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2024/10/23

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (甲把瑞益仁井田郷談に曰五社は先代一條家御再興の後年を歷て傾廃し……)

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。今回は引用部に「――」を用いた。]

 

 甲把瑞益(かつぱずいえき)「仁井田郷談(にゐだがうだん)」に曰(いはく)、

――五社(ごしや)は、先代一条家御再興の後年を歷(へ)て、傾廃し、天正十一年[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一五八三年。]の春、元親公、御興起(ごこうき)ありにしより、このかた、慶長五年[やぶちゃん注:一六〇〇年。但し、長曾我部元親の病死は慶長四年五月で、誤りである。]、御滅亡ありければ、誰(たれ)、修造、加(くは)ふべきもなく、御當代、慶安[やぶちゃん注:一六四八年から一六五二年まで。]の御再興まで、其間(そのかん)、凡(およそ)、曆數、七十年に及びければ、社頭の軒端(のきば)は、いたづらに、狸鹿(りろく)の栖(すみか)と荒果(あれは)て、神器(しんき)も、大半、破壞しけるを、太守忠義公、絕(たえ)たるを、繼(つ)ぎ、すたれたるを、起(おこ)し玉へる御志(おんこころざし)ふかく、をはしましければ、此社(こやしろ)も再興なさしめ、神寳を補ひ、莊嚴(しやうごん)を磨(みがか)しめ玉ひける。

 其(その)由來を推原(たづぬ)れば、將軍秀忠公の御三男に、駿河大納言忠長卿より、御宻談の爲、諸國の大名、御饗應あり。

 忠義公[やぶちゃん注:底本では敬意のための二字の空白があって、たまたま次の丁の行頭に配されてある。]も召(めし)に應じて、

「明日(みやうにち)、御出席あるべし。」

と、兼約(けんやく)し玉ひける。

 其夜(そのよ)、御睡眠(おんすいみん)ありける御夢中(おんゆめなか)に、白髮の老翁、御枕神(おんまくらがみ)[やぶちゃん注:「神」はママ。]に立(たた)せ玉ひて、

「我は、則(すなわち)、土州(としう)の髙き岡山(をかやま)の末(すゑ)に齋(いつか)れし仁井田五社也。汝が明日の出席を止(と)むべき爲(ため)に、今、爰(ここ)に現(げん)せり。若(もし)、今、此席(このせき)に會(くわい)せば、国を失ひ、家、滅ぶべし。汝は、則(すなはち)、土佐の瑳駝山忠義上人(さたさんちゆうぎしやうにん)、變生(へんじやう)なるに、土佐の國、亂世の後(のり)、芽處(めびきどころ)なれば、此生(このしやう)を撫育(ぶいく)せんと、假-令(かり)化現(けげん)ける[やぶちゃん注:「化現け」の右に「本ノマヽ」と傍注がある。「しける」の脱字。]は、治國淸平(ちこくせいへい)の爲(ため)也。其先(そのせん)、『國土豐饒(ほうぜう)・民生安康』の證據とて、汝が名を『康豐』と稱し、今、其功德(くどく)、積りければ、『忠義』と号しける事、能(よく)明知すべし。」

と、神勅(しんちよく)ありける。

 侯、御夢(おんゆめ)、覺(さめ)させ玉ひ、御近侍に御尋(おたづね)ありけるに、五神社、疑(うたがひ)なければ、暫く、御思惟(おんしゐ)ましまし、卒(にはか)に、「御病氣」の命(めい)あり。忠長卿へも御使(ぎよし)を以(もつて)、「かく。」と言上(ごんじやう)し玉ひ、御醫療を盡(つく)され、其時の御列座(おんれつざ)に免(まぬか)れ給ふ。

 御衆會(ごしゆうくわい)の御大名方(おんだいみやうがた)、御同心の輩(やから)は、自然に露顯し、大半、御家、滅亡しける。

「忠儀[やぶちゃん注:ママ。]第一。」

と、將軍の御覺(おんおぼえ)も他(ほか)に異(ことな)り、

「かゝる不思議の告(つげ)あれば。」

とて、卽(すなはち)、小倉少助(しやうすけ)政平(まさひら)に仰(おほせ)ければ、政平、畏(かしこまつ)て、有司數輩(ゆうしすはい)を召連(めしつれ)られ、斧(ふ)を𢌞(めぐ)らして、不日(ふじつ)に五社の御造營・神器、悉(ことごと)く具(ぐ)したまひける。――

