「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 森田日向占
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]
森田日向(もりたひうが)占(うらなひ)
森田日向は、拍子(ひやうし)を聞(きき)て占(うらなふ)に、十にして、九つは、能(よ)く合(あは)せたり。
若き時は、木履屋町(ぼくりやてう)に居(をり)て、商(あきなひ)ける故、「木履太夫(ぼくりだいふ)」と異名を呼(よば)れぬ。
門前に、用水の流(ながれ)、有(あり)て、大松を、二本、植(うゑ)、此松の本(もと)にて、每朝、垢離(こり)を取(とり)て、祈禱をする。
第一、御上々(おんうへうえ)の御長久(おんちやうきう)を祈念する事、數(す)十年、一日も怠らざりし事、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]て、
『奇特。』
に被思召(おぼしめされ)、於御郡方(こほりがたにおいて)、御褒詞(ごほうし)に預(あづか)りぬ。
或時、久松屋久助(ひさまつやきうすけ)方(かた)へ來り、咄(はなし)の序(ついで)に、いふ。
「人の卜(うらなひ)をすれども、未(いまだ)、我身(わがみ)の卜を不仕(つかなつらず)。手を打(うち)て給(たまは)れ。占ふて、見ん。」
といふ。
久助、手、拍(うち)ければ、幾つも、うたせて、能く聞(きき)、卜(うらなひ)て、いふ。
「扨々(さてさて)、殘多事也(のころおほきことなり)。何も不殘(のこらず)候。古松(ふるまつ)、一本、殘るべし。」
と、いひしとかや。
是より、十ヶ年も過(すぎ)、豊(ゆたか)に暮して、終(をは)りぬ。
其子(そのこ)も、業(なりはひ)を續(つづ)て、卜(うらなひ)けるが、親に劣りて、段々、衰微せしが、寛政七年乙卯(きのとう)八月、大洪水、眞如寺橋、臺(だい)、押切(おしきり)、潮江上町(しほえかみてう)、數(す)十軒、流失、溺死、數人、有(あり)。
日向が家も流れ、子も、一人、溺死して、十年前に占ひしごとく、松、一本、殘れり。
[やぶちゃん注:「森田日向」不詳。
「木履屋町(ぼくりやてう)」この町名の読みは、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名勝志」訂正第三版(寺石正路著・昭和五(一九三〇)年富士越書店刊)の「高知市」のパートのここに(左ページの後ろから四つ目の「○」の項。下線は底本では「●」の右傍点)、
*
○木履屋町通(ぼくりやてう[やぶちゃん注:左ルビ。]) 播磨屋橋(はりまやばし)より潮江橋(うしほえばし)に至る昭和三年道路を擴張し電車を通し北は鐵道高知驛より南は棧橋(さんばし)に至る高知市中第一の文化道路(ぶんかだうろ)たり。
*
という記載で判明した。現在、この(グーグル・マップ・データ)、「JR四国高知駅」北口から「はりまや橋」を経て、「潮江橋」を渡り、南東方向に向かう「とさでん桟橋線」の終着駅「桟橋通五丁目駅」までのルートを指している。少なくとも、潮江橋までは「はりまや通り」と記されている。ここが、旧「木履町」と考えられる。
「寛政七年乙卯八月」
「眞如寺橋」現在ある天神大橋(グーグル・マップ・データ)の前身であろう。この附近は、今までの複数篇で、「眞如寺」・「潮江天滿宮」を含め、さんざん検証してきた場所である。
「潮江上町」現在の高知市天神町(てんじんまち:グーグル・マップ・データ)。潮江橋南詰西直近。]
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