「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 峯 寺觀音威霊
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。標題の「峯」の字空けはママ。「峯 寺(ぶじ)」、「觀音威霊」の配字であろう。]
峯 寺觀音威霊
享保廿年卯三月二日より閏三月二日迄、十市村、禪師峯寺の觀音繪像、御戶開(おんとびらき)、有(あり)。參詣、每日、夥(おびただ)し。
或日、年若き婦人、奇麗に出立(いでたち)、參詣して、佛前に至り、鐘の緖(を)を取るとひとしく、目、くらめき、倒(たふ)れける故、仁王門の外へ舁出(かきいで)、色々、養生しけれども、不開(ひらかず)して[やぶちゃん注:目を。]、死(しし)ける。
供に來たる者に、
「何人(なんぴと)の娘ぞ。」
と、尋ければ、
「坂折(さかをり)の、穢多長吏(ゑたちやうり)が娘にて候。」
と、答へける。
[やぶちゃん注:「享保廿年卯三月二日より閏三月二日迄」グレゴリオ暦一七三五年三月二十五日から四月二十四日までで、三十一日間。
「十市村」旧長岡郡十市村(とおちむら)。現在の高知県南国市十市(とおち:グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。
「禪師峯寺」現在の四国霊場第三十二番札所である真言宗豊山派の八葉山(はちようざん)求聞持院(ぐもんじいん)禅師峰寺(ぜんじぶじ)。サイト「四國八十八ケ所靈場會」の同寺の記載によれば、『太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近い。小高い山、とはいっても標高』八十二メートル『ほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みな』、『この寺に寄り』、『航海の無事を祈った』。『縁起によると、行基菩薩が聖武天皇(在位』七二四年~七四九年『)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同』元(八〇六)『年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき』、『自ら』、『十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した』。『以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。堂宇はこぢんまりと肩を寄せ合うように建っているが、境内は樹木におおわれ、奇怪な岩石が多く、幽寂な雰囲気を漂わせている』とある。
「觀音繪像」恐らくは、本尊十一面観世音菩薩像を模写したものを本尊以外に作ってあり、それを開帳したものと推定される。
「坂折」現在の高知県幡多郡黒潮町佐賀(坂折)(グーグル・マップ・データ)。
「穢多」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の私の注の冒頭の「穢多」を参照されたい。]
« 葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 七面鳥 | トップページ | 「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 紫荊 »