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2024/09/30

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木芙蓉

 

Fuyou

 

もくふやう  地芙蓉 木蓮

       𬜻木  杹木

       拒霜

木芙蓉

       【只云不也宇】

[やぶちゃん注:「もくふやう」はママ。]

 

本綱木芙蓉揷枝卽生小木也其幹叢生如荆高者丈許

其葉大如桐有五尖及七尖者冬凋夏茂秋半始着花花

類牡丹芍藥有紅者白者千葉者最耐寒不落不結實取

其皮爲索

𣷹色拒霜花 木芙蓉之異種【四川廣州出之】其花初開時白色

[やぶちゃん注:「𣷹」は「添」の異体字。]

 次日稍紅又明日則深紅先後相間如數色

葉花【微辛】清肺凉血散熱解毒治一切癰疽惡瘡

 清凉膏【清露散鐵箍散】 芙蓉葉【或根皮或花或生研或乾】細末以宻調塗

 于腫𠙚四圍中間留頭乾則頻換之治癰疽發背乳癰

 惡瘡初起者卽覺清凉痛止腫消【已成者卽膿聚毒出已穿者卽膿出昜歛】

[やぶちゃん注:「歛」は「斂」の異体字。]

妙不可言或加生赤小豆末尤妙也

△按木芙蓉其樹葉花實皆似木槿而大艷美七月開花

 桃紅色或純白或紅白相半有單瓣有千瓣皆朝開暮

 萎毎枝數朶更開逐日盛其花落結實亦如木槿輕虛

 有薄皮裹細子大如蕎麥冬葉盡落而實殼尙不零拒

 霜之名義𢴃此乎自裂子墮𠙚能生揷枝亦昜活然本

 草所謂花耐寒不落不結實之文未審

 

   *

 

もくふやう  地芙蓉       木蓮

       𬜻木《くわぼく》  杹木《くわぼく》

       拒霜《きよさう》

木芙蓉

       【只《ただ》、云ふ、「不也宇」。】

[やぶちゃん注:「もくふやう」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『木芙蓉は、枝を揷し、卽ち、生ず。小木なり。其の幹、叢生す。荆《いばら》のごとく、高い者、丈許《ばかり》。其の葉、大いさ、「桐」のごとく、五≪つの≫尖《とがり》、及び七≪つの≫尖の者、有り。冬、凋み、夏、茂(しげ)り、秋の半《なかば》に、始めて花を着《つく》。花、「牡丹」・「芍藥」に類《るゐ》≪し≫、紅の者、白き者、千葉《やへ》の者、有り。最も寒に耐へて、落ちず。實を結ばず。其の皮を取りて、索(なは)と爲す。』≪と≫。

『𣷹色拒霜花(てんしよくきよさうくわ)』≪は≫、『木芙蓉の異種【四川・廣州[やぶちゃん注:現在の広東省と広西チワン族自治区。]、之れを出だす。】≪なり≫。其の花、初めて開く時、白色、次《つぎ》≪の≫日、稍《すこし》く紅《くれなゐ》なり。又、明《あく》る日、則ち、深紅≪たり≫。先後《せんご》、相間《あひまぢ》りて、數色《すしよく》のごとし。』≪と≫。

『葉・花【微辛。】肺を清《きよ》≪くし≫、血を凉《すずしく》し、熱を散じ、毒を解す。一切≪の≫癰疽《ようそ》・惡瘡《あくさう》を治す。』≪と≫。

『清凉膏【「清露散」・「鐵箍散《てつこさん》」。】』『芙蓉の葉【或いは、根の皮。或いは、花。或いは、生《を》研《けずる》。或いは乾《ほす。》】≪を≫細末にして、宻《みつ》[やぶちゃん注:糖蜜。]を以つて、調へ、腫≪れる≫𠙚の四圍に塗《ぬり》て、中間《ちゆうかん》に頭[やぶちゃん注:腫れ物の形成されてある腫瘍部分の真上。]を留《と》む。乾(かは)ける≪時は≫、則ち、頻りに、之れを換ふ。癰疽・背に發せる[やぶちゃん注:返り点はないが、返して訓読した。]≪癰疽≫・乳≪に發せる≫癰・惡瘡を治す。起≪き≫初≪めの≫[やぶちゃん注:同前で訓読した。]者は、卽ち、清凉を覺≪え≫、痛≪みを≫止め、腫《れを》を消す【已に≪腫れ物と≫成れる者は、卽ち、膿《うみ》を聚《あつ》め、毒を出≪だす≫。已に穿《うが》れる者は、卽ち、膿を出だし、歛《れん》[やぶちゃん注:収斂効果。]を昜《やす》くす。】。妙≪なること≫、言ふべからず。或いは、生《なま》の赤--豆(あづき)の末《まつ》を加へて、尤も、妙なり。』≪と≫。

△按ずるに、木芙蓉は、其の樹・葉・花・實、皆、「木槿《むくげ》」に似て大きく、艷美なり。七月、花を開き、桃紅色、或いは、純白、或いは、紅・白≪の≫相《あひ》半(なかば)す。單瓣《ひとへ》、有り、千瓣《やへ》、有り、皆、朝、開き、暮に萎(しぼ)む。枝毎《ごと》[やぶちゃん注:返り点はないが、返って訓じた。]≪に≫、數朶《すだ》≪あり≫、更に開きて、日を逐《おひ》て、盛《さかん》なり。其の花、落ちて、實を結ぶ。亦、「木槿(むくげ)」のごとく、輕虛≪にして≫、薄皮、有りて、細≪かなる≫子≪たね≫を裹《つつ》む。大いさ、「蕎麥《そば》」≪の實≫のごとし。冬、葉、盡《ことごと》く落ちて、實の殼、尙を[やぶちゃん注:ママ。]、零《お》ちず。「拒霜」の名義、此れに𢴃《よ》るか。自《おのづか》ら、裂《さけ》て、子《たね》、墮《お》つる𠙚、能く生(は)へ[やぶちゃん注:ママ。]、枝を揷(さ)して、亦、活《いき》昜《やす》し。然《しか》るに、「本草」に、所謂《いはゆる》、『花、寒に耐へて、落ちず。實を結ばず。』の文《ぶん》、未-審(いぶかし)。

 

[やぶちゃん注:「木芙蓉」は、日中ともに、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis

であり、当該の「維基百科」も「木芙蓉」である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『種小名 mutabilisは「変化しやすい」(英語のmutable)の意。「芙蓉」はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれる。中国名は、木芙蓉』。『中国原産といわれている。中国、台湾、日本の沖縄、九州・四国に分布する。日当たりのよいところを好み、暖地の海岸に近い林などに自生する。日本では関東地方以南で観賞用に栽培され、庭木や公園樹、街路樹としても植えられる』。『落葉広葉樹の低木で、幹は高さ』一~四『メートル』『になる。寒地では冬に地上部は枯れ、春に新たな芽を生やす。樹皮は灰白色から淡褐色をしており、滑らかで縦に筋や皮目がある』。『葉は互生し、表面に白色の短毛を有し掌状に浅く』三~七『裂する』。七~十『月初めにかけてピンクや白で直径』十~十五センチメートル『程度の花をつける。朝咲いて夕方にはしぼむ』一『日花で、長期間にわたって毎日次々と開花する。花は他のフヨウ属と同様な形態で、花弁は』五『枚で回旋し』、『椀状に広がる。先端で円筒状に散開するおしべは根元では筒状に癒合しており、その中心部からめしべが延び、おしべの先よりもさらに突き出して』五『裂する』。『果実は蒴果で、毛に覆われて多数の種子をつける。果実が熟すと上向きに』五『裂して、種子を出す。冬でも多くの果実がついていることがある』。『冬芽は裸芽で枝と共に星状毛に覆われており、枝先に頂芽がつき、側芽は枝に互生する。葉痕は心形や楕円形で、維管束痕が多数輪になって並ぶ』。『同属のムクゲ』(フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus )『と同時期に良く似た花をつけるが、直線的な枝を上方に伸ばすムクゲの樹形に対し、本種は多く枝分かれして横にこんもりと広がること、葉がムクゲより大きいこと、めしべの先端が曲がっていること、で容易に区別できる。フヨウとムクゲは近縁であり』、『接木も可能』である。『南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などではフヨウの繊維で編んだ紐や綱が確認されている』(☜)。『甑島列島(鹿児島県)の下甑町瀬々野浦では』、『フヨウの幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されている。ビーダナシは軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである。現存するビーダナシは下甑島の歴史民俗資料館に展示されている』四『着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである』。以下、「変種・近縁種」の項から。本来、ここには不要かと思うが、フヨウは私の好きな花なので掲げることとする。

○スイフヨウ(酔芙蓉)Hibiscus mutabilis (『朝』、『咲き始めた花弁は白いが、時間がたつにつれてピンクに変色する八重咲きの変種であり、色が変わるさまを酔って赤くなることに例えたもの。なお、「水芙蓉」はハスのことである。混同しないように注意のこと』)

○サキシマフヨウ(先島芙蓉)Hibiscus makinoi (『鹿児島県西部の島から台湾にかけて分布する。詳細は』当該ウィキ『を参照』)

○アメリカフヨウ(草芙蓉)Hibiscus moscheutos (英語: rose mallow:『米国アラバマ州の原産で』、七『月と』九『月頃に直径』三十センチメートル『近い巨大な花をつける。草丈は』五十センチメートルから一・六〇メートル『くらいになる。葉は裂け目の少ない卵形で花弁は浅い皿状に広がって互いに重なるため』、『円形に見える。この種は多数の種の交配種からなる園芸品種で、いろいろな形態が栽培される。なかには花弁の重なりが少なくフヨウやタチアオイ』(アオイ亜科タチアオイ属タチアオイ Althaea rosea )『と似た形状の花をつけるものもある。日本での栽培も容易であり、多年草であるため』、『一度植えつければ毎年鑑賞することが可能』)

○タイタンビカス Hibiscus × Titanbicus(『日本で作出された園芸品種』で、前記『アメリカフヨウとモミジアオイ』(フヨウ属モミジアオイ Hibiscus coccineus )『の交配選抜種』。六『月下旬』から十『月初頭に』十五センチメートル『ほどの花を多数つける。草丈は』一~二メートル『ほど。葉はモミジ葉』で、所謂、『ハイビスカスそっくりの南国風の花であるが』、『北海道等の寒冷地』を含め、『日本全国での屋外栽培・屋外越冬が可能。栽培もいたって容易である』)

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木芙蓉」([088-70a]以下)の独立項のパッチワーク。

「杹木《くわぼく》」「杹」一字で木芙蓉=フヨウを指す漢語。

「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora

「𣷹色拒霜花(てんしよくきよさうくわ)」中文の「百度百科」の「拒霜」を見るに、「木芙蓉」の別名である。そこの「出典」に、北宋の文学家・歴史学者宋祁(そうき 九九八年~一〇六一年)の「益都略記」(正しくは「益部方物略記」)から引いてある。当該書を「中國哲學書電子化計劃」の同書で確認すると(ガイド・ナンバー「62」)一部に手を加えた)、

   *

右添色拒霜花【生彭・漢・蜀州。花常多葉、始開白色、明日稍紅、又明日則若桃花然。】

   *

とあった。

「清凉膏」「清露散」「鐵箍散」孰れも不詳。「箍」は訓は「たが」で、お馴染みの桶や樽などを締める竹や金属製の輪を言う。ここは、恐らく、体内の病的に弛んだ様態を正常に戻すための強い矯正効果を換喩したものとは思われる。

「赤--豆」これは、マメ目マメ科マメ亜科アズキ変種アズキ Vigna angularis var. angularis の種子を基原とする生薬「赤小豆(せき/しやくしやうづ)」(せきしょうず/しゃくしょうず)を指す。「ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「赤小豆(セキショウズ・シャクショウズ)」に詳しいので、参照されたい。

「蕎麥《そば》」ナデシコ目タデ科ソバ属模式種ソバ Fagopyrum esculentum

『然《しか》るに、「本草」に、所謂《いはゆる》、『花、寒に耐へて、落ちず。實を結ばず。』の文《ぶん》、未-審(いぶかし)』このような特異なフヨウの種があるのか、どうか、少しは調べてみたが、私には判らなかった。識者の御教授を乞うものである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 犬神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。] 

     犬神

 「御伽婢子(ヲトギバウコ)」といへる草紙(さうし)に、『土佐國幡多と云(いふ)所に犬神(いぬがみ)といふ物(もの)、有(あり)。』とて、此病(このやまひ)、唐土(もろこし)にも有(ある)事を載(のせ)たり。

 しかれ共(ども)、此國に不限(かぎらず)、「四國の犬神」にて、其中(そのうち)、阿波・土佐に、多し。いつ頃、渡りし事を不知(しらず)。

 按ずるに、昔、元親朝臣(もとちかあそん)、朝鮮の生捕(いけどり)を、あまた、此國へ、連れ來(こ)られしが、若(もし)、其時より、傳へたる事も、あらんか。

 先年、南都の梅田淸兵衞、當地へ下りし時、咄(はなし)に、

「奈良にも、狐付(きつねつき)、多し。その時は、『封じ物』にて、爪の間(あひだ)を探ると、直(ただち)に退(しりぞ)くもの也(なり)。」

とて、封じ物を見せぬ。

 筆の軸(ぢく)程(ほど)ある竹を、三寸程に切(きり)て、先(さ)きを、そいで、其內(そのうち)へ、「封じ物」を入(いれ)たるもの也。狐は人に付(つく)と、虛然(ウツカリ)して居(を)る故、每度(まいど)、犬に喰殺(くひころ)さる、よし。

「その狐の附(つき)たるは、戾る所なき故(ゆゑ)、一生、不退(しりぞかず)、死にいたるもの、多し。」

とかや。

 

[やぶちゃん注:私は、二〇二一年四月から二〇三二年一月にかけて、ブログ・カテゴリ『浅井了意「伽婢子」』で、正規表現・オリジナル注附きで全篇を電子化を終えている。ここで言及されているのは、「伽婢子卷之十一 土佐の國狗神 付金蠶」である。そこでも相応に考証しているが、そこにもリンクさせてある、それ以前の、「古今百物語評判卷之一 第七 犬神、四國にある事」での私の考証(特に、ここでは、「此病(このやまひ)、唐土(もろこし)にも有(ある)事を載(のせ)たり」とする部分に就いてである)で、十全にその関連性を述べておいたので、そちらを読まれたい。言っておくが、私の注は、かなり膨大であるので、覚悟して見られたい。結論から言うと、根っこは古代中国に於いて存在した呪術「蠱毒」の焼き直しとするのが、私の結論である。

「元親朝臣」長宗我部元親。先行する「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既出既注。

「朝鮮の生捕」文禄元(一五九二)年から従軍した「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」での捕囚を指す。しかし、西日本に広く分布する犬神信仰の存在は、こんな新しい時代に四国を発信のルーツとするとは、到底、考えられない。手っ取り早い、空起源説と言わざるを得ない。

「狐」南都奈良の者の語りであるから、別段、問題はないが、一応、言っておくと、既に述べているが、四国には狐(食肉目イヌ科キツネ属アカギツネ 亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica )は、近世、或いは、近代まで、四国には棲息していなかったのではないかと私は考えている(現在は、少数の群が確認されている。これは人為的に本土から持ち込まれたものと私は疑っている)。民俗学的にも、四国に狐憑きが殆んど見かけられず、犬神憑きが台頭しているのは、その証拠であると思っている。因みに、ホンドタヌキは四国に分布しており、実際の狸や妖狸の話は、江戸時代にも普通に見られる。

『筆の軸(ぢく)程(ほど)ある竹を、三寸程に切(きり)て、先(さ)きを、そいで、其內(そのうち)へ、「封じ物」を入(いれ)たるもの也』これは先に示した二つのリンク先で言及した「管狐(くだぎつね)」である。但し、この異獣は、「きつね」「狐」と附帯するものの、諸地方の語りの様態を見ると、ルーツは狐ではないと断言出来る。古層の「くだぎつね」の話に出るそれは、決して、狐の姿をしていないからであり、これは、寧ろ、中国の「蠱毒」がルーツである、異様な、ごく小さなゴブリンみたようなものをイメージとして伝えているからである。]

2024/09/29

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡下山郷【黑尊大明神】神威

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。] 

     幡多郡下山郷【黑尊大明神】神威

 幡多郡下山郷(しもやまがう)、奧家內村(おくやないむら)、黑孫山(くろそんやま)に社(やしろ)、有(あり)、「黑尊大明神(くろそんだいみやうじん)」といふ。

「神靈は此山の大蛇也。」

と云(いひ)傳へり。

 靈驗(れいげん)有(あり)て、所願を、よく叶(かな)へり。

 元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]の比(ころ)、此(この)黑尊、村に富栄(ふえい)の農夫あり。

 かれが下部(しもべ)、常に此社を信じ、每朝、社へ拜する事、多年、怠らざりしが、或時、此川端に出(いで)て、草、刈居(かりをり)たりしが、その辺(あたり)の木の下より、山鳥、一羽、飛出(とびいで)て、向ふなる宮林(みやばやし)の中に入(はい)るを、

「追掛(おひかけ)、取らん。」

とするに、又、飛去(とびさ)る事、十間[やぶちゃん注:]斗(ばかり)と覚へ[やぶちゃん注:ママ。]て、少し、小髙き所へ止(とま)るを、したひ、谷を下りにゆけば、一つの樓門に至る。

 彼(かの)下部、忙(いそぎ)て、門內を、さしのぞけば、身の長(たけ)五尺餘り、顏、うるはしきこと、玉(たま)の如く、唇は赤く、歯、白く、髮、紺靑(こんじやう)の糸の如くなる人、玄關より、白き布衣(ホイ)に、黑き立烏帽子(たてえぼし)、着たるが、走出(はしりいで)て、下部を、まねきに[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本(61)も同じだが、原写本の「く」の誤記であろう。]、近き[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本も同じ。「近づき」の脱字であろう。]、見入(みいり)たれば、宮殿・樓閣、谷こと(ダンゴト)[やぶちゃん注:「谷こと」へのルビで、「ダン」はママ。国立公文書館本(61)では、朱で「タニゴト」とある。]に立(たち)つらなれり。

 彼(かれ)[やぶちゃん注:布衣の男。]、

「是へ。」

と、下部を伴ひゆくに、金銀の壁、琥珀(こはく)の欄干(おばしま)、𤥭瓅のすだれ、眞珠の瓔珞、五色の玉を庭のいさ子(ご)[やぶちゃん注:「砂子」。]として、泉水をたゝへ、色々の草木(くさき)、花、咲(さき)、名もしらぬ鳥、誠に奇麗なる事、いふ斗(ばかり)なし。[やぶちゃん注:この「𤥭は「近世民間異聞怪談集成」の判読を最終的に採用した。頗る難しい漢字で、孰れも実際の使用例を私は漢詩文等でも見たことが一度もないのだが、国立公文書館本(61)の当該部を見ても、この漢字を候補として判読するのは、なかなかに肯んずる以外にはないからである。いろいろな漢字の部分や漢語二字熟語を、《高価な簾の玉》を意味する語を念頭に、いろいろ考え、崩し字のデータで部分比較もしたが、ピンとくる漢語はこの崩し字では、遂に、発見出来なかった。今までの「近世民間異聞怪談集成」のトンデモ誤判読を、多数、見て呆れていた私としては、この判読は、字形としては、(へん)・(つくり)の崩し方からは、非常にガンバった選択として評価は出来ると感じては、いる。しかし、この熟語、中文サイトでも見出せない。「近世民間異聞怪談集成」でも、あるべき編者の補助ルビも存在しない。失礼乍ら、この字に起こしておきながら、編者はこの漢字を読めていない、則ち、意味も判っておられないままに、放置プレイと決め込んだ「クソ」としか断ずるほかは、ない、のである。まず、元写本自体のトンデモ誤字であると判断せざるを得ないと私は考えるに至った。而して、一時間に亙って、いろいろな漢語・熟語を想起し、検索をし続けたところ、一つ、なんとまあ! 私の電子化注した「伽婢子卷之九 下界の仙境」にあった熟語に偶然にも行き逢った(まことに偶然であるが、次の「犬神」で「伽婢子」への言及がある)。それは、「𤥭(しやこ)の簾(すだれ)」で、これは、かの巨大な斧足類(二枚貝類)のシャコガイの殻を磨き上げて玉とした簾の意である。しかも「」の字は崩せば、「」に見違える可能性が高いのである。さらに高級簾の構成物としては、すこぶる相応しいのだ。他に、この「」(音「レキ」)」は「玓という熟語ならば、「真珠が明るく輝くさま」を意味するので、それも考えたが、「玓」の崩しではあり得ないのだ。されば、私は、ここは「𤥭(しやこ)すだれ」の原写本の誤記と断ずることと決した。やっぱり、「近世民間異聞怪談集成」のこの「神威怪異竒談」は、レベル、低いわい。

 又、奧のかたには、婦人の聲して、うたひ舞ふ音、しけり。彼(かの)人、座に、ついて、下部に謂(いひ)ていはく、

「我は是、黑尊の神也。汝、我を信ずる事、多年也。我館(わがやかた)を見せんため、是迄、汝を呼寄(よびよ)せたり。」

とて、玉の盃(さかづき)、出(いだ)されて、種々の饗應、善美を盡(つく)して、彼(かの)神、織物一巻、持出(もちいで)て、仰せけるは、

「汝を冨貴の身となすべきゆゑ、此(この)巻物を、とらするぞ。」

とて、賜りけるを、下部、押(おし)戴き、拜礼

 其時、神の仰(おほせ)には、

「汝、はやく、歸るべし。歸りてのち、此事を、必(かならず)、人に、語るべからず。」

と、宣(のたま)ひければ、

「さらば。」[やぶちゃん注:「了解」や「御意」の意。]

と暇(いとま)申(まうし)て、立出(たちいで)、

『一、二町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]も、うつゝの如く、步むぞ。』

と思ひしが、今迄、通りし道もなく、叢中(ミヤハヤシ)[やぶちゃん注:叢(くさむら)の中。但し、訓は神域の禁足地の意である。]に虛然(ウツカリ)として、立居(たちをり)たり。

 漸(やうやう)、正氣に成(なり)て、吾家(わがや)に歸るに、巻物を持(もて)るを、主人、見て、不審を成しければ、

「斯(かか)る事の、候(さふらへ)つる。」

と、初(はじめ)よりの次㐧(しだい)を、有(あり)のまゝにぞ、語りける。

 家內のものども、身の毛、よだちて、驚きあひぬ。

 其時、彼下部、忽(たちまち)、顏色(がんしよく)、變り、亂心し、をどり上(あが)りて云(いはく)、

「我は黑尊の神也。おのれ、『人に洩(もら)すな。』と堅く申(まうし)ふくめしを、早くも、人に、語りしぞ。」

と、大(おほき)に𠹤(いか)り、

『走出(あしりいづ)るよ。』

と、見へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、かきけす如く、行方(ゆくへ)不知(しらず)とかや。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡下山郷、奧家內村、黑孫山」「黑尊大明神」現在の高知県四万十市西土佐奥内(にしとさおくないやない)にある黒尊神社(くろそんじんじゃ:グーグル・マップ・データ)。かなりの山奥である。サイド・パネルの画像も多数あるが、私は、最初にサイト「ぐるっとママ高知」の「【四万十市】大蛇伝説の残る『黒尊神社』商売繁盛祈願に他県から訪れる人も」の記事で位置を知ったので、そちらを読まれることを、お薦めする。

「山鳥」日本固有種で、タイプ種はキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii であるが、当該ウィキによれば、『生息する地域によって羽の色が』、『若干』、『異なり』、五『亜種に分けられている』とあり、ここでは、シコクヤマドリ(四国山鳥) Syrmaticus soemmerringii intermedius であろう。大正八(一九一九年)に愛媛県で採集された標本によって別亜種として記載された種で、『兵庫県南部および中国地方(鳥取県、島根県南部、岡山県、広島県、山口県東部)と四国地方(香川県、徳島県、高知県)に分布するとされ』、『細長い尾羽を持ち、全身の羽色はやや濃色』。『腰の羽毛は羽縁が白く、肩羽や翼の羽縁がやや白い』とある。詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を見られたい。

「布衣」「ほうい」とも読むが、江戸時代は圧倒的に「ほい」と読む。所謂、「狩衣」(かりぎぬ:平安以来の装束の一種。袖と前身頃(前裑)(まえみごろ:「身衣」(みごろも)の略。衣服の襟・袖・衽(おくみ:着物の左右の前身頃に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布。「おくび」とも呼ぶ)などを除いた、体の前と後ろを覆う部分の総称。前身頃と後ろ身頃があった)が離れ、背後で五寸(約十五センチメートル)ばかり連結した闕腋(けってき)衣の系統で、袖口には袖括(そでくくり)の紐があるのを特色とする。元来は狩猟などの野外用の衣服であったが、朝服のように制約がないので、後に一般の私服となり、色・地質・模様とも華麗なものが作られた。後には武家の正装とされた(諸辞書をハイブリッドにした)。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 白槿

 

Hakukin

 

はくきん  △按雖有槿

      名其葉花無

      似木槿之語

白槿

 

 

農政全書云白槿生山谷中樹高五七尺葉似茶葉而甚

潤大光潤又似初生青岡葉而無花叉又似山格剌葉亦

大開白花其花味苦

[やぶちゃん注:注で示すが、「農政全書」の「白槿」では、この文末の「其花味苦」は「其葉味苦」となっているので、訓読では、訂した。これは東洋文庫でも補正割注が打たれてある。

 

   *

 

はくきん  △按ずるに、「槿《きん》」の名、有ると

      雖も、其の葉・花、「木槿《むくげ》」に

      似たるの語《ことば》、無し。

白槿

 

 

「農政全書」に云はく、『白槿は山谷の中に生《しやうず》。樹の高さ、五、七尺。葉は、「茶」の葉に似て、甚だ、潤《うるほ》≪ひて≫大きく、光潤《かうじゆん》≪たり≫[やぶちゃん注:光沢がある。]。又、初生の「青岡《せいかう》」の葉に似て、花≪の≫叉《また》、無し[やぶちゃん注:花が苞で分岐することがないという意か。]。又、「山格剌《さんかくし》」の葉に似、亦、大なり。白≪き≫花を開く。其の葉、味、苦し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:さても。この「白槿」なるのものは、如何なる樹木であるか、この――「白槿」――では、日本語及び中国語で検索してみても、植物名(古名)としては、全く掛かってこない。

 まず、引用の「農政全書」は、これ、複数回既出であるが、再掲しておくと、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。

 さて、以上の引用は、同書の「卷五十四 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の「木部」にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[054-19b] に、

   *

白槿樹 生宻縣梁家衝山谷中樹髙五七尺葉似茶

葉而甚濶大光潤又似初生青岡葉而無花叉又似山

格刺樹葉亦大開白花其葉味苦

  救飢 採葉煠熟水浸淘浄油鹽調食

   *

である。既に原文で注した通り、ここで、本文末は「其葉味苦」(其の葉、味、苦し。)とある。

 また、東洋文庫では、葉の出始めの葉が似ているとして出す「青岡」については、後注して、「農政全書」の『荒政、木部に、青岡の樹の枝葉条幹は橡櫟に類しているが、葉の色は大へん青い。木が大きくて橡斗(み)を結ぶものが橡櫟であり、木が小さくて橡斗を結ばないものが青岡である、とある。』とある。これも同巻のガイド・ナンバー[054-26b]に以下のように出る。

   *

青岡樹 舊不載所出州土今䖏䖏有之其木大而結橡斗者為橡櫟小而不結橡斗者為靑岡其青岡樹枝葉條幹皆類橡櫟但葉色頗靑而少花叉味苦性平無毒

  救飢 採嫩葉煠熟以水浸漬作成黃色换水淘洗浄油鹽調食

   *

さらにまた、成葉が似ているとする「山格剌」についても後注して、『農政全書、荒政、木部に密気県(河南省)山中にある。葉は白槿の葉に似ていて大へん短く、尖って上を向いている。また茶の樹』の『葉に似ているが』、『闊(ひろ)く大きい。』とある。全く同前で、ガイド・ナンバー[054-36b] に以下のように出る(「𧣪」は(へん)の「角」は「⻆」の字体)。

   *

山格刺樹 生宻縣韶華山山野中作科條生葉似白槿樹葉頗短而尖𧣪又似茶樹葉而濶大及似老婆布䩞葉亦大味甘

  救飢 採葉煠熟水浸作成黄色淘洗浄油鹽調食

   *

とある。にも拘わらず、東洋文庫版の訳者は、「白槿」・「青岡(樹)」・「山格刺(樹)」総てに就いて、一切の現在の植物を同定比定していないので、判らないということで、放置プレーを敢行していることになる。

 しかし、私は、

この似ているとする二種が、もし、明らかになるものであれば、ここには、「白槿」に至らないまでも、迂遠ながらも、その正体の近くまでは、辿りつける糸口が、あるのではないか?』

と考えた。

 そこで、まず、「青(靑)岡」なのであるが、これは、まず、確実に、

双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属アラカシ Quercus glauca

であることが判明した。「維基百科」の同種は「青刚栎」(繁体字に直せば、「靑剛櫟」である)。実はこれらに先んじて、決定打を捜し出していたのである。個人サイトと思しい膨大な植物を扱った「GOO」の「熱帯地域の花と樹」の中の「外国の樹木についての質問とお答え」にある、gsk2様の質問への投稿者後藤武夫氏の「青岡と烏岡」であった。そこに(学名は斜体に代えた)『青岡は、ブナ科コナラ属のアラカシ( Quercus glauca )の中国名です』。『特にこの樹種を指す英語名は、一般的なものは無いと思いますが、(Blue Japanese Oakとしている人もいますが、一般的になっているとは思えません。)』。『 Quercus glauca という学名ならば、世界中に通用すると思います』。『(又は、Arakashi とローマ字書きするかでしょう。)』。『なお、学名は Cyclobalanopsis glauca と書かれる場合もあります。』とあったからである。

 次に、「山格刺(樹)」であるが、まず、これは、明の皇族で本草学者でもあった朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年:李時珍は一五一八年生まれで、一五九三年没であるから、「本草綱目」よりも前の著作である)の「救荒本草」を、松岡玄達が校訂した享保元(一七一六)年に刊行された「救荒本草」(和刻本)のここに掲載されていた(「国書データベース」の当該項)が、残念ながら、項目名「山格刺樹」のみで、解説はなかった。しかし、「漢籍リポジトリ」の「救荒本草」の『欽定四庫全書』版の「救荒本草卷五」の「木部」「葉可食」のガイド・ナンバー[005-37b]の箇所に(一部の表記に手を加えた)、

   *

山格刺樹  生宻縣韶華山山野中作科條生葉似白槿樹葉頗短而尖𧣪【音肖】又似茶樹葉而闊大及似老婆布䩞葉亦大味甘

 救飢採葉煠熟水浸作成黃色淘洗淨油鹽調食

   *

これを機械翻訳したものを参考に訓読してみると、

   *

山格刺樹  宻縣(みつけん)の韶華山(しやうくわざん)の山野の中に生ず。科條(かでう:幹や枝の意か)を作(な)して生ず。葉は白槿樹の葉に似て、頗(すこぶ)る短かくして、尖(とが)りて、𧣪【音、「肖」。】(するど)し。又、「茶」の樹の葉に似て、闊(ひろ)く、大なり。及び、「老婆布䩞(らうばふてふ)」[やぶちゃん注:「老女が馬に乗る際に鞍の下に敷く布の敷革」の意味のようだが、これは植物名である。「維基文庫」の清の植物学者呉其濬(ごきしゅん)が編纂し、一八四八年に刊行した一種の植物図鑑である「植物名實圖考」の「老婆布䩞」のここに当該植物の枝葉の画像がある。]に似る。葉、亦、大にして、味、甘し。

 救飢(きうき)には、葉を採り、煠(いた)め熟して、水に浸し、黃色に成るまで作(な)す。淘(よな)ぎて洗淨し[やぶちゃん注:水で洗浄して不純物を十全に取り除き。]、油・鹽にて、調(ととの)へ、食ふ。

   *

か。なお、「植物名實圖考」には、「山格刺樹」の同一文とともに、枝葉の画像もあり、上記の「老婆布」の枝葉と非常によく似ていることが判る。しかし、「山格刺」はここまでで、現行の如何なる植物であるかは判らなかった。「和漢三才圖會」の「白槿」の絵は、明白な低木と思われるが、この絵は実物を模写したものではないことは明らかで、同定のヒントにはならない。

 かくして、昨日から、ここまで、ほぼ十二時間を費やして書いたが、結果的には、「白槿」の正体は全く判らず仕舞いとなった。悪しからず。何か、有力な情報や資料を御存知の方は、是非、お教え下されたい。

「茶」ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis 。]

2024/09/28

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 扶桑

 

Bussouge

 

ぶつさうげ 佛桑 朱槿

      赤槿 目及

扶桑

      △按佛桑花來於琉

      球揷枝能活然性畏

      寒冬難育也花正紅

      色無似之者惜哉

 

本綱扶桑產南方乃木槿別種也其樹莖葉皆如桑葉光

而厚木高四五尺而枝葉婆娑其花有紅黃白三色紅者

尤貴呼曰朱槿花色五出大如蜀葵重敷𭩲澤有蕋一條

[やぶちゃん注:「𭩲」は「柔」の異体字。]

長如花葉上綴金屑日光所爍疑若熖生一叢之上日開

數百朶朝開暮落自五月始至中冬乃歇揷樹卽活

 

   *

 

ぶつさうげ 佛桑       朱槿《しゆきん》

      赤槿《せききん》 日及《につきふ》

扶桑

      △按ずるに、「佛桑花」、琉球≪より≫

      來る。枝を揷して、能《よく》活《い》

      く。然《しか》るに、性、寒を畏れ、

      冬、育ち難きなり。花、正紅、色、之

      れに似たる者、無し。惜しいかな。

 

「本綱」に曰はく、『扶桑、南方に產す。乃《すなはち》、木槿《むくげ》の別種なり。其の樹、莖・葉、皆、桑のごとし。葉、光りて、厚し。木の高さ、四、五尺にして、枝葉、婆娑《ばさ》たり[やぶちゃん注:乱れ舞うようである。]。其の花、紅《くれなゐ》・黃・白の三色、有り。紅の者、尤も貴《たふと》し。呼んで、「朱槿」と曰ふ。花色[やぶちゃん注:これは良安の引用パッチワークのミスで、「花瓣」(はなびら)を指している。]、五《いつつ》出《いで》、大いさ、「蜀葵(からあをい[やぶちゃん注:ママ。])」のごとくして、重敷《かなさりしき》、𭩲《やはらか》≪にして≫、《光》澤≪あり≫。蕋《しべ》、一條《ひとすぢ》、有り、長くして、花、葉の上に綴(つゞ)るごとく、金≪の≫屑《くづ》を日光の爍(かゞや)かすにして、疑ふらくは、熖(ほのを[やぶちゃん注:ママ。])の一叢《ひとむら》の上に生ずるがごとし。日《ひ》に、數百朶《すひやくだ》[やぶちゃん注:「朶」は枝に咲いている花房(はなぶさ)を数える際の数詞。]を開く。朝、開き、暮に落つ。五月より始めて、中冬に至りて、乃《すなは》ち、歇(や)む。樹を揷(さ)して、卽ち、活(つ)く。』≪と≫

 

[やぶちゃん注:「扶桑」「ぶつさげ」はともに、

双子葉綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus  rosa-sinensis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『仏桑花』、他に『扶桑花、仏桑華とも。沖縄では赤花』(あかばなー)『ともいう』。『ハイビスカスとも言うが、フヨウ属の学名・英名がHibiscusであることから、この名前は類似のフヨウ属植物を漠然と指すこともあって、複雑なアオイ科』Malvaceae『の園芸種群の総称ともなっている』。『極めて変異に富み』、八千種『以上の園芸品種が知られているが、一般的には高さ』二~五『メートルに達する熱帯性低木で、全株無毛』、時に、『有毛、葉は広卵形から』、『狭卵形』或いは、『楕円形で』、『先端は尖る』。『花は戸外では夏から秋に咲くが、温室では温度が高ければ』、『周年開花する。小さいものでは直径』五『センチメートル、大きいものでは』二十『センチメートルに及び』、ラッパ『状』、又は、『杯状に開き、花柱は突出する。花が垂れるもの、横向きのもの、上向きのものなど変化に富む。花色は白、桃、紅、黄、橙黄色など様々である。通常、不稔性で結実しないことが多い』。五『裂の萼の外側を、色のついた苞葉が取り巻いているので、萼が』二『重になっているように見える。よく目立つ大きな花は花弁が』五『枚で、筒状に合体した雄蕊の先にソラマメのような形の葯がついていて、雌蕊は』五『裂する。果実は』五『室の豆果で、多数の種子が入っている』。『中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間』『に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが最初の記録として残っているという』。私が最も信頼するサイト「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「ぶっそうげ(仏桑華)」では、『琉球には、古くからあるが、いつどこから入ったか不明』。『本州本』土『には、慶長』(一五九六年~一六一五年)『年間に入る。一説に、寛永』八(一六四一)年に『薩摩藩が徳川家康に献上したのが、日本における初見という』とある。『ほぼ一年中咲くマレーシアでは、マレー語でブンガ・ラヤと呼び、国花として制定している。マレーシア国内で使われているリンギット硬貨にも刻印され』、『親しまれている花のひとつである』。『また、ハワイの州花ともなっている』。『日本では南部を除き』、『戸外で越冬できないため、鉢植えとして冬は温室で育てる。鉢植えの土は砂、ピート』(peat:泥炭)『などを多く混ぜた軽いものを用い、ときに液肥をあたえる。繁殖は通常、挿木で行い、梅雨期に一年枝を砂にさし、発根後』、『土に植える。大輪種は在来種に接木を行う必要がある』。『沖縄県では庭木、生垣とする。沖縄南部では後生花』(ぐそーばな)『と呼ばれ、死人の後生の幸福を願って墓地に植栽する習慣がある』。『中国では赤花種の花を食用染料としてシソなどと同様に用い、また熱帯アジアでは靴をみがくのに利用するといわれ、shoe flowerの別名がある』とある。以下に「ブッソウゲを称する他の植物」の項があるが、必要性を感じないのでカットする。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「扶桑」([088-69b]以下)の独立項のパッチワーク。現本文で示したように、継ぎ接ぎを致命的に誤っている部分は、今までも、想像より、遙かに多い(五月蠅くなるので、殆んどは訓読で私が操作補正してきたのである)。そもそも「本草綱目」は、どこもかしこも、複数の異なる、李時珍よりも前の医師・本草家たちの時珍によるパッチワークなのであるから、それを、またまた、パッチワークしてしまえば、トンデモない矛盾が、腐るほど生じてくるのは、火を見るより明らかなのである。

「木槿《むくげ》の別種なり」前項「木槿」で見た通り、木槿は、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus

であるから、同属の別種で正しい。

「桑」これは、日中ともに、双子葉植物綱類バラ目クワ科クワ属 Morus では一致する。但し、中国には自生しない種も分布するので、注意が必要。先行する「桑」を参照されたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 浦戶稲荷社神威

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     浦戶稲荷社神威

 浦戶の稲荷宮(いなりのみや)を、先年、浦戶役人、增田作右衞門と云(いふ)もの、いか成(なる)所存にや、公儀へ願(ねがひ)、中坂といふ所へ移せしに、神、忿(いか)らせ玉ひ、種々(しゆじゆ)の奇怪、多かりしかば、又、舊の社地へ勸請せし、とかや。

 增田氏、神罰、有(あり)て、不思儀の事どもあり、終(つひ)に斷絕せし、と也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「浦戶」現在の高知市浦戸(うらど:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。

「稲荷宮」現在のこの稲荷大明神

「中坂」現在、浦戸の、このトンネル(グーグル・マップ・データ航空写真でないと判らない)を「浦戸隧道」というが、これの旧道が同トンネルの北口の東を折れて登る「中坂隧道」(現在は隧道ではなく、普通の坂道。ストリートビューのこの坂)が存在していたらしいことを、個人サイトの「隧道探訪」の「中坂隧道(浦戸隧道)」 で確認したので、この辺りであろう。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 小高坂森屋舖枕反

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。標題は「こだかさか、もりのやしき、まくらがへし」と訓じておく。]

 

     小高坂森屋舖枕反

 「胎謀記事」に云(いはく)、

『小髙坂、森の屋敷、

「黑田氏以前、東㙒金兵衞、被居(をられ)し。」

と云(いふ)。

 其時分、座敷の内に「枕返し」をする間(ま)、有(あり)ける、と也(なり)。

 出入する座頭を、試(こころみ)に寢させ、見居(みをり)たるに、夜半程に、枕を取(とり)て、

「くるり」

と、寢返り、北枕に成(なり)けるを、其身は不覺(おぼえず)と也(なり)。

 我等、若年の時分、東㙒氏の物語を聞(きき)し。

 東㙒氏の跡へ、黑田氏、居住(すみゐ)、又、其跡へ、生駒市郞太夫、被居し、その家、悉(ことごと)く、こぼちて、今は、小家原(こいへばら)と成(なり)ぬれば、其跡も、しれがたし。』。

 

[やぶちゃん注:「胎謀記事」国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。

「小高坂」現在の高知城西直近の小高坂地区(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の戦前の地図で「小高坂」の地名を確認出来る。

「枕返し」私の「佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事」の同注を参照されたい。

「小家原」「民草の小さな家居が散在する野原」の意であろう。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 土佐山郷廣瀨村洞穴

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     土佐山鄕廣瀨村洞穴

 土佐山郷、廣瀨村の「日比原」・「大瀧」の中間に、岩穴、有(あり)。

 穴の口、二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]斗(ばかり)、東向也。其下は大川の流(ながれ)にて、穴の深さ、廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]余あり。

 內(うち)は砂にて、三尺半斗の石壇、有(あり)。

 上の面(めん)には灰の樣成(やうなる)物、有。

 又、丸鏡(まるかがみ)二面、土器など、あり。

 側(かたはら)に「腰掛石」といふあり。

 何の世の事共(とも)、不知(しらず)。

 里人は「大穴(おほあな)大明神」とて、九月廿一日を祭日に定め、來(きた)れり。

 

[やぶちゃん注:「土佐山郷廣瀨村」は思うに、現在の高知市土佐山弘瀬で、その北のピークに「大滝」山がある。而して、ここに同穴を有する「大穴峡(おおあなきょう)」があり、ここと考えられる。「日比原」の地名は「ひなたGPS」の国土地理院図で、「大穴峡」の大鏡川西下流直近に確認出来る。ストリートビューの画像では、ここ。但し、以上の本文は何らかの信仰のもとに人工的に作られたように記しているが、高知市の公式資料によれば、白く聳え立つ石灰岩の絶壁に、直径五メートル、奥行き十メートルほどの大穴があることからこの名があるとし、元来は掘られた人工物ではないようである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注 「巻三十七」「目録」・龍燈

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。以下、底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの写本の同巻(ここ)の画像を用いる。但し、所持する二〇〇三年国書刊行会刊『江戸怪異綺想文芸大系 第五巻』(高田衛監修・堤邦彦/杉本好伸編)の「近世民間異聞怪談集成」(二〇〇三年刊初版)に所収する同パート(土屋順子氏校訂)を、OCRで読み込み、加工テクストとさせて戴く。ここに御礼申し上げる。「近世民間異聞怪談集成」の底本は、『国立国会図書館蔵(一部独立行政法人国立公文書館内閣文庫蔵)』とあるので、前者は私の底本と同じであるから、不審な箇所は「国立公文書館」の同巻の画像を調べる(底本は奇麗な草書体だが、国立公文書館本写本の方が、字が濃く、遙かに読み易い)。

 各話の標題は以下の「目録」にのみあって、本文にはないが、本文の前に「目録」のそれを、再掲しておいた。「近世民間異聞怪談集成」も同じ処理をしている。

 以下、「目録」。字空けは、ブラウザの不具合を考えて、それらしくはしたが、同じではない。中標題「神 威 怪 異 竒 談」とある後は、直ぐに標題が続いているが、紛らわしいので、一行空けた。]

 

 

南 路 志 巻 三 十 七

    闔 國十  二 之 二 目 録

 〇 神 威 怪 異 奇 談

 龍 燈

 土 左 山 郷 廣 瀨 村 洞 穴

 小 高 坂 森 屋 舖 枕 反

 浦 戶 稻 荷 社 神 威

 幡 多 郡 下 山 郷 【黒 尊 大 明 神】神 威

 犬 神

 神 田 村 与 七 怪 異

 幡 多 郡 井 田 村 地 藏

 長 岡 郡 池 村 キ ノ コ 銀 兵 衞

 足 摺 御 𫮍 舟 幽 霊

 井 田 村 八 岐 鹿 ⻆

 槇 山 郷 中 谷 川 村 人 面 樫

 奈 半 利 村 二 重 柿

 宿 毛 七 度 栗

 仁 井 田 郷 足 跡 石

 伊 尾 木 村 大 師 岩

 山 田 郷 平 草 峯 蛇

 安 喜 土 居 之 西 妙 見 山

 嶋 彌 九 郎

 領 家 郷 梅 木 村 夜 啼 石

 田 邉 嶋 隼 人 明 神

 佐 賀 浦 大 明 舩 漂 着

 年 季 夫 勇 吾 癩 疾

 川 太 郎 之 皿

 幡 多 郡 籠 原 川

 比 江 山 掃 部

 名 野 川 村 明 神 山

 山 內 刑 部

 本 川 郷 三 岳 山

 甲 殿 村 住 吉 大 明 神

 安 井 村 氷 室 明 神

 安 喜 郡 【中 山 郷】 中 之 川 村 藥 師

 峯 寺 觀 音

 柏 尾 山 觀 音

 冨 𫮍 高 姥 椎 木 オ サ ン 婆 々

 吉 良 左 京 進 亡 霊

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、『吉良左京追亡霊』となっているが、これは、底本を見ても、「進」であるし、本文からも「進」である。いやはや、またしても、幼稚レベルの誤判読だ。やりきれなくなるわい。最終校正も、ゼンゼン、やってないのが、バレバレだぜ!]

 巴 新 三 郎 落 馬

 

 

南 路 志 巻 三 十 七

                  武 藤 致 和 集

 

    闇 國 第 十 二 之 二

 〇 神威 怪 異 竒 談

 

     龍燈

 國中に龍燈の上(のぼ)るといふは、足摺山、則(すなはち)、「龍燈松」といふ、あり【本堂の前にあり、今は、枯(かれ)たる也(なり)。】。

 又、安㐂郡野根村の「龍王(りゆうわう)が峯(みね)」、「崎の濱」の「仙崎」、「唐(たう)の濱」の「神峯(こうのみね)」也。

 長岡郡(ながをかのこほり)大谷の山中に、「燈龍の畂(うね)」[やぶちゃん注:「畂」は「畝」の異体字。]といふ所の山の腹に、大岩、有(あり)、此所(ここ)へも、上る也。昔は、白嚴寺(ハクガンじ)とて、大伽藍、有(あり)し、よし。靈地也。

 

[やぶちゃん注:「龍燈」ここで改めて注するのは面倒! 私のブログの『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 オリジナル注附 始動 「一」』・同「二」同「三」及び『「附言」・「後記」・「龍燈補遺」』、また、それらの参考のために電子化した、『尾芝古樟(柳田國男)「龍燈松傳說」』を、各個、順に読まれるか、前者をPDFで一括版にした、私のサイト版『南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)』をどうぞ!

「足摺山」という山は存在しない。先行する「同郡足摺山午時雨」で注したが、再掲しておくと、以下に示すリンク先の記載から、足摺岬の陸側の根にある四国八十八ヶ所霊場第三十八番札所蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ほだらくいん)金剛福寺の後背のピーク(百五十七メートル)と足摺岬周辺の自然物・自然現象を多く包括したものであり、名数「七」は他のケースと同じで、それ以上の数がある。本件を名前だけだが、載せているサイト「日本伝承大鑑」の「足摺七不思議」では、全部で二十一あると言われており、『それらの多くは弘法大師ゆかりの伝説が残されている』とある。怪奇談物のフリークの私は、この手の定番人寄せ型怪奇名数は嫌いである。最後の「その他の“七不思議”」に「午時雨」が入っているが、その前に「龍の遊び場」というのがあるので、そこが、ここで言っている「龍馬の芝」であろうと私は踏んだ。なお、「龍馬」は別に「りゆうま」「りようふま」でも、お好きな読みをしていただいて、私は構わない。

「安㐂郡野根村」既に何度も出た野根山街道を東に下った旧安藝郡野根村。「ひなたGPS」の戦前の地図で「野根村」の表示北西と南東で確認出来る。かなり広域な(但し、内陸部は殆んどが山間である)村域であったことが判る。現在の東洋町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)全域と、ほぼ一致するようである。同町内に今も「野根」を冠した「野根甲」・「野根乙」・「野根丙」地区がある。

「龍王(りゆうわう)が峯(みね)」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図の野根地区を見ても、見当たらない。「龍燈」の出現地は一般に海に近いので、沿岸近くのピークではあろうと思われる。

『「崎の濱」の「仙崎」』現在の高知県室戸市佐喜浜町(さきはまちょう)の佐喜浜港附近かとは思われる。「ひなたGPS」で示す。

『「唐(たう)の濱」の「神峯(こうのみね)」』現在の安芸郡安田町唐浜(とうのはま:グーグル・マップ・データ)。ここには内陸の山岳部分に「神峯神社」があり、直近に四国霊場第二十七番札所の「竹林山地蔵院神峯寺(こうのみねじ)」もある。この神社の後背にある、この「ひなたGPS」のピーク(五百六十九・九メートル)であろう。

「長岡郡(ながをかのこほり)大谷」現行の長岡郡はここ(グーグル・マップ・データ)だが、当該ウィキの旧郡の地図を見ると、土佐湾にまで延びている。但し、その旧郡域を「ひなたGPS」で調べたが、「大谷」の地名は発見出来なかった。

「燈龍の畂(うね)」不詳。

「白嚴寺(ハクガンじ)とて、大伽藍、有(あり)し、よし」不詳。三つの要素が全く検索で見当たらない。万事休す。]

2024/09/26

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 弘岡町蛭子堂之大黒 / 「南路志」「巻三十六」~了

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。標題は「ひろをかまちえびすだうのだいこく」と訓じておく。

 なお、本篇を以って「巻三十六」は終っている。]

 

     弘岡町蛭子堂之大黒

 弘岡町(ひろをかまち)、夷堂(えびすだう)の蛭子の尊像は、行基菩薩の作也。根元(こんげん)[やぶちゃん注:「当初」の意。]、弘岡村、辻(つじ)といふ所に有(あり)。慶長六年、御町割(おんまちわり)の時、弘岡の町を引(ひか)れしかば、此夷堂をも、引移(ひきうつ)されぬ。其時迄、惠美須一體なれば、

「大黑を相殿(さうでん)にせん。」

と、衆議(しゆうぎ)しぬ。

 寬永・正保の年間、紺屋町に鞍屋常貞(くらやつねさだ)といふ者あり。當時、「細工」の名(な)ありければ、大黑天を此(この)常貞に賴みぬ。

 既に、彫刻、成就(じやうじゆ)しければ、山伏、開眼して、安置す。

 翌朝、山伏、看經(かんきん)に出(いで)て見れば、大黑を檀(だん)より下へ、落(おち)し有(あり)。

『定(さだめ)て、鼠の仕業(しわざ)ぞ。』

と思ひて、其儘、檀上へ直(なほ)しぬ。

 又、翌朝も、轉(ころ)び落(おち)て、有(あり)。

 四、五日がほど、朝々(あさあさ)、落し有(ある)故(ゆゑ)、

「若(もし)、開眼(かいげん)の不足もや、あらん。」

とて、町中(まちぢゆう)の山伏を集め、護摩(ごま)を修(しゆ)して、開眼供養して安置せしに、翌朝、看勤[やぶちゃん注:ママ。「看經」の誤記。国立公文書館本56)原写本の誤字であろう。]に出(いで)て見れば、以前の如く、又、檀より下へ落し有(ある)故、

『直事(ただごと)にあらず。』

と、おもひ、五臺山(ごだいさん)の和尙を請(しやう)じ、開眼を賴みぬ。

 和尙、供養有(あり)て、其翌朝より、落(おち)給はずして、相殿(さうでん)し玉ふ、とぞ。

 

 

 

南 路 志 巻 三 十 六 

 

[やぶちゃん注:「弘岡町」前に何度も出た、JR四国駅を南下した「潮江橋」の手前の左側(鏡川河口左岸)現在の高知市南はりまや町(ちょう)一丁目(グーグル・マップ・データ・以下同じ)・二丁目、及び、九反田(くたんだ)相当。現在のそのはりまや町一丁目の、ここに恵比須神社があるので、ここであろう。最後の恵比須神社のサイド・パネルを開いて、同神社境内にある高知市が立てた「旧 朝倉町(あさくらまち)」の解説板の写真を見て驚いた。本書「南路志」の著者である富商美濃屋武藤致和(よしかず)・平道(ひらみち)親子もこの地に住んでいたことが記されあったからである。この町、平凡社『日本歴史地名大系』に拠れば、『鏡(かがみ)川沿いに築かれた大堤防の北側に沿い、西は南北筋の八百屋(やおや)町の南詰を挟んで掛川(かけがわ)町、東は横堀。江戸時代中期の「高知風土記」によると』、『東西一四〇間、南北二〇間、家数八五。山内氏入国後の城下町づくりの折、吾川(あがわ)郡弘岡(現春野町)』(現在の高知市春野地区附近)『の住民を移して成立したため、この名がつけられた。万治二年(一六五九)町の西部に、のちの八百屋町北部にあたる地にあった魚棚を移した』。『町内にある恵比須堂は城下七恵美須の一とされ、もと吾川郡弘岡村の辻(つじ)というところにあったものを移したもので、「高知県神社明細帳」に』『二淀川洪水之節厨子共ニ海中へ流出、然(しかる)ニ浦戶之方へ漂寄(ただよひより)浦戶城下江(え)取揚(とりあげ)安置之(これをあんちす)。其後(そののち)高知御町(ごちやう)出來候(さふらひて)当町へ勧請、其節ハ「辻夷(つぢえびす)」ト唱(となへ)候』『とある』とあった。

「慶長六年」一六〇一年。「関ヶ原の戦い」の翌年。江戸幕府開府の二年前。

「寬永・正保の年間」一六二四 年から一六四八年まで。

「紺屋町」現在のこの附近。恵比須神社のある地区の北方直近。

「五臺山」現在の高知県高知市五台山にある真言宗智山派五臺山金色院(こんじきいん)竹林寺。四国八十八箇所第三十一番札所。]

2024/09/25

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 種﨑浦稲荷社怪女

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。本文の「豊常公」の前には、底本では、敬意の字空け二字分がある。]

 

     種﨑浦稲荷社怪女

 享保十乙巳年、豊常公、初(はじめ)て御入國、同年秋、御不例、八月下旬より、俄(にはか)に重(おも)らせ玉ふ。

 其頃、長沢氏は、幼年にて、御伽(おとぎ)に候(かう)して、御恩も厚かりし故、「御病御平愈」の祈(いのり)の爲(ため)に、御產神(おんうぶさながみ)なれば、浦戶(うらど)の稲荷宮(なりのみや)へ、志(こころざ)し、社參(しやさん)す。

 九月朔日(ついたち)、雨中にして、途中も不宜(よろしからず)、既に神前に於(おい)て拜し終(をはり)て、暫(しばし)、息(やすら)ふ所に、年の頃、三十四、五の婦人、薄柹(かき)の帷子(かたびら)を着(ちゃく)し、神酒陶(おみきのせともの)を、手に持(もち)て、髙足駄を履(はき)て、險(けは)しき雁木(ガンギ)[やぶちゃん注:階段。]を、輕々と登り、神酒を神前へ備(そな)へ[やぶちゃん注:漢字はママ。]、軒(のき)に引(ひき)たる注連(しめなは)を、右の手にて、ちぎり、又、雁木を下りて歸(かへり)けるに、長沢氏幷(ならびに)家人等(ら)、是を見て、

「女の、險しき雁木を髙足駄にて下(くだ)る事よ。」

と目を不放(はなさず)見ゐたるに、女の、飛(とぶ)が如く、又、あゆむが如く、下りて、華裏(トリヰ)[やぶちゃん注:鳥居。]を出(いで)ずして、形(かたち)を見失ひけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:「種﨑浦」「種﨑浦神母社威霊」で既出既注だが、同様の仕儀が有効なので、再掲すると、この「種﨑」は、浦戸湾の入り口の東北から延びた岬の先端部の高知市種崎(たねざき)である(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。但し、同地区には、「稲荷」に相当するものは、現在は見当たらない。なお、次の注も参照されたい。「ひなたGPS」の戦前の「種﨑」地区を見ると、中央の「浦戶灣」側の「」記号の位置には、現行は神社はないから、これも一つの候補となるやもしれない。或いは、現在の種崎にある種崎天満宮の位置は、戦前の位置とは半島の南東に移動しており、或いは、前の消えた神社を含め、この天満宮に、この稲荷も合祀された可能性も大いにありそうな話ではある。

「享保十乙巳年」グレゴリオ暦一七二五年。

「豊常公」土佐藩第七代藩主山内豊常。この同年九月二日に死去している。享年十五歳の若さであった。

「八月下旬」グレゴリオ暦では九月下旬に相当する。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 佐川西山洞穴之和銅之字

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「さがはにしやまどうけつわどうのじ」と訓じておく。]

 

     佐川西山洞穴之和銅之字

 佐川(さかは)の西山(にしやま)といふ所の奧に、洞穴、有(あり)。

 丹波丈左衞門・山田圓兵衞・淸源寺俊嶺和尙、同道して、右の洞穴へ行(ゆき)ける。

 奧へ行(ゆく)事、凡(およそ)、半道[やぶちゃん注:約二キロメートル。]も行(ゆき)たる樣に覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ける所は、河原(かはら)の樣(やう)にあり、砂の有(ある)所へ行(ゆき)ぬ。

 其邊(そのへん)より、又、一段、髙き所、有(あり)て、其處(そこ)に、位牌、一つ、有(あり)。

 明松(たいまつ)を用意して行ける故、明松にて、見れば、位牌の文字、

「和銅」

と云(いふ)二字、慥(たしか)に見へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「其外(そのほか)は、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。」

と也(なり)。

 俊嶺和尙のいふ、

「是は、昔、出家の入定(にふぢやう)したる所成(なる)べし。」

と也。

 

[やぶちゃん注:「佐川の西山」現在の高岡郡佐川町(さかわちょう)西山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。なお、この地区には、現在、「不動ヶ岩屋洞窟遺跡」があるが、ここは、旧石器時代から縄文時代へ移る頃の住居跡で、幅四メートル、高さ六メートルの洞口に続く、奥行八メートルの本洞と、奥行八メートルの支洞から程度ものであるから、本話のロケ地ではない。相当に深い洞穴であるが、不詳。

「和銅」が年号であるとするなら、七〇八年から七一五年まで。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鷓鴣(しやこ) / 葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版~了

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。本篇は底本の内、特異に長い。「鷓鴣」は原文は“”鳥綱キジ目キジ亜目キジ科キジ亜科Phasianinaeの内、「シャコ」と名を持つ属種群を指す。特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる、イワシャコ属アカアシイワシャコ Alectoris rufa に同定しても構わないと私は思っている。「博物誌」(私のブログ・カテゴリ『「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】』参照)にも多出し、「にんじん」(同カテゴリ『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文)【完】』参照)でも取り上げられることが多い、ルナールに親しい鳥である。

 なお、本篇を以って本書は終っている。]

 

      鷓   鴣(しやこ)

 

 鷓鴣と農夫とは、一方は鋤車《すきぐるま》のうしろに、一方は近所の苜蓿(うまごやし)のなかに、お互の邪魔にならないくらゐの距離をへだてゝ、平和に暮らしてゐる。鷓鴣は農夫の聲を識《し》つてゐる。怒鳴つたりわめいたりしても怖《こ》わがらない。

[やぶちゃん注:「苜蓿(うまごやし)」原文は“luzerne”で、これは、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha 若しくは、ウマゴヤシ属 Medicago の種。ヨーロッパ(地中海周辺)原産の牧草。江戸時代頃、国外の荷物に挟み込む緩衝材として本邦に渡来した帰化植物である。葉の形はシロツメクサ(クローバー:マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属 Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens )に似ている(シロツメクサの若葉ならば、食用になる。それなら、私も食べたことがある)ルナールの作品では、「にんじん」では、複数の重要な戸外での話の中で、常に登場するお馴染みのアイテムであり、小説「にんじん」の世界には、この「うまごやし」の青臭い香りが、主人公「にんじん」の捻くれた性格とマッチして、常に漂っていると言ってさえよいものである。

「鋤車」と言っても、若い読者はどんなものか想起出来ない方も多いだろう。フランスのサイト“L’YONNE RÉPUBLICAINE”(「共和党ヨォンヌ」はフランスのヨンヌ県オセールに本拠を置く地方日刊紙)公式サイトの“Un Postollier a perfectionné la charrue”(『「ポストール」の地が鋤車を完成させた』:「ポストール」(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)はヨンヌ県に位置するフランスのコミューン)に古式の画像を見ることが出来る。因みに、この地は、ルナールの生家であり、「にんじん」等の舞台となったシトリー=レ=ミーヌから北北西百十キロメートルの位置にあり、若きルナールが活躍したパリとの中間点に当たる。]

 鋤車が軋《きし》つても、牛が咳《せき》をしても、または驢馬が啼いても、それがなんでもないと云ふことを知つてゐる。

 で、此の平和は、わたしが行つてそれを亂すまで續くのである。

 處が、わたしがそこへ行くと、鷓鴣は飛んでしまふ。農夫も落ちつかぬ樣子である。牛も驢馬もその通りである。わたしは發砲する。すると、この狼藉者《らうぜきもの》の放つた爆音によつて、一切の自然は調子が狂ふ。之等の鷓鴣を、わたしはまづ切株の間から追ひ立てる。つぎに苜蓿の中から追ひ立てる。それから、草原のなか、それから生籬《いけがき》に添つて追ひ立てる。ついでなほ、林の出つ張りから追ひ立てる。それからあそこ、それからこゝ……。

 それで、突然、汗をびつしよりかいて立ち止る。そして怒鳴る。

 「あゝ、畜生、可愛げのない奴だ、人をざんざん走らせやがる」[やぶちゃん注:「ざんざん」はママ。最初の濁音は誤植の可能性もなくはないないが、岸田の誇張表現の可能性を排除は出来ない。]

 

 

 遠くから、草原のまんなかの一本の樹の根に、何か見える。

 わたしは生籬に近づいて、その上からよく見て見る。

 どうも、樹の蔭に立つてゐる鳥の頸《くび》のやうに思はれる。すると、心臟の鼓動がはげしくなる。此草の中に鷓鴣がゐなくつて何がゐやう[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の思い込み慣用。]。わたしの足音を聞きつけて、きつと、それと合圖をしたに違ひない。そそして子供たちを腹這ひに寢させて、自分もからだを低くしてゐるのだ。頭だけがまつすぐに立つてゐる。それは見張りをしてゐるのだ。が、わたしは躊躇した。なぜなら、その首が動かないのである。間違へて、木の根を擊つても馬鹿々々しい。

[やぶちゃん注:「それと」「それとなく」の意。]

 

 

 あつちこつち、樹のまはりには、黃色い斑點が、鷓鴣のやうでもあり、また土くれのやうでもあり、わたしの眼はすつかり迷つてしまふ。

 若し鷓鴣を追ひ立てたら、樹の枝が空中射擊の邪魔をするだらう。で、わたしは、地上にゐるのを擊つ、つまり眞面目な獵師の所謂「人殺し」をやつた方がいゝと思つた。

 處が、鷓鴣の首だと思つてゐるものが、いつまでたつても動かない。

 長い間、わたしは𨻶《すき》を覘《うかが》つてゐる。

 果してそれが鷓鴣であるとすれば、その動かないこと、警戒の周密なことは全く感心なほどである。そして、ほかのが、また、よく云ふことを聽いて、その通りにしてゐる。どれ一つとして動かない。

 わたしは、そこで掛引をして見るのである。わたしは、からだぐるみ、生籬の後《うしろ》にかくれて、見てゐないふりをする。と云ふのは、こつちで見てゐるうちは、向うでも見てゐるわけだからである。

 かうすると、お互に見えない。死の沈默が續く。

 やがて、わたしは顏を上げて見た。

 今度こそはたしかである。鷓鴣はわたしがゐなくなつたと思つたに違ひない。首が以前より高くなつてゐる、そして、それをまた低くする運動が、もう疑ひの餘地を與へない。

 わたしは、徐《おもむ》ろに銃尾を肩にあてる……。

 

 

 夕方、からだは疲れてゐる、腹はふくれる、すると、わたしは、獵師に應はしい深い眠りにつく前に、その日一日追ひまはした鷓鴣のことを考へる。そして、彼等がどんなにして今夜を過すだらうかと云ふことを想像して見る。

 彼らは氣狂(きちが)ひのやうになつて騷いでゐるに違ひない。

 どうしてみんな揃はないのだらう。呼んでも來ないのだらう。

 どうして、苦しんでゐるもの、傷口を嘴《くちばし》で押へてゐるもの、ぢつと立つてをられないものなどがあるのだらう。

 どうして、あんなに、みんなを怖わがらせるやうなことをしでかすんだらう。

 やつと、休み場所に落ちついたと思ふと、すぐもう誰かゞ警報を傳へる。また飛んで行かなければならない。草なり株なりを離れなければならない。

 彼らは逃げてばかり居るのである。聞き慣れた音にさへ愕《おどろ》くのである。

 彼らはもう遊んではをられない。食ふものも食つてをられない。眠つてもをられない。

 彼らは何が何んだかわからない。

[やぶちゃん注:第一段落の「どんな」は、底本では、「とんな」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]

 

 

 傷ついた鷓鴣の羽が落ちて來て、ひとりでに、此の自惚《うぬぼ》れの强い獵師の帽子にさゝつたとしても、わたしは、それがあんまりだとは思はない。

 雨が降り過ぎたり、旱(ひでり)が續き過ぎたりして、犬の鼻が利かなくなり、わたしの銃先《つつさき》が狂ふやうになり、鷓鴣がそばへも寄りつけなくなると、わたしは、正當防禦の權利を與へられたやうに思ふ。

 

 

 鳥の中でも、鵲(かさゝぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まてふとか、腕に覺えのある獵師なら相手にしない鳥がある。わたしは腕に覺えがある。

 わたしは、鷓鴣以外に好敵手を見出さない。

 彼らは實に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。然し、人はそれを逃がさないで、とつちめるのである。

 それは、深い苜蓿の中に隱れることである。然し、そこへまつすぐに飛んで行くのである。

 それは、飛ぶ時に、急に方向を變へることである。然し、それが爲めに間隔がつまるのである。

 それは、飛ぶかはりに走るのである。人間より早く走るのである。然し、犬がゐるのである。

 それは、人が中にはひつて[やぶちゃん注:ママ。]路を遮《さへぎ》ると、兩方から呼び合ふのである。それが獵師を呼ぶことになるのである。獵師に取つて彼等の歌を聞くほど氣持のいゝものはない。

[やぶちゃん注:このパートは、致命的なミスがあり、原文の、まるまる一行を、訳し落してしまっている。このパート部分の原文を引く。

   *

   Il y a des oiseaux, la pie, le geai, le merle, la grive, avec lesquels un chasseur qui se respecte ne se bat pas, et je me respecte.

   Je n’aime me battre qu’avec les perdrix.

   Elles sont si rusées !

   Leurs ruses, c’est de partir de loin, mais on les rattrape et on les « corrige ».

   C’est d’attendre que le chasseur ait passé, mais derrière lui elles s’envolent trop tôt et il se retourne.

   C’est de se cacher dans une luzerne profonde, mais il y va tout droit.

   C’est de faire un crochet au vol, mais ainsi elles se rapprochent.

   C’est de courir au lieu de voler, et elles courent plus vite que l’homme, mais il y a le chien.

   C’est de s’appeler quand on les divise, mais elles appellent aussi le chasseur et rien ne lui est plus agréable que leur chant.

   *

この原文の第四段落の“Leurs ruses, c’est de partir de loin, mais on les rattrape et on les « corrige ».”が訳されていないのである。自然流で訳してみると、「彼らの作戦は、直ちに遠くへと逃げるというそれなのであるが、しかし、私たち猟師は、それを感知して、追いつき、而して、自身らの『模範解答』へと導くのである。」と言った感じか。「博物誌」のものだが、辻昶(とおる)氏の訳(一九九八年岩波文庫刊)では、『また、狩人を通り過ぎさせてしまうことだ。だが、そのうしろからあまりにはやくとびだしすぎるので、狩人はふり向いてしまうのだ。』と訳されておられる。妙な躓きをしない、平易な良い訳ではあるが、ちょっと意訳に過ぎる感じはする。一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の訳では、思い切った手法が採られてあり、前の行を含めて示すと、

   《引用開始》

 山うずらたちのなんと狡猾なこと!

