葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 寳石
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]
寶 石
フランシイヌは散步をしてゐる。何も考へてゐない。その時、突然、彼女の右足が左足を追ひ越すことを拒《こば》む。
そこで彼女は、植え[やぶちゃん注:ママ。]つけられたやうに、深く板をおろしたやうに、飾窓《かざりまど》の前を動かない。
彼女は窓硝子に姿を映したり、又は、髮の毛を直したりする爲めに止《とま》つたのではない。彼女の眼は一つの寳石に注がれてゐるのである。彼女は執念深く、その寳石を見つめてゐる。それで、若し、その寶石に翼が生えてゐたら、獨りでに、蛇に見込まれた蛙のやうに、それが指環ならフランシイヌの指に、襟留《えりど》めなら胴着の胸に、またそれが耳飾りなら、彼女の耳たぼに、そつと飛び附いて來るだらう。
それがもつとよく見えるやうに、彼女は眼を半分つぶつて見るのである。また、せめてそれが瞼《まぶた》の下にぶらさがるやうに、彼女は、眼をすつかりつぶるのである。彼女は眠つてゐるやうに見える。
然《しか》るに、窓硝子のうしろに、店の奧から來た一本の手が現はれる。袖口から出てゐるその手は、白く、華奢《きやしや》な手である。それは、巧みに鳥籠の中にはひる[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の癖。]手のやうに思はれた。その手は慣れてゐる。ダイヤモンドの焰にやけどもせず、居睡りをしてゐる樣々な石が目を覺さないやうに、その間を拔けて通る。そして、胸をおどらせながらそれを見つめてゐるフランシイヌに、あなたの好きな方《かた》を一寸失禮しますと云はんばかりに、すばしこく指の先で件《くだん》の寶石を搔《か》つ浚《さら》つて行く。
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