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2024/08/22

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 槿花宮

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。なお、底本では、途中の「或書に云、……」の部分が、行頭から始まっているが、明らかに、続いた記載であるからして、無視して、繋げてある。「近世民間異聞怪談集成」でもそのように処理されてある。]

 

   槿花宮(きんくわきゆう)

 窪川(くぼかは)に「飴牛ヶ渕(アメウシがふち)」と云(いふ)有(あり)。

 其(その)川下(かはしも)に「鵜(う)の江(え)」と云(いふ)小(ちさ)き山、川中(かはなか)に有(あり)。水は、兩方へ、流るゝ也。

 土佐の言傳(いひつた)へは、「徃古(わうこ)、『仁井田五人衆(にゐだごにんしゆ)』の内、西京氏の息女、嫉妬、ふかく、右の渕に身を投(なげ)て、死(しし)ける。」と也。

 今に七月七日、右(みぎ)「鵜の江」に、旗など、過分(かぶん)、拵(こしら)へ、「施餓鬼」する、と也。

 右の女の墓の近邊へ行(ゆく)者あれば、忽(たちまち)に祟(たたり)ける故、恐れて行(ゆく)者、なかりし。

 法名、「槿花妙榮(きんくわみやうえい)」と云(いひ)、今に、位牌、其邊(そのあたり)の寺に有(あり)、とぞ。

 或書に云(いはく)、

『幡多郡志和城主和泉守の女(むすめ)は、容色無双の美人也。

 西原藤兵衞重助、娶(めとり)て、比翼のかたらひなる所に、或時、夫(をつと)藤兵衞に申(まうし)けるは、

「吾に怪しき事、有(あり)。暇(いとま)を賜り候へ。」

と、淚を流し、いひけるに、藤兵衞、

「是は。心得ぬ事を、きくも[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本の当該部(19)では「の」がある。脱字。]かな、異心(いしん)有(あり)ての事可成(なるべし)。」

と云へば、妻の云(いはく)、

「恥敷(はづかしき)事なれども、夜毎(よごと)に、吾、寐間(ねま)へ通ふ者、有(あり)。夢とも、現(うつつ)ともなく、忍び入りぬ。彼(かの)者、歸れば、夢の覺(さめ)たる樣に覺へ侍りぬ。其(その)移り香(が)、腥(ナマグサク)覺へ[やぶちゃん注:ママ。]候。いか成(なる)化生(けしやう)の所爲(しよゐ)にや。淺間敷(あさましく)覺え候へば、暇乞(いとまごひ)し侍る。」

と、聲を揚(あげ)てぞ、泣(なき)けれ。

 藤兵衞、

「扨(さて)も。不思義[やぶちゃん注:ママ。]成(なる)事の有(ある)ものかな。」

とて、祈禱抔(など)して在(あり)けるところは[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本の当該部(20)では、「か」とあり、「が」で躓かない。]、大永七年三月廿二日未刻(ふつじのこく)斗(ばかり)の事成(な)るに、女房、藤兵衞に向ひ、世の中の、はかなき事抔、語居(かたりをり)けるが、何心なく立(たち)て、

『緣(えん)の方(かた)へ行(ゆく)よ。』

と、見れば、庭の木の梢を、平地(ひらち)を行(ゆく)が如く、步(ありき)て、塀(へい)の上に立(たち)ける。

 藤兵衞、驚き、走り掛(かか)り、引留(ひきとめ)んとすれば、

「さらば。」

と云(いひ)て、塀より、飛落(とびおつ)るを見れば、廿尋(ひろ)斗(ばかり)の大蛇と成(なり)、渕の底に、入(いり)ける。

 藤兵衞は、斯(かか)る姿を見れも[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本の当該部(20)では「とも」とあり、「ども」で躓かない。]、流石に、名殘(なごり)、をしまれて、十方(とはう)に暮(くれ)て、歎(なげき)ける。

 斯(かく)て、程へて後(のち)、女房の父和泉守が召仕ふ次郞助といふ下部(しもべ)、草刈(くさかり)に出(いで)、川上にて、鎌を落(おと)したりければ、尋𢌞(たづねまは)るに、覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、廣き㙒(の)に出(いで)たる。

 見馴(みなれ)ぬ所成(な)れば、足にまかせて行(ゆく)に、大成(おほきなる)築地(ついぢ)、有(あり)。

 門(かど)を初(はじめ)、家作(かさく)・結構、いふ斗(ばかり)なし。

 門內(かどうち)に、人、なければ、奧へ立入(たちいる)所に、一人の女、機(はた)、織(おり)けるが、

「それなるは、次郞助か。」

と、言(いふ)を見れば、藤兵衞が妻也。

 次郞助、驚き、

「何迚(なにとて)、爰(ここ)に渡らせ給ふぞ。君(きみ)の失させ玉ひて後(のち)は、御兩親の御歎(おんなげき)にて、御母君(おんははぎみ)は、終(つひ)に、歎き死(じに)に失玉(うせたま)ひぬ。御供して、歸らん。」

