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2024/10/18

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 吉良左京進亡霊

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。当該部はここから。標題は「きらさきやうのしんばうれい」と読んでおく。本篇は特異的に非常に長いので、私の判断で、各話の切れ目と認めた箇所に、行空けを施した。この「吉良左京進」は長宗我部氏の家臣で、長宗我部元親の弟で中村城主吉良親貞の子にして、吉良城及び蓮池城主であった吉良親実(ちかざね 永禄六(一五六三)年~天正一七(一五八九)年九月以降没)の受領名。当該ウィキによれば(注記号はカットした)、『幼少の頃から智勇に優れ、元親の娘を娶ることを許されるなど重用された。父の死後、その家督を相続し、一門衆として活躍するが、元親の側近・久武親直とは仲が悪く、いつも対立していた』。天正一四(一五八六)年十二月、『元親の嫡男である長宗我部信親が戦死して跡継ぎ騒動が起こると、親実は長幼の序をもってして』、『元親の次男・香川親和を推し』、四『男である長宗我部盛親を推す久武親直と対立する。このとき、親実は元親に対し』、『たびたび』、『親和を跡継ぎとすることを進言したが、その諫言が』、『かえって元親の逆鱗に触れることになり』、天正一六(一五八八)年一〇月、『親実は比江山親興と共に切腹を命じられたとされる。だが、親実による』天正十七年九月十日(一五八九年十月十九日)附『の西諸木若一王子の棟札が現存しているため、親実の切腹は比江山親興と同時ではなかったことが判明する。また』、「長宗我部地檢帳」の『中でも』天正十九年一月十六日(一五九一年二月九日)『の作成期日が確認できる高岡郡鎌田村の地検帳にて蓮池上様(親実の妻である元親の娘)に』、『直接』、『知行が宛がわれており』、『彼女が既に未亡人として実父元親から直に所領を与えられる立場であったことも確認できるため、吉良親実が切腹を命じられたのは』天正十七年九月以降で、天正十九年一月『以前であったと推定される』。『親実の死後、その墓では怪異が絶えなかったと伝えられており、また現代においても交通事故が起こると「親実のたたり」と言われることがある。それゆえか木塚明神や、四国では有名な妖怪・怪異である「七人みさき」は』、『親実とその主従の無念の死がモデルであるとも言われる』。『子の吉良貞実は姓を町氏』(まちし:先主長宗我部氏の「長」を「町」に代えて音読みしたもの)『に改め、肥後熊本藩細川氏に仕えたが、細川忠興との間で諍いを起こし、堀田正盛に仕えた。その子らは』、『そのまま肥後細川家に仕えて明治に至り、子孫は「長宗我部」姓を称した。熊本県熊本市にある宗岳寺には「長曽我部町家之墓」が存在している』とある。「七人みさき」については、先行する同事件を扱った「比江山掃部」で既注済みであるので、そちらを見られたい。

 

     吉良左京進亡霊

 天正十六年十月四日、吉良左京進親実の方へ、桑名弥次兵衞・宿毛甚左衞門を檢使に遣(つかは)し、終(つひ)に、詰腹をぞ、切(きら)せける。

 其儘、小髙坂に葬りけるが、小石まじりの赤土を、少し、かき上(あげ)、笹垣(ささがき)、ゆひ𢌞(まは)し、さも、淺ましげなれば、何某(なにがし)のしるしとだにも、見へず。其かたさまの人[やぶちゃん注:親族・姻族・家臣・下人等、]までも、後難(こうなん)をや恐れけん、參り候やうの人、なければ、いつとなく、草、茫々と、荒(あれ)にける。

[やぶちゃん注:「小髙坂」この地名(村名)は現在は残っていない。「ひなたGPS」の戦前の地図にある、高知城の真西直近である。

「參吊(まゐりとむらふ)」私が判読した「候やう」は「近世民間異聞怪談集成」では、『□□』と二字分を判読不能としつつ、右傍注で『(弔ふ)』としているのだが、それでは、下の助詞「の」と繋がらないから、ダメである。国立公文書館本85:右丁六行目下方)を見ると、明らかに、「參吊」(まゐりとむらふ)「人」とある。推定補注がおかしい。アカンね、ホンマに。この「近世民間異聞怪談集成」は……。]

 此人、世に在りし程は、元親朝臣(あそん)の甥也(おいなり)、婿也(むこなり)。智、あり、勇、ありしかば、人皆(ひとみな)、恐れ、敬(うやま)ひしぞ、かし。

「今は、牛馬の啼(さけび)にけがされ玉ふ事の、哀れさよ。」[やぶちゃん注:ロケーションの「小髙坂」は低い丘陵で、先のリンクの戦前の地図を見ても、麓には湿田があるから、この牛馬は農耕用の彼らの鳴き声である。]

