「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 土佐郡薊野山怪異
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。「薊野山」「薊野」は現行では「あぞうの」と読んでいるので、かく振った。グーグル・マップ・データの高知県高知市薊野で、高知市市街の東北直近の山間部で、東西と北を山に覆われた谷筋で、薊野山がどこなのかは、分からない。最も標高が高いのは、同地区の北西端である、「ひなたGPS」の国土地理院図の379.4メートルのピークである。]
土佐郡(とさのこほり)薊野山(あぞうのやま)怪異
齋藤平兵衞實純(へいべゑさねずみ)は、山崎嘉右衞門派の神儒の道を極め、生質(きしつ)、强精(きやうせい)にして、佛(ぶつ)を破り、怪異抔(など)は、曾(かつ)て、不用(もちひず)。薊野村に住ス。
或時、山の上へ、
「鴨(かも)の引鳥(ひきどり)を、網にて取(とら)ん。」[やぶちゃん注:「引鳥」以下の割注にある通りで、「秋冬に日本へ渡って来て、越冬した渡り鳥が、春になって、北方の繁殖地へと帰ること。」を指す。]
とて、晚景、山へ至る【此山は春に至り、北へかへる鴨を取(とる)所也。】。
此山には、魔所、有(あり)、人々、其所(そこ)を、よけて、鴨を待(まつ)也。
平兵衞、恐れず、人の不行所(ゆかざるところ)に、行(ゆき)て、待つに、入相(いりあひ)[やぶちゃん注:黄昏時。妖魔が時。]過(すぎ)て後(のち)、空に、大成(おほいなる)鳥の、羽(はね)、ひらめく。
則(すなはち)、平兵衞が上(うへ)也。
宻(ひそか)に望見(のぞみみ)れば、五間[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]斗(ばかり)の羽也。
得(とく)と、形を見る事、不能(あたはず)、惣身(さうみ)、すくみて、不動(うごかず)、漸々(やうやう)と、其所(そこ)を、はひ出(いで)、家に歸る。
後(のち)、人に語(かたり)て、
「世に、天狗抔(など)といふもの、無きにも、あらず。」
とて、笑へり。
[やぶちゃん注:「齋藤平兵衞實純」(?~元文五(一七四〇)年)は土佐高知藩士で国学者。斎藤実之の子。父の跡を継ぎ、借用奉行。後に浦奉行を勤める一方、前に出た谷秦山(たにじんざん)に神道と儒学を学んだ。平兵衛は通称。著作に「明君遺事」がある(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「山崎嘉右衞門」山崎闇斎(元和四(一六一八)年~天和二(一六八二)年)のこと。江戸前期の朱子学者・神道家で、名は嘉。嘉右衛門は通称。京の人。初め、僧となり、土佐で谷時中(たにじちゅう:谷秦山とは無関係)に南学を学ぶ。後、還俗し、失子学の純粋化・日本化に努め、門弟は数千人を数え、その学派を「崎門(きもん)学」派と称する。寛文五(一六六五)年、四十八歳で会津藩主保科正之に抱えられた。また、神道を修め、神道の「ツツシミ」に朱子学の「敬」を重ねた「垂加神道」を創始し、後世の尊王運動に大きな影響を与えた。著書に「垂加文集」・「文會筆錄」「中臣祓風水草(なかとみのはらへふうすいさう)」などがある。なお、前掲の谷秦山は、この闇斎の門人であった。]
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