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2024/10/31

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 槭樹

 

Kaede

 

しくじゆ  槭子六反切

      【字彙云槭木

       可作大車輮】

槭樹

 

 

農政全書云槭樹生山谷間木高一二𠀋其葉狀類野葡

萄葉而五葉尖叉亦似錦花葉而薄小色淡黃綠開白花

[やぶちゃん字注:「叉」は、原本では、「又」の左上方に縦一画があるが、「叉」の異体字には似たものがない。東洋文庫訳では、『尖叉(とがりまた)』とあるので、それにした。訓読でも、このルビを採用した。]

葉味甜

 

   *

 

しくじゆ  「槭《シウ》」は「子」・「六」の《反》切。

      【「字彙」に云はく、『槭は木≪なり≫。

       大≪なる≫車の輮《おほわ》に作《な》

       すべし。』≪と≫。】

槭樹

 

 

「農政全書」に云はく、槭樹、山谷の間に生ず。木、高さ、一、二𠀋。其の葉の狀《かたち》、「野蘿蔔《やらふく》」の葉に類《るゐ》して、五葉≪たり≫。尖叉《とがれるまた》あり。亦、「錦花《きんくわ》」の葉に似て《✕→れども》、薄≪く≫小≪さく≫、色、淡黃綠。白≪き≫花を開く。葉、味、甜《あまし》。

 

   *

 

[やぶちゃん注:この「槭樹」とは、

双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer

のカエデ類である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『楓、槭樹、鶏冠木、蛙手)』。『名前の由来は、葉の形がカエルの手「蝦手(かへるで)」に似ていることから、呼び方を略してカエデとなった』。『モミジ(紅葉、椛)とも呼ばれるが、葉の切れ込みが深いものを「モミジ」、葉の切れ込みが浅いものを「カエデ」と呼んでいる(植物学的には同じ系統)』(同属。後に出るが、本邦で単に「モミジ」と呼ばれることが多いのは、イロハモミジ Acer palmatum である)。『赤・黄・緑など様々な色合いを持つ』ため、『童謡では色を錦と表現している。また、英語圏では一般にMaple(メイプル、メープル)と称する。カエデ属の』種小名に当てている『ラテン語 acer とドイツ語名 Ahorn は、英語の edge と同じく「尖った、鋭い」を意味する印欧語の共通の語根に由来し、葉が尖っていることからの命名であろう』。『世界におよそ』百三十『種が存在する。その多くはアジアに自生している。他にヨーロッパ、北アフリカ、北アメリカに存在する。南半球に自生するものはダダープティノキ(マレー語:kayu dadah petih;学名: Acer laurinum ; シノニム:A. niveum )』一『種のみである。ヨーロッパには』、十七『世紀に北アメリカ東海岸のカエデが持ち込まれ』、十九『世紀に日本や中国を旅したヨーロッパ人によって多くのカエデが持ち込まれた』。『日本は世界有数の多品種のカエデが見られる国で自生種は』二十七『種が存在する(園芸種は』百二十『種以上)。日本のカエデとして代表されるのはイロハモミジである。福島県以南の山野に自生しているほか、古くから栽培も行われている。園芸種として複数の栽培品種があり、葉が緑色から赤に紅葉するものや最初から紫色に近い葉を持ったものもある』。『一般に高木になる。落葉樹が多く』、『落葉広葉樹林の主要構成種であるが、沖縄に自生するクスノハカエデ(学名: A. oblongum )のように常緑樹もある。葉は対生し、葉の形は掌状に切れ込んだものが多く、カエデの和名もこれに由来する』。『しかし、三出複葉(メグスリノキ』( Acer maximowiczianum )『)や単葉(ヒトツバカエデ』( Acer distylum )、『チドリノキ』( Acer carpinifolium :別名「ヤマシバカエデ」)、『クスノハカエデ』( Acer oblongum )『)のものもある』。『花は風媒花で、花弁は目立たなく小さい。果実は、片翼の翼果が二つずつ(稀に三つのこともある)種子側で密着した姿でつく。脱落するときは』、『空気の抵抗を受けて回転し、滞空時間を稼いで風に運ばれやすくなっている』。『カエデが受けやすい病害虫として、病害にはうどんこ病や胴枯れ病、虫害にはヒロヘリアオイラガ』(広縁青毒棘蛾:鱗翅目Glossata亜目Heteroneura下目ボクトウガ(木蠹蛾)上科イラガ(刺蛾)科イラガ亜科 Parasa 属ヒロヘリアオイラガ Parasa lepida )『やゴマダラカミキリ』(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca )『によるものがある』。以下、「主な種」の項だが、多いので、カットする。『和名』の『カエデの名称の由来は、葉がカエルの手に似ていることから「カエルデ」と呼ばれ、それが転訛したものとされている』。「万葉集」の「卷第八」の大伴田村大孃の「大伴田村大孃(おほとものたむらのおほをとめ)の妹(いも)坂上大孃(さかのうへのおほをとめ)に與へたる歌二首の二首目(一六二三番)に、

 わが屋戶(やど)に

   黃變(もみ)つ鷄冠木(かへるで)

  見るごとに

     妹(いも)を懸けつつ

         戀ひぬ日はなし

とある。例の中西氏の訳では、『私の家に黄葉するかえでを見るたびに、あなあを心にかけて恋しく思わぬ日は、ありません。』とある。

『日本では』、『カエデを通例「楓」と書くが、中国では』、『カエデに「槭」の字をあて、「楓」は』、ユキノシタ目フウ(楓)科フウ属フウ Liquidambar formosana 『を指す。フウとカエデは葉の形が似ているが、カエデの葉は対生、フウの葉は互生につき、異なる植物である』。『かつては』ムクロジ科Sapindaceae『の木には「槭」が用いられていたが、この字は常用漢字に含まれず、替わって「楓」が充てられることが多くなった』。『「楓」は日本人の人名としても用いられることが多い。古くから使われており、源平合戦で活躍した佐藤継信の妻の名が楓であったと伝わっている。主に女性名であるが、男性にも名付けられることがある』。『ニワトリの足先を食用にするとき』、三『つに分かれている形状から』「モミジ」と称する。『ダイコンに穴を開けて唐辛子を詰め、一緒にすりおろしたものを』「もみじおろし」と呼ぶ。『和文通話表で、「も」を送る際に「モミジのモ」という』。『北海道アイヌはイタヤカエデ』( Acer pictum :北海道産のものはエゾイタヤ(蝦夷板屋)とも呼ぶ)『をトペニ、トペンニ(アイヌ語:topeni, topen'ni)と呼称した。これは乳汁を意味するtopeと木を意味するniを語源とする。一方で』、『樺太アイヌはニㇱテニやオニㇱテニ(樺太アイヌ語:nisiteni, onisteni)と呼び習わした。これらはどちらも堅い(niste-, oniste-)木(ni)を意味する』。『アイヌ文化では樹液はそのまま飲む、飴にする、アイスキャンディーにするなど甘味料としての利用が図られた。 また、木材としても良質なため、炉鍵や器具の柄、マキㇼ(小刀)の鞘などの彫刻を伴う品にも使われた』。以下、「西洋」の項だが、ここでは不要なので、カットする。『日本では鮮やかな紅葉が観賞の対象とされ、庭木、盆栽に利用するために種の選抜および、品種改良が行われた。諸外国では木材や砂糖の採取、薬用に利用されるのみであったが、明治時代以後に西洋に日本のカエデが紹介されると、ガーデニング素材として人気を博し、西洋の美意識による品種も作られ、日本に「西洋カエデ」として逆輸入されている』。『サトウカエデ』( Acer saccharum :当該ウィキによれば、『北アメリカ原産。高さは』三十~四十『メートルにもなり、葉も日本のカエデと比べるとかなり大ぶりで、特徴ある形状を成す。日本では、北海道と本州に公園などに植栽されたものが見られる』とある)『といわれる種は樹液が甘いので、これを採集し』、『煮詰めてメープルシロップを作ることで知られている』。『まれなケースとしては、愛知県の香嵐渓』(こうらんけい:愛知県豊田市足助町(あすけちょう)にある渓谷。ここ。グーグル・マップ・データ)『で、落葉したカエデの葉を』一『年間』、『塩漬けにして』、『灰汁抜きをしたものを天ぷらにして食すことがある。香嵐渓の場合は』、『砂糖を入れた衣にくぐらせて揚げる。その他、大阪府箕面市でもカエデの葉に甘い衣をつけて揚げたものが土産品として売られている。ただし、ここで使われているカエデは食用に栽培された特殊なもので自然のものではない。さらに香嵐渓と同じような下処理をしている』。『メグスリノキは、苦味成分のロドデノール』Rhododenol『(視神経を活発化させる作用がある)が多く含まれている。また、古来より漢方薬として利用されており、葉や樹皮を煎じて飲用したり』、『洗眼薬にしていたのでこの名前がついている』。同種は『山地に自生している』。『カエデは木材として用いられ、国産のものは楓材』(カエデざい)、『西洋から輸入されたものはメイプル材と呼ばれて流通することが多い』。以下「メイプル」が語られるが、不要と断じ、カットした。

「農政全書」は前項「山茶科」を見られたい。「漢籍リポジトリ」の同巻の、ガイド・ナンバー[054-21b] に、「槭樹芽」の標題で、以下のように出る(一部表記を改めた)。

   *

槭樹芽 生鈞州風谷頂山谷間木高一二丈其葉狀類野葡蔔葉五花尖叉亦似綿花葉而薄小又似絲𤓰葉却甚小而淡黃綠色開白花葉味甜

  救飢 採葉煠熟以水浸作成黃色換水淘淨油鹽調食

   *

既に述べた通り、原本でも『野葡蔔』となっている。そこで、東洋文庫の「野蘿蔔」で調べたところ、まず、「維基百科」の「野蘿蔔」に辿り着き、逆に邦文ウィキを見出した。――而して――意外な種であった……

アブラナ目アブラナ科ダイコン属セイヨウノダイコン Raphanus raphanistrum

である(アジア、或いは、一部の権威によれば地中海原産)。但し、葉はカエデとは全く似ていない(「Raphanus raphanistrum leaf」のグーグル画像検索」を見られたい)。「全然、ちゃうやん! 別な種やろ!」ということになるが、これ、「農政全書」は、「花」を「葉」と誤ったのではないか? と私には思われるのである。「Raphanus raphanistrum flower」のグーグル画像検索を見られたい、蕾から開きかけた花(四弁花)は、薄黄緑色を呈ししており、ちょっと見で、カエデの黄葉に似て見えるように私には思われるのである。セイヨウノダイコンについては、当該ウィキを見られたいが、そこ花の写真の下の方の開きかけの一花をみられたい。私は、この葉脈のような模様の花びらを、葉と間違えても、私は、おかしくない、と思うのである。大方の御叱正を俟つ。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 山茶科

 

Ryoubu

 

りやうぶ  俗云利也宇布

       名義未詳

山茶科

 

 

農政全書云山茶科生田野中高四五尺枝梗灰白色葉

似皂莢葉而團又似槐葉而團四五葉攅生一處葉甚稠

宻味苦做茶煮飮

△按山茶科俗云料蒲是乎生山野中丹波多有之高五

 七尺木皮灰白色𮔉理其葉似茶及櫻嫩葉而柔有細

 鋸齒五七葉攅生枝耑形如單瓣菊花樣二三月小白

 花開於葉間不結實四月摘嫩葉渫食或和飯或和豆

 醬味甘能治瀉痢補脾胃蓋出𠙚與葉形有少異耳

 

   *

 

りやうぶ  俗、云ふ、「利也宇布」。

       名義、未だ、詳かならず。

山茶科

 

 

「農政全書」に云はく、『山茶科《さんちやか》は、田野の中に生ず。高さ、四、五尺。枝-梗《えだ》、灰白色。葉、「皂莢(さいかし)」の葉に似て、團《まろく》、又、「槐《えんじゆ》」の葉に≪も≫似て、團《まろし》。四、五葉、一處《ひとつところ》に攅生《むらがりしやうず》。葉、甚《はなはだ》、稠宻《ちゆうみつ》≪にして≫、味、苦≪し≫。茶に做《ならひて》、煮て飮《のむ》。』≪と≫。

△按ずるに、山茶科は、俗、云≪ふところの≫、「料蒲《れうぶ》」、是れか。山野の中に生ず。丹波、多く、之れ、有り。高さ、五、七尺。木の皮、灰白色。𮔉-理(きめこまか)にして、其の葉、茶、及び、櫻の嫩葉《わかば》に似て、柔《やはらかく》、細≪かなる≫鋸齒、有り。五、七葉、枝の耑《はし》に攅-生《むらがりしやうず》。形、單-瓣(ひとへ)の菊花の樣に《✕→の》ごとし。二、三月、小≪さき≫白≪き≫花≪を≫、葉の間に開く。實を結ばず。四月、嫩葉《わかば》を摘み、渫《すすぎ》て、食す。或《あるい》は、飯に和(ま)ぜ、或は、豆醬《タウチアン》に和(あゑ[やぶちゃん注:ママ。])、味、甘し。能《よ》く瀉痢を治し、脾胃を補す。蓋《けだ》し、出≪ずる≫𠙚≪と≫、葉の形と、《「農政全書」とは》、少し、異、有るのみ。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ツツジ目リョウブ科リョウブ属リョウブ Clethra barbinervis

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『令法』『北海道から九州、中国、台湾までの山林に分布している。夏に長い総状花序に白い小花をたくさん咲かせる。若葉は山菜とされ、庭木としても植えられる。別名、ミヤマリョウブ、チャボリョウブ、リョウボ(良母)、サルダメシ、古名でハタツモリ。中国名は髭脈榿葉樹』(「維基百科」の「髭脈榿葉樹」を見よ)。『落葉広葉樹の小高木で、高さは』七~九『メートル』『になる。樹皮は表面が縦長な形に薄く剥げ落ちて、茶褐色と灰褐色のまだら模様で、滑らかな木肌になる。樹皮がサルスベリ(ミソハギ科)』(先行する「百日紅」及び「猿滑」を見よ)『のように剥げ落ちるので、「サルスベリ」と呼ぶ地方もある。若木の樹皮は灰褐色。一年枝は細く、枝先で星状毛が残る。樹皮はナツツバキ』(ツツジ目ツバキ科ナツツバキ属ナツツバキ Stewartia pseudocamellia )『にも似る』。『葉は長さ』十『センチメートル』、『幅』三センチメートル『ほどの楕円形から倒披針形で、先が尖り、葉縁には細かい鋸歯がある。葉の形はサクラに似ている。葉の幅は葉先に近い方で最大になる。表面にはつやがなく、無毛または微毛を生じる。葉は枝先にらせん状に互生するが、枝先にまとまる傾向が強い。新葉はやや赤味を帯びる。秋には紅葉し、日光の当たり具合によって、黄色、橙色、赤色、赤褐色などいろいろな色になり、日当たりのよい葉は鮮やかな橙色から赤色になる。落ち葉は褐色に変わりやすく、乾くとすぐに縮れる』。『花期は真夏(』六~九『月)。枝先に長さ』十五センチメートル『くらいの総状花序を数本出して、多数の白い小花をつけ、元の方から咲いていく。花弁は白く』五『裂する。果実は蒴果で』三『つに割れる。球形の果実は、秋に褐色に熟す。葉が散ったあと、冬でも長い果序がぶら下がってよく残る』。『冬芽は側芽は互生するが』、『小さくて』、『ほとんど発達せず、頂芽は円錐形で芽鱗が傘状に開いて落ち、毛に覆われた裸芽になる。葉痕は三角形や心形で、枝先に集まる。維管束痕は』一『個つく』。『北海道南部から本州、四国、九州、済州島、中国、台湾に分布する。低地や山地、丘陵の雑木林の中や、斜面などに自生する。日当たりのよい山地の尾根筋や林縁に多い。平地から温帯域まで広く見られるが、森林を構成する樹種というより、パイオニア的傾向が強い。庭木としても植えられている』。(後注参照☞)『リョウブ属には数十種あり、アジアとアメリカ大陸の熱帯・温帯に分布する』。『家具材や建材、庭木などに用いられる』。『春に枝の先にかたまってつく若芽は山菜になり食用にする。採取時期は、暖地が』四『月、寒冷地は』四~五『月ごろが適期とされる。若芽は茹でて水にさらし、細かく刻んだものを薄い塩味をつけて、炊いた米飯に混ぜ込んでつくる「令法飯」などの材料にする。そのほか、おひたし、和え物、煮びたし、汁の実にしたり、生のまま』、『天ぷらにする。昔は飢饉のときの救荒植物として利用されたといわれる。ただし、一度に多く食べ過ぎると下痢を起こす場合がある』。『また』、五『年に一度しか採取できないが』、『ハチミツが市場に出ることも』あり、『結晶化せず、香り高い』。『令法という名は、救荒植物として育て蓄えることを法で決められたからといわれるが、花序の形から「竜尾」がなまったとの説もある。ハタツモリは畑つ守などの字が当てられるが、語源ははっきりしない』とある。

 引用元の「農政全書」は、複数回既出既注だが、再掲すると、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「第五十四 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)にある。「漢籍リポジトリ」の同巻の、ガイド・ナンバー[056-14b] に、以下のように出る(一部表記を改めた)。

   *

山茶科 生中牟土山田野中科條髙四五尺枝梗灰白色葉似皂莢葉而團又似槐葉亦團四五葉攅生一處葉甚稠宻味苦

  救飢 採嫩葉煠熟水淘洗淨油鹽調食亦可蒸晒乾做茶煑飮

   *

「皂莢(さいかし)」日中ともに、マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ(皂莢)属サイカチ Gleditsia japonica 。先行する「皂莢」を見よ。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を参照されたい。

「料蒲《れうぶ》」「維基百科」も「維基文庫」も検索に掛ってこないから、本邦での宛て漢字であろう。

「豆醬《タウチアン》」「豆漿」の方が一般的だが、「豆醬」と記す記事も多い。「醬」(ジャン)は所謂、舐め味噌や種々の塩漬けを意味する「ひしびしお(ひしお)」から推測出来る通り、半流動状の粘稠性を持つ調味食品の総称でもあり、「豆板醤(トウバンジャン)」や「甜麺醤(テンメンジャン)」などが知られる。ウィキの「醤」をリンクさせておく。特に、この場合は「豆乳」を指す漢語であるウィキの「豆漿」によれば、『豆漿(とうちあん)は、中華文化圏における豆乳を指す』。『中華文化圏では、伝統的な豆乳を「豆漿」(トウチアン、dòujiāng)と呼び、牛乳代替品を「豆奶」と呼ぶ』。『中国語では「豆漿」と称され、よく飲まれている。中華文化圏では、パオズ(包子)などの朝食とともに、暖かい豆乳に砂糖を加えた甘い豆乳(中国語で「甜豆漿」(ティエントウチアン tián dòujiāng)という)を飲んだり、これに油条と呼ばれる揚げパンを浸して食べたりする習慣がある。食堂、街頭の露天商、ホテルの朝食などで提供されており、カップやポリ袋に入れて買って帰ることも一般的である。また、中国ではミキサー以外にも、家庭用の自動豆乳製造機も売られており、自宅で大豆から作る人もいる。このほか砂糖を加えて乾燥させた、顆粒状のインスタント豆乳も販売されている。熱湯を加えれば、暖かく甘い豆乳となる』。『また、豆乳に塩味の出汁を加え、浅葱と細かく切った油条を浮かべた塩からい豆乳(中国語で「鹹豆漿」(シエントウチアン xián dòujiāng)という)は、小さく凝集したおぼろ豆腐が含まれ、朝粥感覚の「食べる豆乳」である。豆漿は元々』、『華北を中心に飲まれていたが』、一九五五『年に台湾台北県永和市で開店した豆漿店「世界豆漿大王」(現・新世界豆漿大王)が人気を集め、各地でチェーン展開した事によって、中華圏を代表する軽食として知られるようになった』。『中国と台湾には黒豆の豆乳もある。黒豆を用いた豆乳は、日本でも製品化・販売されている。香港では、「ビタソイ」という商品名の豆乳がガラス瓶入りで売られて人気があったが、現在は』『紙パック入りの方が主流となり、瓶入りを扱う店は減っている』とある。

『《「農政全書」とは》、少し、異、有るのみ』先の引用通り、リョウブ属には数十種があるとあるから、「農政全書」で記しているそれは、本邦のものとは異なるものを種である可能性がある。そこまで調べる気は、ない。悪しからず。]

2024/10/30

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 加豆於之美

 

Nejiki

 

かつをしみ 正字未詳

 

加豆於之美

 

 

[やぶちゃん注:「かつをしみ」はママ。]

 

△按加豆於之美樹葉似百日紅秋冬葉落而後枝椏正

 紅色甚美可愛春月嫩芽亦赤光澤也植人家者不如

 山中者色其老木無皮木心白色堅染黃色僞黃楊木

 豫州多有之

 

   *

 

かつをしみ 正字、未だ、詳かならず。

 

加豆於之美

 

 

△按ずるに、加豆於之美《かづおしみ》≪の≫樹、葉、「百日紅《ひやくにちこう》」に似たり。秋・冬、葉、落ちて後《のち》、枝椏《えだまた》、正紅色≪にて≫、甚《はなはだ》、美≪なり≫。愛すべし。春月、嫩芽《わかめ》≪も≫亦、赤く、光澤≪ある≫なり。人家に植《うゑ》る者、山中の者の色に如かず。其の老する木、皮、無く、木の心《しん》、白色≪にして≫、堅《かたし》。黃色を染《そめ》て、「黃楊木(つげのき)」に僞《いつはる》。豫州、多く、之れ、有り。

 

[やぶちゃん注:これは、東洋文庫訳の訳文割注によって、

双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ネジキ連ネジキ属ネジキ変種ネジキ Lyonia ovalifolia var. elliptica

と判った。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『捻木・捩木』で、『落葉低木もしくは落葉小高木。別名、カシオミノ、カシオシミ。有毒植物としても知られている』。『和名の由来は、幹がねじれることから、あるいは樹皮の縦裂けがねじれることから名付けられている。冬芽も枝も赤く美しいので、アカメや「塗り箸」ともよばれる』。『本州(岩手県以西)、四国、九州の低山から山地にまで分布する。山地の尾根などでよく見られ、比較的日当たりのよいところに生じ、森林にギャップができたところなどに多い。西日本の酸性の強い地域では数多く見られる場合がある』。『高さは』五~九『メートル』。『直立する幹は薄い褐色の樹皮に覆われ、縦の裂け目が』、『らせん状にねじれる。樹皮は縦に細長く薄くはがれる。新しい若枝は赤みを帯び、ツヤがある。ただし、日陰側の小枝は緑色のことがある。葉のつく枝は往々にして水平に伸び、互生の葉は左右に広がる傾向がある』。『葉は黄緑色で薄いが』、『やや堅く、卵形か長卵形、先端が少し突きだし(鋭尖頭)、縁は鋸歯がなく』、『全縁である。葉は有毒成分』(テルペノイド:Terpenoid)『を含み、裏面の基部近くには白色の毛が生える。秋には紅葉し、濃い橙色から赤色に染まり、色が濁りやすい傾向がある』。『花期は』六『月。前年の枝から横枝として総状花序を出す。花序の軸はほぼ水平に伸び、等間隔で下向きに白いつぼ形の花を多数咲かせる。果実は上を向いてつく』。『冬芽は赤色でほぼ無毛、卵形で芽鱗』二『枚に包まれている。葉痕は半円形で、維管束痕が』一『個つく』。『庭園樹として栽培されることがある。材は細工物に使い、この木の炭で漆器を磨く。冬の小枝が赤色で美しいので、冬の花材にされる』。『近縁種であるアセビ』(アセビ属アセビ亜属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica )『などと同様』、『有毒植物であり、テルペノイドのグラヤノトキシン(grayanotoxinIIIIなどを含む。かつて、中国地方では「霧酔病」といわれる牛や馬の原因不明の疾病が流行ったが』、『應用獸醫學雜誌』(昭和一四(一九三九)年発行)で、『山井』(一九三九年)『によってネジキを食べたことによる中毒であると発表された。しかし』、『この発表は実情と合っていないなど、ネジキによる中毒と霧酔病の関連に否定的な意見が』、後の『日本獣医師会雑誌』(昭和二七(一九五三)年)で『蒲地』(一九五三年)『によって指摘された』とある。しかし、ネット上の複数の論文類や記事を見るに、これは、やはり「ネジキ中毒」による病変であったことが、現在は確定しているように読める。有毒成分は「リオイニノーロルA」(別名称:LyoniatoxinLyoniol A・リオニアトキシン・リオニオールA等)である。山井氏の説は正しかったのである。

「百日紅《ひやくにちこう》」双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ科サルスベリ属サルスベリ Lagerstroemia indica 。前々項「百日紅」、及び、「猿滑」を見よ。

「黃楊木(つげのき)」ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica 。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 猿滑

 

Sarusuberi2

 

さるすへり 猴刺脫

猿滑

      俗云左留須倍利

 

 

△按樹葉同百日紅而葉畧厚四時不凋未見花實其樹

 無皮甚滑而猴猿亦不得登故呼名猴滑與百日紅一

 類二種也【百日紅冬葉凋有花猴滑四時不凋無花】二本同稠堅酒家用爲

 搾木 夫木足引の山のかけちのさるなめりすへらかにても世を渡らはや爲家

 

   *

 

さるすべり 猴刺脫《こうしだつ》

猿滑

      俗、云ふ、「左留須倍利《さるすべり》」。

 

 

△按ずるに、樹≪の≫葉、「百日紅《ひやくじつこう》」に同≪じく≫して、葉、畧《ちと》、厚《あつし》。四時、凋まず。未だ、花・實を見ず。其の樹、皮、無し。甚≪だ≫、滑かなり。猴猿≪も≫亦、登ることを得ず。故、呼んで「猴滑」と名づく。「百日紅」と一類二種なり【百日紅は、冬、葉、凋み、花、有り。猴滑は、四時、≪葉は≫凋まず、花、無し。】。二本、同≪じく≫稠(ねば)く、堅(かた)し。酒家≪さかや≫、用ひて、搾木(しめ《ぎ》)と爲《なす》。

 「夫木」

   足引《あしびき》の

       山のかげちの

      さるなめり

    すべらかにても

         世を渡らばや 爲家

 

[やぶちゃん注:この「猿滑」は、どう調べてみても、前項の「百日紅」と同一で、

双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ科サルスベリ属サルスベリ Lagerstroemia indica

である。不稔性の異常個体ととるか、或いは、全く異なる樹木の誤認とでもするしかない。次の次で電子化する「山茶科」=ツツジ目リョウブ科リョウブ属リョウブ Clethra barbinervis を、地方によっては、「サルスベリ」と呼ぶが、樹体がまるで異なり、不稔種ではないので、違う。なお、「国際基督教大学図書館」公式サイト内の「みんなククノッチ」の「百日紅(サルスベリ)(2016年7月23日)」の記事で、本件の疑義が示されてあった。前の「百日紅」の記事への不審も記されているので、これを掲げて、本注は早々に御いとま致そうと存ずる。

   《引用開始》

◆ 寺島良安『和漢三才図会』の「百日紅(ひやくじつかう)」の項によれば、案樹似柘榴木而無皮、葉似夏黄櫨而冬凋落。七月初至九月有花、浅紫紅色映山谷故名百日紅。随結子?簇不熟而凋、挿其枝良能活、とのことです。マイ素人読み下しをさせて頂くと「考えるところ、この樹はザクロに似て皮は無い。葉はナツハゼに似て冬は落ちる。7月から9月にかけて紫がかったピンクの花が咲き、野に映えるので百日紅と呼ばれる。実は集まってつき、熟す前に萎んでしまう。挿し木してもよく育つ」ですかね。うん、たしかにこれは現在のサルスベリの特徴が捉えられている。気になるのは山谷に映えるというところと、実が熟す前に萎むという点。山には生えてないと思うんだよねえ。あと熟さず萎んじゃう実についてはククノッチも意識して見た事がないのでこの秋に確認が必要だな。と、ここまでは良かったんだけど、百日紅の次の項目を見てビックリ。「猿滑(さるすべり)」。ええー!? 百日紅と猿滑が別の木扱いになってるよ。こちらの解説は以下の通り「案樹葉同百日紅而葉略厚。四時不凋、未見花實。其樹無皮甚滑而猿猴亦不得登故呼名猿滑與」。えーと、「考えるところ、百日紅と同じ葉で多少厚め。常緑で花や実は無い(目立たない?)。樹皮は無くとても滑らかで猿も登れないとも言われるのでこの名がある」。そしてこのあとが肝心の部分。「百日紅一類二種也(百日紅冬葉凋有花)(猿滑四時不凋無花)二本同稠堅酒家用為搾木」。つまり、「百日紅には2種類あって、1つは「百日紅」で花が咲く落葉樹、もう一種類は「猿滑」で花が咲かない(目立たない?)常緑樹。どちらも粘りのある堅い材木となるので酒造において酒を搾るための搾木(しめぎ)として使われる」とある。えー、ほんとうかなー? 花の咲かない常緑のサルスベリは果たして本当にあるのでしょうか? それに伝統的酒造の作業工程である酒槽(さかぶね)で使われる搾木(しめぎ)って相当大きい。23メートルはある巨大な部品で、モノノホンではケヤキ材と書いてあった。そんな大木、サルスベリにはそうそうないんじゃないかなあ。これまたナゾです。

   《引用終了》]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 百日紅

 

Sarusuberi1

 

ひやくじつかう 怕痒樹

 

百日紅   紫薇花

 

△按樹似柘榴木而無皮葉似夏黃櫨而冬凋落七月初

 至九月有花淺紫紅色映山谷故名百日紅隨結子攅

 簇不熟而凋揷其枝能活

 

   *

 

ひやくじつかう 怕痒樹《はやうじゆ》

 

百日紅   紫薇花《しびくわ》

 

△按ずるに、樹、「柘榴《ざくろ》」の木に似て、皮、無し。葉、「夏黃櫨(なつはぜ)」に似て、冬、凋≪み≫落≪つ≫。七月の初め≪より≫九月に至るまで、花、有り、淺紫紅色《せんしこうしよく》。山谷に映《はゆ》。故、「百日紅」と名づく。隨《つづき》て、子《み》を結ぶ。攅-簇《こごな》≪りて≫、熟さずして、凋む。其の枝を揷≪せば≫、能《よく》活≪す≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ科サルスベリ属サルスベリ Lagerstroemia indica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『百日紅・猿滑』。『別名は、ヒャクジツコウ。すべすべした幹肌が特徴で、夏から秋の長期にわたって紅色の花が咲く』。『和名サルスベリの語源は、木登りが上手なサルでも、滑り落ちるほど樹皮が滑らかという例えから名付けられている。花が咲く期間が長いことから、ヒャクジツコウ(百日紅)の別名もあり、漢名もまた百日紅である』(正しくない。同種の「維基百科」の標題は「紫薇」であり、分類項目も『桃金孃目  Myrtales 千屈菜科  Lythraceae 紫薇屬  Lagerstroemia 紫薇節 sect. Lagerstroemia 紫薇 Lagerstroemia indica 』と、属名以下のタクソンが一貫して正式な中文学名は「紫薇」であるからである)。『英語名 Crape myrtle は、ギンバイカ(myrtle)』(フトモモ目フトモモ科ギンバイカ属ギンバイカ Myrtus communis 。地中海沿岸原産)『の花に似て、花弁がちりめん(crape)のように縮れていることから』。『中国では、唐代長安の紫微(宮廷)に多く植えられたため、紫薇と呼ばれるが、比較的長い間紅色の花が咲いていることから、百日紅ともいう。江蘇省徐州市、湖北省襄陽市、四川省自貢市、台湾基隆市などで市花とされている』。『ミャンマーのビルマ語ではパンイー』『と呼び、文字通りには〈やわな花〉を表す。なお、ミャンマーにも〈猿が滑る木〉という意味合いの名を持つミャウッチョー』『という木が存在するが、これはヤナギ科(旧イイギリ科)のビルマラーンスウッド(英:Burma lancewood;学名: Homalium tomentosum )やミソハギ科ではあるが』、『サルスベリとは別属の Woodfordia fruticosa(シノニム: Lythrum fruticosum )のことを指す』。『中国南部原産。世界の熱帯各地に分布する。日本へは江戸時代以前に渡来したと言われている。日本では植栽樹として、庭や公園、寺社などで見られる』。『広葉樹の小高木。熱帯地域ではない日本などでは落葉樹である。樹皮は見るからに滑らかな表面をもち、全体に淡褐色で、所々がはげ落ちて白く、濃淡が混じった斑模様になる。特に幹の肥大成長に伴って、特に夏に古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に現れて更新していく。一年枝は細く、はっきりした稜がある。混み合って植栽された幹は曲がることが多く、枝も細かく曲がる』。『葉は通常』は、二『対互生(コクサギ型葉序』(「コクサギ」は「小臭木」=ムクロジ目ミカン科コクサギ属コクサギ Orixa japonica で、当該ウィキによれば、コクサギの『葉は』二『個ずつ左右交互に互生する。特殊な葉のつき方』をすることから(同画像)、そうした特異な葉序を、かく称する)『)、対生になることもある。葉身は倒卵状楕円形、葉先はくぼむことが多い。春の芽吹きの時期はやや遅く、新葉は樹皮の色に似て赤味を帯びる。秋に紅葉し、濃い赤色から橙色を中心に、条件がよいと鮮やかに色づく』。『花期は』七~十『月』、『花は紅色または白色で、円錐花序になり、がくは筒状で』六『裂、花弁』も六『枚で縮れている。花は開花したその日で萎んでしまう一日花であるが、蕾が次々と開花するため、百日紅の別名どおり』、百『日近く咲き続ける』。『果期は』八~十一『月。果実は円い蒴果で、先が』六『つに割れて、翼がある種子を飛ばす。果実は種子を飛ばしたあとも遅くまで枝に残っている』。『冬芽は小さな卵形で先端は尖り、枝の先端に仮頂芽がつき、側芽は対生するか、ときにずれてコクサギ型互生となる。仮頂芽と側芽はほぼ同じ大きさで、芽鱗』二~四『枚に覆われている。冬芽わきにある葉痕には、弧状の維管束痕が』一『個ある』。『花が美しく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、しばしば好まれて』、『庭や公園、街路樹などに植えられる。種子から栽培する「あすか」』( Lagerstroemia indica 'Asuka. Dwarf Hybrid' )『という一才物の矮性種もある。材は硬くて重い特性から、線路の枕木など土木用途で使用される』とある。

「怕痒樹《はやうじゆ》」「株式会社 宮城環境保全研究所」公式サイト内の「宮環コラム」の「花の歳時記」の「No.10 サルスベリ (百日紅)」に、『怕痒樹(はくようじゅ)の異名もあるが、これはなめらかな樹幹をさすると』、『痒がって梢の枝まで伝わって揺れ動くという巷間の噂に基づくもので、怕とは』、『おそれる』、『という意味である』とあった。

「柘榴《ざくろ》」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum 。私の好きな樹。

「夏黃櫨(なつはぜ)」双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科スノキ(酢の木)亜科スノキ属ナツハゼ Vaccinium oldhamii 。先行する「夏黃櫨」を見よ。

 ……ちょっと「困ったちゃん」なのは……次の項が――「さるすべり」「猿滑」――なんだな……

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 三杈木

 

Mitumata

 

みつまたのき 正字未詳

 

三杈木

 

 

△按三杈木高丈許杈椏皆三叉而葉似水楊葉開小黃

 花作房

 

   *

 

みつまたのき 正字、未だ、詳かならず。

 

三杈木

 

 

△按ずるに、三杈の木、高さ丈許《ばかり》。杈椏《きのまた》、皆、三叉《みつまた》にして、葉、「水楊(かはやなぎ)」の葉に似《にる》。小≪さき≫黃花を開き、房《ふさ》を作《な》す。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱フトモモ(蒲桃)目ジンチョウゲ(沈丁花)科ミツマタ属ミツマタ Edgeworthia chrysantha

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。現行の代表的漢字表記は『三椏』。『冬になれば』、『葉を落とす落葉性の低木であり』、『中国中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる』。三『月から』四『月ごろにかけて、三つ叉(また)に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。一年枝の樹皮は和紙や紙幣の原料として用いられる』。『ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分かれる持ち前があるために「ミツマタ」と名付けられた』「三枝」・「三又」『とも書く。中国語では「結香」(ジエシアン)と称している』(「維基百科」の「結香」を参照されたい)。『園芸種では、オレンジ色から朱色の花を付けるものもあり、赤花三椏(あかばなみつまた)』(=園芸品種ベニバナミツマタEdgeworthia chrysantha cv.)『と称する』。『中国中西部から南部、ヒマラヤの原産。中国、ヒマラヤ、東南アジアに分布する。人の手によって、庭木などとしても植えられ、和紙や紙幣の原料として栽培もされている』。『落葉広葉樹の低木で、樹高は』一~三『メートルになる』。『幹は株立ち状になり、枝が必ず三つ叉状に分かれるのが特徴で、枝が横に広がる樹形となる。樹皮は灰褐色で滑らか。一年枝は紫褐色で』、七『月ごろに新芽が』三『つに分かれて枝が伸び始める。葉は互生で、葉身が長さ』八~十五『センチメートルの広披針形』。『花期は』三~四月。『葉が出る前に、花が球状に集まった黄色の頭花を枝先につけて、下向きに咲かせ甘い芳香を放つ。花には花弁がなく、筒状で先端が』四『裂した萼筒がつき、外側に白い細かい毛が密生して、内側が黄色い。果期は』七『月。冬芽は葉芽、花芽ともに裸芽で、白色の産毛が密生する。花芽は丸く、多数の花蕾が下向きにつく。葉痕は半円形で枝先の表面から突き出し、維管束痕が』一『個つく』。『樹皮は繊維質が強く、和紙の原料、特に日本紙幣の原料として重要である。和紙はミツマタやコウゾ』(楮・栲:バラ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia × kazinoki 。ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki とカジノキ(梶の木)Broussonetia papyrifera )の交雑種)『などの切り株から、約』一『年で生育する枝の繊維を原料としており、ミツマタで漉いた和紙は、こすれや折り曲げに強い特徴がある。手漉き和紙業界でも、野生だけで供給量の限定されたガンピ』(雁皮:ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana )『の代用原料として栽培し、現代の手漉き和紙では、コウゾに次ぐ主要な原料となっている。現代の手漉き鳥の子和紙ふすま紙は、ミツマタを主原料としている』。『徳島県では、通常は廃棄されるミツマタの幹を使った木炭とそれを成分とした石鹸が製造されている。ネパールのミツマタは、ヒマラヤ山脈の麓・標高』二千メートル『以上の高地で栽培され、冬に収穫・加工し、対日輸出は『官報』販売などを行う企業』「かんぽう」『(大阪市)が支援している』。『ミツマタが中国から和紙の原料として日本へ渡来したのは、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『とされ、和紙の原料として登場するのは』、十六『世紀(戦国時代)になってからであるとするのが一般的である。しかし』、「万葉集」『にも』、『度々』、『登場する良く知られたミツマタが、和紙の原料として使われなかったはずがないという説』のあるらしい。『平安時代の貴族たちに詠草(えいそう)料紙として愛用された斐紙(雁皮紙、美紙ともいう)の原料である雁皮(ガンピ)も、ミツマタと同じジンチョウゲ科』Thymelaeaceae『に属する。古い時代には、植物の明確な識別が曖昧で混同することも多かったために、雁皮紙だけでなく、ミツマタを原料とした紙も斐紙(ひし)と総称されて、近世まで文献に紙の原料としてのミツマタという名がなかった。後に植物の知識も増え、製紙技術の高度化により、ガンピとミツマタを識別するようになったとも考えられる』とも言われるらしい。『「みつまた」が紙の原料として表れる最初の文献は、徳川家康がまだ将軍になる前の慶長』三(一五九八)年『に、伊豆修善寺にいた製紙工の文左右衛門にミツマタの使用を許可した黒印状である。当時は公用の紙を漉くための原料植物の伐採は、特定の許可を得たもの以外は禁じられていた』(以下の資料は私が原文に近づくように加工してある)。

   *

豆州ニテハ 鳥子草(とりこくさ) カンヒ ミツマタハ 何方(いづかた)ニ候トモ 修善寺文左右衛門ヨリ外ニハ 切ルヘカラス

   *

『とある。「カンヒ」は、ガンピのことで、他にミツマタ、鳥子草の使用が許可されている。「鳥子草」とは、ガンピ、ミツマタと同じジンチョウゲ科のオニシバリ』(ジンチョウゲ属オニシバリ Daphne pseudomezereum )『のことであると言う説がある』。『天保』七(一八三六)年『稿の大蔵永常』の著した「紙漉必要」『には、ミツマタについて、

   *

常陸 駿河 甲斐の邊りにて 專ら作りて 漉き出せり

   *

『とある。武蔵の中野島付近で漉いた和唐紙は、このミツマタが主原料であった。佐藤信淵の』「草木六部畊種法」『には』、

   *

三又木の皮は 性(しやう)の弱きものなるを以て 其の紙の下品なるを なんともすること無し

   *

『として、コウゾ(楮)と混合して用いることを勧めている』。『明治になって、政府はガンピを使』って、『紙幣を作ることを試みた。ガンピの栽培が困難であるため、栽培が容易なミツマタを原料として研究』し、明治一二(一八七九)年、『大蔵省印刷局(現・国立印刷局)抄紙部で苛性ソーダ煮熟法を活用することで、日本の紙幣に使用されるようになっている。国立印刷局に納める「局納みつまた」は』、二〇〇五『年の時点で島根県、岡山県、高知県、徳島県、愛媛県、山口県の』六『県が生産契約を結んで生産されており、納入価格は山口県を除く』五『県が』、『毎年』、『輪番で印刷局長と交渉をして決定された』。『しかし、生産地の過疎化や農家の高齢化、後継者不足により』、二〇〇五『年度以降は生産量が激減し』、二〇一六『年の時点で使用量の約』九『割はネパールや中国から輸入されたものであった。国内では岡山県、徳島県、島根県の』三『県だけで生産されており、出荷もこの』三『県の農協に限定された』。『生産農家の減少などで、ミツマタの価格は』二〇一八『年に』三十『キログラムあたり』九万五千四百円と『過去最高水準まで上昇した(国立印刷局による)』。二〇二四『年度の新紙幣発行を視野に、耕作放棄地など徳島県山間部でミツマタを新たに栽培する動きもある。ネパールでは日本の企業による貧困対策としてミツマタ栽培が行われており、国際協力機構も協力して栽培された物が日本に輸入されている』。『ミツマタは栽培植物の中では鹿による食害が』、『比較的』、『少ないという』。二〇〇八年の『税制改正において、法人税等の「減価償却資産の耐用年数等に関する省令」が改正され、別表第四「生物の耐用年数表」によれば』、二〇〇八年四月一日『以後開始する事業年度にかかるミツマタの法定耐用年数は』五『年となった』。『初春の』三『月から』四『月にかけて黄色い花を咲かせることから、「ミツマタの花」は日本においては』、『仲春(啓蟄』(三月六日頃)『から清明の前日』(四月四日頃まで)『の季語とされている』。『古代には「サキクサの」という言葉が「三みつ」という言端(ことば)に係る枕詞とされており、枝が三つに分かれるミツマタは昔は「サキクサ」と呼ばれていたと考えられている。そう名付けられた理由としては、ミツマタはあたかも春を告げるかのごとく一足先に淡い黄色の花を一斉に咲かせるため、それゆえに「先草(サキクサ)」と呼ばれたのだとの考えがある』らしい。但し、『他にもミツマタが縁起の良い吉兆の草とされていたため「幸草(サキクサ)」と呼ばれたのだとも言』う説もあるようだ。『最も古い用例である万葉歌人・柿本人麻呂が詠んだ和歌では』(「卷第十」:一八九五番。以下、引用のものとは異なる訓読・訳を中西進氏の「万葉集 全訳注原文付」(一)(昭和五三(一九七八)年講談社文庫刊)で示した)、

   *

 春されば

   まず三枝(さきくさ)の

  幸(さき)くあらば

      後(のち)にも逢はむ

    な戀ひそ吾妹(わぎも)

   *

(中西氏の訳)――『春になると真っ先に咲く三枝のようにさきく(無事で)いたら、後に逢うこともあろう。恋に苦しむな』、『吾妹よ』――

   *

とあり、三枝(さきくさ)という言端の元が「先草(サキクサ)」とも「幸草(サキクサ)」ともとれる表現となっている』とある。

「水楊(かはやなぎ)」この標準和名では、キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属カワヤナギ(川柳)Salix gilgiana を指すが、本邦では、かの遙かに知られて人気の高い(私も好き)ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla のことを誤用漢名として、少なくとも江戸時代中期から盛んに使用してきている。今回も、そこを考えて、画像で比較してみたところ、

ミツマタの葉(学名+葉のグーグル画像検索。以下同じ。但し、下の二つのリンクは他のヤナギ類の葉の画像が孰れも混入して提示されているので、要注意である。御自分で見やすいものを選ばれたい

に対して、

正当なカワヤナギの葉

ネコヤナギの葉

である。『これでケリがつく。」と思ったのだが、実はカワヤナギとネコヤナギの葉は、一見、似て見えるのである。しかし、ミツマタには鋸歯がないのが大きな違いである。そこで、荒木武夫氏のサイト「葉と枝による樹木検索図鑑」の「オノエヤナギ―カワヤナギ―タチヤナギ―ネコヤナギ」のページにある葉の拡大写真を見た。すると、孰れも鋸歯があるのだが、ネコヤナギの方が、細かい鋸歯が連続しており、少し離れて見ると、鋸歯がないように見える。また、カワヤナギと比較すると、ネコヤナギの葉の方が、幅が広く、比較的には、ミツマタの葉には、カワヤナギより、より似ていると言える。されば、「似ている」発言眉唾男良安先生のこの時の観察が、珍しく正しかったと仮定するなら、この「水楊(かはやなぎ)」はネコヤナギであったと断定してよいと私は思う。

 ……思い出すね……横浜翠嵐の山岳部の引率で、毎年新春に金時山に登った。下りの沢に下ると、必ず、ミツマタの群生が待っていて呉れたね…………

2024/10/29

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 讓葉木

 

Iigiri

 

ゆずりは  弓絃葉【万葉】

      楪【俗字】

讓葉木

       枕草紙云

      由豆利葉

[やぶちゃん注:「万葉集」の中の異名漢字表記の「弓」は、原本では、「グリフウィキ」のこれであるが、表示出来ないので通常字で示した。「計羅」の本文の「弓」は「弓」である。]

 

△按木高五七尺樹葉茂盛畧似珊瑚樹葉而大色稍淺

 葉莖赤開小白花似柚柑花結子淺黒色大如小豆中

 有仁新葉既生舊葉落如父子相讓故俗呼曰讓葉都

 鄙正月鏡餈及門戶之飾用亦取相續之義

  六帖あともへかあしくま山のゆつる葉のふゝまる時に風吹かすかも


けら

計羅  【正字未詳】灌木而枝葉頗似弓絃葉其子赤攅生

      如南天子而顆大植庭園賞之俗云犬枇杷

      卽夷果部天仙果也

 

   *

 

ゆづりは  弓絃葉(ゆづるは)【「万葉」。】

      楪《ゆづりは》【俗字。】

讓葉木

      「枕草紙」に云はく、

     『由豆利葉《ゆづりは》』。

 

△按ずるに、木の高さ、五、七尺。樹≪の≫葉、茂《しげり》、盛《さかん》≪なり≫。畧《ちと》、「珊瑚樹」の葉に似て、大《おほき》く、色、稍《やや》、淺《あさし》。葉の莖、赤し。小≪さき≫白≪き≫花を開く。「柚柑《ゆかう》」の花に似≪たり≫。子《み》を結≪び≫、淺黒色≪なり≫。大いさ、「小豆《あづき》」のごとく、中≪に≫、仁《にん》、有り。新≪しき≫葉、既に生《しやう》じて、舊《ふる》≪き≫葉、落つ。父子《ふし》、相讓《あいひゆづ》るがごとし。故、俗、呼んで、「讓り葉」と曰ふ。都鄙《とひ》≪ともに≫、正月の鏡《かがみ》の餈(もち)、及び、門戶《もんこ》の飾りに用ふ。亦、「相續の義」を取る。

  「六帖」

    あどもへか

     あしくま山の

         ゆつる葉《は》の

      ふゝまる時に

             風吹かずかも


けら

計羅  【正字、未だ、詳かならず。】灌木にして、枝葉、頗≪る≫、「弓絃葉《ゆづりは》」に似≪たり≫。其の子《み》、赤≪く≫、攅-生《こごなり》して、「南天」の子のごとくして、顆(くわ)、大きく、庭園に植《うゑ》て、之≪れを≫賞す。俗、云ふ、「犬枇杷《いぬびは》」、卽ち、「夷果部《いくわぶ》」の「天仙果」なり。

 

[やぶちゃん注:この「讓葉木」の本邦での基亜種は、

双子葉植物綱ユキノシタ目ユズリハ科 Daphniphyllaceae ユズリハ属ユズリハ亜種ユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum

である。個人的に、私は、理由が上手く言えないが、同種の樹様が生理的に嫌いである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『楪・交譲木・譲葉・杠』。『春に新しい葉が出ると古い葉が場所を譲るように落ちて生え替わるようすが特に目立つことが特徴で、和名の由来になっている。別名、ウスバユズリハ』。『花の形態がトウダイグサ科』Euphorbiaceae(同科に含まれる種群は当該ウィキを見られたい)『に似るので、古くはトウダイグサ科に含められたが、雌蕊が』二『個(トウダイグサ科は)三『個)などの違いから、独立のユズリハ科』『とされた。APG分類体系ではユキノシタ目』Saxifragales『に入れられている』。『和名ユズリハは、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来する』。『古名はユズルハ(弓弦葉)といわれ、葉の中にある主脈がはっきりと目立ち、弓の弦のように見えることに由来する。そこから発展した地方名(方言)としてツルノハというものもある』。『中国名は、薄葉虎皮楠(別名:交讓木)』。『日本の福島県以南・関東・東海地方以西の本州、四国、九州、沖縄と、日本国外では朝鮮半島南部、中国(中部から南西部)まで自然分布する』。『南限は鹿児島県徳之島』である。『日本の植栽可能地域では、東北地方南部より沖縄の地域となる。主に暖地の山地や広葉樹林内に自生する』。『常緑広葉樹』で、『高木の中でも中高木に分類され、高さは』四~十『メートル』『ほどになり、幹は直立して上部は多く枝分かれをし、前年葉をつけたこんもりした樹形となる。樹皮は灰褐色から茶褐色で、縦に筋が入る。若枝は赤みを帯びる』。『常緑樹でありながら、若葉に座を譲るように、春に古い葉が落ちて新しい葉と入れ替わる。この生え替わりのとき、古い葉のほうは、まだ濃い緑色をしていながらも、浅緑色の新葉の下に控えて残っている。葉は互生して、枝先にらせん状に集まってついて、葉身は垂れ下がる。葉身には光沢があり、長さは』八~二十『センチメートル』『ほどの長楕円形から倒披針形で、先端は短く尖り、基部はくさび形。葉の裏側は白みを帯びる。長さ』八~二十センチメートル『ほどある葉柄は赤紫色を帯び、本種の特徴にもなっている』。『花期は春から初夏(』四~六『月)、新葉が出るころに、前年枝の葉腋から長さ』四~八センチメートル『の総状花序を出して、花被(花弁と萼)がない小さな花を多数つける。雌雄異株で、雄花・雌花とも花色は黄緑色をしている』。『果期は』六~十二『月で、果実は長さ』十五~二十センチメートル『で、枝先に集まってつき』、十『月から』十一『月に熟して黒褐色になる』。『冬芽は葉柄の基部につき、紅色を帯びて、葉柄が変化した芽鱗に包まれる。葉痕は半円形で、維管束痕は』三『個ある』。『ダフニフィリン、ダフニマクリン、ユズリミン、ダフェニリンなどの複雑な骨格構造のアルカロイド(ユズリハアルカロイド)を多数含み、家畜が誤食すると』、『中毒の原因となる。さらに、ユズリハアルカロイドはその構造から全合成の対象としてよく取り上げられる』。『ユズリハは、新しい葉が古い葉と入れ替わるように出てくる性質から「親が子を育てて家が代々続いていく」ことを連想させる縁起木とされ、正月の鏡餅飾りや庭木に使われる』。『防火の機能を有する樹種(防火樹)としても知られる』。以下、「栽培」の項だが、厭な種なので、前半分の植生性質を除いて、カットする。『日陰か斑に影を好む性質で、根は深く張り、土壌は砂土はよく乾燥にも強い。生育の速度は遅い方で、若木のうちは剪定の必要もほとんどない』。『大きく目立つ葉は観賞用にもされ、白い斑入りが入る‘白覆輪ユズリハ’のほか、黄覆輪や黄中斑などの園芸品種があり、斑色の濃淡でいくつかの系統がある』。『「譲り葉」の縁起を担いで正月飾りに用いられるが、これには歳を譲るという意味もある』。『ユズリハに乗った年神(正月様)の降臨を歌った童謡は日本各地で見られる。ユズリハが年神の乗り物になった理由は、祖霊は次々と代を譲って新しい命へ生を繋げていくように、春になるとユズリハの新葉が芽吹くと、あたかも古葉が代を受け継ぐように落葉する様子を見て、後世の人々がそのユズリハの落ち葉に乗って祖霊は天上界へ昇ったと考えた。祖霊が帰るときも』、『同じ乗り物の帰ってくるだろうと想像したので、門松にユズリハを結んで帰るべき家の目印とした。また、常緑樹(常磐木)であることや、葉柄の赤い色が呪力があると信じられたことも、ユズリハが正月と結びついている理由である』。『地方名の「ツルノハ」は「弦の葉」から「鶴の葉」へと変化し、鶴は千年の長寿をもつおめでたい鳥とされていることから、ユズリハもめでたい葉となった』。「ユズリハ属」の項。『ユズリハ属』『は、ユズリハ科で唯一の属であ』り、『東アジアの温帯から東南アジア・インドに分布し』、全三十五『種からなる』として、十三種(亜種を含む)が掲げられている。本邦に植生するであろうタイプ基亜種以外のもののみを以下に示す。

○亜種エゾユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. humile (『ユズリハの矮性の亜種。日本の寒冷地(北海道から中部地方の日本海側)に分布する。高さ』一メートル『ほどの灌木で、ユズリハと同様に葉柄が赤い』)

○亜種品種アオジクユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum f. viridipes (別名「イヌユズリハ」で、『ユズリハの一品種』)

○品種フイリユズリハ Daphniphyllum macropodum f. variegatum (『ユズリハの品種』。別名「フクリンユズリハ」)

○ヒメユズリハ Daphniphyllum teijsmannii (『別名オヤコグサ、オオバユズリハ、アマミユズリハ、オキナワヒメユズリハ。ユズリハより小さく、花には』萼『がある。日本の暖地(福島県以南、沖縄)・台湾までの海岸近くに分布する』)

○変種スルガヒメユズリハ Daphniphyllum teijsmannii var. hisautii (『ヒメユズリハの一変種』)

○変種シマユズリハ Daphniphyllum teijsmannii var. oldhamii (別名「ナガバノヒメユズリハ」。同前の一変種)

「弓絃葉(ゆづるは)【「万葉」。】」「萬葉集」には、二首、載る。一つは、「卷第二」の、天武天皇の第九皇子(第六皇子とも)で二十七の若さで逝去した弓削皇子(ゆげのみこ)の一首(一一一番)。

   *

   吉野の宮に幸(いでま)しし時、
   弓削皇子の、額田王(ぬかたのお
   ほきみ)に贈り與(あた)へたる
   歌一首

 古(いにしへ)に

    戀ふる鳥かも

  弓絃葉の

     御井(みゐ)の上より

    鳴き渡り行く

   *

中西進氏の「万葉集 全訳注原文付」(一)(昭和五三(一九七八)年講談社文庫刊)の注によれば、この「古」は天武天皇在世時を指し、「鳥」はホトトギスを指す。『中国の伝説に蜀王が霍公鳥』(ホトトギス)『になって不如帰、不如帰と鳴きつつとんだという。この謎をかけた』とある。

 今一つは、「卷十四」の「譬喩謌(ひゆか)」の冒頭にある一首(三五七二番)。

   *

 何(あ)ど思(も)へか

  阿自久麻山(あじくなやま)の

   弓絃葉の

     含(ふふ)まる時に

    風吹かずかも

   *

同書の(三)で中西氏は、『どう思うからとて、阿自久麻山のゆずる葉が開き切らない時に、風が吹かないと言えようか。』と訳しておられる。「含(ふふ)まる」は『フフメルの訛り未成熟の少女の比喩。風吹く、は男が誘う比喩』とされ、一首は『ためらっていられない気持ちを歌』ったものと解説されておられる。

『「枕草紙」に云はく、『由豆利葉《ゆづりは》』』「枕草子」の所謂、「木尽し」の段の終りの方に出る。なお、良安が「六帖」(平安中期に成立した類題和歌集「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者・成立年ともに未詳。「万葉集」・「古今集」・「後撰集」などの歌約四千五百首を、歳時・天象・地儀・人事・動植物などの二十五項・五百十六題に分類したもの)から引いた「あどもへかあしくま山のゆづる葉《は》のふゝまる時に風吹かずかも」は、この一首である。

   *

 ゆづり葉の、いみじう、ふさやかにつやめき、莖(くき)は、いと赤き、きらきらしく見えたるこそ、あやしけれど、をかし。『なべての月には、見えぬものの、師走のつごもりのみ、時めきて、亡き人の食ひ物に敷くものにや。』と、あはれなるに、また、齡(よはひ)を延ぶる齒固(はがた)めの具にも、もてつかひためるは、いかなる世にか、「紅葉せむ世や」と言ひたるも、たのもし。

   *

ズバり、サイト「学習塾 ゆずり葉塾」の「ゆずり葉 豆知識」のここに、現代語訳と語注があるので参照されたい。

「珊瑚樹」双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabuki 。先行する「珊瑚樹」を見よ。

「柚柑《ゆかう》」現代仮名遣では「ゆこう」。ムクロジ目ミカン科ミカン属ユコウ Citrus yuko 。ミカン科の常緑小高木で、古くに自然交雑によって生じたミカン属ユズ Citrus junos の変種で日本原産。中国地方・四国で栽植する。果実はユズに似て、大きく、香りが高い。クエン酸製造に用いる。「ゆかん」とも呼ぶ。何故か、花の画像が見当たらない。見つけたら、追記する。

「けら」「計羅」「犬枇杷」『「夷果部《いくわぶ》」の「天仙果」なり』これは調べるに、なかなか難しいことになった。まず、この最後のそれは、「本草綱目」の「卷三十一」の「果之三夷果類」を指す。「漢籍リポジトリ」の、[077-27b]以下(ここは項目「無花果」(これは日中ともにバラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica を指す)の「附録」の中にある「天仙果」(ここ。今回は当該部まで移動して呉れる)で、

   *

天仙果【出泗州樹高八九尺葉似荔枝而小無花而實子如櫻桃纍纍綴枝間六七月熟其味至甘宋祁方物賛云有子孫枝不花而實薄言采之味埒蜂蜜】

   *

を指していることが判った。一方、「犬枇杷」であるが、これは、

バラ目クワ科イチジク連イチジク属イヌビワ変種イヌビワ Ficus erecta var. erecta

を指していることが判った。而して、当該ウィキを見ると(注記号はカットした。太字・下線は私が附した)、『イヌビワ(犬枇杷、学名: Ficus erecta または Ficus erecta var. erecta)は、クワ科イチジク属の落葉低木から小高木。山野や海沿いに生える。別名ヤマビワ、イタビ、姫枇杷』。『果実(正確にはイチジク状果(☜)『という偽果の)一『種)がビワの実に似ていて食べられるが、ビワに比べ不味であることから「イヌビワ」の名がある。「イヌ」は劣るという意味である。「ビワ」とついていても』、ビワ(バラ科ナシ亜科シャリンバイ属ビワ Rhaphiolepis bibas の仲間ではなくイチジクの仲間で、ビワとは近縁関係にはない。イチジク渡来前の時代の日本では、本種は「イチジク」とよばれていたという驚くべき事実が記されてあるのである。『日本の本州(関東以西)・四国・九州・沖縄と、韓国の済州島に分布する。海岸や沿海の山地に自生する。特に関東地方から沖縄までの海岸沿いの照葉樹林の林縁に多く見られる』。『なお、イチジク属のものには熱帯性のものが多く、本種は落葉性を獲得したため、暖温帯まで進出できたものと考えられる。本種はイチジク属の木本としては本土で最も普通に見られるため、南西諸島などに分布する同属のものには「○○イヌビワ」という本種に比した名を持つものが多い』。『落葉広葉樹の低木から小高木で、高さは』五『メートル』『くらいまでになる。樹皮は灰白色でなめらか、一年枝はやや太く、緑色を帯びて無毛である。枝を』一『周するように、はっきりした托葉痕がある。樹皮に傷つけると』、『イチジクと同様に乳白色の樹液が出る』。『葉は狭い倒卵形から長楕円形、基部は』、『少し』、『心形か』、『丸まる。葉質は薄くて草質、表面は滑らかか』或いは、『短い毛が立っていて』、『ざらつく。変異が多く、海岸沿いでは厚い葉のものも見ることがある。ごく幅の狭い葉をつけるものをホソバイヌビワ』Ficus erecta var. sieboldii 、葉面に毛の多いものをケイヌビワ』Ficus erecta var. beecheyana 『というが、中間的なものもある。葉縁に鋸歯はない。秋には紅葉し、鮮やかな黄色や橙色に染まり、常緑樹林の中でよく目立つ。紅葉後は遅くまで落葉せずによく残っている』。『花期は晩春』四~五月頃『で、雌雄異株。葉の付け根についた花嚢(かのう)は、秋に赤色から黒紫色へと変化して果嚢(かのう)となる。イチジクを小さくしたような形の実をつける』。『果嚢は』九『月末から十月頃『に完熟し、見た目は小さなイチジク様で、直径』一~一・三センチメートル『の球形で長い柄があり、白い粉を吹いたような濃紫青色となる。果嚢は甘く、食用になる』。『冬芽はイチジクに似ていて、枝先の頂芽は円錐形で先が尖り、互生する側芽は球形や楕円形をしている。頂芽は無毛で芽鱗』二『枚に包まれている。側芽の芽鱗は』二~四『枚である。葉痕は円形や心形で、維管束痕は多数が輪状に並ぶ』とある。因みに、「維基百科」の当該種の中文標題は「矮小天仙果」(☜)なのである。

 ……しかし、ここで、私は、『うん?』と小首を捻った。……『この中文名、頭に「矮小」とあるぞ? ということは矮小じゃない正真正銘の「天仙果」がないとおかしいぞ?』と考えたのである。そこで「維基百科」の検索で「天仙果」を入れてみると、来た! 「台灣榕」! そこに(太字・下線は私が附した)、

   *

台灣天仙果(學名: Ficus formosana ),又名天仙果、羊奶頭、牛奶浦、台灣榕是桑科榕屬的植物,為多年生常綠灌木。分布在台灣、越南以及中國大陸的貴州、廣西、廣東、海南、湖南、江西、福建、浙江等地,生長於海拔200米至1,000米的地區,常生於溪溝旁濕潤處,目前已由人工引種栽培,全株皆可食用,適合種植期為每年春季,種植後約3-4年可以收穫。

   *

とあった! 早速、何時もの頼みの綱の「跡見群芳譜」で検索すると、しっかり、「樹木譜」の「イチジク」のページに、この学名が見いだせたのだった!(学名が斜体でないのはママ)

   《引用開始》

タイワンイヌビワ F. formosana(臺灣榕・長葉牛奶子)『中国本草図録』Ⅹ/4557

    f. shimadai(狹葉臺灣榕)

   《引用終了》

而して、この「本草綱目」の「天仙果」は、

バラ目クワ科イチジク連イチジク属タイワンイヌビワ Ficus formosana

であるのであった!

 しかし、ここで、まだ。問題が残っているのだった。標題名の「けら」「計羅」だ。これが、イササカ難物で、検索を重ねても、なかなか、ヒットしない。しかし、昼食を挟んで、性懲りもなく探り続けた結果、遂に、見出した!

――「東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ」の「伊藤圭介文庫 錦窠図譜の世界」の「無花果科」の「巻次」「110-086」だ!(典拠は「熊野物產初志」で所蔵機関は「名古屋大学附属図書館」)――

である。そこにある翻刻文を元に、画像と比較し、正字で以下に示す。

   *

○ 『方物略』、「天仙果」、樹高八九尺、無花果葉似茘枝而小、子如櫻桃、纍纍綴枝間、六、七月熟、味至甘、賛曰有子孫枝不蘤而實薄言采之、味埒【蜂蜜。】。[『蜀中方物記』]

イ木六]「カハグルミ」、「天仙果」、八丈方言「イヌビハ」、葉、食用。

「天仙果」、「イヌヒハ」、方言「山カブチ」【「クマノ物產志」。】。

 ○鋸齒葉ノ「イヌビハ」アリ、葉ニ粗キ鋸歯アリ。

一、「イヌビハ」【「コイチジク」・「ナンキンイチジク」。】。「天仙果」、廿三綱【二目。】桑科。

蕁麻[やぶちゃん注:抹消線は黒。

  Ficus Sieboldi miq

    再考 F. pyrifolia boomヨシ

   トナル蠻國ニテハ大樹アリテ、根ノ間ヲ、人、往來スト云。

[やぶちゃん注:以下の「○」二項の上に右手に

別カ

とあり、次の二行の頭書の上下に向かって

赤線

が指示されてある。

(頭書右)『計羅【正字未詳。】。』

(同左)『俗云、「大枇杷」。』

とある。]

  ○一種 「天仙果」、アリ。

  ○一種 「天仙果」ノ細葉ノモノアリ、尾府ニテ「木香(モツコウ)ボク」ト云。伊勢州ニテ、

「チヽノキ」ト云。蠻名「ヒクユス」【「荷蘭」、シイボルト。】。

[やぶちゃん注:以下、同種の実の図四点(下方)の左に、

天仙果歟忘却。」

とある。「計羅」が、あった! これで、

「計羅」は「天仙果」=タイワンイヌビワ Ficus formosana を示す漢語であったことが判明したのであった!!!…………ン?……考えてみると……良安がタイワンイヌビワの生態個体を見ることは出来んじゃなかか! だのに、ユズリハの枝葉(グーグル画像検索。以下同じ)と似ているなどと、言うことはアリエナイのだ! 百歩譲って――タイワンイヌビワではなく、イヌビワだったとしても、イヌビワの枝葉は、ジェンジェン! ちゃうねんで!?! トホホ……又しても、良安のエエかげんな「似ている」のオオカミ少年かいなッツ!!!