と、見る人、淚を流しける。

 斯(かか)る所、彼(か)の墓より、夜々(よよ)、火、燃へ出(いで)たり。

「『妄執(まうしふ)ふかき人の墓には、必ず、ほむら、燃(もゆ)る。』と聞(きく)。いたはしや、此人は『無失(むしつ)の讒(そしり)』に、失ひしかば、恨(うらみ)あるも、理(ことわ)りなり。」

と、袖をしぼらぬ人も、なし。

 

 ある夕暮の事なるに、二淀川(よどかは)の渡し舩(ぶね)を、西の方(かた)より、呼(よび)かくる故、渡しもり、急ぎ、舩を漕(こぎ)よせて、見れども、人も、なし。

『扨は、此方(こなた)の事にては、無かりしか。』

と、おもふ所に、その形は見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず[やぶちゃん注:ここは底本では崩し字が、異様で判読が出来ないため、国立公文書館本85:左丁後ろから五行目中央)で判読した。]、人、數多(あまた)、舩に乘る音して、

「急ぎ、向ふへ、渡せよ。」

と、いふ。[やぶちゃん注:「いふ」は、国立公文書館本で補った。]

 渡し守、大(おほき)に恐驚(おそれおどろき)、東の岸へ漕付(こぎつけ)ければ、その時、舩より、皆、上る音、しけるが、跡なる人[やぶちゃん注:殿(しんがり)の者。]と覚へ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]て、

「渡守、是は蓮池左京進殿[やぶちゃん注:これは吉良親実の名乗りの一つである。]にて在(まし)ます也(なり)。不義の奴原(やつばら)に、目に物、見せんと、眷屬を具(ぐ)せられ、大髙坂へ御越(おこし)(ある)有ぞ。今に、不思議を聞(きこゆ)べし。又、御歸りにも此舩に召(めさ)るべし。かまへて、汝、恐るゝ事、なかれ。」

と云捨(いひすて)て、跡より、追付(おつつけ)よせに[やぶちゃん注:素早く追っ付け寄せて。]、有(あり)けるが、其後(そののち)は、音も、せず。

 渡し守りは、肝魂(きもたま)も、身に、そはず、急ぎ、我家(わがや)へ立歸(たちかへ)り

「斯(かか)りける事の、ありし。」

と語りければ、聞人(きくひと)、舌を震(ふる)はして、身の毛、よだちてぞ、覺へける。

何成(いかな)る事か。出來(いでき)ん。」[やぶちゃん注:小さな「如」は筆写者が落して、後から、添えたものであろう。]

と、耳を傾け、聞く所に、久武内藏助(ひさたけくらのすけ)が男子(なんし)、五、六歲斗(ばかり)なるが、庭に出(いで)て遊びける所に、何所(いづく)ともなく、老女(らうぢよ)、來(きたり)て、

「扨も、美しき若殿や。」

と、云ひて、抱(いだ)かんと、せしが、小兒、

「わつ。」

と、啼(さけび)て、絕入(たえいり)たり。[やぶちゃん注:気絶した。]

あたりの、男女(なんによ)、大きに驚き、

「水よ、藥よ、」

と、ひしめくうち、人心地(ひとごこち)出來(いでき)しかば、人々、

「扨も。老女は如何(いか)なるものぞ。」

と、尋(たづね)れども、再び、見へず。

「是は、只事(ただごと)に非らず。」

と、有驗(うげん)の僧を招(しやう)して、祈禱加持する所に、小兒、俄(にはか)に狂ひ出(だし)、聲を上(あげ)て、

「惡人を、生(いけ)て、置くべきか。」[やぶちゃん注:「生(いけ)」の「け」は国立公文書館本(86:左丁三行目下方)で、外に出しているものを採用した。]

と呼(よばひ)て[やぶちゃん注:「呼て」は国立公文書館本86:左丁五行目上方)にあるものを採用した。]、手足を、しめ[やぶちゃん注:手足を硬直させて。]、身を震(ふる)はし、晝夜、苦痛して、狂ひ死(じに)にぞ、したりける。無慙(むざん)なりし事どもなり。

 内藏助、身もだへして、悲しむ事[やぶちゃん注:「事」は底本になく、国立公文書館本86:左丁六行目中央)で補った。]、限り無。その七日(なぬか)に当りける夜、久武が惣領の男子、一間(ひとま)なる所に、立籠(たちこも)りて、

