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2024/08/31

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 狗骨

 

Hiiragimoti

 

ひいらぎ  貓兒刺

      倭爲杠谷樹

狗骨   【和名比々良木】

      俗用柊字【音中】

      【柊本椎之名

       也】

ウクオツ

 

本綱狗骨樹肌白如狗之骨爲凾板旋盒噐甚佳其葉有

五刺如猫之形【猫之之字疑當作爪字】故名猫兒刺有木※在葉中

[やぶちゃん字注:「※」は、上部が「凶」の第三画を除去し、第一画を、下方の「虫」の第一画と第六画に完全に繋げた奇体な文字で、同一のものを見出せない。しかし、これは、「グリフウィキ」のこれの、下方の二つの「虫」を一つにしたものであり、所謂「虻」(アブ)の字の異体字と採れる(東洋文庫訳でも『虻』とする)。当初、訓読では、「蝱」で示そうと思ったが、躓くだけなので、「虻」の異体字と判る「」とすることにした。実際、「漢籍リポジトリ」の当該部では、「」となっている。以下同じ。

卷之如子羽化爲※又曰其樹如女貞肌理甚白其葉長

二三寸青翠而厚硬有五刺⻆四時不凋五月開細白花

結實如女貞九月熟時緋紅色皮薄味甘其核有四辨人

采其木皮煎膏以粘鳥雀謂之粘黐

本草必讀曰十大功勞葉【一名䑕怕草】。江南人毎取樹汁熬

黐其葉似蒲扇有五⻆⻆尖有刺取其葉置䑕穴旁則䑕

不敢出入故名䑕怕又取其葉【焙乾研末】治䑕膈病【妙】

 鼠隔病【人前竟不飮食凡物食毎于宻地偷取食之家人有見者則畏而置焉肌瘦靣黃色悞食䑕殘物中毒患此症服藥鮮効唯用此藥有奇驗

△按狗骨樹肌白滑堅以堪爲筭珠或象戱碁子甚美亞

[やぶちゃん字注:「筭」は「算」の異体字。]

 于黃楊其大者作板可旋盒然性難長大木希也

 續日本紀文武帝の大寳二年獻杠谷樹長八尋

 等以爲希有之物其葉四時不凋厚硬有五稜如剌有

 雌雄其刺柔者爲雌九月開小花碎白色結子小青色

 五月熟黒色似䑕李女貞之軰而大如小蓮子

 俗閒立春節分夜揷枝葉於門窓添以海鰮頭爲追儺

 之用魍魎怖其尖刺不可敢近之義乎

                             爲家

  夫木 世の中は數ならすともひいらきの色に出てはいはしとそ思ふ

 此云柊葉有五⻆而實黒也黐樹葉無⻆而實赤也如

 本草說者似二物相混不知柊汁亦爲黐乎

 

   *

 

ひいらぎ  貓兒刺《びやうじし》

      倭《わ》に、「杠谷樹《ひひらぎ》」と爲《な》す。

狗骨   【和名、「比々良木《ひひらぎ》」。】

      俗、「柊」の字を用ふ。【音「中」。】

      【「柊」は、本《もと》≪は≫、「椎(つち)」の名

       なり。】

ウクオツ

[やぶちゃん注:「ひいらぎ」の歴史的仮名遣は「ひひらぎ」だが、近世以前に「ひいらぎ」という表記が一般化していたかも知れない、という記載が小学館「日本国語大辞典」の「ひいらぎ」「柊」の項にあった。]

 

「本綱」に曰はく、『狗骨樹《くこつじゆ》は、肌、白く、狗《いぬ》の骨のごとし。凾(はこ)の板に爲《なす》。盒噐(ぢうばこ)[やぶちゃん注:「重箱」。]に旋《めぐら》さす≪に≫、甚だ、佳《よ》し。其の葉、五≪つの≫刺《はり》、有り、猫の形のごとし』≪と≫。【「猫」の字、疑ふらくは、當《まさ》に「爪」の字に作るべし。】[やぶちゃん注:この割注は良安に挿入である。]『故に、「猫兒刺(ねこのはり)」と名づく。「木䖟《もくばう》」、有り、葉の中に在り、之れを、卷きて、子(み)のごとく、羽化して、䖟(あぶ)と爲《なる》。又、曰はく、「其の樹、『女貞《ぢよてい》』のごとく、肌-理(きめ)、甚≪だ≫、白く、其の葉、長さ、二、三寸。青翠《あをみどり》にして、厚≪く≫硬≪し≫。五《いつ》の刺⻆(はりかど)、有《あり》。四時、凋まず。五月、細≪き≫白花を開き、實《み》を結ぶ。『女貞』のごとし。九月、熟する時、緋紅色。皮、薄く、味、甘し。其の核《たね》、四辨《しべん》、有り。人、其の木の皮を采りて、煎《せん》≪じて≫、膏≪と成し≫、以つて、鳥雀《てうじやく》を粘(さ)す。之れを『粘黐(とりもち)』と謂ふ。」≪と≫。』≪と≫。

