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2024/11/28

現在作業中の「和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 梅」について

これ、驚くべき数の品種が良安によって列挙されており、今朝午前三時から原文起こしを始めたが、六時間掛って、やっと、字起こしを終えた。訓読は、これからだが、注は、それらの品種を確認するだけでも(これだけは手抜きには出来ない)、物理的に時間が掛るので、暫く公開は出来そうもない感じである。悪しからず。【二〇二四年十一月二十九日追記】「Facebook」でのみ、四人のエールを頂戴したので、原文+訓読文(一部割注跗き)だけを公開した。

2024/11/27

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 杏

 

Anzu

 

あんす   甜梅

      【和名加良毛々

        俗云阿矣須】

【音荇】

      杏何梗切音衡

      然今呼如姜音

 

からもゝ

 

本綱云杏葉圓而有尖二月開紅花亦有千葉者不結實

甘而有沙者爲沙杏黃而帶酢者爲梅杏青而帶黃者爲

柰杏大如梨黃如橘者爲金杏

杏實【酸熱有小毒】多食動宿病產婦最忌之

杏仁【甘苦溫冷利有小毒】 降也陰也入肺經其用有三潤肺消

 食積也散滯氣也除風熱咳嗽去治大便秘

 杏仁【治氣】桃仁【治血】便難脉浮者屬氣用杏仁陳皮脉沉者

 属血用桃仁陳皮用凡雙仁者不可用殺人【𢙣黃芩黃芪葛根】

三才圖會云杏東方歳星之精接梅者味酸接桃者味甘

畫譜云杏根生最淺以大石壓根則花盛果結宜近人家

者盛也

△按杏山林及家園皆有之信州最多而出杏仁販他邦

 凡桃仁扁長有皺梅仁圓而尖杏仁大於梅仁而圓微

 皺三者宜辨

  新六いかにして匂ひ初めけん日の本の我国ならぬからもゝの花衣笠内大臣

 

   *

 

あんず   甜梅《てんばい》

      【和名、「加良毛々《からもも》」。

        俗、云ふ、「阿矣須《あんず》」。】

【音「荇《カウ》」。】

     【杏は、「何《カ》」「梗《コウ》」の切。

      音「衡《カウ》」。然≪しかれども≫、

      今、呼《よぶ》こと、「姜《キヤウ》」

      のごとき音《なり》。】

からもゝ

 

「本綱」に云はく、『杏は、葉、圓《まろく》して、尖《とがり》、有り。二月、紅≪き≫花を開く。亦、千葉《やへ》の者、有≪るも≫、實を結ばず。甘《あまく》して、沙《糖》[やぶちゃん注:砂糖。]≪の味≫有る者を「沙杏《しやきやう》」と爲《な》≪し≫、黃にして、酢を帶《おぶ》る者を「梅杏《ばいきやう》」と爲す。青《あをく》して、黃を帶ぶ者、「柰杏《だいきやう》」と爲す。大いさ、梨のごとく、黃≪にして≫、「橘《きつ》」のごとき者を「金杏《きんきやう》」と爲す。』≪と≫。

『杏實《きやうじつ》【酸、熱。小毒、有り。】多《おほく》食へば、宿病[やぶちゃん注:持病(を持つ者の場合を言う)。]を動《うごか》す。產婦、最《もつとも》、之れを忌《いむ》。』≪と≫。

『杏仁《きやうにん》【甘苦、溫。冷利《たり》。小毒、有り。】 降《かう》なり[やぶちゃん注:体内で下降する性質がある。]。陰なり。肺經《はいけい》に入る。其の用《よう》、三つ、有り。肺を潤《うるほ》すや、食積《しよくしゃく》[やぶちゃん注:食物のつかえ。]を消すや、滯《とどこほ》≪れる≫氣を散《さんず》るや、なり。風熱・咳-嗽《せき》を除き、大便の秘《つまれる》を治す。』≪と≫。

『「杏仁」は【氣を治す。】。「桃仁」は【血を治す。】。便、難《かた》く、脉、浮《ふ》なる[やぶちゃん注:指を軽くあててもすぐに判る脈で、力を入れて圧すと、抵抗がなく消えそうになる脈の状態を言う。]者は、氣≪に≫屬す。≪此れには≫、「杏仁の陳皮《ちんぴ》」を用ふ。脉、沉《ちん》なる[やぶちゃん注:指を軽く当てただけでは、拍動を触れず、深く圧迫して初めて触れる脈を言う。]者は、血《けつ》に属す。≪此れには≫、「桃仁の陳皮」を用ふ。凡そ、雙仁《さうにん》の者、用ふべからず。人を殺す【黃芩《わうごん》・黃芪《わうぎ》・葛根《かつこん》を𢙣《い》む。】。』≪と≫。

「三才圖會」に云はく、『杏は、東方歳星《とうはうさいしやう》の精≪なり≫。梅に接(つ)ぐ者、味、酸《す》≪にして≫、桃に接く者は、味、甘し。』≪と≫。

「畫譜」に云はく、『杏の根、生ずること、最も、淺し。大なる石を以つて、根に壓(をもしにす[やぶちゃん注:ママ。])れば、根、則ち、花、盛《さかん》≪にして≫、果、結んで、宜しく、人家に近き者は盛なり。』≪と≫。

△按ずるに、杏《あんず》は、山林、及び家園に、皆、之れ、有り。信州に、最も多し。杏仁を出《いだ》して他邦に販《ひさぐ》。凡そ、桃仁は、扁《ひらた》く、長くして、皺、有り。梅仁《ばいにん》は、圓(ゑん)にして、尖《とが》り、杏仁は、梅仁より、大にして、圓《まろ》く、微《やや》、皺《しは》む。三者、宜しく、之を辨ずべし。

 「新六」

   いかにして

     匂ひ初《そ》めけん

    日の本《もと》の

       我《わが》国ならぬ

        からもゝの花 衣笠内大臣

 

[やぶちゃん注: 「杏」は、日中ともに、

双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属杏子節 Armeniaca アンズ変種アンズ Prunus armeniaca var. ansu

である「維基百科」の「杏」を見よ)。当該ウィキを引く(注記号はカットした。全体はかなり長いので、適宜、省略した)。漢字表記は『杏子・杏』。『アプリコット(Apricot)と英名で呼ばれることもある。別名、カラモモ(唐桃)。中国北部で形成された東洋系の品種群には、ウメとの交雑の痕跡がある。原産地は諸説あるものの、中国の山東省、河北省の山岳地帯から中国東北地方の南部とする説が有力とされる。学名』(広義)『の Prunus armeniaca は、ヨーロッパにおいては』、『近世にいたるまで』、『アルメニア(Armenia)が原産地と考えられていたためつけられたもの』である。『和名アンズは』「杏子」『の唐音とされている。古名は、カラモモである。中国原産で、中国植物名は杏』(シィン)。『中国大陸から日本への渡来は古く、日本最古の本草書』「本草和名」(延喜一八(九一八)年成立)『には、漢字を「杏子」、和名「カラモモ」とある。標準和名アンズの読みは、江戸時代になってから、漢名の杏子を唐音読みでアンズとなったといわれている』。『中国の北東部、山東省、河北省、山西省、黄河より北の原産といわれる。日本では、長野県、山梨県、山形県を中心に栽培されている』。『落葉広葉樹の小高木。樹皮は暗灰褐色でやや赤みを帯び、縦に割れ目が入る。一年枝は赤褐色で』、『やや光沢があり』、『無毛』。『開花期は春』(三~四月頃)。『サクラよりもやや早く、葉に先立って淡紅色の花を咲かせる。花は一重咲きのほか、八重咲きの品種もある。葉は卵円形で葉縁には鋸歯がある』。『花は美しいため』、『花見の対象となることもある。自家受粉では品質の良い結実をしないために、他品種の混植が必要であり、時には人工授粉も行われることがある』。六~七『月には収穫期を迎え、ウメによく似た果実は』、『橙黄色に熟し、果肉は赤みを帯びて核と離れやすくなる。果実の表面には、細かな産毛が密生する。果実を利用するため』、『栽培されている』。『冬芽は互生し、広卵形で暗褐色から赤褐色をしており、多数の芽鱗に包まれている。花芽は葉芽よりも大きく、葉痕部は膨らんでいる。葉痕は半円形や楕円形で、維管束痕が』三『個つく』。『アーモンド』(サクラ属アーモンド Prunus dulcis :中央アジア原産)『やウメ、スモモと近く、容易に交雑する。ただし、ウメの果実は完熟しても果肉に甘みを生じず、種と果肉が離れないのに対し、アンズは熟すと甘みが生じ、種と果肉が離れる(離核性)。またアーモンドの果肉は、薄いため』、『食用にしない。耐寒性があり』、『比較的涼しい地域で栽培されている』。『病害虫に注意する。防除体系(防除暦)に基づき』、『適切な農薬使用を行う。冷涼地、乾燥地では無農薬栽培が可能』。『一年生の植物と異なり、アンズなどの樹木に実る果実はその種を播いても同じ物は実らない。従って苗は接ぎ木によって増やされる。台木には、実生が用いられる』。『ホウ素欠乏土壌では実の外観不良が発生しやすく、ホウ素欠乏抑制のため施肥管理が重要。成木ではカリ、燐酸を多めにする』。『中国原産であるが、日本へは』古くの『渡来種とされ、弥生時代以降の遺跡から出土している。果樹として栽培の歴史は古く、愛媛、広島など瀬戸内地方、青森県津軽地方が古い産地である。広島大実などの品種がある』。『長野県ではアンズの栽培が盛んだが、そのきっかけは』三百『年以上も昔に遡る。伊予宇和島藩のお姫様が』、『この地に輿入れする際、故郷の花を忘れないため』、『アンズを持ち込み、城内に植えたのが始まりとされている』。現行では、『長野県千曲市の森地区』(ここ。グーグル・マップ・データ)が『日本一のあんずの里として知られる』。以下、「品種」の項の冒頭。『大別すると、中央アジアからヨーロッパに広まった西洋系と、中国から日本へ渡った東洋系に分かれる。ヨーロッパ、中央アジアで発展したアプリコットは甘い品種が多く、東アジアで発展したアンズは酸味が強い品種が多い傾向がある』。続いて、品種の簡単な解説附きの表があるが、そちらで見られたい。以下、「利用」の項。『果実は生食のほか、ジャムや乾果物、果実酒などにして利用される。薄い桃色の花は花材にもされる。果実の果肉は、カロテン(ビタミンA)・B2Cのほか、クエン酸、リンゴ酸などの有機酸、スクロースなどの糖分』を五~十『%を含む。未成熟な種子や果実には、青酸配糖体の一種アミグダリンが含まれる』。『種子(仁)は、アミグダリンを約』三『%、脂肪油を約』三十五『%、ステロイドなどを含んでおり、杏仁(きょうにん)と呼ばれる咳止め(鎮咳)や去痰、風邪の予防の生薬(日本薬局方に収録)として用いられている。また種子は、杏仁豆腐の独特の味を出すために使用される』。『アンズは春に花が咲き』、六~七『月に旬を迎える出回り期の短い果物である。橙黄色に熟した果実の果肉は、そのまま生食してもおいしく、核(種子)を除いて』一『週間ほど日干しにすれば』、『干しアンズになる。カナダで育成されたハートコットは甘味が強い生食用品種であるが、日本在来種は酸味が強く、生食に向かないものが多いため、干しアンズやシロップ漬けなどの加工品になる。また、生の果肉か』、『干しアンズを使って、砂糖を加えてとろ火で煮るとアンズジャムができる。シロップ漬けは、干しアンズを広口瓶に入れて、水に砂糖を入れて一度煮立ててから冷ました砂糖水を注いで、二『週間ほどおいて作る。料理では、杏仁豆腐などがある。アンズ酒は』、六月頃『に収穫した青い未熟果を』『焼酎』で『漬け込んで』、三ヶ『月ほど冷暗所において作る。出来上がったら』、『漬けた果実は取り除く』。「杏仁(あんにん)」の項。『種子の中にある仁(じん)は、杏仁(きょうにん)という名の漢方になる苦い仁と、杏仁(あんにん)とよばれる菓子に使われる甘い仁がある。中華のデザート杏仁豆腐にも使われ、本来は薬膳料理であり、甘い杏仁(あんにん)の粉を寒天でかためてシロップに入れたものである。現在』、『デザートとして作られているものは、杏仁と同じ芳香成分ベンズアルデヒドをもつアーモンド』・『エッセンスで風味をつけていることが多い』。以下、「漢方と民間療法」の項。『本種またはその他近縁植物の種子は杏仁(きょうにん)または杏子(きょうし)、果実は杏子または杏実(きょうじつ)と呼ばれる生薬であり、日本薬局方にも収録されている。鎮咳、去痰、嘔吐に用いるほか、麻黄湯、麻杏甘石湯、杏蘇散などの漢方処方に用いられる。キョウニンを水蒸気蒸留して精製したものがキョウニン水で、鎮咳に用いる。杏仁は熟した果実を採集して、核を除いて種子をとって天日乾燥して調製する。果実は生でも天日干しにしたもの、どちらも薬用にできる』。『民間療法では、咳、喘息、便秘に、生の果実』や『種子(杏仁)』を『水で煎じて』『服用する用法が知られている。下痢しやすい人や、妊婦には服用禁忌とされる。滋養保健、冷え性、低血圧の改善に、アンズ酒を就寝前に盃』一『杯ほど飲むのが良いといわれている。種子は、脂肪油を含み、脂肪油はのどの腫れや痰の排出に役立つとされる』。(☞)『しかし、アミグダリン(青酸配糖体)』(amygdalin)『は酵素の働きで青酸を生じ、微量で呼吸や血管の中枢を興奮させ、大量でめまい、吐き気、動悸、息切れなどの中毒症状や麻痺がおこるので、生の果実の多量摂食や種子の多量服用は禁忌である』(☜)。『解毒するには、アンズの樹皮を煎じて飲むとよいといわれている』。以下、「医学的知見」の項。『アンズの種子に含まれるアミグダリン(青酸配糖体)はサプリメントなどに配合され、俗に「がんに効く」などとわれているが、人を対象にした信頼性の高い研究で』、『がんの治療や改善、延命に対して』、『効果はなく、むしろ青酸中毒を引き起こす危険性があると報告されている。過去にアミグダリンをビタミンの一種とする主張があったが、生体の代謝に必須な栄養素ではなく欠乏することもないため、現在では否定されている。アメリカ食品医薬品局(FDA)は、治療に何の効果も示さない非常に毒性の高い製品であり、本来の医療を拒否したり』、『開始が遅れることにより命が失われていると指摘し、アメリカでの販売を禁じている』。『古くから葉や種子は生薬として使用されてきたが、これはアミグダリンを薬効成分として』、『ごく少量』、『使い、その毒性を上手に薬として利用したものである。薬効を期待して利用する場合は』、『必ず』、『医療従事者に相談し、自己判断での摂取は避けるように』せねばならない。『食薬区分においては、キョウニン(アンズ/クキョウニン(苦杏仁)/ホンアンズの種子)は「専ら医薬品として使用される成分本質(原材料)」(医薬品)にあたり、食品、健康食品としての流通はできない。 カンキョウニン(甜杏仁)は「医薬品的効能効果を標ぼうしない限り医薬品と判断しない成分本質(原材料)」(非医薬品)にあたり、食品、健康食品としての流通はできるが医薬品的な効能効果を表示することはできない。日本のアンズの仁は』、『ほとんどがアミグダリンを多量に含む苦杏仁である』。『アンズ、ウメ、モモ、スモモ、アーモンド、ビワなどのバラ科サクラ属植物の種子(種皮の内部にある胚と胚乳からなる仁)には』、孰れも『種を守るために青酸配糖体であるアミグダリンが多く含まれ、未熟な果実や葉、樹皮にも微量含まれ』ている。『アミグダリン自体は無毒であるが、経口摂取することで、同じく植物中に含まれる酵素エムルシンや、ヒトの腸内細菌がもつ酵素β-グルコシダーゼによって体内で分解され、シアン化水素(青酸)を発生させる。シアン化水素はごく少量であれば安全に分解されるが、ある程度摂取すれば』、『嘔吐、顔面紅潮、下痢、頭痛等の中毒症状を生じ、多量に摂取すれば意識混濁、昏睡などを生じ、死に至ることもある』。しかし、『熟した果肉や加工品を通常量摂取する場合には、安全に食べることができる。アミグダリンは果実の成熟に従い、植物中に含まれる酵素エムルシンによりシアン化水素(青酸)、ベンズアルデヒド(アーモンドや杏仁、ビワ酒に共通する芳香成分)、グルコースに分解されて消失する。この時に発生する青酸も揮散や分解で消失していく。また、加工によっても分解が促進される』。『しかし、種子のアミグダリンは』、『果肉に比べて高濃度であるため、成熟や加工によるアミグダリンの分解も果肉より時間がかかる。種子がアミグダリンをもつのは自分自身を守るためにあると考えられ、外的ショックを受けてキズが入った種子には』千~二千『ppmという高濃度のシアン化水素を含むものもある。生の種子を粉末にした食品の中には、小さじ』一『杯程度の摂取量で安全に食べられるシアン化水素の量を超えるものある』。二〇一七『年に高濃度のシアン化合物(アミグダリンやプルナシン)が含まれたビワの種子の粉末が発見されたことにより、厚生労働省は天然にシアン化合物を含有する食品と加工品について』、十『ppmを超えたものは食品衛生法第』六『条の違反とすることを通知した。海外ではアンズの種子を食べたことによる死亡例が報告されている。欧州食品安全機関(EFSA)は、アミグダリンの急性参照用量(ARfD)(毎日摂取しても健康に悪影響を示さない量)を』二十『μg/kg体重と設定した。その量は小さなアンズの仁で小児は半分、成人は』一~三『個程度である。急性中毒については小児で』五『個以上、成人で』二十『個以上との報告がある。アミグダリンの最小致死量は』五十『mg/kgであり』、三グラム『のサプリメント摂取による死亡報告がある』。『厚生労働省は、アンズやビワなどの種子を利用したレシピの掲載についても注意喚起を行っている。家庭で生のアンズやビワの仁から杏仁豆腐を作ると、調理実験により数分煮るだけではシアン化物が全て除去されないことが報告されている。場合によっては』一~二『食分の杏仁豆腐でシアン化物の急性参照用量(ARfD)を超えることが考えられる』。『材木』として『柱、敷居』の材となる、と終りにある。

