「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡下山郷【黑尊大明神】神威
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。]
幡多郡下山郷【黑尊大明神】神威
幡多郡下山郷(しもやまがう)、奧家內村(おくやないむら)、黑孫山(くろそんやま)に社(やしろ)、有(あり)、「黑尊大明神(くろそんだいみやうじん)」といふ。
「神靈は此山の大蛇也。」
と云(いひ)傳へり。
靈驗(れいげん)有(あり)て、所願を、よく叶(かな)へり。
元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]の比(ころ)、此(この)黑尊、村に富栄(ふえい)の農夫あり。
かれが下部(しもべ)、常に此社を信じ、每朝、社へ拜する事、多年、怠らざりしが、或時、此川端に出(いで)て、草、刈居(かりをり)たりしが、その辺(あたり)の木の下より、山鳥、一羽、飛出(とびいで)て、向ふなる宮林(みやばやし)の中に入(はい)るを、
「追掛(おひかけ)、取らん。」
とするに、又、飛去(とびさ)る事、十間[やぶちゃん注:]斗(ばかり)と覚へ[やぶちゃん注:ママ。]て、少し、小髙き所へ止(とま)るを、したひ、谷を下りにゆけば、一つの樓門に至る。
彼(かの)下部、忙(いそぎ)て、門內を、さしのぞけば、身の長(たけ)五尺餘り、顏、うるはしきこと、玉(たま)の如く、唇は赤く、歯、白く、髮、紺靑(こんじやう)の糸の如くなる人、玄關より、白き布衣(ホイ)に、黑き立烏帽子(たてえぼし)、着たるが、走出(はしりいで)て、下部を、まねきに[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本(61)も同じだが、原写本の「く」の誤記であろう。]、近き[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本も同じ。「近づき」の脱字であろう。]、見入(みいり)たれば、宮殿・樓閣、谷こと(ダンゴト)[やぶちゃん注:「谷こと」へのルビで、「ダン」はママ。国立公文書館本(61)では、朱で「タニゴト」とある。]に立(たち)つらなれり。
彼(かれ)[やぶちゃん注:布衣の男。]、
「是へ。」
と、下部を伴ひゆくに、金銀の壁、琥珀(こはく)の欄干(おばしま)、𤥭瓅のすだれ、眞珠の瓔珞、五色の玉を庭のいさ子(ご)[やぶちゃん注:「砂子」。]として、泉水をたゝへ、色々の草木(くさき)、花、咲(さき)、名もしらぬ鳥、誠に奇麗なる事、いふ斗(ばかり)なし。[やぶちゃん注:この「𤥭瓅」は「近世民間異聞怪談集成」の判読を最終的に採用した。頗る難しい漢字で、孰れも実際の使用例を私は漢詩文等でも見たことが一度もないのだが、国立公文書館本(61)の当該部を見ても、この漢字を候補として判読するのは、なかなかに肯んずる以外にはないからである。いろいろな漢字の部分や漢語二字熟語を、《高価な簾の玉》を意味する語を念頭に、いろいろ考え、崩し字のデータで部分比較もしたが、ピンとくる漢語はこの崩し字では、遂に、発見出来なかった。今までの「近世民間異聞怪談集成」のトンデモ誤判読を、多数、見て呆れていた私としては、この判読は、字形としては、(へん)・(つくり)の崩し方からは、非常にガンバった選択として評価は出来ると感じては、いる。しかし、この熟語、中文サイトでも見出せない。「近世民間異聞怪談集成」でも、あるべき編者の補助ルビも存在しない。失礼乍ら、この字に起こしておきながら、編者はこの漢字を読めていない、則ち、意味も判っておられないままに、放置プレイと決め込んだ「クソ」としか断ずるほかは、ない、のである。まず、元写本自体のトンデモ誤字であると判断せざるを得ないと私は考えるに至った。而して、一時間に亙って、いろいろな漢語・熟語を想起し、検索をし続けたところ、一つ、なんとまあ! 私の電子化注した「伽婢子卷之九 下界の仙境」にあった熟語に偶然にも行き逢った(まことに偶然であるが、次の「犬神」で「伽婢子」への言及がある)。それは、「𤥭璖(しやこ)の簾(すだれ)」で、これは、かの巨大な斧足類(二枚貝類)のシャコガイの殻を磨き上げて玉とした簾の意である。しかも「璖」の字は、崩せば、「瓅」に見違える可能性が高いのである。さらに高級簾の構成物としては、すこぶる相応しいのだ。他に、この「瓅」(音「レキ」)」は「玓瓅」という熟語ならば、「真珠が明るく輝くさま」を意味するので、それも考えたが、「玓」の崩しではあり得ないのだ。されば、私は、ここは「𤥭璖(しやこ)すだれ」の原写本の誤記と断ずることと決した。やっぱり、「近世民間異聞怪談集成」のこの「神威怪異竒談」は、レベル、低いわい。]
