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2024/08/30

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村入道谷毒氣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。ロケーションの「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、は高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示す。但し、潮江村の「淨眼寺山(じやうがんじさん/やま)」も、その「東」の「入道谷(にうだうだに)」も、それが「麓」にあるという「千躰山(せんたいさん/ざん/やま)」も、三つの名総て、戦前の地図でも、見出せない。ネットでも検索に掛ってこない。最後の注で、広域ロケーションの推理を示す。

 

   潮江村入道谷毒氣(どくき/どくけ/どつき)

 潮江村、「淨眼寺山」の東を「入道谷」と云(いふ)。「千躰山」の麓也。

 安永の頃、此所(このところ)に娶婦(ヤモメ)の老女(らうぢよ)、小(ちさ)き家居(いへゐ)して居(を)りける。[やぶちゃん注:「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]

 此老女は、川田氏に年久敷(としひさしく)勤(つとめ)ける故、其家より、少(すこし)の扶持(ふち)、來(きた)り、一人(ひとり)、住(ぢゆう)しける。[やぶちゃん注:「川田氏」土佐藩の郷士。 土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きもひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。]

 其頃、塩屋崎に傳助と云(いふ)もの、有(あり)。妻を迎(むかへ)て、末子(ばつし)もなかりしが、或日、父と物爭ひし、終(つひ)に、夫婦ともに追出(おひだ)されぬ。[やぶちゃん注:「塩屋崎」「ひなたGPS」のここ。前に出た「眞如寺」の後背の「眞如寺(筆山)」の南西麓の田の広がる町屋。現在の高知市塩屋崎町(しおやざきまち)(グーグル・マップ・データ)。「末子もなかりしが」傳助が嫡子で、弟もいないのに。]

 傳助、當時、行(ゆく)べき所やなかりけん、彼(かの)老女が方へ行(ゆき)て、その次㐧(しだい)を語り、

「親父が、機嫌(きげん)の直(なほ)る迄、四、五日、宿(やど)を貸したまはれ。」

と賴(たのみ)ければ、常に心安き傳助なれば、氣の毒におもひ、夫婦とも、老女が方(かた)に置(おき)ける。

 その夜(よ)、日暮(ひぐれ)て後(のち)、老女が愛する猫、外(そと)にて喰合(くひあふ)音[やぶちゃん注:何かと噛み合う、争そう音。]、しければ、傳助が妻、走り出(いで)て見るに、猫は、松の木の枝に登り居(をり)ける故、物干棹(ものほしざを)にて追(おひ)おろし、猫は、內(うち)へ、歸(かへり)ければ、女房も、內へ這入(はひり)ぬ。

 暫(しばし)して、傳助を呼(よび)て、いふ。

「氣分、𢙣(あし)し。背を、撫(なで)て給はれ。」

と言ける故、傳助、立寄(たちより)、撫さすり抔(など)する內に、手足、なえて、轉(コロ)び伏(ふし)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、傳助、驚き、

「水を吞(のま)せん。」

とて、立上(たちあが)りけるが、忽(たちまち)、傳助も、手足、軟(ナヘ)て、無言(ことばなく)し、夫婦共(とも)に、轉(ころ)び合(あひ)ける。[やぶちゃん注:「軟(ナヘ)て」漢字は当て字。「萎へて・痿へて」が普通。]

 老女は、囲庵裏(イロリ)の緣(ふち)に、假寐(うたたね)して居(ゐ)けるが、是も、目まひして、氣分、𢙣敷(あし)ければ、傳助を、呼(よび)かけながら、立上(たたちあが)らんとするに、手足、なえて、其儘(そのまま)、倒(たふ)れ伏(ふし)ぬ。

 三人(みたり)ながら、咽のかはく事いはん方なし。[やぶちゃん注:「囲庵裏(イロリ)」漢字表記はママ。「圍爐裏」「居爐裏」が一般的だが、これらも当て字であり、語源の定説は、ない。有力な一説は、「いろ」が、「圍爐」で、「爐を圍む」の意であり、「裏」は当て字とするものである。]

