「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 香我美郡山北村笑男
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]
香我美郡(かがみのこほり)山北村(やまぎたむら)笑男(わらひをとこ)
樋口關太夫(せきだいふ)は、知行三百石にて、船奉行、勤(つとめ)ぬ。
土佐國、「勝賀瀨山(しやうがせやま)の赤頭(あかがし)ラ」・「本山(もとやま)の白姥(しろうば)」・「山北(きたやま)の笑ひ男」とて、三ツの怪獸、有(あり)ける。
關太夫、知行所、山北に有(あり)ければ、或時、殺生(せつしやう)に行(ゆき)、山へ入(いら)むとせし時、百姓共、申(まうす)は、
「今日(けふ)、山へ御出(おいで)は無用に存(ぞんじ)候。所の者ども、申傳候者(まうしつたへさふらふは)、『一九十七(いつくじふしち)』と申(まうし)て、『月に朔日(ついたち)・九日(ここのか)・十七日(じふしちにち)には、此山へ入候得(いりさうらえ)ば、必(かならず)、「笑ひ男」に逢ふ。』とて、『半死半生の仕合(しあはせ)に罷成(まかりなる)。』と申候。」
と、いへば、關太夫、聞(きき)て、
「我等、役目に、『二月九日に舩を出(いだ)さぬ。』と云(いへ)る事は、あれども、『山へ不入(いらず)。』と云(いふ)事は、なし。今日(けふ)、九日也(なり)とて、何の遠慮の有(ある)べきぞ。」
とて、家來一人(ひとり)、召連(めしつれ)、山へ登りぬ。
山腹(さんぷく)を往來して、雉(きじ)を、ねらひけるに、一町[やぶちゃん注:約百九メートル。]斗(ばかり)向ふの松林の端(はし)に、十五、六歲の小童(しやうどう)、出(いで)て、關太夫に、指をさして、笑ひける。
次㐧(しだい)に、笑聲(わらひごゑ)、髙く成(なり)、小童、近(ちかづ)く程(ほど)、山も、石も、草木、みな、笑ふ樣(やう)に見へ、風の音、水の音迄も、大笑(おほわらひ)に響(ひびき)ければ、關太夫主從、坂を下り、迯歸(にげかへ)る。
「此笑聲、大忍鄕(おほさとがう)迄も、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。」
と也(なり)。
家來は、麓にて、氣(き)を塞(ふさ)ぎぬ。
百姓共、迎(むかへ)に來りて、無事に歸(かへり)けるが、其年過(す)ぎ、關太夫、病死するまで、耳の底に、笑ひ聲、殘りて、不斗(ふと)、其時の事、思出す時は、鐵砲、打込(うちこむ)やうに有(あり)し、とかや。
[やぶちゃん注:「香我美郡(かがみのこほり)山北村(やまぎたむら)」現在の高知県香南(こうなん)市香我美町山北(かがみちょうやまきた:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ。なお、現在は「やまきた」と清音であるが、ウィキの「香我美町山北」によれば、『かつて同区域に存在した香美郡山北村(やまぎたむら)』とわざわざ太字にしてあるので、古くは「やまぎた」と読んでいたことが判る)。この旧郡名は「香美郡」・「香我美郡」・「加々美郡」などとも書いたが、当該ウィキによれば、『郡名は「鏡」に由来すると言われ』、現在の同市の『香我美町』を冠する多数の地区は、『その名残であ』るとある。ここ一帯に確認出来る。
笑男(わらひをとこ)
「樋口關太夫」不詳。
「勝賀瀨山(しやうがせやま)の赤頭(あかがし)ラ」現在の高知県吾川(あがわ)郡いの町(ちょう)(三村が二〇〇四年に合併して、その中の「伊野村」の名を継承して、ひらがな化したもの)の勝賀瀬地区。「勝賀瀨山」の山名は確認出来ないが、同地区内のピークとしては、「ひなたGPS」の国土地理院図の「602.8」が有力候補となろうか。「赤頭(あかがし)ラ」は、当該ウィキがあるので引く(注記号はカットした)。『土佐国吾川郡勝賀瀬(現・高知県吾川郡いの町)に伝わる妖怪。赤い髪が太陽のように輝き、あまりに眩しくて』、『ふた目と見られないほどという』。二『本足で歩くが、その足元は笹やカヤなど草むらに隠れてよく見えず、人に危害を加えることもないという』。『江戸時代末期から明治時代初期にかけての作と見られる妖怪絵巻』「土佐化物繪本」には、「勝賀瀨の赤頭」『として記載されており、「山北の笑い女」「本山の白姥」と並んで土佐の』三『大妖魔の一つとされる。勝賀瀬』『で』、『ある者が』、『これに出遭い、朝日に向かったかのように再び見ることができなくなり、赤頭のもとを立ち去った後で』、『眼病を患って』、『失明しかけたが、手当てを受けてようやく治癒したという』。『江戸時代の』知られた『妖怪絵巻』である「百鬼夜行繪卷」にも『「赤がしら」という妖怪の絵が描かれている。同絵巻には名前と絵が記載されているのみで、どのような妖怪かは判明していない。赤い髪という特徴が土佐の赤頭と似ているのではないかとの指摘』『も存在するが、推測の域を出ていない』とする。同前者の絵本の絵もある。