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 伊比桐

 

Iigiri

 

いひぎり 本名未詳

 

伊比桐

    【葉似桐類

     而非桐屬】

 

△按伊比桐髙𠀋許葉似菜盛葉而畧長春開小白花秋

 結子作房如南天子而大正赤內有黒細子阿州和州

 山中有之移栽庭園甚美也然人家希見之

 

   *

 

いひぎり 本名、未だ、詳かならず。

 

伊比桐

    【葉、桐の類に似て《✕→るも》、

     桐≪の≫屬に非ず。】

 

△按ずるに、伊比桐、髙さ𠀋許《ばかり》。葉は、「菜盛葉(さいもりば)」に似て、畧(ちと)、長くして、春、小≪さき≫白≪き≫花を開く。秋、子《み》を結≪び≫、房(ふさ)を作《なし》、「南天」の子のごとくして、大きく、正赤(まつか)なり[やぶちゃん注:読みは「マツカ」の下方に「イ」のような文字が見えるが、「シ」の誤刻かも知れぬ。ともかくそれはカットした。因みに中近堂版にはルビがなく、東洋文庫訳では『まつか』とルビする。]。內《うち》に、黒≪き≫細《こまか》≪き≫子《たね》、有り。阿州[やぶちゃん注:「阿波國」。]・和州[やぶちゃん注:「大和國」。]の山中に、之れ、有り。庭園に移栽《うつしうゑ》≪て≫、甚だ、美なり。然れども、人家には、希《まれ》に、之れを見《みる》≪のみ≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱キントラノオ(金虎尾)目ヤナギ科イイギリ属イイギリ Idesia polycarpa

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『飯桐』。『山地に生える。和名の由来は、昔はこの葉で飯を包むのに使われ、また、葉がキリ』(シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa 『に似ていることから「飯桐」となったといわれる。果実がナンテン』(キンポウゲ(金鳳花)目メギ(目木)科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica 『に似ており、別名ナンテンギリ(南天桐)ともいう。イイギリ属の唯一の種』で、『日本(本州、四国、九州、沖縄)、朝鮮半島、中国、台湾に分布する。山地に生える。湿気のある肥沃な暖地に多く自生する』。『落葉高木で、樹高』八~二十一『メートル』、『幹径』五十『センチメートル』『程度になる。枝は下の方から輪状に出て斜めに真っ直ぐに伸び、特徴的な枝振りになる。樹皮は灰白色から淡灰褐色で滑らかであるが、皮目が多くざらざらしている。枝の落ちた跡が大きな目玉模様になって残る。一年枝は太くて無毛である。シュート』(Shoot:茎とその上に生じる多数の葉からなる総体を一単位とする部位の名称)『は灰褐色で太い髄がある』。『葉は互生、枝先に束性する。葉柄を含めた葉の長さは』三十~四十センチメートル『にもなり、長くて赤い葉柄がつくのが特徴。葉身はキリやアカメガシワ』(赤芽槲・赤芽柏:キントラノオ目トウダイグサ(燈台草・沢漆・漆柳)科エノキグサ(榎草)亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワMallotus japonicus )『にも似ている幅広い心形で、長さ』八~二十センチメートル、『幅』七~二十センチメートル。『アカメガシワよりもハート形に近く、丸みがある。表は暗緑色、裏は白っぽい。縁には粗い鋸歯がある。葉柄は』四~三十センチメートルと、『長くて赤く、先の方に』一『対の蜜腺がある(アカメガシワもこの点似ているが、蜜腺は葉身の付け根にある)。秋には黄葉し、明るい黄色に色づく』。『花期は春(』四~五月頃『)。花は小さく』、『黄緑色で、香気があり、ブドウの房のように垂れ下がった』十三~三十センチメートル『の円錐花序をなす。花弁はなく、萼片の数は』五『枚前後で一定しない。雌雄異株で雄花は直径』一・二~一・六センチメートル、『雌花は』九ミリメートル『子房上位。雄花には多数の雄蕊があり、雌花にも退化した雄蕊がある』。『果期は秋で、黄葉のころに熟して橙色から濃い赤紫になり、たくさんの実を房状にぶらさげる。果実は液果で直径』五ミリメートルから一センチメートル。『多数の』二、三ミリメートル『の褐色の種子を含む。赤く熟した果実は落葉後も長く残り、遠目にも良く目立つ。冬に落ちた果実は黒くなって残る。冬枯れの中、枝にたくさん実った果実は野鳥の食料となる』。『冬芽は鱗芽で、枝先の頂芽は半球形で三角形の芽鱗に包まれており、ややつやがあって粘る。側芽は頂芽よりも小さく、枝に互生する。葉痕は大きな円形で、維管束痕が』三『個』、『つく』。『公園樹や街路樹として利用される』。『果実は生食可で、加工して食べられることもある』。『秋から冬に熟す多数の赤い果実が美しいので、観賞用樹木として、ヨーロッパ等を含む他の温帯域でも栽培される。また』、『生け花や装飾などの花材としても使われる。白実の品種もある』と記す。

「菜盛葉(さいもりば)」これは前掲したアカメガシワの異名の一つ当該ウィキから引くと(注記号はカットした)、『和名「アカメガシワ」の由来は、新芽が鮮紅色であること、そして葉がカシワのように大きくなることから命名されたといわれる。「カシワ」の語源は、葉を食べ物を蒸すときに使ったことから「炊(かし)ぐ葉」が転訛したものである。カシワが生育していない地域では、この木の葉をカシワの葉の代用として柏餅を作ったことからアカメガシワと呼ぶようになったとの説もある。地方によって、ゴサイバ、アカガシワなどともよばれている。別名のゴサイバ(五菜葉)は、この植物の葉で食べ物を持ったことがその由来である。古名は楸(ひさぎ)。中国植物名(漢名)は、野梧桐(やごどう)という』とあることから察せられるが、辞書類にも、この「菜盛葉」を異名として「五菜葉」と並置する。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 夏黃櫨

 

Natuhaze

 

なつはぜ  正字未詳

 

夏黃櫨

 

[やぶちゃん字注:「櫨」は原本では、「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので正字で示した。]

 

△按夏黃櫨木高二三尺似波世𣾰葉而小秋紅葉可愛

 結子色赤黒山人食之味酸甘

 

   *

 

なつはぜ  正字、未だ、詳かならず。

 

夏黃櫨

 

 

△按ずるに、夏黃櫨木《なつはぜのき》、高さ、二、三尺。「波世𣾰《はぜうるし》」の葉に似て、小《ちいさ》く、秋、紅葉して、愛すべし。子《み》≪を≫結≪ぶ≫。色、赤黒。山人、之れを食ふ。味、酸甘《さんかん》≪なり≫。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科スノキ(酢の木)亜科スノキ属ナツハゼ Vaccinium oldhamii

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『夏櫨』。『山地・丘陵地に生える』。『日本、朝鮮半島、中国原産。和名は、夏にハゼノキ』(ムクロジ(無患子)目ウルシ(漆)科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum )『のような紅葉が見られることから名づけられた。中国名は腺齒越橘』。『中国の黒竜江省、吉林省、陝西省、内蒙古自治区、新疆ウイグル自治区、朝鮮半島南部、日本に分布する』。『日本では、北海道、本州、四国、九州に分布し、低地や山地の尾根、林縁などに生育する。特に花崗岩の土地を好む』。『落葉広葉樹の低木。高さは』一~三『メートル』『になる。幹は株立ちになることもあり、枝は横に広がる。樹皮は灰褐色で縦に裂け、若木は平滑だが、次第に薄い縦長の裂片となってはがれ落ちる。若い茎は赤褐色で稜があり、曲がった短い軟毛と開出した腺毛が生える。一年枝はややジグザグ状になり、灰褐色で毛がある』。『葉は長さ』一、二『ミリメートル』『の葉柄をもって互生する。葉身は卵状楕円形で、長さ』四~十『センチメートル 』、『幅』二~五センチメートル『になり、先端は鋭くとがり、縁は全縁。葉の両面に粗い毛がまばらに生えてざらつき、葉縁には多数の腺毛が生える。葉柄は短い。夏に葉が赤みを帯びるが、秋の紅葉は鮮やかな赤色になる。トラフシジミ』(鱗翅目アゲハチョウ上科シジミチョウ科ミドリシジミ亜科トラフシジミ属トラフシジミ Rapala arata )『の幼虫が食草としている』。『花期は』五『月から』六『月。新枝の先端に長さ』三~四センチメートル『の総状花序を出し、多数の花を下向きにつける。萼筒は腺毛が散生する杯形で、先端は』五『裂し』、『裂片は三角形となり』、『先端は鋭くとがる。花冠は赤みを帯びた黄緑色で、長さ』四~五ミリメートル『あり、鐘形で先端は浅く』五『裂し、先は鈍く反曲する。雄蕊は』十『本ある。果実は径』七~八ミリメートル『になる球形の液果で、黒色に熟し食用になる。冬でも果軸がよく残る』。『冬芽は卵形で赤褐色、芽鱗』六~八『枚に包まれている。枝先には仮頂芽がつき』、『側芽よりもやや大きく、側芽は枝に互生する。葉痕は半円形で突き出し、維管束痕が』一『個つく』。『果実は』十『月から』十一『月にかけて熟し、ブルーベリーに似た黒褐色になる。甘酸っぱいため、生食のほか、ジャムや果実酒に加工できる』。『観賞用にも栽培されている。挿し木は』六『月。夏は乾燥を防ぐために』、『やや日陰になる場所に置く。剪定は開花後に行う』。『なお』、『都道府県別の収穫量では福島県がシェアの』百%『を占める』。以下、「下位分類」として、

○品種ウラジロナツハゼ Vaccinium oldhamii f. glaucum (『葉の裏面が白色を帯びる』)

を挙げてある。

「波世𣾰《はぜうるし》」現在では、引用に出た種ハゼノキの異名として単に「ハゼ」とも言うが、「ハゼ」自体は古くは、ウルシ属ヤマウルシ Toxicodendron trichocarpum を指した。さらに現行でも、同属ヤマハゼ Toxicodendron sylvestre を加えて、三種を総称して「ハゼ」と称する。また、近代以前の民俗社会や地方では、広くウルシ属の別種を含めて「ハゼ」と呼ぶ場合がある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 青木

 

Aoki

 

あをき  正字未詳

    【俗云阿乎木波】

青木

 

 

△按其樹叢生高五七尺葉似榊葉而厚潤有大鋸齒莖

 太而不勁四時不凋俗呼曰青木葉植庭院賞之伹有

 凋葉相襍則正黒如燒焦者四月有小花紫黯色形色

 不堪玩結子如小棗秋月赤熟瘍醫採莖葉入膏藥用

 又以葉【陰乾】和油傅小兒頭面草瘡

一種 有葉無鋸齒及皺文者

 

   *

 

あをき  正字、未だ、詳かならず。

    【俗、云ふ、「阿乎木波《あをきば》」。】

青木

 

 

△按ずるに、其の樹、叢生≪して≫、高さ、五、七尺。葉、「榊(さかき)」≪の≫葉に似て、厚く、潤《うるほふ》。大≪なる≫鋸齒、有り。莖、太(ふと)くして《✕→けれども》、勁(つよ)からず。四時、凋まず。俗、呼んで「青木葉」と曰《いふ》。庭院に植《うゑ》て、之れを賞す。伹《ただし》、凋む葉、有りて、相襍《あひまじ》れば、則ち、正黒≪と成り≫、燒焦《やけこげ》たる者のごとし。四月、小花、有《あり》。紫黯色《しあんしよく》。形色《けいしよく》、玩《がん》に堪へず。子《み》を結び、小≪さき≫棗《なつめ》のごとく、秋月《あきづき》、赤く熟す。瘍醫《やうい》[やぶちゃん注:本来は処々に発症する腫瘍を専門とする医師を指したが、後には広く外科医を指す語となった。但し、ここは前者の本来の意でよい。]、莖・葉を採りて、膏藥に入れ、用《もちひる》。又、葉【陰乾《かげぼし》。】を以つて、油に和《まぜ》て、小兒≪の≫頭・面《かほ》の草瘡《さうさう》[やぶちゃん注:湿疹。]に傅《つ》く。

一種、葉に鋸齒、及び、皺文(しはもん)無き者、有り。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ガリア目 Garryales ガリア科  Garryaceae アオキ属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『青々とした葉と赤い果実が特徴で、山地の林内に自生するほか、庭木にも使われる。葉は民間薬となり、陀羅尼助』(当該ウィキによれば、『陀羅尼助の由来は、強い苦みがあるため、僧侶が陀羅尼を唱えるときにこれを口に含み眠気を防いだことからと伝えられる。陀羅尼助は和薬の元祖ともいわれ、伝承によれば』、千三百年前(七世紀末)『に疫病が大流行した際に、役行者(役の小角)がこの薬を作り、多くの人を助けたとされる。古くは吉野山(吉野町)および洞川(どろがわ、天川村)に製造所があり、吉野山や大峯山への登山客、行者参りの人々の土産物となっていた』。『黒い板状の製品が本来の陀羅尼助だが、取り扱いや服用のし易さから、丸薬にしたもの(陀羅尼助丸)が次第に製造の主流となり、各地での入手も容易である。現在では丸薬のものが単に陀羅尼助と称されていることも多い』。『オウバク(黄蘗、キハダ)』(ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ 変種キハダPhellodendron amurense var. amurense )『を主成分とし、製法はオウバクの皮を数日間』、『煮詰めて延べ板状にする』。『丸薬は、オウバクの皮の粉末とセンブリ』(リンドウ目リンドウ科センブリ属センブリ Swertia japonica )『などの粉末とを混ぜ合わせて精錬したもの(副成分は製品によって異なりセンブリの他、ゲンノショウコ』(フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属 Geranium 節ゲンノショウコ Geranium thunbergii )、『ゲンチアナ』(健質亜那:リンドウ科リンドウ属ゲンチアナ Gentiana lutea )、『エンメイソウ』(キク亜綱シソ目シソ科ヤマハッカ属ヒキオコシ Isodon japonicus )『などを含む)。』とある)『の原料として配合される』。『和名アオキの由来は、四季を通じて常緑で、葉のほか枝も常に緑色(青い)であることから名付けられている。別名で、アオキバ、ヒロハノアオキ、ヤマタケとも呼ばれる』。『学名は、属名アウクバ( Aucuba )が和名でアオキバ(青木葉)がラテン語読みで』、『そのまま使われて』いる。『英語ではジャパニーズ・ローレル( Japanese laurel )ともいい、ゲッケイジュ(月桂樹)』(クスノキ目クスノキ科ゲッケイジュ属ゲッケイジュ Laurus nobilis )『の葉の形と色から名付けられたという説がある』。『日本原産。日本の東北地方の宮城県以西、関東地方以西の本州・四国・九州や沖縄、朝鮮半島に分布する。山地にふつうに生える。日の差し込む低山のスギ林や照葉樹林内に自生し、雑木林などでもよく見られ、日陰でもよく育つ。北海道、本州北部の日本海側の多雪地には、積雪に適応した変種ヒメアオキ』(Aucuba japonica var. borealis )『が自生する』。『冬の間についている俵形の赤い果実が美しいことから、庭木や公園樹としての利用も多く、園芸品種の栽培もされている』。『常緑の低木。高さは』〇・五~三『メートル』『ほどで、枝は太く緑色。幹も緑色で光合成をおこなう』。『葉は有柄で対生し、枝の上部に集まってつき、葉身は厚く光沢があり』、『両面とも無毛である。乾くと黒くなる特性を持つ。葉の長さは』八~二十『センチメートル』『程度、形状は長楕円形で先端は鋭く、葉縁にはハッキリした鋸歯が目立つ。葉に斑が入った園芸品種もある。古い葉は、新緑が出て』、『花が咲く春から初夏にかけて』、『黄色に黄葉して、落葉する』。『花期は春(』三~五『月)。雌雄異株で、花房が大きいものが雄株、小さいものが雌株である。花は褐色を帯びた紫色で、枝先の円錐花序に穂のように小花を多数つける。雄花の花序は長さ』八~二十センチメートル、『雌花の花序は長さ』二~五センチメートル『ほどで、赤褐色の』四『弁花が咲く。子房下位、単性花。雄花は淡黄色の葯をもつ』四『個の雄蕊があり、雌花は緑色の花柱が』一『個ある』。『秋になると、雌株に楕円形の小指大ほどの果実が赤く熟し』十二月から翌年五月頃『までついている。果実は核果で、大きさ』十五~二十『ミリメートル』『ほどの卵形楕円形で、核(種子)を』一『個含み、赤色が映えてよく目立つ。熟した果実はヒヨドリがよく食べるが、種子が未熟なうちは果実の色は青く、えぐみや苦味を保持して、ヒヨドリなどの小鳥に食べられないようにしている。アオキの果実は、大きな種子のまわりに薄い果肉がついているだけで、小鳥たちにとって摂食優先度は低く、食べ物がなくなった』三『月ごろなってから赤く熟した果実が食べられるようになる』。『核は、新鮮なうちは楕円形で大きく、褐色を帯びた白色で表面に浅い縦溝がある。時間が経過した核は、黒褐色になり』、『細く硬くなる。まれに、白い果実をつける』変種『シロミノアオキ』( Aucuba japonica var. borealis )『も山地に自生する』。『暑さ寒さに強く、日陰でも育ち、赤い果実や緑色の濃い葉や斑入りの葉の美しさが好まれて、庭園や公園の植え込みに植栽され、日本国外でも栽培される。葉は薬用にされ、やけどや膿の吸い出しに用いられていた。また、「青木の花」は春の季語、「青木の実」は冬の季語である』。『庭木としての利用も多く、斑入り園芸種もある。葉に白や黄色の多くの斑が入る園芸品種フイリアオキ』( Aucuba japonica 'Variegata' )『が選抜され、日本国外では非常に人気がある。スウェーデンの植物学者カール・ツンベルクが学名を与えたその翌年』(一七八三年(天明三年相当))『に、イギリスを経由してヨーロッパに紹介されたといわれ、流行してヨーロッパ各地で植えられた。特に葉に斑が入ったものは貴重で、当初は雌株ばかりが持ち込まれて実はならなかったが、のちに雄株も紹介されて冬に赤い実をつけるようになると、さらにアオキ人気が高まったといわれている』。『栽培では、半日陰を好み、耐寒性があり作りやすく、熟した果実から取り出した種子を蒔くか、果実観賞用に梅雨時期に雌木を挿し木して育成する』。『葉は苦味健胃作用があり、民間薬の陀羅尼助の原料の一つとして配合されている』。『生葉には』『苦味』『配糖体のオークビン』(aucubin)『などを含み、膿を出させる排膿作用、消炎作用、抗菌作用がある。果実には、実の色に関係なく』『オークビンを含む』。『民間療法では、腫れもの、やけど、切り傷、おできなどの保護、消炎に、生葉を焦がさないように火であぶるか、アルミ箔に包んで蒸し焼きにして、トロトロに軟らかく黒変したものを冷まして、患部に包帯や絆創膏で止めて貼るなどして用いると、治りを早めるのに役立つ。しもやけには、生葉』二、三『枚を粗く刻み、水』二百『ccで』、『とろ火で半量になるまで煎じたものを冷まし、患部に』一『日』、二、三『回ほど直接塗る。煎液(水性エキス)は、製薬原料としても用いられるが、苦味配糖体を含むため、直接飲用することは好ましくないと言われている』。』『日本海側』に分布する『ヒメアオキ』『のほか、果実の色、斑入りなど園芸品種も多い』。以下、「アオキ属」の項に以下の解説の後二種を挙げる。『アオキ属』『は、ガリア科の属の一つ』で、三『種ほどがあり、ヒマラヤ、中国南部から日本(照葉樹林帯)に分布する』。後の二種は以下である。

○タイワンアオキ Aucuba chinensis

○ヒマラヤアオキ Aucuba himalaica

「榊(さかき)」双子葉植物綱ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica 。先行する「榊」を見よ。

「一種、葉に鋸齒、及び、皺文(しはもん)無き者、有り」画像で調べたが、ヒメアオキは斑紋がなく、鋸歯も目立たない。また、沖縄から九州や中国地方西部に分布する変種ナンゴクアオキ Aucuba japonica var. ovoideaも斑紋がなく、個体によっては鋸歯が目立たない個体がある。しかし、アオキとナンゴクアオキは識別が難しいともあったから、良安の言うこれは、ヒメアオキか。]

2024/10/28

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 平地木

 

Karatatibana

 

からたちばな 小青樹

 しゝくはす 通仙木

平地木

      俗云唐橘

      又云之々久和須

 

草本花詩譜云平地木高一尺余葉深綠子紅甚若棠梨

下綴且托根多在甌蘭之傍巖堅幽𠙚似更可佳

△按平地木深山陰𠙚有之大抵六七寸高者至三四尺

 葉似珊瑚樹葉而長五六寸四五月開小白花六七月

 結子五六顆攅生正紅色性怖日亦悪霜雪䑕喜食之

 人栽盆中翌年秋復青色後如舊若橙重歳也然三月

 宜摘子新花實繁美種子昜生

 

   *

 

からたちばな 小青樹《しやうせいじゆ》

 しゝくはず 通仙木《つうせんぼく》

平地木

      俗、云ふ、「唐橘《からたちばな》」。

      又、云ふ、「之々久和須《ししくわず》」。

 

「草本花詩譜」に云はく、『平地木《へいちぼく》、高さ、一尺余。葉、深綠にて、子《み》、紅。甚だ、「棠梨《とうり》」のごとし。下≪なる莖《くき》は≫綴《つづり》[やぶちゃん注:横方向に下に向かって伸び。]、且つ、托-根《ひげね》、多≪く≫、「甌蘭《おうらん》」の傍《かたはら》に在《あり》。巖堅《いはたに》≪の≫幽𠙚《ゆうしよ》[やぶちゃん注:暗い所。]≪に≫似《に》≪たる處ならば≫、更に佳《よし》。』≪と≫。

△按ずるに、平地木は、深山≪の≫陰𠙚≪に≫、之れ、有り。大抵、六、七寸、高き者は、三、四尺に至る。葉は、「珊瑚樹」の葉に似て、長さ、五、六寸。四、五月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。六、七月、子《み》を結《び》、五、六顆《くわ》、攅-生(すゞな)りて、正紅色。性、日《ひ》を怖れて、亦、霜・雪を悪《い》む。䑕《ねずみ》、喜んで、之れを食ふ。人。盆≪の≫中《うち》に栽≪ゑ≫、翌年の秋、青色に復《かへ》り、後《のち》、舊(もと)のごとし。「橙《だいだい》」≪の≫歳《とし》を重《かさ》ぬるがごとし。然れども、三月、宜しく、子を摘むべし。新《あらた》に、花實、繁《しげり》、美なり。子を種《うゑ》て、生じ昜《やすし》。

 

[やぶちゃん注:これは、日中ともに、

双子葉植物綱ツツジ目サクラソウ科 Primulaceae ヤブコウジ亜科ヤブコウジ属カラタチバナ Ardisia crispa

である。「維基百科」の同種の「百兩金」を見よ。「カラタチバナ」の画像検索をリンクさせておく。邦文の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『唐橘』。『葉は常緑で冬に赤い果実をつけ美しいので、鉢植えなど栽培もされる。同属のマンリョウ(万両)』(ヤブコウジ属マンリョウ Ardisia crenata )『に対して、別名、百両(ヒャクリョウ)ともいう』。『従来の新エングラー体系、クロンキスト体系では、ヤブコウジ科』Myrsinaceae『の種としていた』。『樹高は』二十センチメートルから一メートル『になる。茎は直立して円柱形、単純であまり分枝しない。樹皮は茶褐色で、若いときに粒状の褐色の微毛が生える。葉は互生し、葉身は狭卵形で、長さ』八~二十センチメートル、『幅』一。五~四センチメートル『になり、約』八『対の側脈があり、先端は次第にとがって』、『鈍頭になり、基部は鋭形、縁には不明瞭で低い波状の鋸歯があって』、『鋸歯間に腺点がある。葉は葉質が厚く、表面は鮮緑色、無毛で光沢があり、裏面も無毛であるが』、『ときに多少細かい鱗片毛がある。葉柄は長さ』八ミリメートルから一センチメートル『になる』。『

花期は』七『月頃。花序は散形状になり、葉腋または葉間にある早落性の鱗片葉の腋につき、花序柄の長さは』四~七センチメートル『で斜上し』、十『個ほどの花を下向きにつける。花冠は白色、浅い皿状で深く』五『裂し、花冠裂片は長さ約』五ミリメートル『の卵形で、外面は無毛で腺点があり、花柄の長さは約』一センチメートル『になり、微毛が生える。萼は深く』五『裂し、萼裂片は狭長楕円形で長さ約』二ミリメートル『になり、多少の腺点がある。雄蕊は』五『個あり』、『花冠裂片よりやや長く、葯は狭卵形になる。雌蕊は』一『個で花冠よりやや長く、子房はほぼ球形で無毛。果実は液果様の核果で径』六~七ミリメートル『の球形となり』、十一『月頃に赤色に熟し』、『翌年の』四『月頃まで残る。中に』一『個の大型の種子が入る』。『日本では、本州(福島県以西・新潟県以西)、四国、九州、琉球に分布し、常緑樹林の林内に生育する。国外では中国大陸、台湾に分布する』。『いずれも常緑小低木で、冬に赤い実をつけるマンリョウ(万両)、センリョウ』(千両:センリョウ目センリョウ科センリョウ属センリョウ Sarcandra glabra )、『本種(百両)、ヤブコウジ』(「十両」とも呼ぶ。ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ亜科ヤブコウジ属ヤブコウジ Ardisia japonica )『とともに、正月の縁起物とされる。鉢植えにされ、庭木にも利用される。果実が白色または黄色に熟す園芸品種もある』。『江戸時代の寛政年間に、葉に斑が入ったものの栽培が流行し、高値で取り引きされた。江戸時代後期や明治時代にも流行したことがある。その後は大きな流行は見られない。現代は新潟県、島根県を中心に栽培されている』。以下、「下位分類」に三種の変種・品種が掲げられてある。

○シロミタチバナ Ardisia crispa f. leucocarpa (『果実が白く熟す品種』)

○キミタチバナ Ardisia crispa f. xanthocarpa(『果実が黄色く熟す品種』)

○ヤクシマタチバナ Ardisia crispa var. caducipila(『若いときに葉柄および葉の裏面に小刺毛のある変種で、本州(和歌山県)と九州(屋久島)に分布する』)

「通仙木」この異名は生き残っていない模様である。「朱」色の実が遊仙思想と通じる。

「しゝくはず」「猪食はず」であろう。イノシシが食わないかどうかは不明。

「草本花詩譜」東洋文庫の書籍注に、『本文に汪躍鯉の撰とあるも不明。『画譜』の中の『草木花譜』の一巻のことであろうか。『八種画譜』の中では『新鐫』(しんせん)『草本花詩譜』となっている。』とある。ここで言っている「画譜」は「八種畫譜」で、明の黄鳳池の編。「唐詩五言畫譜」・「新鐫六言唐詩畫譜」・「唐詩七言畫譜」・「梅竹蘭菊四譜」・「新鐫木本花鳥譜」・「新鐫草本花詩譜」・「唐六如畫譜」・「選刻扇譜」から成るものを指す。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここで、黄鳳池編「新鐫草本花詩譜」が視認でき、当該部は、図が、ここの左丁で、解説が、ここの右丁である。字を起してみると、

   *

  平地木

髙不盈尺葉深緑子紅甚若棠梨下綴且托根多在甌蘭之傍巖堅幽𠙚似更可佳

   *

完全に一致する

「棠梨《どう》」「維基百科」の「杜梨」を見よ。ここは「棠梨」から転送されてある。これは、

バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ホクシマメナシ Pyrus betulifolia

である。「跡見群芳譜」の「樹外来植物譜」の「とり(杜梨)」のページに、『中国(遼寧・華北・陝甘・江蘇・安徽・浙江・江西・湖北)に野生分布』するとあり、『中国では、古来寺廟・墓苑・庭園などに植えてきた。実は小さく、菓子を作ったり』、『酒を醸したりするのに用いるほか、果実・枝葉を薬用にする』。「詩経」の「国風」・「召南」・「甘棠」『に、「蔽芾(へいひ)たる甘棠、翦(き)る勿(なか)れ伐(き)る勿れ、召伯の茇(やど)りし所」と』あり、また、「爾雅」『釈木に、「杜、甘棠。〔今の杜棠なり。〕〈疏。杜、甘棠。○釈いて杜は一名甘棠なるを曰う。郭云う、今の杜棠なりと。下に云う、杜は赤棠、白き者は棠と。舎人曰く、杜は赤色、名は赤棠、白き者は亦名は棠。然らば則ち其の白き者は名は棠、赤き者は名は杜。甘棠たり、赤棠たりと。詩・召南に云う、蔽芾たる甘棠と。小雅に云う、有杕の杜と。伝に、杜は赤棠なりと云うは、是なり。〉」と、また「杜、赤棠。白き者は棠。〔棠、色異なれば、其の名異なり。〕〈疏。杜、赤棠。白き者は棠。○釈いて曰く(缺文か)。郭云う、棠、色異なれば其の名異なりと。樊光云う、赤き者は杜と為す。白き者は棠と為すと。陸機疏に云う、赤棠と白棠と同じきのみ。但し子(み)、赤白美悪有り。子 白色なるは白棠、甘棠なり。酢きこと少なく滑美なり。赤棠の子、渋くして酢く、味無し。俗語に云う』、『渋きこと杜の如しとは是なり、と。赤棠、木理靭かにして、又以て弓幹を作るべし。〉」と。』とあった。なお、★東洋文庫訳では、『棠梨(やまかいどう)』とルビしているが、これは完全な誤りである。「ヤマカイドウ」は、バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ノカイドウ Malus spontanea の異名であり、このノカイドウは、日本固有種で、しかも、宮崎県と鹿児島県県境付近に広がる霧島連山にのみに自生する種だからである。ウィキの「ノカイドウ」を見られたい。

「托-根《ひげね》」東洋文庫のルビを採用した。髭根。

「甌蘭《おうらん》」東洋文庫の後注に、『花。『遵生八牋』第十六巻「四時花紀」に載っている。香り強く、一枝一花で紫花に黄心。また白花で黄心のものもある。背陰の処にうえるとよく活(つ)いて花を開く、とある。』とある。これは、調べた限りでは、単子葉植物綱キジカクシ目ラン科シュンラン属 Cymbidium の一種で、その中でも、

カンラン(寒蘭)Cymbidium kanran

であり、「維基百科」の同属のページ「蕙蘭屬」にある、「甌蘭」の名を中文名に含む二の品種が掲げられている、

   *

寒蘭原亞種 Cymbidium kanran f. kanran

紫花甌蘭 Cymbidium kanran f. purpurescens

綠花甌蘭 Cymbidium kanran f. viridescens

   

に限定してもいいだろうと私は感じている。平凡社「改訂新版 世界大百科事典」の『カンラン (寒蘭) Cymbidium kanran Makino』に(コンマを読点に代えた)、『昔より東洋ランの』一『種として栽培されている』、『やや大型の地生ラン。シュンラン』(春蘭: Cymbidium goeringii )『と同属だが、花茎に花が多数つく。小型の偽球茎があり、その上に葉を』三~六『枚、叢生(そうせい)する。葉は線形で常緑。花茎は偽球茎の基部より側生し、高さ』三十~六十センチメートルで、三『~十数花を疎』(まばら)『につける。花は芳香があり、紫色を帯びた緑色、径約』六センチメートル。『萼片は開出し、線状披針形、長さ約』三~四センチメートル。『花弁はやや短く、線状披針形、長さ』二~三センチメートル。『唇弁はより短く、やや肉質で反り返り、通常、赤褐色の斑紋がある。距』(きょ:植物で、花の後ろに突き出した中空の角状のものを指す語。花弁や萼が変化したものでだる)『はない。花粉塊は蠟質で』二『個。本州南部、四国、九州、琉球、台湾の常緑樹林の林床に生える』(とあるが、複数の信頼出来る記載に原産の中に「中国南部」も含まれてある)。『観賞用に栽培され、花形や花色に変異が多く、気品のある花と香りを観賞する東洋ランの代表種である。紅・黄・白色などの複雑な色をもつ花変りや、葉面に覆輪や縞などの斑をもつ葉変りがあるが、カンラン独特の気品ある東洋的調和美は、全国的にその愛好者をひろめ、各地に熱心なランのグループがつくられている。山採りのちょっとした変異品にも品種名がつけられ、稀品(きひん)は高価で取引されていて、自生地の多くは壊滅してしまった。株分けで繁殖し、植替えの時期は春(』四~五『月)または秋(』十『月)。少し日陰の方が葉やけせず、美しい葉も観賞できる』。『近縁で多花性のものに、ホウサイラン(報(豊)才蘭)C.sinense(Andr.)Willd. やスルガラン(駿河蘭、別名オラン(雄蘭))C.ensifolium(L.)Sw. があり、どちらもカンランよりも、より温暖な九州西部やそれより南に分布する。また、カンランとシュンランの自然雑種と推定されるハルカンラン C.×nishiuchiana Makino が高知県から知られている。中国大陸南部に分布するスルガランやヘツカラン C.dayanum Reichb. fil. var. austro-japonicum Tuyama の類似種も、ソシンラン(素心蘭)などの名のもとに日本に導入され、珍重されている』とある。

「珊瑚樹」双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabuki 。先行する「珊瑚樹」を見よ。

「橙《だいだい》」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ダイダイ Citrus aurantium 。]

2024/10/27

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 山橘

 

Yabukouji

 

やまたちばな 藪柑子【俗】

       【正字未詳】

山橘

       【夜不加宇之】

やぶかうじ

 

△按山橘巖壑石間有之高不盈尺葉似茶葉而色淺莖

 紫色花實似仙靈木而只二三顆攅生深赤色今俗小

 兒髮結初時用此莖葉爲髮及銚子飾以四時不凋爲

 嘉祝乎 六帖我戀をしのひかねては足曳の山橘の色に出ぬへし

 

   *

 

やまたちばな 藪柑子《やぶかうじ》【俗。】

       【正字、未だ、詳かならず。】

山橘

       【「夜不加宇之《やぶかうじ》」。】

やぶかうじ

 

△按ずるに、山橘は、巖壑《いはたに》の石≪の≫間《あひだ》≪に≫、之れ、有《あり》。高さ、尺≪に≫盈《み》≪た≫ず。葉、「茶」の葉に似て、色、淺《うすし》。莖、紫色。花・實、「仙靈木《せんれいぼく》」に似て、只、二、三顆《くわ》、攅生(こゞな)り≪て≫生ず。深赤色。今、俗、小兒≪の≫髮--初《かみおき》の時、此の莖・葉を用《もちゐ》て、髮、及び、≪祝ひ酒(ざけ)の≫銚子《ちやうし》の飾りと爲《な》す。以つて、四時、凋《しぼま》ざるを、嘉祝《かしゆく》と爲すか。

 「六帖」

   我が戀を

     しのびかねては

    足曳《あしひき》の

           山橘(やまたちばな)の

        色に出《いで》ぬべし

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ亜科ヤブコウジ属ヤブコウジ Ardisia japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『藪柑子、薮柑子』。『林内に生育し、冬に赤い果実をつけ美しいので、栽培もされる。別名、ヤマタチバナ、十両(ジュウリョウ)』。『日本の北海道南部(奥尻島)、本州、四国、九州に分布し、日本以外では朝鮮半島、中国大陸、台湾に分布する。山地、丘陵地林内の木陰にふつうに自生する。地下茎を伸ばしてふえるので、群生していることが多い』。『常緑の草状の小低木』で、『細くて長い地下茎(匍匐茎)が横に這って、先は直立する地上茎になる。地上の茎は円柱形で、高さは』十~三十『センチメートル』『になる。茎の上部と若い花序にはごく短い粒状の毛が生える。葉は茎の上部』二、三『節に集まって』三、四『枚』、『輪生し、深緑色で光沢があり、長楕円形または狭楕円形で、長さ』六~十三センチメートル、『幅』二~五センチメートル『になり』、五~八『対の葉脈があり、先端はとがり』、『基部は』、『くさび形、葉縁には低く細かい鋸歯がある。葉柄は長さ』七~十三『ミリメートル』『になる』。『花期は夏(』七~八『月)。花序は散形状になり、葉腋または鱗片葉の腋につき、花序柄の長さは』一~一・五センチメートル『で』、二~五『個の花を下向きにつける。花は白色または帯紅色の両性花で、径』六~八ミリメートル『になる。花冠は』五『裂し、花冠裂片は長さ』四~五ミリメートル『の広卵形で、片巻き状に右回りに並び、腺点があり、花柄の長さは』七~十ミリメートル『になり、微小な軟毛が生える。萼は』五『深裂し、萼裂片は広卵形で長さ』一・五ミリメートル『になる。雄蕊は』五『個あり』、『花冠裂片より短く、花筒の基部について花冠裂片と対生する。雌蕊は』一『個で花冠と同じ長さ、子房は卵円形で上位につき』、一『室ある。花は葉陰に隠れるため、果実ほど目立たない』。『果実は液果様の核果で、径』五~六ミリメートル『の球形となり、秋(』十~十一『月)に赤色に熟し、中に』一『個の大型の種子が入る。核は球形で多数の縦筋がつく。核を剥』ぐと、『中に種子があり、マンリョウ』(万両:ヤブコウジ属マンリョウ Ardisia crenata )『の種子に姿が似ている。葉陰に隠れるように下向きにつく』、『赤く艶やかな果実は、丈も低いことから、地上性の鳥が食べると考えられている』。『正月の縁起物ともされ、センリョウ』(千両:センリョウ目センリョウ科センリョウ属センリョウ Sarcandra glabra )、『や、マンリョウ』、『カラタチバナ(百両)』(ヤブコウジ属カラタチバナ Ardisia crispa )『と並べて「十両」とも呼ばれる。寄せ植えの素材などとして使われる。日陰や寒さにも強く、栽培が容易なことから』、『観葉植物としても利用されている』。『日陰に強く、他の植栽樹の株元に植える根締めとして植えたり、グラウンド』・『カバーとして用いられる。それとは別に、斑入り品などの変異株が』、『江戸時代より選別され、古典園芸植物の一つとして栽培され、それらには品種名もつけられてきた。古典園芸植物としての名前は紫金牛(これで「こうじ」と読ませる)である。現在では約』四十『の品種が保存されている』。『明治年間にも大流行があり、四反の田畑を売って買う者もあり、現代の金額で』一千『万円もの高値で取り引きされたこともあった。明治』二〇(一八八七)年頃『に葉の変わりものが流行し、新潟県の豪農・市島家が培養した』「朱の司」『は』一『鉢千円の値を付け』、明治三〇(一八九七)年には、新潟県が、『ヤブコウジの投機的売買につき』、『取締規則を公布し』、明治三一(一八九八)年には、『その投機性から新潟県知事が「紫金牛取締規則」を発令して販売を禁じるほどの流行熱となり、ブームは大正後期まで続いた』。『根茎、または全草の乾燥品は紫金牛(しきんぎゅう)と称する生薬になり、特に中国でよく用いる。紫金牛は、地下の根茎を掘り取って、よく水洗いした後』、『天日乾燥して調整される。回虫、ギョウチュウ駆除作用(虫下し)や、のどの腫瘍、慢性気管支炎の鎮咳、去痰に効用があるといわれ、副作用がなく』、『安全とされる。民間療法では、全草の乾燥品』『を水で煎じて』、『服用する用法が知られる。大量投与の時に、頭痛、胃の不調、下痢があらわれるが、服用をやめる必要はないとされている』。『縁起物として扱われた経緯から、知られた『落語の』「寿限無」の『中の』、『「やぶらこうじのぶらこうじ」とは本種のことと推測され』ているとあり、以下、「下位分類」として、三種の品種・変種を掲げてある。

○シロミヤブコウジ Ardisia japonica f. albifructa (『まれに見られる白い果実をつけるヤブコウジの品種 』)

○ホソバヤブコウジ Ardisia japonica var. angusta (『和名の』通り、『葉が細く、狭卵形で長さ』二~五センチメートル『幅』〇・六~二センチメートル。『伊豆大島、屋久島、台湾に分布するヤブコウジの変種』)

○シラタマコウジ Ardisia japonica var. angusta (『白色の果実をつけるホソバヤブコウジの品種で、伊豆大島に記録がある』)

「仙靈木《せんれいぼく》」恐らく、ツバキ(代表種ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )を指す。

「髮-結-初《かみおき》」小学館「日本国語大辞典」に、『小児が髪を伸ばしはじめるときの儀式。中世・近世に行われた風習で、民間では、ふつう男女』三『歳の』十一『月』十五『日に行った。絓糸(すがいと)』(縒(よ)りをかけず、そのまま一本で用いる生糸。白髪糸(しらがいと))『で作った白髪(しらが)を頭上にのせて』、『長寿を祈り、産土神(うぶすながみ)に参拝した。髪立て。櫛(くし)置き』とあった。

「六帖」平安中期に成立した類題和歌集「古今和歌六帖」のこと。全六巻。編者・成立年ともに未詳。「万葉集」・「古今集」・「後撰集」などの歌約四千五百首を、歳時・天象・地儀・人事・動植物などの二十五項・五百十六題に分類したもの。この和歌は「第六 草」に出るが。本来は、「古今和歌集」の「卷第十三 戀歌三」の紀友則の二首の二首目である(六六八番)。訳はいらんだろう。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 柃

 

Hisakaki

 

ひさゝき  【和名比佐加木

        矮榊畧言乎】

【音零】 【俗云比佐々木

       訛比婆々木古】

 

びしやしやこ

 

倭名抄云柃似荆可作染灰者也

△按柃木高二三尺葉畧似茶葉而狹長有鋸齒開花最

 細小淡白甚臭隨結實生於葉本权毎二顆細小黒色

[やぶちゃん字注:「权」では、辞典オンライン「漢字辞典ONLINEのここでは、そこにあるような意味で、訓読が出来ない。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部では、『枝』であるが、明らかに違う漢字だ。東洋文庫訳では『杈』となっている。そこでは、「本杈」で『つけね』と訓じている。中日辞典では「木の股」とする。それで読めるので、訓読では「杈」とした。

 其木葉爲灰染家必用之灰汁也蓋此非榊之属山谷

 巖石間多有之畧榊而矮故和名之

 

   *

 

ひさゝき  【和名、「比佐加木」。

       「矮榊(ひきさかき)」の

       の畧言《りやうげん》か。】

【音零】 【俗、云ふ、「比佐々木」。

       訛《なまりて》、

       「比婆々古《びしやしやこ》」。】

 

びしやしやこ

 

「倭名抄」に云はく、『柃は荆に似て、染-灰(そめもの≪の≫あく)と作《な》す者なり。』≪と≫。

△按ずるに、柃は、木の高さ、二、三尺。葉、畧《ちと》、「茶」の葉に似て、狹長《さなが》。鋸齒、有《あり》。花を開く≪も≫、最≪も≫細小≪にして≫、淡白≪なるも≫、甚《はなはだ》、臭く、隨《つい》で、實を結≪ぶも≫、葉の≪枝の≫本杈《もとね》に生ず。二顆《にくわ》毎《ごと》≪に≫《成りて》、細小《ほそくちいさく》、黒色≪たり≫。其の木・葉、灰《はい》と爲し、染家《そめや》必用《ひつよう》の灰-汁(あく)なり。蓋し、此れ、榊《さかき》の属に非ず。山谷≪の≫巖石の間に、多く、之れ、有り。畧(ちと)、榊に似て[やぶちゃん注:返り点はないが、返した。]、矮(ひく)し。故、之れを、和名す。

 

[やぶちゃん注:これは、

ツツジ目モッコク(木斛)科ヒサカキ(姬榊)属ヒサカキ Eurya japonica var. japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『姫榊』。『和名「ヒサカキ」は、サカキ』(双子葉植物綱ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica 前項「榊」を見よ)『に比べて小さいことから「姫サカキ」が転訛してヒサカキになったという。 ホソバヒサカキの別名のほか、ビシャコ、ビシャ、ヘンダラ、ササキ、シャシャキなどの地方名がある。中国名は「柃木」』。『日本の本州(岩手県、秋田県以西)、四国、九州、沖縄と、日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾に分布する。山地や丘陵地に生え、目立たないが』、『非常に数が多く』、『照葉樹林では』、『どこの森にも生えている。低木層にでるが、直射光にも強く、伐採時などにもよく残る。また、栽培されていることも多い』。『常緑広葉樹の小高木で、サカキよりやや小型で、普通は樹高が』四~七『メートル』『程度になる。樹皮は灰褐色から暗灰褐色で滑らか。一年枝は緑色で、葉柄が枝に流れて稜をつくる。枝は横向きに出て、葉が左右交互にでて、平面を作る傾向がある』。『葉は互生し、長さ』三~八『センチメートル』『の狭倒卵形や楕円形で先が尖る。葉縁に丸い鋸歯があり、葉が大きくて鋸歯がないサカキと区別できる。葉は厚みがある革質で、表面はつやが強い』。『花期は』三~四『月。雌雄異株。葉腋から枝の下側に短くぶら下がるように径』三~六『ミリメートル』『ほどの白い花が下向きに多数咲く。花は淡黄色で壺状の』五『弁花で、都市ガスのような独特の強い芳香を放つ。雄花は雄蕊が』十~十五『個、雌花は雌蕊』一『個が』、『つく』。『果期は』十~十二『月。果実は直径』四ミリメートル『の球形で、秋から冬にかけて黒紫色に熟す』。『冬芽は裸芽で、枝先と葉腋につき、ほぼ枝と同色をしている。枝先の頂芽は披針形で大きくて先が曲がり、側芽は小さい。花芽が多数つく』。『日陰に強く土質を選ばない性質で、葉にツヤがあって美しさがあることから、庭木や垣根にも使われる。関東地方ではサカキの代用として神事に用いる』。『墓・仏壇へのお供え(仏さん柴)や玉串などとして、神仏へ捧げるため』、『宗教的な利用が多い。これは、「サカキ」が手に入らない関東地方以北において、サカキの代用としている』。『名前も榊でないから非榊であるとか、一回り小さいので姫榊がなまったとかの説がある』。『ヒサカキ属には』、『このほかに日本に』八『種(変種を含む)が知られる。多くは南方離島産のものであるが、ハマヒサカキ( Eurya emarginata )は海岸林に普通な小高木で、潮風や乾燥に強いことから』、『街路樹として用いられることがある』とある。

『「倭名抄」に云はく、『柃は荆に似て、染-灰(そめもの≪の≫あく)と作《な》す者なり。』≪と≫。』「和名類聚鈔」の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「木類第二百四十八」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部を視認して、訓読しておく。一部の読みは私が施した。

   *

柃(ヒサカキ) 「玉篇」に云はく、『柃【音「零」。一音は「冷」。「漢語抄」に『比佐加木』。】は、荊(けい)に似たり。染灰(せんばひ)を作る者なり。』と。

   *

この「玉篇」南北朝時代の南朝梁の顧野王(五一九年~五八一年)によって編纂された部首別漢字字典。字書としては「説文解字」・「字林」(現存しない)の次に古い。全三十巻。「荊」は、この項の前に、

   *

荊(ナマエノキ) 「唐韻」に云はく、『荊【音「京」。「漢語抄」、『奈末江乃木』。】木の名なり。』と。

   *

この「荊(ナマエノキ)」とは、双子葉植物綱シソ目シソ科ハマゴウ(浜栲・浜香)亜科ハマゴウ属ニンジンボク (人参木) Vitex negundo var. cannabifolia のこと。ニンジンボクは先行する「牡荊」の私の注を見られたい。

「此れ、榊《さかき》の属に非ず」正しい。双子葉植物綱ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica 。「榊」は前項。]

2024/10/26

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 榊

 

Sakaki

 

さかき    坂樹【日本紀】

       賢木【本朝式】

【倭字】 龍眼木【漢語抄】

       【和名佐加岐】

       正字未詳

[やぶちゃん注:「本朝式」は「延喜式」の方が通りが良いので、訓読ではそれに代えた。]

 

△按榊本朝神社必用之木猶浮屠用木𮔉其木葉似木

 𮔉而葉小色深青無香四時不凋開小白花結子生青

 熟紅

 

  古今霜やたひをけとかれせぬ榊葉の立ちさかゆへき神のきねかも

[やぶちゃん注:この「をけと」は「古今和歌集」の原本自体がママである。「おけど」が正しいが、訓読では、原書を尊重してそのままで示す。]

 日本紀云有八百万神取天香久山坂樹祈於天窟戸之

 事以來爲神之縁木

 

   *

 

さかき     坂樹《さかき》【「日本紀」。】

        賢木《さかき》【「延喜式」。】

【倭字。】   龍眼木《りゆうがんぼく》【「漢語抄」。】

       【和名、「佐加岐」。】

       正字、未だ、詳かならず。

 

△按ずるに、榊は、本朝≪の≫神社、必用の木≪なり≫、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、浮屠《ふと》[やぶちゃん注:仏教。サンスクリット語の漢音写の一つ。「屠」の字を嫌って、「浮圖」「佛圖」等とも書いた。]の「木𮔉(しきみ)」を用ひるがごとし。其の木・葉、木𮔉(しきみ)に似て、葉、小《ちいさ》く、色、深≪き≫青。香《かをり》、無し。四時、凋まず。小≪さき≫白花を開き、子《み》を結ぶ。生《わかき》≪は≫、青≪く≫、熟≪せば≫、紅なり。

  「古今」

    霜《しも》やたび

          をけどかれせぬ

       榊葉《さかきば》の

      立ちさかゆべき

            神のきねかも

「日本紀」に云はく、『八百万《やほよろづ》の神たち、天香久山(《あま》のかぐやま)の坂(さか)の樹《き》を取《とり》て、天窟戸《あまのいはと》の事、祈り玉ふ[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]。』≪と≫有り。以來、「神の縁《えん》≪の≫木」と爲《な》る。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は、他に『賢木・栄木』。『日本の神道においては、神棚や祭壇に供えるなど』、『神事にも用いられる植物。別名、ホンサカキ、ノコギリバサカキ、マサカキともよばれる』。『和名サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる。常緑樹であり、さかえる(繁)ことから「繁木(さかき)」とする説もあるが、多くの学者は後世の附会であるとして否定している。「榊」という文字は平安時代に日本で会意で形成された国字である。上代(奈良時代以前)では、サカキ』・『ヒサカキ』(ツツジ目モッコク(木斛)科ヒサカキ(姬榊)属ヒサカキ Eurya japonica var. japonica)・『シキミ』(樒・アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum )・『アセビ』(馬酔木・ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ(捻木・捩木)連アセビ属アセビ亜属アセビ亜種アセビ Pieris japonica subsp. japonica )・『ツバキ』(代表種ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica )『など、神仏に捧げる常緑樹の総称が「サカキ」であったが、平安時代以降になると「サカキ」が特定の植物を指すようになり、本種が標準和名のサカキの名を獲得した』。『類似植物と混同されやすいので、サカキは「ホンサカキ」(本榊)や「マサカキ」とも呼ばれ、近縁のヒサカキ(後述)については、「シャシャキ」「シャカキ」「下草」「ビシャコ」「仏さん柴(しば)」「栄柴(サカシバ)」などと地方名で呼ばれることもある』。『学名は、植物学者で、江戸時代に出島オランダ商館長を務め、サカキをヨーロッパに紹介したアンドレアス・クレイエル』(Andreas Cleyer(一六三四年~一六九八年頃)『にちなむ』。『日本列島では本州の茨城県・石川県以西、四国、九州、沖縄に分布する。日本国外ではアジア東南部に分布し、朝鮮半島南部、済州島、台湾、中国が知られている。ヒマラヤと中国南部には、別亜種が知られる。陰樹で、山地の照葉樹林内に生える。枝葉は日本の神社での神事に使われるため、神社の境内に植えられることも多い』。以下に二種の変種を掲げてある。

Cleyera japonica var. wallichiana (『ヒマラヤ産。花が大きい』)

Cleyera japonica var. parvifolia(『中国南部。葉が小さい』)

『常緑広葉樹』で、『低木を見ることが多いが、小高木で高さ』十二メートル、『胸高直径は』三十センチメートル『になるものがある。一年枝は緑色で無毛だが、幹の樹皮は暗赤褐色になり皮目があり、ほぼ滑らかである。枝先の冬芽は裸芽で、互生する葉の付け根につき、長披針形で』、『若葉が巻いて』、『細長く』、『鎌状に曲がるのが特徴。冬芽は枝と同色である。頂芽はよく葉上に出る』。『葉は二列生で互生し、葉身は長さ』六~十『センチメートル』『の長楕円形で、厚みのある革質でつやがある、のっぺりとした表面で、葉縁の鋸歯は全くない。裏面はやや色薄く、両面ともに無毛。近縁種のヒサカキには葉縁に鋸歯がある点で区別できる』。『花期は』六~七月頃で、『側枝の基部の側の葉腋から黄白色の小さな花を咲かせる。花は』五『弁で、葉の下側から』一~四『個が束状に出て、下向きに咲く。花色ははじめは白く、のちに黄味を帯びてくる。果期は』十月頃『で、果実は直径』七~八『ミリメートル』『の液果で』、十一『月頃には黒く熟す。果実には柄がある』。『材は緻密でかたいことから、器具材、箸、櫛に使われる。赤紫色に熟した果実は、赤紫色の染料に使われる』。『日本では古くから神事に用いられる植物である。古来、植物には神が宿り、特に先端が尖った枝先は神が降りるヨリシロとして若松やオガタマノキ』(招霊木・小賀玉木・モクレン目モクレン科モクレン属オガタマノキ節オガタマノキ Magnolia compressa )『など様々な常緑植物が用いられたが、近年は身近な植物で枝先が尖っており、神の依り代にふさわしいサカキやヒサカキが定着している。家庭の神棚にも捧げられ、月に』二『度』、朔『日と』十五『日(江戸時代までは旧暦の』同日『)に取り替える習わしになっている。神棚から下げた榊は、神社でお焚き上げ、海や川に流す、土に埋めて自然に還すなどといった方法が正式だが、近年は環境に配慮し、水をふき取り、塩でお清めをしてから白紙に包んで処分することも多い。神棚では榊立を用いる』。『サカキは神仏に捧げる常磐木の代表樹で、結婚式、安産祈願、お宮参り、七五三などの祝い事の際に、神へ奉納する玉串に使われる。神社では、サカキが供花とされ、境内にサカキがあると、小枝におみくじが結ばれるのを見かける機会も多い』。『こうした用途があるため、日本ではサカキやヒサカキは市販されている。中国からの輸入が』九『割を占めるが、国内でも生産に力を入れる農業協同組合などがあり、国産榊生産者の会という団体もある』。『縁起木として扱われるため、常緑を活かした庭木としても使われる』。『サカキは関東以南の比較的温暖な地域で生育するため、関東以北では類似種(別属)のヒサカキ( Eurya japonica )をサカキとして代用している。ヒサカキは仏壇にも供えられる植物である。花は早春に咲き、独特のにおいがある。名の由来は小さいことから「姫榊」とも、サカキでないことから「非榊」とも』称する。『店頭に並んでいるサカキとヒサカキを見分けるポイントは葉縁で、葉が小さく、鋸歯がある(ぎざぎざしている)ならヒサカキ、表面がツルツルしていて、葉縁がぎざぎざしていない全縁ならサカキである。また、サカキは茎頂の芽(冬芽)が、鎌状あるいは長刀状に湾曲して尖っていることでも見分けられる』とある。

「漢語抄」は「楊氏漢語抄」の略。奈良時代(八世紀)の成立とされる辞書であるが、佚文のみで、原本は伝わらない。

「古今」「霜《しも》やたびをけどかれせぬ榊葉《さかきば》の立ちさかゆべき神のきねかも」「古今和歌集」の「卷第二十 神遊びの歌」の第二首(一〇七五番。ここでは歴史的仮名遣の誤りを訂した)、

   *

霜(しも)八度(やたび)

     おけど枯れせぬ

    榊葉(さかきば)の

   立ち榮(さか)ゆべき

       神の巫覡(きね)かも

   *

「八度」は回数が多いことで、「巫覡(きね)」とは、神に奉仕する人の意。参考にした「新日本古典文学大系」版脚注には、『ここでは巫女(みこ)か』とされる。但し、「覡」(音「ゲキ」)は、一説では、男性の「みこ」を「覡」とする。寧ろ、男女ともに指すとした方が、祝祭としてはいいだろう。同書の訳を引用しておくと、『霜が繰り返し置くけれど枯れもしない榊の葉が勢いよく繁茂するように、栄えてゆくはずの神人』(「じにん」と読んでおく)『たちよ』である。

『「日本紀」に云はく、『八百万《やほよろづ》の神たち、天香久山(《あま》のかぐやま)の坂(さか)の樹《き》を取《とり》て、天窟戸《あまのいはと》の事、祈り玉ふ[やぶちゃん注:「玉」は送り仮名にある。]。』≪と≫有り。以來、「神の縁《えん》≪の≫木」と爲《な》る』というのは、正確な引用ではなく、解釈である。恐らく、「日本書紀」の「神代上」の中にある、知られた天照大神(あまてらすおみかみ)の天石岩戸(あまのいわと)隠れのシークエンスの(太字下線は私が附した)、

   *

于時、八十萬神、會於天安河邊、計其可禱之方。故、思兼神、深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴。亦、以手力雄神、立磐戶之側、而中臣連遠祖天兒屋命・忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡一云【眞經津鏡。】、下枝懸靑和幣和幣、此云尼枳底・白和幣、相與致其祈禱焉。又、猨女君遠祖天鈿女命、則手持茅纒之矟、立於天石窟戶之前、巧作俳優。亦、以天香山之眞坂樹爲鬘、以蘿【蘿、此云此舸礙。】爲手繦【手繦、此云多須枳。】而火處燒、覆槽置覆槽、此云于該、顯神明之憑談【顯神明之憑談、此云歌牟鵝可梨】。

   *

を元に、良安か、或いは、国学者が訳したもので示したものと推定される(以上の原文は「日本書紀」の電子化サイトのここを参考に、一部の漢字に手を加え、記号を使った)。割注を除いて、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀  訓讀 上卷(昭和八(一九三三)年岩波文庫刊)の当該部を参考に、訓読したものを示す。

   *

時に、八十萬(やそよろづ)神(かみたち)、天安河邊(あめのやすのかはら)に會(つとひにつと)ひて、其の禱(いの)るべき方(さま)を計らふ。故(か)れ、思兼神(おもひかねのかみ)、深く謀(はか)り、遠く慮(たばか)りて、遂に常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきとり)を聚(あつ)めて、互(たがひ)に長鳴(ながなき)せしむ。亦(また)、手力雄神(たちからをのかみ)を以つて、磐戶(いはと)の側(とわき)に立(かくした)てて、中臣連(なかとみのむらじ)の遠祖(とほつおや)天兒屋命(あまのこやねのみこと)、忌部(いんべ)の遠祖太玉命(ふとたまのみこと)、天香山(あまのかぐやま)の五百箇真坂樹(いほつのまさかき)[やぶちゃん注:よく茂った榊の樹。]を掘(ねこじ)にして、上枝(かみつえ)には、八坂瓊(やさかに)の五百箇御統(いほつのみすまる)[やぶちゃん注:大きな勾玉(まがたま)をさわに紐で連ねたもの。]を懸(とりか)け、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、下枝(しもつえ)には靑和幣(あをにぎて)・白和幣(しらにきて)を懸(とりしで)て、相與(あひとも)に、祈禱(のみいのり)まうす。

   *]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 珊瑚樹

 

Sangojyu

 

さごじゆのき 正字未詳

 

珊瑚樹

 

 

△按珊瑚樹昜長高一二𠀋枝葉甚茂盛爲庭院之飾葉

 長四五寸微似平地木葉三四月細小花白色作簇結

 子似冬青子而赤

權萃 【未考正字】木葉子共似珊瑚樹而房稍長關東多有

 

   *

 

 

さごじゆのき 正字、未だ、詳かならず。

 

珊瑚樹

 

 

△按ずるに、珊瑚樹、長じ昜《やす》し。高さ、一、二𠀋、枝・葉、甚だ、茂盛《しげりさかん》≪に≫して、庭院《ていゐん》の飾《かざり》と爲《なす》、葉、長さ、四、五寸。微《やや》、「平地木(からたちばな)」の葉に似《にて》、三、四月、細≪き≫小≪さき≫花、白色≪にて≫、簇《むらがり》を作《なす》。子《み》を結《むすび》、「冬青(まさき)」の子に似て、赤し。

權萃(ごんずい) 【正字は、未だ、考へず。[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]】木・葉・子、共《ともに》、「珊瑚樹」に似れども、≪花の≫房《ふさ》は、稍(やゝ)長し。關東に、多く、有り。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabuki

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『暖地の海岸近くに生え、珊瑚に見立てられた赤い果実がつき、庭木、生け垣、防風・防火樹に利用される』。『和名サンゴジュは、盛夏から秋に真っ赤に熟す果実が柄まで赤く、この姿をサンゴに見立てたのが由来となっている。沖縄の方言ではササガー、あるいはササギーとよばれる』(この「ササ」は最後に出る「毒揉み」で沖縄で「魚を獲るための毒」の意である)。『また、アワブキ(泡吹き)という別名を持っていて、由来は木を燃やすと』、『泡が吹き出るためだといわれる』。上記の『標準学名』『は、中国名で「日本珊瑚樹」とされ、APG体系でガマズミ科』Viburnaceae『・レンプクソウ科』Adoxaceae、『クロンキスト体系・新エングラー体系でスイカズラ科』Caprifoliaceae『に分類される。広義の学名は Viburnum odoratissimum で、中国名で「珊瑚樹」とされる』。『日本、朝鮮半島南部、台湾、フィリピン、インドシナ、インドネシア、インドなどに分布する。日本では、本州の関東地方南部以西の海岸寄り、東海地方南部の海岸寄り、四国、九州、沖縄まで自然分布する。暖地の海岸近くの山地や山野に生える。庭や公園でもよく見かける』。『常緑広葉樹の小高木から高木で、高さは』十『メートル』『以上になる。長円錐形の整った樹形になる。樹皮は灰褐色でなめらか。若い枝は褐色で盛り上がった皮目が多い。太い幹の樹皮は裂け目が入って荒れ肌になる』。『葉は長楕円形で、長さは』十~二十『センチメートル』『ほどあり、葉縁に小さくまばらな鋸歯がある。葉身は光沢と厚みのある革質で濃緑色、枝から折り取ると』、『白い綿毛が出る。若葉は褐緑から褐色であるが、夏は淡緑色、冬は濃緑色へと変化する。葉は虫食いだらけで穴が開いているものも多い』。『花期は初夏(』六~七『月ごろ)。小枝の先端から大型の円錐花序を出して、やや紫を帯びた小型の白い花が多数開花する。花冠は、長さ約』六『ミリメートル』『の筒状で、先端が浅く』五『裂する。果実は液果で、長さ』七、八ミリメートル『の楕円形の実を赤い果柄の先端に多数つける。赤い実ができるころには花序(果序)も赤くなっている。はじめは』、『鮮やかな赤色であるが』、九~十一月頃『に熟すと』、『しだいに黒ずんで青黒色に変わる』。『冬芽は長楕円形で、淡緑褐色の』四~六『枚あるフェルト質の芽鱗に包まれる。側芽は対生する葉の付け根につく。葉痕は半円形で維管束痕は』三『個』、『つく』。『日なたから日陰まで植栽できる。土壌の質は全般で、適湿地に深く根づく』。『庭木や公園樹などとして植えられ、防火・防風・防音の機能を有する樹種(防火樹・防風樹・防音樹)としても知られる。また、花材としても用いられる』。『変種名や種小名の awabuki に示されるように、木を燃やすと泡を吹くのは』、『材や葉に水分を多く含むことによるものである。それゆえ、火災の延焼防止に役立つともいわれ、古くから装飾効果と合わせて防火樹として、建物のまわりの庭木や生垣に用いられてきた。刈り込みに強く、良く分枝して下枝が枯れないことから、古くから高さ』二~四メートル『くらいの生け垣をつくるのに使われており、対潮性があり』、『海岸の防風垣としても利用される』。『魚毒植物としても知られており、沖縄県では』、嘗つて、『毒流し漁に利用されていた』とある。

「平地木(からたちばな)」ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ亜科ヤブコウジ属カラタチバナ Ardisia crispa当該ウィキを見られたい。確かに葉は似ている。

「冬青(まさき)」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus 。漢字表記は「柾」・「正木」であるが、中文名は「冬青衛矛」である(「維基百科」の同種を見よ)。当該ウィキを見られたい。

「權萃(ごんずい)」クロッソソマ目 Crossosomatales ミツバウツギ科ミツバウツギ属ゴンズイ Staphylea japonica 「維基百科」の同種は「野鴉椿」であるが、本邦の現行の漢字表記は、正字未詳とする良安の示したものと同じ、「権萃」である。ゴンズイについては、先行する「椿」(ヒヤンチュン)の私の「✕②―Ⅰ樗(ちょ)」で始まる注を見られたい。]

2024/10/25

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 梅嫌木

 

Umemodoki

 

むめもどき  正字未詳

梅嫌木  俗云

       牟女毛止岐

 

 

△按梅嫌木葉團尖有微小鋸齒似野梅葉而小冬凋春

 芽生五月開小白花畧似南天花結子初青色十月葉

 落子紅熟𣷹枝幹多美鵯鳥喜食之

[やぶちゃん字注:「𣷹」は「添」の異体字。]

一種子白者亦有之以異爲珍然不如赤者

 

   *

 

むめもどき  正字、未だ、詳かならず。

梅嫌木  俗、云ふ、

      「牟女毛止岐《むめもどき》」。

 

 

△按ずるに、梅嫌木、葉、團《まろ》く、尖《とがり》、微《やや》小≪さき≫鋸齒、有り。「野梅《のうめ》」の葉に似て、小《ちいさ》く、冬、凋《しぼむ》。春、芽(め)を生ず。五月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。畧《ほぼ》、「南天」の花に似たり。子《み》を結≪べども≫、初《はじめ》は、青色、十月、葉、落《おち》て、子、紅熟≪し≫、枝・幹に𣷹《そひ》て、多《おほく》、美なり。鵯鳥(ひよどり)、喜んで、之れを食ふ。

一種、子《み》の白き者、亦、之れ、有り。異《い》を以つて、「珍《ちん》」と爲《なす》。然れども、赤≪き≫者に、しかず。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉類植物綱モチノキ(餅の木・黐の木)目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ Ilex serrata

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『梅擬き、梅擬』で、『落葉低木。和名の由来は』、『葉がウメ』(バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume )『の葉に似ていることや』、『花も梅に似ているころに由来する。別名』『「オオバウメモドキ」。花や実が白色に品種を「シロウメモドキ」という』。『中国と日本の本州、四国、九州の落葉広葉樹林内に分布する。広島県では、吉備高原から中国山地の湿原や湿った林下に分布する。表六甲の中腹から裏六甲にかけて、広い範囲に点々と分布している』。『熊本県阿蘇郡の旧阿蘇町(現在の阿蘇市)の町の木であった。山形県でレッドリストの絶滅寸前、千葉県で危急種の指定を受けている種である』。『山中の湿地に自生している。また』、『人の手によって植栽され、庭などにもよく見られる』。『落葉広葉樹の低木で、木の高さは』二~三『メートル』『になる。雌雄異株である。樹皮は灰褐色をしており、滑らかで皮目が多くよく目立つ。一年枝は暗褐色で細く、短毛を密に生やす。側枝は短枝化しやすい』。『葉は互生し、長さ』三~八『センチメートル 』、『幅』一・五~三メートル『の楕円形で』、『先端が尖り、葉縁は細かい鋸歯』『状である。葉の裏に毛がある』。『開花時期は』五~七『月で、淡紫色の花を葉の付け根に咲かせる。果実は』九『月頃から赤く熟し』、十二『月頃』、『落葉しても』、『枝に残っている。このため』、『落葉後の赤い実が目立つ。小鳥が好んでこの果実を食べる』。『冬芽は枝に側芽が互生し、頂芽・側芽ともに長さ約』一『ミリメートル 』『と』、『かなり小さく、芽鱗』四~八『枚に包まれている。側芽の根元には果軸がよく残る。冬芽のそばにある葉痕は半円形で、維管束痕が』一『個ある』。庭木や公園樹によく植えられ、鉢植、盆栽、活け花に使われるが、鑑賞の対象は』、『花より』、『赤い果実であり、冬場の庭の彩りに使われる』。『モチノキ属には多数の種があり、日本には以下の近縁種などが分布している』として、

品種イヌウメモドキ Ilex serrata f. argutidens (『葉に毛がないもの』)

フウリンウメモドキ Ilex geniculata

変種オクノフウリンウメモドキ Ilex geniculata var. glabra

ミヤマウメモドキ Ilex nipponica

の四種を挙げる。

「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「鵯鳥(ひよどり)」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis。博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵯(ひえどり・ひよどり) (ヒヨドリ)」を参照されたい。

なお、次項の「瓢樹(ひよんのき/いす)」(現行のイスノキ相当)は、既に、二〇二二年にブログ・カテゴリ「和漢三才圖會抄」で、単発で「和漢三才圖會」卷第八十四 灌木類 瓢樹(ひよんのき/いす) / イスノキ』として電子化注してある。今回、全面的に改訂して、リニューアルしておいたので、そちらを見られたい。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 列珠樹

 

Kusaredama

 

れだまの木 正字未詳

 

列珠樹  俗云

      禮太末乃木

 

 

△按列珠樹高𠀋許梢出細條出綠色畧似鳧茨莖其葉

 細小四月開黃花狀微似綠豆花而繁結莢亦似綠豆

 

   *

れだまの木 正字、未だ、詳かならず。

 

列珠樹  俗、云ふ、

      「禮太末乃木《れだまのき》」。

 

△按ずるに、「列珠の樹」、高さ、𠀋許《ばかり》、梢に、細-條(すわい)を出《いだ》す。綠色≪にして≫、畧《ほぼ》、「鳧茨(くろくわい[やぶちゃん注:ママ。])」の莖に似《にる》。其の葉、細小≪にして≫、四月、黃花を開く。狀《かたち》、微《やや》、「綠豆(ぶんどう[やぶちゃん注:ママ。])」の花に似て、繁く、莢を結《むすび》、亦、「綠豆」に似たり。

 

[やぶちゃん注:これは、

双子葉植物綱ツツジ目サクラソウ科オカトラノオ属セイヨウクサレダマ変種クサレダマ Lysimachia vulgaris var. davurica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『草連玉』で、『和名はマメ科のレダマ』(マメ目マメ科レダマ属レダマ Spartium junceum 。落葉低木。当該ウィキを見られたい)『に似て、草本であることに由来する。別名、イオウソウ(硫黄草)』。『茎は直立し、高さは』四十~八十センチメートル『になる。茎には短い腺毛と軟毛が生える。葉は対生または』三、四『枚が輪生し、葉柄がない。葉身は披針形または狭長楕円形で、長さ』四~十二センチメートル、『幅』一~四センチメートル『になり、先端は鋭く』、『とがり、縁は全縁』。『花期は』七~八『月。茎の先端または葉腋に円錐花序をつけ、多数の花をつける。線状の小さな苞があり、萼は深く』五『裂する。花冠は黄色で径』一・二~一・五センチメートル『になり』、五『深裂する。果実は径』四ミリメートル『の蒴果となる』、『日本では、北海道、本州、九州に分布し、山中の湿地に生育する。アジアでは、朝鮮、中国、樺太、シベリアに分布する。基本種で帰化植物のセイヨウクサレダマ( Lysimachia vulgaris )は、ヨーロッパに広く分布し、茎に腺毛があるが軟毛がない』とある。学名の画像検索をリンクさせておく。

 いや!!! そんなものより、花森屋敷Ⅲ氏の本草書の画像を駆使して書かれておられる凄絶な優れたブログ「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE 「庭の花」「いつか見た花」 そのうち「近所の花,近隣の花,旅先の花,季節の花」も ------ 花盛屋敷からの花便り」の「クサレダマ-1 鷹爪,硫黄草,草列珠,柳葉草,『花壇綱目,花譜,草花絵前集,大和本草,諸品図,和漢三才図会,地錦抄附録,物品識名,草木図説』,レダマ,鷹爪,れたま,列球樹,『草花魚貝虫類写生図』,方言,学名」が物凄い精緻さで、書かれてある!! 引用させて戴くには、本文とともに本草書の挿絵なども見ながら読まれるに若くは無しであるので、是非、見られたい。

「細-條(すわい)」単漢字では「楚」で、 後世、「ずわえ」とも言う。木の枝や幹から、図の如く、真っ直ぐに、細く、長く、伸びた若い小枝のことで、「すわい」「ずわい」「すわえぎ」とも言う。

「鳧茨(くろくわい)」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ(蚊帳吊草・莎草)科ハリイ(針藺)属クログワイ(黒慈姑・荸薺)Eleocharis kuroguwai当該ウィキを見られたいが、そこにある通り、和名は、芋の形が、全くの別種である、食用として知られる、単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属オモダカ品種クワイ Sagittaria trifolia  'Caerulea' に似ていることに拠る。

「綠豆(ぶんどう)」双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ササゲ(大角豆・豇豆)属ヤエナリ Vigna radiata の種子の呼称。ウィキの「リョクトウ」によれば、豆は、別に『青小豆(あおあずき)、八重生(やえなり)、文豆(ぶんどう)。英名』(mung bean)『から「ムング豆」とも呼ばれる。アズキ』(ササゲ属アズキ変種アズキ Vigna angularis var. angularis )『とは同属。 グリーンピースは別属別種のエンドウ』(マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum )『の種子』とある。

 なお、「一日一項目」を目指して、今年の四月二十七日に、この『「和漢三才圖會」植物部』を始めたのだが(第一回は『ブログ2,150,000アクセス突破記念 「和漢三才圖會」植物部 始動 / 卷第八十二 木部 香木類 目録・柏』。本日只今のブログ・アクセス数は(キリ番記事は、原則、やめた)2,279,758アクセスである)、考証に、ひどく時間がかかる項目が多く、最大で三日かかって仕上げ終わるものもあった結果、それが実現し得ない事態に何度も遭遇する事態になってしまった。今回、本文が短いものが並んだので、数日を本記事の作業をメインに置くことで、漸く、本日、一日一植物の記事数(百八十一記事)に合わせることが出来た。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 八手木

 

Yatude

 

やつでのき 正字未詳

       也豆天乃木

八手木

 

 

△按八手木叢生一朶八葉形畧如軍配團扇五六月開

 小白花作簇上平而又異常

 

   *

 

やつでのき 正字、未だ詳かならず。

      「也豆天乃木」。

八手木

 

 

△按ずるに、八手木、叢生≪し≫、一朶《ひとえだ》≪に≫八葉≪あり≫[やぶちゃん注:誤り。以下の引用を参照。]、形、畧《ほぼ》、軍配團扇(《ぐんばい》うちは)のごとし。五、六月、小≪さき≫白≪き≫花を開≪き≫、簇《むらがり》を作《な》す、上、平《たひら》かにして、又、常に異《こと》なり。

 

[やぶちゃん注:これは、申し分なく、本邦で知られ、私の猫額庭の水汲み場の桶の外の片隅から、二十センチメートルほどの高さに元気に輪生している(いつ生えてきたのか、記憶にない)、

双子葉植物綱セリ目ウコギ科Aralioideae亜科ヤツデ属ヤツデ Fatsia japonica

である。中文名は「八角金盤」(「維基百科」の当該種標題に拠る)である。辞書その他を見ても、恰も日本原産のような書き方をしてあるが、英文の同種のページ(学名標題)に、明確に『日本南部と韓国南部原産』とあり、更に韓国語の同種ウィキには、さらに『台湾』も分布域に含まれている。邦文の当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『八手・八つ手』。『白い花を付け、黒い実を付ける常緑低木。葉が大型で、大きく掌状に裂けた独特の形をしているのでよく目立ち、見分けやすい。晩秋に丸くまとまって咲く白い花は、昆虫に蜜を供給して受粉する虫媒花である。林内の日当たりの悪いところによく自生しているが、庭木としてもよく植えられる。葉はサポニンを含み、去痰など薬効のある生薬にもなる』。『和名ヤツデは、葉は掌状に深い切れ込みがあることに由来し、葉は実際には』八『つに切れ込んで』九『枚に裂けているものが多いが、「八手」の八は数が多いという意味がある。ヤツデの別名(地方名)はテングノハウチワ(天狗の羽団扇)である。 漢名には「八角金盤」や「金剛纂」などがある』。『学名のFatsiaは日本語の「八」(古い発音で「ふぁち」、「ふぁつ」)または「八手(はっしゅ)」に由来し、これが転訛したものだといわれてい』。『本州(茨城県以南の太平洋側)、四国、九州、沖縄に分布する。主に暖地の海岸近くの山林などに自生する。日陰に強く、日当たりの悪い森林のなかにもよく自生しているのが見られる。また、人の手によって庭や庭園にもよく植えられている』。『白い花を付け、黒い実を付ける常緑の低木で、高さは』二~五『メートルほどになり、多くは株立ちする。茎は数本集まって出て、ほぼ単一に伸びる。若い枝の樹皮は灰褐色で、V字形の葉痕が目立つ。葉痕には維管束痕が十数個ならんでいる。太い幹の樹皮も平滑で、皮目がある。葉芽は花序軸のわきにでき、芽鱗』三、四『枚に包まれていて、翌年の春に芽吹く。花芽は夏に、枝先に集まった葉の中心部にできる』。二十『センチメートル以上もある大きな葉に、長い葉柄をつけて互生、あるいは輪生する。葉は表面につやがあり、下面はやや白っぽくて若いときには茶褐色の軟毛があり、やや厚手。形は』、『文字通り』、『掌状だが、若葉のときは卵形をしていて、次に』三『裂して、次第に数を増して』七、九、十一『の奇数に深く裂ける。ヤツデの名のように』、八『裂はしない』(☜!!!)『葉の先端は尖り、葉縁はわずかにギザギザがある』。二『年たつと』、『柄ごと』、『落葉し、葉跡は』、『くっきりした半月型で』、『かなり目立つ』。『落葉前、秋の花期と春から初夏にかけて』、『古い葉が明るい黄色に色づく』。『花期は晩秋』(十~十二月)『で、茎の先に球状の散形花序がさらに集まって大きな円錐花序をつくる。花は直径』五『ミリメートルほどの』五『弁花で白く、両性花または、雄花と雌花があり、枝先の先に丸まってつく。雄しべは』五『本、雌しべ(花柱)も』五『本あり、花びらは小さくて反り返っており、花茎を含めて黄白色でよく目立つ。他の花が少ない時期に咲くため、気温が高い日はミツバチやハナアブ、ハエなどの昆虫が多く訪れ、蜜を供給して受精を確実にしている。果期は翌年の』四~五『月で、果実は直径』三『ミリメートルほどの球状で、翌春に黒く熟す』。『花が終わると、それまでの主軸であった花茎が倒れて、わきから新芽が出て成長し、やがて新しい主軸になっていく。これは、大きな花茎を残しておくと、まっすぐに上に伸びることができないためである』。『丈夫なので庭木としてもよく植えられる。古人は魔除けの意味で庭に植えていたともいわれている』。『葉を乾燥させたものは「八角金盤」と呼ばれる生薬になり、去痰などの薬として用いられる。しかし、葉などにはヤツデサポニンという物質が含まれ、過剰摂取すると』、『下痢や嘔吐、溶血を起こす』。『また、葉を刻んで浴湯料として風呂に入れると、リウマチに効果があるとされる』。『昔は蛆用の殺虫剤として用いていたこともある。古い鉄道駅の一角に栽培されていることが多いが、これはかつて汲み取り便所の蛆殺しにその葉を使っていたためである』とある。以下、「栽培品種・変種」「ヤツデ属」があるが、省略する。]

2024/10/24

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 金雀花

 

Muresuzume_20241024144701

 

きんしやくくは

 

金雀花

 

 

[やぶちゃん注:「きんしやくくは」はママ。]

 

畫譜云春初開黃花甚可愛儼如飛雀且可采以滾湯着

鹽焯過作茶供一品

 

   *

 

きんじやくくは

 

金雀花

 

 

「畫譜」に云はく、『春初《はるはじめ》、黃≪の≫を花を開≪き≫、甚《はなはだ》、愛すべし。儼(さなが)ら、飛≪ぶ≫雀《すずめ》のごとし。且つ、采《とり》て、滾《たぎ》≪りたる≫湯を以つて、鹽≪を≫着《つけ》、焯過《しやくくわ》≪して≫[やぶちゃん注:さっと茹(ゆ)でて。]、茶供《さぐ》一品と作《な》すべし。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、東洋文庫の訳文の解説の「金雀花」の割注『(マメ科ムレスズメ)』で、

双子葉植物綱マメ目マメ科ムレスズメ属ムレスズメ Caragana sinica

と判明した。小学館「日本国語大辞典」に、『むれ-すずめ【群雀】』として、『 マメ科の落葉低木。中国原産で、日本へは江戸時代に渡来。観賞用に植栽され、生け花や盆栽にも使われる。高さ一~三メートル。小枝は稜角があり、托葉は刺に変形し、葉軸も宿存して刺状をなすことがある。葉は羽状に並んだ二対の小葉からなり、小葉は広楕円形、ないし倒卵形で長さ約二センチメートル。春、葉腋に長さ二・五センチメートルぐらいの蝶形花が一つずつ垂れ下がる。花弁は初め黄色で後に赤黄色に変わる。まれに円柱形で長さ約四センチメートルの豆果を結ぶ。漢名、金鶏児・金雀花』とあった。当該ウィキには、『中国語:金鵲根』とし、『ムレスズメは、アセチルコリンエステラーゼ阻害活性を示すスチルベノイド三量体のα-ビニフェリンや、プロテインキナーゼC阻害剤のミヤベノールC』、『また』、二『つのスチルベン四量体コボフェノールAとカラシノールB』『を含むことで知られる』とあるのみ。「維基百科」の同種の「錦雞兒」に至っては、『為豆科錦雞兒屬下的一個種。其種加詞sinica,意為「中華的」』とあるだけ。

「畫譜」先の「錦帶花」の私の「木本花詩譜」の注を参照。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 虎茨

 

Koji

 

こじ

 

虎茨

 

 

畫譜云虎茨產杭州蕭山白花紅子性甚堅雖嚴冬厚雪

不能敗畏日色百年者止高二三尺不甚昜活

[やぶちゃん字注:「虎」は二箇所とも「グリフウィキ」のこの異体字に近いものだが、類似する使用可能なものがなかったので、「虎」とした。「畫」も「グリフウィキ」のこの異体字であるが、表示出来ないので、「畫」とした。]

 

   *

 

こじ

 

虎茨

 

 

「畫譜」に云はく、『虎茨は、杭州の蕭山《せうざん》[やぶちゃん注:旧浙江省紹興府。]に產≪す≫。白き花、紅の子《み》。性、甚だ、堅く、嚴冬《げんとう》・厚雪《こうせつ》と雖も、能《よ》く、敗《はい》せず[やぶちゃん注:枯れない。]。日色《につしよく》[やぶちゃん注:日光。]を畏《おそ》る。百年なる者、止(たゞ)、高さ、二、三尺≪に過ぎず≫、甚だ、活《いき》昜《やす》からず。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「虎茨」は不詳。中文サイトでも全く引っ掛かりもしない。東洋文庫訳もゼロ解答。万事休す。識者の御教授を乞う。

「畫譜」前項「錦帶花」の私の「木本花詩譜」の注を参照。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 錦帶花

 

Nisikiutugi

 

しげんし 俗云紫元枝

 

錦帶花

 

木本花詩譜云其花開蓓蘽可愛形如小鈴色粉紅而嬌

植之屛籬可折以玩【蓓蕾始華也又花綻也蘽字蕾之訛者乎】

△按一種高五六尺樹皮微淡紫枝多其葉似山黃楊葉

 而薄其花蓓蕾狀如丁香淡紫色揷之能活俗呼名紫

 元枝者此錦帶花歟伹葉之形與圖不合耳

 

   *

 

しげんし 俗、云ふ、「紫元枝《しげんし》」。

 

錦帶花

 

「木本花詩譜」に云はく、『其の花、蓓蘽《はいらい》[やぶちゃん注:蕾(つぼみ)。]、開≪くを≫[やぶちゃん注:返り点はないが、返して読んだ。]、愛すべし。形、小≪さき≫鈴のごとく、色、粉紅《うすべに》にして、嬌(うつく)し。之れを屛籬《びやうり》[やぶちゃん注:垣根。]植へて[やぶちゃん注:ママ。]、折《をり》て、以つて、玩(もてあそ)ぶべし。』≪と≫。【「蓓蕾」は、「始めて華さく」≪を謂ふ≫なり。又、「花、綻(ほころ)びる」≪を謂ふ≫なり。「蘽」の字、「蕾」の訛《あやまり》なる者か。】。

△按ずるに、一種、高さ、五、六尺。樹皮、微《やや》淡紫≪たり≫。枝、多《おほく》、其の葉、「山--楊(つげ)」の葉に似て、薄《うすし》。其の花、蓓-蕾(つぼみさき)に≪あり≫て、狀《かたち》、「丁香《ちやうかう/ちやうじ》」のごとく、淡紫色。之れを揷(さ)して、能く、活《かつ》す。俗、呼んで、「紫元枝」と名づく者、此れ、「錦帶花《きんたいくわ》」か。伹《ただし》、葉の形、圖と合はざるのみ。

 

[やぶちゃん注:この「錦帶花」「紫元枝」は、まず、中国では、

双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属 Weigela

を指す。「維基百科」の「錦帶花屬」がそれである。そこには、この属は東アジアを原産とするが、中国に分布する種が示されていないので、種同定が、ここでは、出来ない。英文ウィキでも、中国に分布する種までは、よく判らない。最後の頼みの綱は、やっぱり「跡見群芳譜」で、「樹木譜」の「タニウツギ」(属記載)で、そこに本邦産種が、ずらりと並ぶ中、

オオベニウツギ Weigela florida

に、『錦帶花・山脂麻』と漢字表記されて、分布を『福岡・朝鮮・ロシア沿海地方・遼寧・吉林・黑龍江・内蒙古・山西・陝西・河南・山東・江蘇産とあり、さらに、

ツクシヤブウツギ(『日本錦帶花』・『九州産』)変種Weigela japonica var. sinica

に『半邊月・水馬桑・白馬桑・楊櫨』とあって、『華東・兩湖・兩廣・四川・貴州・雲南産』とあった。前者「オニベニウツギ」は、明代に中国に分布する最大確定種としてよいだろうし、後者も、原種が本邦産種であるが、分布域がひどく広いので、明代には伝わったわって広まったとするにはおかしい気がするし、或いは、同種起源の中国産原種である Weigela japonica 相当種が過去に植生していた可能性を考えてよいように思われる。