「本草必讀」に曰はく、『「十大功勞葉」【一名、「䑕怕草《そはくさう》」。】、江南の人、毎《つね》に、樹の汁を取《とり》、黐《とりもち》に熬《いる》。其の葉、「蒲扇《ほせん》」に似て、五《いつつ》≪の≫⻆《かど》、有り。⻆の尖《とが》りに、刺《はり》、有り。其の葉を取りて、䑕穴《めづみあな》の旁《かたはら》に置けば、則ち、䑕、敢へて出入《でいり》せず。故《ゆゑ》≪に≫、「䑕怕《そはく》」と名づく。又、其の葉を取り【焙《あぶ》り乾≪かし≫、研末《けんまつ》す。】、「䑕膈病《そかくびやう》」を治す【妙なり。】。』≪と≫。

『「䑕膈病」は【人前≪にては≫、竟《つひ》に飮食せず、凡そ、物、食ふに、宻《ひそか》≪なる≫地、毎《ごと》に、偷(ぬす)み取りて、之れを食ふ。家人、見る者、有≪れば≫、則ち、畏《おそれ》て、置く。肌、瘦せ、靣《おもて》、黃色≪なり≫。悞《あやまりて》、䑕の殘-物(わけ)[やぶちゃん注:「分・譯」で、「食べ残しの食物・食い残し」の意がある。]を食《くひ》、毒に中《あた》り、此の症《しやう》を患《わづらふ》。服藥、効、鮮《すく》なし。唯《ただ》、此の藥を用ひて、奇驗《きげん》、有《あり》。】』≪と≫。[やぶちゃん注:これは「本草必讀」に載るものか。「本草綱目」には、ない。]

△按ずるに、「狗骨樹」は、肌、白く、滑かに、堅し。以≪つて≫、筭珠(そろばんのたま)[やぶちゃん字注:「筭」は「算」の異体字。「算盤の玉」。]、或いは、象戱碁子(しやうぎのこま)[やぶちゃん注:将棋や囲碁の駒・碁石のこと。]に爲《す》るに堪《た》ふ。甚《はなはだ》、美にして、黃-楊(つげ)に亞(つ)ぐ。其《その》大きなる者は、板に作り、盒(はこ)を旋《めぐら》さすべし。然《しか》れども、性、長《ちやう》じ難《がた》く、大木《たいぼく》、希れなり。

 「續日本紀」に、『文武帝《もんむてい》の大寳二年[やぶちゃん注:七〇二年。]、杠谷樹(ひいらぎ)長さ、八尋(やひろ)なるを獻《けんず》る』≪と≫。是等《これら》は、以つて、希有《けう》の物と爲《なす》。其の葉、四時、凋まず。厚≪く≫硬≪く≫、五稜、有りて、刺《とげ》のごとし。雌雄、有り。其の刺、柔《やはらか》なる者、雌と爲《なす》。九月、小≪さき≫花、開≪き≫、碎《こまかなる》白色≪たり≫。子《み》を結≪び≫、小≪さく≫、青色≪たり≫。五月、熟して、黒色≪たり≫。「䑕李《そり》」・「女貞」の軰《やから》に似て、大いさ、小《ちさ》き蓮(はす)の子(み)のごとし。

 俗閒《ぞくかん》、立春≪の≫節分の夜《よる》、枝葉《えだは》を門≪や≫窓に揷して、添《そふ》るに、海-鰮(いはし)の頭《あたま》を以≪つてす≫。「追儺(ついな)」の用《よう》と爲《な》す。「魍魎《まうりやう》、其の尖《とがれる》刺《とげ》に怖《おそれ》て、敢へて近《ちかづ》くべからず。」の義か。

                  爲家

  「夫木」

    世の中は

       數《かず》ならずとも

      ひいらぎの

       色に出(いで)ては

           いはじとぞ思ふ

 此《ここ》に云ふ「柊(ひいらぎ)」は、葉に、五≪とつの≫⻆《かど》有りて、實《み》、黒なり。「黐樹(もちの《き》」は、葉に、⻆、無くして、實、赤し。「本草」の說《せつ》のごときは、二物《にぶつ》、相《あひ》混《こん》ずるに似《にた》り。知らず、柊汁《ひいらぎじる》も亦、黐(もち)に爲《つく》るか。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫の後注に、『中国でいう狗骨はモチノキ科のヒイラギモチで『本草綱目』はこれについて説明しているのに、良安は狗骨をモクセイ科のヒイラギとみて説明している。混同しているのは良安の方ということであろうか。』とある通り、良安が「狗骨」に「ヒイラギ」の訓を当てているのは、致命的誤りである。この「ヒイラギモチ」は別名で、正しい標準和名は「ヤバネヒイラギモチ」(矢羽柊黐)であり、良安は引用で、「狗骨」とするが、「漢籍リポジトリ」[088-42a])でも、「維基文庫」のものでも、項目標題は「枸骨」であり、これは、「矢羽柊黐」、