「本山(もとやま)の白姥(しろうば)」「本山」は現在の高知県長岡郡本山町(もとやまちょう)。「ピクシブ百科事典」の「白姥」「しろうば」がある。それによると、『「勝賀瀬の赤頭」「山北の笑い女」と並ぶ土佐の』三『大妖魔の一つ』で、『「本山の白姥」として江戸末期~明治初期作の』「土佐化物絵本」に『名が掲載されているが、その姿やどのようなことをする妖怪なのかは一切不明である』。『白髪で白い服を着た老婆の姿が想像されているが、他の』二『者は妖怪画が存在しており、白姥のみ「土佐国三ツの妖魔随一本山の白姥」という紹介文しか記載されていないことから、名前しかわからないという設定自体が』現実安定世界を揺るがすところの『キモ』い『怪異である可能性がある』。『その他』、二『者の特徴である赤頭の赤、笑い女の若さとの対比という線も考えられる』。『もしかしたら今風の表現で言えば、認識阻害のスキルを持っているのかもしれない』と、判ったような、判らん記載である。
「山北(きたやま)の笑ひ男」ウィキには、「笑い女」を標題として、同様の妖怪が記されてある。『笑い女(わらいおんな)は、土佐国山北(現・高知県香南市)に伝わる妖怪。江戸時代末期から明治時代初期の作と見られる妖怪絵巻』「土佐化物繪本」に『記述がある。毎月』一日・九日・十七『日に山に入るとこれに遭い、半死半生になってしまうといわれた。「勝賀瀬の赤頭」「本山の白姥」と並び、土佐の』三『大妖魔の一つとされる』。『あるとき、樋口関太夫という者がこの言い伝えを無視し、家来たちを引き連れて山に入ったところ』、十七、八『歳程度の女性が関太夫を指差』(ゆびさ)『して笑っていた。次第に笑い声が高くなり、周りの石、植物、水、風までもが』、『大笑いしているように笑い声が轟いた。関太夫たちは慌てて逃げ帰った。家来たちは麓で気絶したものの、関太夫はどうにか無事帰還した。関太夫が死ぬまで、あの笑い声は耳に残っていたという』。『なお、文化時代の土佐の地誌』「南路志」(本書のこと)『に、これとまったく同じ物語があるが、題は「笑い男(わらいおとこ)」であり、登場する妖怪は女性ではなく、十代半ばの少年とされている。逃げ帰った関太夫が後にその笑い声を思い出すときには、耳に鉄砲を撃ち込まれたような音がしたという』。『「笑い女」の名の妖怪は、同じ高知の幡多郡宿毛市』(ここ)と旧『土佐郡土佐山村』(現在の高知県高知市土佐山)『にも伝わっており、夜の深山で姿を見せずに笑い声をあげるものといわれる』。『芸西村白髪』(ここ)『では、タカサデ山という場所に』二『人の老婆が山菜を採りに行くと、若い女が現れて笑い出し、老婆たちも』、『つられて笑い、女がいなくなった後も笑いこけ、その挙句に何日も熱病に侵されたという』(これはフウセンタケ科のオオワライタケやシロシビンを成分に持つオキナタケ科のワライタケ、ヒカゲタケなどの幻覚性キノコの摂食中毒症状と断定出来る。この手の擬似怪談は枚挙に遑がないが、よく纏めてある「柴田宵曲 妖異博物館 茸の毒」を強くお勧めする。以上の毒キノコの分類学名も、そこの私の注で示してある)。『香我美町(現・香南市)』(既に示したここ)『では、笑い女を退治した際に用いたという剣が、土居城の跡地』(ここ)『のツルギ様という祠に祀られている』。旧『土佐山村(現・高知市)では、笑い女は麦の熟す時分に現れるという』。旧『西土佐山村』(ここ)『では、山女郎が人前に現れて大笑いし、一緒に笑うと食われるといわれる』。『タヌキが笑い女の正体とされることもある』。『鳥山石燕による江戸時代の』著名な妖怪画集「今昔百鬼拾遺」に『「倩兮女(けらけらおんな)」という妖怪があるが、笑い声が恐怖を与えるという設定で描かれた妖怪であり、笑い男や笑い女と同種のものと解釈されている』とある。「土佐化物繪本」の「笑い女」の絵もある。個人的には、少年の方が、私は、いいな。
「二月九日に舩を出(いだ)さぬ」不詳。理由も、そのような記録も見出せない。
「大忍鄕」ここは、平凡社「日本歴史地名大系」によれば、『中世末期には大忍郷を中心に広範な地が』、『紀州熊野社を領家とする荘園』であったとし、『現香我美町』(既に示したここ)『を中心に、土佐山田町』(ここ)『の東南の一部、香北町』(ここ)『の南部、および安芸郡芸西(げいせい)村』(ここ)『の北部にわたる』とあった。]
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