 但し、注目すべきは、「維基百科」の「維基百科」にある「杏である。これは、本邦のウィキにはない、所謂、現行の「杏節」に相当するするものの独立ページであり、

   *

(學名: Prunus sect. Armeniaca )是李属李亚属的一个组,分布于欧亚大陆。组下物种的果实通称,突出观赏价值则称为杏花

   *

これは、機械翻訳を参考にすると、『アンズ節(学名:Prunusct. Armeniaca )は、ユーラシア大陸に分布するスモモ属或いはサクラ属の群である。この群に属する種の果実は、一般に「杏」と呼ばれ、観賞価値の優れた種は「杏花」と呼ばれている。』となろうか。興味深いのは、その以下に、次に示す十一種をリストしていることである(実在するリンクのみを残して示す)。幸いにして、Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「アンズ 杏、杏子」のページに詳細な種群が記されてあるので、そこにあるものの一部を添えた丸括弧内に示しておいた。それが判るように、同ページから引用したものには、初回以降は、引用符の前に★を附しておいた。なお、そちらのページでは学名が斜体になっていないが、斜体にして示した。

   *

 Prunus armeniaca

布里扬松梅 Prunus brigantina(「扬」は「揚」の簡体字。これには、注があり、『この分類には議論の余地がある。葉緑体 DNA 配列によれば、「ブリアン・パイン・プラム」のグループと、「プラム」のグループの種に分離群を成してているが、核 DNA 配列によれば、この二つの群は、より近いからである』といった内容が書かれてある。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の「アンズ 杏、杏子」のページでは、★『ブリアンソンアプリコット』とされ、『フランス、イタリア原産。英名はalpine apricot , Briançon apricot , Briançon plum , marmot plum。』とある。

○华仁杏 Prunus cathayana

紫杏 Prunus × dasycarpa(★『中国(新疆ウイグル自治区)、カシミール、ロシア、南西アジアで栽培され、野生種は知られていない。中国名は紫杏 zi xing。』)

洪坪杏 Prunus hongpingensis(リンク先に『湖北省の標高千八百メートル以上の道路沿いや集落を中心に植生し』、『特に舟山県』(グーグル・マップ・データ)『紅平村で生産される』とある)

○背毛杏 Prunus hypotrichodes

○李梅杏 Prunus limeixing(★シノニム『 Prunus × limeixing 』。★『中国原産。中国名は李梅杏 li mei xing。栽培種であり、野生種は知られていない。』)

东北杏 Prunus mandshurica(★『マンシュウアンズ 満州杏』。『朝鮮、中国、ロシア原産。中国名は东北杏 dong bei xing。)

 Prunus mume(本書の次の項が「梅」である)

山杏 Prunus sibirica(リンク先によれば、別名を『西伯利亚杏』(シベリア杏(あんず))とし、種小名は「シベリアの」意であるとある。★『モウコアンズ 蒙古杏』。★『朝鮮、中国、モンゴル、ロシア原産。中国名は山杏 shan xing。』)

政和杏 Prunus zhengheensis(リンク先によれば、『「紅梅杏」とも呼ばれ』、『福建省、浙江省などに分布』とあり、『中国に於ける第二級国家重点保護野生植物である』とある)

「本草綱目」に記される各種の名は、これらの中の種と各個的に同一である可能性が極めて高いと思われるからである。

   *

「本草綱目」の引用は、基本、「漢籍リポジトリ」の「卷二十九」の「果之一」の「五果類一十二類」の二項目の「杏」([073-4a]以下)のパッチワークである。

「甜梅《てんばい》」同前の「杏」の「釋名」の冒頭にこの異名を載せており、意味から見ても問題ない古い異名である。但し、現行、この熟語は、中国語では、アンズの異名ではなく、特に台湾の「干し梅」(青梅の塩漬け・砂糖漬け・乾燥の行程を何度も繰り返して作る伝統的な梅加工品で、梅の美味(うまみ)と酸甘の味を特徴とするもの)を、専ら、指すようである。

「加良毛々《からもも》」唐桃。

『杏は、「何《カ》」「梗《コウ》」の切』東洋文庫訳では、この反切の「何」の字を誤字として、割注で正しい字を『下』として挿入している。しかし、複数に中文サイトを見るに、「集韻」と「韻會」では『下梗切』とするが、「正韻」では『何梗切』であるから、問題ない。中国で時代によって発音が異なることは、よく知られたことである。

「沙《糖》[やぶちゃん注:砂糖。]≪の味≫有る者」この訓読は東洋文庫訳を参考にした。確かに「沙」は「砂」の正字ともされ、「沙」には、「熟れ過ぎたもの」の意はあるものの、砂糖の意はないので、以上の訓読はちょっと問題があるように自分乍ら、思われはする。しかし、直下に出る「沙杏《しやきやう》」はそのようなニュアンスを体現している熟語とも感じられるので、かく、した。事実、「百度百科」の「沙杏」には、『指杏的一种,果肉甜而多汁』とある。しかし、その出典の第一は、以上の「本草綱目」のこの箇所であり、現在の種名を記さない。

「梅杏《ばいきやう》」不詳。因みに、調べている中で、中文サイトで「辽梅杏」(「遼梅杏」(園芸品種Prunus sibirica cv. Pleniflora )、シノニムと思われる「辽梅山杏」( Prunus sibirica 'Pleniflora' )という種を見つけはした。

「柰杏《だいきやう》」不詳。因みに、「柰」は本邦では古くリンゴ類、又は、バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis の異名である。

「橘《きつ》」これは、双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata のこと。当該ウィキによれば、『原産地はインドのアッサム地方で、これが交雑などで変化しながら世界各地に伝播したものと考えられている』もので、一方、本邦の「橘」は、古代を除き(「古事記」に出る「橘」は如何なる種であったかは、現在も確定不能である)、同じミカン属ではあるが、日本固有のタチバナ Citrus tachibana で、種としては、異なる。

「金杏《きんきやう》」不詳。なお、本邦では、信州産の「干しあんず」を甘露煮にした商品の名としては、ある。

「杏仁《きやうにん》」講談社「漢方薬・生薬・栄養成分がわかる事典」によれば(一部の読みを省略した)、『漢方薬に用いる生薬の一つ。バラ科アンズの種子を乾燥させたもの。鎮咳、去痰の作用があり、気管支炎、喘息などに用いる。感冒、肺炎、気管支喘息に効く麻黄湯(まおうとう)、気管支炎、小児喘息に効く麻杏甘石湯(まきょうかんせきとう)、気管支炎、気管支喘息に効く苓甘姜味辛夏仁湯(りょうかんきょうみしんげにんとう)などに含まれる。また、あんず酒は疲労回復に効く』とある。

「肺經《はいけい》」肺の動きを司る経絡。腹から胸・喉・鎖骨・上腕の前内側・肘・前腕の前内側・親指までの経絡を言う。

「杏仁の陳皮」この「陳皮」は極めて限定的な種子の皮を指す、特異な用法である。本来の「陳皮」はウィキの「陳皮」によれば、『成熟前の青い果皮を「青皮」というのに対し、成熟した状態の果皮であることを指す』とあるからである。

「雙仁《さうにん》」種子が二つあるもの。

「黃芩《わうごん》」「黃苓(わうきん)」に同じ。双子葉植物綱キク亜綱シソ目シソ科コガネバナ Scutellaria baicalensis の根から採れる生薬。漢方にあっては婦人病の要薬として知られる。血管拡張・血行循環促進・産後の出血・出血性の痔・貧血・月経不順といった補血作用(但し、多くは他の生薬との調合による作用)を持ち、冠状動脈硬化性心臓病に起因する狭心症にも効果があるとする。

「黃芪《わうぎ》」マメ目マメ科ゲンゲ属キバナオウギ Astragalus membranaceus の根を基原とする生薬。当該ウィキによれば、『止汗、強壮、利尿作用、血圧降下等の作用がある』とある。

「葛根《かつこん》」基原植物は本原種の周皮を除いた根を乾燥したもので、「葛根湯」で現在もお馴染みの風邪薬・解熱鎮痛消炎薬に配合されている。なお、ウィキの「クズ」によれば、『花は可食で、シロップ漬け』『や天ぷらなどにすることができる。ただし』、『他のマメ科植物同様にレクチンを中心とした配糖体の毒性が含まれており、多量に摂取すると吐き気、嘔吐、眩暈、下痢、胃痛などを起こすおそれもあるため、あまり食用には適していない。加熱されていない種子は食中毒の可能性がより高くなる。その他に、樹皮や莢にはウイスタリン(wistarin)、種子には有毒性アルカロイドの一種であるシチシン(cytisine)が存在するという報告も上がっている』とあるので、要注意である。

『「三才圖會」に云はく、『杏は、東方歳星《とうはうさいしやう》の精≪なり≫。梅に接(つ)ぐ者、味、酸《す》≪にして≫、桃に接く者は、味、甘し。』≪と≫。』お馴染みの東京大学の「三才図会データベース」で、当該画像をダウンロード(図ページ、及び、次の解説ページ)し、トリミングして、画像の汚損と判断したものを清拭したものを以下に示す。

 

Sansaizueanzue

 

Sansaizueanzukaisetu

 

この「東方歳星」は、中国の占星術に組み込まれた古代インドの天文学(占星術)の「九曜星」(くようしょう)」の一つで、現在の太陽系の木星に当たる。「梅に接(つ)ぐ者、味、酸《す》≪にして≫、桃に接く者は、味、甘し。」とあるのは、実際に接ぎ木可能である。素敵な個人サイト「宮菜園」の「多品種接木」がよい。それに拠れば、『モモ、スモモ、プルーン、梅/アンズ、リンゴ、梨等それぞれの木種同士で多品種を接いで育てるのは、一部の例外を除いて、概ね問題なく生育します。本ページでは、スモモにモモやプルーン、梨にリンゴ等、異なった果物の木種を接いで育てる例を多品種接木としてご紹介しています』。『現在確認出来ているのは、以下の2種のグループです』(以下の不等式表記間にある空欄の一部を省略した)。『① スモモ≧梅/アンズ>プルーン>桃』/『② 洋梨>和梨>リンゴ』/この『各グループ内では相互に接木可能ですが、≧や>で示した様な樹勢の強弱があり(この場合左側の品種の樹勢力が」強いことを示す)、枝の勢力調整が必要です』。『例えば、①のグループでは、枝の勢力が強くなる上の方(頂芽優勢)に樹勢の弱い桃を配置し、なるべく勢力を強くする様な処理が必要です』。『以上は枝関係の基本の考えですが、台木によって樹全体の生育状況が変わってくるため、実際育てる場合、台木、中間台、枝の配置などを試しながら試行錯誤の育成となっています』と記しておられる。以下に、驚くべき接ぎ木群の模式図がある。必見! また、「YAHOO!JAPAN知恵袋」のQ&Aに、『梅の木に杏の枝を接ぎ木できるでしょうか』。『接ぎ木をすることによって同じ時期に花を咲かせることは可能でしょうか?』『杏と梅を同時に収穫は可能でしょうか?』という質問に対しての答えに、「有機菜果 種接(タネツギ)」さんが、『寒冷地以外では、接ぎ木して活着すれば問題なしと考えて結構です』。『ウメ台は、アンズ台に比べて、活着と耐寒性で劣るされています。(東城喜久著『アンズ』p.23 農文協)』『接ぎ穂の持つ性質はそのまま維持されるので、接ぎ木によって開花期は変わってきません。同時期に咲かせるには、同時期に開花する枝同士で接ぐ必要があります』。『アンズの開花期は普通のウメより遅いので、豊後など遅咲きの梅に接げば、開花期はある程度重なり、相互受粉が部分的に可能です』。『>杏と梅を同時に収穫は可能でしょうか?』について、『上文中の同時とは、「同時期」の意味と仮定して次を書きます』。『豊後にアンズ(品種不詳)を接いで収穫したことがあります。豊後収穫の10日後程度にアンズを収穫できました。収穫時期が特に早いアンズ品種を選ばないと、同時期には収穫できないでしょう』。『同時期に収穫できる意味を考えにくいので、「両種を」の意味かとも思います。両種収穫可能です』。『接ぎ木できるのは、科の下の分類である属が同じ場合です』。『ウメは Prunus mume 、アンズは Prunus armeniaca ですので、接ぎ木活着の可能性があるのです。バラ科ノイバラ Rosa multiflora などとは接げません』。『接げるということは、一応活着伸長するということで、十分に生育結実する実用性までは含んでないのが普通です。しかし、豊後性のウメへのアンズ接ぎは、実用性まで大丈夫です』と記しておられ、先の不等式でも、梅とアンズは等価位置にあるので、大いに納得出来た(学名の斜体は私が施した)。

「畫譜」東洋文庫の巻末の「書名注」によれば、『七巻。撰者不詳。内容は『唐六如画譜』『五言唐詩画譜』『六言唐詩画譜』『七言唐詩画譜』『木本花譜』『草木花譜』『扇譜』それぞれ各一巻より成っている』とあった。

「新六」「いかにして匂ひ初《そ》めけん日の本《もと》の我《わが》国ならぬからもゝの花」「衣笠内大臣」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良:この歌の作者)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02421」である。そこでの表記は、

   *

いかにして-にほひそめけむ-ひのもとの-わかくにならぬ-からもものはな

   *

となっている。]

2024/11/26

西尾正 謎の風呂敷包み

[やぶちゃん注:西尾正の履歴、及び、本電子化注の凡例は、初回の「海蛇」の冒頭注を見られたい。本篇は『探偵と奇譚』昭和二四(一九四九)年三月号(巻号記載なし)に初出。底本は、所持する二〇〇七年三月論創社刊行の「西尾正探偵小説集Ⅱ」(新字新仮名)を用いた。本篇はルビが少ない。私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた(五月蠅いだけなので、同じ丸括弧で附加し、注も施さない)。傍点「﹅」は太字に代えた。オリジナル注は、例によってストイック乍ら、マニアックに附した。]

 

   謎の風呂敷包み

 

 Nさん――

 お宅をおいとました三十一目の晩、Nさんとその日の新聞にのった「首なし裸体事件」の話をしましたね。

 ――八月二十九日夜十一時半頃東京I駅――M駅間のいわゆる「魔の踏切」と呼ばれている踏切付近で折柄通過せんとする山手線電車に跳び込み自殺を企てた身許不明の青年があった。しかし屍体が全裸である点から他殺説が濃厚で、犯人はどこか異なる場所(たぶん現場付近)で殺害した後、痕跡を曖昧にし被害者の認定を不可能にする目的から屍体を全裸にし線路上に運んで車輪による切断を図ったらしい。車輪は四肢を全然別個の物とし枕木を鮮血で彩ったが、肝心の首が見当たらなかった。屍体の営養発育状態から見ると二十四、五歳の青年らしく、体格はいいが筋肉労働の経験なく、良家の子弟らしい。当局は生首の行衛と被害者の身許を鋭意捜査中である。――[やぶちゃん注:『I駅――M駅間のいわゆる「魔の踏切」』この踏切は山手線の池袋駅―目白駅間にあった「長崎道踏切」である。サイト「赤猫丸平の片付かない部屋」の「山手線、長崎道踏切 東京の栞(019)」に在りし日の踏切の画像とキャプション『山手線の池袋-目白間にあった長崎道踏切(20051月廃止)。東京都豊島区西池袋2-1、南池袋1-152003313日。』がある。グーグルマップでは、この中央部に当たり、「今昔マップ」の『1965~1968年』の国土地理院図が、はっきりと、道が山手線を横切っていて、踏切であることが判る現在の当該地はストリートビューのここである。これを、右に回して背後を見ると、緑色のビルが見えるが、これが、前者の踏切のキャプションのある真上の写真の踏切の向こうに見えるビルであることから、断定される。ここは西武池袋線が高架であるため、目白方向からの外回りでは、踏切の東側から入った直後の歩行者は見え難いと判断される。それが「魔の踏切」の由縁か。]

 確かこんな記事でした。それから僕がふと、「中村が……」と言いかけたらNさんも「ウン、僕も中村君のことを考えていたのだ」と言い、そこで中村には次郎という一つ違いの弟がいてそいつが最近ぐれて兄貴が尠(すくな)からず手古摺っていることなどを話し合いましたが、一体なぜあの時、中村のことなど思い浮かべたのでしょう。理由もないのに突然しかも同時に二人が念頭に泛(う)かべたというのは、後の事件と思い合わせると、やはり一種の精神感応(テレパシー)とか思想伝達(ソオト・トランスペアレンス)とでもいうのでしょうか。[やぶちゃん注:「精神感応(テレパシー)」「思想伝達(ソオト・トランスペアレンス)」telepathyと、thought tranceparencetranceparence:透明性・透明)は、ウィキの「テレパシー」によれば、『ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されること』『で、 超感覚的知覚(ESP)』(Extrasensory Perception:五感や論理的類推などの通常の知覚認識手段を介することなく、外界や他者の情報を得る超能力)『の一種』、且つ、『超能力の一種』とされるもの。但し、『この用語ができる以前は、思考転写 (thought-transference)と呼ばれていた』とある。]