と申しければ、淚を流し、

「我、斯く成(なり)て後(のち)は、親の御歎、推量(おしはかり)、し、明暮(あけくれ)、悲敷(かなしく)思ふぞよ。去れども、前世(ぜんせ)の宿業(しゆくがふ)なれば、力(ちから)、なし。責(せめ)て、此有樣ながら、命(いのち)、ながらへ、子供、繁昌して有(ある)事を知(しら)せ度(たく)、今日(けふ)は、爰(ここ)の殿(との)も、『あみやうし殿』とて、是より、廿丁[やぶちゃん注:二・百八十二キロメートル。]斗(ばかり)、北に、『あみやうしが渕』の主(あるじ)也。それへ、慰(なぐさめ)に、眷属、引具(ひきぐ)し行(ゆか)れたり。能(よき)隙(ひま)成(な)れば、汝に此所(ここ)をも見せ度(たく)、汝が鎌を、隱せし也。其鎌は、此梯(きざはし)[やぶちゃん注:豪壮な邸宅であるから、「階段」の意で採った。]に掛(かけ)て有(あり)。取(とり)て歸(かへり)、父君(ちちぎみ)へ、此有樣(ありさま)を申上(まうしあげ)よ。構へて、他人へ、語るな。」

と、申ければ、次郞助、

「御子達(おこたち)は、いづくに御座候。」

と、申ければ、

「晝寐して居(を)る也。」

と、いふを、見れば、小蛇、いくらともなく踞(ウヅクマ)り臥(ふし)て、有(あり)。

 身の毛もよだつ斗(ばかり)なれども、さらぬ躰(てい)にて、

「いざ、殿の御留守の間に、古鄕(ふるさと)へ歸らせ玉へ。御供仕(つかまつ)らん。」

と、申しければ、女房、淚に、むせび、

「吾も、さは、おもへども、再び、人界(じんかい)へ歸る事、成らぬぞよ。汝は、殿の歸らぬうちに、急ぎ、歸れ。」

とて、川端に出(いで)ける。

 顧(かへりみ)れども、來りし道も、なく、その行衞(ゆくへ)は、なかりける。

 藤兵衞、是を聞(きき)、

「扨は。蛇道(じやだう)に落ちたる事の淺間敷(あさましく)、責(せめ)て、其(その)苦(くるしみ)を助(たすけ)ん。」

とて、祠(ほこら)を建(たて)、「槿花の宮」とぞ、号(なづけ)ける。

 女(むすめ)の父和泉守も、悲(かなし)みに堪へず、「志和の里」に、天神の宮、有(あり)けるを、一座に、祭り籠(こ)めて、「北㙒天神」・「今天神」とて、社壇を双(なら)んで、祭(まつり)ける。

 其後(そののち)、蛇道を免(まぬか)れたる託宣有(あり)しを、諸人(しよにん)、聞(きき)し、と、言傳(いひつた)へり。』。[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]

 

[やぶちゃん注:戒名中の「槿」は、今なら、双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus を指すが、疑問がある(最終注で出す)。

「窪川」現在の高知県高岡郡四万十町窪川(グーグル・マップ・データ)。次の注で示した「五社神社」の対岸(四万十川右岸)に当たる。現在は、地名としては、極めて狭い猫の額ぐらいしかない地区のように見えるのだが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、この四万十川が蛇行する右岸の非常に広い地域が、嘗つては、大きな「窪川町」であったことが判る。

『「飴牛ヶ渕(アメウシがふち)」と云(いふ)有(あり)。其(その)川下(かはしも)に「鵜(う)の江(え)」と云(いふ)小(ちさ)き山、川中(かはなか)に有(あり)。水は、兩方へ、流るゝ也』この淵名や山名(この場合は四万十川の流れの中にある岩礁帯か砂州の名である)確認出来ない。しかし、上流の五社の方から下流の窪川附近の流れを「ひなたGPS」の戦前の地図を拡大すると、二つのそれが、有意に確認出来る。ここをグーグル・マップ・データ航空写真で見ると、ここである。さらに、上流のそれを拡大すると、ほぼ完全な岩礁であり、今はかなり平たく小さく、上流部は、かなり細かく風化が著しいことが判る。一方、その直近の下流の大きな方は、直線で図ると、四百メートルはある巨大な川中の島であり、人手は入っていない様子である(但し、現在は高くはない。ストリートビューで国道三百二十二号から見たが、はっきり見えない。グーグル・アースで見ても、完全な平地(基底は岩礁らしい)である)。通常、淵は、こうした蛇行した川中の岩礁の下流に形成され易いから、私は、この二つの箇所の下流のどちらかに、「飴牛が渕」はあったと考える。そして、『其川下に「鵜の江」と云小き山、川中に有』とあるからには、二つの川中の「島」の間(この中央)に、「飴牛が渕」があって、『「鵜の江」と云小き山、川中に有』というのが、下流方の大きな島を指すものと考えるものである。なお、「飴牛」とは飴色の毛色の牛のことで、上等な牛とされた。