――彼らの策略    

 それは、早々とその場を遁(のが)れることである。だが、彼らは捕まり、ぶたれる。

   《引用終了》

となっている。原文を巧みに組み替え、しかも躓かずに、ルナールのウィットに富んだ語りも生かされていて、よい。なお、岸田氏は、本書の改版で、訳の抜け落ちを補正しておられ、前後を入れて示すと、

   *

 彼らは実に小ざかしい。

 その小ざかしさは、遠くから逃げることである。しかし、人はそれをまた見つけ出し、今度は思い知らせるのである。

 それはまた猟師が行き過ぎるのを待っていることである。が、後(うしろ)から、ちっとばかり早く飛び出し過ぎて、後(うしろ)を振り返るのである。

   *

となっている。原文の換喩的圧縮を岸田風に、「いなした」という感じである。でも、『遠くから逃げること』というのは、正直、日本語としては躓く。なお、岸田氏の本書の改版では、他にも、細部で、かなりの改訳が成されてある。総てを示すと、煩瑣になるので、是非、比較されたい。

「鵲(かさゝぎ)とか、かけすとか、つぐみとか、まてふとか」原文の鳥名は「博物誌」と同じで、“a pie, le geai, le merle, la grive”である。但し、岸田氏の「博物誌」訳では、『鵲(かささぎ)とか、樫鳥(かけす)とか、くろ鶫(つぐみ)とか、鶫とか』に変わっている。臨川書店一九九五年刊『ジュール・ルナール全集』第五巻の「博物誌」の佃裕文氏の訳では、この一連の四種の鳥名が『かささぎ、カケス、クロウタドリ、つぐみ』となっており、岩波文庫一九九八年刊の辻昶氏訳「博物誌」では、『かささぎだとか、かけすだとか、つぐみ類だとか、つぐみだとか』となっている。鳥類の訳語は本邦に棲息しない類もあって、実に難しいが、「鵲」は、まず、スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica で問題ない。「かけす」は、タイプ種はスズメ目カラス科カケス属カケス Garrulus glandarius であるが、但し、約三十もの亜種がいるのでカケスGarrulus sp. とすべきであろう。「つぐみ」は上記の通りで、「くろ鶫(つぐみ)」と改訳しているので、それなら、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardisとなる。しかし、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鷓鴣」』の注で、私は、疑義を示し、『「くろ鶫(つぐみ)」「くろ鶇(つぐみ)!」で既注であるが、そのまま再掲すると、“Merle”は私の辞書では、確かに『鶇』とあるのだが、スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis名の割には、腹部が白く(丸い黒斑点はある)、「のべつ黑裝束で」というのに違和感がある。これは「クロツグミ」ではなく、♂が全身真黒で、黄色い嘴と、目の周りが黄色い同じツグミ属のクロウタドリTurdus merulaではないかと思われる。』としたのだが、恥ずかしいことに、クロツグミ Turdus cardisは日本と中国にしか分布しないのでアウトなのであった。而して、先に示した通り、佃裕文氏の訳では、ここを、『クロウタドリ』と訳しておられ、私の後ろの比定が正しかったことが判った。岸田氏の「まてふ」は改版の注で、『不詳』としたが、これは、思うに、「眞(真)鳥」で、有象無象のツグミ類のなかで、真正のツグミという意で岸田氏は訳したものと推理した。ツグミ属も数が多く、種を同定するのは難しい。敢えて候補を挙げるならば、ヤドリギツグミ Turdus viscivorus あたりか?

 

 その若い一組は、もう親鳥から離れて、別に新しい生活をし始めた。わたしは、夕方、畑のそばで、それを見つけたのである。彼等は、ぴつたり寄り添つて、翼と翼とを重なり合ふやうにして舞ひ上つた。その一方を殺した彈丸(たま)は、もう一方を引き放したと云へるのである。

 一方は何も見なかつた。何も感じなかつた。然し、もう一方は、自分の連れ合ひが死んでゐるのを見、そのそばで自分も死ぬやうな氣がした。それだけのひまがあつた。

 この二羽の鷓鴣は、地上の同じ場所に、少しの愛と、少しの血と、それから、いくらかの羽根とを殘したのである。[やぶちゃん注:この段落の「鷓鴣」は、「●」とも言えない奇妙な違った二つの異様な紋を透かせている黒丸様になっている。これは、思うに、植字工が滅多に使わない「鷓鴣」の両活字を、この場面で、手持ち分を使い切ってしまい、追加注文している間、仮に判るように入れておいた記号であって、それが来てから、うっかりして、ここに再植字するのを忘れたもの、と私は推理する。この後には、二回、「鷓鴣」が印字されているからである。]

 獵師よ、お前は一發で、見事に二羽を擊ち止めた。早く歸つてうちのものにその話をしろ。

 あの年を取つた去年の鳥、孵(か)へしたばかりの雛を殺された親鳥、彼等も若いのに劣らず愛し合つてゐた。わたしは、彼等がいつも一緖にゐるのを見た。彼等は逃げることが上手であつた。わたしは、强いてその後を追ひかけようとはしなかつた。その一方を殺したのも全く偶然であつた。それで、それから、わたしは、もう一方を探した。可哀さうだから殺してやらうと思つて探した。

 或るものは、折れた片脚をぶらさげて、丁度わたしが、絲で括《くく》つてつかまへてでも居るやうな形をしてゐた。

 或るものは、最初ほかのものゝ後について行くが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]翼が利かなくなる。地上に落ちる。ちよこちよこ走《ばし》りをする。犬に追はれながら、身輕に、半ば畝《うね》を離れて、走れるだけ走るのである。

 或るものは、頭の中に鉛の彈丸(たま)を打ち込まれる。ほかのものから離れる。狂ほしく、空の方に舞ひ上る。樹よりも高く、鐘樓の雄鷄《をんどり》よりも高く、太陽を目がけて舞ひ上るのである。すると獵師は、氣が氣ではない。しまひにそれを見失つてしまふ。そのうちに、鳥は重い頭の目方を支える[やぶちゃん注:ママ。]ことができなくなる。翼を閉ぢる。遙か向うへ、嘴を地に向けて、矢のやうに落ちて來る。

 或るものは、犬を仕込むために、その口へ投げつける切れ屑のやうに、ぎゆつとも言はず落ちる。

 或るものは、彈丸が中《あた》ると、小舟のやうにぐらつく。そして、ひつくり返る。

 また、或るものは、どうして死んだのかわからないほど、傷が羽の中に、深くひそんでゐる。

 或るものは、急いでカクシ[やぶちゃん注:ポケット。]の中に押し込む。自分が見られるのがこわい[やぶちゃん注:ママ。]やうに、自分を見るのが怖いやうに。

 或るものはなかなか死なゝい。さう云ふのは絞め殺す必要がある。わたしの指の間で、空《くう》をつかむ。嘴を開く、細い舌がぴりぴりつと動く。すると、その眼の中に、ホオマアのいわゆる、死の影が下りて來る。

[やぶちゃん注:「ホオマア」紀元前八世紀末の古代ギリシャのアオイドス(吟遊詩人)であったホメーロス(ラテン文字転写:Homerus:フランス語:Homère)。臨川書店版『全集』第五巻の「博物誌」の佃裕文氏の訳では『「死の闇が降り」る』とあり、後注に、『ホメロスの『イリアッド』『オデッセイ』によく出て来る表現。』とあった。]

 

 

 向うで、百姓が、わたしの鐵砲の音を聞きつけて、頭を上げる。そして、わたしの方を見る。

 それは審判者である……此の働いてゐる男は……。彼はわたしに話しかけるかもわからない。嚴かな聲で、わたしを恥じぢ入らせるに違ひない。

 處がさうでない、それは時としては、わたしのやうに獵ができないので剛を煮やして[やぶちゃん注:ママ。「業(がふ)」が正しい。]ゐる百姓である。時としては、わたしのやることを面白がつて見てゐる、そして、鷓鴣がどつちへ行つたかをわたしに告げるお人好しの百姓である。

 決して、それが義憤に燃えた自然の代辯者であつたためしがないのである。

 

 

 わたしは、今朝、五時間も步きまはつた揚句、空のサツク[やぶちゃん注:原文“carnassière”。猟師の獲物を入れる袋。]を提げ、頭をうなだれ、重い鐵砲をかついで歸つて來た。嵐の暑さである。[やぶちゃん注:いい訳ではない。原文は“Il fait une chaleur d’orage”で、逐語的にはそうなるが、「今にも雷雨の来そうなムシムシした暑さで」の意。]わたしの犬は、疲れきつて、小走りにわたしの前を行く。生籬に添つて行く。そして、何度となく、木蔭にすわつて、わたしの追ひつくのを待つてゐる。

 すると、丁度、わたしが生き生きした苜蓿の中を通つてゐると、突然、彼は飛びついた。と云ふよりは、止《とま》ると同時に腹這ひになつた。ぴつたり止つた。そして、植物のやうに動かない。たゞ、尻尾の端の先の毛だけがふるへてゐる。わたしは、てつきり、彼の鼻先に、鷓鴣が何羽かゐるなと思つた。そこにゐるのだ。互にからだをすりつけて、風と陽《ひ》とを除けてゐるのだ。犬を見る。わたしを見る。わたしを多分見識つてゐるかも知れない。こわくつて、飛べない。

 麻痺の狀態からわれに返つて、わたしは準備をした。そして、機を待つた。

 犬もわたしも、決して向う[やぶちゃん注:ママ。]よりも先に動かない。

 と、遽《にはか》に、前後して、鷓鴣は飛び出した。どこまでも寄り添つて、一かたまりになつてゐる。わたしは、そのかたまりの中に、拳骨でなぐるやうに、彈丸を打ち込んだ。そのうちの一羽が、やられて、宙に舞ふ。犬が飛びつく。血だらけの襤褸《ぼろ》みたいなもの、半分になつた鷓鴣を持つて來る。拳骨が、殘りの半分をふつ飛ばしてしまつたのである。

 さあ、行かう。これで空手(からて)で歸ることにはならない。犬が雀躍(こおどり[やぶちゃん注:ママ。])する。わたしも、得々としてからだをゆすぶつた。

 

 

 あゝ、この尻つぺたにへ、一發、彈丸(たま)を打ち込んでやつてもいゝ。―――完―――

 

[やぶちやん注: 臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」第五巻の「博物誌」(佃氏訳注)の本篇に相当する「山うずら」の注によれば、本篇の初出は一八九九年一月二日發行の新聞『エコー・ド・パリ』であつたが、これに先立つ一八九七年頃から、ルナールは、その日記に狩猟に関わる嫌悪感を記し始めており、一九〇五年十月を最後に、日記での狩獵の記錄は見当たらないとし、一九〇九年八月三十日の書簡で『わたしはもう狩猟はやらない』と記しているとする。こうして銃を捨てた「イマージュの狩人」は、真の「狩りの達人」となったのであった。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木槿

 

Mukuge

 

[やぶちゃん注:この挿絵、他には、まず見られない、花(但し、まだ開花していない)に向かって近づく蝶と思しいものが描かれている。]

 

むくげ  朝開暮落花

     花奴玉蒸

木槿   椴 藩籬草

     櫬 蕣 日及

モツキン 【俗云無久計木槿字音訛】

[やぶちゃん注:「槿」は一貫して「グリフウィキ」のこの異体字であるが、表示出来ないので、総て正規正字の「槿」で示した。以降の項目でも同じ箇所は、総て「槿」で通す。この注記は再掲しない。

 

本綱木槿人家多種植爲籬障小木可種可揷其木如李

其葉末尖而無鋸齒其花如小葵小而豔或白或粉紅有

單葉千葉者五月始開此花朝開暮斂結實輕虛大如指

頭秋㴱自裂其中子如榆莢泡桐馬兠鈴之仁種之昜生

[やぶちゃん字注:「㴱」は「深」の異体字。]

嫩葉可茹作飮代茶

木皮根【甘滑】治腸風瀉血痢後熱渴赤白帶下及瘡癬

 脫肛【用皮或葉煎熏洗後以白礬五倍子末傅】花亦同功滑而能潤燥

△按木槿花有數品單瓣而大者名舜英以賞之總木槿

 花朝開日中亦不萎及暮凋落翌日不再開寔此槿花

 一日之榮也然其花僅一瞬故名蕣之說者非也詩云

 有女同車顏如蕣華者稱其艷美耳又搞葉水少和挼

[やぶちゃん注:「搞」は「敲」の異体字で「叩(たた)く」の意であり、これは。「本草綱目」を確認したところ、「摘」の誤字であるので、訓読では訂した。「挼」は「揉」に相当する中国の文語文漢語。]

 之甚黏用傅牝痔痛者良

盛短旋花金錢花壺盧白粉草牽牛花黃蜀葵茉莉木芙

 蓉扶桑娑羅樹棗花皆然而銀杏花一開卽落比此等

 花則木槿可謂耐久者矣自古相誤稱朝顔矣眞朝顏

 牽牛花相當矣

  万葉朝かほは朝露負てさくといへと夕影にこそ咲き增さりけれ

 舜英 白槿單葉其花大似木芙蓉枝葉無異或白槿

 花摘去葉假用海石榴枝葉儼如眞海石榴花美又能

 止瀉痢用花陰乾煎服或以淡未醬汁煑啜

 

   *

 

むくげ  朝開暮落花《てうかいぼらくくわ》

     花奴玉蒸《くわどぎよくじやう》

木槿   椴《だん》 藩籬草《はんりさう》

     櫬《しん》 蕣《しゆん》 日及《につきふ》

モツキン 【俗、云ふ、「無久計《むくげ》」。

      「木槿」の字音の訛《なまり》。】

 

「本綱」に曰はく、『木槿、人家、多く、種植《たねうゑし》て、籬-障(まがき)と爲《な》す。小木なり。種《うう》べく、揷《さしきす》べく《✕→べし。》其の木、李《すもも》のごとし。其の葉末《はのすゑ》、尖りて、椏《また》≪の≫齒《ぎざ》、無し。其の花、小≪さき≫「葵《あふひ》」のごとく、小にして、豔《あでやか》≪なり≫。或いは、白く、或いは、粉紅《うすべに》≪にして≫、單葉《ひとへ》、千葉《やへ》の者、有り。五月、始めて、開く。此の花、朝に開きて、暮《くれ》に斂《ちぢ》まる。實を結ぶこと、輕虛《けいきよ》にして、大いさ、指の頭《かしら》のごとく、秋、㴱くして、自《おのづか》ら裂け、其の中≪の≫子《み》、「榆《にれ》」≪の≫莢《さや》、「泡-桐《きり》」・「馬兠鈴《ばとれい》」の仁《にん》のごとし。之れを種《ま》いて、生(は)へ[やぶちゃん注:ママ。]昜《やす》し。嫩葉《わかば》、茹《ゆでく》ふべし。飮《のみもの》と作《な》し、茶に代《か》ふ。』≪と≫。

『木皮根【甘、滑。】腸風《ちやうふう》・瀉血《しやけつ》・痢《げり》の後《のち》≪の≫熱≪や≫渴《かはき》・赤白《ながち》・帶下《こしけ》、及び瘡癬《さうせん》を治す。』≪と≫。『脫肛≪には≫、【皮、或いは、葉を用ひ、煎じて、熏洗《くんせん》≪して≫後《のち》、「白礬《はくばん》」・「五倍子《ごばいし》」の末《まつ》を以つて、傅《つ》く。】。花≪も≫亦、功、同じ。滑《なめらか》にして、能く、燥《かはける》≪を≫潤《うるほす》。』≪と≫。

△按ずるに、木槿≪の≫花、數品《すひん》、有り。單瓣《ひとへ》にして、大なる者、「舜英《しゆんえい》」と名づく。以つて、之れを賞す。總て、木槿≪の≫花は、朝、開きて、日中も亦、萎(しぼ)まず、暮に及びて、凋(しぼ)み、落ち、翌日、再たび、開かず。寔《まこと》に、此の槿花《むくげのはな》、「一日《いちじつ》の榮《さかへ》」なり。然《しか》るに、其の花、僅《わづか》に一瞬なる故、「蕣《しゆん》」と名づくの說は、非なり。「詩」に云はく、『女《ぢよ》 有り 車《くるま》を同《おなじ》ふし 顏《かんばせ》 蕣華《しゆんくわ》のごとし』と云《いふ》は[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、其の艷美《えんび》を稱するのみ。又、葉を摘《つみ》、水《みづ》、少し、和《わ》して、之れを挼(もめ)ば、甚だ、黏(ねば)る。用ひて、牝痔《ひんじ》≪の≫痛《いたむ》者に傅(つけ)て、良し。

盛《さか》り、短《みじか》きは、[やぶちゃん注:原本ではここに「◦」が左下に打たれてあるが、読点に代えた。また、以下の「◦」は原本では右下に打たれているのを、かく、した。]「旋花(ひるがほ)」◦「金錢花(ごじくは[やぶちゃん注:ママ。])」◦「壺盧(ゆうがほ[やぶちゃん注:ママ。])」◦「白粉草(おしろいぐさ)」◦「牽牛花(あさがほ)」◦「黃蜀葵(きとろゝ)」◦「茉莉(まり)」◦「木芙蓉(もくふよう)」◦「扶桑(ふさう)」◦「娑羅樹(しやらじゆ)」◦「棗(なつめ)の花」、皆、然《しか》り。而《しかして》、「銀杏花(いちゑうくは[やぶちゃん注:総てママ。])」は、一《ひと》たび、開きて、卽ち、落つ。此等《これら》の花に比すれば、則ち、木槿は、久《ひさしき》に耐《たふ》る者と謂ふべし。古《いにし》へより、相《あひ》誤《あやまり》て、「朝顔《あさがほ》」と稱す。眞《まこと》の「朝顏」は、「牽牛花《けんぎうくわ》」、相《あひ》當(あた)れり。

  「万葉」

    朝がほは

       朝露《あさつゆ》負(おふ)て

     さくといへど

      夕影(ゆふかげ)にこそ

           咲き增(まさ)さりけれ

 舜英 白槿(しろむくげ)の單葉(ひとゑ[やぶちゃん注:ママ。])。其の花、大にして、「木芙蓉《もくふよう》」に似たり。枝葉、異《こと》なること、無し。或いは、白槿の 花を≪して≫、葉を摘去(むしり《さり》)、「海石榴(つばき)」の枝葉を≪以つて、≫假《かりに》用ふれば、儼《おごそか》に眞《まこと》≪の≫「海石榴≪の≫花」のごとく、美なり。又、能《よく》、瀉痢を止む。花を用ひて、陰乾《かげぼし》にして、煎≪じて≫、服す。或いは、淡《うすき》未醬汁(みそ《しる》)を以つて、煑て、啜《すす》る。

 

[やぶちゃん注:「木槿」「槿」は日中ともに、

双子葉植物綱アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus

である。

「維基百科」も「木槿」である。諸辞書の記載にブレがあるが、中国・インド原産とするが、本邦には古くに伝来し、生垣とされたとある。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名ハチスは本種の古名である。庭木として広く植栽されるほか、夏の茶花としても欠かせない花である。中国名は、木槿(朝開暮落花)』。『和名は、「むくげ」。「槿」一字でも「むくげ」と読むが、中国語の木槿(ムーチン)と書いて「むくげ」と読むことが多い。また、『類聚名義抄』には「木波知須(きはちす)」と記載されており、木波知須や、単に波知須(はちす)とも呼ばれる』「万葉集」では、『秋の七草のひとつとして登場する朝貌(あさがお)がムクゲのことを指しているという説もあるが、定かではない。白の一重花に中心が赤い底紅種は、千宗旦が好んだことから、「宗丹木槿(そうたんむくげ)」とも呼ばれる』。『中国語では「木槿」(ムーチン、もくきん)、韓国語では「무궁화」(無窮花; ムグンファ)、木槿;モックンという。英語の慣用名称の rose of Sharon は』、『ヘブライ語で書かれた』「旧約聖書」の「雅歌」にある『「シャロンのばら」に相当する英語から取られている』。『中国が原産で、観賞用に栽培されている。主に庭木や街路樹、公園などに広く植えられている。中近東でも、カイロ、ダマスカス、テルアビブなどの主要都市で庭木や公園の樹木として植えられているのを良く見かける。日本へは古く渡来し、平安時代初期にはすで植えられていたと考えられる。暖地では野生化している』。『大型の落葉広葉樹の低木。樹高』三~四『メートル』『くらいになる。樹皮は灰白色から茶褐色で、成木になると』、『縦に浅く裂ける。枝は繊維が強靱でしなやかさがあり、手で折り取るのは困難である』。『葉は互生し、卵形から卵状菱形、浅く』三『裂し、葉縁に粗い鋸歯がある』(☜後で注で問題にする特徴なので注意されたい)。『花期は夏から秋(』七~十『月)。枝先の葉の付け根に、白、ピンク色など様々な花色の美しい花をつける。ハイビスカスの類なので』(本種のフヨウ連 Hibisceae・フヨウ属 Hibiscus・節 Hibiscus で判る)、『花形が似ている。花の大きさは径』五~十『センチメートル』。五『花弁がやや重なって並び、雄しべは多数つき、雌しべの花柱は長く突き出る。花芽はその年の春から秋にかけて伸長した枝に次々と形成される。花は一日花で、朝に開花して夕方にはしぼんでしまう。ふつうは一重咲きであるが、八重咲きの品種もある』。『果実は蒴果で卵形をしており、長さは約』二センチメートル『で星状の毛が密生し、熟すと』五『裂して種子を覗かせる。種子は偏平な腎臓形で、フヨウ』(フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis 。中文の正式名は「木芙蓉」であるが、本邦と同じく一般通称は「芙蓉」である。「維基百科」の「木芙蓉」を参照されたい)『の種子よりも大きく、背面の縁に沿って長い毛が密生している。冬でも枝先に果実が残り、綿毛の生えた種子が見える』。『冬芽は裸芽で、星状毛が密生する。頂芽は葉痕などが重なって、こぶ状になった上につく。葉痕は半円形で、左右に突き出た托葉痕があり、托葉が残ることもある。葉痕につく維管束痕』三~六『個だが、わかりにくい』(以下、「園芸品種」が列挙されているが、カットする)。『ムクゲはフヨウと近縁であり接木が可能。繁殖は春で、芽が萌える前に挿し木を行う。根が横に広がらないため、比較的狭い場所に植えることができる。刈り込みにもよく耐え、新しい枝が次々と分岐する。性質は丈夫なため、庭の生け垣や公園樹に利用される。日本では花材としても使い、夏の御茶事の生け花として飾られたりする』。『大韓民国では、法的な位置づけがあるわけではないが』、『国花とされている。国章や、最高位の勲章である無窮花大勲章であり、韓国軍領官(佐官)の階級章、警察のすべての階級の階級章には、ムクゲの意匠が含まれる。このほか、韓国鉄道公社は列車種別の一つとして「ムグンファ号」を設定している。また、ホテルの格付けなどの星の代わりにも使用されている。古くは崔致遠』(八五八年~?:新羅末の文人)の「謝不許北國居上表」に『世紀末の新羅が自らを「槿花郷」(=むくげの国)と呼んでいたことが見える。韓国の国歌「愛国歌」でも「ムクゲ 三千里 華麗なる山河」と歌われている』。『日本では、北斗市、清里町、壮瞥町の花・木にも指定されている』。『樹皮を乾燥したものは木槿皮(もくきんぴ)という生薬である』。六~七『月ごろに樹皮を採って、天日乾燥して調製される。抗菌作用があり、水虫に薬効があるとされ、民間療法では、木槿皮』を一ヶ『月以上漬け込んでから』、『患部に塗る用法が知られている』。『蕾を乾燥したものは木槿花(もくきんか)という生薬である。夏の開花直前に蕾を採取して、天日乾燥して調製される。胃炎、下痢止め、口の渇きの癒やし、健胃に用い』る。以下、「文化の中のムクゲ」の冒頭では、室町期の立花(りっか)の様相を伝える華道書「仙伝抄》である室町末期頃の成立かとされる作者不詳の写本「仙傳抄」から始めて、『「禁花(基本的には用いるべきではない花)」とされ』てきたムクゲが、江戸中期には『禁花としての扱いはなくなっている』という経緯を語り(興味がないので、簡約に整理した)、それ『以降は一般的な花材となり、様々な生け花、一輪挿し、さらには、枝のまたの部分をコミ』(木密:古流の生花で器に花を留める方法(花留)として、槿の枝二本を割って短く切り、剣山に対してV字型になるように置く方法)『に使用して、生け花の形状を整えるのに使われてきた。茶道においては茶人千宗旦がムクゲを好んだこともあり、花のはかなさが一期一会の茶道の精神にも合致するとされ、現代ではもっとも代表的な夏の茶花となっている。花持ちが悪いため』、『花展には向かず、あまり一般的な花材ではないが、毎日生け替えて使うことで風情が出る。掛け花や一輪挿しなどによく使われる』。「白氏文集」の『巻十五、放言の「松樹千年終是朽 槿花一日自成栄」(松の木は千年の齢を保つがいずれは朽ち、ムクゲの花は一日の命だがその生を大いに全うする)の文句でもよく知られる。この語句が「わずか一日のはかない栄え」の意に取られて、「槿花一日の栄」「槿花一晨の栄え」「槿花一朝の夢」といったことわざをも生んだ』。『俳句では』、『秋の季語である。俳諧師の松尾芭蕉は』貞享元(一六八四)年八月、「野ざらし紀行」(「甲子吟行」)の『旅で、「道のべの木槿(もくげ)は馬にくはれけり」という句を』大井川を超えて後に『詠んで』いる。『小林一茶も、「それがしも其(そ)の日暮らしぞ花木槿」という句を』残している(梅塵本「八番日記」文政期の作)。『江戸時代後期の歌人、香川景樹は』「桂園一枝」『にて』、「生垣の小杉が中の槿の花これのみを昔はいひし朝がほの花」と『詠んでおり、「槿」は「あさがほ」と読ませ』ている。『明治から大正にかけて、アララギを代表した斎藤茂吉は第二歌集』「あらたま」で、「雨はれて心すがしくなりにけり窓より見ゆる白木槿(しろむくげ)のはな」という歌を詠ん』でいる、とある。なお、ちょうど、今、私の亡き母が、家に上る階段の横に植えた数本の木槿が、白と、内側が紅色の花を、美しく咲かしている。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木槿」([088-68a]以下)の独立項のパッチワーク。原文を、かなり強烈にバラバラにして、強引に組み直している。

「花奴玉蒸《くわどぎよくじやう》」これは中文の「百度百科」のこちらで、槿を用いた、漢方処方及び薬膳の名であることが判る。

「椴《だん》」この漢字は漢語としては、二種の樹を意味する。一つは、「白楊」(キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides :先行する「白楊」を参照されたい)に似た木で、今一つに本種ムクゲの意がある。孰れも「爾雅」を引用しているので、古くから二種を指す語として存在したことが判る。なお、この漢字、本邦の国字では、マツ科モミ属トドマツ Abies sachalinensis を指すので、注意が必要。

「藩籬草《はんりさう》」複数回、既出既注だが、再掲しておくと、小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「櫬《しん》」「廣漢和辭典」によれば、第一義は、遺体の入っていない「柩・棺(ひつぎ)」。第二義は、アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex を指す(先行する「梧桐」を見よ)。第三義で本種ムクゲを指す(他に「薪(たきぎ)」「水を汲む器」の意もある)。

「蕣《しゆん》」本邦では、専ら、「あさがほ」と訓じて、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil を指すが、漢語では、本種ムクゲしか指さないので、大いに注意が必要である。

「日及《につきふ》」「本草綱目」出典。言い得て妙。

「李《すもも》」日中では、中国原産で古くに日本に渡来したバラ目バラ科スモモ亜科スモモ属スモモPrunus salicina である。「維基百科」の「中国李」に「変種」の冒頭に「李(変原種)」として、Prunus salicina var. salicina が記されているが、これは、スモモPrunus salicina のシノニムである。

「其の葉末《はのすゑ》、尖りて、椏《また》≪の≫齒《ぎざ》、無し」この記事、確かに、「集解」の中の時珍の解説の中にあるのだが、不審である。ウィキの「ムクゲ」の画像を見ると、葉には粗い鋸歯がはっきり視認でき、先の引用でも「☜」で示した通り、『葉縁に粗い鋸歯がある』とあるからである。これは、時珍の書き間違いかと思われる。

『小≪さき≫「葵《あふひ》」』これは、明代のそれであり、本邦でも「葵」は、全く異なった種を複数指すように、特定の種や種群に限定することは難しい。「廣漢和辭典」を見ると、第一義は『野菜の名』とし、『せつぶんそう(節分草)を菟葵(トキ)、せり(芹)を楚葵(ソキ)、じゅんさい(蓴菜)を鳧葵(フキ)という』とある。しかし、この冒頭の「節分草」は、本邦では、キンポウゲ目キンポウゲ科セツブンソウ属セツブンソウ Eranthis pinnatifida を指すのであるが、これは日本固有種であり、この記載は、まず信じられないのであったが(但し、セツブンソウ属Eranthis は中国にも分布する)、実は、その途方に暮れた一瞬、納得された、ある事実を見出したのであった。それは、ウィキの「セツブンソウ」を見たところが、『節分草』の『漢』字『名には菟葵・が当てられるが、中国語ではどちらもフユアオイを指す』とあったことである。そして、まさに同辞典の第二義に『たちあおい』を挙げてあるのであった(他に続いて、『ひまわり』『の花』であるとか、『地葵は、ははきぎ』とか、またまた、グジャグジャとあるのだが、そこは紹介するに留める)。されば、この「本草綱目」の「葵」とは、アオイ目アオイ科ゼニアオイ属フユアオイ Malva verticillata と採ってよいだろうと私は踏んだ。さらに、ウィキの「フユアオイ」を見たところが、瓢箪から駒で、『アオイ(葵)という名は、少なくとも』(☞)『近世以降はタチアオイ』(アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科タチアオイ属タチアオイAlthaea rosea 『を意味するが、元は』、この『フユアオイを指し、「仰(あおぐ)日(ひ)」の意味で、葉に向日性があるためという』。但し、「万葉集」の『時代にはすでにタチアオイの意味だったとの説もある』とあった。このヤヤコシヤヤ状態の中ではあるが、また、立ち位置を変えて考えてみることで、別に、私は、『良安は、ここの「葵」を、まず、間違いなく、タチアオイと認識しているはずだッツ!』と横手を打ったのである。何でそんなに興奮しするのか判らんってカ? それはね……私が、ムクゲの花を見るときは何時も、『ムクゲの花って、タチアオイの花に似てるなぁ……』って思うからなんだ……そう……遠い昔……結婚しようと思った女性と……飽きず眺めたタチアオイの花を思い出すからなんだよ…………

「單葉《ひとへ》、千葉《やへ》の者」この読みは東洋文庫訳のルビを参考にした。

「榆《にれ》」(=「楡」)は日中ともに、双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus で問題ない。先行する「榆」を見よ。

「泡-桐《きり》」シソ目キリ科キリ属 Paulownia の漢名。或いは、本邦のキリ Paulownia tomentosa をも指す。

「馬兠鈴《ばとれい》」「兠」は「兜」の異体字。コショウ目ウマノスズクサ(馬鈴草)科ウマノスズクサ亜科ウマノスズクサ属ウマノスズクサ亜属ウマノスズクサ Aristolochia debilis )の異名。過去、漢方薬種の一つとしたが、ウィキの「ウマノスズクサ」によれば、『含有成分であるアリストロキア酸が腎障害を引き起こすため、薬用とはされなくなった』とあった。

「腸風《ちやうふう》」東洋文庫訳の割注に『(出血性大腸炎)』とある。

「瀉血《しやけつ》」東洋文庫訳の割注に『(下血)』とある。

「赤白《ながち》」読みは東洋文庫訳のルビを採用したが、本来は「赤」と「白」は別な症状を指す。「赤」は「赤帯下(しゃくたいげ)」で、子宮から血の混じった「おりもの」(帯下(こしけ/たいげ)。膣から出た粘性の液体で、色は透明か乳白色、或いはやや黄色みを帯びている)が長期間に亙って出る症状を指し、「白」は「白崩(はくはう)」で、「こしけ」の血を含んだ異常出血を指す。

「帶下《こしけ》」前注参照。ここは正常なそれではない状態の様態を広く指す。

「瘡癬《さうせん》」東洋文庫訳の割注に『(皮膚のできもの)』とある。

「脫肛」痔疾 の一種で、肛門の粘膜や、直腸下端の粘膜が肛門外に出てしまう病態を指す。

「白礬《はくばん》」天然明礬(カリ明礬石製)を温水に溶かして冷やしたもの。

「五倍子《ごばいし》」ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の葉に、ヌルデシロアブラムシ(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensi)が寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作る。虫癭には黒紫色のアブラムシが多数詰まっており、この虫癭はタンニンが豊富に含まれていうことから、古来、皮鞣(かわなめ)しに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色(うつぶしいろ:灰色がかった淡い茶色。サイト「伝統色のいろは」こちらで色を確認出来る)と呼ばれる伝統的な色を作り出す。インキや白髪染の原料になるほか、嘗つては、既婚女性及び十八歳以上の未婚女性の習慣であった「お歯黒」にも用いられた。また、生薬として「五倍子(ごばいし)」あるいは「付子(ふし)」と呼ばれ、腫れ物や歯痛などに用いられた。主に参照したウィキの「ヌルデ」によれば、『但し、猛毒のあるトリカブトの根「附子」も「付子」』『と書かれることがあるので、混同しないよう注意を要する』。さらに、『ヌルデの果実は塩麩子(えんぶし)といい、下痢や咳の薬として用いられた』とある。

『「詩」に云はく、『女《ぢよ》 有り 車《くるま》を同《おなじ》ふし 顏《かんばせ》 蕣華《しゆんくわ》のごとし』』「詩經」の「國風」の「鄭風」(ていふう)にある、「有女同車(いうぢよどうしや)」。

   *

 有女同車

有女同車

顏如舜華

將翺將翔

佩玉瓊琚

彼美孟姜

洵美且都

 

有女同行

顏如舜英

將翺將翔

佩玉將將

彼美孟姜

德音不忘

 

  有女同車

 女(ぢよ) 有(あ)り 車(くるま)を同(とも)にす

 顏(かほ)は舜華(しゆうくわ)のごとし

 將(は)た 翺(こう)し 將た 翔(しやう)するに

 佩玉(はいぎよく)は瓊琚(けいきよ)

 彼(か)の美(び)なる孟姜(まうきやう)

 洵(まこと)に美にして 且つ 都(みやびや)かなり

 女 有り 行(かう)を同にす

 顏は舜英(しゆんえい)のごとし

 將た 翺し 將た 翔すれば

 佩玉(はいぎよく)は將將(しやうしやう)たり

 彼の美なる孟姜

 德音(とくおん) 忘(ほろ)びず

   *

既に述べた通り、「舜華」は木槿の花。以下の語注は、恩師である乾一夫先生の編になる明治書院『中国の名詩鑑賞』「1 詩経」(昭和五〇(一九七五)年刊)を参考にした。「將翺將翔」原義は「鳥が空を飛ぶこと」で、ここは「巡り行く」ことの形容である「翺翔(かうしやう)」(こうしょう)を四字句と成して、リズムをつけたもの。「佩玉」腰に下げる装飾の玉(ぎょく)。帯玉(おびだま)。「瓊琚」「瓊」は「赤い玉(ぎょく)」を指すが、ここは美玉の通称。「琚」佩玉にする玉に似た赤色の石を言う。「孟姜」貴族である姜家(きょうけ)の長女(「孟」は長男・長女を指す語)の意。先行する「鄘風」の「桑中(さうちゆう)」にも登場している。「洵」の仮借字。「行」道。「舜英」木槿の花。「英」は「榮」と同義で、ここは「咲き誇る華(花)」の意。「將將」「瑲瑲」(宝玉や楽器が美しい音を奏でるさま)の仮借。「德音」これは「聲譽」(誉(ほま)れ・評判が頻りなさま)を指す。「忘」「亡」の仮借。

「牝痔《ひんじ》」東洋文庫訳の割注に『外痔の一種。後門の周辺にできる瘡腫)』とある。肬痔(いぼじ)の類。

「旋花(ひるがほ)」ナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ品種ヒルガオ Calystegia pubescens f. major 。私の遺愛の花。

「金錢花(ごじくは)」キク目キク科キク亜科キンセンカ属キンセンカ Calendula officinalis

「壺盧(ゆうがほ)」ウリ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida 。昔、親しくしていた年上の女性の一人家に、夏、訪ねると、何時も咲いていた。ある夏の日、彼女は、突然、失踪してしまった。それを人づてに聴き、彼女の「山が」の一軒家を訪ねたら、窓を覆っていた夕顔は、悉く枯れ果てていた……。

「白粉草(おしろいぐさ)」ナデシコ目オシロイバナ科オシロイバナ属オシロイバナ Mirabilis jalapa 。今、我が家で、最も咲き誇っている。今年のは、ことに紅色が鮮やかで濃い。

「黃蜀葵(きとろゝ)」アオイ目アオイ科アオイ亜科トロロアオイ属トロロアオイ Abelmoschus manihot の異名。漢字名「黄蜀葵」。

「茉莉(まり)」シソ目モクセイ科ソケイ属ソケイ Jasminum grandiflorum の異名。

「木芙蓉(もくふよう)」既注のフヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis の異名。

「扶桑(ふさう)」フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensis 。一般に「ハイビスカス」とも呼ばれるが、これはフヨウ属 Hibiscus に含まれる植物の総称であり、このブッソウゲ(仏桑花)が代表的な種である。因みに、次項が「ぶつさうげ 扶桑」である。

「娑羅樹(しやらじゆ)」本来は、アオイ目フタバガキ科サラノキ属サラソウジュ Shorea robusta を指すが(沙羅双樹・娑羅双樹)、インドから東南アジアにかけて広く分布する熱帯・亜熱帯の樹木で、本邦には自生しない。本邦で栽培するには温室が必要で、日本の寺院で聖樹としてこの名で植えらている木の殆んどは、本種ではなく、ツツジ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia であり、ここもそれ。

「棗(なつめ)」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「銀杏花(いちゑうくは)」裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba の花。サイト「FLOWER」の「花言葉」の『長寿の木「イチョウ」の花言葉は?由来は?』の「イチョウの花は珍しい?」に、『皆さんはイチョウに花が咲くことを知っていましたか?』『イチョウは裸子植物に分類され、花弁のきれいないわゆる「お花」を咲かせるわけではありませんが、しっかりと雄花(おばな)、雌花(めばな)を咲かせます』。『しかし、そのイチョウの花は非常に目立たず、春の訪れと共に、葉っぱの間からこっそりと咲くため、見つけるのは一筋縄ではいきません』。『そのため、イチョウの花の存在を知っている人は少なく、実際に見かけることもないので珍しいと言えます』。『

その控えめな美しさを見つけるのは、まるで宝探しのような楽しさがありますね!』とある。私は、それが花であることを知ったのは幼稚園の時で、当時、一時期、住んでいた大泉学園の妙延寺(グーグル・マップ・データ)の境内にあったイチョウの巨木の前で、当時の和尚さんに教えて貰って知った。

「牽牛花《けんぎうくわ》」アサガオの別名。「日本科学未来館 科学コミュニケーターブログ」の松浦麻子氏の「牽牛花をご存じですか? =七夕とあの植物のお話=」に、『昔々、中国で、ある農夫が、アサガオのタネを服用して病気が治ったので、自分の水牛を連れてアサガオのある田んぼにお礼を言いに行ったことから、「牽牛花」と呼ばれるようになったとか(牽牛とは、本来は「牛を引く」という意味です。)。日本では奈良時代に伝わってきて以来、生薬や園芸植物として親しまれてきました』。『江戸時代には、七夕の頃に咲くことも相まって、花が咲いたアサガオは「彦星(=牽牛星)」と「織姫星」が年に一度出会えたことを現しているとして、縁起の良いモノとされたとか。変化アサガオも江戸時代からあったことがわかっていますし、きっと粋なモノとして大事にされたのではないか、と思います』とあった。

「万葉」「朝がほは朝露《あさつゆ》負(おふ)てさくといへど夕影(ゆふかげ)にこそ咲き增(まさ)さりけれ」「万葉集」の「卷第十」の「秋の雜歌(ざふか)」の中の一首(二一〇四番)。

   *

 朝顏は朝露負ひて咲くといへど

     夕影にこそ咲きまさりけれ

   *

下句は「暮れの夕日の光を受けている中にあってこそ、一層、美しく咲くのであります。」の意。

「海石榴(つばき)」「椿」=「藪椿」で、ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica 。]

2024/09/23

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蛇

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 あんまり長すぎる。

 

[やぶちゃん注:原文は、

   *

 

        LE SERPENT

 

   Trop long.

 

   *

ルナールのアフォリズムの最大の名品。改版では、

   *

 

    蛇

 

ながすぎる。

 

   *

で、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蛇」』では、

   *

 

   蛇                Le Sepent

 

 長すぎる。

 

   *

「博物誌」のそれが、訳の決定版であると言える。教え子諸君は、恐らく、私が、好んで扱った、安倍公房の随筆「日常性の壁」を思い出すだろう。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 紫荊

 

Hanazuou

 

すはうの木 紫珠

      皮名肉紅

紫荊    又云內消

      【俗云蘇方木】

 

本綱紫荊𠙚𠙚有之人多種于庭院閒木似黃荊而柔條

其葉光緊微圓無椏春開紫花甚繁細碎共作朶生出無

常𠙚或生于木身之上或附根上枝下直出花花罷葉出

木幷皮【苦寒】入血分走骨故能活血消腫利小便解毒

△按紫荊木皮濃白色葉微團光澤似菝葜葉而莖長三

 月有花淡紫畧攅大可麥粒甚繁其實結莢似紫藤莢

 而小中有細子春種子生植于庭弄之俗呼曰蘇方木

 非眞蘇方葉實大異【蘇方見于喬木類】

 

   *

 

すはうの木 紫珠《ししゆ》

      皮を「肉紅《にくこう》」と名づく。

紫荊    又、云ふ、「內消《ないしやう》」。

      【俗、云ふ、「蘇方木(すはうの《き》)」。】

 

「本綱」に曰はく、『紫荊、𠙚𠙚、之れ、有り。人、多く、庭院の閒に種《う》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。木、「黃荊《わうけい》」に似て、柔《やはらかき》條《えだ》≪なり≫。其の葉、光り、緊《しまり》、微《やや》圓《まろく》、椏《また》、無し。春、紫の花を開く。甚だ繁《しげりて》、細かに碎《くだ》け、共に、朶《ふさ》を作《つくり》、生《しやうず》。出≪ずるに≫、常《つねの》𠙚、無く、或いは、木≪の≫身《しん》[やぶちゃん注:幹。]の上に生じ、或いは、根の上、枝の下に附きて、直《ぢき》に花を出《いだ》す。花、罷(や)んで、葉、出ず[やぶちゃん注:ママ。「づ」]。』≪と≫。

『木、幷《ならび》に、皮【苦、寒。】』『血分《けつぶん》に入りて、骨を走る。故、能く、血を活し、腫《はれもの》を消し、小便を利し、毒を解く。』≪と≫。

△按ずるに、紫荊木(すはうの《き》)は、皮、濃(こまや)かに、白色。葉、微《やや》團《まろ》く、光澤≪あり≫、「菝葜(じやけついばら)」の葉に似て、莖、長し。三月、花、有り、淡紫≪にして≫、畧《ちと》攅《むらが》り、大いさ、麥≪の≫粒ばかり。甚だ、繁《しげ》く、其の實、莢を結≪び≫、「紫藤(ふぢ)」の莢《さや》に似て、小さく、中に細≪かなる≫子《たね》、有り。春、子を種《まき》て、生ず。庭に植《うゑ》て、之れを弄《もてあそ》ぶ。俗、呼んで、「蘇方の木」と曰ふ。《✕→ふも、》眞《まこと》の「蘇方(すはう)」に非ず。葉・實、大いに異《い》なり【《眞の》「蘇方」は「喬木類」を見よ。】。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

○双子葉植物綱マメ目マメ科ハナズオウ(花蘇芳)亜科ハナズオウ属ハナズオウ Cercis chinensis

である。同種の「維基百科」は「紫荆」である。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『中国原産で』、『日本には江戸時代初期に渡来した。観賞用として広く庭園などに栽植される』とある。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、ハナズホウ、スオウバナ(蘇芳花)とも呼ぶ。和名の由来は、花の色がマメ科の染料植物スオウ』(これが、良安が「違う」と注意喚起している、真の「蘇方(すはう)の木」=マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科ジャケツイバラ連ジャケツイバラ属スオウ Biancaea sappan である)『で染めた蘇芳染(すおうぞめ)の汁の色に似ていることによる。中国名は紫荊』。『日本には北海道、本州、四国、九州に分布する。 高さは』二~三『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で皮目は多いが、生長に関わらずほぼ滑らかである』。『若い枝は淡褐色で皮目が目立ち、ややジグザグ状になる。葉は』五~十『センチメートル』『のハート形で』、『つやがあり、葉縁が裏側に向かって反り返る独特の形をしている。葉柄の両端は少し膨らむ。秋の紅葉は黄色系に染まり、黄色と褐色のモザイク模様なったり』、『様々な変化を見せながら、葉が散るころには褐色になる』。『早春に枝に花芽を多数つけ』、四~五月頃、『葉に先立って開花する。花には花柄がなく、枝から直接に花がついている。花は紅色から赤紫色(白花品種もある)で長さ』一センチメートル『ほどの蝶形花。開花後、長さ数』センチメートル『の豆果をつけ、秋から冬に赤紫色から褐色に熟す』。『冬芽は鱗芽で、葉芽は卵形、花芽はブドウの房状に小さな蕾が多数集まる特徴的な形をしている。枝先につく仮頂芽は葉芽で、花芽はそれよりも下につく。側芽は枝に互生する。冬芽の芽鱗の数は、葉芽が』五、六『枚、花芽の蕾は』二『枚』、『つく。葉痕は半円形で維管束痕が』三『個』、『つく』。『早春に咲く赤紫色の花とハート形の葉が好まれ、公園樹や庭木によく利用される』。『ハナズオウ属は北半球温帯に数種が分布する。地中海付近原産のセイヨウハナズオウ( C. siliquastrum )は落葉高木で高さ』十メートル『ほどになり、イスカリオテのユダがこの木で首を吊ったという伝説からユダの木とも呼ばれる。このほか』、『アメリカハナズオウ( C. canadensis )などが栽培される』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「紫荆」([088-66a]以下)の独立項のパッチワーク。「木幷皮」の解説は、かなり、原文の各所を飛ばして圧縮してある。

「紫珠」「維基百科」の「紫荆」で別名に挙がっており、出典は盛唐の医師で本草学者であった陳藏器の「本草拾遺」とある。

「肉紅」中文の「百度百科」の「肉红」に『中医药名。紫荆皮的别称。』とある。出典は「本草綱目」である。

「黃荊」双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属ニンジンボク (人参木Vitex negundo var. cannabifolia 。先行する「牡荊」の別名である。

「其の葉、光り、緊《しまり》、微《やや》圓《まろく》、椏《また》、無し」当該ウィキの葉の写真で確認出来る。

「春、紫の花を開く。甚だ繁《しげりて》、細かに碎《くだ》け、共に、朶《ふさ》を作《つくり》、生《しやうず》」同前の『花と若い果実(4月)』の写真で確認出来るが、花がブレているので、本文の分類の上にある画像の方がよい。なかなかスゴいわ。

「血分《けつぶん》」既出既注。東洋文庫の先行する訳中に『(血の変調に係わる病症)』とある。

「菝葜(じやけついばら)」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科ジャケツイバラ属ジャケツイバラ Biancaea decapetala

「其の實、莢を結≪び≫」同前の「果実(9月)」の画像を見よ。

「紫藤(ふぢ)」マメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda 

『《眞の》「蘇方」は「喬木類」を見よ』先行する『「和漢三才圖會」植物部 卷第八十三 喬木類 蘓方木』を見よ、ということ。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 峯 寺觀音威霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。標題の「峯」の字空けはママ。「峯 寺(ぶじ)」、「觀音威霊」の配字であろう。]

 

     峯 寺觀音威霊

 

 享保廿年卯三月二日より閏三月二日迄、十市村、禪師峯寺の觀音繪像、御戶開(おんとびらき)、有(あり)。參詣、每日、夥(おびただ)し。

 或日、年若き婦人、奇麗に出立(いでたち)、參詣して、佛前に至り、鐘の緖(を)を取るとひとしく、目、くらめき、倒(たふ)れける故、仁王門の外へ舁出(かきいで)、色々、養生しけれども、不開(ひらかず)して[やぶちゃん注:目を。]、死(しし)ける。

 供に來たる者に、

「何人(なんぴと)の娘ぞ。」

と、尋ければ、

「坂折(さかをり)の、穢多長吏(ゑたちやうり)が娘にて候。」

と、答へける。

 

[やぶちゃん注:「享保廿年卯三月二日より閏三月二日迄」グレゴリオ暦一七三五年三月二十五日から四月二十四日までで、三十一日間。

「十市村」旧長岡郡十市村(とおちむら)。現在の高知県南国市十市(とおち:グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。

「禪師峯寺」現在の四国霊場第三十二番札所である真言宗豊山派の八葉山(はちようざん)求聞持院(ぐもんじいん)禅師峰寺ぜんじぶじ)。サイト「四國八十八ケ所靈場會」の同寺の記載によれば、『太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近い。小高い山、とはいっても標高』八十二メートル『ほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みな』、『この寺に寄り』、『航海の無事を祈った』。『縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位』七二四年~七四九年『)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同』元(八〇六)『年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき』、『自ら』、『十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した』。『以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。堂宇はこぢんまりと肩を寄せ合うように建っているが、境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせている』とある。

「觀音繪像」恐らくは、本尊十一面観世音菩薩像を模写したものを本尊以外に作ってあり、それを開帳したものと推定される。

「坂折」現在の高知県幡多郡黒潮町佐賀(坂折)(グーグル・マップ・データ)。

「穢多」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の私の注の冒頭の「穢多」を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「しちめんてう」。]

 

      七 面 鳥

 

 道の上に、またも七面鳥の行列。

 每日、天氣がどうであらうと、彼女らは散步に出かける。

 彼女らは雨を怖れない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾《すそ》は捲《まく》れない。また、日光も怖れない。七面鳥は日傘を持つて出たことがない。

 

[やぶちゃん注:この原文は、

   *

 

        DINDES

 

   Sur la route, voici encore le pensionnat des dindes.

   Chaque jour, quelque temps qu’il fasse, elles se promènent.

   Elles ne craignent ni la pluie, personne ne se retrousse mieux qu’une dinde, ni le soleil, une dinde ne sort jamais sans son ombrelle.

 

   *

この一行目は十全に訳されたものとは言えない。問題は“le pensionnat”を訳していないからである。この単語は、第一義は「(私立の)寄宿学校」で、第二義で「何らかの寄宿舎・寄宿寮」を指し、第三義に集合的総称呼称としての「寄宿生等(ら)」の意味である。則ち、この一行の映像的な対象把握と、比喩を判るように補助して訳すなら、

「何時(いつも)の道を行くと、これ、またぞろ、寄宿学校の寮生どもよろしく、七面鳥が、ぞろぞろとやって来る。」

であろう。この私立寄宿学校自体が、若き日のルナールが、いろいろと悲喜こもごもの経験してきた忘れ難い実体験の場であるから、この一見、お茶らかして笑いを醸す一行には、実際には、そうしたルナールの過去寄宿学校時代の苦い思い出や記憶に裏打ちされているものと読まねばならない。彼の作品の残酷な、或いは、悲惨で惨めな主人公の行動や、捩じれた感懐には、殆んどが、そうした過去の若き日の惨めな、捩じれた心傷的経験と直結しているからである。ただの、小洒落(こじゃれ)た換喩ではないのである。

 されば、ここは、そうしたルナールの仕掛けを、この初版の訳は、残念ながら、全く、そうしたユーモラスに見える、自身の経歴を元にした、自傷的にネガティブな投影を嗅がせているところを、全く漂白してしまっているのである。

 流石に、岸田氏も、その欠落を気にされたものであろう、後の改訳版では、

   *

 道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。

 毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。

 彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。

   *

と改訳しておられる。

 なお、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』では、やや長いアフォリズムに続けて、本篇を「Ⅱ」として添えてある。

「彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。」前のリンク先でも問題にしてあるが、この原文の“dinde は、特にシチメンチョウの♀を指す女性名詞である。しかし、所謂、我々が通常、想起する形象はシチメンチョウの♂であり、フランス語では別に“dindon”の語で表わす。無論、この単語は男性名詞である。ところが、最終段落は、ルナールの自己撞着が図らずも現われてしまっているのである。この「彼女ら」(☜)「は雨をおそれない」。それは、「どんな女も」「七面鳥ほど」には「上手に裾(すそ)はまく」ることは出来ないからであり、「七面鳥は」常に巨大な「日傘(ひがさ)を持」っているから、「日光もおそれない」というカリカチャアの部分は、シチメンチョウのではあり得ないのである。この「日傘」というのは、私達が百人が百人、直ちに想起するところの、だけが持つ襞飾りのある羽や扇形の尾を広げたシーンを換喩したものだからである。

2024/09/22

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久保源兵衞滅亡

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     久保源兵衞滅亡

 韮生鄕(にらうのさと)久保村番人、久保源兵衞は、給田(きふでん)六百石を賜りて、御入國以來、代々の番人也。

 家は三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]梁(さんげんばり)に十四間[やぶちゃん注:二十五・四五メートル。]に建て、後口(うしろぐち)に一間の庇(ひさし)を付(つけ)て、長家は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]梁に十一間[やぶちゃん注:約二十メートル。]に造りて、矢倉門(やぐらもん)を建(たて)ぬ。

 庭に、鴨脚木(イテウノき)、七囲廽(ななまはりめぐり)なるもの、二本、有(あり)。

 後(うしろ)は、嶠山(けうざん)[やぶちゃん注:鋭く聳える高い山。]、峯(みね)、聳(そび)へ[やぶちゃん注:ママ。]、前には、大河、渦漩(ウヅマキ)ぬ。

 いはゆる「阿州通路(あしうつうろ)」の關所也。

 斯(かか)る山家(やまが)に住馴(すみなれ)て、朝暮(てうぼ)、殺生を業(なりはひ)とし、熊に組み勝ち、山犬を生捕(いけどり)、鹿・猪を食とするより外(ほか)他事(たじ)なかりしが、寛政六年三月の頃、川へ出(いで)て、「毒流し」といふ事をしたり。

 「中上」・「かうの板」・「とゞろ渕(ぶち)」とて、三つの渕、有(あり)。比(この)渕は[やぶちゃん注:これは国立公文書館本(53)で補った。]、昔より、人も恐(おそれ)て、獵する事なき所なるを、

「何の障(さは)る物や、あらん。」

とて、毒を入(いれ)たるに、香魚(アユ)・嘉魚(イダ)・鯇魚(アメノウヲ)は云ふに不及(およばず)、幾年(いくねん)經(へ)たるともしれぬ鰻(ウナギ)・鯉・鯰(なまづ)に至る迄、悉(ことごと)く浮上(うきあが)るを、狩り取(とり)ける。

 中(うち)に、山伏の形なる者、立出(たちいで)けるを、源兵衞、怒(いかり)て云(いはく)、

「何者ぞ。爰(ここ)は我(わが)領分也。何の障る事あらんや。」[やぶちゃん注:底本では、『立出(たちいで)けるを、源兵衞、怒(いかり)て云(いはく)、「何者ぞ。』の部分は、写し落したらしく、後から右に挿入している。国立公文書館本(54)ではちゃんと当該箇所に入っている。]

と訇(ののしり)かければ、其儘、失(うせ)ぬ。

 夫(それ)より、荷(にな)ひつけて、我家へ歸(かへる)。

 無程(ほどなく)、夜に入(いり)けるに、女の泣聲、しければ、怪(あやし)み、尋(たづね)みれども、形も見へざりしかば、內(うち)に入(いり)ぬ。

 又、女の泣(なき)て走り廻る聲、終夜しける、と也(なり)。

 其年(そのとし)、三月、雨夜(あまよ)の事なるに、俄(にはか)に、山中(さんちゆう)、震動する事、夥(おびただ)しく、後(うしろ)なる大山(おほやま)、崩れ懸りて、源兵衞を初(はじめ)、老母・伯母・下人五人、上下(うへした)男女(なんによ)八人[やぶちゃん注:源兵衛の使用人。]、其外(そのほか)、近邊に家居(いへゐ)せし百姓、廿八人、一度に埋(うづま)りて、數(す)百丈の大山、向ふの川へ、崩(くづれ)たりければ、さしも韮生の大河(たいが)、せき留(とめ)られ、河中(かはなか)、新たに、山を築(つき)なせり。

 數日(すじつ)の中(うち)、物部川(ものべがは)迄、干水(ひみづ)と成りぬ。

「ふしぎなりしは、其後(そののち)、死骸も見えず、家の柱類(はしらのたぐゐ)、一本も、年をふれども、しれざるは、いづくへか、埋(うづま)りけん。」

 

[やぶちゃん注:最後の鍵括弧で挟まれた一文は、底本では、実際に鍵括弧で示されてあり、筆者、或いは、報告者の実地検証した添え辞であることが判る。

「韮生鄕(にらうのさと)久保村」平凡社『日本歴史地名大系』によれば、現在の高知県香美郡物部村(ものべむら:現在は物部町(ものべちょう))久保中内(くぼなかうち)・久保高井(くぼたかい)・久保堂ノ岡(くぼどうのおか)・久保安野尾(くぼやすのお)・久保上久保(くぼかみくぼ)・久保沼井(くぼぬるい)・久保影(くぼかげ)・久保和久保(くぼわくぼ)とし、グーグル・マップ・データでは、このポイント周辺に相当する(以下、無指示は同じ)。『別府(べふ)村』(現在は物部町別府(べふ))『の山を隔てて』、『西方、上韮生(かみにろう)川』(ここ)『最上流の右岸に沿って集落が点在する。北は阿波国。「窪」とも記す。上韮生川』(かみにろうがわ:ここ)『と支流の安野尾川』(やすのおがわ:ここ)『に沿って二つの道が阿波』(徳島県)『側に延びるが、いずれも九十九折』(つづらおり)『の難路である。「土佐州郡志」には「東西二里十二町、南北二里三十町、戸凡百二十余、其土黒、久保・堂之岡・安能・奴留井・中内・日浦、以上惣曰久保村」と記す。韮生郷に属し(江戸時代後期に分離)、天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳にはクホノ村・北地ノ村・上クホノ村・ヤスノウノ村・ぬる井ノ村・中内ノ村・影ノ村・小浜ノ村・東久万山村・西久万山などの小集落が記され、すべてが窪名とある』とある。「ひなたGPS」の戦前の地図の『上韮生(ニラウ村)』の『久保』が確認出来る。当該箇所のグーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。強烈な奥深い山間部である。

「鴨脚木(イテウノき)」先ほどの、旧久保地区の、ここに、まさに「堂ノ岡の乳イチョウ」があるが、「七囲廽」(十・五〇メートル)はドンブリであろうが、気根の「乳」も立派で(同データのサイド・パネル画像)、これが、その一本の生き残りであろうと思われる。

(ななまはりめぐり)なるもの、二本、有(あり)。

「大河」先に示した上韮生川。

「寛政六年三月」グレゴリオ暦一七九四年三月三十一日から四月二十九日。

「毒流し」毒揉み。本話と、やや親和性のある『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』の本文と私の割注を参照されたい。

『「中上」・「かうの板」・「とゞろ渕(ぶち)」とて、三つの渕』不詳。

「嘉魚(イダ)」硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis の異名。

「鯇魚(アメノウヲ)」四国なので、タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマスOncorhynchus masou ishikawae の異名と採れる。他の地域では、違った種を指す場合もある。

「物部川(ものべがは)」ここ位置関係を見て頂くと判るが、この物部川までが、崩落によって、流れが遮られ、水が干乾びたということになると、この山体崩落は、久保と山体を隔てた位置に平行に走る物部川(途中の下流で上韮生川は物部川に合流する)の間の山脈の北西側と南東側の双方で同時に起こったと考えるべきであろう。上韮生川に多量の土砂や倒木が生じても、そう簡単に合流点で物部川をも中流で下って強力な堆積を以って(「山」と言っている)封じてしまうというのは、有り得なくはないものの、現実的にはちょっとクエスチョンかなと思うからである。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鶺鴒(せきれい)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      鶺   鴒(せきれい)

 

 よく飛びもするが、よく走ることも走る。いつもわれわれの脚《あし》の間で、馴れ馴れしくするかと思ふと、なかなかつかまらいない。小さな叫び聲を立てゝ尻尾《しつぽ》で步くなどは、人を嬲《なぶ》つてゐる。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鶺鴒(せきれい)」』では(原文同じ)、私は「鶺鴒」(セキレイ)について、『フランスに棲息する確かな一般的な種はキセキレイ Motacilla cinerea と、タイリクハクセキレイ亜種 Motacilla alba alba と考えられる』と注したが、今回、先に使ったフランス語のウィキ“ Motacilla の各個種のページを再度、総て精査し、さらに、日本語とフランス語の鳥類のネット記載の同属についての記事等を、一から調べてみた結果、フランスに棲息(渡り鳥を含む)する種は、

○鳥綱スズメ目セキレイ科セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea

○セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種(タイプ種)タイリクハクセキレイ Motacilla alba alba

○セキレイ属ツメナガセキレイ Motacilla flava フランス語の同種のウィキでは、この種をさらに十種に分けてリストしてある。その中には独立種とされることもあるニシツメナガセキレイ Motacilla flava flavissima や、フランス南西部にも分布するとするイベリアセキレイ Motacilla flava iberiae がいる)

○セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種 Motacilla alba yarrellii (イギリスからの渡り鳥)

の六種は確実にいることが判った。

 原文を私なりに訳してみる。

   *

 彼女は飛ぶのと同じように走り廻り、そして、何時(いつ)だって、私たちの足の間に纏わりついて、馴れ馴れしくするくせに、これまた、如何ともし難い難攻不落のツワモノであって、その小っぽけな鳴き声でもって、私たちに「尻尾を踏んでみてごらんな!」とチョッかいを出すのである。

   *]

2024/09/21

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 牡荊

 

Hamagou

 

まんけいし 和名波末波非

 はまぞひ  匍於濵之

蔓荆子  義乎

 

マン キン ツウ

 

本綱蔓荆子生水濱高四五尺對節生枝葉類小楝其枝

小弱如蔓至夏盛茂有花作穗淡紅色蘂黃白色花下有

青蕚至秋結子黒班大如梧子而虛輕冬則葉凋

蔓刑子【苦微寒】 治筋骨閒寒熱濕痺拘攣利九竅明目堅

齒頭痛腦鳴目淚出良【去白膜用悪石膏】

△按蔓荊子形狀如上說伹花黃色單瓣頗似木槿花與

謂作穗者不同出於紀州者良播州之產次之

 

   *

 

まんけいし 和名、「波末波非《はまはひ》」。

 はまぞひ  「濵に匍《は》ふ」の義か。

蔓荆子

 

マン キン ツウ

 

「本綱」に曰はく。『蔓荆子は、水≪近き≫濱に生ず。高さ、四、五尺。節に對して生ず。枝・葉、小≪さき≫「楝(あふち)」に類す。其の枝、小≪さく≫弱≪よはく≫して、蔓《つる》のごとし。夏≪に≫至りて、盛茂《せいも》す。花、有り、穗を作《なす》こと《✕→作(な)し》、淡紅色。蘂《しべ》、黃白色。花≪の≫下、青≪き≫蕚《がく》、有り。秋に至りて、子《み》を結ぶ。黒≪き≫班《はん》[やぶちゃん注:斑点。]≪ありて≫、大いさ、「梧《ご》」≪の≫子のごとくして、虛輕《うつろにしてかろし》。冬、則ち、葉、凋む。』≪と≫。

『蔓刑子【苦、微《やや》寒】』『筋骨の閒の寒熱・濕痺(しびれ)・拘攣(ひきつり)を治し、九竅を利し、目を明《めい》にし、齒を堅くし、頭痛・腦鳴《なうめい》、目≪より頻りに≫、淚、出づるに、良し【白き膜を去り、用ふ。石膏を悪《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、蔓荊子、形狀、上の說のごとし。伹《ただし》、花、黃色の單-瓣(ひとへ)≪とせることからは≫、頗《すこぶ》る、「木槿」の花に似《に》、穗を作《なす》と謂ふは、同じからず。紀州より出於づる者、良し。播州の產、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:この「蔓荆子」は、良安の添えた「はまぞひ」という名、及び「波末波非《はまはひ》」の和名、それが『「濵に匍《は》ふ」の義か』という謂い、また、名にし負う、「蔓」状で、水辺に這うように生えるという点から、間違いなく、日中ともに、既に先行する「石南」の注で示し、「牡荊」でも同属のものを同定した、

双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属 Vitex

であることは、最早、疑いようがない。そして、良安の言っているのは、

ハマゴウ属ハマゴウ Vitex rotundifolia

と比定して間違いない。同種については、「牡荊」で詳しく注した。

 しかし、時珍の「蔓荆子」の方で、花の色を「淡紅色」としている点で、それではない。「維基百科」のハマゴウ属相当の「牡荆属」を見ると、変種を含めると、三十二種も掲げられている。同属は熱帯・亜熱帯全域に自生しており、日本も含め、ユーラシアの温帯域にも複数種が分布し、世界で全種数を二百五十種と、英文ウィキの“ Vitex にあるため、正直、淡紅色の花で、中国に分布する、ハマゴウ属の種を限定する能力は、私には、ない。グーグル画像検索「Vitex flower red」をリンクしてお茶を濁しておく。ただ、時珍の「水濱」という表現から、私は、中国の海浜ではなく、内陸の河川の近くに植生する種であろうとは、思うのである。何故なら、時珍はその生涯の殆んどを、湖北省で過ごし、海浜を調査することは、殆んどなかったと踏んでいるからである(事実、彼の「本草綱目」の海産魚介類の記載には、トンデモない誤りが頻繁に出現するのである)。そこに絞れるとだけ、言っておく。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「蔓荆」([088-63b]以下)の独立項のパッチワーク。

「楝(あふち)」ムクロジ(無患子)目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach の異名。なお、諺の「栴檀は二葉(ふたば)より芳し」の香木の「栴檀」は、インドネシア原産のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album のことを指すので、注意されたい。

「梧《ご》」日中ともに、双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana simplex で問題ない。

「腦鳴《なうめい》」自律神経の乱れによって音を感じる神経が異常に興奮し、本来、鳴っていない音を感知してしまう症状であろう。何らかの脳疾患の可能性もある。

「木槿」ここは良安の言であるから、アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus でよい。なお、フヨウ属は中文名で「木槿」であるから注意が必要。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 三津浦幽霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

      三津浦幽霊

 三津浦、岩貞曽右衞門(いはさださうゑもん)、鯨を突(つき)ける時、羽指(はざし)、一人、タツパに打(うた)れて死(しし)ぬ。不意成(ふいなる)事ながら、不便(ふびん)に思ひ、其鯨は、羽指が妻子に、とらせける、とぞ。[やぶちゃん注:「羽指」小学館「日本国語大辞典」によれば、「羽差」とも表記し、『江戸時代から明治前期にかけて』、『西南日本で行なわれた捕鯨で、勢子船』(せこぶね:鯨を網に追い込み、特に銛を打つ役をした船を指す)『に乗り』、『捕鯨作業の指導的役割に当たる者。鯨に接近すると』、『舳先に立って銛を投げ、最後には弱った鯨の頭上にとび乗って』、『手形切包丁で鯨の潮吹鼻の障子』(しょうじ:鼻中隔の俗称)『を切りぬいた。手形切包丁による作業の刃刺しに由来する名称か』とある。]

 或時、三津浦の漁人、夜釣に出(いで)ける。

 其夜は、稀成(まれなる)猟をして、既に歸らんとする時、向ふの方(かた)より、鯨、浮(うか)み出(いで)れば、驚(おどろき)、迯戾(にげもど)らんとするに、弥(いよいよ)、近く寄來(よりきたり)て、鯨の、いふ、

「久敷(ひさしく)不逢(あはず)、ゆかしくおもふ也(なり)。」

と、云(いふ)聲は、彼(か)の羽指が[やぶちゃん注:底本は「は」であるが、国立公文書館本52)で「か」とある(右丁三行目中央下)ので訂した。]聲に、少(すこし)も替(かは)らざれば、恐(おそれ)て迯歸(にげかへ)りぬ。

 其後(そののち)、更(かは)る事もなく、人にも語らずして居(をり)けるが、

『いかにも、よき漁(すなどり)しつる。』

を、おもひて、又、夜釣に出(いで)けるに、件(くだん)の鯨、浮(うか)み出(いで)、物言掛(ものいひかけ)ける故、不取敢(とりあへず)、迯戾(にげもど)り、妻子に、その次㐧を語りしが、忽(たちまち)に、乱心せしを、樣々(さまざま)、祈祷して、快復せしと也。

 

[やぶちゃん注:永年、怪奇談を渉猟してきたが、死者が鯨に変じたという、本篇のような類話は聴いたことがない。奇怪千万の素晴らしい特異点である。この話、幾つものフレーズで検索したが、紹介されある記事は、見当たらなかった。非常に惜しい気がする。

