染めた直後は墨書された文字を映えさせる効果もある』。『キハダの心材も黄色がかっており、木目が明確であるため、家具材などに使用される』。但し、『軽量で軟らかいため、あまりにも強い荷重がかかる場所には向いていない。一部では』、『桑の代用材として使用されるが、その場合には桑との区別として「女桑」と表記される』とあった(最後の太字・下線は私が附した)。

「必ず、將《まさ》に稿(か)れんとす」必ず、枯死してしまう。

「構(かうぞ)」お馴染みの、バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia × kazinoki のこと。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ヒメコウゾ』『 Broussonetia kazinoki 』『とカジノキ』『 B. papyrifera 』『の交雑種で』、『別名、カゾともよばれる。和紙の原料として栽培されている』。但し、『ヒメコウゾの別名をコウゾとする場合もある』。『コウゾは、ヒメコウゾとカジノキの雑種という説が有力視されている。本来、コウゾは繊維を取る目的で栽培されているもので、カジノキは山野に野生するものであるが、野生化したコウゾも多くある。古代においては、コウゾとカジノキは区別していない』。現在の植物学上は、『コウゾとカジノキは異なるものであり、コウゾに』「楮」『の字を用い、カジノキには』「梶」・「構」・「榖」の『字をあてているが、両者の識別は容易ではない。古代では、植物の名前も地方によって呼び名が異なり、混同や混乱が多い』。「本草綱目」や、本邦の「農業全書」『でも』、『両者の差は葉に切れ込みがあるものは楮(コウゾ)、ないものは構(=梶、カジノキ)」とするだけで、種別としては「楮」にまとめられている』(太字・下線は私が附した)とあった。

「龜甲を埋む時は、則ち、茂《しげりて》、盛《さかん》にして、蛀(むしい)らず」言わずもがなだが、呪的な風習に過ぎない。

「『桑寄生《さうきせい》』【「寓木類」を見よ。】」次の「卷第八十五 寓木類」の「桑寄生」。中近堂版で当該部を示しておく。これは、知られた寄生植物である、ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album の一種。当該ウィキによれば、『日本でヤドリギといった場合、主に』『ヤドリギ Viscum album subsp. coloratum 』、又は、『 Viscum album subsp. coloratum f. lutescens『を指す』とし、「中国植物志」では、『別種  Viscum coloratum 』『として扱われる』とあった。

「喘滿《ぜんまん》」東洋文庫割注に、『(呼吸』が『切迫して窒息状態になること)』とある。

「寸白《すばく》」ヒト寄生性の条虫・回虫等を指す。

「天弔《ひきつけ》」読みは東洋文庫訳に従ったが、この漢字の文字列では、ネットでは見当たらない。「ひきつけ」は、通常は子どもの発作性痙攣を指す。

「驚癇」癲癇症状を指す語。

「客忤《かくご》」東洋文庫割注に、『(不意に怯(おび)えてひきつけをおこすこと)』とある。何かに神経症的に怯えたり、胸騒ぎがして強い不安症状を示すことを言う。

「瀉白散《しやはくさん》」サイト「KAKEN」に『漢方方剤「瀉白散」の宿主介在性抗インフルエンザウイルス作用と作用機序の解析』という研究課題名があった。その「キーワード」に『漢方薬/ 瀉白散/ 気道炎症/ インフルエンザ/ 好中球/ ケモカイン/ フラボノイド/ 東洋医学/ ウイルス/ 感染症/ 薬学/ 薬理学/ 肺炎/ ウィルス』とあった。漢方サイトを探しても、纏まった基原などの記載ページは見当たらなかったので、以上をリンクするに留める。

「肺虛」東洋文庫割注に、『(肺の気の不足や肺機能が虚であること)』とある。前の注と関連性が感ぜられる。

「小便の利《り》する者」小便がよく排尿される患者。

之れを用ふるに宜《よろし》からず。】。

「桑白皮を用ひて、線(いと)作《つくり》、金瘡《かなさう》の、腸(わた)、出《いづ》るを縫(ぬ)ひて、更に熱《あつき》雞《にはとり》≪の≫血《ち》を以つて、之を塗る」ちょっと、信じがたいなぁ。

「文武實《ぶんぶのみ》」不詳。黒・白の二種に当てたか。

「消渴《しやうかつ》」東洋文庫割注に、『(喉がかわき』、『小便の出の悪くなる病)』とあるが、漢方で「消渴」と言ったら、私の持病である糖尿病を指す。

「神䰟《しんこん》」東洋文庫訳では、『神鬼を安んじて』とあるが、意味が通じない。これは、「」の誤判読であろう。これは「精神」の意である。だからこそ、「安《やす》んじ」と続くのだ。

「山がつのそのふの桑のくはまゆの出でやらぬ世は猶《なほ》ぞ悲しき」「衣笠内府」既出既注の「夫木和歌抄」に載る藤原家良(いえよし)の一首で、「巻二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14090」)。「そのふ」は「園生」。植物を栽培する庭。

「古今醫統」既出既注だが、再掲しておくと、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。東洋文庫の割注によれば、『(通用諸方、花木類)』から、とする。

「勞熱」東洋文庫の割注によれば、『(熱の出る肺結核疾患)』とある。

「咳嗽《せきがい》」東洋文庫の割注によれば、『(痰(たん)のでるせき)』とある。

 なお、本項は、始まって以来、最も注に時間がかかった。

2024/08/07

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 榕 / 卷第八十三 喬木類~了

 

Gajyumaru

 

よう

 

【音容】

 

字彙云榕初如葛藟絲木後乃成樹

五雜組云榕木閩廣有之其木最昜長折枝倒埋之三年

之外便可合抱柯葉扶踈參雲表大者蔽虧百畒老根蟠

[やぶちゃん字注:「畒」は「畝」の異体字。「蟠」は原本では「グリフウィキ」のこれ((つくり)の上部が「米」)だが、表示出来ないので、「蟠」とした。]

拏如石者木理邪而不堅昜於朽腐十圍以上其中多空

此莊子所謂以不才終天年者也

△按此木不載葉花實之形故不知有於本朝否定也蓋莊

 子所言不才木則樗栲也【椿(ヒヤンチユン)の類《るゐ》≪なり≫。前を見よ。】

 

   *

 

よう

 

【音「容」。】

 

