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2024/10/07

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 佐賀浦大明舩漂着

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「さがうら だいみんせん へうちやく」と訓じておく。]

 

     佐賀浦大明舩漂着

 昔、當国の海邊(うみべ)にて、大明舩、漂流す。

 如何(いかん)ともせんかたなき折(をり)しも、海上へ、「法華(ほつけ)」の題目を書(かき)たる板(いた)、一枚、浮(うか)みたるを見出(みいだ)し、其(その)板の流るゝ方(かた)ヘ、舩(ふね)を、よせければ、幡多郡(はたのこほり)佐賀浦、加嶋明神の本(もと)へ漂着して、人々、命を助かりたり。

 其頃、當(たう)浦に、放光寺といふ法華寺、有(あり)。此寺へ、右の題目板(だいもくいた)と、鰐口(わにぐち)を、明人(みんじん)より、納(をさ)めたり。

 徃昔(わうじやく)、地震の節(せつ)、放光寺、流失して、題目板は散失(さんしつ)し、鰐口も、當時、見へざりしを、年、經て、拾ひ出(いだ)しける由(よし)。

 其後(そののち)、寶永の地震にも、流失して、鰐口を、三年程、經て、砂中(すななか)より堀出(ほりいだ)せり、と云(いひ)つとふ[やぶちゃん注:ママ。国立公文書館本71)も同じ。「つたふ」の当時の口語表現。]。

 鍔口は、今、當寺の什物(じふもつ)となれり。

 放光寺、今は、妙光寺といふ。

 その鰐口の銘、[やぶちゃん注:原文では、以下の銘は二字下げ、最後の作者の附言は、一字下げ。]

『放光寺社頭金口康正二年八月廿七日

 裏『天正十四年貳月彼岸中日納置大明人也』

 康正二年より文化五年まで、三百五十三年に成(なる)也(なり)。

 

[やぶちゃん注:「佐賀浦」現在の幡多郡黒潮町佐賀の鹿島ケ浦の旧称と思われる。現在の佐賀漁港は北で突き出る岬に造られてあるが、当時の漁港は「ひなたGPS」の戦前の地図の、現在の鹿島ケ浦の砂浜海岸、地名『橫濱』とあるところにあったものと推察する。

「大明舩」「康正二年」(ユリウス暦一四五六年)当時の明は、第七代皇帝朱祁鈺(きぎょく)の景泰七年。但し、ウィキの「景泰帝」によれば、翌景泰八年に『病臥し、朝臣より後継者の決定を促す奏上がなされるが、朱見済に嫡子のいなかった景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に』兄で第六代皇帝であった『英宗』(彼はしばしば侵攻していた北方のオイラト(モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住するモンゴル系民族)征伐を正統一四(一四四九)年に敢行するも、逆に捕虜となり、景泰元(一四五〇)年の講和が成立し、英宗は明朝に送還されて軟禁され、太上皇となっていた)『に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは英宗の復辟を画策し、英宗を軟禁されている宮殿から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく英宗が重祚した(奪門の変)。帝位を追われた景泰帝は間もなく崩御したが、暗殺されたとする説もある。享年』三十であったとある。

「幡多郡(はたのこほり)佐賀浦、加嶋明神」これは、鹿島ケ浦の湾口にある「鹿島」にある「鹿島神社」(グーグル・マップ・データ航空写真)のことと思われる。海上安全と大漁祈願の神宮であるが、神聖な神域であるらしく、現在は(も)、この島には、通常は、渡ることは出来ない。

「放光寺といふ法華寺、有(あり)」「放光寺、今は、妙光寺といふ」孰れの、その名の寺は不詳である。現在、幡多郡には日蓮宗の寺院は大月町に一寺あるのみである。

「鰐口(わにぐち)」私の『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を参照されたい。絵もある。

「地震」康正二(一四五六)年以降、文化五(一八〇八)年までの間で、土佐を襲った大地震(寺が全壊・流失するほどのものである以上、それに限定してよかろう)は、「高知県地方気象台」公式サイト内の「過去に高知県に被害を及ぼした地震について」の「高知県内の地震による被害状況」のリストを見ると、

