「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 濱田吉平幽霊
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]
濱田吉平幽霊
先年、浜田六丞(ろくじよう)と云(いふ)者、有(あり)。
延宝二年の頃、茨木平右衞門、安喜浦(あきのうら)嶋村、甚太夫、六人[やぶちゃん注:ママ。後注参照。]、浦々、銀取役に、橫目(よこめ)兼帶、不斷(ふだん)、浦〻、廽(まは)りし處、浜田六丞、吉井、平右衞門等(ら)、馴合(なれあ)ひ、公義の銀米(ぎんまい)を以(もつて)、手廽仕(てまはしつかまつる)處(ところ)、顯(あらは)れ、牢舍(らうしや)え、被仰付(おほせつけられ)、翌年、六月迄、色々、御吟味の上にて、右の者共、死刑に被仰付(おほせつけられ)ぬ。其身は勿論、子㐧(してい)迄も刑戮(けいりく)せられける。
[やぶちゃん注:ここで、複数の不審な疑問箇所を私なりに明らかにするために、ソリッドに注をする。長くなったので、前後を一行空けた。
「延宝二年」は一六七四年。家綱の治世で、土佐藩は第四代藩主山内豊昌(とよまさ)であった。藩主就任から僅か五年目の横領事件で、豊昌は剣術の達人であり、武術を奨励した人物であるから、この苛烈な処罰は納得出来る。
「安喜浦嶋村、甚太夫」ここで私が、読点を挿入したのには、慎重な配慮によるものである。これは、普通に読むなら、「安喜浦」の姓名が「嶋村甚太夫」とする人物の姓名と読まれるに違いない。しかし、そうすると、忽ち、以下で注する不整合が生じることになるのである。それに気づいた私は、前の二人は藩士であり、最後のこの「甚太夫」は、「安喜浦」の「嶋村」という村の、村内で村方役人を仰せつかった庄屋格の人物の名であろうと判断したのである。しかし、そのためには、江戸時代に、この「安喜浦」(あきのうら)に「しまむら」と読める村名がなくては、ならない。まず、「安喜浦」であるが、これは、旧「高知縣安藝町」であった現在の土佐湾に面した安芸(あき)市の江戸時代の海浜部を指す。平凡社「日本歴史地名大系」の「安喜浜村」によれば、正確には、当時は「安喜濱村(あきはまむら)」で、『安芸川河口付近は海上輸送の拠点ともされ、高知城下以東の政治・経済の中心地であ』った。『村名は』、『近世は安喜浜と記される場合が多いが、明治七年(一八七四)に安芸浜に統一された』とあった。そこで、調べてみたところ、ウィキの「安芸市」の「市町村合併と行政区域の変遷」の明治四(一八七一)年九月に実施された安芸郡行政区画全三十四区の中の、安芸郡第二十四区に含まれる村に『島村、別役村』(太字は私が附した。以下も同じ)を見出せた。次いで、明治二二(一八八九)年四月に行われた行政区画の町村制切り換え・合併のリストに、『奈比賀村、入河内村、黒瀬村、大井村、古井村、島村、別役村』が「東川村」(ひがしがわむら)となったことが判明する。そこでリンクされたウィキの「東川村(高知県安芸郡)」を見ると、『現在の安芸市の北東部、伊尾木川』(いおきがわ)『の上流域にあたる』とあった。そこで、今度は「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、ここで「東川村」を確認出来た。旧地図の東北部と南西部に「東川村」とあることから、かなりの広域の山深い一帯であることが判る。因みに、同じ箇所をグーグル・マップ・データの航空写真で見ると、この中央の南北の鬱蒼たる大森林地であることが判明する。点在する地名から、この地区は伊尾木川を導線として木材を切り出す生業に従事していた村落群であったと推定出来る。されば、この「甚太夫」は、そうした林業業者の元締めであったと考えてよかろうと思う。
「六人」「近世民間異聞怪談集成」で「六」を『(三)』とする補正傍注がある。国立公文書館本の当該部(24)では、正しく「三人」である。
「銀取役」各種の漁村・農村・山村の農民を束ねている連中から、営業許可料その他を徴収する役目であろう。
「橫目(よこめ)兼帶」目付に同じ。武家の職名で、諸士の行動を監察し、その不正を摘発する役職。その役も兼任しているのだから、横領・汚職はやり放題ということになる。
「吉井」突如、出る姓名で、一見、不審だが、これこそが、「甚太夫」の姓と採れば、問題がない。
「銀米(ぎんまい)」役料・手数料ばかりでなく、農村の米の年貢米をも横領していたのである。
