「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 (同書に云子安の櫻中の宮前左の方に靑々たる櫻木花時芥々として觀賞他に異り……)
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。既に述べた通り、以下の「巻三十七」の最後の十一篇は「目録」に標題が掲げられていないので、冒頭の一部を丸括弧で示すこととする。今回は引用部に「――」を用いた。なお、「同書」とは、前話の甲把瑞益の著「仁井田郷談(にゐだがうだん)」を指す。同書については、そちらの私の注を見られたい。]
同書に云(いはく)、
――子安(こやす)の櫻、中の宮前(なかのみや)、左の方(かた)に靑々たる櫻木、花時(はなどき)、芬々(ふんぷん)として觀賞、他(ほか)に異(ことな)り、行客(かうきやく)、步(あるみ)を止(とどむ)るの、名木、あり。[やぶちゃん注:前話に出た、高岡郡四万十町宮内(みやうち)にある高岡神社中ノ宮(三の宮)の脇に、「兒安花神社」(読みがどうやっても見出せないので、「こやすはなじんじゃ」と清音で読んでおく)がある(総てグーグル・マップ・データ・以下、無指示は同じ)。ストリートビューで確認出来る。御夫婦でお作りになっておられるサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「大的神社」によれば(アドレス内に『koyasuhana』とある)、『この神社は高岡神社の境内社で、高岡神社・中ノ宮の東に隣接して鎮座しています』。『御祭神』は『木花開耶姫命』で、『由緒』(これは画像も張られてある高岡神社社務所の由来解説板から起こされたものである)『「五社のお庭の子安の桜、折って一枝欲しゅうござる」』という歌詞が記されてある。『この唄は、高南の大地四万十町(旧窪川町)で遠い昔から唄い伝えられておりました。この唄は子安神社の桜が美しいから、一枝欲しいと言うだけの意味でなく、安産で子供が健やかに育つ護り神として、霊験あらたかであり、婦女子の尊崇敬慕の心根を表現した唄でございます』。『昔、高岡神社(五社様)の境内に小さな お社が有り、土佐には珍しいしだれ桜がありました。これが子安の宮と唄われた子安神社です。このしだれ桜は、豊臣秀吉が大仏殿の修復のため全国津々浦々に大木の献木を銘じ、土佐の長宗我部元親も命を受けて大木の伐採を行い、当社(高岡神社)でも最大といわれる高さ六十余メートルの大杉を、半山城主津野孫次郎親忠に伐採を命じました。その後、切られた大木の根元は、大地鳴動と共に土中に埋没し、そのあとにぽつりと一本の桜の木がはえ、ある時いずれからともなく白髭の老翁が現われ、その桜を伏拝んでこういいました。『ここに元あった大木は、神木であった。この桜はその木の精である。神の権化である。桜は嬰の木である。即ち子供の守護神であり、安産の神である。尊び崇め祀れ、必ずや』、『ごりやくがある霊験あらたかな神である。』と言って』、『いずことも無く立ち去った。それからは、誰言うこともなく』、『その木を神として拝み、いかなる難産の婦人といえども、その桜の木の葉を護符とすると、不思議に安産したという。しかしこの桜は山内家二代忠義公が、小倉少介政平に命じて五社の五つの社を造営した際』、『慶安五年』(一六五一)年、『藩の武士や人夫が安産の御守りとして、土産に枝を折り、皮をはぎ』、『持ち帰ったため』、『桜は枯れ死してしまった。そこで』、『里人はその桜の枝に小社を造り祀った。これが子安の宮の始である。その宮のほとりに神主が新たに桜を植え』、『後に美しい花を咲かせる大木となったが、これも昭和十四・五年に枯れ、現在』、『社務所前に小木が植えられている。以上が五社神木伝説として伝え継がれており、安産の守護神、子供の守り神様として、霊験あらたかな神と崇拝され、祈願の人、解願の人のお参りも多く、また縁結びの神様としても霊験あらたかと、近年若い男女のお参りも見られます』とある。]
抑(そもそも)、此神木(このしんぼく)は、耆老(きらう)[やぶちゃん注:「耆」は六十歳、「老」は七十歳で、年老いて徳の高い人を指す語。]、傳(つたへ)て云(いはく)、