「三津浦」現在の高知県室戸市室戸岬町(むろとみさきちょう)三津(みつ:グーグル・マップ・データ)。Tumurojin氏の「津室儿のブログ」の「室戸市の民話伝説 第60話 ゴンドウ鯨のゴンちゃん」に、『三津港は、古式捕鯨が網掛け突き捕り漁法に代わった貞享』『元(一六八四)年の昔より』、『沖合に網代を設けるなど、捕獲した鯨を引き揚げたスロープが今に遺る。鯨との関わりは三百三十有余年の長い繋がりを持つ土地柄である』とあった。標題の最近の出来事(一九九〇年二月の出来事)も、とても心打たれる話しであるが、引用するには長いので、是非、そちらで読まれたい。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 ポピイ

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。「ポピイ」(標題“les coquelicots”)は。音写すると、「ル・コクリコ」で、狭義には、「雛罌粟・雛芥子」=双子葉植物綱キンポウゲ目ケシ科ケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas を指す。本邦では「虞美人草」の名でも知られる。フランスでは野原で普通に見られる親しい花であり、国花の一つである、フランス国旗の右の赤のラインも本種をイメージしている(因みに、左の青は後注する「矢車菊」=キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus を、中央の白はマーガレット=「仏蘭西菊」=キク科キク亜科フランスギク属フランスギク Leucanthemum vulgare が元である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく)。ヒナゲシの学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。フランスでは、幾つかの地方名があり、coquelicotpavot-coqpavot des champspavot sauvagepoinceauponceau等がある。なお、本邦ではケシ科 Papaveraceaeケシ属 Papaver のケシ類を総じて英語の「ポピー(poppy)」で通称しているが、英語で単に“poppy”と言った場合は、イギリス各地に自生している園芸種としても盛んに栽培されている、本種ヒナゲシ(“corn poppy”:コーン・ポピー)を指す。一方、日本語で単に「ケシ」と言って、それが同時に種を指している場合には、麻薬であるアヘンの元であるケシ Papaver somniferum を指すので、注意が必要である。]

 

      ポ ピ イ

 

 彼等は麥の中で、小さな兵士のやうに、氣取つてゐる。然し、もつともつと綺麗な赤い色。それに、あぶなくはない。

 彼等の劍《つるぎ》は芒(のげ)である。

 風が吹くと飛んで行く。そして、めいめいに、氣が向けば、畝(うね)のへりで、同鄕出身の女、矢車草《やぐるまさう》の花と、つひ[やぶちゃん注:ママ。]話が長くなる。

 

[やぶちゃん注:「彼等の劍《つるぎ》は芒(のげ)である。」原文は“Leur épée, c’est un épi.”。この“épi”は「(麦・稲などの)穂」の意。「芒」は「のぎ・のげ(野毛)・ぼう・はしか」と読み、漢字では「芒」と同語源で「禾・鯁」(後者は専ら「喉に刺さる小さな魚の骨」として使われる)とも書く。

「矢車草」既に『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「ひなげし」』で注してあるが、再掲すると、ヤグルマソウ=キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus 当該ウィキによれば、『一部でヤグルマソウとも呼ばれた時期もあったが、ユキノシタ科のヤグルマソウと混同しないように現在ではヤグルマギクと統一されて呼ばれ、最新の図鑑等の出版物もヤグルマギクの名称で統一されている』とあった。原文では、“bleuet”で、フランス語のウィキでは Cyanus segetum で標題するも、これはヤグルマギクのシノニムであるので、間違いない。いやいや、何より、ヤグルマギクは既に述べた通り、フランスの国花の一種なのである。フランス語のウィキ“Emblème végétal”(「植物の紋章」)のフランスの条に、『ヤグルマギク、デ​​イジー、ポピーはフランスの花の象徴である(ヤグルマギクは第一次世界大戦のフランス退役軍人のシンボルであ』る、と記されてある。これは、フランス語のウィキでは、『ボタン・ホールに附けられたフランスのヤグルマギクは、退役軍人、戦争犠牲者、未亡人、孤児 に対する記憶と連帯の象徴である』とある。但し、同種の花の色は、青というより、明るい紫色である(グーグル画像検索「ヤグルマギク」をリンクさせておく)。]

2024/09/20

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 牡荊

 

Ninjinboku

 

なまゑのき 黃 小荆

      楚

牡荊

     【和名奈末江乃木】

 

本綱古者刑杖以荊故字从荆又云荆楚之地員多産此

而名之今𠙚𠙚山野多之𬋈采爲薪年久不𬋈者其樹大

如盌有青赤二種青者爲荆赤者爲楉嫩條皆可爲莒𥭒

[やぶちゃん注:「莒」は「芋・里芋」の意で、「本草綱目」では「筥」(はこ)であるので、訓読では訂した。]

其木心方其枝對生一枝五葉或七葉其葉如榆葉長而

尖有鋸齒五月杪閒開花成穗紅紫色其子大如胡妥子

而有白膜皮褁之


牡荆子【苦温】除骨閒寒熱通胃氣止欬逆下氣炒焦爲

 末飮服治心痛及婦人白帶【防已爲之使畏石膏】

△按牡荆本朝古者有之今無

金荊 生南方山中大者十圍盤屈瘤蹙文如美錦色如

 眞金玉人用之貴如沈檀此荆之別種也

 

   *

 

なまゑのき 黃荆《わうけい》 小荆《せうけい》

      楚《そ》

牡荊《ぼけい》

     【和名、「奈末江乃木」。】

 

「本綱」に曰はく、『古《いにしへ》は、刑杖《けいじやう》に、荊を以つてす。故、字、「荆」に从《したがふ》。又、云ふ、荆楚の地[やぶちゃん注:現在の湖北省・湖南省に相当する旧地方名。古えの「楚」の国相当。]、此れを多産するに因りて、之れを名づく。今、𠙚𠙚《しよしよ》の山野に、之れ、多し。𬋈(《き》こり)、采りて、薪《まき》と爲す。年久《としひさしく》、𬋈(き)らざれば、其の樹、大(ふと)く、盌《わん》[やぶちゃん注:大き目の高さのある椀。]のごとし。青・赤、二種、有り、青き者を「荆」と爲《な》し、赤き者を「楉《じやく》」と爲す。嫩《わかき》條《えだ》、皆、筥《はこ》・𥭒《かご》と爲すべし。其の木の心《しん》、方《はう》[やぶちゃん注:四角。]なり。其の枝、對生す。一枝≪に≫五葉、或いは、七葉。其の葉、「榆(にれ)」の葉のごとく、長くして、尖り、鋸齒、有り。五月、杪《こづえ》の閒《あひだ》、花を開き、穗を成す。紅紫色。其の子《み》、大いさ、「胡妥子[やぶちゃん注:「本草綱目」の誤字と推定されるので、読みは附さない。後注を参照されたい。]」のごとく、白≪き≫膜≪のごとき≫皮、有りて、之れを褁(つつ)む。』≪と≫。


『牡荆子《ぼけいし》【苦、温。】骨≪の≫閒の寒熱を除き、胃の氣を通利《つうり》し、欬逆《がいぎやく》を止め、氣を下す。炒焦《いりこが》して、末《ます》と爲《なし》、飮服《いんぷく》すれば、心痛、及び、婦人の白帶《こしけ》を治す【「防已《ばうい》」を、之れが「使《し》」と爲《な》す。「石膏」を畏《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、牡荆、本朝に古《いにしへ》は、之れ、有り。今は、無し。

『金荊《きんけい》』『南方≪の≫山中に生ず。大なる者、十圍《とおかかへ》≪あり≫、盤屈瘤蹙《ばんくつりうしゆく》≪して≫、文《もん》、美(うつく)しき錦《にしき》のごとく、色、眞金《しんきん》のごとし。玉人(たますり)[やぶちゃん注:宝玉を作る職人。]之れを用ふ。貴(たかき)こと、「沈(ぢんかう)」・「檀(せんだん)」のごとし。此れ、荆の別種なり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「牡荊《ぼけい》」は「維基百科」の「牡荆」により、

双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属ニンジンボク (人参木) Vitex negundo var. cannabifolia

である。邦文では、「跡見群芳譜」の「花卉譜」の「にんじんぼく(人参木)」が画像もあり、最適である。そこに『漢名』を『牡荊(ボウケイ, mŭjīng)』とあり、『「人參木ノ和名ハ其葉形ニ基ク」(『牧野日本植物図鑑』)。すなわち』、『葉の形がオタネニンジン』(御種人参:所謂「朝鮮人参」、セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng のこと)『に似ることから』とある。そして、『河北・華東・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南に分布』するとし、』『日本には、享保』(一七一六年~一七三六年)『年間に渡来』したと、小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」(文化三(一八〇六)年)を出典とする(因みに、本「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年で、上記の渡来よりも前である)。『暖地では庭木として栽培』されていたとあるのだが、その前の「訓」の項に、「本草和名」に『蔓荊』が載り、『和名波末奈美比 殖近江國』とあることが示され、さらに、かの「延喜式」に『牡荊子』が載り、それを『ヲトコバラ』と記してあるとするのである。最後に『中国では、ニンジンボク(牡荊)をはじめ、いくつかのハマゴウ属の植物を薬用にする』ともある(太字は私が附した)。

 さて。良安が、附言で、『牡荆、本朝に古《いにしへ》は、之れ、有り。今は、無し。』と、不思議なことを断定して言っているのが、私には甚だ不審なのだが、この「本草和名」と「延喜式」の記載が、確かに、現行の樹木種としてのニンジンボクであるとするなら、

「嘗つてある植物が本邦に分布していたが、江戸時代には絶滅していた。」

という驚くべき記載となるのだが、こんなことは、近代のニホンオオカミやニホンカワウソ、トキの絶滅なら、腑に落ちるが、植物種で、これは、ちょっと他に聴いたことがない叙述で、信じ難いのである。而して、この二書の記載は、中国から漢方薬として貢献されたところの漢方生剤の当時の漢名の意味を聴き、それらしい日本語に訳した生剤和名なのではないかとも考えた。

 しかし、良安が和名として掲げた「奈末江乃木」を調べると、やはり、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「はまごう」を見ると、

ハマゴウ属ハマゴウ Vitex rotundifolia

を指すことが、「訓」の項に、「延喜式」に『蔓荊子に、「ハマハフ」と』とあることで明らかとなるのである。また、「倭名類聚抄」に『蔓荊は「和名波末波非」と、荊は「奈末江乃木」と』あることまで判明する。さらに、「辨」の記載の中で、

「蔓荊」はミツバハマゴウ Vitex trifolia 当該ウィキによれば、『鹿児島県トカラ列島(世界北限』『)の平島・宝島』から『沖縄県先島諸島にやや稀にみられる』とする)

であることが判った。

ここで、ウィキの「ハマゴウ」を引いておく(注記号はカットした)。『常緑小低木で砂浜などに生育する海浜植物。別名ハマハヒ、ハマハイ、ハマボウ』。『和名ハマゴウは、一説には葉を線香の原料にしたことから「浜香」の名が生まれ、これが転訛してハマゴウになったといわれる。古書には「ハマハヒ」の記述が見られ、海岸に茎が這うように生えるところから名付けられたものと考えられている。また』、『植物分類学者の牧野富太郎の説によれば、「これは、その実をホウと呼んで薬用にしているところからハマホウが転じたものだろう」としており』、「牧野植物図鑑」『では』、『そのとおり「ハマホウ」として記載し、一名をホウ、ハマボウと載せている。植物生態学者の辻井達一は、「ハマゴウのハマはむろん浜だろう」と述べている』。『地方名は、ハマボウ』、『ハマカズラなどと呼ばれている。花の付き方や色が似ているので、ハギ(萩)に見立ててハマハギの名もある。中国植物名(漢名)は、單葉蔓荊、単葉万荊(たんようまんけい)』。『学名の属名 Vitex(ヴィテックス)は、ラテン語で「結ぶ」を意味し、長く這って伸びた枝が砂浜を縦横に結んでいる様子から来ている』。『日本では、北海道を除く本州・四国・九州・琉球諸島(沖縄)に分布し、海岸の砂浜に群生する。内陸の淡水湖である琵琶湖沿岸にも生育する。日本国外では、中国の沿岸、朝鮮、東南アジア、ポリネシアなどの南太平洋、オーストラリアの海岸の砂地に分布する』。『砂が吹き飛ばされて何メートルも横に伸びた茎が露出する場合もある。砂に埋もれても負けずに伸びるのは』、『海浜植物として重要な適応である。風の強い海岸では、茎は這って生育地を広げ、落葉後にその様子が見えることがある』。『海岸の砂地に群生することが多い落葉低木。長く伸びる茎は地面を這い、半ば砂に埋もれて伸びる。枝は』四『稜があり、ところどころで地上に突き出して直立または斜上し、木本ではあるが』、『高さは』一『メートル』『以下のものが多い。太い茎の樹皮は縦にひび割れる。上部の枝先などの茎は毛が密生し、角張っている』。『葉は対生し』、普通は『単葉で、まれに』三『出複葉になるものもある。葉身は楕円形から広卵形で、長さ』三~六センチメートル、『幅』二~四センチメートル、『縁は全縁、裏面は白銀色の毛で被われ、香りがある。葉柄は長さ』五~十『リメートル』『になる』。『花期は夏から初秋にかけて(日本では』七~九『月)。枝先に円錐花序をつけ、芳香のある青紫色の小さな花を咲かせ、目立つ。萼は長さ』三~四ミリメートル『の鐘形で』五『歯がある。花冠は長さ』一・二~一・六センチメートル『になる漏斗状で』、五『裂し』、『唇形になり、下部の裂片が他の裂片よりはるかに大きい。雄蕊は』四『個、花柱は』一『本で』、『花冠を突き抜け、柱頭が』二『裂する。果実は球形の核果で、直径は』五『ミリメートル』『ほどの小さなもので』、『臭いがあり』、十『月に結実して』、『熟すと』、『淡黒色になり、水に浮き』、『海流に流される。黒い果実は冬でも枝に残ることがある』。『冬芽は対生し、楕円形や半円形で毛に覆われており、冬芽の下に枝に沿って柄が伸びて、その下に副芽をつける。葉痕は心形で維管束痕が』一『個』、『つく。全体にユーカリの葉に似た芳香がある』。十~十一『月ごろに採集した果実を天日干し乾燥したものは、蔓荊子/万荊子(まんけいし)と呼ばれる生薬で、強壮、鎮痛、鎮静、感冒、消炎作用がある。蔓荊子散などの漢方薬に配合される』。八~九『月ごろの開花期の茎葉を採取し』、『長さ』三~五センチメートルに、『粗く刻んで』、『陰干ししたものを蔓荊葉(まんけいよう)という』。「中国高等植物図鑑」に『よると、蔓荊(まんけい)といって神経症疼痛(しんけいしょうとうつう)に効くと記されている。灰汁は染料になる』。『葉や小枝には精油』『が含まれており』、『浴湯料にすれば』、『血行促進作用があり、果実は消炎、解熱、強壮の目的で漢方薬の処方に配剤されている』。『民間療法では、風邪で熱があるとき、頭痛がするときに』、『煮詰めた煎じ液(水性エキス)を』『服用する用法が知られている。妊婦は服用禁忌とされている。また、肩こり、腰痛、筋肉痛、冷え症などには茎葉や蔓荊子を布袋に入れて浴湯料にして風呂に入れる』。『昔は、葉をいぶして蚊遣りに用いたり、あるいは香として用いられた。茎葉は、シキミの樹皮や葉、モクレンの樹皮などを粉末にして混ぜ合わせ、安線香を製造するための原料にした』。『南西諸島にはよく似たミツバハマゴウ』(既注)『が普通。形態的にはよく似ているが、海岸ではなく内陸のひなたにはえ、低木状になる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「牡荆」([088-59b]以下)の独立項のパッチワーク。

「荆楚の地」現在の湖北省・湖南省、古代の楚の国に相当する。

「榆(にれ)」(=「楡」)は日中ともに、双子葉類植物綱バラ目(或いはイラクサ目)ニレ科ニレ属 Ulmus で問題ない。

「胡妥子《こすいし》」これは「本草綱目」でもこの漢字になっているが、これは、原書自体の誤りで「胡荽子(コスイシ)」が正しい。今や、食材・香辛料として英語の「コリアンダー」(corianderですっかりメジャーになった、セリ目セリ科コエンドロ属コエンドロ Coriandrum sativum である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。によれば、『和名コエンドロは鎖国前の時代にポルトガル語 coentro(コエンドロ)から入った古い言葉である。「コスイ」「コニシ」はコエンドロが用いられる以前の呼称で、『和名抄』にコニシの名があり、すでに平安時代に栽培されていた。江戸時代の』出版された日本最古の農書で、宮崎安貞が著した「農業全書」(元禄一〇(一六九七)年)『には、胡荽を「こずい」と読ませており、南蛮の語に「こえんとろ」というとあり、薬効を述べている。また、カメムシ』(昆虫綱カメムシ目カメムシ亜目 Heteroptera)『とよく似た独特の匂いのため、別名「カメムシソウ」と呼ばれることもある。中国植物名は「芫荽」、漢名では「香荽」「芝茜」とも書かれる』。『一般には、英語に従って、果実や葉を乾燥したものを香辛料としてコリアンダー(英語: coriander)と呼ぶほか』、一九九〇『年代ごろから、エスニック料理店の増加とともに、生食する葉を指してパクチー(タイ語』『)と呼ぶことが多くなった』。『また、中華料理に使う中国語由来で』、『生菜をシャンツァイ』(中国語:香菜)『と呼ぶこともあり、日本でもコウサイとよばれていた。中華料理にも使われることから、俗に』「中国パセリ」『とも呼ばれるが、パセリ』(=セリ目セリ科オランダゼリ属(又はオランダミツバ属)オランダゼリ Petroselinum crispum )『とは別の植物である。中国へは張騫が西域から持ち帰ったとされ、李時珍の』「本草綱目」には『「胡荽」(こすい)の名で記載がある』。『英名コリアンダー(coriander)は属名にもなっているラテン語のコリアンドルム(coriandrum)から変化したフランス名のコリアンドル(coriandre)に由来し、さらに古代ギリシア語コリアノン』(ラテン語転写:koriannon)へ遡る。後者の原語を指して「ギリシア語でカメムシを意味する」などと紹介されることが非常に多いが、これは誤りで、コリアノン』『もまた「コリアンダー」を指す言葉である』とあった。

「欬逆《がいぎやく》」咳(せき)や吃逆(しゃっくり)が起こる症状。風邪を指す場合もある。

「白帶《こしけ》」膣から出る粘性の液体で、色は透明か、乳白色、或いは、やや黄色みを帯びるが、ここでは、それが、病的に長期間に亙って出る症状を指す。

「防已《ばうい》」植物名はキンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum 。漢字名「大葛藤」。漢方薬としては、先行する「酸棗仁」の私の注を見られたい。

「使《し》」主薬を補助する薬。

「金荊《きんけい》」「荆の別種なり」不詳。ハマゴウ属に中文名で金沙荆 Vitex duclouxii というのは、ある。但し、同属で巨樹になるというのは、どうも不審であり、学名でグーグル画像検索してみても、そんな巨木は見当たらない。この「圍」というのは、全草体の広がりの大きさであろう。しかし、金に見紛うほどの色の花は上がっていない。

「盤屈瘤蹙《ばんくつりうしゆく》」東洋文庫訳では、この漢字文字列に『ごつごつおとうねりまがって』とルビを振っている。

「沈(ぢんかう)」双子葉植物綱アオイ(葵)目ジンチョウゲ(沈丁花)科ジンコウ(沈香)属ジンコウAquilaria agallocha 。先行する「沉香」を見られたい。

「檀(せんだん)」ルビはして欲しくなかったな。「檀」だけなら、日中ともに双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus Blume var. sieboldianusんだが、「センダン」と振った良安のそれは、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata になっちまうからだ。先行する「檀」、及び、「楝」を参照されたい。良安は当然、マユミじゃなくて、センダンを誤って想起していることになるから、全くのアウトなのである。

2024/09/19

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 魚

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。「魚」は「さかな」と訓じておく。]

 

      

 

 さては、いよいよ、かゝらないな。おほかた、今日が漁の解禁日だと云ふことを御存じないと見える。

 

[やぶちやん注:「博物誌」では『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「かは沙魚」』の終りに、このアフォリズム本文が添えてある。本篇の標題は“LE POISSON”で、この語は、広義の「さかな・魚類」である。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鼬

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 貧乏な、然しさつぱりした、品のいゝ鼬先生。ちよこちよこと、道の上を行つたり來たり、溝から溝へ、また穴から穴へ、時間ぎめの出張敎授。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鼬」』を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 葡萄畑

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      葡 萄 畑

 

 どの株も、添へ木を杖に、武器携帶者。

 何をぐづぐづしてゐるんだ。葡萄の實は、今年はまだ生《な》らない。葡萄の葉は、もう裸體像にしか使はれない。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「葡萄畑」』を参照されたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蝸牛

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      蝸   牛

 

 せい一杯步きまはる。それでも、舌で步くことしかできない。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蝸牛」』では、「一」でルナールによって増補・改稿された形で、第二段落目に出る。本原文は、

   *

 

        L’ESCARGOT

 

   Il se promène le plus qu’il peut, mais il ne sait marcher que sur sa langue.

 

   *

であるが(逐語訳では、「彼は可能なだけ歩き回るものの、舌で歩くことしか出来ない。」)、“ Histoires Naturelles ”では、

   *

 

   Il se promène dès les beaux jours, mais il ne sait marcher que sur la langue.

 

   *

で「彼は天気のいい日は散歩に行くものの、舌で歩くことしか出来ない。」である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 九反田之鼠喰稲

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「くたんだのねずみ、いねをくらふ」と訓じておく。]

 

      九反田之鼠喰稲

 文化三年は、豊年にて、本御藏の後口(うしろぐち)、九反田、稲、よく出來(いでき)て、既に刈入(かりいれ)んとする時、諸方より、家鼠(いへねずみ)、集(あつま)り、不殘(のこらず)、稲を喰取(くらひとり)ける。十月廿八日夜、「荒神祭(かうじんまつり)」とて、小相撲(こずまふ)、爲取(とりなし)ける。

 

[やぶちゃん注:「九反田」現在の高知県高知市九反田(グーグル・マップ・データ)。鏡川河口近くの左岸の砂州上に伸びた地区の一画で、高知城南東の直近。

「文化三年」庚寅(かのえとら)で、グレゴリオ暦一八〇六年。

「本御藏」高知城の米蔵は既に先行する話で考証したところ、始めは、高知城の町屋に接する位置にあったものを、後に城内に移していることが判明しているので、これは「本」=「元」あった「御藏」の後方にあった出入り口の先にある「九反田」という意味と採る。

「十月廿八日」グレゴリオ暦で十一月七日。

「小相撲」草相撲。素人相撲。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 野根浦之內並川村【茂次兵衞】大災

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     野根浦之(の)内(うち)並川村【茂次兵衞】大災(たいさい)

 㙒根浦並川と云(いふ)所に茂次兵衞といふもの、有(あり)。

 性質(たち)、貪欲、深くて、銀(ぎん)[やぶちゃん注:金(かね)。]・米(こめ)、余計(よけい)、出來(しゆつらい)しぬ。

 在所の者、銀、借(かり)に行(ゆく)時は、

「此方(こなた)へ來(きた)れよ。」

と、いふて、田を、すきに出(いで)、東へ犁(スケ)ば、東へ、したひ、西へ來(きた)れば、付(つき)したひて、己(おのれ)は仕事しながら、相談して、田地を質(しち)に取(とり)、或(あるい)は、山林を宛義に入(いれ)させ、銀を貸(かし)けるが、五、六年も、催促せず、其儘、置(おき)て、年(とし)を重(かさ)ね、利倍(りばい)して、夫(それ)より、稠敷(きびしく)催促する故、無詮方(せんかたなく)、質物(しちもの)、渡して、濟(すま)せけるものも、多かりし。[やぶちゃん注:「稠」(音「チウ(チュウ)」には「多い・繁る・びっしりと集まる」の意がある。それを苛烈な催促の形容としたもの。]

 安永の頃[やぶちゃん注:一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]、茂次兵衞が家を[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本51)も「を」であるが、「の」の原古写本の誤りであろう。]近き所に、神社、有(あり)、其(その)宮(みや)の方(かた)より、

『大成(おほきなる)鼬(イタチ)、走り行(ゆく)ぞ。』

と見る內に、茂次兵衞が家の軒(のき)より、火、燃出(もえいで)ぬ。

 家內(かない)、あはて、騷ぎ、隣家(りんか)よりも、掛付(かけつけ)て、消留(けしとめ)ぬ。

 又、翌日、屋根より、燃(もえ)ぬ。

 村中、集りて、扣(たた)き消す內、床(ゆか)の下より、火、出(いで)て、燃(もえ)あがる。

 それを消して見るうちに、或(ある)押込(おしこみ)[やぶちゃん注:「押し入れ」に同じ。]の內より、もへ[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)、手に合(あひ)がたく[やぶちゃん注:対処の仕様が叶わず。]、

「いか樣(さま)、是は、直事(ただごと)に、あらず。祈祷(きとう)、すべし。」

と、いづれも、進めて、山伏を呼(よび)、太夫(たいふ)を請(しやう)して、種々の祈祷に銀(ぎん)を費(つひや)せども、更に止(やま)ずして、弥増(いやまし)に、もえ出(いで)ける。

 後(のち)には、衣類の內より出(いで)、茂次兵衞が一躰(いつたい)より、燃出(もえいで)けるほどに、無詮方(せんかたなく)、東寺(とうじ)へ行(ゆき)て、祈祷(きとう)を賴みぬ。寺主、彼家(かのいへ)へ行(ゆき)て、重き祈祷、せられけるが、此(この)加護にや、無程(ほどなく)、火も鎭(しづま)りける、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「野根浦之(の)内(うち)」の「並川村」野根浦は既出既注で、現在の東洋町野根の甲・乙・丙・(グーグル・マップ・データ。他はその北及び北東に確認出来るように配した)であるが、ここに言う「並川」という地名は「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、確認出来ない。ただ、気になるのは、この現在の野根乙の中にある「名留川(なるかわ)」という地区名である。調べると、江戸時代には「成川」という表記もあったとある。上記「ひなたGPS」で見ても、神社が二社ある。取り敢えず、ここを一つの候補地としておく。

「鼬」民俗社会では、近世まで、イタチは、キツネやタヌキと同様に「化ける妖獣」と認識され、ここにあるように、イタチが群れると、火災を引き起こすともされ、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされた。そうした話、及び、イタチ類の種や、博物的記載は「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「太夫」小学館「日本国語大辞典」にある、『神社の御師(おし)の称号。初め』、『伊勢神宮の権禰宜家より起こり、権禰宜は五位に叙されていたところから出た称。のちには禰宜以下、自治体の長にまで広がった。全国に檀那を持っていて、布教・祈祷』(☜)『・代参を行ない、また、檀那の参詣のときの宿舎を提供する。伊勢神宮』(ここに限っては差別化して「おんし」と読む)・『熊野神社のものが有名』であるが、『明治期以後』、『消滅』したとある。「山伏」に続くと、怪奇談集では、高い確率で「巫女」と続くが、「太夫」には「巫女」の意味はない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 伊勢國與茂都占

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。この「與茂都」の「都」(都)を「いち」と読むのは、小学館「デジタル大辞泉」等によれば、「いちな」(漢字表記:一名・市名・都名)で、元は琵琶法師などがつけた通称名で、名の最後に「一」・「市」・「都」などの字が附された。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする「平曲」の流派は、「一名」を附けたので、「一方流」(いちかたりゅう)と呼ばれた。後、広く、一般の視覚障碍者も通称として用いた、とある。]

 

     伊勢國與茂都(よもいち)占(うらなひ)

 石坂三助は、寛文四年、被召出(めしいだされ)、江戶詰(えどづめ)の時、伊勢國の、与茂都といふ座頭を、藤堂和泉侯(とうだういづみこう)御抱(おかかへ)にて、調子占(てうしうら)[やぶちゃん注:人の声を聴いてする占い。「五音(ごいん)の占(うらない)」。]をする事、古今(ここん)の名人也。

 三助、

『懇望。』

に思ひ、或時、与茂都方(かた)へ行(ゆき)、

「囘生(くわいせい)の吉凶禍福、占ひ玉はれ。」

と賴み、調子を打(うち)ければ、与茂都、良(やや)暫(しばし)、考(かんがへ)、

「扨々(さてさて)、運、强(つよく)、命(いのち)、長き調子、さして名の髙き程の事は無けれども、命は九十を越すべし。乍去(さりながら)、一代の內(うち)、命を失(うしな)はんとする危(あやふ)き事、兩度(りやうど)あれども、是(これ)も、運、强ければ、其(その)難を遁れ玉ふべし。」

と、いひぬ。

 三助、礼を云(いひ)て、屋敷へ、歸りぬ。

 無程(ほどなく)、其年(そのとし)、御國(みくに)へ下りて、後妻を迎け(むかひ)るが、一兩年、過(すぎ)、不緣(ふえん)にて、離別す。

 其翌年、右妻の親、御用人にて有(あり)けるが、銀(ぎん)[やぶちゃん注:金(かね)。]・米(こめ)、引負(ひきおひ)、其外、御掟(ごぢやう)、背(そむ)く事、有(あり)て、露顯(ろけん)し、其(その)者は、御仕置(おしおき)に逢ひ、近類(きんるゐ)、不殘(のこらず)、追放、或(あるい)は、扶持(ふち)・切米(きりまい)、被召放(めしはなたれ)ぬ。

 三助は、離別の以後なれば、何事もなく、難を遁(のが)れぬ。

 三助は、潮江、四つ辻の西に、住居(すまひ)す。[やぶちゃん注:「すまふ」は「住まふ」の連用形が名詞化したもので、それに「住居」を当て字したものであるから、「すまゐ」とするのは誤りである。]

 或年、冬、朝、起(おき)て、茶の間へ出(いで)けるに、下女、茶釜を洗ひ、竃(へつつい)へ掛置(かけおき)けるが、屋根裏に掛置し、傘、落(おち)て、茶釜の緣(ふち)を、打(うち)こぼちければ、三助、見て、

「惜(をし)き事也(なり)。祕藏の茶釜、若(もし)、底に痛みは出來(いでき)ぬや。」

と、茶釜を、目通(めどほ)りに、差上(さしあげ)、眼(ウカヾ[やぶちゃん注:ママ。最後に「フ」が脱字したものであろう。但し、国立公文書館本50)でも同じく脱字している。])抔(など)して居(を)る所へ、何かは不知(しらず)、茶釜の底へ、

「くわん」

と、當(あた)りぬ。

 餘り、當り、强ければ、茶釜、持(もち)ながら、仰(あふむ)けに倒(たふ)れける。

 扨(さて)、起上(おきあが)り、その邊(あたり)を見るに、卷藁(まきわら)射る、稽古矢、一筋(ひとすぢ)、有(あり)。

 其(その)箆(の)[やぶちゃん注:矢の先頭の鏃(やじり)を除く、篠竹(しのだけ)で作る部分の称。「矢柄」とも言う。]に

「谷次郞兵衞」

と、小刀(こがたな)にて、彫付(ほりつけ)、有(あり)。

 三助は、南側、次郞兵衞は、北側にて、門(かど)、合(あは)せ也。

「何ぞ、我等へ、意趣(いしゆ)有(あり)て、射掛(いかけ)たるべし。矢を持參し、詮義[やぶちゃん注:ママ。]せん。」

とて、既に、大小、指(ささ)んとする所へ、次郞兵衞、肝(きも)を消したる樣子にて、走り來(きたり)て云(いはく)、

「先づ、御斷(おんことわり)申候。唯今、卷藁へ、掛(かか)り弓(ゆみ)、稽古致す處、寒き朝なれば、手前、違(たが)ひ、矢、それて、此方(こなた)の窓に入(いり)たると、見へたり。扨々、過怪我(あやまちけが)[やぶちゃん注:誤って、しでかした事。]とは申(まうし)ながら、面目次㐧(めんぼくしだい)も無き仕合也(しあひなり)。」

と斷(ことわり)を述(のべ)ければ、三助、茶釜に當りたる始終の咄(はなし)をしければ、次郞兵衞、安堵して、歸(かへり)ける。

 三助、爰(ここ)に於(おい)て、與茂都が占(うらなひ)し兩度(りやうど)の難(なん)を遁(のが)れ、占の名人なる事を感じぬ。

 三助、立身し、子孫繁昌にて、年九十餘(あまり)、享保の初(はじめ)、終(をは)りぬ。

 與茂都は、江戶にて、名誉の占者《せんしや/せんじや/うらないじや/うらなひびと/うらおき》にて、ありける。

 

[やぶちゃん注:「寛文四年」一六六四年。徳川家綱の治世。

「藤堂和泉侯」伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた津藩第二代藩主藤堂高次(慶長六(一六〇二)年~延宝四(一六七六)年:藤堂高虎の嫡男。寛文九(一六六九)年に隠居している)のこと。]

2024/09/18

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 永田段作殺狼

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

      永田段作殺狼(おほかみをころす)

 西川村(にしがはむら)、郷士(がうし)、永田段作(ながただんさく)と云(いふ)者、娘を一里斗(ばかり)隣村(とんりむら)へ、緣付(えんづけ)しが、宝永五年五月十五日の夜、娘、平產し、

「初產(うひざん)の事成(ことな)れば無心許(こころもとなし)。」

とて、其夜(そのよ)、段作、見舞(みまひ)に行(ゆき)しが、存外、安產にて、肥立(こえだち)ければ、其夜、

「直(すぐ)に可歸(かへるべし)。」

と云(いひ)けるに、老人の義、殊に夜も更(ふけ)候へば、

「明日、早々、御歸可然(しかるべし)。」

と、留(と)めけれども、

「自分、手作(てさく)の最中(さいちゆう)、疎外(おろそかのほか)、取込居(とりこみをり)候。」[やぶちゃん注:「手作」自作している最中の物があったことを指す。藩士より格下の郷士であり、日々の生活も不如意で、農耕なども行っていたから、そうした、明日にも使いたい農機具を、丁度、作っていた最中だったのかも知れない。「疎外」は「近世民間異聞怪談集成」の字起こしだが、読みに疑問が拭えず(私は江戸時代以前の書物で「疎外」という熟語を見た記憶がないからである)、最後まで、崩し字を別な判読で出来ないか探ったが、やはり「疎外」以外にはなかったので、かく自信のない訓を附さざるを得なかった。]

とて、夜更(よふけ)、一人、歸(かへり)けるが、坂中(さかなか)にて歯朶原(しだはら)より、山犬(やまいぬ)、一疋、飛出(とびいで)、段作が跡へ成(なり)、先へ成(なり)、付(つけ)ねらひける。[やぶちゃん注:狼が人を襲う場合の行動様式として、古い作品によく出て来るものである。逆に山神の使者としての狼が、山中から帰る人間を守る際にも、全く同じ方法で送ることでも知られる。]

 段作、居合(ゐあひ)の覚(ぼえ)、有(あり)ければ、時合(じあひ)[やぶちゃん注:「頃合い」。]を見合(みあはせ)、拔打(ぬきうち)に切付(きりつけ)ると、ひとしく、山犬は、何方(いづかた)へ行(ゆき)けん、其儘、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず成(なり)りぬ。

『扨(さて)は。「眞二つに切(きり)たる。」と思ひしに、仕損(しそんじ)たるこそ、殘多也(のこりおおきなり)。』

とて、刀を見れば、血、たまりぬるを、麓(ふもと)の流(ながれ)にて、洗ひ、宿(やど)へ歸り、妻子共(さいしども)へ、娘が安產の咄(はなし)して、休みける。

 其後(そののち)、廿日(はつか)斗(ばかり)過(すぎ)て、家内(いえうち)に、何やら、惡(あし)き臭(カザ)、出(いで)て、其臭(そのかざ)、日を追(おひ)て、次㐧(しだい)に盛(さかん)に成(なり)、後(のち)は、食事も難敷(むつかしき)体(てい)也。

 色々、詮義[やぶちゃん注:ママ。](せんぎ)すれ共(ども)、不知(しれざり)しが、段作次男、

「能々(よくよく)、考れば、何分(なにぶん)、親父殿(おやじどの)寐間(ねま)より出(いづ)るやうに覚ゆ。」

とて、段作が居間の疊を揚げ、敷板(しきいた)、はづし、床(ゆか)の下を見れば、大成(おほいなる)山犬、切られながら、紐皮(ひもかは)[やぶちゃん注:細い紐を連ねたようになった狼の皮革。]斗(ばかり)殘(のこり)て、死(しし)し、その切口の肉、くさり、たゞれて、六月の頃なれば、臭氣に吐逆(とぎやく)し、氣(き)、塞(ふさが)る斗(ばかり)也。

 直(ただち)に引出(ひきいだし)、野原にて、燒捨(やきすて)たり。

 其時、段作、云(いひ)けるは、

「先夜(さきのよ)、娘方(むすめがた)より、歸る時、坂中(さかなか)より、山犬に付(つけ)られ、其儘、切(きり)たりしが、扨(さて)は、山犬、我跡を、したひ、忍入(しのびいり)、

『敵(かたき)を取(とる)べし。』

と、思ひしに、深手(ふかで)なれば、本望(ほんもう)達(たつ)せず、死(しし)たる成(なる)べし。」

と語りければ、家內の者、初(はじめ)てその事を聞(きき)、山犬の怨念(をんねん)の深き事を、しれり。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「西川村」高知県の旧香美郡西川村(にしがわむら)現在の香美市・安芸市・香南市に跨って存在した。「Geoshapeリポジトリ」の旧「高知県香美郡西川村」のページで現在の国土地理院図で赤で囲った旧村域が確認出来る。まさに鬱蒼たる内陸の山林を村域とする不思議な形状をした地区である。この「野川」の旧地名は「ひなたGPS」の戦前の地図でも、最早、確認出来ず、旧同地区に「野川」の名は残っていない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 神祭之節 ギヨウジ

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「ギヨウジ」はママ。]

 

     神祭之節(しんさいのせつ) ギヨウジ

 城下近辺、神祭に、「行事(ぎやうじ)」と称し、神の形代(カタシロ)に、十歲より、十二、三歲の童(わらは)、白粉(おしろひ)にて、顏を塗り、明衣(あかはたり)[やぶちゃん注:神事・儀式に用いる浄衣(じょうえ)。「あけのころも」「あかは」とも読む。]を飾(かざり)、神主、祈念すれば、睡眠《すいめん/すいみん》するを、馬に乘せ、脇より、大勢、聲を上(あげ)てゆくに、睡眠し、不知(しらず)。

 祭(さい)、終り、神前に、おゐて[やぶちゃん注:ママ。「於いて」。]、神主、又、耳に附(つけ)て、祓文(はらひもん)を誦(じゆ)すれば、其儘、睡(ねむり)、覚(さむ)る事也。

 是(これ)、遠境(ゑんきやう)の祭禮に無き事にて、他國にも、此(この)傳(つたへ)、なき事、とぞ。

 神変不測(しんぺんふそく)の至(いたり)也。

 先年(せんねん)、秦山翁(じんざんをう)より、此(この)行事の事を、澁川春海翁へ、委細(ゐさい)、書記(かきしる)して、見せられければ、春海、甚(はなはだ)感じける、と也。

 京の「藤森祭(ふじのもりまつり)」に、婦女、馬に乘行(のりゆく)事あれども、是は、給仕の爲(ため)にて、形代(かたしろ)に、あらず。

 

[やぶちゃん注:『城下近辺、神祭に、「行事(ぎやうじ)」と称し、……』高知城城下の近辺となると、高知城内及び城下の総鎮守であるのは、高知八幡宮であるが、この語り口は、明らかに同神社ではない。この儀式、子どもを形代とするに、何らかの薬物を使用したか、或いは、睡眠術にかけているのは明白で、覚醒の直前の神主の仕草から、後者の可能性が大である。或いは、これ、そのやり口が、淫祠邪教に近いものと受け取れるので、敢えて神社名を伏したものと推定される。

「秦山翁」既出既注の谷秦山。

「澁川春海翁」(しぶかははるみ/しゆんかい 寛永一六(一六三九)年~正徳五(一七一五)年)は前のリンク先に出ている秦山の師の一人。小学館「日本国語大辞典」によれば、『江戸初期の暦算天文学者。京都の人。幕府碁方安井算哲の長男。本名』は安井『算哲。通称』、『六蔵・助左衛門。社号は土守霊社。春海』『は字(あざな)。のち、渋川と改姓。家業を継いで幕府の碁方となり、また、宣明暦を改め』、『貞享暦を作り』、『天文方になった。著書「天文瓊統(けいとう)」「日本長暦」など』とある。

「京の藤森祭」現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町(ふかくさとりいざきちょう)にある藤森神社(グーグル・マップ・データ)で、現行、五月五日に渡って行われる曲乗りが演じられる「駈馬(かけうま)神事」で知られる。但し、婦女が乗馬する画像は、画像検索で調べたが、見当たらなかった。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蜚蟲(あぶらむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      蜚   蟲(あぶらむし)

 

 鍵の穴のやうに、黑く、ひつついてゐる。

 

[やぶちゃん注:『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「あぶら蟲」』では、最後を『ぺしやんこだ。』と改訳している。逐語的には、こちらの方が正しいし、改訳では、ブッ叩いたアブラムシを想像して、私には不快感がある。「ひっついてゐる」ようで、「鍵の穴のやうに」平べったい(まさに「ぺしやんこ」)種で、フランス中部に棲息するもの、そして、如何にもな脚や突起物が目立たないことを考える(「鍵の穴」の見かけ)と、我々にもお馴染みな、ゴキブリ目オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica が相応しいように思われる。当該ウィキによれば、『ゴキブリ成虫の雌雄は尾部に突起物(尾刺突起)があるかないかで区別されるところ、本種にはこのような突起はない』とあるからである。なお、同種『はクロゴキブリなどが属する狭義のゴキブリ科』Blattellidae『の仲間ではなく、ゴキブリ科と近縁にあたるシロアリとも縁遠い種類である』とあった。しかし、色は茶褐色であるから(子どもの時は黒い)、同定としては、その点でアウトだ。黒いとなると、本邦のクロゴキブリに、やや見かけが似ているゴキブリ科  Blatta 属トウヨウゴキブリ Blatta orientalis が有力候補となるか当該ウィキによれば、『クリミア半島および黒海、カスピ海地域が原産であるが』、『現在では世界中に分布している』とあり、フランス語のウィキのゴキブリ目=「Blattaria」「有害種」の項に上がっているから、フランスにもいることは確実である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 石南

 

Ookanamemoti

 

しやくなぎ  風藥

       【和名止比良乃木

        俗佐久奈無佐】

石南

      【今云止比良乃木

       者非是出于香木

シツ ナン     木下】

 

本綱石南生山石閒向陽之處故名其葉似枇杷葉之小

者而背無毛光而不皺正二月閒開花冬有二葉爲花苞

苞既開中有十五餘花大小如椿花甚細碎毎一苞約彈

許大成一毬一花六葉一朶有七八毬淡白綠色葉末微

赤色花既開蘂滿花伹見蘂不見花花纔罷去年綠葉盡

脫落漸生新葉也秋結細紅實

 凡京洛河北河東山東頗少湖南江西二浙甚多

葉【辛苦有毒】 能添腎氣古方爲治風痺腎弱要藥今人絕不

 知用女子不可久服令思男

△按石南花和州葛城紀州高野及深山谷中有之京師

 近處亦稀有之東北州絕無之性悪寒濕也三四月開

 花淡紅色秋結細子紅色春舊葉未落新葉生交代也

 竊考此非眞石南花蘇恭所謂欒荆也乎

欒荆【一名頑荆】 本綱其莖葉似石南乾亦反卷經冬不死葉

 上有細黒㸃此與倭石南花應

 

   *

 

しやくなぎ  風藥

       【和名「止比良乃木《とびらのき》」。

        俗、「佐久奈無佐《さくなむさ》」。】

石南

      【今、云ふ、「止比良乃木」は、

       是れに非ず。「香木」の

シツ ナン     木の下に出づ。】

 

「本綱」に曰はく、『石南は山石《さんせき》の閒《あひだ》、陽に向《むかふ》の處に生ずる。故に名づく。其の葉、「枇杷《びは》」の葉の小さき者に似て、背に、毛、無く、光ありて、皺(しは)まず。正・二月の閒《かん》、花を開く。冬、二葉《にえふ》有りて、花苞《くわはう》と爲《な》る。苞、既に開きて、中《うち》≪に≫十五餘《あまり》≪の≫花、有り。大≪いさは≫、小≪さく≫、椿《ちん》の花のごとく、甚だ細《こまか》に碎《くだ》け、一苞毎《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]、彈《たま》許《ばかり》の大いさに約《やく》する[やぶちゃん注:纏まって。]こと、一毬《ひとまり》を成す。一花六葉、一朶《ひとふさ》≪に≫、七、八毬、有り。淡白≪なる≫綠色≪たり≫。葉の末《すゑ》、微《やや》、赤色。花、既に開きて、蘂《しべ》、花に滿つ。伹《ただし》、蘂を見て、花を見ざる[やぶちゃん注:「蘂の見ゆるも、花は見えざるなり。」の意。]。花、纔《わづか》に[やぶちゃん注:ここは「からうじて」(やっとのことで)の訓の方が良い。]罷(や)んで、去年の綠葉、盡《つ》く。脫落《ぬけおち》て、漸《やうや》く、新葉を生ずるなり。秋、細き紅の實を結ぶ。』≪と≫。

『凡そ、京洛《けいらく》・河北・河東・山東(《サン》トン)、頗《すこぶ》;る、少なし。湖南・江西・二浙《にせつ》[やぶちゃん注:浙江省の東と西で、浙東と浙西の地方を指す。]甚だ、多し。』≪と≫。

『葉【辛苦、毒、有り。】』『能《よく》、腎氣を添ふ。古方《こはう》≪にては≫、風痺《ふうひ》・腎弱を治す要藥と爲《なす》。今の人、絕えて、用ふることを、知らず。女子《によし》、久しく服すべからず、男を思はしむ≪故なり≫。』≪と≫。

△按ずるに、石南花(しやくなげ)、和州葛城《かつらぎ》・紀州高野、及び、深≪き≫山谷《さんこく》の中《うち》に、之れ、有り。京師の近處《ちかきところ》≪も≫亦、稀れに、之れ、有り。東北≪の≫州、絕へて[やぶちゃん注:ママ。]、之れ、無し。性、寒濕を悪《い》めば[やぶちゃん注:「忌めば」に同じ。]、なり。三、四月、花を開き、淡紅色。秋、細《こまかなる》子《み》を結ぶ。紅色。春、舊葉、未だ落ちず、新葉、生じて、交代す。竊《ひそか》に考ふるに、此れ、眞《まこと》の「石南花《しやくなげ》」に非《あらず》、蘇恭《そきやう》の所謂《いはゆ》る「欒荆《らんけい》」なるか。

欒荆【一名、「頑荆《がんけい》」。】 「本綱」に曰はく、『其の莖・葉、「石南《せきなん》」に似て、乾《かはき》ても亦、反卷《そりま》き、冬を經《へ》て、死(か)れず。葉の上に細黒㸃《ほそきこくてん》、有り。』≪と≫。此れ、倭《わ》の「石南花《しやくなげ》」と應(おう)ず。

[やぶちゃん注:これは良安が気づいている通り、中国語の「石南」は、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ(要黐)属オオカナメモチ Photinia serratifolia

であり、他に本邦の異名としては、「ナガバカナメモチ」「タロコビワ」「テツリンジュ(鉄林樹)」等がある。

 一方、本邦の「しゃくなげ」「石楠(石南)花」は、全く異なる、

ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron シャクナゲ亜属 Hymenanthes 無鱗片シャクナゲ節に属する植物の総称

である。

まず、オオカナメモチから解説する。当該ウィキは邦文では独立せず、「カナメモチ」(タイプ種 Photinia glabra )のページの「カナメモチ属」の項に、『東アジア暖帯・亜熱帯を中心に』六十『種ほどある』と前書きした、その筆頭に、『オオカナメモチ Photinia serratifolia (Desf.) Kalkman』を配し、『中国本土・台湾から東南アジアにかけて分布する。日本では岡山県・愛媛県・南西諸島にかけて、点在的に分布記録があるが、このうち』、『本土の記録は栽培個体の逸出だと思われ、南西諸島では』、『自生が確認されているのは徳之島のみで、他の記録ははっきりしないとされる。中国では墓樹に利用されるなど栽培もされる。葉は長さ』十~二十センチメートル『の長楕円形で』、『カナメモチよりも大きく、古い葉は紅葉して落葉する』。『花に強い芳香がある』とある。「維基百科」の「石楠(石楠属)」が同種。そこには、『中国中南部、台湾、日本、インドネシアなどに多く分布する』(高高度植生の千メートル以上という記載は信じ難い)とある。『花は強い香りがあり、萼筒は五裂の鐘形で、子房は下に二~四室あり、各室に一個の胚珠がある。果実は直径 四ミリメートル~一・二センチメートルの小さな果粒で、種子が 一~四個あり、秋に熟し、冬を越すことが出来る。種子はツグミ属・レンジャク属・ムクドリなどによって、糞として拡散することが出来る』。『都市緑化・空気浄化・有害粉塵の吸収を目的として、中国本土の一部の都市で植えられている。但し、本種は開花すると、ヒトの精液に似た臭気を発することから、一部の国民は除去を訴えている』とある。所謂、栗の花(クリの場合は不飽和アルデヒドの一部成分の構造が似ているため)と同じだ。なお、英文の同種のページには、『海抜世〇メートルから二千五百メートルまでの標高に植生』し、『中国中部と南部・台湾・日本・フィリピン・インドネシア・インドの混合林に分布する』とある。なお、「品種」の項では三種の台湾原産の変種が掲げられてある。本邦のものでは、ガーデニング関係の職にある管理人の方のサイト「庭木図鑑 植木ペディア」の「オオカナメモチ」(画像も豊富)がよい。引用させて頂く。『暖地の山間に見られるバラ科の常緑樹。葉や花がカナメモチよりも大型であるため』、『オオカナメモチと名付けられた。本種自体は無名に近いが、住宅地の生垣として多用されるレッドロビン』(セイヨウベニカナメモチ(西洋紅要黐)Photinia × fraseri:シノニム Photinia glabra × Photinia serratifolia )『は本種を片親とする園芸品種』。『日本での自生は稀で、岡山県、愛媛県(宇和島)、奄美大島、西表島などの一部地域にのみ育ち、絶滅も危惧される。日本以外では中国、インドネシア、フィリピンに分布し、アメリカでは有数の垣根として植栽される』。『葉は枝から互い違いに生じ、先端の尖った楕円形になる。長さ』十~十二『センチ』『メートル、『幅』四~八『センチ』メートル『でカナメモチ』(カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra )『よりも大きい』。『革質で表面には光沢があり、成長の盛んな葉の縁にはトゲのようなギザギザが目立つ。枝は長く伸びて垂れ下がり、鬱蒼としやすい。なお、中国名は石南葉であり、シャクナゲ(石楠花)と混同しやすい』(☜)。『新芽は紅色あるいは薄緑色で、紅色が鮮やかなカナメモチやレッドロビンに比べると控えめである。カナメモチやホルトノキ』(カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus zollingeri var. zollingeri )『と同じように新葉が展開すると』、『古い葉は赤くなって落ちる』。『オカナメモチの開花は』四~六『月』で『直径』六~八ミリメートル『ほどの白い花が多数集まり、お椀状の大きな花序を形作る』。『花序はカナメモチよりも大ぶりだが、花弁の内側に毛がないという点以外は、さほど変わりない。開花期には多数の昆虫が集まるが、花の香はあまり芳しくなく、むせ返るような匂いがある』。『花の後には直径』六~八ミリメートル『ほどの球形の実が成り、冬季に赤く熟す。実の中には種が』一『粒ずつ入るが、挿し木で増やすことが多い』。『樹皮は灰褐色で、樹齢を重ねると不規則に剥離する。カナメモチと同様に材は硬く、テツリンジュ(鉄林樹)という別名がある』(次に同種の「育て方のポイント」があるが、省略する)。『【オオカナメモチとカナメモチ】』の葉(画像有り)・花による識別法の項。『・葉の大きさは画像のとおり、全く異なる。また、オオカナメモチは花弁の内側に毛がなく、カナメモチには毛がある点も見分けのポイントとなる』とある。

 次いで、ウィキの「シャクナゲ」を引く(注記号はカットした)。『主に低木だが、高木になるものもある』。『また、日本ではその多くのものがツツジと称される有鱗片シャクナゲ亜属のものを欧米では Rhododendron と呼んでいる。ただし、有鱗片シャクナゲのなかでも、ビレア(マレーシアシャクナゲ)の仲間は、カワカミシャクナゲのように、日本でもシャクナゲと呼んでいる』。『 Rhododendron (ツツジ属)としては』、『主として北半球の亜寒帯から熱帯山地までのきわめて広い範囲に分布し、南限は赤道を越えて南半球のニューギニア・オーストラリアに達する。特にヒマラヤ周辺には非常に多くの種が分布する。シャクナゲのなかまは種類が極めて多く、分布は日本からアジア大陸の南部山岳地帯、ヒマラヤに広がる』。『いずれも派手で大きな花に特徴がある。花の色はさまざまで、白あるいは赤系統が多いが、黄色の場合もある。常緑の灌木が多いが、なかには高木になる種類も含まれており、ネパール国花とされているラリ・グラス』(「赤い花」の意:学名: Rhododendron arborea )の樹高は』二十『メートル』『にもなる。極めて優れた美しい花を持つ灌木あるいは高木であることから、欧米の植物学者の関心を集めた』。『シャクナゲは葉にロードトキシン』Rhodotoxin『こと』、『グラヤノトキシン』Grayanotoxin『などの痙攣毒を含む有毒植物である。摂取すると』、『吐き気や下痢、呼吸困難を引き起こすことがある。葉に利尿・強壮の効果があるとして茶の代わりに飲む習慣を持つ人が多く存在するが、これはシャクナゲに「石南花」という字が当てられているため、これを漢方薬の「石南(オオカナメモチ)」と同一のもの(この』二『つに関連性はない)と勘違いしたためであり、シャクナゲにこのような薬効は存在しない』。『シャクナゲは常緑広葉樹にもかかわらず』、『寒冷地にまで分布している。寒冷地に分布する種類のなかには、葉の裏側を中にした筒状にして越冬するハクサンシャクナゲ』( Rhododendron brachycarpum )『などがある。日本にも数多くの種類のシャクナゲが自生しているが、その多くは変種であり、種のレベルでは』四『種または』六『種に集約される』。『世界各国で庭園の植栽に用いられ、多くの品種が作り出されている。日本にも、園芸用品種として数多くの外国産のシャクナゲが導入されており、各地で植栽されている』。十八『世紀以降に主にイギリス人のプラント』・『ハンターによってヨーロッパに紹介されて以来、優れた庭園樹として現代にいたるまで世界中で広く愛好されている』。『シャクナゲは有毒のため、ヤギやヒツジ、ウシなども食べない。ネパールでは、材がかたく、薪にしても燃えづらく、ヤギもかじらないため』、『家畜小屋の柵に利用したりする』。以下、「主な種」で『野生状態でも変種が数多く、また園芸植物としても数多くの品種がある。そのため、種類数は定義によって大きく異なるが、おそらく数百種類はあると思われる。日本産のものは変種を含めて』十一『種ほどある』として、地区別に抜粋で列挙されているが、略す。なお、『そのため』以下、『数百種類はあると思われる』という叙述箇所には、『[独自研究?]』の疑義が附されてあるが、英文の同ウィキに『二十四の亜節と約百四十種に分かれている』とあるので正しい(そっちに疑義要請は打たれてない(そもそも根拠を示すのに、よく『(英語版)』とするが、それも引用元が本当かどうかの疑義要請を全部に掛けなきゃなるんじゃねぇか? そんなの、見たこと、ネエぜ?)。上方右の標題枠の種にも『約140種』とあるじゃないか。重箱の隅をほじくるなら、ここにも、その疑義をかけるがよかろう、糞ウィキぺディアンがッツ!

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「石南」([088-57a]以下)の独立項のパッチワーク。

「枇杷《びは》の葉」バラ目バラ科ナシ亜科シャリンバイ(車輪梅)属ビワ Rhaphiolepis bibas の葉は、厚く、堅く、表面が凸凹しており、葉脈ごとに波打ち、而して、葉縁には、波状の鋸歯がある。

「椿《ちん》」ツバキではなく、双子葉植物綱ムクロジ目センダン科 Toona 属チャンチン Toona sinensisであることは、先の「椿」で立証済み。

「京洛《けいらく》」時珍が生きた時期は明の後期で首都は既に北京であった。

「風痺《ふうひ》」東洋文庫訳の割注に、『(身体がだるく、痛みが身体のあちこちに走る症)』とある。

「和州葛城《かつらぎ》」現在の奈良盆地の南西部にある金剛山地(グーグル・マップ・データ航空写真)の東麓を指す地域名。

「深≪き≫山谷《さんこく》の中《うち》に、之れ、有り。京師の近處《ちかきところ》≪も≫亦、稀れに、之れ、有り。東北≪の≫州、絕へて[やぶちゃん注:ママ。]、之れ、無し」とあることから、良安に指示している「シャクナゲ」は、恐らく、彼の分布指定から、

○シャクナゲ亜属ツクシシャクナゲ変種ツクシシャクナゲ Rhododendron japonoheptamerum var. japonoheptamerumウィキの「シャクナゲ」によれば、『紀伊半島以西の本州・四国・九州の山地に分布する』とある)

か、

○ツクシシャクナゲ変種ホンシャクナゲ Rhododendron japonoheptamerum var. hondoense(同前で『中部地方以西の本州と四国の山地に分布する』とある)

と思われる。寧ろ、「東北にはシャクナゲはない」と言う良安に言葉は、致命的な誤りであって、実は、

シャクナゲ亜属 Hymenanthes キバナシャクナゲ Rhododendron aureum (同種は当該ウィキによれば、『日本では北海道から中部地方』(☜)『までの高山帯から亜高山帯上部にかけて自生する高山植物で』、『分布域がアズマシャクナゲ』( Rhododendron degronianum var. amagianum :本種は静岡県伊豆半島の山地にのみ分布する)『やハクサンシャクナゲ』(以下参照)『よりさらに高地』に植生するとある)

シャクナゲ亜属ハクサンシャクナゲ  Rhododendron brachycarpum (同種は当該ウィキによれば、『北海道・本州(中部地方以北)』(☜)・『四国(石鎚山)』、『および朝鮮半島北部の亜高山帯から一部はハイマツ帯まで分布』し『高山の針葉樹林に生える』とある

シャクナゲ亜属アズマシャクナゲ Rhododendron degronianum当該ウィキによれば、『本州のうち、東北地方の岩手県・宮城県・山形県以南、関東地方、中部地方の長野県・静岡県までの範囲に分布し、亜高山帯の林内、稜線上などに自生する』とある)

とあるように、他にも、畿内には分布せず、東日本中部地方以北にしか分布しない種さえあるのである。

「蘇恭《そきやう》」(五九九年~六七四年)は「蘇敬」とも称する。隋滅亡の直前に生まれ、初唐の官人となった。本草学者でもあり、高宗の命により、長孫無忌(ちょうそんむき)らとともに、陶弘景が「神農本草經」を元として成した「本草經集注」の誤りなどを正して補正・完成させた、「唐本草」全二十巻を著した。

「欒荆《らんけい》」「頑荆《がんけい》」『此れ、倭《わ》の「石南花《しやくなげ》」と應(おう)ず』「欒 頑 Rhododendron」でネット検索しても、それらしい中文記事は掛かってこない。されば、『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳・牧野富太郎校定(旧版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部である独立項「欒荆」を、国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認するのが、最後の手段となった。そこでは、「欒荆」を(学名が斜体でないのはママ)、

   *

 和 名 未詳

 學 名 Vitex sp.

 科 名 くまつづら科(馬鞭草科)

   *

となっている。この「Vitex sp.」「くまつづら科(馬鞭草科)」というのは、嘗つては、クマツヅラ(熊葛)科 Verbenaceae に分類されていたシソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)属 Vitex を指す。しかし、グーグル画像検索「オオカナメモチ」と、同「ハマゴウ属」を比較すると、花は全く違うし、以下にある葉に細かな黒点があるというのも、「ハマゴウ属」の葉を、各個の写真で調べたが、そのようなものは視認出来ない。されば、この同定は当たっていないと私は断ずる。御大牧野、及び、北村の比定同定はハズレと言わざるを得ない。されば、やはり、未詳である。恐らくは、中国固有種の何かであろう。何らかの機縁で、属、或いは、種を示す資料や情報を受けた際には、追記する。

『「本綱」に曰はく、『其の莖・葉、「石南《せきなん》」に似て、乾《かはき》ても亦、反卷《そりま》き、冬を經《へ》て、死(か)れず。葉の上に細黒㸃《ほそきこくてん》、有り。』≪と≫』「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「欒荆」([088-65a]以下)の独立項のパッチワーク。]

2024/09/17

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 鷲𤔩人并吉本蟲夫歌

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ私は「目録」で注して、『「𤔩」は、この場合は「摑(つか)む」の意。「近世民間異聞怪談集成」では、「蟲」(そちらの表記は「虫」)を右補正注して『(義)』とする。これは当該話で再検討する。』と述べた。国立公文書館本の「目録」(6)でも同じく「蟲夫歌」である。後注で結論を述べる。

 

     鷲𤔩人(わし、ひとをつかむ)并(ならびに)吉本蟲夫歌

 立田故庵、先年、北山分(ぶん)へ、病用(びやうよう)に行(ゆか)れしに、民間(みんかん)なれば、一ト間の內、囲庵裏(ゐろり)に健(すこや)か成(なる)老人、火に當り居(をり)ける。亭主の父也。

 故庵、老人は能(よき)年と見ゆるが、

「達者そう[やぶちゃん注:ママ。]に見ゆる。」

抔(など)と云ひければ、脇より、答へけるは、

「此老人には珍敷(めづらしき)咄(はなし)御座候。此者、親は、猟師にて御座候。此老人、幼少の頃、襁褓(ムツキ)に包み、戶口に差置(さしおき)、夫婦とも、庭にて、銘〻(めいめい)、働居(はたらきをり)候處、山辺(やまべ)にて候へば、鷲、一羽(いちは)來り、小兒(しやうに)を𤔩(つか)みて、飛上(とびあが)り候を、親、見付(みつくる)否(いなや)、鐵鉋(てつぱう)を、ひつさげ、出(いで)て見候へば、遙(はるか)、上(うへ)の、髙き木の上に、留(とま)り居(をり)候。

『最早、子は捨物(すてもの)に仕(つかまつり)、責(せめ)ては、敵(かたき)を打(うつ)て、報(むくひ)を爲申度(なしまうしたく)。』

存(ぞんじ)、狙(ねら)ひて打(うち)候へば、雲井(くもゐ)はるかに飛上(とびあが)り、弥(いよいよ)、

『是非なき事。』

に、おもひ、夫婦ともに、啼(ナキ)さけび居(をり)候處に、ふしぎに、空より、何かはしらず、舞落(まひおち)候故、

「扨は。玉が當りて落(おつ)るものならめ。責(せめ)ては、敵(かたき)を打(うつ)て、嬉敷(うれしき)事也。』

と存(ぞんじ)、落(おち)たる所へ、かけ付見(つけみ)候へば、幸(さひはひ)に、子は、「むつき」ごしに、つかみ候へば、少(すこし)も、疵(きず)、不附(つかず)して、笑居(わらひをり)ける。鷲は、死(し)して居(をり)申候。不思義[やぶちゃん注:ママ。]成(なる)命を助(たすか)り候。則(すなはち)、此老人にて候。」

と語りける、とぞ。[やぶちゃん注:以下の「附けたり」の話柄は底本でも、改行されてある。]

 本山鄕(もとやまがう)の内にて、有りし[やぶちゃん注:「話し」の略。]。村名は忘れたり。

 十四、五歲の子、三歲斗(ばかり)成(なる)小兒をつれて、山中(さんちゆう)に遊び居(をり)けるを、何やら、來(きた)り、小兒を、𤔩(つか)みて、迯去(にげさ)りぬ。惣分(そうぶん)[やぶちゃん注:これは、「総て」の意で、「辺り一帯(は普段から)」ということであろう。]、霧深き所ゆゑ、何(なん)にて有(あり)けん、不知(しらず)、終(つひ)に、行方(ゆくへ)しれざりし也(なり)。

 里人、

「鷲にて、あるべし。」

と、いへり。

 此時、吉本外市(よしもとそといち)、本山鄕の庄屋にて有(あり)し。此事(このこと)を聞(きき)て、哥(うた)を、よみける。

  はへばたてたてばあゆめと撫(なで)し子の

      床夏(とこなつ)ならで秋うせにけり

  白銀(しろがね)にこがねに玉にかへぬ子を

      ものにとられしおやの心は

 

[やぶちゃん注:「立田故庵」「たつたこあん」と読んでおく。如何にも医師らしい通称ではある。

「北山分」「北山」は現在の高知県長岡郡本山町(もとやまちょう)北山(グーグル・マップ・データ航空写真)であろう。吉野川上流左岸の山間地である。「ひなたGPS」で戦前の地図も見られたい。「分」は「ぶん」で、北山地区の持ち分の地の意であろう。山中で飛地(とびち)があった可能性もあり、その「飛地分」の意かも知れない。

「本山」は前と同じロケーションで、現在の高知県長岡郡本山町(もとやまちょう)。

 さて、標題の「蟲夫」では、意味が全く通らない。ここで言っておくと、実は、「近世民間異聞怪談集成」本文では、短歌を作った庄屋の名を『青本外市』と起こしているのだが、底本、及び、国立公文書館本47)を見ても、これは「青(靑)」ではなく、「𠮷」(底本)・「吉」(国立公文書館本)の崩し字である(またまた、素人並みの誤判読だ!)。さて。「近世民間異聞怪談集成」が補正傍注する「義夫」とは「ぎふ」で、これ、「義」=「義俠」で「義の夫(をのこ)」の意なのであろう。この本山郷の庄屋吉本外市が、この鷲に子を攫われた父母の悲しみを汲んで、この二首を詠じたのを、「義侠心に富んだ御人(ごじん)」として作者が讃えて標題とした――ということであるようである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 長濱村三平蘇生

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     長濱村三平蘇生

 

 先年、長濱(ながはま)、住居(すみをる)、橫田何某(なにがし)の家に、召仕(めしつかひ)の者、三平と云(いふ)者あり。

 或時、傷寒(しやうかん)を煩ひ死(しし)ける故、日傭(ひやとひ)に云附(いひつけ)、長濱の砂原(すなはら)へ葬(はふり)ける。

 良(やや)久(ひさしく)して後(のち)、三平、來りける。

 家內の者は、夜更(よふけ)て、三平、來(きたり)ける故、

「幽霊也(なり)。」

とて、甚(はなはだ)、おぢけるに、

「幽霊に非らず、實(まこと)に蘇生したるもの也。一旦、熱にとぢられ、絕(たえ)たるを、砂の中へ埋(うづ)みたる故、熱、覚(さめ)て、蘓生(そせい)したる。」

と也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「長濱村」現在の高知市長浜(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「傷寒」急性の熱性疾患。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 天牛蟲(かみきりむし)

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      天 牛 蟲(かみきりむし)

 

 此の蟲の觸角は馬鹿に長い。此の本の中に挾んで置かうと思ふと、それを胴の方に曲げなければならない。

 

[やぶちやん注:「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、揭げたタイトルの中には「カミキリ虫」というのが含まれている。しかし、当該第五巻の「博物誌」にも、その注にも、また第五巻のその他にも、「天牛蟲(かみきりむし)」に相当するものは所収していない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ルナールがカットしたものらしい。原文を示しておく。

   *

 

     LE CAPRICORNE

 

   Cet insecte a les antennes si longues, que pour le mettre dans ce livre, il faut les lui rabattre sur le côté !

