「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小河平兵衞怪異
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]
小河平兵衞怪異
金吾中納言秀秋の士に、小河平兵衞(おがはへいべゑ)と云(いふ)者、有(あり)。武功も有しとかや。
秀秋、滅亡のゝち、加賀に、しるべ有(あり)て、暫(しばらく)、住居せしが、
『兎角(とかく)、便(たより)を求(もとめ)て、身をも、立(たて)ん。』
望(のぞみ)、有て、加賀を出(いで)つ。
此時、家に在(あり)し道具、又は、我(わが)手柄にて得たる感狀等を妻に預け、
「吾(われ)、何國(いづく)にも有付(ありつけ)なば、迎へ可取(とるべし)。」
と約諾(やくだく)して、西國に下り、當國の家臣、深尾主水(もんど)殿に、少々、しるべ有(あり)て、主水殿方へ、來(きた)る。
主水殿、懇(ねんごろ)にもてなし、
「貴辺(きへん)は、人の下に居(を)るべき人に非(あら)ず。暫(しばし)、堪忍して、某(それがし)が方(かた)に居玉(をりたま)へ。折(をり)を以(もつて)、進め、知行(ちぎやう)に、つかせん。」
と約して、かくまひ置ける內(うち)、大坂御城石垣御普請(ごふしん)の時、深尾氏も當國(たうごく)よりの役人にて、彼(かの)地に至る。
平兵衞、又、隨(したがひ)て、大坂旅宿に有(あり)。
公義役手(やくて)の御旗本衆(おはたもとしゆ)、小河平兵衞が宿札(やどふだ)[やぶちゃん注:「しゆさつ」と読んでもよい。大名・旗本などが、宿泊する本陣や脇本陣の門、又は、宿の出入り口に、宿泊者の名を書いて掲げた札。「關札(せきふだ)」とも言う。]を見て、能(よく)知れる人、有(あり)て、平兵衞が今の樣子を尋聞(たづねきく)。[やぶちゃん注:原本では、敬意を示す字空けが「公義」の前にある。]
其後(そののち)、於江戶(えどにおいて)、忠義(ただよし)公へ、[やぶちゃん注:原本では、敬意を示す字空けが「忠義公」の前にある。以下でもあるが、躓くだけなので再現しない。]
「御旗本衆の中より、小河平兵衞と云(いふ)士、御家臣深尾主水方(かた)に有(あり)と見へ[やぶちゃん注:ママ。]候。彼れは、武功の士にて、其儘(そのまま)にて可被差置(さしおくべき)者に非ず。」
と、言立玉(いひたてたま)ふ人、有(あり)。
忠義公、聞召(きこしめし)て、
「曾(かつ)て、不存事(ぞんぜざること)也。國元にて詮義可致(いたすべし)。」
と、御返答、有之(これあり)。
其後(そののち)、御國(みくに)にて、御尋(おたづね)、有之(これあり)、被召出後(めしいだされてのち)、「御郡奉行(おんこほりぶぎやう)」と成(なる)。
其時分は、「郡奉行」、七郡(しちこほり)に、一人宛(づつ)、七人、有(あり)て、其郡に居住し、郡内(こほりうち)の事は、直(ぢき)に、忠義公へ申上(まうしあげ)て仕置(しおき)する事也。
平兵衞、此時、髙岡郡(たかをかのこほり)の奉行として住(ぢゆう)す。
然(しかる)に、加賀にて約せし事を、変じて、當國にて、妻を迎へ、平三郞といふ男子、出生す。
此事を、加賀の妻、ほのかに聞(きき)て、大(おほき)に恨み、預る所の家財・感狀、悉く、燒捨(やきすて)て、自殺す。
其後(そののち)、平三郞十九歳、或夜、部屋に、一人(ひとり)、未寐(いまだいねず)して有(あり)しに、戌(いぬ)の刻[やぶちゃん注:午後七時から九時。]斗(ばかり)、庭の枝析戶(しをりど)を、外(そと)より明(あけ)て來(きた)る者、有(あり)。
見れば、母の傍(かたはら)にある下女也。
手に燗鍋(カンなべ)と盃(さかづき)を持(もち)、皿に肴(さかな)を入(いれ)て來り、