 アポロとディオニソス、フロオラとフオーナ、――よく僕達は人間の性格を二つに類別して、気性の烈しい熱情的な男を「ディオニソス・フオーナ」秀才型の冷静な男を「アポロ・フロオラ」と呼んでいましたが、Nさんが初めて中村を見た時僕達の流行語を使って「中村君はあれでなかなかディオニソス・フオーナだね」と評したのには日頃中村を女性的な優しい男すなわちフロオラだと意見が一致していた僕達にとっては意外でした。しかしこの度(たび)の破局を見ればNさんの評言は当たっていたのです。僕は単なる脇役に過ぎなかったのですが、あんな恐ろしかったこと初めてです。旨くは書けませんが、作家であるNさんの何かの参考になればと思い、経験したままを卒直に誌してみましょう。[やぶちゃん注:「アポロとディオニソス」小学館「日本大百科全書」から引く。ドイツ語『apollinisch』・『dionysisch』。『ギリシア神話の酒神ディオニソスのうちに示される陶酔的・創造的衝動と、太陽神アポロンのうちに示される形式・秩序への衝動との対立を意味する。すでにシェリング』(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling(一七七五年~一八五四年):ドイツの哲学者。神秘的直観を重視し、「合理主義哲学」の限界を批判、絶対者に於いて自然と自我とが合一すると説く「同一哲学」を主唱した)『は、内容が形式に優越する詩と、両者が調和した本来の詩との対立を、またニーチェの師リッチュルは笛(ギリシア語でアウロス』(ラテン語転写:『aulos)と竪琴』『(ドイツ語でキタラKithara)との対立を、この対概念』(ついがいねん)『でとらえている。しかし』、『この対概念が広まった機縁は、ニーチェの』「音楽の精神からの悲劇の誕生」(‘ Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik ’。一八七二年刊。専ら「悲劇の誕生」の縮約タイトルで知られる)『である。すべてを仮象のうちに形態化・個体化する造形芸術の原理としてのアポロン的なものが、個体を陶酔によって永遠の生のうちに解体する音楽芸術の原理としてのディオニソス的なものと結び付いて、ギリシア悲劇が誕生する。それはいったん楽天的・理論的なソクラテス主義によって滅亡したが、ワーグナーの楽劇のうちに再生すると若いニーチェは考えた。ただし、後年のニーチェはこの対概念を用いず、永遠に創造し』、『破壊する生の肯定という彼の哲学の核心を、ディオニソス的と規定している』とある。「フロオラとフオーナ」フローラ(ラテン語:Flōra)はローマ神話に登場する花と春と豊穣を司る女神。「日本大百科全書」によると、『オウィディウスの』「祭暦」(Fasti)『によれば、彼女はもともとクロリスChlorisという名のギリシアのニンフであったが、西風ゼフィロスに求愛されて』、『すべての花を支配する力を与えられたという。彼女は古くから崇拝され、花と花による実りを守護した。その祭礼「フローラリア」では、豊作を祈る祭りにふさわしく、陽気でしかも卑猥』『な行事「フローラリア祝祭劇」が催された。またその神殿は、パラティンの丘にあったという』とある。現行の「植物相」(フローラ)の語源である。対する「フオーナ」は“fauna”で、「ブリタニカ国際大百科事典」に拠れば(コンマを読点に代えた)、「ファウナ」「フォーナ」とも言う。『特定の地域や水域にすむ動物の全種類。動物群について昆虫相魚類相など、地域について日本の動物相、南極の動物相など,環境について森林動物相、土壌動物相、湖沼動物相など、生活様式について浮遊動物相、遊泳動物相などが区分される。地球上の特徴のある違った動物相をもつ区域を動物区に区分する。動物群集が量的な集団であるのに対し、動物相は種を同定して決定される定性的な概念。植物相と合せて生物相 biotaを構成する』とある。植物相は原母的で、包括的集団的で単位生殖可能な総支配的女性性を、動物相は孤独性と支配性・闘争性をシンボライズし、精神分析学では、前者がエレクトラコンプレックス(ドイツ語・ Elektrakomplex)や、歯を持つヴァギナ、原初的創造者としてのグレート・マザーへ、後者はエディプスコンプレックス(同:Ödipuskomplex)と、リンガを切り取る「子殺し」の支配的暴力的モチーフへと展開する。]

 

 あの晩駅へ着くと際どいところで上りを逃してしまい、まだボストン・バッグには米が二升ばかり残っていたのと、残暑の厳しい東京へ帰るのも憂鬱でしたので、ふらふらと問題のJ島へ行ってしまったのです。[やぶちゃん注:「まだボストン・バッグには米が二升ばかり残っていた」発表年から判ると思うが、ヤミ米を買い出しに来ていたのである。]

 S湾、M半島の突端に浮いている小さな、戸数わずか百二三十戸の、雨で名高いJ島、戦時中の要塞から目下観光島に早変わりしようとしているJ島は、ほとんど灯を落として月のない暗澹たる夜空に黝々(くろぐろ)と浮かんでいました。[やぶちゃん注:「J島」は私の好きな城ケ島であり、「S湾」は相模湾、「M半島」は三浦半島である。「戦時中の要塞」城ケ島の東の安房崎の中央にあった旧城ヶ島砲台(グーグル・マップ・データ航空写真)。東京湾要塞研究家デビット佐藤氏のサイト「東京湾要塞」の「城ヶ島砲台」に、画像や構造図もあり、説明も詳しい。『関東大震災後の東京湾要塞復旧工事の一環で新設された砲台』で、『廃艦となった戦艦安芸の砲塔を改造して設置した。最大射程は約』二十四キロメートルで、『これは房総半島の洲崎まで届く距離であり、同じ砲塔砲台である洲崎第一砲台とともに、東京湾口防御の第一線を担っていた』。『城ヶ島の東半分が砲台用地で、砲塔は東西に約』八十メートル『隔てて』二『基(』四『門)が設置され、空から秘匿するため』、『屋根が掛けられていた。また、周辺には偽民家が建てられるなどの擬装が施されていた。砲塔は人力操作で、地下砲側庫は砲塔から離れた地下に設けられ』、『隧道で砲塔の下まで通じていた』。『戦後、砲塔は爆破され、二つの大穴が残されていたが、昭和』二五(一九五〇)『年に城ヶ島公園』設置が決定され(本篇の発表はこの前年の昭和二十四年)、昭和三三(一九五八)年に開園し、今に至っている。]

 島に渡ったのが十時頃、大体ここには旅館などないのですが、この頃は魚を仕入れに来る闇商人が泊まり込む半職業的な宿のあることを聞いていましたので、それらしいとある一軒家にあたりをつけました。すると小女(こむすめ)が出て来て、それでも思ったより愛想よく出迎えてくれたのですが、靴を脱ぎながら見るともなしに見ると、下駄、地下足袋などが散乱している土間の片隅にこんな場所には不似合いなチョコレエト色のスマートな女靴が一足、ちょこなんと脱ぎ捨てられてあるのです。女の靴というものは変に艶めかしいものですね。中国女の纏足(てんそく)は股を太くするためだと言いますが、それはいかにもキュッと締まった踵の低いスポオテイな型で、穿き主の小さな足から上方へすくすくと延びた肉付きのいい、靴下の破れそうな、白く逞しい腿を聯想させるのです。こんな陰気な闇宿(やみやど)に果して想像したような若い女が泊まっているのでしょうか。僕は何かを期待する故なき好奇心を覚えながら小女の後に従いました。[やぶちゃん注:「踵」「かかと」。「くびす」「きびす」とも読む。個人的には「きびす」と読みたい。「中国女の纏足(てんそく)は股を太くするためだと言いますが」ウィキの「纏足」に、『唐の末期から辛亥革命ごろまで中国で女性に対して行われていた』悪しき『風習』で、『当時の文化人は女性の小さい足を「金のハス」』(蓮)『に例えるなど美の対象と考えており、人工的に小さくする施術が考案された。具体的には幼少期から足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛って足の整形(変形)を行うことで、年齢を重ねても足が小さいままとなる』。『理想的な大きさは三寸』(凡そ九センチメートル強)]『であり』、『これを「三寸金蓮」と呼び、黒い髪、白い肌と共に美しい女性の代名詞となった』。『小さく美しく装飾を施された靴を纏足の女性に履かせ』、『その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである』。(☞)『また、バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた』(☜)。『足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱々しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした』とある。]

 通された二階の部屋はあまりいい部屋ではありません。襖仕切りの隣室は南向きの海に面して涼しそうですが、既に先客があると見えて堺の欄閒に電灯がぼうっと反映していました。時々人の動く気配や咽喉をきる音が聞こえて来、どうやら馥郁(ふくいく)とした香料の匂いが漂うて、それはもう明らかに若い女のつくり出す雰囲気に相違ないのです。僕はその女が先刻土間で見た靴の主であるに相違ないと断定しました。寝つきのいいので有名な僕がその夜晩(おそ)くまで輾転反側したと言ったらNさんは笑われるかも知れませんが、僕だって若いし張りきっているし、それに多少は夢想家ですからね。若い女がたった一人でこんな田舎のインチキ宿に泊まるなんてどうも解せないな、きっとあとから男でも来るのだろう、一晩悩まされるのは敵(かな)わんぞ、と、こんな下らぬことを考えているうちに、さすがに昼間の疲れが出てそれきり前後不覚に寝入ってしまいました。

 どのくらい眠ったのか、何か夢にうなされたらしく、ふと眼を覚ましました。時計を見たら三時です。もう一寝入りしようと寝返りを打って眼をつぶると、潮騒の音もない沈々(しんしん)たる夜気(やき)のしずもりの中に、女の歔欷(すすりなき)と嗚咽(おえつ)が微(かす)かに微かに聞こえて来るではありませんか。どうやらうなされた夢はその泣き声に関聯(かんれん)がありそうです。とすると、僕の眠っているうちから女は泣いていたらしいのです、そこで僕は寝たまま隣室に向き直ってじいっと耳をすませました。[やぶちゃん注:「歔欷」は「きょき」「すすりなき」と読むが、個人的な好みは、後者である。しかし、次の段落で「啜り泣く」とするので、読みは読者に任せよう。]

 何か女はぶつぶつ独り言を呟いているらしいのですね。何を言っているのかハッキリ聞きとれないのですが、誰かそこにいる相手に向かって搔き口説(くど)いているらしく、言葉と言葉の間に、「ね?……ね?」と、甘えたような間投詞が入り、それから啜り泣くのです。

 身も消え入るような悲しみ、頬を伝って幾条(いくすじ)にも流れる押さえ切れない泪(なみだ)、――こんな風に 想像されるのですが、そのうちに好奇心がとうとう僕を床の上に起き直らせてしまいました。想像だけでは足らなくなって一眼覗いて見ようと、襖の隙間に片眼を押しつけたのです。

 電灯はついたままで蚊遣香(かやりこう)の煙が細々と立ち昇り、女は薄物をかけているだけで寝床に横になっていました。僕には部分を通してわずかな寝姿しか見えないのですが、その部分の中に女の上半身が入っています。寝巻も着ず恐らくはシュミイズ一枚なのでしょう、むっちりした二の腕は裸でした。そして女は顔の前に一個の丸い風呂敷包みをしッかり抱いて、その包みに向かって何やら口説いたり泣いたりしているらしいのですね。時々堪えられなくなったようにその包みを頰ずりするのですが、その度(たび)に枕に散ったパーマネント・ウェエヴの房々とした黒髪が震えます。女が半裸に近い姿態で眼前に啜り泣いている光景は旅の放縦さと隙見(すきみ)などという条件と搦み合ってかなり肉感的なものですが、実際は不気味さの方が先に立ちます。僕は以上のようなことを確かめただけで再びごろりと元の寝床に横たわりました。泣き声はとぎれとぎれにいつまでも続いていたようでしたが、もうじき夜も明けるのだろうと思っているうちにいつか眠りに落ちて行きました。

 

 翌朝寝坊をして歯を磨きながら隣室を覗いて見ると、女はいませんでした。持ち物らしいものが部屋の隅においてあるところを見ると、宿を発ったとは思われません。僕は昨夜のことを考えながらボンヤリ歯ブラシを動かし、見るともなく眼下の庭の生垣と向かいの家の間にある狭い路地に眼を落としていましたが、そこで思いがけない男の姿を見つけたのです。その男は破れた生垣の合間から腰を蹲めてこっちを覗いているのです。帽も被らず髪は乱れ、白い開襟シャツが目立ちました。あちこちと視線を移している模様で、やがて二、三歩あとずさりをすると今度は二階の方を見上げ、その瞬間に僕との視線がバッタリ出会ったのです。

 「あ、中村……」

 思わずこう大声で呼びかけました。この頃は毎日曇って暗い灰色の空の下、それも相当の距離をおき生垣の蔭に瞬間認めたわけですからハッキリ中村だとは断言し得ないのですが、その時はふしぎとそんな疑問や逡巡は起こらなかったのです。男は呼びかけられてまじまじと僕の顔を見上げていましたが、別に際立った表情も現さず、どうやら蹲んだような格好をしたと思ったらそれなり消えたように見えなくなってしまいました。顔色の悪い、面寠(おもやつ)れのした前髪垂れの、科人(とがにん)のような凄い形相だったのですね。僕は眼を屢叩(しばたた)きました。続けて二度三度「中村――おうい、中村!」と呼びながら廊下の隅まで走り圭した。路地には誰の姿も見えません。変だなと思いましたが、東京世田ケ谷の中村がJ島くんだりを野良犬のようにうろつているわけがないのです。僕は匆々に朝飯をすませると、何となくしかし奥歯にもののはさまったような気持ちで海岸へ出て見ました。

 雨雲に被われた海の渺茫たる拡がりは油のように澱(よど)んでいました。僕は砂丘を下り、さくりさくりと渚を往還しながら、ここへ来ると誰でもが思い出す「J島の雨」を口笛で吹き始めました。[やぶちゃん注:「J島の雨」知られた歌謡曲嫌いの私が特異的に幼少期より好きな「城ヶ島の雨」である。作詞は北原白秋で、作曲は梁田貞(やなだ ただし/てい)により、大正元(一九一三)年十月に発表された。北原白秋は、この三年前から、当時住んでいた青山の隣家の新聞記者松下某の夫人俊子と不倫関係となっていたが、この年の七月に俊子が白秋のもとへ走った結果、姦通罪で告訴され、二週間、市ヶ谷未決監に拘留された。翌月には示談が成立し、無罪・免訴となったが、流星の如く現われた新鋭詩人としての名声は一気に失墜した。翌大正二年一月、憔悴と絶望の果て、自殺をせんとして、海路で三崎に渡ったが、参照した所持する『日本詩人全集』第七巻「北原白秋」(昭和五三(一九七八)年新潮社刊)の年譜によれば、白秋は『「私はあきらめられなかった。突きつめても死ねなかった」』と述べており、『同月、処女歌集『桐の花』を東雲堂』(しののめどう)『より刊行。日本の短歌に新しい生命を吹き込むものとして称讃の批評が次々と書かれ、汚名をぬぐいさる。四月、夫と離別した俊子と再会し、結婚。五月、新生を求めて、一家をあげて神奈川県三崎郡三崎向ヶ崎』(みさきむこうがさき:現在の三浦市向ヶ崎町八―八に旧住居跡がある。グーグル・マップ・データ))『へ移り、通称異人館へ入る』とある(但し、翌年の七月には俊子と離別している)。なお、同歌を刻んだ詩碑(グーグル・マップ・データ)が城ケ島大橋の城ケ島側に建つが、これは、ずっと後の昭和四九(一九七一)年の建立である。もっと前の白秋生前に歌碑建立計画はあったようだが(白秋は昭和一七(一九四二)年十一月二日に糖尿病と腎臓病のため、阿佐ヶ谷の自宅で逝去した)、「西尾正探偵小説集Ⅱ」の横井司氏の「解題」によれば、『歌碑の建立が遅れたのは』、大正一五・昭和元(一九二六)『年に』先に注した『城ケ島砲台が竣工されたから』である、とある。なお、「城ヶ島の雨」は、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらに、作曲の経緯等が非常に詳しい。それの『2. レコードについて』によれば、『大正時代に「城ケ島の雨」がレコード化されていたかどうかの記述は見つけることができ』なかったとあり、『昭和初期』、『初めて「城ケ島の雨」のレコードが発売されたのは』昭和七(一九三二)年九『月で』、『歌手は「和田春子」』であったとある。]

 長く尾を曳いて海面へ消えて行く口笛はちょっといい気持ちです。自分で自分に酔っていたのですから世話はありませんが、どこからか急にその口笛に乗って同じ歌が聞こえて来たのには驚いてしまいました。立ち止まって見返ると、少し離れた丘の上にいつの間に来たのか洋装の若い女がほっそりした脚を擁(かか)えて、朗々と唄っているのです。穿いている靴、両腿の上に乗っている丸い風呂敷包み、――確かめるまでもなく僕の隣の部屋に泊まっていた女、夜通し泣き明かした女であることに相違はありません。

 僕は思わず黙礼しました。すると女も微笑を泛(う)かべてもじもじしましたが見入って来た眼は大胆でした。若いと言っても僕らと同年輩か、ことによると一つ二つ年上かも知れません。どういうものか僕達親がかりの学生連中は年上の爛熟した女に強く惹きつけられるようです。フロイドは母親代償(マザー・コンプレックス)と言ってこの性心理を説明していますが、僕はたった一眼でその女に魅せられた自分を悟らないわけには行きませんでした。

 僕達は当然言葉を交わしました。

 彼女は僕の来た前の晩にこの島へ来ているのです。前に来たことがあり、それ以来とても好きになったからと言っていました。僕の着ている上衣の金ボタンを見て懐かしそうに、あたしのお友達も貴方と同じ学校に行っていると言って、それから急に気を許したようです。僕が午後から近所の名所旧蹟を歩いて見るつもりだというと、一緒につれてってくれというのですね。