「字彙」に云はく、『榕は、初《はじめ》、葛《くづ》・藟《かづら》のごとく、木に絲(よ)りて、後、乃《すなはち》、樹と成る。』≪と≫。

「五雜組」に云はく、『榕木、閩《びん》・廣《くわう》に、之れ、有り。其の木、最も長じ昜《やす》し。枝を折りて、倒《さかさま》に之れを埋《うづ》むに、之れ、三年の外[やぶちゃん注:三年を過ぎると。]、便《すなは》ち、合抱《あひだく》べし[やぶちゃん注:両手で抱えるほどに太くなる。]。柯葉《かえふ》[やぶちゃん注:枝と葉。]、扶踈《ふそ》として[やぶちゃん注:枝葉が広がり、繁茂すること。]、雲表《うんぺう》[やぶちゃん注:雲の上。]に參《まゐる》≪許りなり≫。大なる者、百畒を、蔽《おほひ》、虧《そんずる》[やぶちゃん注:土地を使えなくなりほどに覆って、結果して毀損、ダメにすること。]。老≪ひたる≫根≪は≫、蟠《わだかまつて》、拏《つかめば》[やぶちゃん注:「摑めば」。]、石のごとくなる者≪なれども≫、木理(きめ)邪(なゝめ)にして堅《けん》ならず、朽腐《くちくさり》昜《やす》し。十圍《とおかこみ》以上《の太さにても》、其の中、多《おほく》は、空《うつろ》なり。此れ、「莊子」に、所謂《いはゆる》、不才を以つて、天年を終わる者なり。』≪と≫。

△按ずるに、此の木、葉・花・實の形を載せず。故《ゆゑ》、本朝に有るや否やを、知らざるなり。蓋し、「莊子」、言ふ所の「不才の木」は、則ち、「樗《ちよ》」・「栲《かう》」なり【椿(ヒヤンチユン)の類《るゐ》≪なり≫。前を見よ。】。

 

[やぶちゃん注:「榕」は、日中ともに、

双子葉植物綱バラ目クワ科イチジク連イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa

のことである。「維基百科」の「正榕」も見られたい。そこでは、ページ・タイトルは「正榕」だが、正式な中文種名は「榕樹」である)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字名は『細葉榕、正榕、榕樹』(注釈に『「榕樹」はガジュマルの近縁種を含めた総称。「溶ける木」という意味であるが、他の木や障害物の間を縫って成長し、しなやかな気根を多く伸ばすなどして流体のような形状になることがあるため』とあった)、『我樹丸)は、亜熱帯から熱帯地方に分布する』。『枝から多数の気根を出す「絞め殺しの木」の一種としても知られる』(同ウィキに「ガジュマルと絞め殺された木」の画像がある)。『ガジュマルの名の正確な由来は不明である。一説には、沖縄の地方名だが、幹や気根の様子である「絡まる」姿が訛ったという説がある』。『気根を多数伸ばした姿が雨降りのようなので、レインツリー(雨の木)の異名もある。また、タイワンマツ(台湾松)やトリマツ(鳥松)とよばれることもあるが、マツには似ていない』。『属名 Ficus(フィカス)はラテン語でイチジクの意味であり、この仲間はイチジクのような実をつける』。『日本、台湾、中国南部沿岸、東南アジア、インド、オーストラリアの熱帯から亜熱帯地域に分布する。日本では九州の屋久島と種子島以南、主に南西諸島などに分布する。沖縄県ではガジュマルがあちこちで見られ、名護市の中心にあるヒンプン・ガジュマル』(「ひんぷん」とは「屏風」と書いて琉球方言で、かく読む。沖縄を中心に南西諸島では、家の正面に目隠しのように塀があり、これを「ひんぷん」と呼ぶ(私は沖縄方言を外国語のようにカタカナ表記するのは生理的に嫌いである)。これは、実際に、表から建物の内部が直接見えないように造られたものであるが、その真の意味は、外から魔の物が侵入するを防ぐための呪的構造物である)『と呼ばれる樹は有名である。また小笠原諸島では植栽がなされている。観葉植物としては本州でも見ることがある。日本国外では台湾、中国南部やインドからオーストラリアなどにかけて自生している。アコウ』(イチジク属アコウ変種アコウ Ficus superba var. japonica )『よりも暖かい地域でないと育たない』。『常緑広葉樹の高木で、樹高は』二十『メートル』。『木全体の姿はアコウに近いが、常緑である』(アコウは半常緑高木である)。『幹は』、『多数』、『分岐して繁茂し、囲から褐色の気根を地面に向けて多く垂らす。垂れ下がった気根は、徐々に土台や自分の幹に複雑にからみつき』、『派手な姿になっていく。枝から出る気根は、そのまま下に向かっても地上に下りて、一部は支柱根となる。気根は当初はごく細いが、太くなれば』、『幹のように樹皮が発達する。地面に達すれば』、『幹と区別が付かない。また、成長した気根は地面の舗装に使われているアスファルトやコンクリートなどを突き破る威力がある。一部は他の木を土台にして育ち、土台となった木を枯れらしていくので、ガジュマルはいわゆる「絞め殺しの木」ともよばれる。樹皮は灰褐色で』、『ほぼ滑らかである。若い枝はやや太く無毛で、一周する輪状の托葉痕がある』。『葉は楕円形や倒卵形、革質でやや厚く、毛はない。葉柄はアコウよりも短い』。『花期は』、『ほぼ通年』で、『イチジクのような花序(花嚢)は枝に多数』、『つき、小さい。花嚢は果嚢(イチジク状果)となり』八『月ごろに黄色または淡紅色に熟す。実は鳥やコウモリなどの餌となり、糞に混ざった未消化の種子は』、『土台となる低木や岩塊などの上で発芽する』。『冬芽は互生し』、二『枚の芽鱗に包まれ、頂芽は円錐状で先が細く尖る。側芽は小さい。葉痕は円形や楕円形をしている』。『ガジュマルを含むイチジク属は熱帯域を中心に世界で』八百『種が生息する。日本では本州から南西諸島に』『種ばかりが分布し、その中でガジュマルは葉が小さくて厚くつやがある点で、他に紛れる種がない』。『樹木は防風林、防潮樹、街路樹、生垣として、材は細工物として利用される。熱帯地域では、日陰を作る公園樹としてよく植えられる。キクラゲ』(菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae :当該ウィキによれば、属名はラテン語の「耳介」に由来し、種小名は『「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコの木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない』とあった。しかし、このユダが首を吊ったのをニワトコの木としたのは、誤比定であり、ニワトコはパレスチナには自生せず、東アジア原産である)『の原木栽培にも利用される。燃やした灰でつくった灰汁は、沖縄そばの麺の製造に用いられることもある。近年は観葉植物としても人気がある。観賞用に、中の枯れた木を取り除いて空洞状にした木も売られている』。『沖縄県名護市にはひんぷん(屏風)ガジュマルと呼ばれる大木が目抜き通りの真ん中にあり、名物になっている。この屏風とは、門のところに建てて、中があけ広げにならないようにするものという意味で、もともとは風水の魔除けである。ひんぷんガジュマルはもとの街の入り口に立っていた』。『観葉植物として幼木を鉢植えにして栽培される。日光を好む性質から、日当たりのよい場所に置いて育てられるが、夏場は強い日差しに当たると葉焼けを起こす場合もあるため、半日陰にするのが良いといわれる。春から秋にかけて水やりと施肥を行い、湿度を保つため表土が乾くたびに多めに保水し、緩効性の肥料を』二『か月置き程度に与える』。『耐陰性があるが』、『日光を好み、光量が不足すると徒長』(植物の茎や枝が必要以上に間延びして伸びてしまう状態を指す語)『しやすい。熱帯の植物の中では耐寒性もあるが、降霜に耐えられるほどではない。良く成長した葉は近縁のインドゴムノキ』(イチジク属インドゴムノキ Ficus elastica )『よりは小さいが、ベンジャミン』(イチジク属ベンジャミン Ficus benjamina の和名は「シダレガジュマル」である)『より一回り大きい』。『中国南部、台湾、ベトナムなどでは、道観や寺院などの庭園によく植えられ、強い日差しをさえぎり、休める場所を提供する役割を担っている。茶やベトナムコーヒーなどを提供する出店もガジュマルの木の陰で商売をすることが多い』。『中国福建省の福州市と四川省の成都市では街路樹にも多く用いられ、街を代表する木であり、榕城という別名も生んでいる』。『中国広西チワン族自治区の柳州市(りゅうしゅうし)では、街路樹にも多く用いられている』。『沖縄県ではガジュマルの大木にはキジムナーという妖精のようなものが住んでいると伝えられ』ていることは、よく知られる。