 

   *

この“capricorne”(音写「キャプリコォロン」)という単語はフランス語では、一般的な第一義はカミキリムシ類(ギリシャ語で「長い触角を持つ虫」が語源)を指し、第二義でアジア産のカモシカ、更に第三義では、星座十二宮の「山羊(やぎ)座」を指す。但し、この単語では、特定種を指すことはできないので、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae どまりである。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 螢

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 一體、なに事があるんだらう。もう夜の九時、それに、あそこのうちでは、まだ明りがついてゐる。

 

[やぶちゃん注:後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「螢」』はボナールの挿絵はない。「螢」の種はそちらの注を見られたい。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 猫

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 わたしのは鼠を食はない。そんなものを食ふ氣にはならないらしい。つかまへても、それを玩具《おもちや》にするだけである。

 遊び飽きると、命を助けてやる。それから、どこかへ行つて、尻尾の輪の中にすわると、罪の無ささうな顏をして、空想に耽る。

 然し、爪傷(つめきず)がもとで、鼠は死んでしまふ。

 

[やぶちゃん注:私のルナール初体験は中学二年の秋に読んだ明治図書中学生文庫十四の倉田清氏の「にんじん」である。「にんじん」には圧倒的な感動を覚えたのだが、同書の末に「付録」として載せられた「博物誌」の抜粋(ボナールの挿絵添えにも惹かれた。特に鼠へのペーソスとともに記憶に刻まれたのは、この「猫」であった。程無く、芥川龍之介のシニカルなアフォリズム「侏儒の言葉」(リンク先は私のブログ・カテゴリ『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)【完】』。サイト一括版の本文のみの『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』もある)に嵌まったのであった。されば、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「猫」』は私の人生の、文学的一大転回点のスプリング・ボードであったと言ってよいのである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 壩齒花

 

Muresuzume

 

はしくは  錦鷄兒

壩齒花 醬瓣子

 

農政全書云壩齒花生山野閒亦人家園宅閒多栽葉似

枸𣏌子葉而小毎四葉攅生一處枝梗亦似枸𣏌有小刺

開黃花狀類雞形結小⻆

△按未識如此樹蓋雞形二字中閒有冠字乎

 

   *

 

はしくは  綿鷄兒《めんけいじ》

壩齒花 醬瓣子《しやうべんし》

 

「農政全書」に云はく、『壩齒花、山野の閒に生ず。亦、人家≪の≫園宅≪の≫閒≪に≫、多く栽《う》ふ[やぶちゃん注:ママ。]。葉、「枸𣏌子《くこし》」の葉に似て、小《ちさ》く、四葉《よつば》毎《ごとに》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して訓じた。]、一處に攅-生(あつまり《しやう》)ず。枝・梗(くき)も亦、「枸𣏌」に似て、小≪さき≫刺《とげ》、有り。黃花を開く。狀《かたち》、雞《にはとり》≪の≫形に類して、小≪さき≫⻆を結ぶ。』≪と≫。

△按ずるに、未だ此のごとくなる樹を識らず。蓋し、「雞形」の二字の中閒に、「冠」の字、有るか。

 

[やぶちゃん注:これは「綿鷄兒」で、「維基百科」の「錦雞兒」により、一発で判明した。

双子葉植物綱マメ目マメ科ムレスズメ属ムレスズメ Caragana sinica

である。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ムレスズメ 群雀」のページによれば、別名『キンジャクカ、キンジャクジュ』で、花期は四~五月で、『落葉低木』で、樹高は一~二メートル。中国からの『帰化種』。『ムレスズメはマメ科ムレスズメ属の観賞用の栽培種』であり、『中国原産で日本には江戸時代』の文政九(一八二六)年『に渡来し』(「梅園草木花譜」の「春三」に拠る)、そこ『に金雀児樹(ムレスズメ)、金雀花(キンジャククア)、金雀樹(キンジャクジュ)と記載されている』とある。『樹皮は暗褐色。当年小枝は無毛。葉は羽状又はときに掌状』で、四『小葉。葉柄と葉軸は長さ』は七ミリメートル~一・五(或いは二・五センチメートル。『脱落性又は宿存性。小葉の葉身は倒卵形』から『長円状倒卵形』を呈し、『長さ』は一~三・五センチメートル『×幅』〇・五~一・五センチメートル、『しばしば、先の対が最も大きく、先は円形で微突形。花は単生。花柄は長さ約』一センチメートル、『中間に関節がある。咢筒は鐘形、長さ』一・二~一・四センチメートル。『花冠は黄色、長さ』二・八~三センチメートル。『旗弁』(きべん:マメ類の花によく見られる蝶形花(ちょうけいか)の、上方にある一枚の花弁を指す。旗を立てたような形なのでかく称する)『は狭倒卵形、爪部は短い。翼弁は基部に耳があり、爪部は拡大部とほぼ同長。竜骨弁は広く鈍い。子房は無毛。豆果は円筒形、長さ』三~三・五センチメートル。『果期は』七『月』とある。『ムレスズメ属』 Caragana は、『低木』、『又は』、ごく『まれに高木』で、『托葉は小さく、脱落性又は宿存性、刺状。葉は偶数羽状複葉、葉軸は最終の小葉の対を超えて伸びるか』、『又は』、『葉軸が縮小して』、『見たところ掌状』を呈し、『小葉は』四~二十『個。葉柄と葉軸は宿存性又は脱落性、宿存するときは』、『しばしば』、『木質で刺状になる。小葉の葉身は全縁、先は』、『しばしば、尖頭』を成し、『花は腋生、普通、単生だが、ときに』二~五『個、束生する。花柄は関節がある。小苞は無く又は』一つから『多数ある。咢は筒形又は鐘形』で、五『歯、外側の』二『個は普通、小さく、基部は袋状又は袋状でない。花冠は黄色、まれに紫色~帯ピンク色~白色、旗弁はときに淡黄色又は橙赤色、翼弁と竜骨弁は』、『しばしば、耳形』を成す。『雄しべは』二『体雄しべ 』(九+一)。『子房は類無柄、まれに、柄がある』。『世界に約』百『種があり、温帯のアジア、ヨーロッパ東部に分布する。中国には』六十六『種ある』とある。以下、「ムレスズメ属の主な種と園芸品種」で、以下のムレスズメを含む(それはカットした)十一種が挙げられて、それぞれ解説がなされてある。

・オオムレスズメ(大群雀)Caragana arborescens (『中国、モンゴル、ロシア、カザフスタン原産。中国名は树锦鸡儿』)

Caragana densa (『中国原産。中国名は密叶锦鸡儿』)

Caragana frutex(『中国、モンゴル、ロシア、カザフスタン、ヨーロッパ東部原産。中国名は黄刺条锦鸡儿』)

Caragana jubata (『中国、モンゴル、ロシア、インド、ブータン原産。中国名は鬼箭锦鸡儿』)

・マンシュウムレスズメ(満州群雀)Caragana manshurica(『朝鮮、中国、ロシア原産。中国名は东北锦鸡儿』)

・コバノムレスズメ(小葉の群雀)Caragana microphylla (『中国、モンゴル、ロシア原産。中国名は小叶锦鸡儿』)

・コムレスズメ(小群雀)Caragana rosea (『中国原産。中国名は红花锦鸡儿』)

・ヒメムレスズメ(姫群雀)Caragana stenophylla (『中国、モンゴル、ロシア原産。中国名は狭叶锦鸡』)

・ウスリームレスズメ aragana ussuriensis (『中国、ロシア原産。中国名は乌苏里锦鸡儿』)

・リョウトウムレスズメ Caragana zahlbruckneri (『中国原産。中国名は金州锦鸡儿』)

なお、当該ウィキは記載が貧困であるが、特に『ムレスズメは、アセチルコリンエステラーゼ阻害活性を示すスチルベノイド三量体のα-ビニフェリンや、プロテインキナーゼC阻害剤のミヤベノールC』、『また』二『つのスチルベン四量体コボフェノールAとカラシノールB』『を含むことで知られる』とある。但し、これは同種の英文ウィキを翻訳したものに過ぎず、著者が化学的知識を以って判って書いたものではないものである。なお、「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年であるから、良安は評言通り、本種を知るべくもなかったのである。

「農政全書」明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「卷五十六 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[056-13b] に、

   *

壩齒花 本名錦鷄兒又名醤瓣子生山野間中州人

家園宅間亦多栽葉似枸杞子葉而小每四葉攢生一

處枝梗亦似枸杞有小刺開黄花狀類鷄形結小角兒

味甜

  救飢 採花煠熟油鹽調食炒熟喫茶亦可

   *

とあった。]

2024/09/16

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 山狸(国立公文書館本「山狸(ネコマタ)」)

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「やまたぬき」「やまだぬき」と読みたくなるが、実は、本文には、以下の通り、底本では、本文中で「山猫」とし、それに「(ネコマタ)」とルビする。国立公文書館本の「目録」(6)、及び、本文では、「山狸(ネコマタ)」とする。]

 

      山 狸

 田㙒浦、村木佐藏(むらきすけざう)・木屋茂七(きやもひち)、其外(そのほか)一兩人[やぶちゃん注:一人か二人。]、言合(いひあは)せ、要用(えうよう)有(あり)て、奈半利鄕(なばりがう)北川の庄屋へ行(ゆき)しが、夜に入(いり)、宿本(やどもと)を立(たち)て、「鳫(かり)が森」といふ難所を登り、峠へ至りける時、何かはしらず、

「フウ。」

と言(いふ)聲と、ひとしく、大風(おほかぜ)、來(きたり)て、四、五丁(ちやう)[やぶちゃん注:これは「松明(たいまつ)」の数詞。]の松明を、吹消(ふきけ)しぬ。

 初(はじめ)、吹消す時、松明の光に面(ツラ)を見しに、そのすさまじきこと、譬(たとふ)るに、もの、なし。

 二つ目(め)[やぶちゃん注:両目。]とも不見(みえず)、地に伏しけるが、別事(べつじ)なければ、夜中に、北川へ行着(ゆきつき)ぬ。

 里俗、言(いふ)、

「『鳥が森[やぶちゃん注:ママ。]』ゟ(より)、野根山へ、『猫股(ねこまた)』の通ふ道、有り。」

と、いへり。

「たまたま、山猫(ネコマタ)を見るもの、あり。牛(うし)程(ほど)有(あり)て、形は、画(か)ける虎に似て、尾の、長き物也。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「田㙒浦」複数回既出既注。幡多(はた)郡黒潮町田野浦(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。「田㙒村」と切ってしまうと、「木佐藏」が如何にも、通称としては異例な通称となるし、並列の人物が「木屋茂七」とちゃんと姓(らしき物)を添えている以上、「村木」で姓と採った。

「奈半利鄕北川」土佐湾を隔てた対称位置にある現在の安芸郡北川村

「鳫が森」後で「鳥が森」と出るのと同じ山名と判断される。高知県では、山名を「~森」とするものが多く認められるので、これは一般名詞の「森」ではなく、山岳のピーク名であることは間違いない。但し、現行の北川村村内には、孰れも見当たらない。しかし、例えば、北川村の深い山林部には、現在も「高善森」や「鐘ヶ龍森」の名を持つ山が現認出来る(「ひなたGPS」のこちらを見よ)から、私の勘でしかないが、この「鳫が森」か「鳥が森」かに相当する山は、この同一の山地の中の古いピーク名であるように感じられると述べておく。

「夜中に、北川へ行着ぬ」これは、その「鳫が森」(個人的には「鳥が森」はダサいと感じる)から、かなり時間をかけて下っていることがわかるから、現在の北川村役場が置かれてある北川村野友甲(のともこう)附近ではないかと推理する。

「猫股(ねこまた)」=「山猫(ネコマタ)」=「山狸(ネコマタ)」は私の怪奇談その他には、あまた出るメジャーな妖怪(妖獣)であるが、「山狸」というのは初見である。幾つかめぼしいもながあるが、取り敢えず、「想山著聞奇集 卷の五」の「猫俣、老婆に化居たる事」の本文と私の注をお読みあれ。

 なお、以前に紹介した、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐鄕土民俗譚」(寺石正路著・昭和三(一九二八)年日新館書店刊)の「第廿一 山猫並怪獸」の章の、「其七十六 怪獸」の最後の一段に載るのだが、底本とも、国立公文書館本とも異なる有意な表記・表現であることから(恐らくは二本とは異なる「南路志」の写本によるものと思われる。但し、この「土佐鄕土民俗譚」は、写本筆者ではなく、編集者によって、恣意的に操作されている――もっと悪く言うと――かなりすんなり読めるように勝手に辻褄合わせをして弄(いじく)られている疑惑が大いにあるように私には思われる)、特別に以下に視認して電子化しておくこととする。読みは総て底本に拠るものである。

   *

 昔安藝郡田野(たの)村村木佐藏(むらきさざう)、木屋茂七(きやもひち)、外一兩人所町[やぶちゃん注:ママ。意味不明。]ありて、北川鄕(きたがはがう)の庄屋(しやうや)へ行き夜に烏(かいす[やぶちゃん注:ママ。])ガ森(もり)といふ難所を通りにづうづうといふ聲とひとしく大風來り四五本の炬火(たいまつ)を消す初吹消時、炬火(きよか)の光に面を見しに二た目と見られぬ恐しき怪物(かいぶつ[やぶちゃん注:ママ。])にて暫し地に伏しけるが別事なければ夜中に北川へ行着きぬこれは烏ガ森より野根山へ猫又(ねこまん[やぶちゃん注:ママ。])の通ふなりと言傳へらる。

   *

確かに、田野は北川村の南西直近で、土佐湾に面しているからね、ロケーションとしては、如何にも直近なんだけど……どうも……それ以外の表現が、ねぇ、ちょっと、ネェ…………

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 宝暦六年赤氣

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。この条、横罫外に頭書(かしらがき)して、『可削』(「削るべし」)とある。]

 

      宝暦六年赤氣

 

 宝暦六年十月戌刻(いぬのこく)頃、赤氣(せきき)、髙知ゟ(より)子丑(ねうし)の方(かた)に當り、山を打越(うちこし)、一面に赤く、其中に篠(しの)を何百も立並(ててなら)べたる如く、赤筋(あかすぢ)、有(あり)て、自然(おのづ)と消(きゆ)る。

「東國・西國、見る所、同じ。」

と、いへり。此年、江戶大火、外に別事なかりし。

 

[やぶちゃん注:「宝暦六年」「子年十月戌刻頃」宝暦六年丙子(ひのえね)で、グレゴリオ暦では一七五六年。同旧暦同年十月一日は十月二十四日相当で、この月は大の月で旧暦十月三十日は十一月二十一日相当である。「戌刻」は午後七時から八時まで。しかし、一ヶ月もの間、毎夜、この異様な赤光(しゃっこう)現象が起こることは、まず、あり得ないから(あれば、公的記録に必ず載る。しかも、後二「東國・西國、見る所、同じ」とあり、この記載が事実ならば、本州・四国・九州全域の広域で確認されたということを意味するが、それなら、ごっそり各地で記されていなければならないが、そのような同時多発的な広域での目撃記録は見出せない)、日付、或いは、数日間の日付が示されていないのは、この手の記載としては、価値が認められない。その辺りが、頭書の「可削」となっているものと思う。私が筆者なら、確実に採用しない。

「赤氣」は現代仮名遣「せっき」と読み、空に現れる赤色の雲気。天体現象としては、彗星やオーロラとされ、また、別に、地震の先触れとしての発光現象(一説に地殻変動により地中で発生した電気の放電によるものともされるが、解明されてはいない。よく知られる直近のものは、一九九五年一月十七日に発生した阪神淡路大震災で、直前に夜間発光現象の目撃情報がある)ともされる。オーロラのそれらしい本邦の最古の記載は「日本書紀」で、「卷第二十二推古天皇紀」に「十二月庚寅朔、天有赤氣、長一丈餘、形似雉尾。」とある。私のブログ記事では、「赤氣」を語った怪奇談が複数あるが、纏まった優れた記事は、まず、「甲子夜話卷二十 29 壬午年白氣の事幷圖 / 甲子夜話卷二十 37 壬午の秋夜、赤氣の圖」を嚆矢とする。そこでは、まず、「白氣」現象が発生、それを「壬午九月十四日」(文政五年/グレゴリオ暦一八二二年十月二十八日)とし、僅か八日後の文政五年九月二十二日(グレゴリオ暦一八二二年十一月五日)に「赤氣」が発生したことを観察したもので、静山自筆のスケッチも添えてある。これは、オーロラ現象とまず採れるが、この一八二二年には、かのハレー彗星に次いで周期彗星と断定された「エンケ彗星」(Comet Encke)が、この五カ月前の六月二日、シドニー天文台で観測されている。纏まったもので最もお薦めなのは、ズバり、『柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」』である。天文論文も幾つか見たが、この宝暦六(一八八二)年のオーロラ現象記録は確認出来なかった。但し、「国立極地研究所」公式サイト内の『日本の古典籍中の「赤気」(オーロラ)の記載から発見された宇宙変動パターンの周期性と人々の反応に関する記述』の中の、『図2. 過去1400年の日本史を通して「赤気」のイベント数を示した図』』(棒グラフ)を見て戴きたいが、まさに1700年から1800年にかけて日本史上では、二番目のピークが示されていることから、本篇の記載はイカサマではないと考えてよい。なお、有名な「ハレー彗星」があるが、それが接近したのは、一七五九年で、三年もずれており、違う。オーロラ現象と見てよかろう。先年も、北海道で目撃されている。

「子丑の方」北北東。

「篠(しの)」篠竹。スズダケ、アズマネザサなどの、細い竹や笹の俗称。

「此年、江戶大火」まず、「宝暦の大火」という大規模な江戸の火災災害はない。この年の知られた江戸の火事は、宝暦六年十一月二十三日(グレゴリオ暦一七五六年一二月十四日)に連続して発生した「大学火事」と「青山六道火事」の連続大火のことである。詳しくは、サイト「防災情報新聞」の「周年災害」の『○江戸宝暦612月「大学火事、青山六道火事」と連続大火、火元落首で皮肉られる(260年前)』を見られたい。]

2024/09/15

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 岩燕

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      岩   燕

 

 その日の夕方は、魚が一向かゝらなかつた。然しわたしは、稀な興奮をもつて歸つた。

 わたしが釣竿を垂れてゐると、一羽の岩燕《いはつばめ》その上に止まつた。

 これくらゐ派手な鳥はない。

 それは、大きな靑い花が長い莖の先に咲いてゐるやうだつた。竿は重みでしなつた。わたしは、岩燕に樹と間違へられた、それが大《おほい》に得意で、息を殺した。

 怖がつて飛んで行つたのでないことはうけ合ひである。一本の枝から別の枝に跳びうつるつもりでゐたにちがひない。

 

[やぶちやん注:最終段落の「一本の枝から」の「枝」は、底本では「杖」となっている。言わずもがなであるが、明らかな誤植であるからして、特異的に訂した。

 さて、「岩燕」であるが、和名で言うそれは、スズメ亜目ツバメ科ツバメ亜科イワツバメ属イワツバメDelichon dasypus であるが、そもそも、イワツバメはヨーロッパには分布しないから(当該ウィキを参照されたい)、あり得ない。原文は“LE MARTIN-PÊCHEUR”であって、これは、現在の大きな仏和辞典でも、しっかり「カワセミ」=ブツポウソウ目カワセミ科カワセミ亞科カワセミAlcedo atthis としていて、フランス語の「イワツバメ」は、“Hirondelle de fenêtre”(「穴の燕」の意)、或いは、“Hirondelle de Bonaparte”で、間違えようがないと思ったのだが、実は英語の全く同じ綴りの“martinは、「尾が有意に角ばっているツバメの種・個体」を“swallow”と区別して、かく記すことが判明した。辞書では、通常、総ての生物種を指す単語までは載せきれないから、岸田氏は、これが如何なる種なのか判らなかったのであろう。そこで、後半の“pêcheur”は、“pêche”で「魚釣り」の意であることから、英語の“martin”と重ねるなら、海岸の岩場などに、泥と枯れ草を使って巣を作る……『うん、イワツバメか!』と当て込んで、かく訳してしまわれたものと思われる。岸田氏の訳は後の岩波文庫版「ぶどう畑のぶどう作り」でも、残念なことに、「岩燕」のままであるが、後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「かはせみ」』では表題・本文ともに「かわせみ」に正しく変更されてある。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 楊櫨

 

Utugi

 

[やぶちゃん注:二図。右下方は上に「山楊櫨」(やまうつぎ)の、左は上に「箱根楊櫨」(はこねうつぎ)のキャプションがある。]

 

うつぎ  空疏

     【和名宇豆木】

楊櫨

     疏通也中空

     能通故名

   曰卯花者宇豆木花

   之畧也非寅卯之卯

本綱楊櫨所在皆有生籬垣間其子爲莢

△按楊櫨有數種山空木箱根空木唐空木三葉空木共

 山中有之人植籬垣者山空木箱根空木也皆中空故

 名空虛木凡揷之能活伹樹無刺又無結赤子者

山宇豆木 高𠀋許皮白肌㴱青心正白而中空甚堅用

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

 爲樽槽之橽最佳或匠人削之爲木釘其葉團長【末尖】

 四月開小白花成簇可愛俗云卯乃花是也結子狀似

 狗椒青黤色不熟而自凋

箱根空木 高𠀋許皮白中空不甚堅葉皺似粉團花之

 葉而團尖有細齒㴱綠色四月開花單瓣狀は盞白與

 赤相襍成簇花落而朶尚存青色寸許似莢【箱根山多有之故名】

                           相模

  見渡せは浪のしからみかけてけり卯の花さける玉川の里

唐空木  葉山小於山空木花亦不美

三葉空木 葉似山空木而開四瓣白花攅簇毎三葉抱

 梗對生摘葉陰乾煎服能治隔噎此樹人家稀

 

   *

 

うつぎ  空疏《くうそ》

     【和名、「宇豆木」。】

楊櫨

     「疏」は「通」なり。中空《ちゆうくう》にして、

     能く通ずる故《ゆゑ》、名づく。

  「卯《う》花《はな》」と曰ふは、「宇豆木の花」の

   畧なり。「寅《とら》・卯《う》」の「卯」に非ず。

「本綱」に曰はく、『楊櫨≪の≫所在≪は≫、皆、有り。籬垣《まがき》の間に生じ、其の子《み》、莢《さや》を爲す。』≪と≫。

△按ずるに、楊櫨に、數種、有り。「山空木(《やま》うつぎ)」◦「箱根空木《はこねうつぎ》」◦「唐空木(たう《うつぎ》)」◦「三葉空木(みつば《うつぎ》)」、共に、山中に、之れ、有り。人、籬垣(まがき)に植《うう》る者は、「山空木(やまうつぎ)」・「箱根空木」なり。皆、中空なる故、「空虛木(うつ《ぎ》)」と名づく。凡そ、之れを揷(さ)して[やぶちゃん注:挿し木にして。]、能く活《かつ》す。伹《ただし》、樹に、刺《とげ》、無く、又、赤き子《み》を結ぶ者、無し。

[やぶちゃん注:「◦」は右下に「。」で打たれてあるのを、中央に移動した。]

山宇豆木 高さ、𠀋ばかり。皮、白く、肌、㴱青《ふかきあを》。心《しん》[やぶちゃん注:木の幹。]、正白にして、中《なか》、空(うつろ)にて、甚だ、堅《かた》し。用≪ふるに≫、樽(たる)・槽(ふね)の「橽(のみ)」[やぶちゃん注:樽や桶の下部の排出口の栓(せん)。]と爲して、最も佳し。或いは、匠-人《たくみ》、之れを削りて、「木釘《きくぎ》」と爲す。其の葉、團《まろ》く長し【末、尖《とがれ》り。】。四月、小≪さき≫白花を開き、簇《むれ》を成し、愛すべし。俗、云ふ、「卯の花」、是れなり。子《み》を結び、狀《かたち》、「狗椒(いぬざんしやう)」に似《にて》、青黤《あをぐろき》色。熟せずして、自《おのづか》ら凋む。

箱根空木(はこねうつぎ) 高さ、𠀋ばかり。皮、白《しろく》、中空《ちゆうくう》。甚だ≪しくは≫堅からず。葉、皺(しは[やぶちゃん注:ママ。])みて、「粉團(てまり)」の花の葉に似て、團《まろく》、尖≪りて≫、細かなる齒、有り、㴱綠色《ふかみどりいろ》。四月、花を開く。單-瓣《ひとえ》、狀《かたち》は、盞《ちよく》[やぶちゃん注:盃(さかずき)。]のごとく、白と赤と、相《あひ》襍(まじ)りて、簇《むれ》を成す。花、落ちて≪も≫、朶《ふさ》、尚《な》を[やぶちゃん注:ママ。]存《そん》し、青色≪を成し≫、寸ばかり。莢《さや》に似たり【箱根山、多く、之れ、有り。故に名づく。】。

               相模

  見渡せば

     浪のしがらみ

   かけてけり

       卯の花さける

            玉川の里

唐空木(たう《うつぎ》)は、葉、山空木より小さく、花も亦、美ならず。

三葉空木は、葉、山空木に似て、四瓣《しべん》の白き花を開き、攅-簇(こゞな)る。三葉毎《づつ》[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]、梗《くき》を抱《いだき》て、對生す。葉を摘(むし)り、陰乾にして、煎≪じて≫服《ふくす》。能《よく》、隔噎《かくいつ》を治す。此の樹、人家に稀《まれ》なり。

 

[やぶちゃん注:これ、「危険がアブないよ」(「処刑遊戯」の松田優作演じる鳴海昌平がエンデング・シークエンスで、森下愛子演じるアンティーク時計店の主人に忠告する台詞に真似て)レベルで、東洋文庫訳では、全く指摘していないが、私は疑問に感じて、取り敢えず調べたところ、「楊櫨」と「空木」「卯木」は――目タクソンで異なる全く類縁性がない異種――であることが判った。

「楊櫨」は双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ツクシヤブウツギ変種半邊月 Weigela japonica var. sinica

である。「維基百科」の「半邊月」を見られたい。そこに別名として、「唐本草」から引用で「楊櫨」があるのである! そこには、『中国固有種』とあり、『江西省・四川省・広東省・安徽省・湖北省・貴州省・福建省・湖南省・浙江省・広西省など、中国本土の標高四百五十メートルから千八百メートルの地域に分布し、主に山腹の下層に生育する』とあった。但し、東京大学大学院理学系研究科附属植物園である「日光植物園」公式サイト内の「ツクシヤブウツギ」を見ると、原種であるツクシヤブウツギWeigela japonica は日本固有種のマークが附されてあり、『名前にツクシ(筑紫)が付くのは、九州北部で最初に発見されたことを意味します』とあった。

 一方、本邦の、私の好きな「卯の花」は、

ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata

である。同種の「維基百科」は「齒葉溲疏」である。まっこと! 「危ない……危ない……」(「椿三十郎」の伊藤雄之助演じる城代家老睦田弥兵衛の口癖(加山雄三演じる井坂伊織の口真似で)

 もそも「本草綱目」では、独立項「楊櫨」は確かに異様に短い。「漢籍リポジトリ」の「木之三」の「灌木類」の「楊櫨」([088-57b]以下)から引く(一部に手を入れた)。

   *

楊櫨【唐本草】

 集解【恭曰楊櫨一名空疏所在皆有生籬垣間其子為莢葉氣味苦寒有毒主治疽瘻惡瘡水煮汁洗之立瘥【唐本】】

 木耳

   *

ところが、実は、その前の「溲疏」(前項を参照されたいが、植物名未詳である)の中に、「楊櫨」の「集解」の中に「溲疏」の別名として「楊櫨」として挙げられ、以下、本文に二箇所、出現しているのである。されば、時珍は、実際には、この「楊櫨」自体、種として如何なるものであるか、実は知らずに立項している可能性が高いと言えるように思うのである。だから、独立項なのに、語りに全くパンチがなく、物謂いも霞が掛っているようではないか!?!

 まあ、ここでは、良安はその辺の事実に、知らんぷりをして、もくもくと本邦のウツギ(但し、以下の注で明らかにするが、「~ウツギ」と呼ばれる真正のウツギの類縁種、さらに、ウツギとは全く異なる種であることが追々判って頂けるであろう)を語っているわけだから、まずは、ウツギとして注を進めよう。

 当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『空木・卯木』。『アジサイ科』Hydrangeaceaeで、『別名はウノハナ。日当たりのよい山野にふつうに見られる』。『和名のウツギの名は「空木」の意味で、幹(茎)が中空であることからの命名であるとされる。花は卯月(旧暦』四『月)に咲くことからウノハナ(卯の花)とも呼ばれる。中国名は、齒葉溲疏』。『日本と中国に分布し、日本では北海道南部、本州、四国、九州に広く分布する。山野の路傍、崖地、林縁、川の土堤、人里など日当たりの良い場所にふつうに自生し、畑の生け垣にしたり』、『観賞用に庭に植えたりする』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』一~二・五『メートル』『になり、よく分枝する。樹皮は灰褐色から茶褐色で、老木は縦に裂けて短冊状に粗く剥がれる。若い樹皮は茶褐色で、縦に浅く裂ける。枝は生長すると髄が失われて中空になる。株立ちし、樹皮は灰褐色で、古くなると剥がれる。新しい枝は赤褐色を帯び、星状毛が生える』。『葉の形は変化が多く、長さ』五~十二『センチメートル』『の卵状長楕円形から卵状披針形になり、葉柄をもって対生する。葉身は厚く、星状毛が生えてごわごわした感じになる』。『花期は』五~七『月。枝先に円錐花序をつけ、直径』十~十五『ミリメートル』『の白い花を多くまとまってつけ、垂れ下がって咲かせる。普通、花弁は』五『枚で細長いが、八重咲きなどもある。雄蕊は長短』五『本ずつあり、花糸に翼がある。萼には星状毛が生える』。『果期は』九~十『月。果実は蒴果で、直径』四~六ミリメートル『の椀形のような球形をしている。果実の先端には花柱が残る。秋に熟すと』、三、四『裂し、冬でも枝に残っていることが多い』。『冬芽は対生し、卵形で星状毛のある芽鱗に包まれ、枝にも星状毛が密生する。ふつう、枝先に仮頂芽が』二『個』、『つき、芽鱗は』八~十『枚ある。冬芽のわきある葉痕は三角形で、維管束痕が』三『個ある』。『庭木として植えられる。また田畑の畔に植えられて、土地の境界の目印にされたりもする。幹は木釘に加工されて利用される』。『純白の花は「卯の花」とよばれて、古くから初夏のシンボルとして愛され、詩歌に詠まれて親しまれてきた。清少納言の随筆』「枕草子」『には卯の花と同じく初夏の風物詩であるホトトギスの鳴き声を聞きに行った清少納言一行が卯の花の枝を折って車に飾って帰京する話がある。近代においても唱歌』「夏は來ぬ」『で歌われるように初夏の風物詩とされている』。『慣用句「卯の花腐くたし」は』、五『月下旬の長雨を指し、卯の花(ウツギの花)を腐らすほどの雨を意味する。季語としては「花の雨」と「五月雨」との間で、俳句にも頻繁に使われる。ウツギの花言葉は、「思い出」「気品」とされている』。以下、「下位分類」の項で、『変種のビロードウツギ』( Deutzia crenata var. heterotricha )『の他、多くの品種がある』として、五種を挙げてあり、その後に『他属、他科の「ウツギ」』の項で、『ウツギ属に属する種の他にも、ウツギと名のつく木は下記のように数多く、花の美しいものや、葉や見かけがウツギに似たものなどがある。ウツギとは類縁関係が遠い科や属の異なる種でも、幹が中空な植物はウツギと呼ばれていることがある。民間信仰で、中空の枝を持つ植物は神との絆が強いと考えられ、神聖なものとされた。そのため』、『「○○ウツギ」と名のついたものがたくさんできたと考えられている』と述べ、六科の「~ウツギ」の和名を、十一種、挙げてある。

「山空木(《やま》うつぎ)」「コトバンク」の日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」によれば、別称として正規のウツギ及びハコネウツギ(後注する)以外に、五種の和名を記す。以下、その学名を記す。

○シソ目シソ科キランソウ亜科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum var. trichotomum 当該ウィキを参照されたい。以下同じ)

○シソ目シソ科ムラサキシキブ属ムラサキシキブ Callicarpa japonica当該ウィキ。因みに、良安は先行する「鼠李」で、誤って、本種をそれに宛てている)

○バラ目アジサイ科アジサイ属ノリウツギ Hydrangea paniculata 当該ウィキ

○イラクサ目ニレ科ニレ属ハルニレ Ulmus davidiana var. japonica 当該ウィキ

○マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属タニウツギ Weigela hortensis当該ウィキ

「箱根空木《はこねうつぎ》」ウツギとは同一グループでは、全然、ない、マツムシソウ目 スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ Weigela coraeensis であるので、注意されたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名でベニウツギ、ゲンペイウツギともよばれる。ゲンペイは源平で、すなわち花の色がはじめ白色だが、のちに紅色になることからそう呼ばれる。標準和名は、箱根に多いとして付けられた名であるが、箱根に限らず』、『日本列島の太平洋側に自生している。ウツギは漢字で卯木あるいは空木と書くが、卯木は卯月(陰暦』四『月、陽暦』『五月)に咲くからといわれ、空木は小枝が中空なのでその名がついたものである』。『日本の北海道南部から九州まで分布する。海岸近くに自生するが、公園樹や庭木、垣根などにも植えられる。「箱根」と名につくが』、実は、『神奈川県の箱根には自生しない』(太字下線は私が附した)とある。『落葉広葉樹の低木から小高木で、高さ』四『メートル』『になる。樹形はよく株立ちするが、老木になると主幹が太くなり、上方で枝がよく生い茂る。樹皮は灰褐色で、一年枝は褐色で縦長の皮目がある。枝は弓なりになって伸びるのが特徴的である。枝が古くなると灰褐色となり、稜ができる。葉は対生し、長さ』八~十六『センチメートル』『の広楕円形から広倒卵形で、裏面の葉脈に沿って毛がある。葉縁には鋸歯がある』。『花期は』五~七『月。枝先と葉腋に花を』一~三『個ほど咲かせ、白い花が次第に赤へと変化する。花冠は長さ』三十~四十『ミリメートル』『の漏斗状で、ニシキウツギに似ているが、花冠の筒部は中央から急に太くなる点で異なる。果期は』十~十一『月。果実は長さ約』三センチメートル『ほどある』。『冬芽は、芽鱗が多数つき、頂芽が側芽より大きく、側芽は枝に伏生する。側芽のわきにつく葉痕は、三角形や倒松形で維管束痕が』三『個』、『つき、両側から稜が出る』とある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「唐空木(たう《うつぎ》)」これは、ウツギと同属のウツギ属トウウツギ Deutzia parviflora である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

「三葉空木(みつば《うつぎ》)」これは、全然、ウツギとは別種の、ムクロジ目ミツバウツギ科ミツバウツギ属ミツバウツギ Staphylea bumalda である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『三葉空木・三つ葉空木・省沽油』(最後は中文名)で、『山地の沢沿いなどに生える。若葉はゆでて山菜として食用にされる』。『和名「ミツバウツギ」の由来は、小葉が』三『枚ある複葉で、ウツギに似た白い花をつけることから名付けられている。別名で、コメゴメ、コメウツギ、コメノキ、ハシウツギなどがある。関東地方や東北地方の地方名で「ハシギ」「ハシノキ」ともよばれており、かつて箸に利用されたことによる』。『日本の北海道・本州・四国・九州・沖縄に分布するほか、朝鮮半島、中国』を含む『東アジア一帯に分布する。平地から山地、特に低山帯に多く分布する。原野、川の縁、やぶなどの山地寄り、山麓の山林の樹木下でよく見られ、雑木に混ざって生える。適度に湿った土地では、日当たりのよい場所にも生える』。『同属は北半球の温帯に』十『種ほど分布する』。『落葉広葉樹の低木で、高さ』二~五『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で縦の筋が入る。細くて長い灰褐色の枝がたくさん出て、茎はウツギと同様に中空となる。枝の元には枯れた小枝が何本も残っている。一年枝は褐色や紫褐色で、無毛で皮目がある。葉は小葉が』三『枚ずつ』、『つく』。三『出複葉で、枝の節ごとに長い葉柄を持って対生する。小葉は先が尖った卵形から長卵状楕円形で、葉縁に細かな鋸歯がある』。『花期は初夏』の五~六月頃で、『花は枝先に円錐花序をなして、筒型の白い花が穂状になって、垂れ下がるように咲』か『せる。花は水平に完全には開くことはなく半開きの状態であるが、花弁・がく(各』五『枚)とも白く、よく目立つ。果実は偏平で先の尖った軍配のような形をした蒴果で、シワがあり、二股の風船のような形に例えられる。秋に熟して、先端は』二、三『裂する。冬でも果実が枯れ姿で枝に残っていることもある』。『冬芽は広卵形や半球形の鱗芽で無毛、芽鱗は栗褐色で』二『枚』、『つく。枝先に仮頂芽が2個つき、側芽が枝に対生する。葉痕部分は膨らんでいて目立つ。葉痕は半円形で、維管束痕は』三~九『個』、『つく』。『新芽や若葉、蕾は食用になる。採取時期は、関東地方以西など暖地が』四~五『月ごろ、東北地方以北など寒冷地が』五~六『月ごろとされ、伸び始めた新芽を摘み取る。梅雨入りするころにはアブラムシ』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属する「アブラムシ」類でアリマキ(蟻牧)とも呼ぶ)『が発生して、食用には適さないという。若芽は茹でて水にさらし、おひたし、ごま・酢味噌などの和え物、煮物、炒め物、煮びたしにする。また生で天ぷら、汁の実、油炒めにしたり、細かく刻んで炊き上がった米飯に混ぜて蒸らし、混ぜご飯(菜飯)にもできる。蕾はさっと茹でて、三杯酢、寒天寄せ、すまし汁の浮き実にする。食味は、柔らかい葉にはアクやクセがなく上品な味わいで、老若を問わず好まれると評されている』。『かつては、材から箸や櫛、木釘に利用された』とある。

「橽(のみ)」当初、「飲み口」が原義かと思ったが、「デジタル大辞泉」に、「のみ」(衣袽・船筎・𦀌・袽)で、『ヒノキやマキの内皮を砕いて柔らかくしたもの。舟や樋(とい)などの材の継ぎ目につめこんで』、『水漏れを防ぐのに用いる』ものとし、別に「のめ」「まいはだ」と読むとあった。この初出例として「太平記」の第三十三巻の「新田左兵衞佐(さひやうゑ)義興(よしおき)自害事」に、『矢口の渡りの船の底を二所(ふたところ)を彫(ゑ)り貫いて、のみを差し』を引いてある。Santalab氏のブログ「Santa Lab's Blog」の『「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その9)』が、原文(新字正仮名。但し、当該部の歴史的仮名遣には誤りがある)と現代語訳があるので、見られたい。所持する『新潮日本集成』の「太平記」第五巻(山下宏明校注・昭和六三(一九八八)年刊)の「のみ」の頭注に、『船の底に設けた排水用の穴にさし込む栓。関西では酒樽などにつける栓をも言う。』とあったので、すっきりした。寺島良安は出羽能代(一説に大坂高津)の商人の子として生まれたが、後に大坂に本拠を移し、大坂城入医師となり、法橋に叙せられている。なお、所持する「言海」を見ると、「のみくち」に『吞口』として、『樽ニ、孔』(あな)『ヲ穿チ、塡』(は)『メ込ミ置キテ酒醬油ナド出ス口トスル管、栓ニテ拔キ差シス、注口 管注』(下線は底本では二重右傍線)とあったが、酒はまだしも、醬油をそこから飲むというのは、おかしく、やはり、以上の防水材が原義と推定される。「呑口」は、たまたま一致したものであり、漢字が極めて稀な字であることから、転訛したものと思われる。

「狗椒(いぬざんしやう)の花」「犬山椒」は、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属イヌザンショウ変種イヌザンショウ Zanthoxylum schinifolium var. schinifolium 当該ウィキによれば、『果実を煎じた液や葉の粉末は漢方薬に利用される』。『樹皮や果実を砕いて練ったものは湿布薬になる』とある。グーグル画像検索「イヌザンショウの花」をリンクさせておく。

「粉團(てまり)」キク亜綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ヤブデマリ変種ヤブデマリ Viburnum plicatum var. tomentosum 当該ウィキに花の画像がある。

「箱根山、多く、之れ、有り。故に名づく」前掲引用で示した通り、箱根山には自生しない。最初の命名が優先される結果の和名であろう。

「見渡せば浪のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里」「相模」これは「後拾遺和歌集」の「卷三 夏」に載る(一七五番)、「百人一首」の六十五番の「恨み侘びほさぬ袖だにあるものを戀にくちなむ名こそ惜(を)しけれ」で知られる、平安後期の歌人の相模(生没年不詳:長徳四(九九八)年頃から康平四(一〇六一)年以降か)の一首である。

   *

  正子(まさこ)內親王の、繪合(ゑあはせ)し

  侍(はべり)ける、かねの册子(さうし)に、

  書き侍ける

見わたせば

    波のしがらみ

  かけてけり

      卯の花さける

           玉川の里

   *

「正子內親王」は後朱雀天皇皇女。「かねの册子(さうし)」銀箔を張った冊子を指す。

「隔噎《かくいつ》」東洋文庫の割注に、『(食物がつかえてのどを通らない症)』とある。]

2024/09/14

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 同  奇怪

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから前篇の同ロケーションで直続き。]

 

      同(おなじく) 奇怪

 

 或(ある)人、㙒根山にて、極月(ごくげつ)[やぶちゃん注:旧暦十二月。]廿日(はつか)、小鳥打(ことりうち)に山中を徘徊せしが、小鳥も、此日(このひ)者(は)、不見(みえず)。

 山(やま)、深く、入(いり)しに、女(をんな)壹人(ひとり)、木賊色(とくさいろ)の打掛(うちかけ)して、轉鄕(あちら、むかひ)て、立(たち)たり。

『是(これ)ぞ、『山姬(やまひめ)』ならん。』

とて、見捨(みすて)て、かへりし、と也。

 

[やぶちゃん注:「木賊色」木賊(維管束植物門大葉植物亜門 Euphyllophytina 大葉シダ植物綱 Polypodiopsida トクサ亜綱トクサ目トクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale )の茎のような黒、或いは、青みがかった濃い緑色。

「山姬」「山女(やまをんな)」とも。本邦の山中に住む女の妖怪。人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えなどが全国各地に広く残る。ウィキの「山姫」にやや詳しく載る。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 野根村魔所

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     野根村魔所(ましよ)

 㙒根山は、國中(くになか)の髙山(かうざん)と覺ゆ。

 一とせ、岩佐へ行(ゆき)しは、四月の初(はじめ)也。

「遲櫻の盛(さかり)也。」

とて、人々に誘れて、安倉峠(あぐらたうげ)へ、花見にゆきしに、東は甲浦山(かんおうらやま)、南は羽根・吉良川山(きらがはやま)の谷々の遲櫻は、降積(ふりつも)る雪のごとく、北は、柳瀨山、見え、安倉の在所を見落[やぶちゃん注:ママ。](みおろ)しぬ。

 扨(さて)、甲浦山を打越見(うちこしみ)れば、阿波の二子島、手近(てぢか)く見へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、東南に當り、紀伊路・熊㙒崎までも見へぬ。

 南の海原(うなばら)に鯨の鹽吹上(ふきあぐ)る抔(など)、見へて、景色、いはん方なし。

 鳥の聲、珎敷(めづらしく)、常に三宝鳥(さんぱうてう)・水乞鳥(みづこひどり)抔(など)も居(を)るとかや。

「かゝる髙山なれば、徃古(わうこ)は『魔所』と云へる所も多かりし。」

とぞ。

 今、御殿の有所(あるところ)を「鳥越」といふ。

 魔所を開(ひらき)て、御殿を建(たて)られしが、其頃は、常に、空中に人聲(ひとごゑ)し、或(あるい)は、機織(はたおり)・紡車(クルマ)の音抔、有(あり)。

 御殿の門(もん)を、夜毎(よごと)に、弐、三町[やぶちゃん注:二百十八~三百二十七メートル。]が外(そと)へ、取除ヶ有之由(とりのけ、これ、ある、よし)。

 依之(これによつて)、重き御祈禱、有(あり)、御殿の下へ、壺、一つ、門の方(かた)ヘ、一つ、埋め玉ひしより、かゝる怪異も止みけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「野根村」既に何度も出た野根山街道を東に下った旧野根村。「ひなたGPS」の戦前の地図で「野根村」の表示北西と南東で確認出来る。かなり広域な(但し、内陸部は殆んどが山間である)村域であったことが判る。現在の東洋町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)全域と、ほぼ一致するようである。同町内に今も「野根」を冠した「野根甲」・「野根乙」・「野根丙」地区がある。

「㙒根山」同じく既出のここ

「岩佐村」現在の安芸郡北川村安倉(あぐら:グーグル・マップ・データ航空写真)。野根山街道の中の全き山間地であるが、藩政時代には番所が置かれた。南西で谷を隔てて野根山(同前)がある。恐らく、「岩佐」は非常に古い広域村名と思われ、今回、「ひなたGPS」の戦前の地図で「野根山」を拡大してみたところ、山頂から南西に少し下った尾根部分に「岩佐」の地名を見出すことが出来た。現在は、鬱蒼たる森林で林道は確認出来るが、人家はない(航空写真)。しかし、「ひなたGPS」をさらに拡大して見ると、「岩佐」の直下のせまい尾根の上部分の、地区境界の線の東北と南西の箇所に接近して人家の記号が打たれてあるのが判った。これを見るに、野根山街道の側道で、ここにこそ、抜け道を警備する番所があった痕跡ではなかろうか?

「甲浦山」「ひなたGPS」の戦前の地図の『甲(カンノ)浦町の北後背の標高『196.3』のピークか。

「羽根」「ひならGPS」の野根山の南西に、南西に下る渓谷があり、その川が羽根川である。

「吉良川山」この山名は見出せないが、高知県室戸市北西部に吉良川町乙と吉良川町甲があるので、この地区の広域の中の有意なピークであろう。

「柳瀨山」これは思うに、方角から見て、現在の高知県安芸郡馬路村魚梁瀬(やなせ)のどこかのピークと推定される。

「阿波の二子島」現在の甲浦(かんおうら)の中の南東海上にある、高知県と徳島県の県境界に存在する無人島の二子島である。「ひなたGPS」で確認されたい。注意が必要なのは、そこから東北直近(直線で約五キロメートル)の、徳島県海部郡海陽町の那佐湾の湾奥にある二つの無人島も、これまた、同名の二つの無人島「二子島」があるので、混同されないように!

「熊㙒崎」これは、現在の和歌山県東牟婁郡串本町にある紀伊半島最南端の潮岬(しおのみさき)のことを指していよう。

「三宝鳥」「姿のブッポウソウ」で知られるブッポウソウ目ブッポウソウ科ブッポウソウ属ブッポウソウ Eurystomus orientalis の異名。「三寶(寳・宝)」は、仏教で、最も尊ばねばならぬ「仏・仏の教えを説いた経典・その教えをひろめる僧」を指す「佛法僧」であり、これは「仏の教え・仏法」を指し、「三尊」とも言う。しかし、ということは、「声のブッポウソウ」、フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia も、ここには、いる、と考えなくてはいけない。この、とんだ「鳥違い」が判明したのは、驚くべきことに、昭和一〇(一九三五)年のことであった。何度も書いているが、「小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3」をリンクさせておく。その私の注の冒頭のそれを見られたい。

「水乞鳥」カワセミ科ショウビン亜科 Halcyoninae ヤマショウビン属アカショウビン(赤翡翠) Halcyon coromanda の古い異名。小学館「日本国語大辞典」の初出例は「日本紀略」の正暦元(九九〇)年の条を挙げる。

「紡車(クルマ)」この読みは底本にはなく、国立公文書館本(44)にあったものを採用した。「糸巻き車」のことである。黒澤明の「蜘蛛巣城」を思い出すな。

「御殿」不詳。安倉地区に限定してよいなら、星神社となる。「北川村観光協会」公式サイト「きたがわさんぽ」の「木積(こつも)の星神社」に、『ひっそりと神秘的な雰囲気の魅力ある場所にある星神社。すぐ下の岩屋様には磨崖仏があります』。『星神社の境内にある観音堂には妙見菩薩立像と両脇仏があり、伝説の残るつり鐘があります。また、天狗の伝説は有名です』とあり、サイト「アソビュー!」の「木積星神社」には、『星神社』としつつ、旧『金宝寺観音堂』とあり、二『年に』一『度、奇数年の正月』八『日に行われる【お弓祭り】は千年余の昔から悪魔退散、五穀豊穣を願って一度も絶えることなく続く地域をあげての盛大な伝統行事』であり、また、同神社の『【お弓祭り】は高知県無形文化財にも指定されて』おり、『羽織、袴で正装した射手』十二『人が独特のスタイルで』、一千八『筋の矢を通すその様は時代絵巻そのもので』ある、とある。……天狗……悪魔退散……一千八筋の矢を通す……この神社の感じが濃厚にしてきた…………]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 囁き

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。以下の標題は“murmures”で「ささやき」である。因みに、後の“ Histoires Naturelles ”(「博物誌」)では、“AU JARDIN”(「庭で」)と改題しており、以下で注するように、内容・表現にも有意に違いがある。なお、男女がはっきりと判る台詞を発している場合は、それぞれの名詞の性に、概ね、従っているようだが、内容により、岸田氏は臨機応変に性に応じていることが判る。]

 

      囁   き

 

鋤。――サクサクサク…………稼ぐに追いつく貧乏なし。

鶴嘴。――お前はいつでもさう云ふが、おれだつてそれくらゐのことは云つてゐる。

[やぶちゃん注:「鶴嘴」の台詞は“ MURMURES ”の原文でも“Tu dis toujours ça, mais moi aussi.”(「君はいつもそう言うけどさ、僕も、そうだよ。」)となっていて、捻りが入っており、明らかに「博物誌」の“AU JARDIN”の方の單純な“Moi aussi.”とは異なる。ちなみに、この冒頭の「鋤」の台詞の原文“Fac et spera.”は、フランス語ではなく、ラテン語で、“Fac”は「作れ・實行せよ」、“et”は「そして」、“spera”は「望め・期待せよ」の意である。岩波書店一九九八年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注によれば、これは『「なすべきことをなして、あとは天にまかせよ」という意味』で、『イギリスのプロテスタント殉教者アスキュー(一八二一~四六)の言つた言葉。またフランスの著名な出版者アルフォンス・ルメールが編集した本の表紙に記したことわざ』だそうである。一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の当該部(全体は「庭にて」)はには、ラテン語の原文の台詞とした上で、続けて丸括弧割注のように『(人事を尽して天命を待つ)』とある。]

 

 

花。――今日は日が照るか知《し》ら。

向日葵《ひまはり》。――えゝ、あたしさえその氣になれば。

如露《じようろ》。――さうは行くめえ。おいらの量見《りやうけん》一つで、雨が降るんだ。

[やぶちゃん注:「知ら」は、当て字ではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、『「かしらぬ」のうち』、『「知らぬ」の語義が希薄になり』、『江戸時代前期に疑問の意味を表わすようになった。相手に直接質問するのではなく、自分が知らないということを表わすことに中心があり、相手が答えられないことを聞いたり、話し手限りの発話で、疑いだけを表わしたりすることができた』。その後、『明治時代に入ってから』、『語形は「かしらん」、さらに「かしら」へと移行し、現代に至った。現代では』、『どちらかといえば』、『女性らしい言い回しとなっている』とある。

「向日葵」原文では“Le tournesol.(トゥルヌソル)であるが、この綴りは、まさに実際のヒマワリの一定時期の向日性に基づく単語形成であって、「向きを変える・ターンをする」の意の動詞“tourner”(トゥルネ)と、「太陽」を意味する名詞“soleil”(ソレイユ)を合成して作ったものであり、フランス語では“soleil”自体にも「ヒマワリ」の意がある(ヒマワリは“grand soleil”(グロン・ソレイユ)とも言われる)。さればこそ、日本語でも容易に判る通り、向日葵の台詞は、まさに自称そのものの――「太陽を自在に動かせる」という不遜な「自惚れ」に嵌まっている――のである。

「如露」小学館「日本国語大辞典」によれば、『ポルトガル語』の『jorro』(ネットでブラジルの方二人の発音を聴いたが、音写すると「ジョフゥ」或いは「ジョホゥ」であった)=『「水の噴出」からか』とある。

「量見」「料簡・了簡・了見」とも書くが、以上の三つの漢字表記の場合は歴史的仮名遣は「れうけん」となる。

 なお、如露の台詞は、この“MURMURES”の原文では“Pardon, si je veux, il pleuvra.”で、そっけなく終止しているのに對し、「博物誌」の“AU JARDIN”の方では、“Pardon, si je veux, il pleuvra, j'ôte ma pomme, à torrents.”(悪いけどな、「雨が降る」としたらな、儂(わし)が丸(まあ)るいこいつを外してな、ざあざあ降りってことになるだぜ。)で一捻りの面白さが加味されている。この“pomme” が原義は「林檎(りんご)」であるが、「リンゴに似たような丸い、球状のもの」の意で、“arrosoirpomme d'arrosoir”(ジョウロの口(に附ける半球状の散水器))を指す。因みに、佃裕文訳「博物誌」の当該部は、『そいつはごめんよ、降るも降らぬも、この俺さまの胸先三寸、おいらの蓮の実を外せば、土砂ぶりと来らあ』と粋な意訳になっている。]

 

 

薔薇の木。――まあ、なんてひどい風。

後見人。――わしがついてゐる。

[やぶちゃん注:「後見人」原文は“ Le tuteur. ”で、第一義の①は法律用語で、確かに「後見人」であり、同②に俗語で「保護者・後ろ楯(だて)」であるものの、第二義として造園用語として「支柱・添え木」の意がある。改版では、流石に『添え木』と改訳している。]

 

 

野苺《のいちご》。――なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだらう。薔薇の花なんて食べられやしないわ。

生簀(いけす)の鯉。――うまいことを云ふぞ。だからおれも、人が食《くい》やがつたら、骨を立てゝやるんだ。

薊(あざみ)。――さうねえ、だけど、それぢやもう遲すぎるわ。

[やぶちゃん注:「野苺」は誤訳の類いである。「木苺」ならよい。原文は“ La framboise. ”で、これは、双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科キイチゴ属 Rubus の種群を指すからである。「野苺」はバラ亜科 Rosoideae Potentilleae Fragariinae 亜連オランダイチゴ属エゾヘビイチゴ Fragaria vesca (北半球に広く分布する種)指す。

「なぜ薔薇には棘(とげ)があるんだらう」「河津バガテル公園」公式サイト内の「棘のお話」によれば、『バラの棘は樹皮が変化したものと言われて』おり、『品種によって色々な形があ』って、『小さいものとか、大きいもの、沢山あるものや』、『そうでもないもの』もあるとある。棘の役割は、『茎や枝の転倒を防ぐフック的な役割では、という説もあり』、『バラの原種の多くは、ツル性の植物で、ひとりで立ち上がることができ』ないため、『トゲを周囲にひっかけ』て『絡めれば』、『上に伸びていくことができる』という。『あとは、草食動物から実を守るためとも言われてい』る『が、しかし』、『最大の敵と思われる昆虫には』、『全くの効果』がないとし、けれども、『最大の敵でありながら、繁殖するためには必要な昆虫たちが香りにつられ』て『やって』きて、『この昆虫たちが受粉の手助けをしてくれてい』る。『多少葉っぱや花びらは食われようと、それ以上に繁殖を選択し、子孫を残すための犠牲なので』あろうかとあり、これは、『親が、子どもを育てるのに身を粉にして働くのと同じなのかもしれ』ない、と締め括っておられる。ALSで十三年前に亡くなった私の母は、大のバラ好きであった。今も、私の家の方の柵に白い薔薇が咲く。画家であることを、終生、拘って、一般の社会常識に何かと反するのを好んで旨とし、母を終生、悩ませた、今年三月に亡くなった父――幼少期に結核性左肩関節カリエスに罹患した私――何か、しみじみとしたものが、湧いてきた。

「鯉」条鰭綱コイ目コイ科コイ属コイ Cyprinus carpio だが、特にヨーロッパ原産(特にドナウ川とヴォルガ川)のニシキゴイ Cyprinus carpio carpio としておく。]

 

 

薔薇の花。――あんた、あたしを綺麗だと思つて。

黃蜂(くまばち)。――下の方を見せなくつちや。

薔薇の花。――おはいりよ。

[やぶちゃん注:「黃蜂(くまばち)」あまりよい訳とは言えない。原文は“ Le frelon. ”で、これは、膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属モンスズメバチ Vespa crabro である。上野高敏(九州大学大学院農学研究院生物的防除研究施設)の公式サイト内の「モンスズメバチ」に詳しいが、そこには、『本種はユーラシア大陸に広く分布し、日本列島は分布域の東端にあたります。我が国では、北海道、本州、四国、九州の平野部から低山帯に棲息します』。『地域ごとに特徴的な斑紋パターンを示すため、多数の亜種が記載されており、日本産は亜種 flavofasciata Cameron(『黄色い帯のある』の意)に属します』とあり、『その学名である Vespa crabro ですが、世界で最初に命名されたスズメバチゆえ、なんと『 Vespa 』は『蜂』の意で、『 crabro 』は『スズメバチ』の意です。学名的には、これこそスズメバチってところでしょうか』。『ヨーロッパを代表するスズメバチであり、かつ同地域最大の社会性ハチ目昆虫となります』。『ヨーロッパでは、本種に』三『箇所刺されると死ぬと信じられていたそうです。実際にはそんなに毒性は強くありませんが、過度の恐怖心から巣を片っ端から除去した結果、個体数の著しい減少を引き起こしてしまった地域があり、ヨーロッパの一部では絶滅危惧種となっています』。『現在では、国によって保護種となっています。ドイツでは、本種を殺すと最大で』五『万ユーロ(』五百『万円以上!)の罰金だそうな』とあった。人によっては、スズメバチの類は、皆、ミツバチを襲う肉食性であると思い込んでいる方も多いが、空けたジュースのボトルに入り込んで吸引するように、『夏の時期、広葉樹の樹液に集まってくる個体をよく見かけます。また熟した果物や花の蜜を餌とします』とあり、花から蜜を舐める働き蜂の写真も添えられてある。而して、『本種はユーラシア大陸に広く分布します』。十『亜種程度が知られていますが、個体変異があることと』、『地域によっては中間型が出るので、亜種の区分はしばしば明確でないようです。私もこの辺の分類はよくわかりません』と述べられ、十二亜種が掲げられてある。その内、フランスに分布するものは、 ssp. vexator (『分布:イギリス、ヨーロッパ南部産(頭部が黄色)』)・ssp. germana (『分布:ヨーロッパ西部(ドイツ、フランス、スイス、スペイン、イタリア北部、ポーランド、ハンガリー、オーストリアなど)』が該当する。モンスズメバチは複数のネット記載で、オオスズメバチ・キイロスズメバチ(先月、業者に駆除して貰った巣が彼奴(きゃつ)であった)に次いで、攻撃性・毒性ともに高く、危険なスズメバチであると記されている。さらに、岸田氏の「黃蜂(くまばち)」は、別に、二重によろしくない。漢字の「黃蜂」は、本邦では、一般的に、スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinaeのアシナガバチ類を総称する名であることで相応しい漢字名ではないこと、さらに、ルビの「くまばち」は、確かに、地方方言で、スズメバチ類を指す語として有意にあるものの、温和な性質で、に毒針があるが、当該ウィキによれば、『巣に近づいたり、個体を脅かしたりすると刺すことがあるが、アナフィラキシー』・『ショック』(anaphylaxis shock)『が出なければ』、『たとえ』、『刺されても重症に至ることは少ない』とある、ミツバチ科マバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa(本邦には五種棲息する。タイプ種は、Xylocopa violacea )のクマバチ類(私は物心ついてより、常に「くまんばち」と呼んでいる)を指す語であるから、相応しくないのである。

 

 

壁。――なんだらう、背中がぞくぞくするのは?

蜥蜴《とかげ》。――おれだい。

[やぶちゃん注:これは、後の「博物誌」では、独立項として、「庭にて」よりも遙か前に 「蜥蜴」として載っている。『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蜥蜴」』を参照されたい。本篇の、いや、「博物誌」の中でも、三本指に入るであろう名アフォリズムである。]

 

 

蜜蜂。――さ、元氣を出さう。あたしがよく働くつて誰でも云つてくれる。今月の末には、賣場の取締になれるといゝけれどなあ。

[やぶちゃん注:底本では、「末」は「未」となっているが、誤植と断じて、特異的に訂した。

「蜜蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属セイヨウミツバチ Apis mellifera 

「賣場の取締」は原文では“chef de rayon”で、まず、一義的には、“rayon”は「蜜蜂の蜂窩・蜜房(みつぶさ)」を指す語である。但し、それが二義的に、「本棚の棚の板」から、「百貨店等のディスプレイ」、「賣り場」の意へと転化して、“chef de rayon”で「売場主任」の意で用いられるようになった言語的な意味変化の経緯をもパロッているのである(これは岩波書店一九九八年刊の辻昶譯「博物誌」の「庭にて」の注を一部參考にした)。]

 

 

堇《すみれ》。――おや、あたしたちはみんなアカデミイの徽章《きしやう》をつけてるのねえ。

白い堇。――だからさ、なほさら、控へ目にしなくつちやならないのよ、あんたたちは。

葱(ねぎ)。――おれを見ろ、おれが威張つたりするか。

[やぶちゃん注:「堇」キントラノオ目スミレ科スミレ属 Viola sp.。なお、ヨーロッパで広く見られ、古くから香水の栽培もされている知られた種は、スミレ属ニオイスミレ Viola odorata である。詳しくは当該ウィキを見られたいが、そこに『聖母マリアの控えめさと誠実さを象徴する花であり、ヨーロッパでは葬儀の際に墓石に撒く習慣があった』とあった。『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」には、このスミレに訳者注があり、『謙譲を象徴』とある。

「アカデミイの徽章」原文は“d’académie”で、これは、臨川書店版全集の佃裕文氏の訳では『橄欖章』とあり、訳者注で、これはフランスの「教育功労章二等勲章」を指すとある。これは“Ordre des Palmes académiques”で、当該ウィキによれば、これは当時の勲章の意匠は、英知・平和・豊穣・栄光の象徴たる「オリーブ」(橄欖)の木と、成功の象徴たる月桂樹をデザインしたものであったが、現在は棕櫚(シュロ)の枝二本に変えられている。当時の「オフィシエ」二等の徽章の画像がある。さらに、勲章のリボンはヴァイオレット(菫色)である。

「葱」原文“ Le poireau. ”。これは言わずもがなであるが、本邦のネギ(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ  Allium fistulosum var. giganteum )ではなく、地中海原産のネギ属の一種である「リーキ」(英語:leek)=「ポワロー」(フランス語:poireau:ネイティヴの音写をすると「ポォワファオ」)=「セイヨウネギ」(意訳であって和名ではない) Allium ampeloprasum を指す。近年、市場でもよく見かけるようになり、「ポロねぎ」「ポワロ」の名が馴染みになってきている。臨川書店版全集注によれば、『俗語で農事功労章も意味する』とある。これは“ Ordre du Mérite Agricole ”である。フランス語の当該ウィキがあり、そこに「この徽章は、リボンからぶら下がる白いエナメルの星形で構成されており、そのリボンの大部分が緑色を呈しているため、『ネギ』“Poireau”(前の「葱」の注参照)というニック・ネームが付けられた。『ポワローを付ける』という表現は、この受賞した勲章のリボンの色に由来する。」といった内容が書かれてある。ただ、他の勲章に比べると、相対的にそれほど名誉的価値のあるものでもなかったらしく、この“Poireau”という呼び名も田舎の農業人に相応しいという「けなし」のニュアンスも感じられる。事実、以下の「葱」の台詞「あたしをごらん。あたしが威張つたりして?」という部分対し、辻氏は注して、『大した価値のある勲章ではないので、ポロねぎのこの気負った言葉はこっけいである』という辛口の字背をも透かしておられるのである。また、興味深いのは「堇」と「白い堇」と「葱」の会話の中の「葱」が、その台詞から、ここでは男性となっているのに対して、「庭のなか」では明白な女性となって『葱――あたしをごらん。あたしが威張つたりして?』言ってる点である。フランス語の性としては原文の見出しの定冠詞でも一目瞭然だが、葱は“le poireau”で男性名詞である。前の二人の〈菫〉〈白い菫〉が女性であるから、変化を持たせる上でも男性である方が、より、面白いとは思う。但し、これはあくまで訳者の遊びの領域とは思われる。]

 

 

アスパラガス。――あたしの小指は、あたしになんでも云ふの。

[やぶちゃん注:底本では、実は「アスパラカス」であるが、誤植と断じて濁音にした。原文は“ L’asperge. ”(音写「ラスパルジュ」)で、以下の“Mon petit doigt me dit tout.”の台詞を直訳すると、「私の小指は私に総てを教えてくれる。」という意味である。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、これについて、辻氏は、『この表現はフランスで、子供にむかって、おまえが隠していることを知っているぞ(顔に書いてあるぞ)と言って白状させるときに使う。アスパラガスは小指に似ているので、ルナールはこんな言葉を言わせているのである。』と注しておられる。岸田氏の「博物誌」の「庭のなか」では、解釈の異なる、

   *

アスパラガス――あたしの小指に訊(き)けば、なんでもわかるわ。

   *

という訳になっており、これは遙かに、ここのものよりも、よい出来になっている。]

 

 

菠薐草(はうれんそさう)。――酸模(すかんぽ)つて云ふのはわたくしのことです。

酸模(すかんぽ)。――うそよ、あたしが酸模よ。

[やぶちゃん注:サイト版「ぶどう畑のぶどう作り」では、

   *

〈菠薐草〉と〈酸模〉の会話は、両種の葉がよく似ていることに加えて、スイバ(スカンポ)の意の“oseille”という単語に、別に卑俗語として「銭・おぜぜ・お足」といつた金の意味があることから、ホウレンソウは鉄分(金属)を多く含むことに加えて、更に自ら福を呼び込むために金のシンボルたる“oseille”を詐称したいというニュアンスが込められている(これは岩波書店一九九八年刊の辻昶訳「博物誌」の「庭にて」の注を一部参考にした)。

   *

と注したが、今回は、自律的に、これらの語をディグし、以下のように添えることとする。

「菠薐草(はうれんさう)」原文“ L’épinard. ”。ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea 。我々の世代までは「ポパイ」の影響で、エネルギの源のように思っている者が多いが、ホウレンソウの灰汁の主成分はシュウ酸(HOOCCOOH)であり、多量に摂取し続けた場合は、鉄分やカルシウムの吸収を阻害したり、シュウ酸が体内でカルシウムと結合し、腎臓や尿路にシュウ酸カルシウム(Calcium oxalate CaC2O4 、又は、(COO2Ca )の結石を引き起こすことがあるので、要注意である(注意記載は当該ウィキを参照した)。なお、フランス語には、成句で“mettre du beurre dans les épinards”(直訳:「ホウレンソウにバターを塗る」)で「金を増やす・暮らしを豊かにする」という比喩表現がある。ルナールはそれを暗に嗅がしているらしい。

「酸模(すかんぽ)」ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa 。私は「すっかんぽ」と呼び、幼少の時から、田圃周辺や野山を散策する際に、しょっちゅう、しゃぶったものだった。なお、「すかんぽ」は本邦では、若芽を食用にすると、やはり酸っぱい味がするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ変種イタドリ Fallopia japonica ver. japonica の別名でもあるが(ヨーロッパにも帰化している)、原文の“ L’oseille. ”(ロオザィエ)は、言わずもがなだが、真正の「スイバ」を指している。なお、同じくフランス語には、俗語で“la faire à l'oseille à qn.”で「人を騙す」・「人に辛い思いをさせる」の意があるので、ルナールは前のホウレンソウのそれに、さらにこの卑語をも、二重写しさせて楽しんでいるものと思われる。

 

 

馬鈴薯《ばれいしよ》。――あたし、子供が生まれたやうだわ。

[やぶちゃん注:「馬鈴薯」双子葉植物綱ナス目ナス科ナス属ジャガイモ Solanum tuberosum 。南アメリカのアンデス山脈原産。さて、「馬鈴薯」は、ここでは、女性となっているのに対し、「博物誌」の「庭のなか」では『馬鈴薯――わしや、子供が生まれたやうだ。』と、明白な男性となっている。馬鈴薯 “la pomme de terre” (「大地の林檎」の意)は冠詞で判る通り、女性名詞である(ちゃんと言うと、“pomme”も“terre”も孰れも女性名詞なのである)。ここでは、その訳の意外的な諧謔性から言えば、単語としての性を無視し、「庭のなか」のように男性とした方が、圧倒的に面白い訳となっていると私は思う。女性では当たり前で、さっと読み過ぎて忘れるが、「おっさん」の台詞ということで、眼が吸い込まれ、永く忘れられないアフォリズムとなる。無論、これも、あくまで訳者の遊びの領域であるのだが。]

 

 

林檎の木(向い側の木に)。――梨、梨、梨、梨、その梨をこさへたいんだ、おれは。

[やぶちゃん注:「バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica 。このアフォリズムは、訳が充分でない。原文は、“Le pommier (à son voisin d’en face). — C’est ta poire, ta poire, ta poire,… c’est ta poire que je voudrais produire.”で、逐語訳すると、「林檎の木(向かいの隣人に)。―― 君の梨だよ、君の梨、君の梨、……僕が育てたいのはね、君の梨なんだ。」である。岸田氏も削ぎ過ぎた訳と思われたのであろう、改版では、『お前さんの梨(なし)さ、その梨、その梨、……お前さんのその梨だよ、わたしがこさえたいのは。』と改訳しておられる。なお、サイト版「ぶどう畑のぶどう作り」では、『〈林檎の木〉が頻りに言う「お前さんの梨」であるが、岩波書店』一九九八『年刊の辻昶譯「博物誌」の「庭にて」の注等によれば、フランス語の梨“poire”には卑俗語として「頭・腦天」「顏・面(つら)」といった意味があって、「梨」に「顏」を掛けているとするようである(實際に辻氏はここの訳で「梨」に「かお」というルビを振っている)。ただ、“poire”には』、『やはり卑俗語として「間拔け・頓馬」の意味もあり、そうした「阿呆面(づら)・馬鹿面」といつた惡意も込められていないとは言えないやうにも思われる。』と注した。これは特に変更する必要はないと思う。]

 

 

樫鳥《かしどり》。――のべつ黑裝束で、見苦しい奴だ、黑つぐみつて。

黑つぐみ。――知事閣下、わたしはこれしか着るものがないのです。

[やぶちゃん注:この対話は「博物誌」では「くろ鶫(つぐみ)!」の項として独立している。〈樫鳥〉“ Le geai. ”が〈黑つぐみ〉“ Le merle. ”のことを「見苦しい奴」と言うのであるが、ここの原文はズバり、“villain merle”で、“villain”は「百姓・平民」という意味から、形容詞化して「卑しい・下賤な」の意となった卑称語であり、“villain merle”は、これで「不愉快な男・醜い男」を意味する。]

 

 

分葱(わけぎ)。――くせえなあ!

