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2024/09/01

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小野村百姓古法眼画

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ「古法眼(こほふげん)」(現代仮名遣「こほうげん」)とは、一般には、「父子ともに法眼に補せられた場合、その区別をするために父を指していう称」であるが、特に個人を指す場合、知られた室町後期の絵師で狩野家二代目の、正信の子狩野元信(文明八(一四七六)年~永祿二(一五五九)年)を指す。また、村名の「小野」の読みの「この」は、この通りで、現行の地名でも「おの」ではなく、「この」である。

 

   小野村百姓古法眼(こほふげんが)画

 先年、桐間家(きりまけ)の知行所(ちぎやうしよ)、吾川郡(あがはのこほり)小㙒(この)村の百姓の居宅、度々(たびたび)、夥敷(おびただしく)鳴動する事、有(あり)。

 始(はじめ)は、肝を、つぶしけるに、家內(かない)の者は聞馴(ききなれ)、更に怪(くわい)ともせず、打過(うちすぎ)ぬ。

 或時、廻国の執行者(しゆぎやうじや)[やぶちゃん注:ここでは「𢌞國の修行者」に同じ。]、來りて、一宿しける。

 其折柄(そのをりから)、如例(れいのごとく)、家、鳴(なり)ければ、執行者、驚き怪(あやし)みて、亭主に問(とふ)。

「いかなる事にて、家、鳴(なる)や。」

と、いふ。

 亭主、

「しかじか。」

のよし、語りける。

 執行者、聞(きき)て申(まうし)けるは、

「拙者、內々(ないない)、占ひを致すもの也。」

とて、吉凶を占(うらなひ)て、申(まうす)は、

「此家に、大切なる掛物類(かけものるゐ)、有(ある)べし。是(これ)を、打捨置(うちすておか)れぬる故(ゆゑ)、か樣(やう)に怪異あり。其(その)掛物を、何方(いづかた)へぞ、大身成(たいしんなる)方(かた)へ、讓(ゆず)られ、然(しか)るべし。しからば、此後(こののち)、家鳴り、止むべし。」

と云(いふ)。

 亭主、聞(きき)て、

「我等方(われらかた)に、左樣(さやう)の掛物類、無し。床(とこ)に、『十三佛』の掛物、有るまで也(なり)。」

と、いふ。

 執行者、聞(きき)て、

「其(その)『十三佛』成(なる)べし。見せられよ。」

と云(いふ)。

 亭主、

「安き事也。」

とて、見せける。

 幾年(いくとせ)か、狹(せば)き家の內(うち)に掛(かけ)て置(おき)、ふすぼりぬれば、何とも、見分難(みわけがた)し。

 されども、外(ほか)に何も無きならば、

「是成(これなる)べし。其許(そのところ)、地頭(ぢとう)あらば、此譯(このわけ)を申(まうし)て、地頭へ、上(あげ)らるべし。」

と申ける。

 亭主、

『實(げに)もや。』

と、思ひけん、則(すなはち)、將監殿(しやうげんどの)へ差上(さしあげ)けるに、

『奇特(きどく)。』

に思ひ玉(たま)ひ、褒美(ほうび)として、米を、二俵(にひやう)、被下(くだされ)ける。

 其後(そののち)、將監殿より、表具師(へうぐし)久六(【法體生計(ほつたいせいけい)といふ。】を呼(よび)て、

「此掛物、痛まぬ樣(やう)に、念を入(いれ)、洗ひ候樣(さふらふやう)に。」

云聞(いひきかせ)られける故、能(よく)洗ひげれば、大槪(たいがい)、繪形(ゑのかたち)、見へ[やぶちゃん注:ママ。]けるに、菅神(すがじん)[やぶちゃん注:菅原道真が御霊信仰で神霊となった天神のこと。]の尊像にて有(あり)ける。

 夫(それ)より、上方(かみがた)へ目利(めきき)に遣(つかは)されけるに、「古法眼(こほふげん)」の筆に極(きはま)り、彼家(かのいへ)の重寶(じゆうはう)と成(なり)けると也。