 一方、良安の言っているものは、実にウィキの「タニウツギ属」で日本で知られる種を九種、リストしている(変種・品種・交配種を数えると、実二十三種もあり、日本原産種も多い)。花の色を蕾の時に「淡紫色」と言っていることに着目すると、花が黄色い種(ウコンウツギ Weigela middendorffiana ・キバナウツギ Weigela maximowiczii 等)や、白いシロバナウツギ Weigela hortensis f. albiflora 等は排除出来る。また、「紫元枝」・「錦元枝」という異名を記していることから、私は、一つの有力候補を、

ニシキウツギ Weigela decora

としたい。しかし、即座に突っ込む読者がいるだろう。『ウィキの「ニシキウツギ」の、花の画像を見ろよ! 紅色じゃあねえか! 紫じゃねえぞ!』と。また、そこには、漢字表記で『二色卯木』、『二色空木』とあり、『ニシキウツギの由来は、花の咲き始めが淡黄白色であるが、次第に紅色に変化することから「二色」(ニシキ)の名が付けられたものであり』(☞)、『「錦」の意味ではない』。『「ウツギ」は漢字で「空木」あるいは「卯木」と書き、空木は小枝が中空であることから、また卯木は卯月(陰暦』四『月・陽暦』五『月)に花が咲くことに由来する』ってあるからね。しかしだ、そこで、私は以下のように言いたいのだ。まず、良安は大坂に本拠を置いていた。京阪の民俗が日常であった。「紫」色というのは、我々は「江戸紫」を想起するのだが、江戸時代の京阪では「京紫」であったのである。遙かに赤みの強い明るい紫なのである。また、現在の植物学の漢名語原分析は、上に書かれた通りであろう。しかし、江戸時代に「にしき」と言ったら、一般人は「二色」ではなく、大抵は「錦」と採るだろうということだ。無論、肯じ得ない方は、どうぞ、御自分で、適切な当該種をお探しあれ。

「木本花詩譜」東洋文庫の巻末の「書名注」を参考にすると、まず、「木本花詩譜」に『画譜』の中の『木本花譜』一巻のことであろうか。』とした次に、「木本画譜」を挙げ、その『『木本花譜』と同じものを指すか。』とする。而して、「画譜」は複数回既出既注で、再掲すると、「八種畫譜」。明の黄鳳池の編。「唐詩五言畫譜」・「新鐫六言唐詩畫譜」・「唐詩七言畫譜」・「梅竹蘭菊四譜」・「新鐫木本花鳥譜」・「新鐫草本花詩譜」・「唐六如畫譜」・「選刻扇譜」から成るものである。

「一種、高さ、五、六尺。樹皮、微《やや》淡紫≪たり≫。枝、多《おほく》、其の葉、「山--楊(つげ)」の葉に似て、薄《うすし》」種不詳。「山--楊(つげ)」この「山」にルビはないのだが、現行では「山黄楊」は、モチノキ目モチノキ科モチノキ属イヌツゲ Ilex crenata var. crenata を指す。私もそれで認識する。ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica の可能性も無論、あろう。ただ、言っとくと、本邦のタニウツギ属の各種の葉を見たが、イヌツゲやツゲ見たような、丸っこい、厚手の小さな葉を持つ種は、タニウツギ属には、おらんぜよ。良安の「似ている」は信じちゃ、いかんぜよ。絵だって、丸くないし、花は明らかにタニウツギの花形ぜよ。

「丁香《ちやうかう/ちやうじ》」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum 。香辛料クローブが採れる、あれ。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 糏花

 

Yukiyanagi

 

こゞめばな 正字未詳

       俗稱

糏花   【古々女波奈】

 

 

△按糏花小樹叢生高三四尺葉狹長薄有縱理二三月

 開白花大可錢如蒸糏故俗呼名小米花又似胡蘿蔔

 花而圓匾小者也

 

   *

 

こゞめばな 正字、未だ詳かならず。

       俗稱、

糏花   【「古々女波奈《こごめばな》」。】

 

 

△按ずるに、糏花、小樹≪にして≫、叢生して、高さ、三、四尺。葉、狹(せば)く長《ながし》。薄くして、縱理(たつすぢ)、有り。二、三月、白≪き≫花≪を≫開く。大いさ、錢《ぜに》可(ばかり)。蒸(む)せる糏(こゞめ)のごとし。故、俗、呼んで、「小米花」と名づく。又、「胡蘿蔔(にんじん)」の花に似て、圓《まろ》く匾(ひらた)く、小≪とき≫者なり。

 

[やぶちゃん注:これは、まず、

双子葉植物綱バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属ユキヤナギ Spiraea thunbergii

としてよい。但し、「雪柳」の和名は、小学館「日本国語大辞典」の「こごめ-ばな【小米花】」によれば、

●「しじみばな(蜆花)」の異名(双子葉植物綱バラ目バラ科シモツケ(下野)亜科シモツケ属シジミバナ(蜆花)Spiraea prunifolia: 前項「笑靨花」参照)

◎「ゆきやなぎ(雪柳)」の異名

●「みぞそば(溝蕎麦)」の異名(双子葉植物綱ナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii :私の「大和本草卷之九 草之五 雜草類 牛面草 (ミゾソバ) + 大和本草諸品圖上 牛ノ額(ヒタヒ) (ミゾソバ)」参照)「いぼたのき(水蝋樹)」の異名(シソ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium

とし、他の辞書には、

●「おみなえし」の異名(マツムシソウ目オミナエシ科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia

とするので、注意は必要である。

 当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ユキヤナギ(雪柳』・『学名: Spiraea thunbergii )は、バラ科シモツケ属の落葉低木。別名にコゴメバナ、コゴメヤナギなど。日本原産。春に小さい白い花を咲かせる。和名の由来は、ヤナギのようにしだれる枝に白い小さな花が咲き乱れる様子を雪に見立てて「雪柳」の名がついたとされる。中国名は、珍珠繡線菊』。『日本の本州(関東地方以西)、四国、九州に分布する。川岸の岩場などに生える。日本原産種だが、自生地はとても少ない。各地に植栽され、公園や庭先でよく見かけるが、自生種は石川県で絶滅危惧I類に指定されているなど、地域的には絶滅が危惧されている』。『手を掛けなくても成長し、大きくなると』一・五メートル『ほどの高さになる。幹は株立ちし、地面の際から』、『枝が』、幾『本にも枝垂』(しだ)『れて、細く、ぎざぎざのある葉をつける。樹皮は灰褐色で滑らかであるが、老木では縦に裂ける。小枝は軟らかい毛が多くあるが、表面が剥がれて無毛になる。栽培品は野生種よりも株も大きく、幹も太い』。『花期は春』四月で、五『弁で雪白の小さな花を小枝全体に群がってつける。秋には紅葉し、黄色や橙色、ときに赤色に色づく』。『冬芽は卵形で紅紫色の鱗芽で、互生する。丸くて大きい冬芽は花芽で、枝の先の方の小さい冬芽が葉芽である』。『主に公園樹や庭園樹として利用されている』とある。同ウィキのユキヤナギの植物体全体と、花のアップ画像をリンクさせておく。

「糏花」の「糏」とは「あらもと」とも称し、精米時に砕けた屑米のことを指す。

「「胡蘿蔔(にんじん)」セリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)亜種ニンジン Daucus carota subsp. sativus 。しかし、う~、散形花序の単花を拡大(ウィキの「ニンジン」の花序の画像)すれば、まあ、似てないわけではないが、ねぇ……。やっぱ、良安の「似ている」は、ちょっと、危険がアブないな……。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 笑靨花

 

Sijimibana

 

しじめばな 俗云蜆花

 

笑靨花

 

 

遵成八牋云笑靨花其花細如豆一條千花望見若堆雪

[やぶちゃん注:書名「遵成八牋」は「遵生八牋」の誤り。訓読では訂した。]

然無子可種根窠叢生茂者數十條以原根劈作數墩分

種昜活

△按笑靨花之名義難解高三四尺小木叢生其葉圓長

 微皺似櫻桃葉三月開小白花形如蜆肉一條數千

 

   *

  

しじめばな 俗、云ふ、「蜆花(しゞみばな)」。

 

笑靨花

 

 

「遵生八牋」に云はく、『笑靨花は、其の花、細《こまか》なること豆《まめ》のごとく、一條《ひとえだ》≪に≫千花≪たり≫。望見《のぞみみ》≪れば≫、堆《つもれる》雪のごとく然《し》かり。種《うう》べき子《み》、無し。根窠《こんくわ》[やぶちゃん注:幹の根元に生じた空洞。]、叢生して茂き者、數十條。原根(ふるね)を以つて、劈(さ)き、數墩《すとん》[やぶちゃん注:幾つかの根を含んだ土の塊り。]と作《なし》、分け、種へて、活《くわつ》≪し≫昜《やす》し。』≪と≫。

△按ずるに、「笑靨花(わらふゑくぼの《はな》)」の名、義、解し難し。高さ、三、四尺。小木」≪にして≫、叢生≪す≫。其の葉、圓長《まろくなが》≪して≫、微《やや》皺《しは》≪あり≫。「櫻桃(ゆすらうめ)」の葉に似たり。三月、小≪き≫白≪き≫花を開く。形、蜆(しゞみ)の肉《にく》のごとく、一條《えだ》、數千《たり》。

 

[やぶちゃん注:「笑靨花」は日中ともに、

双子葉植物綱バラ目バラ科シモツケ(下野)亜科シモツケ属シジミバナ(蜆花) Spiraea prunifolia

である。「維基百科」の「笑靥花」を見られたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『中国原産で、庭園などに植えられている。 春に同属のユキヤナギ』(シモツケ属ユキヤナギ Spiraea thunbergii )『より』、『遅れて花が咲く。 エクボバナやハゼバナ、コゴメバナとも呼ばれるが、ユキヤナギをコゴメバナと呼ぶことがある。 花は』一センチメートル『ほどの小さな白い花で』、『枝にそって咲く、八重咲きで、バラの特長をよく表している。 花柄は』一・五~『ほどで』、『長く、一か所から数個の花柄が伸びる。 葉は互生し』、『楕円形。長さ』二~二・五センチメートル『幅』一・五センチメートル『ほど』。『花が八重咲きのコデマリ』(シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis 。当該ウィキの画像(植物体全体)を張っておく)『に似ているため』、『誤』認『されることもある。樹高は』一~二メートル『で株立ちし、枝垂』(しだ)『れる』とある。同ウィキの植物体全体画像花の画像をリンクさせておく。「維基百科」の「笑靥花」他によれば、

李叶綉繡線菊短瓣変種 Spiraea prunifolia var. simpliciflora(中文名「單瓣笑靨花」・和名「ヒトエノシジミバナ」)

李葉繡線菊多毛變種Spiraea prunifolia var. pseudoprunifolia(中文名「假笑靨花」・和名「タイワンシジミバナ」)

が変種として挙げられてある。

「蜆」本邦種は、斧足綱異歯亜綱シジミ科シジミ属ヤマトシジミ Corbicula japonica (汽水域種)、マシジミ Corbicula leana (淡水域種)、セタシジミ Corbicula sandai (琵琶湖水系の淡水域種)をすべて数え上げておけば、ストーカー的貝類同好家からも文句も言われまい。ここは、中文引用にはない本邦での和名なのだから、中国・台湾を中心とした東アジアに分布し、本邦で一九八五年頃に侵入が確認されている淡水域に住むシジミ属タイワンシジミ Corbicula fluminea を出す必要も全くない。

「遵生八牋」(じゅんせいはっせん)は、明の高濂(こうれん)の著になる随筆。全二十巻。万暦 一九(一五九一) 年の自序がある。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百人の事跡が記されており、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。引用は、「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』の同書の「卷十六」の「燕間清賞牋下」の「四時花紀」の項目のガイド・ナンバー[016-7a]以下の「笑靨花」のパートからである(多少、手を入れた)。

   *

  笑靨花

花細如豆一條千花望之若堆雪然無子可種根窠叢生茂者數十條以原根劈作數墩分種易活

   *

『「笑靨花(わらふゑくぼの《はな》)」の名、義、解し難し』とするが、サイト「漢字ペディア」の「笑靨花」には、『花の中央が靨(えくぼ)のようにくぼんでいることから』とある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 小粉團花

 

Ryouankodemari

 

こてまり 俗云小毬花

小粉團花

 

△按小粉團花木高四五尺葉狹長似棣棠花葉其花形

 似粉團花而小白大不過寸半許

 

   *

 

こでまり 俗、云ふ、「小毬花《こまりばな》」。

小粉團花

 

△按ずるに、小粉團花《こでまり》、木の高さ、四、五尺。葉、狹《せば》く、長《ながし》。「棣棠花(やまぶき)」の葉に似《にて》、其の花、形、「粉團」の花に似て、小《ちいさ》く、白《しろし》。大いさ、寸半許《ばかり》に過ぎず。

 

[やぶちゃん注:これは、先行する「粉團花」で、良安の考える「粉團花」として同定した

バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis

と同種である。コデマリ(当該ウィキのリンク)については、そちらを見られたい。なお、そちらでは、引用部の「粉團花」の種を、

双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ヤブデマリ変種 ヤブデマリ Viburnum plicatum var. tomentosum

としたが、これは、前項「椐」と同種となるので、そちらの私の注を参照されたい。「椐」及び「粉團花」で、良安は――それらの引用部の種が、『どうもコデマリとは違うのではないか?』と、薄々、気づいたことから、改めて、自身で、「小粉團花」として立項して述べたものであろう。それが、『「粉團」の花に似て』というわざとらしい記載に現われていると私は思う。

『「棣棠花(やまぶき)」の葉に似《にて》』「棣棠花(やまぶき)」は、我々に親しい「山吹」で、バラ目バラ科サクラ亜科ヤマブキ属ヤマブキ Kerria japonica である。良安は、「コデマリとヤマブキの葉が似ている」と言っているが、コデマリの葉と、ヤマブキの葉は(リンクは当該ウィキの画像)、小学生低学年レベルなら、まあ、「似てる」と言うだろうが、鋸歯があること以外には、同高学年以上のド素人でも、「全く違う植物の葉っぱだね」と断言し得るものである。コデマリの葉は、ヤマブキよりも狹長で、形が明らかに違うし、しかも、葉脈痕がヤマブキとは、全然、違うことが、一目瞭然だからである。★良安の植物の細部の観察力はレベルが非常に低いと言える。向後も、良安の「似る」とする場面では、眉に唾して読むことが肝要である★。序でに言うと、挿絵もヒヨロヒョロしており、花もショボくて、甚だ、生育不良の、「あきまへん」クラスのコデマリにしか見えないんですけど!!!

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 山牡丹

 

Yamabotan

 

やまぼたん 名義未考

      【正字未詳】

山牡丹

 

△按山牡丹高五七尺枝婆娑葉不繁其葉似桑葉而團

 亦似粉團花葉而色淺有鋸齒皺文夏開小白花畧似

 南天花秋結子爲簇亦如南天子而房短落葉子尚存

與曾曾女【正字未考】 木枝葉皆似山牡丹而唯其子房小於

 山牡丹耳二物共關東多有而畿内希有之

 

   *

 

やまぼたん 名義、未だ考へず。

      【正字、未だ詳からなず。】

山牡丹

 

△按ずるに、山牡丹、高さ、五、七尺。枝、婆娑《ばさ》として[やぶちゃん注:舞う人の衣服の袖が美しく翻るさまの原義を、梢が風に揺れるさまを喩えた語。]、葉、繁らず。其の葉、桑の葉に似て、團《まろく》、亦、「粉團花《てまり》」の葉に≪も≫似て、色、淺《あさく》、鋸齒≪と≫、皺文《しはもん》、有り。夏、小さき白花を開く。畧《ほぼ》、「南天」の花に似、秋、子《み》を結ぶ。簇《むらがり》を爲すも亦、「南天」の子のごとき≪に≫して、房、短《みじかし》。落葉して、子、尚《なほ》、存す。

與曾曾女(よそぞめ)【正字、未だ考へず。】 木・枝。葉、皆、「山牡丹」に似て、唯《ただ》、其の子房《しぼう》、山牡丹より小《ちさ》きのみ。二物、共に、關東には、多≪く≫有りて、畿内には、希《まれ》に、之れ、有り。

 

[やぶちゃん注:「山牡丹」なる独立種は本邦には存在しない。ネット検索では、まず、

双子葉植物綱ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 、或いは、その近縁種も含むシャクヤク類の異名

である。次いで、

ツツジ目ツツジ科ツツジ属ヤマツツジ変種ヤマツツジ Rhododendron kaempferi var. kaempferi

の異名

である。しかし、この孰れも、良安に言っている属性は「山牡丹」に当て嵌まらないと思う。まず、彼は「山牡丹の葉は桑の葉に似ており、丸く、粉団花にも似ている」と言っているのだが、前項の「粉團花」で考証した通り、バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis である。しかし、シャクヤクヤマツツジクワコデマリの葉を比べて見たが(総てそれぞれのウィキの画像)、

■クワの葉は――丸くで――センス無くしてデッかくて――びっちり鋸歯がある

  • シャクヤクとヤマツツジの葉は――どっちも細身(シャクヤクが光沢があり、よりスマート。ヤマツツジは控えめでちっこい)で孰れも鋸歯がない

コデマリの葉は――細身だが――ヘナヘナな細身で――鋸葉があるもののクワとは似ても似つかない

シロモノ連中ナノダ! どこにも、親和性は――ナイぞッツ!――というのが、私の結論である。随って、「葉」から種を絞ることは出来ないのである。

 次いで、良安は「山牡丹の花と実は、南天の花と実に似ている」という。ナンテンの・実()は、これだ。

キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

がそれだ。ナンテンの花と実は、シャクヤクにも、ヤマツツジにも似ていない。

 一点だけ、通性があるように見える(植物体の他の部分が、全然、似てないんだから、無理矢理と言ってもよいのだが)のは、ウィキの「ヤマツツジ」に、『果実は蒴果で長さ』六~八『の長卵形で』八~十『月に熟し』、『裂開する。冬でも裂開した果実が枝に枯れ残っていることも多い』とあり、これは、良安の言う「房は短い。落葉しても、子(み)はなおも残っている」というのと見かけは似ている。しかし、私は無論、この「山牡丹」の種候補にヤマツツジを挙げるつもりは、さらさら、ない。東洋文庫訳も、一切、ダンマリである。しかし、良安は、この種を頑強に独立項に掲げ、しかも、酷似するが、「子房」だけは小さい別種「與曾曾女(よそぞめ)」をさえ、挙げているのである。彼が、この「子房」の語を使うのを初めて見たが、植物学的な厳密な器官の意ではなく、ただ、種の入っている果実が、有意に小さいと言っているに過ぎない。

しかし……うん?……この同属別種とする「與曾曾女(ヨソゾメ)」という名前……このプロジェクトで……一回……注で書いたのを思い出したぞッツ?

なんだ!! クソ!!! こいつ! 

マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属ガマズミ Viburnum dilatatum の異名

じゃねえか!!! しかも、

ガマズミは先行する「莢蒾」で同定比定した奴だゾ!

ガックリきた…………そっち……見てくれ……ここまで費やした時間……延べ六時間を無駄にした……

……さて――この良安の言う「山牡丹」と「與曾曾女」の二種は何か――

ウィキの種の「ガマズミ」には、『近縁のコバノガマズミ( Viburnum erosum Thunb.)やミヤマガマズミ( Viburnum wrightii Miq)の葉は』、『比較的』、『細長く』、『先端が尖った楕円形であるので、区別できる(しかし葉は変異が多いため、区別しにくいこともある)』とあるから、この三種のどれか、と言っちまうのが、一番、手っ取り早いが、

日本には、ガマズミ属はウィキの「ガマズミ属」では、『日本には15種ほど自生する』とあって、和名のある種は十七種を挙げてあるものの、その内、当該種ページがあるものは、十二種しかない。しかも、そこには、植物に詳しくはない私でも、名前を見ただけでも、凡そ「ガマズミ」とは、見かけが、ジェンジェン違う種が含まれている(例えば、ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabuki )から、そいつらをいちいち分布検証するほど、俺は奇特な人間じゃねし!

別に「一般社団法人日本植木協会」公式サイト「理想の植木を見つけに行こう!」の「【ナショナルプランツ コレクション】ガマズミ2」には、『ガマズミの仲間(ガマズミ属Viburnum L.)は世界で150種以上あり、日本には主に12種が生育している』(学名が斜体になっていないのはママ)ってあるし!

最も信頼出来る「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「がまずみ」でも、明快な種同定に至り得る記載は、ない。

……これ以上、種同定する気は――最早――ないね――悪しからず――

2024/10/23

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (宝曆十一巳年東將軍家御上使有ける時武江の數輩子安櫻の產婦に奇なるを聞て……) / 「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注~了

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。なお、本篇は、前話を受けているので、直にこの記事に来られた方は、前話を読まれんことを強くお薦めする。

 本篇を以って、「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注を完遂した。

 

 宝曆十一巳年[やぶちゃん注:一七六一年。前年に徳川家治の治世となった。]、東將軍家、御上使(おんじやうし)有(あり)ける時、武江(ぶかう)の數輩(すはい)、

「『子安櫻(こやすざくら)』の、產婦に奇なる。」

を聞(きき)て、妄(みだ)りに、樺皮(かばかは)を剥取(はぎとり)ければ、今年より、枯木と[やぶちゃん注:底本は「の」。国立公文書館本100)で訂した。]成りて、翌年の春より、枝葉を不出(いださず)。

 惜(をし)むべし。

 彼(かの)枯木の梢上(こづえのうへ)に、自然(おのづ)と生(しやう)ずる櫻葉(さくらば)有(あり)て、社司(しやし)等、地に、おろし、植付置(うゑつけおき)ける。

 

[やぶちゃん注:「樺皮」桜の木の皮の赤みを帯びた黄色を指している。特にその色を持つのは、バラ目バラ科サクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura であるから、ここで初めて(まあ、前話の生じた経緯から推して、普通はそうだろう)、「子安櫻」の樹種が判明した。しかしながら、現在の「兒安花神社」(ストリートビュー)は殺風景で、桜の木は、ないようだ。

   *

 なお、最後に言っておくと、私は高校時代、三年間、地理を受講し、地理Bまで修了した大の地理好きであり、ネットの地図・古地図を駆使して考証することは、楽しみでさえあるのである。しかも、高知県は私が直に足を踏み入れたことがない、数少ない県なのである(他には米原駅で乗り換えしたことは何度もあるが、滋賀県が未踏で、新幹線で通過することは何度もあるが、やはり未踏であるのが、茨城県。合せて、この三県だけである)。高知県は大学一年の夏、鹿児島の祖父の見舞いの帰りに、祖谷渓を目指したが、大歩危で台風に接近され、何にも見ずに(室戸岬まで行くはずだった)、卒論のために尾崎放哉終焉の地、小豆島へ向かって三泊した、少し苦い思い出のある場所なのであった。それだけに、イメージで高知を楽しんだ。死ぬ前には、行くぞ!!!

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (同書に云子安の櫻中の宮前左の方に靑々たる櫻木花時芥々として觀賞他に異り……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。今回は引用部に「――」を用いた。なお、「同書」とは、前話の甲把瑞益の著「仁井田郷談(にゐだがうだん)」を指す。同書については、そちらの私の注を見られたい。]

 

 同書に云(いはく)、

――子安(こやす)の櫻、中の宮前(なかのみや)、左の方(かた)に靑々たる櫻木、花時(はなどき)、芬々(ふんぷん)として觀賞、他(ほか)に異(ことな)り、行客(かうきやく)、步(あるみ)を止(とどむ)るの、名木、あり。[やぶちゃん注:前話に出た、高岡郡四万十町宮内(みやうち)にある高岡神社中ノ宮(三の宮)の脇に、「兒安花神社」(読みがどうやっても見出せないので、「こやすはなじんじゃ」と清音で読んでおく)がある(総てグーグル・マップ・データ・以下、無指示は同じ)。ストリートビューで確認出来る。御夫婦でお作りになっておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「大的神社」によれば(アドレス内に『koyasuhana』とある)、『この神社は高岡神社の境内社で、高岡神社・中ノ宮の東に隣接して鎮座しています』。『御祭神』は『木花開耶姫命』で、『由緒』(これは画像も張られてある高岡神社社務所の由来解説板から起こされたものである)『「五社のお庭の子安の桜、折って一枝欲しゅうござる」』という歌詞が記されてある。『この唄は、高南の大地四万十町(旧窪川町)で遠い昔から唄い伝えられておりました。この唄は子安神社の桜が美しいから、一枝欲しいと言うだけの意味でなく、安産で子供が健やかに育つ護り神として、霊験あらたかであり、婦女子の尊崇敬慕の心根を表現した唄でございます』。『昔、高岡神社(五社様)の境内に小さな お社が有り、土佐には珍しいしだれ桜がありました。これが子安の宮と唄われた子安神社です。このしだれ桜は、豊臣秀吉が大仏殿の修復のため全国津々浦々に大木の献木を銘じ、土佐の長宗我部元親も命を受けて大木の伐採を行い、当社(高岡神社)でも最大といわれる高さ六十余メートルの大杉を、半山城主津野孫次郎親忠に伐採を命じました。その後、切られた大木の根元は、大地鳴動と共に土中に埋没し、そのあとにぽつりと一本の桜の木がはえ、ある時いずれからともなく白髭の老翁が現われ、その桜を伏拝んでこういいました。『ここに元あった大木は、神木であった。この桜はその木の精である。神の権化である。桜は嬰の木である。即ち子供の守護神であり、安産の神である。尊び崇め祀れ、必ずや』、『ごりやくがある霊験あらたかな神である。』と言って』、『いずことも無く立ち去った。それからは、誰言うこともなく』、『その木を神として拝み、いかなる難産の婦人といえども、その桜の木の葉を護符とすると、不思議に安産したという。しかしこの桜は山内家二代忠義公が、小倉少介政平に命じて五社の五つの社を造営した際』、『慶安五年』(一六五一)年、『藩の武士や人夫が安産の御守りとして、土産に枝を折り、皮をはぎ』、『持ち帰ったため』、『桜は枯れ死してしまった。そこで』、『里人はその桜の枝に小社を造り祀った。これが子安の宮の始である。その宮のほとりに神主が新たに桜を植え』、『後に美しい花を咲かせる大木となったが、これも昭和十四・五年に枯れ、現在』、『社務所前に小木が植えられている。以上が五社神木伝説として伝え継がれており、安産の守護神、子供の守り神様として、霊験あらたかな神と崇拝され、祈願の人、解願の人のお参りも多く、また縁結びの神様としても霊験あらたかと、近年若い男女のお参りも見られます』とある。]

 抑(そもそも)、此神木(このしんぼく)は、耆老(きらう)[やぶちゃん注:「耆」は六十歳、「老」は七十歳で、年老いて徳の高い人を指す語。]、傳(つたへ)て云(いはく)、

「古へ、『五社の大杉』とて、四州[やぶちゃん注:四国。]無双の大木、有(あり)。或(あるいは)[やぶちゃん注:底本では『本ノ』と右傍注があり、以下の杉の左傍注で『云也』とある。一方、国立公文書館本98)では、『大木有【或一本杉とも云也】』(大木、有り【或いは、「一本杉」とも云ふなり】)とあって、この方が躓かずに読める。]一本杉、其(その)長き事、三十五丈余[やぶちゃん注:百六メートル超。これは神話レベルで、実際にはあり得ない高さである。]【「今[やぶちゃん注:「の」が欲しい。]、仕出原(しではら)の新社「三嶋」の前まで[やぶちゃん注:主語がない。「その木の影が」である。]、とゞきける。」となり。里談、譯傳す〕。】[やぶちゃん注:この『新社「三嶋」とは、高岡神社森ノ宮(最後の「五の宮」の南西直近にある大三島神社のことであろう。兒安花神社からは直線で百八十・四八メートルある。]。

 往昔(わうじやく)、仁井田、浦々の獵舩(りやうせん)・商舶(しやうはく)、渺〻(べうべう)たる海上(かいしやう)、廿四[やぶちゃん注:距離単位がない。通常の海上距離は「里」が用いられるが、それでは、九十キロメートル超で誇大表記としてもおかし過ぎる(まあ、神話レベルだから、あってもいいか)。反対に尋や丈では、ショボくて話にならん。調べたところ、江戸時代の土佐では、時に一里を五十町としていたケースがあることが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のここにあったが、これだと、もっと長大になってしまう。これまで!]程(ほど)を漕出(こぎいだ)し、此大杉、見えける故に、恰(あたか)も、霧海(きりうみ)の南斗(なんと)、夜途(よみち)の北斗(ほくと)に比して、船を漕ぐの助(たすけ)とす。

 然るに、關白秀吉公御時代、慶長二丁酉年[やぶちゃん注:一五九七年。]、洛の大佛殿[やぶちゃん注:方広寺大仏殿。]、御再興、有(あり)けるに、前國司秦元親(はたのもとしか)公[やぶちゃん注:長宗我部元親は自称仮冒(かぼう:偽称に同じ)で「秦氏」を名乗った。]、

「土州の產材を献上せらるべし。」

とて、邦內(くにうち)の神社・寺塔まても、大木の聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]有りけるは、悉(ことごと)く、杣人(そまびと)に仰せて、切出(きいいだ)させらるゝ。髙岡郡へは、津㙒孫次郎親忠に下知せられければ、親忠、此時、本在家郷、尾の川村三瀧社(みたきしや)の神木をも、杣を入れて、切らせられけるに、怪異の事ありければ、親忠、立願(りうぐわん)として、御帶料(おんおびれう)の太刀、三瀧の神社へ、納められ、今に社頭に傳り存(そん)す。同時、五社の大杉をも、切りけるに、切株、五間(ごけん)[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]、有りける。

 扨(さて)も、此大杉は、當社第一の神木なるを、元親公の切(きり)給ひければ、四方の里民、眉を顰(ヒソメ)め[やぶちゃん注:ダブりはママ。]、

「神慮も如何(いかが)あるべし。」

と、坐(ざ)に驚(おどろき)けるに、同四己亥年五月十九日、元親公御歲六十一歲、伏見にして、逝去し給ふ。同五庚子年、息(そく)盛親公は石田三成に與(くみ)し、「關ケ原」敗軍の後(のち)、土佐の國、召放(めしはな)され、秦家、一時に滅亡す。

 世は澆漓(げうり)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ぎょうり」。「澆」・「漓」ともに、「薄い」意で、「道徳が衰えて人情の薄いこと」を言う。]に及(およぶ)といへども、天理、未だ有(あり)けるにや、さしも名髙き神木を切らせられける元親公の、三、四ケ年間に、一族、悉く、滅却(めつきやく)し給ひける事、恐るべし。

[やぶちゃん注:「元親公御歲六十一歲、伏見にして、逝去し給ふ」当該ウィキによれば、慶長四(一五九九)年三月から『体調を崩しだし』四『月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在』したが、五『月に入って重』篤『となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は』五月十日『に盛親に遺言を残して』五月十九『に死去した』とある。

『息盛親公は石田三成に與し、「關ケ原」敗軍の後、土佐の國、召放され、秦家、一時に滅亡す』当該ウィキによれば、「夏の陣」で敗走、慶長二〇(一六一五)年五月十一日、『京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された』。『その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして』五月十五『日に京都の六条河原で斬られた』。『享年』四十一。『これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した』とある。]

 扨も、奇也(きなり)ける哉(かな)。其(その)切株、一夜の中(うち)に、百千万人の鯨波(げいは)[やぶちゃん注:大きな叫び声。]、四國中(ぢゆう)、振動し、慶長二年酉十一月十五日夜、上下(うへした)ヘ立反(たちかへ)り、其上に、櫻一本、生出(おひいで)、枝葉も、世の常(つね)ならず。[やぶちゃん注:これは四国を襲った地震と読めるが、データがない。不審。

 然(しか)るに、何地(いづち)ともなく、白髮の老翁、一人、出來(いできた)り、つくづぐと、見給ひて、

「此大杉は、いか成(な)る人のきりけるぞ、神木なるを。又、此きり株、立返(たちかへ)り、櫻の生ひけるは、文字を裁(さい)して孾子(ミドリゴ)の木となるは、子安櫻(こやすざくら)、神變(しんぺん)なり。」

と、告(つげ)て、去りぬ。

 是よりして、「子安櫻」と稱し、

「婦女難產の輩(やから)に、此(この)櫻華(さくらばな)・落葉(おちば)、或(あるいは)、枝・皮等を、社家・神主、加持祓(はらへ)し玉(たまひ)、女(をんな)、水(みづ)を以(もつて)、用(もちひ)るに、立所(たちどころ)に安產する事[やぶちゃん注:この「事」は国立公文書館本99:左丁二行目中央)で補った。]、神妙也(なり)ければ。」

とて、普(あまね)く、國中に流布するのみならず、当時、施(ほどこし)て[やぶちゃん注:国立公文書館本99)では「施」に「シヒ」とルビする。「施」には「しく・おこなう・もうける・ゆきわたらせる」の意があるので、「行き渡らせる」の意であろう。]、本邦[やぶちゃん注:「本州」のことであろう。]に及べり。

 かゝる怪異の事、ありければ、大杉は、元親公の献上をも停(と)め玉(たま)ひ、切棄(きりすて)にして、御當代(おんとうだい)、慶安の御再興の時にまで、年數、五十六年が其間(そのあひだ)、棄置(すておか)れしかば、長き事は、古老、

「見知りけり。」

とぞ。[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げである。]

 「愚祖老元周累歲記」に云(いはく)、

『享保六丑八月、岩崎十右衞門、としは、八十七歲也。語(かたりて)、予(よに)、曰(いはく)、

「我(われ)、十八の年のとき、五社、御造營ありけるに、先代元親公の伐られし大杉、今、『子安櫻』のありける所に、本(もと)、ありて、三嶋の前まで、梢(こづえ)、とゞきて、橫たはり居(をり)けるを[やぶちゃん注:「た」は国立公文書館本99)に、朱で傍注があり、『本のたヲ脱スルカ』に随い、「た」を補った。]、小倉少助殿、下知せられ、東川角(ひがしかはづの)斗(ばかり)、岩(いは)、切(きれ)、拔溝(ばつこう)[やぶちゃん注:「地面が抜け落ちて、大きな溝(みぞ)になることか。]しける時の、橋に渡し、溝、切り拔(きりぬ)きける[やぶちゃん注:「有意な溝を渡れるようにした」の意か。]。」

よし、語る。

 渠(かれ)[やぶちゃん注:「彼」に同じ。この語った「岩崎十右衞門」を指す。]、天性、聊(いささかも)不說虛妄(きよまうをとかず)。その事、實跡(じつせき)、うたがひ、なし。」

と、あり。

[やぶちゃん注:「愚祖老元周累歲記」不詳。

「享保六丑」一七二一年。

「岩崎十右衞門、としは、八十七歲也」彼は寛永一二(一六三五)年生まれ。

「十八の年のとき」慶安五・承応元年。一六五二年。

「東川角」現在の四万十町東川角(グーグル・マップ・データ)。現在の仁井田の東に接し、南に高岡神社群がある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (甲把瑞益仁井田郷談に曰五社は先代一條家御再興の後年を歷て傾廃し……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。今回は引用部に「――」を用いた。]

 

 甲把瑞益(かつぱずいえき)「仁井田郷談(にゐだがうだん)」に曰(いはく)、

――五社(ごしや)は、先代一条家御再興の後年を歷(へ)て、傾廃し、天正十一年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一五八三年。]の春、元親公、御興起(ごこうき)ありにしより、このかた、慶長五年[やぶちゃん注:一六〇〇年。但し、長曾我部元親の病死は慶長四年五月で、誤りである。]、御滅亡ありければ、誰(たれ)、修造、加(くは)ふべきもなく、御當代、慶安[やぶちゃん注:一六四八年から一六五二年まで。]の御再興まで、其間(そのかん)、凡(およそ)、曆數、七十年に及びければ、社頭の軒端(のきば)は、いたづらに、狸鹿(りろく)の栖(すみか)と荒果(あれは)て、神器(しんき)も、大半、破壞しけるを、太守忠義公、絕(たえ)たるを、繼(つ)ぎ、すたれたるを、起(おこ)し玉へる御志(おんこころざし)ふかく、をはしましければ、此社(こやしろ)も再興なさしめ、神寳を補ひ、莊嚴(しやうごん)を磨(みがか)しめ玉ひける。

 其(その)由來を推原(たづぬ)れば、將軍秀忠公の御三男に、駿河大納言忠長卿より、御宻談の爲、諸國の大名、御饗應あり。

 忠義公[やぶちゃん注:底本では敬意のための二字の空白があって、たまたま次の丁の行頭に配されてある。]も召(めし)に應じて、

「明日(みやうにち)、御出席あるべし。」

と、兼約(けんやく)し玉ひける。

 其夜(そのよ)、御睡眠(おんすいみん)ありける御夢中(おんゆめなか)に、白髮の老翁、御枕神(おんまくらがみ)[やぶちゃん注:「神」はママ。]に立(たた)せ玉ひて、

「我は、則(すなわち)、土州(としう)の髙き岡山(をかやま)の末(すゑ)に齋(いつか)れし仁井田五社也。汝が明日の出席を止(と)むべき爲(ため)に、今、爰(ここ)に現(げん)せり。若(もし)、今、此席(このせき)に會(くわい)せば、国を失ひ、家、滅ぶべし。汝は、則(すなはち)、土佐の瑳駝山忠義上人(さたさんちゆうぎしやうにん)、變生(へんじやう)なるに、土佐の國、亂世の後(のり)、芽處(めびきどころ)なれば、此生(このしやう)を撫育(ぶいく)せんと、假-令(かり)化現(けげん)ける[やぶちゃん注:「化現け」の右に「本ノマヽ」と傍注がある。「しける」の脱字。]は、治國淸平(ちこくせいへい)の爲(ため)也。其先(そのせん)、『國土豐饒(ほうぜう)・民生安康』の證據とて、汝が名を『康豐』と稱し、今、其功德(くどく)、積りければ、『忠義』と号しける事、能(よく)明知すべし。」

と、神勅(しんちよく)ありける。

 侯、御夢(おんゆめ)、覺(さめ)させ玉ひ、御近侍に御尋(おたづね)ありけるに、五神社、疑(うたがひ)なければ、暫く、御思惟(おんしゐ)ましまし、卒(にはか)に、「御病氣」の命(めい)あり。忠長卿へも御使(ぎよし)を以(もつて)、「かく。」と言上(ごんじやう)し玉ひ、御醫療を盡(つく)され、其時の御列座(おんれつざ)に免(まぬか)れ給ふ。

 御衆會(ごしゆうくわい)の御大名方(おんだいみやうがた)、御同心の輩(やから)は、自然に露顯し、大半、御家、滅亡しける。

「忠儀[やぶちゃん注:ママ。]第一。」

と、將軍の御覺(おんおぼえ)も他(ほか)に異(ことな)り、

「かゝる不思議の告(つげ)あれば。」

とて、卽(すなはち)、小倉少助(しやうすけ)政平(まさひら)に仰(おほせ)ければ、政平、畏(かしこまつ)て、有司數輩(ゆうしすはい)を召連(めしつれ)られ、斧(ふ)を𢌞(めぐ)らして、不日(ふじつ)に五社の御造營・神器、悉(ことごと)く具(ぐ)したまひける。――

 

[やぶちゃん注:『甲把瑞益(かつぱずいえき)「仁井田郷談(にゐだがうだん)」』サイト「四万十町地名辞典」の『Vol.10 「仁井田郷談」の地名』によれば、「仁井田郷談」は、明和七(一七七〇)年に、『儒者であり』、『医師であった甲把瑞益』(かっぱずいえき)『が、戦国時代を中心にして、仁井田郷の由来、区画検地(石高調査)、仁井田五人衆七人士の居所分限郎従と』、『その興亡を記したもので、郷土史研究の原典ともいうべき貴重な著述である』とあり、「窪川町史」から引用され、『瑞益は元文』三(一七三八)年、『西川角村』(にしかわづのむら)『の郷士の家に生まれ、名を長恒、号を南巣恕行斎』『といった』。『高知城下野町少蘊に医業を学んだ後、京都の日本近代医学中興の祖といわれる吉益東洞の門下生となる』。『瑞益の学問は和魂漢才、儒学、医業等あらゆる学問に通じていた。医術に特にすぐれ、かつて医術行脚のため』、『各国をまわり、紀州では、花岡瑞軒に「日本国中に自分に優る医者が一人いる。それは土州の瑞益である」といわしめた』。『瑞益は土佐に帰り、幡多郡佐賀村から妻をめとり、西川角村より東川角村に移り、幡多郡下田に移って医者をしていた』。『瑞益は医者として優れていただけでなく、仁井田郷を実地踏査して戦国時代の歴史本を書いた。これが有名な』「仁井田郷談」と「仁井田之社伝記」『で、今日』、『仁井田郷の郷土史研究の貴重な文献である。文中には「瑞按ずるに」と私見を述べ、不可解なところは「後日正すべし」というように、独断速断をさけて周到な記述をしている』。享和三(一八〇三)年十月四日、六十七『歳で没した。墓は中村の百笑為松山麓に現存している』とある。但し、以下に注があり、彼の『生年に』は元文二(一七三七)『年の説もある』とあり、『生誕地は西川角となっているが、神ノ西説もある。元慶が神ノ西に在郷していたことによるか』とされ、『瑞益の号を町史では「南巣恕行斎」となっているが』、「仁井田郷談解説」(辻重憲著)『は「南崇恕行軒」とある』とある。最後に、『町史では瑞益の没年を「享保三年(一八一八)」と』して『いるが』、『享年から推定するに享和年間ではないか』。同町史の二三〇ページ『の甲把家系図には「享保三年十月没」とある。ただし、長恒の説明書きに誤記が多いことから』、『信憑不明』とある。この「仁井田郷」は、平凡社『日本歴史地名大系』によれば、『高知県』『高岡郡窪川町仁井田郷』で、『高岡郡西南部、四万十』『川上流域の高南(こうなん)台地を中心とした地域の称。仁井田庄とも単に仁井田ともいう。長宗我部検地の結果は天正一六年(一五八八)の仁井田壱斗俵村地検帳一冊と同一七年の仁井田之郷地検帳九冊にまとめられているが、仁井田之郷地検帳の第一冊に「仁井田之庄」とみえるのみで、他は仁井田之郷となっている。これらの地検帳によると』、『郷域は現』在の『窪川町全域と』、『中土佐』『町の一部にあたる』。『足摺の金剛福(あしずりのこんごうふく)寺(現土佐清水市)供養の奉加官米を「幡多庄官百姓」に割当てたときの正安二年(一三〇〇)一一月日付左大将一条内実家政所下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「仁井田山参斛五斗」とみえるので、古くは一条氏領幡多』『庄(現中村市・幡多郡など)に含まれていたことが知られる。仁井田之郷地検帳の宮内(みやうち)村・仕出原(しではら)村・川津野(かわづの)村に足摺分四一町六反余が打出されているのは、金剛福寺に寄進された幡多庄「仁井田山」の名残といえるかもしれない。応安四年(一三七一)後三月一三日付の足利義満御教書(長福寺文書)には「幡多庄仁井田村内新在家」とあり、仁井田村とよばれたこともあったようである。この地域が』、『いつのころから幡多庄に属したかは不明であるが、建長二年(一二五〇)一一月日付の九条道家初度惣処分状(九条家文書)にみえる幡多庄の加納地「久礼別符」が現中土佐町久礼(くれ)付近に推定されており、「久礼別符」の成立と大いに関連すると考えられる』とあった。現在の狭義の高岡郡四万十町仁井田はここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)であるが、ここで語られている「五社」は、現在の「高岡神社」で、「一の宮」から「五の宮」まで、総てが、四万十町仕出原(しではら)にある。但し、「五社」の「一の鳥居」は、ずっと北北東の四万十町西川角のここにある(鳥居は現在の仁井田の東直近、五社は南西に当たる。

「先代一条家」小学館「日本大百科全書」の「一条家」によれば、『藤原氏北家』、『五摂家』『の一つ。鎌倉時代の初め、実経(さねつね)が父九条道家』『から』、『所領と邸宅を譲られたことから始まる。この邸宅が一条室町』『にあったことから一条殿といわれ、家名となった。代々摂政』・『関白』『に任ぜられ、近衛』『家、九条家などとともに、公家』『でも重きを置いた。室町中期の兼良(かねら)は学者としても名高い。兼良の長子教房(のりふさ)は戦乱を避け、家領土佐国』『幡多荘(はたのしょう)に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家といわれ、戦国大名化したが、長宗我部』『氏に滅ぼされた。京都では教房の弟冬良(ふゆら)が継いだ。兼良の子で興福寺大乗院門跡』『に入った尋尊(じんそん)も有名である。近世初めには、後陽成天皇』『皇子兼遐(かねとお)(昭良(あきよし))を迎え、家名を存続した。明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は忠香(ただか)の三女である。明治維新後、華族に列し』、『公爵を授けられた』とある。

「忠義公」土佐藩第二代藩主山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。当該ウィキによれば、『山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれ』、慶長八(一六〇三)年に『伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る』。同十年、『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長』一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦した。なお、この時』、『預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し、豊臣方に加わるという珍事が起きている』。翌慶長二十年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』慶長十七年に『法令』七十五『条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永』八(一六三一)年『からは』、『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月三日に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「駿河大納言忠長」卿徳川忠長 (慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)世に「駿河大納言」とも称せられる。第二代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。第三代将軍家光の弟。甲府二十万石に始まり、寛永元(一六二四)年、甲斐・駿河などで五十五万石を領し、駿府城に入る。才知にすぐれ、父母に寵愛されたため、家光には、うとまれたとされ、また一六三〇年頃から乱行が目立ったため、寛永八(一六三一)年、甲府に蟄居、翌年、上野高崎城に幽閉され、寛永一〇(一六三三)年、自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。詳しい奇行・乱行は当該ウィキがよい。

「瑳駝山忠義上人」不詳。

「小倉少助政平」天正一〇(一五八二)年~承応三(一六五四)年)は土佐高知藩士。家老野中直継の信任を得て、仕置役を務める。林産資源の活用を企て、輪伐制(森林を区画に分けて、一区画ずつ、順番に、樹木を伐採・植栽し、一巡する頃までには伐採した森林を再生させる林業政策を指す)を導入、留山(とめやま:領主が優良材の確保・財政赤字補填等を目的に、農民による利用を排除し、面的に取り込んで支配下に置いた直轄林のこと)・留木(とめぎ)制(領主が用材確保や森林保全を目的として特定の樹種を指定し、伐採を制限・禁止した制度)を行った。直継の死後は、野中兼山の補佐役として藩政を推進した。]

2024/10/22

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (潮江山のうちに昼魔といふ所有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 潮江山(うしほえやま)のうちに、「昼魔(ひるま/ひりま)」といふ所、有(あり)。

「魔所也(ましよなり)。」

とて、人、常に、行かず。

「此所(ここ)に『鳶石(とびいし)』とて、鳶の踞(うずくま)りたる如き石あり。」

と云(いふ)。

 

[やぶちゃん注:「潮江山のうちに、「晝魔」といふ所、有(あり)」旧「潮江村」(現代仮名遣「うしおえむら」)は、この場合、「ひなたGPS」で示すと、狭義の近代の浦戸(うらど)湾奥部の近世以来の干拓地である「潮江」よりも、遙かに、広域を指す。具体的には、ざっくり示すと、浦戸湾の東側広域の、この中央全体が江戸時代の「潮江村」であった。さて、『この奇体な地名では、ネットでは、位置を調べられないだろうなぁ……』と思いつつ、幾つかの漢字をフレーズで組んで検索したところ、驚くべきことに、二種の、本篇の地名と酷似する資料データを見出すことが出来た(太字は私が附した)。一つは、『四万十町地名辞典付属資料』と称する『394010高知市の字一覧』(PDF)で、その『地域コード』の『3881』の15潮江114に『大字』『深谷町』『ふかだにちょう』内に『昼魔ヶ谷』『ひるまがたに』とあった。今一つは、同じくPDFで、『四万十町地名辞典資料』の『高知県の地名(書籍・記事索引)』で、ページでは『40/142』にある『№』『2987』に、『ひまがたに』『昼魔ヶ谷』・『コード』『39403』とし、『高知市』とし、『地検帳に「ヒルマ」とある。潮入地(不干沼・ひぬぬま)が干拓された昔面影を残す地名』という解説があり、出典を「土佐地名往来(高新)」とする。この二つを、総合して見ると、潮江村の『潮入地(不干沼・ひぬぬま)が干拓された』というのは、戦前の地図の、この水田部分を指している。而して「深谷町」は、国土地理院図で見てもらうと、この干拓地の南方のこの山間部に相当する。この岬の根本部分は、「宇津野山」(標高二百五十八メートル)・「鷲尾山」(同三百六メートル)・「烏帽子山」といった山岳が連なっている。この内、「宇津野山」と「鷲尾山」の間にある谷、或いは、現在の深谷町の谷川の奥の方、北中山地区の丘陵上にある「土佐塾中学・高等学校」のあるあたりのピーク下の谷間が、この魔所「昼魔」の候補地になるのではなかろうか?

「鳶石」不詳。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 粉團花

 

Kodemari

 

てまり   綉毬  繡毬

      玉繡花

粉團花 【天末利】

 

 

遵成八牋及畫譜云有二種 麻葉花開小而色𨕙紫者

[やぶちゃん字注:「遵成八牋」の書名は「遵生八牋」の誤りであるので、訓読では訂した。「𨕙」は「邊」の異体字。]

爲最 白粉團卽綉毬也宜種牡丹臺𠙚與牡丹同開爲

襯色甚佳俱用八仙花種於盆內削去半𨕙架起就接

[やぶちゃん注:「起」は「己」が「夬」となっているが、このような異体字は見当たらないので、「起」とした。]

三才圖會云繡毬花甚繁簇成如毬故以名用八仙花接

故枝昜生。

△按粉團花木高五七尺葉似箱根楊櫨而團皺文四月

[やぶちゃん字注:「櫨」は、底本では、(つくり)が「恵」の上部のような字の下に「思」の字が配されたものであるが、このような異体字は見当たらないので、正字で示した。]

 開花初淡青色後正白小花攅簇團二三寸如毬可分

 種可揷枝未見接成者也紫陽花亦名紫綉毬與此不

 同【紫陽花 草之屬 粉團花 木屬】

 

   *

 

てまり   綉毬《しうきう》  繡毬《しうきう》

      玉繡花《ぎよくしうくわ》

粉團花 【「天末利《てまり》」。】

 

 

「遵生八牋《じゆんせいはつせん》」、及び、「畫譜」に云はく、『二種、有り。≪一種、≫「麻葉花《まえふくわ》」は、開くこと、小《ちいさく》して、色、𨕙《はし》、紫なる者、最≪上≫と爲す。』≪一種、≫『「白粉團《はくふんだん》」は、卽ち、「綉毬」なり。宜《よろしく》、「牡丹《ぼたん》」の臺《だい》[やぶちゃん注:「うてな」ではなく、台地(専用に築き上げた台型の地面)の意である。]の𠙚に種《う》ふべし。「牡丹」と同《おなじ》く開《ひらき》、襯色《はだぎいろ》[やぶちゃん注:肌着色。綺麗な白色であろう。]と爲《な》して、甚《はなはだ》、佳なり。俱に、「八仙花」を用《もちひ》て、盆の內に種《うゑ》て、削去《けづりさ》り、半𨕙《はんえん》[やぶちゃん注:幹の「片方」。]を架-起《かけおこ》して、就-接《つ》ぐ。』≪と≫。

「三才圖會」に云はく、『繡毬花、甚《はなはだ》、繁《しげ》く、簇-成《むらがりなり》、毬(てまり)のごとし。故、以つて名づく。「八仙花」を用ひて、故枝《ふるえだ》に接(つ)げば、生《しやうじ》昜《やすし》。』≪と≫。

△按ずるに、粉團花は、木の高さ、五、七尺。葉、「箱根楊櫨(《はこね》うつぎ)」に似て、團《まろ》く、皺文《しはもん》あり。四月、花を開く。初《はじめ》は、淡青色、後《のち》に正白≪たり≫。小《ちさ》き花、攅-簇(こゞな)りて[やぶちゃん注:小さな花が群生して。]、團《まろ》さ、二、三寸。毬(てまり)のごとし。分《わ》け種《うう》べし。枝を揷《さ》すべし。未だ接ぎ成《なす》者、見ざるなり。紫陽花(あぢさいのはな)も亦、「紫綉毬」と名づく≪も≫、此れと同じからず【「紫陽花」は、「草」の屬。「粉團花」は、「木」の屬≪なり≫。】。

 

[やぶちゃん注:この「粉團花」に限っては、日中ともに、

双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ヤブデマリ変種 ヤブデマリ Viburnum plicatum var. tomentosum

これは、前項「椐」と同種となるので、そちらの私の注を参照されたいが、しかし、良安の図は、比較するに、全く異なっている。されば、良安が比定した「粉團花」は、恐らく、

バラ目バラ科シモツケ亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis

と考えられる。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『コデマリ』の漢字表記は、『小手毬』『別名、スズカケ。中国名は麻葉繡球。中国(中南部)原産で、日本では帰化植物』である(渡来時期は諸説あるが、少なくとも江戸時代より以前に渡来していることは明らかである)。『庭や庭園に植えられる』(全体画像)。『落葉低木で、高さは』一・五メートル『になる。幹は叢生し、枝は細く弓なりに枝垂れる。樹皮は灰褐色で皮目があり、枝は表皮が剥がれやすい。生長すると縦に筋ができる。若い枝は暗紅色で無毛である。葉は互生し、葉先は鋭頭で、形はひし状狭卵形になる』。『花期は春(』四~五『月)。白の小花を花序に集団で咲かせる。この花序は小さな手毬のように見え、これが名前の由来となっている。果実は散房状につき、果柄は下部が長い。果序は冬でも残ることがある。冬芽は卵形で褐色、芽鱗は縁に毛があり多数(』十二~十五『枚)が重なる。側芽が枝に互生する。葉痕は半円形で突き出し、維管束痕が』三『個』、『つく』。『日本では、よく庭木として植えられている』。『変種に八重咲きのヤエコデマリ』(Spiraea cantoniensis f. plena )『がある』。『一重の花(普通種)』の画像、及び、『八重の花(変種)』の画像。「他科の名前の似た種」項に、『オオデマリ』(キク亜綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ヤブデマリ変種オオデマリViburnum  plicatum var. plicatum f. plicatum )『・ヤブデマリという名前が似ている植物があるが、これらはスイカズラ科』Caprifoliaceae『で』あって、『本種と類縁ではない』と注意喚起されてある。但し、困ったことに、この次の次の項が「小粉花團花」で、良安の解説だけで記されているのである。そこで、また、一応、考証しなくてはならない。

「遵生八牋《じゆんせいはつせん》」(じゅんせいはっせん)は、明の高濂(こうれん)の著になる随筆。全二十巻。万暦 一九(一五九一) 年の自序がある。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百人の事跡が記されており、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。引用は、「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』の同書の「卷十六」の「燕間清賞牋下」のガイド・ナンバー[016-8b]以下の「粉團花二種」のパートからである(多少、手を入れた)。

   *

  粉團花二種

麻葉花開小而色邊紫者爲最其白粉團卽繡毬花也宜種牡丹臺處與牡丹同開用為襯色甚佳俱用八僊花種於盆内削去半邊架起就接

   *

「畫譜」既出既注だが、再掲すると、東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。こちらは原本がネット上では見られない。

「麻葉花《まえふくわ》」これは、「紫なる者」とあることから、コデマリとは縁も所縁もない、キク亜綱キク目キク科キク亜科シオン属ミヤマヨメナ Aster savatieri  園芸品種 Miyamayomena savatier (ミヤマヨメナと同学名とする説もある。その場合は、Aster savatier Miyamayomenaとなるか)である。

「綉毬」ここで引用の不審部分が明確に判る。良安の指摘が大当たりなのである! これは、中国で、ミズキ目アジサイ科アジサイ属アジサイ節アジサイ亜節アジサイ Hydrangea macrophylla の別名である。以下に出る「八仙花」もアジサイの異名である。「維基百科」の同種の「球花」を見よ。則ち、「遵生八牋」と「畫譜」にあるのは、「二種」というのには、コデマリは、含まれていないと断定してよいのである。

「牡丹《ぼたん》」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa 

『「三才圖會」に云はく、『繡毬花……』東京大学の「三才図会データベース」で、当該画像をダウンロードし、当該「繡毬花」のみをトリミングして、画像の向きを微修正した上、汚損と判断したものを清拭したものを以下に示す。これは、明らかにアジサイである。

 

Sansaizuesyukyuuka

 

「箱根楊櫨(《はこね》うつぎ)」マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ Weigela coraeensis 詳しくは当該ウィキを見られたいが、漢字表記は『箱根空木』で、『別名でベニウツギ』・『ゲンペイウツギ』『ともよばれる。ゲンペイは源平で、すなわち花の色が』、初め『白色だが』、後に『紅色になることから』、『そう呼ばれる』。『標準和名は、箱根に多いとして付けられた名であるが、箱根に限らず』、『日本列島の太平洋側に自生している』。『ウツギは漢字で卯木あるいは空木と書くが、卯木は卯月(陰暦』四『月、陽暦』五『月)に咲くからといわれ、空木は小枝が中空なのでその名がついたものである』とあった。

『「紫陽花」は、「草」の屬。「粉團花」は、「木」の屬≪なり≫』これは、現代の植物学では誤り。両者は、ともに落葉低木の一種である。まあ、最近では、この木本・草本の分類自体が確然たる分類群としては流行らなくなっているけれども。]

2024/10/21

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 椐

 

Yabudemari

 

やぶてまり   靈壽木

        扶老杖

【音居】  【和名閉美】

        俗云吾祢豆

やぶてまり   又云藪粉團花

        又云以保太

 

本綱椐生山谷其木似竹有節圓長皮紫長不過八九尺

圍三四寸自然有合杖制不須削理作杖令人延年益壽

詩䟽云椐卽樻也節中腫卽今靈壽木也作杖及馬鞭漢

書云孔光年老賜靈壽杖者是也

△按椐丹波山谷有之高者七八尺徑寸許直上如竹嫩

 木皮微紫色着葉處有節其間二三寸或四五寸中心

 有纎孔經年者堅實而堪爲杖葉團尖有鋸齒皺文似

 粉團花葉三四月開小白花攅生亦似粉團花而小踈

 以接粉團花枝詩大雅云其檉其椐攘之剔之之椐者

 卽是也

 

   *

 

やぶてまり   靈壽木《れいじゆぼく》

        扶老杖《ふらうじやう》

【音「居」】 【和名、「閉美《へみ》」。】

        俗、云ふ、「吾祢豆《ごねづ》」。

やぶてまり   又、云ふ、「藪粉團花《やぶてまり》」。

        又、云ふ、「以保太《いぼた》」。

 

「本綱」に曰はく、『椐《きよ》、山谷に生ず。其の木、竹に似《にて》、節《ふし》、有り。圓長《まろくながく》して、皮、紫。長さ、八、九尺に過ぎず。圍《めぐり》、三、四寸。自然に、杖《つゑ》の制《せい》に合ふ[やぶちゃん注:「製造基準にぴったりと一致する」の意。]、有り。削理《けづりととのふこと》を須(もち)ひずして、杖を作《さく》して、≪しかも≫、人をして年《とし》を延《のべ》、壽《じゆ》を益せしむ。「詩」の「䟽《そ》」に云はく、『椐は、卽ち、樻《き》なり。「節の中、腫《こぶ》≪あり≫。」≪とあるは≫、卽ち、今の靈壽木なり。杖、及び、馬の鞭《むち》に作《な》す。』≪と≫。「漢書」に云はく、『孔光《こうくわう》、年、老いたり。靈壽杖《れいじゆぢやう》を賜ふ。』とは、是れなり。』≪と≫。

△按ずるに、椐、丹波≪の≫山谷に、之れ、有り。高《たかき》者、七、八尺。徑《わたり》、寸許《ばかり》。直《す》ぐに上《のぼ》り、竹のごとし。嫩木(わか《ぎ》)の皮は、微《やや》紫色。葉の着く處、節、有り。其の間《かん》、二、三寸、或いは、四、五寸。中心に纎《ほそ》き孔《あな》、有り。年《とし》を經《ふ》る者は、堅實にして、杖と爲《なす》に堪《たへ》たり。葉、團《まろ》く、尖《とが》り、鋸齒・皺文《しはもん》、有り。「粉團花(てまり《ばな》)」の葉に似《にて》、三、四月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。攅《むらがり》、生《しやう》ず。≪花も≫亦、「粉團花」に似て、小≪さく≫、踈《まばら》≪にして≫、以つて、「粉團花」の枝を接《つ》ぐ。「詩」の「大雅」に云はく、『其の檉《てい》 其の椐 之れを攘(かきわ)け 之れを剔(も)ぐ』と云ふの「椐」は、卽ち、是れなり。

 

[やぶちゃん注:「椐」「藪粉團花《やぶてまり》」は、日中ともに、

双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ(松虫草)目レンプクソウ(松虫草)科ガマズミ属 Viburnum plicatum 変種ヤブデマリ(藪手毬) Viburnum plicatum var. tomentosum

である。「維基百科」の当該種は「粉(「」は「團(団)」の簡体字)で、そこでは学名を、Viburnum plicatum としているが、解説の「異名」の項に、『Viburnum plicatum Thunb. var. tomentosum (Thunb.) Rehd』(斜体でないのはママ)とあるので、実はシノニムである。そこには、『分布在日本以及中国大』陸『的』貴『州、湖北等地』『生』長『于海拔200米至1,800米的地区』とある。

 当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『和名は薮のような場所に生え、花序が丸いことに由来する』。『日本の太平洋側の本州(関東地方以西)、四国、九州に分布し、山地や丘陵地に生え、沢などの水辺や湿り気のある林縁に自生する』。『落葉広葉樹の小高木で、樹高』二~六『メートル』『くらいになる。樹皮は灰黒色で、枝が水平に伸び広がるのが特徴的である。一年枝の樹皮は褐色で皮目があり、星状毛が多い。古い枝は黒褐色で皮目が』、『まばらにある。樹皮は古くなってくると色も変わり、裂け目が入ってくる。葉は枝に対生し、形は倒卵形から長楕円形で』五~十六『センチメートル』『ほど、葉の先端は尖り、葉縁は全縁になる』。『花期は』五~六『月で、水平に伸びた枝に上向きに花序を並べて白い花をつける。花序は』一『対の葉の間から出た散房花序で、やや黄色を帯びた小さな両性花が集まる花序のまわりに、白色の大きな』五『枚の花弁の広がった装飾花が縁どる。装飾花は直径』三~四センチ『メートル』の『無性花で』、『花弁だけが広がったものだが、その』五『枚のうち』、一『枚が極端に小さくユニークな形』(同ウィキの画像)『であり、他の似た種との区別がしやすい。おおよそ小さい花弁が花序の内側を向き、花序の外周を大きい花弁が彩る。中心に集まる両性花は直径』五~六ミリメートルである』。『果期は』八『月。果実は長さ』六ミリメートル『の楕円形で、夏に赤く熟し、秋には黒紫色に変わる。果序は枝の上に並ぶように見える』。『冬芽は長楕円形で先が尖り、芽鱗は褐色で』二『枚あり、星状毛が多い。頂芽は側芽よりも大きく、短い柄がある。側芽は枝に対生する。冬芽のわきにある葉痕は、V字形や倒松形で、維管束痕は』三『個』、『つく』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「靈壽木」([088-80a]以下)のパッチワークである。短いので引用する(一部に手を加えた)。

   *

靈壽木【拾遺】

 釋名扶老杖【孟康】椐

 集解藏器曰生劍南山谷圓長皮紫漢書孔光年老賜靈壽杖顔師古注云木似竹有節長不過八九尺圍三四寸自然有合杖制不須削理作杖令人延年益壽時珍曰陸氏詩疏云椐即樻也節中腫似 扶老即今靈壽也人以作杖及馬鞭𢎞農郡北山有之

 根皮氣味苦平主治止水【藏器】

   *

「以保太《いぼた》」この良安が添えた異名は非常に問題がある、というか、誤りである。これは、縁も所縁もない、

シソ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium

を指すからである。同種については、当該ウィキを見られたい。

『「詩」の「䟽《そ》」に云はく、『椐は、卽ち、樻《き》なり。「節の中、腫《こぶ》≪あり≫。」』「詩經」の「大雅」の「皇矣」(「詩經」中、最長の詩。後注参照)の「䟽」(注のこと)を指す。恐らく、呉の陸璣の著になる「毛詩草木鳥獸蟲魚疏」からの抜粋であろう。その「卷上」にある。「中國哲學書電子化計劃」より引く(一部に手を加え、当該部を太字で示した)。

   *

檉河栁生水旁皮正赤如絳一名雨師枝葉如松椐樻節中腫以扶老今靈是也今人以爲馬鞭及杖𢎞農共北山甚有之

   *

「漢書」後漢の班固の撰になる史書。漢の高祖から王莽(おうもう)政権の崩壊に至るまでの全十二代、二百三十年間の前漢の歴史を記述した、中国の正史の一つ。「本紀」十二巻・「表」八巻・「志」十巻・「列傳」七十巻の全百巻。後漢の明帝の永平年間(五八年~七五年)に勅命を受けて、二十余年の歳月を費やし、章帝の建初年間(七六年~八三年)に完成した。当該部は、「卷八十一」の「匡張孔馬傳第五十一」の以下の略述。「中國哲學書電子化計劃」から引く。

   *

十日一賜餐。賜太師靈壽杖【孟康曰、「扶老杖也。」。服虔曰、「靈壽、木名。」。師古曰、「木似竹、有枝節、長不過八九尺、圍三四寸、自然有合杖制,不須削治也。」。】黃門令爲太師省中坐置几、太師入省中用杖、賜餐十七物【師古曰、「食具有十七種物。」。】然後歸老于弟、官屬按職如故。」【師古曰。「言十日一入朝、受此寵禮。它日則常在家自養、而其屬官依常各行職務。」。】。

   *

「粉團花(てまり《ばな》)」バラ目バラ科シモツケ(下野)亜科シモツケ属コデマリ Spiraea cantoniensis当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名、スズカケ。中国名は麻葉繡球。中国(中南部)原産で、日本では帰化植物』で、『庭や庭園に植えられる』。『落葉低木で、高さは』一・五メートル『になる。幹は叢生し、枝は細く弓なりに枝垂れる。樹皮は灰褐色で皮目があり、枝は表皮が剥がれやすい。生長すると縦に筋ができる。若い枝は暗紅色で無毛である。葉は互生し、葉先は鋭頭で、形は』菱『状狭卵形になる』。『花期は春(』四~五『月)。白の小花を花序に集団で咲かせる。この花序は小さな手毬のように見え、これが名前の由来となっている』(同ウィキの画像)。『果実は散房状につき、果柄は下部が長い。果序は冬でも残ることがある。冬芽は卵形で褐色、芽鱗は縁に毛があり多数(』十二~十五『枚)が重なる。側芽が枝に互生する。葉痕は半円形で突き出し、維管束痕が』三『個』、『つく』。品『種に八重咲きのヤエコデマリ』(Spiraea cantoniensis f. plena)『がある』とある。

『「詩」の「大雅」に云はく、『其の檉《てい》 其の椐 之れを攘(かきわ)け 之れを剔(も)ぐ』』既に示した「皇矣」は「詩經」最長であるので、全体は「中國哲學書電子化計劃」のここで見られたい。ここはその第二連である(一部の表記に手を加えた)。

   *

作之屛之、其菑其翳。

脩之平之、其灌其栵。

啟之辟之、其檉其椐。

攘之剔之、其檿其柘。

帝遷明德、串夷載路。

天立厥配、受命既固。

   *

全訳はサイト『崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座』の「皇矣(引用51:周建国伝説)」を見られたいが、当該連は以下のように訳されておられる。太字は私が必要なため、附したものである。

   《引用開始》

 元々周の地は狭隘な地であったが、

 文王はそれらを開拓された。

 除いたのは枯れ木、倒木である。

 よく地ならしし、整地しされた。

 除いたのは灌木や小木である。

 生い茂る木々を切り開く。

 除いたのはギョリュウ、ヘミである。

 剪定によって木の形を整える。

 対象はカラクワ、ヤマグワである。

 天帝は殷より去り、文王に付かれた。

 そのため蛮夷も文王を恐れた。

 こうして文王に天命が下された。

   《引用終了》

この「ギョリュウ」は御柳で、ナデシコ目ギョリュウ科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis当該ウィキを参照されたい。「ヘミ」は本ヤブデマリの別名である。しかし、以上から判る通り、良安は句のセットを間違えており、トンデモ引用になってしまっているので、注意されたい。

 なお、「漢籍リポジトリ」が三日間に渡って接続出来なかったため、ポストをやめざるを得なかった。]

2024/10/20

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (元祿年中吾川郡中嶋村の郷士二淀川原にて……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 元祿年中[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]、吾川郡(あがはのこほり)中嶋村(なかじまむら)の郷士(がうし)、二淀川原(によどがはら)にて、丸き五寸斗(ばかり)の川原石(かはらいし)の、色、黃を帶(おび)て、甚(はなはだ)、見事なるものを拾ひ來りて、愛翫せり。

 然(しかる)に、此石、夜〻(よよ)、薄き烟(けむり)の如き、氣(き)、出(いで)て、空へ登る程、廣く成(なり)、天を覆(おほ)ふが如し。一在所(ひとざいしよ)の人〻(ひとびと)、奇異のおもひをなしけるに、六、七日以後(いご)、此石、鳴動して二ツに裂(さけ)て、其內(そのうち)より、小(ちさ)き守宮(やもり/ゐもり)の如くなるもの、出(いで)て、庭前の土用竹(どようだけ)に上(のぼ)ると見へ[やぶちゃん注:ママ。]けるが、忽(たちまち)、風、吹來(ふききた)り、小雨(こさめ)、降(ふり)て、行所(ゆくところ)を不知(しらず)。

 古老、いふ、

「是(これ)は、龍(りゆう)の、こもれる石也(なり)。」[やぶちゃん注:「と。」が欲しい。]

 

[やぶちゃん注:「吾川郡中嶋村」現在の土佐市中島(グーグル・マップ・データ)。

「郷士」何度も既出既注だが、再掲しておくと、土佐藩では、藩の武士階級として「上士」・「郷士」という身分制度があり、「郷士」は下級武士で、暮らし向きもひどく貧しいものだった。但し、後の幕末の、土佐勤王党の武市半平太や坂本龍馬などの志士が現れている。

「守宮(やもり/ゐもり)」「近世民間異聞怪談集成」では、編者によって『いもり』(ママ)とルビが振られている。歴史的仮名遣の誤りは目を瞑るとして、納得は出来る。実際に、「守宮」を「ゐもり」と読むケースは近代以前の作品で頻繁に出るからである。私の怪奇談の電子化にも頻繁に見られるからである。例えば、ウィキの「守宮(妖怪)」の脚注の「3」で、『イモリ』(両生綱有尾目イモリ上科イモリ科 Salamandridae のイモリ類)『とヤモリ』(爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類)『は形や大きさが似ているため、かつての日本ではこれらの区別が曖昧であり、本来ヤモリを指す「守宮」を「いもり」と読む例が多々見受けられた』と、「イモリと山椒魚の博物誌」(動物学者碓井益雄著・一九九三年工作舎刊)から引いている。本篇も川原で拾った石であるから、作者が「いもり」として書いた可能性は、確かに、あり得る可能性はあり、その可能性は寧ろ、高いとも言えるかも知れない。しかし、私は、やはり、個人的には、従えない。そこで並置しておいた。なお、そのウィキで紹介されている、私の電子化注「伽婢子卷之十 守宮の妖」(「ゐもり」と読んでいる)を参照されたい。

「土用竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ホウライチク(蓬莱竹)属ホウライチク Bambusa multiplex の異名。当該ウィキによれば、『多年生常緑竹で』、『地下茎を伸ばさず』、『株立状となるため』、『バンブー類』(bamboo【英語の「竹」とは異なる植物学的種群を指す語であるので注意】:タケ類の内、分蘖(ぶんけつ:イネ科 Poaceae などの植物の内、根元付近から、新芽が伸びて、株分かれする性質を指す)で増えるもの)『に分類される。東南アジアから中国南部にかけての熱帯地域を原産とし、桿』(かん:大型のイネ科植物の内、メダケ・ネザサ・アイアシなどの茎を指し、しばしば木化する)『の繊維を火縄銃の火縄の材料とするため』、『日本へ渡来し、中部地方以西に植栽されている』。『桿の高さは』三~八『メートル程、直径は』二~三センチメートル、『節間は』二十~五十センチメートル『と長く、節からは多くの小枝が束状に出る。葉は枝先に』三~九『ずつで』、『やや密に束生し、長さ』六~十五センチメートル『の狭披針形で』、『先は鋭く尖り、葉脈は平行脈のみで、横脈を欠く。タケノコは初夏から秋にかけて出る』。『桿が肉厚で重く』、『水に沈むことからチンチク(沈竹)、タケノコが夏に生えるので土用竹、高知ではシンニョウダケとも呼ばれる』。以下、「変種・品種」の項で十種が挙げられてあるが、省略する。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (伊㙒村に鍛冶が谷といふ所あり……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 伊㙒村に「鍛冶(かぢが)が谷(たに)」といふ所あり。

 「杉本大明神」、昔、この所に、あり。後、今の地へうつす。

 此「鍛冶が谷」に小(ちさ)き谷川、あり。

 此川に住む虫・魚(うを)の類(たぐひ)、皆、「一眼(カンヂ)」也。

 「鍛冶が谷」といふは、「一眼(かんぢ)が谷」なるべし。

 

[やぶちゃん注:「伊㙒村」これは現在の吾川郡いの町の、この附近(グーグル・マップ・データ)が狭義の旧村である。「ひなたGPS」を見ても、「鍛冶が谷」は見当たらないが、対岸の旧『川內村』、現在の日高村に「鍛冶屋(かじや)」「奥谷(おくたに)」「木屋ヶ谷(こやがたに)」の地名が、現在もある。ここと関係があるかどうかは別として「谷」は清音で添えた。

「杉本大明神」これは現在の吾川郡いの町大国町の仁淀川左岸にある「椙本神社」(すぎもとじんじゃ)である。公式サイトの「由緒」によれば、『祭神の事蹟は寛文六年(1666年)の仁淀川洪水で古記録が流失したため』、『明瞭を欠いておりますが、大和の国三輪から神像を奉じて、阿波を経て吉野川を遡り、伊予国東川の山中に至り、その後、仁淀川洪水の時に河畔に流着したのを加治屋谷に斎き祀ったといわれております』。『社伝によりますと創祀の時は延暦十二年(793年)であると伝えられています』。『その後、元慶年間(880年代)に現在地へ祀られるようになりました』。『いのの大国さまと称されて古くから上下の信仰を受けていますが、慶長九』(一六〇四)『年、山内一豊が参詣した時、籾五俵を奉納する旨の一豊直筆の文書が現存し、それ以来、社殿の造営は手元普請となり』、『江戸時代に六回の修築が行われました』とある。漢字表記が違うが、この『加治屋谷』というのは、現在の日高村「鍛冶屋(かじや)」と北西直近の「奥谷(おくたに)」を合わせた旧称のように思われる

「一眼(カンヂ)」この読み、不詳。「ガンヂ」(ガンイチ:眼一)かとも思ったが、底本では、滅多に濁点を打たないのに、この読みは「ヂ」とちゃんと打ってあるので、それではない。私は、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で、柳田國男の「一目小僧その他」を電子化注してあるが、この神社の話は採録されていない。椙本神社の片目の動物の話もネット上には載らない。万事休す。識者の御教授を乞うものである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (朝倉村に楠崎の渕といふ有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 朝倉村に「楠崎の渕」といふ有(あり)。

「此渕に、昔、大䖳(だいじや)、住めり。」

と、いふ。

 

[やぶちゃん注:「朝倉村」現在の高知市朝倉(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)附近。鏡川右岸。

「楠崎の渕」「ひいなたGPS」で調べたが、「楠崎」も「淵」も見出せない。鏡川の淵であることは確かである。国土地理院図を見ると、対岸に「岩ヶ淵」(高知市岩ヶ淵)という地名がある辺りの対岸か。しばしば、民俗社会では、村が変わると、同じ淵を別な名を附すことがある。なお、関係があるかどうかは不明だが、朝倉東町と直近の朝倉横町に「朝倉くすのき保育園」及び同「分園」がある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (江ノ口村に柳が渕と云ふ所あり……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 江ノ口村に「柳が渕」と云ふ所、あり。