双子葉植物綱バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta

である。なお、「維基百科」の「枸骨」を見ると、『ヨーロッパ・アメリカ・朝鮮、浙江省・江蘇省・湖南省・江西省・雲南省・湖北省・上海・安徽省等の中国本土に分布し、標高百五十メートルから千九百メートルの地域』の、多くは『丘の中腹や丘の低木』として『植生している』とあり、本邦には自生しないが、現行では各地で植栽されている。特に、多くの記載に載るが、国内で出回っているクリスマスで盛んに装飾される「クリスマス・ホーリー」は、実はヤバネヒイラギモチが殆んどであるそうである。本来の「クリスマス・ホーリー」はヨーロッパ原産のモチノキ属セイヨウヒイラギ Ilex aquifolium  である。但し、調べたところ、ヤバネヒイラギモチが本邦に渡来した時期は明治時代であり、良安は全く知らない種なのである。

 一方、良安が評言で疑義を述べ、自身の同定にほぼ全体に自信を以って示しているのは、我々には、極めてお馴染みの、

シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus

である。しかし、その同定は誤りであったのである。

 ヤバネヒイラギモチは、「葉と枝による樹木観察図鑑」の同種のページが図版・写真も豊富で、よい。引用させて頂く。『①分布等:日本各地で植栽。中国東北部~朝鮮南部原産の常緑低木。雌雄異株。高さ』三~五メートル『になる。枝はよく分岐し著しく横に広がる。樹皮は灰白色で平滑』。『②分類:広葉樹(直立性)』。『単葉』・『不分裂葉』で、『互生』。鋸『歯あり』、『単鋸歯』。『側脈は葉縁に達しないか』、『不明瞭』で、『歯は葉身の全体にある』。『常緑性』。③葉は互生し、葉身は長さ』四~八センチメートル、『幅』二~三センチメートル『の亀甲状で四角張る。葉柄は』二~六ミリメートル。『先端は鋭く尖り、基部は円形。葉縁の角ばった先端は棘状の』鋸『歯となり、葉縁は裏側に反る。成木や上の枝では棘の数が少なく、老木では葉の先端のみが尖り』、『他は全縁となる。多くの栽培品種があり葉の形も変異が大きい』。『④質は厚い革質で硬い。表面は濃緑色で光沢があり、裏面は淡緑色で、両面とも無毛』。『⑤花期は』四~六『月。前年枝の葉腋から散形花序を』出し、二~八『個の花を束生する。花は白色~淡黄色で、直径約』六ミリメートル、『短い柄をもち、花弁と萼片は』四『個。雄花には雄しべが』四『個。果実は核果。直径』八ミリメートルから一・二センチメートルの『球形で』、十一~十二『月に赤く熟す』。『⑥類似種:同属の「セイヨウヒイラギ」』( Ilex aquifolium )、『「アメリカヒイラギ」』( Ilex opaca )、『モクセイ科の「ヒイラギ」に似るが、見分け方は「類似種の見分け方」参照』(同図鑑内リンク)。『⑦名前の由来:「矢羽ヒイラギモチ」の意で、ヒイラギのような鋭い鋸歯があり、矢羽根のような葉の形であることから。別名のシナヒイラギは、ヒイラギに似ていて、原産地が中国(支那:シナ)であることから』。ヤバネ『ヒイラギモチ』、別名『ヒイラギモドキも、同様にヒイラギのような鋭い鋸歯があることから』とある。