「母の命(めい)[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」には、ここに編者によって『(也)』の補正割注がある。]。『今宵は淋敷(さびしく)あらめ。酒を、すゝめよ。』と仰(おほせ)にて、參(まゐり)たり。」
と、いふ。
平三郞、悅び、
「吾、常に酒を不用(もちひず)といへども、母の志(こころざし)にて賜ふ酒なれば、一ツは、吞(のま)ん。」
と、押戴(おしいただ)き、一盃、吞(のむ)。
「今一ツ。」
と、しひければ、
「誠に。是も、母の愛(あい)成(な)れば尤(もつとも)也。」
と、又、一ツ、傾く。
下女、
「又、一ツ。」
と、すゝむ。
平三郞、いふ、
「我、下戶(げこ)成(なる)事は、汝も、知れり。母の慈命、忝(かたじ)けなさに、二ツ、吞(のみ)たり。此上、可吞樣(のむべきやう)、なし。」
と、いふ。
下女、聞不入(ききいれず)、
「今、壱ツ。」
と、進む。
平三郞、止ム事を不得(えず)、又、一盃を、ほす。
下女、
「猶(なほ)、一ツ。」
と、すゝむ。
平三郞、
「聞分(ききわけ)もなきものかな。」
と、いへども、下女、弥(いよいよ)、しひて、傍(かたはら)に寄居(よりゐる)。
平三郞も、今は、怒(いかり)て、
「推參也(すいさんなり)。」[やぶちゃん注:ここは、「出すぎておるぞ!」「差し出がましいッツ!」「無礼なり!」の意である。]
と、氣色(けしき)を、かへければ、下女、忽(たちまち)、面色(めんしよく)、かはつて、肘(ひぢ)を張(はり)、
「如何樣(いかやう)とも、し給へ。」
と、云(いひ)て、詰懸(つめかか)る。
其躰(そのてい)、すさまじく、平三郞、こらへかねて、拔打(ぬきうち)に、切る。
切られて、外へ迯出(にげいづ)るを、追掛(おひかけ)て、外(そと)より、奧へ、掛入(かけいる)。
奧の次の間(ま)には、平三郞母、未寐(いまだねず)して有(あり)ければ、平三郞、
「下女が、不屆(ふとどき)有(あり)て、斬(きり)たり。爰(ここ)まで、迯來(にげきた)れり。出(いだ)し玉へ。」
と、いふ。
母、色(いろ)を正しくして、
「汝、夢ばし、見つるか。其女は、宵より、我側(わがそば)にて、衣(ころも)を縫居(ぬひを)る也。先(まづ)、心を、しづめよ。」[やぶちゃん注:「ばし」は副助詞で、係助詞「は」に副助詞「し」が付いたものが、濁音に変化し、一語化したもの。会話文に多く用い、強調で、ここは「夢でも」「夢なんぞを」の意である。]
と、いふ。
平三郞、驚き、初(はじめ)よりの次第を語れば、母、聞(きき)て、奧に居(ゐ)る平兵衞へ、言葉を懸け、
「あれ、聞玉(ききたま)ふや。」
と云へば、平兵衞、動ぜぬ者故(ゆゑ)、
「若輩者、狸に化(ばか)されつらん。」
と、言(いひ)て、出(いで)もやらず。
平三郞、手もちなく、退(しりぞ)き、若黨どもを呼(よび)て、此事を語り、屋敷の内を尋見(たづねみ)れども、何の怪(あやし)き事も、なし。
部屋へ、歸(かへり)て見れば、燗鍋(カンなべ)も、なし。
又、酒、吞(のみ)たる樣(やう)に[やぶちゃん注:「は」を補いたい。]、心持(こころもち)もなく、覺(おぼえ)たり。
刀を見れば、川に有(ある)「さい」の樣成(やうなる)もの、少(すこし)、付(つき)たり。[やぶちゃん注:「さい」は恐らく「菜」で、淡水の「藻(屑)・水草」の意であろう。]
其中(そのうち)に、俄(にはか)に、大雨(おほあめ)、降出(ふりいだ)しける故、皆、部屋へ入(いり)て、休みぬ。
其雨、夜中、夥敷(おびただしく)降(ふり)て、
「二淀川筋(によどがはすぢ)、洪水にて、堤(つつみ)抔(など)、危(あやふ)し。」
と、百姓共、告(つげる)に任せ、平兵衞、早天(さうてん)[やぶちゃん注:早朝。]に、家人(けにん)お[やぶちゃん注:ママ。「を」の誤記。]、隨へ、船にて、川筋へ出(いで)て、人夫を集め、堤の危き所を、ふせがしむ。
