葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 稅金
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]
稅 金
「條文がちやんとあります」收稅官吏はノワルミエに云つた。
『一八八九年七月十七日附法令、第三條、第三項。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル七子ヲ有スル父及《オヨビ》母ハ人頭《ニントウ》並《ナラビニ》動產ニ對スル課稅ヲ免セラルルモノトス』
「いゝか」家に歸つて、ノワルミエは妻に向つて云つた「われわれはもう六人子供がある。七人目をこしらえよう。稅金を拂はなくつてもいゝ」
確かなことが二人に勇氣を與へた。既に彼等は他の多くのものよりも不幸《ふしあは》せでないやうな氣がした。ノワルミエは殆ど每日働いた。彼は乞食もした。それだけではない、どうかすると肉や馬鈴薯を盜んで來た。それでも彼の律義者《りちぎもの》であることに變りはなかつた。
また膨れ出した彼の妻は、がらんどの家にいても、からだを休める暇《ひま》がなかつた。それで子供は一人も死ななかつた。彼等の慘めな生活が、最も激しい狀態に陷つた頃、七番目の子供が救《すくひ》の手のやうにやつて來た。ノワルミエは、ほツとして、悠然とかう繰り返した。
「まあいゝ、稅を拂はんのだから」
處が、翌年の課稅として金九法《フラン》五十仙《サンチーム》納入すべしと云ふ新しい白箋《はくせん》を受け取つた。
「條文がちやんとあります[やぶちゃん注:底本は「あます」。脱字と断じて訂した。]」また收稅官吏は云つた。
『一八九〇年八月八日附法令、第三十一條。一八八九年七月十七日附大藏省令、第三條。第三項ハ次ノ如ク改正ス。嫡子タルト庶子タルトヲ問ハス、生存セル停年未滿ノ七子ヲ有スル父及母ニシテ十法以下ノ人頭動產稅ヲ課セラルルモノハ、此ノ課稅ヲ免除セラルルモノトス』
「そらね[やぶちゃん注:底本は「そうね」。誤植と断じ、訂した。]、なるほど、九法五十仙の稅金を納めるので、つまり十法以下だ。それから、なるほど嫡子として生存せる七人の實父には違ひないが、その七人はみんな底本の竹内利美氏の後注に、『』とある停年未滿ではない。長男のシヤルルは二十一歲になつた、卽ち停年に達したわけです。さう云ふ譯だから、何《なん》にもなりません」
ノワルミエは此の言葉を、死んだ馬のやうに、どんよりした顏附をして聞いてゐた。
「な、おい」彼は妻に云つた「おれには、ちやんとわかつてるんだ。やつら、わざわざ變へやがつた。さうよ、それにきまつてら」
どうして、彼女は、あんまりびつくりして、わかるどころの騷ぎではなかつた。彼の方も、收稅官吏の云ひ分を妻に說明して聞かせるにつれて、だんだん、わかり方がぼんやりして來た。
「何んだつて」妻は叫んだ「七人ゐて、それが、こんだ六人と同じことだつて。ぢや、每年、死ぬまで九法五十仙出すのかい。そんなことがあるものかね。第一、子供の年が殖えたからつて、あたしたちのせいぢやないぢやないか」
長い間、ノワルミエは考へ込んでゐた。
「どうだ、おい」彼はやつと口を開いた「おれやいゝことを考へた。勘定にはひら[やぶちゃん注:ママ。]ない子供の代りをこしらへたらどうだ。稅金の方ぢや停年未滿つてやつが要《い》るんだから、そいつをすぐ一人こしらへてやろうぢやないか」
[やぶちやん注:「がらんど」「がらんどう」(江戸後期に用例あり)の縮約。明治中期には一般に使用されていた。
「停年」まあ、この語は「ある特定の年齢に達すること」を言うから、誤りとは言えないが、使用法としは、「定年退職」を想起するように、相応しい用法ではない。岩波文庫の改版では「丁年」と改訳しており、その方が正確である。「丁年」は、最近は用いられないが、二十歳(現行は満で)=成人を指す語である。「丁」の「盛ん・強い」という意から生じたものと思われるが、別に「丁」は、唐代の制度では、二十歳から五十九歳までの労働可能な男子を言ったようであるから、その使用として、後者語原と考えた方がよかろう。
「こんだ」「今度」の音変化した俗語。江戸中期には既にあった。]
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