 なお、ここでは、良安は確信犯(しかし、誤りである)で柊(ひいらぎ)について述べている訳だし、実際にヤバネヒイラギモチとは、外見等の類似性があること、本邦での魔除けの民俗が語られている点で面白く読んだので、ここでは、「ヒイラギ」のウィキを引いておく(注記号はカットした)。漢字表記は『柊・疼木・柊木』。『常緑小高木』。『冬に白い小花が集まって咲き、甘い芳香を放つ。とげ状の鋸歯をもつ葉が特徴で、邪気を払う縁起木として生け垣や庭木に良く植えられる』。『和名ヒイラギは、葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、痛いという意味を表す日本語の古語動詞である「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」の連用形・「疼(ひひら)き・疼(ひいら)ぎ」をもって名詞としたことによる。疼木(とうぼく)とも書き、棘状の葉に触れると痛いからといわれている』。『別名でヒラギともよばれる。学名の種小名は「異なる葉」を意味し、若い木にある棘状の葉の鋸歯が、老木になるとなくなる性質に由来する』。『台湾と日本に分布する』(☜:「維基百科」の同種の「柊でも、「產地」の項に、『原産台湾以及日本本州(關東地方以西)、四國、九州、琉球山地』とあるので、ヤバネヒイラギモチとは対称的に中国には自生しない。『日本では、本州(福島県・関東地方以西)、四国、九州(祖母山)、沖縄に分布する』。『山地に生育する』。『樹高は』四~八『メートル』。『葉は対生し、葉色は濃緑色。革質で光沢があり、長さ四~七』『センチメートル』『の楕円形から卵状長楕円形をしている。その葉縁には先が鋭い刺となった鋭鋸歯がある。葉の形は変異が多く、ほとんど鋸歯がないもの、葉の先だけに鋸歯がつくもの、鋸歯が粗いもの、トゲが尖っているものまでさまざまである。若樹のうちは葉の棘が多いが、老樹になると葉の刺は次第に少なくなり、縁は丸くなって先端だけに棘をもつようになる。葉の鋭い棘は、樹高が低い若木のうちに、動物に食べられてしまうことを防いで』、『生き残るための手段と考えられている』。『花期は』十『月中旬』から十二『月中旬。葉腋に直径』五『ミリメートル』『ほどの芳香のある白色の小花を多数密生させる。雌雄異株で、雄株の花は』二『本の雄蕊が発達し、雌株の花は花柱が長く発達して結実する。花は同じモクセイ属のキンモクセイ』(モクセイ属モクセイ変品種キンモクセイ Osmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『に似た芳香がある。花冠は』四つに『深裂して、裂片は反り返る』。『実は長さ』一・二~一五センチメートル『の楕円形になる核果で、はじめは青紫色で、翌年』六~七『月に黒っぽい暗紫色に熟す。そして、その実が鳥に食べられることにより、種が散布される』。以下の「品種」の項はここでは不要と考え、カットした。『陰樹で半日陰を好む性質があり、日陰の庭でも植栽可能である。生長のスピードは遅い』方『で、乾いた土壌を好み』、『砂壌土に根を深く張る。極端な排水不良地や痩せ地でない限り、場所を選ぶことはほとんどない』。『低木で常緑広葉樹であるため、盆栽などとしても作られている。殖やし方は、実生または挿し木による。植栽適期は』、柔軟性があり、三~四『月』、六~七『月上旬』、九『月中旬』から十『月中旬とされ、堆肥を十分に入れて植える』。一~二『月は寒肥として有機質肥料を与える。剪定適期は』、四『月と』七『月とされる』。『ヒイラギは、庭木の中では病虫害に強い植物である。しかし、甲虫目カブトムシ亜目ハムシ上科『ハムシ科』Chrysomelidaeテントウノミハムシ属ヘリグロテントウノミハムシ Argopistes coccinelliformis『に食害されることがある。この虫に寄生されると、春に新葉を主に、葉の裏から幼虫が入り込み、食害される。初夏には成虫になり、成虫もまた葉の裏から食害する。食害された葉は枯れてしまい、再生しない。駆除は困難である。防除として、春の幼虫の食害前に、農薬(スミチオン、オルトランなど)による葉の消毒。夏の成虫は、捕獲駆除。冬に、成虫の冬眠を阻害するため、落ち葉を清掃する。ヘリグロテントウノミハムシは、形状がテントウムシ(』よく見かける益虫である『二紋型のナミテントウ』(甲虫亜目ヒラタムシ下ヒラタムシ上科テントウムシ科テントウムシ亜科テントウムシ族 Harmonia 属ナミテントウ Harmonia axyridis )『やアカホシテントウ』(テントウムシ亜科アカホシテントウ属アカホシテントウ Chilocorus rubidus )『によく似ていて、「アブラムシを食べる益虫」と間違えられ、放置されやすい。ヘリグロテントウノミハムシは、テントウムシ類より』、『触角が太く長く、また跳躍力が強く、人が触ると』、『跳ねて逃げるので見分けがつく』。『花は冬に咲き香りがよく、庭木として』、『よく植えられる。葉に棘があるため、防犯目的で生け垣に利用することも多い』。『幹は堅く、なおかつしなやかであることから、衝撃などに対し強靱な耐久性を持っている。このため、玄翁と呼ばれる重さ』三キログラム『にも達する大金槌の柄にも使用されている。特に熟練した石工はヒイラギの幹を多く保有し、自宅の庭先に植えている者もいる。他にも、細工物、器具、印材などに利用される』。『古くから邪鬼の侵入を防ぐと信じられ、庭木に使われてきた。厄除けの思想から、昔は縁起木として門前に植えられてきた。家の庭には表鬼門(北東)にヒイラギ、裏鬼門(南西)にナンテン』(キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica )『の木を植えると良いとされている(鬼門除け)。また節分の夜にヒイラギの枝に鰯の頭を門戸に飾って邪鬼払いとする風習(柊鰯)が全国的に見られる。「鰯の頭も信心から」という言い方があるのはこれによる』。『似たような形のヒイラギモクセイは、ヒイラギとギンモクセイ』(モクセイ属モクセイ変種ウスギモクセイ品種ギンモクセイOsmanthus fragrans var. aurantiacus f. aurantiacus )『の雑種といわれ、葉は大きく縁にはあらい鋸歯があるが、結実はしない』。『クリスマスの飾りに使うのはセイヨウヒイラギ( Ilex aquifolium )であり、ヒイラギの実が黒紫色であるのに対し、セイヨウヒイラギは初冬に赤く熟す。「ヒイラギ」とあっても別種であり、それだけでなくモチノキ科に分類され、本種とは類縁的には大きく異なる。ヒイラギは葉が対生するのに対し、セイヨウヒイラギでは葉は互生するので、この点でも見分けがつく』。『その他、ヒイラギの鋭い鋸歯が特徴的なため、それに似た葉を持つものは「ヒイラギ」の名を与えられる例がある。外来種ではヒイラギナンテン( Berberis japonica )(メギ科)がよく栽培される。他に琉球列島にはアマミヒイラギモチ( Ilex dimorphophylla )(モチノキ科)、ヒイラギズイナ( Itea oldhamii )(スグリ科)』(キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連メギ亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica(引用先で以下にある『 Ilex aquifolium 』はシノニムであり、以下、叙述が学術的に不審なので、中略する)『ほかに、鋭い鋸歯を持つものにリンボク』(バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属リンボク  Prunus spinulosa )『があり、往々にしてヒイラギと間違えられる。また、ヒイラギを含めてこれらの多くは幼木の時に鋸歯が鋭く、大きくなると次第に鈍くなり、時には鋸歯が見えなくなることも共通している』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「骨」([088-42a]以下)の「釋名」と「集解」の主要部殆んどである。この項自体が、短い。

