「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡籠原川
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「はたのこほりこみはらがは」と訓じておく。]
幡多郡籠原川
幡多郡蜷川村(みながはむら)の內(うち)、籠原(コミハラ)と云(いふ)所に、一宮親王(いちのみやしんわう)の旧跡あり。
其所(そこに)に龍原川と云(いう)あり。
「此(この)川は、親王の用水なりし。」
とぞ。
今に、不淨を洗へば、忽(たちまち)、祟り、有(あり)。
[やぶちゃん注:「幡多郡籠原川」「蜷川村」「一宮親王の旧跡」現在の幡多郡黒潮町蜷川(みながわ:グーグル・マップ・データ)に「尊良親王 (王野山)大野山行在宮」(あんざいのみや)跡がある。これは、後醍醐天皇第一皇子尊良(たかよし/たかなが)親王の配流所であった。当該ウィキ(注記号及び出典はカットした)によれば、『元弘元』(一三三一)年に『発生した』「元弘の乱」『では』、『父と共に笠置山に赴いたが、同城が落ちる前に楠木正成の立てこもる下赤坂城に移った。しかし』、十月三日、『幕府軍に捕らえられ、佐々木大夫判官の預かりの身となった。同月』十『日に検知を受け』、十二月二十七『日に土佐国への流罪の判決が下り、翌年』三『月』『に京都を出立して土佐に流された』。『しかし、尊良親王は土佐を脱出して九州に渡り』、元弘三/正慶二(一三三三)年、『江串』(えのくし)『氏を味方につけて九州で挙兵した』。『鎌倉幕府の九州統治機関である鎮西探題が滅亡し』、『その長の赤橋英時が敗死すると』、五月二十六日、『大宰府に入った』。『その後、父の建武の新政が始まると、京都に帰還した』。鎌倉幕府滅亡の二年後の建武二(一三三五)年、『後醍醐天皇が足利尊氏の行動を疑問視して兵を出し、建武の乱が発生すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌』延元元・建武三(一三三六)年、『一度は九州に落ちた尊氏が』、『力を盛り返して上洛すると、後醍醐天皇は尊氏への降伏を決定する。しかし』、十月九日、『義貞の別働隊が編成されると、異母弟である皇太子恒良親王と共に義貞に奉戴されて北陸に逃れ、翌日』、『越前国金ヶ崎城に入った』。翌年の一月、『尊良親王が拠った金ヶ崎城に、高師泰と足利高経(斯波高経)を主将とする足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き』、三月六日、『自害、義顕や他の将兵』百『余人もまた戦死した』とある。
「龍原川」この名の川は現行では見出せない。行宮との位置関係から見て、現在の「蜷川」の旧名か、その上流の分岐した谷川の名かと思われる。]
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