「南無阿弥陀仏」

と髙聲(かうせい)に唱へたり。

 家內(かない)の男女(なんによ)、怪(あやし)みて、急ぎ、行(ゆき)、見れば、腹、一文字に掻切(かききり)て、血に、まみれたり。

 内藏助、泣々(なくなく)、

「何故(なにゆゑ)に自害してけるぞ。」

と、問(とひ)ければ、

「元親朝臣の御掟(ごぢやう)にて、檢使、二人、參りし故、力なく候。」

と、いひもあへず、息、絕(たえ)たり。

 いかなる者が、目に見へけん、不思議といふも愚(おろか)也(なり)。

 内藏助が妻、是を聞(きき)て、悲しみに絕(たえ)ずやありけん、其夜、やがて、自害して果ける、とぞ。

 是を、聞ける人毎(ひとごと)に、

「扨は。二淀川の渡守が云(いひ)しも、偽(いつは)りならず。」

と、身を震はしてぞ、恐れける。

 久武が子、八人、有りしが、斯の如く、或(あるい)は自害し、或は亂心、又は、さまざまざまの不思議ども、ありて、悉(ことごと)く、死して、末子(ばつし)、只、一人、生殘(いきのこ)りけるが、慶長五年[やぶちゃん注:一六〇〇年。同年九月、「関ヶ原の戦い。]、長宗我部沒落の後(のち)、九州の方へ立越(たちこし)ける、とぞ。

[やぶちゃん注:「久武内藏助」「比江山掃部」で既出既注だが、重要な人物なので、再掲する。長宗我部氏家臣久武親直(?~天正七(一五七九)年)。「内藏助」は通称。当該ウィキによれば、『久武昌源』(しょうげん)『の次男として生まれる。才能があり』、『策謀家で』、『長宗我部元親・盛親の深い信頼を受けた』。天正七(一五七九)年、『兄・親信が土居清良との戦いで戦死すると、親信の遺領と内蔵助の名乗りを継ぐ』。天正一二(一五八四)年、『元親より』、『伊予軍代に任命され、宇和郡三間』(みま:この附近。グーグル・マップ・データ)『を攻撃、阿波方面では牛岐城主の新開道善を丈六寺で謀殺し、中富川の戦いでは渡河時刻を元親に進言して一軍の攻撃を指揮した。また、羽柴秀吉による四国征伐に際しては』、『長宗我部氏の同盟者で』、『東伊予の防備を担っていた金子元宅に対し』、『書状と起請文を送り、結託を固くしている』。天正十四年、『秀吉による方広寺大仏殿(京の大仏)造立の際には材木の伐採・搬出の監督を務めたが、このときに吉良親実と不和になったという』(☜)。天正一六(一五八八)年、『長宗我部氏の後継問題が起こると、親直は元親の意を汲んで盛親の擁立に尽力し、反対派の親実らと争った』。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で『西軍が敗北すると、親直は』、『津野親忠が』、『藤堂高虎と通じて』、『土佐半国を支配しようとしているとして、盛親に親忠を切腹させるよう進言した。しかし』、『盛親がこれを一蹴したため、親忠の報復を恐れた親直は』、『盛親の命令と偽って香美郡岩村に幽閉されていた親忠を切腹させたという。この事件を耳にした徳川家康は盛親の誅伐を決めるが、井伊直政の取りなしにより盛親は辛うじて死罪を免れた』。『その後、長宗我部氏の改易が決定すると、親直は浦戸城を死守しようとする長宗我部遺臣の要求を排して降伏の意見を述べた。開城後は肥後国に赴き、加藤清正に仕えて』千『石を給せられたが、その変節を非難された』。兄『親信は三間に出陣する際、元親に対し「このたびの合戦で討ち死にしたとしても、私の弟の彦七(親直)には私の跡目を継がせないでください。彦七は将来お家の障りにはなっても、役に立つ者ではありません」と進言したという』(「土佐物語」)とある。]

 

 爰(ここ)に五月(サツキ)新三郎といふもの、あり。内藏助が從㐧(いとこ)なり。國澤[やぶちゃん注:不詳だが、高知城跡の近くの北、及び、東の地区内に同名の協会や社名が存在するので、その附近かとは思う。]より小髙坂へ、所用有(あり)て、夕暮に及んで、親實の墓の邊りを行(ゆく)所に、やんごとなき女性、年の頃、二八(にはち)[やぶちゃん注:数え十六歳。]斗(ばかり)なるが、あでやかなる衣裳を着て、薄衣(うすぎぬ)を手に持(もち)、打(うち)しほれたる風情(ふぜい)にて、淚ぐみて、たゝずみたり。

 新三郎、是を見て、

『斯(かか)る姿もあるものか。』

と、心(こころ)空(そら)に成りて[やぶちゃん注:すっかりその女に気を取られて。]、足もとも、たどくしく、しばし、忙(せか)れて[やぶちゃん注:気がせいて、苛立ち。]立(たち)けるが、

『いやいや、ケ樣(かやう)の人の、此邊(このあたり)にあるべしとも覚へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。如何樣(いかさま)、變化(へんげ)の、我を訛(ばか)する[やぶちゃん注:私の当て読み。]にや。』

