葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 姉妹敵
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。標題の「姉妹敵」だが、岩波文庫改版では「きょうだいがたき」とルビするので、「きやうだいがたき」と読んでおく。]
姉 妹 敵
彼女らは、牛乳入りの珈琲《コーヒー》を、ちびちびと、急がずに飮んでゐた。その時、マリイはアンリエツトに云つた。
「あんたは行儀よく飮むつて云ふことができないのね」
アンリエツトは、むつとして、下を向いた。と、頤《あご》がすぐに三重《さんぢゆう》になる。それほど彼女はふとつてゐた。下を向くと、胴着の上に汚點(しみ)がついてゐる。なかなか言ひ返さうとしない。テエブルの上に茶椀を置いて、一《い》つ時《とき》、庭の樹を眺めてゐる。凋落の兆(きざ)しを眺めてゐる。
「おつしやいよ、意地わるね」やがて彼女は云つた。「あんたには、こんな粗相《そさう》はできつこないのね。珈琲を零《こぼ》しても、みんな、ぢかに床(ゆか)の上に落ちてしまふから」
「あたしが瘠せてるつて、ちやんと云つたらどう」
「さうぢやないの、でも、あんたの胸は、あたしの見たいに邪魔にならないつて云ふの。あたしさう思ふわ」
「ぢや、較べて見ればわかるわ」
さう云つたかと思ふと、二人は、臂《ひぢ》と臂とをすれすれに、くつついて並んだ。息を吸ひ込む。そして、橫眼で、どちらが餘計張り出してゐるかを見て見るのである。
「降參した。」アンリエツトが云ひかける。
「第一、あんたは踵《かかと》の髙い靴をはいてるんですもの」――マリイが云ふ「あうだ、いゝことを考へた。その茶椀をもつて、こつちへ來て御覽なさい」
アンリエツトは、云はれるまゝに、マリイの後《あと》について行く。彼女らは二人の寢室にはひつて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。岸田氏の癖である。]、戸の閂《かんぬき》をおろす。
着物に皺《しは》の寄る音、釦《ボタン》が飛んで轉がる音、紐がこすれる音が聞こえる。長い間、彼女らは笑はないで、こそこそ話をしてゐる。やがて、はつきりした聲で、
「そらね、あたしの、緣(ふち)までいつぱいよ」――マリイが云ふ。
「ぢや、あたしのは、はひりもしない。お茶椀がはじけちやうわ」
鍵の孔《あな》に陽《ひ》が照つてゐるかと思はれるほど、くつきりと白い頸《くび》をあらはにむき出して、二人の姉妹敵は、たれ憚らず、牛乳入り珈琲の茶碗で、乳の大きさを測つてゐる。
[やぶちゃん注:「見たいに」これは誤りではない。近現代の比況の助動詞「みたいだ」(形容動詞型活用)は、第一義「性質や状態が他の何かと似ていることを表わす」が、これは近世語の「見たやうだ」の変化したものだからである。
『「降參した。」』“— Te rends-tu ? demande Henriette.”であり、「?」がないと、読者は躓く。改版では、ちゃんと『降参した?』としてある。但し、改版は前半部が逐語的に露わに訳されてあるのだが、こちらは、姉妹がこれから何をするかが、ボカされてあって、却って、漸層的にラストのエロティクなシークエンスを引き出す形を採っており、この初版の方が、全体としては成功していると思っている。]
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