「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 種﨑浦神母社威霊
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここ。]
種﨑浦(たねざきうら)神母社(いげのやしろ)威霊(ゐりやう)
宝氷四年丁亥十月四日の大地震、民屋、轉動、浦々、津浪、入(いり)て流死(ながれじに)數千人(すせんにん)、山岳崒(さんがくすい)[やぶちゃん注:「崒」は「嶮しい」の意。]、崩し、髙山(かうざん)は、忽(たちまち)、谷と成(なり)、深谷(しんこく)は陵(をか)と成(なる)。
中(なか)にも、種﨑浦は、一草一木(いちさういちもく)、不殘(のこらざり)しに、「神母(ヲイゲ)の社(やしろ)」【イヤガハナ。】のみ、只(ただ)、一社(いつしや)、のこれり。
[やぶちゃん注:「種﨑浦」この「種崎」は、浦戸湾の入り口の東北から延びた岬の先端部の高知市種崎(たねざき)である(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。但し、同地区には、「神母の社」に相当するものは、現在は見当たらない。なお、次の注も参照されたい。
「神母(ヲイゲ)の社」ブログ「note」の絢@高知氏の「神母の大楠の下で」によれば(改行多数のため、繋げさせて貰ったが、非常に情感に富んだ素敵な文章なので、総て引用させて戴いた)、『神母と書いて、「いげ」と読む。農耕神、水の神、らしい。神母、いげは、高知県特有の読み方らしい。神母神社という神社が、県内に複数ある。字が先か、音が先かはわからない。でも、母とつくから、女神さまのイメージなんだろうか、とも思う。生命を産み育てる大地の女神』。(以下、「香美市移住定住促進センターブログ」の『いなかみライフ』の『神秘的な地名「神母ノ木」』より引用と最後にある)『香美市地域をご案内していると、「神母ノ木」の読み方を聞かれることがあります。ここは「いげのき」と読みます。この地名が歴史に登場してくるのは江戸時代の文化年間』(一八〇四年から一八三〇年まで)で、『地名の由来は諸説あり、神秘的な雰囲気があるからか、由来について新聞で論戦が繰り広げられたこともありました。この地には「神母(いげ)神社」という神社があります。「神母」と呼ばれる神様は、稲の神、稲を作る田んぼの水の神。その名の由来は、「イ=稲、ゲ=毛で稲の意味」や「池(イケ)⇒イゲ=井」から来ているという説が有力なようです。高知県内には「おいげさん」』(本文の「ヲイゲ」という読みの「ヲ」は「御(お)」のズラしであろう)『と呼ばれる社や祠は』四百『以上あるそうですが』(☜!)、『「神母」は高知特有の単語らしく、日本民俗学の大家である柳田國男も注目したという記録がありました。そして、御神木はその神社の境内にある楠の大木。高さ』十五・五メートル、『枝張り』十九・五メートル、『根回り』五・七メートル、『樹齢』五百『年以上と推定されています』(これは調べたところ、高知県香美市土佐山田町神母ノ木の神母神社である)。一『本の木なのに、まるで森のような迫力があり、香美市指定の天然記念物に指定されています。地名が歴史に登場してくるのは今から』二百『年ぐらい前の話。なので、それよりはるか昔より』、『農耕の神として祀られ、地名にまで関わってきたのではないか、と思わざるを得ません。』(引用終了)『おいげさんとはどうやら、俗に言うお稲荷さんのような存在らしい。稲魂神(ウカノミタマノカミ)、オオゲツヒメ、保食神(ウケモチノカミ)。豊受大神(トヨケノオオカミ)。いろんな想像ができる。神母ノ木という地名の場所に、大きなクスノキがあるのは知っていたが、実際見たことはなかった。近いからいつでも行けると思い、そのまま行かずに三年、ここまできた類だ。このたび』、『県内でもわりと遠くにすむ友達が、所用でこの辺りを通り過ぎるので一緒に行こうと誘ってくれた。地域外の人の気になる場所は地元の人ほど行かない、というのは』、『ままあることだ。樹齢』五百『年あまりと伝えられる大きなクスノキは』、『ふきさらしの河川敷のそばに、御神木らしいのに』、『しめ縄もなく、その、あるがままに立っていた。清々しいほどに、あるがままで、開けっぴろげで、大きな優しい木陰を作っていた』(以下に画像四葉有り)。『上の写真の灰色の人間が私』百六十五センチメートル『である。大きさが想像していただけるだろうか。後ろの青い鉄橋の下に細く青く見える水面は、物部川』(ものべがわ)『という、実はとても大きい川である。