「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (伊㙒村に鍛冶が谷といふ所あり……)
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。]
伊㙒村に「鍛冶(かぢが)が谷(たに)」といふ所あり。
「杉本大明神」、昔、この所に、あり。後、今の地へうつす。
此「鍛冶が谷」に小(ちさ)き谷川、あり。
此川に住む虫・魚(うを)の類(たぐひ)、皆、「一眼(カンヂ)」也。
「鍛冶が谷」といふは、「一眼(かんぢ)が谷」なるべし。
[やぶちゃん注:「伊㙒村」これは現在の吾川郡いの町の、この附近(グーグル・マップ・データ)が狭義の旧村である。「ひなたGPS」を見ても、「鍛冶が谷」は見当たらないが、対岸の旧『川內村』、現在の日高村に「鍛冶屋(かじや)」「奥谷(おくたに)」「木屋ヶ谷(こやがたに)」の地名が、現在もある。ここと関係があるかどうかは別として「谷」は清音で添えた。
「杉本大明神」これは現在の吾川郡いの町大国町の仁淀川左岸にある「椙本神社」(すぎもとじんじゃ)である。公式サイトの「由緒」によれば、『祭神の事蹟は寛文六年(1666年)の仁淀川洪水で古記録が流失したため』、『明瞭を欠いておりますが、大和の国三輪から神像を奉じて、阿波を経て吉野川を遡り、伊予国東川の山中に至り、その後、仁淀川洪水の時に河畔に流着したのを加治屋谷に斎き祀ったといわれております』。『社伝によりますと創祀の時は延暦十二年(793年)であると伝えられています』。『その後、元慶年間(880年代)に現在地へ祀られるようになりました』。『いのの大国さまと称されて古くから上下の信仰を受けていますが、慶長九』(一六〇四)『年、山内一豊が参詣した時、籾五俵を奉納する旨の一豊直筆の文書が現存し、それ以来、社殿の造営は手元普請となり』、『江戸時代に六回の修築が行われました』とある。漢字表記が違うが、この『加治屋谷』というのは、現在の日高村「鍛冶屋(かじや)」と北西直近の「奥谷(おくたに)」を合わせた旧称のように思われる。
「一眼(カンヂ)」この読み、不詳。「ガンヂ」(ガンイチ:眼一)かとも思ったが、底本では、滅多に濁点を打たないのに、この読みは「ヂ」とちゃんと打ってあるので、それではない。私は、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で、柳田國男の「一目小僧その他」を電子化注してあるが、この神社の話は採録されていない。椙本神社の片目の動物の話もネット上には載らない。万事休す。識者の御教授を乞うものである。]
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