「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 公御判
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。「公御判」は「おほやけごはん」と読んでおく。この篇の本文冒頭には罫外に二行割注で『可削』(けづるべし)という除外指示がなされてある。理由は不明だが、この「龍泉院」とは、土佐藩六代藩主山内豊隆(やまうちとよたか 延宝元(一六七三)年~享保五(一七二〇)年(享年四十八)/在位:宝永三(一七〇六)年より没年まで)の戒名であるから、最後の不吉な占いを述べているためであろう。因みに、当該ウィキによれば、彼『は無能であり、兄が登用した山内規重や谷秦山、深尾重方などを次々と処罰してゆき』、時に、宝永四(一七〇七)年十月四日に発生した「宝永地震」で、千八百四十四人(十月二十六日時点での数)の『死者を出すという惨事に見舞われた』『ため、地震の救済に務めながら』「宝永の改革」と『呼ばれる藩政改革に着手したが、効果はなかった。地震の翌年、震災対応のため』、『老中土屋相模守の便宜により』、『豊隆は参勤交代を免除されたが、襲封以来の初の参勤であることと』、『母の病気の見舞いという』、『もっともらしい理由をつけて、震災対応も「大方手合仕」』(おほかたてあはせつまつる)『として、宝永』五『年』年『内に江戸に参勤している。しかし、この大震災が短期間で復興するはずがなく、その行動も土佐藩政史上に名君が少ないとされる一因とされる』とあり、『先代からの重臣たちを次々と粛清したことから』、『評判が悪く、土佐藩随一の暗君と言われている』とあるので、自業自得である。因みに、本書は文化一〇(一八一三)年成立である。]
公 御 判
龍泉院樣、
「御判を占はせられ候樣(さふらふやう)に。」
被仰出(おほせいだされ)、御近習(ごきんじゆう)の面々も、判をすえ[やぶちゃん注:ママ。「据う」(ワ行下二段活用)であるから「すゑ」が正しい。]、御判と一つにして、數々(カズかず)、取集(とりあつ)め、丸山藤助、新橋付(づき)、言合(いひあはせ)、江戶の吉川左內方(かた)へ、持參して、見せければ、左內、手水(てうづ)、つかひ、口、すゝぎて、右の判を、掌(てのひら)にのせ、一枚づゝ、一覽しけるに、數々の內(うち)にて、御判をば、床の方、神前(しんぜん)、有(あり)し方(かた)へ、持參(もちまゐ)りて、三度(みたび)、戴き、神前にさし置(おき)、
「扨(さて)。いづれもへ申樣(まうすやう)、御判は外(ほか)の判と一つになる御判にて無御座(ござなき)候。是は、御主人か、又、外(ほか)より御賴(おんたの)まれ有之(これあり)候はゞ、御歷々方(おれきれきがた)の御判と見へ申(まうす)。一國の主(あるじ)とも申(まうす)人の御判にて候。」
と申故(まうすゆゑ)、孰(いづれ)も、おどろきぬ。
「御判の吉凶、如何可有哉(いかがあるべきや)。」
と問(とふ)。
左內、答へけるは、
「隨分、能き御判にて、御繁昌被成(ならるる)と見え申(まうす)。しかし、こゝに、一つ、不思義[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]なる事、御座候。御家(おんけ)に障礙(しやうがい)をなす事ありて、一旦、御繁昌被成候(なられさふらふ)ても、難(なん)、續(つづき)候。此所(このところ)は、拙者如きの祈禱抔(など)の、及ぶ所にて無御座候。」
とぞ、申(まうし)ける。
不思義成(なる)事也。
[やぶちゃん注:「丸山藤助」不詳。
「新橋付」意味不明。
「吉川左內」不詳。]
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