韮(にら)。――きつと、また石竹(せきちく)のやつだ。

鵲《かささぎ》。――カカカカカ……。

蟇《ひきがへる》。――何を云つてやがるんだ、あの女は。

鵲。――歌を唱《うた》つてるのよ。

蟇。――クアツク。

[やぶちゃん注:底本では「韮」は「菲」(音「「ヒ」。意味は「薄い・粗末な・つまらない」及び「芳しい・香(かぐわ)しい」)となっているが、誤植と断じ、特異的に訂した。

「分葱(わけぎ)」原文の“ÉCHALOTE”(イシヤラォゥト)でお判りの通り、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属タマネギ変種エシャロット Allium cepa var. aggregatum 。タマネギの一種であることから、知られるニンニク(後出)・リーキ(前出)・チャイブ(別名セイヨウアサツキ(西洋浅葱): Allium schoenoprasum var. schoenoprasum )・ラッキョウ( Allium chinense )などは、総て近縁種である。

「大蒜(にんにく)」同前でネギ属ニンニク Allium sativum 

 

「クアツク」原文“couac”は、「クワック!」という音で、これは通常、鴉の鳴き声を示す擬音語である。また。これには、音樂用語で「調子外れの音」の意味があるので、〈鵲〉の歌への皮肉とも言えるかも知れない。訳文では示し得ないフランス語の深いウィットがあるのである。]

 

 

二羽の鳩。――おいで、ポツポ……おいで、ポツポ……おいで、ポツポ。

[やぶちゃん注:原文は“Les deux pigeons. — Viens mon grrros, viens mon grrros, viens mon grrros…..”である。この訳は、ちょっとうまく出来ているとは、正直、言えない。臨川書店一九九四年刊の『ジュール・ルナール全集』第五巻の佃裕文氏の訳「博物誌」の当該部は、鳩の鳴き声のオノマトペイアに、ルビで仏文の和訳をつけるという、面白い趣向で訳されてある。こうである――

   *

二羽の鳩――ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……ヴィヤンモングルルロ(おいでよ、ねえ、さ、きみ)……

   *

「博物誌」の注で岸田氏自身が記しているやうに、これは、鳩の鳴き聲である“mon grrros”(モン・グルルロ)は、戀人の男に女が呼びかける「モン・クロ」“mon cœur”に掛けているのであるが、この訳では、その感じが、フランス語を知らない読者には、これ、全く理解されない。]

 

土龍《もぐら》。――靜かにしろ、やい、上のやつ。仕事をしているのが聞こえやしねえ。

[やぶちゃん注:標題は“ La taupe. ”で、モグラは女性名詞だが、台詞のキツさから、男の怒号としてやったものであろう。仮にヒステリーの女性のそれとして訳したら、ちょっと地下から響く迫力が伝わらないので、この方が、トレビァンだ。なお、本篇は「博物誌」では、「鵲」(と「蛙」)のシチュエーションの中に、解消的に発展して、取り込まれてしまうのだが、ここでは、舞台が先行する自然景観全体へと広がっており、上の木立の〈鵲〉と直上の〈蟇〉のそれぞれの声、それに対位法的にからまってくる別の木立の〈鳩〉の声を〈土龍〉が受ける構造となり、ポリフォニックな効果的配置となつていると言える。ちなみにこの“MURMURES”の原文では、鵲は“Cacacacaca.....”と鳴き、「博物誌」の鵲は“Cacacacacaca.”と鳴いている。岸田氏の訳の「カ」の数は、それに、それぞれ、ちゃんと律儀に対応しているのである。ただ、〈土龍〉の「仕事をしてゐるのが聞こえやしねえ。」という訳文(岸田訳「博物誌」も、ほぼ同じで「仕事をしているのが聞えやしねえ」である)には、実は、以前から違和感を感じ続けている。土龍自身が自分のしている仕事の中に、耳で聞き取らなければならない重要な何かがあって、それが聞こえないじゃないか! と怒つているという訳文であるが、その土龍が聞き分けねばならぬ「何か」というのが不分明だからである。臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」の佃裕文氏の訳では、『もう仕事も出來ねえじやないか!』、岩波書店一九九八年刊の辻昶氏の訳では『仕事の打ち合わせができないじゃないか!』と訳してある。前者は、五月蠅いこととの因果関係性が示されていない。後者が自然体で、よい、と私は思う。]

 

 

蜘蛛。――法律の名によつて、封印を貼りつけます。

[やぶちゃん注:ここでは他の台詞と同じく“Au nom de la loi, j'appose mes, scellés.”と一人称直接話法であるが、「博物誌」では、独立項「蜘蛛」の二つ目のアフォリズムとなって、さらに、三人称となって客観表現となり、“Toute la nuit, au nom de la lune, elle appose ses scellés.”「一晚じゅう、月の名によつて、彼女は封印を貼(は)りつけている。」と印象がすっかり変っている。]

 

 

羊。――メエ……メエ……メエ……。

牧犬《ぼくけん》。――然《しか》しも糞《くそ》もない。

[やぶちゃん注:原文は以下。

   *

 Les moutons. — Mée… Mée… Mée…

 Le chien de berger. — Il n’y a pas de mais.

   *

「博物誌」では、独立項「羊」の最後に、添えるように、辛うじてアフォリズムとして配されてあり、「牧犬」の台詞は原文自体が、“Il n'y a pas de mais !”で、エクスクラメンション・マークを用いている(「ぶどう畑のぶどう作り」の翻訳では初版・改版ともに(特に初版)岸田氏は訳に際しては、「?」や「!」を自身の判断で加えることは、まず、していない)。「博物誌」の岸田氏の戦前版では、まず、羊の台詞(鳴き声)を、総てに「しかし」と訳し、それに「(メエ)」のルビを打つ形に変更しており、牧犬の台詞には、「然し」に「(メエ)」のルビを打ち、「然し(メエ)も糞もねえ!」とされておられる。後の岸田氏の改版の「ぶどう畑のぶどう作り」の方では、流石にフランス語を知らない読者には、半可通で、不親切であることが気になられ、羊の台詞の直下にポイント落ちで、『(訳者注。メエは mais に通じ「しかし」の意)』と、岸田氏としては特異的に割注を施しておられ、こちらの方が読者にはベストである。]

 

[やぶちゃん注:底本では、台詞が二行以上に及ぶ場合は頭の一字空けがなされているが、ブラウザでの不具合を考えて行っていない。本作は「博物誌」の「庭のなか」と似るが、ルナールの原文自体が、意味内容の相違を伴う有意な相違が隨所に認められる。それは配置や訳のみではなく、原典自体の有意な改稿としてあるのである。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には、先の「雄鶏」以降については、『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、この「囁き」を所収しないのであるが、途中の注で私が述べたように、これだけ多くの有意な相違点と、カットされたり、別な独立項に組み込まれたりしている以上、これを『そのまま収録』しているとは、逆立ちしても言えないのである。全集としてのテクスト校訂の観点から見ても、私は極めて不適切な行為であると断ずる。担当訳者が異なっていることに拠る意思疎通不全と弁明しても、ルナールを愛する読者は、一人残らず、激しく不満を持つことは、火を見るよりも、明らかだからである。

 なお、臨川書店一九九五年刊「ジュール・ルナール全集」第五巻の「博物誌」の「庭にて」の項の訳者佃裕文氏の注によれば、この初出は、一八九九年二月號の雜誌『ヴォーグ』で、題名は「博物誌、リュシアン・ギトリーに』であり(Lucien Germain Guitry(一八六〇年~一九二五年)は当時のフランス劇壇の名優。ルナールと親交があつたか)、そこではドレフュス事件等の当時の政治狀況を反映した、動植物達の対話で締め括られている、とする。そこでは削除された台詞が、すべて、当該注で、復元されて訳されていて、非常に興味深いのであるが、これは、それを探し出し、訳して下さった、佃氏の翻訳の御苦労考えると、安易な引用は出来ないと感ずるので、控える。興味のある方は、同書三六一~三六二ページを、是非、參照されたい。

 なお、最後に、ちょっと淋しいことを言っておく。私が最も偏愛する芥川龍之介の作品に「動物園」というお洒落なアフォリズム集がある。大正九(一九二〇)年一月及び十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載され、後に第五短篇集『夜來の花』(大正一〇(一九二一)年新潮社刊:中国特派の直前の出版)に所収されたものである。私の電子テクストでは、十六年前、同僚に頼まれて、読書会用に新字新仮名で電子化したものを、正字正仮名でサイト版にして二〇〇六年二月に公開したものがあるので、見られたいが、これは私には、本ルナールの「囁き」、及び、「博物誌」を引き写したかと思われるアフォリズムが満載なのである。この岸田氏の「葡萄畑の葡萄作り」(大正一三(一九二四)年刊)より、少し前の発表であるから、恐らく、龍之介は、多分、「博物誌」の英訳本のそれを読んでいたものと思われる(龍之介は英語が専門でドイツ語も守備範囲であったが、フランス語を読みこなすのは、やや苦手であったと思われる)が、インスパイアと好意的に採るよりも、ルナール好きの私としては、ただ少しばかり龍之介特有の強いシニカルは感じられるものの、ルナールの作品の亜流にしか見えないのである。そもそも、この時期、芥川龍之介は、短い生涯の中で停滞期にあったことは、専門家がはっきりと認めていることであり、ルナールのそれを、大いに参考にして、手っ取り早く、悪く言えば、お手軽に書いた作品という印象を与える作品なのである。吉田精一も『ルナアルほどの鋭さがない』(「芥川龍之介」昭和一七(一九四二)三省堂刊)と言っている。芥川龍之介自身、大正八(一九一九)年十一月十八日附佐々木茂索宛書簡で、『SSSへ小品動物園を送つた輕薄浮薄なのにつき君の如き博雅の君子はなる可く見ないやうにしてくれ給へ但し原稿料はなる可くよくしてくれるやうに斡旋してくれ給へ、尤もちよいとうまい所もある』と書いている。この言い方は、完全なオリジナルな発想ではないことを暴露したものと私は感じるのである。だから、残念なのである。未読の方は、是非、読まれたい。

2024/09/13

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 溲疏

 

Tyousenkuko

 

ちやうせんくこ 俗云朝鮮枸𣏌

 

溲疏

     本草李當之以溲

     疏楊櫨爲一物故

     和名亦訛爲一物

 

本綱曰溲疏樹形似楊櫨樹高𠀋許皮白中空時時有節其

子八九月熟赤色似拘𣏌子必兩兩相對樹有剌

△按朝鮮枸𣏌枝葉花皆似枸𣏌而子亦如枸𣏌畧大八

 九月熟赤色樹有刺而中空山中則髙𠀋許者亦有

 

   *

 

ちやうせんくこ 俗、云ふ、「朝鮮枸𣏌」。

 

溲疏

     「本草」に、李當之《りたうし》、

     「溲疏《そうそ》」・「楊櫨《やうろ》」

     を以つて、一物《いちもつ》と爲す。

     故《ゆゑに》、和名にも亦、訛《あや

     まり》て、一物と爲す。

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では「楊櫨」に対して『うつぎ』とルビを振っているが、私は従えない。「本草綱目」から引用である以上、ここでは、同一種を指すかどうか分からないうちは、用心して、音で読むべきと考えるからである。]

 

「本綱」に曰はく、『溲疏樹《そそうじゆ》は、形、「楊櫨《やうろ》」に似て、樹の高さ、𠀋許《ばかり》。皮、白≪く≫、中空《ちゆうくう》にして、時時《ときどき》、節《ふし》、有り。其の子《み》、八、九月に熟す。赤色≪にして≫、「拘𣏌《くこ》」の子に似て、必≪ず≫、兩兩《ふたつながら》、相對《あひたい》す。樹に、剌《とげ》、有り。』≪と≫。

△按ずるに、朝鮮枸𣏌は、枝・葉・花、皆、「枸𣏌」に似て、子(み)も亦、枸𣏌のごとく、畧《ちと》、大≪きく≫、八、九月、熟して、赤色≪たり≫。樹に、刺、有りて、中空《ちゆうくう》なり。山中には、則ち、髙さ、𠀋許《ばかり》の者も、亦、有り。

 

[やぶちゃん注:自力考証しようとしたが、以上の複数の漢字で中文サイトを調べても、見当たらないばかりでなく、項目標題の「溲疏」で調べると、悉く、

双子葉植物綱バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属 Deutzia の多数の種

が、わらわらと、ぞくぞく、出て来るばかりである。されば、出来れば使いたくないないのだが、初版原本を牧野富太郎が植物部を校定し、後に『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳(初版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部を見るしかなかった何で使いたくないかって? 私は、牧野富太郎が大嫌いだからである。彼は南方熊楠が高く評価されるのを、「彼は正式な論文を書いていない」として、相手にしなかったからである。牧野は、熊楠が、ずっと以前から、海外で、英語で、驚異的なグローバルな論文群を、既に、多数、発表していることを全く知らなかっただけの話に過ぎなかったのである国立国会図書館デジタルコレクションのここで当該部を視認出来る。しかし、そこでは、本文の標題「溲疏」の項目下方に、旧版で牧野が同定比定したものを、そのままに以下のようにして、北村は補注もしていない(学名が斜体でないのはママ)。

   *

 和 名 未  詳

 學 名 未  詳

 科 名 未  詳

   *

である。

 しかし、良安は附言で、明らかに時珍の言う「朝鮮枸𣏌」=「朝鮮枸杞」という、「枸杞」とは異なる外見上、似ているが、別な「クコ」の別種、或いは、「クコ」の変種・品種が日本に存在するように明記しているのである。

 然るに、例えば、名にし負う「朝鮮枸杞」の名から、韓国語の「クコ」相当のページを見たが、クコ Lycium chinense 以外の狭義の「クコ」でない種、変種・品種の記載は、一切、記載がなかった。また、「維基百科」の「枸杞屬」には、前種クコ以外に十種が挙がっているが、各個の内、独立ページがあるものの六種には、朝鮮半島を分布とする記載は認められなかった。最後に、英文のクコ属相当のページには、全世界の百一種もの種がリストされているが、同様に、独立ページがあるものを総て確認したが、前種クコ以外に、中国・朝鮮半島・日本に分布する種はなかった。これ以上、私には、やりようがない。

 而して、「本草綱目」の「朝鮮枸杞」も、良安の言う本邦の「朝鮮枸杞」も、私は、単に、

双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense の見かけ上の変異個体、或いは、病的に変形した病的個体(群)

であると、私は断定するものである。因みに、東洋文庫も一切だんまりで、割注も何も、ない。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「溲疏」([088-57a]以下)が独立項である。以下に全文を掲げる(不審があったので、影印本で一部を補正した下線は、私が、次の注のために附した)。

   *

溲疏【本經下品】

 釋名巨骨【别錄】

 集解【别錄曰溲疏生熊耳川谷及田野故坵墟地四月采當之曰溲疏一名楊櫨一名牡荆一名空疏皮白中空時時有節子似枸杞子冬月熟赤色味甘苦末代乃無識者此非人籬援之楊櫨也恭曰溲疏形似空疏樹高丈許白皮其子八九月熟赤色似枸杞必兩兩相對味苦與空疏不同空疏即楊櫨其子為莢不似溲疏志曰溲疏枸杞雖則相似然溲疏有刺枸杞無刺以此為别頌曰溲疏亦有巨骨之名如枸杞之名地骨當亦相類方書鮮用宜細辨之機曰按李當之但言溲疏子似枸杞子不曽言樹相似馬志因其子相似遂謂樹亦相似以有刺無刺為别蘇頌又因巨骨地骨之名疑其相類殊不知枸杞未嘗無刺但小則刺多大則刺少耳本草中異物同名甚多況一骨字之同耶以此為言尤見穿鑿時珍曰汪機所斷似矣而自亦不能的指為何物也】

 氣味辛寒無毒【别錄曰苦微寒之才曰漏蘆為之使】主治皮膚中熱除

 邪氣止遺溺利水道【本經】除胃中熱下氣可作浴湯【别錄】【時珍曰按孫真人千金方治婦人下焦三十六疾承澤丸中用之】

   *

先に示した『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここの冒頭。但し、その前に、「枸杞地骨皮」の「集解」の中に、以下の記載がある(同前。[088-50b]の六~七行目)。

   *

馬志注溲疏條云溲疏有刺枸杞無刺以此為别溲疏亦有巨骨之名如枸杞之名地骨當亦相類用之宜辨或云溲疏以高大者為别是不然也今枸杞極有高大者入藥尤神妙

   *

同じく『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここ(左ページ後ろから五行以降)

『「本草」に、李當之《りたうし》、「溲疏《そうそ》」・「楊櫨《やうろ》」を以つて、一物《いちもつ》と爲す』これは、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の、さらに後の「牡荆」([088-59b]以下)の「集解」の途中([088-60a]の六行目の途中から)に出現する(同前)。

   *

李當之藥錄言溲疏一名楊櫨一名牡荆理白中虚斷植即生按今溲疏主療與牡荆都不同形類乖異而仙方用牡

   *

同じく『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここ(右ページ七行以降)

「李當之」中文の「Baidu 百科」によれば、三国時代の知られた医師で、著名な名医華佗の弟子。古典について殆んど知識がなかったが、神農の古い古書を研究し、特に医学に熱心であった、とある。

「楊櫨」同じく『新註校定国訳本草綱目』第九冊の当該部はここからだが、ご覧の通り、和名・学名・科名は総て『未詳』である。遂に、全く不詳の植物が出現したのである。

2024/09/12

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 象

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      

 

 それは、若いダニエルが象の見まはりをする時刻である。

 いつもの見物が彼を待つてゐた――勞働者、兵卒、娘、放浪者、それから外國人。

 「さ、好い顏をして見ろ」ダニエルは、指を擧げて云ふ。

 象は、一度ではうまく行かなかつた。重くるしいからだを、やつと起したかと思ふと、前に倒《たふ》れる。そして鼻を鳴らす。

 「もつと上手に」ダニエルは突慳貪《つつけんどん》に云ふ。すると、象は檻《をり》よりも高く立ち上る。そして恐ろしい、どえらい、太古時代の唸(うな)りを發する。あたりの空氣は水晶のやうにひゞり[やぶちゃん注:「罅(ひび)」に同じ。]がはひる[やぶちゃん注:ママ。]。

 「さうだ」ダニエルが云ふ。

 象はもう四本の脚《あし》で立つてもいゝのである。鼻を眞直ぐに擧げて、口を開《あ》けてもいゝのである。ダニエルは、その中に、遠くから麵麭《パン》のかけらを投げ入れる。狙ひがうまいと、麵麭のへた[やぶちゃん注:「端っこ」の意と採れるが、如何なる辞書にも載らない、一般的でない言い方である。]が、黑い、爛《ただ》れた口の奧で音を立てる。つぎに、手のひらへのせて、一つ一つ野菜の切屑《きりくず》を與へる。ざらざらした、しかし銳敏なその鼻が栅の間を行つたり來たりする。そして、丁度、象が、その中で息を吐いたり吸つたりしてゐるやうに、曲つたり伸びたりする。

 糸で引つ張つてあるやうな薄い耳が、滿足げに飜《ひるがへ》る。然し、小さな眼は、相變らずどんよりしてゐる。

 最後にダニエルは、紙で包んだ美味(うま)いものを口の中へ投げ込む。その紙包みは、納屋の拔穴《ぬけあな》を猫が通るやうにはひつて[やぶちゃん注:ママ。]行く。

 

 象はたつたひとりになると、家の留守番をしてゐる村の老いぼれ爺《じじい》のやうなものである。彼は戶の前で、からだを曲げ、ぼんやり鼻をぶらさげて、靴を引《ひき》ずつてゐる。

 上の方へ穿《は》きすぎた股引《ももひき》の中に殆どからだが隱れ、そして、その股引から、紐のはしがだらりと垂れてゐる。

 

[やぶちやん注:本篇は、後の「博物誌」には、ない。臨川書店一九九五年刊の「ジュール・ルナール全集」第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の末尾には、先の「雄鷄」以降については『『博物誌』(第5巻所収)にそのまま収録されているので、ここではタイトルだけあげておく。』とし、掲げたタイトルの中には「象」も含まれている。しかし、該当第五巻の『博物誌』にも、その注にも、また第五巻の解説にも「象」が載っていないことへの注記が、どこにも、ない。摩訶不思議と言わざるを得ない。ともかくも、ルナールが削除したことは間違いない。これは叙述から、彼の動物の芸に対する憐憫の思いから書かれたものであることは明白であり、その動物虐待への「ノン!」の主張表明であるが、それへの嫌悪が、ルナールの中で、後、より深刻にイメージされてしまった結果、削除されたものと私は思う。私は幼少期から、動物園や水族館の芸を見る都度、面白いと思いながら、同時に、終わった後、ある種のやるせないペーソスを感じるのを常としてきた。だから、大人になってからは、自分から見ることはなかった(最後に自律的に見たのは、二十三の時だった。短期間の興行であったことから、殆んどの人は知らない、江ノ島水族館でのラッコの芸だった。鎌倉に訊ねてきた私を愛した高校時代の後輩の女性に見せるためだった。その後は、教員最後の高校の遠足の引率で金沢八景シーパラダイスで見たイルカ・ショーが事実上の最後だ。嘗つての教え子の一人が飼育員だったから、敢えて見た)。特に象は幼稚園の時、サーカスで見たのだが、芸をしながら、糞をボロボロと零しているのを見て、幼な心に、強く、悲惨に感じたのを忘れない。

原文を掲げておく。

   *

 

       L’ÉLÉPHANT

 

   C’est l’heure où le jeune Daniel fait sa visite à l’éléphant.

   Son public ordinaire l’attend : l’ouvrier, le soldat, la fille, le vagabond et l’étranger.

   Fais le beau, dit Daniel, un doigt levé.

   L’éléphant ne réussit pas du premier coup. Il se dresse à peine, pesamment, retombe et grogne.

   Mieux que ça, dit Daniel d’un ton sec.

   Il se dresse alors plus haut que la grille, et terrible, énorme, antédiluvien, il pousse un barrit dont l’air est fêlé comme du cristal.

   Bien ! dit Daniel.

   L’éléphant peut se remettre à quatre pattes et, la trompe droite, ouvrir la bouche. Daniel y jette, de loin, des morceaux de pain et, quand il vise avec adresse, la croûte sonne au fond du palais noir et gâté. Puis il offre, au creux de sa main, une à une, des épluchures. La trompe rugueuse et délicate va et vient entre les barreaux, se ferme et se déroule comme si l’éléphant aspirait et soufflait dedans.

   Les oreilles minces, tirées par quelque ficelle, planent de satisfaction, mais le petit œil reste morne.

   Pour finir, Daniel jette à la bouche le papier qui enveloppait les bonne choses et qui passe comme un chat par une chatière de grange.

 

   L’éléphant seul n’est plus maintenant qu’un pauvre vieux de village qui garde la maison. Il traîne ses chaussons devant la porte, courbé, tête vide, nez bas. Il disparaît presque dans sa culotte trop remontée et, derrière, un bout de corde pend.

   *

「さ、好い顏をして見ろ」原文は“Fais le beau”で、「見栄えを、良くしなよ!」という意である。後の岸田氏の改版では、「さ、ちんちんだ」で、直後に続く動作から、言い得て妙である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 岩佐村三亟竒事

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。占卜で前話と連関する。]

 

      岩佐村三亟(さんきよく)竒(きなる)事

 岩佐に、三亟と云(いふ)召仕(めしつかひ)の者、風與(ふと)[やぶちゃん注:副詞の「ふと」。「不圖」とも当字する。]、行方(ゆくへ)、不知(しれざり)しかば、每日、鉦・太鼓にて尋(たづね)しに、九日振(ここのかぶり)に、大釜(おほがま)の後(うしろ)へ來りしを見付(みつけ)て捕へ、色々、介補(かいほ)して、正氣に成(なり)ける。

 前は、一文不通(いちぶんふつう)の者成(なり)しが、戾りて後(のち)は、文字を覺へ[やぶちゃん注:ママ。]、「小學」抔(など)をも、よみ、或(あるい)は、卜(うらなひ)をしけるに、見通しに合(あは)せける。

 平常、山中にて行掛(ゆきがか)りに伏(ふし)けるに、山犬抔、近付(ちかづく)事、なし。

「『四方(しはう)からめ』といふ事を習(ならひ)たる。」

由。

 人々、不審を、し、

「誰(たれ)に習(ならひ)たるや。」

と尋(たづね)ければ、

「形を見る事、なし。松の枝の上に居(ゐ)て、障子のやうに覺へたるが、一重(ひとへ)を隔(へだて)て、物(もの)、習ひし。讀物(よみもの)抔(など)、致しぬ。食物(くひもの)は、『しきみ』の葉に包み、白き團子(だんご)の樣(やう)なるものを、一日に、三つ宛(づつ)被下給(くだされたま)へ[やぶちゃん注:ママ。]たる。」

と言(いひ)し、とかや。

 

[やぶちゃん注:「岩佐村」現在の安芸郡北川村安倉(あぐら:グーグル・マップ・データ航空写真)。以前の話に出た野根山街道の中の全き山間地である。但し、藩政時代には番所が置かれた。

「三亟」この名が、ちょっとハマり過ぎで、話しとしては、眉唾の類いを疑わせる。「三極」で、これは、とんでもない名前で、元来、宇宙の万物を意味する「天・地・人」=「三才」の意だからである。この事件以降に、かく綽名で呼ばれたというなら、まだ、納得出来なくはないが、凡そ山間の庄屋等の雇人が名乗る名前では、到底、あり得ないからである。

「風與(ふと)[やぶちゃん注:副詞の「ふと」。「不圖」とも当字する。]、行方(ゆくへ)、不知(しれざり)しかば、每日、鉦・太鼓にて尋(たづね)しに」近世以前の民俗社会で、ごく普通に行われた、共同体(村落・町屋)の中から行方不明になった者を捜索する極めてオーソドックスなやり方である。市街地でも行われた。鉦・太鼓は基原としては邪気を払うことがルーツであるが、共同体辺縁外延にも失踪事実が効果的に伝わり、実利性が認められる捜索方法である。

「大釜(おほがま)の後(うしろ)へ來りし」不詳だが、山間部の大きな岩の後ろ、或いは、扇状・羽状に山肌が抉られている地形の奥、といった地域呼称の地名と思われる。「ひなたGPS」の戦前の安倉の周縁を見ると、二ヶ所ほど、ピークから崩れたような有意に大きな崖狀地名が視認出来る。

「介補(かいほ)」介抱。

「一文不通(いちぶんふつう)」文盲。

「小學」宋の朱熹の門人であった劉子澄(しちょう)が編纂した初学者用漢文教科書。全六巻。一一八七年(鎌倉幕府成立直後の文治三年相当)成立。日常の礼儀作法・格言・善行などを古今の書から集めたもの。江戸時代に用いられた。

「見通しに合(あは)せける」占った予言が、後の事実等と合致した。

「四方(しはう)からめ」「四方搦め」で、一種の結界、目には見えない防御シールドを巡らして、害獣害虫及び邪気をシャット・ダウンする法であろう。

「『しきみ』の葉」双子葉植物綱アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum の葉。シキミは、仏事に於いて抹香・線香として利用されることで知られ、そのためか、別名も多く、「マッコウ」「マッコウギ」「マッコウノキ」「コウノキ」「コウシバ」「コウノハナ」「シキビ」「ハナノキ」「ハナシバ」「ハカバナ」「ブツゼンソウ」などがある。最後の「カウサカキ」は「香榊」で、ウィキの「サカキ」によれば、上代にはサカキ(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica )・ヒサカキ・シキミ・アセビ・ツバキなどの『神仏に捧げる常緑樹の枝葉の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』とある。サカキは神事に欠かせない供え物であるが、一見すると、シキミに似て見える。名古屋の義父が亡くなった時、葬儀(臨済宗)に参列した連れ合いの従兄が、供えられた葉を見て、「これはシキミでなく、サカキである。」と注意して、葬儀業者に変えさせたのには、感銘した。因みに、シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されていることも言い添えておく。

「白き團子(だんご)の樣(やう)なるものを、一日に、三つ宛(づつ)被下給(くだされたま)へたる。」これは所謂、「神隠し」様の失踪をし、後に帰還し、自ら「天狗に引かれて修行を受けた」と語る、数多ある、天狗やら神仙に攫われた話しの一つである。最も知られるのは、平田篤胤の代表的神道書の一つとして知られる「仙境異聞」(全二巻・文政五(一八二二)年刊)で、七歳の時、寛永寺の境内で出逢った神仙杉山僧正に誘われて天狗(幽冥)界を訪れ、彼らから呪術を身につけたという少年寅吉(下谷池の端で夜駕籠渡世をする庄吉の弟。後にそちらで高山白石平馬の名を授かる)からの聞書きをまとめたものである。別名「仙童寅吉物語」とも言う。私は若い時から、複数の版本で読んできたが、妄想作話型ではなく、意識的詐欺がパラノイアに高じたものとして、現在は全く評価しない。篤胤は彼を最初に保護していた雑学者山崎美成(よししげ)から強引に引き連れ、数年住まわせて聴き取りを行っている。ファナティクな篤胤は仕方がないにしても、馬琴を怒らせて絶交されてしまう若造ブイブイ高慢の美成がマンマと騙されているのは、痛快ではある。柳田の言うように、寅吉の語る一見整然とした異界の体系は閉鎖系自己完結型であり、検証のしようが一ヶ所もない点で(疑問や不審を問うと寅吉は決まって不機嫌になり、黙ってしまうのであった)、お話にならないのである。そうした類話を民俗学的に紹介した、私の『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 天狗の話』を見られたいが、柳田國男は明治の科学的ゴースト・バスター井上圓了を嫌っており、分析がフォークロア擁護に偏向していて、今一、好きになれない。寧ろ、個人的には、柴田宵曲が、淡々と怪奇談を紹介した「妖異博物館」の中の「天狗の誘拐」の「(1)」「(2)」「(3)」がお薦めである。それ以外にも、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅰ」や、同「怪奇談集Ⅱ」にもワンサカあるが、ある程度読むと、ステロタイプに飽きてくるので、紹介はこれに留める。]

2024/09/11

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 蟻と鷓鴣

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「ありとしやこ」。]

 

      蟻 と 鷓 鴣

 

 一匹の蟻が、雨上りの轍(わだち)の中に落ち込んで、溺れやう[やぶちゃん注:ママ。]としてゐた。その時、一羽の鷓鴣の子が、丁度水を飮んでゐたが、それを見ると、嘴《くちばし》で拾ひ上げ、命を助けた。

 「此の御恩はきつと返します」と蟻が云つた。

 「わたし達はもうラ・フオンテエヌの時代にゐるのではありません」と懷疑主義者の鷓鴣が云ふ「勿論あなたが恩知らずだと云ふのではありません。が、わたしを擊ち殺さうとしてゐる獵師の踵《かかと》に、あなたはどうして食い附くことができます。今時の獵師は素足で步きませんよ」

 蟻は、餘計な議論はしなかつた。そして、急いで、仲間の群《むれ》に加はつた。仲間は、一列に並べた黑い眞珠のやうに、同じ道をぞろぞろ步いてゐた。

 處が、獵師は遠くに居なかつた。一本の樹の蔭に、橫向きになつて寢てゐた。彼は、件《くだん》の鷓鴣が、刈つた秣《まぐさ》の間で、ちよこちよこ、餌を拾つてゐるのを見つけた。彼は立ち上つて、擊たうとした。すると、右の腕がむずむずする。鐵砲を構え[やぶちゃん注:ママ。]ることができない。腕が、ぐつたり垂れる。鷓鴣は獵師が取り直すのを待つてゐない。

 

[やぶちゃん注:「鷓鴣」まず、和名「シャコ」は、狭義には、キジ科キジ亜科Phasianidaeシャコ属Francolinusに属する鳥を言い(本属は本邦には棲息しない)、広義には、キジ科の中のウズラ( Coturnix 属)よりも大きく、キジ( Phasianus 属)よりも小さい鳥類をも言う。但し、原作では“perdreau”(ペルドロー)とあり、これは一般的に、フランスの鳥料理で、キジ亜科ヤマウズラ Perdix (本属も本邦には棲息しない)、及び、その類似種の雛を指す語である(親鳥の場合は「ペルドリ」“perdrix”)。食材としては“grise”(グリース。「灰色」という意味)と呼ぶヤマウズラ属ヨーロツパヤマウズラ Perdix perdix と、“rouge”(ルージュ。「赤」)と呼ぶアカアシイワシャコ Alectoris rufa (同属もキジ亜科)が挙げられ、特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる後者が、上物として扱われることが、昨年の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蟻」』の注の再検討の最中に新たに知り得たので、特にお知らせしておく。

「ラ・フオンテエヌ」十七世紀のフランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine 一六二一年~一六九五年)。「イソップ寓話」を元にした「寓話詩」( Fables :一六六八年刊)で知られる(有名なものに「北風と太陽」「金のタマゴを産む牝鶏」などがある)。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、注があり、その『『寓話詩』のなかに、おぼれかかったありを救ったはとを、ありがあとですくって恩返しをする話がある(二の一二)』とある。

 なお、この話は、“ Histoires Naturelles ”(初版は一八九四年)の一九〇四年版で採録されたものの、一九〇九年版では削除されている(一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の後注に拠った)。ルナールは、あまりに寓話臭さが強過ぎるので、後年、気に入らなくなってしまったものかも知れない。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 枸𣏌

 

Kuko

 

くこ    地骨 拘棘 苦𣏌

      天精 甜菜 地仙

枸𣏌  枸檵 西王母杖

      仙人杖  羊乳

      却老【和名沼美久須里

ケ゚ウ キイ     俗云久古】

[やぶちゃん字注:「𣏌」は「杞」の異体字。以下同じ。]

 

本綱拘杞春生苗其莖幹高四五尺作叢此物小則刺多

大則刺少大者高𠀋餘其葉如石榴葉軟薄堪食六七月

生小紅紫花隨結紅實形微長如棗核【陝西及甘州之產爲上】甘州

者子圓如櫻桃暴乾緊小少核乾亦紅潤甘美如葡萄可

作果食異于他處者搾油㸃燈明目

苗葉【苦甘凉】 除煩益志補五勞七傷去皮膚骨節閒風消

 熱毒散瘡腫作飮代茶

枸𣏌子【甘】 堅筋骨耐老除風去虛勞補精氣治心病心

 痛腎病消中滋腎潤肺

 四神丸【治腎經虛損眼病昏花或雲瞖遮睛】枸𣏌子一斤【好酒潤透】分作四分

 四兩【用蜀椒一兩炒】四兩【用脂麻一兩】四兩【用小茴香一兩炒】四兩【用川棟肉一兩

[やぶちゃん字注:「棟」は「楝」の誤刻。訓読では訂した。]

 炒】㨂出枸𣏌加熟地黃白术白茯苓【各一兩爲末】煉𮔉丸服用

[やぶちゃん字注:[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。「术」は「朮」の異体字だが、紛らわしいので、訓読では正字の「朮」に代えた。「煉」は「グリフウィキ」のこれだが((つくり)が「東」)、表示出来ないので、「煉」とした(後も同じ)。以上の通り、本項では、(つくり)が「柬」であるべき異なった漢字が、悉く、「東」となっていることから、これは良安の誤りではなく、版の彫師が勝手にそうしてしまった可能性が大である。先行するものの多くはちゃんと「柬」となっているからである。


 ぢこつひ

地骨皮  枸𣏌根皮也

        【似物形狀者爲上】

氣味【廿淡寒】 入足少陰手少陽經解有汗骨蒸肌熱瀉腎

[やぶちゃん注:「蒸」は底本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「蒸」で示した。]

 火降肺中伏火退熱補正氣治吐血療金瘡凡下焦肝

 腎虛熱者宜之

【世人伹知用黃岑黃連若寒以治上焦之火黃蘗知母苦寒以治下焦陰火謂之補陰降火久服致傷元氣而不知枸𣏌地骨皮甘寒平補使精氣𭀚而邪火自退之妙惜哉】

[やぶちゃん字注:「若」は「若い」のそれではなく、「苦」の異体字である。紛らわしいので、訓読文では、「苦」に代えた。「𭀚」は「充」の異体字。]

地仙丹 春采拘𣏌葉【名天精草】夏采花【名長生草】秋采子【名拘杞子】冬

 采根【名地骨皮】並陰乾酒浸【一夜】晒露【四十九晝夜】待乾爲末煉

 𮔉凡如彈丸大毎朝晚各用一丸細嚼以百沸湯下之

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

【伹無刺味甜者宜用有刺者服之無益】能除邪熱明目輕身一老人服之

 壽百余行走如飛髮反黒齒更生陽事强徤

[やぶちゃん字注:「徤」「健」の異体字。]

△按枸𣏌【苟起二音俗云久古】地骨皮豫州今治之產良阿州次之

蔓拘𣏌 似蔓而枝靱垂如倭連翹樣其子多而大美

 

   *

 

くこ    地骨《ぢこつ》 拘棘《くきよく》

      苦𣏌《くき》  天精

      甜菜《てんさい》 地仙《ちせん》

枸𣏌  枸檵《くけい》 西王母杖《さいわうぼぢやう》

      仙人杖  羊乳《やうにゆう》

      却老《きやくらう》

      【和名、「沼美久須里《ぬみくすり》」、

ケ゚ウ キイ     俗、云ふ、「久古《くこ》」。】

[やぶちゃん字注:「𣏌」は「杞」の異体字。以下同じ。]

 

「本綱」に曰はく、『拘𣏌、春、苗《なへ》を生《しやうず》。其の莖・幹、高さ、四、五尺、叢《むらがり》を作《なす》。此の物、小きは、則ち、刺《とげ》、多く、大なる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、刺、少し。大≪なる≫者、高さ𠀋餘。其の葉、石榴《ざくろ》の葉のごとく、軟≪かにして≫薄《うすく》して、食ふに堪へたり。六、七月、小≪さき≫紅紫≪の≫花を生じ、隨《したがひ》て、紅《あかき》實を結ぶ。形、微《やや》長くして、棗《なつめ》の核《たね》のごとし【陝西《せんせい》、及び、甘州《かんしう》[やぶちゃん注:現在の甘粛省。]の產、上と爲《な》す。】。甘州の者は、子《み》、圓《まろ》く、「櫻桃(ゆすら)」のごとし。暴乾《さらしほ》≪せば≫、緊《しまりて》、小《ちいさく》≪なれり≫。核《たね》、少《すくなく》、乾《かはき》ても、亦、紅《くれなゐ》≪にして≫、潤《うるほひ》、甘美≪にして≫、葡萄のごとし。果《くだもの》と作《な》して食《くふ》。他處《よそ》の者に異《こと》な≪れ≫り。油を搾(しぼ)り、燈《ともしび》を㸃《ともし》、目を明《あきらか》にす。』≪と≫。

『苗葉《なへば》【苦甘、凉。】 煩《わづらひ》を除き、志《こころざし》を益し、五勞七傷を補《おぎな》ふ。皮膚・骨節の閒《かん》の風《ふう》を去り、熱毒を消し、瘡腫《さうしゆ》を散じ、飮《のみもの》と作《なして》、茶に代《か》ふ。』≪と≫。

『枸𣏌子《くこし》【甘。】』『筋骨を堅《かたく》し、老《おい》≪に≫耐《たえ》、風《かぜ》を除き、虛勞を去り、精氣を補し、心病・心痛・腎病≪の≫消中《しやうちゆう》を治す。腎を滋《やしなひ》、肺を潤《うるほ》す』≪と≫。

『「四神丸《ししんぐわん》」【腎經《じんけい》の虛損・眼病≪の≫昏花《こんくわ》、或いは、雲-瞖《かすみめ》≪して≫、睛《ひとみ》の遮《さへぎ》≪られし≫を治す。】。「枸𣏌子」一斤[やぶちゃん注:五百九十六・九二グラム。一斤は十六両(一両は三・六三グラム)相当。]【好き酒に潤透《よくひたす》。】≪を≫分《わけ》て、四分《しぶん》と作《な》し、四兩【「蜀椒《しよくしやう》」一兩を用ひて、炒る。】、四兩【「脂麻《しま》」を用ふること、一兩。】、四兩【「小茴香《しやうういきやう》」一兩を用ひて、炒る。】、四兩【「川楝《あふち》」の肉、一兩を用ひて、炒る。】。≪而して、≫枸𣏌を㨂出《えらびいだし》、加「熟地黃《じゆくぢわう》」・「白朮《びやくじゆつ》」・「白茯苓《びやくぶくりやう》」【各、一兩、末《まつ》と爲《な》す。】≪を≫、𮔉(みつ)[やぶちゃん注:砂糖を溶かしたもの。]に煉《ね》りて、丸《ぐわん》≪に≫して、服す。


 ぢこつひ

地骨皮  枸𣏌の根の皮なり。[やぶちゃん注:これは良安の添え書き。]

       『【物の形狀に似たる者、上と爲す。】』≪と≫。

『氣味【廿、淡寒。】』『足の少陰≪經≫・手の少陽經に入り、有汗《ゆうかん》≪の≫骨蒸《こつじよう》の肌熱《ひねつ》を解《かい》し、腎火《じんくわ》を瀉《しや》し、肺中《はいちゆう》の伏火《ふくくわ》を降《くだ》し、熱を退《しりぞ》き《✕→け》、正氣《しやうき》を補し、吐血を治し、金瘡《かなさう》を療ず。凡(すべ)て、下焦《げしやう》・肝腎の虛熱の者、之れ、宜《よろ》し。』≪と≫。

【世人《せじん》、伹《ただ》、「黃岑《わうごん》」・「黃連《わうれん》」の苦寒を用ひて、以つて、上焦の火《くわ》を治して、「黃蘗《わうばく》」・「知母《ちも》」の苦寒を以つて、下焦の陰火を治す。之れを、「補陰降火」と謂ひて、久しく服せば、元氣を傷《きず》つくることを致《いたす》≪といふ事となるは≫、知《し》んぬ。而≪れども≫、枸𣏌・地骨皮は、甘寒平補にして、精氣をして、𭀚《み》たし、邪火、自《おのづか》ら、退《しりぞ》くの妙≪あるを≫、知らず。惜しいかな。】[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。なお、以上の割注は「本草綱目」にはなく、引用ではなくて、良安の薬方に附いての注意喚起を期した補正注記である。

『地仙丹《ぢせんたん》』『春、拘𣏌の葉【「天精草《てんせいさう》」と名づく。】を采り、夏、花【「長生草《ちやうさせいさう》」と名づく。】を采り、秋、子《み》【「拘杞子《くこし》」と名づく。】を采り、冬、根【「地骨皮」と名づく。】を采る。並《いづれも》、陰乾《かげぼし》にして、酒に浸すこと【一夜。】、露《つゆ》≪に≫晒《さら》[やぶちゃん注:返り点はないが、かく読んだ。]すこと【四十九、晝夜。】、乾くを待ちて、末《まつ》と爲し、煉𮔉《ねりみつ》[やぶちゃん注:練り飴。]にて、凡そ、彈丸の大いさのごとく≪に成し≫、毎《まい》朝晚(あさばん)、各《かく》、一丸を用≪ふ≫。細《こまか》に嚼《か》み、「百沸湯《ひやくたうゆ》」[やぶちゃん注:何度も沸騰させた湯。]を以つて、之れを下《のみくだす》【伹《ただし》、刺《とげ》、無く、味、甜《あま》き者、宜しく用ふべし。刺、有る者、之れを服すも、益、無し。】。能く、邪熱を除き、目を明《あきらか》にし、身を輕くす。一老人、之れを服して、壽《よはひ》百余≪に至り≫、行≪き≫走≪ること≫、飛ぶがごとく、髮、黒に反《かへ》り、齒、更に生(は)へ、陽事[やぶちゃん注:精力。]、强徤なり。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「徤」「健」の異体字。]

△按ずるに、拘𣏌【「苟《ク》」・「起《キ》」の二音。俗に云ふ、「久古」。】・地骨皮、豫州[やぶちゃん注:「伊予國」。]今治の產、良し。阿州[やぶちゃん注:「阿波國」。]、之れに次ぐ。

蔓枸𣏌(つるくこ) 蔓《つる》に似て、枝、靱(しな)へ、垂れて、倭《わ》の連翹《れんぎやう》の樣《さま》のごとし。其の子《み》、多くして、大きく、美なり。

 

[やぶちゃん注:「枸𣏌」=「枸杞」は日中ともに、

双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense

である(「維基百科」の「枸杞」も確認した)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『東アジア原産のナス科クコ属の落葉低木。荒れ地などに見られ、夏から秋にかけて薄紫色の花を咲かせて、秋に赤い果実をつける。有用植物で、食用や薬用に利用される。北アメリカなどにも移入され、分布を広げている。別名、ウルフベリー』(wolfberry)・『ゴジベリー』(goji berry)。『中国植物名は枸杞(拼音: gǒuqǐ)』。『和名クコは、漢名に由来する。漢名(中国名)で「枸杞」と書き、中国の古書に「枸橘(カラタチ)』(日中同一。双子葉類植物綱ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Citrus trifoliata )『のようなとげがあり、杞柳(コリヤナギ)のように枝がしなやかに伸びるので、枸杞と名付けられた」との記述がある』。『日本の地方により、アマトウガラシ、オニクコ、カラスナンバン、カワラホウズキ、キホウズキ、シコウメ、ノナンバンなどの方言名でも呼ばれている』。『英名のゴジベリーの名が逆輸入され、日本の園芸店でもゴジベリーの名で流通することも多い』。『日本全域(北海道・本州・四国・九州・沖縄)、朝鮮半島、中国、台湾に分布する。平地に分布し、山地には見られない』。『日当たりのよい原野、河川堤防、土手、海岸、市街地や農耕地帯の道ばたなどのやぶに自生しており、人の手が加わりやすく、高木が生えきれない環境によく生える。ある程度』、『湿り気のある水辺の砂地を好む。庭などで栽培もされる。日本では、土手や道ばたのやぶでよく見られるが、かつて一時の漢方薬ブームで頻繁に採取され、見かける数が少なくなった』。『高さ』一~二『メートル』『の落葉広葉樹の低木。暖地では半常緑化している。株元から茎が何本も立ち上がり、弓状に垂れ下がってやぶ状になる。茎は細長く伸びて直立せず、枝は長さ』一メートル『以上、太さは数ミリメートル 』から一『センチメートル』『ほどで、よく分枝して細くしなやかである』。三~四『月ころに芽吹き、枝には葉と、葉の付け根に』一~二センチメートル『程度の棘が互生する。葉身は、長さ』二~四センチメートル『程度の』、『やや先が尖った楕円形から倒披針形で、革質で縁がなめらかで、数枚ずつ集まるように枝から出る。垂直方向以外に地上にも匍匐茎を伸ばし、枝先が地に接すると発根して、同様の株を次々と作って繁茂する』。『葉は、長さ』二~四センチメートル『の倒披針形か長楕円形の全縁で、束生して数個が集まり、葉質は厚く、軟らかで無毛である。葉の付け根には、しばしばとげ状の小枝が生える』。『開花期は晩夏から秋』の七~十一月『で、葉腋から』一~四『個の細い花柄を出し、直径』一センチメートル『ほどの小さな薄紫色の花が咲く。花は鐘形で、花冠は』五『裂する。花から』五『本の長い雄しべが出て、目立つ』。『果実は液果で、花が終わると』、九『月ころに結実し、長径』一~二・五センチメートル『ほどの楕円形で、晩秋に橙紅色に熟す。果実の中に種子が』二十『個ほど入り、一つの種子の大きさは』二『ミリメートル』『弱ほどで、腎円形や楕円形で平たく、種皮は淡褐色で浅い網目模様があり、ざらつき感がある』。『性質は丈夫であり』、『月ころに、しばしばハムシの一種トホシクビボソハムシ』(有翅昆虫亜綱甲虫目カブトムシ亜目ハムシ科クビボソハムシ亜科クビボソハムシ属 Lema decempunctata )『の成虫や幼虫が葉を強く食害したり、何種類かのフシダニ(クコフシダニ』(鋏角亜門クモガタ綱フシダニ科アセリア属 Aceria kuko 他『)が葉裏に寄生して虫癭だらけになったりするが、それでもよく耐えて成長し、乾燥にも比較的強い。また、アブラムシ』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属する「アブラムシ」類でアリマキ(蟻牧)とも呼ぶ)『がついたり、うどんこ病』(子嚢菌門不整子嚢菌綱ウドンコカビ目ウドンコカビ科に属する「うどん粉病菌」。同菌は個々の対象植物体に特化している種が多い)『にかかることも多い』。クコは『一旦』、『定着すると匍匐茎を伸ばして増え続け、数年後には』、『まとまった群落となることが多い。挿し木で簡単に育つ』。『非常に有用な植物で、葉や果実が食用、茶料、果実酒、薬用などに、また根は漢方薬に用いられる。萌芽力が強くて剪定にも耐えるため、庭園樹や生け垣に利用されることがある。挿し木や株分けで、容易に繁殖することができる』。『赤く熟した果実には、ベタイン、ゼアキサンチン、フィサリンなどが含まれ、強壮作用があり、乾燥させたクコの実をホワイトリカーに漬けこんで健康酒としてクコ酒にするほか]、生食やドライフルーツでも利用される。薬膳として粥の具や杏仁豆腐のトッピングにもされる』。『また、柔らかい若葉も食用にされ、軽く茹でて水にとってアクを抜き、お浸し、和え物、油炒め、クコ飯、ポタージュ、佃煮や、生のまま汁の実、天ぷらに調理されたり、サラダや料理のトッピングに利用される。若葉の採取時期は、暖地が』四~五『月ごろ、寒冷地は』五~六『月ごろが適期とされる。アク抜きの際に、水にさらす時間が短いと、葉の色が茶褐色に変色する。若芽は茹でるとよい香りがして、コクのある味わいが楽しめる。成葉は天日で干してお茶代わりにする』。『クコの果実は枸杞子(くこし)、根皮は地骨皮(じこっぴ)、葉は枸杞葉(くこよう)という生薬である。ナガバクコ(学名: Lycium barbarum )も同様に生薬にされる。採取部により、三者三様の生薬名があるが、強壮薬としての効用は同じで、組み合わせで利用されている。葉は』六~八『月ころ、果実と根皮は秋に採取して、水洗いしたものを天日で乾燥させる。葉には、ベタイン、ベータ・シトステロールグルコシド、ルチンなどが含まれ、毛細血管を丈夫にする作用があるといわれる。根皮には、ベタイン、シトステソル、リノール酸などが含まれ、果実とともに滋養強壮の目的で漢方薬に配剤されている』。『民間では、果実、根皮、葉それぞれ』が『服用』されることが『知られている。果実は、食欲がなく下痢しやすい人に合わないことが多く、根皮・葉は冷え症の人に対して禁忌とされている』。『ワルファリンとの相互作用が報告されている。食品素材として利用する場合のヒトでの安全性・有効性については、信頼できるデータが見当たらない』。しかし、薬理効果としては、『血圧や血糖の低下作用、抗脂肪肝作用などがある。精神が萎えているのを強壮する作用もあるとされている。また、視力減退、腰や膝がだるい症状の人、乾燥性のカラ咳にもよいといわれている』。『地骨皮』は『抗炎症作用、解熱作用、強壮、高血圧低下作用などがある。清心蓮子飲(せいしんれんしいん)、滋陰至宝湯(じいんしほうとう)などの漢方方剤に配合される。クコ茶としても親しまれる。糖尿病で夜になると寝汗をかき、足の裏がほてる人によいともいわれている』。『枸杞葉』は『動脈硬化予防、血圧の低下作用などがある。茶料としてクコ茶にする』。以下、「食用」の項。『若芽、葉茎、果実のいずれも食用や果実酒とする。春』(四~六月)『の若芽は、先端の』十センチメートル『を摘み取って、茹でて水にさらし、和え物やお浸しにしたり、生のものをよく洗って天ぷらや炒め物、汁の実として調理される。夏から秋にかけての葉も食用にでき、茹でてお浸しや和え物、生のまま天ぷらにしたり、煮付けて炊いた飯に混ぜて、クコ飯にできる』。九~十『月ころのよく熟れた果実は、よく洗ってホワイトリカーに漬け込み、果実酒にする。葉や根は細かく刻んで乾燥させ、クコ茶として飲用する』。『また、スーパーフードとして商業的に販売されており、「食べる目薬」』(☜:本項で複数回示される効能である)『などと標榜されている』とあった。

 なお、ウィキの「クコ属」を見たところ、「種」の「日本に分布する種」には、クコ以外には、一種、

アツバクコ(ハマクコ) Lycium sandwicense

挙げられているあるが、そこには、『小笠原の父島列島・母島列島・聟島列島、沖縄の北大東島・南大東島、ハワイ諸島に分布する』とあって、凡そ良安の知り得るフィールドではないので、除外してよい。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「枸杞地骨皮」(並置標題)の非常に長い記載からのパッチワークである([088-50a]以下)。

「沼美久須里《ぬみくすり》」小学館「日本国語大辞典」によれば、「ぬみぐすり」「ぬみくすね」とし、『植物「くこ(枸杞)」の古名』とし、「十卷本和名類聚鈔」を初出とするが、別に植物の芍薬(ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含む)の古名ともする。

「石榴《ざくろ》」日中ともに、フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum

「棗《なつめ》」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「櫻桃(ゆすら)」前にも出たが、この良安の読みは――完全なるハズレ――であるので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

×バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

「油を搾(しぼ)り、燈《ともしび》を㸃《ともし》」クコの実の油を灯油に用いたという記載はネット上では見出せなかった。但し、多くの食用油でも高温で着火はするから、あり得ないことではないか。何時か、「クコの実油」を買ってきて、やってみるに若くはないか。

「煩《わづらひ》」東洋文庫に割注して『(熱気があって頭が痛む症)』とあった。調べたところ、これは「說文」に出ていた。

「志《こころざし》」精神・神経。

「五勞七傷」東洋文庫の後注に、『心労・肝労・脾労・肺労・腎労など五臓が疲労し、それによって陰寒・陰萎・裏急・精漏・精少・精清・小便苦尿の病症の出ること。』とあった。「裏急」は腹直筋の緊張が下腹部にまで及ぶ腹痛で、前に同訳で『しぶり腹』としていた。「精清」は精液が薄いことか。「小便苦尿」は排尿障害か。

「皮膚・骨節の閒《かん》の風《ふう》」これは広義のリウマチを指すものと思われる「消中《しやうちゆう》」東洋文庫の後注に、『便秘し、小便は黄赤になって頻尿になる。精血が傷つけられておこる。』とある。

「四神丸《ししんぐわん》」五行思想の四神に基づく命名である。「漢方と鍼灸 誠心堂薬局」公式サイトのここに「四神丸」があり、

   *

 効果効能 下痢、食欲不振、消化不良、腹痛、足腰のだるさ、四肢の冷え

 配合生薬 肉豆蔲(ニクズク)、補骨脂(ホコツシ)、五味子(ゴミシ)、呉茱萸(ゴシュユ)

 出典    《証治準縄》に記載がある。

 方意と構成 脾と腎を温めて下痢を止める「二神丸」と、腸を温めて収斂させる「五味子散」を合わせたものが四神丸である。

 脾腎を温めて益する補骨脂が主薬であり、同じく脾腎を温め下痢を止める肉豆蔲 <温腎暖脾・渋腸止瀉>、寒邪(冷えの病邪)や水湿を去る呉茱萸<温中散寒・除湿> 、収斂して下痢を止める五味子がこれを補佐する<酸斂固渋>

   *

とあったが、「配合生薬」は、各個、調べて見たが、孰れもクコ基原のものではない。というより、ここで時珍が挙げた基原植物は孰れも、厳密には、当てはまらない。古方か。

「腎經《じんけい》」足の少陰腎経。「翁鍼灸治療院」公式サイトのこちらによれば、『腎経は脾経の三陰交穴で交わるという説と』、『生理周期を月信と言い、この経穴が生理不順に有効的という意味の説もある』とあった。

「昏花《こんくわ》」東洋文庫の後注に、『熱毒で花弁のようなかげりが瞳に出て、視力のなくなること。』とある。

「蜀椒《しよくしやう》」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum の果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つ。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。

「脂麻《しま》」現行の中国語ではシソ目ゴマ科ゴマ属 Sesamum を指す。

「小茴香《しやうういきやう》」セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。現在は英語の「フェンネル」(Fennel)の方が通りがよい。我が家の猫額庭にも二メートルにもなるものが鎮座ましましておる。食用には、ほぼ全草が用いられるが、薬用には果実が使用される。通常は「茴香」であるが、全く異なる、一般に中華料理で知られる「八角」=アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属トウシキミ Illicium verum を「大茴香」と呼ぶことから、区別して「小茴香」とも呼ぶ。但し、ウィキの「トウシキミ」(唐樒)によれば、『トウシキミの果実は、ふつう』八『つの角をもつ星形をしているため八角とよばれ』、『また』、『その風味がアニス(セリ科)とも似ているため、スターアニス(star anise)ともよばれる』。『また』『、この風味はウイキョウ(茴香、セリ科)にも似ているため、果実または植物そのものは八角茴香』『や大茴香ともよばれる』。『ウイキョウやアニスは系統的にはトウシキミと縁遠いが、精油としてアネトール』(anethole:芳香族化合物の一種)『をもつ点で共通している』という点では、縁があるのである。

「川楝《あふち》」「楝」「おうち」は、日中ともに、

双子葉植物綱ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach var. subtripinnata

である。

但し、中国では、漢方薬の基原植物としては、同属の、

トウセンダン  Melia toosendan

である。詳しくは、先行する「楝」を見られたいが、今回、「維基百科」の「苦楝」を精査したところ、「用途」の箇所に『稱川楝素(Toosendanin)』という記載を見出せた。

「熟地黃《じゆくぢわう》」生地黄を酒と一緒に蒸して作った生薬。但し、酒が含まれるため、性は寒が殺がれて温に近くなる。

「白朮《びやくじゆつ》」は中国原産で本邦には自生しない双子葉植物綱キク目キク科オケラ属オオバナオケラ Atractylodes macrocephala の根茎を乾したものを狭義の基原とする浙江省などで生産されるものを指す(草体の画像はサイト「東京生薬協会」の「季節の花(東京都薬用植物園)」の「オオバナオケラ」を見られたい)。ここはそれである。なお、本邦では、別に、日本の本州・四国・九州、及び、朝鮮半島・中国東北部に分布する同オケラ属オケラ Atractylodes lancea を基原とするものを、特に「和白朮」と呼ぶが(草体の画像は当該ウィキを参照)、現行では、この二種を一緒にして「白朮」と称している。効能は、主として水分の偏在・代謝異常を治す。従って、頻尿・多尿、逆に小便の出にくいものを治す、と漢方サイトにはあった。

「白茯苓《びやくぶくりやう》」「茯苓」は菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa を基原とした生薬名。ウィキの「マツホド」によれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から』、『見当をつけて』、『先の尖った鉄棒を突き刺し』、『地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃より』、『おがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるため』、殆んど『見ることはできない』。『日本は』、『ほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーの』「ツムラ」(「夕張ツムラ」)との『協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ているとあった。而して、「白茯苓」であるが、「ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「茯苓(ブクリョウ)」を見たところ(コンマを読点に代えた)、『茯苓は古来』、『「赤茯苓」と「白茯苓」の』二『種があったことが記されています。陶弘景が「赤は瀉し,白は補う」としたのが』、『その最初ですが、李時珍は「赤は血分に入り、白は気分に入るもので、それぞれ牡丹皮や芍薬の場合と同じ意義である」とし、薬効的にはそれほど大差はないと考えています。赤・白の差はおそらく肉質の色であると考えられますが、これについても未だ定説がないようです。実際の市場品には純白に近いものからかなり着色したものまであります。今後の研究が待たれます』とあった。

「物の形狀に似たる者」これは如何にも動物或いは人骨に形状が似た根の塊りの意であろう。

「足の少陰≪經≫」東洋文庫の割注に『(腎経)』とある。則ち、「足の少陰腎經」が正しいことになる。先行する「肉桂」の私の注を見られたい。

「手の少陽經」東洋文庫の後注に、『手の薬指からおこり腕を上って肩に行き、鎖骨上高から乳房の中間に行き、そこで心包』(しんぽう:漢方で言う心臓と、それらを取り巻く包括的なものを指す。一般に「心肺と関連するものは心包にあり」と言われる)『につながり、腹部に至って三焦』(既出既注だが、再掲すると、三焦(さんしょう:漢方医学で六腑の一つとされるものの、「三焦」に限っては、機能はあるが、特定の臓器形態を持たないとされる。現行の知見では「リンパ管」「リンパ系」が相似的対象と考えられている)の内、「上焦」は鳩尾(みぞおち)より上部の「心・肺」を、「中焦」は鳩尾から臍に至る、主として胃部にあたる部分で「脾・胃」を、「下焦」は臍から下の部位に当たり、腎・膀胱・大腸・小腸などを支配するとされる、漢方の全くの仮想臓器である)『に帰する。支脈は乳の間から鎖骨上高に行き、頂部に上り、そこから耳』の『後に達し、耳の上をまわって頰(ほお)から目の下に行く。もう一つの支脈は耳』の『後から耳中に入り、耳の前に出て頰に行き目尻に終る。足の少陰腎経は巻八十二肉桂の注』『参照』とある。最後の部分は前注のリンク先を見られたい。

「有汗《ゆうかん》」強い発汗を伴うことの意であろう。

「骨蒸《こつじよう》」東洋文庫の後注に、『骨蒸身体内部に熱があり、骨が蒸されるように感じる。結核の主要症状の一つ。』とある。

「腎火《じんくわ》」体内の火熱を冷ます機能が弱くなっているために、相対的に生じる内熱は「虚火」であり、これを「腎火」とも称する。

「黃岑《わうごん》」キク亜綱シソ目シソ科タツナミソウ属コガネバナ Scutellaria baicalensis の根の周皮を取り除き、乾燥させたもの。

「黃連《わうれん》」小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensisCoptis deltoidea の根茎を乾燥させたもの。

「黃蘗《わうばく》」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense 。先行する「黃蘗」の私の注を見られたい。

「知母《ちも》」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides の根茎の生薬名「知母」。当該ウィキによれば、『中国東北部・河北などに自生する多年生草本』『で』、五~六『月頃に』、『白黄色から淡青紫色の花を咲かせる』。『根茎は知母(チモ)という生薬で日本薬局方に収録されている』。『消炎・解熱作用、鎮静作用、利尿作用などがある』。「消風散」・「桂芍知母湯」(ケいしゃくちもとう)・「酸棗仁湯」(さんそうにんとう)『などの漢方方剤に配合される』とある。

「齒、更に生(は)へ」、前の歯が抜けた結果、それまで押さえつけられて、出てこれなかった「親知らず」が、すんなりと生えてきただけのことであろう。たまたま、先般、公開した『「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 長岡郡山田村與樂寺住持之歯』で同じ見解を示した。

「蔓枸𣏌(つるくこ)」クコの個体の内、蔓状に枝が茂っている(よく地面を這っている個体を見かける)ものを言っているに過ぎない。

「連翹《れんぎやう》」本邦で言うシソ目モクセイ科Forsythieae連レンギョウ属レンギョウ Forsythia suspensa は、中国原産で、江戸初期に植物体は渡来している。しかし、中国の漢方生薬「連翹」の基原植物は、一般には、中国原産の同属シナレンギョウ Forsythia viridissima の成熟果実を、一度、蒸気を通したのち、天日で乾燥したものを指すとされる。生薬扱いしたのは、良安がわざわざ「倭の連翹」と言っているからで、実際の植物体としてのシナレンギョウを見ていないから、かく言わざるを得ない、ということは、当然、植物体ではなく、加工された果実の生薬としての生薬体で比較していると、とるしかないのである(シナレンギョウの日本への渡来は大正末期である)。では、日本に在来種のレンギョウ属はいないかというと、中国地方の、代表的なカルスト台地である岡山県北西部の阿哲台(あてつだい:深草縁夫氏のサイト「日本すきま漫遊記」の「岡山・水車と鍾乳洞を巡る(6日目)」に載る地図を見られたい)、広島県北東部の帝釈台(阿哲台の南西にある広島県庄原市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど:グーグル・マップ・データ)にある)といった石灰岩地の岩場などに選択的に植生するヤマトレンギョウ Forsythia japonica と、小豆島のみに植生するショウドシマレンギョウの二種があるのであるが、孰れも、現在、絶滅危惧種に指定されている。私は、良安が言っているものが、正規の在来種の分布が非常に限定されているヤマトレンギョウやショウドシマレンギョウであるとは思えないのである。少なくとも、この在来種二種を良安が実際に現認したとは、私には、まず、絶対に思えない。但し、以上の記載で最も参考にさせて戴いた「公益社団法人日本薬学会」公式サイト内の「シナレンギョウ」のページには、全く異なる基原植物説の追加記載があって、『中国の古い本草書には「湿り気のあるところに生育している草本植物」との記載があることから,連翹はオトギリソウ科のオトギリソウやトモエソウの仲間を指すという説もあります』とあることを言い添えておく。オトギリソウは、キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属オトギリソウ Hypericum erectum であり、トモエソウは、同じオトギリソウ属トモエソウ Hypericum ascyron である。なお、以上の記載には、別にサイト「Arboretum」の「ヤマトレンギョウ」のページも参考にした。]

2024/09/10

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 鶸(ひわ)の巢

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

     (ひわ)  の  巢

 

 庭の櫻の叉になつた枝の上に、鶸の巢があつた。見たところ、それは綺麗なまん丸によくできた巢で、外側は一面に毛で固め、内側はまんべんなく生毛(うぶげ)で包んである。その中で、四つの雛が卵から出た。わたしは父にかう云つた。

 「あれを捕つて來て、自分で育てたいんだけれどなあ」

 わたしの父は、これまで度々《たびたび》、鳥を籠に入れて置くことは罪惡だと說いたことがある。が、今度は、多分同じことを繰り返すのがうるさかつたのだらう。わたしの向つて一口も返事をしなかつた。數日後、私は彼に云つた。

 「しようと思やわけないよ。はじめ、巢を籠の中に入れて置くの。その籠を櫻の木に括《くく》りつけて置くだらう。さうすると、親鳥が籠の目から食ひ物をやるよ。そのうちに親鳥の必要がなくなるから」

 わたしの父は、此の方法について、自分の考へを述べようとしなかつた。

 さう云ふわけで、わたしは籠の中に巢を入れて、それを櫻の木に取り附けた。わたしの想像は外《はづ》れなかつた。年を取つた鶸は、靑蟲を嘴《くちばし》にいつぱい咬《くは》へて來ては、わるびれる樣子もなく、雛に食はせた。すると、わたしの父は、遠くの方から、わたしと同じやうに面白がつて、彼等の花やかな往《ゆ》き來《き》、血のやうに赤い、また硫黃《いわう》のやうに黃色い色の飛び交ふ樣を眺めてゐた。

 或る日の夕方、わたしは彼に云つた。

 「雛はもう可なりしつかりして來たよ。放しといたら飛んで行つてしまふぜ。親子揃つて過ごすのは今夜つきりだ。あしたは、家の中へ持つて來る。僕の窓へ吊《つる》しとくよ。世の中に、これ以上大事にされる鶸はきつとないから、お父さん、さう思つてゐておくれ」

 わたしの父は、此の言葉に逆はうとしなかつた。

 翌日になつて、わたしは、籠が空になつてゐるのを發見した。わたしの父も、そこにゐた。わたしのびつくりしたのを見て知つてゐる。

 「もの好きで云ふんぢやないが」――わたしは云つた。「どこの馬鹿野郞が此の籠の戶を開けたのか、そいつが知りたいもんだ」

 

[やぶちゃん注:「鶸」「父」等については、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鶸(ひわ)の巢」』の私の注を見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 森田日向占

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

     森田日向(もりたひうが)占(うらなひ)

 森田日向は、拍子(ひやうし)を聞(きき)て占(うらなふ)に、十にして、九つは、能(よ)く合(あは)せたり。

 若き時は、木履屋町(ぼくりやてう)に居(をり)て、商(あきなひ)ける故、「木履太夫(ぼくりだいふ)」と異名を呼(よば)れぬ。

 門前に、用水の流(ながれ)、有(あり)て、大松を、二本、植(うゑ)、此松の本(もと)にて、每朝、垢離(こり)を取(とり)て、祈禱をする。

 第一、御上々(おんうへうえ)の御長久(おんちやうきう)を祈念する事、數(す)十年、一日も怠らざりし事、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]て、

