「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 比江山掃部
[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここ。標題は「ひえやまかもん」と訓じておく。]
比江山掃部
比江山掃部親興(ひえやまかもんちかおき)は、長岡郡(ながをかのこほり)比江村、日吉の城主にて、元親(もとちか)の家族也。
此時、大髙坂城、普請、半(なかば)にて、掃部介、居宅は、城中、西槨(にしのかく)、權現の社(やしろ)の下、南の方(かた)にて、是(これ)も、普請の下知(げち)して居(をり)ける所に、今度(このたび)、世繼(よつぎ)評定の節、吉良(きら)左京進と倶(とも)に諫言致されしを、久武內藏助(ひさたけくらのすけ)が讒言(ざんげん)に依(より)て、中嶋吉右衞門・橫山修理(しゆり)を檢使に遣(つかは)し、詰腹(つめばら)、切らせける。
其時、子息は、比江より新改(しんがい)へ落(おち)られしが、比江より、植田(うへた)へ行(ゆく)所に、川、有(あり)。其邊にて、植田村の者に行逢(ゆきあひ)て、
「新改の方(かた)へ落行(おちゆき)し事、隱してくれよ。」
と、賴まれしに、彼(かの)者、受合(うけあひ)ながら、追手のものへ、有(あり)のまゝに、つげたりしかば、新改へ、追掛(おひかけ)て、あへなく、殺せし、とかや。
然(しか)るに、右の祟りにや、
「今に至るまで、植田の者は、此(この)川のほとりにて煩付(わづらひつ)けば、死するもの、數〻(かずかず)有り。」
とぞ。
[やぶちゃん注:「比江山掃部親興」(?~天正一六(一五八八)年)は別名を長宗我部掃部助と称した。当該ウィキによれば、『長宗我部氏の家臣。土佐国比江山城』(現在の南国市比江にある「比江山神社」(グーグル・マップ・データ)が旧跡)『主。長宗我部元親』(「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既注)『の従兄弟』。『長宗我部国親の弟・国康の子として誕生。土佐比江山城主であり』、『比江山氏を名乗る』。『四国征伐では阿波岩倉城を守備』した。『元親の長男・長宗我部信親が』、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」(当該ウィキによれば、『豊臣秀吉による九州平定の最中である』天正一四年十二月十二日(一五八七年一月二十日)に、『島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した』とある)で『死去した後の長宗我部氏の後継者騒動の際』、『元親の怒りを買い』、天正一六(一五八八)年十月四日、『または』九『月下旬』『に切腹させられた』。『この時』、元親の弟で長宗我部氏家臣で、長宗我部中村城主・吉良親貞の子。吉良城・蓮池城主であった『吉良親実』(きらちかざね)『も切腹させられた(異説あり)』(ウィキの「吉良親実」によれば、『親実による天正』一七年九月十日(一五八九年十月十九日)『付の西諸木若一王子』(にしもろぎにゃくいちおうじ)『の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また』、「長宗我部地検帳」の中でも』、天正一九年一月1十六日(一五九一年二月九日)『の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に直接』、『知行が宛がわれており』、『彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは天正』十七年九月以降で、天正十九年一月『以前であったと推定される』とある)『他、親興の室と二人の子供も、その一報を聞き逃げる道中もしくは善勝寺にて殺害されたとされている。親興やその妻子、寺の住職など』七『人が殺害または自害し、その死霊が「七人ミサキ」となったという「比江山七人ミサキ」という伝承が残っている』とある。この「七人ミサキ」は当該ウィキがあるので、それを引く(注記号はカットした)。『高知県を始めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊』伝承で、『災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊』とされ、『その名の通り常に』七『人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる』。『七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう』。一『人を取り殺すと』、『七人ミサキの内の霊の』一『人が成仏し、替わって』、『取り殺された者が七人ミサキの内の』一『人となる。そのため』、『七人ミサキの人数は常に』七『人組で、増減することはないという』。