と、おもひしが、能〻(よくよく)、案じ、

『何者にもせよ、是を見すてゝは、爭(いかで)か行(ゆく)べし。』

と、

「つかつか」

と立(たち)より、

「是は、此あたりには、見馴(みなれ)ぬ事也(なり)。しかも、夜陰に及び、何故(なにゆゑ)、爰(ここ)には御座(おは)しけるぞ。」

と懇(ねんごろ)に尋ねければ、女房、荅(こたへ)て云ふやう、

「恥敷(はづかし)ながら、わたしは秦泉寺(じんせんじ)[やぶちゃん注:現在、高知市のここ、高知城北に東秦泉寺(ひがしじんせんじ:グーグル・マップ・データ)があり、その西に「北~」・「中~」・「西~」を冠した秦泉寺地区がある。「ひなたGPS」の戦前の地図及び国土地理院図では『秦泉寺』と記す。]のものにて候が、本年の春、國澤へ緣に付(つき)て參(まゐり)候(さふら)ひしが、夫(をつと)の心、いつしか、移りかはり、みづから、捨られ參らせ、ねたましく思ひ候へども、流石(さすが)、情(なさけ)も、すてがたく、明暮(あけくれ)、淚にくれ候ひしが、今は忍ぶも、しのびかね、『如何成(いかなる)淵へも身を投(なげ)ばや。』と、百度(ももたび)、おもひ候へども、二、三年先きに、父に放(はな)れ、母、壱人(ひとり)、さびしく、みづからを、月とも、花に、おもひ給ふ故、空しくなりぬと、聞(きこ)しめさば、歎(なげき)を、かさねさせ參らせん事を、『不孝の至り。』[やぶちゃん注:底本(左丁四行目中央)は「不」がない。国立公文書館本88:右丁後ろから三行目下から四字目)で補った。]と、おもひかへし、『兔(と)に角(かく)、母と一所(いつしよ)にいかにもならばや。』と、潛(ひそか)に國澤を、しのび出(いで)ては候へども、秦泉寺の道筋をも、しり參らせず、殊に、日暮に及(および)ぬれば、又、立歸(たちかへ)るべき事も成らず、此夜を、何としてか、明(あ)かし申(まうす)べき。」

と、かきくどき、淚にくれてぞ、居たりける。

 新三郎、

「あな、いとをし[やぶちゃん注:ママ。「おとほし」。気の毒である。]。御身より外(ほか)に、また、增(ます)はな[やぶちゃん注:「增花」この場合は、「優れた美しい女性」の意。]も、あるものかは。さあらば、某(それがし)、送り屆け參らせん。」

と、いへば、女房、

「あな、嬉(うれ)し。さりながら、伴(ともな)ひ參り度(たく)は候へども、國澤より、若(もし)や、追手(おつて)の來(きた)らん事を恐れ、道も、なきかたを、あなた、こなたと、さまよひて、足を傷(いた)め候へば、今は、一足(ひとあし)も、ひかれ候はず。今宵(こよひ)は、此(この)堂の邊りにて、夜を、あかし候はん。」

と、袖を、顏におしあてゝ

「さめざめ」

と泣(なき)ければ、新三郎、

「御心(おこころ)やすく思召(おぼしめせ)。某、負(おひ)て、おくり屆(とどけ)參らすべし。是も、『他生(たしやう)の緣(えん)』ぞかし。さらば、此方(こなた)へ。」

と、前に踞(うづくま)りければ、女房、

「につこ」

と、打笑(うちわら)ひ、

「仰(おほせ)に、まかせ候はん。」

と、頓(やが)て、後(うしろ)に、よりかゝりける。

 半町[やぶちゃん注:約百六十四メートル。]斗(ばかり)ゆく所に、俄(にはか)に、大磐石(だいばんじやく)の推(お)す如く覚へ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、

「不思議や。」

とて、振り仰(あふ)ぎて、是を見れば、さしも、うつくしかりつる此女房、長(たけ)、七尺[やぶちゃん注:二メートル強。]斗の鬼と成りて、額(ひたひ)に、二つの角(つの)、生(はや)し、眼(まなこ)の日月(じつげつ)の如く成(なり)けるが、

「我(わが)行(ゆく)かたは、此方(こなた)ぞ。」

と、新三郎が髮を、𤔩(ツカ)みて、提(さ)げ、七、八間[やぶちゃん注:十二・八~十四・五メートル。]も、飛行(とびゆき)ける。

 新三郎、少(すこし)も、さはがず、腰の刀を拔(ぬき)て、空樣(そらざま)に、はらひければ、鬼神(きしん)、是にや、恐れけん、田の中へ、

「どふ」

と、落(おと)したり。

 落されて、新三郎は、暫(しば)し、前後も、しらざりしが、やゝ有(あり)て、少し、人心地(ひとごこち)も出來(いでき)しかば[やぶちゃん注:以上の「「やゝ有て……」以下は国立公文書館本(89:左丁一行目中央から)で補訂した。]、頓(やが)て、起き上り、四方(しはう)を見𢌞(みまは)しけれども、目にさへぎるものも、なし。夜も、ほのぼのと、明(あけ)ければ、

