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2024/10/05

「神威怪異竒談」(「南路志」の「巻三十六」及び「巻三十七」)正規表現電子化注「巻三十七」 嶋彌九郎

[やぶちゃん注:原書の解説や凡例・その他は初回を見られたい。今回の底本はここから。標題は「しま やくらう」と訓じておく。]

 

     嶋彌九郎

 阿州[やぶちゃん注:「阿波國」。]、海部奈佐(あまべなさ)の湊に叢祠(ホコラ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])、有(あり)。

 長宗我部元親の弟に嶋弥九郎といふ人、有(あり)。

 病(やまひ)ありて、

「療用[やぶちゃん注:ママ。]の爲(ため)、京都へ登らん。」

とて、浦戶より、艤(ぎ)して、漕出(こぎいで)けるが、阿波の沖にて、俄(にはか)に、風、吹替(ふきかは)りければ、海部の奈佐の湊に舩掛(ふながか)りせられけるに[やぶちゃん注:この「海部の……」以下は、国立公文書館本67)で補填した。]、海部の城主、越前守、いかゞ[やぶちゃん注:この「ゞ」は同じく国立公文書館本で補填。]して聞(きき)たりけん、其勢(そのせい)、百騎斗(ばかり)にて押寄(おしより)、ときの聲を上げ、

「元親に宿意あり、同姓の㐧(おとと)[やぶちゃん注:「弟」の異体字。]なれば、人も、あまさず、討取(うちと)れや。」

とて、弓・鉄砲を放(はな)しかけて、責(せめ)ければ、弥九郎、病(やまひ)に卧(ふし)ながら、是を聞(きき)、主從、僅(わづか)三十余人、切先(きつさき)揃(そろ)へて、切(きつ)て出(いで)、枕を双(なら)べて、討死す。

「越前守、『元親に宿意有(あり)』とは、何事ぞ。」

と尋(たづぬ)るに、

「安喜備後守は、此(この)海部の一族なれば、安喜沒落のゝちは、安喜の落人(おちうど)、海部を賴(たより)て居(をり)たりけるが、『元親の㐧(おとと)成(なる)』由(よし)を聞(きき)て、主人の仇(かたき)を報(むくい)[やぶちゃん注:底本原本では、ここ以下の左丁の表裏分が、後の条の乱丁となってしまっている(原本の綴じ誤り)。本来の続きは次のコマの左丁に続く。]んため、越前守を進めて、討(うた)せける。」

とぞ。

 其後(そののち)、種々(しゆじゆ)、祟り、有(あり)て、奈佐の湊に祠(ほこら)を建(たて)、神に祭(まつり)ける。

 今も、その黨類(たうるい)の子孫、有(あり)て、

「此社(このやしろ)の邊りへ、行(ゆく)者あれば、忽(たちまち)、祟り、ある。」

とて、

「恐(おそれ)て、不行(ゆかず)。」

とかや。

 

[やぶちゃん注:「海部奈佐の湊に叢祠(ホコラ)、有」旧徳島県海部郡宍喰町(ししくいちょう)那佐村で、現在の宍喰町宍喰浦(グーグル・マップ・データ)。

「長宗我部元親」「安喜郡甲浦楠嶋傾城亡霊」で既出既注。

「弟に嶋弥九郎といふ人、有」島親益(しま ちかます ?~元亀二(一五七一)年三月四日(グレゴリオ暦換算一五七一年四月八日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で長宗我部国親の四男。長宗我部氏家臣。別名は親房。当該ウィキによれば、『父』『国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍した』。『しかし、病にかかり、播磨の有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため』、『阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした』(複数のネット記事では、かねてより長宗我部元親にかねてより反感を抱いていたとする。以上の本文では、それが真相とするようだ)海部(かいふ)城(グーグル・マップ・データ)『城主海部』『友光に襲われ』、一五七一年三月二十九日(これはユリウス暦の日付)『に病』(やまひ)『の身ながら』、『奮戦するも』、『討たれた。その後、元親は』、『弟の死に激怒し、海部城を攻略する』。『現在は徳島県海部郡海陽町の那佐神社に慰霊碑が建立されている』(この神社(グーグル・マップ・データ)が本文のそれであろうか。非常に新しくなった慰霊碑(サイド・パネル画像)がある)。『子孫の親典(』生年から『親益の子としては年齢が合わない』ので、『孫か一族と推定される。)は大坂の陣で豊臣方に参戦し』、『敗れたが、土佐藩』(第二代藩主山内忠義の時代)『での入牢を経て』、『土佐藩士に取り立てられた。しかし』、『下士に甘んじた』。『その後も島氏は土佐藩に仕え、明治維新後に長宗我部姓に復した。また』、『宗家が途絶えていたため、必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継いだ(明治時代に明治天皇から正統子孫と認められた)』とある。

「海部の城主、越前守」海部友光(生没年未詳)。当該ウィキによれば、かの『三好氏の家臣。阿波国海部城主』。『「海部町史」では鷲住王』(わしずみおう:「日本書紀」によれば、第十二代景行天皇の曽孫に当たり、履中天皇の皇后の兄であったが、今から千五百有余年前、宍喰地方に移住し、付近一帯の開発・統治をしたと伝えられる人物)『の末裔とされている』。『海部之親の子として誕生。永禄年間』(一五五八年~一五七〇年)『に友光によって海部城が築かれたという説がある』。以上の通り、『那佐湾に漂着した長宗我部元親の弟』『島親益を討つ。弟の死に激怒した元親により天正』三(一五七五)『年』、『及び』、『天正』五(一五七七)『年』『に海部城は落城した。その後、友光は紀伊国の縁者を頼って落ち延びたと伝えられるが、経緯は不明である』とある。]

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