「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 冨𫮍高姥椎ノ木オサン婆々
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「とみざきのたかうば・しひのきおさんばば」と読んでおく。「山姥」は、私のものでは、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の私の注が、一番、宜しいと思う。他に『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山姥奇聞』もあるのだが、これは、内容がフラットな解説ではなく、柳田特有の癖で、自分の好きなフィールドに引き込んで語っているために、どうも妙な違和感がある。「山姥」の総論的内容を期待すると、失望するので、ご注意あれかし。前者でほぼ全文を引いたウィキの「山姥」を見ると、『高知県では、山姥が家に取り憑くと』、『その家が急速に富むという伝承があり、なかには山姥を守護神として祀る家もある』とあり、また、『宮崎県の』千二百『人の子を出産する山の女神』、『また』、『徳島や高知の昔話によると、山神の妻になった乙姫は一度に』四百四『人あるいは』九『万』九千『もの子を産んだと伝えられている。このように、非常に妊娠しやすいという特徴、異常な多産と難産であるという資質は、元来、山の神の性格であり、山姥が、山岳信仰における神霊にその起源を持つことを示している』とある。話柄内に入れ子型の話があるので、特異的に「――」を用いた。]
冨𫮍高姥椎ノ木オサン婆々
土佐山郷橫平村に、岩窟(ぐわんくつ)、有り、「山婆が瀧」といふ。
里人(さとびと)、傳へ言(いふ)、
「徃古(わうこ)、山婆(やまうば)、この所に住居(すみゐ)せし。」
とぞ。
例祭、九月十七日に、「山婆祭り」を行ひける、とぞ。
今、按(あんずる)に、「山婆」といふは、「鬼女」にても非(あらざ)るべし。强疆(がうきやう)[やぶちゃん注:人間離れした非常な強さを指す。]なる女(をんな)の、鹿(しし)を食とし、熊に組(くみ)、山犬を生捕(いけどる)などといふ類(たぐひ)なるべし。人も、恐れて、「山婆」と、いへるか。
むかし、元親朝臣の時、「冨﨑の髙姥」といひしは、橫山孫太夫が妻、とかや。
背、六尺余り、有(あり)ければ、「髙姥」といヘり。
元親朝臣、阿州出勢(しゆつせい)の存立(ぞんじだて)[やぶちゃん注:深慮し、意を決すること。]ありけれども、國中(くになか)、凶年、打續(うつつづ)き、軍用、不足ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、延引成(えんいんな)りし所、此髙姥、元親朝臣の前に出(いで)て、いふ。
「誠に候哉(や)、傳承候(つたへうけたまはりさふら)へば、御軍用(おんぐんよう)、不足にて、阿州御出陣、御延引のよし。此(この)婆々(ばば)、金銀、貯へ持(もち)て候。願(ねがはく)は、御用を達し可申(まうすべし)。」
と、言上(ごんじやう)しければ、元親朝臣、その志を感ぜさせ玉ひ、許容ありければ、銀五貫目、さし上(あげ)し、とかや。
髙姥は、中島村冨﨑と言所(いふところ)に居(をり)たる由(よし)。
又、「髙姥が芋桶(いもをけ)」とて、今、浦戶の海部屋權助(かいふやごんすけ)、所持しけると也(なり)。水、三升斗(ばかり)入(はい)る杉桶(すぎを)ケなり。
[やぶちゃん注:「元親」長宗我部元親。「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既注。
『「冨﨑の髙姥」といひしは、橫山孫太夫が妻、とかや』Tikugonokami氏のサイト「長宗我部元親軍記」のこちらに、『高姥(生没年不詳)』『長宗我部元親の家臣・横山孫太夫の妻。身長が高く高姥と呼ばれていた』。天正三(一五七五)『年、元親が阿波に出兵するための軍資金が乏しく困っているのを知ると』、『芋桶に銀を入れて献上した。元親は』、『その銀を元手に阿波に出兵し』、『勝利している』とある。
「中島村冨﨑」高知県土佐市中島。「ひなたGPS」で、同地区の戦前の地図を調べたが、「冨𫮍」「冨﨑」の地名は見当たらなかった。
「浦戶」現在の高知市浦戸(うらど)。浦戸湾湾口の西岸の桂浜や上龍頭岬(かみりゅうずみさき)のある半島である。