『奇特。』

に被思召(おぼしめされ)、於御郡方(こほりがたにおいて)、御褒詞(ごほうし)に預(あづか)りぬ。

 或時、久松屋久助(ひさまつやきうすけ)方(かた)へ來り、咄(はなし)の序(ついで)に、いふ。

「人の卜(うらなひ)をすれども、未(いまだ)、我身(わがみ)の卜を不仕(つかなつらず)。手を打(うち)て給(たまは)れ。占ふて、見ん。」

といふ。

 久助、手、拍(うち)ければ、幾つも、うたせて、能く聞(きき)、卜(うらなひ)て、いふ。

「扨々(さてさて)、殘多事也(のころおほきことなり)。何も不殘(のこらず)候。古松(ふるまつ)、一本、殘るべし。」

と、いひしとかや。

 是より、十ヶ年も過(すぎ)、豊(ゆたか)に暮して、終(をは)りぬ。

 其子(そのこ)も、業(なりはひ)を續(つづ)て、卜(うらなひ)けるが、親に劣りて、段々、衰微せしが、寛政七年乙卯(きのとう)八月、大洪水、眞如寺橋、臺(だい)、押切(おしきり)、潮江上町(しほえかみてう)、數(す)十軒、流失、溺死、數人、有(あり)。

 日向が家も流れ、子も、一人、溺死して、十年前に占ひしごとく、松、一本、殘れり。

 

[やぶちゃん注:「森田日向」不詳。

「木履屋町(ぼくりやてう)」この町名の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名勝志」訂正第三版(寺石正路著・昭和五(一九三〇)年富士越書店刊)の「高知市」のパートのここに(左ページの後ろから四つ目の「」の項。下線は底本では「●」の右傍点)、

   *

木履屋町通(ぼくりやてう[やぶちゃん注:左ルビ。]) 播磨屋橋(はりまやばし)より潮江橋(うしほえばし)に至る昭和三年道路を擴張し電車を通し北は鐵道高知驛より南は棧橋(さんばし)に至る高知市中第一の文化道路(ぶんかだうろ)たり。

   *

という記載で判明した。現在、この(グーグル・マップ・データ)、「JR四国高知駅」北口から「はりまや橋」を経て、「潮江橋」を渡り、南東方向に向かう「とさでん桟橋線」の終着駅「桟橋通五丁目駅」までのルートを指している。少なくとも、潮江橋までは「はりまや通り」と記されている。ここが、旧「木履町」と考えられる。

「寛政七年乙卯八月」

「眞如寺橋」現在ある天神大橋(グーグル・マップ・データ)の前身であろう。この附近は、今までの複数篇で、「眞如寺」・「潮江天滿宮」を含め、さんざん検証してきた場所である。

「潮江上町」現在の高知市天神町(てんじんまち:グーグル・マップ・データ)。潮江橋南詰西直近。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 五加

 

Ukogi

 

むこぎ    文章草 追風使

       五花 五佳 白刺

五加     木骨 𧲣𣾰 𧲣節

       金鹽

       【和名無古木

ウヽ キヤアヽ    今宇古木】

[やぶちゃん字注:「𧲣」は「豺」の異体字。]

 

本綱五加以爲藩蘺春生苗又于舊枝上抽條葉莖葉俱

青作叢赤莖高三五尺上有黒剌葉生五釵作簇者良也

三四葉者最多爲次每一葉下生一刺三四月開白花結

青子至六月漸黒色其根若荊根皮黃黒肉白色其葉作

蔬食去皮膚風濕

五加皮【辛温】 根皮也治疝氣腹痛療躄益精堅筋骨釀酒

 飲治風痺四肢攣急仙家最重之造酒用根皮去骨莖

 葉亦可也以水𤋎汁和麹釀米加遠志更良【遠志爲使惡玄参】

[やぶちゃ字注:「𤋎]は「煎」の異体字。]

△按五加挿枝能活其根爲藥者阿波丹波之產良金剛

 山之者次之

 

   *

 

むこぎ    文章草 追風使

       五花《ごくわ》 五佳 白刺《はくし》

五加     木骨《もくこつ》 𧲣𣾰《さいこく》 𧲣節

       金鹽《きんえん》

       【和名、「無古木《むこぎ》」、

ウヽ キヤアヽ    今、「宇古木《うこぎ》。】

[やぶちゃん字注:「𧲣」は「豺」の異体字。]

 

「本綱」に曰はく、『五加《ごか》、以≪つて≫、藩蘺《ませがき》と爲《なす》。春、苗を生《しやう》じ、又、舊枝(ふる《えだ》)の上に、條葉《えだは》を抽《ぬきんで》て、莖・葉、俱《とも》に青し。叢《むらがり》を作《な》す。赤≪き≫莖≪にて≫、高さ、三、五尺。上に黒き剌《とげ》、有《あり》。葉、五釵《ごさ》≪を≫生じ、簇《むれ》を作《なす》者、良《りやう》なり。三《みつ》、四葉《よつば》の者、最《もつとも》、多し《✕→きを》、次と爲《なす》。一葉《ひとは》每《ごと》[やぶちゃん注:「每一葉」は三字熟語の「-」の記号が入るが、私の判断で返して読んだ。]の下《つけね》[やぶちゃん注:東洋文庫訳のルビを採用した。]に、一刺《いつし》を生ず。三、四月、白≪き≫花を開き、青≪き≫子《み》を結ぶ。六月に至りて、漸《やうや》く、黒色≪たり≫。其の根、「荊(いばら)」の根のごとく、皮、黃黒《きぐろ》≪く≫、肉、白色《なり》。其の葉、蔬《そ》[やぶちゃん注:「蔬菜」。]と作《な》して食へば、皮膚≪の≫「風濕《ふうしつ》」[やぶちゃん注:現在のリウマチ。]を去る。』≪と≫。

『五加皮《ごかひ》【辛、温。】』『根の皮なり。疝氣・腹痛を治し、躄(こしぬけ)を療す。精を益し、筋骨を堅くす。酒に釀(つく)り、飲めば、風痺《ふうひ》・四肢≪の≫攣急《れんきふ》[やぶちゃん注:四肢の筋肉が引き攣(つ)ってしまい、運動不能となる症状。]を治す。仙家《せんか》、最も之れを重《おもん》ず。酒に造るに、根の皮を用ひ、骨《ほね》[やぶちゃん注:根の主幹部分。]を去る。莖・葉も亦、可なり。水を以《もつて》、𤋎汁《せんじじる》≪となして、≫麹《かうぢ》を和して、米を釀(かも)す。「遠志《をんじ》」を加へて、更《さらに》良し【「遠志」≪は≫「使《し》」と爲す。「玄参《げんさん》」を惡《い》む。】。』≪と≫。

△按ずるに、五加、枝を挿して、能く、活(つ)く。其の根、藥と爲すは、阿波・丹波の產、良し。金剛山《こんがうさん/ざん》の者、之れに次ぐ。

 

[やぶちゃん注:「五加」は、

双子葉植物綱バラ亜綱セリ目ウコギ科ウコギ属 Eleutherococcus

の総称である。しかし、「維基百科」の「五加属」には二十種が列記されてあり、その内、

Eleutherococcus divaricatus

のみ、中文名がない。調べてみると、「三河の植物観察」の「ケヤマウコギ 毛山五加木」のページで、

ウコギ属ケヤマウコギ Eleutherococcus divaricatus

とあり、シノニムとして Acanthopanax divaricatus が並置されている。別名を「オニウコギ」とし、『在来種』であって『北海道、本州、四国、九州、朝鮮』とあって中国には分布しないらしい。良安の言う「五加」の有力候補の一つとなる。

 而して、そ「維基百科」の「五加属」の殆んどは、中国固有種であるのだが、「刺五加 Eleutherococcus senticosus 」がアジア北東とシベリア一帯に分布し、

「异株五加 Eleutherococcus sieboldianus 」とあるのが、日本及び中国の安徽省等に分布する

とあった。この

 Eleutherococcus sieboldianus は和名「ヒメウコギ」

で、当該ウィキには、『中国原産で、日本各地にも分布する』。『日本へは古い時代に中国から薬用として渡来し』、『救荒植物として民家の垣根や庭などに植えられていたが』、『近年は庭木としてあまり植えられておらず』、『やぶ、荒れ地、山麓などに野生化したものが見られる』とあった。因みに、東洋文庫訳の解説内の「五加」に『(ウコギ科ヒメウコギか)』と推量割注がしてあるが、

日中で共通する種であるから、複数のウコギ類の中で、このヒメウコギが、矛盾を生じない最有力候補の一つ

ではあることになろう。

 ところが、学名の属名に問題があることが、最後になって発覚したのである。「日本メディカルハーブ協会」公式サイト「MEDICAL HERB LIBRARY メディカルハーブ事典」の「Plant Doctorエゾウコギの植物学と栽培」によれば、『 Eleutherococcusという属名は、かつてはウコギ属ではなくエゾウコギ属に充てられ、その当時のウコギ属はAcanthopanaxであり、ウコギ属とエゾウコギ属とは別属に分類されていました』。しかし、『その後、エゾウコギ属をウコギ属Acanthopanaxに含める分類が発表されましたが、Eleutherococcusという属名がAcanthopanaxよりも早く命名されていることから、ウコギ属の属名としてはEleutherococcusを用いるべきとする考えが定着しました』。『現在、World Flora Online』(注に『The Plant Listを引き継ぐかたちで、ミズーリ植物園、ニューヨーク植物園、王立植物園エジンバラ、王立植物園キューの』四つの『植物園によって』二〇一二『年に立ち上げられ』、二〇二〇『年から公開されている植物リストのオープンアクセスデータベース』とあった)『ではAcanthopanaxEleutherococcus(ウコギ属)のシノニムとされ、消滅しています。一方で、日本を含む東アジアではエゾウコギを含むウコギ属の学名としてAcanthopanaxが長く用いられてきたことから、日本の図鑑では今でもこの属名を採用しているものが多く見られます』とあったので、

ウコギ属は、 Eleutherococcus ではなく、 Acanthopanax とするのが正しい

と読める。因みに、このページを発見したのが、この冒頭注を書き終わろうという、一番、最後だったのだが、そこには『表1Eleutherococcus(エレウテロコックス属、ウコギ属)の主要な植物』という項で、恐ろしく膨大な各種データが詳細に書かれている。ウィキの「ウコギ属」何するものぞ! という素晴らしい記載である(その当該ウィキには属名変更の記載はどこにもないのだ!!)。是非、そちらの詳細な種の説明を読まれたい。まあ、しかし、取り敢えず、ウィキの「ウコギ属」を引いてはおく(注記号はカットした)。『落葉性の高木または低木。葉は長枝に互生し、短い枝には束生する。普通』五『枚、ときに』三『枚の小葉からなる掌状複葉で、小葉の縁には鋸歯がある』。五~六『月頃に、短枝の先に花柄を出して、多数の花を散状につける。幹には鋭い棘があり、エゾウコギは細い棘を密生する。多くは雌雄異株で、日本を含む東アジアに約』四十『種知られる。ヒメウコギは、日本のは雌株だけで、果実はつかない』。『日本で一般にウコギと称される植物は、別名でムコギ、ヒメウコギともよばれている中国原産の種で、生け垣などにされる落葉低木である。日本で昔は栽培されていた種とみられているが、一部は野生化している。栽培は、前年に伸びた枝を切り取って、春先の発芽前に挿し木して、梅雨期に日当たりと水はけのよい土地に植えて、肥培される』。『平安時代中期に編纂され、現存する日本最古の薬学書に列する本草学辞典』「本草和名」『(ほんぞうわみょう)、同じく日本最古の漢和対訳百科事典に列する』「和名類聚抄」『(わみょうるいじゅしょう)の解説によれば、ウコギは中国原産と見られる外来種の五加(ウーチァ)であると記されており、現在使用されるウコギの和名漢字「五加木」「五加皮」はこれに由来している。また』、「本草和名」『では牟古岐(むこぎ)と読ませたヒメウコギが紹介されている』。『ヒメウコギやヤマウコギは薬用植物として、根の皮部を五加皮(ごかひ)と称して生薬にする。この根の皮は鎮痛、強壮、強精に用いられ、ホワイトリカーに漬けて、五加酒(五加皮酒)にもできる。五加皮は秋の落葉期に掘り採った根を水洗いし、皮を剥いで刻み、天日乾燥して調製したものである。腰以下を温める効果があり、民間療法では、関節痛、腰痛、インポテンツ、足のむくみに』『水で煎じて』『服用する用法が知られている。根の皮の成分にメトキシサリチルアルデヒドを含み、特有の芳香を発散し、その他パルミチン酸、リノール酸などの脂肪油を含んでいる』。『ウコギ(ヒメウコギ)の新芽は食用にでき、軽く茹でて和え物やお浸しに、生の若葉を刻み入れた炊き込みご飯(ウコギ飯)などに調理されたり、硬くなった葉を天日乾燥して茶料にできる。 ウコギ科Araliaceae『に分類される他属同様、ウコギ属の数種も可食種として古来より広く民間利用された植物の』一『つであり』、慶長八(一六〇三)年『発刊の』「日葡辞書」『でもVcoguiとして「根は薬用に、葉は和え物に、幹は酒に用いる」と記されている事実からもそれを窺い知れる。また、幹に棘を持つ性質から垣根としても普及しており』、元禄四(一六九一)年『に松尾芭蕉門人にして蕉門十哲の』一『人に数えられる立花北枝が発刊した俳諧書』「卯辰集」(うたつしゅう)に、『李東を号する俳人が「おもしろき盗みや月のうこぎ垣」と詠んだ句が収められている』。『莫大な借金返済と国庫潤滑に生涯を捧げた米沢藩第』九『代当主上杉治憲(後の上杉鷹山)の財政改革に端を発し、折からの凶作に伴う飢饉を予見して特命を帯びた』家臣『莅戸善政』(のぞきよしまさ)『が実践・執筆した野食指南書』「かてもの」にこそ』、『万能植物たるウコギは紹介されなかったが、生育条件に適していた地の利を活かしてそれに準ずる食材確保の目的で生垣に利用するよう奨励した。これにより、山形県米沢市では今でも生垣を備える一般家庭の大半でヒメウコギを常育し、春から初夏にかけて新芽を摘んで食べる文化が根付いている』。以下、「ウコギ属の種」の項があるが、先に示した「日本メディカルハーブ協会」公式サイト「MEDICAL HERB LIBRARY メディカルハーブ事典」の「Plant Doctorエゾウコギの植物学と栽培」の方が詳しく、全面信頼も出来るので、カットする。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「五加」の記載のパッチワークである([088-47a]以下)。

「文章草」意味不明。但し、「本草綱目」で名づけた別名である。

「追風使」同前。これは「圖經本草」(北宋の嘉祐六(一〇六一)年に大常博士蘇頌(そしょう)が完成し、翌年に刊行された薬図と解説からなる全二十巻の勅撰本草書に載る名である。

「五花」同前。これは「炮炙論」出典とする。六朝時代の五世紀に修治法を集大成した「雷公炮炙論」(らいこうほうほうしゃろん)。

「五佳」同前。「本草綱目」での別名。

「白刺」全く同前。

「木骨」前掲「圖經本草」出典。

「𧲣𣾰」「神農本草經」出典。「𧲣」=「豺」の漢字は、中国では食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus を指す。和異名は「アカオオカミ」。何故、この漢字を使ったかは不明。棘(とげ)と関わるか。

「𧲣節」「別錄」出典。漢の成帝の治世の時、数名の学者の協力を得て、宮廷の秘府の蔵書の校定に従事した劉向(りゅうきょう)が、一つの書物毎に、篇目を個条書きにし、内容を掻い摘んで作成した書籍解題。

「金鹽」「本草綱目」では出典を「仙經」とあるので、出典は道教の経典のようである。

「藩蘺《ませがき》」既に何度もこの漢字表記と読みで良安はルビしている。小学館「日本国語大辞典」では『はんり』として、『藩籬・籬・樊籬』と示し、特にそのまま、総て『まがきの意』とする同辞典で、「藩」は『かきね、かこいの意』とする。

「五釵《ごさ》」葉をつける小枝が先で五つの股に分かれるということで、「五加」の「五」はこれに由来すると考えてよい。

「荊(いばら)」これは特定植物を指すのではなく、棘(とげ)のある木の総称。

「疝氣」漢方で「疝」は「痛」の意で、主として下腹痛を指す。「あたばら」などとも言う。

「躄(こしぬけ)」この漢字は本来は「足萎え」で、足の立たないことを指すので、「腰抜け」は重なるとも言えなくないが、腰は正常でも、両足が不自由である障碍者を指すという意味では、相応しくない和訓である。

「風痺《ふうひ》」東洋文庫訳に割注で、『(全身だるく』、『痛みがあちこいに走る症)』とある。

「仙家《せんか》」羽化登仙を最終目標とする道士。

「遠志《をんじ》」ヒメハギ科 Polygalaceae の多年草であるマメ目ヒメハギ科ヒメハギ属イトヒメハギ Polygala tenuifolia (糸姫萩)の根の漢方生薬名ウィキの「イトヒメハギ」によれば、『中国東部から東北部原産。花期は』五~七『月頃で淡藍色の花を咲かせる』。『開花期の根は遠志(オンジ)という日本薬局方に収録された生薬であり、去痰作用がある。帰脾湯、加味帰脾湯、人参養栄湯などの漢方方剤に使われる。脳の記憶機能を活性化し、中年期以降の物忘れを改善する効果もある』とある。なお、生薬としての「オンジ」の独立したウィキもあるので、見られたいが、そこに漢方名について、『オンジ(遠志)は古来より物忘れなどに効果があるとされ、初心を呼び起こし、志を遠くに持つための薬草として、「志が遠大になる」ことから名づけられたと言われている』とあった。

「使《し》」主になる漢方生薬の効果を助ける副薬物を指す。

「玄参《げんさん》」ウィキの「ゴマノハグサ」(シソ目ゴマノハグサ科ゴマノハグサ属ゴマノハグサ Scrophularia buergeriana )の「利用」の項に、『根を乾燥させたものを漢方薬で玄参(ゲンジン)といい、のどの病気に薬にするという』『が、ゴマノハグサの中国名は、北玄參という』。(☞)『真正の玄参は、同属のオオヒナノウスツボ』(大雛の臼壺: Scrophularia kakudensis )『に近いScrophularia ningpoensis 』『(中国名、玄參)』『の根をいう』とあった。「維基百科」で検索したところ、同学名を挙げた「玄参」を見出せた。それによれば、『ゴマノハグサ属には約二百種が存在する。北半球の開けた森林地帯に自生し、植物体は背が高く、大きな分岐した花序に紫・薄緑、または黄色の花が咲く。昔は痔の治療に使用されていたため、英語名は「痔草」』(英文名は記されていない。”hemorrhoid grass”か?)『を意味する。中国の浙江省と四川省に分布する』とあった。

「金剛山《こんがうさん/ざん》」「葛城嶺」(かづらきのみね)・「金剛山地」とも呼ぶ。現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境界にある、標高千百二十五メートルの山地。グーグル・マップ・データ航空写真で示しておく。]

2024/09/09

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 豚と眞珠

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。]

 

      豚 と 眞 珠

 

 草原に放すが否や、豚は食ひはじめる。その鼻は決して地を離れない。

 彼は柔らかい草を選ぶわけではない。一番近くにあるのにぶつかつて行く。鋤鍬《すきくは》のやうに、または盲《めくら》の土龍《もぐら》のやうに、行き當たりばつたりに、たゞ前へ前へと押して行く。よく鼻が草臥《くたび》れない。

 それでなくても漬樽《つけだる》のやうな形をした腹を、もつと丸くすることより考へてゐない。天氣がどうであらうと、そんなことは一向おかまひなしである。

 肌の生毛(うぶげ)が、正午の陽ざしに燃えやう[やぶちゃん注:ママ。]としたことも平氣なら、今また、霰《あられ》を含んだあの重い雲が、草原の上に擴《ひろ》がりかぶさらうとしてゐても、そんなことには頓着しない。

 鵲(かさゝぎ)は、それでも、彈機(ばね)仕掛けのやうな飛び方をして逃げて行く。七面鳥は生籬《いけがき》の中に隱れてゐる。そして、幼々《よはよは》しい仔馬は柏《かし》の木蔭に身を寄せてゐる。

 然し、豚は食ひかけたものゝある所を動かない。

 彼は一口も殘すまいとする。

 彼は、いくらか大儀になつたらしく、尻尾を振らない。

 雹《ひやう》がからだにパラパラと當ると、やうやく、それも不承々々唸《うな》る。

 「うるせえやつだな、また眞珠をぶつけやがる」

 

[やぶちゃん注:本篇の訳は、随所で、岸田氏による、意訳ではなく、確信犯で(やや恣意的とも言える)、日本人に判りやすいものに書き変えられている。例えば、

・第三段落の『漬樽《つけだる》のやうな形をした腹』というのは、原文では“un ventre qui prend déjà la forme du saloir”で、『既に塩漬けに(家で)使う壺のような形になってしまっている腹』の意である。

・第四段落の『霰《あられ》を含んだあの重い雲が、』は、“gonflé de grêle,”で、これはエンディングのシークエンスの『雹』と同じ“grêle”が用いられている。但し、この単語は第一義に「雹」であるが、「霰」をも指す語ではある。フランス語の「雹」相当のウィキは“Grêle”であり、「霰」相当のウィキは“Neige roulée”(「巻いた雪」「ロール状になった雪」「丸めた雪」意)で、後者は二語で、使い勝手は、ちょっと悪い。ルナールなら、ここで「霰」としようと思ったとしても、使わない気はする。ともかくも、岸田は確信犯で、『霰』として、敢えて最後の方を『雹』と訳したのである。それは『眞珠』の洒落を最大限に「大きな真珠」=『雹』を読者に与えるためで、優れた確信犯の訳なのである。

「豚と眞珠」この題名に就いては、一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の注によれば(そこでは標題は『豚に真珠』)、『「豚に真珠」(値うちのわからぬものにりっぱな物をやっても無意味である)ということわざ(『新約聖書』「マタイによる福音書」(七の六)をもじったもの』とある。「ウィキソース」の永井直治氏の一九二八年訳「マタイ傳聖福音(新契約聖書) 」第七章第六節を引く。

   *

犬に聖なるものを與ふる勿れ。また豚ぶたの前に汝等の眞珠を投ぐる勿れ。恐らくは彼等これをその足にて蹈みつけ、ふり返りて汝等を裂かん。

   *

「鵲(かさゝぎ)」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica 。ルナールの作品にはよく登場する。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)」を参照されたい。

「七面鳥」キジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo 『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』の私の注を見られたい。

「幼々《よはよは》しい」としか読めない。通常は、これで「うひうひしい」だが、それでは意味が通らないので、改版が『弱々(よわよわ)しい』としていることから、かく読んだ。これも一種の岸田風の個人的表現である。

「柏《かし》」これはフランスであるから、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とすることは出来ない。本邦のお馴染みの「カシワ(柏・槲・檞)」は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にのみ植生するからである。原文では“chêne”で、これはカシ・カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称である。則ち、「オーク」と訳すのが、最も無難であり、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名は common oakQuercus robur を挙げてもよいだろう。

 なお、後の「博物誌」では、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「豚」』のパートの後に同じく『豚と眞珠』の標題で添えてある。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 牝牛

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「めうし」。]

 

      牝   牛

 

 これがいゝ、あれがいゝと、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]探しあぐんで、彼女には名前を附けないでしまつた。彼女のことはたゞ「牝牛」と呼ばれる。そして、それが一番彼女に應《ふさ》はしい名前であつた。

 それに、そんなことはどうでもいゝ、彼女は食ふものだけのものは食ふのだから――靑草で御座れ、乾草で御座れ、野菜で御座れ、穀物で御座れ、麵麭や鹽に至るまで、何んでも欲しいだけ食つた。何に限らず、何時《いつ》でも彼女は二度づゝ食つた。吐き出してまた食うのだから[やぶちゃん注:反芻を指す。]。

 彼女がわたしを見つけると、輕い細《ほそや》かな足取りで、割れた木靴を引つかけ、肌の皮を、白靴下のやうに脚《あし》の邊《あたり》に張り切らせて走つて來るのである。彼女は、わたしが何か食ひものを吳れると思ひ込んでやつて來るのである。彼女の姿を見てゐると、わたしは、その度每《たびごと》に、『さ、おあがり』と云はないではをられない。

 然し、彼女が呑み込むものは、脂肪にはならないで、みんな乳になる。一定の時刻に、乳房が一杯になり、眞四角になる。彼女は乳を永く溜めて置くと云ふことができない――永く溜めて置く牝牛もあるが――護謨のやうな四つの乳首から、一寸おさへただけで、氣前よくありつたけの乳を出してしまふ。彼女は足も動かさなければ、尻尾も振らない。が、その大きな柔らかな舌で、乳を搾る女の背中を舐めるのである。

 獨り暮しであるにも拘はらず、盛《さかん》な食慾が彼女の退屈を忘れさせる。最近に生み落した犢(こうし)のことを思ひ出して、啼くやうなことも稀れである。たゞ、彼女は人の訪問を悅ぶ。額の上ににゆつと生えた角、一筋《ひとすぢ》の涎《よだれ》と一《ひ》とすべの草とを垂らした、御馳走に飽きたらしい唇とで、愛想よく迎へるのである。

 怖いものなしと云ふ男達は、そのはぢ切れさうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獸(けもの)がそんなにおとなしいのを見て驚く。そして、彼女の愛撫だけには、まだ氣をゆるさないにしても、それがどんなに樂しいかと云ふことについて空想をめぐらすのである。

 

[やぶちやん注:この最終段落は、改版では、『こわいものなしという男たちは、そのはち切れそうな腹を撫でる。と、女どもは、こんな大きな獣(けもの)がこんなにおとなしいのを見て意外に思う。それで、まだ用心をしなければならないのは、例の愛撫だけということになる。そして彼女らは幸福の夢を描くのである。』で、未だ、日本語としては、やや、ぎくしゃくしている。原文がルナールによって改訂増補されており、補正決定版の戦前の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「牝牛」』の訳では、『男たちは、怖(こは)いものなしだから、そのはち切れそうな腹を撫でる。女どもは、こんな大きな獸(けだもの)があんまりおとなしいので驚きながら、もう用心するのも、じやれつかないやうに用心するだけで、思ひ思ひに幸福の夢を描くのである。』となっていて、この方が自然体で、すんなりと、意味が採れる。以下に、本底本の原文を示しておく。

   *

     LA VACHE

   Las de chercher, on a fini par ne pas lui donner de nom. Elle s’appelle simplement « la vache » et c’est le nom qui lui va le mieux.

   D’ailleurs, qu’importe, pourvu qu’elle mange ! et l’herbe fraîche, le foin sec, les légumes, le grain et même le pain et le sel, elle a tout à discrétion, et elle mange de tout, tout le temps, deux fois, puisqu’elle rumine.

   Dès qu’elle m’a vu, elle accourt d’un petit pas léger, en sabots fendus, la peau bien tirée sur ses pattes comme un bas blanc, elle arrive certaine que j’apporte quelque chose qui se mange, et l’admirant chaque fois, je ne peux que lui dire : Tiens, mange !

   Mais de ce qu’elle absorbe elle fait du lait et non de la graisse. À heure fixe, elle offre son pis plein et carré. Elle ne retient pas le lait, — il y a des vaches qui le retiennent, — généreusement, par ses quatre trayons élastiques, à peine pressés, elle vide sa fontaine. Elle ne remue ni le pied, ni la queue, mais de sa langue énorme et souple, elle s’amuse à lécher le dos de la servante.

   Quoiqu’elle vive seule, l’appétit l’empêche de s’ennuyer. Il est rare qu’elle beugle de regret au souvenir vague de son dernier veau. Mais elle aime les visites, accueillante avec ses cornes relevées sur le front, et ses lèvres affriandées d’où pendent un fil d’eau et un brin d’herbe.

   Les hommes, qui ne craignent rien, flattent son ventre débordant ; les femmes, étonnées qu’une si grosse bête soit si douce, ne se défient plus que de ses caresses et font des rêves de bonheur.

   *]

2024/09/08

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 比江村百姓狼之毒

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。狼の恐ろしさの関連で前話と直連関する怪異譚である。特に冒頭に第一話は、ちょっと聞いたことがない悲惨な結末である。]

 

      比江村百姓狼之毒(おほかみのどく)

 比江村の百姓、先年、大旱(おほひでり)にて、夜分に、田へ、水を仕掛(しかけ)に行(ゆき)、田に臥(ふし)て居(をり)ける。

 其所(そのところ)は、山に近き所にて、尋常、夜分、狼(おほかみ)など來りける。

 右の者、臥(ふし)たる上を、山犬(やまいぬ)、來り、飛越(とびこ)しに、

『何やら、「ひやり」と、かゝりし。』

と、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しに、半身(はんしん)、痒(シビレ)、口、噤(つぐ)み[やぶちゃん注:喋ることが出来ず。]、手足も、半身、屈(カヾミ)て、用に不立(たたず)、世渡(よわたる)手業(てわざ)も難成(なしがたく)して、終(つひ)に乞食と成(なり)けると也。

「惣(そう)じて、山犬に逢ふたる時、つまづき轉(ころば)ぬが、肝要也。山犬、跡(あと)・先(さき)へ行(ゆき)、若(もし)も、ころびぬれば、必ず、其上を、飛(とび)またぎ、小便を、しかくる。」

と、いへり。

「小便、かゝれば、一躰(いつたい)、すくむ。」

と也。

 又、

「穢火(ゑくわ)を食して[やぶちゃん注:「穢れた火」ではなく、「穢れたもの(四足獣や蛇等であろう)を焼いて喰らって」の意であろう。]、山中を行けば、山犬、付(つく)る。」

と、いふ。

「先年、幡多郡(はたのこほり)上山の鄕士北次郞左衞門と云(いふ)者、穢火を食ふて、宿(やど)へ歸(かへり)けるに、山犬、三、四疋も、附來(つききた)り、跡へ、成(なり)、先へ、なりて、自分の家近くまで、附來(つけきたり)けるが、自分の犬、吠(ほえ)ければ、附(つき)、のきける。」

と也。

 

[やぶちゃん注:またしても、「近世民間異聞怪談集成」の判読のレベルの低さに呆れた。「噤み」の「噤」の字を、「喋」と起こしている。意味を考えても、読めないのは中学生でも判るぞ! しかも、崩し字は非常に綺麗なもので、国立公文書館本を見ても(42)、崩し字とは言えないはっきりした「噤」である。こんなのは、古文書のド素人でも間違えない! どう逆立ちしたら、こんな字起こしが出来るんダッツーの!!!

「比江村」現在の高知県南国市(なんこくし)比江(ひえ)。

「水を仕掛(しかけ)に行(ゆき)」これは、水を水路から引く仕事ではなく、周縁の百姓が水路を操作して盗みにくるの夜警するための行動であろう。

「幡多郡(はたのこほり)上山(かみやま)」複数回既出既注だが、再掲すると、「幡多郡」は高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。その「上山(かみやま)」は、現在の高知県の四万十川上流の山間部に位置する、概ね大部分は、現在の高知県高岡郡四万十町(しまんとちょう)昭和や、その南東直近にある高知県高岡郡四万十町大正などを含む広域山間部の旧称である。]

「鄕士」これも再掲する。土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きも、ひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。

「北次郞左衞門」不詳。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 﨑之濵鍛冶之祖母

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。標題は「さきのはま、かぢの、そぼ」と訓じておく。]

 

     﨑之濵鍛冶之祖母

 野根山(のねやま)の伏木といふ大木、近年、倒(たふ)れて、今に、有(あり)。

 此(この)木は、昔、奈半利(なばり)の女、㙒根(のね)へ行(ゆき)、道半(みちなかば)にて產(さん)せし時、飛脚、行(ゆき)かゝりて、產婦を、揚げ置(おき)し木也。

 山犬(やまいぬ)、夥敷(おびただしく)來りし時、飛脚、山犬を、悉く、切伏(きりふせ)ければ、山犬が云(いふ)、

「﨑濵の『鍛冶(かぢ)が婆々(バヾ)』を呼來(よびきた)れ。」

と言(いひ)しより、須臾(しゆゆ)の內(うち)に、大(おほ)山犬、來りしを、是をも切(きり)たりしより、此女、難を遁(のがれ)つる事、昔咄(むかしばなし)に言傳(いひつた)へし事也。

 其(その)鍛冶が居宅(きよたく)の跡、﨑濵、田中に、「石ぐろ」にしてあり。

「今、鍛冶が子孫は、絕(たへ)て、なけれども、其血緣(けちえん)のもの、男女(なんによ)とも、一躰(いつたい)の毛(け)、逆(さかさ)に生(はえ)る。」

と、いへり。

 手の毛を、下へ撫(なづ)れば、逆立上(さかだちあが)り、上へ撫れば、順(したがふ)なる。」

と、いふ。

「『鍛冶が婆々』の、血緣(けちえん)の、しるし。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「﨑之濵」現在の室戸市佐喜浜町(さきはまちょう:グーグル・マップ・データ)。

「野根山」佐喜浜町の現在の町界を、少し、北へ抜けた、安芸郡北川村(きたがわむら)弘瀬(ひろせ)にある標高九百八十四メートルの野根山(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の国土地理院図の方で標高を調べた。ここは、山犬(絶滅したニホンオオカミと思われる)に襲われるほどの山中であるが、実は、ここには。非常に古くからある旧「野根山街道」があるのである。平凡社『日本歴史地名大系』によれば、この街道は『高知城下から東行して海岸沿いに阿波国に至る土佐街道(東街道)のうち、野根山(九八三・四メートル)を越える奈半利(なはり)』(本文に出るところの現在の安芸郡奈半利町(なはりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ))『から』、『野根』(現在の高知県安芸郡東洋町(とうようちょう))『までの』山越えの『街道をいう。「土佐幽考」は「自奈半利村至野根甲浦、通阿波国那賀郡宍喰村、坂路也、山中行程十里高峻凌雲」と記す』。『野根山越の道は古く、「続日本紀」養老二年(七一八)五月七日』の『条に「土左国言、公私使直指土左、而其道経伊与国、行程迂遠、山谷険難、但阿波国、境土相接、往還甚易、請就此国、以為通路、許之」とあり、この時』、『土佐国府への官道が阿波国から直接土佐に入るルートに変更された。そのルートは異説もあるが、野根山を越える』、『のちの土佐街道(東街道)ともされる。この道も延暦一五年(七九六)には廃され、のちの北山(きたやま)越の土佐街道(北街道)にあたるルートに代えられた』。『しかし以後も』、『野根山越の道は使用されており、承久三年(一二二一)土御門上皇が』「承久の乱」の朝廷方の敗北によって、自ら望んで配流となった『土佐国畑(はた:幡多)』(伝承地はここ)『へ流される途中』、『雪にあい、難渋した折に「うき世にはかゝれとてこそ生まれけめことはり知らぬ我涙かな」と詠じた』(「増鏡」)『のも、野根山越の途中とするのが通説である』とあった。ここに、街道の「一里塚」・「お茶屋場」・「塚ノ塔」の史跡がポイントされている。

「伏木」読み不詳。「ふしき」或いは「ふせぎ」か。伝承内容からは「防ぎ」も利かした後者か。

「鍛冶が婆々(バヾ)」老いた雌の狼であろう。四国には狐は自然分布していなかったとする説が永く支配的であったが、どうも現在では、少数の個体群が自然分布していることが確認されている。但し、本土のような狐憑きの伝承は四国には少ないと思われ、その代りに、古くから「犬神憑き」が、よく知られているのである。狼と野犬は、民俗社会では、明確に弁別されていたわけではないので、相互転換は普通に意識の中で行われていたものと思う。

「﨑濵、田中」現在の佐喜浜町には「田中」という地名はない。「ひなたGPS」の戦前の地図も調べたが、見当たらない。とすれば、これは或いは地名ではなく、一般名詞の「でんちゆう」ではあるまいか? そうすると、以下の「石ぐろ」が、「石畔(畦・壠)」であって、「土の代わりに石を盛り上げた田の境・あぜ」、或いは、「他の中の石で以って小高くなった場所」の意で、躓かないのである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 國澤杦右衞門祖母掌文

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「杦」は「杉」の異体字。標題は「くにざはすぎゑもん、そぼ、てのひらのもん」と訓じておく。]

 

      國澤杦右衞門祖母掌文

 

 國沢杦右衞門の祖母、掌に、「。。」、如此(このごとき)、紋(もん)に似たる、白き文(もん)、有(あり)。

 然(しか)るに、此婦人、國沢氏へ嫁(か)してより、段〻、家、富(とみ)、繁昌(はんじやう)したる故(ゆゑ)、家の「紋」に用ひられし、と也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「國沢杦右衞門」不詳。但し、土佐藩士には、長宗我部家から分かれた「國澤氏」はある。

「。。」は底本では「◦」が正三角形の頂点に配された形。家紋では「三つ星」と呼ぶ。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 南天燭

 

Nanten

 

なんてん   南燭草木 南燭

        惟那木 男犢

南天燭    猴菽草 牛筋

        鳥飯草 染菽

ナンテン チヨツ   墨飯草 楊桐

 

本綱南燭是木而似草故稱草木之王人家多植庭除間

此木至難長初生三四年狀若菘菜之屬亦頗似巵子二

三十年成大株葉不相對似山礬光滑味酸凌冬不凋枝

莖微紫大者高三四尺而甚肥脆昜摧折也七月開小白

花結實成簇生青九月熟則紫色內有細子其味甘酸小

兒食之取汁漬米作烏飯食之健名之青精飯或云其子

赤如丹

枝葉【苦酸濇】 止泄除睡强筋益氣力久服長年令人不饑

子【酸甘】 強筋骨益氣力固精駐顔

△按南天燭【俗云南天】𦘕譜名闌天竹其葉儼似竹生子成穗

[やぶちゃん字注:「𦘕」は「畫」の異体字。]

 紅如丹砂經久不脫植之庭中可避火災甚驗亦可入

 糖𮔉供食

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

 原生山中故性惡濕糞之茶煎滓或注米泔水亦可也

 種子能生其子朱赤色剥皮內白如大豆肉爲二片未

 見紫色內有細子者近頃出子白南燭以爲珍凡用南

 燭葉布於饙飯以檜葉布於饅頭饋之皆以無毒也凡

 此樹雖難長而山陽地有大木作州土州之山有長二

 𠀋余太周一尺二三寸者作枕俗謂邯鄲枕【邯鄲枕事見中華卷】

 以希有之物稱之耳遠州一宮滿山皆南天實盛甚美

 

   *

 

なんてん    南燭草木《なんしよくさうもく》

        南燭

        惟那木《ゐなぼく》

        男犢《だんとく》

南天燭    猴菽草《こうしゆくさう》

        牛筋《ぎうきん》

        鳥飯草《うはんさう》

        染菽《せんしゆく》

        墨飯草《ぼくはんさう》

ナンテン チヨツ   楊桐《やうとう》

 

「本綱」に曰はく、『南燭《なんしよく》は、是れ、木にして、草に似《にる》。故《ゆゑ》、「草木《さうもく》の王《わう》」と稱す。人家に、多く庭除《ていじよ》[やぶちゃん注:庭。或いは、庭と階段。]の間に植《う》≪う≫。此の木、至つて、長《ちやう》じ難《がたし》、初生、三、四年は、狀《かたち》、「菘菜《しような》」の屬のごとく、亦、頗《すこぶ》る、「巵子(くちなし)」に似《にる》。二、三十年にして、大≪きなる≫株と成《なる》、葉、相《あひ》對《たい》せず。「山礬《さんばん》」に似《に》、光滑にして、味、酸《すつぱし》。冬を凌ぎ、凋まず。枝・莖、微《やや》紫。大なる者、高さ、三、四尺にして、甚だ、肥《こえ》、脆《もろく》、摧折《くだけを》れ昜《やす》し。七月、小≪さき≫白花を開き、實を結ぶ。簇《むらがり》成し、生《わかき》は青。九月、熟すれば、則ち、紫色。內《うち》に細≪かなる≫子《たね》、有り。其の味、甘酸にして、小兒、之れを食ふ。汁を取りて、米に漬け、「烏飯《うはん》」と作《な》して、之を食ふ。健《すこやか》なり。之れを「青精飯《せいせいはん》」と名づく。或いは、云ふ、「其の子《み》、赤きこと、丹《に》のごとし。」と。』≪と≫。

『枝葉【苦酸、濇《しぶし》。】』『泄《せつ》[やぶちゃん注:下痢。]を止め、睡《ねむけ》を除き、筋骨を强くし、氣力を益し、久≪しく≫服すれば、長年《ながいき》し、人をして饑《うゑ》ざらしむ。』≪と≫。

『子《み》【酸甘。】』『筋骨を強くし、氣力を益し、精を固(かた)くし、顔《かほ》を駐《とど》む[やぶちゃん注:正常な状態に保つ。東洋文庫訳では『つやつやする』と訳す。]。』≪と≫。

△按ずるに、南天燭《なんてんしよく》【俗に云ふ、「南天」。】は、「𦘕譜《ぐわふ》」に、『闌天竹《らんてんちく》』と名づく。其の葉、儼《たしか》に竹に似《に》≪て≫、子《み》を生《しやう》≪じ≫、穗を成す。紅《くれなゐ》なること、丹砂《たんしや》のごとし。久≪しきを≫經《へ》て、脫(を[やぶちゃん注:ママ。])ちず。之れを、庭≪の≫中に植≪うれば≫、火災を避く。甚だ、驗《げん》あり。亦、糖𮔉《たうみつ》を入れて、食に供す。[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

 原(もと)、山中に生ず。故《ゆゑ》、性、濕《しつ》を惡《い》む。之れに糞《つちか》ふ[やぶちゃん注:肥料を与える。]に、茶の煎滓《せんじかす》、或いは、米≪の≫泔水《とぎじる》を注《そそ》ぐ≪も≫亦、可なり。子《み》を種(まひ[やぶちゃん注:ママ。])て、能く生ず。其の子《み》、朱赤色。皮を剥(は)げば、內《うち》、白≪く≫、大豆《だいず》の肉のごとく、二片と爲《な》る。未だ、紫色にて、內に細≪き≫子《たね》有つ者を見ず。近頃《ちかごろ》、子(み)白の南燭を出《いだ》す。以つて、珍と爲す。凡そ、南燭の葉を用ひ、饙飯(こはめし)に布(し)き、檜の葉を以つて、饅頭《まんぢゆう》を布きて、之れを饋《おく》る。皆、無毒を以つてなり。凡そ、此の樹、長《ちやう》じ難しと雖も、山陽の地には、大木《たいぼく》、有り、作州《さくしう》・土州《としう》[やぶちゃん注:「美作(みまさかの)國」・「土佐國」。]の山に、長さ、二𠀋余、太(ふと)さ≪の≫周(めぐり)、一尺二、三寸の者、有り。枕《まくら》に作り、俗、「邯鄲《かんたん》の枕」と謂ふ【「邯鄲の枕」の事は、「中華」の卷に見ゆ。】。希有《けう》の物を以つて、之れを稱するのみ。遠州《ゑんしう》、「一の宮」は、滿山《まんざん》、皆、南天にして、實《み》の盛り、甚《はなはだ》、美なり。

 

[やぶちゃん注:この項、東洋文庫版では、珍しく後注で、詳細な種同定に係わる内容を載せる(当該書は訳の中で種名まで出すことは、思いの外、少なく、科止まりの割注で示すことが甚だ多い(中国・本邦ともに標準種名と、本文の漢字や読みがほぼ一致する場合、特にそうした簡略処理で済ましている部分が甚だ多い)。以前にも言ったが、日本最初の百科事典の全訳でありながら、ちゃんと標準種名を示さないのは、根本的に不備極まりない仕儀である)。頭の「注一」は省略した。

   《引用開始》

 南燭 『国訳本草綱目』で牧野博士は南燭にシヤクナゲ科シヤシヤンボをあてておられる。しかし、難波恒雄氏は『花とくすり――和漢薬の話』(八坂書房)で、「ナンテンを中国で南天燭、南天竺、あるいは南天竹などと称していたものと思われる」とし、『本草綱目』の図はシャシャンボに似ているが、ナンテン(メギ科)に七も似ており、記事は明らかにナンテンを指していると思われるから、牧野富太郎博士が南燭にシャシャンボをあてているのは信じがたい、とされている。ちなみに北村四郎氏によれば『新註校定国訳本草綱目』の頭注で、『本草綱目』の南燭の記事の中には、ナンテンの説明(蘇頌の説)とシャシャンボの説明(時珍の説)とが混在していると指摘されている。

   《引用終了》

最初の牧野富太郎が植物部を校定したそれは、国立国会図書館デジタルコレクションでは見ることが出来ないが、後の『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳(旧版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部が、国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認出来る。そこでは、本文の標題「南燭」の下方に、旧版で牧野が同定比定した(学名が斜体でないのはママ)、

   *

 和 名 しやしやんぼ

 學 名 Vaccinium bracteatum,  Thumb.

 科 名 しゃくなげ科(石南科)

   *

が記されてあり、罫外頭注に、

   *

 南燭 時珍のは、シャシャンボである。陳嶸『中国樹木分類学』[やぶちゃん注:作者は「ちんこう」と読む:南京・中華農學會一九三七年刊。]九六七ページに寒節[やぶちゃん注:「寒食(節)」のことであろう。古く中国で、冬至から百五日目は風雨の烈しい日として、火断ちをして、煮炊きせずに物を食べた風習。また、その期間。]葉で飯を染めるのはこれであるという。

蘇頌のはナンテンである。『紹興本草』の江州南燭の図はナンテンである。(北村)

   *

とある。「蘇頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。「本草圖經」等の本草書があった(原本は散佚したが、「證類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。時珍は彼の記載を「本草綱目」で、かなり引用している。

 また、難波恒雄「花とくすり――和漢薬の話」(一九八一年八坂書房刊)の当該部も国立国会図書館デジタルコレクションの「ナンテン」の項で視認出来る(当該部分は右ページの八行目以降)。難波氏は同所では、牧野のシャシャンボ説を誤りとし、ナンテンに比定同定している。

 以上から、「本草綱目」自体は、一部に、

△双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科スノキ属シャシャンボ Vaccinium bracteatum

の記載と思われるものがあるものの、総体と、良安の認識は、

◎キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

であると言ってよいだろう。ああっ! 『東洋文庫』! 総ての項で、こうした後注を附して欲しかったなぁ! そうしたら、注の苦しみが半減以下になったのに!!

 まず、「ナンテン」のウィキを引く(注記号はカットした)。同種は一属一種であり、『中国原産で、日本には江戸期以前に伝わった。庭木として植えられ、冬に赤くて丸い実をつける。乾燥させた実は南天実(なんてんじつ)として咳止め伝統医薬とされる』。『和名ナンテンの由来は、中国語の音読み。「南天」は南天竺(なんてんじく)からの渡来の意味で、南天竺とも、南天燭(なんてんしょく)とも、南燭とも書く』(しかし、これでは中国原産がおかしいことになる。「ブリタニカ国際大百科事典」では、『インドおよび中国の原産』とあり、また、フランス語の同種のウィキ(珍しく英語の当該種のウィキがない)では、『東アジア・ヒマラヤ・日本原産』とし、「維基百科」の同種の「南天竹」では、現原産を『中国・日本』するが、孰れも最後の「日本」はアウトだな)。『漢名(中国植物名)は、冬に目立つ赤い果実から灯火を連想して南天燭、また葉や幹の姿が竹に似ることから南天竹(なんてんちく)と名付けられた』。三『枚の葉が特徴的で、古い別名で「三枝」と書いてサエグサと読ませた、あるいはサエグサに「三枝」の字を当てたと和歌山県の博学者、南方熊楠が述べている』(これは南方熊楠の「七月に花咲く庭木」(大一四(一九二五)年七月二十九日から三十一日まで『大阪每日』に連載)正冒頭の「南天」の一節である。国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右ページ二行目以降)で視認出来る。なお、万一、同図書館に本登録しておられない方のために、サイト「私設万葉文庫」の『南方熊楠全集』6(新聞随筆)・一九七三年平凡社刊)で電子化された同随筆の全文が読めることを言い添えておく)。『学名の属名 Nandina は、和名のナンテンがそのまま訛って用いられた。英名の Sacred Bamboo (セイクレッド・バンブー)は、細い幹が株立ちしている様子からの連想、あるいは中国で「聖竹」ともいうところからの直訳とみられている』。『学名の命名者は』一七八一『年に、スウェーデンの植物学者カール・ツンベルク』(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年)『によるものであるが、日本国外の植物学者で日本のナンテンを初めに知り、記録したのはドイツのエンゲルベルト・ケンペル』(エンゲルベアト・ケンプファー Engelbert Kämpfer 一六五一年~一七一六年)『であった。ケンペルはヨーロッパに日本を紹介した』「日本誌」(‘ Geschichte und Beschreibung von Japan ’)『の原著者として知られる人物で』一六九〇年(元禄三年)『に来日して』二『年間』、『滞在したが、ナンテンの記録は発表されなかった』。一七七五年(安永四年)『にスウェーデン人のツンベルクが、表向き』、『当時』、『認められていたオランダ人医師という名目で来日し、その後』、「日本植物誌」(‘ Flora Japonica ’)『を出版した際にケンペルの記録と図を用いた。これが初めてヨーロッパにナンテンが紹介されたものとされている』。『日本では茨城県以西の本州・四国・九州の暖地、山地渓間に自生(古くに渡来した栽培種が野生化したものだとされている)し、観賞用に庭木としてや玄関前などに植えられるなど、栽培されている』。『原産地(中国)のほか、中国南部からインドまで分布する』(正確な原産地指示、遅過ぎ!)。『常緑広葉樹の低木。樹高は』一~三『メートル』『ぐらい、高いもので』四~五メートル『ほどになり、株立ちとなる。幹は叢生し、幹の先端にだけ葉が集まって付く独特の姿をしている。樹皮は褐色で縦に溝がある』。『葉は互生し』、三『回』三『出羽状複葉で、小葉は広披針形で先端が少し突きだし、葉身は革質で深い緑色、ややつやがあり、葉縁は全縁。葉柄の基部は膨らみ、茎を抱く。羽軸、小羽軸に関節があり、園芸種では形や色に変化がある。秋になって葉が黄色、次いで朱色、そして紅色に染まったものも美しく、冬に葉が赤くなる品種もある』。『花期は初夏』の五~六月頃で、『茎の先端の葉の間から、円錐花序を上に伸ばし』、六『弁の白い花を多数つける。雄しべは黄色で』六『本、中央の雌しべには柱頭に紅色が差す』。『果期は晩秋から初冬にかけて』の十一~十二月で、普通は『赤朱色、ときに白色で、小球形の果実をつける。果実は初冬に熟し、果皮は薄く、破けやすい。実の白いものはシロミノナンテンという園芸種で、これもよく栽培されている。果実は鳥に食べられることで、種子が遠くに運ばれて分布を広げる』。『冬芽は赤褐色で鞘状の葉柄基部に包まれているため、ほぼ直接見ることは出来ない。春になると、この葉柄基部が膨らんで、葉芽や花芽を伸ばしてくる』。『日本の庭木としては一般的で、住宅の庭や大きな庭園にも使われる。常緑の葉と赤い果実の色彩が妙で、冬の庭園に彩りを与えている。園芸種も豊富にある。生け花の花材としても用いられる』(私の今の家の旧家の時、裏庭にあって、幼少期から見慣れていたので、好きな樹となった)。『乾燥させた実は薬用として用いられ』、『南天実(なんてんじつ)として咳止め伝統医薬とされる。成分はドメスチン、イソコリジン。和薬(局方外生薬規格)で漢方薬ではない』。『平らに広がった複葉全体の感じが見栄えすることから、料理のあしらい、掻敷(かいしき)に好まれる。料理のあしらいに使われるのは、単に葉の美しさというだけに留まらず、笹の葉と同様に毒消しの意味が大きいとされる』。『材質は堅硬だが』、『生長が遅く』、『太材が得られないため』、『木材として流通することは少ない。しかし読みを「難転」「難を転じる」と解釈して縁起木とされて』、『箸や杖が作られる。また塊根状の地下部分から茶入れ、棗など工芸品が作られる。 まれに大きく育った幹を床柱として使うことがあり、鹿苑寺(金閣寺)の茶室、柴又帝釈天の大客殿などで見られる』。『日本の本州(関東以南)の寒冷地以外では露地植えできるため、庭木として庭先などでよく見られる。繁殖は挿し木で増やすことができ、春の萌芽前に挿すか、梅雨時期に株分けを行う。種子を採り蒔きすれば、容易に発芽する』。『江戸時代に様々な葉変わり品種が選び出された園芸種が盛んに栽培された。古典園芸植物として現在も錦糸南天など』、『一部が保存栽培されている。白い果実をつけるシロミナンテン』( Nandina domestica 'Shironanten')『は薬用に喜ばれ』、『希少価値がある』。『オタフクナンテン』( Nandina domestica 'Otafuku-nanten')『(葉がやや円形なのでオカメナンテンとも)は、葉が鮮やかなに紅葉しやすく実がつかないのが特徴で、高さも』五十センチメートル『程度しか伸びないことから』、『庭園や街路樹としてよく用いられる』。『葉は、南天葉(なんてんよう)または南天竹葉(なんてんちくよう)という生薬で、健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるために危険性は殆どなく、食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる。古くは薬用として下痢止め、あるいは吐剤として不消化物を食べたときに使うなどされた。熊本県旧飽田町(現熊本市南区)では、すり潰したナンテンの葉の汁を濾したものを小麦粉の生地に加えた麺料理「しるかえ」を作る。もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もあり、当初から、殺菌効果があると分かって赤飯に添えられたり、厠(手洗い)の近くに植えられたのかは定かではない』(そうそう! 昔の家の南天は文化便所の外に茂っていたな)『実は、南天実(なんてんじつ)または南天竹子(なんてんちくし)といい』、十一月~十二『月から翌』二『月にかけて』、『実が成熟したときに、果穂ごと切り取って採取し、天日で乾燥して脱粒する。果実に含まれる成分としては、アルカロイドであるヒゲナミン・イソコリジン・ドメスチン(domesticine)・プロトピン・ナンテニン(nantenineo- methyldomesticine)・ナンジニン(nandinine)・メチルドメスチンや、配糖体のナンジノシド(nandinoside)などの他、種子には脂肪油のリノール酸・オレイン酸・フィトステロールや、プロトピン、フマリン酸などが知られている。鎮咳作用をもつドメスチンは、温血動物に対して多量に摂取すると、大脳、呼吸中枢の麻痺作用があり、知覚や運動神経にも強い麻痺を引き起こすため、素人が安易に試すのは危険である。また、近年の研究でナンテニンに気管平滑筋を弛緩させる作用があることが分かった。また、ナンジノシドは抗アレルギー作用を持ち、これを元にして人工的に合成されたトラニラストが抗アレルギー薬及びケロイドの治療薬として実用化されている。脂肪油のリノール酸は、コレステロールの血管への沈着を防ぎ、動脈硬化の予防に役立つ。赤い実も白い実も成分は同じで、薬効は変わらない』。『知覚神経の局所麻酔、運動神経の麻痺作用があることから、鎮咳に有効とされていて、民間療法では、咳、百日咳、二日酔いに南天の実』を『服用する用法が知られている』。但し、喘息の『咳には南天実だけでは止められないので、専門医の指導で漢方薬を用いる必要がある。のどの渇き、黄色い痰の出る人に良いと言われているが、ナンテンは毒性も併せ持つため用量に注意が必要となり、また身体が冷える人への服用は禁忌とされている。扁桃炎や口内炎、のどの痛みには、うがい薬代わりに南天葉』を『煎じた』『液でうがいに用いる。湿疹には、葉を』五十『グラムほどを布袋に入れて、浴湯料として風呂に入れる。かつて、民間では船酔いにナンテンの葉を噛んでいた』。『毒成分』は『ナンテニン、ナンジニン、メチルドメスチシン、プロトピン、イソコリジン、ドメスチシン、リノリン酸、オレイン酸』で、『毒部位』は『全株、葉、樹皮、実、新芽』。『毒症状』は『痙攣、神経麻痺、呼吸麻痺』とある。『「ナンテン」を「難転」すなわち「難を転ずる」とみて、縁起の良い木とされた』。『花言葉も「福をなす」である』(。『俳句では、南天の花は仲夏の季語、実は三冬の季語とされる』。本種は、『縁起物として』、『「(難を転じて)福をもたらす、(災い転じて)福となす」と続けて、福寿草や葉牡丹と一緒に鉢植え(根を張るように)にしたものを、正月の飾り花として床の間に飾る習慣や、安産祈願の贈りものとされていた。 赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになったという』。『江戸期の百科事典』「和漢三才圖會」『には』、『「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、赤い実が逆に「火災除け」として玄関前に庭木として、縁起木として鬼門または裏鬼門に、あるいは便所のそばに「南天手水」と称し葉で手を清めるため』、『植えられた』。『南天の箸を使うと病気にならないという言い伝えがあり、幼児のお食い初めに使われるといわれる。贈答用の赤飯にナンテンの生葉を載せているのも、難転の縁起からきている』。『邯鄲の枕は唐の沈既済』(しんきさい)『の小説』「枕中記」の『故事の一つであるが、その枕はナンテンの材でつくったとされる。ここから枕の下にナンテンの葉を敷いて寝ると悪夢を払うという言い伝えがある。日本では床にナンテンを敷いて妊婦の安産を祈願したり、武士が出陣前に床に差して、戦の勝利を祈願するためにも使われた』。『活け花などでは、ナンテンの実は長持ちし』、『最後まで枝に残っている。このことから一部地方では、酒席に最後まで残って飲み続け、なかなか席を立とうとしない人々のことを「ナンテン組」という』(これは知らなかった!)。

 さて、次いで、聴き馴れない「シャシャンボ」も同前で当該ウィキを引いておく。漢字表記は『南燭・小小坊』で、『別名は、ナガバシャシャンボ、シャセンボ』。『漢字表記では「小小坊」と書くが』、『これは当て字で、シャシャンボの実際の語源は古語のサシブ(烏草樹)が訛ったものである』。『日本の関東地方南部・石川県以西の本州、四国、九州、沖縄と、朝鮮半島南部、中国、台湾に分布する。暖地の海沿いに生え、やや乾燥したところに多く見られる。庭木としても植えられる。佐世保の地名の由来ともいわれる』。『常緑広葉樹の低木または小高木。日本のスノキ属の植物には小柄なものが多い中で、かなり大きな樹木になるものである』。『枝は当初は細かい毛があるが、やがて無毛となり、白くなる。葉は長さ』二・五~六『センチメートル 』『の楕円形、やや厚い革質で表にはつやがあり、葉脈は』、『ややくぼむので、表面に網目状の溝があるように見える。葉裏の主脈上に小さな突起がある。葉縁には細かい鋸歯がある』。『花期は』七『月頃で、白色の鐘形の花が鈴なりになって咲く。花序は総状で、前年の枝の葉腋から出て、やや横向きに伸び、多数の小さな葉が付いている。果実は直径』五『ミリメートル』『ほどの球形の液果で、黒紫色に熟すと白い粉が吹いて食べることができる。これは同属のブルーベリー類と同じく、アントシアニンを多く含む』とある。因みに、「維基百科」の同種の標題は「南で、こりゃ、ナンテンと混同して、チョーヤバいわ。「」は「燭」の簡体字だもん!

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「南燭」の記載のパッチワークである([088-45a]以下)。

「猴菽草」この「菽」(シュク)はマメ。豆類の総称。ナンテンの実の形からであろう。

「鳥飯草」本文にも「烏飯」と出るが、東洋文庫訳の割注に『道術家』(羽化登仙することを最終目的とする道教の道士)『の食物という』とある。

「菘菜《しような》」う~ん、現代中国語では、こりゃ、アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種ハクサイ Brassica rapa var. glabra 'Pe-tsai' だが、およそ、おかしいなぁ。あと、アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種タイサイ Brassica rapa var. chinensis が中文異名で「小菘菜」なんだが、これって、本邦のインゲンサイやで? ナンテンとは、孰れも似ているとは、逆立ちしても言えん! 判らん! 識者の御教授を乞う!

「巵子(くちなし)」双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ品種クチナシ Gardenia jasminoides f. grandiflora (以上は狭義。広義には Gardenia jasminoides )。先行する「巵子」を参照されたい。

「山礬《さんばん》」双子葉植物綱カキノキ目ハイノキ科ハイノキ属 Symplocos 。本邦産の代表種はハイノキ Symplocos myrtacea ではあるが、限定は出来ない。先行する「山礬」を見られたい。

「青精飯《せいせいはん》」「山梨県立図書館」公式サイト内であろうところの、「レファレンス事例」と思しい「赤飯にナンテンの葉を入れるのはなぜか。」という質問への回答に、『赤飯を贈るときにナンテンの葉を敷く風習は、江戸時代にはあった。赤飯にナンテンの葉を敷くのは、1.ナンテンを難転(難を転ずる)の意とする、2.ナンテンの葉の薬効により食物の腐敗を防ぐ、3.青精飯(せいせいはん)との関連による、などの説がある。』とあり、以下の「調査過程」に(一部引用)、

   《引用開始》

■『世界大百科事典』(平凡社 1988)で「赤飯」を引くが、ナンテンについては記載がない。「ナンテン」「強飯(こわめし)」の項を見るが記載なし。

■『日本民俗大辞典』上(吉川弘文館 1999)で「赤飯」「強飯」を引くが、ナンテンの葉については記載なし。この時、まだ下巻は発行されていず、「ナンテン」については未調査。

■『図説江戸時代食生活事典』(日本風俗史学会編 雄山閣出版 1978)の総索引で「赤飯」を引き、「小豆」の項を見ると、「江戸期の学者によると……。吉事や祝儀に用い、ナンテンの葉を敷くのがならわしであった」とあるが、その理由は記載されていない。

■『古事類苑』植物部一(吉川弘文館 1971)で「南天燭」の項を見るが、関連の記載なし。『広文庫』第14巻(物集高見著 広文庫刊行会 1919)で「南天燭」の項を見ると、「……又仙方に南燭の汁にて飯を製する方ありて、其の名を青精飯という、其の色瑠璃のごとくにてめでたき薬なり、今時人の許に飯を送るに南天の葉を敷くも此の縁なるべし」(「夜光璧」)、「今の俗、赤豆飯を贈るに、南天の葉を志くハ、青精飯の遺意なるべし」(「乗穂録」)とある。また、「……又夏日食物を貯へておくに、南天の葉を掩ひ、下にも葉を志けバ、食物腐る事なく味変ぜず……」(「故実叢書安齋随筆」)などの記載あり。

■「青精飯」について調べる。『大漢和辞典(修訂版)』12巻(諸橋轍次著 大修館書店 1986)によると「青精」は南燭の異称で、青精飯は「……四月八日、南天の枝葉を採って搗いた汁に米を浸し、蒸して乾燥したもの。久しく服用すれば顔色を好くし寿を増すといふ」とある。

   《引用終了》

とあった。

「𦘕譜」東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。

「糖𮔉」砂糖を水に溶かしたもの。

「邯鄲の枕」私が異様に偏愛する作品「枕中記」。私のサイト版の膨大な堆積物である『黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 + 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 + 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』を見られたい。全部を精読するには、半日はかかります。お覚悟を――

『「邯鄲の枕」の事は、「中華」の卷に見ゆ』「卷第六十二本」の「廣平府」の「邯鄲枕(かんたんのまくら)」国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版で示しておく。まあ、前のリンク先をお読みになられたあなたには、全く必要ないと存じます。

『遠州、「一の宮」』遠江国一宮である小國神社(グーグル・マップ・データ)。しかし、いくら調べても、この神社のある山が、全山、南天が生えているという話は、ネット上には、全く見当たらないんですけど?

