「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十六」 種﨑浦稲荷社怪女
[やぶちゃん注:凡例・その他は初回を見られたい。底本の本篇はここから。本文の「豊常公」の前には、底本では、敬意の字空け二字分がある。]
種﨑浦稲荷社怪女
享保十乙巳年、豊常公、初(はじめ)て御入國、同年秋、御不例、八月下旬より、俄(にはか)に重(おも)らせ玉ふ。
其頃、長沢氏は、幼年にて、御伽(おとぎ)に候(かう)して、御恩も厚かりし故、「御病御平愈」の祈(いのり)の爲(ため)に、御產神(おんうぶさながみ)なれば、浦戶(うらど)の稲荷宮(なりのみや)へ、志(こころざ)し、社參(しやさん)す。
九月朔日(ついたち)、雨中にして、途中も不宜(よろしからず)、既に神前に於(おい)て拜し終(をはり)て、暫(しばし)、息(やすら)ふ所に、年の頃、三十四、五の婦人、薄柹(かき)の帷子(かたびら)を着(ちゃく)し、神酒陶(おみきのせともの)を、手に持(もち)て、髙足駄を履(はき)て、險(けは)しき雁木(ガンギ)[やぶちゃん注:階段。]を、輕々と登り、神酒を神前へ備(そな)へ[やぶちゃん注:漢字はママ。]、軒(のき)に引(ひき)たる注連(しめなは)を、右の手にて、ちぎり、又、雁木を下りて歸(かへり)けるに、長沢氏幷(ならびに)家人等(ら)、是を見て、
「女の、險しき雁木を髙足駄にて下(くだ)る事よ。」
と目を不放(はなさず)見ゐたるに、女の、飛(とぶ)が如く、又、あゆむが如く、下りて、華裏(トリヰ)[やぶちゃん注:鳥居。]を出(いで)ずして、形(かたち)を見失ひけるとぞ。
[やぶちゃん注:「種﨑浦」「種﨑浦神母社威霊」で既出既注だが、同様の仕儀が有効なので、再掲すると、この「種﨑」は、浦戸湾の入り口の東北から延びた岬の先端部の高知市種崎(たねざき)である(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。但し、同地区には、「稲荷」に相当するものは、現在は見当たらない。なお、次の注も参照されたい。「ひなたGPS」の戦前の「種﨑」地区を見ると、中央の「浦戶灣」側の「⛩」記号の位置には、現行は神社はないから、これも一つの候補となるやもしれない。或いは、現在の種崎にある種崎天満宮の位置は、戦前の位置とは半島の南東に移動しており、或いは、前の消えた神社を含め、この天満宮に、この稲荷も合祀された可能性も大いにありそうな話ではある。
「享保十乙巳年」グレゴリオ暦一七二五年。
「豊常公」土佐藩第七代藩主山内豊常。この同年九月二日に死去している。享年十五歳の若さであった。
「八月下旬」グレゴリオ暦では九月下旬に相当する。]
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