「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久礼㙒村雨乞
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。前までと同じく、前回の雨乞繋がりで、それ以前の龍譚とも関連する。]
久礼㙒村(くれのむら)雨乞(あまごひ)
久礼㙒村に、阿彌陀堂、有(あり)。其所(そのところ)を「圓滿寺」と云(いふ)。昔、圓滿寺、有(あり)て、今は退轉也。此阿彌陀は、則(すなはち)、本尊也。
境内に、池、有(あり)、「阿彌陀が池」と云(いふ)。
此堂に、鍔口(わにぐち)、有(あり)。
「旱魃(かんばつ)の時、鍔口を、『阿彌陀が池』へ入(いれ)て、雨乞をすれば、忽(たちまち)、雨、降(ふる)。」
と、いふ。
其鍔口の銘。
「一宮庄上久礼㙒禪樂寺 文安元甲子八月日円滿 大工 攝州 瓦森末」[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」は「州」を『列』と字起こしして、補正傍注で『(州)』としているが、これは崩し字の知識が足りない。これはれっきとした「州」の崩し字(「人文学オープンデータ共同利用センター」の『「州」(U+5DDE) 日本古典籍くずし字データセット』)である。]
[やぶちゃん注:「久礼㙒村」現在の高知県高知市久礼野(グーグル・マップ・データ)。
「阿彌陀堂」跡地も現存しないので、場所不明(池も残ってないか)。但し、平凡社「日本歴史地名大系」の「久礼野村」によれば、『三谷(みたに)村の北東にあ』った『山間の村。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「東西二十五町余南北一里余」「其土黒」と記し、属村として入定谷(にゅうじょうだに)村をあげる。村の中央の盆地部を周囲の谷水を集めた久礼野川が西流し、北西の入定谷より流れ出る入定谷川と合流、さらに西流して重倉(しげくら)川と合流する』と記した後に、『文安元年(一四四四)八月日付久礼野村阿弥陀堂鰐口銘(古文叢)に「一宮庄上久礼野」とみえ、中世は一宮(いっく)庄に含まれていたと思われる』とあった。
「一宮庄上久礼㙒禪樂寺 文安元甲子八月日円滿 大工 攝州 瓦森末」訓読しておくと、「いつくみやしやう かみくれの ぜんらくじ ぶんあんがん(年)かつしはちがつにちゑんまん(「吉日」に同じ) だいく せつしう かはらもりすゑ」。「禪樂寺」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、寺の記号は同地区には見当たらない。国土地理院図の方でも、ない。一つ、先の引用にも出るが、同地区の西北の山間に「入定」(にゅうじょう)という地名があるのは、気になる。「文安元甲子八月」は室町時代の、義政が征夷大将軍に就任する前の六年の空位状態の初年で、グレゴリオ暦換算で同八月は一四四四年九月二十一日から十月二十日に相当する。]
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