「杠谷樹《ひひらぎ》」「續日本紀」に出る。国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』「第三 續日本紀」(上・中/武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の「續日本紀」卷第二の「天の眞宗豐祖父の天皇 文武天皇」の文武天皇大寶二年正月八日の条に、

   *

造宮職(ざうぐうしき)、杠谷樹(ひゝらぎ)を獻(たてまつ)る。長さ八尋(やひろ)。【俗に「ひゝらぎ」[やぶちゃん注:原文「比比良木」。]と曰ふ。】

とあり、次のコマの同年三月十日の条に、

   *

従七位(しようしちゐ)の下秦(げはた)の忌寸廣庭(いみきひろには)、杠谷樹(ひゝらぎ)の八尋桙根(やひろほこね)を獻る。使者(つかひ)を遣はして伊勢の大神宮(おほかむみや)に奉らしむ。

   *

とある。良安の評言にも出る「八尋」の「尋」(ひろ)は、両手を左右に広げた際の幅を基準とする身体尺で、当該ウィキによれば、『学術上や換算上など抽象的単位としては』一『尋を』六『尺(約』一・八『メートル)とすることが多いが、網の製造や綱の製作などの具体例では』一『尋を』五『尺(約』一・五『メートル)とする傾向がある』とあり、古代のそれは、当時の一般人の身長から後者を採るべきかと思う。それで換算すると、約十二メートルとなる。しかし、現存するものを見ても、四百年でも七メートルであり、これは献上物であるから、少し誇張があると考えるべきである。因みに、良安の言っているのは、これで、上記の後者の記事であることが判る。

『「柊」は、本《もと》≪は≫、「椎(つち)」の名なり』この「椎」は「つち」という訓から判る通り、樹木のブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis のシイ類を指しているのではなく、物を打つ道具としての「槌」を指すので、要注意。

『「木䖟《もくばう》」、有り、葉の中に在り、之れを、卷きて、子(み)のごとく、羽化して、䖟(あぶ)と爲《なる》』これは、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目Brachyceraに属するミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorpha・ハエ下目 Muscomorpha (これは一部)の所謂、「アブ」類である。なお、これを読む方々は、無意識に、葉にアブが産卵して……と読むであろうが、そうではない可能性が高い。民俗社会で永く信じられた、「化生」(かしょう)である。何の機序もなく、突如、出現する非科学的生物発生(古い博物学での「自然発生」である)を指している。