「海部屋權助」不詳。ただ、「海部屋」は「理系の退職者」氏のブログ「気ままな推理帳」の「立川銅山(7) 海部屋平右衛門は、創始者海部屋権右衛門の孫であった」に『海部屋の創始者で』、『阿波国海部中村』『に住んでいた権右衛門は、阿波三好氏の後裔で、兄彦太郎の遺命により武士をやめ、慶長元年』(一五九六)『堺の南宗寺へ』行き、『住持沢庵和尚の俗弟子となり、和漢の産物を交易し』、『業』(なりわい)『とし』、『産を積んだ。海部郡出身の故を以て屋号を海部屋と称した。寛永元年』(一六二四)に『病歿した』が、『その子孫は商業に従事し、富豪を以て世に鳴り、支族』、『また』、『繁栄した』とあるから、その子孫、或いは、関係者ででもあったのかも知れない。]
或人(あるひと)云(いはく)、
――寛文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。]、「椎の木のおさん」といふもの、幡多郡(はたのこほり)に有り。[やぶちゃん注:高知県の西南部に当たる広域の旧郡名。但し、当該ウィキによれば、今も、天気予報などで、「幡多地域」と呼ばれているとある。旧郡域はそちらの地図を見られたい。]
是も强疆なる者にて、
「深夜に大山(おほやま)を行(ゆく)といへども、恐るゝ者の、無(なし)。」[やぶちゃん注:「大山」は固有名詞ではなく、「路程が長い、人気のない深山である大きな山」の意。]
と、いへり。
往來の旅人を相手にして、暮しぬ。
此婆々がいはれは、毛利壱岐守殿父子を、御當家に御あづかり被成(なされ)、壱岐守殿は、當國にて、死去、子息豊後守殿[やぶちゃん注:後注するが、「豊前守」の誤記。]は、久戶村[やぶちゃん注:後注するが、「久万村」の誤記。]に被居(をられ)ぬ。
或時、旅人、來り、
「私(わたくし)義は、豊前國小倉の町人にて候。殿樣、此國に被成御座(なりおまさる)と承り候故、御機嫌伺(ごきげんうかがひ)に罷越(まかりこし)し候。」
と、申上(まうしあげ)ければ、豊後守殿、聞(きこ)しめし、
「遙々(はるばる)尋ね參り候段(さふらふだん)、奇特成(なる)もの也。其(それ)、町人の事なれば、苦しかるまじ。」
とて、對面被致(いたされ)けるに、豐前守殿、被申(まうさる)るは、
「汝は、何者ぞ。此方(こはう)にて、覚(おぼ)へ[やぶちゃん注:ママ。]ぬ。」
よし、被申(まうされ)ければ、
「私は、八百屋にて、常々、御臺所(みだいどころ)ヘ、八百屋物(やおやもの)、さし上(あげ)候者に御座候。『御機嫌伺上候樣に。』、親とも申付候故、參上仕候。」
と申ければ、
「成るほど、見た樣(やう)にも、ある。」
と被申(まうさる)。
扨、家の侍へ被申候は、[やぶちゃん注:底本(ここの三行目)では、私が判読した「扨家の」の、右やや上から、朱で、『本ノマヽ』とある。「近世民間異聞怪談集成」は不思議なことに、この部分で、『扨、物主の』と判読しているのだが、逆立ちしても、絶対に、そうは読めない。一方、国立公文書館本(83の左最終行上部)を見るに、私には「扨家の」と判読出来るように思われる。底本の筆写者は『物家の』と判読してしまって書いているのだと思う。それでは、意味が通らないから朱書を施したのだろう。またしても、「近世民間異聞怪談集成」のおかしな字起こしに遭遇してしまった。]
「只今、聞(きける)とふり也。町人の事也(なり)。何か、くるしかるまじ。今夜(こよい)は、此方(このはう)にて、一宿させ、明日、戾し申度(まうしたし)。」[やぶちゃん注:「とふり」はママ。しかし、国立公文書館本(83)を見ると、全体が「聞るか通り也」と判読出来るように思う。されば、ここは「聞(きこゆ)るが通(とほ)り也」と読めて、何ら問題がない。ダブルで、おかしいね、「近世民間異聞怪談集成」は……。]
と、有(あり)て、留(とど)められける。
無程(ほどなく)、夜に入り、
「国許(くにもと)の咄(はなし)、承り度(たし)。」
とて、御前へ被呼(よべらる)。
誰(たれ)も居(をら)ぬ場合(ばあひ)を被見(みられ)、豊前守殿、被申けるは、「其方は、誰人(たれぴと)ぞ、我等は、實(まこと)に、しらず。」
と仰せければ、其時、
「私は、家里(いへさと)伊賀守と申者にて候。秀賴公の御使(おんし)に參り申候。秀賴公御意(ぎよい)に、近々、御籠城被成候間(ごらうじやうなされさふらふあひだ)、御味方に被參(まゐられ)候樣に。」
と、御口上(おんこうじやう)を申し上(あぐ)る御書(ごしよ)をさし出(いだ)し候へば、豐後守殿、御書を頂戴、有(あり)、
「奉畏侯(かしこまりたてまつりさふらふ)。」
と、御請(ごせい)、有(あり)て、翌日、歸り候節は、本(もと)の町人のあしらひにて、
「長途、路銀に致(いたし)候へ。」
と、文庫の內より、手づから、「こま銀」を、手に一杯、すくひ、賜り候よし。
扨、夫(それ)より、豐前守殿は、內々、用意、有(あり)て、或夜、浦戶より、八反帆の舩を、津の崎【今の愛宕山也。】まで漕入(こぎいれ)させ、津㙒﨑のほとりにて、餞別の酒(さか)もりして、浦戶より、舩、出(いだ)して、大坂え、豊前守殿、子息式部殿、籠城にて、父子ながら、討死せられける【家里氏子息の咄(はなし)の由(よし)也。】。