わざわざ、ここに来たいといってくれた友達に感謝である。こんなに気持ちのいい場所を知らずに』、『近くで暮らしていた。不覚…』。『河原とは、古来から誰の土地でもない。水が溢れれば、流される場所に、個人の所有物を置く人はいない。不安定である。でも、自由でもある。誰がきても、いい。場所は、たっぷりある。唄っても、おどっても、昼寝しても、釣りをしても、本を読んでも、絵を描いても、青春を叫んでもいい。当初アウトローの文化であった歌舞伎小屋は河原に立つモノだったそうな。歌舞伎役者は河原者と呼ばれたらしい。アートが好きなその友達が唄おうと言ってくれたので、ごくささやかな声で一緒に唄っていたら、ウグイスや他の鳥のさえずりも聞こえた。一緒に唄っているみたいで、楽しかった』。五百『年もの間、この木の下で、沢山の人が唄っただろう。沢山の人を見つめていただろう。こんな守られた風でもない開けた場所で、よくぞ生きていてくれましたと、大きなクスノキに手を合わせた』とあった。試みに、「神母神社」で検索すると、高知市、及び、その周辺の南国市(なんこくし)・高岡郡・須崎市・土佐市に、実に二十にも及ぶ「神母神社」が確認出来る。絢@高知氏が述べられているように、これが、所謂、田の神(=山の神)系の産土神であるのであれば、これ以外にも、ポイントされていない現存する旧「神母」を祀る像がある可能性は極めて高く、或いは、明治のおぞましき一村一社政策によって、強引に移されて合祀させたもの、或いは、近代化の中で祀られずに消えていった「神母の社」も多かったものと推定されるから、前の種崎地区にも、そのような形で扱われたそれが、あったとして、何ら、おかしくはない。「ひなたGPS」の戦前の「種﨑」地区を見ると、中央の「浦戶灣」側の「⛩」記号の位置には、現行は神社はないから、これも一つの候補となるやもしれない。或いは、現在の種崎にある種崎天満宮の位置は、戦前の位置とは半島の南東に移動しており、或いは、前の消えた神社を含め、この天満宮に合祀された可能性も大いにありそうな話ではある。]
なお、絢@高知氏が引用の中で言及されている柳田國男の関心を示した記載というのは、或いは、明治四四(一九一一)年十月十一日夜発信の南方熊楠宛書簡の末尾で、まさに本書を挙げて(国立国会図書館デジタルコレクションの「柳田国男南方熊楠往復書簡集」(飯倉照平編・一九七六年平凡社刊)のここを視認した。太字は底本では傍点。なお、所持する平凡社の「南方熊楠選集」別巻の同往復書簡集には所収していなかった)、
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昨年、土佐の風土記の『南路志』をよみ候に、かの国にては、神母とかきてイゲと呼ぶ神祠きわめて多し。他の国にてはあまり多くきかず。これにつきて何か御心あたりは無之や、伺い上げ候。
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というのを指すかと思ったが、さらに調べたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの柳田国男著の「分類祭祀習俗語彙」(神社本庁編・一九六三年角川書店刊)の「神名集」のここ(左ページ六行目以下)に(太字はママ)、
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オイゲサマ 高知県の各地でまつられる小祠。神母と書いている。長岡郡稲生村(現・南国市)ではオサバイサマと同じ神ともいうが、社は別になっている。女の神のことという(大阪民俗談話会報二)。また同村では、神無月にはオイゲサマとコンピラサマが残っているとう。オイゲサマの祭日は旧十月三日、コンピラサマは十月十日である。この二神は疱瘡を病んで器量が悪くなったから、御留守をするのだという(民間伝承一〇ノ一)。人家や田畑の傍に点在する小祠で、周りに樹木があるのが多く、それをイゲバヤシという。組でまつる。新田にありて本田になくニイタサマと呼ぶ小祠と性格は似ているから、開墾に際してまつったものと考えられる(民間伝承二ノ三)。『伊勢浜荻』一に、物忌の夕饌が終わって館へ帰るまでの間に、物を聞いて吉凶を占う風があり、それをタシケヲキクまたはオイゲヲキクといったことが見えている。
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と、纏まった記載があったので、こちらであろう。]
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