又、奧のかたには、婦人の聲して、うたひ舞ふ音、しけり。彼(かの)人、座に、ついて、下部に謂(いひ)ていはく、
「我は是、黑尊の神也。汝、我を信ずる事、多年也。我館(わがやかた)を見せんため、是迄、汝を呼寄(よびよ)せたり。」
とて、玉の盃(さかづき)、出(いだ)されて、種々の饗應、善美を盡(つく)して、彼(かの)神、織物一巻、持出(もちいで)て、仰せけるは、
「汝を冨貴の身となすべきゆゑ、此(この)巻物を、とらするぞ。」
とて、賜りけるを、下部、押(おし)戴き、拜礼ス 。
其時、神の仰(おほせ)には、
「汝、はやく、歸るべし。歸りてのち、此事を、必(かならず)、人に、語るべからず。」
と、宣(のたま)ひければ、
「さらば。」[やぶちゃん注:「了解」や「御意」の意。]
と暇(いとま)申(まうし)て、立出(たちいで)、
『一、二町[やぶちゃん注:百九~二百十八メートル。]も、うつゝの如く、步むぞ。』
と思ひしが、今迄、通りし道もなく、叢中(ミヤハヤシ)[やぶちゃん注:叢(くさむら)の中。但し、訓は神域の禁足地の意である。]に虛然(ウツカリ)として、立居(たちをり)たり。
漸(やうやう)、正氣に成(なり)て、吾家(わがや)に歸るに、巻物を持(もて)るを、主人、見て、不審を成しければ、
「斯(かか)る事の、候(さふらへ)つる。」
と、初(はじめ)よりの次㐧(しだい)を、有(あり)のまゝにぞ、語りける。
家內のものども、身の毛、よだちて、驚きあひぬ。
其時、彼下部、忽(たちまち)、顏色(がんしよく)、變り、亂心し、をどり上(あが)りて云(いはく)、
「我は黑尊の神也。おのれ、『人に洩(もら)すな。』と堅く申(まうし)ふくめしを、早くも、人に、語りしぞ。」
と、大(おほき)に𠹤(いか)り、
『走出(あしりいづ)るよ。』
と、見へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、かきけす如く、行方(ゆくへ)不知(しらず)とかや。
[やぶちゃん注:「幡多郡下山郷、奧家內村、黑孫山」「黑尊大明神」現在の高知県四万十市西土佐奥屋内(にしとさおくないやない)にある黒尊神社(くろそんじんじゃ:グーグル・マップ・データ)。かなりの山奥である。サイド・パネルの画像も多数あるが、私は、最初にサイト「ぐるっとママ高知」の「【四万十市】大蛇伝説の残る『黒尊神社』商売繁盛祈願に他県から訪れる人も」の記事で位置を知ったので、そちらを読まれることを、お薦めする。
「山鳥」日本固有種で、タイプ種はキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii であるが、当該ウィキによれば、『生息する地域によって羽の色が』、『若干』、『異なり』、五『亜種に分けられている』とあり、ここでは、シコクヤマドリ(四国山鳥) Syrmaticus soemmerringii intermedius であろう。大正八(一九一九年)に愛媛県で採集された標本によって別亜種として記載された種で、『兵庫県南部および中国地方(鳥取県、島根県南部、岡山県、広島県、山口県東部)と四国地方(香川県、徳島県、高知県)に分布するとされ』、『細長い尾羽を持ち、全身の羽色はやや濃色』。『腰の羽毛は羽縁が白く、肩羽や翼の羽縁がやや白い』とある。詳しい博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を見られたい。
「布衣」「ほうい」とも読むが、江戸時代は圧倒的に「ほい」と読む。所謂、「狩衣」(かりぎぬ:平安以来の装束の一種。袖と前身頃(前裑)(まえみごろ:「身衣」(みごろも)の略。衣服の襟・袖・衽(おくみ:着物の左右の前身頃に縫いつけた、襟から裾までの細長い半幅(はんはば)の布。「おくび」とも呼ぶ)などを除いた、体の前と後ろを覆う部分の総称。前身頃と後ろ身頃があった)が離れ、背後で五寸(約十五センチメートル)ばかり連結した闕腋(けってき)衣の系統で、袖口には袖括(そでくくり)の紐があるのを特色とする。元来は狩猟などの野外用の衣服であったが、朝服のように制約がないので、後に一般の私服となり、色・地質・模様とも華麗なものが作られた。後には武家の正装とされた(諸辞書をハイブリッドにした)。]
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