「昔、此淵にて、女(をんな)、身を投げて、死す。」

と、いふ。

 今は、侍屋敷、又、奉公人の住居(すまゐ)の地と成れり。

「百年以前までは、其(その)人家の座敷へ、深夜に、下げ髮(がみ)したる女、出(いで)ける。」

と也(なり)。

 今は、此事、なし。

 

[やぶちゃん注:「江ノ口村」現在の高知城跡東北一帯の高知市江ノ口町(えのくちちょう:グーグル・マップ・データ)。

「柳が渕」旧村域がよく判らないので、この淵、村域の南北に流れる江ノ口川か、久万川(くまがわ)か、判らない。「ひなたGPS」の戦前の地図の「江口」を見るに、久万川の方が幅が広く、蛇行している箇所が北直近にあり、淵があって然りといった気はするが、江の口川周辺の城寄りは、早くから城下町として整備された地域であり、「今は、侍屋敷、又、奉公人の住居(すまゐ)の地と成れり」とあることから、「江ノ口川」と断定する。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (五臺山の尾崎に法師がはなと云ふあり……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 五臺山(ごだいさん)の尾崎(をさき)に「法師がはな」と云ふあり。

 古(いにしへ)、此國の太守、此山に入(いり)て、狩(かり)したまふに、一つの大鹿(おほじか)、出(いで)けるを、

「射(い)玉はん。」

と、するに、忽(たちまち)、此鹿、大法師(だいほふし)と成(なり)て、此所(ここ)に隱れぬ。

 夫(それ)より、「法師がはな」と、呼來(よびきた)れり、とぞ。

[やぶちゃん注:『五臺山(ごだいさん)の尾崎に「法師がはな」と云ふあり』の「五臺山」は地名。現行ではここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)。「尾崎」は地名ではなく(五台山の村の南の東に「尾崎神社」「尾崎公園」があるが、ここは、調べたところ、旧「五臺山村」の村域ではない)、原義の「山の尾根筋の先端」の意で「ひなたGPS」で「法師岬」を確認出来た。高知港湾奥東岸にある「はな」=「鼻」=「岬」である。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (神田村大的大明神の傍に蟹が池と云ふ池有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 神田村(こうだむら)、「大的大明神(おほまとだいみやうじん)」の傍(かたはら)に、「蟹が池」と云ふ池、有(あり)。

 此(この)池、昔(むか)し、甚(はなはだ)深き渕(ふち)也。

 此池の端(はし)に、蹈石(ふみいし)の如き、蟹、住めり。

 或時、所の婦人、此池へ、洗濯に來(きた)りて、

『蹈石。』

と、おもひ、蟹の甲(かふら)に登りぬ。

 蟹、暫(しばらく)有(あり)て、池中(いけなか)に入(い)らんとするに、此女(このをんな)も、ともに、沈(しづま)んとす。

 農夫、是を見付(みつけ)て、引上(ひきあげ)たり。

「蟹は、此池の主(ぬし)。」

と、いひ傳ふ。

 今は、此池、淺く成りて、何處(いづこ)へか、蟹も行(ゆき)けん、見えず。

 

[やぶちゃん注:『神田村、「大的大明神」』現在の高知市神田(こうだ)にある大的神社(おおまとじんじゃ)である。「ひなたGPS」の戦前の地図には『神田(コーダ)』と読みがある。御夫婦でお作りになっておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「大的神社」によれば、『神社はかなり交通量の多いT字路の角にあり、ご神木のムクノキは目立ちますが、前面には狛犬や鳥居の他に玉垣など境界を示す遮蔽物は何もなく、開放的な造りをしています。拝殿は本殿の鞘堂を兼用している造りで、鳥居にも拝殿にも「大的宮」と書かれた額が掛かっています』と述べられ、『御祭神』は『経津主大神』(ふつぬしのかみ)・『武甕槌大神』(たけみかづちのおおかみ)・『大山咋大神』(おおやまくいのかみ)で、『古来より、松ノ木地区の産土神であ』り、『勧請年月』・『縁起』・『縁革』は『未詳』であるが、延享二(一七四五)年八月『再興、大的大明神本社拝殿の棟札があるので、此れ以前の鎮座である』。『元、大的大明神、又、松ノ木大明神とも称したが、明治元年大的神社と改称』し、『元、無格神社であったが』、『昭和』二一(一九四六)年に、『宗教法人大的神社とな』ったとある。

「池」サイド・パネルの画像や、ストリートビューも見たが、現在、池は見当たらない。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (安㐂郡津呂浦町の西に井有……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。

 

 安㐂郡津呂浦(つろうら)町の西に、井(ゐ)、有(あり)。此中に、鱣(うなぎ)、二ツ、住めり。一ツは、二尺𢌞(まは)り斗(ばかり)、一尺𢌞り餘(あまり)[やぶちゃん注:体長。ひどく太くズン胴な妙な個体である。]もある也。井の上(うへ)より、蟹など、いる[やぶちゃん注:「入る」。]時は、頭(かしら)を上(あげ)て喰(くら)ふ也。里人(さとびと)、

「此井の主(ぬし)也。」

と、いふ。

 

[やぶちゃん注:「安㐂郡津呂浦(つろうら)町」室戸岬のある室戸半島西岸の中央附近にある、現在は室戸市室戸岬町(むろとみさきちょう)津呂(グーグル・マップ・データ航空写真。以下、無指示は同じ)である。現行では広大な室戸岬港の奥の奥の小さな一部であるが、ここに、本来の津呂港の名が並置されている。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ると、ここが本来のここだけが津呂港であったことが確認出来る。因みに、「土佐物語」に出る停泊する「室津」を、この「津呂」に比定する説があったが、現行では、津呂の北西の土佐湾岸の東に当たる室戸半島の東の根にある「室津」であるとするのが、有力のようである。]

2024/10/19

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 巴新三郎落馬

神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 巴新三郎落馬

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「ともゑしんざぶらう らくば」と読んでおく。]

 

     巴新三郎落馬

 昔、巴新三郎といふ人、有(あり)。如何なる人にか、姓氏、未詳(いまだつまbらかならず)。

 ある時、「浦の內(うち)」、橫浪村(よこなみむら)を、馬に乘(のり)て通(とほり)けるに、「鳴無(おとなし)の社(やしろ)」を、馬上より、足を、さして、

「あれは、何といふ社ぞ。」

と、里人に問(とひ)けるを、忽(たちまち)、神罰にや、落馬して、死(しし)ける。

 死骸(なきがら)を、則(すなはち)、橫浪村へ葬(はうふり)て、今に、塚跡(つかあと)、有(あり)。

 鞍は、「鳴無の社」へ納(をさ)めて、是又(これまた)、今に、社内(やしろうち)に殘れり。甚(はなはだ)、古代の物と見えて、全體は、蟲、入(いり)て、大(おほき)に損(そん)ぜり。八分斗(はちぶんばかり)の巴のもよふ[やぶちゃん注:ママ。]、靑貝(あをがひ)を、ふせたるもの也。

 

[やぶちゃん注:「浦の內」現在の高知県須崎市浦ノ内(グーグル・マップ・データ)。

「橫浪村」「ひなたGPS」の戦前の地図で、旧高岡郡浦內村橫浪である。その位置から、浦ノ内湾湾奥部を挟んで、ほぼ海上を北直線で、一・六三キロメートル位置の横浪半島の根に近い北に伸びた岬の西沿岸に「鳴無神社」がある(この横浪には同神社の遥拝所(グーグル・マップ・データ)もある)。

「鳴無の社」当該ウィキによれば(読みは省略した)、『旧社格は郷社』。『祭神は一言主命』。『本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。参道が海に向かって延びており、「土佐の宮島」とも称される』。『横浪半島によって形成される浦ノ内湾の最奥部付近に、北西向きで鎮座している』。『北方対岸の横浪港に遥拝所があり、市営巡航船の貸切運行を利用することで、そこから湾内の海を縦断して参拝することも可能となっている』。『社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れ』、『雄略天皇』四『年の大晦日に』、『この地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとされる。実際は、鎌倉時代の建長』三(一二五一)年『に創建されたようである』。『一言主命は土佐国一宮の土佐神社と同じ祭神であるが、土佐神社は当神社の別宮であったとされている』。『江戸時代に入り土佐藩』第二『代藩主の山内忠義の命により』、『社殿が造営され、境内が整備された』。『本殿』は『三間社春日造、こけら葺』。『山内忠義により』寛文三(一六六三)年『に造営。柱は朱塗り、貫、組物などには極彩色を施し、天井には村上龍円が描いたと伝えられる天女の舞の絵がある』とあり、同社の『志那禰祭(しなねまつり)は、毎年』八月二十四日『から翌』『日にかけて行われる夏祭で』、二十四『日は宵祭り(前夜祭)で』翌二十五『日に本祭が行われる。本祭では祭のクライマックスとして、漁船』三『隻に神輿を乗せ』、『供船として漁船』二十艘『を従え』、『大漁旗をなびかせて海上を船渡御が行われる』とあるから、位置的にも、古くから、漁師の守り神であったことが察せられる。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 大空

 

Daikuu

 

だいくう   獨空

 

大空

 

タアヽ コン

 

本綱大空生山谷中小樹其葉似桐葉而不尖㴱綠而皺

[やぶちゃん字注:「㴱」は「深」の異体字。]

文其根皮赤色虛軟山人采作末【苦有小毒】和油塗髮殺蟣虱

極妙又搗葉篩䟽圃中殺虫

[やぶちゃん注:「䟽」は「疏」の異体字。]

 

   *

 

だいくう   獨空《どくくう》

 

大空

 

タアヽ コン

 

「本綱」に曰はく、『大空、山谷の中に生《しやうず》。小樹≪にて≫、其の葉、「桐」の葉に似れども、尖《とがら》ず。㴱綠《ふかみどり》にして、皺文《しはもん》あり。其の根・皮、赤色。虛《うつろ》≪にして≫軟≪かなり≫、山人、采りて、末《まつ》【苦、小毒、有り。】と作《なし》、油を和《わ》して、髮に塗≪れば≫、蟣-虱《しらみ》を殺すこと、極めて妙なり。又、葉を搗き、䟽圃《そほ》[やぶちゃん注:畑・菜園。]の中に篩《ふる》≪へば≫、虫を殺す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「大空」は、「維基百科」・「百度百科」で検索しても、植物としての現代中国語での紹介記事は、ない。邦文記事も見当たらない。「維基文庫」では、「植物名實圖考(道光刻本)」(清代の呉其濬(きしゅん)編纂になる、千七百十四種の植物の図と説明から成る中国最初の本格的植物図鑑で、全三十八巻。特に、図は著者が実見して描いたもので、それまでの本草書にある図と比べると、遙かに写実的であり、中国の植物研究資料として内外で、その評価が高い)の「第三十五卷」に「大空」があり、もある(本書の図とは葉の形状がかなり異なる。決定的部分は、以下の解説と相違して、葉が尖っている点である)。解説文は、

   *

大空唐本草始著錄生襄州所在山谷亦有之小樹大葉似桐而不尖主殺蟲蝨

   *

で、「本草綱目」の記載と大差はない。私の力では、実在する植物種に辿り着けない。識者の御教授を乞うものである。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の最後の「大空」([088-79a]以下)のパッチワークである。以下に引用しておく(表記に手を加えた)。

   *

大空【唐本草】

 集解【恭曰大空生襄州所在山谷中亦有之秦隴人名獨空作小樹抽條高六七尺葉似楮小圓厚根皮赤色時珍曰小樹大葉似桐葉而不尖深綠而皺文根皮虚軟山人采殺虱極妙搗葉篩疏圃中殺虫】

 根皮氣味苦平有小毒主治殺三蟲作末和油塗髮蟣虱皆死【藏器】

   *

「桐」これは日中ともに、シソ目キリ科キリ属 Paulownia 、或いは、揚子江流域にも分布する本邦のキリ Paulownia tomentosa でもよいか。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 𣛴木

 

Kanboku

 

かんぼく   正字未詳

 

𣛴木

 

△按𣛴木高五六尺葉似葡萄葉而尖不皺四月開花毎

 莖七朶五辨小白花攅生似紫陽花秋結子揷枝活

氣味【甘苦】折傷續筋骨之功與接骨木同取莖葉煎服

 

   *

 

かんぼく   正字、未だ詳かならず。

 

𣛴木

 

△按ずるに、𣛴木、高さ、五、六尺。葉、葡萄(ぶだう)の葉に似て尖(とが)り、皺(しは)あらず。四月、花を開く。莖毎《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:レ点はないが、返して読んだ。]、七朶《しちふさ》・五辨[やぶちゃん注:一枝に七つ生って、一つの花は五枚であることを言う。]の小≪さき≫白≪き≫花、攅《むらがり》、生《しやう》ず。紫--花(あぢさい)に似《にて》、秋、子《み》を結ぶ。枝を揷して、活(つ)く。

氣味【甘苦。】折傷≪せる≫筋骨を續《つ》ぐの功、「接骨木《にはとこ》」[やぶちゃん注:前項を見よ。]と同じ。莖・葉を取《とりて》、煎《せんじ》、服す。

 

[やぶちゃん注:𣛴木」は、本邦では、「肝木」で知られ、

双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属セイヨウカンボク変種カンボク Viburnum opulus var. sargentii

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。最初に「注釈」の以下を引く。『最新のAPG体系ではレンプクソウ科(Adoxaceae)にまとめられたものが』、二〇一七『年の採決によってガマズミ科(Viburnaceae)とされており、さらに古い分類体系のクロンキスト体系や新エングラー体系ではスイカズラ科(Caprifoliaceae)に分類されていた』とある。『別名ケナシカンボク』。『東アジア北東部に分布。シベリア東部、朝鮮半島、中国大陸(甘粛省・四川省・長江流域以北)、樺太、南千島、北海道、本州の中部地方以北に分布。日本には、北海道、本州、四国、九州に分布するという説もあり、北日本の山地に多く見られる。山地の疎林内や林縁、やや湿り気のある場所に自生する』。『落葉広葉樹の低木から小高木。樹高は』二~七『メートル』『くらいになる。樹皮は暗灰褐色で厚く、縦に割れ目が入ってくる。小枝は赤褐色で毛はなく、枯れた枝先がよく残っている。葉は枝に対生し、形は広卵形でやや深く』三『裂し』、三『本の葉脈が目立つのが特徴で、他の似た種との区別がしやすい。葉の先端は尖り』、『縁は全縁になる』。『花期は晩春から夏にかけて(『五~七』月ごろ)で、白色の小さな両性花のまわりに大きな』五『枚の装飾花が縁どる。花の姿はガクアジサイ』(ミズキ目アジサイ科アジサイ属アジサイ節アジサイ亜節アジサイ Hydrangea macrophylla 品種Hydrangea macrophylla f. normalis )や、『ムシカリ』(マツムシソウ目ガマズミ科ガマズミ属オオカメノキ(大亀の木) Viburnum furcatum )『にも似ている。秋には』、『びっしりと赤い実をつけ、秋の山を彩る。冬になっても』、『赤い果実や果序の柄はよく残っている』。『冬芽は枝に対生し、卵形や長卵形で、枝先には仮頂芽が』二『個』、『つく。冬芽の芽鱗は帽子状で毛はなく、外側は』一『枚で、内側』二『枚はべたつく。冬芽のわきに残る葉痕は、三日月形で維管束痕が』三『個』、『つく』。『材は白色で香気があり、日本では楊枝や房楊枝の材料として使われてきた。また』、『枝葉を煎じた液は止血効果があるとされ、切り傷や打ち身を洗う民間薬として利用されてきた。「肝木」の和名は、薬用として用いられた歴史に由来するとも推定されている』。以下、「近縁種・変種」の項。

〇セイヨウカンボク Viburnum opulus (別名ヨウシュカンボク。ヨーロッパから北アフリカにかけ)て『分布する原種。カンボクに比べて』、『樹皮が薄くて』、『割れ目が少ない点や、葯の色がカンボクは紫色なのに対し』、『セイヨウカンボクは黄色である点などで識別できる』)

〇セイヨウカンボク変種テマリカンボク Viburnum opulus var. sargentii f. hydrangeoides(『花序全体が装飾花となったもの(手毬咲き)で、観賞価値が高い。花の形状はオオデマリ』(キク亜綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属ヤブデマリ変種オオデマリViburnum plicatum var. plicatum f. plicatum )『に似るが、カンボクの仲間に特有の』三『裂の葉によって識別できる』)

〇セイヨウカンボク変品種ケカンボク Viburnum opulus var. sargentii f. puberulum(『枝・葉柄・花序枝が有毛で、葉の裏面にも開出毛がある』)

〇セイヨウカンボク変品種キミノカンボクViburnum opulus var. sargentii f. flavum (『果実が黄色の変種』)

 中高を過ごした富山県高岡市伏木の矢田新町の奥の「矢田の堤」(私のギミー・シェルター( gimme shelter )だった)へ向かう小川に生えていた――既に堤は干上がったから(グーグル・マップ・データ航空写真)、カンボクも消えしまったであろう――、私の好きな木であった……

2024/10/18

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 吉良左京進亡霊

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「きらさきやうのしんばうれい」と読んでおく。本篇は特異的に非常に長いので、私の判断で、各話の切れ目と認めた箇所に、行空けを施した。この「吉良左京進」は長宗我部氏の家臣で、長宗我部元親の弟で中村城主吉良親貞の子にして、吉良城及び蓮池城主であった吉良親実(ちかざね 永禄六(一五六三)年~天正一七(一五八九)年九月以降没)の受領名。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用された。父の死後、その家督を相続し、一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた』。天正一四(一五八六)年十二月、『元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序をもってして』、『元親の次男・香川親和を推し』、四『男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は元親に対し』、『たびたび』、『親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言が』、『かえって元親の逆鱗に触れることになり』、天正一六(一五八八)年一〇月、『親実は比江山親興と共に切腹を命じられたとされる。だが、親実による』天正十七年九月十日(一五八九年十月十九日)附『の西諸木若一王子の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また』、「長宗我部地檢帳」の『中でも』天正十九年一月十六日(一五九一年二月九日)『の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に』、『直接』、『知行が宛がわれており』、『彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは』天正十七年九月以降で、天正十九年一月『以前であったと推定される』。『親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある。それゆえか木塚明神や、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」は』、『親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる』。『子の吉良貞実は姓を町氏』(まちし:先主長宗我部氏の「長」を「町」に代えて音読みしたもの)『に改め、肥後熊本藩細川氏に仕えたが、細川忠興との間で諍いを起こし、堀田正盛に仕えた。その子らは』、『そのまま肥後細川家に仕えて明治に至り、子孫は「長宗我部」姓を称した。熊本県熊本市にある宗岳寺には「長曽我部町家之墓」が存在している』とある。「七人みさき」については、先行する同事件を扱った「比江山掃部」で既注済みであるので、そちらを見られたい。

 

     吉良左京進亡霊

 天正十六年十月四日、吉良左京進親実の方へ、桑名弥次兵衞・宿毛甚左衞門を檢使に遣(つかは)し、終(つひ)に、詰腹をぞ、切(きら)せける。

 其儘、小髙坂に葬りけるが、小石まじりの赤土を、少し、かき上(あげ)、笹垣(ささがき)、ゆひ𢌞(まは)し、さも、淺ましげなれば、何某(なにがし)のしるしとだにも、見へず。其かたさまの人[やぶちゃん注:親族・姻族・家臣・下人等、]までも、後難(こうなん)をや恐れけん、參り候やうの人、なければ、いつとなく、草、茫々と、荒(あれ)にける。

[やぶちゃん注:「小髙坂」この地名(村名)は現在は残っていない。「ひなたGPS」の戦前の地図にある、高知城の真西直近である。

「參吊(まゐりとむらふ)」私が判読した「候やう」は「近世民間異聞怪談集成」では、『□□』と二字分を判読不能としつつ、右傍注で『(弔ふ)』としているのだが、それでは、下の助詞「の」と繋がらないから、ダメである。国立公文書館本85:右丁六行目下方)を見ると、明らかに、「參吊」(まゐりとむらふ)「人」とある。推定補注がおかしい。アカンね、ホンマに。この「近世民間異聞怪談集成」は……。]

 此人、世に在りし程は、元親朝臣(あそん)の甥也(おいなり)、婿也(むこなり)。智、あり、勇、ありしかば、人皆(ひとみな)、恐れ、敬(うやま)ひしぞ、かし。

「今は、牛馬の啼(さけび)にけがされ玉ふ事の、哀れさよ。」[やぶちゃん注:ロケーションの「小髙坂」は低い丘陵で、先のリンクの戦前の地図を見ても、麓には湿田があるから、この牛馬は農耕用の彼らの鳴き声である。]

と、見る人、淚を流しける。

 斯(かか)る所、彼(か)の墓より、夜々(よよ)、火、燃へ出(いで)たり。

「『妄執(まうしふ)ふかき人の墓には、必ず、ほむら、燃(もゆ)る。』と聞(きく)。いたはしや、此人は『無失(むしつ)の讒(そしり)』に、失ひしかば、恨(うらみ)あるも、理(ことわ)りなり。」

と、袖をしぼらぬ人も、なし。

 

 ある夕暮の事なるに、二淀川(よどかは)の渡し舩(ぶね)を、西の方(かた)より、呼(よび)かくる故、渡しもり、急ぎ、舩を漕(こぎ)よせて、見れども、人も、なし。

『扨は、此方(こなた)の事にては、無かりしか。』

と、おもふ所に、その形は見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず[やぶちゃん注:ここは底本では崩し字が、異様で判読が出来ないため、国立公文書館本85:左丁後ろから五行目中央)で判読した。]、人、數多(あまた)、舩に乘る音して、

「急ぎ、向ふへ、渡せよ。」

と、いふ。[やぶちゃん注:「いふ」は、国立公文書館本で補った。]

 渡し守、大(おほき)に恐驚(おそれおどろき)、東の岸へ漕付(こぎつけ)ければ、その時、舩より、皆、上る音、しけるが、跡なる人[やぶちゃん注:殿(しんがり)の者。]と覚へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]て、

「渡守、是は蓮池左京進殿[やぶちゃん注:これは吉良親実の名乗りの一つである。]にて在(まし)ます也(なり)。不義の奴原(やつばら)に、目に物、見せんと、眷屬を具(ぐ)せられ、大髙坂へ御越(おこし)(ある)有ぞ。今に、不思議を聞(きこゆ)べし。又、御歸りにも此舩に召(めさ)るべし。かまへて、汝、恐るゝ事、なかれ。」

と云捨(いひすて)て、跡より、追付(おつつけ)よせに[やぶちゃん注:素早く追っ付け寄せて。]、有(あり)けるが、其後(そののち)は、音も、せず。

 渡し守りは、肝魂(きもたま)も、身に、そはず、急ぎ、我家(わがや)へ立歸(たちかへ)り

「斯(かか)りける事の、ありし。」

と語りければ、聞人(きくひと)、舌を震(ふる)はして、身の毛、よだちてぞ、覺へける。

何成(いかな)る事か。出來(いでき)ん。」[やぶちゃん注:小さな「如」は筆写者が落して、後から、添えたものであろう。]

と、耳を傾け、聞く所に、久武内藏助(ひさたけくらのすけ)が男子(なんし)、五、六歲斗(ばかり)なるが、庭に出(いで)て遊びける所に、何所(いづく)ともなく、老女(らうぢよ)、來(きたり)て、

「扨も、美しき若殿や。」

と、云ひて、抱(いだ)かんと、せしが、小兒、

「わつ。」

と、啼(さけび)て、絕入(たえいり)たり。[やぶちゃん注:気絶した。]

あたりの、男女(なんによ)、大きに驚き、

「水よ、藥よ、」

と、ひしめくうち、人心地(ひとごこち)出來(いでき)しかば、人々、

「扨も。老女は如何(いか)なるものぞ。」

と、尋(たづね)れども、再び、見へず。

「是は、只事(ただごと)に非らず。」

と、有驗(うげん)の僧を招(しやう)して、祈禱加持する所に、小兒、俄(にはか)に狂ひ出(だし)、聲を上(あげ)て、

「惡人を、生(いけ)て、置くべきか。」[やぶちゃん注:「生(いけ)」の「け」は国立公文書館本(86:左丁三行目下方)で、外に出しているものを採用した。]

と呼(よばひ)て[やぶちゃん注:「呼て」は国立公文書館本86:左丁五行目上方)にあるものを採用した。]、手足を、しめ[やぶちゃん注:手足を硬直させて。]、身を震(ふる)はし、晝夜、苦痛して、狂ひ死(じに)にぞ、したりける。無慙(むざん)なりし事どもなり。

 内藏助、身もだへして、悲しむ事[やぶちゃん注:「事」は底本になく、国立公文書館本86:左丁六行目中央)で補った。]、限り無。その七日(なぬか)に当りける夜、久武が惣領の男子、一間(ひとま)なる所に、立籠(たちこも)りて、

「南無阿弥陀仏」

と髙聲(かうせい)に唱へたり。

 家內(かない)の男女(なんによ)、怪(あやし)みて、急ぎ、行(ゆき)、見れば、腹、一文字に掻切(かききり)て、血に、まみれたり。

 内藏助、泣々(なくなく)、

「何故(なにゆゑ)に自害してけるぞ。」

と、問(とひ)ければ、

「元親朝臣の御掟(ごぢやう)にて、檢使、二人、參りし故、力なく候。」

と、いひもあへず、息、絕(たえ)たり。

 いかなる者が、目に見へけん、不思議といふも愚(おろか)也(なり)。

 内藏助が妻、是を聞(きき)て、悲しみに絕(たえ)ずやありけん、其夜、やがて、自害して果ける、とぞ。

 是を、聞ける人毎(ひとごと)に、

「扨は。二淀川の渡守が云(いひ)しも、偽(いつは)りならず。」

と、身を震はしてぞ、恐れける。

 久武が子、八人、有りしが、斯の如く、或(あるい)は自害し、或は亂心、又は、さまざまざまの不思議ども、ありて、悉(ことごと)く、死して、末子(ばつし)、只、一人、生殘(いきのこ)りけるが、慶長五年[やぶちゃん注:一六〇〇年。同年九月、「関ヶ原の戦い。]、長宗我部沒落の後(のち)、九州の方へ立越(たちこし)ける、とぞ。

[やぶちゃん注:「久武内藏助」「比江山掃部」で既出既注だが、重要な人物なので、再掲する。長宗我部氏家臣久武親直(?~天正七(一五七九)年)。「内藏助」は通称。当該ウィキによれば、『久武昌源』(しょうげん)『の次男として生まれる。才能があり』、『策謀家で』、『長宗我部元親・盛親の深い信頼を受けた』。天正七(一五七九)年、『兄・親信が土居清良との戦いで戦死すると、親信の遺領と内蔵助の名乗りを継ぐ』。天正一二(一五八四)年、『元親より』、『伊予軍代に任命され、宇和郡三間』(みま:この附近。グーグル・マップ・データ)『を攻撃、阿波方面では牛岐城主の新開道善を丈六寺で謀殺し、中富川の戦いでは渡河時刻を元親に進言して一軍の攻撃を指揮した。また、羽柴秀吉による四国征伐に際しては』、『長宗我部氏の同盟者で』、『東伊予の防備を担っていた金子元宅に対し』、『書状と起請文を送り、結託を固くしている』。天正十四年、『秀吉による方広寺大仏殿(京の大仏)造立の際には材木の伐採・搬出の監督を務めたが、このときに吉良親実と不和になったという』(☜)。天正一六(一五八八)年、『長宗我部氏の後継問題が起こると、親直は元親の意を汲んで盛親の擁立に尽力し、反対派の親実らと争った』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で『西軍が敗北すると、親直は』、『津野親忠が』、『藤堂高虎と通じて』、『土佐半国を支配しようとしているとして、盛親に親忠を切腹させるよう進言した。しかし』、『盛親がこれを一蹴したため、親忠の報復を恐れた親直は』、『盛親の命令と偽って香美郡岩村に幽閉されていた親忠を切腹させたという。この事件を耳にした徳川家康は盛親の誅伐を決めるが、井伊直政の取りなしにより盛親は辛うじて死罪を免れた』。『その後、長宗我部氏の改易が決定すると、親直は浦戸城を死守しようとする長宗我部遺臣の要求を排して降伏の意見を述べた。開城後は肥後国に赴き、加藤清正に仕えて』千『石を給せられたが、その変節を非難された』。兄『親信は三間に出陣する際、元親に対し「このたびの合戦で討ち死にしたとしても、私の弟の彦七(親直)には私の跡目を継がせないでください。彦七は将来お家の障りにはなっても、役に立つ者ではありません」と進言したという』(「土佐物語」)とある。]

 

 爰(ここ)に五月(サツキ)新三郎といふもの、あり。内藏助が從㐧(いとこ)なり。國澤[やぶちゃん注:不詳だが、高知城跡の近くの北、及び、東の地区内に同名の協会や社名が存在するので、その附近かとは思う。]より小髙坂へ、所用有(あり)て、夕暮に及んで、親實の墓の邊りを行(ゆく)所に、やんごとなき女性、年の頃、二八(にはち)[やぶちゃん注:数え十六歳。]斗(ばかり)なるが、あでやかなる衣裳を着て、薄衣(うすぎぬ)を手に持(もち)、打(うち)しほれたる風情(ふぜい)にて、淚ぐみて、たゝずみたり。

 新三郎、是を見て、

『斯(かか)る姿もあるものか。』

と、心(こころ)空(そら)に成りて[やぶちゃん注:すっかりその女に気を取られて。]、足もとも、たどくしく、しばし、忙(せか)れて[やぶちゃん注:気がせいて、苛立ち。]立(たち)けるが、

『いやいや、ケ樣(かやう)の人の、此邊(このあたり)にあるべしとも覚へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。如何樣(いかさま)、變化(へんげ)の、我を訛(ばか)する[やぶちゃん注:私の当て読み。]にや。』

と、おもひしが、能〻(よくよく)、案じ、

『何者にもせよ、是を見すてゝは、爭(いかで)か行(ゆく)べし。』

と、

「つかつか」

と立(たち)より、

「是は、此あたりには、見馴(みなれ)ぬ事也(なり)。しかも、夜陰に及び、何故(なにゆゑ)、爰(ここ)には御座(おは)しけるぞ。」

と懇(ねんごろ)に尋ねければ、女房、荅(こたへ)て云ふやう、

「恥敷(はづかし)ながら、わたしは秦泉寺(じんせんじ)[やぶちゃん注:現在、高知市のここ、高知城北に東秦泉寺(ひがしじんせんじ:グーグル・マップ・データ)があり、その西に「北~」・「中~」・「西~」を冠した秦泉寺地区がある。「ひなたGPS」の戦前の地図及び国土地理院図では『秦泉寺』と記す。]のものにて候が、本年の春、國澤へ緣に付(つき)て參(まゐり)候(さふら)ひしが、夫(をつと)の心、いつしか、移りかはり、みづから、捨られ參らせ、ねたましく思ひ候へども、流石(さすが)、情(なさけ)も、すてがたく、明暮(あけくれ)、淚にくれ候ひしが、今は忍ぶも、しのびかね、『如何成(いかなる)淵へも身を投(なげ)ばや。』と、百度(ももたび)、おもひ候へども、二、三年先きに、父に放(はな)れ、母、壱人(ひとり)、さびしく、みづからを、月とも、花に、おもひ給ふ故、空しくなりぬと、聞(きこ)しめさば、歎(なげき)を、かさねさせ參らせん事を、『不孝の至り。』[やぶちゃん注:底本(左丁四行目中央)は「不」がない。国立公文書館本88:右丁後ろから三行目下から四字目)で補った。]と、おもひかへし、『兔(と)に角(かく)、母と一所(いつしよ)にいかにもならばや。』と、潛(ひそか)に國澤を、しのび出(いで)ては候へども、秦泉寺の道筋をも、しり參らせず、殊に、日暮に及(および)ぬれば、又、立歸(たちかへ)るべき事も成らず、此夜を、何としてか、明(あ)かし申(まうす)べき。」

と、かきくどき、淚にくれてぞ、居たりける。

 新三郎、

「あな、いとをし[やぶちゃん注:ママ。「おとほし」。気の毒である。]。御身より外(ほか)に、また、增(ます)はな[やぶちゃん注:「增花」この場合は、「優れた美しい女性」の意。]も、あるものかは。さあらば、某(それがし)、送り屆け參らせん。」

と、いへば、女房、

「あな、嬉(うれ)し。さりながら、伴(ともな)ひ參り度(たく)は候へども、國澤より、若(もし)や、追手(おつて)の來(きた)らん事を恐れ、道も、なきかたを、あなた、こなたと、さまよひて、足を傷(いた)め候へば、今は、一足(ひとあし)も、ひかれ候はず。今宵(こよひ)は、此(この)堂の邊りにて、夜を、あかし候はん。」

と、袖を、顏におしあてゝ

「さめざめ」

と泣(なき)ければ、新三郎、

「御心(おこころ)やすく思召(おぼしめせ)。某、負(おひ)て、おくり屆(とどけ)參らすべし。是も、『他生(たしやう)の緣(えん)』ぞかし。さらば、此方(こなた)へ。」

と、前に踞(うづくま)りければ、女房、

「につこ」

と、打笑(うちわら)ひ、

「仰(おほせ)に、まかせ候はん。」

と、頓(やが)て、後(うしろ)に、よりかゝりける。

 半町[やぶちゃん注:約百六十四メートル。]斗(ばかり)ゆく所に、俄(にはか)に、大磐石(だいばんじやく)の推(お)す如く覚へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、

「不思議や。」

とて、振り仰(あふ)ぎて、是を見れば、さしも、うつくしかりつる此女房、長(たけ)、七尺[やぶちゃん注:二メートル強。]斗の鬼と成りて、額(ひたひ)に、二つの角(つの)、生(はや)し、眼(まなこ)の日月(じつげつ)の如く成(なり)けるが、

「我(わが)行(ゆく)かたは、此方(こなた)ぞ。」

と、新三郎が髮を、𤔩(ツカ)みて、提(さ)げ、七、八間[やぶちゃん注:十二・八~十四・五メートル。]も、飛行(とびゆき)ける。

 新三郎、少(すこし)も、さはがず、腰の刀を拔(ぬき)て、空樣(そらざま)に、はらひければ、鬼神(きしん)、是にや、恐れけん、田の中へ、

「どふ」

と、落(おと)したり。

 落されて、新三郎は、暫(しば)し、前後も、しらざりしが、やゝ有(あり)て、少し、人心地(ひとごこち)も出來(いでき)しかば[やぶちゃん注:以上の「「やゝ有て……」以下は国立公文書館本(89:左丁一行目中央から)で補訂した。]、頓(やが)て、起き上り、四方(しはう)を見𢌞(みまは)しけれども、目にさへぎるものも、なし。夜も、ほのぼのと、明(あけ)ければ、

『此儘(このまま)、歸らんは、如何(いかが)なり。』

と思案し居(をり)たりけるが、扨(さて)しも、有(ある)べき事ならねば、泥に、まみれてぞ、歸(かへり)ける。

[やぶちゃん注:話柄としては、直に続いているが、初期怪異はここで終わっており、以下は後日談であり、長くなってしまうので、ここで行空けをした。

「五月(サツキ)新三郎といふもの、あり。内藏助が從㐧(いとこ)なり」久武親直の兄久武親信(ちかのぶ 天正七(一五七九)年)の子であろう。ウィキの「久武親信」によれば、この親信は、弟とおなじく「内藏助」を名乗っていた。『名は親定とも』。『土佐国(現・高知県)の武将・久武昌源の子として誕生。弟に久武親直がいる』。『土佐国の戦国大名・長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から元親に重用され、高岡郡佐川城を与えられた』。天正五(一五七七)年、『伊予国南部(現・愛媛県南予地方)方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)を与えられ、川原崎氏を討つ。しかし』、天正七(一五七九)年に、『伊予宇和郡岡本城を攻撃中に、城を守る土居清良』(どいきよよし)『の奇略に遭って討ち死にした』。『親信は有馬温泉で羽柴秀吉と会見したことがあり、そのとき、秀吉の器量のほどを知ったといわれている』。彼は『弟・親直へは』、『常々』、『危惧を抱き、岡本城攻防戦で討死する直前、主君・元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残したといわれている。この危惧は的中し、親直は讒言を繰り返して反対派を粛清、元親の跡を継いだ四男・長宗我部盛親の代になっても盛親の三兄・津野親忠の殺害に絡むなど暗躍したため、関ヶ原の戦いでの敗戦後に長宗我部氏を改易へ導く要因となった』とある。]

 

 是を見て、皆人(みなひと)、不審しける故、

「斯(かか)りける事、ありける。」

と、有(あり)の儘(まま)、語りければ、

「何條(なんでう)、さる事の、あるべき。古狸(ふるだぬき)にばかされ、田に入(いり)、泥にまみれたる恥かしさに、いう[やぶちゃん注:ママ。]らん。いざ、彼(かれ)のころび入(いり)たる田を見て、笑はん。」

とて、二人、連(つれだち)て、小髙坂、さして、行(ゆく)所に、向ふより、大名とおぼしくて、大勢、さゞめきわたりて、來(きた)る。

 二人は、

「誰(だれ)ならん。」

と、近付(ちかづき)、見れば、左京進、在世の姿にて、目と目を見合せたるが、二人は、驚き、

「はつ。」

と、云ふて、馬より下りければ、左京進、

「何某(なにがし)殿、久しう候。」

と申さるゝと覚へて、絕入(たえいり)ぬ。

 暫くあつて、人心地(ひとごこち)、出來(いでき)て、見れども、其行方(そのゆくへ)は、なかりける。

 夫(それ)よりして、

「左京進の怨霊(をんりやう)、現れぬ。」

といふ程こそ、あれ。

 路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)者、或(あるい)は、鬼形(きぎやう)と成(なり)、天狗と成り、又は、女(をんな)と變じ、男(をとこ)と成り、忽(たちまち)、踏殺(ふみころ)し、目を、まはせ、人に、のり移り、口走(くちばし)りて、樣々(さまざま)の事を、言ひ、のゝしる。

 初(はじめ)の程は、小髙坂の墓の邊(あたり)、蓮池(はすいけ)の城[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。吉良親実が城主であった。]下のみ、斯(かく)の如くなりしが、後(のち)には、在々所々(ざいざいしよしよ)、怨霊の至らぬ處も、なし。

 國人(こくじん)、是を「七人みさき」と名づけて、恐るゝ事なり。

 「七人」とは、「宗安寺の真西堂」・「吉永飛騨守」・「勝賀㙒次郎兵衞」・「吉良彥大輔」・「城內太守坊」・「日和田与三右衞門」・「小嶋甚四郎」、是(これ)也。

 左京進、供(とも)に「八人」なれども、恐れて、數(かず)に不入(いれず)、とかや。

[やぶちゃん注:「高知市春野郷土資料館」公式サイト内の「はるの昔ばなし」の「七人みさき」が最も詳しく、しかも、読み易い。長いので、引用は、ここに出た人物の読み方の部分のみ、とする。『永吉飛騨守、宗安寺信西〔そうあんじしんぜい〕、勝賀野次郎兵衛〔しょうがのじろべえ〕、吉良彦太夫〔きらひこだゆう〕、城内大守坊〔しろうちたいしゅぼう〕、日和田与三衛門〔ひわだよざえもん〕、小島甚四郎〔おじまじんしろう〕』である。]

 此由を、元親朝臣(あそん)へ申(まうす)者、あれども、

「何條(なんでう)、夫(それ)は、女(をんな)・童(こども)、天狗・化物(ばけもの)の沙汰を聞(きき)て、「針」を「棒」に言(いひ)なせるものなり。取上げ、評するに、足らず。」

とて、耳にも入(いれ)玉はねば、其後(そののち)、怪異、有れども、重(かさ)ね申ものは、無(なか)りけり。

 されども、怨靈、至らぬくまも無ければ、大髙坂の城中にも、不思議、有(あり)て、元親朝臣の目にも、みへ[やぶちゃん注:ママ。]、耳に入(いる)事、度々(たびたび)なりしかば、

「扨は。かの者共が靈魂、人の言(ことば)も偽(いつはり)ならず。」

[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]初(はじめ)て、信(しん)を起(おこ)し、宣(のたま)ひけるは、

「彼の者どもが恨みをなすも、理(ことわ)り也。一朝(いつてう)のいかりに理を失ひ、多年の功を空敷(むなしく)したる事、我ながら、淺間(あさま)しく、今更(いまさら)に、千(ちたび)、侮(くい)すとも、甲斐なし。法法事[やぶちゃん注:ママ。「法」の衍字。国立公文書館本91:右丁四行目終り)では「法事」である。]をなして、怨靈をなだめばや。」

と、國分寺[やぶちゃん注:旧国分寺跡はここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。但し、ここで法事が行われのは、そのすぐ後ろにある国分寺。]におひて[やぶちゃん注:ママ。]、數(す)十人の僧を請(しやう)じ、さまざまの善(ぜん)[やぶちゃん注:「作善(さぜん)」。供養。]をなし玉へば、參詣の上下(かみしも)、踵(きびす)をつらね、見物の貴賤、身(み)を側(そばだて)、堂上・堂下に群集(ぐんじゆ)せり。結緣(けちえん)には、元親朝臣も參詣有(あり)。

 既に讀經、初(はじま)り、上下、鳴りを靜めて、感(かん)に絕(たえ)、聽聞(ちやうもん)する所に、位牌、一度(いちど)に[やぶちゃん注:「同時に」の意。]、動きたり。

「こは、いかに。」

と、見れば、親實の位牌を先(さき)に立(たえ)て、其外(そのほか)の位牌、段々(だんだん)に、佛檀(ぶつだん)より下(くだ)り、數(かずかず)の備物[やぶちゃん注:ママ。「供物」。](そなへもの)も、次㐧次㐧に供(とも)する如く、行列を、なして、後(うしろ)の山の方へ行(ゆき)て、終(つひ)に、行方(ゆくへ)しれず、なりける。

 僧、俗、男女(なんによ)、驚、讀經を止めて、一言(いちごん)出(いだ)すものも、なし。

 上下、ひそめきあへり。

 其時、虛空に、數(す)十人の聲して、一度に、

「どつ」

とぞ、笑(わらひ)ける。

 元親朝臣も、あきれはて、

「さらば、国中(くにぢゆう)、諸宗の寺々にて、法事を、せよ。」

とて、時日(じじつ)を定め、二夜三日(ふたよみつか)の勤行(ごんぎやう)ある所に、寺々の僧、悉(ことご)く、同じやうに、右の方(かた)へ見返りたる如く、首を、ねぢて、手足も、働かず、唯(ただ)、息(いき)する斗(ばかり)にて、三日三夜(みつかみよ)、苦しみ、四日に當りける朝(あした)、みな、一度に、本(もと)の如くにぞ、成りける。

 不思議なる事どもなり。

 元親朝臣、大(おほき)に仰天あり、

「いかにしてか、怨霊を、靜(しづ)むべき。」

と、宣(のたま)ひければ、老臣ども、申けれ[やぶちゃん注:底本では「れ」の右に小さく「る」をひらがなで打つ。]は、

「昔、菅相丞(くぁんしやうじよう)の御霊(ごりやう)も、神に、いはひて、靜(しづま)らせたまふと申傳(まうしつた)へ候。蓮池殿も、神に祭り玉へかし。」

と、申しければ、

「此義(このぎ)、実(げに)も。」

と感ぜられ、

「宮居(みやゐ)を、何所(いづこ)にか、定めん。」

と、各(おのおの)、詮義する所に、傍(かたはら)に、八、九才斗(ばかり)成(なる)童子ありけるに、俄(にはか)に狂ひ出(いで)、

「吾は、是(これ)、蓮池左京進殿の御使(おんし)也(なり)。左京進、神に、いはゝんとの詮義、上(うへ)なく、悦(よろこび)玉ふ也[やぶちゃん注:以上の「左京進、神に」以下の一文は底本には、ない。国立公文書館本92:右丁後ろから二行目)で補った。]。木塚(きづか)の山に、社(やしろ)を立(たて)て、祭(まつり)を、なさしめば、重(かさね)て、しるしを見せ申(まう)し[やぶちゃん注:国立公文書館本92)では、「し」は「す」で、そちらが正しい。]まじ。疑ふ事、なかれ。」

と、いひて、走り出(いで)て、倒(たふ)れける。

 暫(しばらく)有(あり)て、何心(なにごころ)なく、立歸(たちかへ)る。

 各(おのおの)、奇異のおもひを、なし、則(すなはち)、吾川郡(あがはのこほり)、木塚の山に、宮床(みやどこ)[やぶちゃん注:あまり聞かない語であるが、神聖な神を祀る結界地(禁足地)の意であろう。]を定め、地形を定(さだめ)、工匠(こうしやう)を鳩(あつ)めて[やぶちゃん注:「鳩」には動詞として、この意がある。]、程なく、社(やしろ)、成就して、鎭(しづ)め、祭(まつ)らせ玉ひける。

[やぶちゃん注:「木塚の山」「比江山掃部」で既出既注であるが、再掲すると、旧西分村益井・旧吾川郡木塚村西分で、現在の高知市春野町西分(にしぶん)増井(ますい)にある旧「木塚明神」、現在の吉良神社(グーグル・マップ・データ)である。但し、以下の話によるならば、その対岸の現在の森山地区に元の「木塚明神」はあり、後に現在地に移したことが判る。

 「胎謀記事」に云(いはく)、[やぶちゃん注:「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

『馬醫(ばい)山脇孫之進、曾祖父は、吉良氏に、つかへ、先々(さきざき)、孫之進、慥(たしか)に申傳(まうしつた)へ有(あり)て、黑田又左衞門へ、ものがたり、有りし由(よし)。墨田氏の咄(はなし)に、

「我等、幼少の時分、養父、森屋敷(もりやしき)に住居(すまゐ)致し、恙(つつが)なく存じたる事也。森屋敷前方(まへかた)は、今より、余程(よほど)、廣き山にて、若きもの、集りたる。」[やぶちゃん注:「森屋敷」思うに、現在の「吉良神社」の直近の甲殿川(こうどのがわ)の対岸地区には春野町森山(グーグル・マップ・データ航空写真)があるから、その辺りの丘陵の麓の人家のある辺りを「森屋敷」と呼んでいたものと考えられる。「ひなたGPSの戦前の地図も見られたい。

と也(なり)。

「相撲場(すまふば)に致しける也。前は『七人みさき』の墓、七つ、有(あり)けるを、改葬せし。」

と也。

 年曆(ねんれき)、不知(しれず)、親實の遺骨を、木塚へ納(をさ)め、其上に社(やしろ)を建立(こんりふ)、「木塚明神」と號す。

 古老の傳說に、

「左京進殿は大男にて[やぶちゃん注:底本(左丁六行目)では、はっきり「が」と見えるが、国立公文書館本93:右丁二行目)には、はっきりと「にて」とあるので、そちらを採用した。]有(あり)し。改葬の時、臑(スネ)の皿(さら)、有(あり)けるが、甚(はなはだ)大(おほき)なる皿にて、並々(なみなみ)の人の皿とは、見へざりし。」

と、云ふ。

 木塚明神を、小髙坂森屋敷へ、勸請したる年曆、不知(しれず)。

 松村茂左衞門扣屋敷(ひかへやしき)に、小社(しようしや)、有(ある)故、松村氏、祭主と成りける。

 二月二日・九月二日、兩度の祭禮也。

 神燈(しんとう)を、過分(かぶん)、掛け、祭禮を賑々(にぎにぎ)しく成(な)したるは、僅(わづか)、二十年に不足(たらず)。

 社(やしろ)の北へ、道を付け、鳥井[やぶちゃん注:ママ。](とりゐ)を建(たて)し事は、寶曆八年也。

 近年、又、宮を造營して、前よりは、結構(けっこう)に成(なり)たり。

 五十年前は、今の社(やしろ)の北は、餘程の山にて、樫木(かしのき)あつて、其本(そのもと)に、五輪など、有(あり)けるといへど、いつとなく、山を堀崩(ほりくづ)し、畑(はた)に成(な)しける。

 世の移りかはる事、如此也(かくのごときなり)。』。[やぶちゃん注:以下は底本も改行している。]

 或云(あるいはいふ)、

「天正十九年十月二日[やぶちゃん注:先に引用した通り、当該ウィキでは、彼の切腹は同年一月以前が下限とする。]、吉良左京進殿、小髙坂の亭にて自害せられ、西分村一の井山(いちのゐやま)に葬(はうふ)る。親実の草履取(ざうりとり)、右衞門といふ者、あり。薙髮(ちはつ)して、僧と成り、遁跡(とんせき)[やぶちゃん注:漢語で「隱遁」に同じ。]したり。寛永七年[やぶちゃん注:一六三一年。家光の治世。]、又、此處(ここ)に來(きた)り、社(やしろ)の荒廢したるを悲しみ、隣村へまで、勸化(くわんげ)して、社を、新たに建立(こんりふ)して、左京進殿の刀・脇差を、社內(やすろうち)に納めて、「西大明神」と號す。其後(そののち)、寛文六年[やぶちゃん注:一六六六年。家綱の治世。]、本藩(ほんはん)の世卿(せいけい)[やぶちゃん注:底本ではこの二字の右に黒字で「本ノ」とある。]山内丹波殿、一の井山の墓を、改葬し、此地へ移して、其上に、社を建立、といふ。

[やぶちゃん注:「本藩の世卿」「卿」(公的には最低で四位の参議までを指し、別に、君主が親しみを込めて臣下に呼びかける語)が不審。それを筆写者は傍注したものであろう。この時の土佐藩は第三代藩主山内対馬守忠豊(従四位下侍従)で、彼には忠直・一安(かつやす)・之豊(ゆきとよ)の弟がいるが、「卿」と指す位は、当然、受けていない。

「山内丹波」「丹波」と名乗る者は、藩主・家老・家臣を含めて、私が調べた限りでは、いない。]

 

 又、一説、

『吉良親実の諫死(かんし)は、天正十八年庚寅(かのえとら)[やぶちゃん注:前の割注通りで、一説としては有効である。]、于時(ときに)、廿六歲也[やぶちゃん注:この説に従うなら、未詳である彼の生年は、永禄八(ユリウス暦一五六五年二月一日から一五六六年一月二十一日まで)年となる。]。社(やしろ)は、吾川郡木塚村、益井渕山(ますゐぶちやま)上(うへ)に有(あり)。星霜(せいさう)ふり、神廟(しんべう)も頽廃(たいはい)に及びけるに、寛文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。]、山內下總殿(しもふさどの)内室(ないしつ)、大(おほい)に、造營、有(あり)。夫迄(それまで)は、小社(しやうしや)にて、神号(しんがう)もなかりしが、右(みぎ)造營の時より、「木塚明神」と神号を稱す。』

と、いへり。 

[やぶちゃん注:「山內下總殿内室」これは、土佐藩第二代藩主山内忠義の時代の同藩家老山内豊吉(とよよし 慶長一五(一六一〇)年~寛文六(一六六七)年二月二十一日)で、通称は下総である。当該ウィキによれば、家老や『奉行』を勤めた『野中兼山』(祖父野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)であった。当該ウィキによれば、『儒学者』で、『谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた』。『多くの改革で藩を助けたが、藩士の恨みや、過酷な負担を強いたことによる領民の不興を買い』、『失脚』した上、『一族が絶えるまで』、『家族全員が幽閉された』とある。詳しくはリンク先を見られたい)『を糾弾するため、藩主山内忠義に義父の深尾重昌、その子の因幡重照とともに連名で、三箇条の訴書を側近孕石頼母』(はあみいしたのも)、『生駒木工』(名の読み不詳。「もくのかみ」か)『を通じて』、『藩主の山内忠豊に提出し、兼山を失脚させるきっかけをつくった』。寛文四(一六六四)年二月二日、『家老職を命じられる。同年』五月二十二日、『兼山の召し上げられた領地を預かり、かつ』、『排斥の謀主の一人のため、恩禄』千『石加増され、本知と合算すると』三千五百三十『石となり、城付与力』四『人、郷士』十一『人を預かった』とあり、室は土佐藩家老『深尾重昌の娘』とあり、この女性である。

 なお、本話を大々的に元にした田中貢太郎の「八人みさきの話」がある。所持する同氏の『日本怪談大全』の「第二巻・幽霊の館」(一九九五年国書刊行会刊)の東雅夫氏の解説によれば、初出は大正一〇(一九二一)年新生社刊「黑影集」初出である。「青空文庫」のここで、河出文庫「日本の怪談」(昭和六〇(一九八五)年河出書房新社刊:これも所持する)版底本(新字新仮名)で読める。]

2024/10/16

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 接骨木

 

Niwatokozoku

 

にはとこ  續骨木

      木蒴藋

接骨木

     【和名美夜都古木

      俗云尒波止古】

ツヱ クラ モツ

 

本綱接骨木高一二𠀋許木軆輕虛無心斫枝杄之生

[やぶちゃん注:「杄」は、この場合、「揷」の異体字。]

其花葉都類蒴藋陸英水芹輩此木乃有折傷續筋骨之功

故名之

氣味【甘苦】折傷續筋骨除風痺齲齒可作浴湯

△按接骨木人家藩籬植之三四月開小白花攅生作朶

 經年者結子攅簇赤俗用此木削小杵用按積聚疝塊

 

   *

 

にはとこ  續骨木《ぞくこつぼく》

      木蒴藋《ぼくさくてき》

接骨木

     【和名、「美夜都古木《みやとこぎ》」。

      俗、云ふ、「尒波止古《にはとこ》」。】

ツヱツ クラツ モツ

 

「本綱」に曰はく、『接骨木《せつこつぼく》、高さ、一、二𠀋許《ばかり》。木の軆《てい》、輕虛にして、心《しん》、無《なし》。枝を斫《き》り、之れを杄《さ》≪せば≫、生ず。其の花・葉、都《すべ》て「蒴藋(そくづ)」・「陸英」・「水芹《すいきん》」の輩《うから》に類《るゐ》す。此の木、乃《すなは》ち、折傷≪せる≫筋・骨を續《つぐ》の功、有(あり)。故に、之れを名づく。』≪と≫。

『氣味【甘苦。】折傷≪せる≫筋・骨を續(つ)ぎ、風痺《ふうひ》を除《のぞき》、齲齒《うし》[やぶちゃん注:「虫歯のズキズキする痛みには」の意。]≪には≫、浴湯《よくたう》に作《なす》べし。』≪と≫。

△按ずるに、接骨木《にはとこ》、人家、藩-籬(まがき)の之れを植う。三、四月、小≪さき≫白花を開き、攅生《さんせい》して[やぶちゃん注:群がって生じ。]、朶《ふさ》を作る。年を經《へたる》者は、子《み》を結ぶ。攅-簇《こゞな》りて、赤し。俗、此の木用ひて、小≪さき≫杵《きね》を削《けずりいだす》。用ひて、積聚《しやくじゆ》・疝塊《せんくわい》を按《やすん》ず。

 

[やぶちゃん注:「接骨木」は、中国の漢方生剤「接骨木」の基原種である、中国北部原産の、

双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ(莢蒾)科ニワトコ属ヒロハニワトコ(旧名・異名コウライニワトコ) Sambucus williamsii

を指す(「維基百科」の「接骨木」を見よ)。一方、本邦では、中国にも分布する、

ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana

を指す。本邦のそれは、コウライニワトコとは種小名が異なり、亜種でもあるので、別種である(東洋文庫訳では、「本草綱目」の引用本文の「接骨木」に早々と安易に『(スイカズラ科ニワトコ』とやらかして、日中で同種とやらかしてしまっている)。因みに、確かに別種である(シノニムでない)ことは、「維基百科」の「接骨木属」で、『无梗接骨木 Sambucus sieboldiana (日本和朝)』(この学名はニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana のシノニムである)の一つ下に、『接骨木 Sambucus williamsii 』を挙げていることから、明白である。独立した「維基百科」の「接骨木」も見られたい。

 まず、ヒロハニワトコについては、しっかりした日文の記事があまりない。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「ニワトコ 庭常」のページにある記載が、最新の内容(学名等)なので、引用する(学名が斜体でないのはママ)。

   《引用開始》

11 Sambucus williamsii Hance コウライニワトコ 高麗庭常

  synonym Sambucus williamsii Hance var. coreana (Nakai) Nakai

  synonym Sambucus manshurica Kitag.

  synonym Sambucus coreana (Nakai) Kom. et Aliss.

  synonym Sambucus latipinna Nakai  ヒロハニワトコ  [Ylist]

 朝鮮、中国(安徽省、福建徽省、甘粛徽省、広東徽省、広西徽省、貴州徽省、河北徽省、黒竜江徽省、河南徽省、湖北徽省、湖南徽省、江蘇徽省、吉林徽省、遼寧徽省、陝西徽省、山東徽省、山西徽省、四川徽省、雲南徽省、浙徽省江)、ロシア原産。中国名は接骨木 jie gu mu。別名はトウニワトコ。中国以外のものはヒロハニワトコ(Sambucus latipinna)と分類されていたが、まとめられた。標高5001600mの山の斜面、低木地、沢沿い、道端、民家の傍に生える、葉と花序が無毛、花序にパピラがあるだけ。コウライニワトコはニワトコ(Sambucus sieboldiana)に近いが、髄が暗色で、葉の小葉が少なく、鋸歯がより明瞭で、花序が小型である。POWO(Kew)では日本を分布域に含めている。

 低木又は小高木。高さ56m。古い枝は赤褐色、狭い楕円形の皮目が目立つ。髄は帯褐色。葉は奇数羽状複葉。小葉は(1)2 3(5)(jugate)、側小葉は卵状円形~狭楕円形~長円状披針形、長さ5-15㎝×幅1.27㎝、基部はくさび形~円形、ときに心形、非対称、縁には不規則な鋸歯があり、ときに基部や中間より下に1~数個の腺のある歯をもち、先は鋭形~尖鋭形、または尾状。小葉の最下の対は小葉柄が無又は長さ約0.5㎝以下。頂小葉は卵形又は倒卵形、上面には若い時にまばらに毛があり、無毛になり、小葉柄は長さ約2㎝、基部はくさび形、先は尖鋭形又は尾状。托葉は 狭線形又は帯青色の突起に減じる。花序は頂生の集散花序からなる円錐花序、長さ511㎝×幅414㎝、花序柄があり、ときにまばらに毛があり、すぐに無毛になる。花は葉の展開と同時に現れ、密。萼筒はつぼ形、長さ約1㎜。萼片は三角状披針形、わずかに萼筒より短い。花冠は蕾では帯ピンク色、開くと白色又は帯黄色。花冠筒部は短い。花冠裂片は長円形又は狭卵状円形、長さ約2mm。雄しべは広がり、花冠裂片の長さとほぼ同長。花糸は基部でわずかに広がる。葯は黄色。子房は3室。花柱は短い。柱頭は3裂。果実は赤色、まれに青黒色又は紫黒色、卵形又はほぼ球形、直径35㎜。核は23個、卵形~楕円形、長さ2.53.5㎜、わずかにしわがある。花期は45月。果期は910月。2n=36

   《引用終了》

 次に狭義の本邦のウィキ「ニワトコ」を引く(注記号はカットした)。『別名セッコツボク[4]。山菜や民間薬に利用される』。『日本の』同種の『漢字表記である「接骨木」(ニワトコ/せっこつぼく)は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。中国植物名は、「無梗接骨木(むこうせっこつぼく)」といい、ニワトコは中国で薬用に使われる接骨木の仲間であり、中国名(漢名)で接骨木といえばトウニワトコ』(⇒コウライニワトコ)『を指す』。『地方により、ヤマダズ(山たづ)、タズノキ(タヅノキ)、ダイノコンゴウ(関東地方)などの方言名がある。「山たづ」は、日本最古の歌集』「万葉集」にも『詠まれた』(二首)『呼び名で、対生の羽状複葉をツルの羽を広げた姿に見立てたもので、ツルの古名「たづ」からきているとする説がいわれている』。『日本での古名はミヤツコギ(造木)と称されており、平安時代の本草書』「本草和名」に『接骨木、和名美也都古木」と『あり、平安時代後期の歌人源俊頼の自撰歌集』「散木奇歌集」には『「春たてば 芽ぐむ垣根の みやつこ木 我こそ先に 思ひそめしか」と詠まれている。ミヤツコギの名は「宮仕う木」に由来し、紙を切って木に挟み神前に捧げた幣帛(御幣)が、大昔は木を削って作られた木幣だったものと推定され、その材料に主にニワトコが用いられたとの説がいわれている。 また』「古事記」の『「允恭天皇記」が伝える衣通王』(そとおりのみこ:「衣通姫」とも書く)『の歌に「山たづ」が歌われ、「山たづは今の造木なり」との注釈がある』。『日本では、北海道、本州、四国、九州(対馬・甑島・種子島・奄美大島を含む)に分布し、日本国外では、朝鮮半島や中国に分布する。暖地の丘陵、山麓、谷間などの、原野や山野の林縁など』、『いたるところにみられ、湿気があって日当たりのよい所に多い。古来より栽培もされていて庭にも植えられる』。『落葉広葉樹の低木。樹形は下部からよく分枝し、枝は独特な弧形を描き、高さは』二~六『メートル』『になる。幹の古い樹皮は黒褐色で厚いコルク質があり、目の粗い深いひび割れが入る。枝は太めで毛はなく、樹皮は褐灰色で皮目があり、若い枝は緑色から灰褐色で、生長とともに厚いコルク質層が発達し、縦にひび割れが生じる。枝に太くて白い髄がある。早春に花序と葉が同時に芽吹く』。『葉は対生し、奇数羽状複葉で長さ』八~三十『センチメートル』、『花のつかない枝の葉は長さ』八センチメートル『の葉柄を含めて』四十五センチメートル『に』も『なる。小葉は長さ』五~十二センチメートル、『幅』一~三・五センチメートルの『先のとがった長楕円形から広楕円形で、基部は円形か』。『円』(まる)『い』、『くさび形になり、短い小葉柄があり、縁には細鋸歯がある。花のつく枝の小葉は』二~三『対、つかない枝のものは』三~六『対となる』。『花期は春(』三~五『月)。若葉が開くとすぐに、今年枝の先端に長さ幅とも』三~十センチメートル『になる円錐花序を』出『し、淡黄白色の小さな花を多数つける。花冠は径』四~五『ミリメートル』で。五つに『深裂し、かすかに匂いがある。雄蘂は』五『個で花弁より短い。子房は鐘状で』三『室からなる』。『果期は』六~七『月。果実は長さ』三~五ミリメートル『になる球卵形の核果となり、梅雨のころに赤色から暗赤色に熟す。中に』三『個の種子が入る。果実が黄色に熟す種』(たね)『が』、『まれにあり、キミノニワトコという。果実の中には』三『個の種子があるが、成熟するのは』一、二『個で、残りは不稔となる』。『冬は枝先が枯れることが多いことから、冬芽の頂芽は発達せず、側芽は枝に対生する。頂芽は副芽を伴い』、六~八『枚の芽鱗に覆われる。花芽は大きく、広楕円形で丸みを帯び、葉芽は長卵形である。冬芽のわきにある葉痕は大きく、半円形で維管束痕が』三~五『5個』、『つく』。『実生または、挿し木で繁殖させる。定植後に、根元から側芽が多数生えるので』二、三『本を残して旧枝を剪定する』。『若葉を山菜にして食用としたり、その葉と若い茎を利尿剤に用いたり、また材を細工物にするなど、多くの効用があるため、昔から庭の周辺にも植えられた。魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りや、アイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた。樹皮や木部を風呂に入れ、入浴剤にしたり、花を黒焼にしたものや、全草を煎じて飲む伝統風習が日本や世界各地にある』。『若葉は山菜として有名で、天ぷらにして食べられる。採取時期は』三~四『月ごろが適期で、すんぐりとしたはかまの間から出る若芽を摘み取る。はかまを取り除いて天ぷらにするほか、よく茹でて水にさらし、おひたしにしたり、ごま・酢味噌・からしなどで和えた和え物にする。食味は独特の味と舌ざわりがあり、滋養強壮によいとされる。ニワトコの若葉の天ぷらは「おいしい」と評されるが、青酸配糖体を含むため』、『多食は危険である。体質や摂取量によっては下痢や嘔吐を起こす中毒例が報告されている』。『果実は焼酎に漬け、果実酒の材料にされる』。『春から夏に採取した葉を細かく切って天日乾燥させたものは生薬になり、「ニワトコ」もしくは「接骨木葉」と称して民間薬として使われる。水腫、利尿、発汗、筋骨挫傷について薬効があり、便秘、水種、浮腫を目的に、葉』を『煎じ』、『服用する用法が知られている。挫傷には茎葉』『を』『水で煎じて、患部を温罨法』(おんあんぽう)『する』。『葉や枝の黒焼きを打撲の民間薬にもした。また、古代エジプトでは』、『糖尿病の症状である多尿の治療のために、ニワトコの実や新鮮なミルクを混ぜたものが飲まれていたという記録が残されている』。『枝は夏に採取して細かく刻み』、『天日乾燥させたものが利用される。打撲、捻挫、あせも、湿疹、神経痛に、枝の乾燥品』『を布袋に入れて、浴湯料として風呂に入れて使用する方法が知られている』。『枝の髄は太く発達し、若い枝から抜き出した髄を乾燥させたものは、顕微鏡観察の標本用に、生物組織から徒手にて薄い切片を切り出すときの支持材(ピス)の材料として利用され、今日でもキノコの同定などで簡易に組織切片を得るときなどに重用されている』。以下、「下位分類」の項。

〇亜種変種オオニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana var. major(『日本海側の多雪地帯に分布』)。

〇亜種エゾニワトコ Sambucus racemosa subsp. kamtschatica (『北海道、本州の関東地方北部以北に分布し、標高の高い場所(北海道で』二百~五百メートル、『本州で』千七百五十メートル『以上)に生育する。外国では、朝鮮中北部、中国東北部、南千島、樺太、カムチャツカに分布する。花序に毛状の突起がある』)

〇セイヨウニワトコ Sambucus nigra (『花に良い香りがあり、赤実と黒実がある』)

『ニワトコは小葉の数、形、大きさや果実の色などに変異が多く、この他に多くの品種(form)がある』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「接骨木」([088-79a]以下)のパッチワークである。

「續骨木《ぞくこつぼく》」「維基百科」の「接骨木」で「本草綱目」初出。

「木蒴藋《ぼくさくてき》」同前で「唐本草」初出。この「蒴藋」というのは、マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ソクズ Sambucus chinensis の漢語名である。多年草で、別名をクサニワトコ(草接骨木)と言う。日中に分布する。当該ウィキを見られたい。

「陸英」前注のソクズ相当の「維基百科」の「接骨草」に、ソクズの花をのみ、指す時の呼称として、『陆英』(=陸英)は上がっており、その初出を「神農本草經」としてある。

「水芹《すいきん》」セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica の中文名。「維基百科」の水芹」を見よ。

「輩《うから》に類《るゐ》す」草本の種を、木本の種と同じ性質を持った同一グループとするのは、古典的博物誌にありがちであるが、そもそも草本・木本の分類自体が、実はとっくに時代遅れではあるのである。

「風痺《ふうひ》」東洋文庫訳に割注して、『(身体がだるく』、『痛みが身体のあちこちに走る症』』とある。

「浴湯《よくたう》に作《なす》べし』先の邦文のニワトコの引用にあった。

「積聚《しやくじゆ》」東洋文庫訳に割注して、『(臓腑にできるしこり)』とある。

「疝塊《せんくわい》」内蔵の病気に伴って起こる発作性・周期性の激しい腹痛を「疝痛」というが、この場合は、その痛みの中心に何らかの腫瘍があるものを言うか。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 冨𫮍高姥椎ノ木オサン婆々

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「とみざきのたかうば・しひのきおさんばば」と読んでおく。「山姥」は、私のものでは、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の私の注が、一番、宜しいと思う。他に『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山姥奇聞』もあるのだが、これは、内容がフラットな解説ではなく、柳田特有の癖で、自分の好きなフィールドに引き込んで語っているために、どうも妙な違和感がある。「山姥」の総論的内容を期待すると、失望するので、ご注意あれかし。前者でほぼ全文を引いたウィキの「山姥」を見ると、『高知県では、山姥が家に取り憑くと』、『その家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もある』とあり、また、『宮崎県の』千二百『人の子を出産する山の女神』、『また』、『徳島や高知の昔話によると、山神の妻になった乙姫は一度に』四百四『人あるいは』九『万』九千『もの子を産んだと伝えられている。このように、非常に妊娠しやすいという特徴、異常な多産と難産であるという資質は、元来、山の神の性格であり、山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持つことを示している』とある。話柄内に入れ子型の話があるので、特異的に「――」を用いた。]

 

     冨𫮍高姥椎木オサン婆々

 土佐山郷橫平村に、岩窟(ぐわんくつ)、有り、「山婆が瀧」といふ。

 里人(さとびと)、傳へ言(いふ)、

「徃古(わうこ)、山婆(やまうば)、この所に住居(すみゐ)せし。」

とぞ。

 例祭、九月十七日に、「山婆祭り」を行ひける、とぞ。

 今、按(あんずる)に、「山婆」といふは、「鬼女」にても非(あらざ)るべし。强疆(がうきやう)[やぶちゃん注:人間離れした非常な強さを指す。]なる女(をんな)の、鹿(しし)を食とし、熊に組(くみ)、山犬を生捕(いけどる)などといふ類(たぐひ)なるべし。人も、恐れて、「山婆」と、いへるか。

 むかし、元親朝臣の時、「冨﨑の髙姥」といひしは、橫山孫太夫が妻、とかや。

 背、六尺余り、有(あり)ければ、「髙姥」といヘり。

 元親朝臣、阿州出勢(しゆつせい)の存立(ぞんじだて)[やぶちゃん注:深慮し、意を決すること。]ありけれども、國中(くになか)、凶年、打續(うつつづ)き、軍用、不足ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、延引成(えんいんな)りし所、此髙姥、元親朝臣の前に出(いで)て、いふ。

「誠に候哉(や)、傳承候(つたへうけたまはりさふら)へば、御軍用(おんぐんよう)、不足にて、阿州御出陣、御延引のよし。此(この)婆々(ばば)、金銀、貯へ持(もち)て候。願(ねがはく)は、御用を達し可申(まうすべし)。」

と、言上(ごんじやう)しければ、元親朝臣、その志を感ぜさせ玉ひ、許容ありければ、銀五貫目、さし上(あげ)し、とかや。

 髙姥は、中島村冨﨑と言所(いふところ)に居(をり)たる由(よし)。

 又、「髙姥が芋桶(いもをけ)」とて、今、浦戶の海部屋權助(かいふやごんすけ)、所持しけると也(なり)。水、三升斗(ばかり)入(はい)る杉桶(すぎを)なり。

[やぶちゃん注:「元親」長宗我部元親。「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既注。

『「冨﨑の髙姥」といひしは、橫山孫太夫が妻、とかや』Tikugonokami氏のサイト「長宗我部元親軍記」のこちらに、『高姥(生没年不詳)』『長宗我部元親の家臣・横山孫太夫の妻。身長が高く高姥と呼ばれていた』。天正三(一五七五)『年、元親が阿波に出兵するための軍資金が乏しく困っているのを知ると』、『芋桶に銀を入れて献上した。元親は』、『その銀を元手に阿波に出兵し』、『勝利している』とある。

「中島村冨﨑」高知県土佐市中島。「ひなたGPS」で、同地区の戦前の地図を調べたが、「冨𫮍」「冨﨑」の地名は見当たらなかった。

「浦戶」現在の高知市浦戸(うらど)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。

「海部屋權助」不詳。ただ、「海部屋」は「理系の退職者」氏のブログ「気ままな推理帳」の「立川銅山(7) 海部屋平右衛門は、創始者海部屋権右衛門の孫であった」に『海部屋の創始者で』、『阿波国海部中村』『に住んでいた権右衛門は、阿波三好氏の後裔で、兄彦太郎の遺命により武士をやめ、慶長元年』(一五九六)『堺の南宗寺へ』行き、『住持沢庵和尚の俗弟子となり、和漢の産物を交易し』、『業』(なりわい)『とし』、『産を積んだ。海部郡出身の故を以て屋号を海部屋と称した。寛永元年』(一六二四)に『病歿した』が、『その子孫は商業に従事し、富豪を以て世に鳴り、支族』、『また』、『繁栄した』とあるから、その子孫、或いは、関係者ででもあったのかも知れない。]

 或人(あるひと)云(いはく)、

――寛文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。]、「椎の木のおさん」といふもの、幡多郡(はたのこほり)に有り。[やぶちゃん注:高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。]

 是も强疆なる者にて、

「深夜に大山(おほやま)を行(ゆく)といへども、恐るゝ者の、無(なし)。」[やぶちゃん注:「大山」は固有名詞ではなく、「路程が長い、人気のない深山である大きな山」の意。]

と、いへり。

 往來の旅人を相手にして、暮しぬ。

 此婆々がいはれは、毛利壱岐守殿父子を、御當家に御あづかり被成(なされ)、壱岐守殿は、當國にて、死去、子息豊後守殿[やぶちゃん注:後注するが、「豊前守」の誤記。]は、久戶村[やぶちゃん注:後注するが、「久万村」の誤記。]に被居(をられ)ぬ。

 或時、旅人、來り、

「私(わたくし)義は、豊前國小倉の町人にて候。殿樣、此國に被成御座(なりおまさる)と承り候故、御機嫌伺(ごきげんうかがひ)に罷越(まかりこし)し候。」

と、申上(まうしあげ)ければ、豊後守殿、聞(きこ)しめし、

「遙々(はるばる)尋ね參り候段(さふらふだん)、奇特成(なる)もの也。其(それ)、町人の事なれば、苦しかるまじ。」

とて、對面被致(いたされ)けるに、豐前守殿、被申(まうさる)るは、

「汝は、何者ぞ。此方(こはう)にて、覚(おぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]ぬ。」

よし、被申(まうされ)ければ、

「私は、八百屋にて、常々、御臺所(みだいどころ)ヘ、八百屋物(やおやもの)、さし上(あげ)候者に御座候。『御機嫌伺上候樣に。』、親とも申付候故、參上仕候。」

と申ければ、

「成るほど、見た樣(やう)にも、ある。」

と被申(まうさる)。

 扨、家の侍へ被申候は、[やぶちゃん注:底本(ここの三行目)では、私が判読した「扨家の」の、右やや上から、朱で、『本ノマヽ』とある。「近世民間異聞怪談集成」は不思議なことに、この部分で、『扨、物主の』と判読しているのだが、逆立ちしても、絶対に、そうは読めない。一方、国立公文書館本83の左最終行上部)を見るに、私には「扨家の」と判読出来るように思われる。底本の筆写者は『物家の』と判読してしまって書いているのだと思う。それでは、意味が通らないから朱書を施したのだろう。またしても、「近世民間異聞怪談集成」のおかしな字起こしに遭遇してしまった。

「只今、聞(きける)とふり也。町人の事也(なり)。何か、くるしかるまじ。今夜(こよい)は、此方(このはう)にて、一宿させ、明日、戾し申度(まうしたし)。」[やぶちゃん注:「とふり」はママ。しかし、国立公文書館本83)を見ると、全体が「聞るか通り也」と判読出来るように思う。されば、ここは「聞(きこゆ)るが通(とほ)り也」と読めて、何ら問題がない。ダブルで、おかしいね、「近世民間異聞怪談集成」は……。

と、有(あり)て、留(とど)められける。

 無程(ほどなく)、夜に入り、

「国許(くにもと)の咄(はなし)、承り度(たし)。」

とて、御前へ被呼(よべらる)。

 誰(たれ)も居(をら)ぬ場合(ばあひ)を被見(みられ)、豊前守殿、被申けるは、「其方は、誰人(たれぴと)ぞ、我等は、實(まこと)に、しらず。」

と仰せければ、其時、

「私は、家里(いへさと)伊賀守と申者にて候。秀賴公の御使(おんし)に參り申候。秀賴公御意(ぎよい)に、近々、御籠城被成候間(ごらうじやうなされさふらふあひだ)、御味方に被參(まゐられ)候樣に。」

と、御口上(おんこうじやう)を申し上(あぐ)る御書(ごしよ)をさし出(いだ)し候へば、豐後守殿、御書を頂戴、有(あり)、

「奉畏侯(かしこまりたてまつりさふらふ)。」

と、御請(ごせい)、有(あり)て、翌日、歸り候節は、本(もと)の町人のあしらひにて、

「長途、路銀に致(いたし)候へ。」

と、文庫の內より、手づから、「こま銀」を、手に一杯、すくひ、賜り候よし。

 扨、夫(それ)より、豐前守殿は、內々、用意、有(あり)て、或夜、浦戶より、八反帆の舩を、津の崎【今の愛宕山也。】まで漕入(こぎいれ)させ、津㙒﨑のほとりにて、餞別の酒(さか)もりして、浦戶より、舩、出(いだ)して、大坂、豊前守殿、子息式部殿、籠城にて、父子ながら、討死せられける【家里氏子息の咄(はなし)の由(よし)也。】。

 扨、大坂籠城以後、段〻(だんだん)、御吟味有(あり)て、其節の勤番、山田四郎兵衞は、切腹す。

 浦戶の舩頭(せんどう)は、幡多(はた)へ御追放有(あり)て、此の「をさん婆々」は、幡多にて儲(まうけ)し舩頭が娘なり、とぞ。

 母は、その產に死し、舩頭も、無程(ほどなく)、死失(しにう)せて、娘は孤(みなしご)と成(なり)て、人の蔭にて[やぶちゃん注:ひとのおかげを以って。]、成長して、一生、寡(ヤモメ)にて、店屋、商(あきなひ)しける――とぞ。

 

[やぶちゃん注:「毛利壱岐守殿父子」「毛利壱岐守」は毛利勝信 (?~慶長一六(一六一一)年)。尾張出身で、本姓は森、初名は吉成、号は一斎。豊臣秀吉に仕え、天正一五(一五八七)年、豊前小倉六万石の城主となった。「関ケ原の戦い」で西軍に属し、敗れて、子の勝永とともに旧知の仲であった土佐高知藩主山内一豊に預けられ、配所で没した。以上は、主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠ったが、詳しくは、当該ウィキを見られたい。その「子」は割注した通り、「豊後守」ではなく、「豊前守」であった毛利勝永(?~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))。毛利勝信の子で、初名は吉政。「関ケ原の戦い」で西軍に属し、敗れて、父とともに土佐高知藩主山内一豊に預けられたが、ここにある通り、慶長十九年、子の勝家とともに配所を脱走、大坂城に入り、翌年の「大坂夏の陣」で、落城の際に自殺した。同前であるが、詳しくは、当該ウィキを見られたい。

「久戶村」割注で述べた通り、「久万村」(くまむら)の誤記。確かにウィキの「毛利勝永」には、『勝永は高知城の北部の久万村で生活をし、折々に登城をすることもあった』とある。「久万村」は、以上から、調べたところ、現在の高知市にある、「東久万」・「西久万」・「南久万」・「中久万」に相当する地区である。「ひなたGPS」の戦前の地図に、列記した現在地名の箇所に大きく『久万』とあることで、間違いない。次の次の注で引用した先に、その中の「中久万」に蟄居中の屋敷跡があることが示されてあり、写真があるので、ストリートビューで探したところ、ここであることが判った!