 又、同じ頃、同所の百姓、枯木に鳥のとまりたる、古き繪を持(もち)たる者、あり。

「是も、何(なん)ぞ、御用にも可立(たつべき)ものにや。」

と、云(いひ)て、將監殿へ差上(さしあげ)ければ、是も「古法眼」に極りて、同(おなじ)く、俵子(たはらご)を賜はりけると也。

 此事、黑田氏、物語にてありし。

 右天神(てんじん)の掛物は、今に、兵庫殿、尊崇(そんすう)にて、虫干(むしぼし)にも、居間にて、自身、手入(ていれ)し給ふ、とぞ。

 此事(このこと)、「胎謀記事(たいぼうきじ)」に見へたり。

 

[やぶちゃん注:「桐間家」知られた土佐藩家老の家柄である。

「吾川郡(あがはのこほり)小㙒村」現在の高知県吾川郡いの町(ちょう)小野この:グーグル・マップ・データ)。

「十三佛」これは、中国で作られた偽経による、ヴァラエティに富んだ地獄思想の冥途の裁判官である十王思想を中心として、その本地仏とする如来・菩薩・明王を対応させ、それらが、十三回の追善供養(初七日から三十三回忌)をそれぞれ司るものとし、主に掛軸にした絵を、法要を始めとして、諸仏事に於いて飾って、仏事をした、本邦の室町時代に独自に形成された日本仏教の風習に用いられる絵図である。十王と本地仏の対称と供養(当該十王の審理忌日)の表はウィキの「十三仏」を見られたい。その室町期の「十三佛圖」の掛軸の画像もある。

「地頭」江戸時代、旗本や各藩の地行所の領主のことを、かく、呼んだ。但し、彼らは、領有するものの、余程のことがあっても、領主自身が、その領地に出向くことは、まず無く、必要な実務対応は、総て部下が行った。

「將監殿」「將監」は、本来は近衛府の判官(じょう)の官名であるが、戦国から江戸時代にかけては、相応の地位にある武家の自分の名乗りに、よく使われた。土佐藩家老を歴任した桐間家の当主は、代々、幕末まで「桐間將監」を名乗っている。

「表具師」表具(紙や布を糊で張り付けること)を専業とする職人。掛物などの表具をする十四世紀末の裱褙師(ひょうほいし)が前身。十七世紀から、掛物のほかに屏風の張付や巻物の表具も行うようになり、十三世紀からあった経師(きょうじ:古くは、経や絵図等を書き写す職人のことを指したが、後に障子・襖・壁・天井などに紙や布を張る職人のことを言う)の仕事と重なり、表具師・表具屋と経師・経師屋は同じ業態となった。表具師は建具の襖や障子の紙張り・張り替えもするようになった。居職(いじょく:自宅で依頼された仕事をすること)が主である。

「法體生計」僧形であるが、一般の工人として生業を行って暮らしていることを言う。絵師・俳諧師等には多かった。

「黑田氏」土佐藩の黒田勝吉・黒田健家系図が残る。

「兵庫殿」不詳。しかし、以上の本篇の流れから見て、家老桐間家の誰かの名乗りと読める。調べてみたところ、土佐藩士で、大和流弓術の師範で、維新後の自由民権家宮地茂春の曾祖父であり、かの坂本龍馬の大叔父にあたる宮地信貞のウィキの、「補注」の「10」に、「潮江天満宮棟札」から、元禄二年八月二十一日(グレゴリオ暦一六八九年十月四日)、『大願主・土佐太守四位侍従松平土佐守藤原朝臣豊昌公。奉行・山内彦作信和、桐間兵庫義卓』(☜)、『孕石小右衛門元政、岡田嘉右衛門。作事役・島田三郎兵衛敦正。庄屋・宮地五助茂久』とあった。本書の完成は文化一〇(一八一三)年で百二十四年後であるが、桐間家の後裔が「兵庫」を名乗った可能性は強いと思われる。なお、「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示しておく。

「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

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