「字彙」前項に既出既注。原本に当たれない。

「五雜組」複数回既出既注。始動回の「柏」の私の注を参照されたい。以下は、「中國哲學書電子化計劃」で調べたところ、「卷十」の「物部二」に(少し手を加えた)、

   *

榕木、惟閩、廣有之、而晉安城中最多、故謂之榕城、亦曰榕海。云、「其木最易長、折枝倒埋之、三年之外、便可合抱、柯葉扶疏、上參雲表、大者蔽虧百畝、老根蟠拿如石焉。木理邪而不堅、易於朽腐。十圍以上、其中多空。」。此「莊子」所謂以不才終天年者也。閩人方言亦謂之松按「松」字、古作「容木」、則亦與「榕」通用矣。

   *

とあった。

「閩《びん》」現在の福建省(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「廣《くわう》」現在の広東省広西チワン族自治区

『「莊子」に、所謂《いはゆる》、不才を以つて、天年を終わる者なり。』この「五雜組」の「不才」は気に入らない。「不材」だ! 東洋文庫の割注もひどいもんで、訳で「荘子」の下に割注して、『(外篇山水)』としてあるが、まず、「莊子」の「外篇」には「山水篇」なんてない! 「山木」の誤記・誤植だ! さらに言えば、これは、「外篇 山木篇第二十」の冒頭の中に出る荘子の直の台詞「此木以不材得終其天年」を指していようが(「中國哲學書電子化計劃」の「山木篇」の「1」)、まあ、それは荘子自身の肉声であり、何より、そこを示すに若くはないとは思う。しかし、爽快なパラドキシャルな「莊子」が好きな私としては、ブラス、やっぱり、同じ内容を、より判り易く伝えており、荘子本人の記載の確度が遙かに高い「内篇」の「人間世」も参考資料として是非とも指示するべきだと思う(但し、そこでは大工の棟梁の話である。「中國哲學書電子化計劃」の「人間世篇」の「5」以下)。何故なら、そこでは、具体的に樹種とその材質が語られてあるからである。簡単に梗概を語ると、

   *

 大工の棟梁の石が斉(せい)の国を旅した。そこに社(やしろ)があり、そこに土地神を祀った神木たる櫟(くぬぎ)の木を見た。

 その大きさたるや、数千頭の牛を木蔭にやすらせ、幹は百抱えもある。その木の高きこと、山を見下ろし、地上から十仭(約二十一メートル)を超えて、初めて梢が出ているのだった。しかも、その張り出している一枝でさえ、立派な舟を作れるような太さなのであった。

 見物は市をなしていたが、石は顧みることもなく、そのまま通り過ぎた。

 従っていた弟子達は、暫く、その木に見とれてしまい、慌てて、後から先生を追って走って、言うことには、

「我等が、斧や鉞(まさかり)を手にして、先生に随うようになってより、未だ嘗つて、材質の、かくの如くまで、その美なる樹木を見たことが御座いません。だのに、先生は、敢えて見ようとなさらず、もくもくと足を進め、通り過ぎられたのは、何故ですか?」

と。

 先生、曰わく、

「やめんか! 無駄口を叩いては、いかん! あれはな、「散木(さんぎ)[やぶちゃん注:何の用にも立たない樹木。]」なのじゃ。あの材で舟を作れば、即座に、沈み、棺桶を作れば、忽ちのうちに、腐り、器にすれば、直ちに、壊れ、門や戸に拵えれば、汚い樹脂(やに)が流れ出で、柱と成せば、すぐ、虫が湧く。これ、以って、まさに『不材[やぶちゃん注:使い道が全くない。]木』なのじゃ。さればこそ[やぶちゃん注:一分一厘も全く世の役に立たない木だからこそ。]、かくも大木(たいぼく)になるまで、寿(じゅ)を全うしておるのじゃて。」

と。

   *

「此の木、葉・花・實の形を載せず。故《ゆゑ》、本朝に有るや否やを、知らざるなり」独立国琉球は、当時、既に幕府に嘘をついて秘かに薩摩が侵攻し、酷い実質支配を始めていたが、ガジュマルは当時の正規の日本では、遠く南の南西諸島にしか分布しないから、これは、良安にとっては、仕方がないことではある。

「樗《ちよ》」これは、先行する「椿」に登場し、そこでは、スンタモンダして(この漢字は悩ましいものであって、「おうち」と読んで、ムクロジ目センダン科センダン属センダン変種センダンMelia azedarach var. subtripinnata の古名でもある、「ヤヤコシヤ植物漢字」なのである)、最終的にムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属ニワウルシ Ailanthus altissima としたが、ここでは、俄然! その時、第一に想起した(私は少年期に「樗」を「ごんずい」と読むことを刷り込まれた)、材が柔らかくて材木として役に立たない「不材の材」として知られる(柔らか繋ぎで何故かキクラゲ栽培の原木にはなるそうだ)クロッソソマ目 Crossosomatalesミツバウツギ科ミツバウツギ属ゴンズイ Staphylea japonica で決まりだ!

