「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 幡多郡伊与木郷庄屋不閉門
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]
幡多郡(はたのこほり)伊与木郷(いよきがう)庄屋(しやうや)不閉門(へいもんせず)
幡多郡伊与木郷の庄屋は、代〻、門を戶(とざ)す事ならず、戶、指(させ)ば、自然(おのづ)と、明(あき)て、有(あり)【外輪(そとわ)の門の戶、勝手口入口の戶、二ケ所也。外(ほか)は、戶、有(あり)。】。
或夜(あるよ)、試(こころみ)に錠(ぢやう)をおろし置くに、夜中に、聲、有(あり)。
誰(たれ)とも不知(しれず)、
「何(なに)とて、戶を、さしたるぞ、明(あけ)よ。」
といふ。
終(つひ)に、戶を、はづしおけり。
或時、亭主、門を、戶ざし、守り居(をり)たるに、夜中(よなか)、少(すこし)の間(あひだ)、その所をはづしたる內(うち)に、戶は、明(あけ)て、有(あり)。
夫故(それゆゑ)、其後(そののち)は、夜分、戶を、さゝず、と也(なり)。
然(しか)るに、
「盗人(ぬすびと)、入(いる)る時は、『立(たち)ずくみ』に成(なり)て、不動(うごかず)。」
と、いへり。
又、庄屋の宅、座敷のうちに、人(ひと)、寢(いぬ)る事(こと)不成(ならざる)間(ま)、あり。
若(もし)、寢(いぬ)る時は、丑刻(うしのこく)ばかり、遠きより、刀戦(かたないくさ)の音、す。
次㐧(しだい)に、近付(ちかづき)て、此(この)座敷に入(い)る。
「形は見へず、寢(いね)たるもの、惣身(さうみ)、すくみて、絕入(たえいら)んとす。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「幡多郡伊与木郷」近現代の行政合併が著しく、非常に判り難くなっているが、「コトバンク」の平凡社「日本歴史地名大系」の「伊与木郷」の記載に、『現佐賀町の佐賀地区を除く伊与喜(いよき)川流域と土佐湾岸を含む地域をいい、中村街道が伊与喜川沿いに通る。』とあるのが、参考になる(但し、既に佐賀町は消滅して大合併し、現在は広域の幡多郡黒潮町(くろしおちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)となっている)。現在の行政地名の高知県幡多郡黒潮町佐賀は、ご覧の通り、広域だが、前記の記載に従うなら、少なくとも、現在の伊与喜川河口の左岸の佐賀市街地区は旧「伊与木鄕」には含まれない。しかし、前記の『佐賀地区を除く伊与喜(いよき)川流域と土佐湾岸を含む地域をいい、中村街道が伊与喜川沿いに通る』という記載からは、この現在の広域の「佐賀」地区の内、国道五十六号の走る附近及び伊与喜川流域の沿岸、さらには、現在の佐賀地区と、その周辺の地区の土佐湾沿岸部の一部も、旧「伊與喜鄕」であったと考えなくてはならない。更に、黒潮町佐賀の北に接する現在の黒潮町伊与喜も、当然、旧「伊與喜鄕」である。されば、旧「伊與喜鄕」は非常な広域であったと考えられる。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、「伊與喜」はここで、その東北の山中部分に「佐賀村」とあり、明治のこの頃は、大きな佐賀村の中に吸収されてしまっているように見える。しかし、ウィキの「佐賀町」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日に、『町村制の施行により、佐賀村・藤縄村・熊井村・中野川村・伊与喜村・市野々川村・不破原村・荷稲村・川奥村・拳ノ川村・橘川村・市ノ瀬村・鈴村・熊野浦村・小黒野川村の区域をもって佐賀町が発足』とあり、次いで、昭和一五(一九四〇)年十一月三日に、『佐賀村が町制施行して佐賀町となる』とあるのだが、この記載、不審がある(太字下線を附した部分)。この部分は「佐賀村」の誤りと解さないと辻褄が合わないからである。なお、戦前の地図を見ると、伊與喜地区から、北西のかなりの山間部に「伊與喜川」が分流していることが判ることから、この「伊與喜鄕」は、林業を生業としていた郷であったと推定してよいように思われ(グーグル・マップ・データ航空写真の現在の「伊与喜」を添える。ほぼ九十五%以上が山林である)、この主人公の「庄屋」は、まさに伊与喜川を使って、木材を狭義の河口にある佐賀地区に搬送していた林業者の元締めであったと考えるのが自然である。実際、現在も伊与喜に南で接する、ここ(伊与喜川左岸)に「黒潮町森林組合」の事務所(地図上では「幡東森林組合」だが、前に示した組合名はストリートビューのここで視認出来る)があるのである。以上から、この庄屋の家があった地区も、私はグーグル・マップ・データ航空写真の、この中央の南北の伊与喜川右岸の地区内にあったものと推理するものである。
なお、当初、私は、この怪異を、「山の神」由来か、と思ったが、刀剣で争う音がするという部分に着目すれば、これ、ありがちな天狗の怪異とするよりも、何らかの武士の怨念を感じさせ、室町の戦国期か、織豊時代、この附近での武家同士の戦さがあったか、或いは、もっと遡って、平安末期・鎌倉時代初期の落ち武者等の怨念話等を考える方が妥当であろうか。]
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