 

[やぶちゃん注:『甲把瑞益(かつぱずいえき)「仁井田郷談(にゐだがうだん)」』サイト「四万十町地名辞典」の『Vol.10 「仁井田郷談」の地名』によれば、「仁井田郷談」は、明和七(一七七〇)年に、『儒者であり』、『医師であった甲把瑞益』(かっぱずいえき)『が、戦国時代を中心にして、仁井田郷の由来、区画検地(石高調査)、仁井田五人衆七人士の居所分限郎従と』、『その興亡を記したもので、郷土史研究の原典ともいうべき貴重な著述である』とあり、「窪川町史」から引用され、『瑞益は元文』三(一七三八)年、『西川角村』(にしかわづのむら)『の郷士の家に生まれ、名を長恒、号を南巣恕行斎』『といった』。『高知城下野町少蘊に医業を学んだ後、京都の日本近代医学中興の祖といわれる吉益東洞の門下生となる』。『瑞益の学問は和魂漢才、儒学、医業等あらゆる学問に通じていた。医術に特にすぐれ、かつて医術行脚のため』、『各国をまわり、紀州では、花岡瑞軒に「日本国中に自分に優る医者が一人いる。それは土州の瑞益である」といわしめた』。『瑞益は土佐に帰り、幡多郡佐賀村から妻をめとり、西川角村より東川角村に移り、幡多郡下田に移って医者をしていた』。『瑞益は医者として優れていただけでなく、仁井田郷を実地踏査して戦国時代の歴史本を書いた。これが有名な』「仁井田郷談」と「仁井田之社伝記」『で、今日』、『仁井田郷の郷土史研究の貴重な文献である。文中には「瑞按ずるに」と私見を述べ、不可解なところは「後日正すべし」というように、独断速断をさけて周到な記述をしている』。享和三(一八〇三)年十月四日、六十七『歳で没した。墓は中村の百笑為松山麓に現存している』とある。但し、以下に注があり、彼の『生年に』は元文二(一七三七)『年の説もある』とあり、『生誕地は西川角となっているが、神ノ西説もある。元慶が神ノ西に在郷していたことによるか』とされ、『瑞益の号を町史では「南巣恕行斎」となっているが』、「仁井田郷談解説」(辻重憲著)『は「南崇恕行軒」とある』とある。最後に、『町史では瑞益の没年を「享保三年(一八一八)」と』して『いるが』、『享年から推定するに享和年間ではないか』。同町史の二三〇ページ『の甲把家系図には「享保三年十月没」とある。ただし、長恒の説明書きに誤記が多いことから』、『信憑不明』とある。この「仁井田郷」は、平凡社『日本歴史地名大系』によれば、『高知県』『高岡郡窪川町仁井田郷』で、『高岡郡西南部、四万十』『川上流域の高南(こうなん)台地を中心とした地域の称。仁井田庄とも単に仁井田ともいう。長宗我部検地の結果は天正一六年(一五八八)の仁井田壱斗俵村地検帳一冊と同一七年の仁井田之郷地検帳九冊にまとめられているが、仁井田之郷地検帳の第一冊に「仁井田之庄」とみえるのみで、他は仁井田之郷となっている。これらの地検帳によると』、『郷域は現』在の『窪川町全域と』、『中土佐』『町の一部にあたる』。『足摺の金剛福(あしずりのこんごうふく)寺(現土佐清水市)供養の奉加官米を「幡多庄官百姓」に割当てたときの正安二年(一三〇〇)一一月日付左大将一条内実家政所下文(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)に「仁井田山参斛五斗」とみえるので、古くは一条氏領幡多』『庄(現中村市・幡多郡など)に含まれていたことが知られる。仁井田之郷地検帳の宮内(みやうち)村・仕出原(しではら)村・川津野(かわづの)村に足摺分四一町六反余が打出されているのは、金剛福寺に寄進された幡多庄「仁井田山」の名残といえるかもしれない。応安四年(一三七一)後三月一三日付の足利義満御教書(長福寺文書)には「幡多庄仁井田村内新在家」とあり、仁井田村とよばれたこともあったようである。この地域が』、『いつのころから幡多庄に属したかは不明であるが、建長二年(一二五〇)一一月日付の九条道家初度惣処分状(九条家文書)にみえる幡多庄の加納地「久礼別符」が現中土佐町久礼(くれ)付近に推定されており、「久礼別符」の成立と大いに関連すると考えられる』とあった。現在の狭義の高岡郡四万十町仁井田はここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)であるが、ここで語られている「五社」は、現在の「高岡神社」で、「一の宮」から「五の宮」まで、総てが、四万十町仕出原(しではら)にある。但し、「五社」の「一の鳥居」は、ずっと北北東の四万十町西川角のここにある(鳥居は現在の仁井田の東直近、五社は南西に当たる。