「栲《かう》」これも「椿」に登場するが、私は毅然として、本邦で、この漢字を「ぬるで」と読み、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis を同種と比定していることには、目もくれず、中国、及び、フィリピンの一部・ボルネオ島の東北の諸島にしか分布しないブナ目ブナ科シイ属カスタノプシス・ファルギシイ Castanopsis fargesii に同定した。その理由は、その「椿」の項の記載種が、日中で、悉く、全く、(明後日)100も――異なること――が明らかに判ったからである。序でに言っておくと、東洋文庫訳では、訳文で「樗栲」と、そのまま載せ、『ちよ(=ょ)こう』と振った上、直後の割注で『(ぬるで)』と、仰天なことを、やらかしてあるのだ! いいか? 良安はこの二字にルビは振っていないのだ! しかも、この二字には「-」も振っちゃいないんだよ! 更に、致命的にダメなのは、ヌルデ Rhus javanica var. chinensis は中国にも分布するが、役に立たない「不材の木」なんかじゃないんだよ! 当該ウィキから引くぜ! 『木材は色が白く』、『材質が柔らかいことから、木彫の材料、木札、木箱などの細工物に利用される』だけじゃなく、本邦では『地方により、ヌルデ材は呪力を持った木として尊ばれ、病気や災い除けの護符の材として多く使われる』とあり、『古来から日本の村里の人々の生活と深く関わり合いがある。葉にヌルデシロアブラムシ(ヌルデノミミフシアブラムシ)が寄生すると大きな虫癭(ちゅうえい)ができ』、『中には黒紫色のアブラムシが』、『多数』、『詰まっている。この虫癭は五倍子(ごばいし)、または付子(ふし)といってタンニンが豊富に含まれており、これが腫れ物・歯痛の薬、皮なめしに用いられたり、黒色染料の原料になる』。『染め物では空五倍子色とよばれる伝統的な色をつくりだす。またインキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性および』十八『歳以上の未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられた』とあり、この五倍子、現在、『中華人民共和国での生産量が最大』であるとあるんだぜ!?! 中国で「不材の木」であろうはずがあるまいがッツーの!!!

「椿(ヒヤンチユン)」「ツバキ」と読んでは、決していけない! 本邦のヤブツバキとは全く関係のない、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科Toona属チャンチン Toona sinensis である。先行する「椿」で、気の遠くなる迂遠な考証を既にしてある。

2024/08/06

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 梖多羅

 

Oarumirayasi-korifayasi

 

       貝多

ばいたら

梖多羅

 

[やぶちゃん注:標題部のひらがな読みの位置の特異点はママ。]

 

字彙云梖多出交趾及西域葉可書也

翻譯名義集云多羅舊名貝多此翻岸形如此方椶櫚直

而且髙極髙長八九十尺華如黃木《✕→米》子或云髙七仭【七尺曰仭】

[やぶちゃん字注:「翻譯名義集」の引用の中の「黃木子」は「黃米子」の誤りである。訓読では訂正した。

是則樹髙四十九尺

西域記云南印度《✕[脱字]→恭》建那補羅國北不遠有多羅樹林三十

[やぶちゃん字注:「西域記」の引用の中の「建那補羅國」の国名は頭に「恭」字が脱字している。訓読では訂した。

餘里其葉長廣其色光潤諸國書寫莫不采用

 

   *

 

       貝多

ばいたら

梖多羅

 

[やぶちゃん注:標題部のひらがな読みの位置の特異点はママ。

 

「字彙」に云はく、『梖多は、交趾(カウチ)、及び、西域より出づ。葉に、書(ものか)くべき≪もの≫なり。』≪と≫。

「翻譯名義集」に云はく、『多羅は、舊(もと)「貝多《ばいた》」と名づく。此(こゝ)には[やぶちゃん注:「中國」。]「岸《ガン》」と翻《やく》す。形、此方《このはう》の「椶櫚(しゆろ)」のごとく、直《すぐ》にして、且つ、髙し。極《ごく》、髙きは、長《た》け、八、九十尺[やぶちゃん注:二十四・二四~二十七・二七メートル。]。華《はな》は黃米子《わうばいし》のごとし。或《あるいは》云《いふ》、「髙さ、七仭《じん》【七尺、「仭」と曰ふ。】≪と≫。」。是れ、則ち、樹の髙さ、四十九尺。』。≪と≫。

「西域記」に云はく、『南印度の「恭建那補羅《コーンカナプラ》國」の北に、遠からずして、多羅樹の林《はやし》、三十餘里、有り。其の葉、長く廣《ひろく》、其色、光潤《くわうじゆん》。諸國、書寫に、采《と》り用《もちひ》ざると云ふこと、なし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「梖多羅」「梖多」は、「島根大学学術情報リポジトリ」のここからPDFでダウンロード出来る、三保忠夫氏・三保サト子氏の共著論文『大唐西域記にみえる「多羅樹林」について』(『島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)』第三十五巻・平成一三(二〇〇一)年十二月発行所収)の中で、緻密な考証によって、有力な比定同定種として、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ亜科パルミラヤシ連パルミラヤシ本邦の同種のウィキでは、和名を「オウギヤシ」とし、別名を「パルミラヤシ」「シュガーパーム」(Sugar Palm)とするが、英文の同種の記載には、この異名はない。ただ、タイで「砂糖」生産の主原料であるから、タイ語では「砂糖の樹」の異名があるものと思われる)Borassus flabellifer

と、

コウリバヤシ亜科コウリバヤシ連コウリバヤシ属コリファヤシCorypha umbraculifera本邦の同種のウィキでは、和名を「コウリバヤシ」とし、英名から「タリポットヤシ」(talipot palm:サイト「英ナビ」の「talipot」には、名詞で、『南インドとスリランカに生育する丈の高いヤシで、巨大な葉は傘や扇に、また細く切って紙にも使われる』とあった)とも呼ぶとし、また、門池浩二郎氏のサイト「タイの植物 チェンマイより」の同種のページでは、「グバンヤシ」とされ、『別和名 タラバヤシ』とあって、しかもこのページには、現地の寺院に展示されている『ヤシの葉に書かれた経文』の写真が三葉ある(用材のヤシの種は不明とされる。さらに、「グバンヤシの葉に書かれた経文」の項には、『グバンヤシはタイで写経に用いられた』三『種のコリファ属のヤシの一である。タイの南部に生育するので,バンコク王朝での写経利用が多かったのではと思われる。写経は仏教の修行形式であり,北タイでも』百『年ほど前までヤシの葉に書かれていた。タイで紙が作られたのは』三百『年程前であるから,紙が作られてからも』、『ヤシの葉は被書体』(ものを書く素材の意)『として長く使用されていたのである』とあり、さらに、「貝多羅葉」の項では、『サンスクリット語のPatraは葉の意味(だけ)である。しかし』、『貝多羅・葉と漢字音訳(+意訳)されると葉の意味が転じてヤシの葉に書かれた経文の意味に転じるらしい。そうだとすると掲載の画像のヤシの葉は貝多羅葉ということになるが』…。『漢訳仏典では貝多羅(葉)は経文の意ではなく』、『葉の意味で用いらていない』。『ヒチヨウジュはサンスクリット語名sapta pattraで漢訳仏典では七葉樹(sapta=』七『)と訳され、葉という本来の意味(だけ)である』とされ、「タラバヤシの名称」の項では、『タラバヤシ』( Corypha utan )『という和名は漢字では多羅葉椰子と書き』、『貝多羅葉(pattra)からの名称由来らしい?』『貝多羅葉の短縮名は貝葉であるから』、『バイヨウヤシなら理解できるが』…。『オウギヤシ』( Borassus flabellifer )『の漢訳仏典名=多羅樹(tala)の葉も写経に用いられおり』、『こちらの葉のほうこそ』、『多羅葉と訳されるべきである。また』、『貝多羅葉の多羅葉(tara-ba)と』、『オウギヤシ(多羅樹)の葉の多羅葉(tala-ba)は漢字綴りは同一となるが』、『羅はサンスクリット文字ではraとlaの別文字であり』、『全く別の語彙である』。『従って、この名称は紛らわしく混同されやすい。実際』、『混同説明や両義解釈可能説明もかなり見受けられる』。『私はタラバヤシ』( Corypha utan )『は全くの愚名だと思う』。)『当』ページ『のタイトル名は』、『このヤシが広く自生しているインドネシア名と』、『英名からグバンヤシとした』と貴重な深い見解を添えておられる)