平三郞は、若輩なれば、別船(べつぶね)に有(あり)て、鉢卷に、裾(すそ)をからげ、すこやかに出立(いでたち)、下知(げち)をなす所に、平三郞が乘(のり)たる船の脇へ、水中より、女(をんな)、一人(ひとり)、浮(うか)み出(いづ)ル。
平三郞、是を見て、父に向ひ、
「夜前(やぜん)の女は、是(これ)にて候。」
と、いへば、女は、其儘、水中に入(いり)ぬ。
上下(うへした)、驚き、
「又もや。出(いで)ん。」
と、守り居(ゐ)たる所に、思ひもよらず、船の艫先(ともさき)[やぶちゃん注:「艫」には船尾の「とも」と、逆に舳先(へさき)・みよし、則ち、船首の意がある。直後以下のヴィジュアルには舳先がいいように、一見、思われるのだが、「思ひもよらず」という前の添え文からは、乗っている人々が目を向けることが少なかろうと思うところの船尾の意の方がリアルであると私は考える。]に浮み出(いで)、船を、くつがへす。
是を見て、水煉[やぶちゃん注:ママ。「水練」の誤記。]の達者なる人夫ども、我も、我も、と、平三郞を助(たすけ)ん爲(ため)、水中(すいちゆう)に飛入(とびいり)、水底(みなそこ)を尋廽(たづねまは)るに、船中(せんちゆう)の者、悉(ことごと)く助(たしか)り上(あが)るに、平三郞一人(ひとり)、形も見へず成(な)りぬ。
平兵衞、今の妻に、語る。
「我、加賀に在(あり)し妻、恨(うらみ)を含(ふくみ)て自殺せしと聞(きき)しが、水中より浮(うか)み出(いで)たる女は、加賀に在し妻が顏形(かほかたち)に、少しも、違(たが)はず。かれ、吾を恨みぬれども、吾には、恐(おそれ)て、仇(あだ)をなさず、若年成(なる)平三郞が命を、取(とり)たると、覺(おぼゆ)る。」
と、言(いひ)し、とぞ。
此(この)平兵衞、心行(こころゆき)、不宜(よろしからず)[やぶちゃん注:心持ちが悪しくなって。ノイローゼ・鬱病の類いである。]、終(つひ)に、當國(たうごく)に住居難成(すみゐなりがたく)、國を立退(たちのき)、後(のち)、行衞不知(ゆくへしらず)、とぞ。
[やぶちゃん注:「金吾中納言秀秋」小早川秀秋(天正一〇(一五八二)年~慶長七(一六〇二)年)は安土桃山時代の武将。金吾は通称。左衛門佐・権中納言。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれ、秀吉の猶子となり、丹波亀山十万石を領し、羽柴秀俊と名のった。文禄三(一五九四)年、小早川隆景の養子となる。同年十一月、中国に下向して三原城(現在の広島県三原市)に入り、毛利輝元の従妹を妻とした。翌年、家督を嗣ぎ、隆景から筑前一国と、筑後の大部分、肥前二郡、計三十三万六千石を譲り受け、隆景は三原に隠居、代わって、秀秋は筑前名嶋(なじま)城に移った。慶長二(一五九七)年、朝鮮に出陣。釜山浦(ふざんほ)城の守将となり、また蔚山(うるさん)城の救助に活躍し、帰国した。しかし、その後、秀吉の怒りに触れ、越前北庄(きたのしょう)に移封されようとしたが、徳川家康の取り成しで筑前に留まる。慶長四年、秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後五十二万二千五百石を得る。翌年の「関ヶ原の戦い」では、西軍として伊勢口を守り、伏見城を攻めたが、九月の「関ヶ原決戦」時には東軍に応じた。戦功により、家康から備前・美作(みまさか)に於いて五十万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長七年、二十一歳の若さで死去した。秀秋には嗣子がなく、備前・美作は収公され、小早川本宗家は断絶した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「小河平兵衞」不詳。