「豊前國小倉の町人にて候」毛利勝信は天正一五(一五八七)年に、豊前国の二郡(規矩郡・高羽郡)と、小倉六万石を与えられている

「家里伊賀守」「筑後守」氏のサイト「大坂の陣絵巻」の「毛利勝永」のページに、慶長一九(一六一四)『年のある日、勝永の元に旧領の小倉の商人と名乗る男が訪ねてくる(父の勝信は』既に三年前に『亡くなっていた)。しかし、その正体は豊臣家の家臣・家里伊賀守であった。彼は秀頼の「大坂に入城して力を貸せ」と言う言葉を伝える。親子二代で豊臣家に大恩ある勝永が断わるわけがなく』、『喜んで』、『その話を受け、海を渡って大坂城に入った』。「冬の陣」では』、『二ノ丸西方の西ノ丸西と今橋を受け持っていたが、勝永は大した活躍もできずに和平を迎えている』。翌年五月の「夏の陣」『では、真田幸村・後藤基次らと共に、大和路の別働隊を叩くために出撃した。ここで勝永と幸村は霧の為に約束の場所の国分への到着が遅れてしまい、単独で戦闘に挑んだ後藤基次隊の壊滅の原因を作ってしまう(道明寺の戦い)』。『幸村はこの時、自分を責め、「このまま自分も後藤隊のように突撃する」と勝永に言うが、逆に「遅参は貴殿のせいではない。どうせ死ぬなら、明日、秀頼様の前で戦って討ち死にしましょう」と励ましている』。『【家康の首を求めて】この戦いの翌日、勝永はまたも真田幸村と共に茶臼山に布陣する。ここで秀頼の出撃を待ち出馬と同時に攻撃を開始する予定であったが、秀頼の出馬取り止めと敵の進撃スピードが早かったため』、『乱戦に巻き込まれる(天王寺・岡山での最終決戦)』。『毛利隊はまず本多忠朝』(ほんだただとも)『隊と戦うが、死を覚悟した毛利隊は』、『疾風の如き活躍で敵の大将・忠朝を討ち取った。本多隊を破った毛利隊は、次から次へと徳川軍を撃破して家康の本陣に突入するが』、『家康本人は真田隊に追いたてられ』、『逃げた後で、もぬけの殻であった。勝永達はそこで家康の姿を捜すが』、『見つける前に徳川軍の新手が現れ』、『結局は撤退する他なくなってしまう。そこでも勝永は見事に大坂城に撤退すると、山里曲輪で秀頼の首を介錯した後に自害した』とある。また、最後に『ちなみに当時は『毛利』と書いて『もり』と読んでいたようなので、字だけが変わって読み方は同じだったみたいです。以上、豊臣家のために尽した毛利勝永でした』と擱筆しておられる。]

2024/10/15

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 柏尾山観音

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「かしをやまくわんのん」と読んでおく。現在の高知市春野町芳原にある(グーグル・マップ・データ航空写真)。「高知市」公式サイト内の「文化財情報 有形文化財 観音正寺観音堂」によれば、『この寺は、約』千百年『年前に行基が観音像を刻み、柏尾山(かしおやま)山頂に安置し、堂を建てて「観正寺(かんしょうじ)」としたのがはじまりといわれています。その後、堂は火災にあい、長宗我部元親』(本文にも出る、国司家一条氏を追い出し、土佐を統一して、その後、各地の土豪を倒し、四国を統一した戦国大名。詳しくは、「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」の私の注を見られたい)『が信仰した時期には一時移転したこともありましたが、再び柏尾山の麓に戻りました。その後寺は廃れていましたが、土佐藩二代藩主山内忠義が「観音正寺(かんのんしょうじ)」として再興したと伝えられています』。『観音堂は円柱』が四方に配された『三間』(五・四五メートル)四方の『仏堂であり、正面は正方形につくられています。内部は外陣と内陣にわかれ、内陣には円柱二本を建て禅宗様の仏壇もかまえています。江戸時代初期の建立とみられ、蟇股(かえるまた)や頭貫(かしらぬき)・木鼻(きはな)は』、『つくり方や材料まで含めて立派なものです。なかでも、蟇股の中に彫られた宝相花』(ほうそうげ:通常は「宝相華文(もん)」と言う。中国の唐代、日本では奈良から平安時代に盛行した文様で、八弁の先の尖った花で、インドの花文が東漸につれて複雑華麗になった)『ウメ・タチバナ・ボタン・モモ・ビワ・フジなどの植物の彫刻は、傑作として高く評価されています』とある(上記グーグル・マップ・データのサイド・パネルの教育委員会の説明版の画像を参考にして、一部、文章がおかしい箇所を、判り易く書き変えた)。「蟇股」・「頭貫」・「木鼻」については、栃木県宇都宮市の寺社建築を手掛ける「株式会社カナメ」公式サイトの中の、「蟇股」はここ、「頭貫」はここの「32」で、「木鼻」はここで、非常に判り易く解説されてある。]

 

     柏尾山観音

 慶長五年、盛親、關ケ原陣に登られし時、常に信じ玉ふ柏尾山の観音へ參詣ありけるに、既に、十四、五丁[やぶちゃん注:一・五三~一・六四メートル。]に至る所に、観音堂より、白布、廿𠀋[やぶちゃん注:六十・六〇メートル。]斗(ばかり)、髙く立上(たちあが)りぬ。

 盛親を初め、供の靣〻(めんめん)、不思議におもひ、目を放さず、守(まも)り、近づくまゝに、是を見れば、布には、あらで、白雲、靉靆(あいたい)たり[やぶちゃん注:棚引いているのであった。]。

 漸々(やうやう)に、ちかく成(なる)うちに、観音の尊像、現(げん)じ、行衞(ゆくへ)も知らず、失玉(うせたま)ふ。[やぶちゃん注:「現じ」は底本では「現し」。「近世民間異聞怪談集成」では、そのまま活字としているから、「あらはし」と読んでいるのであろうが、私は断じてそうは読まぬと断ずる。]

 上下(かみしも)、奇異のおもひをなす所に、観音堂より、黑煙(こくえん)を巻ひて、燃へ[やぶちゃん注:ママ。]出(いで)たり。

 諸人(しよにん)、驚(おどろき)て、息(いき)をばかりに、蒐付(あつまりつけ)ければ、はや、一時(いつとき)に灰燼(くわいじん)とぞ成(な)りにける。

 是れ、盛親、滅亡の「しるし」なり。

 

[やぶちゃん注:実は最後の「蒐付(あつまりつけ)ければ」は、どうもピンと来ないし、読みも「蒐」の字からは、ちょっとズレるのが気に入らないでいる。この「蒐」の字は、結局、「近世民間異聞怪談集成」が判読した字を用いたのであるが、底本(右丁後ろから二行目冒頭)も、国立公文書館本82:右丁後ろから二行目の中央やや下)も、どうも「蒐」の字のようには、私は見えない。当初は「莵」と判読して、「莵付」で「とつき」とでも読もうと思ったが、それも当て字に過ぎて、どうもいけない。何方か、まず、漢字の判読、而して、読みをお教え下さるよう、お願い申し上げるものである。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 藤天蓼

 

Matatabi2

 

[やぶちゃん注:右下方にマタタビの実の図が添えられてある。]

 

またゝび   今云末太太比

 

藤天蓼

       【有三種中其

        木天蓼小天

        蓼之二品不

        多有】

 

本綱藤天蓼生江南淮南山中作藤蔓葉似柘花白子如

棗許無定形中瓤似茄子味辛噉之以當薑蓼

枝葉【辛温有小毒】 治癥結積聚風勞虛冷

子【苦辛微熱】 治𮚆風口靣喎斜氣塊女子虛勞

[やぶちゃん字注:「𮚆」は「賊」の異体字。]

△按藤天蓼備中伊豫遠州和州丹波山中多有之今人

 家亦植之其蔓蒼黒葉似柘及櫻桃葉而皺三四月開

 小白花狀似梅花而小結實伹有雌雄雌者實狀如五

 倍子而青色雄者實狀如棗人採其嫩葉合酸未醬食

 之猫常喜食之如視此樹則抓穿根食皮爲之枯凡病

 猫食天蓼子起也人又盬漬食之

 

   *

 

またゝび   今、云ふ、「末太太比」。

 

藤天蓼

       【三種、有≪る≫其の中《うち》、

        「木天蓼《もくてんれう》」・「小天

        蓼《しやうてんれう》」の二品は、

        多≪くは≫有らず。】

 

「本綱」に曰はく、『藤天蓼、江南[やぶちゃん注:現在の江蘇省・浙江省。]・淮南《わいなん》[やぶちゃん注:現在の安徽省中部の淮南市を中心とした広域。]の山中に生ず。藤蔓(《ふじ》づる)≪の樣なる蔓≫を作《な》す。葉、「柘(やまぐは)」に似、花、白し。子《み》、「棗《なつめ》」許《ほど》のごとく≪にして≫、定《さだま》れる形、無し。中の瓤(み)[やぶちゃん注:「綿(わた)」。]、茄子に似て、味、辛し。之れ≪を≫噉《く》らふ。以つて、薑(はじかみ)・蓼(たで)に當《あ》つ[やぶちゃん注:~のようなものとして食物(香辛料)に当てる。]。』≪と≫。

『枝・葉【辛、温。小毒、有り、】』『癥結積聚《ちようけつしやくじゆ》・風勞虛冷《ふうらうきよれい》を治す。』≪と≫。

『子【苦辛、微熱。】』『𮚆風口靣喎斜《ぞくふうこうくわしや》・氣塊《きくわい》・女子≪の≫虛勞を治す。』≪と≫。

[やぶちゃん字注:「𮚆」は「賊」の異体字。]

△按ずるに、藤天蓼《またたび》は、備中[やぶちゃん注:現在の岡山県西部。]・伊豫[やぶちゃん注:愛媛県。]・遠州・和州・丹波≪の≫山中、多く、之れ、有り。今、人家にも亦、之れを植う。其の蔓、蒼黒。葉、「柘《やまぐは》」、及び、「櫻桃(ゆすらむめ)」の葉に似て、皺(しは)み《✕→む》。三、四月、小≪さき≫白≪き≫花を開く。狀《かたち》、梅の花に似にて、小《ちいさ》し。實を結ぶ。伹《ただし》、雌雄、有り、雌なる者の實は、狀、「五倍子《ふし》」のごとくして、青色。雄≪なる≫者の實は、狀、棗のごとし。人、其の嫩葉(わか《ば》)を採り、酸未醬《すみそ》[やぶちゃん注:酢味噌。]に合《あはせ》て、之れを食す。猫、常に、喜んで、之れを食ふ。此の樹を視る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、根を抓穿(かき《うが》)ち、皮を食ふ。之れが爲《ため》に、枯《かる》る。凡そ、病≪める≫猫、天蓼子《またたびのみ》を食へば、起《たつ》なり。人、又、盬《しほ》漬に《つけ》て、之れを食ふ。

 

[やぶちゃん注:これは、前項の「木天蓼」全くの同種で、

双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama

であるので、そちらの私の注を見られたい。全くの同一種であることは、中文サイト「腾讯网」の「木天蓼是什么神奇植物?」の「木天蓼是什么?」の条に、『木天蓼为猕猴桃科植物木天蓼(Actinidia polygama (Sieb. et Zucc.) Mip.)的枝叶。分布于我国北、西北及西、山、湖南、湖北、四川、浙江、云南等地。』(学名が斜体でないはママ)とし、『味辛,性温。肝、肾经。具有祛除湿,温止痛,症瘕的功效。治半身不遂,寒湿痹,腰疼,疝痛,症瘕聚,气痢,白癞风等病症。』とした後に、『别名:天蓼、藤天蓼、』(☜)『天蓼木、金枝、葛枣猕猴桃。』『猫猫的虫果也是木天蓼的物。在每年三到五月的候,在木天蓼花开之前,有固定品种昆虫在花蕾中卵,并形成了凹凸不平的旋状果,而非正常的椭圆形果种虫干燥后可用作人类草,同来欣快感。』とあることで、確認出来た。

 「本草綱目」の引用も、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木天蓼」([088-77b]以下)のパッチワークであるが、ここで、良安は、引用書で「木天蓼」で一括されている項から、わざわざ、分離して別項を立ててしまい、しかも、「本草綱目」の解説も、以下に示すように、殆んどの部分は、時珍ではない先達の本草学者たち(陳蔵器ほか)が記載した内容引用部の多くを、わざわざ、ここに当てて、あたかも、「本草綱目」が二種を同属別種ででもあるかのように書いたように、良安は改竄して部分引用した上、挿絵さえも、明らかに異なる同じ仲間の別種であるかのように描いてしまっているのである。しかも、良安の解説は、その違いを自分の表現では語っていない、というか、二つの項目名の下の和名でどちらも同じ「マタタビ」であることを指示しているという、甚だ不審な、今までなかった摩訶不思議な分離項記載となってしまっているのである。ともかく、「本草綱目」の「木天蓼」の項を総て掲げなくてはなるまい。良安が引用した部分を下線で、カットした記載者提示部分に太字で示した(「漢籍リポジトリ」のものの一部の表記に手を加えた)。

   *

木天蓼【唐本草】  校正【併入拾遺小天蓼】

釈名【時珍曰其樹高而味辛如蓼故名又馬蓼亦名大蓼而物異】

集解恭曰木天蓼所在皆有生山谷中今安州申州作藤蔓葉似柘花白子如棗許無定形中瓤似茄子味辛噉之以當薑蓼藏器曰木蓼今時所用出山南鳯州樹高如冬青不凋不當以藤天蓼爲注既云木蓼豈是藤生自有藤蓼耳藤蓼生江南淮南山中藤着樹生葉如梨光而薄子如棗卽蘇恭以爲木天蓼者又有小天蓼生天目山四明山樹如巵子冬月不凋野獸食之是有三天蓼俱能逐風而小者爲勝頌曰木天蓼今出信陽木高二三丈三月四月開花似柘花五月采子子作毬形似檾麻子可藏作果食蘇恭所說自是藤天蓼也時珍曰天蓼雖有三種而功用彷彿蓋一類也其子可爲燭其芽可食故陸機云木蓼爲燭明如胡麻薛田詠蜀詩有地丁葉嫩和嵐采天蓼芽新入粉煎之句

枝葉氣味辛溫有小毒治癥結積聚風勞虛冷細切釀酒飮【唐本】

附方【舊一新二】天蓼酒【治風立有奇效木天蓼一斤去皮細剉以生絹盛入好酒三斗浸之春夏一七秋冬二七日毎空心日午下晚各溫一盞飮若常服只飮一次老幼臨時加減 聖惠方】氣痢不止【寒食一百五日采木蓼暴乾用時爲末粥飮服一錢 聖惠方】大風白癩【天蓼刮去粗皮剉四兩水一斗煎汁一升煮糯米作粥空心食之病在上吐出在中汗出在下泄出避風 又方天蓼三斤天麻一斤半生剉以水三斗五升煎一斗去滓石器慢煎如餳每服半匙荆芥薄荷酒下日二夜一一月見效 聖惠方】

小天蓼氣味甘溫無毒主治一切風虛羸冷手足疼痺無論老幼輕重浸酒及煮汁服之十許日覺皮膚間風出如蟲行【藏器】

發明【藏器曰木天蓼出深山中人云久服損壽以其逐風損氣故也藤天蓼小天蓼三者俱能逐風其中優劣小者爲勝】

氣味苦辛微熱無毒主治賊風口面喎斜冷痃癖氣塊女子虛勞【甄權】

根主治風蟲牙痛搗丸塞之連易四五次除根勿嚥汁【時珍濟出普】

   *

これでは、多くの一般読者は全体を読むのを諦めるであろうからして、例の国立国会図書館デジタルコレクションの『新註校定国訳本草綱目』第九冊(鈴木真海訳(旧版をスライドさせたもの)・白井光太郎(旧版監修・校注)/新註版:木村康一監修・北村四郎(植物部校定)・一九七五年春陽堂書店刊)の当該部「木天蓼」をリンクさせておくので、そちらの現代語訳を見られたい。少しだけ、大事な部分を引用すると、「藏器」の引用部で、「藤天蓼」に就いて、『木蓼』を解説している中で、『藤天蓼を以て註說するは當らない。木蓼というふからには藤生であらう筈はない。これ以外に自ら』(おのづから)『藤蓼といふものがあるので、藤蓼は江南、淮南の山中に生じ、藤が樹に著いて生え、葉は梨やう』『で光つて薄く、子は棗のやうなものだ。卽ち、蘇恭が木天蓼としたそのものである。又、小天蓼といふのがあつて、天目山、四明山に生じ、樹は巵子のやうで冬期にも凋まない。野獸がこれを食ふ。かく三種の天蓼があつて、いづれも能く風』(疾患としての風邪)『を逐ふものだが、小さきものが勝れてゐる。』とある。これは、前項の「木天蓼」で述べなかったが、そこの項目標題下に ドン! と物々しく置かれた『木天蓼』・『小天蓼』・『藤天蓼」という『三種』というのは、別種や亜種ではなく、地方名か、異なる成長期の個体の呼び名か、単なる個体変異(群)であると断定してよいのである。

「柘(やまぐは)」良安先生のルビは、アウトである。先行する「柘」で散々ぱら、比定同定に苦しんだ結果、私がほうほうの体(てい)で辿り着いた、「柘」の正体は、

双子葉植物綱バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus austrails ではなく、

〇双子葉植物綱バラ目クワ科ハリグワ連(ハリグワ属一属のみの短型連)ハリグワ属ハリグワ Maclura tricuspidata が「柘」の正体だった

からである。

「棗《なつめ》」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。伝来は、奈良時代以前とされている。

「茄子」ナス目ナス科ナス属ナス Solanum melongena 。脱線だが、私の「老媼茶話 群居解頤曰(嶺南の茄子の大樹)」は、ちょいと、面白いぞ。

「薑(はじかみ)」漢方生薬としては「良姜」で、ショウガ目ショウガ科ハナミョウガ属 Alpinia の根茎を乾したものを指すが、ここは、生の、或いは、酢漬けのそれである。

「蓼(たで)」「檉柳」で既出既注だが、再掲すると、ナデシコ目タデ科 Polygonaceae、或いは、旧タデ属 Polygonum でやめておいた方が無難かと思う。本邦では、単に「蓼」と言った場合、狭義には(私は、最初のイヌタデを想起するが)、

タデ科 Polygonoideae タデ亜科 Persicarieae 連 Persicariinae 亜連イヌタデ属イヌタデ  Persicaria longiseta

或いは、より一般的には、

同属ヤナギタデ Persicaria hydropiper

を指すのであるが、「維基百科」を見ると、タデ科は「蓼科 Polygonaceae」で問題ないのだが、タデ属(但し、現在はタデ属はなくなり、現在は別名の八属に分れている。しかし、それを問題にし出すと、中国のずっと過去の種同定には、ますます辿りつき難くなってしまうのでタデ属で採った)を見ると、「萹蓄属」とあり(但し、別に「蓼属」ともする)、また、本邦のヤナギタデは「水蓼」とあったからである(日中辞典も同じ。因みに、イヌタデ属は「長鬃蓼」「馬蓼」である)。

「癥結積聚《ちようけつしやくじゆ》」東洋文庫の割注に『(腸にできる塊。腸腫瘍)』とある。

「風勞虛冷《ふうらうきよれい》」東洋文庫の割注に『(風邪で咳嗽(せき)・ねあせなどがあり、身体が衰弱するもの)』とある。

「𮚆風口靣喎斜《ぞくふうこうくわしや》」東洋文庫の割注に『(痛風で口や顔がけいれんして歪(ゆが)むこと)』とある。

「氣塊《きくわい》」よく判らんが、漢方「氣滯」があり、体内の「気」のめぐりが滞(とどこお)ることを指すから、それが、放置されて、重度の状態である塊りとなって、経脈を塞いでしまう病態を指すか。

「虛勞」東洋文庫の割注に『(疲労・栄養不良による衰弱)』とある。

「柘《やまぐは》」ここは、バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus bombycis でよい。既に述べているが、本邦の「柘」は、古名で二種を指し、今一つは、ツゲ(柘植)目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica であるので、和文で本邦に植生する植物を漢字のみで蘂した場合は、注意が必要である。

「櫻桃(ゆすらむめ)」複数回既出既注。バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa 。うす甘い、サクランボに似た味のする赤い実で知られる。詳しくは、当該ウィキを見られたい。

「五倍子《ふし》」これも複数回既出既注。白膠木(ぬるで:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)。本プロジェクトの冒頭の「柏」の注を見られたい。]

2024/10/14

山之口貘の処女詩集「詩集 思辨の苑」の「序文」の『佐藤春夫「山之口貘の詩稿に題す」』(初版・正規表現版)

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)を用いた。当該部はここ。]

 

   山之口貘の詩稿に題す

 

家はもたぬが正直で愛するに足る靑年だ

金にはならぬらしいが詩もつくつてゐる。

 

南方の孤島から來て

東京でうろついてゐる。風見みたいに。

 

その男の詩は

枝に鳴る風見みたいに自然だ しみじみと生活の季節を示し

單純で深味のあるものと思ふ。

 

誰か女房になつてやる奴はゐないか

誰か詩集を出してやる人はゐないか

 

     一九三三年十二月二十八日夜 

 

                   佐 藤 春 夫

 

[やぶちゃん注:さても……私が何をおっ始めようとしていることは、もう、お判りであろう……。判らん方は、このブログの欄外のリンク「山之口貘」(私のブログ・カテゴリ)の一番下の記事を、どうぞ!]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 峯寺観音

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。「峯寺観音」「ぶじくわんのん」と読み、現在の南国市(なんこくし)十市(とおち)にある四国八十八箇所第三十二番札所の真言宗豊山派八葉山(はちようざん)求聞持院(ぐもんじいん)禅師峰寺(ぜんじぶじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本尊は十一面観世音菩薩。この寺の北西近くに「石土池」(地元でも「いしどいけ」「いわつちいけ」「いしづちいけ」等と呼ばれ一定しない。池の南に「石土神社」(いわつちじんじゃ)があるが、これは決定打にはならない。神社名を尊び、土地名などとずらすのは、ごく一般的であるからである)があるが、冒頭の「十池」は、その池であろう。地元の方の証言に、「十市の池」とも呼び、その場合「とおちのいけ」と呼んでいるという記事があったので、その「市」が落ちたものであろう。]

 

     峯寺観音

 昔、「十池(といけ)」の池に、大蛇(だいじや)、すめり。

 或時、蛇の骸(むくろ)より、火、出(いで)て、燃(もゆ)る事、三日にして、骨のみ、有り。

 其ほねを、村のもの、集めをく[やぶちゃん注:ママ。]に、或夜、夢、見る。

 一人の女、來りて、

「吾は是(これ)、峯寺(ぶじ)の觀音也。此所(ここ)の池中に、住(すく)事、久し。千年の後、骨中(こつちゆう)より、火、出(いで)て、身を、燒く。今、汝が拾ふ所の燒骨(しやうこつ)を、禪師峰寺(ぜんじぶじ)に納(をさ)むべし。骨は、此山(このやま)に止(とどま)り、心は南方無垢世界(なんはうむくせかい)に遊行(ゆぎやう)する。」

と語(かたり)て、南の天に飛揚(ひやう)す。

 其頭(そのかしら)に戴(いただ)く所のものは、皆、佛面(ぶつめん)なり。

 峯寺の僧に、此旨(このむね)を、つぐ。

 僧の云(いはく)、

「今年正月十八日、七、八歲斗(ばかり)の少女、來りて、『十』の字を書(かき)て、去(さる)。又、一女、來(きたり)て、『一』の字を書(かき)て去る。又、一女、來(きたり)て、[やぶちゃん注:「*」で挟んだ部分は、国立公文書館本81)の右丁一行目下方から、二行目下から二字目までで補った。]『面』の字を書(かき)て去る。如此(かくのごとく)、十一人[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では、この「十一人」を『土人』と起こす。確かに「土」に似ている。しかし、先の国立公文書館本では、はっきりと『十一』と書かれてある。而して、この僧の証言を小学生が見ても、「土」に見えるのは、「十一」がくっ附いたものと理解する。この編者・判読者は、ちゃんと話を通して読めば、「十一」であることは明白だ。どうして、この低レベルの誤判読を放置プレイしてしまっているのだ!?! 何度も言うが、心底、呆れ果てたぞ! 印税、戻して、全面改正し直せ! 馬鹿野郎!]の少女、各(おのおの)、一字を、書(かき)、去る。十一字を並べ見るに、

『十一面觀音菩薩止此山』

と、有(あり)。奇異の恐れをなすといへども、世の人に語るとも、信ぜざるのみにあらず、我を疑ふべし。」

と、他(ほか)にもらさず、過(すご)しぬ。

 後世(ごぜ)、自然に、其(その)妙(みやう)、有るを、待所(まつところ)に、はやくも、在世の內に符節を合(がつ)するに、

「靈瑞、難有(ありがた)し。」

と感淚して、池中の蓮葉(はすのは)を以(もつて)、蛇骨(じやこつ)を包み、宝殿を作り、納(をさ)む。是より、此池、逐年(ちくねん)[やぶちゃん注:「年々」に同じ。]、淺く成(なり)て、昔、「百𠀋が淵」と唱ふ所も、知人(しるひと)、なし。

 

[やぶちゃん注:個人ブログ「あれこれある記」の「石土神社 石土洞」に、『断崖下部の洞窟は石土洞または蛇穴(じゃあな)と呼ばれ、男蛇・毒蛇という雌雄の大蛇が住んでいるとか。洞窟の高さは低いものの、奥は深くてどこまで続いているか誰も知らない(大蛇がいて確かめられない)とか』とあり、さらに、『ふしぎなはなし-「昔、峯寺(32番札所 禅師峰寺)の住職が犬を飼っていて、犬が迷った時のために首輪にお寺の山号を書いた札を吊るしていたそうな。ある日、蛇穴に逃げ込んだウサギを追いかけて入ったまま2日たっても3日たっても戻らなかったそうな。そうするうちに伊予の国(愛媛県)吉田藩の領内のとある洞窟の入り口で、ウサギをくわえたままの犬の死骸が見つかり、その首輪にはなんと、峯寺の山号が書かれた札がついていたそうじゃ」』と別な奇異伝承を紹介されており、『他にも石鎚山や讃岐(香川県)の萩原寺』(ここ。グーグル・マップ・データ。直線で北北東五十キロメートル弱もある)『まで続いているという伝説もあってなかなかミステリアスです』とあった。写真も豊富なので、是非、読まれたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 安喜郡【中山郷】中之川村藥師

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。「安喜郡【中山郷】中之川村」は、現在の安芸郡安田町(やすだちょう)中ノ川(なかのかわ)である。但し、現在のこの地区には寺院や祠は、同地区のグーグル・マップ・データ航空写真上(以下同じ)では、見当たらない。但し、同地区に南で接する別所に「北寺」と言う寺院があり、当該ウィキによれば、真言宗豊山派金剛山弘泉院北寺(別名・瑠璃光寺)で、『本尊薬師如来』(☜)『をはじめとする平安時代中期の特徴を持つ仏像』九『躯が国の重要文化財の指定を受けている』(総て国重要文化財)とあった。これであろう。九「中山郷」には、孰れの地区も含まれるからである。]

 

     安喜郡【中山郷】中之川村藥師

 安喜郡中山郷中の川村に、藥師堂、有(あり)。

 藥師尊像、三尺斗(ばかり)、脇士(わきじ)、左右に立(たち)給へり。

 此堂、元祿年中、破壞に及んで、小堂を造營して、既に安置するに臨(のぞみ)て、大工、髙さの寸尺、云違(いひちが)へけん、臺座、閊(つか)へて、入(いり)ざりければ、臺座を、半ば、より除(のけ)て、安置せし、とかや。[やぶちゃん注:最後の意味は、「台座の下部の半分(通常は仏像の台座の最下部は安定を考えて最も広い)を切り削って安置した」ということであろう。]

 其年の冬、大工㐂平次(きへいじ)、沐浴(もくよく)せしに、誤(あやまり)て、熱湯にて、足を洗ひければ、次第に、痛み出(だ)して、いろいろ、療治すれども、年を經て、不癒(いえず)、その脚(あし)、腐りて、終(つひ)に死せり。

 其子、銀丞(ぎんのじよう)と云(いふ)者、或時、名村にて、舩細工(ふなざいく)をせし折柄(をりから)、舩に乘り損(そん)じて、片足を折(をり)て、箕踞(ナゲダシ)となる。大工業(だいくのなりはひ)も不成(なさざり)ければ、貧しく暮(くら)ける、と也(なり)。子孫、今、安田浦に在(あ)り。[やぶちゃん注:「名村」先に示した中ノ川地区の西の峰を越えた比較的近い位置に、現在の安芸市の南東を下る「名村川」がある。而して「ひなたGPS」の国土地理院図で、この名村川を下って見ると、名村川の中ほどに「名村」の地名を見出せる。グーグル・マップ・データ航空写真の拡大画像では、ここで、僅かな人家が確認出来る。但し、現在の、この名川の流れストリートビューで見たところ、岩が、多数、点在する比較的細い渓流であるので、凡そ、小舟で下れるようなものではない。しかし、事故の際の描写を、「舩細工をせし折柄、舩に乘り損じて、片足を折」ったとするのだから、この「名村」は川を下った、「名村川」河口の安芸市下山であるこの附近の、漁師の所に出向いて「舩細工」仕事をしていたと考える方が、しっくりくる。「箕踞(ナゲダシ)」音「キキヨ」(キキョ)の原義は、「農具の箕(み)のような形に両足を前へ投げ出して踞(しゃが)む、座る。」ことを指す。非礼な座り方とされ、「箕坐(きざ)」とも呼び、軽慢傲慢な振舞の比喩にも使う。ここは、片足が全く役にたたなくなって、据わる際に、畳むことが出来なくなって、片足を投げ出して座るようになってしまったことを指す。「安田浦」ここ。]

 扨(さて)、又、むかし、中㙒川村[やぶちゃん注:ママ。]は廿軒斗(ばかり)の在所にて、山中の事なれば、佛の名をだに、しらず、堂の、傷にあれば[やぶちゃん注:「に」はママ。]、藁(わら)などにて、繕(つくろ)ひ置(おき)けるが、次㐧に、荒廃して、雨の凌(しの)ぎ、なく、藥師は、其儘、ぬれさせ給ひ、數(す)十年、雨にぬれて、佛像、木目(きめ)、髙く、晒(さらし)ける、とぞ。[やぶちゃん注:木像に雨水が染み込んで、表面を浸食し、本来の在用木の木目が露わになったことを指す。]

「此時、漸〻(やうやう)、衰微して、廿軒有りし家數(やかず)も、殘り少(すくな)く、田畠、荒(あれ)ける故(ゆゑ)、庄屋より、百姓を入れて、取り立(たて)けるに、初めは、わづかの家數なりしが、藥師を信ずる加䕶や有(あり)けん、次㐧に、此村、繁榮し、ことし、文化四年の春、此村より、六、七百目、出銀(いだしぎん)して、藥師堂を、新(あらた)に建立(こんりう)して、入佛供養(にゆうぶつくやう)を遂(とげ)ける。」

と、大庄屋淸岡氏の話也。

 此堂の仏器は、皆、南京燒(なんきんやき)なり。[やぶちゃん注:「中国の清朝期に作られた景徳鎮の民窯磁器の総称。江戸前期に中国の南京方面から渡来した。単に「南京」とも呼ぶ。]

2024/10/13

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 安井村氷室明神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。]

 

     安井村氷室明神

 吾川郡(あがはのこほり)安井村の氷室明神(ひむろみやうじん)は、天滿天神にて、御神體は、髙さ、六、七寸なる木像にて在(ましま)しける。[やぶちゃん注:恐らくは吾川郡仁淀川町(よどがわちょう)土居(どい)にある安居氷室天神社(グーグル・マップ・データ)であろう。]

「その製造の神妙なる事、いはんかたなし。」

とぞ。

 此深山に鎭座在(ましま)し事、其來由(らいゆう)、知(しる)人、なく、社(やしろ)も、年ふりて、蕪絕(ぶぜつ)に及(および)けるが[やぶちゃん注:「雑草が茂って荒れ、人の参詣も絶えていたが、」。]、寛文年中、所の庄屋三郎右衞門といふものゝ枕神(まくらがみ)[やぶちゃん注:ママ。勢いで、「枕上」を誤記したものであろう。]に立(たた)せ玉ひぬ。

 三郎右衞門、驚駭(オドロキ)恐れて、急ぎ、一村の者どもを催(ものほ)して新(あらた)に社(やしろ)を建立(こんりふ)して、毎年十一月廿五日に祭禮を行ひける。

 此宮、林の中、小隴(こやま)[やぶちゃん注:「隴」は「丘」の意。]有(あり)。

 此(この)小山、鳴(なる)事あり。

 其時は、土居(どゐ)・安井兩村の者ども、競行(きそひゆき)て、聞(きく)事也。

「其(それ)、山北(やまのきた)の方(かた)にて鳴(なく)時は、其(その)妖(えう)[やぶちゃん注:災(わざわ)い。]、必ず、安井村に有(ある)也。若(もし)、南の方にて鳴る時は、土居村に、妖、あり。」

とて、大(おほき)に、恐れ愼(つつしみ)て、祈禱抔(など)する事也。

「是は、神の告知(つげし)らせ給ふ所にて、昔ゟ(より)、愆(アヤマツ)事、なき。」

と、いへり。

 又、此宮林(みやばやし)の神木(しんぼく)は、枯枝、朽(くち)たる葉、假(たと)へ、風折(かぜをれ)にても、一枝一葉(いつしちえふ)、採去(とりさ)るもの、あれば、其人、忽(たちまち)、神罰を蒙(かうむ)る、とかや。

 神のをしみ玉ふ事、甚(はなはだ)しければ、里人(さとびと)も、恐れ愼(つつしむ)、とかや。[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されている。]

 玉木翁の話にいふ、

「攝州、安井村の天滿宮の神躰(しんたい)は、菅神(くわんじん)の自(みづから)彫(ほら)せたまふ所の木像也。徃昔(わうじやく)、難波(なには)の浦[やぶちゃん注:以上の「江」(「え」=「へ」)の助詞は国立公文書館本(78)で補った。]、浪に流れ寄(より)玉ひし神像にて、安居に鎭座在しけるが、應仁年中より、天下、一同、乱世と成(なり)て、神社・佛閣、荒廃に及(および)ければ、此天滿宮も、破壞に及(および)て、既に、屋根より、雨露(あめつゆ)洩落(もれおち)て、御神體、ぬれさせ給ひければ、里人も、是を、恐歎(おそれなげき)て、

『何とぞ、雨の當(あたら)せ給はぬやうに。』

とて、桧笠(ひのきがさ)を着(つけ)奉りぬ。[やぶちゃん注:「攝州、安井村の天滿宮」は大阪府大阪市天王寺区逢阪(おうさか)にある安居神社(グーグル・マップ・データ)であろう。当該ウィキによれば、『菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息(安井)をとったためにその名がついたという伝承がある』とある。]

 太閤秀吉公、天下一統の後、神社の御改(おんあらた)め、有(あり)ける中(うち)に、此(この)安井の天滿宮は、徃古(わうこ)より、御造營の譯(わけ)有(あり)て、繕修(ぜんしゆ)、有(あり)ける故、神主、下遷宮(しもせんぐう)するに、桧笠を取除(とりの)けれども、固く取られざりける。

 神主、

『不思義の事。』

に、おもひ、

『倂(ならびに)、神慮に叶(かなひ)たる事にもや。』

と、其まゝにて下遷し、程なく、社(やしろ)、成就しければ、笠を、めさせながら、遷(うつ)し奉りぬ。

 その頃まで、近衞龍山公、傳へ聞(きこ)しめして、住吉御參詣の爲(ため)、難波(なには)に下らせ玉ひ、其節(そのせつ)、安井に御參拜ありて、神主を召して、扉を開かせて、拜し玉ひぬるに、兼(かね)て聞(きこ)しめしたるに不違(たがはず)、笠を召してありし故、龍山公、仰られけるは、

『是は下賤の着仕(きつかまつ)る笠と申(まうす)物に候。御着(おんき)ぶるし候へども、冠(かんむり)をさし上可申(まうすべし)。』

とて、召(めし)たる笠を、取り玉へば、笠は、取れけるに、其跡へ、御自分の冠を着せ奉られける、とかや。[やぶちゃん注:以下、一字下げ。再現した。]

 愼(つつしみ)て考(かんがへ)れば、彼(かの)

 社(やしろ)も安井といふ。此國にも安井村にて、

 倶(とも)に、神體は木像にて在(ましま)しける。

 若(もし)、天神の自(みづから)、彫刻の、御神躰に

 ては無きかと、爰(ここ)に記(しる)し置きぬ。

[やぶちゃん注:「近衞龍山公」近衛前久(さきひさ 天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年)は戦国時代から江戸初期にかけての公卿。]

2024/10/12

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木天蓼

 

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きまたゝび      木天蓼

           小天蓼

木天蓼        藤天蓼

         有三種【功用彷彿】

モツ テン リヤウ 【和名和太々比

          俗云末太々比】

 

本綱木天蓼生山谷中高二三𠀋如冬青不凋三四月開

花似柘花五月采子子作毬形似檾麻子可藏作果食又

爲燭明如胡麻 小天蓼樹如巵子冬月不凋野獸食之

 

   *

 

きまたゝび      木天蓼

           小天蓼《しやうてんれう》

木天蓼        藤天蓼《とうてんれう》

         【≪以上、≫三種、有《(あり》

          功用、彷彿《はうふつ》≪たり≫。】

モツ テン リヤウ 【和名、「和太々比《わたたび》」。

          俗、云ふ、「末太々比《またたび》」。】

[やぶちゃん注:「彷彿」は「極めてよく似ていること」の意。]

 

「本綱」に曰はく、『木天蓼《もくてんれう》は、山谷の中に生ず。高さ、二、三𠀋。「冬青(まさき)」のごとくして、凋まず。三、四月、花を開く。「柘(やまぐわ[やぶちゃん注:ママ。])」の花に似《にる》。五月、子《み》を采る。子、毬《まり》を作《なし》、形、「檾麻《いちび》」の子に似《にて》、藏《をさめ》て、果《くわ》[やぶちゃん注:「菓子」。]と作《な》して、食ふべし。又、燭《ともし》と爲《な》して、明《あきらか》なること、胡麻《ごま》のごとし。』≪と≫。『小≪さき≫天蓼の樹、「巵子《くちなし》」のごとく、冬の月、凋まず、野獸、之れを食ふ。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「木天蓼」は日中ともに、

双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama

である。「維基百科」の同種は「葛枣猕猴桃」で、別名で「木天蓼」を出している。

 以下、当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『別名ナツウメ(夏梅)ともいう。山地に生える。夏に白い花が咲くころに、枝先の葉が白くなるのが特徴。果実は虫こぶができることもある。ネコの好物、鎮痛・疲労回復の薬用植物としてもよく知られている』。『和名のマタタビの由来については、古くは』深根輔仁撰による日本現存最古の薬物本草書「本草和名」(延喜一八(九一八)年に『「和多々比」(わたたひ)』と出、「延喜式」(九二七)年に、『和太太備』『(わたたび)の名で見える』。『また、長い実と平たい実と二つなるところから、「マタツミ」の義であろうとい』い、『「また」とは』「ふたつ」の)『意味、「つ」は助字、「び」は實(み)に通じるとされる』。『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在』は『最も有力な説のようである。「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、虫』癭(ちゅうえい)『になった果実が』癩『病の患部のようになるのに対して呼んだ名前であろうとされる。一方で、深津正の「植物和名の研究」(一九九九年八坂書房刊)『や知里真志保』が一九六一年に亡くなる最後まで、手を入れて、未完に終わった編著「分類アイヌ語辞典」(一九七五年平凡社刊)に『よると』、『「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『俗説として「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、にわかに精気がよみがえり、また旅(マタタビ)を続けることが出来るようになった」という説話がよく知られる。しかし、マタタビの実にそのような薬効があるわけでもなく、旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「また旅」を想起するのは非常に容易であることから、後づけ的に考案された典型的民間語源と考えるのが妥当である』。『別名に、カタシロ、コヅラ、ツルウメ、ツルタデ、ナツウメ、ネコカズラ、ネコナブリ、ネコナンバン、ハナマタタビともよばれている。マタタビの花が蕾の時に、マタタビタマバエ』(有翅昆虫亜綱新翅下綱内翅上目ハエ目長角亜目ケバエ下目キノコバエ上科タマバエ科 Pseudasphondylia 属マタタビミタマバエ Pseudasphondylia matatabi 『が産卵すると、その花は咲かないで、でこぼこしたいわゆるハナマタタビ(虫癭)になる。中国植物名(漢名)は、葛棗獼猴桃、葛棗子、木天蓼(もくてんりょう)と称される』。『日本、朝鮮半島、中国などの東アジア地域に分布し、日本では北海道、本州、四国、九州に分布する。山沿いの平地から山地に分布し、特に山麓、原野、丘陵、礫地に多。湿り気のある山地の沢沿いや山と山のくぼみ、林縁に自生する。往々にして、足場の悪いところに自生している。近縁種の』同属の『ミヤママタタビ(学名: Actinidia kolomikta )は、北海道から本州の近畿地方以北に分布し、マタタビより標高のある山地に多く見られる』。『落葉つる性の木本。茎は蔓になり、よく枝分かれして、他の木に絡みついて長く伸びる。太いつるの樹皮は暗灰褐色で、縦や横に割れる。枝は褐色で、白い縦長の皮目がつく。一年枝は毛があるが、のちに無毛になる。蔓を切ってみると』、『白い随が詰まっていて』、同属の『サルナシ(学名: Actinidia arguta var. arguta )とは異なる。葉は蔓状の枝に長い葉柄がついて互生し、葉身は先が尖った長さ』二~十五『センチメートル』『の卵形から広卵形、あるいは楕円形で、葉縁に細かい鋸歯がある。初夏の花期になると、葉の一部または全面が白くなる性質がある』。『花期は』六~七『月。雌雄異株であるが、ときに両性花をつける。花は雄花・雌花とも芳香があり、ウメに似た径』二センチメートル『ほどの白い』五『弁花を下向きに咲かせる。雄株には雄蕊だけを持つ雄花を、両性株には雄蕊と雌蕊を持った両性花をつける。花弁のない雌蕊だけの雌花をつける雌株もある』。『果実は』二~二・五)『のフットボール様の細長い楕円形で』、『先は尖り、晩秋に黄緑色から橙色になり軟らかに熟す。ふつう、マタタビの果実は熟してから落下する。しばしば、虫こぶの実(虫癭果)がマタタビミバエ、もしくはマタタビノアブラムシ(マタタビアブラムシ)』(有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科タマバエ科Asphodylia 属マタタビアブラムシ Asphodylia matatadi )『の産卵により形成され、偏円形で凸凹している』。一『本の木のほとんどが中癭果の場合も少なくなく、強風や強雨のあと、正常な実が熟す前に落ちやすい』。『冬芽は互生するが、葉痕上部の隆起した部分(葉枕という)に隠れていて先端だけが少し出ている半隠芽である。葉痕は円形や半円形で、維管束痕が』一『個』、『つく』。『効果に個体差はあるものの、ネコ科の動物はカ等に忌避効果を持つネペタラクトール、及び揮発性のマタタビラクトンと総称される臭気物質イリドミルメシン、アクチニジン、プレゴンなどに恍惚を感じることで知られている。イエネコがマタタビに強い反応を示すさまから「猫に木天蓼」という諺(ことわざ)が生まれた。ライオンやトラなどネコ科の大型動物もイエネコ同様』、『マタタビの臭気に特有の反応を示す』。『日本では「猫に木天蓼」という諺があるように、その効果はてきめんで、葉、小枝、実などマタタビならなんでもよく、はじめは舐めたりかじっているネコも、そのうち顔を擦り付けたり、地面に転がり、中には陶酔境に浸るものもいる』。『ネコがマタタビを大好物とすることは古くから知られており』、正徳四(一七一四)『年に出版された貝原益軒の農業指南書』「菜譜」にも『記されて』おり、『浮世絵』「猫鼠合戰」には『マタタビでネコを酔わせ腰砕けにするネズミの様子が描かれるなど、江戸時代には「マタタビ反応」は「マタタビ踊り」とも言われ、既に大衆文化に取り込まれていた』。一九五〇『年代には』本邦の天然物化学の第一人者であった『目武雄』(さかんたけお)『らの研究によって、マタタビ活性物質は「マタタビラクトン」と呼ばれる複数の化学成分であると報告されていた。マタタビ反応はネコ科の動物全般に見られるが、なぜネコ科動物だけにこの反応が見られるのか、また、マタタビ反応の生物学的な意義についてはこれまで不明であった』。『岩手大学は』二〇二一年一月二十一日、『科学雑誌『Science Advances』に、名古屋大学・京都大学・英国リバプール大学との共同研究で、ネコのマタタビ反応が蚊の忌避活性を有する成分ネペタラクトール』Nepetalactol『を体に擦りつけるための行動であることを解明したと発表した。本研究では、まずマタタビの抽出物からネコにマタタビ反応を誘起する強力な活性物質「ネペタラクトール」を発見。さらにこの物質を使ってネコの反応を詳しく解析し、マタタビ反応は、ネコがマタタビの匂いを体に擦りつけるための行動であることを突き止めた。また、ネペタラクトールに、蚊の忌避効果があることも突き止め、ネコはマタタビ反応でネペタラクトールを体に付着させ』、『蚊を忌避していることを立証した。ネペタラクトールは、蚊の忌避剤として活用できる可能性があるとしている。この研究チームによる』二〇二二年六月『の発表によると、マタタビ反応で葉を噛むことにより、葉からの蚊の忌避物質(ネペタラクトールとマタタビラクトン類)の放出量が』十『倍以上に増えることも判明した』。『栽培は果実のつく雌株を選んで行う。両性花がある株を挿し木する。果実、若芽、若いつるの先は食用になる。果実は、漬物や健康酒用には青みが残るもの、生食には橙色に熟したものを利用する。近縁のミヤママタタビも同様に利用できる。猫が好む植物であるため、猫よけの金網囲いが必要になる』。『夏から秋にかけて果実を採り、虫えいになっていない正常な果実であれば』、『食用に利用する。若い実はヒリヒリと辛く渋みと苦味があり、ふつう生では食べないが、橙黄色に完熟すると甘くなりそのまま生で食べられる。まだ青味が残る未熟な果実であれば、塩漬け、味噌漬け、薬用酒(マタタビ酒)などにして利用される。半年以上塩漬けしたものを塩抜きして、天ぷらや甘酢漬け、粕漬けなどにする。果実酒』にも造る。『焼酎漬けしたマタタビの実は、そのまま食べても良い。なお、キウイフルーツもマタタビ科』Actinidiaceae『であり、果実を切ってみると同じような種の配列をしていることがわかる』。『春から初夏にかけて若芽やつる先を摘み取り、塩を多めに入れて茹でて、水にさらしてアク抜きする。若芽やつる先は、おひたしや和え物、油炒め、椀種、生のまま天ぷらにもする。葉は、おひたしにして食べる』こと『があるが、アレルギーを生じる事がある。花は酢の物に利用する』。『蕾にマタタビミタマバエまたはマタタビアブラムシが寄生して虫こぶ(虫えい)になったものは、漢方で木天蓼(もくてんりょう)という生薬である。正常な果実は、虫えいに比べてすこぶる薬効が劣るといわれている』。七『月中旬から』十『月ごろに、果実、虫こぶを採取して、一度熱湯に約』五『分ほど浸したあと、天日乾燥させて調製される。効能は、鎮痛、保温(冷え性)、強壮、神経痛、リウマチ、腰痛、中風などに効果があるとされる』。『民間療法では、木天蓼の粉末を』『煎じて』『服用する用法が知られている。また、虫えいでつくった果実酒は強精、強壮剤として用いられる』。『布袋に入れて浴湯料として用いられ。保温効果から患部が冷えたり、身体を冷やすと悪化する腰痛などによいと言われているが、暑がりの人や身体がほてる人、患部が熱い人への服用は禁忌とされている』。『また、ネコの病気にもよいともいわれており、マタタビをネコに与えてしゃぶらせると、酔ったようになるが』、『元気になる。かつて山村では、ネコの具合が悪くなると、マタタビの絞り汁を与えて舐めさせたという。急を要するときは、つる先と葉を揉んで』、『液をつくるが、ヘチマ水のようにつるの根元で切って一升瓶に挿しておくと、多いときは』一『日で』一『本分ほどとれ、ネコ以外にも人間の胃腸薬(民間薬)にしたといわれる。ネコのマタタビ反応や、病気の回復はマタタビの中に含まれているマタタビラクトン他の成分によるとされる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木天蓼」([088-77b]以下)のパッチワークである。

「冬青(まさき)」前にも何度か出たが、再掲すると、バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa当該ウィキによれば、『和名ソヨゴは、風に戦(そよ)いで葉が特徴的な音を立てる様が由来とされ、「戦」と表記される。常緑樹で冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』。但し、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記される。中国植物名でも、具柄冬青(刻脈冬青)と表記される』とある。なお、東洋文庫訳では、割注で『(灌木類。ナナメノキ)』とする。この「ナナメノキ」は、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis の異名で、中文ウィキの「冬青属」相当では、確かに狭義の「冬青」をナナミノキに宛ててはある。となれば、厳密には現代では、日中で同属異種ということになるが、明代に、それを確然と区別していたとは、私には思われないので、これ以上、ディグはしない。

「柘(やまぐわ)」良安先生のルビは、アウトである。先行する「柘」で散々ぱら、比定同定に苦しんだ結果、私が、ほうほうの体(てい)で辿り着いた、「柘」の正体は、

双子葉植物綱バラ目クワ科クワ属ヤマグワ Morus austrails ではなく、

〇双子葉植物綱バラ目クワ科ハリグワ連(ハリグワ属一属のみの短型連)ハリグワ属ハリグワ Maclura tricuspidata が「柘」の正体だった

からである。

「檾麻《いちび》」アオイ目アオイ科イチビ属イチビ Abutilon theophrasti 当該ウィキによれば、『インド、西アジア原産』。『現在ではアジア、南ヨーロッパ、北アフリカ、オーストラリア、北アメリカなど、世界の熱帯~亜寒帯に広く外来種として帰化している』。『日本には中国を経由して古代に伝来し繊維植物として利用されていたと考えられ、江戸時代には栽培の記録もあるが』、『古代から栽培されていた種と、現在日本全国に帰化植物として定着している種とは遺伝的に別系統である可能性が指摘されている』。『侵入植物としてのイチビは、日本では』、一九〇五年に『初めて定着が確認され、現在は』、『ほぼ』、『日本全国に分布』し、『現在では利用法の多くが廃れ、もっぱら』、『畑地に害を与える雑草として知られる』とある厄介者になってしまっている。詳しくは、そちらを見られたい。

「巵子《くちなし》」複数回既出既注。リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides 。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 𮅑樹

 

Toujyu

 

かうしゆ

 

𮅑樹

 

農政全書云𮅑樹生山谷中高𠀋餘葉似槐葉而大却頗

軟薄又似檀樹葉而薄小開淡紅色花結子如菉豆大熟

則黃茶褐色其葉味甜

 

   *

 

かうじゆ

 

𮅑樹

 

「農政全書」に云はく、『𮅑樹は山谷の中に生《しやう》≪ず≫。高さ、𠀋餘。葉、槐《えんじゆ》の葉に似て、大にして、却《かへつて》、頗《すこぶる》、軟《やはらか》に≪して≫薄し。又、檀(まゆみ)の樹≪の≫葉に似て、薄く小《ちいさ》し。淡紅色の花を開く。子を結≪び≫、菉豆《ろうとう》の大《おほいさ》のごとし。熟≪せば≫、則ち、黃茶褐色。其の葉の味、甜《あまし》。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:困ったもんだ。「𮅑樹」「𮅑」で検索すると、日本語では、私の本巻の「目録」が掛るばかりだ! 「維基百科」も「維基文庫」も掛かってこない! 東洋文庫でも、科も挙げていない。「中國哲學書電子化計劃」で「𮅑」で検索してもアウトだった。所持する「廣漢和辭典」にも載らない。中文サイトで漢字としては、複数、掛かってくるものの、意味(植物名)を示す記事は皆無であった。されば、遂に、正体不明とする他はない。識者の御教授を乞うものである。

「農政全書」何度も注しているが、「枯れ木も山の賑わい」で、再掲すると、明代の暦数学者でダ・ヴィンチばりの碩学徐光啓が編纂した農業書。当該ウィキによれば、『農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎』十二『年』(一六三九年)『に刊行された』とある。光啓は一六〇三年にポルトガルの宣教師によって洗礼を受け、キリスト教徒(洗礼名パウルス(Paulus))となっている。以下は、同書の「第五十四 荒政」(「荒政」は「救荒時の利用植物群」を指す)の「木部」にある。「漢籍リポジトリ」のここの、ガイド・ナンバー[054-37b]  に(字に補正を加えた)、

   *

𮅑樹 生輝縣太行山山谷中其樹髙丈餘葉似槐葉而大却頗軟薄又似檀樹葉而薄小開淡紅色花結子如菉豆大熟則黃茶褐色其葉味甜

  救飢 採葉煠熟水浸淘淨油鹽調食

   *

「槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。中国原産で、当地では神聖にして霊の宿る木として志怪小説にもよく出る。日本へは、早く八世紀には渡来していたとみられ、現在の和名は古名の「えにす」が転化したもの。

「檀(まゆみ)の樹」日中ともに、双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus 。先行する「檀」を参照されたい。

「菉豆《ろうとう》」「綠豆」で、これは双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ Vigna radiata の種子の名である。「維基百科」の同種は「绿豆」である。要は、我々が食べている「もやし」の種だ! 注することが貧しいので、当該ウィキを引いてお茶を濁しておく(注記号はカットした)。『食品および食品原料として利用される。別名は青小豆(あおあずき)、八重生(やえなり)、文豆(ぶんどう)。英名から「ムング豆」とも呼ばれる。アズキ ( V. angularis ) とは同属。 グリーンピースは別属別種のエンドウ』(マメ亜科エンドウ属エンドウ Pisum sativum )『の種子』。『インド原産で、現在はおもに東アジアから南アジア、アフリカ、南アメリカ、オーストラリアで栽培されている。日本では』十七『世紀頃に栽培の記録がある』。これには、注釈があって、『一時』、『日本では縄文時代にすでに渡来していたといわれていたが、現在では』、『この時代の遺跡からの出土種子はアズキ』(マメ亜科ササゲ属アズキ変種アズキ Vigna angularis var. angularis )『の栽培化初期のものとみなされており、リョクトウの縄文時代栽培は否定されている』とあった)。『ヤエナリは一年生草本、葉は複葉で』三『枚の小葉からなる。花は淡黄色。自殖で結実し、さやは』五~十センチメートル、『黄褐色から黒色で、中に』十~十五個『の種子を持つ。種子は長さが』四~五ミリメートル、『幅が』三~四ミリメートル『の長球形で、一般には緑色であるが』、『黄色、褐色、黒いまだらなどの種類もある』。『日本においては、もやしの原料(種子)として利用されることがほとんどで』、『ほぼ全量を中国(内モンゴル)から輸入している』。『中国では、春雨の原料にする』『ほか、月餅などの甘い餡や、粥、天津煎餅のような料理の材料としても食べられる。北京独特の飲料としてリョクトウからデンプンを採る際の上澄みを原料に、これを発酵させた豆汁がある』。中国の『凉粉』(りょうふん:北京の夏のおやつで、緑豆で作った「ところてん」状のものを切って、その上に酢・ニンニク・ゴマのペースト・醬油などをまぶして食べるもの)『の原料にも使われる』。『朝鮮半島では』十六『世紀前半の』韓国最古の調理書「需雲雜方」に、『リョクトウのデンプンを水溶きして加熱し、これを孔をあけたヒョウタンの殻に入れて、孔から熱湯にたらし麺状にして水にさらす食品が記載されている』。一六七〇『年頃の』朝鮮時代の張桂香撰になる料理書「飮食知味方」『では、同様な製法で麻糸のようにした食品を匙麺(サミョン)として記している。また、伝統的にリョクトウデンプンはネンミョンのつなぎとして利用されていた。 咸鏡道ではリョクトウのデンプンのみを使った』「押しだし麺」『がある。中国と同様に餡にするほか、水に漬けた上ですり潰したものを生地としてチヂミの一種ピンデトッにしたり、デンプンを漉しとってムㇰという寄せものにする。リョクトウから作ったムㇰをノクトゥムㇰ(ノクトゥ=緑豆)と呼び、特にクチナシの実で着色したものをファンポムㇰ、着色しないものをチョンポムㇰと呼ぶ。なお、朝鮮語ではこのリョクトウにちなんで、デンプンのことを一般的に「ノンマル」(녹말=綠末、「緑豆粉末」の略)と呼ぶ』。『香港やシンガポール、ベトナムでは、甘く煮て汁粉の様なデザート(広東料理の糖水、ベトナムのチェーなど)にすることが多く、それを冷やし固めたようなアイスキャンディーもある。リョクトウの糖水を緑豆湯または緑豆沙、リョクトウのチェーをチェー・ダウ・サイン(Chè đậu xanh)と呼ぶ』。『緑豆糕(りょくとうこう)と呼ばれる、木型に入れて成形した菓子は、ベトナムのハイズオン』(ここ。グーグル・マップ・データ)『や中国の北京、桂林などの名物となっている』。『インドやネパール、アフガニスタン、パキスタンでは、去皮して二つに割ったリョクトウをダール(豆を煮たペースト)にする。リョクトウと米を炊きあわせた米料理(キチュリなど)は、南アジアから中央アジアにかけて広く食べられている。南インドでは、ドーサに似たクレープ状の軽食ペサラットゥ』『が作られる』。『また、漢方薬のひとつとして、解熱、解毒、消炎作用があるとされる』。『リョクトウには、血糖値の上昇を抑制する効果のあるα-グルコシダーゼ阻害作用がある』とある。糖尿病歴十年になんなんとする私だから、せいぜい、「もやし」、食うかな。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 甲殿村住吉大明神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「かふどのすみよしだいみやうじん」と訓じておく。当該の住吉神社はここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

     甲殿村住吉大明神

 文明三年[やぶちゃん注:一四七一年。室町幕府将軍は足利義政。]の頃、吾川郡甲殿の海中に、夜毎(よごと)に、光物(ひかりもの)しければ、里人(さとびと)、怪(あやし)みて、夜〻(よよ)、窺見(うかがひみ)けるが、次㐧(しだい)に海岸に近(ちかづ)きければ、漁人、取り上(あげ)、是を見るに、古き器物(うつはもの)也。其(その)器物の中には、神像二体、鏡二面、有(あり)ける故、

「如何(いか)さま、是は、神社、破壞して、流れ來(きた)れるにこそ有(ある)べけれ。」

とて、里人、集(あつま)り、地を撰(えらび)て小祠(せうし)を建(たて)て、村の產神(うぶすな)に祝祭(いはひまつ)りけるが、其後(そののち)、神主に垂(の)り移らせ玉ひて、告(つげ)て宣(のたま)はく、

「吾は、住吉四所大明神(すみよしししよだいみやうじん)也。泉州『堺の浦』に跡を垂(たる)る事、數千載(すせんざい)に及べり。然(しか)るに、此頃(このごろ)、波の爲に衝(ツカ)され、社(やしろ)、頽廃(タイハイ)して、靈宝(れいはう)、悉(ことごと)く、流漂(ながれただよ)へり。此國は、隨緣(ずいえん)の地(ち)成(な)るにより、爰(ここ)に來(きた)れり。吾、猶、衆生の禍災(くわさい)を除き、人をして、祈願を充(ミタ)しめんと、おもへり。特(とく)には、小兒、疱瘡の難を消除(せうぢよ)して、福壽(ふくじゆ)を保(ほ)す[やぶちゃん注:「守る」に同じ。]べし。又、吾、大手の湊口(みなとぐち)に居(をり)て、常に魔障(ましやう)の來(きた)るを防護すべし。早く、吾祠(わがほこら)を、湊口に、建てよ。凡(およそ)、吾をいのるものは、紙の羽(はね)の矢を作り、吾が社內(やしろうち)に納(をさ)めよ。其(その)矢を以て、魔障の來(きた)るを、射て、退治すべし。里人等(ら)、他日(たじつ)、社(やしろ)へ來(きたり)て、試(こころみ)よ。必(かならず)、其矢、なかるべし。是、吾、魔を射るの證(しやう)とすべし。又、甲殿の一村にて、蛙(かはづ)を河水(かはみづ)に棲(スマ)すまじ。是(これ)、わが戒(いましむ)る所也(なり)。」

と、詫宣(たくせん)し玉ひぬ。[やぶちゃん注:というのは、「堺の浦」と言っていることから、住吉神社の南南西四キロメートル半離れたところにある住吉大社の御旅所(非常に古くからある)である「宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)」(大阪府堺市堺区宿院町東のここ。グーグル・マップ・データ)を指すものと思われる。「大手の湊口」これは、「ひなたGPS」の戦前の地図から推理すると、これは甲殿川河口から入ってすぐの「菜切」地区の奥の両岸の「南」・「濱」の一帯に、漁師たちの舟留め場(湊)があったものと思われる。当該の住吉神社はまさに、遡上した場合、それらの地区の「大手」口に当たる位置にあるからである。

 里人、奇特の事におもひ、急ぎ、甲殿の湊口に、祠(ほこら)を新(あらた)に構營(かうえい)して、祈る者は、紙を以て、羽に代(かへ)て、矢に作り、是を、社内に納置(をさめおき)て、毎歲(まいとし)、年蓂(オホトシ)[やぶちゃん注:「蓂」を使う理由はよく判らないが、読みから、大晦日である。因みに、「蓂莢」と言う漢語があり、これは、古代中国の伝説的な聖王堯(ぎょう)の時代に生じたとされる瑞草で、毎月一日から十五日までは、毎日、一葉ずつ生じ、十六日以後は一葉ずつ落ちるという草で、その現象によって、暦を知ったとされるから、そこから「年替わり」の意で、使ったものかと思われる。]、一村、集(あつま)りて、開き見るに、神言(しんげん)の如く、其矢、なかりし、とぞ。

 昔、此事を疑ふ者、有(あり)て、矢を作り、封緘(ふうかん)をして、みづから、是を社內に納置(をさめおき)て、其年の終(おはり)に、里人とともに、宮籠(みやごもり)して、彼(かの)封したる矢を、取出(とりいだ)し、見るに、封は、そのまゝ有(あり)て、矢は、なかりし、と也(なり)。

 此者、初(はじめ)て疑(うたがひ)を、はらし、却(かへつ)て、信心を、おこしける。

 又、里人、

「或夜、深(ふけ)て靜成(しづかな)るに、海上、はるかに、矢の鳴行(なりゆく)音(おと)を聞(きき)し。」

とも、いへり。

 今に至るまで、此村に、かぎり、蛙の絕(たえ)て、生(しやう)ぜざるは、誠(まこと)、神の威德ならずや。

 

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 本川郷三岳山

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題「山內刑部」は「ほんがはがうみたけやま」と訓じておく。なお、国立公文書館本(75)では、冒頭に二行で頭書(朱書)して、『元本ニ如此書込アリ』『竒石ノ部ニ入ヘキカ』とある。]

 

     本川郷三岳山

 本川郷髙㙒・川崎二ヶ村の堺に、峻岩(タカヤマ)【髙山。元本(もとぼん)、如此(かくのごとく)書出(かきいだ)ス。】[やぶちゃん注:「峻岩(タカヤマ)」に対する右傍注。]、古木、繁り、路、極めて險難、其(その)髙峻成(かうしゆんなる)事、四國の中(うち)に髙山(かうざん)多しと云へども、此山に及ぶもの、なし。

 山中に、三つの岳(タケ)、有(あり)。夫故(それゆゑ)に「三嶽山」とも、いへり。

 其中の岳(たけ)を「立不動」といふ。髙サ十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]余也。不動の形にて、石の面(おもて)に火熖(くわえん)の文(もん)あり。晴天の時は、火熖の如く、赤く、又、曇り日(び)か、雨天の時は、其色、淡(ウス)紫色に変ずる、とかや。

「徃古(わうこ)、此所(ここ)に『三滝寺(みたきでら)』といふ、有(あり)。寺の礎(いしずゑ)、今、猶、殘れり。後(のち)に、与州[やぶちゃん注:「予(豫)州」の誤記。後も同じ。]石槌山(いしづちやま)へ引移(ひきうつ)す。」

と、いへり。

 今、按(あんず)るに、与州石槌山は、髙㙒村より、山路(やまぢ)、二、三里を隔(へだて)て、山續き也。徃古、此(この)三岳山を「奧院」と云(いひ)たる事も、あらん。斯(かか)る深山に、寺の有(あり)しも不審也。石槌山は、靈地にて、六月朔日(ついたち)より  十日迠(まで)、參詣をゆるせども、常は禁足の山也。鐵の鎖を手繰(たぐり)て登る山也。此三嶽山も、是に續(つづき)たる靈地成(なる)べし。[やぶちゃん注:「十日迠」の前の二字空けはママ。国立公文書館本(76:右丁五行目中央)でも一字空けがある。]

 

[やぶちゃん注:「本川郷髙㙒・川崎二ヶ村の堺」「三滝寺」旧本川郷の位置と、「三滝」の名から、「ひなたGPS」で調べたところ、現在の高知県土佐郡大川村川崎に「三瀧山」(戦前の地図)=「三滝山」(国土地理院図)を見出した(標高千百十・七メートル)。恐らくは、ここと、この山体にある東北の千百四十六メートルのピークと、東北東の九百二メートルのピーク辺りが、「三岳」の候補となろうかと思われる。ここと、後に出る石鎚山(最高峰は「天狗岳」で千九百八十二メートル。ここが、四国の最高峰である。愛媛県西条市と上浮穴郡久万高原町に跨る)との位置関係をグーグル・マップ・データ航空写真で示すと、これになる。三滝山から西南西、直線で三十・二四キロメートルで、四国山地内にあり、「石鎚山」「に續(つづき)たる」山と言って、問題はない。

「三滝寺」「石槌山へ引移す」石鎚山の来歴を調べたが、「三滝寺」という寺院があったとする資料はなかったが、ky_kochi氏のブログ「茶凡遊山記」の「野地峰(大川村)~拾遺編~」の「妃ヶ淵(きさきがぶち)」(グーグル・マップ・データでここ。三滝山の東北直線で、二・七キロ弱の位置にある)、『『本川郷風土記』によると、都で雨乞いの祈祷を命じられ、見事に雨を降らせた褒美として、禁中より二人の美女を賜った「釈聖善」という高僧がいた』。『この禁中のはからいを心外として都を去り、四国に渡った「釈聖善」は、先ず大北川の死霊寺、次に木屋野の三滝寺』(この記事によって、この寺は、三滝山の南の尾根、或いは、谷、又は吉野川川岸に実際にあったものと推定出来る。グーグル・マップ・データ航空写真を示しておく)『最後は石鎚山に移り』(これも本話と親和性が甚だ強い)、『石鎚信仰を始めたという』(こうなると、実は石鎚山の山岳信仰の根っこに、この「三滝寺」が関わっているという驚天動地の伝承であることが判る!)。『二人の美女は「釈聖善」を慕い、大川村「朝谷」に来て』、『釈聖善のことを尋ねたが、村人からそのような僧は知らないといわれ』、『世をはかなんだ二人は、それぞれ淵に身を投げて命を絶ったと伝えられ、上段の淵を「妃ケ淵」、下段の淵を「下女ケ淵」と呼ぶようになった、とのことである』とあった。「朝谷」は「あさたに」と読み、現在の土佐郡大川村朝谷(グーグル・マップ・データ航空写真)である。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 賣子木

 

Tisyanoki

 

ちさのき 買子木

     【和名

賣子木   加波知佐乃木

      俗云知左乃木】

 

 

マイ ツウ モフ

 

本綱賣子木生嶺南山谷中木高五七尺徑寸許春生嫩

枝條葉似𣐈而尖長一二寸俱青綠色枝稍淡紫色四五

[やぶちゃん字注:「𣐈」は「柹」=「柿」の異体字。]

月開碎花百十枝圍攅作大朶焦紅色隨花便生子如椒

目在花辨中黒而光潔毎株花裁三五個大朶爾

氣味【甘微鹹】 治折傷血內溜續絕補骨髓止痛【枝葉子同功】

 六帖我かことく人めまれらに思ふらし白雲深き山ちさの花

△按賣子木今謂知佐乃木者與此形狀大異

 知佐乃木𠙚𠙚山中有最丹波多之高者二三𠀋徑一

 二尺皮粉青白色老則淺褐色中心白其葉似梅嫌木

 葉而尖長二寸許靣青背淡冬凋春生三四月開花不

 碎而小白單辨似野梅花而朶稍長垂不作大朶伹毎

 二三攅生耳結實狀如小蓮子初青後黒殻堅肉白色

 山雀喜食之其材稠堅堪作枵杖又作傘之轆轤伐樹

 則嫩蘗生於株昜長採之作箕之緣

 

   *

 

ちさのき 買子木《ばいしぼく》

     【和名、

賣子木  「加波知佐乃木《かばちさのき》」。

      俗に云ふ、「知左乃木」。】

 

 

マイ ツウ モフ

 

「本綱」に曰はく、『「賣子の木」は、嶺南[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]の山谷の中に生ず。木≪の≫高さ、五、七尺。徑《めぐ》り、寸許《ばか》り。春、嫩--條《わかえだ》を生ず。葉、𣐈《かき》に似て、尖《とが》り、長さ、一、二寸。俱《とも》に青綠色。枝の稍《さき》、淡紫色。四、五月に碎≪けたる≫花を開く。百≪枝≫・十枝、圍《かこみ》、攅《さん》して[やぶちゃん注:群がって。]、大≪きなる≫朶《ふさ》を作《な》し、焦《こげたる》紅色≪なり≫。花に隨《したがひ》て、便《すなは》ち、子《み》を生ず。子、椒《せう》の目(もく)[やぶちゃん注:双子葉植物綱コショウ目コショウ科コショウ属 Piper ・ナス目ナス科トウガラシ属 Capsicum ・ムクロジ目ミカン科サンショウ属 Zanthoxylum などの香辛系の植物のグループ(現在の分類学と同じ生物群のタクソン「目」と同じ使い方)を指すか、或いは、文字通り、「目」(め)のように丸いそれらの種群の「粒状の種(たね)」のことであろう。後者の方がすんなりと腑に落ちる。]の如し。花辨の中に在り。黒《くろく》して、光潔《くわけつ》なり[やぶちゃん注:澄んだ光りを放つような清らかさを言う。]。株《かぶ》毎《ごと》≪に≫[やぶちゃん注:ㇾ点はないが、返して読んだ。]、花、裁に、三、五個、大朶《おほふさ》のみ。』≪と≫。[やぶちゃん注:「裁」の読み方が判らない。「に」を無視するなら、「花の裁(やうす)」と読むなら、納得出来る。東洋文庫訳は『株ごとに三、五個の花がつく。』とある。]

『氣味【甘、微鹹《びかん》。】』『折傷《うちみ》≪して≫、血、內《うち》に溜《たま》るを治す。《骨の》絕《たち》たる[やぶちゃん注:「折れたのを」。]を續《つな》ぎ、骨髓を補ひ、痛《いたみ》を止《とむ》【枝・葉・子、功を同≪じくす≫。】。』≪と≫。

 「六帖」

   我がごとく

      人めまれらに

    思ふらし

       白雲深き

        山ちさの花

△按ずるに、「賣子木」は、今、「知佐乃木」と謂ふ者と、此れと、形狀、大いに異にして、[やぶちゃん注:この下の四字空けは、二つが、同じものでないことを示すためのものらしいので、そのまま改行しておく。]

「知佐乃木」は、𠙚𠙚《しよしよ》≪の≫山中に有り。最も、丹波、之れ、多し。高き者は、二、三𠀋、徑《めぐ》り、一、二尺。皮、粉《うすき》青白色。老する時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、淺褐色。中心、白く、其の葉、「梅嫌木(うめもどき)」に似《にて》、葉、尖《とが》り、長さ、二寸許《ばかり》。靣《おもて》、青く、背《せ》、淡《あは》し。冬、凋ぼみ、春、生じ、三、四月、花を開く。花、碎けずして、小《ちさ》く、白《しろし》。單-辨(ひとへ)≪にして≫、「野梅《のうめ》」の花に似て、朶《ふさ》、稍《やや》長《ながく》垂《たる》る。大朶《おほふさ》を作《な》さず、伹《ただ》、毎《つねに》、二、三、攅生《むらがりてしやう》≪ずる≫のみ。實を結ぶ≪も≫、狀《かたち》、小≪さき≫蓮《はす》≪の≫子のごとく、初《はじめ》は、青、後《のち》、黒く、殻、堅《かたく》、肉、白色。山雀《やまがら》、喜んで、之れを食ふ。其の材、稠堅《ちうけん》[やぶちゃん注:ぎゅっと締まっていること。]にして、枵杖(をうこ[やぶちゃん注:ママ。「枴(あうこ)」(現代仮名遣「おうこ」)で、「山仕事に用いる天秤棒」のこと。])作≪るに≫堪《たへ》、又、傘≪を作る折り≫の轆轤《ろくろ》に作《な》す。樹を伐れば、則ち、嫩-蘗(わかばへ[やぶちゃん注:ママ。「若生(わかば)えの芽」の意。])、株《かぶ》より生《しやうず》。長《ちやう》じ昜《やすし》。之れを採りて、「箕(み)」の緣(ふち)に作《なす》。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫の後注で、『中国の売子木はアカネ科サンダンカ(サンタンカ)、日本のチシャノキはエゴノキ科。』とする。これに従うなら、

中国の「賣子木」は双子葉植物綱リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科サンタンカ属サンタンカ Ixora chinensis

となる。「維基百科」の同種のそれは「仙丹花」とし、別名を『還有紅繡球・買子木賣子木三段花』とするので、正しい。それに対して、

日本の「賣子木」はムラサキ目ムラサキ科 Ehretioideae 亜科チシャノキ(萵苣の木)属チシャノキ Ehretia acuminata

である。「維基百科」の同種は「厚壳树」である。良安は、ここでは、明らかに違った種であることを認識している点で、今までの完全アウトな評言や、ダンマリ放置プレーより、遙かに救われている。