の二種が候補とされてある。まず、「オウギヤシ」(=パルミラヤシ)のウィキを引く(注記号はカットした)。『原産は熱帯アフリカで、東南アジアからインド東部にかけて栽培されている』。『高さは』三十メートル『以上にもなり、扇のように放射状に広がる葉を付ける。燃える線香花火を逆さにしたような容姿である。乾燥に強く、内陸部の乾燥地帯でもよく育つ。直径』十五センチメートル『程度の果実を付ける』。ヤシの実の『内果皮内側の胚乳やスプラウトが食用にされる。花序液を煮詰めてパームシュガー』(Palm sugar)『が作られるほか、発酵させてヤシ酒が作られる。 葉は貝多羅葉と呼ばれ、古代から仏教経典の写経の際の紙代わりとして用いられてきた歴史がある。貝多羅葉に書かれた写本を貝葉写本と言う。また、家屋の屋根が作られたり、笠、敷物、カゴ等の工芸品の素材としても用いられる。木の幹も建材や家具材として用いられる』とある。

 次に、ウィキの「コウリバヤシ」(=コリファヤシ)を引く(注記号はカットした)。案じ表記は『行李葉椰子』で、『南インド(マラバール海岸)』、及び、『スリランカが原産である』『コウリバヤシは、世界で最も大きいヤシのひとつで、直径』一・三『メートル・高さ』二十五『メートルに達するものもあり、最大直径』語『メートルの掌状葉と』、四『メートルの葉柄』、及び、百三十枚もの『葉をもつ。また、植物の中で最大の花序(』六~八『メートル程度になる)を持ち、幹の先端で形成される分岐した茎から数百万の花で成り立つ』。『一稔性の植物であり、樹齢』三十『年から』八十『年の際』、『一度だけ花を咲かせる。単一の種を含んだ黄色から緑色の直径』三~四『センチメートル程度の果実を数千個結実し』、一『年かけて実が熟した後、枯れてしまう』。『コウリバヤシは、東南アジアから中国南部にかけて栽培されている。歴史的に、葉は貝葉を作成するために用いられ、尖筆により東南アジアの様々な文化を書き綴られてきた。また、葉はそれ以外にも萱葺き屋根の材料としても使用され、樹液はヤシ酒の原料となる』。『マラバール海岸では、数十年前まで、農村地域で伝統的な傘を作るために葉を利用しており、マラヤーラム語で"Kudapana"("Kuba" = 傘 + "Pana" = ヤシ)と呼ばれる』とあった。

「梖多羅」の「梖」を「廣漢和辭典」で引くと、音は「ハイ」で、『木の名。ばいたら。インドに産する常緑高木の一。その葉を経文の筆写に用いる。梖多。貝多。梵語 patora の音訳字。』とある。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の編になる漢字字書。全十二巻。所収三万三千百七十九字。二百十四の部首を立て、各部ごとに画数によって配列してある。中文サイトで探したが、いっかな、見つからず、原文に当たれない。

「交趾(カウチ)」コーチ。「跤趾」「川内」「河内」とも漢字表記した。元来は、インドシナ半島のベトナムを指す中国名の一つ。漢代の郡名に由来し、明代まで用いられた。近世日本では、ヨーロッパ人の「コーチ(ン)シナ」という呼称用法に引かれて、当時のベトナム中部・南部(「広南」「クイナム」等とも呼んだ)を、しばしば、「交趾」と呼んだ(どこかの自民党の糞老害政治家石原某は今も使っている)。南シナ海の要衝の地で、朱印船やポルトガル船・中国船が来航し、中部のホイアン(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)などに日本町も栄えた(主文は山川出版社「山川 日本史小辞典」に拠った)。

「翻譯名義集」既出既注だが、再掲しておく。南宋の法雲の編になる梵漢辞典。全七巻。一一四三年の成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。二十巻本もある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の古活字版の画像を探し、この画像が、それである(左丁の後ろから三行目中頃から始まっている)。最後をカットしているが、問題はない。「材木篇第三十一」の「多羅」の項である。

「椶櫚(しゆろ)」先行する「椶櫚」(=「棕櫚」)の私の注を参照されたい。

「黃米子」「黃米」は単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum で、ここは、そのヤシの「花」が、キビの実のようであるという意味のようである。

「七仭《じん》【七尺、「仭」と曰ふ。】」既に何度か述べたが、「仭」は人体尺で両手を上下に広げた長さ(横に広げたものが「尋(ひろ)」。「一仭」は周代の尺(一尺=二十二・五センチメートル)の七尺(二・八メートル)、或いは、八尺(二・四二メートル)となる。さすれば、ここは七尺と言っているから、「七仭」は「四十九尺」で十四・八四メートルとなる。

『「西域記」に云はく、『南印度の「恭建那補羅《コーンカナプラ》國」の北に、遠からずして、多羅樹の林《はやし》、三十餘里、有り。其の葉、長く廣《ひろく》、其色、光潤《くわうじゆん》。諸國、書寫に、采《と》り用《もちひ》ざると云ふこと、なし。』≪と≫』「コーンカナナプラ」の読みは、東洋文庫訳に振られているものを、先に示した論文のでも同じであることを確認出来たので、そのままに採用した。しかし、先の論文でも、その位置は正確には比定同定する場所は決定していない。ある記載では南インドの境ともあった。その比定地を知ることは、私の注としては必要性を感じない。]

2024/08/05

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 娑羅雙樹

 

Sarasoujyu

 

しやらさうじゆ

 

娑羅雙樹

 

 

飜譯名義集云娑羅此云堅固冬夏不凋故名堅固其樹

類檞而皮青白葉甚光潤四樹特髙其林森聳出於餘林

也故華嚴經音義翻爲髙遠佛入涅槃已四方雙樹皆悉

埀覆如來其樹慘然皆悉變白

△按娑羅本名也雙樹其林也俗通曰娑羅雙樹比叡山

 有之其花白單瓣狀似山茶花而昜凋酉陽雜組云娑

 羅樹花如蓮與此異【和州長谷寺有一株】

 