『此儘(このまま)、歸らんは、如何(いかが)なり。』

と思案し居(をり)たりけるが、扨(さて)しも、有(ある)べき事ならねば、泥に、まみれてぞ、歸(かへり)ける。

[やぶちゃん注:話柄としては、直に続いているが、初期怪異はここで終わっており、以下は後日談であり、長くなってしまうので、ここで行空けをした。

「五月(サツキ)新三郎といふもの、あり。内藏助が從㐧(いとこ)なり」久武親直の兄久武親信(ちかのぶ 天正七(一五七九)年)の子であろう。ウィキの「久武親信」によれば、この親信は、弟とおなじく「内藏助」を名乗っていた。『名は親定とも』。『土佐国(現・高知県)の武将・久武昌源の子として誕生。弟に久武親直がいる』。『土佐国の戦国大名・長宗我部元親に仕え、その誠実な性格から元親に重用され、高岡郡佐川城を与えられた』。天正五(一五七七)年、『伊予国南部(現・愛媛県南予地方)方面の軍を担当する総指揮権(伊予軍代)を与えられ、川原崎氏を討つ。しかし』、天正七(一五七九)年に、『伊予宇和郡岡本城を攻撃中に、城を守る土居清良』(どいきよよし)『の奇略に遭って討ち死にした』。『親信は有馬温泉で羽柴秀吉と会見したことがあり、そのとき、秀吉の器量のほどを知ったといわれている』。彼は『弟・親直へは』、『常々』、『危惧を抱き、岡本城攻防戦で討死する直前、主君・元親に向けて「弟の彦七(親直)は腹黒き男ゆえ、お取立て召されるな」と言い残したといわれている。この危惧は的中し、親直は讒言を繰り返して反対派を粛清、元親の跡を継いだ四男・長宗我部盛親の代になっても盛親の三兄・津野親忠の殺害に絡むなど暗躍したため、関ヶ原の戦いでの敗戦後に長宗我部氏を改易へ導く要因となった』とある。]

 

 是を見て、皆人(みなひと)、不審しける故、

「斯(かか)りける事、ありける。」

と、有(あり)の儘(まま)、語りければ、

「何條(なんでう)、さる事の、あるべき。古狸(ふるだぬき)にばかされ、田に入(いり)、泥にまみれたる恥かしさに、いう[やぶちゃん注:ママ。]らん。いざ、彼(かれ)のころび入(いり)たる田を見て、笑はん。」

とて、二人、連(つれだち)て、小髙坂、さして、行(ゆく)所に、向ふより、大名とおぼしくて、大勢、さゞめきわたりて、來(きた)る。

 二人は、

「誰(だれ)ならん。」

と、近付(ちかづき)、見れば、左京進、在世の姿にて、目と目を見合せたるが、二人は、驚き、

「はつ。」

と、云ふて、馬より下りければ、左京進、

「何某(なにがし)殿、久しう候。」

と申さるゝと覚へて、絕入(たえいり)ぬ。

 暫くあつて、人心地(ひとごこち)、出來(いでき)て、見れども、其行方(そのゆくへ)は、なかりける。

 夫(それ)よりして、

「左京進の怨霊(をんりやう)、現れぬ。」

といふ程こそ、あれ。

 路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)者、或(あるい)は、鬼形(きぎやう)と成(なり)、天狗と成り、又は、女(をんな)と變じ、男(をとこ)と成り、忽(たちまち)、踏殺(ふみころ)し、目を、まはせ、人に、のり移り、口走(くちばし)りて、樣々(さまざま)の事を、言ひ、のゝしる。

 初(はじめ)の程は、小髙坂の墓の邊(あたり)、蓮池(はすいけ)の城[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。吉良親実が城主であった。]下のみ、斯(かく)の如くなりしが、後(のち)には、在々所々(ざいざいしよしよ)、怨霊の至らぬ處も、なし。

 國人(こくじん)、是を「七人みさき」と名づけて、恐るゝ事なり。

 「七人」とは、「宗安寺の真西堂」・「吉永飛騨守」・「勝賀㙒次郎兵衞」・「吉良彥大輔」・「城內太守坊」・「日和田与三右衞門」・「小嶋甚四郎」、是(これ)也。

 左京進、供(とも)に「八人」なれども、恐れて、數(かず)に不入(いれず)、とかや。

[やぶちゃん注:「高知市春野郷土資料館」公式サイト内の「はるの昔ばなし」の「七人みさき」が最も詳しく、しかも、読み易い。長いので、引用は、ここに出た人物の読み方の部分のみ、とする。『永吉飛騨守、宗安寺信西〔そうあんじしんぜい〕、勝賀野次郎兵衛〔しょうがのじろべえ〕、吉良彦太夫〔きらひこだゆう〕、城内大守坊〔しろうちたいしゅぼう〕、日和田与三衛門〔ひわだよざえもん〕、小島甚四郎〔おじまじんしろう〕』である。]