 まず、ウィキの「サンタンカ」を引く(注記号はカットした。原産地の記載順序を変更してある)。『赤い花を』、『多数』、『纏めて』、『つけ、非常に美しい』。『中国南部からマレーシアにかけてを原産とする。現在では九州南部までに帰化した例がある』。『沖縄や久米島では古くより逸出して野生状態でも見られる』。『沖縄には古くに入り、沖縄と九州の一部では野生化している』。『常緑性の低木。樹高は』一~三メートル『になり、全株』、『無毛。節ごとに托葉があり』、三『角形か広』三『角形で』、『先端は針状に尖って突き出し、長さ』三~七ミリメートル。『葉は倒卵状楕円形で先端は尖らず、基部は次第に細くなって短い葉柄に続く。葉身の長さは』五~十三センチメートル、『幅は』二~六センチメートル『で、葉柄の長さは』一~四ミリメートル。『花は主に』七~八『月に咲くが、ほぼ通年に見ることが出来る。花序全体が紅色をしている。花序は茎の先端に出る集散花序で、多数をまとめてつける。萼筒は長さ』一ミリメートル、『先端が』四『つに裂けており、その裂片は広卵形で先端が丸く、長さ』一ミリメートル『ほど。花筒は長さ』二~三センチメートル、『幅』一ミリメートル『ほど、外面は無毛、花筒の内側には軟らかな毛を密生するが』、『外側の面は無毛。花筒の先端は』四『つの裂片に裂け、それぞれの裂片は倒卵円形で先端は丸くて長さ』五~七ミリメートル、『幅』四~六ミリメートル。『葯は細長く』、『葯は花筒から抜け出て』、『伸び出す。花柱は細長くて長さ』二・五~三・五センチメートル、『軟らかな毛がまばらにある。液果は横長の球形で縦向きに走る溝があり、長さ』四ミリメートル、『幅』五ミリメートル。『熟すと紅紫色になる。種子は径』三ミリメートルである。『名前はサンタンカは山丹花、別名をサンダンカ(三段花)といい、福岡』(一九九七年)『はその由来は不明としている。三段花については佐竹他』(同年)『は当て字であろうとしている』。『天野』(一九八二年)『は、昔、南中国の奥東潮州』(現在の広東省潮州市附近(グーグル・マップ・データ)か)『の黄という婦人がおり、彼女が潮州の仙丹山を通る際に簪を落とし、それがこの花に化し、それ以降仙丹山にはこの花が多い、という伝説を紹介している』。『現在では同属の多くの種が持ち込まれて流通しているため、園芸方面では学名仮名読みのイクソラがよく通じるという』。『サンタンカ属には世界の熱帯域に』三百から四百『種があり、日本の在来種はない。その中で本種が最も古くに日本に導入された種である。他によく栽培されているものとしてはベニデマリ I. coccinea が挙げられる。この種の変種であるキバナサンタンカ I. coccinea var. lutea も普及している。また』、『花の白いシロバナサンダンカ I. parvoflora は本種の白花ではなく別種である。また』、『より赤みが強く弁が細いダッフィー I. duffi も熱帯アジアで大型の庭木や生け垣に使われる』。『名前の上で似ているものにクササンタンカ Pentas lanceolata があり、花の様子などが似ていることからこの名があるが、別属であり、またこの種は熱帯アフリカ原産である』。『花が美しいことから観賞用に栽培される。薬用とされたこともある』。『沖縄では古くより栽培され、時に琉球の三名花の一つとされる。日本本土には江戸の中期(正保年間』(一六四四年~一六四七年)とも)に琉球から江戸に入ったと見られ、三段花と呼ばれた。坂上登の』「琉球植物志」(明和七(一七七〇)年刊)に『初めて出てくる他、岩崎灌園の』「本草圖譜」(文政一一(一八二八)年完成)に『図が出ている』。『園芸品種としては白花の 'Alba' や』、『濃橙色のディクシアナ 'Dixiana' が有名である』。『日光によく当てることが必要で、日射不足では軟弱になり、また』、『花付きが悪くなる。低温への耐性もあり』、摂氏五~八度『越冬出来るが、開花には』十五度『以上を必要とする』とある。

 次いで、ウィキの「チシャノキ(ムラサキ科)」を引く(注記号はカットした)。『和名は、若葉の味がチシャに似ていることから。また、樹皮や葉がカキノキに似ていることから、カキノキダマシともいう』。『花期は』六『月から』七『月で、枝先に小さな白い花を多数つける』。『樹皮にタンニン、アラントイン、蔗糖(スクロース)を含む。アラントインは地下部に多く、上に行くに従って減少し、葉には含まれない』。『中国・四国・九州の西日本。琉球諸島、台湾、中国、インド、オーストラリア』に分布し、『福岡県と高知県には、国の天然記念物に指定されている大木がある』とある。記載が貧しいので、小学館「日本大百科全書」のチシャノキを引いておく。『ムラサキ科(APG分類:ムラサキ科)』Boraginaceae『の落葉高木。樹皮は小鱗片』、『になって』、『はがれ、樹形および葉がカキノキに似るので、カキノキダマシともいう。葉は互生し、倒卵状長楕円』『形で』、『長さ』十~十七『センチメートル、先は短くとがり、基部はくさび形、縁(へり)に浅く切れ込む鋸歯』『がある。質はやや厚く、長さ』一・五~三『センチメートルの葉柄がある』。六~七『月、枝先に円錐』『花序をつくり、白色の小花を多数密に開く。花冠は深く』五『裂し、径約』五『ミリメートル。雄しべは』五『本。果実は球形で径』四~五『ミリメートル』、八~九『月、橙黄(とうこう)色に熟す。低地に生え、中国地方西部、四国、九州、沖縄、および中国中南部などに分布する』。『材は黄白色で、建築、家具、器具材とし、樹皮および材から染料をつくる。また』、『庭木にもする』。なお、『エゴノキ科のエゴノキ』(ツツジ目エゴノキ科 Styracaceaeエゴノキ属エゴノキ Styrax japonicus )『もチシャノキとよばれることがあり、歌舞伎』「伽羅先代萩」に『出てくるチシャノキはエゴノキのことである。チシャノキ属は世界の熱帯を中心に約』五十『種ある』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「賣子木」([088-76b]以下。非常に短い)のパッチワークである。

「六帖」「我がごとく人めまれらに思ふらし白雲深き山ちさの花」「古今和歌六帖」の「第六 木」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」のそれの、ガイド・ナンバー「04324」で確認した。

「梅嫌木(うめもどき)」モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ Ilex serrata 当該ウィキを参照されたい。

「野梅《のうめ》」バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume の山野に自生する自然種個体を指す。

「山雀《やまがら》」朝鮮半島及び日本(北海道・本州・四国・九州・伊豆大島・佐渡島・五島列島)に分布するスズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ亜種ヤマガラ Parus varius varius。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山雀(やまがら) (ヤマガラ)」を見られたい。

「箕(み)」穀物の殻・塵などを除く道具。]

2024/10/11

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 山內刑部

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここの三行目三字目から。前の話に、字空けさえもなく、そのまま続いているが、全く異なる話である。標題「山內刑部」は「やまのうちぎやうぶ」と訓じておく。]

 

     山內刑部

 山內刑部は、豊州永原の人、一豊公(かずとよこう)[やぶちゃん注:かの山内一豊。底本では、敬意の字空け(二字分)が頭にある。]、御入國の節、知行二千五百石、外(ほか)に御代官料千石被下(くだされ)、都合、三千五百石にて。長岡郡(ながをかのこほり)本山(もとやま)土居(どゐ)[やぶちゃん注:これは「城・館(やかた)の周囲に、外敵から守る備えとして設けた土の垣(かき)」を指す語で、ここはその山城の麓の城屋敷のこと。私もしばしばお世話になる、強力な城郭研究の個人サイト「城郭放浪記」の「土佐本山土居屋敷」を見られたい。地図もある。]を預りて、其後(そののち)、本山にて病死す。[やぶちゃん注:この「山內刑部」は土佐藩家老永原一照(ながはらかつあき)の別名である。当該ウィキを見られたい。因みに、彼は、かの板垣退助の先祖である。但し、彼は尾張国生まれである。ただ、彼の『祖先は宇多源氏佐々木氏支流である山崎氏支流の永原氏』であり、この永原氏は、注で、『近江国野洲郡永原村を領して永原氏を称した』とある。にしても、「豊州」=豊前ではない。何か、錯誤がある。

 嫡子但馬(たじま)、俸祿・格式共(とも)、無相違(さういなく)、相續(さうぞく)し、室は毛利次郞九郞娘【豊前永原の城主也、】、毛利壹岐守殿、養育にて、當國に被居(をられ)候を、見性院殿(けんしやうゐんどの)【一豊公御室。】、御所望被遊(あそばされ)、但馬が妻に被遣(つかはさる)。別(べつし)て、御恩、厚かりしが、但馬、生得(しやうとく)、愚昧にして、朝暮(てうぼ)、殺生を好み、其上、奢恣(しやし)[やぶちゃん注:贅沢を恣(ほしいまま)にすること。]の行跡(ぎやうせき)、兼〻(かねがね)、思召(おぼしめし)にも不叶(かなはざり)し、とかや。[やぶちゃん注:ウィキの「永原一照」の「系譜」によれば、長男山内一長(?~寛永一七(一六四〇)年:金右衛門、後に但馬を名乗った)『家禄は』千二百五十『石』十六『人扶持』二『歩半で、元和』六『年』(一六二〇年)『に父が歿して後、その跡式を継いだが、元和』八『年』『(一六二二年)』、『大坂城石垣普請に対し』、『藩主より叱責を受けた。滝山一揆ののち善政を布いた父』『一照と異なり、領民からも不満の声があったため、同年』十二『月、所領を没収され、捨扶持』三十『石のみを与えられ』、二『人の子供を連れて佐川深尾家にお預けの身となる。寛永』一七(一六四〇)年二『月、名誉回復のされないまま』、『配流地の佐川で歿した』とある。]

 或時、但馬、殺生にゆかれし道にて、出家に行逢(ゆきあひ)ぬ。如何成(いかなる)意趣や有(あり)けん、其儘、出家を殺害(せつがい)せられける。

 夫(それ)より三年に及(および)て、元和六年庚(かのえ)中(うち)、忠義公、御在府の節、於江戶(えどにおいて)、「八幡」の二字、班(フ)に明白に[やぶちゃん注:底本には「に」はない。国立公文書館本74:左丁三行目)で補正した。]見ゆる、鷹一本、賣(うり)に出(いで)けるを、御買求被遊(おかひもとめあさばさる)。

 鷹の出所(でどころ)、御尋有(おたづねあり)けるに、

「土佐國、本山鷹(もとやまのたか)。」

の段(だん)、申上(まうしあげ)ければ、忠義公[やぶちゃん注:底本には、同前の字空けあり。]、被仰(おほせらるる)は、

「珍敷(めづらしき)鷹、領内より出(いづ)る事、甚(はなはだ)、不審也。手痛、詮義仕候樣(つかまつりさふらふやう)。」

に被仰出(おほせいださる)。

 依之(これにより)、穿鑿有(せんさくあり)けるに、但馬、領內本山にて、隣國、讚岐へ賣(うり)に出候段(いでさふらふだん)[やぶちゃん注:「に」が欲しい。]及(および)、露顯、且(かつ)、

「爾來(じらい)、不心行旁(ふしんぎやうかた)。」[やぶちゃん注:「以来、思慮分別に欠ける行為が堪忍の度を越しておる!」という意味であろう。]

を以(もつて)、元和六年十一月五日、知行、被召上(めしあげられ)、三十(イ五)人扶持[やぶちゃん注:この傍注の「イ」は書誌学的記号であって、「異本」「一本」の略。書物を校合(きょうごう)して、異本の字句を傍注する時に用いる符号。されば、これは異本では「三十扶持」ではなく、「五人扶持」ということであろう。しかし、実際には先の記載では、元が十六人扶持二歩半であったものが、捨扶持三十石のみに落とされているので、おかしい。]被遣佐川へ(さがはへつかはされ)、御預(おあづけ)也(なり)。

 但馬、嫡子は、自殺す。[やぶちゃん注:ウィキの「永原一照」の「系譜」によれば、先の通りで、死を自殺とはしていない。しかし、失意の果て、自殺した可能性もあろう。]

 二男(じなん)を「命也(メイヤ)」とふ【本ノ云ふカ】[やぶちゃん注:左右にルビする。これは「とふ」を『本原本では「と云ふ」であったか?』の意か。或いは彼の幼名ということか。後注するが、この照一の次男は山内(主君の姓を賜ったもの)平九郎で、後に乾正行金右衛門と称している。当該ウィキを見られたい。]、吶(ドモリ)也(なり)。此(この)命也へ、廿人扶持被下(くだされ)、長壽にて、正保年中[やぶちゃん注:一六四四年から一六四八年まで。慶安の前。]、病死す[やぶちゃん注:同人のウィキによれば、生年不詳で、慶安二年十二月十八日(一六五〇年一月二十日)に病死とある。]。

 其子(そのこ)、名、不知(しれず)、佐川にて出生(しゆつすやう)故(ゆゑ)、御扶持不被遣(つかはされず)、佐川より、二人扶持被下(くだされ)、流浪(るらう)の躰(てい)なり。[やぶちゃん注:次男乾正行金右衛門には、乾正祐・乾正直・乾友正がいるが、その内の誰かは判らない。]

 其子、永原惣次、寬延三年正月[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七五〇年二月七日から三月七日相当。]、被召出(めしだされ)、五人扶持廿四石被下(くだされ)けるが、痴鈍(アホウ)にて、斷絕せし、とかや。[やぶちゃん注:「永原惣次」不詳。]

 又、但馬舍㐧(しやてい)[やぶちゃん注:ここは「義理の弟」の意であろう。]に權右衞門といふ浪人、有(あり)。沒落の砌(みぎり)、此人は播磨へ【姬路。】立退(たちのき)ぬ。其節、妾(めかけ)、姙娠(にんしん)にて、

「若(もし)、男子(だんし)、成(な)らば、遣はせ。」

とて、脇差を殘し置(おき)けるに、果して、男子、生(うま)れ、今、其(その)末孫(ばつそん)、本山郷(もとやまがう)の小夫(こヅカヒ)をして居(を)る由。去れども、所の者は「山內殿」と、いふ、とぞ。[やぶちゃん注:この人物、不詳。]

 又、本山上関(かみぜき)に「おそごへ」と云(いふ)所、有(あり)。其所(そこ)に、半五右衞門といふ百姓も、權右衞門曾孫(そうそん/ひこ)[やぶちゃん注:「曾孫(ひまご)」。]、とかや。[やぶちゃん注:「本山上関」長岡郡本山町上関(グーグル・マップ・データ)。「おそごへ」本山町上関遅越(おそごえ)の誤り。グーグル・マップ・データ航空写真で見ると、現在も小さな集落がある。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 名野川村明神山

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「なのがはむら みやうじんやま」と訓じておく。]

 

     名野川村明神山

 吾川郡(あがはのこほり)名㙒川村に、「中津明神山(なかつみやうじんやま)」とて、城跡、有(あり)。

 里人(さとびと)、傳云(いひつたへいふ)、

「昔、平宗盛公、沒落の時、一門達(いちもんたち)、此山中(このyさんちゆう)に籠(こも)りて、築(きづき)たりし城。」

とかや。

 今、猶、隍(ホリ)、あり、又、井戶の跡、有(あり)。

「此山、峻絕(ケハシキ)、甚し[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本73)も同じ。「近世民間異聞怪談集成」では、ここに『(こと)』と編者補正がある。]。山、八分(はちぶ)以上は、假令(たとひ)、山人(やまびと)の輩(やから)も、登る事を不得(えず)。」

と、いへり。

 誠に、人力に難及(およびがたき)事也(なり)。

 いかなる人か、すみけん、知(しる)者、なし。

 此所(このところ)より、橫倉山へも近かるべし。

 

[やぶちゃん注:「名野川村」は現在の吾川郡(あがわぐん)仁淀川町(によどがわちょう)名野川(なのかわ:グーグル・マップ・データ)の周囲を含む江戸時代の旧広域。「ひなたGPS」の戦前の地図と国土地理院図で、『中津山』『(明神山)』、及び、逆転した『明神山』『(中津山)』を確認出来る(標高千五百四十・六メートル)。前者によって、ここは昔、名野川村と、西の中津村の村境のピークであったことが判る。

「山人(やまびと)」ここは、かく訓じて、「山に住む人・山で働く人・樵(きこり)や炭焼きなど」の意である。

「橫倉山へも近かるべし」「橫倉山」(標高七百七十五メートル)は高岡郡越知町(おちちょう)越知丁(おちてい)のここ(グーグル・マップ・データ(以下同じ)で、右下方にポイント。左中央に「明神山城跡(中津山)」を配したが、これ、直線で十五キロメートル離れる。まあ、山のピークのことだから、近いと言えば、近いとも言えるが、仁淀川(によどがわ)を隔てており、この山は有意に低い。山屋の感覚では、近くには見えるが、山体が繋がっているわけではないから、「近い」とは言わないな。しかし、敢えてここで、この山を「近い」と言い、わざわざ添えたのは、この山頂東直近には、実は各地に伝承される「安徳天皇陵墓参考地」の一つがあるからである。ここだ。

2024/10/10

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 比江山掃部

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。標題は「ひえやまかもん」と訓じておく。]

 

     比江山掃部

 比江山掃部親興(ひえやまかもんちかおき)は、長岡郡(ながをかのこほり)比江村、日吉の城主にて、元親(もとちか)の家族也。

 此時、大髙坂城、普請、半(なかば)にて、掃部介、居宅は、城中、西槨(にしのかく)、權現の社(やしろ)の下、南の方(かた)にて、是(これ)も、普請の下知(げち)して居(をり)ける所に、今度(このたび)、世繼(よつぎ)評定の節、吉良(きら)左京進と倶(とも)に諫言致されしを、久武內藏助(ひさたけくらのすけ)が讒言(ざんげん)に依(より)て、中嶋吉右衞門・橫山修理(しゆり)を檢使に遣(つかは)し、詰腹(つめばら)、切らせける。

 其時、子息は、比江より新改(しんがい)へ落(おち)られしが、比江より、植田(うへた)へ行(ゆく)所に、川、有(あり)。其邊にて、植田村の者に行逢(ゆきあひ)て、

「新改の方(かた)へ落行(おちゆき)し事、隱してくれよ。」

と、賴まれしに、彼(かの)者、受合(うけあひ)ながら、追手のものへ、有(あり)のまゝに、つげたりしかば、新改へ、追掛(おひかけ)て、あへなく、殺せし、とかや。

 然(しか)るに、右の祟りにや、

「今に至るまで、植田の者は、此(この)川のほとりにて煩付(わづらひつ)けば、死するもの、數〻(かずかず)有り。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「比江山掃部親興」(?~天正一六(一五八八)年)は別名を長宗我部掃部助と称した。当該ウィキによれば、『長宗我部氏の家臣。土佐国比江山城』(現在の南国市比江にある「比江山神社」(グーグル・マップ・データ)が旧跡)『主。長宗我部元親』(「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既注)『の従兄弟』。『長宗我部国親の弟・国康の子として誕生。土佐比江山城主であり』、『比江山氏を名乗る』。『四国征伐では阿波岩倉城を守備』した。『元親の長男・長宗我部信親が』、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」(当該ウィキによれば、『豊臣秀吉による九州平定の最中である』天正一四年十二月十二日(一五八七年一月二十日)に、『島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した』とある)で『死去した後の長宗我部氏の後継者騒動の際』、『元親の怒りを買い』、天正一六(一五八八)年十月四日、『または』九『月下旬』『に切腹させられた』。『この時』、元親の弟で長宗我部氏家臣で、長宗我部中村城主・吉良親貞の子。吉良城・蓮池城主であった『吉良親実』(きらちかざね)『も切腹させられた(異説あり)』(ウィキの「吉良親実」によれば、『親実による天正』一七年九月十日(一五八九年十月十九日)『付の西諸木若一王子』(にしもろぎにゃくいちおうじ)『の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また』、「長宗我部地検帳」の中でも』、天正一九年一月1十六日(一五九一年二月九日)『の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に直接』、『知行が宛がわれており』、『彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは天正』十七年九月以降で、天正十九年一月『以前であったと推定される』とある)『他、親興の室と二人の子供も、その一報を聞き逃げる道中もしくは善勝寺にて殺害されたとされている。親興やその妻子、寺の住職など』七『人が殺害または自害し、その死霊が「七人ミサキ」となったという「比江山七人ミサキ」という伝承が残っている』とある。この「七人ミサキ」は当該ウィキがあるので、それを引く(注記号はカットした)。『高知県を始めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊』伝承で、『災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊』とされ、『その名の通り常に』七『人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる』。『七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう』。一『人を取り殺すと』、『七人ミサキの内の霊の』一『人が成仏し、替わって』、『取り殺された者が七人ミサキの内の』一『人となる。そのため』、『七人ミサキの人数は常に』七『人組で、増減することはないという』。『この霊の主は様々な伝承を伴っているが、中でもよく知られるものが』、「老圃奇談」・本書「神威怪異奇談」『などの古書にある土佐国』『の戦国武将・吉良親実の怨霊譚である。安土桃山時代、吉良親実は伯父の長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親の死後、その後嗣として長宗我部盛親を推す元親に反対したため、切腹を命ぜられた。そのときに家臣たち』七『人も殉死したが、それ以来』、『彼らの墓地に様々な怪異があり、親実らの怨霊が七人ミサキとなったと恐れられた。それを耳にした元親は供養をしたが』、『効果はなく、怨霊を鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分、現・高知市春野町西分』(にしぶん)『増井』(ますい))の墓に木塚』(きづか)『明神を祀った。これが現存する吉良神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『である。また』、「土陽陰見奇談」・「神威怪異奇談」に『よれば、親実と共に元親に反対した比江山親興も切腹させられ、妻子たち』六『人も死罪となり、この計』七『人の霊も比江村七人ミサキとなったという』。『また』、『広島県三原市には経塚または狂塚と呼ばれる塚があったが、かつて凶暴な』七『人の山伏がおり、彼らに苦しめられていた人々が協力して山伏たちを殺したところ、その怨霊が七人ミサキとなったことから、その祟りを鎮めるためにこの塚が作られたのだという』。『ほかにも』、『土地によっては』、『この霊は、猪の落とし穴に落ちて死んだ平家の落人、海に捨てられた』七『人の女遍路、天正』一六(一五八八)年『に長宗我部元親の家督相続問題から命を落とした武士たち、永禄時代に斬殺された伊予宇都宮氏の隠密たちなど、様々にいわれる』。『山口県徳山市(現・周南市)では、僧侶の姿の七人ミサキが鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。そのため』、『日が暮れた後は』、『女子供は外出しないよう戒められていたが、どうしても外出しなければならないときには、手の親指を拳の中に隠して行くと七人ミサキの難から逃れられたという』とある。

「久武内藏助」久武親直(?~天正七(一五七九)年)で長宗我部氏家臣。当該ウィキによれば、『久武昌源』(しょうげん)『の次男として生まれる。才能があり』、『策謀家で』、『長宗我部元親・盛親の深い信頼を受けた』。天正七(一五七九)年、『兄・親信が土居清良との戦いで戦死すると、親信の遺領と内蔵助の名乗りを継ぐ』。天正一二(一五八四)年、『元親より』、『伊予軍代に任命され、宇和郡三間』(みま:この附近。グーグル・マップ・データ)『を攻撃、阿波方面では牛岐城主の新開道善を丈六寺で謀殺し、中富川の戦いでは渡河時刻を元親に進言して一軍の攻撃を指揮した。また、羽柴秀吉による四国征伐に際しては』、『長宗我部氏の同盟者で』、『東伊予の防備を担っていた金子元宅に対し』、『書状と起請文を送り、結託を固くしている』。天正十四年、『秀吉による方広寺大仏殿(京の大仏)造立の際には材木の伐採・搬出の監督を務めたが、このときに吉良親実と不和になったという』(☜)。天正一六(一五八八)年、『長宗我部氏の後継問題が起こると、親直は元親の意を汲んで盛親の擁立に尽力し、反対派の親実らと争った』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で『西軍が敗北すると、親直は』、『津野親忠が』、『藤堂高虎と通じて』、『土佐半国を支配しようとしているとして、盛親に親忠を切腹させるよう進言した。しかし』、『盛親がこれを一蹴したため、親忠の報復を恐れた親直は』、『盛親の命令と偽って香美郡岩村に幽閉されていた親忠を切腹させたという。この事件を耳にした徳川家康は盛親の誅伐を決めるが、井伊直政の取りなしにより盛親は辛うじて死罪を免れた』。『その後、長宗我部氏の改易が決定すると、親直は浦戸城を死守しようとする長宗我部遺臣の要求を排して降伏の意見を述べた。開城後は肥後国に赴き、加藤清正に仕えて』千『石を給せられたが、その変節を非難された』。兄『親信は三間に出陣する際、元親に対し「このたびの合戦で討ち死にしたとしても、私の弟の彦七(親直)には私の跡目を継がせないでください。彦七は将来お家の障りにはなっても、役に立つ者ではありません」と進言したという』(「土佐物語」)とある。

「新改」現在の香美市土佐山田町新改しんがい:グーグル・マップ・データ。中央下に比江山城跡である比江山神社を配してある。拡大されると神社名が出る)。

「植田」現在の南国市植田うえた:グーグル・マップ・データ)。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡籠原川

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「はたのこほりこみはらがは」と訓じておく。]

 

     幡多郡籠原川

 幡多郡蜷川村(みながはむら)の內(うち)、籠原(コミハラ)と云(いふ)所に、一宮親王(いちのみやしんわう)の旧跡あり。

 其所(そこに)に龍原川と云(いう)あり。

「此(この)川は、親王の用水なりし。」

とぞ。

 今に、不淨を洗へば、忽(たちまち)、祟り、有(あり)。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡籠原川」「蜷川村」「一宮親王の旧跡」現在の幡多郡黒潮町蜷川(みながわ:グーグル・マップ・データ)に「尊良親王 (王野山)大野山行在宮」(あんざいのみや)跡がある。これは、後醍醐天皇第一皇子尊良(たかよし/たかなが)親王の配流所であった。当該ウィキ(注記号及び出典はカットした)によれば、『元弘元』(一三三一)年に『発生した』「元弘の乱」『では』、『父と共に笠置山に赴いたが、同城が落ちる前に楠木正成の立てこもる下赤坂城に移った。しかし』、十月三日、『幕府軍に捕らえられ、佐々木大夫判官の預かりの身となった。同月』十『日に検知を受け』、十二月二十七『日に土佐国への流罪の判決が下り、翌年』三『月』『に京都を出立して土佐に流された』。『しかし、尊良親王は土佐を脱出して九州に渡り』、元弘三/正慶二(一三三三)年、『江串』(えのくし)『氏を味方につけて九州で挙兵した』。『鎌倉幕府の九州統治機関である鎮西探題が滅亡し』、『その長の赤橋英時が敗死すると』、五月二十六日、『大宰府に入った』。『その後、父の建武の新政が始まると、京都に帰還した』。鎌倉幕府滅亡の二年後の建武二(一三三五)年、『後醍醐天皇が足利尊氏の行動を疑問視して兵を出し、建武の乱が発生すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌』延元元・建武三(一三三六)年、『一度は九州に落ちた尊氏が』、『力を盛り返して上洛すると、後醍醐天皇は尊氏への降伏を決定する。しかし』、十月九日、『義貞の別働隊が編成されると、異母弟である皇太子恒良親王と共に義貞に奉戴されて北陸に逃れ、翌日』、『越前国金ヶ崎城に入った』。翌年の一月、『尊良親王が拠った金ヶ崎城に、高師泰と足利高経(斯波高経)を主将とする足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き』、三月六日、『自害、義顕や他の将兵』百『余人もまた戦死した』とある。

「龍原川」この名の川は現行では見出せない。行宮との位置関係から見て、現在の「蜷川」の旧名か、その上流の分岐した谷川の名かと思われる。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 黃楊木

 

Tuge

 

つげのき

      和名豆介

黃楊木 附《つけた》り いぬつけ

         狗黃楊

          びんからず

ハアン ヤン モツ 言不爲櫛也

 

本綱黃楊木生山野中人家多栽揷之枝葉攅簇上聳葉

似初生槐芽而青厚不花不實四時不凋其性難長俗說

歳長一寸遇閏則退今試之伹閏年不長耳其木堅膩作

梳剜印最良世重黃楊以其無火也用水試之沉則無火

凡取此木必以陰脢夜無一星伐之則不裂。

[やぶちゃん字注:」(音「バイ・メ・マイ」)は「背中の肉・背骨の周りの肉」の意であり、意味が通らない。「陰」と「夜」を挟んで「曇った晦(くら)い夜」の意であるから、「晦」の誤字と断ずる。訓読では「晦」に代えた。

葉【苦平】治婦人難產入達生散中用

 夫木賤の女かかしらけつらす朝夕につけのを櫛やとるまなからん爲家

△按黃楊木葉似槐葉而小又似白丁花木葉而四時不

 凋無花實其木心色黃白材堅剜印作櫛或爲象戲棊

 子佳琉球及屋久島之產最良豆州之者次之

狗黃楊 葉比眞黃楊小厚色亦㴱綠七月結實狀大如

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

 山椒青色冬熟正黒色人家多栽之四時不凋其美比

 于松柏伹葉淡青無實爲眞黃楊如雌與雄然不載於

 本草者中𬜻無之乎

 

   *

 

つげのき

      和名、「豆介《つげ》」。

黃楊木 附《つけた》り 「いぬつげ」

                狗黃楊

              「びんからず」

ハアン ヤン モツ 言ふ心は、櫛《くし》に爲さざればなり。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「心」は送り仮名にある。]

 

「本綱」に曰はく、『黃楊木《わうやうぼく》、山野の中に生《しやうず》。人家、多《おほく》。栽《うゑ》て、之れを揷《さしぎ》す。枝・葉、攅-簇《さんぞく》して[やぶちゃん注:集まり群がって。]、上《のぼ》り、聳(そび)ゆ。葉、初生の槐《えんじゆ》の芽に似て、青《あをく》、厚《あつし》。花、あらず≪して≫、實《み》のらず。四時、凋まず、其の性、長じ難《がたく》、俗說に、「歳《とし》ごとに、長《ちやうず》ること、一寸。閏《うるふ》[やぶちゃん注:旧暦の「閏月」のある「閏年」。]に遇ふ時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、退《しりぞ》く[やぶちゃん注:逆に退行して低くなってしまう。]。」≪と≫。今、之れを試るに、伹《ただ》、閏年には、長ぜざるのみ≪なり≫。其の木、堅《かたく》、膩《つややか》にして、梳(くし)に作り、印に剜(ほ)りて、最《もつとも》良し。世に、「黃楊を重《おもん》ずることは、其れ、「火《くわ》」[やぶちゃん注:五行の「火」のこと。]、無きを以つてなり。」≪と≫。水を用ひて、之れを試む≪に≫、沉《しづ》む時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、「無火」≪たり≫[やぶちゃん注:「火」の性がないことが判る。]。凡そ、此の木を取るに、必《かならず》、「陰--夜(《く》らきよ)」を以つて、一つも、星、無きを《✕→時に》、之れを伐(き)れば、則ち、裂けず。』≪と≫。

『葉【苦、平。】婦人≪の≫難產を治す。「達生散」の中に入れて、用《もちふ》。』≪と≫。

 「夫木」

   賤《しづ》の女《め》が

        かしらけづらず

       朝夕に

         つげのを櫛《ぐし》や

        とるまなからん      爲家

△按ずるに、黃楊木《つげのき》の葉、「槐」の葉に似て、小さし。又、「白丁花(《はくちやう》げ)の木」の葉に似て、四時、凋まず、花・實、無し。其の木の心《しん》、色、黃白にして、材、堅く、印に剜《ほ》り、櫛に作り、或いは、象-戲《しやうぎ》の棊-子(こま)と爲して、佳なり。琉球、及び、屋久島の產、最良≪なり≫。豆州《づしう》の者、之れに次ぐ。

狗黃楊(いぬつげ) 葉、「眞--楊《まつげ》」に比するに、小さく、厚く、色≪も≫亦、㴱綠《ふかみどり》≪なり≫。七月、實を結ぶ。狀《かたち》、大≪にして≫、山椒のごとく、青色≪たり≫。冬、熟して、正黒色≪たり≫。人家、多く、之れを栽う。四時、凋まず、其の美、松柏《しようはく》に比す≪べし≫。伹《ただし》、葉、淡青《あはきあを》、實、無きを「眞黃楊」と爲す。雌《めす》と雄とのごとし。然≪れども≫、「本草」[やぶちゃん注:「本草綱目」。]に載せざるは、中𬜻には、之れ、無きか。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、日中ともに同一種のように割注しているが、これは誤りで、良安の附言の日本の「黃楊木」及び「眞黃楊」は、日本固有種である、

〇双子葉植物綱ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica

であるのに対し、中文の「黃楊」は、

◎同ツゲ属の別種、又は、別亜種であるタイワンアサマツゲ Buxus sinica 、又は、Buxus microphylla subsp. sinica

を指し(正式な漢字表記は「台湾朝熊黄楊」)、本邦固有種の上記「ツゲ」を指す際には、現行では「小葉黄楊」と書く。「維基百科」の「ツゲ属」相当の「黄属」、及び、「タイワンアサマツゲ」相当の「黄を見よ。「タイワンアサマツゲ」は、後者のリンク先の「分布」では、『安徽省・広西チワン族自治区・四川省・江西省・浙江省・貴州省・甘粛省・江蘇省・広東省・山東省・湖北省・陝西省など中国本土に分布する』とあるが、邦文の信頼出来る複数の植物サイトでは、分布域を日本の沖縄・中国・台湾とする。

 また、良安は「狗黃楊」を挙げているが、これは、全くの別種で、漢字表記も「犬柘植」であるところの、

●モチノキ目モチノキ科モチノキ属イヌツゲ Ilex crenata var. crenata

であるので注意が必要である。

 まずは、本文記載順にするが、タイワンアサマツゲは纏まった邦文記載があまり多くないので、「三河の植物観察」の「ツゲ」の包括ページにある、「7」『タイワンアサマツゲ』を引いておくことにする。『日本(沖縄)、中国、台湾に分布する。中国名は黄杨 huang yang』。『低木又は小高木。小枝は円柱形、縦のうねがあり、灰白色。若枝は』四『稜形、有毛、節間は』三、或いは、五ミリメートルから二センチメートル。『葉柄は長さ』一~二ミリメートル。『葉身は形や大きさが変化し、広楕円形~広倒卵形~円形~倒卵形~倒卵状長楕円形~楕円状披針形~披針形、長さ』五、或いは、七ミリメートルから三・五センチメートル、『幅』三・五、或いは、五ミリメートルから二センチメートル。『革質~厚い革質、上面は光沢があり、両面が無毛又は中脈の下半部に微軟毛があり、基部は円形~楔形、先は円形~鈍形で先端が凹む~先の尖った尖鋭形、中脈は上面に盛り上がり、側脈は不明瞭、上面に小しわがある。花序は腋生、頭状花序。花序軸は』三~四ミリメートル、『有毛。苞は広卵形、長さ』二~二・五ミリメートル、『下面が±有毛。雄花は約』十『個、無柄。外花被片は卵状楕円形。内花被片は類円形、長さ』二・五~三ミリメートル、『無毛。雄しべは長さ約』四ミリメートル。『不稔の雌しべは棍棒形の子房柄をもち、先はわずかに膨れ、長さ約』二ミリメートル。『不稔の雌しべと花被片長さは約』二対三、一対一、三対二。『雌花は花被片が長さ約』三ミリメートル。『子房は花柱よりわずかに長く、無毛。花柱は太く、扁平。柱頭は倒心形、花柱の中間まで沿下する。蒴果は類球形、長さ』六~八ミリメートルから一センチメートル。『宿存性の花柱は長さ』は二~三ミリメートル、とある。

 次に、ウィキの「ツゲ」を引く(注記号はカットした)。漢字表記は『黄楊、柘植、樿』だが、『別名で、ホンツゲ、アサマツゲ、コツゲなどともよばれる。主に西日本の暖かい地域に分布し、伝統的に細工物の材木として貴重とされ、高級な櫛や将棋の駒の材として知られるほか、垣根や庭木の植栽にも使われる。日本の固有変種』。『「ツゲ」と呼ばれる植物は』、狭義には、この一『変種』である Buxus microphylla var. japonica を『指すが、ツゲ属の総称としても用いる。また、庭木として用いる場合に、分類が異るモチノキ科のイヌツゲ』(後掲する)『も、しばしば「ツゲ」と呼ばれる』。『この和名「ツゲ」の語源には諸説あり、葉が次々と密になって出てくることから「次ぎ」とするもの、春から梅雨にかけて黄色みを帯びることから「梅雨黄(つゆき)」とするもの、木目が細かく詰まって丈夫であることから「強木目木(つよきめぎ)」とするものなどがある』。『ツゲは関東以西に広く分布し、いろいろな異称(方言)を持っている。イヌツゲと区別するために「ホンツゲ」、伊勢地方では朝熊山』(ここ。グーグル・マップ・データ)『に分布するので「アサマツゲ」、伊豆諸島では「ベンテンツゲ」、「ハチジョウツゲ」(八丈島)、「ミクラジマツゲ」(御蔵島)など』。『ほかにも、「サワフタギ」(兵庫県)、「ウツギ」(徳島県)、ハマクサギ(高知県)、コアカソ、イボタなどの異名がある』。『英語ではツゲを「box」といい、ツゲ一般を「common box」や「boxwood」と言う。もともとコリント人がこうした木材を使ってピュクシス(木箱)を作っていたのが語源である。特にセイヨウツゲを指して「European Box」、コーカサス地方のものを「Georgian Box」、「Caspian Box」(カスピアツゲ)、日本のものを「Japanese Box」などと呼ぶ』。『「箱」を意味する「box」も、ツゲを意味する「box」も、いずれも語源は古代ギリシアのピュクシス』(当該ウィキによれば、ラテン文字転写で『pyxis』『は、古代ギリシア・ローマ期に用いられた陶器の化粧道具入れ』であり、『つまみのある蓋つきの容器で、表面には』、『しばしば』、『結婚の様子が描かれた。ピュクシスにはギリシア語で「箱」の意味がある』とあった)『に遡ると考えられている』。『中国ではツゲ一般を「黄楊」と書くが、これは後述する別種又は別亜種のタイワンアサマツゲ Buxus sinica又はBuxus microphylla subsp. sinica にあたり、日本のツゲを特に指す場合は「小葉黄楊」と書く』。以下、「学名」の項が有意にあるが、カットする。続いて、「植物学的特徴」の項。『日本の山形県・佐渡島以西の本州、四国、九州の屋久島以北に自然分布する。自生地の北限は山形県だが、いずれも現存する自生地は限定的で、例えば、福岡県のレッドリストでは絶滅危惧II類と評価されていたり、自生地が天然記念物に指定されている場合もある』。『石灰岩地や蛇紋岩地を好み、山地の石灰岩岩地などに自生するが、人の手によって庭にも植栽される』。『常緑広葉樹の低木から小高木で、樹高は通常』一~三『メートル』、『高いもので』四メートル『ほどになるが、稀に』十メートル『まで成長するものもある。幹は直立して』十『センチメートル』『ほどの太さになる。樹皮は灰白色から淡い褐色で、成木は樹皮にうろこ状の筋が入り、滑らかである。小枝は断面がほぼ四角形になる』。『葉は対生し、葉身は倒卵形から長楕円形、やや厚みのある革質で光沢があり』、一~三・五センチメートル『程度と小ぶりで、葉先は小さくへこむ。葉柄は非常に短い。冬の葉は赤味を帯びる』。『開花時期は春(』三~四『月)。雌雄同株。枝先や葉腋から花序が出て、淡黄色の小さな花弁のない花が、葉腋から小枝の先端に束生する。花序の中央には雌花(雌蕊』一『個、萼』六『個)が』一『つあり、これをいくつかの雄花(雄蕊』四『個、萼』四『個)がとり囲んでいる。先が』三『つに割れた雌蕊には樽のような膨らみをもつ緑色の子房がある。雄蕊の先端には黄色い葯をつけている』。『果実は』三『本の花柱が合わさって子房を形成し、楕円形から倒卵形で長さ』一センチメートル『ほどの蒴果をつくり、黒く堅い種子が』二『つ入った室が』三『つできる。実の先端には花柱が残る。秋』の九~十『月に果実が熟して裂け、種を放出する』。『冬芽は葉腋につき、葉痕は楕円形で維管束痕が』一『個つく。冬芽のうち、丸くて白っぽいものは花芽で、葉芽は長楕円形で膜質の芽鱗に包まれる』。以下、「分類」の項(米倉(二〇一二年)の本邦に分布するツゲ属の分類に拠ったもの)。

Buxus microphylla

Buxus subsp. microphylla

〇チョウセンヒメツゲ Buxus var. insularis (別名「シマヒメツゲ」「タイシャクツゲ」)

〇ツゲ Buxus var. japonica(別名「アサマツゲ」「コツゲ」。本邦の固有変種タイプ種)

〇ベンテンツゲ Buxus var. kitashimae(別名「ミクラジマツゲ」「ミクラツゲ」「ハチジョウツゲ」。固有変種)

〇ヒメツゲ Buxus var. microphylla(栽培種)

〇コツゲ Buxus var. riparia (固有変種)

〇タイワンアサマツゲ Buxus subsp. sinca(前で引用した種)

〇オキナワツゲ Buxus liukiuensis(ケナシオキナワツゲ)

『岡山・広島・朝鮮半島・中国にはチョウセンヒメツゲ準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)が、伊豆諸島にはベンテンツゲ(ミクラツゲ)が、紀伊半島と四国の一部で、渓流植物として知られるコツゲが、 南西諸島から中国・台湾にはタイワンアサマツゲ絶滅危惧IA (CR)(環境省レッドリスト)』(中文名で「黄楊」)『が』、『それぞれ』、『分布し、栽培種であるヒメツゲが各地で利用されている』。『前述のように、御蔵島のある伊豆諸島のベンテンツゲは』、『葉がやや大きく、亜種とする分類もある』。『また、南西諸島・台湾には同属別種のオキナワツゲ絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)(「インカンキ」「リンギ」などとも呼ばれる』『)が分布する』。『ツゲの自生地としては、福岡県の朝倉市と嘉麻市にまたがる古処山』(こしょさん:ここ。グーグル・マップ・データ)『が「古処山ツゲ原始林」』『があり、ここは』、戦後直ぐの一九二七年『に天然記念物に指定され、その後』一九五二『年』『に特別天然記念物に指定が格上げされている。指定面積は十一・七』ヘクタール。『三郡変成帯に属する古処山には、標高』六百~八百五十九メートル『の山頂付近に石灰岩があり、高度からすると』、『普通はブナ林となる環境だが、指定面積のうち』、三ヘクタール『の面積の範囲で、石灰岩の露頭に沿って純度の高いツゲ林が帯状に形成されている。林におけるツゲの割合は』八十『%から』百『%に達し、およそ』六千六百『本の個体が生育する国内最高のツゲ林とされている。なかには樹齢』千『年を超えるものもあるが、それでも高さ』十二メートル、『幹周』り『は』一・七メートル『に留まり、ツゲの特徴である成長の遅さを示している。尼川(』一九九五『年)は、「古処山ツゲ原始林」はブナの植生帯における石灰岩地にツゲ林が生育した学術上貴重な植生と説明している』。一九二七『年の天然記念物指定時には、「大部分は変種オオヒメツゲ Buxus microphylla var. arborescens Nakai で、その他に変種アサマヅケ var. japonica と変種マルバツゲ var. rotundifolia Nakai がある」と説明されていたが、これらの変種は var. japonicaにまとめられ、その後、上述のとおり、Buxus microphylla にまとめられた』。『愛知県の旧鳳来町黄柳野(つげの)地区(現新城市)の甚古山』(じんこやま)『北斜面のツゲ自生地』(「ひなたGPS」の国土地理院図のここ。山名は現地でのこの自生地附近の呼称で、南東にピークを持つ富幕山(とんまくやま)の山体の一部に当たる)『は』、一九四〇『年代にはツゲの自生地の北限と考えられていたこともあり、「黄柳野ツゲ自生地」として』、一九四四年『に天然記念物の指定を受けている。本地では、アカマツやウバメガシ等の常緑樹とともに、樹高の低いツゲが生育している。倉内』(一九九五年)『は、ツゲの北限としてよりも、本州内陸の蛇紋岩山地において、生育密度の大きいツゲとウバメガシの自生地として意義があるとしている。なお、黄柳野(つげの)の由来は、同じく本地に生育するイヌツゲである』。『ツゲの北限は、山形県酒田市(旧・平田町)の小林川沿いのものとされている。このツゲ群落は、「小林川ツゲ植物群落」として』一九九三年『に林野庁の保護林(種類は「植物群落保護林」)に設定されている』。『日本の固有変種であり、環境省のレッドリストに掲載されていないものの、自生地が限られていることなどから、各地方公共団体のレッドリストには掲載されており、その数は』二十二『自治体である。また、自生地で説明したとおり、日本国内のツゲの自生地のうち』、一『箇所が特別天然記念物に』、一『箇所が天然記念物に指定されている。また、林野庁の保護林に、ツゲを対象とした』一『箇所が設定されている』。以下、「日本人とツゲの利用」の項。『庭木によく利用される。成長に時間が掛かるツゲの材木は、木目が細かく最も緻密でかたく、道管が均一に分布する散孔材で、加工後の狂いが生じにくい。乾燥後の比重は』〇・八『で硬く、黄色みを帯びて美しい』。『こうした特徴により、古来、細工物の材料として親しまれ、印章、将棋の駒、版木、そろばんの珠、三味線のバチ、彫刻、ブローチなどの装身具、家具指物、下駄などに用いられてきた。現代ではツゲ材の将棋の駒は高級品であり、工芸品・美術品としての価値があるとみなされている。特に、堅く誤差の少なさが要求されるような物に適している。一般の印材、字母印材、彫刻材としてもっとも優秀である。製図機、測量用具などの重要な部材でもあり、かつては義歯にも使用された。版画の台木はサクラ材が主だが、人物の頭髪のような繊細な彫刻を必要とする部分』に『のみ』、『ツゲ材を埋め込んで使用することもある。かつて浮世絵の版木などにも用いられた。とりわけ』、『日本で重用されたのが櫛である。ツゲ製の櫛は藤原京や平城京跡から』、『たびたび』、『出土している』。『将棋の駒など細工品の用途では、材が淡黄褐色かつ緻密でツゲに似るタイ産のアカネ科クチナシ属のプッド Gardenia collinsiae 』『を「シャムツゲ」と称し、安価な代用品として輸入されてきた。しかしシャムツゲの品質は著しく劣る。現代では、特に関東以東ではシャムツゲが大半を占めているとされていたが、公正取引委員会は「ツゲ」ではないものを「ツゲ」と表示することに対して是正を求め、「外国産アカネ」と表示されることになった』。以下、「文学」の項だが、例示された「万葉集」からの二首と「新古今和歌集」一首、俳句例三句、花言葉はカットした。『万葉集や新古今和歌集ではツゲを詠んだ和歌がいくつか登場するが、詠まれているツゲは植物そのものを指すのではなく、櫛、そして櫛の所有者である女性への恋慕の情を表現するために用いられている』。以下、「ツゲにまつわる風習」の項。『日本では、特に鹿児島・薩摩地方や御蔵島産のツゲが有名である。鹿児島の旧習では、女の子が生まれるとツゲの木を植える。娘が年頃になる頃には、ツゲの木も成長しており、ツゲの木を切って売り、嫁入り道具を揃える。このため「嫁を探すならツゲの木を探せ」という言い回しがある。また、「薩摩つげ櫛」は、鹿児島県の伝統工芸品に指定されている。高級品とされるツゲ櫛は、使うほど艶が出るといわれ、昔は母から娘へと受け継がれた』。『西洋ではチェスの駒(白)に用いられた。黒は黒檀を使った』。『ヨーロッパのツゲは』、普通、『セイヨウツゲ』( Buxus sempervirens )『を指す。西洋では古来、ツゲは葬礼と関わりがあり、墓地にツゲの木を植える。葬儀では棺と一緒にツゲの枝を埋葬する。ワーズワースは』十九『世紀のイングランド北部の葬儀の様子を伝えており、葬儀の参列者は』一『本づつツゲの枝を持ち、墓穴に投げ入れるという風習があった』。『一方、日本と同じように、ツゲは細工物、彫刻などに使われ、古代ギリシャではピュクシス(化粧箱)がつくられた。印章にも用いられたほか、チェスの駒、弦楽器、バグパイプなどに利用された。現代では、こうした西洋楽器の修理・修復にも日本のツゲが用いられている』。「園芸」の項。『ツゲは背丈が低く、枝や葉が重なり合うように密になるので、垣根や庭木に使われる。西洋庭園では庭木や植え込み、花壇の縁取りに使われる。特にこの用途のために矮小化されたヒメツゲ(別名クサツゲ) Buxus microphylla var. microphylla は高さ』一メートル『ほどにしか成長せず、葉も一回り小さい。ヒメツゲは園芸、盆栽などにも愛好されるが、自生地は不明で、人工的に栽培されたものだけが知られている』。『このほか、アフリカから西アジアを原産とする小型の種であるセイヨウツゲ B. sempervirens『も庭園などで垣根に用いられ、形状や斑などの外見で多くの品種が出回っている』。『日本では鹿児島県などで工芸品材料の高級材木としてツゲの栽培が行なわれている。しかし、農地(畑)から山林に地目変更することができる木材の中にツゲが含まれておらず、ツゲ林は「畑」として課税されている』とある。

 最後にウィキの「イヌツゲ」を引いておく(注記号はカットした)。『犬柘植、学名』『 Ilex crenata var. crenata 』『は』モチノキ目 Aquifolialesモチノキ科 Aquifoliaceae『の常緑小高木。山地に生え、よく植栽にもされる。葉は小形で実は黒い』。『日本では北海道の一部、本州、四国、九州に分布し、日本国外では韓国の済州島から知られる。山地に自生する』とあるのだが、「維基百科」の「齿叶冬青」を見ると、別名「日本冬青」とし、学名を Ilex crenata としているが、これは、このイヌツゲIlex crenata var. crenata のシノニムである。しかもその解説には、『日本、ヨーロッパ、アメリカ、台湾、中国大陸東部に分布』するとある。『常緑広葉樹の低木から時に高木になり、高さは』通常、二~三『メートル』『であるが』、十五メートル『に達する場合もある。枝は灰褐色で、ほぼ滑らかで大きな裂け目やや割れ目はない。新しい樹皮は皮目が目立つ。よく分岐し、一年枝は』、『はじめ』、『緑色で短毛がある』。『葉は互生し』、一・五~三『センチメートル』『の小さな楕円形で、厚みがある革質でのっぺりとしたつやがある。葉縁には丸い鋸歯がある』。『花期は』六~七『月頃で、雌雄異株である。葉腋に白い小さな花を咲かせる。果実は秋に黒く熟し、径』六~七『ミリメートル』『ほどある』。『冬芽は小さな円錐形で芽鱗に包まれて先端が尖り、枝先や葉の付け根につく。葉痕は半円形で維管束痕が』一『個』、『つき、両肩に托葉痕がある』。『他に、押し葉標本にして乾燥させると』、『葉が黒くなる、という』採取試料『での同定には役に立たない特徴もある』。『名前に「ツゲ」が付くが、ツゲ(ツゲ科)とは科が異なり、全くの別植物である。ツゲは葉を対生するが、イヌツゲは互生である点で識別できる』。『変異が多く、品種として名付けられているものにコバノイヌツゲ f. microphylla 、オオバイヌツゲ f. latifolia があり、それぞれ名前通りの特徴である。マメツゲについては後述する』。『園芸品種としてキンメツゲがある』。『よりはっきりとしたものとしては以下のようなものがある』。

〇ハイイヌツゲ Ilex crenata var. paludosa (『本州から北海道の寒地の湿地に生え、茎の基部が這う』)

〇ツクシイヌツゲ Ilex crenata subsp. fukasawana (『葉がやや大きくて薄く、やや細長く、枝に稜がある。四国と九州南部、伊豆諸島と中国に分布』)

『同属には他にもあるが、多くは』、『より葉が大きく、赤い実のなるもので、似たものは少ない。やや似ているのは九州南部から琉球列島と台湾に分布するムッチャガラ』Ilex mutchagara 『である。より枝が細く葉も長く、全体にすんなりした姿をしている。

〇変種マメイヌツゲ学名 I. Ilex crenata f. bullata(単に「マメツゲ」とも呼称する。『葉の表側が』膨らんで『反り返るもので、園芸用に栽培される。丸く刈り込まれたものが』、『よく見かけられる』)

以下、イヌツゲの「利用」の項。『高木であるが』、『刈り込みに強く、よく生け垣や庭木、道路緑化など植え込みにふつうに使われる。材は細工物などに使われる。モチノキ同様』、『樹皮から』、『鳥もち』(黐)『がとれ、モチノキから得たものがシロモチやホンモチと呼ぶのに対し、イヌツゲから得たものをアオモチという』。『また』、烏賊籠漁に『おいて』、『利用され、カゴにイヌツゲの枝葉を結びつけて海に入れることで、イカ(コウイカ)』コウイカ目コウイカ科コウイカ属コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta『が枝葉に卵を産みつけにくる。そのため、福岡県新宮町相島などでのコウイカ漁においてよく利用されており、イヌツゲのことを通称「イカシバ」と呼んでいる』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「黄楊木」([088-76a]以下。非常に短い)のパッチワークである。

「びんからず」「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「いぬつげ」に、『小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1806)32に、柞木は「イヌツゲ ヤドメ加州越州 ヨメガサラ ケヅラ江州 カシラケヅリ カシラケヅラ共同上 ガニノス播州 コメゴメ紀州、同名多シ ハマツゲ筑前 ビンカゞリ同上 ビンカゝ佐州 ビンカゝズ信州 ビンカラズ三才図絵」(☜四異名に注目。「ビンカラズ」は本書出典)『メハリギ土州 カシラツカミ同上 ネヂノキ」と。』あった。

「槐《えんじゆ》」バラ亜綱マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum 。先行する「槐」を見よ。

「達生散」個人ブログ「日本漢方の初歩と自然の日記2」の「達生散 上田山澤 切要方義」に、『達生散』『姙娠八九个月に之を内服し人をして産し易からしむ』とあり、『大伏皮 大腹皮 原本三錢今用二錢』・『人參』・『陳皮』・『紫蘇 各五分』、『白芍藥』・『白朮』・『當歸 各一錢』、『炙甘草 二錢』。『右細切作一服』とある。

「夫木」「賤《しづ》の女《め》がかしらけづらず朝夕につげのを櫛《ぐし》やとるまなからん」「爲家」既注の「夫木和歌抄」に載る藤原為家の一首で、「卷二十九 雜十一」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「14072」)。

「白丁花(《はくちやう》げ)の木」本巻巻末から一つ前に立項する。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部を示しておく。そこで考証するが、リンドウ目アカネ科アカネ亜科ヤイトバナ連ハクチョウゲ属ハクチョウゲ Serissa japonica であろう。当該ウィキ葉の画像を見るに、ウィキの「ツゲ」葉の画像と比べると、ちっとは、似ている時期もあるようだ。

『「本草」に載せざるは、中𬜻には、之れ、無きか』前掲通り、中国にも植生する。但し、今のところは、「本草綱目」に、載るか、載らないかは、判らない。「維基百科」の同種のページでは、現行では標題の中文名には「齿叶冬青」とあり、別名に『波缘冬青』・『钝齿冬青』・『圆齿冬青』・『假黄杨』とあるが、例えば、先行する「冬青」には、これらに似た名を見出せない。判明したら、追記する。]

2024/10/09

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 柞

 

Kusudoige

 

[やぶちゃん注:この絵、個人的にはクスドイゲを描いているとは思えない。]

 

くしのき   鑿子木

       【和名由之】

【音祚】

      【橡櫟亦名杵柞

       同名異種也】

ツヲ

 

本綱柞山中有之高者𠀋餘葉小而有細齒光滑而靱其

木及葉丫皆有針刺經冬不凋五月開碎白花不結子其

木心理皆白色堅忍可爲鑿柄故名之又今作梳者是也

 

   *

 

くしのき   鑿子木《さくしぼく》

       【和名、「由之《ゆし》」。】

【音「祚《ソ》」。】

      【橡《とち》・櫟《くぬぎ》≪も≫亦、

       柞(はゝそ)と名≪づくも≫、同名

       ≪にして≫異種なり。】

ツヲ

 

「本綱」に曰はく、『柞《そ》、山中≪に≫之れ、有り。高き者、𠀋餘。葉、小にして、細かき齒、有り。光《ひか》≪りて≫、滑《なめらか》にして、靱(しなや)かなり。其の木、及び、葉、丫《また》[やぶちゃん注:「股・椏」に同じ。れっきとした漢字である。]、皆、針《はり》≪の≫刺《とげ》、有り。冬を經て、凋まず。五月、碎《くだけ》≪たる≫白花を開き《✕→くも》、子《み》を結ばず。其の木の心-理《しんのきめ(木理)》、皆、白色。堅忍《けんにん》にして[やぶちゃん注:強靭で、よく圧力に耐えるので。]、鑿(のみ)の柄(え)に爲すべし。故、之れを名づく。又、今、梳(くし)に作る者、是れなり。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:中国語で「柞」は、

双子葉植物綱キントラノオ目 Malpighialesヤナギ科 Salicaceaeクスドイゲ(中文名:柞木)属 Xylosma の内、中国・朝鮮南部・日本(福井県以西)・台湾・インドシナ・フィリピンに植生する中国原産であるクスドイゲXylosma congesta

である。和名は若枝・幹から二十センチメートル以上になる強烈な鋭い「トゲ」を意味する「イゲ」の意とする以外は不詳。個人サイト「宮崎と周辺の植物」の「FILE            NO 644」の解説と写真がよい。因みに、そこにはイイギリ科Flacourtiaceaeとする。複数の記載がそのようにするが、ウィキの「イイギリ科」によれば、『世界の熱帯を中心に』八十九『属』八百『種ほどが分布する。新エングラー体系及びクロンキスト体系では認められていたが、APG分類体系では解体され』、『大部分がヤナギ科に含められている』とあり、私が最も信頼する「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「くすといげ」でもヤナギ科を採っている。そこに「漢語別名」として『齒子樹、蒙子樹、葫蘆刺、紅心刺』が挙げられてある。

 因みに言っておくと、「柞」の良安のルビ「くしのき」というのは、

ユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum

であり、アウトである。また、「柞」という漢字は、殆んどの日本人は、「ははそ」と読むだろうが、そう読むと、

ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ Quercus serrata

を指すことになるので、注意が必要である。まあ、良安、附帯評言を附さなかっただけ、疵は最小限になってはいる。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「柞木」([088-75a]以下)のパッチワークである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 川太郎之皿

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「かはたらうのさら」と訓じておく。]

 

     川太郎之皿

 水虎(カハタラウ)の皿といふ物を、称名寺の脇寺(わきじ)、長德院の什物(じふもつ)にあり。

 小(ちさ)き繪皿ほど有(あり)て、陶器(やきもの)の樣(やう)に見ゆる。

 其謂(そのいはれ)、しらず。

「安永年間[やぶちゃん注:「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。]滿慶比丘、五臺山の桃木茶屋に居住(きよぢゆう)の時、加持して、水虎を顯(あらは)しける。」

とぞ。

 潮江川に、何(なん)と云(いふ)、水虎、何所(いづこ)の井(ゐ)・流(ながれ)の內(うち)、或(あるい)は淵・河とも、不殘(のこらず)、住所(すみどころ)、知れて、夫(それ)を戒(いましめ)て云(いはく)、

「人に、害を成さずは、祭(まつり)を、すべし。」

と、いはれし、とかや。

 夫(それ)より、六月十六日、川〻(かはがは)にて、胡瓜(キウリ)を流し、灯燈(てうちん)、夥敷(おびただしく)照らして、祭來(まつりきた)れり。

 又、

「肥前國、『尼御前の宮』は、日本國の水虎の惣社(そうじや)。」

とかや。

 今年、文化四年、除災の祈禱を願(ねがひ)て來(きた)る。

 又、小兒の懷中守(かいちゆうまもり)とて、二寸四方の紙へ、梵字、四つ、書(かき)て有(あり)。是を懷中すれば、怖れなし、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「川太郎」「水虎(カハタラウ)」河童の記事は、恐らく、私のブログでは、最もメジャーな妖怪である。近代小説を含めると、河童がメインの記事は、四百件近くある。絵入りのもので比較的新しい記事は「甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」と、「甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖」か。論考では、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「河童の藥方」』で、私の河童関連記事へのリンクもしっかり附してある。

「称名寺の脇寺、長德院」浄土宗西山(さいざん)永観堂禅林寺派の称名寺(グーグル・マップ・データ)は、現在の高知市升形(ますがた)に現存するが、「脇寺」の「長德院」というのは見当たらない。「ひなたGPS」の国土地理院図を見ても「卍」記号は一つしかないので、現存しないようである。「河童の皿」なる什物も称名寺には、ないようである。河童にミイラや、斬られた河童の腕というのは、よく聴くが、「皿」というのは、かなり珍しいので、残念である。

「滿慶比丘」不詳。

「五臺山の桃木茶屋」「五臺山」は現在の高知市五台山にある真言宗智山派五臺山金色院(こんじきいん)竹林寺。神亀元(七二四)年、聖武天皇の勅命により行基が開創したと伝え、自刻とする文殊菩薩を本尊とする。大同年間(八〇六年~八一〇年)に空海が再興した。四国八十八箇所第三十一番札所。「桃木茶屋」は「奈良文化財研究所」の作製になる「土佐へんろ道 竹林寺道・禅師峰寺道(五台山)」(「四国八十八箇所霊場と遍路道」調査報告書第二集(高知市文化財調査報告書第四十二集)・二〇一七年三月刊・PDF同研究所公式サイトのここでダウンロード可能)の、『第3章 へんろ道』の『第2節 史料・絵図等にみる竹林寺道・禅師峰寺道』の冒頭に、本書の竹林寺の寺誌を引用をして、

   《引用開始》

 文化121815)年の成立とされる『南路志』に載せる寺誌「竹林寺」では「伽藍」を列挙した後、「其坂路ハ(中略)南ノ方、桃木茶屋ノ方道ハ秦元親ノ浦戸在城の時ニ作り又西吸江へ坂路ハ山内氏入国ニ開くと云々」とあり、現在の南麓・坂本近くの見晴らしの良い桃木茶屋跡へと下る禅師峰寺道が、長宗我部元親が浦戸在城時に設けた道とされ、竹林寺道にあたる西からの道は藩主・山内氏の入国時のものと伝えられていたことが知られる。またこの途上に「坂中石燈籠、明和年中高知講中建立」の存在が記されるが、現在は土台と壊れた石材の一部が残るのみである。

   《引用終了》

とあった。この記載から考えると、「桃木茶屋」は、この「へんろ道」(グーグル・マップ・データ航空写真。中央に配した)の途中、『現在の南麓・坂本近くの見晴らしの良い』場所にあったということが判った。ストリートビューで辿ったが(最上部の「旧へんろ道」の画像がある)、現在は樹木が繁っており、それらしい見晴らしのよいという箇所はなかなか、見出せなかったが、一箇所、かなり下った(現在の登りからは階段を上った最初の広いスペース)ここは、見晴らしがよさそうだが(航空写真の拡大図ではここ)、この有意な平地自体が、江戸時代からあったものかどうかは判らない。正し、有力候補の一つとは言えよう。

「潮江川」現在の鏡川であろう(グーグル・マップ・データ)。

「肥前國」「尼御前の宮」現在の福岡県久留米市瀬下町(せのしたまち)にある「水天宮(総本宮)」(グーグル・マップ・データ)。それ絡みなら、私の好きな小説「藪野直史野人化4周年記念+ブログ・アクセス670000突破記念 火野葦平 海御前 附やぶちゃん注」を強くお薦めする。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 年季夫勇吾癩疾

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。取り敢えず、標題は「ねんきふ ゆうご らいしつ」と訓じておく。「年季夫」は姓名とは思われないから、例えば、郷士・町役人クラスで、嘗つて、江戸に年季限りの条件で、臨時に、藩のある種の仕事を受け持っていた者を俗に呼んで指したものか。識者の御教授を乞うものである。

 

     年季夫勇吾癩疾

 寛政年間[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇一年まで。徳川家斉の治世。]、年季夫勇吾といふ者、堺町西の橫町[やぶちゃん注:現在の高知市堺町(さかいまち)附近(グーグル・マップ・データ)であろう。]に住(ぢゆう)せり。

 久敷(ひさしく)、癩を病(やみ)て、愈(いえ)ざりし程に、其(その)向ふ隣(どなり)に法華(ほつけ)を信ずるもの、有(あり)。

 或時、

「題目を唱へ、信心する樣に。」

と、

「世間に奇特(きどく)有(あり)し事。」

を、語りて、すゝむれども、うけがはず、月日を經(ふ)るに、次㐧(しだい)に見苦敷(みぐるしく)、最早、手脚(テアシ)も叶はぬ体(てい)に成(なり)て、詮方(せんかた)や、なかりけん、彼(かの)隣家の人を招ていふ。

「我病も重(おも)りぬ。足下(そつか)が勸めし題目を唱(となへ)て見んとおもふ也。」

と、いふ。

「それは、一段の事也。今夜(こんや)、寺へ行(ゆき)、願込(ねがひこみ)すべし。」

とて、其夜、勇吾を肩に掛(かけ)、要法寺(えふはふじ)[やぶちゃん注:高知市筆山町(ひつざんちょう)のここ(グーグル・マップ・データ)にある。]へ參詣させ、直ぐ(スデ)[やぶちゃん注:「直ぐ」に対してルビが振られている。]に、脇寺(わきじ)なる妙修寺[やぶちゃん注:グーグル・マップ・データでは判らないが(敢えて言うと、この地番「9」の北直近の四角の建物)、「ひなたGPS」の国土地理院図で、要法寺の南西の『眞如寺山(筆山)』(戦前の図の山名)の北の麓に現存することが、サイト「日蓮宗全寺院マップ」のこちらで確認出来た。戦前の地図には「卍」記号がないが、恐らく要法寺の附属寺院(塔頭・小院)として包括されていたものであろう。]へ、つれ行(ゆき)、加持をたのみ、夫(それ)より、夜毎(よごと)に連行(つれゆき)けるが、三十余日には、段〻(だんだん)快(ここよく)、步行(ほかう)するやうに成(なり)て、一夜(ひとよ)も不怠(おこたらず)、加持を請(うけ)けるが、ふと、惡寒(おかん)出來(いできて)、宿へ歸否(かへるやいなや)、大熱(だいねつ)となり、汗をする事、夥(おびただ)し。

 又、翌日、快(こころよく)、加持に行(ゆき)、歸れば、惡寒・發熱、有(あり)て、毎夜、汗する事、衣(ころも)を濡(ぬら)せり。

 後(のち)は、虐疾(おこり)の如く、ふるひける、とぞ。

 次第に快(こころよく)成(なり)て、七十余に、全快す。

 加持は日法(につぱふ)、師、也。

 是(ここ)に存(そん)ス。[やぶちゃん注:以下は全体が二字下げであるので、ブラウザの不具合を考慮し、適切と思われる位置で、改行した。]

  「法華經」曰、『是好良藥、今留在ㇾ此。

  汝可取服、勿憂不一ㇾ差。』。

 

[やぶちゃん注:「癩」(民俗社会で、ごく近年まで、激しい不当な差別を受けていた関係上、この「癩(らい)」と言う語は、いまわしいものとされてきたことから、現行は「ハンセン病」と呼ばねばならない。だのに、病原体は「ライ菌」と呼称しているのは私は大いに不満である。「ハンセン菌」でよい!)については、何度も注してきた。その中でも最も古い記事である「耳囊 卷之四 不義の幸ひ又不義に失ふ事」の私の「癩」の注を読まれたい。なお、この主人公の場合、「久敷(ひさしく)、癩を病(やみ)て、愈(いえ)ざりし程に」と罹病年数が有意に長いこと、「次㐧(しだい)に見苦敷(みぐるしく)」(外見、特に顔面に起こる運動障害や変形は「ハンセン病」の代表的症状の一つではある。但し、必ず顕著に発生するものではない)、「最早、手脚(テアシ)も叶はぬ体(てい)に成(なり)」という手足の変形を伴う運動障害も、やはり「ハンセン病」で有意に発生する症状ではある。但し、ハンセン病によって直接に死に至ることは、ない。主人公は全快する直前、激しい高熱に襲われているが、これは「二型らい反応(らい性結節性紅斑)」血管炎・脂肪織炎が原因と思われる全身性炎症反応で、高熱を発することはある。しかし、まさに「惡寒・發熱、有(あり)て、毎夜、汗する事、衣(ころも)を濡(ぬら)せり。後(のち)は、虐疾(おこり)の如く、ふるひける、とぞ」というのは、私には、この描写、その「ハンセン病」の急性高熱症状というよりも、まさに「瘧(おこり)」そのもの、平清盛の死因である熱性マラリアそのものの病態と感じられる。但し、嘗つての梅毒療法のように、マラリア療法のように梅毒スピロヘータ(Spirochaeta)が高熱で死滅するというような効果が、ハンセン病に有効だという話は聴いたことがない。しかし、数え七十で、「癩」を「全快」したとするこの主人公、本当に「ハンセン病」だったのだろうか? という疑問が過ぎるのである。

『「法華經」曰、『是好良藥、今留在ㇾ此。汝可取服、勿憂不一ㇾ差。』「法華經」の「如來壽量品(によらいじゆりやうぼん)第十六」に載る一節。訓読しておく。

   *

「法華經(ほけきやう)」に曰はく、『是(こ)の好(よ)き良薬(らうやく)を、今、留(とど)めて此(ここ)に在(お)く。汝(なんぢ)は取りて服(ぶく)すべし。差(い)えじと憂(うれ)ふること、勿(なか)れ。』(と)。

   *

この「良藥」は「法華經」を指す。]

2024/10/08

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 木綿

 

Panya

 

きわた   古貝 斑枝花

 ぱんや     攀枝花【俗】

木棉    睒婆【梵書】

      迦羅婆劫【同】

      【今云波牟夜】

本綱有木綿草綿二種【草綿詳于濕草部】木名古貝樹交州廣州

等南方有之高過屋大如抱其枝佀桐其葉大如胡桃葉

入秋開花紅如山茶花黃蘂花片極厚爲房甚繁短側相

比結實大加拳實中有白綿綿中有子今人謂之斑枝花

卽木綿也可爲緼絮又抽其緒紡為布

又云南方諸蠻不養蠺惟有娑羅木高三五𠀋結子子中

[やぶちゃん字注:「蠺」は原本では上部の「天」二つが「夫」になっている。しかし、このような異体字はないので、以上に代えた。]

 有白絮紉爲𮈔織爲幅名娑羅籠叚或爲白氊兠羅綿

[やぶちゃん字注:「紉」は、底本では(つくり)の左端にある、斜めの一画が右の「刀」の右外に打たれてある字であるが、こんな漢字はない。この漢字は東洋文庫訳では『紡いで』と訳されてある。「紉」(音「ヂン(ジン)・ニン」)は「むすぶ・切れないようにつなぎ合わせる」の意であるから、「紡」と同じ意味であると判断し、訓読では「紡」に代えた。

 此亦古貝之類各方稱呼不同耳

△按斑枝花暹羅交趾柬埔寨等將來之如紡𮈔不如古

 終之佳也惟爲枕及褥中絮甚佳人毎座臥雖挼壓之

[やぶちゃん字注:「終」は、原本では最後の二画の「ノ」が三画打たれてある。しかし、こんな漢字はない。東洋文庫訳でも『終』を用いているので、かく、した。]

隨復脹起

 

   *

 

きわた   古貝《こばい》 斑枝花《はんしくわ》

 ぱんや     攀枝花《はんしくわ》【俗≪に云ふ≫。】

木棉    睒婆《せんば》【梵書。】

      迦羅婆劫《からばごふ》【同。】

      【今、云ふ、「波牟夜《ぱんや》」。】

「本綱」に曰はく、『「木綿《もくめん》」・「草綿《さうめん》」の二種、有り』≪と≫。【「草綿」は、「濕草部」に詳《つまびらか》なり。】[やぶちゃん注:これは良安の附記。]。『木を「古貝樹」と名づく。交州[やぶちゃん注:現在のヴェトナム北部。]・廣州[やぶちゃん注:現在の広東省・広西省。]等の南方に、之れ、有り。高さ、屋《おく》に過《すぐ》。大いさ、抱(ひとかい[やぶちゃん注:ママ。「ヒトカヽヒ」の誤記か誤刻。])如(ばかり)。其の枝、「桐」に佀《にて》、其の葉、大いさ、「胡桃(くるみ)」の葉のごとし。秋に入りて、秋、花、開く。紅にして、「山茶花(さゞんくわ)」のごとし。黃≪の≫蘂《しべ》あり。花の片《ひとひら》は、極めて厚し。房《ふさ》を爲すこと、甚だ、繁《しげ》し。短≪く≫、側《そばだち》、相《あひ》比《ならぶ》。實を結ぶ。大いさ、拳(こぶし)のごとく、實の中に、「白≪き≫綿」、有り。綿の中に、子《たね》、有《あり》。今人《きんじん》、之れを「斑枝花」と謂ふ。卽ち、「木綿」なり。緼絮(なかわた)と爲すべし。又、其の緒(いとぐち)を抽《ひきだし》て、紡《つむぎて》、布と爲す。』≪と≫。

『又、云はく、「南方≪の≫諸蠻、蠺《かひこ》を養(か)はず。惟《ただ》、「娑羅木《さらぼく》」、有り。高さ、三、五𠀋。子《み》を結び、子の中、白≪き≫絮《ぢよ/わた》、有り。紡《つむぎ》て、𮈔《いと》と爲し、織りて、幅《ぬのぢ[やぶちゃん注:「布地」。]》と爲して、「娑羅籠叚《さららうたん》」と名づく。或いは、「白氊《びやくぜん》」・「兠羅綿《トロメン》」と爲す。」≪と≫。此れも亦、「古貝(ぱんや)」の類≪なり≫。各《おのおの》≪の≫方《かた》の稱呼、同じからざるのみ。』≪と≫。

△按ずるに、「斑--花(ぱんや)」、暹羅(シヤム)・交趾(カウチ)・柬埔(カボヂヤ)等より、之れを將來《しやうらい》す。如(も)し、𮈔に紡(つむぐ)には、「古終(くさわた)」の佳《か》なるに、しかざるなり。惟《ただ》、枕、及び、褥《しとね》の中の絮《わた》と爲≪して≫、甚だ、佳なり。人、毎《つね》に、座臥す。之れ、挼-壓(をしへす[やぶちゃん注:ママ。「人体の重さで押しへこむ」の意。])と雖も、隨ひて、復た、脹《ふく》れ起《おき》る。

 

[やぶちゃん注:「木綿」「ぱんや(パンヤ)」は、

双子葉植物綱アオイ目パンヤ科 Bombacaceae(アオイ科Malvaceaeともする)パンヤ亜科セイバ属パンヤノキ Ceiba pentandra

である。「維基百科」では「美洲木棉」、『熱帯アメリカ原産で、後に広東省・広西チワン族自治区・雲南省、及び、中国本土の他の場所を含む、アジアに導入されている』とあり、本邦には自然分布しない。注意が必要なのは、時珍が異名として出している「木綿」は、現行の中国語では、同種ではなく、属タクソンで異なる、