『この霊の主は様々な伝承を伴っているが、中でもよく知られるものが』、「老圃奇談」・本書「神威怪異奇談」『などの古書にある土佐国』『の戦国武将・吉良親実の怨霊譚である。安土桃山時代、吉良親実は伯父の長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親の死後、その後嗣として長宗我部盛親を推す元親に反対したため、切腹を命ぜられた。そのときに家臣たち』七『人も殉死したが、それ以来』、『彼らの墓地に様々な怪異があり、親実らの怨霊が七人ミサキとなったと恐れられた。それを耳にした元親は供養をしたが』、『効果はなく、怨霊を鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分、現・高知市春野町西分』(にしぶん)『増井』(ますい))の墓に木塚』(きづか)『明神を祀った。これが現存する吉良神社』(ここ。グーグル・マップ・データ)『である。また』、「土陽陰見奇談」・「神威怪異奇談」に『よれば、親実と共に元親に反対した比江山親興も切腹させられ、妻子たち』六『人も死罪となり、この計』七『人の霊も比江村七人ミサキとなったという』。『また』、『広島県三原市には経塚または狂塚と呼ばれる塚があったが、かつて凶暴な』七『人の山伏がおり、彼らに苦しめられていた人々が協力して山伏たちを殺したところ、その怨霊が七人ミサキとなったことから、その祟りを鎮めるためにこの塚が作られたのだという』。『ほかにも』、『土地によっては』、『この霊は、猪の落とし穴に落ちて死んだ平家の落人、海に捨てられた』七『人の女遍路、天正』一六(一五八八)年『に長宗我部元親の家督相続問題から命を落とした武士たち、永禄時代に斬殺された伊予宇都宮氏の隠密たちなど、様々にいわれる』。『山口県徳山市(現・周南市)では、僧侶の姿の七人ミサキが鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。そのため』、『日が暮れた後は』、『女子供は外出しないよう戒められていたが、どうしても外出しなければならないときには、手の親指を拳の中に隠して行くと七人ミサキの難から逃れられたという』とある。
「久武内藏助」久武親直(?~天正七(一五七九)年)で長宗我部氏家臣。当該ウィキによれば、『久武昌源』(しょうげん)『の次男として生まれる。才能があり』、『策謀家で』、『長宗我部元親・盛親の深い信頼を受けた』。天正七(一五七九)年、『兄・親信が土居清良との戦いで戦死すると、親信の遺領と内蔵助の名乗りを継ぐ』。天正一二(一五八四)年、『元親より』、『伊予軍代に任命され、宇和郡三間』(みま:この附近。グーグル・マップ・データ)『を攻撃、阿波方面では牛岐城主の新開道善を丈六寺で謀殺し、中富川の戦いでは渡河時刻を元親に進言して一軍の攻撃を指揮した。また、羽柴秀吉による四国征伐に際しては』、『長宗我部氏の同盟者で』、『東伊予の防備を担っていた金子元宅に対し』、『書状と起請文を送り、結託を固くしている』。天正十四年、『秀吉による方広寺大仏殿(京の大仏)造立の際には材木の伐採・搬出の監督を務めたが、このときに吉良親実と不和になったという』(☜)。天正一六(一五八八)年、『長宗我部氏の後継問題が起こると、親直は元親の意を汲んで盛親の擁立に尽力し、反対派の親実らと争った』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で『西軍が敗北すると、親直は』、『津野親忠が』、『藤堂高虎と通じて』、『土佐半国を支配しようとしているとして、盛親に親忠を切腹させるよう進言した。しかし』、『盛親がこれを一蹴したため、親忠の報復を恐れた親直は』、『盛親の命令と偽って香美郡岩村に幽閉されていた親忠を切腹させたという。この事件を耳にした徳川家康は盛親の誅伐を決めるが、井伊直政の取りなしにより盛親は辛うじて死罪を免れた』。『その後、長宗我部氏の改易が決定すると、親直は浦戸城を死守しようとする長宗我部遺臣の要求を排して降伏の意見を述べた。開城後は肥後国に赴き、加藤清正に仕えて』千『石を給せられたが、その変節を非難された』。兄『親信は三間に出陣する際、元親に対し「このたびの合戦で討ち死にしたとしても、私の弟の彦七(親直)には私の跡目を継がせないでください。彦七は将来お家の障りにはなっても、役に立つ者ではありません」と進言したという』(「土佐物語」)とある。
「新改」現在の香美市土佐山田町新改(しんがい:グーグル・マップ・データ。中央下に比江山城跡である比江山神社を配してある。拡大されると神社名が出る)。
「植田」現在の南国市植田(うえた:グーグル・マップ・データ)。]
« 「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 幡多郡籠原川 | トップページ | 「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 名野川村明神山 »