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2024/09/06

葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 ピン

[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]

 

     ピ   ン

 

 彼女の許婿《いひなずけ》が戰爭に出掛ける時、ブランシユは、彼にピンを一本贈つた。彼はそれを大事に取つておくと誓つた。

「あなたが、これを僕に下さるのは、きつと、僕があなたを忘れないやうにでしせう」と、ピエールが云ふ。

 「いゝえ」――彼は云ふ「あなたがあたしを忘れないつて云ふことは、もうちやんとわかつてるんですもの」

 「それなら、このピンを持つてゐると、僕に運が向くつて云ふんでせう」

 「いゝえ、あたし、そんな御幣《ごへい》かつぎぢやないの」

 「まあ、よござんす、それはどうでも」――ピエールは云ふ「これがあなたからの贈物であり、あなたが僕を愛して下さる、たゞそれだけで僕は滿足です」

 「あたし、あなたを愛しゐますわ」――ブランシユは云ふ「でも、あたしのピンは、何かあなたの御役に立つことがあつてよ」

 それはさうと、戰場で、ピエールは、左の腕に彈丸(たま)を受けて、その腕を切斷しなければならなかつた。

 「ブランシユはあゝ云ふ女だから」彼は云つた「きつと、氣を利かして、早く結婚したいと云ふだらう」

 彼は後送された。彼の最初の訪問はブランシユの家であつた。彼は、生き殘つたことに誇りを感じながら、いそいそと路の上を步いてゐると、何氣なく自分の空《から》の袖に氣がついた。彼はそれをぢつと見つめてゐた。

 袖は平たくなつてぶらりと下《さが》つてゐる。でなければ、だらしなく右左へゆれてゐる。さうかと思ふと、獸《けもの》の尻尾《しつぽ》のやうに跳ね返つてゐる。

 「いくらかまわないと云つても、此の扮(なり)では一寸滑稽だ」ピエールは云つた。

 殘つてゐる方《はう》の手で、彼はその袖をつまみ上げ、二つに折つて、きちんと肩のところへピンで留めた。

 

[やぶちゃん注:「戰爭」本書の刊行された一八九四年以前、フランスが当事者として戦った戦争は「普仏戦争」だけである。一八七〇から七一年に於いて、プロイセンとフランスの間で発生した戦争で、ビスマルクの巧妙な策略によりプロイセンが連戦連勝し、結果、フランスは賠償金を支払い、アルザス=ロレーヌの大部分を割譲することとなった。パリ開城直前、ベルサイユでドイツ帝国の成立が宣言されている。これによりドイツは統一を完成し、フランスは第二帝政が消滅、第三共和政が成立している。この時、ルナールは未だ六~七歳であった。ルナール自身には戦争体験はない。徴兵は一八八四年、二十歳の時、徴兵検査を受けているが、審査委員会で徴兵延期とされ、翌一八八五年十一月、二十一歳の時、条件付きの志願兵として、ブールージュ駐屯第九十五戦列連隊に入隊し、一年間の平時の兵役をしてはいる(以上は所持する臨川書店一九九九年刊の『ジュール・ルナール全集』の最終巻第十六巻所収の年譜に拠った)。ああ! アルフォンス・ドーデの「風車小屋便り」の「最後の授業」を思い出す。多分、六年生の「国語」の教科書で読んだ。同じく五年生の時の教科書に載っていたナサニエル・ホーソンの「いわおの顔」(私のブログ記事『ナサニエル・ホーソン「いわおの顔」について』を参照されたい)とともに、小学生時代、授業で最も感動した二篇であった。孰れも、光村図書出版の教科書だった。なお、調べたところ、現在は二篇ともに教科書には採用されていない。「最後の授業」は史実では、同地は歴史的にドイツ系のアレマン人の流れを汲むアルザス人が殆んどであり、フランスの国粋主義イデオロギーをあからさまに描いた偏向作品として、無惨にも、教科書から永遠に排除されてしまった。私はまさに、小学五、六年の頃、読書に本格的に目覚めていた。また、当時の担任であられた並木裕先生(本来の専門は書道)が、個人的に読書感想文や随筆文を書くことを頻りに個人指導され、それらが『小学生新聞』に少なくとも十度近く掲載され、作文への自信を固めたのを忘れない。「最後の授業」は、まさに、小学校卒業直後に富山高岡市伏木に引っ越したことが、作品に打たれた大きな理由だったと言ってよい。中高時代も、教師たちの勧めで、感想文で何度も朝日新聞社賞なども頂戴した。私は、その頃は、心理学を専攻したかった(小学校上級生以降、ジグムント・フロイトの愛読者であった)が、結局、心理学科は総て落ちて、滑り止めの國學院大學文学科に進み、神奈川県の高等学校の国語教師に落ち着いた。その根っこは、小学五年生の時、青年の知人から贈られた小泉八雲の「怪談・奇談」(田代三千稔(みちとし)訳・角川文庫昭和四二(一九六七)年三十三版)や、以上を始めとする教科書の作品群が発火点であった。]

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