扨、大坂籠城以後、段〻(だんだん)、御吟味有(あり)て、其節の勤番、山田四郎兵衞は、切腹す。
浦戶の舩頭(せんどう)は、幡多(はた)へ御追放有(あり)て、此の「をさん婆々」は、幡多にて儲(まうけ)し舩頭が娘なり、とぞ。
母は、その產に死し、舩頭も、無程(ほどなく)、死失(しにう)せて、娘は孤(みなしご)と成(なり)て、人の蔭にて[やぶちゃん注:ひとのおかげを以って。]、成長して、一生、寡(ヤモメ)にて、店屋、商(あきなひ)しける――とぞ。
[やぶちゃん注:「毛利壱岐守殿父子」「毛利壱岐守」は毛利勝信 (?~慶長一六(一六一一)年)。尾張出身で、本姓は森、初名は吉成、号は一斎。豊臣秀吉に仕え、天正一五(一五八七)年、豊前小倉六万石の城主となった。「関ケ原の戦い」で西軍に属し、敗れて、子の勝永とともに旧知の仲であった土佐高知藩主山内一豊に預けられ、配所で没した。以上は、主文は講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠ったが、詳しくは、当該ウィキを見られたい。その「子」は割注した通り、「豊後守」ではなく、「豊前守」であった毛利勝永(?~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))。毛利勝信の子で、初名は吉政。「関ケ原の戦い」で西軍に属し、敗れて、父とともに土佐高知藩主山内一豊に預けられたが、ここにある通り、慶長十九年、子の勝家とともに配所を脱走、大坂城に入り、翌年の「大坂夏の陣」で、落城の際に自殺した。同前であるが、詳しくは、当該ウィキを見られたい。
「久戶村」割注で述べた通り、「久万村」(くまむら)の誤記。確かにウィキの「毛利勝永」には、『勝永は高知城の北部の久万村で生活をし、折々に登城をすることもあった』とある。「久万村」は、以上から、調べたところ、現在の高知市にある、「東久万」・「西久万」・「南久万」・「中久万」に相当する地区である。「ひなたGPS」の戦前の地図に、列記した現在地名の箇所に大きく『久万』とあることで、間違いない。次の次の注で引用した先に、その中の「中久万」に蟄居中の屋敷跡があることが示されてあり、写真があるので、ストリートビューで探したところ、ここであることが判った!
「豊前國小倉の町人にて候」毛利勝信は天正一五(一五八七)年に、豊前国の二郡(規矩郡・高羽郡)と、小倉六万石を与えられている。
「家里伊賀守」「筑後守」氏のサイト「大坂の陣絵巻」の「毛利勝永」のページに、慶長一九(一六一四)『年のある日、勝永の元に旧領の小倉の商人と名乗る男が訪ねてくる(父の勝信は』既に三年前に『亡くなっていた)。しかし、その正体は豊臣家の家臣・家里伊賀守であった。彼は秀頼の「大坂に入城して力を貸せ」と言う言葉を伝える。親子二代で豊臣家に大恩ある勝永が断わるわけがなく』、『喜んで』、『その話を受け、海を渡って大坂城に入った』。「冬の陣」では』、『二ノ丸西方の西ノ丸西と今橋を受け持っていたが、勝永は大した活躍もできずに和平を迎えている』。翌年五月の「夏の陣」『では、真田幸村・後藤基次らと共に、大和路の別働隊を叩くために出撃した。ここで勝永と幸村は霧の為に約束の場所の国分への到着が遅れてしまい、単独で戦闘に挑んだ後藤基次隊の壊滅の原因を作ってしまう(道明寺の戦い)』。『幸村はこの時、自分を責め、「このまま自分も後藤隊のように突撃する」と勝永に言うが、逆に「遅参は貴殿のせいではない。どうせ死ぬなら、明日、秀頼様の前で戦って討ち死にしましょう」と励ましている』。『【家康の首を求めて】この戦いの翌日、勝永はまたも真田幸村と共に茶臼山に布陣する。ここで秀頼の出撃を待ち出馬と同時に攻撃を開始する予定であったが、秀頼の出馬取り止めと敵の進撃スピードが早かったため』、『乱戦に巻き込まれる(天王寺・岡山での最終決戦)』。『毛利隊はまず本多忠朝』(ほんだただとも)『隊と戦うが、死を覚悟した毛利隊は』、『疾風の如き活躍で敵の大将・忠朝を討ち取った。本多隊を破った毛利隊は、次から次へと徳川軍を撃破して家康の本陣に突入するが』、『家康本人は真田隊に追いたてられ』、『逃げた後で、もぬけの殻であった。勝永達はそこで家康の姿を捜すが』、『見つける前に徳川軍の新手が現れ』、『結局は撤退する他なくなってしまう。そこでも勝永は見事に大坂城に撤退すると、山里曲輪で秀頼の首を介錯した後に自害した』とある。また、最後に『ちなみに当時は『毛利』と書いて『もり』と読んでいたようなので、字だけが変わって読み方は同じだったみたいです。以上、豊臣家のために尽した毛利勝永でした』と擱筆しておられる。]