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2024/08/25

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 威德院全元嘉瑞

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   威德院全元(ゐとくゐんぜんげん)嘉瑞(かずい)

 常通寺、脇寺、威德院、百年前の住僧を「全元」と云(いひ)、手習(てならひ)、子供、數々、指南す。

 梶浦孫作【今の孫作、祖父。】・瀨尾有閑【今の五郞衞門、祖父。】・森与兵衞【佐兵衞、祖父。】抔、手習に行(ゆき)し、と也。

 或時、庭の梅の木を、小蛇(こへび)、はひ上(のぼ)り、見る內に、尾の先、木の梢を、はなれける所に、須臾(しゆゆ)にして、寺中(てらうち)、大風(おほかぜ)にて、龍、起(のぼ)りける。

 其(その)折柄(をりから)、全元、長谷(はせ)へ登る支度(したく)最中成りしが、全元、甚(はなはだ)滿足にて、

「拙僧、長谷へ登る折から、かゝる嘉瑞の有(ある)事、直事(ただごと)に、あらず。我等、出世(しゆつせ)する瑞相也。」

とて、常通寺の現住「嚴唱法印」を初め、五臺山、其外(そのほか)、寺中(じちゆう)、數々、請招(せいせう)し、饗膳(きやうぜん)を取繕(とりつくろ)ひ、奔走し祝(いはひ)ける、と也。

 其後(そののち)、長谷へ登り、數年(すねん)、勤學(きんがく)、螢雪の功にて、昇進し、後には、「小池坊」の僧正に成(な)られける。

 右の梅、今、寺の式臺の前に、古木(こぼく)と成(なり)、朽(くち)て折(を)れけるに、近年、其根より、芽、立出(たちいで)て、存(そん)す、となり。

 

[やぶちゃん注:「常通寺、脇寺、威德院」「常通寺」は現在の高知市大膳町の東北部(現在の高知県立盲学校附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう)にあった真言宗賢法山(けんほうざん)悉地院(しっちいん)常通寺。本尊は千手観音。京都岩倉観勝寺(いわくらかんしょうじ:南禅寺南方直近の大日山の、この辺り)末寺。本書「南路志」によれば、元は岡豊(おこう:現在の南国市岡豊町(おこうちょう:この同町名を冠する複数の地区)にあり、賢法山悉地院安祥寺と称して、聖武天皇の御願によって行基が建立したとされる。その後、退転していたが、天文三(一五三四)年、長宗我部国親が再興し、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈等の七堂伽藍を建立、同十五年、国親の父兼序(かねつぐ)の菩提所とし、寺名も、その法号「覚誉常通」に因んで常通寺としたとされる。その後、長宗我部氏が大高坂(おおたかさ/おおたかさか)に築城を始めると(高知城の前身)、常通寺も石立(いしたて)村岩戸(いわど)に移り(現在の高知城南西の鏡川右岸の高知市石立町(いしたてちょう))、さらに山内氏入封後の寛永五(一六二八)年。小高坂(こだかさ)村(現在の高知城西方直近の高知市山ノ端町(やまのはなちょう))に移ったとする(平凡社「日本歴史地名大系」の「常通寺跡」の記載を、私が大幅に手を加えた)。「威德院」も当然、現存しない。

「全元」不詳。「百年前」とあるから、本書の完成は文化一〇(一八一三)年であるから、機械換算すると、正徳二(一七一二)年で、将軍は徳川家宣(同年十月病没)の治世。時代の家継の宣下は翌年三月。

「梶浦孫作【今の孫作、祖父。】」不詳。

「瀨尾有閑【今の五郞衞門、祖父。】」不詳。但し、土佐藩士系図に「瀬尾」は二家ある。

「森与兵衞【佐兵衞、祖父。】」不詳。但し、同前で、森与平が一家ある。

「長谷」知られた奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派総本山豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(はせでら)

「嚴唱法印」不詳。

「小池坊」長谷寺の本坊の別称。サイト「中世歴史めぐり」の「長谷寺 本坊」によれば、『本堂と谷を挟んだ南の高台にある』。『長谷寺復興のため豊臣秀長に招かれた専誉が入山した』天正一六(一五八八)年『の創建』で、『本坊は小池坊と呼ばれるが、専誉が根来寺の学頭時代の住居だった坊舎の名を受け継いでいるのだという』。『当初は本堂近くにあったが、第八世快寿が現在地に移』し、寛文七(一六六七)年、『四代将軍徳川家綱の寄進で再建』された。『護摩堂は三代将軍徳川家光の側室桂昌院の願いで造営されたのだという』。後、明治四四(一九一一)年『に焼失』し、『現在の建物は』大正八(一九一九)年『から』大正十三年『にかけて再建されたもの』であるが、『本坊・大講堂・大玄関及び庫裏・奥書院・小書院・ 護摩堂・ 唐門及び回廊・中雀門・土蔵・設計図面が重要文化財に指定されている』とあった。]

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