「怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 仁井田郷足跡石
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「にゐだがう あしあといし」と訓じておく。]
仁井田郷足跡石
髙岡郡仁井田郷に、大石(おほいし)、有(あり)。
其(その)石に長(ながさ)六尺、幅三尺斗(ばかり)の足跡あり。
大指(おやゆび)より、小指迄、備(そなは)り、跟(かかと)有りて、泥土(どろつち)に人の足をふみたるが如く、左の足跡也。
又、五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル強。]斗、南に、同じやうなる岩に、右の足跡、有(あり)。
里人(さとびと)、傳言(つたへいふ)、
「大人(おほひと)、昔時(せきじ)、五町を、一足に、す。」
と、いへり。
『秦始皇時、有二大人一見二臨兆一足跡六尺。』。[やぶちゃん注:出典不詳。]
『洪武時、公孫卿至二東菜一見二大人長數丈一足跡甚大。』。[やぶちゃん注:出典不詳。]
【元本に『西孕(にしはらみ)、岡田山にも、足跡、有(あり)。尋見(たづねみ)るべし。』ノ十七字を朱𭥜(しゆがき)せり。】[やぶちゃん注:「𭥜」は「書」の異体字。「近世民間異聞怪談集成」は判読不能として『□』にしてあるが、ほんまに、同書の判読者、ペエペエの学生にでも丸投げしたものか、レベル、低(ひく)!]
『魏咸煕二年二月見二裏武縣一跡三尺三寸。』。[やぶちゃん注:出典不詳。なお、「煕」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、正字を採用した。]
[やぶちゃん注:所謂、本邦の「ダイダラボッチ」伝承の一つである。私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郞といふ神の名』を参照されたい。以下、漢文部を推定訓読しておく。
『秦始皇時、有二大人一見二臨兆一足跡六尺。』「秦の始皇の時、大人(おほひと)、有り。臨(のぞ)みて兆(うらな)ひて見るに、足跡、六尺たり。」。前漢以前の一尺は二十二・五センチメートルであるから、一メートル三十五センチメートルとなる。「見臨兆」は、「近くに臨んで、目視で測って見るに」の意で私は採っておく。「秦の始皇の時」在位は紀元前二二一年から紀元前二一〇年まで。
『洪武時、公孫卿至二東菜一見二大人長數丈一足跡甚大。』「洪武の時、公孫卿、東䒹(とうらい)に至り、大人(おほひと)の長(たけ)數丈(すうじやう)を見る。足跡、甚だ大(おほ)きなり。」。「洪武の時」これは誤記であろう。通常は、明の初代皇帝洪武帝であるが、「公孫卿」は前漢の第七代皇帝武帝の時代の方士である。されば、武帝の別名「孝武」或いは「漢武」の誤記と思われる。「東䒹」不詳。方士といい、東とくれば、東方にあるとされた「蓬萊」臭いな。当時の一丈は二・一二五メートルであるから、六掛けで十二・七五メートルとなる。
『魏咸煕二年二月見二裏武縣一跡三尺三寸。』「魏の咸煕(かんき)二年二月、裏武縣(りぶけん)にて見る。跡、三尺三寸。」。「咸熙」は三国時代の魏の元帝曹奐(そうかん)の治世に行われた二番目の元号で、魏はこの年を以って、元帝晋王司馬炎に禅譲し、晋が成立し、滅亡した。西暦二六五年である。
「髙岡郡仁井田郷」現在の高岡郡四万十町仁井田(グーグル・マップ・データ)。しかし、この足跡、現存しないようである。ネットでは全く掛かってこない。
『西孕、岡田山にも足跡、有。尋見るべし』「西孕」は現在の高知市孕西町(はらみんにしまち:グーグル・マップ・データ)及び、その東の孕東町が相当する。「ひなたGPS」で示すと、戦前の地図に旧名『西孕』の地区名が確認出来るが、「岡田山」(「をかだやま」と訓じておく)は見当たらない。この西孕地区に限って見ると、南東の半島のピーク174辺りが、「岡田山」のようには見える。]
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