「古へ、『五社の大杉』とて、四州[やぶちゃん注:四国。]無双の大木、有(あり)。或(あるいは)[やぶちゃん注:底本では『本ノ』と右傍注があり、以下の杉の左傍注で『云也』とある。一方、国立公文書館本(98)では、『大木有【或一本杉とも云也】』(大木、有り【或いは、「一本杉」とも云ふなり】)とあって、この方が躓かずに読める。]一本杉、其(その)長き事、三十五丈余[やぶちゃん注:百六メートル超。これは神話レベルで、実際にはあり得ない高さである。]【「今[やぶちゃん注:「の」が欲しい。]、仕出原(しではら)の新社「三嶋」の前まで[やぶちゃん注:主語がない。「その木の影が」である。]、とゞきける。」となり。里談、譯傳す〕。】[やぶちゃん注:この『新社「三嶋」とは、高岡神社森ノ宮(最後の「五の宮」の南西直近にある大三島神社のことであろう。兒安花神社からは直線で百八十・四八メートルある。]。
往昔(わうじやく)、仁井田、浦々の獵舩(りやうせん)・商舶(しやうはく)、渺〻(べうべう)たる海上(かいしやう)、廿四[やぶちゃん注:距離単位がない。通常の海上距離は「里」が用いられるが、それでは、九十キロメートル超で誇大表記としてもおかし過ぎる(まあ、神話レベルだから、あってもいいか)。反対に尋や丈では、ショボくて話にならん。調べたところ、江戸時代の土佐では、時に一里を五十町としていたケースがあることが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のここにあったが、これだと、もっと長大になってしまう。これまで!]程(ほど)を漕出(こぎいだ)し、此大杉、見えける故に、恰(あたか)も、霧海(きりうみ)の南斗(なんと)、夜途(よみち)の北斗(ほくと)に比して、船を漕ぐの助(たすけ)とす。
然るに、關白秀吉公御時代、慶長二丁酉年[やぶちゃん注:一五九七年。]、洛の大佛殿[やぶちゃん注:方広寺大仏殿。]、御再興、有(あり)けるに、前國司秦元親(はたのもとしか)公[やぶちゃん注:長宗我部元親は自称仮冒(かぼう:偽称に同じ)で「秦氏」を名乗った。]、
「土州の產材を献上せらるべし。」
とて、邦內(くにうち)の神社・寺塔まても、大木の聞(きこ)へ[やぶちゃん注:ママ。]有りけるは、悉(ことごと)く、杣人(そまびと)に仰せて、切出(きいいだ)させらるゝ。髙岡郡へは、津㙒孫次郎親忠に下知せられければ、親忠、此時、本在家郷、尾の川村三瀧社(みたきしや)の神木をも、杣を入れて、切らせられけるに、怪異の事ありければ、親忠、立願(りうぐわん)として、御帶料(おんおびれう)の太刀、三瀧の神社へ、納められ、今に社頭に傳り存(そん)す。同時、五社の大杉をも、切りけるに、切株、五間(ごけん)[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]、有りける。
扨(さて)も、此大杉は、當社第一の神木なるを、元親公の切(きり)給ひければ、四方の里民、眉を顰(ヒソメ)め[やぶちゃん注:ダブりはママ。]、
「神慮も如何(いかが)あるべし。」
と、坐(ざ)に驚(おどろき)けるに、同四己亥年五月十九日、元親公御歲六十一歲、伏見にして、逝去し給ふ。同五庚子年、息(そく)盛親公は石田三成に與(くみ)し、「關ケ原」敗軍の後(のち)、土佐の國、召放(めしはな)され、秦家、一時に滅亡す。
世は澆漓(げうり)[やぶちゃん注:現代仮名遣「ぎょうり」。「澆」・「漓」ともに、「薄い」意で、「道徳が衰えて人情の薄いこと」を言う。]に及(およぶ)といへども、天理、未だ有(あり)けるにや、さしも名髙き神木を切らせられける元親公の、三、四ケ年間に、一族、悉く、滅却(めつきやく)し給ひける事、恐るべし。
[やぶちゃん注:「元親公御歲六十一歲、伏見にして、逝去し給ふ」当該ウィキによれば、慶長四(一五九九)年三月から『体調を崩しだし』四『月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在』したが、五『月に入って重』篤『となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は』五月十日『に盛親に遺言を残して』五月十九『に死去した』とある。
