「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 本川郷三岳山
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題「山內刑部」は「ほんがはがうみたけやま」と訓じておく。なお、国立公文書館本(75)では、冒頭に二行で頭書(朱書)して、『元本ニ如此書込アリ』『竒石ノ部ニ入ヘキカ』とある。]
本川郷三岳山
本川郷髙㙒・川崎二ヶ村の堺に、峻岩(タカヤマ)【髙山。元本(もとぼん)、如此(かくのごとく)書出(かきいだ)ス。】[やぶちゃん注:「峻岩(タカヤマ)」に対する右傍注。]、古木、繁り、路、極めて險難、其(その)髙峻成(かうしゆんなる)事、四國の中(うち)に髙山(かうざん)多しと云へども、此山に及ぶもの、なし。
山中に、三つの岳(タケ)、有(あり)。夫故(それゆゑ)に「三嶽山」とも、いへり。
其中の岳(たけ)を「立チ不動」といふ。髙サ十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]余也。不動の形にて、石の面(おもて)に火熖(くわえん)の文(もん)あり。晴天の時は、火熖の如く、赤く、又、曇り日(び)か、雨天の時は、其色、淡(ウス)紫色に変ずる、とかや。
「徃古(わうこ)、此所(ここ)に『三滝寺(みたきでら)』といふ、有(あり)。寺の礎(いしずゑ)、今、猶、殘れり。後(のち)に、与州[やぶちゃん注:「予(豫)州」の誤記。後も同じ。]石槌山(いしづちやま)へ引移(ひきうつ)す。」
と、いへり。
今、按(あんず)るに、与州石槌山は、髙㙒村より、山路(やまぢ)、二、三里を隔(へだて)て、山續き也。徃古、此(この)三岳山を「奧院」と云(いひ)たる事も、あらん。斯(かか)る深山に、寺の有(あり)しも不審也。石槌山は、靈地にて、六月朔日(ついたち)より 十日迠(まで)、參詣をゆるせども、常は禁足の山也。鐵の鎖を手繰(たぐり)て登る山也。此三嶽山も、是に續(つづき)たる靈地成(なる)べし。[やぶちゃん注:「十日迠」の前の二字空けはママ。国立公文書館本(76:右丁五行目中央)でも一字空けがある。]
[やぶちゃん注:「本川郷髙㙒・川崎二ヶ村の堺」「三滝寺」旧本川郷の位置と、「三滝」の名から、「ひなたGPS」で調べたところ、現在の高知県土佐郡大川村川崎に「三瀧山」(戦前の地図)=「三滝山」(国土地理院図)を見出した(標高千百十・七メートル)。恐らくは、ここと、この山体にある東北の千百四十六メートルのピークと、東北東の九百二メートルのピーク辺りが、「三岳」の候補となろうかと思われる。ここと、後に出る石鎚山(最高峰は「天狗岳」で千九百八十二メートル。ここが、四国の最高峰である。愛媛県西条市と上浮穴郡久万高原町に跨る)との位置関係をグーグル・マップ・データ航空写真で示すと、これになる。三滝山から西南西、直線で三十・二四キロメートルで、四国山地内にあり、「石鎚山」「に續(つづき)たる」山と言って、問題はない。
「三滝寺」「石槌山へ引移す」石鎚山の来歴を調べたが、「三滝寺」という寺院があったとする資料はなかったが、ky_kochi氏のブログ「茶凡遊山記」の「野地峰(大川村)~拾遺編~」の「妃ヶ淵(きさきがぶち)」(グーグル・マップ・データでここ。三滝山の東北直線で、二・七キロ弱の位置にある)、『『本川郷風土記』によると、都で雨乞いの祈祷を命じられ、見事に雨を降らせた褒美として、禁中より二人の美女を賜った「釈聖善」という高僧がいた』。『この禁中のはからいを心外として都を去り、四国に渡った「釈聖善」は、先ず大北川の死霊寺、次に木屋野の三滝寺』(この記事によって、この寺は、三滝山の南の尾根、或いは、谷、又は吉野川川岸に実際にあったものと推定出来る。グーグル・マップ・データ航空写真を示しておく)『最後は石鎚山に移り』(これも本話と親和性が甚だ強い)、『石鎚信仰を始めたという』(こうなると、実は石鎚山の山岳信仰の根っこに、この「三滝寺」が関わっているという驚天動地の伝承であることが判る!)。『二人の美女は「釈聖善」を慕い、大川村「朝谷」に来て』、『釈聖善のことを尋ねたが、村人からそのような僧は知らないといわれ』、『世をはかなんだ二人は、それぞれ淵に身を投げて命を絶ったと伝えられ、上段の淵を「妃ケ淵」、下段の淵を「下女ケ淵」と呼ぶようになった、とのことである』とあった。「朝谷」は「あさたに」と読み、現在の土佐郡大川村朝谷(グーグル・マップ・データ航空写真)である。]
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