「女貞」先行する「女貞」を参照。そこでは、時珍も種を混同してしまっているので、必ず見られたい。

「鳥雀《てうじやく》」スズメを代表とする人里近く集まる小鳥の総称。

「粘黐(とりもち)」鳥黐(とりもち)。「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい。

「本草必讀」東洋文庫の巻末の「書名注」に、『「本草綱目必読」か。清の林起竜撰』とある。なお、別に「本草綱目類纂必讀」という同じく清の何鎮撰のものもある。この二種の本は中文でもネット上には見当たらないので、確認出来ない。

『十大功勞葉」【一名、「䑕怕草《そはくさう》」。】』これは、ここに入れるべきものではない、大アウトである。良安が直接引用したのが、何かは判らないが、「漢籍リポジトリ」で、一つだけ見つけた。明の繆希雍(びょうきよう)の「先醒齋廣筆記」のここの「極木」の項に、

   *

極木一名十大功勞一名猫兒【殘俗呼光菰櫪】黒子者是紅子者名樞木亦可用取其葉或泡湯或為末不住服譚公亮患結毒醫用五寶丹餌之三年不效仲淳云五寶丹非完方也無紅鉛靈柴不能奏功時無紅鉛姑以松脂鉛粉麻油調敷應手而減公亮先用喬伯珪所贈乳香膏止痛生肌甚㨗及用此二味功效彌良乃知方藥中病不在珍貴之劑也

  又方

銀硃【三錢】輕粉【三錢】白占【三錢】黄占【三錢】用麻油【三兩】先將二占化勻調前藥末攤成膏貼之戒房事必效

   *

とある。さらに調べたところ、完全アウトの決定打が見つかった。前にも使った中文サイトの「A+醫學百科」の十大功勞葉」だ! そこでは基原種の学名と中文名を、

Mahonia bealei (闊葉十大功勞)(検索したとことろ、和名は「シナヒイラギナンテン」)

Mahonia fortunei (細葉十大功勞)(同前で「ホソバヒイラギナンテン」)

Mahonia japonica  (華南十大功勞)(同前で「ヒイラギナンテン」)

と、三種、掲げている。以上の三種は、

キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連 メギ亜連メギ属 BerberisMahonia はニシノニム)

であって、モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta とは、縁も所縁もないのである。リンク先には強力な学術的記述があるが、これら三種がヒイラギモチと関係性があることは、どこにも書かれていない。但し、別名に「老鼠刺」があり、この名はヤバネヒイラギモチと同属のモチノキ属ペルニーヒイラギ Ilex pernyi の中文異名でもある点ぐらいか(「維基百科」の「猫儿刺」を見よ。中国固有種である)。

「蒲扇《ほせん》」これは本邦で言う(中国でも)「芭蕉扇」である。本邦のものは、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ属ビロウ変種ビロウ Livistona chinensis var. subglobosa の葉で作ったものが多いが、中国のものは、タイプ種のビロウの方で作るようである。

「其の葉を取りて、䑕穴《めづみあな》の旁《かたはら》に置けば、則ち、䑕、敢へて出入《でいり》せず。故《ゆゑ》≪に≫、「䑕怕《そはく》」と名づく」これは、物理的に、そのトゲトゲの葉をたっぷりネズミの穴に詰め込んでおけば、ネズミは厭がるだろうということのように見えるが、別に、実の形が鼠の糞に似ているという、類感呪術的なもののようにも思われる。

『「䑕膈病」は【人前≪にては≫、竟《つひ》に飮食せず、凡そ、物、食ふに、宻《ひそか》≪なる≫地、毎《ごと》に、偷(ぬす)み取りて、之れを食ふ。家人、見る者、有≪れば≫、則ち、畏《おそれ》て、置く。肌、瘦せ、靣《おもて》、黃色≪なり≫。悞《あやまりて》、䑕の殘-物(わけ)[やぶちゃん注:「分・譯」で、「食べ残しの食物・食い残し」の意がある。]を食《くひ》、毒に中《あた》り、此の症《しやう》を患《わづらふ》。服藥、効、鮮《すく》なし。唯《ただ》、此の藥を用ひて、奇驗《きげん》、有《あり》。】』これは非常に興味深い叙述であり、原文を是非とも見たいのだが、残念だ。通常、単に「膈病」と言った場合は、物理的に食べ物が通らなくなる病気で、現行の胃癌・食道癌などに当たるとされ、本邦では「膈(かく)の病ひ」とよく言われた。しかし、ここで語られている病態はそれではない。明らかに精神病疾患である。所謂、心身症或いは心気症の摂食障害である。黄疸症状のようにも見えるが、或いは、偏食による見かけ状のもので、身体を拭かない結果かも知れない。こうした総合病態が子細に叙述されているのは、そうそう見かけない。鼠の糞を食べるのも、憶測ではなく、異食行動として十分あり得るものである。同じような症状を記したものを見つけたら、ここに追記したい。

