「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同郡九樹村私雨(ワタクシアメ)
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題中の「同郡」は前話を受けるので、「幡多郡(はたのこほり)」である。]
同郡(おなじこほり)九樹村(くじゆうむら)私雨(ワタクシアメ)
幡多郡九樹(クジユウ)村に、「私雨(ワタクシアメ)」といふ事、有(あり)。
榎舩戶(えのきふなと)といふ所の近辺也。
昔、此所(このところ)にて、寺山(じざん)[やぶちゃん注:「寺山院(じざんゐん)」で寺の院号。]延光寺の住持、明俊僧正の、雨を祈りしに、即時、雨、降(ふり)ける。
それより、今に、折々、午時(うまのとき)に、霧雨(きりさめ)、降(ふる)と、いふ。
是を、里人(さとびと)、「私雨」と、いふ、よし。
文化五年三月四日、平道寺山へ行(ゆき)し時、延光寺の住持の、かたられしを、しるし、おきぬ。
又、榎舩戶といふは、明俊僧正、榎の杖を以て、
「我(わが)法力(ほふりき)、榮(さか)ゆるならば、此(この)榎、繁茂すべし。」
と、此所へ、さしければ、枝葉、繁茂せし、とかや。
「今に、大木(たいぼく)の榎あり。」
と、いふ。
[やぶちゃん注:「幡多郡」「九樹(クジユウ)村」現在の高知県四万十市九樹(くじゅう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。四万十川の右岸に流れ込む中筋川の右岸である。
「榎舩戶」「ひなたGPS」で戦前の九樹の附近を見たが、当該の地名は見当たらなかったが、周辺を眺めていたところ、九樹から南へ山を越えた場所に、高知県幡多郡三原村宮ノ川の「船ヶ峠」というのが、目に止まった。右の現在の国土地理院図にも地名として「船ヶ峠」の地域名として載る。不思議に思ったのは、「峠」で、細流れの川しかないこの峠が、「船」を地名に冠していることが、興味を引いたのである。そこで調べてみたところ、サイト「四万十町地名辞典」の『Vol.17 大川の渡し 「舟」地名』の「■船戸 行路の安全を守る岐神」を見出した。そこに、『高知県下の船戸の地名は、かつて行路の安全を守る道の神、岐神(ふなと)が祭られていたことであろうと述べ県内の船戸地名を次のように拾っている』として『土佐民俗選集Ⅱ「土佐地名覚え書き」』で現存する「船戸」地名を列挙し、『岐神は片足神であるということから草履の片足を奉納し、結願で』、『残り一方を奉納するという神社もある(土佐民俗選集Ⅱ)』と引き、『川は水運の要であるとともに』、『あちらとこちらを遮るモノでもあった。その遮断性を克服するのが、山は「峠」であり、川は「渡し」である。この「渡し」を地名に刻んだひとつが「船戸」である。船戸に関連した四万十町内の地名分布は、次のとおりである』とあって、細かなリストがあった。残念ながら、九樹地区のそれは、既に失われて久しいのであろう、載っていないけれども、以上の民俗信仰と「船ヶ峠」の存在から推して、必ずしも、「船戸」は河川の沿岸にあるものとは限らない祭祀地を示す宗教的な土地を示すものだったことが判ったのであった。
「延光寺」現在の高知県宿毛(すくも)市平田町中山にある「四国八十八ヶ所霊場第三十九番」である真言宗赤亀山(しゃっきざん)寺山院延光寺(右中央に「九樹」を配した。九樹地区からは六キロ圏内)。奈良初期の神亀元(七二四)年に聖武天皇の勅命で全国を行脚していた行基菩薩によって開山された寺。
「明俊僧正」僧名は「みやうしゆん(みょうしゅん)」と読んでおく。この僧正、樹木絡みの霊力を持った名僧らしい。「宿毛市」公式サイト内の「宿毛市史【古代編―式内社と仏教―】」の「寺山延光寺」に、現在の延光寺に什宝としてある「笑不動」の項があり、『清和天皇の貞観』一七(八七五)年、『京都御所の右近の橘、左近の桜が枯れそうになった。これを心配された天皇』(当時は清和天皇)『は名僧たちに』、『この木をよみがえらすよう命じ、祈祷させたが』、『効果がない。足摺蹉陀山』(さだざん)『の金剛福寺住職忠義和尚(坂本の生まれで南仏上人と称す)と、寺山の延光寺住職明俊僧正にも詔勅があったので』、二『人は同行して参内した。そして、宮廷の宝庫より巨勢金岡筆の不動明王の画像を出して祈願した』。七『日後の満願の日の明け方、橘と桜はよみがえった。その時、それまで難しい顔をしていた不動明王は、橘と桜がよみがえったので』、『にっこりと微笑した。それからこの画像を笑不動というようになった』。『天皇は非常に喜』ばれて、『何かほうびに欲しいものはないかと言った』。二『人の僧は、不動の画像を頂きたいといって、延光寺の明俊僧正は笑不動を、金剛福寺の忠義和尚は赤白不動の画像を頂き、持ち帰』って、『寺宝とした』『(笑不動縁起)』。『寺山の笑不動は』、『藩政時代』に『は、土佐の宝として藩から保護されていた』。しかし、『明治維新の廃寺』(おぞましい廃仏棄釈のことであろう)『の時から』、『行方不明となっていたが、現在では、延光寺に保存されている。昭和』三八(一九六二)年、『宿毛市の文化財に指定』された。『箱書きの銘に「笑不動」「御再興料金拾両拝領予時寛保三亥年霜月廿八日表具成就処延光寺中興恵巌京都表具師山本市兵衛」とある』とあった。
「文化五年三月四日」グレゴリオ暦一八〇八年三月三十日。
「平道寺山」不詳。「びやうだうじさん(びょうどうじさん)」と読んでおく。]
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