『息盛親公は石田三成に與し、「關ケ原」敗軍の後、土佐の國、召放され、秦家、一時に滅亡す』当該ウィキによれば、「夏の陣」で敗走、慶長二〇(一六一五)年五月十一日、『京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された』。『その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして』五月十五『日に京都の六条河原で斬られた』。『享年』四十一。『これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した』とある。]
扨も、奇也(きなり)ける哉(かな)。其(その)切株、一夜の中(うち)に、百千万人の鯨波(げいは)[やぶちゃん注:大きな叫び声。]、四國中(ぢゆう)、振動し、慶長二年酉十一月十五日夜、上下(うへした)ヘ立反(たちかへ)り、其上に、櫻一本、生出(おひいで)、枝葉も、世の常(つね)ならず。[やぶちゃん注:これは四国を襲った地震と読めるが、データがない。不審。]
然(しか)るに、何地(いづち)ともなく、白髮の老翁、一人、出來(いできた)り、つくづぐと、見給ひて、
「此大杉は、いか成(な)る人のきりけるぞ、神木なるを。又、此きり株、立返(たちかへ)り、櫻の生ひけるは、文字を裁(さい)して孾子(ミドリゴ)の木となるは、子安櫻(こやすざくら)、神變(しんぺん)なり。」
と、告(つげ)て、去りぬ。
是よりして、「子安櫻」と稱し、
「婦女難產の輩(やから)に、此(この)櫻華(さくらばな)・落葉(おちば)、或(あるいは)、枝・皮等を、社家・神主、加持祓(はらへ)し玉(たまひ)、女(をんな)、水(みづ)を以(もつて)、用(もちひ)るに、立所(たちどころ)に安產する事[やぶちゃん注:この「事」は国立公文書館本(99:左丁二行目中央)で補った。]、神妙也(なり)ければ。」
とて、普(あまね)く、國中に流布するのみならず、当時、施(ほどこし)て[やぶちゃん注:国立公文書館本(99)では「施」に「シヒ」とルビする。「施」には「しく・おこなう・もうける・ゆきわたらせる」の意があるので、「行き渡らせる」の意であろう。]、本邦[やぶちゃん注:「本州」のことであろう。]に及べり。
かゝる怪異の事、ありければ、大杉は、元親公の献上をも停(と)め玉(たま)ひ、切棄(きりすて)にして、御當代(おんとうだい)、慶安の御再興の時にまで、年數、五十六ケ年が其間(そのあひだ)、棄置(すておか)れしかば、長き事は、古老、
「見知りけり。」
とぞ。[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げである。]
「愚祖老元周累歲記」に云(いはく)、
『享保六丑八月、岩崎十右衞門、としは、八十七歲也。語(かたりて)、予(よに)、曰(いはく)、
「我(われ)、十八の年のとき、五社、御造營ありけるに、先代元親公の伐られし大杉、今、『子安櫻』のありける所に、本(もと)、ありて、三嶋の前まで、梢(こづえ)、とゞきて、橫たはり居(をり)けるを[やぶちゃん注:「た」は国立公文書館本(99)に、朱で傍注があり、『本のたヲ脱スルカ』に随い、「た」を補った。]、小倉少助殿、下知せられ、東川角(ひがしかはづの)斗(ばかり)、岩(いは)、切(きれ)、拔溝(ばつこう)[やぶちゃん注:「地面が抜け落ちて、大きな溝(みぞ)になることか。]しける時の、橋に渡し、溝、切り拔(きりぬ)きける[やぶちゃん注:「有意な溝を渡れるようにした」の意か。]。」
よし、語る。
渠(かれ)[やぶちゃん注:「彼」に同じ。この語った「岩崎十右衞門」を指す。]、天性、聊(いささかも)不說虛妄(きよまうをとかず)。その事、實跡(じつせき)、うたがひ、なし。」
と、あり。
[やぶちゃん注:「愚祖老元周累歲記」不詳。
「享保六丑」一七二一年。
「岩崎十右衞門、としは、八十七歲也」彼は寛永一二(一六三五)年生まれ。
「十八の年のとき」慶安五・承応元年。一六五二年。
「東川角」現在の四万十町東川角(グーグル・マップ・データ)。現在の仁井田の東に接し、南に高岡神社群がある。]
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