声音と言い態度と言い実に快活で、夜通し泣き明かした女だとは思いようがありません。[やぶちゃん注:作者は慶應義塾大学経済学部卒である。]

 それからその辺をしばらくぶらぶらしてから一緒に宿へ帰りましたが、その間中片時も風呂敷包みを身辺から離しません。紫地にトンボ模様の平凡な風呂敷でしたが、短い間の散歩にも部屋へ置いて来ないところを見ると、よほど大切な品物なのでしょう、だんだん僕の好奇心はその風呂敷包みに注がれて行きました。それほどに女とそれとの関係は異様だったのです。

 

 その日の午後半島めぐりを終えて路傍のとある註車場で帰りのバスを待っている時に、僕達は烈しい夕立に会いました。田舎の凸凹の街道の上に太い両脚がはね返って、行方が霞んでいるのは陰鬱な風景でした。女は恋人のように僕に寄り添い、片方の小脇にそれを濡らすまいと、例の物をしっかと抱え込んで、何だか悲しげな顔をしていました。バスの来る前に彼女はこんなことを言いました。

 「――あなたは幽霊をお信じになる?」

 「幽霊? お化けのこと?」

 「そうよ。――幽霊って、ほんとうにいるものかしら?」

 あまり相手が真剣なので思わず僕は失笑しました。「――信じる者にはいるし、信じない者にはいないでしょう」

 「いいえ、あたしの意味は、幽霊って、実在するかどうかっていうことなの」

 「それは問題だな、今日の科学では」

 「では、あなたはどうなの?」

 「僕は信じませんね」

 女は――仮にF子と呼びましょう――肯いて黙りました。僕はからかってやろうと思い、「さては、恋人の幽霊でも見たんですね?」[やぶちゃん注:この直接話法は底本では、版組上は(「さては」以下は次行に亙っている)、この通りに前の行に続いていて、改行されていない。]

 しかし女は笑いませんでした。笑わないばかりか、なぜか瞳を動揺させて明らかに狼狽の素振りを示しました。平素の自分ならば、首なし裸体事件――丸い風呂敷包み――中村に似た男の出現――幽霊――何かしら秘密を持ったF子――と、これだけの材料を思考の同一線上に結びつけて当然或る種の結論を抽き出し得たはずなのですが、やはり眼の前の女の艶めかしい体臭が邪魔をしていたのですね、その日帰京する予定のところをF子がもう一晩泊まるというので、ずるずる引き摺られて宿へ帰ってしまったのです。

 帰ると雷雨は一層ひどくなりました。僕と入れ違いにF子が入浴中電気が消えました。稲妻がぴかりぴかりと空を裂き、その度に室内が鮮やかに光ります。僕は風呂敷包みを開いて見るのは今だと思いました。さすがに風呂場に下りている間だけは部屋の隅に置いて行ったのです。慌てて彼女の部屋に入り、震える手で結び目を解き始めました。元通り結び直せる平凡な結び方だったのが僕にこんなことをさせたのです。悪いとは思いつつも結局好奇心には勝てなかったのですね、両手で支えてみると意外に重いのには驚きましたが、風呂敷の中に更に数枚重ねられた新聞紙を開いて見て一種異様な物の腐敗臭が鼻腔を鋭く突いた時、さすがに躊躇せずにはいられませんでした。最初は嬰児の腐敗屍体かと思ったのですが、瞬間稲妻がきらめいてそこにハッキリ一個の男の生首を照らし出しました。驚いたのはそればかりではありません。首の切断口こそ石榴(ざくろ)のようにうぢゃぢゃけて血に塗(まみ)れてはいましたが、顔は生ける者のごとく平静で人相などハッキリ判ります。Nさん、それが他でもない、中村一郎の首だったのです。

 

 恐怖は急には湧かないものですね。包みを元通り結び直すと急いで自分の部屋に帰り仰向けに寝転んでだんだん力を失って行く雷鳴を聞くともなしに聞いていると、ぞオっと奇妙な戦慄が全身を走りました。女はその頃やっと風呂場から上がって来て襖越しに何か話しかけたようですが、僕の様子が何となくおかしいのを問題の風呂敷包みを見られたのではないかと危惧したのか、それきり僕の方へ来ようとはしませんでした。雷が遠のいて煌々たる月光が部屋に射し込むのが、電気の再び点(つ)いたのより早いくらいでした。僕は眼を見はりながら奇妙なことを考え始めました。恐怖が僕を女の魅力から遮断し、思考の方向に一転機を与えたのです。すなわち冒頭に誌した「首なし裸体事件」と生首との関係です。もちろん不充分な状態で見たのですから中村の首だと断定することはできません。のみならずその日の朝思わず名前を呼びかけるほど中村によく似た人物を見ているのです。生首が中村一郎であっていいものでしょうか。しかし逆に言えばあの人物が中村であると断定することも同様に困難なわけですから、東京で「首なし事件」が起こってから三日間依然として生首の行方が分からず未解決のまま推移している現在、得体の知れぬ女が生首を携帯している事実を突き止めた以上、最早二つの事実に関聯なしと見ることはできません。僕は急いで部屋の隅にしわになっているその日(九月一日付)の新聞に眼を通しました。ところがどうでしょう、「首なし屍体の身元ほぼ判明す」という小さな見出しで、事件当夜から行方不明となっている世田ケ谷在住の某人学生中村一郎の名が誌してあるではありませんか。

 あとから考えると、これは検察当局の大きな見込み違いだったのですが、この記事を読んで僕はもう遮二無二女の持っている生首が中村一郎であると断定しました。いかなる原因から女が中村を殺しその首を持ち歩いているのであろうか。――

 いや、この場合生首の首が誰であろうと、女の行動は既に明らかに不穏です。時を移さず警察に引き渡すことが僕の責務です。しかし正直に言いますと、その時の僕の心理は複雑でした。僕は彼女に奇妙な憐憫(れんびん)を感じたと同時に事柄の異様さに恐怖をも覚えていたのです。また他人の私物を盗み見た後ろめたさと女がじっとしているので、こっちに行動を起こさせる心理的抵抗がないのです。一言で言えば事件全体が若輩の僕には重過ぎたのですね。こんな気持ちで女の様子を伺っていたのですが、いつまで経っても動く気配もなければ、特徴のある咽喉をきる音も聞こえません。もしやと思い慌てて襖をあけますと、果して女の姿は例の風呂敷包みもろとも消えているのです。僕はしまったと思いました。情勢の不利を悟った女は巧みに風呂場を通って裏口から逃亡したに相違ありません。果して生垣の前の狭い路地、――中村と覚しき男の立っていたところを小走りに跳(と)んで行く女の姿がちらっと映りました。その方向は戦時中立ち入り禁止の太平洋に面した断崖なのです。この女の行動がキッカケとなって抵抗が起こり、憶していた[やぶちゃん注:底本のママ。「臆」の作者自信の誤字か誤植かと思われる。実はこの後にも同じ誤りがあるので、底本の誤植はあり得ないと思われるのである。]心が一挙にして勇猛心に変わりました。僕は裸足のまま宿を跳び出し、女のあとを風を切って追いました。

 僕の出足がもう三十秒も遅れたならば、そして女が伝馬船(てんません)の傍らに拡げられた網に躓(つまず)いて転ばなかったならば、断崖の下の荒立つ怒濤の中に彼女の姿を見失ってしまったことでしょう。際どいところで取り押さえることができました。

 「放して下さい、放して! 死なせて、死なせて……」

 女は僕の両腕の中で悶搔(もが)きました。女といえども必死の力は強いものです。例の風呂敷包みを小脇に擁(かか)えながらも全身で抵抗を続けます。僕も全身で押さえ込みました。とうとう女は力尽きてくたくたと僕の足許に崩折(くずお)れ、今度は大声で泣き出しました。

 話を簡単にいたしましょう。

 女の不穏な行動について彼女自身語るところはこうだったのです。――

 彼女は都下の或るダンス・ホールのダンサアでした。身許(みもと)はしかし案外いいらしいのです。ダンスもうまくからだに特殊の魅力があったので言い寄るものも多かったのですが、中でも彼女に熱情を注いだのが中村の弟次郎だったのです。中村に一つ違いの弟がいたことは冒頭に紹介しておきましたが、兄の一郎が学業も優秀な、教師や学生仲間から一目おかれていた立派な青年であるに反し、弟子(ていし)の次郎は戦場で荒んで復員して来てからぐれ出し、闇屋や竊盗(せっとう)などの嫌疑を受けたこともあり、兄の家を飛び出してM町の焼け跡(首なし屍体の現場付近)にバラックを建て、二、三の不良仲間を引き入れては毎日遊び暮らしていました。[やぶちゃん注:「弟子」にルビはない。しかし「弟子(でし)」には「弟(おとうと)」の意はないので、「年の若い者・幼い者」の「弟子(ていし)」で読みを振った。]

 故郷の父は愛想をつかし、財産の全部を兄に譲る手続きをしていたと言います。

 F子は次郎を通して一郎を知ったのです。

 彼久は次郎を愛してはいたのですが、あまりにも放埒(ほうらつ)な性絡に嫌気がさし、だんだん愛情が弟から兄に移って行ったのです。兄弟はF子を間に挟んで諍(あらそ)いをするようになりました。弟はとうとうよからぬことを思い立ったのです。

 恋と財産、――この二つのものこそ時代や国柄を越えて悪への動機たり得るのですね、弟はこの一石二鳥を狙ってF子を囮(おとり)にF子と共謀で兄を殺してしまおうと企んだのです。彼は前以て近所の家には故郷へ帰るから二、三日留守にすると言っておき、F子に兄とその家で逢曳(あいびき)の約束をさせたのです。女は不決断なものですね、ずるずると半ば脅迫されて弟の計画を受け入れてしまったのです。

 次郎はF子の愛情が兄に移りかけていることを知っていました。それと同時に高圧的に出れば女が自分の意に従うだろうことも知っていました。その頃はもう二人は深い関係にあったのです。

 事件の夜、ホオルを早目にしまってF子は次郎の家に向かいました。問題の踏切のところまで来るともう五分とは掛からないのですが、さすがに彼女の脚は憶して[やぶちゃん注:ママ。前掲割注参照。]もう一歩も進めなかったと言います。その時彼女はハッキリ自分の愛しているのは次郎ではなく、一郎であると悟りました。弟が彼女の来るのを待っているはずです。十一時に来る兄を暗闇の中で弟が取り押さえている間に彼女が風呂敷を首に巻いて絞殺する手筈なのです。途中幾度か逡巡したために時計はもう十一時を二十分も過ぎていました。

 もうその頃は物騒(ぶっそう)で人っ子一人通らない焼け跡の暗いところを選(え)るようにして前蹲(まえかが)みに、何か重い物を背負った男の姿がぽかりと線路の上に浮き上がりました。F子は突嵯に反対側の土手に身を潜めました。次郎が計画通りの仕事を単独で済ませたのだと確信したのです。男は背負った物を線路の上に横たえましたが、それから間もなく電車が驀進して来(き)、あっと言う間もなく骨の刻まれる音、急ブレエキの軋音(きしみ)が起こって、突嗟(とっさ)にこの場を逃れ去ろうとするF子の足許に生首がはね跳ばされて転がって来たのです。彼女は前後の見境もなく「愛する人」の首を包んで無我夢中で駈け去りました。[やぶちゃん注:「軋音(きしみ)」読みは私が振った。]

 やはりこの行為は正常ではありませんね。一種の節片婬楽(ソエティシスムス)或いは偶像愛着症(ピグマリオニスム)とでも言うのでしょうか、翌朝になって自分のおかれている位置を悟り、驚いて以前一郎と一緒に来たことのあるJ島へ、もちろん生首の主が一郎であると思い込んでいるのですから、もろともにここから断崖から身を投げてしまおうと逃げて来たというのです。かつてF子と一郎は断崖の上のタンポポの咲く草原でまる半日も荒れ狂う波や茫洋たる海原を瞶(みつ)めて過ごした、その思い出が彼女にここを死場所に選ばせたのだと思います。[やぶちゃん注:「節片婬楽(ソェティシスムス)」ルビ(実際には「スエテシスムス」である)から見て、ドイツ語の“Fetischismus”を作者なりに音写したものであろう。所謂、フェティシズム(英語:fetishism)である。「偶像愛着症(ピグマリオニスム)」ドイツ語“Pygmalionismus”の音写。所謂、「ピグマリオン・コンプレクス」(和製英語:Pygmalion complex)である。ウブで判らない方は当該ウィキを見られたい。ドイツ語では“Agalmatophilie”、英語では“Agalmatophilia”で、訳すなら「彫像愛」ある。告白すると、私は幼少期から、この二種の異常性愛が、かなり、強いタイプである。]

 

 しかしながらNさん、貴方が夙(つと)に想像されたように、殺された生首の主は一郎ではなかったのです。無頼漢だという弟の次郎だったのです。だから傍らの伝馬船の中から当の中村が僕達の前へ忽然と現れた時には、僕も女も肝の潰れるほどビックリしてしまいました。今度こそ幽霊だと思いました。次元の認識が狂って何かとんでもない錯覚に捉われているのだと思いました。月に浮かんだ男の顔をまじまじと瞶めてしばらくは口もきけません。確かに中村に相違ないのです。しかもこの日の朝(あさ)生垣(いけがき)の蔭に潜んでいた男に相違ないのです。前髪の乱れた青い額、埃(ほこり)に塗(まみ)れたシャツ、よれよれの夏ズボン、――それにしても何だって僕もF子も生首の認定を過ってしまったのでしょう。兄弟で似ているとは討え、あまりにも迂濶でした。人間の視覚などというものはホンのちょっとした先入見(せんにゅうけん)には全く無力だという根本問題に触れないわけには行きません。

 中村は一種の感動から身を震わせて泣くF子を片腕に抱きながら、こんな風に自己の行動を説明しました。

 彼は弟の殺意を少しも知らずあの夜次郎の家へF子に会いに行きました。真暗な室内で兄の来るのを待っていた次郎は突然兄に躍り懸かりました。背後から首へ縄をかけて絞めつけたのです。不意を衝かれて中村も面喰(めんくら)いましたが、自堕落に身を持ち崩したアルコオル中毒の弟は所詮スポオツで体を鍛えた兄の敵ではなかったのです。兄は襲撃者が弟であることを悟りましたが、その場の成行きでついに弟を絞め殺してしまったのです。彼の行動は明らかに正当防衛ではありますが、それを敢行させたものがF子に関聯して弟に抱いていた憎念(ぞうねん)に他なりません。ふだんからこのならず者を持てあましてはいましたが、もしF子を愛さなかったら弟は殺さずに済んだでしょう。それでなければその後の彼の行動、――犯跡韜晦(とうかい)の惨虐(ざんぎゃく)手段の説明がつきません。すなわち彼は一時烈しい悔恨に襲われ、自首して出ようと思ったのですが、彼はふとかつて目撃したことのある轢殺屍体の有り様(さま)を想起し、最近の治安の紊乱(びんらん)と警察力の低下との間隙を狙って万が一の僥倖(ぎょうこう)を頼んだのです。彼は屍体を丸裸にし、車輪がそれを寸断するであろうことに期待をかけて鉄道線路へ運びました。

 それから彼は烈しい眼舞いに襲われ、現場の空家へ這いずり込んでぶっ倒れたまま余儀なく一夜を明かしました。翌朝恐怖と発覚の不安に眼覚めた彼は、突然F子が恋しくなり、彼女のアパートヘ走りましたが、その時は既にF子がJ島へ発(た)ってしまったあとでした。F子が行先を洩らしたのか、アパートの者の口裏(くちうら)から彼女がJ島へ渡ったことを直観し中村はそのあとを追ったのです。それが三十日の夜でした。彼はきょう(九月一日)まで伝馬船の中に隠れてF子を探していたと言います。F子が夕立に会った時幽霊のことを聞いたのも、どこか遠見ででも中村の姿を認めたからだったのでしょう。しかしこの時まで二人は出会う機会に恵まれなかったというわけです。

 「事態がこうなった上は、僕も卑怯な真似はしたくない。どうかしばらく僕達二人だけにしておいてくれないか。どうせ自首して出る以外に道はないのだから」

 彼は意外に冷静に、僕の知っている頼もしい中村に立ち戻ってこう言いました。僕は迂潤にも彼の提言を容(い)れました。きっと君達の来るのを待っていると言いおいて先に宿へ帰りました。しかしいつまで待っても二人は戻っては来ないのです。僕は不安になりました。もしやと思い急遽(きゅうきょ)断崖の上へ引き返したのですが、やはり僕の予感は当たっていました。Nさん、僕は何も殊更に奇を好んでこの最後の場面を綴ろうとするのではありません。彼らの異常さを具体的にハッキリ説明し得ると信ずるからです。まるでマントを脱ぐように善から悪へ顚落(てんらく)した中村、利欲のために兄を殺そうとした弟、行動に中心がなくその時その場合を全く無自覚に生きて行くアモラル(無道徳)なF子、――これらは我々現下の思想を失った青年男女の象徴でなくて何でしょう。

 幾日ぶりかで顔を出した秋の月は、夜半に至ってますます冴え亘(わた)りました。海も岡も万象(ばんしょう)昼のように明るく、崖上(がけうえ)の草原は一面に鮮やかな青絵ノ具が刷(は)かれました。そこは淵に向かって緩いスロオプを描いていて、その上をころころと転がって行くふしぎか形の物を見ました。中村とF子がぴったり重なり合っているのです。どちらがそのような運動を起こしているのか、ころころと丸くなって崖淵の方へ転がって行くのです。

 それは明らかに計画的な心中であり、彼らが追い求めた悦楽の最後の饗宴だったのです。浅黒い男模様と真白な女模様の肉塊は、眼の覚めるような月光を浴びながら、そのまま数十丈の崖下へ、怒れる巨濤(おおなみ)の中へ落ち込んで行きました。