●明応地震:室町後期(戦国初期)の明応七年八月二十五日(グレゴリオ暦換算一四九八年九月二十日)。当該ウィキによれば、『震央は東海道沖と』され、『地震の規模は』推定でマグニチュード八・二~八・四とされる。震源と地域が東に有意に離れるが、『一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が見出され、また』、『発掘調査から同時期の南海道沖』(南海トラフ)『の』同期発生の『地震の存在の可能性が唱えられている』とあった。前掲リンクのリストでも、マグニチュード八・三とし、『詳細は不明(南海トラフ沿いの大地震で、広い範囲に被害を及ぼしたと考えられる。)』とある。

●慶長地震:当該ウィキによれば、『江戸時代初期の慶長』九年十二月十六日(一六〇五年二月三日)『に起こったとされる地震・津波で』、『犬吠埼から九州に至る太平洋岸に大津波が襲来し、津波被害による溺死者は約』五千『(』或いは五『万人という説も)とされる。しかし、地震の揺れの記録が津波記録と比べて少なく、震源やメカニズム・被害規模も不明な点が多い』。『津波は夕方から夜にかけて、犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。津波襲来の範囲は宝永地震に匹敵するが、後の元禄地震津波や宝永地震津波によって多くの史料が流失したものと推定され、また紀州徳川家や土佐山内家らが移封される前後であったなどの世情から、現存が確認される歴史記録は乏しい』とする。「津波」の項には、①『土佐甲浦(高知県安芸郡東洋町大字河内)』で『死者』三百五十『余人』とし、②『室戸岬付近』で『死者』四百『余人』で、「谷陵記」に『よれば』、『室津付近の元』(もと:地名。グーグル・マップの海岸に接する「元甲」「元乙」であろう)『では宝永津浪は慶長津浪より六尺(約』一・八メートル『)低いとある』とし、③『高知浦戸』では『山内一豊入封のとき、浦戸城では前代修築の突堤が慶長九年の激浪のため崩壊した』とあり、前記リストでも『土佐甲ノ浦・崎浜・室戸岬等で死者』八百『人以上』とある。

・宝永地震:当該ウィキによれば、宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、東海道沖から南海道沖』『を震源域として発生した巨大地震』で、『南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている』とし、「被害」の項には、『マグニチュードの推定値には』八・四『から』九・三『まで』とされ、城郭の「櫓・塀・門等の破損」の項に高知城が挙がっており、『本地震では各地で山体崩壊、山崩れが顕著で』、『讃岐では、五剣山の一角が大音響とともに崩壊したと』され、『室戸岬付近では佐喜浜川上流で加奈木崩れが発生した』。『越知(現・越知町)では舞ヶ鼻が崩壊し』、『仁淀川を堰き止め』、四『日間湛水したため「標高』六十一メートル『以下の場所に家を建てるな」と警告する石碑が数ヵ所ある』とあった。また、「推定震度」のリストには、土佐の室津・安芸・ 高知・佐川・須崎・ 窪川・中村・宿毛・ 宿毛大島でマグニチュード六から七の数値が添えられてある。また、「津波」の項には、『土佐の室戸、種崎や須崎など多くの場所で引き波で始まり、紀伊の広(現・広川町)や御坊(現・御坊市)では襲来する波はゆっくりであったが、引き波は激しく人家は取られ多く流失した』ともあり、「津波の被害状況」の表にも高知県だけでも二十もの被害が記されてある。前記リストでも、高知県内に限っても、『主として津波により、死者』千八百四十四『人、行方不明』九百二十六『人、家屋全壊』五千六百八『棟、家屋流失』一万千百六十七『棟』という数字が示されてある。

 以上であるが、最大激震の「宝永地震」は本文の後に出るから、この地震は「明応地震」或いは「慶長地震」のどちらかである。

「金口」「きんこう」と読んでおく。「金」は金属製の意で、「口」は鰐口の下部の反響用の目立つ切れ込み部分を指していよう。

「康正二年子」(丙子:ひのえね))「八月廿七日」グレゴリ暦換算一四五六年十月五日。

「天正十四年貳月彼岸中日」グレゴリオ暦一五八六年の春の彼岸の中日は「春分」であった旧暦の二月十五日で、グレゴリオ暦では四月四日である。

「納置」「をさめおく」。

「大明人也」「だいみんじんなり」。

「康正二年より文化五年まで、三百五十三年に成也」数えで計算している。]

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