 此由を、元親朝臣(あそん)へ申(まうす)者、あれども、

「何條(なんでう)、夫(それ)は、女(をんな)・童(こども)、天狗・化物(ばけもの)の沙汰を聞(きき)て、「針」を「棒」に言(いひ)なせるものなり。取上げ、評するに、足らず。」

とて、耳にも入(いれ)玉はねば、其後(そののち)、怪異、有れども、重(かさ)ね申ものは、無(なか)りけり。

 されども、怨靈、至らぬくまも無ければ、大髙坂の城中にも、不思議、有(あり)て、元親朝臣の目にも、みへ[やぶちゃん注:ママ。]、耳に入(いる)事、度々(たびたび)なりしかば、

「扨は。かの者共が靈魂、人の言(ことば)も偽(いつはり)ならず。」

[やぶちゃん注:「と」が欲しい。]初(はじめ)て、信(しん)を起(おこ)し、宣(のたま)ひけるは、

「彼の者どもが恨みをなすも、理(ことわ)り也。一朝(いつてう)のいかりに理を失ひ、多年の功を空敷(むなしく)したる事、我ながら、淺間(あさま)しく、今更(いまさら)に、千(ちたび)、侮(くい)すとも、甲斐なし。法法事[やぶちゃん注:ママ。「法」の衍字。国立公文書館本91:右丁四行目終り)では「法事」である。]をなして、怨靈をなだめばや。」

と、國分寺[やぶちゃん注:旧国分寺跡はここ(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。但し、ここで法事が行われのは、そのすぐ後ろにある国分寺。]におひて[やぶちゃん注:ママ。]、數(す)十人の僧を請(しやう)じ、さまざまの善(ぜん)[やぶちゃん注:「作善(さぜん)」。供養。]をなし玉へば、參詣の上下(かみしも)、踵(きびす)をつらね、見物の貴賤、身(み)を側(そばだて)、堂上・堂下に群集(ぐんじゆ)せり。結緣(けちえん)には、元親朝臣も參詣有(あり)。

 既に讀經、初(はじま)り、上下、鳴りを靜めて、感(かん)に絕(たえ)、聽聞(ちやうもん)する所に、位牌、一度(いちど)に[やぶちゃん注:「同時に」の意。]、動きたり。

「こは、いかに。」

と、見れば、親實の位牌を先(さき)に立(たえ)て、其外(そのほか)の位牌、段々(だんだん)に、佛檀(ぶつだん)より下(くだ)り、數(かずかず)の備物[やぶちゃん注:ママ。「供物」。](そなへもの)も、次㐧次㐧に供(とも)する如く、行列を、なして、後(うしろ)の山の方へ行(ゆき)て、終(つひ)に、行方(ゆくへ)しれず、なりける。

 僧、俗、男女(なんによ)、驚、讀經を止めて、一言(いちごん)出(いだ)すものも、なし。

 上下、ひそめきあへり。

 其時、虛空に、數(す)十人の聲して、一度に、

「どつ」

とぞ、笑(わらひ)ける。

 元親朝臣も、あきれはて、

「さらば、国中(くにぢゆう)、諸宗の寺々にて、法事を、せよ。」

とて、時日(じじつ)を定め、二夜三日(ふたよみつか)の勤行(ごんぎやう)ある所に、寺々の僧、悉(ことご)く、同じやうに、右の方(かた)へ見返りたる如く、首を、ねぢて、手足も、働かず、唯(ただ)、息(いき)する斗(ばかり)にて、三日三夜(みつかみよ)、苦しみ、四日に當りける朝(あした)、みな、一度に、本(もと)の如くにぞ、成りける。

 不思議なる事どもなり。

 元親朝臣、大(おほき)に仰天あり、

「いかにしてか、怨霊を、靜(しづ)むべき。」

と、宣(のたま)ひければ、老臣ども、申けれ[やぶちゃん注:底本では「れ」の右に小さく「る」をひらがなで打つ。]は、

「昔、菅相丞(くぁんしやうじよう)の御霊(ごりやう)も、神に、いはひて、靜(しづま)らせたまふと申傳(まうしつた)へ候。蓮池殿も、神に祭り玉へかし。」

と、申しければ、

「此義(このぎ)、実(げに)も。」

と感ぜられ、

「宮居(みやゐ)を、何所(いづこ)にか、定めん。」

と、各(おのおの)、詮義する所に、傍(かたはら)に、八、九才斗(ばかり)成(なる)童子ありけるに、俄(にはか)に狂ひ出(いで)、

「吾は、是(これ)、蓮池左京進殿の御使(おんし)也(なり)。左京進、神に、いはゝんとの詮義、上(うへ)なく、悦(よろこび)玉ふ也[やぶちゃん注:以上の「左京進、神に」以下の一文は底本には、ない。国立公文書館本92:右丁後ろから二行目)で補った。]。木塚(きづか)の山に、社(やしろ)を立(たて)て、祭(まつり)を、なさしめば、重(かさね)て、しるしを見せ申(まう)し[やぶちゃん注:国立公文書館本92)では、「し」は「す」で、そちらが正しい。]まじ。疑ふ事、なかれ。」