「仁井田五人衆」個人サイト「山車・だんじり悉皆調査」の、高知県高幡地域の四万十町のリストの中の「高岡神社」の項で、『高岡神社は、五社さんともいわれ』る『五つの神社の集まり』で、『元は』、『仁井田大明神と言われる一つの社だったのを弘法大師が、五つの社に分けたと言われて』おり、『それぞれの神社は、独立した神社で戦国時代に仁井田(旧窪川町)を治めていた仁井田五人衆と言われる武家の神社で』あるとされた上で、『一の宮(東大宮)仁井田五人衆の東氏』、『二の宮(今大神宮) 仁井田五人衆の西氏』、『三の宮(中宮)仁井田五人衆の窪川氏』、『四の宮(今宮)仁井田五人衆の西原氏』、『五の宮(森の宮』、『又は、聖の宮)仁井田五人衆の志和氏』とあった。而して、「近世民間異聞怪談集成」では「西京氏」に編者による、「京」は『(原カ)』という右傍注が打たれてあり、さらに、国立公文書館本の当該部(19)では、はっきり「西原」とあるので、誤写決定である。この五社は、現在の四万十町仕出原(しではなら)の四万十川上流の右岸にある。グーグル・マップ・データで総て入るように示した。

「其邊の寺」最も近いと思われる寺院は、四国八十八ヶ所霊場第三十七番札所岩本寺であるが、同寺東の近くに日蓮正宗の開教寺もある。

「幡多郡志和城主和泉守」人物は判らぬが、この「志和城」は、先に調べたロケーションから、凡そ実測で四キロメートルほど、上流の、現在の高知県高岡郡四万十町七里(ななさと)にある「志和分城跡」がある(グーグル・マップ・データ)。「城郭放浪記」の当該城のページよれば、城主は西松兵庫とあった。別に志和城があったようだが、見つからなかった。

「西原藤兵衞重助」筑後守氏のサイト「長宗我部元親軍記」の「西原重助(生没年未詳)」に、『吉村(西原)清延の次男。清延は紀伊の住人だったが』、『土佐に来て一条氏に仕え』、『西原城主になったという』。『重助は長兄・則重と』、『その息子・重吉が、一条氏に従い』、『伊予で戦死したため』、『西原氏を継いだ』とあり、実在した人物でることが確認出来た。

「大永七年三月廿二日未刻」グレゴリオ暦換算で一五二七年五月七日午後一時から三時。因みに当時の将軍は足利義晴。

「あみやうし殿」冒頭に出た淵の名「飴牛ヶ渕(アメウシがふち)」の発音のズラしである。所謂、怪奇談でよく見られる呼称の呪的なズラしであって、現世の人間界とは異なる蛇道の異界の存在であることを示すための異読名称である。「古事記」の昔から、相手の名を正しく呼ばわった瞬間、その相手を征服出来るという「言上(ことあ)げ」に基づく呪術である。

『「志和の里」に、天神の宮、有(あり)けるを、一座に、祭り籠(こ)めて、「北㙒天神」・「今天神」とて、社壇を双(なら)んで、祭(まつり)ける』前にも紹介したサイト「四万十町地名辞典」の「志和」に、志和の『字「堂ケ原」は、元親の時代に槿花の宮があったところ(志和物語p28)』とあり、『地名の疑問』の中に、『2)槿花天神(今天神)』として、『槿花宮「おまん」の昔話は、鵜の巣の蛇界話だけでなく、志和轟の滝壺の大蛇秘剣の話、黒石・岡崎の山犬と鏡の話など数多い。今は天満宮の(北野天満宮)の境内へ』、『その尾の霊を祭ったものという。果敢ない槿(むくげ)の花の運命になぞらえて「槿花天神」と名付けた。槿花天神宮は弘見地区にもある』とする(この弘見地区はここで、目出度く「槿花天神社」も現存していた! ここはまさに、「窪川」と「志和」の中間地点に当たる。孰れもグーグル・マップ・データ)。『「高知県神社明細帳」の郷社・天満宮の段、及び窪川町教育委員会発行の「窪川町史蹟と文化財(p55)」に槿花天神の段として詳しく述べられている』。『「土佐一覧記」で川村与惣太は槿花を「朝顔」と詠んでいる。江戸時代「槿花」は木槿(むくげ)なのか』、『朝顔(あさがお)なのか』と疑義を示しておられる。私は「槿」が戒名由来であることから、安易に「むくげ」と読むのは抵抗があったのだが、この疑問は、私の拘りとよく連動する。「堂ケ原」は位置を確認出来なかったが、志和地区の「天満宮」はここに現存する(グーグル・マップ・データ)。ここは、先の「飴牛の渕」から東へ十キロほどの位置にある。]

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