「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 巴新三郎落馬
神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 巴新三郎落馬
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「ともゑしんざぶらう らくば」と読んでおく。]
巴新三郎落馬
昔、巴新三郎といふ人、有(あり)。如何なる人にか、姓氏、未詳(いまだつまbらかならず)。
ある時、「浦の內(うち)」、橫浪村(よこなみむら)を、馬に乘(のり)て通(とほり)けるに、「鳴無(おとなし)の社(やしろ)」を、馬上より、足を、さして、
「あれは、何といふ社ぞ。」
と、里人に問(とひ)けるを、忽(たちまち)、神罰にや、落馬して、死(しし)ける。
死骸(なきがら)を、則(すなはち)、橫浪村へ葬(はうふり)て、今に、塚跡(つかあと)、有(あり)。
鞍は、「鳴無の社」へ納(をさ)めて、是又(これまた)、今に、社内(やしろうち)に殘れり。甚(はなはだ)、古代の物と見えて、全體は、蟲、入(いり)て、大(おほき)に損(そん)ぜり。八分斗(はちぶんばかり)の巴のもよふ[やぶちゃん注:ママ。]、靑貝(あをがひ)を、ふせたるもの也。
[やぶちゃん注:「浦の內」現在の高知県須崎市浦ノ内(グーグル・マップ・データ)。
「橫浪村」「ひなたGPS」の戦前の地図で、旧高岡郡浦內村橫浪である。その位置から、浦ノ内湾湾奥部を挟んで、ほぼ海上を北直線で、一・六三キロメートル位置の横浪半島の根に近い北に伸びた岬の西沿岸に「鳴無神社」がある(この横浪には同神社の遥拝所(グーグル・マップ・データ)もある)。
「鳴無の社」当該ウィキによれば(読みは省略した)、『旧社格は郷社』。『祭神は一言主命』。『本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。参道が海に向かって延びており、「土佐の宮島」とも称される』。『横浪半島によって形成される浦ノ内湾の最奥部付近に、北西向きで鎮座している』。『北方対岸の横浪港に遥拝所があり、市営巡航船の貸切運行を利用することで、そこから湾内の海を縦断して参拝することも可能となっている』。『社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れ』、『雄略天皇』四『年の大晦日に』、『この地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとされる。実際は、鎌倉時代の建長』三(一二五一)年『に創建されたようである』。『一言主命は土佐国一宮の土佐神社と同じ祭神であるが、土佐神社は当神社の別宮であったとされている』。『江戸時代に入り土佐藩』第二『代藩主の山内忠義の命により』、『社殿が造営され、境内が整備された』。『本殿』は『三間社春日造、こけら葺』。『山内忠義により』寛文三(一六六三)年『に造営。柱は朱塗り、貫、組物などには極彩色を施し、天井には村上龍円が描いたと伝えられる天女の舞の絵がある』とあり、同社の『志那禰祭(しなねまつり)は、毎年』八月二十四日『から翌』『日にかけて行われる夏祭で』、二十四『日は宵祭り(前夜祭)で』翌二十五『日に本祭が行われる。本祭では祭のクライマックスとして、漁船』三『隻に神輿を乗せ』、『供船として漁船』二十艘『を従え』、『大漁旗をなびかせて海上を船渡御が行われる』とあるから、位置的にも、古くから、漁師の守り神であったことが察せられる。]
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