「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 久保源兵衞滅亡
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。]
久保源兵衞滅亡
韮生鄕(にらうのさと)久保村番人、久保源兵衞は、給田(きふでん)六百石を賜りて、御入國以來、代々の番人也。
家は三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]梁(さんげんばり)に十四間[やぶちゃん注:二十五・四五メートル。]に建て、後口(うしろぐち)に一間の庇(ひさし)を付(つけ)て、長家は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]梁に十一間[やぶちゃん注:約二十メートル。]に造りて、矢倉門(やぐらもん)を建(たて)ぬ。
庭に、鴨脚木(イテウノき)、七囲廽(ななまはりめぐり)なるもの、二本、有(あり)。
後(うしろ)は、嶠山(けうざん)[やぶちゃん注:鋭く聳える高い山。]、峯(みね)、聳(そび)へ[やぶちゃん注:ママ。]、前には、大河、渦漩(ウヅマキ)ぬ。
いはゆる「阿州通路(あしうつうろ)」の關所也。
斯(かか)る山家(やまが)に住馴(すみなれ)て、朝暮(てうぼ)、殺生を業(なりはひ)とし、熊に組み勝ち、山犬を生捕(いけどり)、鹿・猪を食とするより外(ほか)他事(たじ)なかりしが、寛政六年三月の頃、川へ出(いで)て、「毒流し」といふ事をしたり。
「中上」・「かうの板」・「とゞろ渕(ぶち)」とて、三つの渕、有(あり)。比(この)渕は[やぶちゃん注:これは国立公文書館本(53)で補った。]、昔より、人も恐(おそれ)て、獵する事なき所なるを、
「何の障(さは)る物や、あらん。」
とて、毒を入(いれ)たるに、香魚(アユ)・嘉魚(イダ)・鯇魚(アメノウヲ)は云ふに不及(およばず)、幾年(いくねん)經(へ)たるともしれぬ鰻(ウナギ)・鯉・鯰(なまづ)に至る迄、悉(ことごと)く浮上(うきあが)るを、狩り取(とり)ける。
中(うち)に、山伏の形なる者、立出(たちいで)けるを、源兵衞、怒(いかり)て云(いはく)、
「何者ぞ。爰(ここ)は我(わが)領分也。何の障る事あらんや。」[やぶちゃん注:底本では、『立出(たちいで)けるを、源兵衞、怒(いかり)て云(いはく)、「何者ぞ。』の部分は、写し落したらしく、後から右に挿入している。国立公文書館本(54)ではちゃんと当該箇所に入っている。]
と訇(ののしり)かければ、其儘、失(うせ)ぬ。
夫(それ)より、荷(にな)ひつけて、我家へ歸(かへる)。
無程(ほどなく)、夜に入(いり)けるに、女の泣聲、しければ、怪(あやし)み、尋(たづね)みれども、形も見へざりしかば、內(うち)に入(いり)ぬ。
又、女の泣(なき)て走り廻る聲、終夜しける、と也(なり)。
其年(そのとし)、三月、雨夜(あまよ)の事なるに、俄(にはか)に、山中(さんちゆう)、震動する事、夥(おびただ)しく、後(うしろ)なる大山(おほやま)、崩れ懸りて、源兵衞を初(はじめ)、老母・伯母・下人五人、上下(うへした)男女(なんによ)八人[やぶちゃん注:源兵衛の使用人。]、其外(そのほか)、近邊に家居(いへゐ)せし百姓、廿八人、一度に埋(うづま)りて、數(す)百丈の大山、向ふの川へ、崩(くづれ)たりければ、さしも韮生の大河(たいが)、せき留(とめ)られ、河中(かはなか)、新たに、山を築(つき)なせり。
數日(すじつ)の中(うち)、物部川(ものべがは)迄、干水(ひみづ)と成りぬ。
「ふしぎなりしは、其後(そののち)、死骸も見えず、家の柱類(はしらのたぐゐ)、一本も、年をふれども、しれざるは、いづくへか、埋(うづま)りけん。」
[やぶちゃん注:最後の鍵括弧で挟まれた一文は、底本では、実際に鍵括弧で示されてあり、筆者、或いは、報告者の実地検証した添え辞であることが判る。
「韮生鄕(にらうのさと)久保村」平凡社『日本歴史地名大系』によれば、現在の高知県香美郡物部村(ものべむら:現在は物部町(ものべちょう))久保中内(くぼなかうち)・久保高井(くぼたかい)・久保堂ノ岡(くぼどうのおか)・久保安野尾(くぼやすのお)・久保上久保(くぼかみくぼ)・久保沼井(くぼぬるい)・久保影(くぼかげ)・久保和久保(くぼわくぼ)とし、グーグル・マップ・データでは、このポイント周辺に相当する(以下、無指示は同じ)。『別府(べふ)村』(現在は物部町別府(べふ))『の山を隔てて』、『西方、上韮生(かみにろう)川』(ここ)『最上流の右岸に沿って集落が点在する。北は阿波国。「窪」とも記す。上韮生川』(かみにろうがわ:ここ)『と支流の安野尾川』(やすのおがわ:ここ)『に沿って二つの道が阿波』(徳島県)『側に延びるが、いずれも九十九折』(つづらおり)『の難路である。「土佐州郡志」には「東西二里十二町、南北二里三十町、戸凡百二十余、其土黒、久保・堂之岡・安能・奴留井・中内・日浦、以上惣曰久保村」と記す。韮生郷に属し(江戸時代後期に分離)、天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳にはクホノ村・北地ノ村・上クホノ村・ヤスノウノ村・ぬる井ノ村・中内ノ村・影ノ村・小浜ノ村・東久万山村・西久万山などの小集落が記され、すべてが窪名とある』とある。「ひなたGPS」の戦前の地図の『上韮生(ニラウ村)』の『久保』が確認出来る。当該箇所のグーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。強烈な奥深い山間部である。
「鴨脚木(イテウノき)」先ほどの、旧久保地区の、ここに、まさに「堂ノ岡の乳イチョウ」があるが、「七囲廽」(十・五〇メートル)はドンブリであろうが、気根の「乳」も立派で(同データのサイド・パネル画像)、これが、その一本の生き残りであろうと思われる。
(ななまはりめぐり)なるもの、二本、有(あり)。
「大河」先に示した上韮生川。
「寛政六年三月」グレゴリオ暦一七九四年三月三十一日から四月二十九日。
「毒流し」毒揉み。本話と、やや親和性のある『「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」』の本文と私の割注を参照されたい。
『「中上」・「かうの板」・「とゞろ渕(ぶち)」とて、三つの渕』不詳。
「嘉魚(イダ)」硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis の異名。
「鯇魚(アメノウヲ)」四国なので、タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマスOncorhynchus masou ishikawae の異名と採れる。他の地域では、違った種を指す場合もある。
「物部川(ものべがは)」ここ。位置関係を見て頂くと判るが、この物部川までが、崩落によって、流れが遮られ、水が干乾びたということになると、この山体崩落は、久保と山体を隔てた位置に平行に走る物部川(途中の下流で上韮生川は物部川に合流する)の間の山脈の北西側と南東側の双方で同時に起こったと考えるべきであろう。上韮生川に多量の土砂や倒木が生じても、そう簡単に合流点で物部川をも中流で下って強力な堆積を以って(「山」と言っている)封じてしまうというのは、有り得なくはないものの、現実的にはちょっとクエスチョンかなと思うからである。]
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