「䑕李《そり》」先行する「鼠李」を参照。但し、良安のそれは誤って、シソ目シソ科Lamiaceaeムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica に同定しているから、それを指す。

「俗閒《ぞくかん》、立春≪の≫節分の夜《よる》、枝葉《えだは》を門≪や≫窓に揷して、添《そふ》るに、海-鰮(いはし)の頭《あたま》を以≪つてす≫」「鰯の頭も信心から」(「一旦、信じてしまえば、どんなものでも有難く思える」ことの譬え。江戸時代、節分に鬼除けのために玄関先に鰯の頭を吊るす習慣があり、それに由来するという説が有力な諺)の「柊鰯(ひいらぎいわし)」である。当該ウィキを引くと、『節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』。『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』(この基原風習は、江戸時代に始まったことではないので注意)。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にも』、『この風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』。『また、奈良県吉野町では、一本だたらを防ぐため節分の日にトゲのある小枝に焼いたイワシの頭を刺して玄関に掲げるという』。『鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある』とある。私は中学生時代に民俗学に興味を持ち、早くにその風習自体は知識としては知っていたが、鎌倉・東京都練馬区・富山県高岡市・渋谷区下目黒に住んだが、自宅では、それをしたのを見たことがないし、各地でも、正月にそれを見た記憶は、残念ながら、一度しかない。その一度は、富山の新湊市の高校時代に所属していた演劇部の顧問の先生の家に招かれた際であった。

