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2024/08/20

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     安喜郡(あきのこほり)甲浦(かんのうら)楠嶋(くすしま)傾城(けいせい)亡霊

 甲浦、湊口(みなとぐち)に、「クス嶋」[やぶちゃん注:カタカナ表記はママ。以下、同じで、さらに、「嶋」は「島」と混在する(単漢字使用の際を含む)のもママである。]といふ、有(あり)。今、燈明堂(とうみやうだう)あり。

 此嶋に大なる蝮(うはばみ)、住(すみ)て、夏の夜は、燈明の油を吞(のみ)て、燈明堂を、卷(まき)て、しむる內に、燈明番、是を、しかれば、卷を、ほどきて、歸る、と也(なり)。

 此(この)蝮に付(つき)て、物語あり。

 元親(もとちか)の時代、此所(このところ)に、「淡路屋(あはぢや)」と云(いふ)冨貴(ふうき)成(なる)町人、有(あり)。

 或時、大坂へ登りて、歸帆の時、傾城を、一人、連來(つれきた)りしが、「淡路屋」が妻、嫉(ねたみ)の深きもの成(なる)故(ゆゑ)、甲浦へ、入津(にふしん)の時、傾城を近付(ちかづけ)、申(まふし)けるは、

「吾(わが)妻は、嫉妬ふかき性質(たち)なるゆゑ、押掛(おしかけ)[やぶちゃん注:無理矢理。]、我家へ伴ふ事、難成(なしがたし)。暫(しばらく)、此(この)『クス嶋』に可待(まつべし)。吾妻に、納得させ、迎(むかへ)に、おこすべし。若(もし)、得心(とくしん)せずば、人に賴(たのみ)、他人へ嫁(か)せしむべし。」

とて、傾城は、『クス島』に、おろし置(おき)、其身は、家へ歸(かへり)ける。

 此事を、妻、聞(きき)て、大(おほき)に怒り、夫(をつと)を、立込(たてこめ)て[やぶちゃん注:無理矢理、部屋に押し込んで。]、不出(いださず)、下人一人(ひとり)も、「クス嶋」へ行(ゆく)事を、許さず。

 此故(このゆゑ)に、「クス嶋」へは、誰(たれ)有(あり)て、音(おと)づるゝものも、なし。

 傾城は、

「今や、今や、」

と、音信(おとづれ)を待(まて)ども、便(たより)もなければ、猟船(れうせん)の出入(でいり)を見て、扇(あふぎ)を以(もつ)て、まねけ共(ども)、見馴(みなれ)ぬ、いつくしき形(かたち)なる女の、金地(きんぢ)の扇を揚(あげ)て招くゆゑ、みな、

『龍女(りゆうぢよ)の出(いで)たるか。』

と、恐(おそれ)をなし、近付(ちかづ)かず。

 女は、苦(くるし)み、歎(なげけ)ども、甲斐なく、四、五日は、磯の藻屑、貝などを取(とり)て、食(しよく)しけれども、絕(たえ)て人も來(きた)らねば、終(つひ)に「クス島」の池に、身を投じ、死(し)しぬ。

 此有樣を、猟師ども、遙(はるか)に見て、浦中(うらぢゆう)、此沙汰、限(かぎり)なく、「淡路屋」方(かた)へも聞(きこ)へければ、妻、安堵して、立込(たてこめ)し夫、家人(けにん)を出(いだ)しける。

 扨(さて)、「クス島」へ、人を遣(つかは)し、見せしむるに、

「傾城の着(ちやく)したる衣裳・帶・扇抔(など)は、其儘、有(あり)て、死骸は、池の中にも不見(みえず)。」

と也。

「此嶋の蝮(うはばみ)は、彼(かの)傾城の亡霊也。」

と、云傳(いひつた)へぬ。

 此故に、「淡路屋」子孫、今に至るまで、此島へ近付(ちかづけ)ば、嶋、荒(あれ)て、蝮(うはばみ)抔(など)、數多(あまた)出(いで)て、怪(あやしき)事、有(ある)、とぞ。