   *

 

しやらさうじゆ

 

娑羅雙樹

 

 

「飜譯名義集《ほんやくみやうぎしふ》」に云はく、『「娑羅」は、此《こなた》[やぶちゃん注:「中國」。]に云《いふ》「堅固」≪なり≫。冬・夏≪も≫、凋まず。故に、「堅固」と名づく。其の樹《じゆ》、檞(かしは)に類して、皮、青白《せいはく》。葉、甚《はなはだ》、光潤《くわうじゆん》≪として、かの≫四樹≪は≫、特に、髙く、其の林森《りんしん》≪に≫、餘林《よりん》に《✕→から拔きん出て、》出づ。故に、「華嚴經」の音義に《✕→「華嚴經音義《けごんきやうおんぎ》」に》翻《やく》して、『髙遠』と爲《な》す。佛《ブツダ》、涅槃《ねはん》に入《いり》、已《すで》に、四方の雙樹、皆、悉《ことごと》く、埀《たれ》て、如來を覆《おほ》ふ。其の樹、慘然として、皆、悉く、白《しろ》に變ず。』≪と≫。

△按ずるに、「娑羅」の本名《ほんみやう》なり。「雙樹」とは、其の林《はやし》なり、俗、通《つう》じて、「娑羅雙樹」と曰《い》ふ。比叡山に、之れ、有り。其の花、白≪の≫單瓣(ひとへ)≪にして≫、狀《かたち》、「山茶花(さゞんくは)」に似て、凋み昜《やす》し。「酉陽雜組」に云はく、『娑羅樹の花、蓮《はちす》のごとし。』と云《いふ》≪は≫、此れと≪は≫、異《い》なり【和州、「長谷寺」にも、一株《ひとかぶ》、有《あり》。】。

 

[やぶちゃん注:「娑羅雙樹」「娑羅」は、

双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科サラノキ属サラソウジュ Shorea robusta

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『沙羅双樹』と『娑羅双樹』の二つがある。『常緑高木』で、「シャラソウジュ」「サラノキ」「シャラノキ」『ともいう』。但し、『これらの名で呼ばれ、日本の寺院に聖樹として植わっている木の』殆んどは、『本種ではなく』、『ナツツバキ』(ツツジ目ツバキ科ナツツバキ(夏椿)属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia )『である』。『ラワンの一種レッドラワン』(red lauan: Stewartia negrosensis )『と同属である』。『幹』の高さは、三十メートル『にも達する。春に白い花を咲かせ、ジャスミンにも似た香りを放つ』。『耐寒性が弱く、日本で育てるには』、『温室が必要である。こうした植物園の例としては、草津市立水生植物公園みずの森や新宿御苑がある。日本の気候では育たないため、日本各地の仏教寺院では』、『本種の代用としてツバキ科のナツツバキが植えられており、「サラソウジュ」やその別名で呼ばれている』。『インドから東南アジアにかけて広く分布』する。『沙羅樹は』、『神話学的には』、『復活・再生・若返りの象徴である「生命の木」に分類されるが、仏教では』、『二本並んだ沙羅の木の下で釈尊が入滅したことから般涅槃』(はつねはん:完全な涅槃を言う。釈迦の入滅を「大般涅槃」(だいはつねはん)とも言う)『の象徴とされ、沙羅双樹とも呼ばれる』。『サンスクリット』語『では』、「シャーラ」、又は、「サーラ」『と呼ばれる。日本語の沙羅樹の「シャラ」または「サラ」は』、『これに由来している。 現代ヒンディー語での名はサール』である。『釈迦がクシナガラ』(漢名「拘尸那掲羅」。ここ。グーグル・マップ・データ)『で入滅(死去)したとき、臥床』(がしょう)『の四辺にあったという』。四双八本の『沙羅樹』であったと伝える。『時じくの花を咲かせ、たちまちに枯れ、白色に変じ、さながら鶴の群れのごとくであったという(「鶴林」』(かくりん:釈迦入滅の場所。釈迦が クシナガラ城で入滅した時、そこを取り巻いていた沙羅双樹が白鶴のように、真っ白に枯れたというところから言う。転じて「釈迦の死」や、「僧寺」・「僧寺の樹林」、広く「人の臨終」の意などに使う)『の出典』である。『以上のように』、『伝本により』、『木の本数には異同がある。しかし、いずれにせよ「双」は元々の樹木の名に含まれておらず、二本』、若しくは、『二本組ずつになった木の謂』い『である』。仏教で言う「三大聖樹」があるが、他の二種は、『釈迦が生まれた所にあった木』とされるのが、「無憂樹」(マメ目マメ科デタリウム亜科 Detarioideaeサラカ属ムユウジュ Saraca asoca )、『 釈迦が悟りを開いた所にあった木』とされるのが、「印度菩提樹」(バラ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa )である。『かつて東南アジア、とりわけ』、『マレー半島近隣で用材として』、『家屋の建築や』、『カヌー(舟)等に広く使用された。樹脂は香料や船板の水漏れ防ぐための槙皮(まいはだ)』(「まきはだ」の音変化。通常は、ヒノキやコウヤマキの甘皮を砕いて、繊維としたもので、舟や桶などの水漏れを防ぐために、材の合わせ目や継ぎ目に詰め込む材を言う。「のみ」「のめ」とも呼ぶ)『として』、また、『種子胚芽から取れる油は』、『地域によって燈火や料理に用いられる』とある。

「飜譯名義集《ほんやくみやうぎしふ》」南宋の法雲の編になる梵漢辞典。全七巻。一一四三年の成立。仏典の重要な梵語二千余語を六十四編に分類し、字義と出典を記したもの。二十巻本もある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の古活字版の画像を探し、この画像が、それである(左丁の一行目下方から始まっている)。若干、漢字表記に違いがあるが、問題はない。「材木篇第三十一」の「沙羅」の項である。実際には、割注行で十四行に及ぶ、長い記載からの一部を抜いたものである。

「檞(かしは)」上記画像では「槲」となっている。日中ともに、ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ節カシワ Quercus dentata で問題ない。しかし、「檞(かしは)に類して」は誤りである。

『「華嚴經」の音義に《✕→「華嚴經音義《けごんきやうおんぎ》」に》』東洋文庫の巻末の「書名注」に、『華厳音義 『新訳大方広仏華厳経音義』二巻。唐の慧苑(えおん)撰。『新訳大方広仏華厳経』八十巻から難語を拾い、その音を示し』、『宇義を解釈したもの。本書に基づいて、わが国の奈良時代に『新訳華厳経音義払記』二巻(撰者未詳)があり、発音・意義の注に加えて万葉仮名で和訓を施している。ほかに『新訳華厳経音義』一巻、喜海(鎌倉時代、高山寺明恵の弟子)撰があるが、これは音を示すにとどまっている。』とある。