 ――あとには置いてけ堀にされた次郎の生首が、ひとりポツネンと、さあらぬ方を瞶めていました。……

2024/11/25

和漢三才圖會卷第八十六 果部 五果類 目録・李

 

  卷之八十六

   五果類

[やぶちゃん注:以下の目録では、読みの歴史的仮名遣の誤り、及び、濁音になっていないものは、ママである。]

 

(すもゝ)

(あんす)        【杏仁】

(むめ)         【烏梅】

巴旦杏(あめんとう)

樃梅(らうばい)

(もも)         【桃仁】

西王母桃(せいわうほのもゝ)

阿靣桃(あめんとう)

金絲桃(きんしとう)

箒桃(はゝきもゝ)

(くり)         【搗栗(かちくり)】

(なつめ)

仲思棗(さう)

 

[やぶちゃん注:原本では、以上の後に、「卷之八十七」の「山果類」の目録が続くが、それは、その巻の冒頭の「梨」の前に掲げる。]

 

和漢三才圖會卷第八十六

           攝陽 城醫法橋寺島良安尙順

  五果類

 

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すもゝ    嘉慶子

       居陵迦【梵書】

       【和名須毛々】

【音里】

       麥李

【和名左毛々】

本草綱目云其樹大者髙𠀋許耐久綠葉白花種近百

其子大者如杯如卵小者如彈如櫻其色青綠紫木黃

[やぶちゃん注:「木」は恐らく「朱」の誤刻である。国立国会図書館デジタルコレクションの中近同版の当該部では、そのまま「木」であるが、これでは躓く。東洋文庫訳では「朱」とする。従って訓読文では「朱」と訂する。

赤縹綺胭脂青皮紫灰之殊其形亦有數品諸李早則麥

李御李四月熟遲則晚李冬李十月十一月熟○季春李

冬花春實也○御黃李形大而肉厚核小甘香而美也

[やぶちゃん注:最後の一字分の空けがあるように見えるが、これは、以下を見ても、「○」の脱で誤刻である。というか、改行しているので、良安か彫り師が不要と判断したものかも知れない。訓読では補った。]

均亭李紫而肥大味甘如𮔉○擘李熟則自裂○餻李曰

[やぶちゃん注:「𮔉」は「蜜」の異体字。次行では「蜜」となっている。]

粘如餻皆李之嘉美者也今人用曝糖藏蜜煎爲果或本

色黃時摘之以鹽挼去汁合鹽晒萎去核復晒乾薦酒作

飣皆佳

氣味【甘酸微溫】 曝食去痼熱調中肝病宜食之【苦濇者不可食不沉水者

 有毒】服朮人忌之【相傳云與沙糖合食則殺人】

  新六消かての雪とみるまて山賤のかきほのすもも花咲にけり爲家

△按李形似桃而味帶酸故稱酸桃生青熟正赤而甘又

 有純白者皆肌濃美關東多有之 古今醫統云李宜

 稀凡桃樹接李枝則桃紅而甘李樹接桃枝則爲桃李

 

   *

 

すもゝ    嘉慶子《かけいし》

       居陵迦《きよりようか》【梵書。】。

       【和名、「須毛々」。】

【音「里」。】

       麥李《ばくり》

        【和名、「左毛々《さもも》」。】

「本草綱目」≪に≫云はく[やぶちゃん注:書名をちゃんと出し、「云」を添えてあるのは、特異点である。]、『其の樹、大なる者、髙さ、𠀋許《ばかり》。久《ひさ》に耐ふ。綠(《みど》り)の葉、白き花、種、百《ひやく》に近し。其の子《み》、大なる者、杯(さかづき)のごとく、卵(たまご)のごとく、小《せう》なる者、彈(はじき)[やぶちゃん注:女子が遊ぶ「おはじき・石はじき」のこと。]か、櫻の≪子《み》≫のごとし。其の色、青・綠・紫・朱・黃・赤・縹綺(はなだ)[やぶちゃん注:「縹」色で、藍染めの、浅葱(あさぎ)と藍との中間ほどの濃さの色。グーグル画像検索「はなだいろ」を見よ。]・胭脂(えんじ)・青皮《せいひ》[やぶちゃん注:未成熟の蜜柑の青い皮を乾燥させたような色。本来は、ミカン科の果実であるポンカン・ウンシュウミカン・ダイダイ・オレンジ・ナツミカンの未熟な果皮を乾燥させた生薬名。]・紫灰《しくわい》[やぶちゃん注:現行では「灰紫」で「くわいし(かいし)」と読み、藤色に灰を掛けたような明るい色を指す。参照したブログ「着物のよろず 針箱」の「灰紫」を見られたい。]の、殊(しなじな)有り。其の形≪も≫亦、數品《すひん》、有り。諸《もろもろ》≪の≫李、早きは、則《すなはち》、麥李・御李《ぎより》、四月に熟す。遲きは、則、晚李・冬李、十月・十一月、熟す。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下、項目式部分は、総て、改行する。]

○『「季春李《きしゆんり》」は、冬、花《はなさ》き、春、實《み》のるなり。』≪と≫。

○『「御黃李《ごわうり》」は、形、大にして、肉、厚《あつく》、核《さね》、小《ちいさ》く、甘≪き≫香にして、美なり。』≪と≫。

○『「均亭李《きんていり》」は、紫《むらさき》にして、肥大、味、甘≪く≫𮔉《みつ》のごとし。』≪と≫。

○『「擘李《はくり》」は、熟すと、則《すなはち》、自《おのづから》、裂く。』≪と≫。

○『「餻李《こうり》」は、粘《ねばりて》、餻のごとし《✕→を》曰《いふ》。』≪と≫。

『皆、李《すもも》の嘉美[やぶちゃん注:「佳美」に同じ。ここは「美味」の意であろう。]なる者なり。今の人、用《もちひ》て、曝《さら》し[やぶちゃん注:日干しにし。]、糖-藏(さたうづけ)・蜜煎《みついり》≪して≫、「果《くわ》」[やぶちゃん注:これは、東洋文庫訳では『菓子』と訳している。「果」と「菓」は「木の実・果物」の意があるが、「菓子」の意はない。しかし、処理方法から、その意味でよい。]と爲《なし》、或いは、本≪の≫色≪の≫黃なる時、之れを摘(むし)りて、鹽を以つて、汁《しる》を挼(もみ)去《さ》り、鹽に合《あはせ》て、晒《さらし》萎(しぼ)む。《✕→めば、》核《さね》を去《さり》て、復た、晒-乾《さらしほ》して、酒《さけ》を薦(すゝ)むるに、飣(さかな)[やぶちゃん注:この漢字は音「テイ・チョウ」で、「食物を器に盛る」の意がある。]と作《なして》、皆、佳し。』≪と≫。

『氣味【甘酸。微溫。】』『曝《さら》して食へ≪ば≫、痼熱《こねつ》[やぶちゃん注:慢性化したしつこい熱症状。]を去り、中《ちゆう》[やぶちゃん注:漢方の「脾胃」を指す。]調へふ。肝≪の≫病《やまひ》、宜しく、之れを、食ふべし【苦濇《にがくしぶき》者、食ふべからず。水に沉まざる者、毒、有り】。「朮《じゆつ》」を服する人、之れを忌《い》む【相傳《あひつたへ》て、云はく、「沙糖と合はせ食へば、則ち、人を殺す。」と。】。』≪と≫。

  「新六」

    消《きえ》がての

        雪とみるまで

      山賤(やまがつ)の

         かきほのすもも

             花咲にけり 爲家

△按ずるに、李は、形、桃に似て、味、酸≪味≫《すのあぢ》を帶《おぶ》る。故、「酸桃(すもゝ)」と稱《なづ》く。生《わかき》≪は≫、青く、熟せば、正赤にして、甘し。又、純白なる者、有り。皆、肌《はだへ》、濃《こまやか》にして、美なり。關東、多く、之れ、有り。「古今醫統」に云はく、『李、稀《まれ》に宜《よろし》≪き物なり≫。凡そ、桃の樹に李の枝を接げば、則ち、桃、紅《くれなゐ》にして、甘し。李の樹、桃の枝を接げば、則ち、「桃李(づばいもゝ)」と爲《なる》。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:基本、狭義の「李」については、日中ともに、

「李《すもも》」バラ目バラ科スモモ亜科スモモ属 Prunus  salicina

である(「維基百科」の「中國李」(こうあるが、「李」とも表記している)を見られたい)。但し、「李」の字が入っていても、スモモ類とは全く異なる種が存在するので、各個、慎重に考証する必要がある。例えば、本プロジェクトでも考証したところ、先行する椋」に出た、

「牛李《ぎうり》」は、バラ目クワ科パンノキ連パンノキ属 Artocarpus nigrifolius

であったし、

「鼠李」のそれは、バラ目クロウメモドキ科Rhamnaceae、或いは、その下のタクソンである、クロウメモドキ連Rhamneae、或いは、或いは、属レベルでクロウメモドキ(黒梅擬:中文名「鼠李」)属 Rhamnus 或いは、中文名を「鼠李」とする Rhamnus davurica

であって、狭義のスモモとは、これ、何の関係も種だったからである。されば、ここでも、

「~李」という漢名の種は、逐一、調べざるを得ない

のである。取り敢えずは、ウィキの「スモモ」を引いておく(注記号はカットした)。漢字表記は『李・酢桃』で、『落葉小高木。また、その果実のこと』を指し、『原産地は中国。中国から古くに日本へ渡来し、和歌などにも詠まれる。果樹として農園で栽培される他、自生しているものもある』。『スモモの果実はモモに比べて酸味が強いことが、和名の由来となっている。漢字では「李」とも書かれる。英語では “Asian plum”(アジアン・プラム)、“Japanese plum”(ジャパニーズ・プラム)などとよばれる』。但し、『ウメも「プラム」と呼ばれることがある』。『地域によっては、ハダンキョウあるいはハタンキョウ(巴旦杏)ともよばれるが、同じく巴旦杏とよばれるアーモンドとは別種である』。スモモは「モモ」とあるが、『桃とは異なる種で、同じバラ科サクラ属』 Cerasus 『の梅、杏、桃の花粉を利用して人工授粉させることができる。枝はよく分岐し、横に広がる。葉は長楕円形または長披針形』。『開花期は』四『月。中国ではモモとともに春の代表的な花となっている。葉の付け根に白い花を』一~三『個』、『咲かせる。果実は無毛で、夏になると』、『緑色から赤色に熟す。果肉は赤色や黄色があり、酸味はあるが』、『完熟すると』、『甘みが出る』。『果実の旬の時期は』六~九『月ごろとされ、食べごろのものは良い香りがある。栄養的にはカリウム、リンゴ酸、クエン酸などを含み、利尿作用・高血圧予防・肝機能を高める効果が期待されている。果肉だけでなく』、『果皮にも栄養分があるため、薄い皮ごと食べるのがよいといわれている。皮を覆うように白い粉状のブルーム』(bloom:果粉。果物や野菜の果実に於いて、果皮表面の白い粉のように見える蝋状の物質)『がつき、市場に出回っている果実の鮮度が良いものほどブルームが残っている』。『開花期に霜に当たると、不完全花となり』、『結実しないため、開花時期に晩霜に遭わない地域が適する。長果枝は開花しても結実しにくいので、中短果枝および花束状短果枝を出させる剪定を冬季に行う。成木なのに収量が少ないのは』、『受粉樹が近くにない・受粉樹との相性が悪い・低温晩霜に当たったのが原因と考えられる。 発芽する前に石灰硫黄合剤を散布して』、『葉や果実が膨れ上がる』「ふくろみ病」『を防ぐ。シンクイムシ・アブラムシ・カイガラムシ・イラガ等がつく』。二〇一四年『より、ウメ輪紋ウイルス(プラムポックスウイルス)』(Plum pox virusPPV:第四群(一本鎖RNA +鎖)ポティウイルス科Potyviridaeポティウイルス属 Potyvirus プラムポックスウイルス Plum pox virus )『の緊急防除の規制対象植物に指定され、指定地域からの種子、果実以外の持ち出しが禁止されている』。二〇一九年、『幼果に食入して内部を食害する害虫スモモミハバチ』(昆虫綱膜翅(ハチ)目広腰(ハバチ・葉蜂)亜目ハバチ上科ハバチ科MonocellicampaMonocellicampa pruni )『が確認された。この虫は中国大陸から侵入したと推定されており、スモモのみを加害する。被害果は』一センチメートル『程度で落果し、無防除では収穫皆無となることも多い。被害が報告されているのは山口県と広島県だが、九州でも確認されるなど、分布は拡大している。防除は、満開期から落弁期に浸透移行性のある殺虫剤の散布が有効である』。以下、「品種」の総論部。『「スモモ」とよばれる栽培種は多数あり、日本に多く見られる中国原産のスモモ(日本スモモ)と、ヨーロッパ・コーカサス原産の西洋スモモ(ヨーロッパスモモ〈学名: Prunus domestica 〉・アメリカスモモ〈学名: Prunus americana) に大別できる。日本のスモモはニホンスモモが多品種と交雑してできた品種で、総称して「プラム」とよばれている』。十九『世紀にアメリカに渡ったスモモは』、『育種家のルーサー・バーバンクの手により「ソルダム」「サンタローザ」「ビューティー」などの品種として改良され、再び』、『日本に「プラム」として輸入された。それらを元に日本では「大石早生」「月光」などに発展させていった。一方、ヨーロッパスモモは、青紫色の楕円タイプが多く、日本ではプルーンがよく知られている』として、以下、簡単な解説を添えて、十一の品種が挙げられてあるので、上記リンクで見られたい。最後には、近縁種として、今や、すっかりおなじみとなったプルーン(英語:prune)=セイヨウスモモ Prunus domestica が記されてある。

「嘉慶子《かけいし》」本項の引用元である「本草綱目」の「卷二十九」の「果之一【五果類一十二種】」の冒頭の「李」の「釋名」に(「漢籍リポジトリ」のここ。下線太字は私が附した)、

   *

李【别録下品】

 釋名嘉慶子【時珍曰按羅願爾雅翼云李乃木之多子者故字從木子竊謂木之多子者多矣何獨李稱木子耶按素問言李味鹹屬肝東方之果也則李於五果屬木故得專稱爾今人呼乾李為嘉慶子按韋述兩京記云東都嘉慶坊有美李人稱為嘉慶子久之稱謂既熟不復知其所自矣梵書名李曰居陵迦】

   *

とあった。機械翻訳サイトで、変換したものを参考にして訳すと、『現在、人々は乾した李を「嘉慶子」と呼んでいる。按ずるに、韋述の撰になる「兩京記」によると、『東都にある嘉慶坊には、美しい李があり、人々は、長い間、それを「嘉慶子」と呼び習わしている。この「嘉慶子」は永い名称であるが、それが、何故、かく呼ばれているかは、最早、判らない。』という意味か。

「居陵迦《きよりようか》【梵書。】」中文サイト「佛弟子文庫」のここに、「翻譯名義集」に『【居[口*陵]迦】此雲李。([口*陵]音陵)。』と載るが、「大蔵経データベース」で、いろいろのフレーズで調べたが、載っていない。「雲李」も不詳である。

「麥李《ばくり》」これは、狭義のスモモではなく、

バラ科サクラ亜科サクラ属  Cerasus  若しくは スモモ属 Prunusのニワザクラ Prunus glandulosa

である。Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」の「にわざくら(庭桜)」に、写真入りで、『中国の中部から北部が原産です』。ニワウメ Prunus japonica 『の近縁種で、わが国では室町時代にすでに栽培されていました。庭や公園に植栽され、高さは』一・五『メートルほどになります。葉は長楕円形から長楕円状披針形で、基部はくさび形、縁には細かい重鋸歯があります。側脈は』四~五『個です』。四『月から』五『月ごろ、淡紅色から白色の花を咲かせます。ほとんどは八重咲きですが、一重のものは「ひとえにわざくら(一重庭桜)」と呼ばれ、真っ赤な果実ができます。中国名では「麦李(mai li)」』とあった。

『和名、「左毛々《さもも》」』「日本国語大辞典」の『さ-もも【早桃】』によれば、『①スモモの栽培品種。早生スモモの古名。果実は五月頃紅紫色に熟す。』とし、十巻本「和名抄」を初出例とし、『②モモのうち』で、『果実が、夏、最も早く出てくる在来品種の総称。』とあり、『③ 植物「さんざし(山樝子)」の異名』とする。③はバラ目バラ科サンザシ属サンザシ Crataegus cuneata で、縁のない同名異種であり、「維基百科」の同種のページ「野山楂」にも別名にないので、本邦だけの異名であって、関係ない。①・②なら、問題ない。

「御李《ぎより》」不詳。

「晚李」「冬李」孰れも不詳。遅咲きのスモモのことであろう。

「季春李《きしゆんり》」同前。

「御黃李《ごわうり》」不詳。

「均亭李《きんていり》」不詳。調べると、ロシア語のサイトで、この中国語とロシア語を並置するページを見つけたので、スモモの北方種かも知れない。

「擘李《はくり》」「百度百科」のここで、スモモの一種とし、以下の、「熟則自裂」を載せるだけで、「出処」の項には、『《广群芳谱·果谱二·李》:“﹝李﹞種類頗多,有麥李、南居李……擘李、離核李。”』とあるので、種は不明のようである。

「餻李《こうり》」複数の中文サイトに載るが、「本草綱目」を引用して、『スモモの一種』とあるのみである。「餻」は「米粉や小麦粉を捏ねて蒸した食品・餅の類」の意であるから、果肉が餅のような粘りがあるのであろう。

「朮《じゆつ》」漢方生薬の「蒼朮(ソウジュツ)」・「白朮(ハクジュツ)」を指す。「蒼朮」は、Atractylodes lancea ホソバオケラ 或いは、Atractylodes chinensis の根茎で、「白朮」は、キク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica 、或いは、オオバオケラ Atractylodes ovataの根茎を基原植物とし、一般には、健胃・利尿効果があるとされるが、実際には、これらの根茎を、作用させる異なる器官(無論、漢方の)の疾患に、臨機応変に用いているようである。

「新六」「消《きえ》がての雪とみるまで山賤(やまがつ)のかきほのすもも花咲にけり」「爲家」「新六」は「新撰和歌六帖(しんせんわかろくぢやう)」で「新撰六帖題和歌」とも呼ぶ。寛元二(一二四三)年成立。藤原家良(衣笠家良)・藤原為家・藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年:後に為家一派とは離反した)・藤原信実・藤原光俊の五人が、寛元元年から同二年頃に詠んだ和歌二千六百三十五首を収録した類題和歌集。奇矯・特異な詠風を特徴とする。日文研の「和歌データベース」の「新撰和歌六帖」で確認した。「第六 木」のガイド・ナンバー「02417」である。

「古今醫統」既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「桃李(づばいもゝ)」双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種(突然変異)ズバイモモ Amygdalus persica var. nectarina 。ネクタリンの標準和名。原産地は中国南部のトルキスタン附近で、 桃の表面のうぶ毛が退化した変種で「油桃(ゆとう)」とも呼ばれ、本邦では、山梨県・長野県を中心に生産されている。桃よりもしっかりとした果肉で、酸味があるのを特徴とする。小学館「日本国語大辞典」には、『モモの変種。中国西域原産で古くから日本やヨーロッパに伝わった。一般に果実は無毛でモモよりやや小さく』。『黄赤色を帯びる。果肉は黄色で核の周囲は紅紫色。核は離れやすい。七~九月に成熟し生食する。在来品種は消滅したが、近年ヨーロッパ系品種が渡来し』、『植栽されている。つばきもも。つばいぼう。ネクタリン』とする。しかし、ここで、『李の樹、桃の枝を接げば、則ち、「桃李(づばいもゝ)」と爲《なる》』とあるのは本当か? そんな、話しは、ネット上には、見当たらんがなぁ……識者の御教授を切に乞う!

