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2024/09/19

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 伊勢國與茂都占

[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。この「與茂都」の「都」(都)を「いち」と読むのは、小学館「デジタル大辞泉」等によれば、「いちな」(漢字表記:一名・市名・都名)で、元は琵琶法師などがつけた通称名で、名の最後に「一」・「市」・「都」などの字が附された。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする「平曲」の流派は、「一名」を附けたので、「一方流」(いちかたりゅう)と呼ばれた。後、広く、一般の視覚障碍者も通称として用いた、とある。]

 

     伊勢國與茂都(よもいち)占(うらなひ)

 石坂三助は、寛文四年、被召出(めしいだされ)、江戶詰(えどづめ)の時、伊勢國の、与茂都といふ座頭を、藤堂和泉侯(とうだういづみこう)御抱(おかかへ)にて、調子占(てうしうら)[やぶちゃん注:人の声を聴いてする占い。「五音(ごいん)の占(うらない)」。]をする事、古今(ここん)の名人也。

 三助、

『懇望。』

に思ひ、或時、与茂都方(かた)へ行(ゆき)、

「囘生(くわいせい)の吉凶禍福、占ひ玉はれ。」

と賴み、調子を打(うち)ければ、与茂都、良(やや)暫(しばし)、考(かんがへ)、

「扨々(さてさて)、運、强(つよく)、命(いのち)、長き調子、さして名の髙き程の事は無けれども、命は九十を越すべし。乍去(さりながら)、一代の內(うち)、命を失(うしな)はんとする危(あやふ)き事、兩度(りやうど)あれども、是(これ)も、運、强ければ、其(その)難を遁れ玉ふべし。」

と、いひぬ。

 三助、礼を云(いひ)て、屋敷へ、歸りぬ。

 無程(ほどなく)、其年(そのとし)、御國(みくに)へ下りて、後妻を迎け(むかひ)るが、一兩年、過(すぎ)、不緣(ふえん)にて、離別す。

 其翌年、右妻の親、御用人にて有(あり)けるが、銀(ぎん)[やぶちゃん注:金(かね)。]・米(こめ)、引負(ひきおひ)、其外、御掟(ごぢやう)、背(そむ)く事、有(あり)て、露顯(ろけん)し、其(その)者は、御仕置(おしおき)に逢ひ、近類(きんるゐ)、不殘(のこらず)、追放、或(あるい)は、扶持(ふち)・切米(きりまい)、被召放(めしはなたれ)ぬ。

 三助は、離別の以後なれば、何事もなく、難を遁(のが)れぬ。

 三助は、潮江、四つ辻の西に、住居(すまひ)す。[やぶちゃん注:「すまふ」は「住まふ」の連用形が名詞化したもので、それに「住居」を当て字したものであるから、「すまゐ」とするのは誤りである。]

 或年、冬、朝、起(おき)て、茶の間へ出(いで)けるに、下女、茶釜を洗ひ、竃(へつつい)へ掛置(かけおき)けるが、屋根裏に掛置し、傘、落(おち)て、茶釜の緣(ふち)を、打(うち)こぼちければ、三助、見て、

「惜(をし)き事也(なり)。祕藏の茶釜、若(もし)、底に痛みは出來(いでき)ぬや。」

と、茶釜を、目通(めどほ)りに、差上(さしあげ)、眼(ウカヾ[やぶちゃん注:ママ。最後に「フ」が脱字したものであろう。但し、国立公文書館本50)でも同じく脱字している。])抔(など)して居(を)る所へ、何かは不知(しらず)、茶釜の底へ、

「くわん」

と、當(あた)りぬ。

 餘り、當り、强ければ、茶釜、持(もち)ながら、仰(あふむ)けに倒(たふ)れける。

 扨(さて)、起上(おきあが)り、その邊(あたり)を見るに、卷藁(まきわら)射る、稽古矢、一筋(ひとすぢ)、有(あり)。

 其(その)箆(の)[やぶちゃん注:矢の先頭の鏃(やじり)を除く、篠竹(しのだけ)で作る部分の称。「矢柄」とも言う。]に

「谷次郞兵衞」

と、小刀(こがたな)にて、彫付(ほりつけ)、有(あり)。

 三助は、南側、次郞兵衞は、北側にて、門(かど)、合(あは)せ也。

「何ぞ、我等へ、意趣(いしゆ)有(あり)て、射掛(いかけ)たるべし。矢を持參し、詮義[やぶちゃん注:ママ。]せん。」

とて、既に、大小、指(ささ)んとする所へ、次郞兵衞、肝(きも)を消したる樣子にて、走り來(きたり)て云(いはく)、

「先づ、御斷(おんことわり)申候。唯今、卷藁へ、掛(かか)り弓(ゆみ)、稽古致す處、寒き朝なれば、手前、違(たが)ひ、矢、それて、此方(こなた)の窓に入(いり)たると、見へたり。扨々、過怪我(あやまちけが)[やぶちゃん注:誤って、しでかした事。]とは申(まうし)ながら、面目次㐧(めんぼくしだい)も無き仕合也(しあひなり)。」

と斷(ことわり)を述(のべ)ければ、三助、茶釜に當りたる始終の咄(はなし)をしければ、次郞兵衞、安堵して、歸(かへり)ける。

 三助、爰(ここ)に於(おい)て、與茂都が占(うらなひ)し兩度(りやうど)の難(なん)を遁(のが)れ、占の名人なる事を感じぬ。

 三助、立身し、子孫繁昌にて、年九十餘(あまり)、享保の初(はじめ)、終(をは)りぬ。

 與茂都は、江戶にて、名誉の占者《せんしや/せんじや/うらないじや/うらなひびと/うらおき》にて、ありける。

 

[やぶちゃん注:「寛文四年」一六六四年。徳川家綱の治世。

「藤堂和泉侯」伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた津藩第二代藩主藤堂高次(慶長六(一六〇二)年~延宝四(一六七六)年:藤堂高虎の嫡男。寛文九(一六六九)年に隠居している)のこと。]

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