 享保年中、明神氏(みやうじんし)、「淡路屋」方へ、まねかれ、酒宴の後(のち)、興に乘(じやう)じ、

「『くす島』の花盛(はなざかり)也。磯遊(いそあそび)せん。」

と、いへども、淡路屋一家中(いちかちゆう)は、

「彼(かの)嶋へ行(ゆく)事、不叶(かなはず)。」

とて、うけがはざるを、人(ひとびと)、押(おし)て誘引(いういん)しければ、嶋に近付(ちかづく)と、忽(たちまち)、波風(なみかぜ)、夥敷(おびただしく)起り、すさまじき事、云(いふ)斗(ばかり)なし。

 舩中(せんちゆう)、大(おほき)に驚き、彼(かの)島の辺り、壱町[やぶちゃん注:約百九メートル。]斗(いつちやうばかり)も漕退(こぎのき)れば、海上、しづまり、如常(つねのごとし)、とかや。

 年來(としごろ)、此島のほとりにて、猟舩、破損し、死人(しにん)、數多(あまた)あるを、歎き、彼(かの)傾城の亡霊を、神に祭(まつり)しより、「淡路屋」一家、疫病に犯(おか)され、悉(ことごと)く、死(しし)して、子孫、絕へ[やぶちゃん注:ママ。]ける、とぞ。

 「クス島」の池も、水、ませて[やぶちゃん注:「增せて」。]、蝮(うはばみ)は、上(うへ)の洞穴(ほらあな)に住(すむ)と、いふ。

 穴の辺(あたり)、四、五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]は、草、のべふし[やぶちゃん注:「延べ伏し」。]、白き油に、ぬれたるが、ごとし。

 蝮、常に出入りするゆゑ、とかや。

 

[やぶちゃん注:『甲浦、湊口(みなとぐち)に、「くす嶋」といふ、有(あり)』現在の高知県安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら)にある島(くずしま)」(グーグル・マップ・データ。接近して航空写真に換えたものが、これ。現在、島本体には燈明堂らしきものは見当たらないが、西に突き出るテトラポットの先に「甲浦港葛島防波堤灯」がある)。別に「甲浦磯釣センター」のこのページの写真もよい。

「蝮(うはばみ)」の読みは、本書で先行する「幡多郡上山之蝮」の読みに従った。特異な読みだが、そちらで注しておいた。

「元親(もとちか)の時代」長宗我部元親(天文七(一五三八)年~慶長四(一五九九)年)は国司家一条氏を追い出し、土佐を統一し、その後、各地の土豪を倒して、四国を統一した戦国大名。岡豊(おこう)城(現在の高知県南国(なんこく)市岡豊町(おこうちょう)のここに城跡がある)城主長宗我部国親の子として生れ、永禄三(一五六〇)年、父の死後、家督を継ぎ、以後、国内各地の有力土豪を従え、土佐を統一、次いで天正三(一五七五)年頃には阿波へ、翌四年には南伊予へ、同六年には讃岐へ侵攻し、同十三年春には遂に四国統一を果した。しかし、同年七月、豊臣秀吉の「四国征伐」の前に降伏し、土佐一国の領有を許された。同十四年、秀吉の「九州征伐」に長男信親とともに出陣、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かったが、豊後の「戸次(へつぎ)川の戦い」で信親を失った。同一五(一五八七)年九月より、土佐一国の検地を行った。これが現在m伝えられる「長宗我部地檢帳」である。その後、秀吉の「小田原征伐」、朝鮮出兵(「文禄の役」・「慶長の役」)にも参戦した。慶長二(一五九七)年には、「長宗我部元親百箇條」を制定し、領国支配の基本を確立した。しかし同四年、上洛中の京都伏見で病死した。遺骨は天甫寺山の天甫寺(廃寺)に葬られた。現在の、ここに墓がある(以上は平凡社「日本歴史地名大系」の「長宗我部元親墓」をベースとして、当該ウィキを参考にした)。

「龍女」龍宮の乙姫伝承から派生した水界の女怪。

『「クス島」の池』現在の葛島には、島内部の池らしいものは、見当たらないようである。深めのタイド・プールに投身したと採っておく。

「享保年中」一七一六年から享保二一(一七三六)年四月二十八日まで。

「明神氏」「日文研」の資料カード(PDF)のこちらに(これは国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」の「大蛇」の基礎データである)、三元社発行の昭和四(一九二九)年五月発行の『旅と傳說』に載った寺石正路「土佐傳說三篇」中に本話を訳したものがあるが、この箇所には、『享保年中甲浦の舊家明神氏』とある。]

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