パンヤ亜科キワタ(木綿)属キワタ Bombax ceiba (シノニム: Bombax malabaricum Salmalia malabarica

であるので、注意が必要である。

 平凡社「世界大百科事典」の「パンヤ」によれば(コンマを読点に代えた)、『高木で、高さ』二十メートル、『または』、『それ以上になる。基部は板状にはり出す板根に支えられ、枝は直立する幹から水平に輪生して、電信柱のような樹形をつくる。葉は掌状で』五~八『片に分かれ,果実が成熟するころ』、『短期間』、『落葉する。葉腋(ようえき)から数本の花梗』(かこう:枝や茎から分かれ出でて、その先に花のつく、短い柄の部分で、「花柄」に同じ)『を出し、乳白色の花を』一『個ずつつける。果実は長楕円形で長さ』十~十三センチメートルで、『枝からぶら下がる。内部は』五『室に分かれ、長毛に包まれた』百~百五十『個の種子があり、熟すと割れて、カポック(別名パンヤ)と呼ばれる繊維を露出する。原産地は未確定。カポックとはマレー語で』「繊維」『のことで、この種子を包む毛を』充填剤『にする。アレクサンドロス大王の時代』、『すでにクッションの詰物として珍重したという。繊維は長く光沢があり、耐久力強く弾力に富む。比重が小さく』、『水を通さないため、特に水中救命具の詰物に賞用される。また』、『毒性物質を含むので、害虫の食害を受けにくい。材、葉、樹皮、果実もさまざまに利用され、若芽は野菜とされる。またコーヒーやカカオの庇蔭(ひいん)樹、コショウやバニラの支柱用にする。第』二『次世界大戦前はジャワとスマトラが大産地であったが、戦後は激減し、インドネシア、カンボジア、フィリピンなどで数千』トン『ほど生産されている。なお、近縁の』パンヤ亜科キワタ属『インドワタノキ(キワタともいう)Bombax malabaricum 』『と』、『しばしば混同される。また近年、日本でホンコンカポックまたは単にカポックと称して観葉植物が市販されているが、これはウコギ科の Schefflera octophylla 』(セリ目ウコギ(五加木:中国で古くからヒメウコギ(ウコギ属ヒメウコギ Eleutherococcus sieboldianus )を「五加(ウーコ)」と呼んでおり、本邦では、それに木を附し、「五加木(ウコギ)」と呼ばれるようになった)科フカノキ(鱶の木:由来不明)属フカノキ Schefflera heptaphylla Schefflera octophylla はシノニム)『などで』、『別物である』とある。当該種のウィキ「カポック」も引く(注記号はカットした)。『カポック(』『インドネシア語: kapuk、英語: kapok)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではパンヤ科』Malvaceae『)セイバ属の落葉高木。パンヤ(panha)とも。標準和名はパンヤノキ、別名インドキワタ。カポックもパンヤも、本来は繊維のことである』。『同科の別種キワタ Bombax ceiba としばしば混同され、インドワタノキと呼ばれたり、攀枝花がパンヤと訳されたりするが、これらは本来はキワタのことである。熟した果実がついた木を遠くから見ると、数千個の綿玉で飾られたように見えることから、英語では Silk-cotton tree(シルクコットン・ツリー)という別名の由来となっている』(英文サイト「RPseeds」の「Ceiba pentandra (Kapok/Silk Cotton Tree) seeds」の二枚目の写真が想起させる)。『アメリカ・アフリカ原産(キワタはアジア原産)。アメリカや東南アジアなどで栽培されている』。『「カポック(シェフレラ)」という表記』で『販売される事のある観葉植物はウコギ科のヤドリフカノキ』(フカノキ属ヤドリフカノキ Heptapleurum arboricola 。シノニム Schefflera arboricolum )『であり、全く別の植物である』。『原産地はアメリカ大陸の熱帯地域(グアテマラやプエルトリコなど)であるが、シエラレオネなどの西アフリカ地域にも分布している。原産地から西アフリカへは種子が海流にのって運ばれたと考えられていて、花粉の研究から』、一万三千年『以上前から西アフリカで生育していたことがわかっている』。『アフリカ大陸では最も樹高が高い木で、その高さは』二十『階建てビルに相当する』(後に記載される同ウィキの『フリータウンの「コットン・ツリー」』の画像が髣髴させる)『大きな樹冠をつくり、葉を密生する。若木の幹は鮮緑色で、触ると』、『スベスベするほど滑らかである。枝は幹から水平方向に張りだして層をなし、幹や大枝の表面には円錐形の大きなトゲがある。生長すると』、『木の下の方から枝を落として、樹皮は灰色となって、太い幹の基部にはうねるような板根ができる。たいてい大枝には着生植物が生え、そこに多種多様な昆虫や鳥、カエルなどが棲んでいる。乾燥が長く続く乾期には、カポックは葉を落とす』。『花は毎年咲くわけではないが、その代わり』、『開花する年には、できるだけ多くの種子を残せるようにしている。葉がない乾期に花を咲かせ、果実を実らせる。花色は淡黄色で、つやがあり、古くなった牛乳のような独特の匂いを放ち、夜間にコウモリを引きつけて花粉を運ばせる。開花時は毎晩』十『リットル以上の花蜜を分泌し、コウモリはこれを目当てに木々の間を飛んできて、花粉をまき散らす。果実は緑色のボート形をした緑色の莢がつき』、一『本の木に何百個もぶら下がる。莢が熟してくると革質になり、これが弾けて、種子を包む繊維が露出する』。一『個の莢には』千『個以上の種子が入っている』。『カポックの実から採れる繊維は、糸に加工するには不向きで、燃えやすいという難点がある一方で、表面に蝋の層があるため撥水性に優れ軽量である。枕などの詰め物やソフトボールの芯として使われている他、第二次世界大戦後まで救命胴衣や救難用の浮き輪の詰め物にも利用されていた。今でも、競艇業界や海上自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいる』。『この繊維は油との親和性が非常に高く、』四十『倍の重さの油を吸収できるため、漏油事故などの油吸収材として使用されるようになった。また、農薬・化学肥料を使わず、また、樹木を切り倒す必要の無いなどのことから、地球に優しいエコロジー素材としても関心が高まっている』。『果実の種子を保護するため』、『繊維はカビが生えにくく、昆虫やネズミ類が嫌う味がするため、枕やクッション、マットレスの中綿や、ぬいぐるみの詰め物にも使われている』。『種子からは油が採れる』。『西アフリカのシエラレオネの首都フリータウンの最も有名なカポックの巨木は、コットン・ツリー(Cotton Tree)と呼ばれている。この木は象徴としても重要で、イギリスからの解放奴隷が』、一七九二『年にアフリカに帰還したときに、コットン・ツリーの下に集まって感謝の祈りを捧げたと伝えられている』。『カポックは精霊が棲む木として西アフリカ全域で崇められていて、シエラレオネの人々は、現在もカポックの木の下に集まって祖先へお供えし、平和と繁栄の祈りを捧げている』とある。

 異なる種である、キワタ Bombax ceiba 当該ウィキを引いておく(注記号はカットした)。『アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではパンヤ科)キワタ属の』一『種の落葉高木』。『なお、同じ科にキワタの種小名と同じ属名のセイバ属 Ceiba があるので注意』とある』。『和名キワタは「木に生る綿」の意味であり、漢字では木棉で「もくめん」とも読むが、「もめん」と読んではならない。紅棉(こうめん)、コットンツリー (cotton tree)、攀枝花・斑枝花(はんしか)。ワタノキ、インドワタノキとも言うが、この呼び名は同科の別種パンヤ Ceiba pentandra としばしば混同される』。『熱帯アジア原産(パンヤはアメリカ・アフリカ原産)。中国では古代から栽培されている』。『トックリキワタ』(パンヤ亜科セイバ属トックリキワタ Ceiba speciosa )『に似て、綿に包まれた種子を飛ばし、幹に棘がある個体も多いが、幹がトックリ型にならないことや、葉がやや大型で鋸歯がなく、小葉柄が明瞭な点で区別できる』。『鮮やかな赤色をした肉質の五弁花を春に咲かせる。花は木棉花(もくめんか)・紅棉花(こうめんか)と呼び、五花茶などの涼茶(ハーブティー)に使われる』。『種子には白い毛が生えており、枕、布団の綿などとして使う』。『キワタの花は広東省広州市、潮州市、四川省攀枝花市、台湾高雄市などの市花であり、金門県の県花である。また、広州市を拠点とする中国南方航空のシンボルマークのモチーフになっており、同社の機体の垂直尾翼に描かれている』。『桜のように、花が葉よりも先に開き、幹がまっすぐなことが多いため、中国では英雄の木とも見なされている。香港の作曲家・歌手であるテディ・ロビンは、「紅棉」という楽曲で、中国人の気骨のイメージにこの木を取り上げている』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「木綿」([088-74a]以下)のパッチワークである。

「古貝《こばい》」「本草綱目」の「釋名」を見ると、『古貝【綱目】古終【時珍曰木綿有二種似木者名古貝似草者名古終或作吉貝者乃古貝之訛也梵書謂之睒婆又曰迦羅婆劫】』とあるので、この「古貝」は★「吉貝」の誤用名であると読める。実際、「維基百科」では「美洲木棉」では、別名として、『吉・吉貝木棉・爪哇木棉』を挙げているのである。甚だ不審なのは、良安がそれを記していないことである。重大な致命的な「洩れ」と言うべきである。

「斑枝花《はんしくわ》」この漢字名は、本邦では、全くの別種であるリンドウ目キョウチクトウ科ガガイモ属ガガイモ Metaplexis japonica の異名でもあるので、注意が必要。

 「攀枝花」先の「キワタ」の引用にある通り、これは中国語で、パンヤではなく、キワタの異名であるので注意。「維基百科」の「木棉」の異名に載っている。

「睒婆」「大蔵経データベース」で確認した。多数、ある。

「迦羅婆劫」この文字列では「大蔵経データベース」では載らないが、「刧」無し、或いは、「刧」を「花」とする「大寶積經」に六度、「一切經音義」に一度、確認出来る。

「草綿」アオイ目アオイ科ワタ属 Gossypium の総称。タイプ種は Gossypium arboretum

『「草綿」は、「濕草部」に詳《つまびらか》なり』本文で述べた通りなので、ずっと後の「卷第九十四之末」にあるので、取り敢えず、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該項をリンクさせておく。

「桐」これは日中ともに、シソ目キリ科キリ属 Paulownia 、或いは、揚子江流域にも分布する本邦のキリ Paulownia tomentosa でもよいか。

「胡桃(くるみ)」ブナ目クルミ科クルミ亜科クルミ連クルミ亜連クルミ属 Juglans 。複数種がある。

「山茶花(さゞんくわ)」何度も言っているが、先行する「山茶花」で考証した通り、この良安のルビは完全アウト中国語の「山茶花」は、

双子葉植物綱離弁花亜綱ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

ではない。同種の「維基百科」の標題は「茶梅」である。

○ツバキ属ヤブツバキ(=ツバキ:薮椿・藪海石榴) Camellia japonica

を指す。「維基百科」の同種の標題は「山茶花」である。

「緼絮(なかわた)」「緼」は「ふんわりとした短い繊維の塊(かたまり)・縺(もつ)れた麻の繊維」を指し、「褞」と同義。暖気を保持させるために中に詰める綿状のものを言う。

「娑羅木《さらぼく》」双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科サラノキ属サラソウジュ Shorea robusta を指す。先行する「娑羅雙樹」を見よ。

「娑羅籠叚《さららうたん》」不詳。東洋文庫訳では、『娑羅籠段』とするが、物は語られていない。

「白氊《びやくぜん》」白い毛氈の意のようである。

「兠羅綿《トロメン》」「デジタル大辞泉」によれば、「トロ」は、梵語の音写で「綿花」の意。綿糸に兎の毛をまぜて織った織物。色は鼠色・藤色・薄柿色などが多く、もと、舶来品。後には毛をまぜない本邦製のものも出来た、とあった。

「暹羅(シヤム)」複数回、既出既注だが、再掲すると、タイの旧称。シャムロ。「暹」国と「羅」国が合併したので、かく漢字表記した。本邦では、私の世代ぐらいまでは、結合双生児を「シャム双生児」と呼んだが、これはサーカスの見世物のフリークスとして知られた胸部と腹部の中間付近で結合していた「チャン&エン・ブンカー兄弟」(Chang and Eng Bunker 二人とも一八一一年~一八七四年)が、たまたまシャム出身であることによった呼称であり、地域差別を助長する差別用語として死語にすべきものである。

「交趾(カウチ)」同前で、コーチ。「跤趾」「川内」「河内」とも漢字表記した。元来は、インドシナ半島のベトナムを指す中国名の一つ。漢代の郡名に由来し、明代まで用いられた。近世日本では、ヨーロッパ人の「コーチ(ン)シナ」という呼称用法に引かれて、当時のベトナム中部・南部(「広南」「クイナム」等とも呼んだ)を、しばしば、「交趾」と呼んだ(どこかの自民党の糞老害政治家石原某は今も使っている)。南シナ海の要衝の地で、朱印船やポルトガル船・中国船が来航し、中部のホイアン(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)などに日本町も栄えた(主文は山川出版社「山川 日本史小辞典」に拠った)。

「柬埔(カボヂヤ)」同前で、カンボジアのこと。

「古終」「和漢三才圖會」の「卷第九十四 濕草」の「草綿」の標題下部に(国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版当該部をリンクした)、異名で「古終」「久佐和多」とし、「俗云木綿」と記す。前掲のワタ属。]

2024/10/07

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 佐賀浦大明舩漂着

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「さがうら だいみんせん へうちやく」と訓じておく。]

 

     佐賀浦大明舩漂着

 昔、當国の海邊(うみべ)にて、大明舩、漂流す。

 如何(いかん)ともせんかたなき折(をり)しも、海上へ、「法華(ほつけ)」の題目を書(かき)たる板(いた)、一枚、浮(うか)みたるを見出(みいだ)し、其(その)板の流るゝ方(かた)ヘ、舩(ふね)を、よせければ、幡多郡(はたのこほり)佐賀浦、加嶋明神の本(もと)へ漂着して、人々、命を助かりたり。

 其頃、當(たう)浦に、放光寺といふ法華寺、有(あり)。此寺へ、右の題目板(だいもくいた)と、鰐口(わにぐち)を、明人(みんじん)より、納(をさ)めたり。

 徃昔(わうじやく)、地震の節(せつ)、放光寺、流失して、題目板は散失(さんしつ)し、鰐口も、當時、見へざりしを、年、經て、拾ひ出(いだ)しける由(よし)。

 其後(そののち)、寶永の地震にも、流失して、鰐口を、三年程、經て、砂中(すななか)より堀出(ほりいだ)せり、と云(いひ)つとふ[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本71)も同じ。「つたふ」の当時の口語表現。]。

 鍔口は、今、當寺の什物(じふもつ)となれり。

 放光寺、今は、妙光寺といふ。

 その鰐口の銘、[やぶちゃん注:原文では、以下の銘は二字下げ、最後の作者の附言は、一字下げ。]

『放光寺社頭金口康正二年八月廿七日

 裏『天正十四年貳月彼岸中日納置大明人也』

 康正二年より文化五年まで、三百五十三年に成(なる)也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「佐賀浦」現在の幡多郡黒潮町佐賀の鹿島ケ浦の旧称と思われる。現在の佐賀漁港は北で突き出る岬に造られてあるが、当時の漁港は「ひなたGPS」の戦前の地図の、現在の鹿島ケ浦の砂浜海岸、地名『橫濱』とあるところにあったものと推察する。

「大明舩」「康正二年」(ユリウス暦一四五六年)当時の明は、第七代皇帝朱祁鈺(きぎょく)の景泰七年。但し、ウィキの「景泰帝」によれば、翌景泰八年に『病臥し、朝臣より後継者の決定を促す奏上がなされるが、朱見済に嫡子のいなかった景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に』兄で第六代皇帝であった『英宗』(彼はしばしば侵攻していた北方のオイラト(モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住するモンゴル系民族)征伐を正統一四(一四四九)年に敢行するも、逆に捕虜となり、景泰元(一四五〇)年の講和が成立し、英宗は明朝に送還されて軟禁され、太上皇となっていた)『に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは英宗の復辟を画策し、英宗を軟禁されている宮殿から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく英宗が重祚した(奪門の変)。帝位を追われた景泰帝は間もなく崩御したが、暗殺されたとする説もある。享年』三十であったとある。

「幡多郡(はたのこほり)佐賀浦、加嶋明神」これは、鹿島ケ浦の湾口にある「鹿島」にある「鹿島神社」(グーグル・マップ・データ航空写真)のことと思われる。海上安全と大漁祈願の神宮であるが、神聖な神域であるらしく、現在は(も)、この島には、通常は、渡ることは出来ない。

「放光寺といふ法華寺、有(あり)」「放光寺、今は、妙光寺といふ」孰れの、その名の寺は不詳である。現在、幡多郡には日蓮宗の寺院は大月町に一寺あるのみである。

「鰐口(わにぐち)」私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。絵もある。

「地震」康正二(一四五六)年以降、文化五(一八〇八)年までの間で、土佐を襲った大地震(寺が全壊・流失するほどのものである以上、それに限定してよかろう)は、「高知県地方気象台」公式サイト内の「過去に高知県に被害を及ぼした地震について」の「高知県内の地震による被害状況」のリストを見ると、

●明応地震:室町後期(戦国初期)の明応七年八月二十五日(グレゴリオ暦換算一四九八年九月二十日)。当該ウィキによれば、『震央は東海道沖と』され、『地震の規模は』推定でマグニチュード八・二~八・四とされる。震源と地域が東に有意に離れるが、『一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が見出され、また』、『発掘調査から同時期の南海道沖』(南海トラフ)『の』同期発生の『地震の存在の可能性が唱えられている』とあった。前掲リンクのリストでも、マグニチュード八・三とし、『詳細は不明(南海トラフ沿いの大地震で、広い範囲に被害を及ぼしたと考えられる。)』とある。

●慶長地震:当該ウィキによれば、『江戸時代初期の慶長』九年十二月十六日(一六〇五年二月三日)『に起こったとされる地震・津波で』、『犬吠埼から九州に至る太平洋岸に大津波が襲来し、津波被害による溺死者は約』五千『(』或いは五『万人という説も)とされる。しかし、地震の揺れの記録が津波記録と比べて少なく、震源やメカニズム・被害規模も不明な点が多い』。『津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。津波襲来の範囲は宝永地震に匹敵するが、後の元禄地震津波や宝永地震津波によって多くの史料が流失したものと推定され、また紀州徳川家や土佐山内家らが移封される前後であったなどの世情から、現存が確認される歴史記録は乏しい』とする。「津波」の項には、①『土佐甲浦(高知県安芸郡東洋町大字河内)』で『死者』三百五十『余人』とし、②『室戸岬付近』で『死者』四百『余人』で、「谷陵記」に『よれば』、『室津付近の元』(もと:地名。グーグル・マップの海岸に接する「元甲」「元乙」であろう)『では宝永津浪は慶長津浪より六尺(約』一・八メートル『)低いとある』とし、③『高知浦戸』では『山内一豊入封のとき、浦戸城では前代修築の突堤が慶長九年の激浪のため崩壊した』とあり、前記リストでも『土佐甲ノ浦・崎浜・室戸岬等で死者』八百『人以上』とある。

・宝永地震:当該ウィキによれば、宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、東海道沖から南海道沖』『を震源域として発生した巨大地震』で、『南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている』とし、「被害」の項には、『マグニチュードの推定値には』八・四『から』九・三『まで』とされ、城郭の「櫓・塀・門等の破損」の項に高知城が挙がっており、『本地震では各地で山体崩壊、山崩れが顕著で』、『讃岐では、五剣山の一角が大音響とともに崩壊したと』され、『室戸岬付近では佐喜浜川上流で加奈木崩れが発生した』。『越知(現・越知町)では舞ヶ鼻が崩壊し』、『仁淀川を堰き止め』、四『日間湛水したため「標高』六十一メートル『以下の場所に家を建てるな」と警告する石碑が数ヵ所ある』とあった。また、「推定震度」のリストには、土佐の室津・安芸・ 高知・佐川・須崎・ 窪川・中村・宿毛・ 宿毛大島でマグニチュード六から七の数値が添えられてある。また、「津波」の項には、『土佐の室戸、種崎や須崎など多くの場所で引き波で始まり、紀伊の広(現・広川町)や御坊(現・御坊市)では襲来する波はゆっくりであったが、引き波は激しく人家は取られ多く流失した』ともあり、「津波の被害状況」の表にも高知県だけでも二十もの被害が記されてある。前記リストでも、高知県内に限っても、『主として津波により、死者』千八百四十四『人、行方不明』九百二十六『人、家屋全壊』五千六百八『棟、家屋流失』一万千百六十七『棟』という数字が示されてある。

 以上であるが、最大激震の「宝永地震」は本文の後に出るから、この地震は「明応地震」或いは「慶長地震」のどちらかである。

「金口」「きんこう」と読んでおく。「金」は金属製の意で、「口」は鰐口の下部の反響用の目立つ切れ込み部分を指していよう。

「康正二年子」(丙子:ひのえね))「八月廿七日」グレゴリ暦換算一四五六年十月五日。

「天正十四年貳月彼岸中日」グレゴリオ暦一五八六年の春の彼岸の中日は「春分」であった旧暦の二月十五日で、グレゴリオ暦では四月四日である。

「納置」「をさめおく」。

「大明人也」「だいみんじんなり」。

「康正二年より文化五年まで、三百五十三年に成也」数えで計算している。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 宻䝉花

 

Watahujiutugi

 

みつもうくは 水錦花

 

宻䝉花

 

[やぶちゃん注:「みつもうくは」はママ。「宻䝉花」は「密蒙花」に同じ。]

 

本綱宻䝉花蜀中及利州甚多樹高𠀋餘葉冬不凋似冬

青葉而厚背白有細毛又云不佀冬青柔而不光潔不㴱

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

緑其花細碎數十房成一朶冬生春開微紫色

花【甘平微寒】 入肝經氣血分治青肓膚翳赤腫眵淚消目

[やぶちゃん注:「肓」は「盲」の良安の誤写。訓読では訂した。

 中赤脉小兒疳氣攻眼羞明怕日良

 

   *

 

みつもうくは 水錦花《すいきんくわ》

 

宻䝉花

 

[やぶちゃん注:「みつもうくは」はママ。]

 

「本綱」に曰はく、『宻䝉花、蜀中《ちゆう》[やぶちゃん注:この場合は現在の四川省成都市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近を指す。]、及び、利州[やぶちゃん注:現在の四川省広元市一帯。]、甚だ、多し。樹の高さ、𠀋餘。葉、冬、凋まず、「冬青(まさき)」の葉に似て、而《しかも》、厚く、背、白く、細毛、有り。又、云ふ、「『冬青』に佀《に》ず、柔《やはらか》にして、光潔《くわうけつ》ならず。≪又、≫㴱緑《しんりよく》ならず。其の花、細かに碎《くだ》け、數十房≪を以つて≫一朶《ひとふさ》を成す。冬、生じ、春、≪花を≫開く。微紫色≪なり≫。』≪と≫。』≪と≫。

『花【甘、平、微寒。】 肝經の氣≪分≫・血分に入りて、青盲(あきじり)・膚翳《ふえい》・赤腫《せきしゆ》・眵淚(やになみだ)を治す。目≪の≫中《なか》≪の≫赤《あかき》脉《みやく》を消し、小兒≪の≫、疳氣≪に據(よ)つて≫眼を攻《せ》め≪られ≫、明《あかる》≪きを≫羞(は)ぢ[やぶちゃん注:周囲が明るい状態を嫌がり。]、日《ひ》[やぶちゃん注:太陽光。]を怕(をそ[やぶちゃん注:ママ。])るゝに、良し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:この「花」(蜜蒙花)とは、

シソ目ゴマノハグサ科フジウツギ(藤空木)属ワタフジウツギ Buddleja Officinalis

である。東洋文庫もそれを割注で『(フジウツギ科ワタフジウツギ)』と出している。この種を植物学的に日本語で詳細記載する記事は存在しないので、まず、「維基百科」の「密蒙花」を見ると、落葉低木で、小枝は、やや四角形を成し、灰白色の毛で密に覆われ、卵形から長楕円形の葉が集まり、葉の縁は、やや鋸歯状を成し、葉裏は灰白色から黄色の星状の細毛で密に覆われている。毛は総体の各部にあり、花の香りがよく、淡黃の花冠で、筒状になった内側は黄色を呈する。分布はミャンマー・ベトナム・ブータン、中国の安徽・甘粛・広東・江蘇・陝西・湖北・四川・雲南・山西・広西・福建・湖南・チベット自治区・河南・貴州など、中国本土全体に広く分布し、標高二百メートルから二千八百メートルの高地まで植生する。一般には、川沿い・日当たりの良い斜面・森林の端・村の隣りの茂み・石灰岩の山地などに植生するが、未だ人工的に導入されて栽培されていない、といった記載がある。同種の英語のウィキでは、『湖北省西部・四川省・雲南省を原産』としている。日本語のウィキでは、「フジウツギ属」があるので、引くと(注記号はカットした)、同属は『ゴマノハグサ科』Scrophulariaceae『の植物の属である。花が美しいので園芸用に栽培され、属名からブッドレア(ブッドレヤ)と呼ばれることが多い。世界に約』百『種あり、ほとんどは常緑または落葉性の低木だが、一部に高さ』三十メートル『に及ぶ高木や、草本もある。ヨーロッパ・オーストラリアを除く温帯・熱帯に分布する。多くは芳香があり、また蜜が多いので』、『よく』、『蝶が吸蜜に訪れる。サポニンを多く含むので有毒ともいう』(とあるが、複数の漢方サイトを見ると、「密蒙花」と称し、主要成分をフラボンとフラボノールとし、解熱・消炎・眼病(緑内障・赤腫流涙・鳥目等)の薬に使用されていることが判り、「本草綱目」が処方対象として挙げる疾患と一致する)。『葉は長さ』一~三十センチメートル『で細長く、ほとんどは対生。花は長さ』一センチメートル『ほどの筒状で、花びらの先が』四『裂し、長さ』十~五十センチメートル『の密な円錐花序をなす。花の色は種類により白、桃色、赤、紫、橙色、黄色などいろいろある。果実は蒴果で、多数の種子を含む』。『日本にはフジウツギ B. japonica とウラジロフジウツギ B. curviflora が自生する。フジウツギ(藤空木)の名は花序の様子や色が藤に似ていること』による、とある。『数種が園芸用に栽培されており、特によく栽培されるのがフサフジウツギ(ニシキフジウツギ)B. davidii である。これは極端に寒い地域を除いて』、『栽培しやすく、野生化することも多い。フサフジウツギは中国原産とされるが、秩父で野生状態で発見されたため、チチブフジウツギの別名がついている』。『そのほか』、『オレンジ色の B. globosa や、ライラック色の B. alternifolia 、また B. × weyeriana B. globosa × B. davidii )などの交雑種が栽培される。沖縄県では中国原産のトウフジウツギ B. lindleyana がよく栽培されている』。『属学名はイギリス国教会宣教師で植物学者だったアダム・バドル Adam Buddle』(一六六〇年~ 一七一五年)『にちなむ』が、『正しくは"  Buddleia "になりそうだが、リンネが" Buddleja "と書いたため』、『これが正式名として定着した』とある。『ブッドレアは花木の中では、実生からの栽培が最も簡単なものの一つである。春まきで翌年から開花することが多い。ただ、木本としては比較的短命で、数年で枯れることもある。タネが入手しやすいのは、B. davidii の空色系と青・白・ピンクなどが混ざったもの、それに B. globosa である』。『種まきは』四『月頃に行う。タネはかなり細かいが、一袋にかなりの量が入っているので、苗床などの播き、覆土はせずにそっと手のひらで押さえ、細めのじょうろで丁寧に水やりをするようにする。発芽までに』十『日から半月くらいかかる。混み合ったところは間引き、本葉が出てきたら一度仮植えし』一メートル『位の間隔に定植する。春から秋まで日向または半日陰になる、水はけの良いところを好む。 移植をする際は、ひげ根が土と離れやすいので、注意が必要である』とあった。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「宻䝉花」([088-73b]以下)のパッチワークである。

「冬青(まさき)」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa当該ウィキによれば、『和名ソヨゴは、風に戦(そよ)いで葉が特徴的な音を立てる様が由来とされ、「戦」と表記される。常緑樹で冬でも葉が青々と茂っていることから「冬青」の表記も見られる』。但し、『「冬青」は常緑樹全般にあてはまることから、これを区別するために「具柄冬青」とも表記される。中国植物名でも、具柄冬青(刻脈冬青)と表記される』とある。なお、東洋文庫訳では、割注で『(灌木類。ナナメノキ)』とする。この「ナナメノキ」は、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis の異名で、中文ウィキの「冬青属」相当では、確かに狭義の「冬青」をナナミノキに宛ててはある。となれば、厳密には現代では、日中で同属異種ということになるが、明代に、それを確然と区別していたとは、私には思われないので、これ以上、ディグはしない。

『又、云ふ、「『冬青』に佀《に》ず、柔《やはらか》にして、光潔《くわうけつ》ならず。≪又、≫㴱緑《しんりよく》ならず。其の花、細かに碎《くだ》け、數十房≪を以つて≫一朶《ひとふさ》を成す。冬、生じ、春、≪花を≫開く。微紫色≪なり≫。』≪と≫。』と時珍が言った傍から反する記事を添えるというのは、特異点であり、真逆の記載を敢えて並置するのは、取りも直さず、時珍自身が、正直、「冬青」を現認して書いていないことを意味しているように感じられ、前注の私の最後の疑義が、ただの思い込みではない証左の有力な助っ人となっているように思われた。

「肝經」東洋文庫の後注に、『足の闕陰肝經。身体をめぐる十二経脈の一。巻八十二盧会の注一参照。』とある。先行する「盧會」の私の引用注を参照されたい。

「青盲(あきじり)」音は「セイマウ(セイモウ)」。これは、眼疾患でも難症で失明に至ることもある「靑そこひ」=緑内障を指す。しかし、この「青」は目の色ではなく、本邦の平安時代や江戸時代の文学作品で「淸盲」と記すところから、一見、すっきりとした眼球の状態ンであるのに、物が見えないということを意味しているものと思われ、まさに緑内障末期の外見上の様態を指したものと私は思う。

「膚翳《ふえい》」これは、中文の「A+醫學百科」の「膚翳」に、眼疾患の一つで、視野の中に、蠅の羽のような影が生じる疾患といった感じの内容が書かれている。当初、蠅のの羽から、私も物心ついた頃からあった、飛蚊症かと考えたが、蠅は翅が遙かに大きいから、「なるほど! 黄斑変性症か!」と横手を打った。現行では一種の症候群で、複数の疾患名に分れる。詳しくは、同ウィキのそれぞれのリンク先を見られたい。因みに、遺伝性疾患の「網膜色素変性症」も想起したことも言っておこう。それは、私が書いた「ノース2号論ノート1 ダンカンの疾患及び特別出演ブラックジャックについての注釈」で特定した疾患だからである。この私のカテゴリ「プルートゥ」は、二〇〇七年の古い論考集だが、未だにアクセスの非常に高いカテゴリである。

「赤腫《せきしゆ》」これは前後が総て眼病であるから、目の充血疾患を指すものであろう。東洋文庫では割注して、『(ほし目。角膜白斑症)』とする。しかし、その疾患は、角膜に白い混濁が生ずるもので、「赤腫」という漢字表記には、ちょっとしっくりこないし、臨床的にも昔でも「赤腫」とは言わんだろうと感ずる。血のように赤くなる症状が有意に見られるのは、感染性結膜炎(昔の「はやり目」)」やアレルギー性結膜炎、また、乳児血管腫・脈絡膜血管腫等が想起され、難治性の疾患では、角膜潰瘍(かいよう)・単純ヘルペス角膜炎・眼部帯状疱疹・急性閉塞隅角緑内障・前部ぶどう膜炎・強膜炎などが挙げられるであろう。

「眵淚(やになみだ)」これは、症状としての「目やに」(私の少年期までは「目くそ(目糞)」と言ったもんだ)や、それを含んだ濁った涙(液体)が滲出してくる症状であろう。

「目≪の≫中《なか》≪の≫赤《あかき》脉《みやく》」これは白目が赤くなる症状で、お馴染みの「充血」と「結膜下出血」が当たる。

「疳氣」これは所謂、「疳の虫」で、「かんげ」とも読み、外見上は、全身が痩せ、腹部が脹れる、小児の多様な症状を示す古い総称的な象徴疾患名である。実際には現在の心因性・内因性・外因性に起因する多くの症状を包含する。]

2024/10/06

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 伏牛花

 

Aridousi

 

ふくぎうくは 隔虎刺花

 

伏牛花

 

 

本綱伏牛花生蜀地川澤中葉青細似黃蘗葉而不光莖

亦有刺開花淡黃色作穗佀杏花而小

氣味【苦甘】治風溼四肢拘攣骨肉疼痛頭痛五痔下血

[やぶちゃん字注:「ふくぎうくは」はママ。「溼」は「濕」の異体字。]

 

   *

 

ふくぎうくは 隔虎刺花《かくこしくわ》

 

伏牛花

 

 

「本綱」に曰はく、『伏牛花は、蜀[やぶちゃん注:現在の四川省。]の地、川澤《かはさは》の中に生ず。葉、青く、細《おまか》にして「黃蘗《わうばく》」の葉に似れども、光らず。莖も亦、刺《とげ》、有り。開花して、淡黃色にして、穗を作る。「杏《あんず》」の花に佀《に》て、小《ちいさ》し。』≪と≫。

『氣味【苦、甘。】風溼《ふうしつ》・四肢≪の≫拘攣《ひきつり》・骨肉≪の≫疼痛・頭痛・五痔≪の≫下血を治す。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「伏牛花(ふくぎうくわ)」は日中ともに、

双子葉植物綱キク亜綱アカネ目アカネ科アリドオシ属アリドオシ変種アリドオシ Damnacanthus indicus var. indicus

である。「維基百科」は「虎刺」であるが、本文に別名を「伏牛花」とする。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『蟻通』(歴史的仮名遣は「ありどほし」)で、この『語源には』二『説ある』。①『とげが細長く、アリでも刺し貫くということから』、②『とげが多数あり、アリのような小さい虫でないと通り抜けられないということから』というものである。『別名を一両(イチリョウ)、タマゴバアリドオシ』(卵葉蟻通)『ともいう。中国名表記は、「虎刺」(刺虎、伏牛花、繡花針)』。『日本、朝鮮半島南部、東南アジアからインド東部まで分布する。日本では、本州(関東地方以西)、四国、九州、沖縄に分布する。山地のやや乾いた薄暗い林下に生育する』。『同属はジュズネノキ』(「数珠根の木」。Damnacanthus macrophyllus )『など、日本から東南アジア周辺に数種が分布する』。『常緑広葉樹の低木で、高さは』二十~六十『センチメートル』。『主茎はまっすぐに伸びるが、側枝はよく二叉分枝しながら横に広がる。若い枝には短い剛毛が密生する。葉は対生し、長さ』一~二・五センチメートル『の卵円形から卵形で、質は固く表面に光沢ある。葉腋に』一『対の細長い長さ』一~二センチメートル『の鋭い棘がある。葉が枝から水平に広がり、それに対して棘は垂直に伸びる』。『花期は』五『月ごろ。葉腋に漏斗形の白い花を通常』、二『個ずつ咲かせる。花冠の長さは約』十『ミリメートル』『ほどで、先は』四『裂する。果実は液果で直径』五~六ミリメートル『 の球形。冬に赤く熟し、先端に萼が残る。果実は翌年の花期まで木に残るものもある』。『栽培されることもあり、関西地方ではセンリョウ(千両)』(センリョウ目センリョウ科センリョウ属センリョウ Sarcandra glabra )、『マンリョウ(万両)』(ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ(藪柑子)亜科ヤブコウジ属マンリョウ Ardisia crenata 。センリョウとはただ見かけが似ているだけであって、全く縁がない種である。教員時代も、同属の植物だと思い込んでいた生徒が甚だ多かった)『とともに植え、「千両万両有り通し」と称して正月の縁起物とし、縁起木として床飾りにする』。『以下の変』『品種がある』として、六種が挙がっている。

○オオアリドオシ Damnacanthus indicus f. var. major

○ホソバオオアリドオシ Damnacanthus indicus f. var. lancifolius

○コバンバニセジュズネノキ Damnacanthus indicus f. var. lancifolius f. oblongus

○ヒメアリドオシ Damnacanthus indicus f. var. indicus f. microphyllus

○ビシンジュズネノキ Damnacanthus indicus f. var. intermedius

○リュウキュウジュズネノキ Damnacanthus indicus f. var. okinawensis

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「伏牛花」([088-72b]以下)のパッチワークである。

「黃蘗《わうばく》」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ変種キハダ Phellodendron amurense var. amurense 。先行する「黃蘗」の私の注を見られたい。

「杏《あんず》の花」「杏」は日中ともに、バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu であるが、アンズの花はこれである(当該ウィキの画像)。

「風溼《ふうしつ》」漢方で、先の「風」、及び、「水」気の体内過剰によって生ずるとされる筋肉・関節などに起こる病気。

「五痔」複数回既出既注だが、再掲しておくと、東洋文庫の「丁子」の割注に、『内痔の脈痔・腸痔・血痔、外痔の牡痔・牝痔をあわせて五痔という』とあったが、これらの各個の症状を解説した漢方サイトを探したが、見当たらない。一説に「切(きれ)痔・疣(いぼ)痔・鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)・蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))・脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。中文の中医学の記載では、「牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔」を挙げる。それぞれ想像だが、「牡痔・牝痔」は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。「脉痔」が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、「血痔」は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。この場合、「下血」とあるので、それらの病態の内で、出血を見るものに限る処方と読める。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 蠟梅

 

Roubai

 

ろふばい  黃梅花

      【俗南京梅】

蠟梅

 

ラツ ムイ

 

本綱蠟梅本非梅類因其與梅同時香又相近色似𮔉蠟

[やぶちゃん字注:「𮔉」は「蜜」の異体字。]

故名之小樹叢枝尖葉結實如垂鈴尖長寸餘子在其中

其樹皮浸水磨黒有光采凡有三種

狗繩梅 以子種出不經接者臘月開小花而香淡

磬口梅 經接而花疎開時含口者

檀香梅 花宻而香濃色㴱黃如紫檀者最佳

[やぶちゃん注:「㴱」は「深」の異体字。]

△按蠟梅花六出單葉似小梅花而黄色其枝柔靱遠見

 則彷彿倭連翹伹連翹花四出而盞形爾

 農政全書云蠟梅枝條頗類李其葉似桃葉而寛大紋

 微麁開淡黃花味甘微苦

[やぶちゃん字注:「梅」と「梅」の混淆はママ。子細に観察し、使い分けた。]

 

   *

 

ろふばい  黃梅花

      【俗南京梅】

蠟梅

 

ラツ ムイ

[やぶちゃん注:「ろふばい」はママ。歴史的仮名遣は「らうばい」が正しい。]

 

「本綱」に曰はく、『蠟梅、本《も》と、梅の類《るゐ》に非ず。因りて、其れ、梅と、時を同《おなじく》し、香≪も≫又、相近《あひちか》く、色、宻蠟《みつらう》に似≪れば≫、故≪に≫、之れを名づく。小樹≪にして≫、叢《むらがれる》枝、尖《とが》る葉≪にて≫、實を結ぶ。垂鈴《たれすず》のごとくにして、尖り、長さ、寸餘。子《たね》、其の中に在り。其の樹皮を、水に浸して、磨《みが》≪けば≫、黒《くろく》して、光采《かうさい》[やぶちゃん注:「光彩」=「光澤」に同じ。]、有り。凡そ、三種、有《あり》。』≪と≫。

『狗繩梅《くようばい》』 『子《たね》を以つて、種《うゑ》、出《しゆつ》≪す≫。接《つぎき》を經《へ》ざる者。臘月[やぶちゃん注:旧暦十二月。]、小≪さき≫花を開きて、香《かをり》、淡《あはし》。』≪と≫。

『磬口梅《けいこうばい》』。『接《つぐ》ことを經《へ》て、花、疎《まばら》に、開≪く≫時、口を含む者。』≪と≫。

『檀香梅《せんかうばい》』。『花、宻《みつ》にして、香《かをり》、濃く、色、㴱《ふかき》黃≪なり≫。「紫檀《したん》」のごとき者≪にして≫、最も佳なり。』≪と≫。

△按ずるに、蠟梅は、花、六出《ろくしゆつ》。單葉≪なり≫。小梅の花に似て、黄色。其の枝、柔《やはら》かに、靱(しな)へ、遠く見≪れば≫、則ち、倭の連翹《れんげう》に彷彿(さもに)たり。伹《ただし》、連翹の花は、四出《ししゆつ》して、盞(ちよく)[やぶちゃん注:「ぐい呑み」のこと。]の形なるのみ。

「農政全書」に云はく、『蠟梅≪の≫枝條《しでう》、頗《すこぶ》る、李《すもも》に類《るゐ》≪す≫。其の葉、桃の葉に似て、寛《ひろく》、大≪にして≫、紋、微《やや》、麁(あら)く、淡≪き≫黃花を開く。味、甘く、微《やや》、苦《にが》し。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「蠟梅」は日中ともに、

双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ属ロウバイ Chimonanthus praecox

がタイプ種である。「維基百科」の「蜡梅」が同種である。なお、良安も指示している通り、注意喚起しておくと、「梅」は、

バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

であって、近縁でも何でもない。かく言う私も、青年になるまで、梅の一種と思い込んでいたから。関東近辺では、修善寺の梅林が、お薦めである。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。異名漢字表記では、『臘梅、唐梅』(からうめ)』があり、『中国原産の落葉樹である』。『和名の「ロウバイ」の語源は、漢名の「蝋梅」の音読みとされ、由来について一説には、陰暦の』十二『月にあたる』臘月(ウィキ原文では漢字を間違っている)『(ろうげつ)にウメの香りの花を咲かせるためだと言われている』。「本草綱目」に『よれば、半透明で』、『にぶいツヤのある花びらが』、『まるで蝋細工のようであり、かつ臘月に咲くことにちなむという』。『日本へ渡来したのは』十七『世紀初めの江戸時代ごろとされる。庭木として広く植えられている』(本「和漢三才圖會」は正徳二(一七一二)年成立なので、既に本邦に定着していた)。『落葉広葉樹の低木で、高さは』二~五メートル『になる。株立ちし、樹皮は淡灰褐色で』、『皮目』は、『縦に並び、生長とともに浅く割れたようになる。葉は長さ』十~十二センチメートル『の細い長楕円形で、両端は尖る』。『花期時期は』一~二『月』。『早生種では』十二『月頃に、晩生種でも』二『月にかけて半透明で』、『にぶいツヤのある黄色く香り高い花が』、『やや下を向いて咲く。花色は外側が淡黄色で内側が暗紫色をしている。果実は痩果で一見すると種子に見え、花托が生長して壺状の偽果になり、中に偽果が詰まり数個から』十『個程度』、『見られる』。『冬芽は枝に対生し、葉芽は卵形で』、『花芽は球形をしている。枝先には仮頂芽(葉芽)が』二『個つく』。以下「品種」の項。『ロウバイ属には他に』五『種があり、いずれも中国に産する。なお、ウメは寒い時期に開花し、香りが強く、花柄が短く』、『花が枝にまとまってつくといった類似点があるが、バラ目』 Rosales『バラ科』Rosaceae『に属しており』、『系統的には遠縁である』。『ソシンロウバイ(素心蝋梅)やトウロウバイ(唐蝋梅)などの品種がある。よく栽培されているのはソシンロウバイで』、『花全体が黄色で、ロウバイよりもよく結実する。ロウバイの基本種は、花の中心部は暗紫色で、その周囲が黄色である』。

カカバイ Chimonanthus praecox f. intermedius(『狗牙蝋梅・狗蝿梅』。「本草綱目」の引用に出る『狗繩梅《くようばい》』である

○ソシンロウバイ Chimonanthus praecox f. concolor(『素心蝋梅』。別名シロバナロウバイ(白花蝋梅))

○マンゲツロウバイ Chimonanthus praecoxMangetsu’(『満月蝋梅』。学名の通り、ソシンロウバイから選抜された園芸品種。『ほかにも「揚州黄」「吊金鐘」などの栽培品種がある』)

○トウロウバイ Chimonanthus praecox var. grandiflorus(『唐蝋梅』、ほかにも『「虎蹄」「喬種」などの栽培品種がある』)

以下、「栽培」の項。『土壌をあまり選ばず、かなり日陰のところでも』、『よく育ち』、『開花する丈夫な花木である』。『繁殖は、品種ものの一部を除き』、『挿し木が一般的だが』、『実生からの育成も容易』で、『種まきから最も簡単に育てられる樹種である。晩秋になると、焦げ茶色の実がなっており、中のタネ(真の果実)はアズキくらいの大きさである。寒さに遭わせたほうが』、『よく発芽するといい、庭に播き』、五ミリメートル『ほど覆土しておくと、春分を過ぎてから生えてくる』。以下、「毒性」の項。『種子などにアルカロイドであるカリカンチン』(Calycanthine)『を含み』、『有毒。中毒すれば』、『ストリキニーネ様の中毒症状を示す』。以下、「薬用」の項で終わる。『花やつぼみから抽出した蝋梅油(ろうばいゆ)を薬として使用する。中国では、花をやけどの薬にすると言われている』。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「蠟梅」([088-72a]以下)(記載は非常に短い)の「釋名」「集解」から殆んどをバラして引いたパッチワークである。

「磬口梅《けいこうばい》」これは中文サイトを、複数、見ても、ロウバイ Chimonanthus praecox の学名を挙げてある。上記引用に、『繁殖は、品種ものの一部を除き』、『挿し木が一般的だが』、『実生からの育成も容易』で、『種まきから最も簡単に育てられる樹種である』とするので、本来の種子から繁殖する、同種のプロトタイプ群と見受けられる。

「檀香梅《せんかうばい》」これは、ロウバイとは、クスノキ目クスノキ科Lauraceaeまでは同じだが、属レベルで異なる、

クロモジ(黒文字)属ダンコウバイ Lindera obtusiloba

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『檀香梅』『は』『別名でウコンバナ、シロヂシャともよばれる。和名の由来は、実や葉、また材が檀香(ビャクダン:白壇)のように香り、花がウメ(梅)に似ていることによる。丸みのある浅く』三『裂した葉が特徴』。『中国、朝鮮半島、日本に分布する。日本では本州(新潟県、関東地方以西)、四国、九州に分布する。山地の雑木林内や林縁の明るい場所に自生する。植栽されることは稀であるが、庭にも植えられる』。『落葉広葉樹の低木から小高木。成木は樹高』二~七『メートル』、『幹の直径約』十八『センチメートル 』。『樹皮は暗灰色から茶褐色で滑らかであるが、皮目が多く少しざらつく感じになる。小枝は日当たりのよい面は赤味を帯び、日陰側は緑色であることが多い。枝を折ると芳香がある』。『花期は』三~四『月』。『雌雄異株で、雄株のほうが花数が多い』。『葉が芽吹く前に、芳香がある黄色い小さな花を散形花序に多数つける』。『雄花と雌花の花被片は』六『個で楕円形。雄花の雄蕊の花糸に』一『対の密腺がある。花序の柄は長さ』一『ミリメートル』『ほどついている』。『葉は互生し、柄がある。葉身は幅広い倒卵形で、長さは』五~十五センチメートル、『幅は』四~十三センチメートル、『基部が幅広く丸くなり』、『先端が浅く』三『裂するのが基本であるが、なかには裂けないものもある。葉質はやや厚く、表面はつやのない緑、若葉の裏面には毛が生えている。葉によって裂け方にかなり個体差があり、裂けない葉もある。外見的には葉の形などシロモジ』(クロモジ属シロモジ(白文字)Lindera triloba )『にやや似る。葉も揉むとわずかに芳香がある。秋になると葉は黄葉して鮮やかな黄色に染まり、やがて落葉する。ダンコウバイの葉のよう』な、特徴的に『浅く』三『つに切れ込む葉は他にみられず、葉の形で簡単に見分けられる』(添えられてある「葉」の写真)。『果期は』九~十『月。果実はクスノキの実を少し大きくしたような光沢のある球形で、直径は』七~八ミリメートル『ほどあり、はじめは赤色であるが』、『秋の黄葉の時期に熟して黒紫色に変わる。種子は淡褐色から褐色で強い香りがある』。『冬芽は互生し、葉芽は長楕円形で、花芽はほぼ球形。芽鱗は赤茶色で花芽は』二、三『枚、葉芽は』四、五『枚ある。落葉のころには来春の花芽が葉腋にでき、つぼみのまま越冬する。葉痕は半円形で、維管束痕が』三『個つく』。『ウコギ科』Araliaceae『の』カクレミノ(隠蓑)属『カクレミノ( Dendropanax trifidus )』(二ヶ月前に行った伊東の温泉の離れの坪庭に大きく育った個体を見つけ、親しく観察した)『は常緑樹で、葉がダンコウバイやシロモジ( Lindera triloba )にやや似ており、秋に古い葉の一部が橙色から黄色に紅葉する。シロモジもダンコウバイも、切れ込みのない葉が』、『時折』り、『混じる』。『庭木に利用されている。材は芳香があり、楊枝や細工物に使う。種子からは油がとれる。果実には香りのいい油分があって、朝鮮では種子の油を高級な髪油として用いた』とある。

「紫檀《したん》」一説に、二種を含むとし、マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ツルサイカチ属ケランジィ Dalbergia cochinchinensis と、マルバシタン Dalbergia latifolia である。但し、異論を唱える者もあり、それらはウィキの「シタン」を見られたい。

「連翹」「枸𣏌」で既出既注だが、再掲すると、本邦で言うシソ目モクセイ科Forsythieae連レンギョウ属レンギョウ Forsythia suspensa は、中国原産で、江戸初期に植物体は渡来している。しかし、中国の漢方生薬「連翹」の基原植物は、一般には、中国原産の同属シナレンギョウ Forsythia viridissima の成熟果実を、一度、蒸気を通したのち、天日で乾燥したものを指すとされる。生薬扱いしたのは、良安がわざわざ「倭の連翹」と言っているからで、実際の植物体としてのシナレンギョウを見ていないから、かく言わざるを得ない、ということは、当然、植物体ではなく、加工された果実の生薬としての生薬体で比較していると、とるしかないのである(シナレンギョウの日本への渡来は大正末期である)。では、日本に在来種のレンギョウ属はいないかというと、中国地方の、代表的なカルスト台地である岡山県北西部の阿哲台(あてつだい:深草縁夫氏のサイト「日本すきま漫遊記」の「岡山・水車と鍾乳洞を巡る(6日目)」に載る地図を見られたい)、広島県北東部の帝釈台(阿哲台の南西にある広島県庄原市東城町(とうじょうちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど:グーグル・マップ・データ)にある)といった石灰岩地の岩場などに選択的に植生するヤマトレンギョウ Forsythia japonica と、小豆島のみに植生するショウドシマレンギョウ Forsythia togashii の二種があるのであるが、孰れも、現在、絶滅危惧種に指定されている。私は、良安が言っているものが、正規の在来種の分布が非常に限定されているヤマトレンギョウやショウドシマレンギョウであるとは思えないのである。少なくとも、この在来種二種を良安が実際に現認し、知っていたとは、私には、まず、絶対に思われない。但し、以上の記載で最も参考にさせて戴いた「公益社団法人日本薬学会」公式サイト内の「シナレンギョウ」のページには、全く異なる基原植物説の追加記載があって、『中国の古い本草書には「湿り気のあるところに生育している草本植物」との記載があることから,連翹はオトギリソウ科のオトギリソウやトモエソウの仲間を指すという説もあります』とあることを言い添えておく。オトギリソウは、キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属オトギリソウ Hypericum erectum であり、トモエソウは、同じオトギリソウ属トモエソウ Hypericum ascyron である。なお、以上の記載には、別にサイト「Arboretum」の「ヤマトレンギョウ」のページも参考にした。]

2024/10/05

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 田邉嶋隼人明神

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。前々から述べた通り、原書自体に綴じの際の乱丁が発生しており、これが当該の難に最も激しく遭っているものである。初回はここであるが、右丁最後の一行だけで、次は二コマ戻ったここの、左丁と、次のコマの右丁のみ、而して、再び、ここに戻って左丁の「元親」の名のある御触書(おふれがき)で終わる(以下の後ろから二行目は、続きのように一字下げであるが、別な話である)。標題は「たべしま はやとみやうじん」と訓じておく。]

 

     田邉嶋隼人明神

 田邊嶋(たべしま)の隼人明神(はやとみやうじん)は、福留隼人(ふくとみはやと)の霊を祭るとかや。今は、此村の產神(うぶすながみ)に祭れり。

「此神の加護にて、田辺島の者に限り、反鼻(ハミ)に喰はれぬ。」[やぶちゃん注:「反鼻(ハミ)」はクサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシGloydius blomhoffii の俗名。博物誌は私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇(はみ) まむしへび 」の項を見られたい。]

と也(なり)。

 又、

「他所(よそ)の者も、守(まもり)を懷中すれば、反鼻の恐れなし。」

と、いへり。

 されば、此(この)隼人は、元親(もとちか)の士にて、武功有(ある)人也。

 或時、元親、宣(のたま)ひけるは、

「凡(およそ)、禍(ワザハヒ)・過(あやまち)をなすものは、酒也(なり)。身を害し、家を亂(みだせ)る者、勝(かつ)て言(いふ)べからず。今より、我(わが)領內(りやうない)にて、酒を吞(のみ)たる者あらば、罪科(つみとが)に行ふべし。」

と、堅く、法(はう)を出(いだ)されけるよりして、酒の賣買(ばいばい)、止(やみ)て、顏色(かほいろ)赤き者をば、人、疑(ウタガ)ひ、冠婚の悅(よろこば)しきにも、餅(もち)にて、いはひ、月花(つきはな)の遊びにも、只(ただ)、茶を吞(のみ)てぞ、樂(たのし)みける。

 斯(かか)りしかば、亂舞遊興の道、絕えて、いまは、しかりし國政也。

 爰(ここ)に福留隼人、所用の事、有(あり)て、私宅(わたくしたく)を出(いで)て、行(ゆく)所に、向ふより、樽(たる)を、かたげて[やぶちゃん注:担(かつ)いで。]、來(きた)る者、あり。

 隼人、見て、

「其(その)酒樽(さかだる)は、何方(いづかた)へ持行(もちゆく)ぞ。」[やぶちゃん注:底本では、最後の「ぞ」は「て」であるが、国立公文書館本69)では、『そ』であるので、濁音化して訂した。]

と尋れば、彼者、

「御城(ごじやう)の御用にて候。」

と、いひ捨(すて)て行くを、隼人、

「何條(なんでう)、『御城御用』と言(いふ)事や、ある。」

とて、飛掛(とびかか)り、奪(ば)ひ取(とり)て、樽を、二、三に、打碎(うちくだ)きて、言(いふ)。

「諸人(しょにん)の鑑(かがみ)と成(なる)人の、其(その)法を背(そむ)き、民を苦しめて、獨(ひとり)、樂しみ玉(たま)ふ事、無道(むだう)といふに、餘り有(あり)。一命をすてゝ、諫(いさめ)ずば、有(ある)べからず。」

と、獨言(ひとりごと)して、歸(かへり)ける。

 使(つかひ)の者、肝(きも)を消し、城中(じやうちゆう)へ走行(はしりゆき)、役人に向(むかひ)て、その次第を告(つぐ)る。

 老臣の面〻(めんめん)、大(おほき)に驚き、急ぎ、元親の前に出(いで)て、

「隼人、狂乱の躰(てい)、か樣(やう)か樣に候。」

と、謹(つつしみ)て申(まうし)ければ、元親、聞玉(ききたま)ひ、

「いやとよ、狂氣にあらず。又、隼人は非義をなすものに非(あら)ず。察するに、一命を捨て、元親を、强く諫(いさむ)る者也(なり)。天晴(あつぱれ)、元親は、果報のもの也(なり)。我家(わがいへ)、長久(ちやうきう)、疑ひ、なし。唐(もろこし)の王子(わうじ)比干(ひかん)に異(こと)ならず。尤(もつとも)、義、有(あり)、忠(ちゆう)、あり。臣(しん)たるものゝ、手本也(なり)。」

 感賞(かんしやう)し、頓(やが)て、酒を、ゆるして、在〻所〻(ざいざいしよしよ)へ觸(ふれ)られける。

「今度(このたび) 酒を禁ずる事 法令のあやまり也 依之(これより) 是(これ)を改めゆるす也(なり) 但(ただし)、亂酒(らんしゆ)すべからず」

元親     

 

[やぶちゃん注:「田邉嶋隼人明神」現在の高知市大津にある「福留隼人(ふくとめはやと)神社」である(グーグル・マップ・データ)。

「福留隼人」当該ウィキがある。福留親政(ふくどめちかまさ 永正八(一五一一)年~天正五(一五七七)年)は『戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。官位は飛騨守。隼人とも称した。別名は儀実』(「よしざね」か)。『父は福留房吉(福留蔵人)と推定されている。子に福留儀重、福留民部』、『福留平兵衛』、『福留右馬丞』、『福留新九郎』。『長宗我部国親の代から長宗我部家に使え』た『家臣』で、『長宗我部元親に「親」の一字を与えられるなど』、『信頼され、感状』(戦功のあった者に対して主家や上官が与える賞状)『を受けた数は』二十一『回に及び』、永禄六(一五六三)『年に元親が』積年の「本山(もとやま)氏攻め」(ウィキの「本山氏」を参照されたい。本山城跡はここ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)『に向かい』、『岡豊城』(おこうじょう:ここ)『の防備が手薄になった際』、『安芸国虎』(土佐安芸郡の国人。当該ウィキを参照)『が攻め』『くるも』、『撃退した』。「土佐物語」によると、二十『人切り』、「元親記」では、三十七『人切りをしたと伝わる。その働きぶりは』「福留の荒切り」『と呼ばれた。元親の嫡男の長宗我部信親の守役を務めるなど』『重用されていたが』、元親の伊予侵攻戦に『おいて戦死した』とある。この勇猛果敢の彼を祀ることから、本邦の最猛毒の蛇、マムシさえ怖れるという由縁を持つものである。オンチャン(とさっぽ)氏のブログ「南国土佐へ来てみいや」の「田辺島神社(隼人神社) マムシ(ハミ)も恐れる福留飛騨と隼人を祀る」のページに、本「南路志」のこの条を引かれ、『高知では、マムシのことをハミと言うがでして、土佐の童謡にも「蛇もハミ(マムシ)もそちよれ、隼人様のお通りじゃ」と歌われちゅうが。』『これは、息子の福留隼人さんの武勇伝承から、「ハミも恐れをなして逃げる」と歌われちゅう、一種の蛇(マムシ=ハミ)退治の御呪いながでして、神社の土を持つちょったらハミに咬まれる心配はないと信仰されちょるがです。』とあった。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 領家郷梅木村夜啼石

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。前回述べた通り、原書自体に綴じの際の乱丁が発生しており、リンク先の右丁はこれより後の部分である。標題は「りやうけがう うめのきむら よなきいし」と訓じておく。]

 

     領家郷梅木村夜啼石

 領家郷、梅木村に、「夜啼石」といふ、有(あり)。

 「不動が瀧」を去る事、十町[やぶちゃん注:訳一キロメートル。]斗(ばかり)、往來の大路(おほぢ)、有(あり)。其(その)傍(かたはら)に、大石(おほいし)、有(あり)ける。

 里人(さとびと)、傳言(つたへいふ)、

「昔、隣村(となりむら)の者、夫婦連れにて、梅木村へ來りて、歸る時、此(この)石の邊(あたり)にて、女房、俄(にはか)に產の氣(け)、有り。暫(しばらく)、休らふ中(うち)、石の下にて、子を產(うめ)り。夫(をつと)、介補(かいほ)して居(をり)たれども、素(もとよ)り、左右、深林にて、人家、遠く、折節(をりふし)、道行人(みちゆくひと)も、なければ、妻子を、大石の上に懷(いだ)き上げ、

「少(すこし)の間(あひだ)、爰(ここ)に待(まつ)べし。梅木村へ、走行(はしりゆき)て、飮食を所望(しよまう)して來(きた)るべし。」

とて、急ぎ行(ゆき)けるに、何所(いづこ)より來(きた)りけん、犲(ヤマイヌ)・狼(オヽかみ)の類(たぐ)ひ、競集(きそひあつま)りて、妻子ともに、喰ひ殺したる。」

とかや。

 其後(そののち)、夜ふけ、此道を通りけるもの、有(あり)。

 大石の邊りにて、赤子の啼(なく)聲(こゑ)す。

 不審に、おもひ、松火(たいまつ)にて探し見れども、人影、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。

『あやしき事。』

に、おもひ、かへりて、此事を語傳(かたりつた)へければ、村中(むらぢゆう)、夜毎(よごと)、聞(きき)に行(ゆき)しに、實(げに)も、赤子の啼(なく)こゑ也。

「扨は。日外(いつぞや/かつて)、妻子とも、山犬(やまいぬ)にくはれしと聞(きく)、彼(かの)妻子の亡靈成(なる)べし。」

とて、それより、「夜啼石」といふ、とかや。

 

[やぶちゃん注:「領家郷、梅木村」現在の高知市鏡梅ノ木(かがみうめのき:グーグル・マップ・データ)。平凡社『日本歴史地名大系』に拠れば、『永禄四年(一五六一)本山氏と長宗我部氏が対立した際、大黒神次郎は長宗我部氏に従って戦功をあげ、元親から「梅木名」を与えられた(同年五月二六日付「長宗我部元親所領宛行状」北野文書)』とあった。

「夜啼石」この石、現存する。検索の結果、ky_kochi氏のブログ「茶凡遊山記」の「蟹越え(いの町~旧鏡村)」(二〇一五年五月投稿)、及び、「古江道(旧鏡村~旧吾北村)」(二〇一九年十月投稿)でそこへ至る解説(ここにある悲話も記されてある)と画像が見られる。但し、後者の記事では、そこに映っている大きな石が本物ではなく、『実際には傍らにあるもう少し小さな岩が本物らしい』とあった。この場所、ストリートビューも通っておらず、実際の附近を探すことが不可能であり(というか、私が都道府県で実際に地面を踏んだことがない数少ない三つの内の一つ(残りは茨城県と滋賀県)とである高知県だが、まさにブログ主のようにバイクでも運転出来なければ、到底、行くことが出来ない場所なのだ。多分、貸し切りのタクシーでなら、行ってくれるかな)。多分、この中央附近(グーグル・マップ・データ航空写真)のどこかである。こうなってくると、逆に行きたくなるのが、私である。

「不動が瀧」「ひなたGPS」の国土地理院図で確認出来る。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 嶋彌九郎

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「しま やくらう」と訓じておく。]

 

     嶋彌九郎

 阿州[やぶちゃん注:「阿波國」。]、海部奈佐(あまべなさ)の湊に叢祠(ホコラ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])、有(あり)。

 長宗我部元親の弟に嶋弥九郎といふ人、有(あり)。

 病(やまひ)ありて、

「療用[やぶちゃん注:ママ。]の爲(ため)、京都へ登らん。」

とて、浦戶より、艤(ぎ)して、漕出(こぎいで)けるが、阿波の沖にて、俄(にはか)に、風、吹替(ふきかは)りければ、海部の奈佐の湊に舩掛(ふながか)りせられけるに[やぶちゃん注:この「海部の……」以下は、国立公文書館本67)で補填した。]、海部の城主、越前守、いかゞ[やぶちゃん注:この「ゞ」は同じく国立公文書館本で補填。]して聞(きき)たりけん、其勢(そのせい)、百騎斗(ばかり)にて押寄(おしより)、ときの聲を上げ、

「元親に宿意あり、同姓の㐧(おとと)[やぶちゃん注:「弟」の異体字。]なれば、人も、あまさず、討取(うちと)れや。」

とて、弓・鉄砲を放(はな)しかけて、責(せめ)ければ、弥九郎、病(やまひ)に卧(ふし)ながら、是を聞(きき)、主從、僅(わづか)三十余人、切先(きつさき)揃(そろ)へて、切(きつ)て出(いで)、枕を双(なら)べて、討死す。

「越前守、『元親に宿意有(あり)』とは、何事ぞ。」

と尋(たづぬ)るに、

「安喜備後守は、此(この)海部の一族なれば、安喜沒落のゝちは、安喜の落人(おちうど)、海部を賴(たより)て居(をり)たりけるが、『元親の㐧(おとと)成(なる)』由(よし)を聞(きき)て、主人の仇(かたき)を報(むくい)[やぶちゃん注:底本原本では、ここ以下の左丁の表裏分が、後の条の乱丁となってしまっている(原本の綴じ誤り)。本来の続きは次のコマの左丁に続く。]んため、越前守を進めて、討(うた)せける。」

とぞ。

 其後(そののち)、種々(しゆじゆ)、祟り、有(あり)て、奈佐の湊に祠(ほこら)を建(たて)、神に祭(まつり)ける。

 今も、その黨類(たうるい)の子孫、有(あり)て、

「此社(このやしろ)の邊りへ、行(ゆく)者あれば、忽(たちまち)、祟り、ある。」

とて、

「恐(おそれ)て、不行(ゆかず)。」

とかや。

 

[やぶちゃん注:「海部奈佐の湊に叢祠(ホコラ)、有」旧徳島県海部郡宍喰町(ししくいちょう)那佐村で、現在の宍喰町宍喰浦(グーグル・マップ・データ)。

「長宗我部元親」「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既出既注。

「弟に嶋弥九郎といふ人、有」島親益(しま ちかます ?~元亀二(一五七一)年三月四日(グレゴリオ暦換算一五七一年四月八日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で長宗我部国親の四男。長宗我部氏家臣。別名は親房。当該ウィキによれば、『父』『国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍した』。『しかし、病にかかり、播磨の有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため』、『阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした』(複数のネット記事では、かねてより長宗我部元親にかねてより反感を抱いていたとする。以上の本文では、それが真相とするようだ)海部(かいふ)城(グーグル・マップ・データ)『城主海部』『友光に襲われ』、一五七一年三月二十九日(これはユリウス暦の日付)『に病』(やまひ)『の身ながら』、『奮戦するも』、『討たれた。その後、元親は』、『弟の死に激怒し、海部城を攻略する』。『現在は徳島県海部郡海陽町の那佐神社に慰霊碑が建立されている』(この神社(グーグル・マップ・データ)が本文のそれであろうか。非常に新しくなった慰霊碑(サイド・パネル画像)がある)。『子孫の親典(』生年から『親益の子としては年齢が合わない』ので、『孫か一族と推定される。)は大坂の陣で豊臣方に参戦し』、『敗れたが、土佐藩』(第二代藩主山内忠義の時代)『での入牢を経て』、『土佐藩士に取り立てられた。しかし』、『下士に甘んじた』。『その後も島氏は土佐藩に仕え、明治維新後に長宗我部姓に復した。また』、『宗家が途絶えていたため、必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継いだ(明治時代に明治天皇から正統子孫と認められた)』とある。

「海部の城主、越前守」海部友光(生没年未詳)。当該ウィキによれば、かの『三好氏の家臣。阿波国海部城主』。『「海部町史」では鷲住王』(わしずみおう:「日本書紀」によれば、第十二代景行天皇の曽孫に当たり、履中天皇の皇后の兄であったが、今から千五百有余年前、宍喰地方に移住し、付近一帯の開発・統治をしたと伝えられる人物)『の末裔とされている』。『海部之親の子として誕生。永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『に友光によって海部城が築かれたという説がある』。以上の通り、『那佐湾に漂着した長宗我部元親の弟』『島親益を討つ。弟の死に激怒した元親により天正』三(一五七五)『年』、『及び』、『天正』五(一五七七)『年』『に海部城は落城した。その後、友光は紀伊国の縁者を頼って落ち延びたと伝えられるが、経緯は不明である』とある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 蜀茶

 

Tyanoki_20241005061101

 

からつばき

       今云加良豆波木

蜀茶

       蜀今四川之地

       出於此者皆佳

       如蜀椒蜀葵皆

       佳種也

 

五雜組云閩中有蜀茶一種足敵牡丹其樹似山茶而大

高者𠀋餘花大亦如牡丹而色皆正紅其開以二三月照

耀園林所恨者香稍不及耳

△按倭有唐海石榴者樹相似而葉狹長色淡不澤葉紋

 縱橫細似甃狀其花重辨大而正紅如牡丹所謂蜀茶

 是也伹枝朶柔靭葉亦不多而大木希也

凡本草綱目山茶花與海石榴不分別相混註之矣二物

 雖爲同類葉花之厚薄大異凡子生者皆單葉名山椿

 故採枝接之或六月揷於陰地則活

 

   *

 

からつばき

       今、云ふ、「加良豆波木」。

蜀茶

       「蜀」、今の四川の地≪にて≫、

       此《ここ》に出《いづる》者、皆、

       佳《よ》し。「蜀椒《しよくしせう》」

       ・「蜀葵《しよくき》」、皆、佳《よき》

       種なり。

 

「五雜組」に云はく、『閩中《びんちゆう》に、蜀茶、有《あり》。一種、「牡丹」に敵《てき》≪するに≫足《たる》。其の樹、「山茶《さんさ》」に似て、大≪にして≫、高き者、𠀋餘《あまり》。花の大いさも、亦、牡丹のごとして、色、皆、正紅。其れ、開《ひらく》こと、二、三月を以つてす。園林《ゑんりん》を照耀《てりかがやかす》。恨む所は、香《かをり》、稍《やや》、及ばざるのみ。』≪と≫。

△按ずるに、倭、「唐海石榴(《から》つばき)」と云ふ者[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、有り。樹、相似《あひに》て、葉、狹長《さなが》、色、淡《あはく》、≪光≫澤、≪あら≫ず。葉≪の≫紋、縱橫《たてよこ》、細《さい》にして、甃(いしだゝみ)≪の≫狀《かたち》に似たり。其の花、重辨《ぢゆうべん》≪にして≫大《だい》≪にて≫、正紅。牡丹のごとし。所謂る、「蜀茶」、是れなり。伹《ただし》、枝・朶《はなぶさ》、柔かに、靭(すな)へ、葉も亦、多からずして、大木、希れなり。

凡そ、「本草綱目」に、「山茶花(さゞんくは[やぶちゃん注:ママ。])」と「海石榴(つばき)」を分別せずして、相混《あひこん》じて、之れを註す。二物、同類爲《た》りと雖も、葉・花の厚薄《こうはく》、大《おほい》に異《い》なり。凡そ、子《たね》≪より≫生(は)へ≪る≫者は、皆、單葉《ひとへ》にして、「山椿《やまつばき》」と名づく。故、枝を採りて、之れを接《つ》ぐ。或いは、六月、陰地《かげのち》に揷(さ)せ≪ば≫、則ち、活《かつ》≪す≫。

 

[やぶちゃん注:この「蜀茶」というのは、いろいろと日中の記事を見るに、通常の茶とは異なる特殊な種の名前ではなく、現在の四川地方で、茶のある品種を、特別な方法で製した茶を指すことが判った。最初に見出したのは、販売店の作製するサイト「中国茶の世界(真如禅意精品流通)」の「■唐・宋茶詩」で、私の好きな白居易の茶を詠み込んだ「外寄新蜀茶」と別な三篇の詩句を引用し、「蜀茶」について、『蜀は現在の四川。蜀茶は四川蒙山茶を差します。若返りの効能があると言われていたので、古くから珍重されていました』と記されてあったので、決定的であった。同じ詩を掲げておられるJun氏のブログ「船橋市茶文化資料室」の「蜀茶~蒙頂黄小茶」には、四川省雅安市蒙頂山(同地区にある「蒙山茶史博物館」をポイントした)産の当該茶葉の写真があった。次いで、「維基百科」の「黄茶」を見たところ、「分類」の三番目に「黄芽茶」があり、その二番目に『四川の名山である蒙黄芽』の名が挙がっていた。さらに、そこにリンクがあった「蒙頂黄芽」(原題は『蒙黄芽』)には、それは『蒙頂山で生産される』もので、『形状は美しい平たい蕾(つぼみ)型をした、黄色を呈した御茶であり、蕾は均一で、微毛が多く、色は鮮やかな黄色』であり、『蒙頂山には多くの品種がある有名なお茶の産地で、中華民国初期には、主にここで黄芽が栽培され、「蒙頂黄芽」は「蒙頂茶」の代表となった』とあった。最後にウィキの「黄茶」があったので、それを引用しておく(注記号はカットした)。『黄茶(きちゃ、ホァンチャ/ファンチャ)は中国茶の一種』。『黄茶は一般的には弱後発酵茶(軽度の発酵を行ったお茶)として説明される事が多い。ただし茶業における「発酵」は酵素による酸化を指し、生化学的な意味での「発酵」ではない』。『一方、茶類の分類を定義を定めた「ISO 20715:2023 Tea — Classification of tea types」では』、『黄茶を製法の観点から以下のように定義している』。

tea (3.2) derived solely and exclusively, and produced by acceptable processes, notably enzyme inactivation, rolling/shaping, yellowing and drying, from the bud or bud and the tender shoots of varieties of the species Camellia sinensis (L.) O. Kuntze, known to be suitable for making tea for consumption as a beverage.

『(試訳)Camellia sinensis (L.) O. Kuntze—飲料として消費される茶を作るのに適していることが知られているの変種の芽もしくは芽と柔らかい苗条から、容認できる工程、とりわけ酵素の不活性化、揉捻/成形、悶黄、および乾燥によって唯一かつ排他的に得られ、製造された茶(茶の定義は3.2章を参照)。

  —ISO 20715:2023 Tea — Classification of tea types』。

『通常の中国緑茶とは異なる加熱処理を行うことと、その後牛皮紙に包み悶黄と呼ばれる熟成工程を経て作られることが』、『製造工程における特徴である。黄茶の加熱処理は低い温度から始まり、徐々に温度を上げ、その後徐々に温度を下げる。この処理法によって、茶葉の持つ酵素による酸化発酵が起こる。中国緑茶の場合、最初から高温に熱した釜に茶葉を投入するため、上記の酸化発酵は(一部、萎凋』(いちゅう)『を施す緑茶はあるが)基本的には起こらない。黒茶以外で発酵と呼ばれる青茶は、施される工程と発酵の度合いこそ違えど、酵素による酸化発による酵茶であることは共通している。また、黒茶以外で論ずると、一部の緑茶で萎凋を施すことを』勘案『すれば、この黄茶とは発酵茶の中では唯一萎凋を施さない種類といえる』。『工程で中途半端に酸化発酵した茶葉は、次に悶黄と呼ばれる黄茶独特の熟成工程を経る。この悶黄と呼ばれる工程、微生物による発酵という俗説があるが、これは間違いである。悶黄には微生物は一切関与しない。高湿度高温の環境下茶葉内のポリフェノールを中心とする成分が非酵素的に酸化される工程である。ポリフェノールおよび葉緑素(クロロフィル)は酸化されることで、緑から透明及び黄色へと変色する。これにより茶葉と水色がうっすらとした黄色になるため黄茶と呼ばれる』。『代表的な黄茶として君山銀針、霍山黄芽、蒙頂黄芽』(☜)『などが挙げられる。黄茶は清朝皇帝も愛飲したといわれ、中国茶の中でももっとも希少価値が高』く、百『グラム』一『万円を超えるものも決して珍しくはない』とあった。……と……ここで、二〇〇〇年に、妻が南京大学に日本語教師として一年勤めた際、訪ねた時、立ち寄った上海の茶葉店で、目ン玉が飛び出す高価な黄色い茶葉を見たのを、今更に思い出したわ……。

 なお、良安が言っている「唐海石榴(《から》つばき)」は、

ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属トウツバキ Camellia reticulata

で、ちゃいますなぁ。同種は、M.Ohtake氏のサイト「四季の山野草」の「トウツバキ」によれば、『中国雲南省に自生する常緑高木。唐時代から観賞用に栽培され、園芸種が多い。日本の自生ツバキのヤブツバキ、台湾のタイワンヤマツバキ』( Camellia hozanensis )『に近い仲間』とあった。

「蜀椒《しよくしせう》」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum の果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つ。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。

「蜀葵《しよくき》」アオイ亜科タチアオイ属タチアオイ Althaea rosea の中文名(「維基百科」を見よ)にして、本邦での同種の古名。

「五雜組」既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に、段落ごと、そのまま示しておく。

   *

閩中有蜀茶一種,足敵牡丹。其樹似山茶而大,高者丈餘,花大亦如牡丹,而色皆正紅。其開以二三月,照耀園林,至不可正視,所恨者香稍不及耳。然牡丹香亦太濃,故不免有富貴相。蜀茶色亦太艷,政似華清宮肥婢,不及昭陽掌上舞人也。

   *

「閩」現在の福建省を中心とした広域の地方旧名。

「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

『凡そ、「本草綱目」に、「山茶花(さゞんくは[やぶちゃん注:ママ。])」と「海石榴(つばき)」を分別せずして、相混《あひこん》じて、之れを註す。二物、同類爲《た》りと雖も、葉・花の厚薄《こうはく》、大《おほい》に異《い》なり。凡そ、子《たね》≪より≫生(は)へ≪る≫者は、皆、單葉《ひとへ》にして、「山椿《やまつばき》」『凡そ、「本草綱目」に、「山茶花(さゞんくは)」と「海石榴(つばき)」を分別せずして、相混《あひこん》じて、之れを註す。二物、同類爲《た》りと雖も、葉・花の厚薄《こうはく》、大《おほい》に異《い》なり。』東洋文庫の後注には、『良安は山茶花を「サザンカ」として「ツバキ」と区別しているが、『新註校定国訳本草綱目』(春陽堂、昭和五十年)や『日本中国植物名比較対照辞典』(東方書店、一九八八)では、『本草綱目』と同様、中国の山茶は日本の「ツバキ」に当るとしている。』とある。しかし、少なくとも、

「新註校定国訳本草綱目」第九冊の「山茶」の牧野富太郎(旧版)と北村四郎によるツバキ Camellia japonica の種同定は――これ――トンデモハップンあらまっちゃんで臍(べそ)の宙返り級の――大ハズレ誤比定同定――である

と言わざるを得ない。いやさ、国立国会図書館デジタルコレクションの当該部を御覧な(リンク先は標題のみ。次のページが、全本文)。標題に『和 名 つばき』『學 名 Camellia japonica L.』『科 名 つばき科(山茶科)』とある。さあて、お立ち合い! 「釋名」を見んさい! 時珍曰く、その葉は茗に類し、又、飮にもなる。故に「茶」なる名を呼ばれるのだ。』(「時珍」の太字は原本では傍点「○」)とあるぜ? 「茗」とは音「メイ・ミヤウ(ミョウ)」で、これ、「遅く採った茶の芽」を「茗」と呼ぶんだ! 本邦のツバキを語るのに、いの一番に――飲用に供する――と言うバカがどこにいる? 以下、植物名を見ろよ! 『海榴茶』・『石榴茶』・『躑躅茶(ていしよくちや)』・『官粉茶』(これは多分、「宮粉茶」が正しい)・『串珠茶(くわんじゆちや)』・『南山茶』とあるぜ? ツバキ類の花を愛でるなら、何故、一つも「~花」になっていなくて、一律、「~茶」なのよ? 極め付きは最後だ。『周憲王の救衆本草には『山茶は嫩葉』(わかば)『を𤉬熟(てふじゆく)』(「𤉬」は「煠」(「焼く・炒める・茹でる」の意)の異体字)『し、水で淘』(よなぎ:水で洗って不純物を選り分けて除去する)『つて食へる。また蒸し晒して飲にも作れる』ときたもんだ! このどこが、美しい花を愛でる「ツバキ」の説明なんだヨッツ!?! これは立派なツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis だべ!! 牧野「博士」先生、椿(つばき)の葉っぱで作ったお茶を、どうゾ!!!

