葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 雄鷄
葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。これらは、後の「博物誌」に結実するものの初期形であり、私は昨年、ブログ・カテゴリ『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「樹々の一家」(+奥書・奥附) / 「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文)』(全六十八記事)を電子化注しているが、それは、昭和一四(一九三九)年白水社刊の「博物誌」のものを底本としたものであるので、記載の違いや、順列・表現に有意に大きな違いがあるので、電子化する。]
雄 鷄
一
每朝、泊り木から飛び降りると、雄鷄《をんどり》は「もう一つの」がやつぱりあそこに居るかどうかを見た――「もう一つ」はやつぱりそこにゐる。
二
雄鷄は地上のあらゆる競爭者を征服したいと云つて鼻を高くしてもいゝ――が、「もう一つの」、それは手の屆かない處にゐる、勝ち難き競爭者である。
三
雄鷄は叫びに叫ぶ。呼びかけ、挑《いど》みかけ、脅《おど》しつける――然し「もう一つの」は、きまつた時間にでなければ答へない。で、それも答へるのではない。
四
雄鷄は見得《みえ》を切る。羽を膨《ふく》らす。その羽根は見苦しくない、或るものは靑く、或るものは銀色――然し、「もう一つの」は、蒼空のたゞなかに、目(ま)ばゆいばかりの金色。
五
雄鷄は自分の雌鷄《めんどり》をみんな呼び集める。そしてその先頭に立つて步く。見よ、彼女らは殘らず彼のもの、どれもこれも彼を愛し、彼を畏《おそ》れてゐる――が、「もう一つの」は、燕どもがあこがれの主《ぬし》。
六
雄鷄はわが身知らずである。彼は、處きらわず、戀の句點を打ちまはる。そして、金切聲を張り上げて、一寸したことに凱歌を奏する――然し、「もう一つの」は、折りも折り、新妻を迎へる。空高く、村の婚禮を告げ知らす。
七
雄鷄は妬《ねた》ましげに蹴爪《けづめ》の上に伸び上つて、最後の決戰を試みやう[やぶちゃん注:ママ。岸田氏の思い込みの誤用の癖。]とする。その尾は、劍《つるぎ》が刎(は)ね上げるマントの襞(ひだ)そのまゝである。彼は、鳥冠(とさか)に血を注いで戰ひを挑む。空の雄鷄は殘らず來いと身構える[やぶちゃん注:ママ。]――然し、嵐に面(おもて)を曝《さら》すことさへ怖れない「もう一つの」は、此の時、微風に戲れながら相手にならない。
八
そこで、雄鷄は、日の暮れるまで躍起となる。彼の雌鷄は一羽一羽歸つて行く。彼は獨り、聲を囁《か》らし、へとへとになつて、既に暗くなつた中庭に殘つてゐる――が、「もう一つの」は、太陽の最後の焰を浴びて輝き渡り、澄み切つた聲で、平和な夕(ゆうべ[やぶちゃん注:ママ。])のアンジエルユスを歌つてゐる。
[やぶちゃん注:「囁《か》らし」はママ。「嗄らし」が正しい。「囁」という字は、①に「ささやく」で、②で「言いかけておいて止める・口が動くだけで言葉がはっきりしないさま」の意があり、③で、反対に「べらべら喋(しゃべ)る・喧(かまびす)しい」の意もある。現行、一般に圧倒的に①の用法が殆んどである。②・③の意味は、結果して「声が嗄(か)れる・しゃがれる」ことにはなるのだが、「囁」自体には「声がしゃがれる」とい意はないから、誤用と言わざるを得ない。事実、後に岸田氏は、ここを『嗄らし』と訂している。
「アンジエルユス」Angélus(アンジェリュス:ネイティヴを音写すると「アォンジュリュス」が近い)の鐘。天使(“Angelus”はラテン語で天使の意)によって聖母マリアに受胎告知がなされたことを祝す祈り(朝・正午・夕べの三度、鐘の音とともに行う)で、同時に、この時を告げる鐘の音をも指す。名は、この祈文の初めにある「主の御使(みつかい)」(Angelus Domini)に由来する。Otium氏のブログ「エスカルゴの国から」の「アンジェリュスの鐘」によれば、教会は一日に三度、『この鐘を響かせます』として、①『朝、起きる時間を告げる』(午前六時頃)、②『昼、ご飯を食べに帰るのを促す』(正午頃)、③『夕方、仕事を終えるのを告げる』(午後六時頃)とあり、『なぜアンジェリュスと呼ぶのか?』の項に、『このときのミサのお祈りの言葉が「天使」で始まるからと聞いたことがあります。天使は、フランス語ではangeですが、ラテン語ではangelus』で、『お祈りの初めの文章は、天使がマリアに受胎を知らせる受胎告知の場面で、こんな文章だそうです』。『ラテン語』で『Angelus Domini nuntiavit Mariæ』、『フランス語訳』で『L’ange du Seigneur apporta l’annonce à Marie』とあって、『私が聞き慣れているアンジェリュスは、まず鐘が』三『つ鳴りだし、ほんの少し時間を置いて、また』三『つ鳴り、それから鐘が賑やかに鳴り響く、というもののように思います』とあって、鐘の音を動画で聴くことも出来る。
さて。以上を読んで、最早、幼少の読者以外は、「もう一つの」「雄鷄」が教会の上にある「風見鶏」であることは、明白に理解されるであろう。
ところが、後の『「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「雄鷄」雄鶏(おんどり)』では、冒頭に長い一章があり、そこで、先に、そのネタバレを最初にやらかしてしまっている。
因みに、本書の本篇では、段落番号はローマ数字であるが、後の「博物誌」では、原文でも、通し番号はなく、「博物誌」は「八」の「そこで、雄鷄は、日の暮れるまで躍起となる。」の冒頭一文が独立連となっているため、全九連構成になっており、(上記リンク債先の最後の原文を参照されたい)。「博物誌」の本原文(標題は“COQ”。本書“ LE VIGNERON DANS SA VIGNE ”では“LE COQ”)は、改行はあるが、空行がない。更に第五連の冒頭部分“Le coq rassemble ses poules, et marche à leur tête.”(「博物誌」の当該訳詞の「雄鷄は自分の雌鷄(めんどり)をみんな呼び集める。そしてその先頭に立つて步く。」の部分)で改行されて独立しているために(リンク先の私の「博物誌」テクストの原文を參照)、都合、全部で十のパートからなつているのである。
私は、サイト版の「ぶどう畑のぶどう作り」の当該項に注して、『両訳文での大きな相違点はライバルの風見鶏を指す『「もう一つの」』で、これは「博物誌」では「相手」となる。『「もう一つの」』は如何にも特異的限定的な表記・表現で「相手」の方が自然で、正体の漸層的理解から言つてもより生き物的な「相手」の方が効果的と言える』と注したが、今回、よく考えてみると、この初出では、ネタバレがない分、読者が、次第に生きている「雄鷄」に対する、「もう一つの」の括弧書きの「雄鷄」なるものが、何であるかを、最終章「八」で字背に於いて示唆させている構成の方こそが、遙かにアフォリズムとしての卓抜な感動的装置となっていることに、甚だ、共感出来たのであった。「相手」もいいが、「もう一つの」の物質的指示の方が、素直に読んでいる騙され易い読者に対しても、『それは生きている「雄鷄」ではないのでは?』というヒントを親切に暗示しているのだと納得されたのである。]
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