と、いひて、走り出(いで)て、倒(たふ)れける。

 暫(しばらく)有(あり)て、何心(なにごころ)なく、立歸(たちかへ)る。

 各(おのおの)、奇異のおもひを、なし、則(すなはち)、吾川郡(あがはのこほり)、木塚の山に、宮床(みやどこ)[やぶちゃん注:あまり聞かない語であるが、神聖な神を祀る結界地(禁足地)の意であろう。]を定め、地形を定(さだめ)、工匠(こうしやう)を鳩(あつ)めて[やぶちゃん注:「鳩」には動詞として、この意がある。]、程なく、社(やしろ)、成就して、鎭(しづ)め、祭(まつ)らせ玉ひける。

[やぶちゃん注:「木塚の山」「比江山掃部」で既出既注であるが、再掲すると、旧西分村益井・旧吾川郡木塚村西分で、現在の高知市春野町西分(にしぶん)増井(ますい)にある旧「木塚明神」、現在の吉良神社(グーグル・マップ・データ)である。但し、以下の話によるならば、その対岸の現在の森山地区に元の「木塚明神」はあり、後に現在地に移したことが判る。

 「胎謀記事」に云(いはく)、[やぶちゃん注:「胎謀記事」前に既出既注だが、国立国会図書館デジタルコレクションの「土佐名家系譜」(寺石正路著・昭和一七(一九三二)年高知県教育会刊)のここに、書名と引用が確認出来る。土佐藩史・地誌のようである。]

『馬醫(ばい)山脇孫之進、曾祖父は、吉良氏に、つかへ、先々(さきざき)、孫之進、慥(たしか)に申傳(まうしつた)へ有(あり)て、黑田又左衞門へ、ものがたり、有りし由(よし)。墨田氏の咄(はなし)に、

「我等、幼少の時分、養父、森屋敷(もりやしき)に住居(すまゐ)致し、恙(つつが)なく存じたる事也。森屋敷前方(まへかた)は、今より、余程(よほど)、廣き山にて、若きもの、集りたる。」[やぶちゃん注:「森屋敷」思うに、現在の「吉良神社」の直近の甲殿川(こうどのがわ)の対岸地区には春野町森山(グーグル・マップ・データ航空写真)があるから、その辺りの丘陵の麓の人家のある辺りを「森屋敷」と呼んでいたものと考えられる。「ひなたGPSの戦前の地図も見られたい。

と也(なり)。

「相撲場(すまふば)に致しける也。前は『七人みさき』の墓、七つ、有(あり)けるを、改葬せし。」

と也。

 年曆(ねんれき)、不知(しれず)、親實の遺骨を、木塚へ納(をさ)め、其上に社(やしろ)を建立(こんりふ)、「木塚明神」と號す。

 古老の傳說に、

「左京進殿は大男にて[やぶちゃん注:底本(左丁六行目)では、はっきり「が」と見えるが、国立公文書館本93:右丁二行目)には、はっきりと「にて」とあるので、そちらを採用した。]有(あり)し。改葬の時、臑(スネ)の皿(さら)、有(あり)けるが、甚(はなはだ)大(おほき)なる皿にて、並々(なみなみ)の人の皿とは、見へざりし。」

と、云ふ。

 木塚明神を、小髙坂森屋敷へ、勸請したる年曆、不知(しれず)。

 松村茂左衞門扣屋敷(ひかへやしき)に、小社(しようしや)、有(ある)故、松村氏、祭主と成りける。

 二月二日・九月二日、兩度の祭禮也。

 神燈(しんとう)を、過分(かぶん)、掛け、祭禮を賑々(にぎにぎ)しく成(な)したるは、僅(わづか)、二十年に不足(たらず)。

 社(やしろ)の北へ、道を付け、鳥井[やぶちゃん注:ママ。](とりゐ)を建(たて)し事は、寶曆八年也。

 近年、又、宮を造營して、前よりは、結構(けっこう)に成(なり)たり。

 五十年前は、今の社(やしろ)の北は、餘程の山にて、樫木(かしのき)あつて、其本(そのもと)に、五輪など、有(あり)けるといへど、いつとなく、山を堀崩(ほりくづ)し、畑(はた)に成(な)しける。