「追儺(ついな)」当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『大晦日』『に疫鬼や疫神を払う儀式、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。儺(だ、な)』、或いは、『大儺(たいだ、たいな)、駆儺』(くだ)、『鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、儺祭(なのまつり)、儺遣(なやらい)とも呼ばれる』。『中国で宮中で行われる辟邪の行事として、新年(立春)の前日である大晦日に行われていた。日本でも大陸文化が採り入れられた過程で宮中で行われるようになり、年中行事として定められていった。儺人(なじん)たちと、方相氏』(元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺(ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく)『(ほうそうし)、それに従う侲子(しんし)』(方相氏に従う童子のことを指す。紺の布衣(ほい)・朱抹額(まっこう)を着けている。「振子」「小儺(しょうな)」とも言う)『たちが行事を執り行う。儺という字は「はらう」という意味があり、方相氏は大儺(たいな、おおな)、侲子は小儺(しょうな、こな)とも称され』、『疫鬼を払う存在とされている』。『中国で行われていた儀式(大儺などと称される)では、皇帝らの前で方相氏と数おおくの侲子たちによって疫鬼たちを恐れさせる内容の舞がおこなわれた後、その鬼たちを内裏の門から追い出して都の外へと払った。方相氏は』、四『つの目をもつ四角い面をつけ、右手に戈、左手に大きな楯をもつ方相氏が熊の皮をかぶり、疫鬼や魑魅魍魎を追い払うとされている。侲子たちは黒い衣服をまとっており、子供たちがその役をつとめた』。『日本での大儺(のちに追儺と呼ばれるようになる)は、儺人は桃と葦でつくられた弓と矢をもち、方相氏・侲子たちは内裏を回り、陰陽師が鬼に対して供物を捧げ祭文を読み上げる。方相氏たちが鬼を追いやって門外に出ると鼓を鳴らして鬼たちが出たことを知らせ厄払いをする。その後も都の外へ外へと四方に鬼たちを払い出すための行事があわせて行われた。しかし平安時代には、鬼たちに対して用いられる役割を持っていた桃と葦の弓矢を、方相氏・侲子たちに向かって使っていた描写も年代が進むにつれて見られるようになり、彼ら自身が儀式のなかで鬼を示す役割に変化していったと見られている。侲子たちは官奴がその役にあたるとされており』、『青紺色の衣服をまとう。追儺のおりに、春や秋の司召(つかさめし)の除目の際に漏れた者を任官することも行われ』たことから、『これを追儺の除目、追儺召除目とも』言った。『宮中行事であった追儺は、鬼を払う内容から』、『節分(太陰暦でいえば大晦日に行われる行事であり、同義』であった『)の豆まきなどの原形のひとつであるとも考えられている。しかし』、『豆まきについては』、『日本での追儺の儀式には組み込まれておらず、鬼を打ち払う他の行事から後の時代に流入をしたものである』。『追儺は鬼ごっこ(鬼事)の起源ともされる。民俗学者の柳田國男は伝統的な子供の遊戯は大人の真似によって生じたものとし、もとは神の功績を称える演劇を子供が真似たという説を唱えた。現在、民俗学では鬼ごっこの起源が追儺や鬼やらいにあるという意見が主流であるが、一方で』、『追う者と追われる者の鬼の役割が正反対だとする多田道太郎による反対論もある』(個人的には、神話・伝承に於ける二項対立の構造は常に正邪の相違で決定されることはなく、相互に立場が逆転するのは当たり前のことであり、私はおかしいとは思わない。以下に語られる逆転現象も、まさにそれを証明している)。『中国では』「論語」『に「儺」の語が見られる。古い時代には大晦日のみにおこなわれるものとは語られておらず、年間に三度おこなわれるかたち(三時儺)が執られていたりもした』。「隋書」に『よると』、『隋王朝ではこの方式を採用していたようで、年に三度(春・秋・冬)行われている。六朝時代ごろに大晦日とされるかたちが出来たと見られている。唐以後は行事に用いられる人数も増大してゆくようになったが、宋の時代には方相氏たちによる舞は失われて、武人や鍾馗などが儀式に登場するようになった』。『宮中のほかに』、『民間でも同様の疫鬼を追い払う儀式がおこなわれており、儺戯などと呼ばれており』、『現代も中国各地で民間行事として受け継がれてもいる』。『日本の文献では』「續日本紀」に『見られる』『天下諸國疫疾、百姓多死、始作二土牛一大儺』(慶雲三(七〇六)年十二月晦日の紀事)『という疫鬼払いをするために行われた記述が古いものとして挙げられる。日本の大儺でも用いられ始めた桃や葦の弓矢は、中国の儀式でも魔除けの効果をもつ武具として用いられていたものだが、後漢までの文献に見られる形式であり、それが伝来して固定化したものであるといえる』。「三代實錄」には、『追儺での方相氏役として関東地方から身長が』六『尺』三『寸』(約一・九〇メートル)『以上の者を差し出させたこと』が貞観八(八六六)年五月十九日の記事『など』に『見える』。『宮中での年中行事としての追儺は』、『鎌倉時代以降は衰微してゆき、江戸時代には全く行われなくなった』一方、『熟語としての「追儺」や「鬼やらい」は宮中儀式を離れて、鬼を追い払う節分の行事全般の呼称として幅広く一般で用いられるようになり、節分の豆まきを称する熟語としても使用されるようになった』。九『世紀ごろには、桃の弓や祭文の用いられ方の変化などから、儀式の中で目に見える存在として登場することは』なかった『鬼を追う側であった方相氏』『や侲子(儺)が』、『逆に、目に見える鬼として追われるようなかたちに儀式がうつりかわっていく様子が見られ、それと同時に』、『儺(鬼)を追い払うといった意味で「追儺」という名称が日本で独自に発生していったと考えられている。追儺という呼び方は』、「延喜式」等に『その使用が見ることが出来るが、それ以前の』「内裏式」等では』、『大儺が用いられている。また方相氏たち「儺」の役割をもつ存在が日本の宮中儀式のなかで「鬼を払う者」から「鬼」へ役割が替わったことは』、「公事根源」等の文献で、『方相氏を「鬼」であると表現している点などからも』、『うかがうことが出来る』。『歴史学者の神野清一』(じんのきよかず)『や三宅和朗』(みやけかずお)『は、方相氏が追儺以外の行事(葬送の行事)にも魔除けの意味で用いられていたことを挙げ、死にまつわる点をもっていたことが』、『方相氏を「鬼」と見る変化が宮中で起きたのではないかと論じている』。『日本では平安時代(』十一『世紀頃)から宮中以外でも公家・陰陽師・宗教者などを中心に追儺の行事を実施する者が増加してゆくことにより、各地の寺社にも儺と関連した行事が根付いていった。それらの中には現在も修正会』(しゅしょうえ)『・修二会』(しゅにえ)『をはじめとした節分の行事としておこなわれているものもある。寺社での鬼遣・追儺の行事には、鬼のほかに毘沙門天などが登場したりもする』。『古式を復活させ』、『方相氏の面が用いられる追儺式を行っている寺社もあるが、地方の寺社や民間で行われてきた鬼やらいや節分の行事に疫鬼として登場するのは鬼の面をつけた(一般的なかたちの)鬼であることが多い』とある。

「夫木」「世の中は數《かず》ならずともひいらぎの色に出(いで)てはいはじとぞ思ふ」「爲家」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原為家の一首で、「卷二十八 雜十」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14074」)。但し、そこでは、

   *

よのなかは-かすならすとも-ひひらきの-いろにいてては-いはしとそおもふ

   *

となっている。

「黐樹(もちの《き》」双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra 。先行する「檍」の私の注の同種の記載を見られたい。

「柊汁《ひいらぎじる》も亦、黐(もち)に爲《つく》るか」前掲のセイヨウヒイラギからは鳥黐が作れるが、同種は明治期に渡来したものであり、ヒイラギから採取できるという記載は確認できなかった。]

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