2024/10/04

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 海石榴

 

Tubaki

 

[やぶちゃん注:左上方に葉の拡大図があり、その右手に『葉團長三寸』(「葉、團《まろく》、長さ三寸」)『幅一寸七八分』とキャプションがある。正しくヤブツバキであるが、葉脈の細部を同一の太さで描いたため、それらしくは、ちょっと見えないのが、難である。なお、左の中間部に明らかに細枝を部分画として描いてあるが、これは、本体と葉+キャプションの位置バランスから全体が右に傾いて見える錯覚が生じているのを、ガードするために添えたものであろうと私は推理する。]

 

つばき   椿【倭字】

      椿本喬木之類

海石榴 樗椿也與海石

      榴𮞉異

   【万葉集本朝式倭名抄

    皆用椿與海石榴訓

    豆波木其來尙矣】

[やぶちゃん注:この最後の割注の「本朝式」は「延喜式」の方が通りが良いので、訓読では、そちらで示しておいた。

 

△按海石榴卽山茶花之一種也樹葉花實似山茶花而

 大其實狀圓似無花果而老枯則殻四裂中子如海松

 子剥皮取仁搾取油謂木實油塗刀劔則不生鏽以拭

 𣾰噐則出艶塗髮亦艶美然髮不韌和麻油爲髮油佳

 伹千瓣者不結實其葩厚大艶美亞于牡丹芍藥惟恨

 其萎甚醜其落亦脆耳單瓣赤者名山椿此乃本源也

 白紅粉紅絞紅或白相半八重千瓣之數種不枚擧自

 秋生莟春開花冬開者名早開人以賞之凡伐椿𥄂木

[やぶちゃん字注:「𥄂」は「直」の異体字。]

 煖火則皮能剥肌滑也僧家以爲柱󠄁

[やぶちゃん字注:「柱󠄁杖」の「柱󠄁」は「柱」の異体字だが、これは「拄杖」(歴史的仮名遣の音で「シユヂヤウ」、現代仮名遣で「シュジョウ」。「拄」の(つくり)は「主」ではないので注意)の誤記で、「杖」、或いは、特に「禅僧が行脚の際に用いる杖」を指す。訓読では訂した。

 万葉 河上の列〻椿つらつらに見れどもあかすこせの春㙒は

 

   *

 

つばき   椿《つばき》【倭字。】

      椿は、本(もと)、喬木の類≪にして≫、

海石榴 「樗椿」なり。「海石榴」と≪は≫、

      𮞉《はるか》に異《い》なり。

   【「万葉集」・「延喜式」・「倭名抄」、

    皆、「椿」を用ひて、「海石榴」≪と孰れも≫、

    「豆波木《つばき》」と訓ず。其れ、來《きたれ》

    ること、尙《ひさし》。】

△按ずるに、「海石榴《つばき》」、卽ち、「山茶花《さざんくわ》」の一種なり。樹・葉・花・實、山茶花に似て、大きく、其の實の狀《かたち》、圓《まろ》く、「無花果(いちじゆく[やぶちゃん注:イチジクの本来の呼称である。])」に似て、老(ひね)て、枯《かるれ》ば、則ち、殻、四つに裂け、中≪の≫子《み》、海松(からまつ)の子のごとし。皮を剥ぎて、仁《たね》を取り、搾(しぼ)りて、油を取る。「木實油(きのみの《あぶら》)」と謂ふ。刀劔《たうけん》に塗れば、則ち、鏽(さび)を生ぜず。以つて、𣾰-噐(うるしぬり)を拭《ぬぐ》≪へば≫、則ち、艶《つや》を出《いだす》。髮に塗≪れば≫、亦、艶《つや》、美《び》なり。然《しか》れども、髮、韌(しな)へず。麻(ごま)の油を和(ま)ぜて、髮の油と爲《な》して、佳なり。伹《ただし》、千瓣《やへ》の者、實を結ばず。其の葩(はなびら)、厚く、大きに、艶、美≪なり≫。牡丹・芍藥に亞《つ》ぐ。惟《ただ》、恨《うらむ》らくは、其《それ》、萎(しぼ)む時[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、甚だ醜(みにく)し。其《それ》、落《おつ》るも亦、脆(もろ)きのみ。單瓣(ひとへ)の赤き者を、「山椿《やまつばき》」と名づく。此れ、乃《すなはち》、本源《ほんげん》なり。「白」・「紅」・「粉紅《ふんこう》」[やぶちゃん注:桃色。]・「紅《べに》絞《しぼ》り」、或いは、「≪紅と≫白≪と≫相《あひ》半《なかば》≪する者(もの)≫」、「八重《やへ》」・「千瓣《せんべん》」の數種、枚擧せず。秋より、莟(つぼみ)を生じ、春、花を開き《✕→く》。≪別に≫、冬、開く者を、「早開(はやざき)」と名づく。人、以つて、之れを賞す。凡そ、椿の𥄂(すぐ)なる木を伐《きり》、火≪に≫煖《あたた》むれば、則ち、皮、能《よく》、剥《はげ》て、肌、滑《なめらか》なり。僧家《そうけ》、以つて、拄-杖《しゆじやう》と爲《なす》。

 「万葉」

   河上《かはのへ》の

      列〻(つらつら)椿《つばき》

     つらつらに

    見れどもあかず

          こせの春㙒《はるの》は

 

[やぶちゃん注:良安が、図らずも、直前の「山茶花」のリベンジをしたもので、今度こそ、真正の、

双子葉植物綱離弁花亜綱ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属ヤブツバキ(=ツバキ:薮椿・藪海石榴) Camellia japonica

である。同種は既にそちらで述べたので、繰り返さない。

「樗椿」これは、最初にエラく困らせられた「椿(チン)」で探り当てた、

ムクロジ目ニガキ科ニワウルシ属ニワウルシ Ailanthus altissima

のこととであろうと断ずる。そちらの同定比定候補「◎②―Ⅱ」を冠した以下の私の解説を見られたい。もう、あの苦しみは、思い出したくないのである。悪しからず。

「倭名抄」「巻第二十」の「草木部第三二」の「木類第二百四十八」に(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板の当該部の訓点を参考に訓読した)、

   *

椿(ツバキ) 「唐韻」に云はく、『椿【「勅」「倫」の反。和名「豆波木」。】、木の名なり。』と。「楊氏漢語抄」に云はく、『海石榴【和名、上に同じ。「本朝式」等に、之れを用ふ。】。』と。]

「其れ、來《きたれ》ること、尙《ひさし》」「以上の「つばき」の訓読みの習慣は、そのようになってより、まことに、久しく永いのである。」の意。

「山茶花《さざんくわ》」ここは良安の言であるから、ツバキ属サザンカ Camellia sasanquaである。

「無花果(いちじゆく)」バラ目クワ科イチジク属イチジク Ficus carica 。なお、イチジクの博物誌と「イチジク」の語源については、しばしばお世話になる個人のサイト「GKZ植物事典」の「イチジク(無花果)について」で、恐るべき詳細を語っておられるので、是非、読まれたい。

「海松(からまつ)」これは、最終的に、海岸に生えている(同種は、山地に植生するが、しばしば、風の強い海岸地で防風形態をとって植生(植材)しているからである)、

裸子植物門マツ綱マツ目マツ科カラマツ属カラマツ Larix kaempferi

と採ることにした。実は、当初、浅海性の、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱ツノサンゴ(黒珊瑚)目 Myriopathidae 科 Myriopathes 属ウミカラマツ Myriopathes japonica

を考えたのだが、同種では、どこの、どこも、到底、ツバキの実の種子がミミクリーし得る部位がないことは、日を見るより明らかだからである。「良安が、ウミカラマツなんて、知らんだろう。」という御仁ために、というか、良安の博学を知らぬ方への注意喚起のために、言っておくと、彼は「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の中で、「うみまつ 水松」を立項し、『石帆〔(せきはん)〕 水松』『【二物、同類なり。俗に「海松(うみまつ)」と云ふ。】』と記して、以下、「本草綱目」を引いているのである。

「韌(しな)へず」ガチっと固めて呉れることを言う。

「千瓣《やへ/せんべん》」後で『「八重《やへ》」・「千瓣《せんべん》」』と分離して出るので、かく読みダブルで振った。

「牡丹」ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa

「芍藥」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora

「山椿《やまつばき》」「藪椿」とともにツバキの漢字異名。

「本源」現在の原種・タイプ種。

「万葉」「河上《かはのへ》の列〻(つらつら)椿《つばき》つらつらに見れどもあかずこせの春㙒(はるの)は」「つらつら」は原本でちゃんと「ツラツラ」と振ってある。これは「万葉集」の巻頭「卷第一」の「雜歌」の春日藏首老(かすがのくらのおびとおゆ)の一首(五六番)で、二首前の別人の前書から、大宝元(七〇一)年秋九月の持統天皇の紀伊國(きのくに)に行幸の際に詠まれたものである。

   *

    或る本の歌

 河の上(へ)の

      つらつら椿

       つらつらに

     見れども飽かず

           巨勢(こせ)の春野は

   *

「巨勢」は現在の奈良県御所市古瀬(こせ:グーグル・マップ・データ航空写真)。この「コセ」は曾我川上流の巨勢(こせ)渓谷の総称で、「許湍」「許世」「許勢」とも書いた。中世までは高市・葛上両郡に亙り、近世に葛上(かつじょう)郡となった。但し、この「椿」はサザンカであるとする説もある。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 山茶花

 

Tyanoki

[やぶちゃん注:この絵はサザンカですな。] 

 

ささんくは  左牟佐久波

        字之音也

       誤如曰茶山花

山茶花

サン チヤアヽ

 

本綱山茶花產南方高者丈許枝幹交加葉頗似茶葉而

厚硬有稜中闊頭尖靣綠背淡代茶可作飮故得茶名深

冬開花紅瓣黃蕋有數種 寳珠花【花簇如珠最勝】 海榴茶花

【花青色】 石榴茶【中有碎花】 躑躅茶花【花如杜鵑花】 官粉茶花 

串珠茶【皆粉紅花】 有一捻紅千葉紅千葉白等葉各少異或

云亦有黃色者

南山茶花【出于廣州】大倍中國者色微淡葉薄有毛結實如梨

大如拳中有數核如肥皂子大

遵生入牋云山茶花如磬口外粉紅色者十月開二月方

[やぶちゃん字注:書名「遵生入牋」は「遵生八牋」の誤刻。訓読文では訂した。]

 已有數種 鶴項茶花【如碗大紅如羊血中心塞滿如鶴項】 瑪瑙茶花【有黃紅白粉四色爲心而大紅爲盤】

△按山茶花其樹葉花實與海石榴同而小其葉如茶葉

 其實圓長形如梨而有微毛可小梅大老則裂中有核

 三四顆搾油多於海石榴凡種子者必不佳可接枝凡

 山茶花冬爲盛海石榴花春爲盛【遠州有山茶花大木周三尺餘髙三丈余】

 

   *

 

さざんくは  「左牟佐久波《さんさくは》。」、

         字の音(おん)なり。

        誤りて、「茶山花(さざん《くわ》)」

        と曰ふがごとし。

山茶花

サン チヤアヽ

 

「本綱」に曰はく、『山茶花《さんちやくわ》、南方に產≪す≫。高き者、丈許(ばかり)。枝・幹、交加《かうか》[やぶちゃん注:混じり合うこと。]≪し≫、葉、頗《すこぶ》る、茶の葉に似て、厚硬《あつくかたし》。稜(かど)、有り、中《なか》≪は≫闊(ひろ)く、頭《かしら》、尖《とが》り、靣《おもて》、綠、背、淡(うす)し、茶に代へて、飮《のみもの》と作《な》すべし。故、「茶」の名を得《う》。深冬《しんとう》[やぶちゃん注:真冬。]、花を開く。紅≪の≫瓣《はなびら》≪にして≫、黃≪の≫蕋《しべ》。數種、有り』、『「寳珠花《はうじゆくわ》」【花、簇《むれ》、珠《たま》のごとき、最も勝れり。】』、『「海榴茶花《かいりうさくわ》」【花、青色。】』、『「石榴茶《せきりうさ》」【中《なか》に碎花《さいくわ》、有り。】』、『「躑躅茶花《てきちよくさくわ》」【花、「杜鵑花《とけんくわ》」のごとし。】』、『「官粉茶花」』、『「串珠茶《くわんしゆさ》」【皆、粉紅《ふんこう》[やぶちゃん注:中国語で桃色(ピンク)の色名。]≪の≫花≪なり≫。】』。≪又、≫『一捻紅《いちねんこう》・千葉紅《やへべに》・千葉白《やへしろ》等、有り。葉、各《おのおの》[やぶちゃん注:原文には右下に踊り字「〱」が打たれてある。]、少し、異《こと》なり、或いは、云ふ、『亦た、黃色の者、有り。』≪と≫。』≪と≫。

『「南山茶花」【廣州[やぶちゃん注:現在の広東省、及び、その西の広西チワン族自治区(前者は狭義には広州市)相当。]に出づ。】、大いさ、中國[やぶちゃん注:明の首都は北京であり、中国北部と中部を主たる「中國」本土として、南方地方を差別化した言い方。]の者に倍す。色、微《やや》、淡《あはく》、葉≪は≫薄く、毛、有り。實を結ぶこと、梨のごとく、大いさ、拳(こぶし)のごとし。中《なか》に、數《すう》≪個の≫核《たね》有りて、「肥皂子《ひさうし》」の大いさのごとし。』≪と≫。

「遵生八牋《じゆんせいはつせん》」に云はく、『山茶花《さんちやくわ》、磬口《きんこう》のごとく、外《そと》≪の≫粉紅色《ふんこういろ》の者、十月、開き、二月、方《ま》さに已《や》む。數種、有り』、『「鶴項茶花」【碗《わん》の大いさのごとく、紅《くれなゐ》、羊の血のごとし。中《なか》の心《しん》、塞《ふさぎ》、滿《みち》、鶴の項《うなじ》のごとし。】』、『「瑪瑙茶花」《めなうさくわ》【黃・紅・白粉の四色、有り、心《しん》を爲《な》して、大なる紅の盤《ばん》を爲す。】。』≪と≫。

△按ずるに、山茶花《さざんくわ》、其の樹・葉・花・實、「海石榴(つばき)」と同じくして、小さし。其の葉、茶の葉のごとし。其の實、圓《まろ》く、長し。形、「梨」のごとくして、微毛《びもう》、有り。小梅の大いさ可(ばかり)≪なり≫。老《らう》すれば、則ち、裂けて、中《なか》≪に≫、核《たね》、有り、三、四顆《くわ》。油を搾(しぼ)れば、海石榴(つばき)より、多し。凡そ、子(たね)を種《うう》るは、必ず、佳(よ)からず、枝を接(つ)ぐべし。凡そ、山茶花《さざんか》、冬を盛りと爲《な》し、「海石榴(つばき)」の花は、春を盛《さかり》と爲す【遠州に山茶花の大木、有り。周《めぐり》三尺餘、髙さ、三丈余。】。

 

[やぶちゃん注:既に何度も示しているが(特にツバキならざるチャンチンである「椿」を参照されたい)、良安は総ての「山茶花」を「さざんくわ」と訓じていると考えられるのだが、残念なことに、中国語の「山茶花(さんさくわ)」は、

双子葉植物綱離弁花亜綱ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

ではない。本邦の「サザンカ」相当の「維基百科」の標題は「茶梅」である。

○ツバキ属ヤブツバキ(=ツバキ:薮椿・藪海石榴) Camellia japonica

を指す。「維基百科」の「ヤブツバキ」相当の標題は「山茶花」である(なお、本書の次の項は「海石榴」で引用なしの良安の解説のみの真正のヤブツバキ記載となっている)。

 かなり長いが、私はツバキの花が好きなので、苦にならないから、ウィキの「ツバキ」を引く(注記号はカットした)。『和名ツバキの語源については諸説あり、葉につやがあるので「津葉木」とする説や、葉が厚いので「厚葉木」と書いて語頭の「ア」の読みが略されたとする説などがあり、いずれも葉の特徴から名付けられたとみられている。数多くの園芸品種が栽培されているツバキの、日本における海岸近くの山中や、雑木林に生える代表的な野生種をヤブツバキとよんでいる』。『植物学上の種(標準和名)であるヤブツバキ』『の別名として、一般的にツバキと呼んでおり、また』、『ヤマツバキ(山椿)の別名でも呼ばれる。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であっても』、『サザンカを椿と呼ぶことはあまりない。なお、漢字の「椿」は、中国では霊木の名で、ツバキという意味は日本での国訓である。ヤブツバキの中国植物名(漢名)は、紅山茶(こうさんちゃ)という』。『「椿」の字の音読みは「チン」で、椿山荘などの固有名詞に使われたりする。なお「椿」の原義はツバキとは無関係のセンダン科の植物チャンチン(香椿)であり、「つばき」は国訓、もしくは、偶然字形が一致した国字である。歴史的な背景として、日本では』、天平五(七三三)年に完成した「出雲風土記」に(ウィキの本文では成立年を誤っている)『すでに椿が用いられている。その他、多くの日本の古文献に出てくる。ツバキの古名はカタシである』。『中国では隋の王朝の第』二『代皇帝煬帝の詩の中で椿が「海榴」もしくは「海石榴」として出てくる。海という言葉からもわかるように、海を越えてきたもの、日本からきたものを意味していると考えられる。榴の字は、ザクロを由来としている。しかしながら、海石榴と呼ばれた植物が本当に椿であったのかは』、『国際的には認められていない。中国において、ツバキは主に「山茶」と書き表されている。「椿」の字は日本が独自にあてたものであり、中国においては』、『椿といえば、「芳椿」という東北地方の春の野菜が該当する』。『英語では、カメリア・ジャポニカ( Camellia japonica )と』、『学名がそのまま英語名になっている珍しい例である』。十七『世紀にオランダ商館員のエンゲルベルト・ケンペルがその著書で初めてこの花を欧州に紹介した。後に』十八『世紀にイエズス会の助修士で植物学に造詣の深かったゲオルク・ヨーゼフ・カメルはフィリピンで』、『この花の種を入手してヨーロッパに紹介した。その後』、『有名なカール・フォン・リンネがこのカメルにちなんで、椿の属名にカメリアという名前をつけ、ケンペルの記載に基づき「日本の」を意味するジャポニカの名前をつけた』。『日本原産。日本では北海道南西部、本州、四国、九州、南西諸島、日本国外では朝鮮半島南部と中国、台湾が知られる。本州中北部にはごく近縁のユキツバキ』( Camellia rusticana )『があるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで自然分布し、ユキツバキは』、『より内陸標高の高い位置にあって住み分ける。主に海沿いや山地に自生する。北海道の南西部(松前)でも、各所の寺院や住宅に植栽されたものを見ることができる。自生北限は、青森県津軽郡平内町の夏泊半島で、椿山』(つばきやま:ここ。グーグル・マップ・データ)『と呼ばれる』一『万株に及ぶ群落は、天然記念物に指定されている』。『常緑性の低木から小高木で、普通は高さ』五~十『メートル』『前後になり、高いものでは樹高』十五メートル『にもなる』。但し、『その成長は遅く、寿命は長い。樹皮は黄褐色や淡灰褐色でなめらかであり、灰白色の模様があり、時に細かな突起がまばらに出る。枝はよく分かれて茂る。若い枝は褐色で無毛である。冬芽は互生する葉の付け根にでき、花芽は丸くて大きく、葉芽は小さな長楕円形で細く先端はとがり、円頭の鱗片が折り重なる。鱗片の外側には細かい伏せた毛がある。鱗片は枝が伸びると脱落する』。『葉は互生し、長さ』五~十二『センチメートル 』、『幅』四センチメートル『ほどの楕円形から長楕円形で、先端は短く尖り、基部は広いくさび形、葉縁には細かい鋸歯が並ぶ。葉質は厚くて固く、表面は濃緑色でつやがあり、裏面はやや色が薄い緑色で、葉身・葉柄ともに無毛である』。『花期は冬から春(』二月~四月『)で、早咲きのものは冬さなかに咲く。花は紅色あるいは紅紫色の』五『弁花で、枝の先の葉腋から』一『個ずつ下向きに咲かせる』。『花弁は長さ』三~五センチメートル『で半開きに筒状に咲き、平らには開かない』。一『枚ごとに独立した離弁花だが』、五『枚の花弁と多くの花糸のつけ根が合着した筒形になっていて、散るときは花弁と雄しべが一緒に落花する』。『果実は球形で』、十~十一『月に熟し、実が』三『つに裂開して、中から』二~三『個の黒褐色の種子が出てくる。冬も裂開した分厚い果皮が樹の下に見られる』。『ツバキ(狭義のツバキ。ヤブツバキ)とサザンカはよく似ているが、ツバキは若い枝や葉柄、果実は無毛であるのでサザンカとは区別がつく。また次のことに着目すると見分けることができる。ただし、原種は見分けやすいが、園芸品種は多様性に富むので見分けにくい場合がある』。『ツバキは花弁が個々に散るのではなく』、『萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるが(花弁がばらばらに散る園芸品種もある)、サザンカは花びらが個々に散る』。『ツバキは雄しべの花糸が下半分くらいくっついているが、サザンカは花糸がくっつかない』。『ツバキは、花は完全には平開しない(カップ状のことも多い)。サザンカは、ほとんど完全に平開する』。『ツバキの子房には毛がないが(ワビスケには子房に毛があるものもある)、サザンカ(カンツバキ・ハルサザンカを含む)の子房には毛がある』。『ツバキは葉柄に毛が生えない(ユキツバキの葉柄には毛がある)。サザンカは葉柄に毛が生える』。『ツバキの花期は早春に咲くのに対し、サザンカは晩秋から初冬(』十~十二『月)にかけて咲く』(太字は私が附した)。『琉球列島から台湾のものをタイワンヤマツバキあるいはホウザンツバキ( C. j. subsp. hozanensis )としたこと、あるいは屋久島のものは果実が大きく果肉が厚いことからリンゴツバキ( C. j. var. macrocarpa )として分けたこともあるが、それぞれに中間型もあり、分けないことも多い』。『島根県以北の日本海側の山地の多雪地帯には近縁種のユキツバキ( Camellia rusticana )があり、種内変異として変種( C. j. var. rusticana など)ないし亜種( C. j. subsp. rusticana )とされたこともある。ユキツバキは高さ』二センチメートル『ほどで、開花は雪が消える』四『月下旬から』五『月ごろになる』。『ヤブツバキ以外の原種など別種については「ツバキ属」を参照』。『ヤブツバキは園芸品種の母種でもあり、他家受粉で結実するため、また近縁のユキツバキなどと容易に交配するために花色・花形に変異が生じやすいことから、古くから選抜による品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、江戸・上方(京都)・加賀・中京・肥後などの地域ごとに育成された品種が作られた』。『なお、「五色八重散椿」(ごしきやえちりつばき)のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がバラバラに散る園芸品種もある。 散る性質は、サザンカから交雑種のハルサザンカ』( Camellia × vernalis )『を介して浸透交雑した物と思われる』。十七『世紀に日本から西洋に伝来すると、冬にでも常緑で、日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、現在でも多くの品種が作出されている』。『花色は赤色と白色があり、それぞれ紅椿、白椿と呼ばれるほか、作出されたツバキには一重咲きから八重咲き、斑入りの品種もあり、その数は極めて多数ある』。『ワビスケ(侘助)』( Camellia wabisuke )『は茶花としてよく知られているが、ワビスケツバキ品種群は太郎冠者(有楽椿)の子孫から成立し、太郎冠者は中国南部原産のCamellia pitardii var. pitardiiと、日本のヤブツバキを花粉親とする交雑種であることが葉緑体DNA解析などで示されている』。以下、「園芸品種の古木」と「花容による品種」の項があるが、省略する。以下、「地域による品種」の項。『江戸のツバキ』――『徳川幕府が開かれると、江戸に多くの神社、寺院、武家屋敷が建設された。それにともない、多くの庭園が営まれ、ツバキも植栽されていった。ことに徳川秀忠が吹上御殿に花畑を作り、多くのツバキを含む名花を献上させた。これが江戸ツバキの発祥といわれる』。「武家深祕錄」の慶長一八(一六一一)年(「大坂冬の陣」の前年)『には』『將軍秀忠花癖あり名花を諸國に徴し、これを後吹上花壇に栽ゑて愛玩す。此頃より山茶(ツバキ)流行し數多の珍種をだす』と『ある。権力者の庇護をうけて、ツバキは武士、町人に愛されるようになった。江戸ツバキは花形、花色が豊富で、洗練された美しさをもつ、一重では清楚な「蝶千鳥」「関東月見草」「蜀紅」、唐子咲きでは「卜伴」』(ぼくはん)、『八重では蓮華咲きの「羽衣」「春の台」「岩根絞」など』がある。『上方のツバキ』――『古来、都がおかれた上方でもツバキは古くから愛玩されてきた。ことに江戸期には徳川秀忠の娘東福門院和子を中宮として迎えた後水尾天皇や誓願寺の安楽庵策伝などの文化人がツバキを蒐集した。寛永』七(一六三〇)年『には安楽庵策伝によって「百椿集」を著した。さらに寛永』一一(一六三四)年『には烏丸光広によって』「椿花圖譜」が』『著され、そこには』六百十九『種のツバキが紹介されている。現在でも京都周辺の神社仏閣には銘椿が多い。品種としては「五色八重散椿」「曙」「菱唐糸」など。上方のツバキは変異の多いユキツバキが北陸から導入されたことと、京都、大坂の人々の独自の審美眼によって選抜されたことに特色がある』。『尾張のツバキ』――『江戸時代より名古屋を中心に育成されてきた品種群は、一重、筒咲き(または抱え咲き、椀咲き)、小中輪の茶花向きのものが多いのが特徴である。「関戸太郎」「窓の雪」「紅妙蓮寺」「大城冠」などがあるほか、名古屋好みの豊満な花容のものもある。近隣の三河、伊勢、美濃のものとあわせて「中部ツバキ」とも呼ばれている』。『加賀のツバキ』――『北陸各地に誕生したユキツバキ系の品種の京都の中継地として、この地は園芸の隆盛の大きな役割を果たした。茶の湯のさかんな土地柄ゆえに茶花向けの品種が多く、旧家の庭に多くの銘木がある。代表的な品種には「東方朔」「ことじ」「祐閑寺名月」などがある』。『富山、越後のツバキ』――『ユキツバキの自生地であることから、変化に富んだ選抜品種や、ヤブツバキとの交配によるユキツバキ系の品種が古くから栽培されてきた。氷見市老谷の「さしまたの椿」のような巨木も多い。代表的な品種に「大日の暁」「雪白唐子」「栃姫」「千羽鶴」など』。『山陰のツバキ』――『「つばきのふるさと」と言われるほどの自生地の多い地域である。古くから品種改良が盛んで、ことに江戸期松江藩がおかれてから盛んになり松平不昧は各地からツバキを集めた。萩から松江にかけて清楚な一重咲きが作られ愛好されている。代表的な品種は「花仙山」「意宇(おう)の里」「角(すみ)の光」など』。『久留米のツバキ』(記載なし)。『肥後のツバキ』――『肥後椿(ひごつばき)は、肥後・熊本藩の大名だった細川家にて、育種・保存されていた系統で、かつては門外不出であったが、現在では苗木が販売され、愛好者が多い。鉢植え・盆栽として栽培され、花は大輪一重で、梅蕊(ばいしん)咲きという花形で、花の中心から多数のおしべが放射状に広がり、赤・白・ピンクやその絞り咲きの花の色と、黄色のおしべとのコントラストが非常に美しい。肥後六花の一つ』。以下、「利用」の項。『庭木に良く植えられ、種子からとれる椿油は上質で、整髪用や養毛剤に用いる。材はかたく緻密で、ツゲ材と同様に木具材や細工物に使われる。材の灰は、紫根染の媒染剤になる』。『庭木として良く植えられ、住宅等の植栽では』、『防音の機能を有する樹種(防音樹)として知られる。植栽適期は』三』~『四『月上旬』、六『月下旬』から七『月上旬』、七『月とされる。日当たりが良く乾燥した場所は好まない性質で、やや湿った半日陰に植栽する。土壌の質は砂壌土で、そこに根を深く張る。施肥は』一『月』から三『月上旬と』、五『月下旬』から七『月に、剪定は』二『月下旬』から三月と、五『月』、八『月に行う』。『ツバキは生長すると樹高』二十メートル『ほどになるが、日本のツバキの大木は』、『ほとんど伐採され、最後の供給地として屋久島からも切り出されたが、現在では入手の難しい材である。大木は入手しにくいので、建築用にはあまり使われない。木質は固く緻密、かつ均質で、木目は余り目立たない、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から、工芸品、細工物などに使われる。代表的な用途は印材や将棋の駒、櫛、楽器、そろばんの玉などである。近年は合成材料の判子が多くなったが、椿材は、ツゲ』(ツゲ目ツゲ科ツゲ属ツゲ変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica )『材に次ぐものとして、安価な印鑑などに利用されていた』。現行の公的な『樹の法定耐用年数は』二十五『年となっ』ている。『日本酒の醸造には木灰が必要で、ツバキの木灰が最高とされている。また、アルミニウムを多く含むことから、古くは紫根染の媒染剤として、染色用にも用いられた。しかし、ツバキが少ないため、灰の入手は難しい』。『ツバキの木炭は品質が高く、昔は大名の手焙りに使われた』。『椿油は、種子(実)熱を加えずに押しつぶして搾った油で、「東の大島、西の五島」の名産品としてもよく知られている。高級食用油、機械油、整髪料、養毛剤として使われるほか、古くは灯りなどの燃料油としてもよく使われた。ヤブツバキの種子から取る油は高価なため、同じくツバキ属の油茶などから搾った油もカメリア油の名で輸入されている。また、搾油で出る油粕は川上から流して、川魚、タニシ、川えび等を麻痺させて捕獲する毒もみ漁に使われた』。以下「薬用」の項。『花を山茶花(さんちゃか)、葉を山茶葉(さんちゃよう)、果実を山茶子(さんちゃし)と称して薬用にする。花は天日乾燥して生薬にし、葉は随時採って生を用い、果実は圧搾して油を採る。葉のエキスが止血薬になる』。『葉にはタンニンとクロロフィル(葉緑素)などが、花にはアントアチニン、ユゲノール、ブドウ糖、果糖、蔗糖、マルトースなどを含む。また』、『種子には、オレイン酸、パルミチン酸、ステアリン酸、配糖体のカメリン、カメリアサポニンなどを含』み、『タンニンは収斂作用、クロロフィルには肉芽の発生作用があることから傷薬に用いられ、花は滋養保健、種子から採れる椿油は精製して育毛剤、軟膏基剤の原料に使われる』。『民間療法では、切り傷、腫れ物に花や生葉を揉んだり、かみつぶしてつけたり、蒸し焼きした生葉に椿油をつけて冷ました後に患部につける。花を干したものを細かく刻み、小さじ』一『杯ほどをカップに入れて熱湯を注いで、蜂蜜などで調味したものを飲むと、滋養保健や便通に役立つとされる。椿油は昔から養毛料として使われていたもので、洗髪に使うと』、『サポニンが汚れを落として、頭部にできた湿疹、かぶれに良く、養毛に役立つ』。以下「食用」の項。『花を採って、根元側から甘い蜜を吸うことができる』(私も、少年の頃は、よく吸ったものだった)。『花は食用にでき、採取時期は暖地が』二~三『月、寒冷地で』三~四『月ごろ』が『適期とされ』、六『分から』七『分咲きの花を摘み取って利用する。食味は花にかすかな甘味があるが、渋みが強い。ごみや萼の部分を取り去ってから、生のまま丸ごと天ぷらにすると、花蜜由来の甘味がある。また、さっと茹でて水にさらし、おひたしや酢の物にしたり、花芯をとって花びらだけをさっと湯通しして、花の色がやや黒ずむが』、『甘酢漬けにする』。『ツバキは葉や枝も観賞の対象になる』。葉の『斑』(ふ)『入りの園芸品種「越の吹雪」』があり、『覆輪または散り斑が入る』。『江戸時代には好事家たちが、葉の突然変異』(ウイルスの感染によって葉に斑(ふ)のような模様が入ったもの)『を見つけ出し、選抜育成して観賞した』。『ツバキの花は古来から日本人に愛され』、「万葉集」の』頃『からよく知られ、京都市の龍安寺には室町時代のツバキが残っている』。『茶道でも大変珍重されており、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」の異名を持つ。美術や音楽の作品にもしばしば取り上げられている』。『ツバキの花は花弁が基部でつながっており、多くは花弁が個々に散るのではなく、萼を残して』、『丸ごと』、『落ちる。それが、人の首が落ちる様子を連想させるために忌み、日本においては屋敷内に植えない地方があったり、病人のお見舞いに持っていくことはタブーとされている。この様は古来より落椿(おちつばき)とも表現され、俳句においては春の季語である』。『縄文時代の遺跡鳥浜貝塚にて、ヤブツバキを加工した赤色漆塗櫛』『が出土している。その他にも杭、石斧の柄、魚掛用尖り棒、板、棒などの様々な加工品が出土している』。『ツバキは』「日本書紀」に『おいて、その記録が残されている。景行天皇が九州で起こった熊襲の乱を鎮めたおり、土蜘蛛に対して「海石榴(ツバキ)の椎」を用いた。これはツバキの材質の強さにちなんだ逸話とされており、正倉院に納められている災いを払う卯杖もその材質に海石榴が用いられているとされている』。先に示した「出雲風土記」には『海榴、海石榴、椿という文字が見受けられる。しかし、これらが現在のツバキと同一のものであるかについては議論の余地がある』。「万葉集」では、ツバキが使用された歌は』九『首ある』が、『サクラ、ウメといった』『題材と比較すると』、『数は多くない』。「源氏物語」に於いても、『「つばいもち」として名が残されている程度であり、室町時代まで』、『さほど芸術の題材として注目された存在ではなかった。しかし、風雅を好む足利義政の代になると、明から』、『椿堆朱盆、椿尾長鳥堆朱盆といった工芸品を数多く取りよせ、彫漆、螺鈿の題材としてツバキが散見されるようになった。また、豊臣秀吉は茶の湯にツバキを好んで用い、茶道においてツバキは重要な地位を占めるようになる。江戸時代に入ると』、『さまざまな花が観賞の対象になったが、椿も例外ではなかった。二代将軍徳川秀忠がツバキを好み、そのため』、『芸術の題材としてのツバキが広く知られるようになった。この時期、伝狩野山楽筆』「百椿圖」『(根津美術館所蔵)が描かれた。これは数ある品種の椿を』、『それぞれフラワー』・『アレンジメントのように描き、それらに烏丸光広、林羅山、水戸光圀ら公家、儒学者、大名といった文化人たちが漢詩、和歌の賛を書き添えた絵巻物である。以後、絵画、彫刻、工芸品のモチーフとしてツバキが定着する。ツバキの栽培も一般化し、園芸品種は約』二百『種にも及んだ』。『西洋ヨーロッパでは』十七『世紀末に園芸植物として大流行し』、十九『世紀の小説』「椿姫」(‘ La Dame aux camélias ’:アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils:小デュマ)の小説(一八四八年)、またそれを原作とするジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi)のオペラ‘ La traviata ’(ラ・トラヴィアータ:「道を踏み外した女」。一八五三年初演))『にも主人公のヒロインが好きな花として登場する。西洋で園芸家に注目されたのは、ヤブツバキが花とともに、葉が常緑で地中海地方の樹木にはないツヤが見栄えすることが認められたのではないかとする説が言われている』。『年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある』。『花がポトリと落ちる様子から、馬の世界においても落馬を連想させるとして、競馬の競走馬や馬術競技馬の名前としては避けられる。特に競馬では、過去にはタマツバキの様な名馬もいるが』、一九六九『年の第』三十六『回東京優駿(日本ダービー)で大本命視されたタカツバキが、スタート直後に落馬で競走中止するというアクシデントを起こして以降、ほとんど付けられることがなくなった』。『武士は、打ち首により首が落ちる様子に似ていることを連想させることを理由にツバキを飾るのを好まなかった、という話もあるが、それは幕末から明治時代以降の流言であり、江戸時代に忌み花とされた記述は見付からない』。一六〇〇『年代初頭には多数の園芸品種が流行』し、延宝九・天和元(一六八一)『年には』、『世界で初めて椿園芸品種を解説した書物が当時の江戸で出版され』ている、とあった。

 以下、良安のために、ウィキの「サザンカ」を引く(同前)。『山茶花』は『別名では、オキナワサザンカともよばれる。童謡「たきび」の歌詞に登場することでもよく知られる』。『漢字表記の「山茶花」は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。ツバキ属の一種であるが、ツバキ(ヤブツバキ)よりも花が』、『やや小形であることから、ヒメツバキやコツバキなどの別名もある。また、漢名は茶梅である』。『常緑広葉樹の小高木。樹皮は淡灰褐色で表面は平滑である。樹皮が灰白色のツバキに対して褐色を帯びている。一年枝は』、『はじめ』、『紅紫色で』、『毛が生えている。葉は長さ』二~五『センチメートル』『程度の鋸歯のある楕円形でツバキよりも小さく、やや厚くツヤがあり、互生する』。『花期は、秋の終わりから初冬にかけての寒い時期(『十~十二月)で、枝の先に』五『枚の花弁の花を咲かせる。野生の自生種では花色は部分的に淡い桃色を交えた白色であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は、濃い紅色や白色やピンクなど様々である。花の奥には蜜があり、花粉の授受は昆虫と鳥の両方に頼っている。サザンカの開花はツバキよりも早い晩秋で、花弁が』一『枚ごとに散るので、ツバキとの見分けのポイントになる。また、サザンカの子房には毛があるが、ツバキにはない。花の付き方もやや異なり、ツバキが葉の裏側について葉陰で咲かせることが多いのに対し、サザンカは』寧ろ、『葉の表面側に付いて、目立ちやすい』。『果期は翌年の』九~十『月。花が咲いたあとに直径』二センチメートル『程度の球形の果実がつく。果実の表面には短い毛が生えていて、開花の翌年の秋に表皮が』三『つに裂けて、中から』二、三『個の黒褐色をした種子が出る』。『冬芽は葉の付け根につき、花芽や葉芽はツバキに似るが』、『全体に小ぶりである。花芽は広楕円形で白い毛があり、夏頃に見られる。葉芽は』、『やや平たい長卵形で毛があり』、五~七『枚の芽鱗に包まれている』。『冬の季語にされるなど、サザンカには寒さに強いイメージがあるが、開花時期に寒気にさらされると花が落ちること、四国・九州といった暖かい地域が北限である事などから、原種のサザンカは特に寒さに強いわけでは』ない。但し、『品種改良された園芸種には寒さに強く、真冬でも花を咲かせる品種も少なくない』。『サザンカ、ツバキ、チャノキなどのツバキ科の葉を食べるチャドクガ』(鱗翅目ドクガ科ドクガ属チャドクガEuproctis pseudoconspersa )『が知られている。この毒蛾の卵塊、幼虫、繭、成虫には毒針毛があり、触れると皮膚炎を発生させる。また、直接触れなくても、木の下を通ったり風下にいるだけでも毒針毛に触れ、被害にあうことがある』(家の椿で嘗つては多量に発生して困った経験がある)。『自生種は、日本の本州山口県、四国南西部から九州中南部、南西諸島(屋久島から西表島)などに、日本国外では台湾、中国、インドネシアなどに分布する。山地に自生するほか、人手によって植栽されて庭でもよく見られる』。『なお、ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生しており、ツバキ、サザンカ、チャ』(ツツジ目ツバキ科ツバキ属チャノキ Camellia sinensis )『は温帯に適応した珍しい種であり、日本は自生地としては北限である』。『ツバキと共に、代表的な冬から早春の花木で、庭木として人気が高く園芸種も多数あり、生垣によく利用される。サザンカもツバキも、ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、多くの園芸品種が作出され、現在も多くの品種が作り出されている。ちなみに多くの言語でもサザンカと呼ばれている。種子は大きく、油が採れる。材木としては主に細工物に利用する』。『サザンカには多くの栽培品種(園芸品種)があり、花の時期や花形などで』三『つの群に分けるのが一般的である。サザンカ群以外はツバキとの交雑である』として、

サザンカ群

 サザンカ Camellia sasanqua

カンツバキ群

 カンツバキ(寒椿) Camellia sasanqua  'Shishigashira'(シノニム C. x hiemalisC. sasanqua var. fujikoana :『サザンカとツバキ C. japonica との種間交雑園芸品種群』)

ハルサザンカ群

 ハルサザンカ Camellia × vernalis

を挙げてある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「木之三」「灌木類」の「山茶」([088-70a]以下。「山茶」は中国語の「ツバキ属」を指し、「維基百科」の「山茶属」には実に二百二十四種ものリストが並ぶ)の項の「集解」からのパッチワークである。

「寳珠花《はうじゆくわ》」種不詳。

「海榴茶花《かいりうさくわ》」種不詳。

「石榴茶《せきりうさ》」種不詳。

「碎花《さいくわ》」東洋文庫訳の割注に『(雄弁の花弁化したもの)』とあるが、意味が採れない。『雄弁』は「雄蕊」の誤記か。

「躑躅茶花《てきちよくさくわ》」種不詳。

「杜鵑花《とけんくわ》」ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron の中文名。

「官粉茶花」種不詳。

「串珠茶《かんしゆさ》」種不詳。

「一捻紅」中国でツバキ属 Camellia の異名であるが、この「一捻紅」は、同時に、ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa の別称でもあり(「維基百科」の「見よ項目」である「一捻紅」を見よ)、本邦では、ツバキの異名ではなく、専らボタンのそれとして用いられいているようなので、注意が必要である。

「南山茶花」山茶(ツバキ)属南山茶 Camellia semiserrata 。これは「維基百科」に「南山茶」がある。それによれば、『中国固有種』で、『広西チワン族自治区、江西省などに分布し、標高二百メートルから三百五十メートルの山岳地帯に植生している』とある。異名に『廣寧紅花大果油茶』(簡体字を正字に直した)があり、シノニムが八つ挙がっている。

「肥皂子《ひさうし》」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科 Caesalpinioideae ギムノクラドゥス(中文名:肥皂莢)属 Gymnocladus 肥皂莢(中文名)Gymnocladus chinensis の種子。先行する「肥皂莢」を見よ。

「遵生八牋」(じゅんせいはっせん)は、明の高濂(こうれん)の著になる随筆。全二十巻。万暦 一九(一五九一) 年の自序がある。日常生活の修養・養生に関する万端のことが述べられ、また、歴代隠逸者百人の事跡が記されており、文人の趣味生活に関する基礎的な文献とされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。引用は、「漢籍リポジトリ」の『欽定四庫全書』の同書の「卷十六」の「燕間清賞牋下」のガイド・ナンバー[016-27a]以下の「山茶花六種」のパートからである(多少、手を入れた)。

   *

  山茶花六種【别名甚多以可觀玩世所廣者錄之】

如磬口外有粉紅者十月開二月方已有鶴頂茶如碗大紅如羊血中心塞滿如鶴頂來自雲南名曰滇茶有黃紅白粉四色爲心而大紅爲盤名曰瑪瑙山茶花極可愛產自浙之溫郡有曰寳珠九月發花其香淸可嗅

   *

この「磬口《きんこう》」の「磬」(キン:唐音)は、読経の際に打ち鳴らす、銅製や鉄製の鉢形をした仏具で、禅宗で用い始めたもの銅鉢を指す。この「口」とは、その「磬」の「口」の側面に開けられた独楽を平べったく潰したような飾り口(音響効果があるか)を指す。判らない人が多いであろうから、グーグル画像の「磬 キン」の中の、脚を持った炉のようなものがそれである。なお、東洋文庫訳では、『磬(けい)口』とルビした上、割注して『(寺院にある鉢盂』(はつう)『の形に造ったうちいしの口』とするのだが、ルビの『けい』が誤りである。「磬」を「ケイ」と漢音で読んでしまうと、これは、中国古代の打楽器で、枠の中に「へ」の字形の石板を釣り下げ、角)つの)製の槌(つち)で打ち鳴らすものを指してしまうからである(同楽器は、石板が一個だけの特磬(先のリンク先の最初の「コトバンク」の画像がそれである)と、十数個の編磬とがある。宋代に朝鮮に伝わり、雅楽に使用され、本邦には奈良時代以降、銅・鉄製の特磬を仏具に用いている)。

「鶴項茶花」種不詳。なお、東洋文庫は『鶴頂茶花』としてある。無論、「鶴頂茶」も調べたが、不詳である。なお、この判読は確信犯であり、「鶴の項《うなじ》のごとし』の部分も『鶴の頭のてっぺんのようである』と訳している。丹頂鶴を想起すれば、確かに「頂」である。いやいや、上に引用した通り、「遵生八牋」自体が「頂」なのである。

「瑪瑙茶花」種不詳。

「遠州に山茶花の大木、有り。周《めぐり》三尺餘、髙さ、三丈余」残念ながら、不識にして、存知ない。]

2024/10/03

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 安喜土居之西妙見山

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。標題は「あき どゐのにし みやうけんざん」と訓じておく。]

 

     安喜土居之西妙見山

 安喜郡(あきのこほり)、土居の西に、妙見山といふ髙山(かうざん)、有(あり)。至(いたつ)て魔境(かきやう)也。

 妙見菩薩の堂(だう)、有(あり)。

 此(この)堂、造作(ざうさく)の度(たび)毎(ごと)、大工も、申の刻、下(さが)り[やぶちゃん注:午後四時過ぎ。]ぬれば、居(を)る事、ならず。刻限を考へ、下山する時、材木、かな屑(くづ)も、其儘(そのまま)、取散(とりちら)しおけども、翌朝、見れば、奇麗に掃除して有(ある)、とぞ。

「參詣する人、穢火(ゑくわ)を改めざれば、忽(たちまち)、怪しみ、多し。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:以上のロケーションは、現在の高知県安芸市土居の西方にある妙見山に祀られている、安芸市井ノ口に鎮座する「星神社」である(以上はグーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」で見ると、「妙見山」の山名を確認出来る。国土地理院図で見ると、この星神社のある所が最高標高で448メートルである。廃仏毀釈以前は、別当寺があって、「妙見菩薩の堂」もあったものであろう。グーグル・マップの「星神社」のサイド・パネルの画像を見ると、同寺神社境内に『白衣観音菩薩像の出現地』の新しい石碑が確認出来るが、これは、妙見菩薩ではない。妙見菩薩は、北極星、又は、北斗七星を神格化した仏教の天部の一つで、本来は道教由来の神格と考えられるもので、「妙見」とは「優れた神通の視力」の意で、「善悪や真理を能(よ)く見通す者」という意味であるのに対し、白衣観音は、吉祥を表わす観世音菩薩で、中世以降は「三十三観音」の一つとされ、息災延命・安産・育児などの祈願の本尊とされる。尊形は一面二臂(ひ)で、肉身は白黄色を呈し、白衣を纏う、純然たる仏教の菩薩(神)である。

「穢火」(現代仮名遣「えか」)は、「忌(い)み火(び)」と同じで、結果的には「神聖な火」で、神道で言う「斎火」(いむび)と同義で、「清浄な火」の意であるが、実は、「火」は「穢れやすいもの」とされており、神前に年の始めに神社から神聖な火種を貰ったり、神仏の祭儀に際し、特別に神聖な火種を熾(おこ)すのである。ここは、造作改修等の際に出た木屑等を、安易に工人が燃やす火や、神主・別当僧等でない参詣人個人が、燈明として安易に起こす火もまた、これ、清浄でない「穢(けが)れた火」なのである。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 山田郷平草峯蛇

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「やまだがう ひらくさみね へび」と訓じておく。]

 

     山田郷平草峯蛇

 香美郡山田郷の內(うち)、「平草峯(ひらくさみね)」といふ所は、山下(さんか)に在家(ざいけ)もあり。

 此(この)山に「山通(やまどほし/どほり)」といふ有(あり)、長(ながさ)一尺五六・寸の蛇也。

 時(とき)有(あり)て、飛行(ひぎやう)す。

 其(それ)、飛行する時は、恰(あたか)も、大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)の音(おと)の如し。

 物(もの)に當れば、岩石・樹木、速(すみやか)に倒(たふ)れ崩(くづ)れ、その勢(いきほひ)の烈(はげし)き事、譬(たとふる)に物(もの)なし、とかや。

 又、下(くだ)る時は、三尺斗(ばかり)の蛇にて、勢ひもなく、落(おち)たるを、見たるもの、有(あり)、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「山田郷平草峯」「山田郷」は現在の高知県宿毛市山奈町(やまなちょう)山田(グーグル・マップ・データ)である。南端の中筋川沿いの市街地は、古くから宿毛街道筋の要衝であった。但し、北に延びる九割は鬱蒼たる山岳地帯である。「ひなたGPS」で見ても、戦前の地図にも、国土地理院図にも、山名は全くない。最高標高は北奥の571.4であるが、「平草峯」という名が最高峰の名とするのは、ちょっと迫力に欠くし、そもそも、「山下(さんか)に在家(ざいけ)もあり」とあるので、この「峯」はもっと南の住居のある川筋川の左岸(北側)のピークであろうと思われる。一つ、目が止まったのは、グーグル・マップのこの中央にある「王神社」である。蛇は龍の仲間である。さらにこの神社から東の山地を西北に辿ると、「ひなたGPS」の国土地理院図の242.8のピークは、現行では、山頂が平たい(但し、これはグーグル・マップで見る限りでは、近現代に削られたもののようである。しかし、戦前の地図でも、この山頂は二子山のようになっており、有意に「平」たく見えたのではないかと推察出来るのである)。しかも、戦前の地図では、旧「山田鄕」に相当する『山奈村』の聡明表記のド真ん中にあるピークであるから、如何にもこれらしい感じが、私にはしたのである。

2024/10/02

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 伊尾木村大師岩

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「いをきむら だいしいは」と訓じておく。]

 

     伊尾木村大師岩

 安喜郡(あきのこほり)伊尾木村、一里塚の通り、沖の方(かた)に「大師岩」といふ岩、あり。

 此(この)岩に、長(ながさ)二尺斗(ばかり)の足跡、數〻(かずかず)、あり。

 「杖のあと」、「笈(おひ)のあと」ゝいふも、あり。

 杖のあとは、六、七寸の丸さ也。

 

[やぶちゃん注:「安喜郡(あきのこほり)伊尾木村」現在の安芸市伊尾木(グーグル・マップ・データ)。

「一里塚」不詳。

「大師岩」不詳。ストリートビューで同地区をずっと探したが、現在は防波堤と消波ブロックが、続くばかりで、残念ながら見出せないし、ネットでもこの岩は掛かってこない。

「六、七寸の丸さ」円周であろう。日中ともに、古くは円筒型の樹木等の幹の大きさを示す際には、幅(直径)で示したりはせず、「𢌞」「圍」「抱」で、「円周」で示すのが一般的であるからである。十八・二~二十一センチメートル。足のデカさに相応する太さだ。]

「怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 仁井田郷足跡石

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「にゐだがう あしあといし」と訓じておく。]

 

     仁井田郷足跡石

 髙岡郡仁井田郷に、大石(おほいし)、有(あり)。

 其(その)石に長(ながさ)六尺、幅三尺斗(ばかり)の足跡あり。

 大指(おやゆび)より、小指迄、備(そなは)り、跟(かかと)有りて、泥土(どろつち)に人の足をふみたるが如く、左の足跡也。

 又、五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル強。]斗、南に、同じやうなる岩に、右の足跡、有(あり)。

 里人(さとびと)、傳言(つたへいふ)、

「大人(おほひと)、昔時(せきじ)、五町を、一足に、す。」

と、いへり。

『秦始皇時、有大人臨兆足跡六尺。』。[やぶちゃん注:出典不詳。]

『洪武時、公孫卿至東菜大人長數丈足跡甚大。』。[やぶちゃん注:出典不詳。]

 【元本に『西孕(にしはらみ)、岡田山にも、足跡、有(あり)。尋見(たづねみ)るべし。』ノ十七字を朱𭥜(しゆがき)せり。】[やぶちゃん注:「𭥜」は「書」の異体字。「近世民間異聞怪談集成」は判読不能として『□』にしてあるが、ほんまに、同書の判読者、ペエペエの学生にでも丸投げしたものか、レベル、低(ひく)!]

『魏咸煕二年二月見裏武縣跡三尺三寸。』。[やぶちゃん注:出典不詳。なお、「煕」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、正字を採用した。]

 

[やぶちゃん注:所謂、本邦の「ダイダラボッチ」伝承の一つである。私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郞といふ神の名』を参照されたい。以下、漢文部を推定訓読しておく。

『秦始皇時、有大人臨兆足跡六尺。』「秦の始皇の時、大人(おほひと)、有り。臨(のぞ)みて兆(うらな)ひて見るに、足跡、六尺たり。」。前漢以前の一尺は二十二・五センチメートルであるから、一メートル三十五センチメートルとなる。「見臨兆」は、「近くに臨んで、目視で測って見るに」の意で私は採っておく。「秦の始皇の時」在位は紀元前二二一年から紀元前二一〇年まで。

『洪武時、公孫卿至東菜大人長數丈足跡甚大。』「洪武の時、公孫卿、東䒹(とうらい)に至り、大人(おほひと)の長(たけ)數丈(すうじやう)を見る。足跡、甚だ大(おほ)きなり。」。「洪武の時」これは誤記であろう。通常は、明の初代皇帝洪武帝であるが、「公孫卿」は前漢の第七代皇帝武帝の時代の方士である。されば、武帝の別名「孝武」或いは「漢武」の誤記と思われる。「東䒹」不詳。方士といい、東とくれば、東方にあるとされた「蓬萊」臭いな。当時の一丈は二・一二五メートルであるから、六掛けで十二・七五メートルとなる。

『魏咸煕二年二月見裏武縣跡三尺三寸。』「魏の咸煕(かんき)二年二月、裏武縣(りぶけん)にて見る。跡、三尺三寸。」。「咸熙」は三国時代の魏の元帝曹奐(そうかん)の治世に行われた二番目の元号で、魏はこの年を以って、元帝晋王司馬炎に禅譲し、晋が成立し、滅亡した。西暦二六五年である。

「髙岡郡仁井田郷」現在の高岡郡四万十町仁井田(グーグル・マップ・データ)。しかし、この足跡、現存しないようである。ネットでは全く掛かってこない。

西孕、岡田山にも足跡、有。尋見るべし』「西孕」は現在の高知市孕西町(はらみんにしまち:グーグル・マップ・データ)及び、その東の孕東町が相当する。「ひなたGPS」で示すと、戦前の地図に旧名『西孕』の地区名が確認出来るが、「岡田山」(「をかだやま」と訓じておく)は見当たらない。この西孕地区に限って見ると、南東の半島のピーク174辺りが、「岡田山」のようには見える。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 宿毛七度栗

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「すくも なな(或いは「しち」)どぐり」と訓じておく。]

 

     宿毛七度栗

 宿毛に「七度栗」といふあり。

「一年に七度、實をむすぶ。」

と、いふ。

 

[やぶちゃん注:この「七度栗」については、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「提供館」を『高知県立図書館・高知市民図書館本館』として、『七度栗の県内の栽培状況、利用方法について』の質問への、詳しいレファレンス内容が記されてあった。その内の一つの資料である、国立国会図書館デジタルコレクションの「土陽淵岳誌」(高知県立図書館・一九七〇年刊)の当該部(中標題『土陽淵岳志 中』の「産物」の「草木」の項の内)を視認し、以下に電子化する。当該原書は、儒者植木挙因(元禄元(一六八八)年~安永三(一七七四)年:土佐高知藩医の父に家学を受け、後に京で玉木正英に学び、帰郷後、藩の儒員となった通称を敞斎、号を惺斎と名乗った。著作には他に「土佐國水土私考」などがある)の著で、編著の年次は延享三(一七四六)年。上・中・下の三巻。上巻は土佐の国号由来・神社・寺院・史跡名勝の由来、及び、その沿革等。中巻は物産で、博物誌的なもので、産物・古器・海産物・薬草類などを記す。下巻は当時の著名人の墳墓や寺院などを記述したものである。他に書名を「土佐國淵岳志」「土州淵岳志」ともする。

   *

六十七 七度栗幡多郡宿毛ニ生ス六月末ヨリ九月頃迄栗七度実ナル四度程マテハ食ハルヽ也形状ハ常ノ栗ニ異ナラス此(栗ノ)実々ヲ他所ニウヘ或ハ苗ヲウツシ植シトモ不生宿毛ノ内ニモ市所生スル所アリテ他ニハスヘチ不生ト云四国辺路道シルベニ伊予国ニモ有宿毛ヨリ道程遠ク並村名モ道シルへニ出ツ

土陽城下八軒町ニ北側ノ屋ニ小社アリコノ処元親ノ時代ニ中島ト云シ此神休何ヤラン不知昆沙門ナリトモ云フニ川藤兵衛此屋敷拝領ノ時ソノ社ヲ小津ノ龍福院へ遣ストナリ今彼屋敷ニハ横殿ハカリノコレリ祭日五月十五日也右ノ屋敷今片岡太右衛阿住居ニナル也

   *

「宿毛」現在の宿毛市(グーグル・マップ・データ)。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 奈半利村二重柿

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「なはりむら ふたへがき」と訓じておく。]

 

     奈半利村二重柿

 安㐂郡(あきのこほり)奈半利村に大久保刑部(おほくぼぎやうぶ)といふ人の墓、有(あり)。田中(たのなか)也。

 其(その)墓に、柿木(かきのき)有(あり)。

 此(この)柿。熟すると、内に、皮、ありて、又、外輪(そとわ)にも、皮、ある也(なり)。

 故に「二重柿(ふたへがき)」といふ。又、「大久保柿」ともいふ也。

 

[やぶちゃん注:「安㐂郡(あきのこほり)奈半利村」何度も注している。現在の安芸郡奈半利町(なはりちょう:グーグル・マップ・データ)。

「大久保刑部」不詳。

「二重柿」「公式高知県公式観光サイト」の「こうち旅ネット」の「奈半利の二重柿(なはりのにじゅうかき)」のページに、『一つの果実の中にもう一つ別の果実をつくる珍しい二重柿』とし、『県の天然記念物』で、『安芸郡奈半利町奈半利町』(ママ)『上長田の坂本氏宅地内にある』とし、『一つの果実の中に、もう一つ別の果実をつくるという一種の奇形樹』とあり、『木の目通り幹囲』九十センチメートル、『樹高』八メートル。『樹齢は』百『年前後といわれている』とある。グーグル・マップ・データにもポイントされてあり、サイド・パネルに五枚の写真もある。ストリートビューでも確認出来る。樹齢から、二、三代のものの子孫と思われ、周辺に墓も見当たらない。なお、愛媛県宇和島市にも県指定天然記念物となっている「二重柿」があり、宇和島市役所公式サイト「宇和島 ココロまじわうトコロ」の「新宇和島の自然と文化」の「県指定 二重柿」のページに、所在地を『津島町岩渕』、所有者を『満願寺』(ここ:グーグル・マップ・データ)とする(熟した柿を割った画像がある)。そこには、かなり詳しい記載があるので、部分引用する。『満願寺の境内に一本の柿の木がある。根回り二・八』メートル、『幹周り一・二』メートル、『高さ一〇』メートル『に達する小形のしぶ柿で、柿の実の内部にもまた果実を生じ、「二重柿」とか「子持ち柿」の名で呼ばれている』。『二重柿は昔から子宝に恵まれると信じられ、全国からこの柿で作られた干し柿の申し込みが絶えない。この柿の実の干し柿は満願寺で丹誠込めて作りあげられるのである』。『二重柿は大正一三(一九二四)年に発表された「愛媛県史跡名勝天然記念物報告書」にも詳細な記述が残る。このような柿は全国的にも非常に珍しい。旧津島町章はこの柿を図案化している』)個人サイト『車泊で「ご当地マンホール」』の「ご当地マンホール in 愛媛県旧津島町(宇和島市)」で、旧の町章が見られる)。『二重柿の縁起にはいろいろな言い伝えがある。「弘法大師行脚のおり、杖を立てて置かれたのが芽を出し、根を張り、枝葉を茂らせ、実をつけるまでに至った。今に残る二重柿がそれだ」という伝説はたいへん有名である。そして「世の中を仲睦じく親と子が二重の柿にそれを知るべし」の歌とともに伝承されている』。『二重柿は江戸時代から現在に至るまでの長期間を生き抜いてきたが、かなり老齢化しており、主幹部の腐朽が進行している』等々とある。]

2024/10/01

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 槇山郷中谷川村人面樫

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「まきやまがう なかたにがはむら じんめんかし」と訓じておく。]

 

     槇山郷中谷川村人面樫

 

 槇山郷の內(うち)、中谷川村の谷溝(たにガウ)に、樫木(かしのき)、有(あり)。

 此(この)樫の実(み)の片面(かたづら)は、くぼみて、人の顏の如し。目・口・鼻とも、備(そなは)りて、鮮(あざや)か也(なり)。

 昔より、所の者も、

「採る事、なし。」

とぞ。

 

[やぶちゃん注:「槇山郷」「中谷川村」現在の香美市物部町(ものべちょう)中谷川(なかたにがわ:グーグル・マップ・データ)。

「谷溝(たにガウ)」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図の『中谷川』周辺を探したが、見当たらない。

「樫の実」カシは、民間では、双子葉植物綱ブナ目ブナ科 Fagaceaeに属する常緑高木の一群の異なるかなりの数の複数種を含む総称である。多くの果実(堅果)は一般に「ドングリ」と呼ばれるものである。但し、ウィキの「カシ」によれば、『南紀や四国ではウバメガシ』(コナラ属 Ilex 節ウバメガシ Quercus phillyreoides )『などが主なカシになる』とあった。ウィキの「ウバメガシ」にある、「どんぐり」の画像をリンクさせておく。私も昔、「どんぐり」を集めたが、ただ、「裏面」というのは、僕らが「帽子」と呼んでいるベレー帽みたような「殻斗」を外した実の部分は、しみじみ見たことがないので判らない。散歩道さんのブログ「散歩道の手づくりしてみました & 狭山丘陵散歩」の「マテバシイ、ウバメガシ、スダジイ」の上から五番目に、ウバメガシの堅斗を外した部分を二個体、写真で紹介されているので、見られたい。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 井田村八岐鹿⻆

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「ゐだむら やつのまたの しかづの」と訓じておく。]

 

     井田村八岐鹿⻆

 幡多郡(はたのこほり)井田(ゐだ)村へ、昔、一角(いつかく)八股鹿(やつノマタのしか)、出(いで)けるを、猟師、見付(みつけ)て、早速、打殺(うちころ)しけると也(なり)。

 其(その)八股⻆(やつまたのつの)、三尺斗(ばかり)、有(あり)。

 珍敷(めづらし)きもの故、當村(たうそん)、氏神(うぢがみ)、天滿宮社內(やしろうち)へ納め置ける。

 閏月(うるうづき)の有(あ)る年、九月九日に開帳して、人々に見せるよし。

 平常(へいじやう)は、見る事、ならず。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡井田村」高知県幡多郡黒潮町伊田いだ:グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)であろう。御覧の通り、恐らく海辺の伊田港周辺部を除き、九割以上は奥深い山間部である。

「一角八股鹿」(いっかくやつのまたのしか)とあるが、この鹿は四国(九州にも分布する)であるので、哺乳綱鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ亜種キュウシュウジカ Cervus nippon nippon である。同亜種の♂の成獣(毎年一本ずつ生えるらしい)の角は四本に枝分かれするのが普通であるから、この二本とも(と思われる)八つに分枝する個体というのは、極めて珍しいものと思われる。論文を見る限り、化石シカ類のものでも、七分岐であった。

「天滿宮」ここにある。ネットでは掛かってこないので、「一角八股鹿」は現存しないか。残念!]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 足摺御埼舟幽霊

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。]

 

     足摺御埼(あしずりみさき)舟幽霊(ふなゆうれい)

 幡多郡(はたのこほり)中村、正福寺(しやうふくじ)は、宗祖法然上人の開基にて、什物(じふもつ)に、舩板(ふないた)の名號(みやうがう)七枚、鉦鼓(しやうこ)、竹布(ちくふ)の袈裟(けさ)有る事を、此寺の緣起に書載(かきのせ)たり。

 頃は享保年中、淸水浦(しみづうら)、蓮光寺に、觀音の開帳を思ひ立(たち)、本寺、正福寺を請招(せうせい/せいじやう)し、幷(ならびに)

「彼(かの)什物をも、借り度(たき)。」

由(よし)、兼(かね)て賴入(たのみいれ)置きければ、開帳の前日、舩(ふね)を仕立(したて)て、迎(むかへ)に出(いだ)しける。

 やがて正福寺上人、什物を携(たづさへ)て乘舩(じやうせん)せられけるが、その日は、順風にて、出帆しけるに、足摺山(あしづりやま)近く成(なり)ける頃より、風、やみ、沖に紛(まぎ)れて有る中(うち)に夜に入(いり)けるが、此舩、塩(しほ)[やぶちゃん注:「潮」。]にも流れず、昼(ひる)、來(きた)りし所を、動かざれば、人々、不審におもひけるに、海上(かいじやう)に、形は、見へ[やぶちゃん注:ママ。]ねども、數(す)百人も、集りたるやうに聞へ[やぶちゃん注:ママ。]て、男女(なんによ)の愁歎(しうたん)して、泣聲(なくこゑ)、夥(おびただ)しかりける。

 其時、上人、思惟(しゆい)し、

「是ぞ、いひ傳ふる『船幽霊』成(なる)べし。」

とて、則ち、御經(おんきやう)、讀誦し、念佛、唱へられければ、無程(ほどなく)、船も動き出(いだ)し、漸(やうやう)、下田(しもだ)の湊(みなと)へ漕戾(こぎもど)しける、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡中村、正福寺」これは現在の高知県四万十市中村山手通(なかむらやまてどうり)にある浄土宗正福寺(しょうふくじ:グーグル・マップ・データ)。

「竹布の」思うに、これは竹を縫い取りにあしらった絹製の袈裟を指しているのではないかと思われる。長い間、水に浸して腐らせておいた竹を、細く裂き、それを繊維として織った布地である「竹布(ちくふ)」が本邦には存在するが、小学館「日本国語大辞典」を見るに、中国では「唐書」に出るので、古くからあったものの、本邦の初出例は室町後期の大永四(一五二四)年八月二四日附「實隆公記」としており、事実、法然の所持品であれば、あり得ないからである。但し、後年に捏造されたものであるのなら、後者でもよい。前者と判断したのは、三重県鈴鹿市国府町の真言宗御室派大平山(たいへいざん)府南寺(ふなんじ)の公式サイト内の「お知らせ」の「国府阿弥陀如来(こうあみだにょらい)【竹布の袈裟】」の『府南寺本尊 国府阿弥陀如来』『の伝説』に、鎌倉中期の覚乗上人の話が載るのだが、そこに、『身に着けている竹布(ちくふ)(絹製)』(☜)『の袈裟(けさ)を脱いで』という一条が出ているからである。

「享保年中」一七一六年から享保二一(一七三六)年四月二十八日まで。

「淸水浦、蓮光寺」現在の高知県土佐清水市元町(もとまち)にある浄土宗金色山(こんじきざん)清涼院蓮光寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「下田」四万十川の河口の左岸の四万十市下田。現在、下田漁港がある。船を元来た海路を戻ったのである。思うに、什物の中の「舩板の名號七枚」に原因があろう。この舟板の七枚を法然に奉じたのは海難から守護されることを祈願した漁師衆であり、或いは、その中に難破して亡くなった者がいたか、或いは、難船して亡くなった漁師らの供養に、その船の舟板の破片を、遺族か、仲間が持ち込んだものやも知れぬ。さればこそ、舟幽霊は出たのである。されば、その「南無阿彌陀佛」の六字の名号を記したそれらは、蓮光寺には、結果、貸し出さなかったであろう。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 長岡郡池村キノコ銀兵衞

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     長岡郡池村キノコ銀兵衞

 長岡郡(ながをかのこほり)池村(いけむら)、銀兵衞といふ者の庭に、梅の古木(こぼく)、有(あり)。

 枝の切り株に、天滿宮の神体、備(そなは)れり。厨子(づし)に納めて家內(いえうち)に安置す。

「所願、よく叶(かな)へり。」

とて、諸人(しょにん)、聞傳(ききつたへ)て、參詣、多し。

 是を「きの子樣」といふ。

 遠方の者は、「きの子の銀兵衞」と尋ね來(きた)るとかや。

 

[やぶちゃん注:「長岡郡池村」現在の高知県高知市池(いけ:グーグル・マップ・データ)。]

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡井田村地藏

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。] 

 

     幡多郡井田村地藏

 幡多郡(はたのこほり)伊田浦(いだうら)の磯に地藏堂あり。

 御長(おんたけ)三尺斗(ばかり)の座像也。

 至(いたつ)て、不細工也。

 往來の人、笑ふものあれば、忽(たちま)ち、祟(たた)りを成(な)し玉ふ故、里人(さとびと)は、大きに恐るゝとかや。

 

[やぶちゃん注:「幡多郡(はたのこほり)伊田浦」高知県幡多郡黒潮町伊田(いだ:グーグル・マップ・データ)の海浜部。

「磯に地藏堂あり」この磯という謂いからは、明治初期のおぞましい廃仏毀釈で廃寺にされた「松山寺」の跡として残る、この「地蔵堂」(ストリートビュー画像)の、向かって左にある祠の二体の仏像の右手のものではないかと私は踏んだ。「おむすび」型の本体の上にかわいらしい、まあるい頭を頂いた愛らしい地蔵である(と言っておかないと祟られるからネ。しかし……地蔵が祟るというのは……これ……ちょっと、地蔵様が可哀そうだなぁ)。グーグル・マップではこの中央附近である。これが地蔵であることは、高知県黒潮町議会発行の『アーカイブNo .4伊田』PDF)、及び、個人サイトと思しい「四国番外霊場 高知県」のこちらの冒頭の「21 地蔵堂」「松山寺下の地蔵堂」「黒潮町伊田」とある画像を元に確認した。そこには横たわった地蔵群もあるのだが、これが、いっとう、目立つからである。

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 神田村与七怪異

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここ。]

 

     神田村与七怪異

 土佐郡(とさのこほり)神田村(こうだむら)芳㙒(よしの)に、与七といふもの有(あり)。

 明和年中[やぶちゃん注:一七六四年から一七七二年まで。徳川家治の治世。]、夏の比、雨夜(あまよ)の事なるに、厩(うまや)につなぎ置(おき)たる馬(むま)、噺(いななき)て、頻(しきり)に、はね上(あが)る音、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、否(いなや)、炬(たい)まつ、燈(とも)して、厩の方(かた)へゆきしが、俄(にはか)に、風、吹來(ふききた)りて、炬松を吹消(ふきけ)す事、再三に及びぬ。[やぶちゃん注:「否(いなや)」これは感動詞と副詞の用法の混用表現。前者の「ひどく驚いて発する『これは!?』と、後者の「~すると直ちに……」の両含みである。]

 漸(やうやう)、燈して至り見れば、馬は、いづくへ行(ゆき)けん、見えざりければ、家內(かない)、驚き、裏・表、ともに、尋(たづね)れども、しれず。

 それより、隣家(りんか)のものも聞付(ききつけ)、大勢、集(あつまり)て、その近邊、尋廻(たづねまは)りしかども、行方(ゆくへ)知れぬ內(うち)、漸、夜(よ)も明(あ)ければ、又、尋(たづね)に出(いで)けるが、家の後ろなる山の上の、大木(たいぼく)の松の股(また)に、件(くだん)の馬、掛(かか)り有(あり)。

 いづれも、肝(きも)を消(け)し、急ぎ、木に登り、綱、又は、細引(ほそびき)にて、四足、首、尾(を)を、しばり、釣落(つりおと)しにて、したりける。

 されども、彼(かの)馬(むま)、少(すこし)も疵付(きずつ)く所なく、大(おほき)につかれ果て、四、五日、腦[やぶちゃん注:ママ。「惱」の誤字。]みけるが、終(つひ)に死(し)しける、とぞ。

 不思義の事也【田村屋源兵衞方にて、与七、直(ぢき)に話しける、とぞ。】。

 

[やぶちゃん注:「土佐郡神田村芳㙒」旧土佐郡となると、現在の高知市神田(こうだ:グーグル・マップ・データ)である。「ひなたGPS」の戦前の地図には『神田(コーダ)』とあり、その記名の東南直近に『吉野』とあるのがそれであろう。現行の国土地理院図でも「吉野」である。

 この話、甚だ奇体で、解釈が難しい。経緯が事実であるとするなら、現実的には、与七に恨みのある誰彼が成した大掛かりな嫌がらせとなろうが、それでは、「怪異」譚にはならぬ。かといって、例の「河童駒引」にしては、馬が吊られたロケーションが、如何にも河童とは縁遠いから、違う。寧ろ、やらかしたのは天狗が相応しい。一つ、最初に感じたのは、『「想山著聞奇集 卷の壹」 「頽馬の事」』の馬が襲われる民俗学的な怪異「頽馬(だいば/たいば)」(実際には虻や刺蠅(さしばえ:短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans )などの吸血昆虫により伝播されることで馬や驢馬などのウマ類にのみ感染する馬伝染性貧血)であったが、山上の松に吊り下げられるというのは「頽馬」のシチュエーションではあり得ず、人間業では不可能な点で、やはり天狗の怪であると言わざるを得ない。四国の天狗と言えば、讃岐国(現在の香川県)に配流された崇徳上皇が怨霊(本邦最大最強の御霊(ごりょう))となった、その眷属の天狗の話が超有名であり、また、ウィキの「天狗」によれば、『愛媛県石鎚山』(いしづちさん:ここ。グーグル・マップ・データ)『では』、六『歳の男の子が山頂でいなくなり、いろいろ探したが見つからず、やむなく家に帰ると、すでに子供は戻っていた。子に聞くと、山頂の祠の裏で小便をしていると、真っ黒い大男が出てきて子供をたしなめ、「送ってあげるから目をつぶっておいで」と言い、気がつくと自分の家の裏庭に立っていたという』というケースが紹介されてある。因みに、ずっと東の高知県高岡郡津野町(つのちょう)には、標高千~千四百メートルの四国カルスト地帯で知られる「天狗高原」(グーグル・マップ・データ)があるが、この呼称は近代につけられたものと思しい。「ひなたGPS」では「天狗」の名は確認出来ないからである。]

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