親友関野三晴君の逝去を悼む

先ほど、同い歳の二十代からの親友であった関野三晴君の弟さんから、九月十六日病気逝去の欠礼の葉書が着いた。青春以来の夜の大船の酒友であった……関野君よ! その内、あの世で、逢おう! そして……この大腸ポリープのプロタゴラス(彼が僕に贈った綽名だ)と、また、酒杯を挙げよう、な!…………真のタドジオよ!…………

亡き君に贈る……
Arvo Pärt - Pari Intervallo (Luca Massaglia, organ)


2024/11/24

和漢三才圖會卷第八十六 果部 果部[冒頭の総論]・種果法・收貯果

 

和漢三才圖會卷第第八十六之七目録


   果部

說文云木上曰果【菓同和名古乃美俗云久太毛乃】地上曰蓏【和名久佐久太毛乃】

漢書注有核曰菓無核曰蓏又云木實曰菓草實曰蓏凡

 乾則可脯豊儉可以濟時疾苦可以備藥輔助粒食以

 養民生

五果者以五味五色應五臟李杏桃栗棗是矣 占書曰

 欲知五穀之收否伹看五果之盛衰李【主小豆】杏【主大麥】桃

 【主小麥】栗【主稻】棗【主禾】

本草綱目集草木之實號爲果蓏者爲杲部分爲六類曰

[やぶちゃん注:「杲」は「日光の明らかなさま」或いは「高い」の意であり、「果」の誤刻である。訓読では訂した。

 五果曰山果曰夷果曰味果曰蓏曰水蓏


種果法 【同接木】

張約齋種花果法 春分和氣盡接不得夏至陰氣盛種

 不得立春正月中旬宜接木樨櫻桃黃薔薇正月下旬

 宜接桃梅杏李半枝紅臈梅梨棗栗柹楊柳紫薔薇二

 月上旬可接橙橘已上種接於十二月閒沃以糞穰至

 春花果自然結實立秋後可接林檎川海棠寒毬黃海

 棠已上接法並要接時将頭與木身皮對皮骨對骨用

 麻皮札縛緊緊上用箬葉寛覆之如萠出稍長卽取去

 箬葉無有不茂也

古今醫統云凡種果宜望前上旬日種則多子凡種果須

 候肉爛核和種也否則不類其種

 果樹凡經數次接者則果大而核小伹其核不可種

 鑿果樹納鍾乳粉少許則果多且美也樹老亦以鐘乳

 末泥於根上揭去皮抹之復茂盛

[やぶちゃん字注:「抹」は、原本では(つくり)の「末」が「未」になっているが、訓点から「抹」の誤刻と断じて訂した。以下も同じ。]

凡果樹生蟲者其䖝孔用杉木作釘釘之卽絕又法元旦

 鷄鳴時以火把燃照果樹上下則不生蟲

酉陽雜組云用生人髮挂果樹烏鳥不敢食其實

凡花欲令莟速開者用花枝倒懸於井中伹可使水不浸

 又花樹用馬糞浸水澆之則速開

凡花果俱忌麝香衣香諸香之氣宜栽蒜韭可以避之有

 觸香則淹溺急用雄黃和艾葉於上風燒之卽解

凡贈花於遠用菜葉實籠中籍覆上下使花不動揺亦以

 禦日氣又以蠟封花蔕可數日不落

果樹茂盛不結實者元日五更或除夜以斧斫之卽結實

 一云辰日将斧砍果樹子結不落

[やぶちゃん注:この「砍」は、訓読して『ハツレハ』と振る。「砍」は「切る」・「取り除く」の意であるから、しばしば使用される「斫」が相応しいので、訓読では、それに変える。

△按除夜一人在樹上一人在其下誚曰汝宜結子乎否

 今當斫棄也樹上人答曰諾自今以後宜結子也果翌

 年多有子蓋雖俗傳和漢趣相似矣

 諸木卒然將枯者急宜灸地上三寸向陽𠙚多活


收貯果

古今醫統云諸般青果收貯法淨罈中十二月下臘水入

[やぶちゃん注:「罈」は原本では、「缶」が(「卸」の(へん))になっている。しかし、このような漢字は見出せない。原本では「罈」に『ツボ』と読みを打つので、「壺」の意である、この「罈」(音「タン」で、「口が小さく腹が膨れていた容器・瓶」の意がある)を当てた。]

 些小銅青末宻封久留青色不變凡有青梅批杷林檎

 葡萄小棗橄欖菱芡橙瓜李柰之類皆收如此

又用生大竹鑿一孔以鮮果投入不可傷破皮以木塞孔

 泥封之久留不壤桃李杏皆然

 

   *

 

和漢三才圖會卷第第八十六之七目録

[やぶちゃん注:「卷第八十六」と「卷第八十七」のカップリングを言う。「之」を訓じてしまうと、誤解を生むので、そのままで訓読しなかった。敢えて読むなら、「いたる」(至:「巻八十六から巻八十七に至る」の意)となろう。]


   果部

「說文」に云はく、『木の上《うへ》なるを、「果《くわ》」と曰ひ、』【「菓」と同じ。和名、「古乃美《このみ》」。俗、云ふ、「久太毛乃《くだもの》」。】『地の上なるを、「蓏(くさのみ)」と曰ふ。』【和名「久佐久太毛乃《くさくだもの》」。】≪と≫。

「漢書」の注≪に≫、『核(さね)の有るを「菓」と曰ひ、核、無きを「蓏《ら》」と曰ふ』≪と≫。又、云はく、『木の實を、「菓」と曰ひ、草の實を「蓏」と曰ふ。』≪と≫。凡そ、乾く時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、脯(ひぐはし)[やぶちゃん注:訓読のは、恐らく「干果子(ひぐわし)」の誤記であろう。東洋文庫訳では、割注して『(干果)』とあるからである。]と≪す≫べし。豊儉《ほうけん》[やぶちゃん注:豊作と凶作を指す語。]以つて、時に濟(すく)ふべし。疾苦《しつく》[やぶちゃん注:病気に苦しむこと。]≪の時は≫、以つて、藥に備(そな)ふべし。粒食《りうしよく》[やぶちゃん注:穀類の食糧。]を輔助《ほじよ》して、以つて、民生を養ふ。

五果は、五味五色を以つて、五臟に應《おう》じ、李《すもも》・杏《あんず》・桃・栗・棗《なつめ》、是れなり。 占書《うらなひのしよ》に曰はく、『五穀の收否《しうひ》[やぶちゃん注:収穫の多寡。]を知《しら》んと欲せば、伹《ただ》、五果の盛衰を看(み)よ。李【小豆《あづき》を主《つかさど》る。】・杏【大麥《おほむぎ》を主る。】・桃【小麥を主る。】栗【稻を主る。】棗【禾《きび》を主る。】。』≪と≫。

「本草綱目」に、草木の實、號(なづ)けて、「果」・「蓏」と爲《す》る者を集めて、「果の部」と爲《な》し、分《わけ》て、「六類」と爲《なす》。曰はく、「五果」。曰く、「山果」。曰はく、「夷果《いくわ》」。曰はく、「味果」。曰はく、「蓏《ら》」。曰はく、「水蓏《すいら》」《なり》。

 

[やぶちゃん注:「說文」(せつもん)は「說文解字」の略。漢字の構成理論である六書(りくしょ)に従い、その原義を論ずることを体系的に試みた最初の字書。後漢の許慎の著。紀元後一〇〇年頃の成立。

「蓏(くさのみ)」「蓏《ら》」「廣漢和辭典」には、『うり。木にあるものを果というのに対して、地にあるもの。または蔓生(ツルセイ)のものをいう。また、殻・核のあるものを果というのに対して、殻・核のないものをいう。また、木の実を果というのに対して、草の実をいう。』とあり、「解字」には、『会意。』とし、『艸+㼌。地上又は蔓(つる)になる瓜(うり)のこと。㼌はその複数を表す。』とある。

「漢書」後漢の班固の撰になる史書。漢の高祖から王莽(おうもう)政権の崩壊に至るまでの全十二代、二百三十年間の前漢の歴史を記述した、中国の正史の一つ。「本紀」十二巻・「表」八巻・「志」十巻・「列傳」七十巻の全百巻。後漢の明帝の永平年間(五八年~七五年)に勅命を受けて、二十余年の歳月を費やし、章帝の建初年間(七六年~八三年)に完成した。当該部は、「卷八十一」の「匡張孔馬傳第五十一」の以下の略述。「中國哲學書電子化計劃」の「卷二十四上」の「食貨志第四上」から引く(一部に手を加えた)。

   *

瓜瓠果蓏【應劭曰、「木實曰果、草實曰蓏。」。張晏曰、「有核曰果、無核曰蓏。」。臣瓚曰:「案木上曰果、地上曰蓏也。」。師古曰、「茹、所食之菜也。畦、區也。茹音人豫反。畦音胡圭反。蓏音來果反。」。】

   *

「禾《きび》」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum 。]


果を種《うう》る法 【同≪じく≫接木《つぎき》。】

張約齋が花果《くわくわ》を種る法[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、ここに割注して『(『古今医統』通川語方、花木類)』とある。] 『春分には、和氣《わき》盡きて、接《つぐ》ことを、得ず。夏至《げし》には、陰氣、盛《さかん》≪と成り≫、種ることを、得ず。立春・正月中旬に、宜しく、木樨(もくせい)・櫻桃(ゆすら)・黃薔薇《わうしやうび》を接ぐべし。正月下旬には、宜しく、桃・梅・杏・李・半枝紅《はんしこう》・臈梅(らう《ばい》・梨・棗・栗・柹《かき》・楊柳《やうりう》・紫薔薇《ししやうび》を接ぐべし。二月上旬には、橙(だいだい)・橘《きつ》を接ぐべし。已上の、種《うゑ》・接《つぎ》、十二月の閒《あひだ》に於いて、沃《そそ》ぐに、糞-穰(こえ)を以てすれば、春に至《いたり》て、花果《くわくわ》、自然《しぜん》と實《み》を結ぶ。立秋の後《のち》、林檎(りんご)・川海棠(《かは》かいどう)・寒毬《かんきう》・黃海棠《わうかいどう》を接ぐべし。已上の接ぐ法、並びに、接ぐ時を要《えう》して[やぶちゃん注:接ぎ木するタイミングが大切で。]、頭と、木の身《み》と≪を≫将《もつ》て、皮は、皮に對し、骨は、骨に對し、≪接ぎ木し≫、「麻皮(あらそ)」を用≪ひ≫て、札-縛(しめ)ること、緊緊(きんきん)として、上(《う》へ)を「箬-葉(をかあしのは)」を用≪ひ≫て、寛(ゆる)く、之れを覆《おほふ》。如(も)し、萠出《もえいで》て、稍《やや》、長卽ずる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、箬葉《わかば》を取去《とりさ》れば、茂らざると云ふこと[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、有ること、無し。

「古今醫統」に云はく、『凡そ、果を種《ううる》には、宜しく、望《もち》[やぶちゃん注:満月。]の前にすべし。上旬の日、種る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、子《み》、多し。』≪と≫。『凡そ、果を種るに、須らく、肉、爛《ただ》れ、核《さね》、和《やはらぐ》を候《うかがひ》て、種るべきなり。否(しからざ)る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、其の種に類《るゐ》せず。[やぶちゃん注:その種に相応しい正常で似合ったものは繁茂しない。]』≪と≫。

『果の樹、凡そ、數次を經て、接ぐ者は、則ち、果、大にして、核《さね》、小《ちいさ》し。伹し、其の核、種《ううる》に類《るゐ》せず[やぶちゃん注:植えても芽生えない。]。』≪と≫。

『果樹を鑿(うが)ちて、鍾乳《しようにう》の粉《こ》を、少許《すこしばかり》、納《をさむ》る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、果、多≪く≫、且つ、美なり。樹≪の≫老(ひね≪こび≫)たるにも、亦、鐘乳の末《まつ》を以て、根の上に泥《なづませ》[やぶちゃん注:塗り附け。]、皮を揭-去(かき《さり》)、之れを、抹(ぬりつ)ぐれば[やぶちゃん注:後で、再度、その剝した皮を再び、そこに塗り附け次ぐれば。]、復《ふた》たび、茂盛《もせい》す。』≪と≫。

『凡そ、果の樹に、蟲、生ずる者≪には≫、其の䖝《むし》の孔《あな》に、杉《すぎ》≪の≫木を用≪もちひ≫て、釘《くぎ》に作《つくり》、之れを、釘《くぎた》てば、卽ち、絕《たゆ》る。又、法≪ありて≫、元旦の鷄鳴の時、火《ひ》を以つて、燃≪ゆる≫を把《と》り、果樹の上下を照《てら》せば、則ち、蟲、生ぜず。』≪と≫。

「酉陽雜組」に云はく、『生(いき)ている人の髮(かみのな《✕→け》)を用《もちひ》て、果樹に挂《かけ》れば、烏(からす)・鳥、敢《あへ》て其の實を食ず。』≪と≫。

[やぶちゃん注:以下は、「酉陽雜組」には認められない。引用なのか、引用なら出典は何かは、判らない。良安の纏めたデータとしておく。]

凡そ、花、莟(つぼみ)をして、速く開らかしめんとに《✕→「に」は不要》欲さば、花枝を用《もちひ》て、倒《さかさま》に井≪の≫中に、懸け、伹(ただし)、水をして浸(ひた)らざらしめして、又、花樹、馬糞を用《もちひ》て、水に浸して、之れを澆《そそ》げば、則ち、速《はや》く開く。

凡そ、花・果、俱《とも》に麝香《じやかう》・衣香《えかう》・諸香の氣を忌《い》む、宜しく、蒜《のびる》・韭《にら》を栽うべし。以つて、之れを避(さ)く。香に觸るること、有らば、則ち、淹-溺《えんでき》≪せば≫[やぶちゃん注:「淹溺」は「溺死する」の意である。ここは、花や果実が、香に酔って元気を失ってへたってしまっていたなら。]、急《すぐ》に、雄黃《ゆうわう》を用《もちひ》て、艾《よもぎ》の葉に和(ま)ぜて、上風《かざかみ》に於《おい》て、之れを燒き、卽ち、解《かい》す。

凡そ、花を遠《とほく》に贈る≪には≫、菜《な》の葉を用《もちひ》て、籠《かご》の中に實《いれつめ》、上下(《う》へ《した》)に籍-覆(しき《おほひ》)、花をして、動-揺(うご)かざらしめ、亦、以つて、日《ひ》の氣《け》を禦(ふせ)ぐなり。又、蠟を以つて、花の蔕(へた)を封じ≪れば≫、數日《すじつ》、落ちず。

果の樹、茂盛して、實を結ばざる者には、元日、五更[やぶちゃん注:この時期では、午前三時頃から五時頃まで。]、或いは、除夜、斧《おの》を以つて、之れを斫(は)つれば、卽ち、實を結ぶ。一《いつ》に云ふ、「辰の日、斧を将《もつ》て、果樹を斫(は)つれば、子《み》を結んで、落ちず。」≪と≫。

△按ずるに、除夜、一人、樹の上に在《あり》、一人、其の下に在りて、誚(なじ)りて、曰はく、「汝《なんぢ》、宜しく、子を、結ぶか、否《いな》や。今、當《まさに》に斫り棄つべきなり。」≪と≫。樹の上の人、答《こたへ》て、曰はく、「諾(いかに)も、今より以後、宜しく、子を結ぶべし。」と云《いふ》なり[やぶちゃん注:云は送り仮名にある。]。果《はた》して、翌年、多《おほく》、子、有《あり》。蓋し、俗傳と雖《いへども》、和漢≪の≫趣《おもむき》、相似《あひに》たり。