2024/09/07

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 種﨑浦神母社威霊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   種﨑浦(たねざきうら)神母社(いげのやしろ)威霊(ゐりやう)

 宝氷四年丁亥十月四日の大地震、民屋、轉動、浦々、津浪、入(いり)て流死(ながれじに)數千人(すせんにん)、山岳崒(さんがくすい)[やぶちゃん注:「崒」は「嶮しい」の意。]、崩し、髙山(かうざん)は、忽(たちまち)、谷と成(なり)、深谷(しんこく)は陵(をか)と成(なる)。

 中(なか)にも、種﨑浦は、一草一木(いちさういちもく)、不殘(のこらざり)しに、「神母(ヲイゲ)の社(やしろ)」【イヤガハナ。】のみ、只(ただ)、一社(いつしや)、のこれり。

 

[やぶちゃん注:「種﨑浦」この「種崎」は、浦戸湾の入り口の東北から延びた岬の先端部の高知市種崎(たねざき)である(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。但し、同地区には、「神母の社」に相当するものは、現在は見当たらない。なお、次の注も参照されたい。

「神母(ヲイゲ)の社」ブログ「note」の絢@高知氏の「神母の大楠の下で」によれば(改行多数のため、繋げさせて貰ったが、非常に情感に富んだ素敵な文章なので、総て引用させて戴いた)、『神母と書いて、「いげ」と読む。農耕神、水の神、らしい。神母、いげは、高知県特有の読み方らしい。神母神社という神社が、県内に複数ある。字が先か、音が先かはわからない。でも、母とつくから、女神さまのイメージなんだろうか、とも思う。生命を産み育てる大地の女神』。(以下、「香美市移住定住促進センターブログ」の『いなかみライフ』の『神秘的な地名「神母ノ木」』より引用と最後にある)『香美市地域をご案内していると、「神母ノ木」の読み方を聞かれることがあります。ここは「いげのき」と読みます。この地名が歴史に登場してくるのは江戸時代の文化年間』(一八〇四年から一八三〇年まで)で、『地名の由来は諸説あり、神秘的な雰囲気があるからか、由来について新聞で論戦が繰り広げられたこともありました。この地には「神母(いげ)神社」という神社があります。「神母」と呼ばれる神様は、稲の神、稲を作る田んぼの水の神。その名の由来は、「イ=稲、ゲ=毛で稲の意味」や「池(イケ)⇒イゲ=井」から来ているという説が有力なようです。高知県内には「おいげさん」』(本文の「ヲイゲ」という読みの「ヲ」は「御(お)」のズラしであろう)『と呼ばれる社や祠は』四百『以上あるそうですが』(☜!)、『「神母」は高知特有の単語らしく、日本民俗学の大家である柳田國男も注目したという記録がありました。そして、御神木はその神社の境内にある楠の大木。高さ』十五・五メートル、『枝張り』十九・五メートル、『根回り』五・七メートル、『樹齢』五百『年以上と推定されています』(これは調べたところ、高知県香美市土佐山田町神母ノ木の神母神社である)。一『本の木なのに、まるで森のような迫力があり、香美市指定の天然記念物に指定されています。地名が歴史に登場してくるのは今から』二百『年ぐらい前の話。なので、それよりはるか昔より』、『農耕の神として祀られ、地名にまで関わってきたのではないか、と思わざるを得ません。』(引用終了)『おいげさんとはどうやら、俗に言うお稲荷さんのような存在らしい。稲魂神(ウカノミタマノカミ)、オオゲツヒメ、保食神(ウケモチノカミ)。豊受大神(トヨケノオオカミ)。いろんな想像ができる。神母ノ木という地名の場所に、大きなクスノキがあるのは知っていたが、実際見たことはなかった。近いからいつでも行けると思い、そのまま行かずに三年、ここまできた類だ。このたび』、『県内でもわりと遠くにすむ友達が、所用でこの辺りを通り過ぎるので一緒に行こうと誘ってくれた。地域外の人の気になる場所は地元の人ほど行かない、というのは』、『ままあることだ。樹齢』五百『年あまりと伝えられる大きなクスノキは』、『ふきさらしの河川敷のそばに、御神木らしいのに』、『しめ縄もなく、その、あるがままに立っていた。清々しいほどに、あるがままで、開けっぴろげで、大きな優しい木陰を作っていた』(以下に画像四葉有り)。『上の写真の灰色の人間が私』百六十五センチメートル『である。大きさが想像していただけるだろうか。後ろの青い鉄橋の下に細く青く見える水面は、物部川』(ものべがわ)『という、実はとても大きい川である。わざわざ、ここに来たいといってくれた友達に感謝である。こんなに気持ちのいい場所を知らずに』、『近くで暮らしていた。不覚…』。『河原とは、古来から誰の土地でもない。水が溢れれば、流される場所に、個人の所有物を置く人はいない。不安定である。でも、自由でもある。誰がきても、いい。場所は、たっぷりある。唄っても、おどっても、昼寝しても、釣りをしても、本を読んでも、絵を描いても、青春を叫んでもいい。当初アウトローの文化であった歌舞伎小屋は河原に立つモノだったそうな。歌舞伎役者は河原者と呼ばれたらしい。アートが好きなその友達が唄おうと言ってくれたので、ごくささやかな声で一緒に唄っていたら、ウグイスや他の鳥のさえずりも聞こえた。一緒に唄っているみたいで、楽しかった』。五百『年もの間、この木の下で、沢山の人が唄っただろう。沢山の人を見つめていただろう。こんな守られた風でもない開けた場所で、よくぞ生きていてくれましたと、大きなクスノキに手を合わせた』とあった。試みに、「神母神社」で検索すると、高知市、及び、その周辺の南国市(なんこくし)・高岡郡・須崎市・土佐市に、実に二十にも及ぶ「神母神社」が確認出来る。@高知氏が述べられているように、これが、所謂、田の神(=山の神)系の産土神であるのであれば、これ以外にも、ポイントされていない現存する旧「神母」を祀る像がある可能性は極めて高く、或いは、明治のおぞましき一村一社政策によって、強引に移されて合祀させたもの、或いは、近代化の中で祀られずに消えていった「神母の社」も多かったものと推定されるから、前の種崎地区にも、そのような形で扱われたそれが、あったとして、何ら、おかしくはない。「ひなたGPS」の戦前の「種﨑」地区を見ると、中央の「浦戶灣」側の「」記号の位置には、現行は神社はないから、これも一つの候補となるやもしれない。或いは、現在の種崎にある種崎天満宮の位置は、戦前の位置とは半島の南東に移動しており、或いは、前の消えた神社を含め、この天満宮に合祀された可能性も大いにありそうな話ではある。

なお、絢@高知氏が引用の中で言及されている柳田國男の関心を示した記載というのは、或いは、明治四四(一九一一)年十月十一日夜発信の南方熊楠宛書簡の末尾で、まさに本書を挙げて(国立国会図書館デジタルコレクションの「柳田国男南方熊楠往復書簡集」(飯倉照平編・一九七六年平凡社刊)のここを視認した。太字は底本では傍点。なお、所持する平凡社の「南方熊楠選集」別巻の同往復書簡集には所収していなかった)、

   *

 昨年、土佐の風土記の『南路志』をよみ候に、かの国にては、神母とかきてイゲと呼ぶ神祠きわめて多し。他の国にてはあまり多くきかず。これにつきて何か御心あたりは無之や、伺い上げ候。

   *

というのを指すかと思ったが、さらに調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著の「分類祭祀習俗語彙」(神社本庁編・一九六三年角川書店刊)の「神名集」のここ(左ページ六行目以下)に(太字はママ)、

   *

オイゲサマ  高知県の各地でまつられる小祠。神母と書いている。長岡郡稲生村(現・南国市)ではオサバイサマと同じ神ともいうが、社は別になっている。女の神のことという(大阪民俗談話会報二)。また同村では、神無月にはオイゲサマとコンピラサマが残っているとう。オイゲサマの祭日は旧十月三日、コンピラサマは十月十日である。この二神は疱瘡を病んで器量が悪くなったから、御留守をするのだという(民間伝承一〇ノ一)。人家や田畑の傍に点在する小祠で、周りに樹木があるのが多く、それをイゲバヤシという。組でまつる。新田にありて本田になくニイタサマと呼ぶ小祠と性格は似ているから、開墾に際してまつったものと考えられる(民間伝承二ノ三)。『伊勢浜荻』一に、物忌の夕饌が終わって館へ帰るまでの間に、物を聞いて吉凶を占う風があり、それをタシケヲキクまたはオイゲヲキクといったことが見えている。

   *

と、纏まった記載があったので、こちらであろう。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 雄鷄

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。これらは、後の「博物誌」に結実するものの初期形であり、私は昨年、ブログ・カテゴリ『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「樹々の一家」(+奥書・奥附) / 「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』(全六十八記事)を電子化注しているが、それは、昭和一四(一九三九)年白水社刊の「博物誌」のものを底本としたものであるので、記載の違いや、順列・表現に有意に大きな違いがあるので、電子化する。

 

      雄   鷄

 

       

 

 每朝、泊り木から飛び降りると、雄鷄《をんどり》は「もう一つの」がやつぱりあそこに居るかどうかを見た――「もう一つ」はやつぱりそこにゐる。

 

       

 

 雄鷄は地上のあらゆる競爭者を征服したいと云つて鼻を高くしてもいゝ――が、「もう一つの」、それは手の屆かない處にゐる、勝ち難き競爭者である。

 

       

 

 雄鷄は叫びに叫ぶ。呼びかけ、挑《いど》みかけ、脅《おど》しつける――然し「もう一つの」は、きまつた時間にでなければ答へない。で、それも答へるのではない。

 

       

 

 雄鷄は見得《みえ》を切る。羽を膨《ふく》らす。その羽根は見苦しくない、或るものは靑く、或るものは銀色――然し、「もう一つの」は、蒼空のたゞなかに、目(ま)ばゆいばかりの金色。

 

       

 

 雄鷄は自分の雌鷄《めんどり》をみんな呼び集める。そしてその先頭に立つて步く。見よ、彼女らは殘らず彼のもの、どれもこれも彼を愛し、彼を畏《おそ》れてゐる――が、「もう一つの」は、燕どもがあこがれの主《ぬし》。

 

       

 

 雄鷄はわが身知らずである。彼は、處きらわず、戀の句點を打ちまはる。そして、金切聲を張り上げて、一寸したことに凱歌を奏する――然し、「もう一つの」は、折りも折り、新妻を迎へる。空高く、村の婚禮を告げ知らす。

 

       

 

 雄鷄は妬《ねた》ましげに蹴爪《けづめ》の上に伸び上つて、最後の決戰を試みやう[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の思い込みの誤用の癖。]とする。その尾は、劍《つるぎ》が刎(は)ね上げるマントの襞(ひだ)そのまゝである。彼は、鳥冠(とさか)に血を注いで戰ひを挑む。空の雄鷄は殘らず來いと身構える[やぶちゃん注:ママ。]――然し、嵐に面(おもて)を曝《さら》すことさへ怖れない「もう一つの」は、此の時、微風に戲れながら相手にならない。

 

       

 

 そこで、雄鷄は、日の暮れるまで躍起となる。彼の雌鷄は一羽一羽歸つて行く。彼は獨り、聲を囁《か》らし、へとへとになつて、既に暗くなつた中庭に殘つてゐる――が、「もう一つの」は、太陽の最後の焰を浴びて輝き渡り、澄み切つた聲で、平和な夕(ゆうべ[やぶちゃん注:ママ。])のアンジエルユスを歌つてゐる。

[やぶちゃん注:「囁《か》らし」はママ。「嗄らし」が正しい。「囁」という字は、①に「ささやく」で、②で「言いかけておいて止める・口が動くだけで言葉がはっきりしないさま」の意があり、③で、反対に「べらべら喋(しゃべ)る・喧(かまびす)しい」の意もある。現行、一般に圧倒的に①の用法が殆んどである。②・③の意味は、結果して「声が嗄(か)れる・しゃがれる」ことにはなるのだが、「囁」自体には「声がしゃがれる」とい意はないから、誤用と言わざるを得ない。事実、後に岸田氏は、ここを『嗄らし』と訂している。

「アンジエルユス」Angélus(アンジェリュス:ネイティヴを音写すると「アォンジュリュス」が近い)の鐘。天使(“Angelus”はラテン語で天使の意)によって聖母マリアに受胎告知がなされたことを祝す祈り(朝・正午・夕べの三度、鐘の音とともに行う)で、同時に、この時を告げる鐘の音をも指す。名は、この祈文の初めにある「主の御使(みつかい)」(Angelus Domini)に由来する。Otium氏のブログ「エスカルゴの国から」の「アンジェリュスの鐘」によれば、教会は一日に三度、『この鐘を響かせます』として、①『朝、起きる時間を告げる』(午前六時頃)、②『昼、ご飯を食べに帰るのを促す』(正午頃)、③『夕方、仕事を終えるのを告げる』(午後六時頃)とあり、『なぜアンジェリュスと呼ぶのか?』の項に、『このときのミサのお祈りの言葉が「天使」で始まるからと聞いたことがあります。天使は、フランス語ではangeですが、ラテン語ではangelus』で、『お祈りの初めの文章は、天使がマリアに受胎を知らせる受胎告知の場面で、こんな文章だそうです』。『ラテン語』で『Angelus Domini nuntiavit Mariæ』、『フランス語訳』で『Lange du Seigneur apporta lannonce à Marie』とあって、『私が聞き慣れているアンジェリュスは、まず鐘が』三『つ鳴りだし、ほんの少し時間を置いて、また』三『つ鳴り、それから鐘が賑やかに鳴り響く、というもののように思います』とあって、鐘の音を動画で聴くことも出来る。

 さて。以上を読んで、最早、幼少の読者以外は、「もう一つの」「雄鷄」が教会の上にある「風見鶏」であることは、明白に理解されるであろう。

 ところが、後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「雄鷄」雄鶏(おんどり)』では、冒頭に長い一章があり、そこで、先に、そのネタバレを最初にやらかしてしまっている。

 因みに、本書の本篇では、段落番号はローマ数字であるが、後の「博物誌」では、原文でも、通し番号はなく、「博物誌」は「八」の「そこで、雄鷄は、日の暮れるまで躍起となる。」の冒頭一文が独立連となっているため、全九連構成になっており、(上記リンク債先の最後の原文を参照されたい)。「博物誌」の本原文(標題は“COQ”。本書“ LE VIGNERON DANS SA VIGNE ”では“LE COQ”)は、改行はあるが、空行がない。更に第五連の冒頭部分“Le coq rassemble ses poules, et marche à leur tête.”(「博物誌」の当該訳詞の「雄鷄は自分の雌鷄(めんどり)をみんな呼び集める。そしてその先頭に立つて步く。」の部分)で改行されて独立しているために(リンク先の私の「博物誌」テクストの原文を參照)、都合、全部で十のパートからなつているのである。

 私は、サイト版の「ぶどう畑のぶどう作り」の当該項に注して、『両訳文での大きな相違点はライバルの風見鶏を指す『「もう一つの」』で、これは「博物誌」では「相手」となる。『「もう一つの」』は如何にも特異的限定的な表記・表現で「相手」の方が自然で、正体の漸層的理解から言つてもより生き物的な「相手」の方が効果的と言える』と注したが、今回、よく考えてみると、この初出では、ネタバレがない分、読者が、次第に生きている「雄鷄」に対する、「もう一つの」の括弧書きの「雄鷄」なるものが、何であるかを、最終章「八」で字背に於いて示唆させている構成の方こそが、遙かにアフォリズムとしての卓抜な感動的装置となっていることに、甚だ、共感出来たのであった。「相手」もいいが、「もう一つの」の物質的指示の方が、素直に読んでいる騙され易い読者に対しても、『それは生きている「雄鷄」ではないのでは?』というヒントを親切に暗示しているのだと納得されたのである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 狗骨南天

 

Hiraginanten

 

ひらぎなつてん 俗稱

 

狗骨南天

 

 

△按近頃自賀州山中出異樹其木身皮枝狀似南天燭

 葉亦不甚厚有南天葉樣而有五尖刺兩兩相對一朶

 十二三葉三月開小黃花夏結實似狗骨子而黒色乃

 狗骨與南天相半者

[やぶちゃん注:「ひらぎなつてん」はママ。訓読では、「ひいらぎなんてん」に補正する。]

 

   *

 

ひいらぎなんてん 俗稱。

 

狗骨南天

 

 

△按ずるに、近頃、賀州《がしう》[やぶちゃん注:「伊賀國」。]の山中《さんちゆう》より、異樹を出《いだ》す。其の木、身皮・枝の狀《かた》ち、「南--燭(なんてん)」に似て、葉も亦、甚《はなは》だ≪は≫厚からず。南天の葉の樣(さま)、有(あり)て、五《いつつ》≪の≫尖(とがり)の刺(はり)、有り。兩-兩《ふたつながら》、相對《あひたい》して、一朶《ひとえだ》、十二、三葉≪あり≫。三月、小≪さき≫黃花を開き、夏、實を結ぶ。狗骨(ひ《い》らぎ)の子《み》に似て、黒色なり。乃《すなはち》、狗骨(ひ《い》らぎ)と、南天と、相半《あひなかば》する者なり。

 

[やぶちゃん注:これは、当時、中国から移入されて広がっていた、

双子葉植物綱キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連メギ亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『柊南天』、『別名でトウナンテン、チクシヒイラギナンテン』(「チクシ」は「筑紫」か「千櫛」か?)『ともよばれている』。常緑広葉樹の低木。古い木の幹にはコルク質がある。葉は奇数羽状複葉で、互生し、小葉は硬く、ヒイラギの葉に似た粗い鋸歯はとげ状となる。常緑で落葉はしないが、冬に赤銅色になる部分があり、紅葉のようになる』。『開花時期は』三~四『月』で、『春先に総状花序に黄色い花をつける。花弁は』六『枚あり』、九『枚の萼片も黄色であるので、全体が花弁のように見える。その中にある雄しべは、昆虫などが触れることによる刺激で内側に動いて、花粉をなすりつける』。『果実は液果で、秋に青く熟す』。『中国南部、台湾、ヒマラヤ原産』(☜)。『中国から日本に渡来したのは』十七『世紀末の江戸時代といわれる。人手によって植栽もされ、庭でもよく見られる』。『庭や公園などでよく栽培される。果実を実生として、果肉をとり、植える。果実は食用ではない』。『ヒイラギナンテン属』『には約』六十『種あり、中国から北米・中米にかけて分布する。小葉の細長いホソバヒイラギナンテン』(メギ属ホソバヒイラギナンテン Berberis fortunei )『もよく栽培されている』とある。但し、原産地を以上のように述べているが、「維基百科」の同種のページ「台湾十大功劳」(「」は「労」の簡体字)を見ると、標題に名にし負うように、明確に『原台湾』とはっきり書いてある。しかし、『中国大陸中南部、台湾原産で、日本へは天和(てんな)~貞享(じょうきょう)』(一六八一年~一六八八年)『ころに渡来した。耐寒性はやや弱く、関東地方以西の本州で庭に植え、いけ花に使う。名は、ナンテンの仲間で、葉がヒイラギに似ることによる。近縁のシナヒイラギナンテン』 Berberis bealei 『は中国中部原産で、全体にヒイラギナンテンより大形で耐寒性があり、生育がよい。またホソバヒイラギナンテン』 Berberis fortunei  『は中国原産で、小葉は長披針(ちょうひしん)形で』、五~九『枚が対生し』、九『月』頃、『総状花序に黄色の小花を開く。ともに繁殖は実生』、『挿木、株分けによる。』とある。また、そちらでは異名多く、『老鼠子刺、榕樣南燭、狗骨南天、山黃柏、刺黃柏、黃心樹、鐵八卦、天鼠刺、黃柏、角刺茶、華南十大功勞、日本十大功勞』を挙げている。なお、「十大功劳」はメギ属 Berberis の中文名で、「維基百科」の「十大功劳属」によれば、『同属の植物は民間薬用植物として非常に有名であり、根・茎・葉などの器官が薬として利用され、優れた薬効があるため』とあった。因みに、そちらで『十大功勞屬 Mahonia 』となっているのは、旧分類で「ヒイラギナンテン属 Mahonia 」に区分されていたもので、現行ではメギ属のシノニムである。なお、本書の成立は正徳二(一七一二)年であるから、渡来から三十年で、良安の謂いを素直に受け取るなら、何故か知らぬが、畿内では、伊賀地方に、多く、植栽されたようである。伊賀忍者と関係はありそうには見えぬ。

「南--燭(なんてん)」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica 。次項が「南天燭」である。

「狗骨(ひ《い》らぎ)」先行する「狗骨」を参照されたいが、ここで良安の言っているのは、本邦の「柊」、則ち、シソ目モクセイ科モクセイ連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus なのであるが、そちらの「本草綱目」からの引用での「狗骨」は、「矢羽柊黐」で、双子葉植物綱バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ヤバネヒイラギモチ Ilex cornuta であって、異なるので注意されたい。

2024/09/06

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 鸛知凶事

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     鸛(こふ)知凶事(きようじをする)

 佐川の土居の前に有る杉の二股の所へ、先年、鸛、巢をかけて、子を育(そだて)ける。

 或日(あるひ)、俄(にはか)に、巢を、かへける。

 見る人ごとに、怪(あやし)みけるが、翌日、右の木へ、雷(かみなり)、落(おち)かゝりける、と也(なり)。

 又、先年、松下孫四郞、福井村に在宅して居(を)られし時、或(ある)夕暮に、鸛、巢を、かへけるに、數日(すじつ)の內に、大雨にて、右の木を吹折(ふきをり)けると也。

「鸛の、巢を、髙く、かくる年は、風、吹かぬ。」

といふ事、よし有(ある)事にこそ。

 

[やぶちゃん注:「鸛」博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸛(こう)〔コウノトリ〕」を見られたいが、「本草綱目」の引用にも、『天を仰ぎて號鳴〔せば〕、必ず、雨、有ることを主〔(つかさど)〕る。』とある。

「佐川の土居」読みは判らないが、取り敢えず「さがはのどゐ」と読んでおく。「Geoshapeリポジトリ」の「国勢調査町丁・字等別境界データセット」の「高知県佐川町乙島の土居」(佐川町は「さかわちょう」と読む。字(あざ)地名は、やはり判らないが、「おとしまのどい」と読んでおく)とあるのが、そこであろう。グーグル・マップ航空写真の、この中央部分が、そこである。

「松下孫四郞」不詳。

「福井村」現在の高知市福井町。高知城の北西で、かなり近い。現在は丘陵頭頂部を除いて住宅地になっているが、「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、丘陵の麓にポツポツと家が点在する程度で、北の一部は湿田である。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小髙坂村地中之鰻

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

     小髙坂村地中之鰻

 明和三年、小高坂(こだかさか)「森の明神」の南協、松村貞之丞方に新敷(あたらしき)井を掘(ほり)ける。

 七輪(しちりん)を入(いる)る程の[やぶちゃん注:井戸の直径であろう。]、深き井戶也。

 底より、水、夥敷(おびただしく)涌出(わきで)ける。

 砂を、上(うへ)へ、揚(あげ)けるに、砂の中より、五、六寸斗(ばかり)の鰻、出(いで)ける、と也。

 

[やぶちゃん注:「明和三年」一七六六年。徳川家治の治世。

「小高坂森の明神」この地名(村名)は現在は残っていない。「ひなたGPS」の戦前の地図にある。高知城の真西直近である。この明神社は、現在の高知大学教育学部附属中学校の前身である、高知師範学校の女子部附属中学校が高知市の旧春野町に建設されるため(「ひなたGPS」のここであろう)、西直近の、現在の高知県高知市山ノ端町にある若一王子宮(グーグル・マップ・データ)に移転・合祀されているようである。

「松村貞之丞」不詳。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 安喜郡田野浦地藏

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「安喜郡田野浦」の郡名は「安藝郡」の誤りか。安芸郡田野町は土佐湾に面している(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。しかし、「田野浦」なら、高知県の土佐湾の安芸郡の西南西の対称位置にある幡多(はた)郡黒潮町田野浦がある。「をどり谷」(「踊り谷」?)の地名も、「ひなたGPS」で双方を調べたが、見当たらない。しかし、「大野山」というのが出るが、田野町の地名に「ひなたGPS」で見出せた。グーグル・マップ航空写真で、ここである。中央東に低い丘陵があり、北西方向にやや高い丘陵がある。郡名の誤りとなら、ここの周辺がロケーションである可能性が高いように思われるところだが、「西福寺」は見出せないものの、同寺の「境內田野浦の方に「田野浦大師堂」というのがあるので、如何ともし難い。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。]

 

      安喜郡田野浦地藏

 

 安㐂郡(あきのこほり)田㙒浦へ、寛延[やぶちゃん注:一七四八年から一七五一年まで。徳川家重の治世。]の頃、漁人(ぎよじん)の網に、かゝり、地藏の像を引上(ひきあげ)しに、御長(おんたけ)、二丈[やぶちゃん注:六・〇六メートル。]斗(ばかり)も有(あり)ければ、

「佛頭ばかりを安置せん。」

とて、堂、建立し、廚子(づし)に安置す。

 厨子の寸尺、麁念[やぶちゃん注:ここは「大雑把な計測」の意。]、有(あり)けん、地藏の耳、つかへて、不入(いらざり)しかば、大工源作といふもの、耳を削(けづり)て、安置せし、と也。

 佛頭、凡(およそ)五尺斗(ばかり)、佛體は、久敷(ひさしく)積置(つみおき)たりしを、近年、大㙒山へ埋(うづ)メぬ。

 其所(そこ)を、今、「をどり谷」といふ。

 地藏堂は、西福寺の境內、大師堂の脇に有(あり)。

 異國より、流來(ながれきた)りしものならん。

 大工源作は、耳を削し祟りや有(あり)けん、子に痴獃(アホウ)[やぶちゃん注:「獃」は「呆」の古い字体。]、生(うま)れ、次子(じし)は癩(らい)を病(やみ)て、家、斷絕せし、と也。

 

[やぶちゃん注:「癩」については、何度も注してきた。その中でも最も古い記事である「耳囊 卷之四 不義の幸ひ又不義に失ふ事」の私の「癩」の注を読まれたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 公御判

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「公御判」は「おほやけごはん」と読んでおく。この篇の本文冒頭には罫外に二行割注で『可削』(けづるべし)という除外指示がなされてある。理由は不明だが、この「龍泉院」とは、土佐藩六代藩主山内豊隆(やまうちとよたか 延宝元(一六七三)年~享保五(一七二〇)年(享年四十八)/在位:宝永三(一七〇六)年より没年まで)の戒名であるから、最後の不吉な占いを述べているためであろう。因みに、当該ウィキによれば、彼『は無能であり、兄が登用した山内規重や谷秦山、深尾重方などを次々と処罰してゆき』、時に、宝永四(一七〇七)年十月四日に発生した「宝永地震」で、千八百四十四人(十月二十六日時点での数)の『死者を出すという惨事に見舞われた』『ため、地震の救済に務めながら』「宝永の改革」と『呼ばれる藩政改革に着手したが、効果はなかった。地震の翌年、震災対応のため』、『老中土屋相模守の便宜により』、『豊隆は参勤交代を免除されたが、襲封以来の初の参勤であることと』、『母の病気の見舞いという』、『もっともらしい理由をつけて、震災対応も「大方手合仕」』(おほかたてあはせつまつる)『として、宝永』五『年』年『内に江戸に参勤している。しかし、この大震災が短期間で復興するはずがなく、その行動も土佐藩政史上に名君が少ないとされる一因とされる』とあり、『先代からの重臣たちを次々と粛清したことから』、『評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている』とあるので、自業自得である。因みに、本書は文化一〇(一八一三)年成立である。]

 

      公 御 判

 

 龍泉院樣、

「御判を占はせられ候樣(さふらふやう)に。」

被仰出(おほせいだされ)、御近習(ごきんじゆう)の面々も、判をすえ[やぶちゃん注:ママ。「据う」(ワ行下二段活用)であるから「すゑ」が正しい。]、御判と一つにして、數々(カズかず)、取集(とりあつ)め、丸山藤助、新橋付(づき)、言合(いひあはせ)、江戶の吉川左內方(かた)へ、持參して、見せければ、左內、手水(てうづ)、つかひ、口、すゝぎて、右の判を、掌(てのひら)にのせ、一枚づゝ、一覽しけるに、數々の內(うち)にて、御判をば、床の方、神前(しんぜん)、有(あり)し方(かた)へ、持參(もちまゐ)りて、三度(みたび)、戴き、神前にさし置(おき)、

「扨(さて)。いづれもへ申樣(まうすやう)、御判は外(ほか)の判と一つになる御判にて無御座(ござなき)候。是は、御主人か、又、外(ほか)より御賴(おんたの)まれ有之(これあり)候はゞ、御歷々方(おれきれきがた)の御判と見へ申(まうす)。一國の主(あるじ)とも申(まうす)人の御判にて候。」

と申故(まうすゆゑ)、孰(いづれ)も、おどろきぬ。

「御判の吉凶、如何可有哉(いかがあるべきや)。」

と問(とふ)。

 左內、答へけるは、

「隨分、能き御判にて、御繁昌被成(ならるる)と見え申(まうす)。しかし、こゝに、一つ、不思義[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]なる事、御座候。御家(おんけ)に障礙(しやうがい)をなす事ありて、一旦、御繁昌被成候(なられさふらふ)ても、難(なん)、續(つづき)候。此所(このところ)は、拙者如きの祈禱抔(など)の、及ぶ所にて無御座候。」

とぞ、申(まうし)ける。

 不思義成(なる)事也。

 

[やぶちゃん注:「丸山藤助」不詳。

「新橋付」意味不明。

「吉川左內」不詳。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 ピン

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

     ピ   ン

 

 彼女の許婿《いひなずけ》が戰爭に出掛ける時、ブランシユは、彼にピンを一本贈つた。彼はそれを大事に取つておくと誓つた。

「あなたが、これを僕に下さるのは、きつと、僕があなたを忘れないやうにでしせう」と、ピエールが云ふ。

 「いゝえ」――彼は云ふ「あなたがあたしを忘れないつて云ふことは、もうちやんとわかつてるんですもの」

 「それなら、このピンを持つてゐると、僕に運が向くつて云ふんでせう」

 「いゝえ、あたし、そんな御幣《ごへい》かつぎぢやないの」

 「まあ、よござんす、それはどうでも」――ピエールは云ふ「これがあなたからの贈物であり、あなたが僕を愛して下さる、たゞそれだけで僕は滿足です」

 「あたし、あなたを愛しゐますわ」――ブランシユは云ふ「でも、あたしのピンは、何かあなたの御役に立つことがあつてよ」

 それはさうと、戰場で、ピエールは、左の腕に彈丸(たま)を受けて、その腕を切斷しなければならなかつた。

 「ブランシユはあゝ云ふ女だから」彼は云つた「きつと、氣を利かして、早く結婚したいと云ふだらう」

 彼は後送された。彼の最初の訪問はブランシユの家であつた。彼は、生き殘つたことに誇りを感じながら、いそいそと路の上を步いてゐると、何氣なく自分の空《から》の袖に氣がついた。彼はそれをぢつと見つめてゐた。

 袖は平たくなつてぶらりと下《さが》つてゐる。でなければ、だらしなく右左へゆれてゐる。さうかと思ふと、獸《けもの》の尻尾《しつぽ》のやうに跳ね返つてゐる。

 「いくらかまわないと云つても、此の扮(なり)では一寸滑稽だ」ピエールは云つた。

 殘つてゐる方《はう》の手で、彼はその袖をつまみ上げ、二つに折つて、きちんと肩のところへピンで留めた。

 

[やぶちゃん注:「戰爭」本書の刊行された一八九四年以前、フランスが当事者として戦った戦争は「普仏戦争」だけである。一八七〇から七一年に於いて、プロイセンとフランスの間で発生した戦争で、ビスマルクの巧妙な策略によりプロイセンが連戦連勝し、結果、フランスは賠償金を支払い、アルザス=ロレーヌの大部分を割譲することとなった。パリ開城直前、ベルサイユでドイツ帝国の成立が宣言されている。これによりドイツは統一を完成し、フランスは第二帝政が消滅、第三共和政が成立している。この時、ルナールは未だ六~七歳であった。ルナール自身には戦争体験はない。徴兵は一八八四年、二十歳の時、徴兵検査を受けているが、審査委員会で徴兵延期とされ、翌一八八五年十一月、二十一歳の時、条件付きの志願兵として、ブールージュ駐屯第九十五戦列連隊に入隊し、一年間の平時の兵役をしてはいる(以上は所持する臨川書店一九九九年刊の『ジュール・ルナール全集』の最終巻第十六巻所収の年譜に拠った)。ああ! アルフォンス・ドーデの「風車小屋便り」の「最後の授業」を思い出す。多分、六年生の「国語」の教科書で読んだ。同じく五年生の時の教科書に載っていたナサニエル・ホーソンの「いわおの顔」(私のブログ記事『ナサニエル・ホーソン「いわおの顔」について』を参照されたい)とともに、小学生時代、授業で最も感動した二篇であった。孰れも、光村図書出版の教科書だった。なお、調べたところ、現在は二篇ともに教科書には採用されていない。「最後の授業」は史実では、同地は歴史的にドイツ系のアレマン人の流れを汲むアルザス人が殆んどであり、フランスの国粋主義イデオロギーをあからさまに描いた偏向作品として、無惨にも、教科書から永遠に排除されてしまった。私はまさに、小学五、六年の頃、読書に本格的に目覚めていた。また、当時の担任であられた並木裕先生(本来の専門は書道)が、個人的に読書感想文や随筆文を書くことを頻りに個人指導され、それらが『小学生新聞』に少なくとも十度近く掲載され、作文への自信を固めたのを忘れない。「最後の授業」は、まさに、小学校卒業直後に富山高岡市伏木に引っ越したことが、作品に打たれた大きな理由だったと言ってよい。中高時代も、教師たちの勧めで、感想文で何度も朝日新聞社賞なども頂戴した。私は、その頃は、心理学を専攻したかった(小学校上級生以降、ジグムント・フロイトの愛読者であった)が、結局、心理学科は総て落ちて、滑り止めの國學院大學文学科に進み、神奈川県の高等学校の国語教師に落ち着いた。その根っこは、小学五年生の時、青年の知人から贈られた小泉八雲の「怪談・奇談」(田代三千稔(みちとし)訳・角川文庫昭和四二(一九六七)年三十三版)や、以上を始めとする教科書の作品群が発火点であった。]

2024/09/05

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 肥つた子供と瘠せた子供

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。「肥(ふと)つた」というルビが、初出部でなく、後に振られてあるのは、ママである。]

 

      肥つた子供と瘠せた子供

 

 公園の同じ並木道、鳩とつぐみが親しげに入りみだれてゐる、その中に、二人の婦人が隣り合つて腰をおろしてゐた。お互に識らない同士であつた。が、二人とも、一人の子供を連れてゐた。薔薇色の着物を着た婦人は、肥(ふと)つた子供を、黑い着物を着た婦人は瘠せた子供を連れてゐる。

 始めのうち、彼女らは、口を利かないで、互に見合はせてゐた。そのうちに、それとなく相方《さうはう》から躙(にじ)り寄つた。

 「坊や、赤ちやんにぶつかるよ」

 「坊や、赤ちやんに砂掬《すなすく》ひを貸しておあげ、兄《にい》さんみたいに」

 突然、黑衣の婦人は、堪へ兼ねて、蕎薇色の婦人に聲をかけた。

 「まあ御立派《ごりつぱ》な赤ちやんですこと、奧さま」

 「有がたう御座います、奧さま。みなさんがよくさう仰しやつて下さいますんですよ。いくらさう仰しやられても、こればかりは聞き倦きませんの。でも、母親の眼で見ますと、自分の子ですもの、どうしても贔屓眼《ひいきめ》つて云ふものがありましてね」[やぶちゃん注:「贔屓眼《ひいきめ》つて云ふもの」は底本では「贔屓眼つね云ふもの」となっている。「ね」は意味が通らないので、誤植と断じ、改版を元に「て」に代えた。]

 「そんな、あなた、いくら御自慢なすつたつてよう御座んすわ。綺麗でまぶしいやうですもの。見てゐるだけでも好《い》い心持ちになりますわ。あのしつかり締つた肉附《にくづき》、生(なま)でたべてもよう御座んすわね。どうでしせう、笑靨《ゑくぼ》がいつぱい、どこにもかしこにも。おてゝあんよ、恐ろしいやうですわ。百年は大丈夫ですわね。まあ、あのかんかんの房々《ふさふさ》して輕さうだこと。失禮ですけれど、なんぢや御座いませんか、やつぱり鏝(こて)をおかけになるんでせうね、そさうでせう、奧さま」[やぶちゃん注:「かんかん」「髪」の幼児語。]

 「いゝえ、奧さま、そんな、わたくし、子供の頭にかけて誓ひますわ、そんな勿體《もつたい》ない、汚《けが》らわしい、鏝(こて)なんか、髮の毛に對して申しわけがあるものですか。生れたときから、あれなんで御座ひますわ」

 「さうでしせうとも、奧樣、ほんとにね、おしあはせですわね、お母さまが。心の底からお羨しく思ひますわ」

 二人の婦人はそばに寄りそつた。その間《あひだ》、瘠せた子供が、輕《かろ》うじて呼吸(いき)をしながら、地上に投げ出されてゐた。黑衣の婦人は肥(ふと)つた子供を抱き上げて、重さを測つたり、あやしたり、眺め入つたり、そして、眼を見張つて「まあ、なんて重いんでしょう、ほんとに、なんてまあ重いんでしょう」を繰り返していた。[やぶちゃん注:「輕《かろ》うじて」は読みは私が附したが、改版で『かろうじて』となっている。しかし、この漢字は誤りである。「かろうじて」は「辛うじて」で「辛(から)くして」の音変化したものだからである。恐らくは岸田氏の書き癖と思う。彼には、歴史的仮名遣の勘違いや、当て字が、しばしば見られる。]

 「褒めて頂いてよろこんでますわ」薔薇色の婦人は云つた「でも、あなたの赤ちやんはおとなしくつてゐらつしやるやうですわね」

 黑衣の婦人は、がつかりして、淋しく笑つた。自分がかうまで一生懸命になつてゐるのに、その報酬なら、もつと何んとかした挨拶が聞きたかつた。眞面目な平凡なお愛想より、氣の利いた空御世辭《からおせじ》の方がましだとさへ思つた。もう諦めてはゐるものゝ、彼女は、まだ心のうちで嘆いてゐるやうに見えた。

 薔薇色の婦人はそれと見てとつた。機轉の利《き》かなかつたことが恥かしく、それに心底(しんそこ)は優しい彼女は、瘠せた子供を膝の上に抱き取り唇の先を押しあて、勿體らしくかう云つた。

 「奧さま、こんなこと、あなたがお母さまだから申すんぢやありませんよ、でも、わたくし、あなたの赤ちやんも、大變御立派だと思ひますわ、かう云ふ風《ふう》なたちの赤ちやんとしてはね」

 

[やぶちゃん注:本篇は珍しく、改版では、細部で、かなり改訳した箇所が多くある。悪意があるわけではなく、語彙が足りず、しかも、普通に母としての子へのエゴイスティックな偏愛を持っている「薔薇色の婦人」と、これまた、全く同じような内的双方向性のない「黑衣の婦人」との、無限遠心的なチグハグな空言葉の応酬の干乾びたループの始終を再現するのに、岸田氏は、かなり苦心したものと見える。

「つぐみ」原文は“Merle”は、私の辞書では、確かに『鶇(つぐみ)』とあるのだが、スズメ目ツグミ科ツグミ属Turdusはフランスでは種が多く、かく、名指しただけでは、種同定は出来ない。実は、ルナールの作品には、盛んに「鶇」が出て来るのだが、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「くろ鶇(つぐみ)!」』で私は、『クロツグミ Turdus cardisは名の割には、腹部が白く(丸い黒斑点はある)、「のべつ黑裝束で」というのに違和感がある。これは「クロツグミ」ではなく、が全身真黒で、黄色い嘴と、目の周りが黄色い同じツグミ属のクロウタドリTurdus merulaではないかと思われる』と注した。その程度に、ルナールの言う種をこれと名指すのは、至難の業なのである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 衞矛

 

Nisikigi

 

にしき木  鬼箭 神箭

くそまゆみ

衞矛    【和名久曽末由美

       俗云古波末由美】

 

ヲイ イユイ   又云錦木

[やぶちゃん注:「鬼」は「グリフウィキ」の異体字の第一画がないこれだが、表示出来ないので、正字で示した。以下同じ。]

 

本綱衞矛生山谷平陸未嘗見也成叢春長嫩條條上四

面有羽如箭羽視之若三羽爾其葉青狀似野茶對生三

四月開碎花黃綠色結實大如冬青子其莖黃褐色人家

多燔之遣祟削取皮羽入藥

[やぶちゃん注:「祟」は、実は「崇」の字であるが、ルビで『タヽリ』と振っていることから、正しい漢字で示した。]

氣味【苦寒】治婦人崩中下血除邪殺鬼毒消風毒腫

 鬼瘧日發【鬼箭穿山甲燒灰二錢半爲末毎以一字發時㗜鼻】

[やぶちゃん注:この行の「鬼」は正しく「鬼」である。「㗜」は「嗅」の異体字である。]

△按衞矛條四𨕙如箭羽其葉至秋紅葉靣色如丹而青

[やぶちゃん注:「𨕙」は「邊」の異体字。「丹」は底本では。第三画が「﹅」ではなく、第四画を突き抜けて下まで伸びた縦画であるが、表示出来ないので、「丹」とした。]

 赤相襍如錦故俗曰錦木結子一朶二顆尖小正紅信

 州野州山谷有之古歌所謂錦木與此不同【其錦木有奧州】

                           能因

  後拾遣 錦木は立なから社朽にけれけふの細布むぬあはしとや

 

   *

 

にしき木  鬼箭《きせん》 神箭《しんせん》

くそまゆみ

衞矛    【和名、「久曽末由美《くそまゆみ》」。

       俗、云ふ、「古波末由美《こばまゆみ》」。】

 

ヲイ イユイ   又、云ふ、「錦木《にしきぎ》」。

 

「本綱」に曰はく、『衞矛、山谷に生ず。平陸《へいりく》[やぶちゃん注:平地。]には、未だ嘗つて見ざるなり。叢《むらがり》を成す。春、嫩《わかき》條《えだ》を長《ちやう》ず。條の上、四面、羽《はね》、有り。箭羽《やばね》のごとく、之れを視れば、三つ羽《ばね》のごとしのみ。其の葉、青く、狀《かたち》、「野茶《やちや》」に似《にて》、對生す。三、四月、碎《くだ》≪たる≫花を開く。黃綠色。實を結ぶこと、大いさ、「冬青(まさき)」の子《み》のごとし。其の莖、黃褐色。人家、多く、之れを燔《やき》て、祟(たゝり)を遣《おひやる》。皮羽《ひう》[やぶちゃん注:樹皮の翼状になっている部分。]、削-取《けづりとり》て、藥に入《るる》。』≪と≫。

『氣味【苦、寒。】婦人≪の≫崩中《ほうちゆう》≪の≫下血を治す。邪を除き、鬼毒《きどく》を殺し、風毒腫を消す。』≪と≫。

『鬼瘧《きぎやく》、日《ひ》に日に[やぶちゃん注:原本では送り仮名が『〻ニ』となっている。]、發《を》くるに[やぶちゃん注:ママ。「發=起」(お)こるに、の意。]、【鬼箭・穿山甲《せんざんこう》、灰に燒きて、二錢半、末《まつ》と爲して、毎《まい》、一字を以つて、發《はつ》する時、鼻に㗜《か》ぐ《✕→がす》。】。』≪と≫。

△按ずるに、衞矛《にしきぎ》の條《ゑだ[やぶちゃん注:ママ。]》、四𨕙《しへん》、箭《や》羽の《はね》のごとく、其の葉、秋に至り、紅葉、靣色《めんしよく》、丹《に》のごとくして、青≪と≫赤、相《あひ》襍(まじ)り、錦《にしき》のごとし。故《ゆゑ》、俗、「錦木」と曰ふ。子《み》を結≪ぶに≫、一朶《ひとふさ》≪に≫二顆《くわ》。尖《とが》り、小≪さき≫正紅《せいこう》。信州・野州≪の≫山谷≪に≫、之れ、有《あり》。「古歌に、所謂《いはゆ》る、「錦木」は、此れと≪は≫、同じからず【其の「錦木」は奧州に有り。】。

 「後拾遺」

   錦木は

     立ちながら社(こそ)

    朽(くち)にけれ

           けふの細布(ほそぬの)

         むぬあはじとや

                 能因

 

[やぶちゃん注:「衞矛」=「錦木」で日中ともに、

ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属ニシキギ Euonymus alatus 、或いは、品種ニシキギ Euonymus alatus f. alatus

である(「維基百科」の同種の「矛」(「」は「衞(衛)」の簡体字)を参照されたい)。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『庭木や生垣、盆栽にされることが多く、樹皮は薬用となる。別名、ヤハズニシキギ。カミソリノキとも呼ばれるが、これは茨城県や栃木県(塩谷郡、日光市)の方言名であった』。「名称」の項に『和名「ニシキギ」の由来は、真っ赤で鮮やかな紅葉の美しさを錦に例え、「錦の木」となり転訛したことによる。別名ヤハズニシキギ。日本の地方によって、キツネノカミソリなど、以下のような方言名が存在する』として十五の異名が列挙される。『日本の北海道・本州・四国・九州のほか、国外では中国』(☜前掲の「維基百科」の方では『中国東北部』・『青海省・チベット自治区・海南省・新疆ウイグル自治区・広東省、及び、中国本土のその他の地域にも』広く『分布する』とある)、『アジア北東部に分布し、低地や丘陵地、山地の山野に自生する。秋の紅葉を楽しむため、庭木としてもよく植えられる。紅葉が見事で、ニッサ』(別名「ニッサボク」:双子葉植物綱古生花被亜綱(離弁花類)セリ目ヌマミズキ科 Nyssaceaeヌマミズキ属 Nyssa sinensis )『・スズランノキ』(双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科ツツジ科オキシデンドルム属スズランノキ Oxydendrum arboreum  )『と共に世界三大紅葉樹に数えられる』。『落葉広葉樹の低木で、高さは』一~四『メートル』『になる。樹皮は灰褐色で縦に筋がある。枝は緑色かときに紅紫色で、若い枝では表皮を突き破ってコルク質で、節ごとに十字対生して、板状の』二~四『枚の翼(よく)が発達する。翼は細い幹にも低く残り、幹には翼の痕が残っていることが多い。なお』、『野生の個体などで、翼が出ないもの品種もあり、コマユミ( E. alatus f. ciliatodentatus 、シノニム E. alatus f. striatus 他)と呼んでいる』。『葉は対生し、葉身は長さ』二~七『センチメートル』『の倒卵形から広倒披針形で、葉縁には細かい鋸歯があり』、同属の『マユミ』(ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )『やツリバナ( Euonymus oxyphyllus )よりも小さい。枝葉は密に茂る。秋になると、葉は緑色から紫褐色を経て』、『赤色に紅葉し、マユミやツリバナなどニシキギ科』Celastraceae『の植物の中でも最も赤色が鮮やかになる傾向がある。日当たりのよい場所では真っ赤に染まるが、日当たりが悪いとピンク色になり、更に日陰では淡いクリーム色になる。紅葉し始めのこりは』、『緑色が混じり、しばしばグラデーションになる』。『花期は初夏』(五~六月)『で、葉腋から集散花序を出して、淡黄緑色で小さく、あまり目立たない』四『弁の花を』一個から『数個つける。果実は蒴果で、楕円形をしており、秋の紅葉するころに赤く熟すと果皮が割れて、中から橙赤色でほぼ球形をした、仮種皮に覆われた小さい種子が露出する。これを果実食の鳥が摂食し、仮種皮を消化吸収したあと、種子を糞として排泄し、種子散布が行われる』。『冬芽は枝に対生して、緑色の長卵形で多数の芽鱗に包まれ、ときに褐色に縁取られる。頂芽は頂生側芽を伴う。葉痕は半円形で、維管束痕は弧状で』一『個』、『つく』。『栽培は容易で、繁殖は播種または挿し木で行う。播種は秋に採取した種子をすぐに蒔き、挿し木は枝を』十~十五センチメートル『に切って挿し、乾燥させないようにビニールで覆う』。『紅葉を美しくするために西日を避けた日当たりの良い場所に植える。剪定は落葉中に行う。よく芽を付ける性質なので、生垣の場合は強く剪定してもよい』。『秋の紅葉が鮮やかで、庭園樹、盆栽、公園樹によく用いられる。材は細工物に使い、特に良質の版木になる。樹皮は薬用となり、かつて和紙を作るのに用いられた』。『日本では民間薬として、秋に採取した果実や、初夏に採った樹皮(翼)、根を用いていて、それぞれ天日で乾燥させる』(この後に続けて、『中国には無く、漢方では使用されない』とするが、「本草綱目」に、以上の通り、処方が記されてあり、「維基百科」の同種の「卫矛」にも薬用植物関連のサイトにリンクが張られているので誤りである)。「黒焼き用の枝葉は、アルミ箔に包んで焼き、黒い炭にして砕いて粉末にする」(この製法も引用された「本草綱目」と類似する)。『打撲の鎮痛、消炎、とげ抜きの薬として用いられる。打撲・生理不順』(この対症も引用された「本草綱目」とよく類似する)『には樹皮・果実は』一『日量』三~百『グラムを水』三百~六百『ccで半量に煎じ』、三『回に分けて服用する用法が知られている。とげ抜きの場合は、黒焼きを米のりと練って、紙につけて貼ると、とげが出るので引き抜く。身体を冷やす作用がある薬草のため、妊婦への使用は禁忌とされる』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「衞矛」の記載のパッチワークである([088-42b]  以下)。

「鬼箭」グーグル画像検索「Euonymus alatus 鬼箭」をリンクさせておく。

「くそまゆみ」小学館「日本国語大辞典」に「くそまゆみ」で立項し、『屎檀・衛矛』と漢字を当て、『植物「にしきぎ(錦木)」の古名』とし、引用例は「新撰字鏡」で、同書は平安初期末から中期始めの昌泰年中(八九八年~九〇一年)に昌住が撰。部首索引の漢字辞書で、和訓を持つ最古のものである。お洒落でないが、いたく古い異名ということになる。

「古波末由美《こばまゆみ》」サイト「図鑑.jp」のここに、前に示したニシキギの変品種コマユミのページがあり、その「別名」に『ヤマニシキギ、コバマユミ』(「小葉檀」:これはニシキギの異名でもある)『、コバノコマユミ、ホソバコマユミ、ソガイコマユミ』とおあった。

「野茶《やちや》」これは、なかなかムズい。日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」では、一項で、『野茶(ヒサカキ)』と読み、『 Eurya japonica 』とし、『ツバキ科の常緑低木・小高木』で『園芸植物』としつつ、別に、『野茶 (ノチャ)』とし、『ヒメハギ科の常緑多年草』で『薬用植物』の『ヒメハギの別称』とする。前者は、

ツツジ目モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ変種ヒサカキ Eurya japonica var. japonica

である。同種は中国にも分布する。また、古い分類体系では、ツバキ科Theaceaeに分類されていたが、それを踏襲している同種の「維基百科」の「柃木」では、ツバキ科の中文名を「山茶科」とする。一方、後者は、

バラ亜綱ヒメハギ目ヒメハギ科ヒメハギ属ヒメハギ Polygala japonica

で、やはり中国にも分布するしかし、本邦のウィキで葉の写真を比較すると、ニシキギはこれで、葉の辺縁に明確な鋸歯があり、ヒサカキはこれで、同じく鋸歯があるのに対し、ヒメハギは「岡山理科大学生物地球学部生物地球学科」の「旧植物生態研究室(波田研)のホームページ」内の「植物雑学事典」のヒメハギのページで葉の拡大写真を見ると、鋸歯は全くない(解説にも明記されてある)。されば、この「野茶」はヒサカキを指すと考えてよいように思われる。また、現代中国で「野茶」が何かを「日中辞典」で引いてみたが、出てこなかったのだが、参考項目にあった日中韓辭典硏究所刊「中英英中専門用語辞典」の「野茶子」を見たところ、“eurya fruit”とあった。これはまさに「ヒサカキの実」の意であるから、これで断定していいと判断した。

「冬青(まさき)」この和訓は完全アウト。中国の「冬青」は、双子葉植物綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis であり、本邦のニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus ではない。詳しくは、先行する「冬青」の私の注を見られたい。

「婦人≪の≫崩中《ほうちゆう》≪の≫下血」東洋文庫訳の割注に、『(至急出血・こしけ)』とある。「こしけ」=「帯下(たいげ)」は既注だが、平凡社「百科事典マイペディア」の「帯下(たいげ)」を引いておく(コンマは読点に代えた)。『〈おりもの〉〈こしけ〉とも。女性性器の分泌物をいう。色調によって白帯下、黄帯下、赤帯下と呼ぶ。白帯下は腟(ちつ)内膜上皮、黄帯下は白血球、赤帯下は赤血球の混入による』。正常な『生理的帯下は』、『白帯下に属し、透明または白色(下着につくと黄色になる)で、排卵期、妊娠時、性的興奮時にふえる。健康時の腟帯下はデーデルライン腟杆(かん)菌が含まれ、腟内が酸性に保たれて、細菌の侵入を阻止している(腟の自浄作用)』。一方、『病的帯下は』、『トリコモナス』(メタモナス門 Metamonadaトリコモナス綱トリコモナス目トリコモナス科トリコモナス属 Trichomonas の原虫(アメーバ様生物)の一種)『の寄生、カンジダ』(菌界子嚢菌門半子嚢菌綱サッカロミケス目サッカロミケス科カンジダ属 Candida は酵母様の菌類の一群で、その内の病原性を有するカンジダ・アルビカンスCandida albicans 。本来はヒトの体表・消化管・女性生殖器の膣粘膜に普通に棲息する常在菌で、多くの場合は何ら影響も与えないものだが、体調が悪い時などに、病変を起こす日和見感染の原因となる)『や雑菌、淋(りん)菌などの感染、性器の炎症、糜爛(びらん)、ホルモン分泌の衰えや悪化,腫瘍』『などによって起こる。治療に際しては、単に分泌物を排除、吸収させることよりも、原因を治療することが重要』である、とある。

「鬼毒」漢方で、鬼神に憑(と)りつかれたかと思われるような奇妙な病気の病原の漠然としたものの病原を指す。必ずしも狭義の精神・神経障害だけを指すのではなく、一般的な臨床に於いて、原因が定めにくい特異な病態のものを広く指すようである。

「風毒腫」「風毒」は漢方で、脚気(かっけ)、又は、筋肉・関節の痛みや、運動障害を起こす病気を広く指すが、ここは、それによって生じた判断された「腫れ物」で、発赤・疼痛を伴うものを言う。

「鬼瘧《きぎやく》」東洋文庫の割注に、『(はげしく狂乱する「おこり」。』とある。「おこり」(=「瘧」)は、熱誠マラリアのこと。重篤になると、高熱によって脳が溶け、狂乱状態になることがある。平清盛の末期の狂乱は、まさにその病態の教科書みたようなものである。

「穿山甲《せんざんこう》」既出既注だが、再掲しておくと、哺乳綱ローラシア獣上目鱗甲(センザンコウ)目センザンコウ科センザンコウ属  Manis の模式種で、中国を含む東アジアに広範に棲息するミミセンザンコウ Manis pentadactyla のうろこ状の甲状になった角質の表皮。当該ウィキによれば、体長は五十四~八十センチメートル程で、体重は二~七キログラム。前肢は力強く、鋭い爪を持つ。また、尾は筋肉質であり、巻き付けて、物を摑むことが出来る。頭部から背面、尾の先端にかけて茶~黄色の鱗で覆われている。『夜行性であり、単独で行動する。生活圏は地上及び樹上。動きは機敏で、巧みに樹に登る。力強い前肢と尾は樹上生活に適応した結果である。また、前肢は土を掘る事にも適応し、これで主食のアリやシロアリを探す。そして、長い舌を使ってこれらの昆虫を舐めとる』。『外的に襲われた際は』、『身体を丸めて身を守る』ことがよく知られている。『中華人民共和国やベトナムでは食用とされたり、鱗が皮膚病・乳の出が良くなる・癌などに効能がある漢方薬になると信じられている』。『食用や薬用の乱獲により、生息数が激減している』。『採掘・水力発電用のダムや道路建設による生息地の破壊、交通事故、イヌによる捕食による影響も懸念されている』。中国では一九六〇年~一九九〇年『代にかけて、生息数の』八十八~九十四%も『減少したと推定されている』とある。同種個体は古くは「鯪鲤」(りょうり)と呼ばれた。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類   寺島良安」の「鯪鯉(りやうり) 穿山甲(せんざんかう) [センザンコウ]」も見られたい。

「二錢半」明代の量単位の「一錢」は三・七三グラム。約九・三八グラム。

「毎《まい》、一字を以つて、發《はつ》する時、鼻に㗜《か》ぐ《✕→がす》』「一字を以つて」の意味が判らない。東洋文庫訳では、『発作の起こるごとに一嗅(かぎ)ずつ鼻に嗅(か)がせる』とある。

「野州」「上野國(かうづけのくに:現在の群馬県)」と「下野(しもつけのくに:現在の栃木県)」。

『古歌に、所謂《いはゆ》る、「錦木」は、此れと≪は≫、同じからず【其の「錦木」は奧州に有り。】』というのは、別な木を指すという意味ではない。ご存知の方には、釈迦に説法だが、小学館「日本国語大辞典」から引くと、『昔、奥州で、男が恋する女に会おうとする時、その女の家の門に立てた』人工的に彩色した『五色にいろどった一尺(約』三十『センチメートル)ばかりの木』を指す。『女に応ずる意志があれば、それを取り入れて気持を示し、応じなければ』、『男はさらに繰り返して、千本を限度として通ったという。また、その風習』を指すものである。以下の能因の和歌の「錦木」は、まさに、そのラヴ・コールのそれを詠み込んだものである。

「後拾遺」「錦木は立ちながら社(こそ)朽(くち)にけれけふの細布(ほそぬの)むぬあはじとや」「能因」「後拾遺和歌集」撰者は藤原通俊。応徳三(一〇八六)年成立。その「卷第十一 戀一」所収(出所は不詳)。六五一番。能因法師(永延二(九八八)年~?)は平安中期の僧侶で歌人。「中古三十六歌仙」の一人。俗名は橘永愷(たちばなのながやす)。当初は「融因」で、後に「能因」と号した。和歌を藤原長能(ながとう)に学び、歌道師承の先蹤と言われ、和歌の道に深く傾倒した。自撰家集「能因法師集」・私撰集「玄々集」・歌学書「能因歌枕」等がある。「けふの細布」は「狹布の細布」で、現代仮名遣では「きょうのほそぬの」。「せばぬの」とも言う。同義語を二つ重ねたもの。歌語として「今日」をかけ、また、幅もせまく、丈(たけ)も短くて胸を覆うに足りないところから、「胸合はず」「逢はず」の序詞とする(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

2024/09/04

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 寳石

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      寶   石

 

 フランシイヌは散步をしてゐる。何も考へてゐない。その時、突然、彼女の右足が左足を追ひ越すことを拒《こば》む。

 そこで彼女は、植え[やぶちゃん注:ママ。]つけられたやうに、深く板をおろしたやうに、飾窓《かざりまど》の前を動かない。

 彼女は窓硝子に姿を映したり、又は、髮の毛を直したりする爲めに止《とま》つたのではない。彼女の眼は一つの寳石に注がれてゐるのである。彼女は執念深く、その寳石を見つめてゐる。それで、若し、その寶石に翼が生えてゐたら、獨りでに、蛇に見込まれた蛙のやうに、それが指環ならフランシイヌの指に、襟留《えりど》めなら胴着の胸に、またそれが耳飾りなら、彼女の耳たぼに、そつと飛び附いて來るだらう。

 それがもつとよく見えるやうに、彼女は眼を半分つぶつて見るのである。また、せめてそれが瞼《まぶた》の下にぶらさがるやうに、彼女は、眼をすつかりつぶるのである。彼女は眠つてゐるやうに見える。

 然《しか》るに、窓硝子のうしろに、店の奧から來た一本の手が現はれる。袖口から出てゐるその手は、白く、華奢《きやしや》な手である。それは、巧みに鳥籠の中にはひる[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の癖。]手のやうに思はれた。その手は慣れてゐる。ダイヤモンドの焰にやけどもせず、居睡りをしてゐる樣々な石が目を覺さないやうに、その間を拔けて通る。そして、胸をおどらせながらそれを見つめてゐるフランシイヌに、あなたの好きな方《かた》を一寸失禮しますと云はんばかりに、すばしこく指の先で件《くだん》の寶石を搔《か》つ浚《さら》つて行く。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 姉妹敵

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題の「姉妹敵」だが、岩波文庫改版では「きょうだいがたき」とルビするので、「きやうだいがたき」と読んでおく。]

 

      姉  妹  敵

 

 彼女らは、牛乳入りの珈琲《コーヒー》を、ちびちびと、急がずに飮んでゐた。その時、マリイはアンリエツトに云つた。

 「あんたは行儀よく飮むつて云ふことができないのね」

 アンリエツトは、むつとして、下を向いた。と、頤《あご》がすぐに三重《さんぢゆう》になる。それほど彼女はふとつてゐた。下を向くと、胴着の上に汚點(しみ)がついてゐる。なかなか言ひ返さうとしない。テエブルの上に茶椀を置いて、一《い》つ時《とき》、庭の樹を眺めてゐる。凋落の兆(きざ)しを眺めてゐる。

 「おつしやいよ、意地わるね」やがて彼女は云つた。「あんたには、こんな粗相《そさう》はできつこないのね。珈琲を零《こぼ》しても、みんな、ぢかに床(ゆか)の上に落ちてしまふから」

 「あたしが瘠せてるつて、ちやんと云つたらどう」

 「さうぢやないの、でも、あんたの胸は、あたしの見たいに邪魔にならないつて云ふの。あたしさう思ふわ」

 「ぢや、較べて見ればわかるわ」

 さう云つたかと思ふと、二人は、臂《ひぢ》と臂とをすれすれに、くつついて並んだ。息を吸ひ込む。そして、橫眼で、どちらが餘計張り出してゐるかを見て見るのである。

 「降參した。」アンリエツトが云ひかける。

 「第一、あんたは踵《かかと》の髙い靴をはいてるんですもの」――マリイが云ふ「あうだ、いゝことを考へた。その茶椀をもつて、こつちへ來て御覽なさい」

 アンリエツトは、云はれるまゝに、マリイの後《あと》について行く。彼女らは二人の寢室にはひつて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。岸田氏の癖である。]、戸の閂《かんぬき》をおろす。

 着物に皺《しは》の寄る音、釦《ボタン》が飛んで轉がる音、紐がこすれる音が聞こえる。長い間、彼女らは笑はないで、こそこそ話をしてゐる。やがて、はつきりした聲で、

 「そらね、あたしの、緣(ふち)までいつぱいよ」――マリイが云ふ。

 「ぢや、あたしのは、はひりもしない。お茶椀がはじけちやうわ」

 鍵の孔《あな》に陽《ひ》が照つてゐるかと思はれるほど、くつきりと白い頸《くび》をあらはにむき出して、二人の姉妹敵は、たれ憚らず、牛乳入り珈琲の茶碗で、乳の大きさを測つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「見たいに」これは誤りではない。近現代の比況の助動詞「みたいだ」(形容動詞型活用)は、第一義「性質や状態が他の何かと似ていることを表わす」が、これは近世語の「見たやうだ」の変化したものだからである。

『「降參した。」』“— Te rends-tu ? demande Henriette.”であり、「?」がないと、読者は躓く。改版では、ちゃんと『降参した?』としてある。但し、改版は前半部が逐語的に露わに訳されてあるのだが、こちらは、姉妹がこれから何をするかが、ボカされてあって、却って、漸層的にラストのエロティクなシークエンスを引き出す形を採っており、この初版の方が、全体としては成功していると思っている。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 稅金

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      稅   金

 

 「條文がちやんとあります」收稅官吏はノワルミエに云つた。

 『一八八九年七月十七日附法令、第三條、第三項。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル七子ヲ有スル父及《オヨビ》母ハ人頭《ニントウ》並《ナラビニ》動產ニ對スル課稅ヲ免セラルルモノトス』

 「いゝか」家に歸つて、ノワルミエは妻に向つて云つた「われわれはもう六人子供がある。七人目をこしらえよう。稅金を拂はなくつてもいゝ」

 確かなことが二人に勇氣を與へた。既に彼等は他の多くのものよりも不幸《ふしあは》せでないやうな氣がした。ノワルミエは殆ど每日働いた。彼は乞食もした。それだけではない、どうかすると肉や馬鈴薯を盜んで來た。それでも彼の律義者《りちぎもの》であることに變りはなかつた。

 また膨れ出した彼の妻は、がらんどの家にいても、からだを休める暇《ひま》がなかつた。それで子供は一人も死ななかつた。彼等の慘めな生活が、最も激しい狀態に陷つた頃、七番目の子供が救《すくひ》の手のやうにやつて來た。ノワルミエは、ほツとして、悠然とかう繰り返した。

 「まあいゝ、稅を拂はんのだから」

 處が、翌年の課稅として金九法《フラン》五十仙《サンチーム》納入すべしと云ふ新しい白箋《はくせん》を受け取つた。

 「條文がちやんとあります[やぶちゃん注:底本は「あます」。脱字と断じて訂した。]」また收稅官吏は云つた。

 『一八九〇年八月八日附法令、第三十一條。一八八九年七月十七日附大藏省令、第三條。第三項ハ次ノ如ク改正ス。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル停年未滿ノ七子ヲ有スル父及母ニシテ十法以下ノ人頭動產稅ヲ課セラルルモノハ、此ノ課稅ヲ免除セラルルモノトス』

 「そらね[やぶちゃん注:底本は「そうね」。誤植と断じ、訂した。]、なるほど、九法五十仙の稅金を納めるので、つまり十法以下だ。それから、なるほど嫡子として生存せる七人の實父には違ひないが、その七人はみんな底本の竹内利美氏の後注に、『』とある停年未滿ではない。長男のシヤルルは二十一歲になつた、卽ち停年に達したわけです。さう云ふ譯だから、何《なん》にもなりません」

 ノワルミエは此の言葉を、死んだ馬のやうに、どんよりした顏附をして聞いてゐた。

 「な、おい」彼は妻に云つた「おれには、ちやんとわかつてるんだ。やつら、わざわざ變へやがつた。さうよ、それにきまつてら」

 どうして、彼女は、あんまりびつくりして、わかるどころの騷ぎではなかつた。彼の方も、收稅官吏の云ひ分を妻に說明して聞かせるにつれて、だんだん、わかり方がぼんやりして來た。

 「何んだつて」妻は叫んだ「七人ゐて、それが、こんだ六人と同じことだつて。ぢや、每年、死ぬまで九法五十仙出すのかい。そんなことがあるものかね。第一、子供の年が殖えたからつて、あたしたちのせいぢやないぢやないか」

 長い間、ノワルミエは考へ込んでゐた。

 「どうだ、おい」彼はやつと口を開いた「おれやいゝことを考へた。勘定にはひら[やぶちゃん注:ママ。]ない子供の代りをこしらへたらどうだ。稅金の方ぢや停年未滿つてやつが要《い》るんだから、そいつをすぐ一人こしらへてやろうぢやないか」

 

[やぶちやん注:「がらんど」「がらんどう」(江戸後期に用例あり)の縮約。明治中期には一般に使用されていた。

「停年」まあ、この語は「ある特定の年齢に達すること」を言うから、誤りとは言えないが、使用法としは、「定年退職」を想起するように、相応しい用法ではない。岩波文庫の改版では「丁年」と改訳しており、その方が正確である。「丁年」は、最近は用いられないが、二十歳(現行は満で)=成人を指す語である。「丁」の「盛ん・強い」という意から生じたものと思われるが、別に「丁」は、唐代の制度では、二十歳から五十九歳までの労働可能な男子を言ったようであるから、その使用として、後者語原と考えた方がよかろう。

「こんだ」「今度」の音変化した俗語。江戸中期には既にあった。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡伊与木郷庄屋不閉門

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   幡多郡(はたのこほり)伊与木郷(いよきがう)庄屋(しやうや)不閉門(へいもんせず)

 幡多郡伊与木郷の庄屋は、代〻、門を戶(とざ)す事ならず、戶、指(させ)ば、自然(おのづ)と、明(あき)て、有(あり)【外輪(そとわ)の門の戶、勝手口入口の戶、二ケ所也。外(ほか)は、戶、有(あり)。】。

 或夜(あるよ)、試(こころみ)に錠(ぢやう)をおろし置くに、夜中に、聲、有(あり)。

 誰(たれ)とも不知(しれず)、

「何(なに)とて、戶を、さしたるぞ、明(あけ)よ。」

といふ。

 終(つひ)に、戶を、はづしおけり。

 或時、亭主、門を、戶ざし、守り居(をり)たるに、夜中(よなか)、少(すこし)の間(あひだ)、その所をはづしたる內(うち)に、戶は、明(あけ)て、有(あり)。

 夫故(それゆゑ)、其後(そののち)は、夜分、戶を、さゝず、と也(なり)。

 然(しか)るに、

「盗人(ぬすびと)、入(いる)る時は、『立(たち)ずくみ』に成(なり)て、不動(うごかず)。」

と、いへり。

 又、庄屋の宅、座敷のうちに、人(ひと)、寢(いぬ)る事(こと)不成(ならざる)間(ま)、あり。

 若(もし)、寢(いぬ)る時は、丑刻(うしのこく)ばかり、遠きより、刀戦(かたないくさ)の音、す。

 次㐧(しだい)に、近付(ちかづき)て、此(この)座敷に入(い)る。

「形は見へず、寢(いね)たるもの、惣身(さうみ)、すくみて、絕入(たえいら)んとす。」

と、いへり。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡伊与木郷」近現代の行政合併が著しく、非常に判り難くなっているが、「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「伊与木郷」の記載に、『現佐賀町の佐賀地区を除く伊与喜(いよき)川流域と土佐湾岸を含む地域をいい、中村街道が伊与喜川沿いに通る。』とあるのが、参考になる(但し、既に佐賀町は消滅して大合併し、現在は広域の幡多郡黒潮町(くろしおちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)となっている)。現在の行政地名の高知県幡多郡黒潮町佐賀は、ご覧の通り、広域だが、前記の記載に従うなら、少なくとも、現在の伊与喜川河口の左岸の佐賀市街地区は旧「伊与木鄕」には含まれない。しかし、前記の『佐賀地区を除く伊与喜(いよき)川流域と土佐湾岸を含む地域をいい、中村街道が伊与喜川沿いに通る』という記載からは、この現在の広域の「佐賀」地区の内、国道五十六号の走る附近及び伊与喜川流域の沿岸、さらには、現在の佐賀地区と、その周辺の地区の土佐湾沿岸部の一部も、旧「伊與喜鄕」であったと考えなくてはならない。更に、黒潮町佐賀の北に接する現在の黒潮町伊与喜も、当然、旧「伊與喜鄕」である。されば、旧「伊與喜鄕」は非常な広域であったと考えられる。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「伊與喜」はここで、その東北の山中部分に「佐賀村」とあり、明治のこの頃は、大きな佐賀村の中に吸収されてしまっているように見える。しかし、ウィキの「佐賀町」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制の施行により、佐賀村・藤縄村・熊井村・中野川村・伊与喜村・市野々川村・不破原村・荷稲村・川奥村・拳ノ川村・橘川村・市ノ瀬村・鈴村・熊野浦村・小黒野川村の区域をもって佐賀町が発足』とあり、次いで、昭和一五(一九四〇)年十一月三日に、『佐賀村が町制施行して佐賀町となる』とあるのだが、この記載、不審がある(太字下線を附した部分)。この部分は「佐賀村」の誤りと解さないと辻褄が合わないからである。なお、戦前の地図を見ると、伊與喜地区から、北西のかなりの山間部に「伊與喜川」が分流していることが判ることから、この「伊與喜鄕」は、林業を生業としていた郷であったと推定してよいように思われグーグル・マップ・データ航空写真の現在の「伊与喜」を添える。ほぼ九十五%以上が山林である)、この主人公の「庄屋」は、まさに伊与喜川を使って、木材を狭義の河口にある佐賀地区に搬送していた林業者の元締めであったと考えるのが自然である。実際、現在も伊与喜に南で接する、ここ(伊与喜川左岸)に「黒潮町森林組合」の事務所(地図上では「幡東森林組合」だが、前に示した組合名はストリートビューのここで視認出来る)があるのである。以上から、この庄屋の家があった地区も、私はグーグル・マップ・データ航空写真の、この中央の南北の伊与喜川右岸の地区内にあったものと推理するものである。

 なお、当初、私は、この怪異を、「山の神」由来か、と思ったが、刀剣で争う音がするという部分に着目すれば、これ、ありがちな天狗の怪異とするよりも、何らかの武士の怨念を感じさせ、室町の戦国期か、織豊時代、この附近での武家同士の戦さがあったか、或いは、もっと遡って、平安末期・鎌倉時代初期の落ち武者等の怨念話等を考える方が妥当であろうか。

2024/09/03

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 吉利子樹

 

Lonicera-modesta

 

きりししゆ  急䕷子科

 

吉利子樹

 

農政全書云吉利子樹生荒野中科條髙五六尺葉似野

桑葉而小又似櫻桃葉而小其枝葉閒開五瓣小尖花碧

玉色其心黄色結子如椒粒大兩兩並生熟則紅味甜

 

   *

 

きりしじゆ  急䕷子科《きふびしか》

 

吉利子樹

 

「農政全書」に云はく、『吉利子樹、荒野の中に生ず。科條《かでう》[やぶちゃん注:東洋文庫訳では『木枝』と訳してある。]、髙さ、五、六尺。葉、「野桑《のぐは》」の葉に似て、小さく、又、「櫻桃(ゆすら)」の葉に似て、小さし。其の枝葉の閒に、五瓣《ごべん》の小≪さき≫尖《とが》≪れる≫花を開く。碧玉色《へきぎよくしよく》。其の心《しん》[やぶちゃん注:幹枝の芯。]、黄色。子《み》を結び、椒(さんせう)≪の≫粒(つぶ)の大いさのごとし。兩兩《ふたつながら》、並《ならび》生《はえ》、熟すれば、則《すなはち》、紅《くれなゐ》にて、味、甜《あま》し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「吉利子樹」は(「急子科」では見当たらない)、