「牢舍え」江戸時代を通じて、かなり高い確率で、「へ」の代わりに用いられるので、最早、誤りとは言えない。
「子㐧(してい)」「㐧」は「弟」の異体字。当時、極悪な犯罪では、血縁者の連座は必然であった。]
然(しか)る處、六丞㐧(おとと)、濱田吉平(きちへい)と云(いふ)者、有(あり)、浪人にて有(あり)ける。
男振(をとこぶり)、能(よき)若者にて、弓を、よく射(い)ける故、紀州へ弓修行に行(ゆき)、彼(かの)地に居(をり)ける故か、吉平事(こと)は、何の御構(おかまひ)も無く打過(うちすぎ)けるに、吉平、於紀州(きしうにおいて)、右の事を聞(きき)、甚(はなはだ)、不安(やすからず)思ひ、師匠へ斷(ことわり)を遂(とげ)て、國に歸(かへり)、陸目附役・橫山源兵衞方へ參(まゐり)、申(まうし)けるは、[やぶちゃん注:「陸目附」不詳。但し、古文書を見ると、確かに「陸目付」「御陸目付」という役職が、複数、確認出来る。読みは「をかめつめ」か。役職内容はよく判らぬが、古文書では、幕府から遣わされた人物にも、その肩書があるから、相当に藩内でも高位の目付であると知られる。]
「私(わたくし)義、濱田六丞㐧、吉平と申(まうす)者にて候。兄事(こと)、重き科(とが)を以(もつて)、死刑に被仰付奉(おほせつけたてまつられ)恐入(おそれいり)候。私義者(は)、他國に居(をり)申(まうす)都而(とて)、存不申(ぞんじまうさず)、此頃(このごろ)、於紀州承申候(きしうにおいてうけたまはりまうしさふらふ)故(ゆゑ)、急(いそぎ)、罷歸(かまりかへり)候。私義も、如何樣共(いかやうとも)可被仰付(おほせつけらるべし)。」
と屆(とどけ)ける。
右、源兵衞より、此趣(このおもむき)、早速(さつそく)、及言上(ごんじやうにおよび)けるに、志(こころざし)を感じ思召(おぼしめし)て、成敗(せいばい)を、御赦(おゆる)し、切腹被仰付(おほせつけられ)、直(ただち)に、源兵衞、檢使にて、切腹致(いたし)ける。
「切腹の時、脇差の刄合(はあひ)を見申(みまうす)。」
由(よし)にて、
「自(みづか)ら股(また)を、一刀、試み、見事に、切腹致し、無殘所(のこすところなき)手際成(なり)し。」
と也(なり)。
然(しかる)に、翌日、晝頃(ひるごろ)、源兵衞宅へ、案内(あない)乞ふ者、有(あり)て、申樣(まうすやう)、
「私義は、濱田吉平にて候。昨日者(さくじつは)御苦勞掛申(かけまうし)、忝存候(かたじけなくぞんじさふらふ)。申殘候(まうしのこしさふらふ)事、有之(これあり)、參(まゐり)候。」
と、申入(まうしいれ)ける。
源兵衞、甚(はなはだ)、あやしく思ひけれども、吉平に、紛(まぎ)れなし。
吉平、申けるは、
「只今、參候(まゐりさふらふ)事、別の事にあらず。紀州の師匠より、弓の許可の一卷を差越可申(さしこしまうすべく)、左候(ささふら)はゞ、封(ふう)のまゝ、火中(くわちゆう)、被成可被下候(なされくださるべくさふらふ)。右の段、申殘候故(まうしのこしさふらふゆゑ)、參(まゐり)候。」
と申ける故、源兵衞、
「如何にも。得其意候(そのい、えてさふらふ)。」
と請合(うけあふ)。
扨(さて)、源兵衞、申けるは、
「水漬(みづづけ)を參(まゐり)候へ。」[やぶちゃん注:「水漬」「水飯(すいはん)」。柔らかく炊いた飯を、冷水で洗って、白っぽくふやかしたもの。夏の食用とした。「みづめし」「水づけ」「水飯漬け」とも言う。]
とて、檜物屋(ひものや)より、新敷(あたらしき)榧(ヘギ)を取寄(とりよせ)、新敷茶漬碗に、水漬をして、先ヘ、塩を添(そへ)て、出(いだ)しけるに、二杯迄、喰ひ、歸(かへり)ける、と也。[やぶちゃん注:「檜物屋」原義は、檜物(ひもの:檜(ひのき)の薄板を円形に曲げて作った器を作る職人。後には、一般に「わげもの」(曲げ物)を広く称した)を作り売る家、また、それを生業とする者を指すが、次の展開から、その原材料である薄板を取り寄せたのである。「榧(ヘギ)」「經木(きやうぎ)」。に同じ。木材を薄く削ったもので、食品の包装などに使用する。やや厚めの厚経木は曲げ物などに使用され、ヒノキ・スギなどが多く使用された。昔、これに経文を書いたことから、この名が出たとされる。ここでは、前者。後で「先ヘ、塩を添て」とある「塩」を置いたのが、「先」が「へぎ」、薄板を指しているのである。驚くべき正確にしてリアルな描写ではないか!]