しかし、調べる内、長沢理永なる人物の土佐の随筆「土陽隱見記談」(どよういんけんだん:宝暦三(一七五三)年写本・高知県立高知城歴史博物館「山内文庫」蔵)に全く同じ話が載る。「国書データベース」の写本のここから視認出来る。というか、この本、ざっと見たところ、しかも、本書より六十四年も前のものであるから、寧ろ、本篇だけでなく、幾つかの怪奇談は、実は、先行するこの書に基づいて書かれたものと断定出来る。なお、古くには、よく覗かせて貰ったサイト「座敷浪人の壺蔵」の「あやしい古典の壺」の同書の同話の全現代語訳を参照されたい。
「感狀」功のあった者に対し、主家や上官から与えられる賞状。中世では、知行を宛て行なう旨を記した書状を指す場合が多い。「感書」(かんじょ)・「勘状」とも言う。
「深尾主水」山内家家臣で土佐藩筆頭家老、の深尾重忠(永禄一二(一五六九)年~明暦四(一六五八)年)の幼名。当該ウィキによれば、『南宗』(読み不明)『深尾家初代』とあり、『深尾重三の子として誕生し』、『その後』、同族の『深尾重良の養子にな』った。『山内一豊に近江国長浜へ養父・重良と共に招かれ』、百『石、次いで』二百『石を得る』。「小田原征伐」で『功を挙げ』、『さらに』二百『石を加える』。「関ヶ原の戦い」でも『功があり、一豊が土佐国藩主になると、重良は首席家老』一『万石、重忠は別に』二千『石を給わった』。『その後、人質として妻子と共に』十六『年間』、『江戸で暮らす。土佐藩』二『代藩主』『山内忠義を輔けて功を挙げ』、五千『を賜る。しかし』、『藩命により、重良は一豊の弟』『康豊の三男』である『重昌を養子とし、重忠の娘と配して家名を継がせることとなり、重忠は南宗深尾家を興し、家老の一員となる。元和』八(一六二二)年、『忠義の命を奉じて、野中直継、寺村淡路、乾和三らと共に土佐領内の仕置を定める』。明暦四年三月十一日に『病死した』とある。
「忠義公」土佐藩第二代藩主山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。当該ウィキによれば、『山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれ』、慶長八(一六〇三)年に『伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る』。同十年、『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長』一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦した。なお、この時』、『預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し、豊臣方に加わるという珍事が起きている』。翌慶長二十年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』慶長十七年に『法令』七十五『条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永』八(一六三一)年『からは』、『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月三日に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。
「七郡」当時の土佐藩は、安藝郡・香美(かみ/かがみ)郡・長岡郡・土佐郡・吾川(あがは)郡・高岡郡・幡多郡の七郡からなっていた。
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