双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属ロニセラ・モデスタ Lonicera modesta

である。和名は不詳(恐らくは、ない)。中文名は「下江忍冬」で、同種の「維基百科」のページに、『中国固有種』とし、別名として、『吉利子(浙江天目山)』とあった。また、シノニムとして、Lonicera modesta var. lushanensis を挙げてあった。学名のグーグル画像検索で樹の全体画像を見ようと思ったが、殆んど、花と葉の部分画像であり、複数のものを見た結果、スイカヅラ属に多い蔓性木本で低木であろうことが判明した。

 この引用書である「農政全書」は、何度も既出既注だが、再掲すると、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書である。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。

 以上の引用は、同書の「卷五十五 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の巻末にある。「漢籍リポジトリ」のここである。良安は記載をそのままに完全に引いてある。

 なお、「コトバンク」の日外アソシエーツの「動植物名よみかた辞典 普及版」のここで、この「吉利子樹」を『ウスノキ・ウグイス』を指すとし、『学名』 Vaccinium hirtum 、『ツツジ科の落葉低木』で『高山植物』と記載してあったが、これは、ツツジ目ツツジ科スノキ亜科スノキ属ウスノキ(標準学名)Vaccinium hirtum var. pubescens:(広義学名) Vaccinium hirtum ということになるものの(当該ウィキをリンクさせておく)、この種は日本固有種で、中国には自生しないので、本記載とは全く関係が、ない。

「櫻桃(ゆすら)」この良安の読みは――完全なるハズレ――であるので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

×バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

○サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 商賣上手の女

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      商賣上手の女

 

 マリイマドレエヌは白木《しらき》のテーブルの後《うし》ろで貧乏ゆすりをしてゐる。そして、相手をそらさない笑顏を作りながら、熱心に手眞似身振りをして喋舌《しやべ》り續ける。彼女は、人參、大根、葱、トマトをすすめ、それからハンケチの底で莢《さや》をむいた豌豆《えんどう》、籠《かご》に入れた鳥類《てうるゐ》を薦めるのである。

 値切るものがあると、彼女は、おとなしく、それで、しつこく頑張るのである。機敏に眼を働かして、品物を撰《よ》る指の怪しげな働き方を監視し、いざとなれば、素早く、意地のきたない蠅を追ふやうに、その指を撥《は》ね退《の》けようと身構え[やぶちゃん注:ママ。]てゐる。

 すると、彼女の裳《もすそ》[やぶちゃん注:スカート。]の中で、時には嗄(しやが)れた叫び聲、時にはまた激しい羽ばたきが聞こえる。マリイマドレエヌは一方の脚《あし》にからだの重みをかけるやうに、からだを屈めるのである。

 「あばれてゐるんですよ」――彼女は言う。「まだ時間があります。ひどくしちやいけませんからね、さうすると血が出てしまふんです。ですから、そつと踏んでゐるんです。それで羽ばたきをしなくなつたらやめるんです。あんまりはやく殺してしまつちやいけませんからね。頭に傷をつけると、買手がないでせう。だから、木靴《きぐつ》を脫いでするんです。こら」

 マリイ•マドレエヌは一寸《ちよつと》裳をまくつて見せる。そして、今、相手が買つたばかりの家鴨《あひる》の嘴《くちばし》を見せる。兩手は品物を賣る爲めに明けて置かなければならないので、彼女は足でそれを絞め殺してゐるのである。

 

[やぶちゃん注:「それからハンケチの底で莢をむいた豌豆、」原文は“petits pois fraîchement écossés au fond d’un mouchoir,”で、これは、訳すなら、「ハンカチの底にある、皮をむいたばかりのエンドウ豆、」である。岩波文庫改版では、『それから莢(さや)をむきたての豌豆(えんどう)をハンケチへ入れて見せ、』と改訳している。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 犬の散步

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      犬 の 散 步

 

 日曜日每《ごと》に、晝食を濟ますと、バルジエは彼の妻に云つた。

 「どれ、一まはりして來よう。お前は子供らを連れて、どこかへ行くがいゝ。おれは、おれの方で、犬を連れて行くから」

 「だつて」と、妻は云ふ「なんなら、みんな一緖に行きませうよ」[やぶちゃん注:「云ふ」の後には句読点はない。連続した台詞として確信犯の処理と私は思う。以下も同じ。]

 「犬は無闇《むやみ》に走るからなあ」――バルジエは答へる「お前たちはとてもおれたちについて來れまい。まあ、しつかり遊んで來い。さあ、ピラム」

 ピラムが、外の空氣が吸へる嬉しさに、敷石の上で雀躍《こをどり》をしていると、バルジエは、

 「好い天氣だなあ。こら、こら、息が切れるぞ。時間は充分ある」

 先づ彼は角の宿屋兼カフエーの店にはひる[やぶちゃん注:ママ。]。そして、ピラムをテーブルの脚にしつかり結い[やぶちゃん注:ママ。]つける。それから、自分は、一人の老友の前に座を占める[やぶちゃん注:ここは底本では「占ある」であるが、誤植と断じて、訂した。]。ゲームを始める爲めに彼の來るのを待つてゐたのである。

 主人が骨牌《カルタ》をやつている間、ピラムはぢつとしてゐる。脚を舐《な》める。人が通つて、その脚を踏まうとすると引込《ひつこ》める。虻《あぶ》を嚙み殺す。嚏《くさ》みをする。さうして、誰《たれ》も恨まずに、かまふものもなく眠つてしまふ。

 時間がたつ。夕方の七時が鳴らうとする。と、パルジエは熱に浮かされたやうに時計を見上げる。彼の妻と子供たちはもう歸つてゐるだらう。夕食の膳《ぜん》ごしらへが出來てゐるだらう。

 「もうあと二度つきり」彼は云ふ。

 それがすむと、

 「決戰、それで歸るとしよう」

 それがすむと、

 「吊合戰《とむらひがつせん》、これでやめ」[やぶちゃん注:「吊」は「弔」の俗字である。]

 それから、中腰になり、始める前から指に汗をかいて、彼はまた、云ふ。

 「さ、早く、これで愈々おしまひ」

 今度はおしまひである。パルジエはピラムをほどいてやる。そして、少し汗をかく爲めに、家まで飛んだり跳ねたりして行く。それが、犬を散步させて歸つて來たのである。

 

[やぶちゃん注:「ピラム」原綴“Pyrame”。臨川書店一九九五年刊の『ジュール・ルナール全集』第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の訳者柏木隆雄氏の「ピラーム」の注によれば(本篇への注は、これ一箇所のみ)、『ローマ神話で自分の婚約者がライオンに殺されたと早合点した青年の名からとった』もので、『十七世紀テオフィル・ド・ヴィオーの悲劇で知られるが、犬にはこうした神話の英雄の名がよくつけられる。』とある。この神話はウィキの「ピューラモスとティスベー」に詳しく(ラテン文字:Pyramus et Thisbē)、同フランス語のウィキ“Pyrame et Thisbé”もある。因みに、「にんじん」でも、父ルピック氏の飼い犬の名もまた、“Pyrame”なのである。私の『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「犬」』を見られたい。

「好い天氣だなあ。こら、こら、息が切れるぞ。時間は充分ある」この部分、岩波文庫改版では、『「しっ! こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」』と改訳している。原文の冒頭部は、“Beau !”である。極めてよく使う形容詞で、「美しい・綺麗な」の意だが、第二義的に、ここで岸田氏が訳した「晴れた」の意味がある。しかし、この場合は、それらとは全く別な用法であることは、明らかであり、この初版訳のこの台詞全体は、正直、日本語としても躓かざるを得ない訳である。この“Beau !”は、“!”を打っていることで判るように、ある注意喚起を起させるシグナルであり、まさにその後の訳「こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」という部分が、喜んで、はしゃぐパルジエの犬ピラムへの「落ち着かなければ駄目だ!」という軽い叱責であることは明白なのである。この場合の“Beau”は、「立派な・優れた」の意の中の、ある状態・雰囲気が「大きい・強い・激しい・酷(ひど)い」といった意味の内、ネガティヴに傾いた、批判的なニュアンスを含んだ用法なのである。岸田氏は、それに気づき、正しい表現に改正訳したのである。

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 靑い木綿の雨傘

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題は「あをいもめんのあまがさ」。]

 

      靑い木綿の雨傘

 

 彼等は、樹の茂みを見かけ、草原の中を走つた。彼等は路を離れたばかりであつた。しかし、その樹の茂みまでは、まだ遠かつた。ポオリイヌとピエールはこれ以上先へは行けなかつた。戀心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちやけた草と陽《ひ》に褪せた花の中へ、からだを投げ出した。ポオリイヌが大きく擴げた雨傘の陰に二人はからだを投げ出した。

 路に人影が見えないと、靑い木綿の雨傘は動かないでゐる。[やぶちゃん注:底本では、この一文は行頭から始まっているが、誤植と断じ、一字空けを施した。]

 處で、誰かゞ一人やつて來た。

 ポオリイヌは、いきなり指の先で傘の柄《え》を𢌞し出す。その間、ピエールは何もせずにゐる。

 雨傘は、風車のやうに、おとなしく、柄を水平に、骨の先だけがぐるぐる𢌞るのである。その𢌞り方は、如何にも相手を脅迫するやうに、何事かと眼を丸くしてゐる旅行者の足取りに合せて、それが遲ければ遲く、步を早めれば早く𢌞るのである。

 傘は二人の戀人を匿《かく》し、保護し、その透《すか》し入りの影で二人を覆つてゐる。と云ふのは、太陽の白い針が、そこかしこ、孔《あな》を明けてゐるのである。

 やがて、止まる。

 旅行者は、いつ時はツとしたが、氣を取り直して道を急ぐ。燒けつくやうな熱さに、知らず知らず腰を屈めると、組み合はされた四ツの足だけが、傘からはみ出してゐた。

 

[やぶちゃん注:本篇は、一九七三年岩波書店刊の岩波文庫のものと比較すると、第一段落の前半部が、有意に改訳されてあることが判る。そちらの第一段落を以下に示す。

   *

 彼らは、路を離れるといきなり、原っぱをつっ切って、茂った木立ちのほうへ走って行こうとした。ところが、その木立ちは、あんまり遠すぎてなかなか行き着けそうにない。ポオリイヌとピエエルはもうこれ以上行くことはできない。恋心に頭がくらんで、草原のまんなかに、赤ちゃけた草と陽(ひ)に褪(あ)せた花の中へ、からだを投げ出した。ポオリイヌが大きく拡げた雨傘の蔭に二人はからだを投げ出した。

   *

この原文は、

   *

   Ils n’ont que le temps de quitter la route, pour courir par le pré, vers les arbres épais. Mais les arbres sont encore trop loin. Pauline et Pierre ne peuvent plus aller. Ils se laissent tomber, défaillants d’amour, au milieu du pré, dans l’herbe rousse et les fleurs grillées, sous le parapluie de Pauline qu’elle ouvre tout grand.

   *

であって、逐語的な訳としては、この初版の方が、遙かに正しい。しかし、恋人たちの、はやる気持ちのリズムを映像的に効果的に表わすには、改訳版の方が、より良い、と言えると私は思う。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 髙岡郡龍村無盗賊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   髙岡郡(たかをかのこほり)龍村(りゆうむら)無盗賊(たうぞくなし)

 髙岡郡龍村は、世に「龍・鳴無(おとなし)」と並べ稱する霊地也。

 鎭守の神、末世(まつせ)といへども、威靈、衰へざるにや、一在所(いちざいしよ)に、昔より、盗賊、なく、正直を守りける。

 若(もし)、盗(ぬすみ)をすれば、忽(たちまち)に、神罰を蒙りぬ、といふ事、眞實(まこと)に、おもひ、恐(おそれ)けるにや。

 或(あるい)は、田畑へ、ゆき、農業をする者、鎌・鍬(くは)の類(たぐゐ)、一切の農具を遣(つか)ひ、日、暮(くれ)ぬれば、其所(そこ)に置(おき)て、宿へ、歸(かへる)。

 翌日、行(ゆき)て、又、遣ひぬるに、盗む、といふ事、なし。

 山本武兵衞、先年、普請役にて、彼(かの)地にて、大勢、人夫を遣ひ、暮(くれ)に及(およん)で、歸る時に、鐵道具を集(あつめ)させ、歸らんとするを、在所の役を勤(つとむ)るもの、右の趣(おもむき)を、いふ。

「『我々、請合申(うけあひまうす)。』由(よし)にて、其儘(そのまま)に置申(おきまうし)ける。」

と、直(ぢき)に物語、有りし。

 此事、「胎謀記事」に見へたり。

 

[やぶちゃん注:「髙岡郡龍村」「ひなたGPS」の戦前の地図のここで、「龍」の地名が確認出来る。現在は近現代の行政区画変更により、高知県土佐市宇佐町(うさちょう)竜(りゅう)となっている。グーグル・マップ(以下無指示は同じ)のここで、拡大すると、ここ。西から延びている複雑な形状をした横浪(よこなみ)半島の先端部である。平凡社「日本歴史地名大系」の「竜村」によれば、『竜岬付根の入江に面する半農半漁の小村。北は井尻(いのしり)村、西は浦ノ内村』(うらのうちむら:現在は須崎(すさき)市)で、『近年、横浪黒潮ライン』(半島の南側を走るこれ)『と宇佐大橋』(ここ)『の開通により、井尻・宇佐と直結した。集落南方に広さ四万平方メートルの湿原』「蟹(かに)ヶ池」(別名「七葉の池」)があり(同航空写真)、『西南山麓に四国霊場』三十六『番札所青龍寺』(しょうりゅうじ:ここ)『がある。近年、関(せき)ノ裏(うら)で』(高知県の公式遺跡報告書を見ると、『竜遺跡』とし、所在地を『土佐市竜関ノ裏』とするが、この地名では如何なる地図でも確認出来ない。試みに「ひなたGPS」で検索にこの地名を入れたところ、ここにポイントされた)、『七世紀の集落遺跡が発見されたが、これは古代海部のもので、蟹ヶ池周辺で水稲耕作も行っていたとみられる(土佐市史)』。『天正一七年(一五八九)の宇佐郷地検帳にみえる「竜ノ村」はすべて「青龍寺分」で、四八筆の農耕地のうち四〇筆まで青龍寺の手作地または脇坊分』とあった。

「鳴無」先の地図で、わざと入れて判るように配したのだが、横浪半島の根の方の北側の、須崎市浦ノ内(うらのうち)鳴無(おとなし)にある鳴無神社(おとなしじんじゃ)を指す。この神社のウィキがあり、『参道が海に向かって延びており、「土佐の宮島」とも称される』とあって、「龍村」と同じく、古くから海人族(あまぞく)の信仰の霊地であったことが窺われる。「須崎市観光協会」公式サイト内の「鳴無神社」のページが、写真や動画が豊富なので、是非、見られたい。

「山本武兵衞」土佐藩士には五家の「山本」姓がある。

「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 享保十二未年大災

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]

 

   享保十二未年(ひつじどし)大災(たいさい)

 享保十二未年二月朔日(ついたち)、大火、御城(ごじやう)燒失(しやうしつ)、火本(ひもと)、越前町(えちぜんまち)、中程(なかほど)西側、伊㙒辺丈助(いのべじやうすけ)。

 同二日、大火、丈助、南、鄕辰三郞(がうたつさぶらう)、土藏の家根(やね)より出火。

 丈助・辰三郞兩家の間に、黑岩儀、平宅(ひらや)、有(あり)。兩日の大火に遁(のがれ)て、無恙(つつがな)し、とぞ。

 

[やぶちゃん注:この二日の火事は、前日の隣りの「伊㙒辺丈助」の家の出火の際、強い西風で煽られて(だから、高知城に延焼したのである)、火種の一部が、火災時に発生した火勢が起こした旋風に乗って、南方向に飛び火し、「鄕辰三郞」の「土藏」の屋根の瓦の間に落ち込み、時間をかけて、翌日、彼の家根下から、再度、燃え上がったものと思われる。間にあった「黑岩」の家は、平屋であったことが幸いして、火炎が高い位置で完全に飛び越して、幸いにも延焼を全く免れたのである。

「享保十二未年二月朔日」享保十二年丁未(ひのとひつじ)。グレゴリオ暦で一七二七年三月二十三日相当。

「越前町」高知城の西直近の高知市越前町(グーグル・マップ・データ)。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 馬醉木

 

Asebi

[やぶちゃん注:この絵、花の描き方が如何にも下手である。] 

 

あせぼのき

      阿世美

馬醉木  俗云阿世保

 

あせみ

 

△按馬醉木生山谷高者二三𠀋小者一二尺皆枝葉茂

 盛其葉狹長微鋸齒淺綠色硬而攅生於枝椏九十月

 出花芽春開小白花作房結子亦作房一子中細子多

 人家庭砌植之以賞四時不凋相傳馬食此葉則醉故名

                          俊賴

  取つなけ玉田橫野のはなれ駒つゝしかけたにあせみ花さく

[やぶちゃん注:最後の一首は、下句に誤りがあり、「つつしのしたにあせみさきけり」が正しい。訓読では訂した。]

 

   *

 

あせぼのき

      阿世美《あせび》

馬醉木  俗に云ふ、「阿世保《あせぼ》」。

 

あせみ

 

△按ずるに、馬醉木《あせび》は、山谷に生ず。高き者、二、三𠀋、小《ちさ》き者、一、二尺。皆、枝葉、茂≪り≫、盛≪んなり≫。其の葉、狹長《さなが》≪にして≫、微《やや》、鋸齒≪ありて≫、淺綠色。硬(こは)くして、枝椏《えだまた》に攅生《さんせい》す[やぶちゃん注:群生する。]。九、十月、花芽(《はな》め)を出《いだ》す。春、小≪さき≫白≪き≫花を開き、房を作≪なし≫、子《み》を結ぶ。亦、房≪ふさ≫を作《つくり》、一≪つの≫子《み》の中≪に≫、細≪かなる≫子《たね》、多≪し≫。人家≪の≫庭-砌《にはさき》に、之れを植《うゑ》て、以つて、賞す。四時、凋まず。相《あひ》傳ふ、「馬、此の葉を食へば、則ち、醉《ゑ》ふ。故に名づく。」≪と≫。

                    俊賴

  取りつなげ

   玉田(たまだ)橫野(よこの)の

       はなれ駒(ごま)

     つゝじのしたに

           あせ

みさきけり

 

[やぶちゃん注:本種は私の好きな樹である(なぜ好きなのかは、よく判らないが、あの一見豊かに見える花房を触ると、思いの外、軽くカサカサして虚ろな感じがするギャップにネガティヴに惹かれるとだけ言っておこう)、

双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科スノキ(酢の木)亜科ネジキ(捻木・捩木)連アセビ(馬酔木)属アセビ亜属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『常緑性の低木である。別名アシビ。本州・四国・九州に自生し、観賞用に植栽もされる場合もある。有毒植物』。『和名「アセビ」は漢字で「馬酔木」と書き、葉にグラヤノトキシンⅠ(GrayanotoxinⅠ:別名「アセボトキシン」(Asebotoxin)。当該ウィキによれば、『レンゲツツジ、アセビ、ネジキなどのツツジ科の植物の全草に含まれている。日本産のハナヒリノキ』(ツツジ目ツツジ科イワナンテン属ハナキリノキ(嚏の木)Leucothoe grayana )『から発見・命名された』。『グラヤノトキシンは細胞膜上のNaイオンチャネルに結合して興奮と脱分極を継続させ、カルシウムイオンを流入させるため』、『骨格筋や心筋の収縮を強め、結果』、『期外収縮などを起こす。迷走神経を刺激した後に麻痺させる作用も持つ』。『ホツツジ』(本邦の北海道南部・本州・四国・九州に普通に分布するツツジ科ホツツジ属ホツツジ Elliottia paniculata )『などの蜜に含まれるグラヤノトキシンが蜂蜜から検出されることがあり、問題となっている。このことはギリシャ・ローマ時代から知られており、大プリニウス、ストラボン、クセノフォンらは著書の中で』、『ツツジ属植物の蜜に由来する蜂蜜による中毒を記録に残している』。『また、上記の含有する植物を食べることによる家畜の中毒死も問題となる』とある)などの有毒成分が含まれることから、ウマが葉を食べれば毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからついたとされる。「馬酔木」はアセビを指す漢字名として定着しているが、本来は別の植物だともいう説もある』。『別名で、アシビ、アセボともよばれる。アシビは古名の一つで、一説では「悪し実」ではないかとされる。地方名でヒガンノキともよばれており、春彼岸のころにアセビが花盛りで、仏前の供花にもされることに由来する』。『学名の属名 Pieris(ピエリス)は、ギリシャ神話に登場する詩の女神の名前である』。『アセビは日本列島の本州(山形県以西)、四国、九州や、中国に分布する』(中文名は簡体字で「马醉木」で同じ)。『主に山地に自生する。やや乾燥した環境を好む。庭にも植えられる』。『有毒植物であり、葉に限らず、全体に有毒成分が含有される。このため、多くの草食動物はアセビを食べるのを避け、食べ残される。そのため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多く生育している場合がある』。『アセビが不自然なほど多い地域は、草食獣による食害が多いことを疑うこともできる。例えば、奈良公園や春日山では、ニホンジカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多く見られる』。『常緑広葉樹の低木から小高木で、樹高は』一・五~五『メートル』『ほどになる。自生するものは』、『かなり大きいものもあり、樹齢』百『年から』二百『年になる老木も多く見られる。樹皮は褐色で、縦に細く裂けて』、『やや』、『ねじれ、ネジキに似る。若枝は緑色で、はじめのうちは毛があるが、のちに無毛となる』。『葉は枝の先に束になって互生し、長さ』三~八『センチメートル』『の長楕円形から倒披針形で、葉縁には鋸歯がある。葉身は深緑色で厚い革質、表面に艶がある。芽吹きは赤く映えてよく目立つ』。『花期は早春から晩春』(三~五月)で、『早春になると枝先に』十センチメートル『ほどの房になった円錐花序を垂らし、白い壷状の花を』、『多数』、『咲かせる。花は長さ』五~六『ミリメートル』『ほど。雄蕊は』十『本で』、二『個の角を持ち』、『毛深い。なお、園芸品種には、ピンクの花を付けるアケボノアセビ(ベニバナアセビ)』( Pieris japonica f. rosea )、『花が上向きに咲くものにウケザキアセビ』( Pieris japonica f. antrosa )『がある』。『果期は秋』(九~十一月)。『果実は直径』五~六ミリメートル『の偏球形で、秋に熟す。実や葉は有毒である』。『冬芽は枝先に穂状につく。花芽は穂状で花期が近づくと目立ってくる。葉芽は卵形や円錐形で、多数の芽鱗に包まれている。葉痕は円形で維管束痕が』一『個見える』。『アセビは、日本で庭木、公園樹として植栽されるほかに、花を咲かせる盆栽としても利用される。常緑の灌木で垂れる花房が美しく、虫がつかないことから庭園の植栽樹として重宝されている。暖かい地域では、道路の中央分離帯の植栽樹に使われることがある』。『また、アセビが有毒植物である事を利用し、その葉を煎じてその液を植物に撒いて殺虫剤として利用されている。古くは葉の煎汁がシラミ、ウジ、菜園の虫退治に用いられた。そこで、アセビの殺虫効果を、自然農薬として利用する試みもなされている』。『アセビの有毒成分として、グラヤノトキシンI(旧名アセボトキシン・アンドロメドトキシン)、アセボプルプリン、アセボインが挙げられる。中毒症状は、血圧低下、腹痛、下痢、嘔吐、呼吸麻痺、神経麻痺が挙げられる』。『なお、ニホンジカが忌避する植物であるため、シカの生息密度が高く食害を受け易い森林では、アセビをシキミ』(樒:アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum 。シキミは全植物体に強い毒性があり、中でも種子には強い神経毒を有するアニサチン(anisatin)が多く含まれ、誤食すると死亡する可能性もある。シキミの実は植物類では、唯一、「毒物及び劇物取締法」により、「劇物」に指定されている)『など共に混植する試みが行われた事例も有る』。「万葉集」『にも』『アセビを詠んだ歌が』十首あり、『山の枕詞である「あしびきの」がアセビ(あしび)と結びつけられて論じられて』おり、『日本人が古くから親しんできた木で』、『アセビの花を愛でた歌人の面影を示す歌が多く』、「万葉集」の成立した奈良時代末期ごろまでには、庭園にアセビが植栽されて観賞されていたとみられている』。以下、「万葉集」より二首。独自に校訂した。

   *

磯の上(うへ)に生(お)ふる馬醉木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君がありと言はなくに

(卷第二・百六六番/大津皇子の遺体を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に改葬した時に、大伯皇女(おおくのひめみこ)が悲しんで作った二首の二首目)

   *

池水に影さえ見えて咲きにほふ馬醉木の花を袖(そで)に扱入(こき)れな

(卷第二十・四五一二番/大伴家持)

   *

以下、「アセビ属」の種十種が列記されるが、見るに、ここには必要がないと判断し、カットした。

「取りつなげ」「玉田(たまだ)橫野(よこの)のはなれ駒(ごま)つゝじのしたにあせみさきけり」「俊賴」既注の「夫木和歌抄」に載る源俊頼の一首で、「卷三 春三」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「01008」)。「あせみ」が「あしび」の古語である。]

2024/09/02

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 水甕

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題は「みづがめ」。]

 

      水   甕

 

 ジエロオムは八十になつた。

 彼は食ふだけの貯へはあるので、空氣を吸ふためにしか外へは出ない。日に一時間か二時間、病みついてなほらない脚《あし》を外に曳きずつて行くのである。彼が役に立つことゝ云つては、裏庭の井の水が渴れた時に、森の泉まで行くことだけであつた。

 彼は水甕を綱で括《くく》つて、それを手で提げて行く。サマリイの女のやうに肩に乘せることはしない。

 泉まで來ると、彼は先づ自分の喉を潤《うるほ》す。彼は冷えたところをその日の分だけ飮む。水甕に一杯を、うちで待つてゐるほかのものが飮めるやうに、さうするのである。彼は水甕を取り上げる。そして家に戾る。彼はゆつくり步く。その步き方の遲さは、杖を突いてゐるからでもあるが、水甕の水が少しも零《こぼ》れないほどである。

 彼が、喉を渴《かは》かして待つてゐるうちのものにそれを渡すとき、一滴も零さなかつたと云つて威張《いば》ることができるのである。

 たゞ、その水甕の水は、泉がそれほど遠くないのに、道で少し微温(ぬる)くなつた。

 

[やぶちゃん注:「サマリイの女」原文は“les Samaritaines”で「サマリアの女たち」であるが、知られる「新約聖書」に現われることで知られ、ここもそれを洒落たものである。“Samaria”(サマリア)は古代イスラエルの首都であつたが、アッシリア王サルゴンⅡ世の侵略を受けて紀元前七二一年に陷落の後、アッシリアから移民が入り込み、そこに殘つていたイスラエル人との間に混血を生じ、後、その土地の人々は「サマリア人」と称せられるようになった。彼等の宗敎は、アッシリアの土着信仰にユダヤ敎が混淆したもので、ユダヤ人はイスラエルの血を穢した存在として、サマリア人を忌避し、迫害した。「ヨハネの福音書」第四章によれば、ユダヤを去ってガリラヤへと戻ろうとしたイエスは、このサマリアの街シカルを通り掛かったが、弟子たちは食物を買いに町へ行き、彼は疲れ、「ヤコブの井」と呼ばれた井戸端に、独り、座つていた。その時、一人のサマリアの女が、辛(つら)い水汲みのため、この井戸へとやってきた。イエスは、女に、丁寧に、「水を飮ませて下さい。」と請うた。普段なら、異敎徒として蔑視されるはずの女は、驚く。イエスは優しく諭した。「この水を飮む者は、誰でも、また、渴く。しかし、私が与える水を飲む者は、決して、渴かない。私が与える水は、その人の中で、泉となり、永遠の命に至る水が、湧き出る。」 と。女は、イエスが救世主であると知り、二日の滞在の内に、シカルの多くのサマリア人たちが、イエスに帰依したと伝える。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥になつた男

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

      七面鳥になつた男

 

 七面鳥の飛ぶのを仕事のやうに見てゐたジヤツクフエイは、或る日、獨りでかう云つた。

 「おれだつて飛べないわけはない。翼さへあれやなんでもない。なに、おれが賴めば、おれの七面鳥が、どれか翼を貸してくれるだらう」

 處で、まづ彼は、腕で空氣を擊つ練習をした。彼のまはりに、風と埃とが起るほど早く、腕で空氣をうつのである。

 足の方はどうかと云ふと、足は獨りでに步いてゐる。これも泳ぐ時のやうに使へばいゝわけである。

 そこで彼は、死にかけてゐた一羽の七面鳥をつかまへて、その翼を引拔いた。それから、それをしつかり臂《ひぢ》に括りつけて、愈々一大飛躍を試みやうとした。

 彼は草原の中で、自分の七面鳥が逃げ狂ふ間を、走り𢌞り、跳ね上りした。翼を拔かれた七面鳥は、血で眞つ赤になつて、渦を卷いてゐた。時々彼は尻餅を搗いた……試にしである[やぶちゃん注:ママ。「試しに」の誤植。]。

 「これでよし」彼は云つた「さあ、一つやつて見るか」彼は川岸の一本の古柳を選んだ。幹の節《ふし》くれを傳つて容易に登ることができる。枝を拂つた頭が、丁度自然の小さなプラツトフオームになつてゐた。

 下には、濁つた川が深い眠りを眠つてゐるやうに見えた。そして、寄つてはすぐ消える輕い皺は、夢を見て笑つてゐるのかと思はれた。

 「若しおれが、最初一囘飛び損なつても」ジヤツクは言つた「水浴びをするだけのことだ。痛かつたところで知れたもの、上等な寢臺の上へ落ちるのと違ひはない」

 準備ができた。

 七面鳥の群《むれ》は、ゴロゴロ啼きながら、彼の方に首を伸ばしてゐた。そして、翼を拔かれた七面鳥は、草叢の中で息を引取らうとしてゐた。

 「いゝち!」と、ジヤツクは柳の木の上に立ち上つて、臂を擴げ、踵《かかと》をそろへ、眼を、やがて舞ひ上らうとする雲の彼方に注いで、云つた。

 「にいツ!」と、また彼は、長く息を吸ひ込んで云つた。

 「さん」は云はないで、決然として空中にからだを投げ出した。空と水との間に飛び込んだ。七面鳥の番をしてゐたジヤツクフエイの姿を、それから見たものはなかつた。

 

[やぶちゃん注:「七面鳥」『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』の本文と私の注を見られたい。なお、その「二」のパートは本作の後の方に出てくる。

「柳」原文は“saule”。本邦の場合は、殆んどの読者が「しだれ柳」、キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属シダレヤナギ Salix babylonica var. babylonica、をイメージしてしまうが、フランスの場合、一般的な柳は、セイヨウシロヤナギ Salix alba であろう。フランスの「Van den Berk UK Limited」公式サイト内の同種のページに多数の画像があるので、見られたい。まず、我々の想像し得る「柳」とは、ほぼ埒外の形状である。]

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版始動 / 力持ち

[やぶちゃん注:本篇は一八九四年(本邦では「日清戦争」が起こった明治二十七年相当)に「にんじん」の出版に次いで、同名の題で「土地の便り」及び「エロアの控え帳」の二篇と合わせて、文芸雑誌『メルキュール・ド・フランス』(‘ Mercure de France ’)で知られる同名出版者から三百部限定で刊行された(一九〇一年に増補再版されている)。底本は、日本で最初に翻訳された、岸田國士譯の国立国会図書館デジタルコレクションの大正一三(一九二四)年四月春陽堂刊の総標題「葡萄畑の葡萄作り」初版を用いた。ここが標題ページで、本文「力持ち」は、ここから。

 傍点「﹅」は太字に代え、私の注を一部に附したが、その際、原文はフランス版ウィキペディアの“Jules Renard”にリンクされたテクスト・サイト“Gallica”のPDFファイル版“LE VIGNERON DANS SA VIGNE”を、また「雄鶏」以降の「博物誌」の初稿ともいうべき複数項目については、私が、新たに、昨年末に各個電子化注(原文附)した『「博物誌」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』を参考にした。また、所持する臨川書店一九九五年刊の『ジュール・ルナール全集』第四巻所収の同作(柏木勇隆雄氏訳)も参考にする。最後のものは、必ず、引用を明記する。

 実は私は、十六年前の二〇〇八年十二月十三日に、サイト版で、一九七三年岩波書店刊の岩波文庫「ぶどう畑のぶどう作り」(第十刷・改版。初版は昭和一五(一九三八)年刊。新字新仮名)を公開しているが、やはり、初版の正字正仮名を電子化したいもの、と、ずっと思っていた。父の逝去から五ヶ月が経過し、未だ後始末はエンドレス状態だが、そうした、なんとなく落ち着かない気分を紛らわすために、大好きなルナアルの作品を、今日より、再開することに決した。

 本底本は、ルビが非常に少ない。されば、一部の読みが振れると判断した箇所には、私の推定で《 》で歴史的仮名遣の読みを添えた。

 また、底本では、直接話法が改行されているが、その場合、岸田氏は、一字下げをしている。また、鍵括弧の台詞の終りには句読点は、ない。それらは、そのまま再現した。

 岸田氏は、しばしば、歴史的仮名遣を誤る。これは、もう一種の思い込みによる誤用で、岸田氏の作品では、頻繁に見られる癖であり、恐らくは校正係が指摘したこともあろうが、直すことはなかったようだ。私のタイプ・ミスと思われるのは厭なので、執拗(しゅう)ねくママ注記を附した。

 なお、原文は、今回は附さずに、おく。原文との対比は、時間が異様に掛かり、他にやっているルーティンの電子化注に、甚だ、支障が生ずるためである。]

 

 

   葡萄畑の葡萄作り

 

 

     力  持  ち

 

 誰《たれ》もその男の云ふことを信じようとはしなかつた。が、彼が、腰掛を離れ、足を踏み鳴らし、昂然と頭を上げて棒切れの積んであるところへ行く、その落ち着き拂つた樣子で、强さうな男だとは、誰も見て取つたのである。

 彼は一本の長い、丸い薪《まき》を取り上げた。それは一番輕さうなのではなく、その中で、一番重いやつに違ひなかつた。その棒には、おまけに、節くれや、苔や、古い雄鷄《をんどり》のやうに蹴爪までついてゐた。

 先づ、その男は、その棒ぎれを振り𢌞して、そして怒鳴つた。

 「見たまえ、諸君、こいつは鐵の棒よりも固い。處が、吾輩は、かく申す吾輩は、それを膝で二つに折つて御目にかける。マツチ棒のやうに折つて御目にかける」

 此の言葉に、男も女も、敎會堂でのやうに、一齊に伸び上つた。新婚のパルジエ、半聾《はんつんぼ》のペロオ、それから噓を吐《つ》かせることの出來ないラミエなどが、そこにゐた。パブウもいた。さうさう、カステルも、そのカステルならかう云ふかも知れない――平生、夜の集りなどで、めいめい力自慢の話をし合つて、次から次へ人を驚かした評判の連中は悉くそこにゐたと。

 その晚は、彼等は笑はなかつた。それはたしかだ。彼等は既に、身動きもせず、口を緘《つぐ》んだまゝ、その力持ちを感心して見てゐるのである。彼等のうしろでは、寢てゐる子供の鼾《いびき》が聞こえる。

 その男は、彼等を全く威壓したと見て取つた。こゝぞとばかり、彼は傲然と身構え[やぶちゃん注:ママ。]た。膝を曲げた。そして、悠々と薪を取り上げた。

 暫くの間、それを、力瘤《ちからこぶ》を入れた兩腕の先に振つてゐた。――多くの眼が輝いてゐた。人々の口が息づまるやうに開いてゐた。――彼は薪を膝にあてた。えい! やツ! 掛け聲もろとも、脚《あし》が折れた。

 

[やぶちゃん注:「薪」原文は“bǔche”で、「まき・たきぎ」の意であるが、どうも、最も重い一本を選ぶ際、「たきぎ」という日本語は、私の認識では、どうも気軽に持てる細い感じがするので、敢えて「まき」と訓じた。

「パブウ」原文は“Papou”であるから、「パプウ」が正しい(正確に音写すると「パプ」)。誤植であろう。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡有岡村眞靜寺本尊

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]

 

   幡多郡(はたのこほり)有岡村(ありをかむら)眞靜寺(しんじやうじ)本尊

 幡多郡有岡村、眞靜寺は、徃昔(わうじやく)、有岡村の地頭民部少輔といふ人、事の緣(えん)、有(あり)て、上京せしに、元亨元年[やぶちゃん注:一三二一年。]、日像(にちざう)上人、法華弘通(ほつけぐづう)[やぶちゃん注:日蓮宗を普及させること。]の爲(ため)、洛中に於(おい)て、說法、有(あり)しが、民部少輔、其法席(ほふせき)に臨(のぞみ)て、度々(たびたび)、聽聞(ちやうもん)し、感情の餘りに、改宗す。

 既に歸國に臨て、云(いはく)、

「願(ねがは)くは、師、吾(わが)土佐國へ下向(げかう)し玉(たま)はれ。我が舘(たち)を施し、一寺を建立して、師を開山に仰ぎ奉らん。」

と、いふ。

 日像上人、宣(のたま)ひけるは、

「汝、精舎建立(しやうじやこんりふ)の志(こころざし)、願(ぐわん)あらば、我(われ)、必(かならず)、下るに不及(およばず)。本尊、授与(じゆよ)すべし。」

とて、則(すなはち)、「曼荼羅(まんだら)」を書(かき)て、賜りぬ。

 民部少輔、國にかへり、一寺を建立す。

 今の眞靜寺、是也。

 然(しかる)に、昔は、伽藍にて有(あり)しが、永祿前後の亂世に、いつとなく、荒廃し、彼(かの)「曼荼羅」も、行方(ゆくへ)、知れざりしに、寛永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]、中村大火、有(あり)、市中(いちなか)、不殘(のこらず)、燒亡する中(なか)に、一軒、怪(くわい)、有(ある)にして、燒殘(やきのこ)りぬ。

 不思義[やぶちゃん注:ママ。]の訳(わけ)にて、公義より、穿鑿(せんさく)有(あり)しに、

「何の火の守(まもり)も無之(これなき)。」

由(よし)。

「倂(しかしながら)、年久敷(としひさしく)、寺より預り居(をり)候。」

由にて、彼(かの)「曼荼羅」を差出(さしいだ)す。

 依之(これにより)、忠義公[やぶちゃん注:底本では、名の前に尊敬を示すための二字字空けがある。土佐藩第二代藩主山内忠義(在位:慶長一〇(一六〇五)年~明暦二(一六五六)年)。]、御上覽被遊(あそばされ)、

「奇特の事。」

に被思召(おぼしめされ)、新(あらた)に、表具、御仕替(おんしかへ)あり。則(すなはち)、御書附(おんかきつけ)を被添(そへられ)、再(ふたたび)、眞靜寺へ、御寄附(おんきふ)、有(あり)ける。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡有岡村」現在の高知県四万十市有岡(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「眞靜寺」ここ当該ウィキによれば、日蓮宗有岡(ありおか)山真静寺。『四国最初の法華道場として日蓮宗宗門史跡に指定されている。旧本山は、京都妙顕寺』。建武三(一三三六)年、『肥後阿闍梨日像の開山で』、『檀越民部小輔の開基により建立』された。『上洛した地頭民部小輔が居館を寄進して』、『日像筆の題目本尊を祀り』、『寺に改めた』とし、「文化財」の項には、「県指定文化財」として、『真静寺文書』と『真静寺三十番神板絵』のみが挙がっているが、「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「真静寺」には、『有岡集落の北部山麓にある。有岡山本城院と号し』、『日蓮宗。本尊十界大曼荼羅。かつては京都妙顕寺末』。『創建は元亨元年(一三二一)と伝え、檀越は有岡の領主有岡民部少輔という。「土佐州郡志」に「昔年有岡村領主有岡民部少輔ト云者、崇尊妙顕寺日像上人、因造此寺、当時堂宇壮麗僧舎若干、本尊釈迦、日像刻之」といい、「又有釈迦多宝二仏、其背後記曰、施主豊州若森ノ地頭上総守妙福寺左衛門尉為安、康安己巳歳十二月十二日」と記す』とあって、創建年に違いがあり、ここに出た曼荼羅も、本尊として現存するように書かれてある。

「有岡村の地頭民部少輔」上記以外に事績は見当たらない。

「日像」 (文永六(一二六九)年~康永元(一三四二)年)は鎌倉末・南北朝時代の日蓮宗の僧。京都妙顕寺の開創者。別名は経一麿、号は龍華院、通称は肥後阿闍梨。下総(千葉県)の豪族平賀忠晴の子。日朗の弟。日蓮、日朗に従い、永仁二(一二九四)年に入洛後は、たびたび京都を追われながら、大いに宗義を広めた。著書に「三秘蔵集」「宗旨弘通鈔」等がある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「永祿」一五五八年~一五七〇年。天皇は正親町天皇、室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄・足利義昭。最早、戦国時代である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 黐樹

 

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[やぶちゃん注:三種の黐木(もちのき)の図。右に『眞黐(マモチ)』とキャプションした一樹、左に『鐵黐(クロカ子』(ガネ)『モチ)』とキャプションした一樹、中央下部に低木の『江戸黐』(えどもち)とキャプションした一樹が描かれてある。]

 

もちの木   黐【音癡】

        黐膠所以黏

黐樹      鳥者

        俗云止利毛知

   其樹有數種

 

△按黐樹在深山葉大不結子者爲黐佳【結子者爲黐少其色亦惡】

 木葉似女貞而薄光澤雖四時不凋只二三分落葉四

 五月開細白花結子正圓熟紅色大如大豆而攅生剥

 其木皮浸水爛舂之濾於流水去皮渣則如麪筋而甚

 稠粘人用粘鳥雀謂之黐膠【止利毛知】紀州熊野多出之

江戸黐 葉狹長添枝茂如楊梅之葉樣四時不凋栽庭

 園佳其子同于眞黐而數多抱莖攅生【又名朝鮮黐】

[やぶちゃん注:「數」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「數」とした。]

黑鐵黐 似江戸黐而葉畧扁其子不甚輝

[やぶちゃん注:「輝」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通用の「輝」とした。]

 

   *

 

もちの木   黐《もち》【音「癡《チ》」。】

        黐膠(とりもち)は鳥を黏(さ)す

黐樹      所以(ゆゑん)の者なり。

        俗に云ふ、「止利毛知《とりもち》」。

     其の樹《き》、數種、有り。

 

△按ずるに、黐樹《もちのき》、深山に在《あり》て、葉、大きく、子《み》を結ばざる者、「黐《もち》」と爲して、佳《よ》し【子を結ぶ者は、黐と爲≪なすとも≫、少なく、其の色も亦、惡《あ》しし。】。木・葉、「女貞《いぬつばき=ひめつばき=さざんか》」に似て、薄く、光澤あり。四時、凋まざると雖も、只《ただ》、二、三分《ぶ》≪は≫、落葉す。四、五月、細≪き≫白≪き≫花を開き、子を結ぶ。正圓《せいゑん》にして、熟≪せば≫、紅色。大いさ、大豆のごとくして、攅生《さんせい》す[やぶちゃん注:集まって生ずる。]。其の木の皮を剥(は)ぎて、水に浸し、爛《ただらか》して、之れを舂《つ》き、流水に濾(こ)して、皮≪の≫渣《かす》を去れば、則ち、麪(ふ)の筋《すぢ》のごとくにして、甚《はなはだ》、稠-粘(ねば)る。人、用ひて、鳥雀《てうじやく》を粘(さ)す。之れを「黐-膠(とりもち)」と謂ふ【「止利毛知《とりもち》」。】。紀州熊野より、多く、之れを出《いだす》。

江戸黐《えどもち》 葉、狹長《さなが》く、枝に添《そひ》て、茂り、「楊梅《やうばい/やまもも》」の葉の樣《さま》のごとし。四時、凋まず。庭園に栽《うゑ》て、佳し。其の子《み》、「眞黐《まもち》」に同《おなじく》して、數《かず》、多く、莖を抱《いだき》て、攅生す【又、「朝鮮黐《てうせんもち》」と名づく。】。

黑鐵黐(くろがねもち) 「江戸黐」に似て、葉、畧(ちと)、扁(ひらた)く、其の子、甚だ、輝(て)らはず。

 

[やぶちゃん注:良安のオリジナル項目であるが、所謂、「鳥黐」を採る樹木は、本邦では、三種どころではなく、ウィキの「鳥黐」によれば、日本では、『原料は地域によって異なり、モチノキ属植物(モチノキ・クロガネモチ・ソヨゴ・セイヨウヒイラギなど)やヤマグルマ、ガマズミなどの樹皮、ナンキンハゼ・ヤドリギ・パラミツなどの果実、イチジク属植物(ゴムノキなど)の乳液、ツチトリモチの根など多岐にわたる』とある。但し、そこで、『日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」、ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」「ヤマグルマモチ」、イヌツゲから得たものは「アオモチ」と呼ばれ』、『鹿児島県(太白岩黐)、和歌山県(本岩黐)、八丈島などで生産されていた』とあることから、まず、

良安の言う「眞黐(まもち)」は、双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integra

であることが判った。

 一方、最後に良安が確信を以って、別に条を立てたところの、

「黑鐵黐(くろがねもち)」は、まず、何し負うところの、モチノキ属クロガネモチ Ilex rotunda

としてよいであろう。

 最後に残った「江戸黐」は、ちょっと手間取った。辞書類では、まず、独立した見出しとして見当たらなかったからである。一つだけ、「Weblio 辞書」の日外アソシエーツの「季語・季題辞典」の『江戸黐』『エドモチ(edomochi)』の項に、『モチノキ科の常緑小高木。五月ごろ、黄緑色の小さい花が咲く』とし、『季節 夏』、『分類 植物』とあったので、少し心強くなった。それは、当該辞典は新しいもので、こうした叙述をしているからには、特定の種であることを意識して記載されたものであろうと踏んだからである。そこで、良安が、『葉、畧(ちと)、扁(ひらた)く、其の子、甚だ、輝(て)らはず』と特徴を記している点に着目した。ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の葉の形状は、この画像(リンク先は当該ウィキの葉の画像)である。そこで、以上に上がった「黐」を採取出来る種群の葉を見たところ、残る種で、本邦に普通に分布するものでは、ソヨゴの葉(「ソヨゴ 葉」のグーグル画像検索)と、ヤマグルマの葉が、ヤマモモの『狹長』な感じと一致することが判った。しかし、どっちが、より、葉が似ているかと言えば、私の印象では、ヤマグルマ(同前の画像)の方が、ヤマモモに似ていると感じられた(ソヨゴの葉は葉の幅が明らかに広く、「狹長」と言うには、ちょっと、長さが足りないのである)。しかも、ウィキの「黐」では、『日本においては』、『モチノキあるいはヤマグルマから作られることが多』いと言っていることから、

「江戸黐」(えどもち)はヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioides

であると比定することとした。まず、ウィキの「モチノキ」を引く(注記号はカットした)。本邦の漢字表記は『餅の木・黐の木・細葉冬青』。中文『名は、全緣冬青』(『別名』は『全緣葉冬青』。『別名ホンモチ、単にモチともよばれる。 和名は樹皮から鳥黐(トリモチ)が採れることに由来する』。『日本では東北地方中部以南(宮城県・山形県以西)の本州、四国、九州、南西諸島に分布し、日本国外では朝鮮半島南部、台湾、中国中南部に分布する。沿岸の山地や、暖地の山地に自生す。葉がクチクラ層と呼ばれるワックス層に覆われていることから』、『塩害に強く、寒気の強い内陸では育ちにくいため、暖かい地方の海辺に自生する。人の手によって、庭などに植栽もされる』。『常緑広葉樹の中高木。雌雄異株で、株単位で性転換する特性がある。樹皮は灰色で、皮目以外は滑らか。一年枝は緑色で無毛である』。『葉は互生するが、枝先は』、『やや輪生状に見える。葉身は長さ』四~七『センチメートル、幅』二~三センチメートル『の楕円形・倒卵状楕円形で、革質で濃緑色をしている。葉は水分を多く含んでいる』。『開花期は春』四月頃『で、雄花・雌花ともに直径約』八『ミリメートル』『の黄緑色の小花が、葉の付け根に雄花は数個ずつ、雌花は』一、二『個ずつつける。花弁はうすい黄色でごく短い枝に束になって咲く。雄花には』四『本の雄蕊、雌花には緑色の大きな円柱形の子房と退化した雄蕊がある』。『果実は直径』一~一・五センチメートル『の球形の核果で、内部に種子が』一『個ある。はじめは淡緑色だが、晩秋』十一『月』『に熟すと』、『赤色になり、鳥が好んで食べる。果実の先端には浅く裂けた花柱が黒く残る。実は冬まで残り、長く枝に残るものは黒くなる』。『冬芽のうち、花芽は雄株・雌株ともに葉の付け根につき、雄株のほうが花芽は多い。頂芽は円錐形で小さい。葉痕は半円形で、維管束痕は』一『個』、『つく』。『モチノキにはモチノキタネオナガコバチ』膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目モンオナガコバチ科 Torymidae Macrodasyceras hirsutum )『という天敵が存在する。このコバチは夏に発育中の種子の中に産卵し、幼虫と成って越冬する。幼虫は実の色を操作する能力があり、秋になれば』、『本来』、『赤くなる実を緑のままにすることで、実が鳥に食べられる事態を避ける。鳥に食べられる事によって繁殖するモチノキにとって、コバチの産卵は繁殖の妨げとなる』。『モチノキは花粉を受粉しなくても種子を形成し、果実まで成熟することができる能力があり、調査によって未受精の種子は全体の』三『割に及ぶことが判明している。コバチは受精した種子にしか産卵しない特性があり、時間と労力をかけて産卵管を挿入しても、未受精の種子だった場合は産卵せずに抜いてしまう。未受精の果実は発芽しないため』、『繁殖の役には立たないが、産卵に無駄なコストをかけさせることでコバチの繁殖を妨害する対抗手段となっている』。『日なたから半日陰地に、土壌の質は適度な湿度を持った壌土に、根を深く張る。成長は遅い方である。植栽適期は』、二『月下旬』~四月、六『月下旬』~七『月中旬』、『もしくは』、四~七『月上旬』、『または』、九『月中旬』~十『月中旬に行うとされる。剪定の適期は』三『月中旬』~五『月中旬とされる。施肥は』一~二『月に行う。茂りすぎて風通しが悪くなると、カイガラムシ』(半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科 Coccoidea)『が寄生して、スス病』(サイト「For your LIFE」のこちらに詳しい)『が多発する恐れがある。枝配りを行って、さまざまな形に仕立てることができる』。『樹皮から鳥黐(トリモチ)を作ることができ、これが名前の由来ともなった。まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて』、『秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら』、『繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って』、『細かい残渣を取り除くと』、『鳥黐が得られる。モチノキから得られる鳥黐は色が白いため、ヤマグルマ』(後述する)『(ヤマグルマ科』Trochodendraceae)『を原料とするもの(アカモチ)と区別するために「シロモチ」または「ホンモチ」と呼ぶことがある』。『材は堅く緻密であるので、細工物に使われる』。『刈り込みに強いことから』、『公園、庭などに植栽される。また、防火の機能を有する樹種(防火樹)としても知られる』。『日本では』、『古くから』、『庭に欠かせない定番の庭木として親しまれ、さまざまな形に仕立てることができるため』、『玉仕立て』(刈り込んで芯を止め、側枝を出させ、その後、丸くなるように刈り込んでゆく刈り方。刈込回数が多く、手間がかかる仕立て方であり、蔓性の樹木類には適さない)『にするほか、列植』(れっしょく)『して目隠しにも利用してきた。潮風や大気汚染にも耐えるため、公園樹としてもよく用いられる』。『御神木として熊野系の神社の中にはナギ』(私の好きな「梛」(なぎ)の木で、裸子植物門マツ綱ナンヨウスギ目マキ科ナギ属ナギNageia nagi )『の代用木として植えている場合がある』とあった。

 次いで、「クロガネモチ」(同前)。漢字名『黒金餅』。『別名、フクラシバ、フクラモチともよばれる。中国名は、鐵冬青。和名クロガネモチは、モチノキの仲間で、若い枝や葉柄が黒ずんでいることから名づけられた』。『日本の本州(茨城県・福井県以西)・四国・九州・琉球列島に産し、日本国外では台湾・中国・インドシナまで分布する。暖地から亜熱帯のやや気温の高い地域の山野に生え、日なたから半日陰地を好み、やや日陰地にも耐える』。『低地の森林に多く、しばしば』、『海岸林にも顔を出す』。『常緑広葉樹』の『中高木に分類されるものの、自然状態での成長は普通』十『メートル』『程度にとどまり、あまり高くならない。生長の速さは遅い。株は』一『本立ちで、ふっくらした樹形になる。樹皮は緑がかった灰白色や灰褐色で、ほぼ滑らかで、多数の小さい皮目がある。若い茎には陵があり、紫っぽく色づくことが多い。一年枝は褐色を帯びる。春』四『月に新芽を吹き、葉が交替する』。『葉は互生し、深緑色のなめらかな革質で表面は光沢があり、裏面は淡緑色。葉身は長さ』五~八『センチメートル 』『の楕円形』、若しくは、『広楕円形で、先端は尖り』、『やや波打つことが多く、葉縁は全縁』。『花期は』五~六『月で雌雄異株。当年枝の葉腋から花序をつくって、淡紫色や白色の小さな』四つから六つの『弁花を咲かせる』。『果実は核果で、直径』五~六『ミリメートル』『ほどの球形をしており、秋に多くの実が集まってつく。雌雄異株のため雌株だけ果実がつき』、十一月から二『月に真っ赤に熟して春まで枝に残る。果実はモチノキに似るが、より小さい』。『冬芽は葉のつけ根につき、側芽、頂芽とも小さい』。『しばしば』、『庭木として用いられ、比較的』、『都市環境にも耐えることから、公園樹、あるいは街路樹として植えられる。実の赤さはモチノキよりも際立って見える。樹勢が強いことから、生け垣にも仕立てやすい。「クロガネモチ」が「金持ち」に通じるから』、『縁起木として庭木として好まれる地域もある。西日本では野鳥が種を運び、庭等に野生えすることがある』。

 最後に同前でヤマグルマを引く。本種は一科一属一種で、『別名、トリモチノキともよばれ、トリモチが取れることで知られている東アジア特産の被子植物の木本である』。『日本では、本州(山形県以南)、四国、九州、琉球、伊豆諸島に、東アジアでは、台湾、朝鮮半島南部に分布する』。『常緑広葉樹』の『高木であり、高さは』二十『メートル』『に達するものもある』。『葉は、長さ』二~九『センチメートル』『の葉柄をもって枝先に互生し、車状に輪生する。葉身は厚みがある広倒卵形から狭倒卵形で、長さ』五~十四センチメートル、『幅』二~八センチメートル、『表面は皮質で光沢があり、裏面は粉白色を帯びる。葉先は尾状に尖り、基部はくさび形で、縁の上部に波状鈍鋸歯がある』。『花期は』五~六『月。枝先に長さ』七~十二センチメートル『の総状花序を出して』、十~二十『個ほどまとまった黄緑色の花をつける。花の直径は約』一センチメートル『で、萼片はない。秋に種子をつけ』、十一~十二『月に褐色に熟す』。『ヤマグルマは他の広葉樹と異なり、針葉樹と同じく』、『仮道管によって水を吸い上げる機構を持つため、寒気の強い亜高山帯や乾燥した岩場、豪雪地帯でも適応できる』。『生態的には岩角地や』、『その上部の岩の露出しがちな尾根など、空気の動きのある場所を好む。 イワナンテン』(ツツジ目ツツジ科イワナンテン属イワナンテン Leucothoe keiskei )『やイワイタチシダ』(岩鼬羊歯:シダ植物門シダ綱ウラボシ(裏星)目オシダ(雄羊歯)科オシダ属 Dryopteris saxifraga )『と同時に現れやすい。場所によってはヒナスゲ』(雛菅:単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属ヒナスゲ Carex grallatoria )『などもセットで見られる。常緑樹としては標高の高いところにも出現するが、南部低地でも見られ、生態分布が非常に広い。 往々にして生きた樹木の上に溜まった土や苔から発芽し、着生する姿も見られる』。『冬季はアセビ』(馬酔木:ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ属アセビ亜属アセビ亜種アセビ  Pieris japonica subsp. japonica )『イワナンテンなどと同様、場所により』、『葉が裏に巻き、だらしなく下垂しているのを見ることも多い。これは葉をつけたまま冬を乗り切るさまざまな植物、スイカズラ』(マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica )『などでも見られる』。『陰樹で、非常に生長が遅く』、『手入れがしやいことから』、一『戸建て住宅の植栽に使用される』。『東北地方中部から沖縄の地域にかけて植栽可能で、植栽適期は』、三『月』、六~七『月』九~十『月』『とされる』。『トリモチが取れることからヤマグルマを「もちのき」と呼ぶ地方がある』とある。

「女貞《いぬつばき=ひめつばき=さざんか》」かく読みを振ったのは、良安は第一に「いぬつばき」と読み、第二に、異名として「ひめつばき」(姫海石榴)と読んでいると判断したこと、そしてこれは、現在の「さざんか」(山茶花)を指すことから、かく振ったものである。それは先行する「女貞」で、私がさんざんか、基! さんざん、産みの苦しみで解読した事実に基づくので、そちらの私の注を参照されれば、納得されると存ずる。

「鳥雀《てうじやく》」スズメを代表とする人里近く集まる小鳥の総称。既出既注。

「楊梅《やうばい/やまもも》」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。「やうばい」は外していいかも知れない。既に「楮」で『ヤマモヽ』と振っているからである。

「朝鮮黐《てうせんもち》」現在は、このヤマグルマの異名は、死語のようである。]

2024/09/01

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 潮江村天滿宮牽牛之繪馬

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「鰐口(わにぐち)」は私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。絵もある。「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示しておく。「天滿宮」は複数回既出の「眞如寺」が、東に動かして寺を建てた、現在の「潮江天満宮」(グーグル・マップ・データ)のことである。]

 

   潮江村天滿宮牽牛之繪馬

 潮江村、天滿宮に、牽牛・織女の繪馬、有(あり)。

 此繪馬の訳(わけ)は、天滿屋何某(なにがし)といふ者、銀五百目を失ひぬ。店に有(あり)ける銀なれば、

「手代(てだい)の業(わざ)にもや。」

と、疑ひける。

 手代も、訳、立(たて)がたく、其夜(そのよる)より、天神宮へ、通夜(つや)し、七日(なぬか)に及(および)ける。

 夜(よる)も、宵より參籠(さんろう)し、朝(あした)、下向(げかう)の時、門(かど)に、水溜桶(みづためをけ)、有(あり)て、上に、竹の簀(すのこ)を置(おき)、石を、其上(そのうへ)にのせて有(あり)しを、取散(とりちら)し有(あり)ければ、不審に思ひ、立寄(たちより)見れば、桶の中へ、五百目、封のまゝ、入有(いれあり)し、とぞ。

 

[やぶちゃん注:尻切れ蜻蛉である。思うに、疑われた手代が無実の罪を晴らして呉れたということで、絵馬を奉納したというのだろうが、何故、それが牽牛・織女の絵馬なのか、判然としないからである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡戶內村鰐口

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「鰐口(わにぐち)」は私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。]

 

   幡多郡(はたのこほり)戶內村鰐口

 幡多郡山田の內、戶内(へない)村の年寄、久米右衞門といふ者、鰐口を所持せり。其銘にいふ。

 奉施入有井庄八幡宮鰐口一口 應永第十三八月十五日敬白 願主満盛

 此鰐口は、入㙒村、加茂八幡宮の鰐口と見ゆ。

 昔(むか)し、盜賊、奪來(うばひと)りて、戶內村へ捨置(すておき)しを、久米右衞門先祖、拾ひ取りて、今に所持せり。

「此鰐口を、他家(たけ)へ納置(をさめお)けば、必(かならず)、鳴動す。」

と、いへり。

 久米右衞門は舊家にて、古文書、數通(すつう)、所持せり。

 

[やぶちゃん注:「現在の高知県宿毛市平田町(ひらたちょう)戸内(へない:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「奉施入有井庄八幡宮鰐口一口 應永第十三八月十五日敬白 願主満盛」訓読しておく。

   *

施入奉(ほどこしいれたてまつる) 有井庄(ありゐのしやう) 八幡宮鰐口一口(ひとくち) 應永第十三丙戌(ひのえいぬ)八月十五日敬白 願主満盛(まんせい)

   *

「有井庄」は、恐らく、以下の入野の加茂八幡宮から東北方向に当たる、現在の幡多郡黒潮町有井川(ありいがわ)地区を指す旧称と思われる。「應永第十三丙戌(ひのえいぬ)八月十五日」はグレゴリ暦で一四〇七年十月六日相当で、室町幕府第四代征夷大将軍足利義持の現役時代の治世。「満盛」は「勢いがさかんなこと」で、「繁盛」を言祝ぐ意であろう。

「入㙒村、加茂八幡宮」現在の高知県幡多郡黒潮町(くろしおちょう)入野(いりの)。戸内の東北東二十キロメートル圏内。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 小野村百姓古法眼画

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ「古法眼(こほふげん)」(現代仮名遣「こほうげん」)とは、一般には、「父子ともに法眼に補せられた場合、その区別をするために父を指していう称」であるが、特に個人を指す場合、知られた室町後期の絵師で狩野家二代目の、正信の子狩野元信(文明八(一四七六)年~永祿二(一五五九)年)を指す。また、村名の「小野」の読みの「この」は、この通りで、現行の地名でも「おの」ではなく、「この」である。

 

   小野村百姓古法眼(こほふげんが)画

 先年、桐間家(きりまけ)の知行所(ちぎやうしよ)、吾川郡(あがはのこほり)小㙒(この)村の百姓の居宅、度々(たびたび)、夥敷(おびただしく)鳴動する事、有(あり)。

 始(はじめ)は、肝を、つぶしけるに、家內(かない)の者は聞馴(ききなれ)、更に怪(くわい)ともせず、打過(うちすぎ)ぬ。

 或時、廻国の執行者(しゆぎやうじや)[やぶちゃん注:ここでは「𢌞國の修行者」に同じ。]、來りて、一宿しける。

 其折柄(そのをりから)、如例(れいのごとく)、家、鳴(なり)ければ、執行者、驚き怪(あやし)みて、亭主に問(とふ)。

「いかなる事にて、家、鳴(なる)や。」

と、いふ。

 亭主、

「しかじか。」

のよし、語りける。

 執行者、聞(きき)て申(まうし)けるは、

「拙者、內々(ないない)、占ひを致すもの也。」

とて、吉凶を占(うらなひ)て、申(まうす)は、

「此家に、大切なる掛物類(かけものるゐ)、有(ある)べし。是(これ)を、打捨置(うちすておか)れぬる故(ゆゑ)、か樣(やう)に怪異あり。其(その)掛物を、何方(いづかた)へぞ、大身成(たいしんなる)方(かた)へ、讓(ゆず)られ、然(しか)るべし。しからば、此後(こののち)、家鳴り、止むべし。」

と云(いふ)。

 亭主、聞(きき)て、

「我等方(われらかた)に、左樣(さやう)の掛物類、無し。床(とこ)に、『十三佛』の掛物、有るまで也(なり)。」

と、いふ。

 執行者、聞(きき)て、

「其(その)『十三佛』成(なる)べし。見せられよ。」

と云(いふ)。

 亭主、

「安き事也。」

とて、見せける。

 幾年(いくとせ)か、狹(せば)き家の內(うち)に掛(かけ)て置(おき)、ふすぼりぬれば、何とも、見分難(みわけがた)し。

 されども、外(ほか)に何も無きならば、

「是成(これなる)べし。其許(そのところ)、地頭(ぢとう)あらば、此譯(このわけ)を申(まうし)て、地頭へ、上(あげ)らるべし。」

と申ける。

 亭主、

『實(げに)もや。』

と、思ひけん、則(すなはち)、將監殿(しやうげんどの)へ差上(さしあげ)けるに、

『奇特(きどく)。』

に思ひ玉(たま)ひ、褒美(ほうび)として、米を、二俵(にひやう)、被下(くだされ)ける。

 其後(そののち)、將監殿より、表具師(へうぐし)久六(【法體生計(ほつたいせいけい)といふ。】を呼(よび)て、

「此掛物、痛まぬ樣(やう)に、念を入(いれ)、洗ひ候樣(さふらふやう)に。」

云聞(いひきかせ)られける故、能(よく)洗ひげれば、大槪(たいがい)、繪形(ゑのかたち)、見へ[やぶちゃん注:ママ。]けるに、菅神(すがじん)[やぶちゃん注:菅原道真が御霊信仰で神霊となった天神のこと。]の尊像にて有(あり)ける。

 夫(それ)より、上方(かみがた)へ目利(めきき)に遣(つかは)されけるに、「古法眼(こほふげん)」の筆に極(きはま)り、彼家(かのいへ)の重寶(じゆうはう)と成(なり)けると也。

 又、同じ頃、同所の百姓、枯木に鳥のとまりたる、古き繪を持(もち)たる者、あり。

「是も、何(なん)ぞ、御用にも可立(たつべき)ものにや。」

と、云(いひ)て、將監殿へ差上(さしあげ)ければ、是も「古法眼」に極りて、同(おなじ)く、俵子(たはらご)を賜はりけると也。

 此事、黑田氏、物語にてありし。

 右天神(てんじん)の掛物は、今に、兵庫殿、尊崇(そんすう)にて、虫干(むしぼし)にも、居間にて、自身、手入(ていれ)し給ふ、とぞ。

 此事(このこと)、「胎謀記事(たいぼうきじ)」に見へたり。

 

[やぶちゃん注:「桐間家」知られた土佐藩家老の家柄である。

「吾川郡(あがはのこほり)小㙒村」現在の高知県吾川郡いの町(ちょう)小野この:グーグル・マップ・データ)。

「十三佛」これは、中国で作られた偽経による、ヴァラエティに富んだ地獄思想の冥途の裁判官である十王思想を中心として、その本地仏とする如来・菩薩・明王を対応させ、それらが、十三回の追善供養(初七日から三十三回忌)をそれぞれ司るものとし、主に掛軸にした絵を、法要を始めとして、諸仏事に於いて飾って、仏事をした、本邦の室町時代に独自に形成された日本仏教の風習に用いられる絵図である。十王と本地仏の対称と供養(当該十王の審理忌日)の表はウィキの「十三仏」を見られたい。その室町期の「十三佛圖」の掛軸の画像もある。

「地頭」江戸時代、旗本や各藩の地行所の領主のことを、かく、呼んだ。但し、彼らは、領有するものの、余程のことがあっても、領主自身が、その領地に出向くことは、まず無く、必要な実務対応は、総て部下が行った。

「將監殿」「將監」は、本来は近衛府の判官(じょう)の官名であるが、戦国から江戸時代にかけては、相応の地位にある武家の自分の名乗りに、よく使われた。土佐藩家老を歴任した桐間家の当主は、代々、幕末まで「桐間將監」を名乗っている。

「表具師」表具(紙や布を糊で張り付けること)を専業とする職人。掛物などの表具をする十四世紀末の裱褙師(ひょうほいし)が前身。十七世紀から、掛物のほかに屏風の張付や巻物の表具も行うようになり、十三世紀からあった経師(きょうじ:古くは、経や絵図等を書き写す職人のことを指したが、後に障子・襖・壁・天井などに紙や布を張る職人のことを言う)の仕事と重なり、表具師・表具屋と経師・経師屋は同じ業態となった。表具師は建具の襖や障子の紙張り・張り替えもするようになった。居職(いじょく:自宅で依頼された仕事をすること)が主である。

「法體生計」僧形であるが、一般の工人として生業を行って暮らしていることを言う。絵師・俳諧師等には多かった。

「黑田氏」土佐藩の黒田勝吉・黒田健家系図が残る。

「兵庫殿」不詳。しかし、以上の本篇の流れから見て、家老桐間家の誰かの名乗りと読める。調べてみたところ、土佐藩士で、大和流弓術の師範で、維新後の自由民権家宮地茂春の曾祖父であり、かの坂本龍馬の大叔父にあたる宮地信貞のウィキの、「補注」の「10」に、「潮江天満宮棟札」から、元禄二年八月二十一日(グレゴリオ暦一六八九年十月四日)、『大願主・土佐太守四位侍従松平土佐守藤原朝臣豊昌公。奉行・山内彦作信和、桐間兵庫義卓』(☜)、『孕石小右衛門元政、岡田嘉右衛門。作事役・島田三郎兵衛敦正。庄屋・宮地五助茂久』とあった。本書の完成は文化一〇(一八一三)年で百二十四年後であるが、桐間家の後裔が「兵庫」を名乗った可能性は強いと思われる。なお、「潮江村(うしほえむら)」(現代仮名遣「うしおえむら」)は既出既注だが、再掲すると、高知市市内の鏡川(かがみがわ)河口南岸の地区で、浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である。「ひなたGPS」で示しておく。

「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

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