 傳助、轉(ころび)て、漸(やうやう)、水桶(みづをけ)の邊(あたり)までは、行(ゆき)しかども、水を吞不得(のみえず)して伏居(ふしゐ)たりぬ。

 爰(ここ)に、淸水庵(せいすいあん)の道心(だうしん)、庵室(あんじつ)は退轉(たいてん)して、當時、千体山の麓(ふもと)東側の山中(さんちゆう)に小(ちさ)き家、有りて、借宅(しやくたく)して暫(しばらく)居(をり)けるが、老女が茶吞友(ちやのみとも)にて、朝毎(あさごと)、吞(のみ)に行(ゆき)ける。

 此朝(このあさ)も、いつものごとく、起出(おきいで)て、老女が方へ行(ゆき)たれども、未(いまだ)、戶指(とざし)て有(あり)ければ、

『今朝(けさ)は、老女が長寐(ながね)するよ。』

と、おもひ、立歸(たちかへ)りぬ。

 暫(しばし)して、

「起(おき)もや、す。」

と、又、行(ゆき)たりしが、戶指(とざ)し有(あり)ければ、不審に思ひ、戶を扣(たたき)て見れども、返事もせざれば、

『必定(ひつぢやう)、老女、病(やみ)ての事成(なる)べし。』

と、外ゟ(そとより)、戶を明(あけ)、見けるに、三人、身を不叶(かなはず)して、轉びあふ[やぶちゃん注:ママ。]て、伏しけるを見て、驚き、其邊(そのあたり)の人を、呼(よび)集め、來りて、介補(かいほ)し、藥を求(もとめ)て、服させければ、老女は、頓(やが)て、正氣に成(なり)、四、五日の内に快氣し、傳助は、十四、五日の後(のち)、快(こころよ)く、女房は、廿日余り、煩(わづら)ひて、快復せしとかや。[やぶちゃん注:「身を不叶(かなはず)して」「を」の箇所を、国立公文書館本34)を見ると、「も」である。「も」の崩し字には、「を」に酷似するものがあるので、底本の筆写者が誤認したものである。「近世民間異聞怪談集成」も「も」に補正傍注してある。]

「猫も、久敷(ひさしく)、物、不食(くはず)して、伏(ふし)ける。」

とぞ。

 三人ながら、

「夢のやうに有(あり)つる。」

と、始終を語りぬ。

 如何成(いかなる)毒氣にか有(あり)けん。

 

[やぶちゃん注:これは、間違いなく、囲炉裏の不完全燃焼による一酸化中毒である。猫と三人の皮膚は、恐らくピンク色を呈しつつあったと思われる。猫が戸外で何物か(猫かそれ以外の狸(木に登れる)辺りの野生動物。木に登れない狐は、当時、四国には棲息していなかったと考えられる)と争そったという偶然が、何らかの物の怪の齎(もたら)す瘴気(しょうき)として誤認されたものである。

 なお、以上の老女の住まいと、お茶のみ友だちの道心が近くに住んでいることから考えると、どうも、この『潮江村、「淨眼寺山」の東を「入道谷」と云(いふ)。「千躰山」の麓也』というのは、「眞如寺山(筆山)」の南西後背でないとおかしい。「ひなたGPS」の戦前の地図を見るに、その辺りには、相応のピークがあるのに、山名が記されていない。ところが、国土地理院図の方を見ると、塩谷崎町の南西直近にある163メートルのピークには、「皿ヶ峰」の名が附されてある。近世、こうした峰に名前がない方がおかしいから、この「皿ヶ峰」、或いは、その南の、現在の「嘆きの森」(グーグル・マップ・データ航空写真:名の由来は、「カメラ屋ケンちゃん」氏のブログ(失礼ながら、ブログ標題が異様に長い上、コピー出来ないため、カットした)の「高知市内にあるハイキングコース上の「嘆きの森」について・・・」を参照されたい。明治までのコレラ感染で亡くなった「コレラ墓」があり、敗戦の前月のアメリカによる高知市空襲での犠牲者が葬られた地であるそうである)、又は、さらにその南にある「土佐塾中学・高等学校」のある丘陵辺りを南限とする範囲に、本篇に広域ロケーションはあったと考えるのが、自然なようである。

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