勝手に、下橫目(したよこめ)・五右衞門【平尾弥五右衞門の事也。】、同役、淸太夫【内田喜兵衞事。今の喜兵衞、祖父也。】、兩人、相詰(あひつめ)て居(をり)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、吉平、歸る跡を、慕ひ行(ゆき)けるに[やぶちゃん注:秘かに尾行して行ったところ。]、橫山氏は浦戶町(うらどちやう)に居(をり)けるに、門(かど)を出(いで)て、「𣟧屋(ひしや)」が橫町(よこちやう)を、南へ、行(ゆき)ける。龍見長庵(たつみちやうあん)宅の、椎の木の本(もと)にて、見失ひける。
𣟧屋は、昔、浦戶町、北の土手緣(どてぶち)に居(をり)たり。
右、濱田六丞抔の科人は、淡輪四郞兵衞(たんなわしろべゑ)、下役也。
此事(このこと)、「胎謀記事(たいぼうきじ)」に出(いづ)。
[やぶちゃん注:久しぶりに、実際にあった怪奇実話を読んで、非常に満足している。これは、稀れに見る、江戸の、徹頭徹尾、実録怪奇記録物で、ここまでリアルに書かれたものは、私の膨大な怪奇談の中でも、並び得るそれは、ちょっと見かけない。凄い!!!
「橫山源兵衞」サイト「四国インターネット」のこちら(検索での標題は「諸侍を方便討つ事」)の解説に出る『土佐介良』(けら)『城』(ここ:グーグル・マップ・データ)『主の横山氏の一族』の後裔であろう。
「平尾弥五右衞門」不詳。
「淸太夫【内田喜兵衞事。今の喜兵衞、祖父也。】」不詳。
「淡輪四郞兵衞」(?~元禄八(一六九五)年)は土佐藩家老で儒者であった野中兼山に認められ、万治元(一六五八)年、土佐高知藩の郷士となった。明暦かた万治年間の宇和島藩との境界争いでは、兼山を助けて働き、総浦奉行を務めた。著作に「淡輪錄」などがある。名は重信。姓は「たんのわ」とも読む(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」他に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここでは「たんな」と振る。
「浦戶町」現在の高知市浦戸(うらど)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。
「𣟧屋」不詳。
「龍見長庵」不詳。
「𣟧屋は、昔、浦戶町、北の土手緣(どてぶち)に居(をり)たり」吉平の霊が消えた場所が、よく特定出来ないのが、残念だが、「浦戶町、北の土手緣」となると、「ひなたGPS」で見ると、この中央附近で、そこから「南へ行」ったとあるが、戦前の地図を見ると、その真南は「南浦」という地名になって、その先は土佐湾、それも――湾のド真ん中――なのである! 陸から海へ歩いて黒潮寄せる南海へ姿を消す亡霊というエンディングも、これまた、見事ではないか!
「胎謀記事」同前の書のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。
さらに、いろいろ調べている内、最後に国立国会図書館デジタルコレクションで、トンデモない関連記事を見つけた。「皆山集」『土佐之国史料類纂』第六巻 (社会・民俗(一)篇)編集委員平尾道雄他・一九七三年高知県立図書館刊)の「第十章 怪異談」のここにある「三、濱田基地平亡霊ノ事」である(右ページ終りに「四、井上新蔵好春御不審のケ条を受神ニ祈願得免事」とあるのは、誤って印刷してしまったもので、これは、次の次のページの頭にあるべきものである。その証拠に、「552」ページの最後は「553」ページの初行と繋がっている)。さて、これは、冒頭に「心の錦」からの抄出とあるのだが、内容の大枠は、本篇と完全に一致する。しかも、次のページ(「554」)には、本記事を『此事甚怪異成事誠しからす』(ず)『思ふ人有へけれとも』(べけれども)『慥成事成』と記し、『平尾老人ニ一座して直説聞たり』と記すのである! この『平尾老人』とは、当然、本文に出る亡霊を追跡した『下橫目』の『五右衞門』『平尾弥五右衞門』その人であるのだ! そこには、まず、前に須崎吉平が紀州から舟で、現在の高知県須崎市に着き、目的を土地の役人に正直に語って、私を搦め捕って高知へ送って下さい、と言ったところ、その誠実に打たれ、『からめるに及事ニあらす』(ず)『横山源兵衛方へ送状遣し可候間直々被参候と申からめさ』(ざ)『るよし尤成事也』とあるのである!! そして――その後には――官庁にあった書簿が記されてあるのだ!――この浜田六丞ら三人の処罰は『延宝六年卯六月刎首獄門ニ懸候事』とあり、吉平は、吉井平右衛門の子『吉井兵四郎』とともに『同年切腹被仰之』とあるのである!!!
なお、この作品、私の好きな怪談作家田中貢太郎が「義人の姿」という題で現代語訳しているのだが、大昔に読んだので記憶になかった。というより、前半に部分を完全にカットして、生きている吉平が横山を訪ねてくるところから始まっており、今回、再読してみたが、この原古文を読んだリアルさは、望むべくもなく、ただの平板なクソ怪談目的の駄訳に終始していて、全く、ダメだ。因みに、「青空文庫」のこちらでそれは読める。]
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