「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 三谷山遊火
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]
三谷山(みたにやま)遊火(あそびび)
三谷山の遊火は、
「徃古(わうこ)はなかりしに、元祿・宝永の頃より、出(いづ)る。」
と云へり。
深更に及び、陽貴山(やうきざん)の「馬場先き縄手」に來り、又は、吸江(ぎうかう)の海上に來(きた)る。
又、城下へも來り、見たる者、數々、有(あり)、とぞ。
眼前に有(ある)か、と、すれば、須臾(しゆゆ)にして、五丁、十町[やぶちゃん注:五百四十五・五メートル~一・〇九一キロメートル。]斗(ばかり)、外(ほか)にあり。
其火、別(わか)つて[やぶちゃん注:ここは「べつして」の方が躓かない。]、いくつといふ事もなく、又、一つに集(あつま)る事、度々(たびたび)也。
吸江の海にて、夜釣する船に上(あが)りたる事、度々、あり。
人に害をなしたる事なけれども、人、行逢(ゆきあ)へば、恐(おそる)る也。
[やぶちゃん注:「三谷山」は「国土地理院図」のここの標高三百七十九・四メートルのピークがそこ。グーグル・マップ・データ航空写真では、ここで、南の「JR高知」からは、真北直線で三・二十七キロメートル位置(椎名峠の東方)であり、この山は、別に「土佐山」とも呼ぶ。但し、この山の北西域には地区名に「土佐山」を含む箇所が、かなり、広く存在するので、注意が必要。私は、この「三谷山」に限定して読む。
「遊火」これについては、私の記事では、古くは、「耳囊 卷之九 鬼火の事」で、最近では(と言っても三年前)、『「和漢三才圖會」卷第五十八「火類」より「㷠」(燐・鬼火)』の注で、同じウィキの「鬼火」を引いた中に、この記事を参考にしたと思われる解説がある。
「元祿・宝永」一六八八年十月二十三日から一七一一年六月十一日まで。徳川綱吉・家宣の治世。
「陽貴山」現在の高知県高知市薊野中町(あぞうのなかまち)にある臨済宗相国寺派の「陽貴山國淸寺」である。本「南路志」によると、寛永一八(一六四一)年に日讃を開山として二代藩主山内忠義(一豊の同母弟康豊の子)が牛頭天王(現在の東北直近の森の中にある掛川神社)の宮寺として建立し、寺領百石が与えられていたという(寺伝は慶長五(一六〇〇)年創建とする。しかし、当時の藩主は、まだ初代山内一豊であり、忠義は僅か満八歳であって、藩主就任は慶長十五年である)。創建当時は天台宗東叡山末で門主支配の寺であったという。
「馬場先き縄手」土佐国の城下の絵図を探したが、この寺の位置は、城下の東北で、調べたものでは、その区域が絵図外であり、確認出来なかった。
「吸江(ぎうかう)」地名。地区名は高知県高知市吸江(ぎゅうこう:グーグル・マップ・データ)。国分川(こくぶがわ)の左岸河口。拡大すると、ここに臨済宗妙心寺派五台山吸江禅寺(ぎゅうこうぜんじ)があるが、ここの地名は、元は、この寺の名(厳密にはこの寺の南西直近の入江の名)が由来である。当該ウィキによれば、鎌倉末期の文保二(一三一八)年、『夢窓疎石が』、『北条高時の母』『覚海尼による鎌倉への招請から逃れるため』、『四国に渡り、土佐国の五台山』(吸江の西後背に広がる山体。グーグル・マップ・データ航空写真を参照)『の山麓に結んだ草庵を起源とする』。『夢窓が草庵の前に広がる浦戸湾を「吸江」と命名したことで、草庵は吸江庵と称されるようになった』。『疎石は』二『年余りで吸江庵を離れたが、義堂周信や絶海中津などによって引き継がれた』。『夢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこともあって、室町幕府の厚い庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれた。室町時代には長宗我部氏が代々当寺の寺別当を務めた。江戸時代の慶長』六(一六〇一)年『には、土佐藩主山内一豊の命を受けた義子の湘南宗化』(そうけ)『により中興され、この』時、『寺号を吸江寺と改めて現在に至っている』とあった。]
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