葡萄畑の葡萄作り ジユウル・ルナアル 岸田國士譯( LE VIGNERON DANS SA VIGNE 1894 Jule Renard) 戦前初版 犬の散步
[やぶちゃん注:底本・凡例等は初回を見られたい。本篇はここから。]
犬 の 散 步
日曜日每《ごと》に、晝食を濟ますと、バルジエは彼の妻に云つた。
「どれ、一まはりして來よう。お前は子供らを連れて、どこかへ行くがいゝ。おれは、おれの方で、犬を連れて行くから」
「だつて」と、妻は云ふ「なんなら、みんな一緖に行きませうよ」[やぶちゃん注:「云ふ」の後には句読点はない。連続した台詞として確信犯の処理と私は思う。以下も同じ。]
「犬は無闇《むやみ》に走るからなあ」――バルジエは答へる「お前たちはとてもおれたちについて來れまい。まあ、しつかり遊んで來い。さあ、ピラム」
ピラムが、外の空氣が吸へる嬉しさに、敷石の上で雀躍《こをどり》をしていると、バルジエは、
「好い天氣だなあ。こら、こら、息が切れるぞ。時間は充分ある」
先づ彼は角の宿屋兼カフエーの店にはひる[やぶちゃん注:ママ。]。そして、ピラムをテーブルの脚にしつかり結い[やぶちゃん注:ママ。]つける。それから、自分は、一人の老友の前に座を占める[やぶちゃん注:ここは底本では「占ある」であるが、誤植と断じて、訂した。]。ゲームを始める爲めに彼の來るのを待つてゐたのである。
主人が骨牌《カルタ》をやつている間、ピラムはぢつとしてゐる。脚を舐《な》める。人が通つて、その脚を踏まうとすると引込《ひつこ》める。虻《あぶ》を嚙み殺す。嚏《くさ》みをする。さうして、誰《たれ》も恨まずに、かまふものもなく眠つてしまふ。
時間がたつ。夕方の七時が鳴らうとする。と、パルジエは熱に浮かされたやうに時計を見上げる。彼の妻と子供たちはもう歸つてゐるだらう。夕食の膳《ぜん》ごしらへが出來てゐるだらう。
「もうあと二度つきり」彼は云ふ。
それがすむと、
「決戰、それで歸るとしよう」
それがすむと、
「吊合戰《とむらひがつせん》、これでやめ」[やぶちゃん注:「吊」は「弔」の俗字である。]
それから、中腰になり、始める前から指に汗をかいて、彼はまた、云ふ。
「さ、早く、これで愈々おしまひ」
今度はおしまひである。パルジエはピラムをほどいてやる。そして、少し汗をかく爲めに、家まで飛んだり跳ねたりして行く。それが、犬を散步させて歸つて來たのである。
[やぶちゃん注:「ピラム」原綴“Pyrame”。臨川書店一九九五年刊の『ジュール・ルナール全集』第四巻の「葡萄畑の葡萄作り」の訳者柏木隆雄氏の「ピラーム」の注によれば(本篇への注は、これ一箇所のみ)、『ローマ神話で自分の婚約者がライオンに殺されたと早合点した青年の名からとった』もので、『十七世紀テオフィル・ド・ヴィオーの悲劇で知られるが、犬にはこうした神話の英雄の名がよくつけられる。』とある。この神話はウィキの「ピューラモスとティスベー」に詳しく(ラテン文字:Pyramus et Thisbē)、同フランス語のウィキ“Pyrame et Thisbé”もある。因みに、「にんじん」でも、父ルピック氏の飼い犬の名もまた、“Pyrame”なのである。私の『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「犬」』を見られたい。
「好い天氣だなあ。こら、こら、息が切れるぞ。時間は充分ある」この部分、岩波文庫改版では、『「しっ! こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」』と改訳している。原文の冒頭部は、“Beau !”である。極めてよく使う形容詞で、「美しい・綺麗な」の意だが、第二義的に、ここで岸田氏が訳した「晴れた」の意味がある。しかし、この場合は、それらとは全く別な用法であることは、明らかであり、この初版訳のこの台詞全体は、正直、日本語としても躓かざるを得ない訳である。この“Beau !”は、“!”を打っていることで判るように、ある注意喚起を起させるシグナルであり、まさにその後の訳「こら、こら、息が切れるぞ。時間は十分ある」という部分が、喜んで、はしゃぐパルジエの犬ピラムへの「落ち着かなければ駄目だ!」という軽い叱責であることは明白なのである。この場合の“Beau”は、「立派な・優れた」の意の中の、ある状態・雰囲気が「大きい・強い・激しい・酷(ひど)い」といった意味の内、ネガティヴに傾いた、批判的なニュアンスを含んだ用法なのである。岸田氏は、それに気づき、正しい表現に改正訳したのである。]
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