 諸木、卒然として、將《まさ》に枯《かれ》んとする者には、急《すぐ》に、宜しく、地上三寸≪の≫、陽《ひ》に向ふ𠙚《ところ》に、灸す。多《おほく》、活《かつ》す。

 

[やぶちゃん注:「張約齋が花果《くわくわ》を種る法」東洋文庫訳の後注で、著者については、『張鎡(ちょうじ)のこと。宋の文人。官は奉議郎・直秘閣。約斎は号。』とある。引用は、割注で、『(『古今医統』通川語方、花木類)』とある。当該部は、中文サイトの「五術堪輿學苑」の「古今醫統大全 通用諸方 花木類第二3026で確認出来た。

「木樨(もくせい)」中国語の「木犀」は、双子葉植物綱シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ Osmanthus fragrans 等のモクセイ属の常緑香木の総称である。含まれる種は、先行する「木犀花」を見られたい。

「櫻桃(ゆすら)」何度も注意喚起しているが、この良安の読みは――完全なるハズレ――で「アウトウ」と読まねばいけないので、注意。本邦で「ゆすら」と言った場合は、

バラ目バラ科サクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa当該ウィキによれば、『中国北西部』・『朝鮮半島』・『モンゴル高原原産』であるが、『日本へは江戸時代初期にはすでに渡来して、主に庭木として栽培されていた』とある)

を指すが、中国語で「櫻桃」は、

○サクラ属カラミザクラ Cerasus pseudo-cerasus(唐実桜。当該ウィキによれば、『中国原産であり、実は食用になる。別名としてシナミザクラ』『(支那実桜)』・『シナノミザクラ』・『中国桜桃などの名前を持つ。おしべが長い。中国では』「櫻桃」『と呼ばれ』、『日本へは明治時代に中国から渡来した』とあるので、良安は知らない

である。「維基百科」の「中國櫻桃」をリンクさせておく。

「黃薔薇《わうしやうび》」バラ目バラ科バラ属ロサ・ユゴニス Rosa hugonis の中文名。Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」の「ロサ・ヒューゴニス」のページに、『中国の中部、山西省から陝西省、甘粛省、青海省それに四川省に分布しています。日当たりの良い山地の林縁や潅木帯に生え、高さは』二『メートルほどになります。枝先は弓なりに垂れ下がり、細かい棘が生えています。春に直径』五~七『センチのレモンイエローの花を咲かせます。種名は、発見者のヒュー・スカラン(Hugh Scallan)神父に因みます』とある。因みに学名の読み方であるが、ラテン語ではhは発音しないので、「ユニゴス」と読んでおく。

「半枝紅《はんしこう》」 ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ変種イタドリ Fallopia japonica var. japonica か。通常、花は黄色であるが、当該ウィキ(注記号はカットした)。によれば(一部を私が太字にした)、『春、タケノコのような赤紅色の斑点がある新芽が、地上から直立して生える。茎は円柱状の中空で、多数ある節は赤みを帯び』、『特に若いうちは葉に赤い斑紋が出る』。『花』は『雌雄異株で、葉腋と枝先に白か赤みを帯びた小さな花を多数つけた円錐花序をだして、枝の上側に並んでつく』。『特に花の色が赤みを帯びたものは、ベニイタドリ(メイゲツソウ)』(イタドリ品種ベニイタドリFallopia japonica var. japonica f. colorans )『と呼ばれ、本種の亜種として扱われる』とある。全く私の見当違いかも知れない。しかし、日中ともに「半枝紅」の植物名は見当たらない。

「臈梅(らう《ばい》)」前掲リンク先「古今醫統大全」では、『臘梅』となっているので、双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ属ロウバイ Chimonanthus praecox である。先行する「蠟梅」を見られたい。「蠟梅」は俗称を「臘」と言う(「維基百科」の「蠟梅」を見よ)。」

「楊柳《やうりう》」双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属 Salix を指す。先行する「柳」を見よ。

「紫薔薇《ししやうび》」これは簡単に判ると思いきや、園芸品種に紫色のバラはゴマンとあり、中国で古くに、こう、名指したものが、如何なる種なのか、遂に判らなかった。識者の御教授を乞うものである。

「橙(だいだい)」この読みはミカン、基! アカンね。中国で言うこれは、少なくとも現代では、甘いムクロジ目ミカン科 ミカン属 オレンジ Citrus × inensis を指しウィキの「オレンジ」によれば、日本では、オレンジといえば、『主に和名アマダイダイ(甘橙、甘代々。 学名:Citrus sinensis )を指し、英語圏ではこれが「スイートオレンジ」と呼ばれている』。『スイートオレンジの品種は』、『接ぎ木による珠心胚実生を介したアポミクシスの無性生殖で殖やしていく』。『これらの変種は突然変異を介して生じる』。『オレンジは、ザボン(ブンタン)とマンダリンの交雑種である』。『葉緑体のゲノムすなわち母系はザボンのものである。スイートオレンジは全ゲノム配列解析済みである』。『オレンジは、中国南部・インド北東部・ミャンマーを含む地域が発祥で』、『同果物に関する最初期の言及が紀元前』三一四『年の中国文学に見られた』とある)、本邦の「橙(だいだい)」は、酸味のあるミカン属ダイダイ Citrus aurantium を指すからである。ダイダイは当該ウィキによれば、『インド、ヒマラヤが原産』で、『日本へは中国から渡来した』とある。

「橘《きつ》」これは、双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulata のこと。当該ウィキによれば、『原産地はインドのアッサム地方で、これが交雑などで変化しながら世界各地に伝播したものと考えられている』もので、一方、本邦の「橘」(たちばな)は、古代を除き(「古事記」に出る「橘」は如何なる種であったかは、現在も確定不能である)、同じミカン属ではあるが、日本固有のタチバナ Citrus tachibana で、種としては、異なる。なお、東洋文庫では、これに割注して、『(くねんぼ)』とするが、これはおかしい。クネンボはマンダリンオレンジ品種クネンボCitrus reticulata 'Kunenbo'で、元はインドシナ原産の種であって、古く中国を経て渡来し、本邦で品種として改良され、栽培されるようになったものがからである。

「川海棠(《かは》かいどう)」不詳。所謂、「海棠」=バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ハナカイドウ Malus halliana には、「~海棠」の漢字名を持つ近縁種や変種・品種ばかりか、以下の「黃海棠」のように、全く明後日の全然、縁がない別種もあるので、その中の一種ではあろうが、この名のものは、判らなかった。

「寒毬《かんきう》」不詳。クリ(栗)の類かとは思うのだが。

「黃海棠《わうかいどう》」これは、海棠とは縁も所縁もない、キントラノオ目オトギリソウ科オトギリソウ属トモエソウ Hypericum ascyron である。同種については、当該ウィキを見られたい。「維基百科」の同種の標題が、バッチり、「黃海棠」であるからである。

「鍾乳《しようにう》」鍾乳石のこと。鍾乳洞(石灰洞)の天井に垂れ下がる、白色に近い氷柱状の石灰岩。石灰岩が二酸化炭素を伴った水に溶けて鍾乳洞の天井から滲み落ちる際に、二酸化炭素を含む水分を空気中に放出してできた炭酸カルシウム CaCO3 で表が再び固まったもの。「石鍾乳」とも言う。樹木が強い酸性土壌から摂取してしまう酸性物質を中和させるためであろう。植物にはアルカリ性土壌を好むものと、酸性土壌を好むものがあるが、「タキイネット通販」の「土壌改良のためだからといって、石灰をやりすぎることはよくないと聞きましたが、本当でしょうか?」に、『酸性が強くなると、植物に必要な成分(リン酸、カルシウムなど)の吸収が妨げられ、主要栄養分の欠乏をきたします。その一方で、植物に有害なアルミニウムが大量に溶け出すなど、強い酸性土壌では、園芸植物の多くは生育が悪くなってしまうのです』とあった。]


(このみ)を收-貯(たばふ)[やぶちゃん注:「果実を貯蔵する(方法)」の意。]

「古今醫統」に云はく、『諸般の青果、收-貯(たば)ふ法。淨《きよ》き罈(つぼ)の中に、十二月、臘水《らうすい》を下《したたら》し、些(ちと)小(ばかり)、銅青(ろくしやう)の末《まつ》を入《いれ》、《靑果を》宻封して、久《ひさしく》留《とど》めて《✕→めれば》、青≪き≫色、變ぜず。凡そ、青梅・批杷・林檎・葡萄・小-棗(なつめ)・橄欖《かんらん》・菱(ひし)・芡(みつぶき)・橙(だいだい)・瓜(うり)・李・(すもゝ)・柰(からなし)の類《るゐ》、皆、收むに、此くのごとくなること、有り。』≪と≫。

又、『生《なま》の大竹《おほだけ》を用《もちひ》て、一つの孔《あな》を鑿(ほ)り、鮮(あらら)しき果を以つて、投入《とうにふ》≪す≫。皮を傷-破(やぶ)るべからず。以つて、木で、孔《あな》を塞ぎ、泥にて、之れを封ず。久《ひさしく》留《とどめ》て、壤(そこね)ず。』≪と≫。桃・李・杏、皆、然《しか》り。

 

[やぶちゃん注:「たばふ」という和語は「庇ふ・貯ふ」と書き、「かばう・守る」の芋の他に、「蓄える・保存しておく」の意がある。

「臘水」これは、単に十二月の水ではなかろう。「臘」は、原義は、「冬至の後、第三の戌(いぬ)の日に行う祭りで、猟の獲物を祖先や神々に供える」という日の意がある。ここでは、その日に汲んだ神聖な指すものと思う。

「橄欖《かんらん》」ムクロジ目カンラン科カンラン属 カンラン  Canarium album ウィキの「カンラン科」によれば、『インドシナの原産で、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、タネも食用にしたり油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブ』(シソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea )『に似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである』とある。

「芡(みつぶき)」双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox 。一属一種。別名「ミズブキ」(水蕗)。当該ウィキによれば、『アジア原産で、現在ではアジア東部とインドに見られる』。『日本では本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していたが、環境改変にともなう減少が著し』く、嘗て『宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市北区松浜に位置する松浜の池が北限』『となっている』。『ハスと名が付くが』、『分類上はハス科ではなく』、『スイレン科に属する』。『葉が大型で葉や葉柄に大きなトゲが生えていることから「オニ」の名が付けられている』。『特に葉の表裏に生えるトゲは硬く鋭い。葉の表面には不規則なシワが入っており、ハスやスイレン等と見分けることができる。また、ハスと違って葉が水面より高く出ることはなく、地下茎(レンコン)もない』。『春ごろに水底の種が発芽し、矢じり型の葉が水中に現れる。茎は塊状で短く、葉は水底近くから水面へと次々に伸びていき、成長するにつれて形も細長いハート型から円形へ変わっていく。円形の葉は、丸くシワだらけの折り畳まれた姿で水面に顔を出し広がる。円形葉の大きさは直径』三十センチメートルから二メートル程と『巨大で』、一九一一年には『富山県氷見市で直径』二メートル六十七センチメートルもの『葉が見つかっている』。『花は水中での閉鎖花が多く、自家受粉で』百『個程度の種子をつくる。種子はハスと違って球形で』、『直径』一センチメートル程。八月から九月頃、『葉を突き破って花茎を伸ばし、紫色の花(開放花)を咲かせることもある。種子はやがて水底に沈むが、全てが翌年に発芽するとは限らず、数年から数十年』も『休眠してから発芽することが知られている。また冬季に水が干上がって種子が直接空気にふれる等の刺激が加わることで発芽が促されることも知られており、そのために自生地の状態によってはオニバスが多数見られる年と』、『見られない年ができることがある』。『農家にとってオニバスは、しばしば排除の対象になることがある。ジュンサイ』(スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi )『などの水草を採取したりなど、池で農作業を行う場合、巨大な葉を持つオニバスは邪魔でしかないうえ、鋭いトゲが全体に生えているために嫌われる羽目になる。また、オニバスの葉が水面を覆い』、『水中が酸欠状態になったため、魚が死んで異臭を放つようになり、周囲の住民から苦情が出たという話もある』。『水が少ない地域に作られるため池では水位の低下は死活問題に直結するが、オニバスの巨大な葉は水を蒸散させてしまうとされて歓迎されないこともあった』。『葉柄や種子を食用としている地域もある』。『種子は芡実(けつじつ)とも呼ばれ、漢方薬として用いられている』。『日本では、環境の悪化や埋め立てなどで全国的に自生地の消滅が相次ぎ』、『絶滅が危惧されており、オニバスを含めた環境保全運動も起きている。ため池に関しても』、『減反や水事情の改善によって以前よりも必要性が薄れており、管理している水利組合等との話し合いによって保全活動が行われているところもある』。『氷見市の「十二町潟オニバス発生地」は』大正一二(一九二三)年に『国の天然記念物に指定され』、『保護されてきたが、後に指定範囲での自生は見られなくなっており、現在は再生の取り組みが行われている』。『このほか、各地の自治体によって天然記念物指定を受ける自生地も多い。環境省レッドリストでは絶滅危惧II類に指定されている』。僕らの子ども時代の図鑑の定番挿絵であった『子供を乗せた写真で知られるオニバスに似た植物は、南米原産のオオオニバス』は同じスイレン科 Nymphaeaceae のオオオニバス属オオオニバス Victoria amazonicaであり、オニバスとは別種である。「三重県」公式サイト内の「紙上博物館」の「絶滅の危機にひんする弱きオニ」も見られたい。学名のグーグル画像検索もリンクさせておく。

「橙(だいだい)」既出既注。「だいだい」はアウトだっつうの!

「柰(からなし)」現代中国語では、バラ科モモ亜科ナシ連ナシ(リンゴ)亜連リンゴ属セイヨウリンゴ Malus domestica を指すが、宋代の「柰」は広義のリンゴ(リンゴ属)に留めておくのがよかろう。なお、この漢字は本邦では、まず、別にリンゴ属ベニリンゴ Malus beniringo を指す。小学館「日本大百科全書」によれば、葉は互生し、楕円形、又は、広卵形で、縁(へり)に細かな鋸歯(きょし)がある。四~五月、太く短い花柄の先に、白色、又は、淡紅色の花を上向きに開く。この形状から別名「ウケザキカイドウ」(受咲海棠)とも呼ぶ。楕円形のリンゴに似た果実が垂れ下がる。先端に宿存萼(しゅくそんがく:花が枯れ落ちた後になっても枯れずに残っている萼のこと)があり、十月頃、紅色、又は、黄色に熟す。本州北部原産で(従って、ここでの「柰」としては無効)、おもに盆栽にするが、切り花にも用いる。日当りのよい肥沃な砂質壌土を好み、寒地でよく育つ、とある。ところが、実は、この漢字、また、別に、日本では「からなし」(唐梨)と訓じ、一般名詞では赤い色をした林檎を指す以外に、面倒なことに、バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensisの異名としても通用しているのである(但し、カリンの中文ウィキ「木瓜(薔薇科)」の解説(非常に短い)には、この「柰」の字は載っていないし、前に出した「植物名實圖考(道光刻本)」の「第三十二卷」の「木瓜」の解説にも「柰」の字は使われていないから、「柰」には中国語としてはカリンの意はないと考えてよかろう)。ネット上でも、「柰」の字の示す種、或いは、標準和名や通称名・別名が、ごちゃごちゃになって記載されており、甚だ混乱錯綜してしまっている。

 以上の引用は、先に示したサイトでは、見当たらなかったが、別の中文サイト「Qi」の「歷代名著選」の「醫論」にある「古今醫統大全」の「古今醫統大全 卷之九十八 通用諸方」に、以下のように見出せた(このサイト、物凄い!!!)。

   *

【諸般青果】用十二月收貯淨壇中下臘水,入些小銅青末,密封,久留青色不變。凡有青梅、枇杷、林檎、葡萄、小棗、橄欖、菱、芡、橙、瓜、李、柰之類,皆收如此。

   *

【桃、李、杏】用生大竹鑿一孔、以鮮果投入、不可傷破皮、以木塞孔。泥封之。久留不壞。

   *]

2024/11/23

ブログ・カテゴリ「西尾正」創始・「海蛇」やぶちゃん版校訂本文+オリジナル注附

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「西尾正」を創始する。私は既に古く十七年前、サイト版で、「骸骨 AN EXTRAVAGANZAをオリジナル注を附して、二〇〇七年五月に公開している。私の西尾体験は、大学一年の春、「骸骨」を大学図書館でレファレンスし、読んだことに遡る、古くから好きだった作家である(彼は鎌倉に住み、鎌倉をロケーションとしている作品が多いことが、私の郷土史研究・鎌倉探索癖と完全にシンクロしたのである)。その後、正規表現版で彼の作品を電子化する目論見を忘れなかったのではあるが、驚くべく、国立国会図書館デジタルコレクションには、彼(実際には彼の本格的活動時期前期は戦前であった)の作品は一つも発見出来なかったため、永いペンディングをしていたのだが、今朝、調べて見ても、何故か、やはり、全く見出すことが出来なかった。されば、諦めて、所持する二〇〇七年二月・三月に論創社から刊行された「西尾正探偵小説集Ⅰ・Ⅱ」(新字新仮名)を用いて、電子化注を開始することにした。

