葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここ。標題は「しちめんてう」。]
七 面 鳥
道の上に、またも七面鳥の行列。
每日、天氣がどうであらうと、彼女らは散步に出かける。
彼女らは雨を怖れない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾《すそ》は捲《まく》れない。また、日光も怖れない。七面鳥は日傘を持つて出たことがない。
[やぶちゃん注:この原文は、
*
DINDES
Sur la route, voici encore le pensionnat des dindes.
Chaque jour, quelque temps qu’il fasse, elles se promènent.
Elles ne craignent ni la pluie, personne ne se retrousse mieux qu’une dinde, ni le soleil, une dinde ne sort jamais sans son ombrelle.
*
この一行目は十全に訳されたものとは言えない。問題は“le pensionnat”を訳していないからである。この単語は、第一義は「(私立の)寄宿学校」で、第二義で「何らかの寄宿舎・寄宿寮」を指し、第三義に集合的総称呼称としての「寄宿生等(ら)」の意味である。則ち、この一行の映像的な対象把握と、比喩を判るように補助して訳すなら、
「何時(いつも)の道を行くと、これ、またぞろ、寄宿学校の寮生どもよろしく、七面鳥が、ぞろぞろとやって来る。」
であろう。この私立寄宿学校自体が、若き日のルナールが、いろいろと悲喜こもごもの経験してきた忘れ難い実体験の場であるから、この一見、お茶らかして笑いを醸す一行には、実際には、そうしたルナールの過去寄宿学校時代の苦い思い出や記憶に裏打ちされているものと読まねばならない。彼の作品の残酷な、或いは、悲惨で惨めな主人公の行動や、捩じれた感懐には、殆んどが、そうした過去の若き日の惨めな、捩じれた心傷的経験と直結しているからである。ただの、小洒落(こじゃれ)た換喩ではないのである。
されば、ここは、そうしたルナールの仕掛けを、この初版の訳は、残念ながら、全く、そうしたユーモラスに見える、自身の経歴を元にした、自傷的にネガティブな投影を嗅がせているところを、全く漂白してしまっているのである。
流石に、岸田氏も、その欠落を気にされたものであろう、後の改訳版では、
*
道の上に、またも七面鳥学校の寄宿生たち。
毎日、天気がどうであろうと、彼女らは散歩に出かける。
彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。
*
と改訳しておられる。
なお、『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「七面鳥」』では、やや長いアフォリズムに続けて、本篇を「Ⅱ」として添えてある。
「彼女らは雨をおそれない。どんな女も七面鳥ほど上手に裾(すそ)はまくれまい。また、日光もおそれない。七面鳥は日傘(ひがさ)を持たずに出掛けるなんていうことはない。」前のリンク先でも問題にしてあるが、この原文の“dinde ” は、特にシチメンチョウの♀を指す女性名詞である。しかし、所謂、我々が通常、想起する形象はシチメンチョウの♂であり、フランス語では別に“dindon”の語で表わす。無論、この単語は男性名詞である。ところが、最終段落は、ルナールの自己撞着が図らずも現われてしまっているのである。この「彼女ら」(☜)「は雨をおそれない」。それは、「どんな女も」「七面鳥ほど」には「上手に裾(すそ)はまく」ることは出来ないからであり、「七面鳥は」常に巨大な「日傘(ひがさ)を持」っているから、「日光もおそれない」というカリカチャアの部分は、シチメンチョウの♀ではあり得ないのである。この「日傘」というのは、私達が百人が百人、直ちに想起するところの、♂だけが持つ襞飾りのある羽や扇形の尾を広げたシーンを換喩したものだからである。]
« 「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久保源兵衞滅亡 | トップページ | 「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 峯 寺觀音威霊 »