「慘然として」ひどく悲しむことを言う。「娑羅雙樹」の木が、主語である。

『比叡山に、之れ、有り。其の花、白≪の≫單瓣(ひとへ)≪にして≫、狀《かたち》、「山茶花(さゞんくは)」に似て、凋み昜《やす》し。』これは、花の説明から、既に述べた、ナツツバキで間違いない。「山茶花(さゞんくは)」はツツジ目ツバキ科 チャノキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

「酉陽雜組」中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆。「酉陽雑俎」とも書く。その「卷十八 廣動植之三」。「中國哲學書電子化計劃」のガイド・ナンバー「24」の箇所にあるものを、一部、正字化し、句読点代え、記号も使ったものを示す(太字下線は私が附した)。

   *

娑羅、巴陵有寺。僧房床下忽生一木、隨伐隨長。外國僧見曰、「此娑羅也。」元嘉[やぶちゃん注:四二四年~四五三年。]初、一花如蓮。天寶[やぶちゃん注:七四二年~七五五年。]初、安西道[やぶちゃん注:盛唐の開元六(七一八)年に安西四鎮節度使が置かれた。官庁は現在の新疆ウイグル自治区の庫車(クチャ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)に置かれた。貞元六(七九〇)年に廃止。]進娑羅枝、狀言、「臣所管四鎭、有拔汗那[やぶちゃん注:フェルガナ(Farg'ona)。現在はウズベキスタン共和国東部の都市。私はエイゼンシュタインの映画「フェルガナ運河」で、よく知っている。]最爲密近、木有娑羅樹、特爲奇絕。不庇凡草、不止惡禽、聳幹無慚於松・栝[やぶちゃん注:ヒノキ。]、成陰不愧於桃李。近差官拔汗那使、令採得前件樹枝二百莖。如得託根長樂、擢穎建章。布葉埀陰、鄰月中之丹桂、連枝接影、對天上之白楡。」。

   *

『和州、「長谷寺」にも、一株《ひとかぶ》、有《あり》。』同前で、ナツツバキである。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 古賀乃木

 

Kagonoki

 

こがのき  正字未詳

 

古賀乃木

 

△按古賀木髙一二𠀋葉似珊瑚樹葉而背色淡開小花

 淺柹色結子畧作簇大如櫻桃子正赤其木甚堅硬作

 皷之𣞙檣之栓

 

   *

 

こがのき  正字、未だ詳かならず。

 

古賀乃木

 

△按ずるに、古賀の木、髙さ、一、二𠀋。葉、珊瑚樹の葉に似て、背《うら》の色、淡《うすし》。小花を開《ひらき》、淺《あさい》柹色。子《み》を結ぶ。畧《ほぼ》、簇《むらがり》を作《つくる》。大いさ、櫻桃(ゆすらうめ)の子のごとく、正赤《せいせき》。其の木、甚《はなはだ》、堅硬《けんかう》≪にして≫、皷《つづみ》の𣞙(たわ)・檣(ほばしら)の栓《せん》[やぶちゃん注:後注参照。「蟬(せみ)」の誤記と断定する。]に作《つくる》。

 

[やぶちゃん注:この「古賀の木」は、「鹿子の木」、

双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ハマビワ属カゴノキ Litsea coreana

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『暖地の常緑樹林に生える。大きくなると樹皮が鹿の子模様になる』。『和名は「鹿子の木」の意であり、樹皮の様子が鹿の子模様を思わせることによる。別名にコガノキ、カゴカシ、カノコガがある。中国名は』「朝鮮木姜子」で、別名「鹿皮斑木橿子」。『日本では本州の関東、福井県以西、四国、九州に、それに朝鮮南部』と、台湾に『分布する』(以上の中文名及び分布は、本邦のウィキが信用できないので、「維基百科」の「朝鮮木姜子」の同種記載と、韓国語の同種のウィキに拠った)。『湿潤な傾斜地を好むが環境適応力は広く、成長は早い。タブノキ』(クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii )や、『シイ』(ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis )や『カシ類』(ブナ目ブナ科 Fagaceaeのコナラ属 Quercus 等)『の林に混成することが多く、また四国の瀬戸内海沿岸には群生が多い』。『常緑性の高木で、大木になる。高さ』二十『メートル』、『胸高直径は』六十『センチメートル』『に達することもある。幹の樹皮は紫黒色から淡灰黒色だが、鱗片となって薄く剥がれるため』、『斑模様になる。新枝は褐緑色で毛がなく、その表面にはその年の内に長楕円形の皮目が出来る』。『冬芽は黄褐色で、葉芽は細長い披針形、花芽は球形である。頂芽(葉芽)と側芽はほぼ同じ大きさで、鱗片が覆瓦状に並んでおり、先端はやや尖る。鱗片は先端が丸く、背面には絹毛を密生する。また鱗片の色は褐色。丸い花芽は葉の基部や枝に』、『直接』、『数個』、『つく』。『葉は枝先に集まって互生に出て葉柄がある。葉身は長楕円形から倒卵状披針形で、長さ』は五~九センチメートルで、『葉柄は』八~十五『ミリメートル、先端は少し突き出して』、『その先端は鈍く尖る。基部側は幅広い楔形。葉の縁は滑らかになっている。質は薄い革質。葉の裏面は当初は絹毛があるが、すぐに無くなって』、『両面とも無毛となる。葉の表側は緑色で』、『裏側は粉白色になっている』。『雌雄異株で花期は』九『月。花芽は葉腋から』三、四『個』、『纏めて出て』、『球形をしており、柄は』、『ない。花序が出るのは』、『枝の先端より下方、葉のない部分から』、『葉のある部分の下の方にかけてから』、『出る。花は散形花序をなし、基部に総苞片がある。花序には数個の花が含まれ、花は黄色、雄花序は大きくてより多くの花が付き、雌花序はより小さく、含まれる花の数も少ない』。『雄花序の総苞片は』四『枚あり、楕円形で長さ』三・五~四ミリメートル、『花柄は太くて』、『長さ』三ミリメートルで、『毛が』、『あり、花床は皿状になっている。花被は』六『枚あって』、『楕円形で長さ』三ミリメートル。『雄しべは』九『本、長さ』六ミリメートル、『花糸は毛があり、葯は』四『つの弁があって』、『開く。内側に位置する』三『本の雄しべの基部にはそれぞれ』二『個の腺体がある。雌しべは』一『つ、長さ』一・五ミリメートルで、『先端が尖り、稔性は』、『ない』。『雌花序の総苞片は』四『枚で』、『円形になっており、長さ』二・五~三・五ミリメートル。『花柄は太くて花床は皿状になっている。花被片は』六『枚あり、長楕円形で』、『長さ』一・五ミリメートルで、『反り返る。仮雄しべは』九『本あって』、『糸状で』、『毛があり、内側』三『本の基部には』、『それぞれ』二『つの腺体がある。雌しべは』一『つで』、『長さは』三ミリメートル、『子房は球形で、花柱は長さ』二ミリメートルで、『柱頭は広がって裂け、その裂片は反り返る。果実は年を越えて次の夏に赤く熟す。果実は楕円形で長さ』九ミリメートル、『果柄は太くて』、『長さ』五~八ミリメートル、『幅』は二ミリメートル。『果柄の先端は肥厚する。花床は浅く裂けて皿状となる。これはバリバリノキ』(クスノキ目クスノキ科カゴノキ属バリバリノキ Actinodaphne acuminata当該ウィキによれば、『日本の房総半島以西の本州、四国、九州、沖縄(南西諸島)に分布』し、『日本以外では台湾に分布する』。但し、何故か、『岡山県には分布していない』。『低地の林』の中、『あるいは』、『暖地で山地の常緑広葉樹林域に生え、斜面中部などの適潤地に生育し、伐採跡などに多く見られる』とあった)『などでは果実の基部を包むが、本種では包まない』。『ハマビワ属には世界的には種数が多いが、日本では』、四『種のみ』、『知られている。そのうち、アオモジ L. citriodora は落葉樹で、葉が薄いうえにつやもない。逆にハマビワ L. japonica は海岸地域に多い種で、葉が厚いうえに裏面に綿毛が密生している。したがって、この』二『種は本種とあまり似ていない。もう』一『種のバリバリノキ L. acuminata は常緑高木だが、葉が細長いうえに』、『先端が長くとがり、長さ』も十~十五センチメートル『にもなるので、これも見間違えることはない』。『外見的にはタブノキや』ホソバタブ(クスノキ科タブノキ属ホソバタブ  Machilus japonica :別名「アオガシ」)『も似ているが、本種では葉の基部が葉柄に流れないのがよい区別点となる』。『材は器具や楽器、建材や薪炭などに用いられる。床柱に使われることもある』とあった。