「先代一条家」小学館「日本大百科全書」の「一条家」によれば、『藤原氏北家』、『五摂家』『の一つ。鎌倉時代の初め、実経(さねつね)が父九条道家』『から』、『所領と邸宅を譲られたことから始まる。この邸宅が一条室町』『にあったことから一条殿といわれ、家名となった。代々摂政』・『関白』『に任ぜられ、近衛』『家、九条家などとともに、公家』『でも重きを置いた。室町中期の兼良(かねら)は学者としても名高い。兼良の長子教房(のりふさ)は戦乱を避け、家領土佐国』『幡多荘(はたのしょう)に下り、その子孫は土佐国司を兼ねて、土佐一条家といわれ、戦国大名化したが、長宗我部』『氏に滅ぼされた。京都では教房の弟冬良(ふゆら)が継いだ。兼良の子で興福寺大乗院門跡』『に入った尋尊(じんそん)も有名である。近世初めには、後陽成天皇』『皇子兼遐(かねとお)(昭良(あきよし))を迎え、家名を存続した。明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は忠香(ただか)の三女である。明治維新後、華族に列し』、『公爵を授けられた』とある。

「忠義公」土佐藩第二代藩主山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。当該ウィキによれば、『山内康豊の長男として遠江国掛川城に生まれ』、慶長八(一六〇三)年に『伯父・一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を与えられて忠義と名乗る』。同十年、『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下、土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。慶長』一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦した。なお、この時』、『預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し、豊臣方に加わるという珍事が起きている』。翌慶長二十年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』慶長十七年に『法令』七十五『条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永』八(一六三一)年『からは』、『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月三日に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「駿河大納言忠長」卿徳川忠長 (慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三三)年)世に「駿河大納言」とも称せられる。第二代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。第三代将軍家光の弟。甲府二十万石に始まり、寛永元(一六二四)年、甲斐・駿河などで五十五万石を領し、駿府城に入る。才知にすぐれ、父母に寵愛されたため、家光には、うとまれたとされ、また一六三〇年頃から乱行が目立ったため、寛永八(一六三一)年、甲府に蟄居、翌年、上野高崎城に幽閉され、寛永一〇(一六三三)年、自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。詳しい奇行・乱行は当該ウィキがよい。

「瑳駝山忠義上人」不詳。

「小倉少助政平」天正一〇(一五八二)年~承応三(一六五四)年)は土佐高知藩士。家老野中直継の信任を得て、仕置役を務める。林産資源の活用を企て、輪伐制(森林を区画に分けて、一区画ずつ、順番に、樹木を伐採・植栽し、一巡する頃までには伐採した森林を再生させる林業政策を指す)を導入、留山(とめやま:領主が優良材の確保・財政赤字補填等を目的に、農民による利用を排除し、面的に取り込んで支配下に置いた直轄林のこと)・留木(とめぎ)制(領主が用材確保や森林保全を目的として特定の樹種を指定し、伐採を制限・禁止した制度)を行った。直継の死後は、野中兼山の補佐役として藩政を推進した。]

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