 世の移りかはる事、如此也(かくのごときなり)。』。[やぶちゃん注:以下は底本も改行している。]

 或云(あるいはいふ)、

「天正十九年十月二日[やぶちゃん注:先に引用した通り、当該ウィキでは、彼の切腹は同年一月以前が下限とする。]、吉良左京進殿、小髙坂の亭にて自害せられ、西分村一の井山(いちのゐやま)に葬(はうふ)る。親実の草履取(ざうりとり)、右衞門といふ者、あり。薙髮(ちはつ)して、僧と成り、遁跡(とんせき)[やぶちゃん注:漢語で「隱遁」に同じ。]したり。寛永七年[やぶちゃん注:一六三一年。家光の治世。]、又、此處(ここ)に來(きた)り、社(やしろ)の荒廢したるを悲しみ、隣村へまで、勸化(くわんげ)して、社を、新たに建立(こんりふ)して、左京進殿の刀・脇差を、社內(やすろうち)に納めて、「西大明神」と號す。其後(そののち)、寛文六年[やぶちゃん注:一六六六年。家綱の治世。]、本藩(ほんはん)の世卿(せいけい)[やぶちゃん注:底本ではこの二字の右に黒字で「本ノ」とある。]山内丹波殿、一の井山の墓を、改葬し、此地へ移して、其上に、社を建立、といふ。

[やぶちゃん注:「本藩の世卿」「卿」(公的には最低で四位の参議までを指し、別に、君主が親しみを込めて臣下に呼びかける語)が不審。それを筆写者は傍注したものであろう。この時の土佐藩は第三代藩主山内対馬守忠豊(従四位下侍従)で、彼には忠直・一安(かつやす)・之豊(ゆきとよ)の弟がいるが、「卿」と指す位は、当然、受けていない。

「山内丹波」「丹波」と名乗る者は、藩主・家老・家臣を含めて、私が調べた限りでは、いない。]

 

 又、一説、

『吉良親実の諫死(かんし)は、天正十八年庚寅(かのえとら)[やぶちゃん注:前の割注通りで、一説としては有効である。]、于時(ときに)、廿六歲也[やぶちゃん注:この説に従うなら、未詳である彼の生年は、永禄八(ユリウス暦一五六五年二月一日から一五六六年一月二十一日まで)年となる。]。社(やしろ)は、吾川郡木塚村、益井渕山(ますゐぶちやま)上(うへ)に有(あり)。星霜(せいさう)ふり、神廟(しんべう)も頽廃(たいはい)に及びけるに、寛文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。]、山內下總殿(しもふさどの)内室(ないしつ)、大(おほい)に、造營、有(あり)。夫迄(それまで)は、小社(しやうしや)にて、神号(しんがう)もなかりしが、右(みぎ)造營の時より、「木塚明神」と神号を稱す。』

と、いへり。 

[やぶちゃん注:「山內下總殿内室」これは、土佐藩第二代藩主山内忠義の時代の同藩家老山内豊吉(とよよし 慶長一五(一六一〇)年~寛文六(一六六七)年二月二十一日)で、通称は下総である。当該ウィキによれば、家老や『奉行』を勤めた『野中兼山』(祖父野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)であった。当該ウィキによれば、『儒学者』で、『谷時中に朱子学を学び、南学による封建道徳の実践に努めた』。『多くの改革で藩を助けたが、藩士の恨みや、過酷な負担を強いたことによる領民の不興を買い』、『失脚』した上、『一族が絶えるまで』、『家族全員が幽閉された』とある。詳しくはリンク先を見られたい)『を糾弾するため、藩主山内忠義に義父の深尾重昌、その子の因幡重照とともに連名で、三箇条の訴書を側近孕石頼母』(はあみいしたのも)、『生駒木工』(名の読み不詳。「もくのかみ」か)『を通じて』、『藩主の山内忠豊に提出し、兼山を失脚させるきっかけをつくった』。寛文四(一六六四)年二月二日、『家老職を命じられる。同年』五月二十二日、『兼山の召し上げられた領地を預かり、かつ』、『排斥の謀主の一人のため、恩禄』千『石加増され、本知と合算すると』三千五百三十『石となり、城付与力』四『人、郷士』十一『人を預かった』とあり、室は土佐藩家老『深尾重昌の娘』とあり、この女性である。

 なお、本話を大々的に元にした田中貢太郎の「八人みさきの話」がある。所持する同氏の『日本怪談大全』の「第二巻・幽霊の館」(一九九五年国書刊行会刊)の東雅夫氏の解説によれば、初出は大正一〇(一九二一)年新生社刊「黑影集」初出である。「青空文庫」のここで、河出文庫「日本の怪談」(昭和六〇(一九八五)年河出書房新社刊:これも所持する)版底本(新字新仮名)で読める。]

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