「珊瑚樹」マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabuki 当該ウィキを見られたい。

「櫻桃(ゆすらうめ)」バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 。うす甘い、サクランボに似た味のする赤い実で知られる。当該ウィキによれば、漢字表記では「梅桃」「山桜桃」で、『俗名をユスラゴともいう』。『和名ユスラウメの由来について、植物学者の牧野富太郎の説によれば、食用できる果実を収穫するのに』、『木をゆするのでこの名がつけられたのではないかとしている』。なお、『現在では、サクラを意味する漢字「櫻」は、元々はユスラウメを指す字であった。ユスラウメの実が実っている様子を首飾りを付けた女性に見立てて出来た字である』とあった。

「皷《つづみ》の𣞙(たわ)」東洋文庫では、『鼓の胴』と訳してある。

「檣(ほばしら)の栓」「栓」は「蟬」の誤り。「日本船舶海洋工学会」のサイト「デジタル造船資料館」の『資料調査報告(No.12 : 20146月発行「フランス人の見た幕末・明治初期の和船」』に、拡大出来る画像とともに、『帆柱の頂部は堅木で出来た補強材(蝉挟み』(せみばさみ)『)が乘っており、揚帆索』『(身縄:みなわ)『用の滑車』である『蟬』(せみ)が『装着されている』とあったのが、それであると断定する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 奈岐乃木

 

Nagi_20240805075301

 

なぎのき  正字未詳

 

奈岐乃木

△按奈岐木髙二三𠀋老則皮自脫爲紅膚復次如此葉

 似竹葉而厚有縱理淺綠色表裏滑美甚強兩兩對生

 

   *

 

なぎのき  正字、未だ、詳かならず。

 

奈岐乃木

△按ずるに、奈岐の木、髙さ、二、三𠀋。老《お》≪ゆれば≫、則ち、皮、自《おのづかから》脫《だつ》して、紅膚《べにはだ》と爲《な》る。復《また》、次《つぐ》≪に≫、此くのごとし。葉、竹≪の≫葉に似て、厚《あつく》、縱理(たつすぢ)、有り、淺綠色。表・裏、滑(なめら)かに、美《び》なり。甚だ、強く、兩兩《ふたつながら》、對生す。

 

[やぶちゃん注:これは、私の好きな「梛」(なぎ)の木で、

裸子植物門マツ綱ナンヨウスギ目マキ科ナギ属ナギNageia nagi

である。今は亡き友人、杉山知子(旧姓:寺西)に捧ぐ。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『マキ属に分類されることも多かったが( Podocarpus nagi )、葉の形態や分子系統学的研究から別属とされるようになった。針葉樹の仲間であるが、葉は幅広く被子植物のように見える。種子は鱗片が発達した套皮で包まれて核果状になる。本州南部から台湾、中国南部に分布し、また世界各地の暖地で植栽されている。日本ではしばしば神社に植栽され、特に熊野権現との関わりが深い。「ナギ」の名は、葉がコナギ(古名はナギ)の葉に似ていることに由来するとされる』。『常緑性の高木であり、直立し、大きなものは高さ』二十五『メートル』、『幹の直径は』一・五メートル『に達する。葉が密生し』、『円形の樹冠を形成する。樹皮は平滑で黒褐色から灰褐色、あるいは紫褐色で、鱗片状に浅く剥がれてその跡は紅黄色になる。枝は半円柱状、小枝は対生し、硬く無毛、扁圧されている』。『葉は十字対生するが、葉柄がねじれて二列対生のように見える。葉身は針葉樹としては独特で、卵形から長楕円状披針形、全縁』二~九センチメートル『×』〇・七~三『センチメートル』で、『基部はくさび形、先端は切形、鈍形または鋭尖形。葉は厚く革質、無毛、中央脈はないが』、『基部で二又分枝し』、『先端で収束する細い平行脈が多数あり、表面は深緑色で光沢があり、裏面はやや白色を帯びる。葉は縦には容易に裂けるが、横にはなかなかちぎれない。葉と枝はともに無毛。根に根粒状の構造(窒素固定能は見つかってない)をもつ。冬芽は雄花、雌花ともに一年枝の葉腋につく』。『雌雄異株で』、『花期』は、三~六月。』『雄花』『は円柱状』で、『長さ』〇・五~二センチメートルであり、『数個がまとまって前年枝の葉腋に束生する』。『雄しべ』『(小胞子葉)には』二『個の『葯室』『(花粉嚢、小胞子嚢、雄性胞子嚢)がある。『雌花』『は前年枝の葉腋に単生し、有柄(長さ』四・五~)十三『ミリメートル』で、『数個の鱗片と』一『個の倒生胚珠からなる。種托は肥厚せず、種子は鱗片が肉質化した套皮(とうひ)で包まれ、球形で直径』一~一・五センチメートル、『粉白を帯び』、『最初は緑色だが』、八~十一『月に熟し、紫褐色になる。種子本体の基部は尖り、頂端は丸みを帯び、表面には点状のくぼみが密にある』。『日本の本州