「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 谷秦山翁夢中之歌
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。原本では、上の罫線の外に頭書があり、『此條怪異部へ入ベカラズ』とある。この謂いは、無論、無視する。本篇、最初と最後に『「』と『」』があるのはママである。]
谷秦山(たにじんざん)翁(をう)夢中(むちゆう)之歌
「正德壬辰十月廿六日、谷秦山翁の夢に、
夕日さす日のくま川の河上に祝そ初る千世萬世を
といふ哥(うた)を見られし。
此竒(このき)、正面は吉夢の樣(やう)なれども、翁の心に不叶(かなはず)、世を早くせん事を、兼(かね)て、はかり知られ、萬事(ばんじ)に付(つき)て、心を用(もちひ)られし、と也。
夢より、七年のゝち、沒す、とかや。」
[やぶちゃん注:「谷秦山」(寛文三(一六六三)年~享保三年六月三十日(一七一八年七月二十七日))は儒学者・神道家。当該ウィキによれば、『名は重遠(しげとお)、通称は丹三郎、』秦山は号。『岡豊八幡(現・高知県南国市)の神職の』三『男として生まれる』。十七『歳の頃』、かの朱子学の一派「崎門学」(きもんがく)の創始者にして、また、「垂加神道」の創始者としても知られる『山崎闇斎・浅見絅斎につき、朱子学・神道学・暦学を学び』、三十二『歳の』時、『渋川春海について天文・暦学を学び、土佐南学を大成させるが』、四十五『歳の時』、第六『代土佐藩主の跡継問題で』、『無実の罪を受け』、『土佐山田の地に蟄居させられ』た。『土佐南学の学問は、長男垣守、孫真潮にも受け継がれ』、『門下生からは多くの人材が育ち、勤王運動に大きな影響を与えた』とあり、「香美市観光協会」公式サイト内の「谷秦山」のページには、より細かな事績が語られてあるので、読まれたい。
「正德壬辰十月廿六日」正徳二年十月二十六日(グレゴリオ暦一七一二年十一月二十四日)は、形式上は家宣の治世だが、実は家宣は十二日前の正徳二年十月十四日(一七一二年十一月十二日)に没している。次の第七代将軍として家継が宣下されたのは翌年四月二日のことであった。当時、家継は、僅か、数え五歳であった。
「夕日さす日のくま川の河上に祝そ初る千世萬世を」全部、平仮名で示す。
*
ゆふひさす
ひのくまかはの
かはかみに
いはひぞそむる
ちよよろづよを
*
「七年のゝち」数え年と同じで、当該起年を足してあるのである。]
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