 探偵小説家西尾正(にしおただし:明治四〇(一九〇七)年~昭和二四(一九四九)年)は本名同じで、別名を「三田正」とも称した。東京(旧東京府東京市本鄕區)生まれ。当該ウィキによれば、『作品は全て短編かつ怪奇小説的な作品である』。『代表作に「骸骨」「海蛇」「青い鴉」など』。『亀の子束子』(たわし)『の製造で知られる西尾商店の一族として生まれた』。『慶應義塾大学経済学部に進学し、卒業後の』昭和八(一九三四)年に『雑誌『ぷろふいる』六月号に「陳情書」を発表してデビュー』した(但し、同作は発表直後に発禁となった)。『その後も『ぷろふいる』『新青年』などの雑誌に、コンスタントに短編を発表し続けた。太平洋戦争中は沈黙、戦後には執筆を再開している』。『米国のパルプ・マガジンに取材した異色作なども発表している』、昭和二二(一九四七)年、『雑誌『真珠』』十一・十二『月合併号に掲載した「墓場」は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフト』(Howard Phillips Lovecraft:一八九〇年~一九三七年:私は邦訳ではあるが、その殆んど読んでいるラヴクラフト好きでもある)『作「ランドルフ・カーターの陳述」に着想を得た作品であり、やや変則的な形ではあるものの』、『ラヴクラフト作品が初めて日本語訳されたものである』。『評論家・東雅夫は本作を『怪奇への狂熱ぶりにおいて相似た資質を有し、かたや『ウィアード・テイルズ』』、『かたや『新青年』という怪奇小説のメッカとなった雑誌を舞台に、太平洋の此岸と彼岸で』、『ほぼ同時代に活躍した両作家の軌跡が、この翻案作品において交錯する次第は、なにやらん運命的なものをすら感じさせます』と評価している』。『この他にAW・カプファー』(A.W. Kapfer)の「幻想の薬」(‘ The Phantom Drug ’一九二六年発表)『を下敷きにした「幻想の魔薬」、WF・ハーヴィー』()「炎天」(‘ August Heat ’)『を元にした「八月の狂気」がある』。しかし、戦前から罹患していた結核が、戦中・戦後の食糧欠乏の結果、悪化し、敗戦から三年余りの昭和二四(一九四九)年三月十日(別資料では一日とする)、四十一歳の若さで、鎌倉にて逝去した。奥谷孝哉「鎌倉もうひとつの貌」(蒼海出版一九八〇年刊)によれば、彼は戦前の昭和八(一九三二)年頃から、鎌倉に住んでおり、海岸橋の近くに家があったとし、『乱橋材木座九七七という旧標記』があるとあるので、恐らく、滑川の左岸の乱橋(泉鏡花のドッペルゲンガーの近代小説の嚆矢たる「星あかり」(正規表現・私のオリジナル注附・PDF縦書版)所縁の「妙長寺」附近のここ。グーグル・マップ・データ)から、若宮大路の海岸橋の間に住居していたものと推定される。

 私の好みで、上記二冊の中から、チョイスする。本文は、当該書をOCRで読み込む。ここに御礼申し上げる。但し、「青空文庫」が先行して公開している「陳情書」「墓場」「放浪作家の冒険」の三篇は、オリジナル注をしても、屋上屋となるので、電子化対象から外す。

 最初は、代表作の一つで、現在、評価の高い「海蛇」とする。初出は『新靑年』昭和一一(一九三六)年四月号である。但し、読みについては、別に所持する立風書房一九九一年刊の『新青年傑作選』第三巻の同作を対照して、適宜、追加することとする。

 実は、ルビは、そちらとは、これ、かなり異なるからである。恐らく、「西尾正探偵小説集Ⅰ」と立風書房版のそれとは、注記がないが、孰れも、ルビをそれぞれ独自に選択しているようである。例えば、冒頭の「貞子(さだこ)」には、立風書房版では、ルビは存在しないからである。また、基礎底本の冒頭から三段落目の最初の部分の「距(へだ)たる」と「余り」とあるのが、立風書房版では、ここは「距(へだた)る」と「余(あまり)」とになっていたりするのである。

 いやいや! 送り仮名・ルビ違いどころではなく、本文そのものの相違(改行・行空け・漢字表記・送り仮名違い等々)さえ、かなりある、のである。

 思うに、「西尾正探偵小説集Ⅰ」が底本としたものは、初出版ではなく、後に再録された際に作者が手を加えたものである可能性が高いようである。

 されば、この本文については、概ね、私は、立風書房版の方が初出に近い表記であると判断しており、多くを、そちらに代えた箇所も多い。

 さらに、私が個人的に若い読者のためには、振った方がいい、と判断した推定ルビも加えた。それは、当時のこの手の雑誌は、総ルビであることが多かったからである。

 しかし、この細部の変更を、いちいち、注記するのは五月蠅いだけなので、それらは、原則、示さない。

 但し、両者の表記が大きく異なる箇所は、例外的に、割注で、細かく指摘しておいた。

 なお、両書ともに、電子印刷の端境期に当たり、ルビの促音・拗音表記がなされていないので、適宜、修正してある。

 さらに、立風書房版では、ひらがなになっている箇所が、「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、漢字になっている箇所も多い。これは、或いは原作では、ひらがなである可能性が高いと思われるものの、作品の気品を引き締めるためにも、ここでは、後者の漢字表記(作者による再録時の変更と採って)を多く採用した。しかし、その逆転の場合もあり、立風書房版を採用している箇所もある。また、同義の漢字の別字や異体字の相違もあるが、そこは、私が勘案して、選んだ(これは幾つか割注で述べた)。さらに以降の電子化でも見られることになるので、言っておくと、この「西尾正探偵小説集」では、漢字が新字ではない正字体や異体字で示している箇所が、かなりある。これは「舊漢字崇拜者」たる私にとっては、願ってもないものなので、しっかり活字化してある。

 さればこそ、則ち、

 

――この私の電子化本文そのものが――出版物に同じものは一つとしてない――全く新しい――やぶちゃん版「海蛇」となっている――

 

のである。

 なお、本文の「海蛇」には、一切、両者ともルビがない。「うみへび」と読んでおく。傍点「﹅」は太字とした。]

 

   海 蛇

 

 貞子(さだこ)

 ……滅多に手紙など書いたことのない俺が突然こうした長々しい手紙を送れば、お前はきっとよほど俺が心境に変化を来たしたか、或いは、都会を遠く離れた僻地に孤独な療養生活を送っている俺の身辺に、何か起こったのではないかを案ずるかも知れぬ。――そうだ。その通りだ、到頭恐ろしい異変が襲って来たのだ。

 お前はこれまで俺がちょっとでも突飛な行動に出(い)でようものなら、闇雲に俺を気違いか有り難くもない天才扱いにして、損の行く時だけは驚き慌(あわ)て、そうでない場合には座興にして、くすくす盗み笑いをして来たのが為来(しきた)りであった。お前は齢(よわい)二十八歳にして既に諸々の哲理を悟り澄ました最も月並みな俗物、お偉い合理主義者なのだ。だがどうか今度だけは俺の言うことを真面目に受け取ってくれ。

 ここは東京を汽車で距(へだた)ること十時間余(あまり)、南日本の一角、海辺の寓居だ。俺の眼の前には今一段と低く、どす黒い凄惨な浪がざぼおんざぼおんと踊り狂っている。俺の借家は崖(がけ)の頂辺(てっぺん)に立った一軒家だ。部屋は八畳一間切りだ。後ろは高い山だ。森林が北方の空を被(おお)い尽くしている。来た当座は狂い波の響きが木谺(こだま)して煩(うるさ)くて眠られなかったが、三月も暮らせば平気にもなる。左方にI岬(アイみさき)の突出した入江があるが、右方前方は何一つ遮(さえぎ)る物のない海、海、海の連続だ。遠くは紫色に霞んで何にも見えぬ。荒海ではあるが時として幕のように鎮(しず)まり返る凪(な)ぎの日の続くことがある。手摺(てす)りに凭(もた)れ、無心に海を眺(なが)めていると堪らなく物倦(ものう)くなる。体中の毛穴からは汗が滲(し)み出(だ)し、神経が飴のように溶(とろ)けてしまう。

 

 海岸の二月には時たま春のように暖かい夜の訪れるのをお前は知っているか。そういう夜は如何(いか)に病的な俺だとて人並みに烈しい精神の高揚を覚える。寒気に萎縮していた空想は奔放(ほんぽう)となり、五体は熟(う)れ上がって誰でも好(い)い、ただ女でさえあればそいつを全身で我武者羅(がむしゃら)に搦(から)み締(し)めたい衝動でわくわくするのだ。窗外(そうがい)には、森にも海にも岩蔭にも牛乳色の靄(もや)が棚曳(たなび)いて月が眠(ねむ)た気(げ)にぼやけていた。俺は当てもなく瓢然(ひょうぜん)と部屋を立ち出で、足に委(まか)せて漫歩を続けて行くうちに、不知不識(しらずしらず)、I岬の突端まで来てしまったのだ。それが今日(こんにち)の恐怖の種を蒔いた最初の夜であるとは誰が知ろう。月はだいぶ落ち掛けていた。海は神秘の情操を綾(あや)どる天来の音楽だ。嘘のようだが全くこれに相違はない。俺は陶然と小一時間も立ち続けていたが岡へ上がろうと踵(きびす)を巡(めぐ)らせた時、反対に岡の方から突端へ歩いて来る一人の女を認めたのだ。夜半女に出会うのは気味の好いものではない。しかも、洗い髪の若い女なのだ。女はよほど岩伝いには馴れている者と見え身も軽々と駈け下りて来たが、見知らぬ男の彳(たたず)むを認めると慌てて裾から洩れる白い脛(すね)を隠し、草履(ぞうり)の音も秘そやかにそろりそろりと近寄って来た。下膨(しもぶく)れのぽっちゃりした顔であったが教養はありげで土着の女ではないらしい。摺(す)れ違う時、体を堅くしながらも上眼遣(うわめづか)いに凝(じっ)と俺の眼に見人ったが、それは警戒ではなくむしろ大胆な流眄(ながしめ)であった。俺はその後姿(うしろすがた)を見送りながら一体何者であろうと考えた。俺と同じように戸外の夢幻に誘われたのであろうか? 何分深夜だ。俺は半ばの好奇心と半ばの気味悪さを覚えながら、もう一度俺の方へ近寄って来たら言葉を掛けてみようと、煙草(たばこ)の火を点じ、岩蔭に蹲(かが)んでその後ろ姿を窺(うかが)っていた。

 けれど女はそれ切りこっちを向かなかった。あたかも満潮時で折々沖の方から黒々としたうねりが足許(あしもと)を渫(さら)うように押し寄せて来るのだが、その波が岩の両脇に別れて消えることをよく知っているらしく、悠然と袂(たもと)に入れた手を胸の辺りで重ねたまま相変わらず沖を見ている。雲の中にたたずむその幽婉(ゆうえん)な後ろ姿は幾分か淋し気で、背中に俺の視線を意識しながら言葉の掛けられるのを待っているようにも見えた。と、――訝(おか)しなことが起こった、女が突然くるりと振り向き艶(つや)やかな頰にあるかないかの小さな靨(えくぼ)を浮かべ、嫣然(えんぜん)媚笑(びしょう)したと見るや、ぷいと海の中へ見えなくなってしまったのだ。[やぶちゃん注:「幽婉な」奥ゆかしく美しいさま。「嫣然」「艶然」とも書き、「にっこりほほえむさま・特に美人が笑うさま」を言う。「媚笑」男の気を惹くような笑い。艶(なま)めかしい笑い。]

 俺は無論啞然(あぜん)とした。が、次の瞬間たちまち恐ろしくなった。汗ばんだ皮膚にぞっと悪寒(おかん)が襲った。俺は、変だなあ変だなあと、無意識に衝(つ)いて出る呟(つぶや)きを何遍も何遍も繰り返しながら、来た時よりは早足で家に帰った。

 部屋に落ち着いて俺は考えた。或る記録に拠(よ)れば、この地方はレプラ患者の多い漁村で、海浜に平行して連なる山脈の或る区域には人目を避けた部落が営まれ、年頃の漁夫の娘などは発病の症候と同時に山奥に送り込まれてしまうと誌(しる)されてある。往時から漁村にレプラの多いのは鮪(まぐろ)が細菌を媒介するからだと謂う。都会からも、だいぶ入り込んでいる噂であるから、彼女もそういう種類の女であの夜(よる)自殺を決意して岩に渡り、最後の虚無的な笑いとともに俺の瞬(またたき)の間(ま)を利用して変化のない鈍重なうねりに肉体を委(まか)せてしまったのではないか、と考えた。この解釈は如何にも不満ではあったが、幾分の安神(あんしん)を得たことは事実であった。眠りに堕ちた時は暁(あかつき)の鳥が鳴き、雨戸の透間(すきま)から白々(しらじら)とした光の射し込み始める頃であった。[やぶちゃん注:「レプラ」ハンセン病。旧称の「癩病」は、字背に差別的ニュアンスが濃厚にダブっているので、使用してはならない。ハンセン病は細菌門放線菌門放線菌綱放線菌目コリネバクテリウム亜目マイコバクテリウム科マイコバクテリウム属マイコバクテリウム・レプラ Mycobacterium leprae による純粋な感染症であるが(現行、種名和名を「らい菌」とするが、私はこの謂い方も「癩病」を廃している以上、廃するべきと考える)、歴史的に永い間、「生きながら地獄の業火に焼かれる」といった「天刑病」「業病」の差別、潜伏期が長いことから(一般的には三~五年であるが、十年から数十年の後に発症する症例もある)感染症とは考えにくいという誤認、後の悪法「らい予防法」(昭和二八(一九三三)年)などに見るように、日本政府自らが優生学政策を掲げたことなどから、「遺伝病である」というとんでもない誤解が広まってさえいたのである(実際、私のブログで電子化している怪奇談集の中には、江戸時代、癩病筋(すじ)の家系をモチーフとした実話奇談物が存在する)。そうした顕在的潜在的差別意識に対して充分に批判的視点を持ってお読みになられるようお願いする。そうして、かくも誤った認識によって、かくも凄絶に孤独に死んでいったハンセン病に罹患した人々が、大勢いた事実を記憶に刻み込んで戴きたいのである。なお、この「I岬」のロケーション・モデルを考証しなかったのは、この部分を考慮したためである。但し、後で、ここには鉄道が通っており、「I岬駅」があるとするのは、西尾に具体なモデル駅があったのだろうと考えられはする。「安神」「安心」に同じで、「後漢書」に現われる古い漢語である。]

 翌日になっても若い女の溺死体が流れ着いた模様もなかった。ではやはり俺の錯覚だったのかと数日を過ごすうち、同じように暖かい月明(つきあかり)の夜、同じ所で同じ女に、またしても出会ったのだ。[やぶちゃん注:「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、ここで、このように、改段落行空け行われているが、立風書房版では、そのまま次の段落に繋がっている。これは、原初出は改行・行空けはないものと考えられるが、効果としては、あった方がよいと考えて、かくした。]

 

 相手が何らの怪異の対象でもなく、一個の熟(う)れ切った肉塊であると思い始めると、何時(いつ)か俺の体内に生温(なまあたた)かいものが流れ出した。俺は毎夜(まいよ)岬へ出て女を待った。三度、五度、六度、――こうして女は、はじめて眼と眼と戛(か)ち合う時、唇許(くちもと)を歪(ゆが)め上眼遣いに例のあるかないかの微笑を泛(うか)べて見せた。俺は或る目的のために特に強烈な酒を呷(あお)り、婬(みだ)らな欲望にうずきながらついに嫌がる女を欺(だま)し欺し部屋に引き摺(ず)り込んではじめて肉体を知った。何気なく女の素性(すじょう)を問うた時、女の眉間(みけん)に悲し気(げ)な陰(くも)りが、窗(まど)に落ちる黒い島影(しまかげ)のごとく射すかと見ると素早く消え去った。ただあなたと同じように体(からだ)のためにきているのよ、どうかそれ以上はなんにもきかないで頂戴、と答えるのみで、更に追求すれば切れの長い眥(まなじり)を怒らせて、棘々(とげとげ)しい素振(そぶ)りを見せた。やがて異様な疲れが、嗚呼(ああ)眠(ねむ)るぞ眠るぞと呟(つぶや)く俺を死人のごとき眠りに吸い込んだ。既に陽(ひ)の高い頃眼覚めた時、寝床には生々しい体臭が残っているだけで女は見えなかった。体中がびっしょり生汗(なまあせ)に濡れていた。[やぶちゃん注:「戛(か)ち合う時」「窗(まど)」は「西尾正探偵小説集Ⅰ」を採用した。二つの、一般的でない漢字の効果が、ともに影響し合って奇体なシークエンスを装飾していると考えたからである。それに合わせて、前に一度出ている「窓」も「窗」に代え、以下、最後までそれで通した。立風書房版では、前者は、「搗(か)ち合う」、後者は、「窓」、である。「生汗(なまあせ)」両書ともルビはないが、私が附した。但し、作家によっては、これで単に「あせ」と読むケースもある。]

 

 ところが昨日(きのう)のことだ、俺は別に深い仔細(しさい)もなく例のI岬へ釣りに出掛けたと思ってくれ。海は干潮から満潮に移る頃であった。俺はあちこちに凸出(つきだ)した岩肌に石炭酸を打(ぶ)ち撒(ま)けてイソメをふんだんに掘り出した。生憎(あいにく)昨日は弱い弱い北風で、相当の深間(ふかま)でも判然(はっきり)透き通って見えるくらい水が澄んでいた。二時間ぐらいは辛抱していたが餌を代える機会さえ来ないのだ。俺は自棄(やけ)を起こし竿(さお)を畳むと、碌々(ろくろく)使いもしない餌(えさ)を手摑(てづか)みにして海に投げ込んだ。すると、ちりぢりに四散してやがて水底(みなそこ)に舞い落ちようとする餌に向かって、海草や岩の間から種々雑多な珍しい小魚(こうお)の群(むれ)が飛び出して来(き)、彼方(かなた)に走り此方(こなた)に戻り猛烈な争奪戦を開始したのだ。俺は癪(しゃく)に障(さわ)った。が、眼舞苦(めまぐる)しい光景が面白いので立ち掛けた腰を下ろし、飽かず見入っていた。と、海底に、ゆらりゆらりと這うように流れて行く黄色い女の帯(おび)のような物が眼に留まった。俺は怪訝(けげん)に捕らわれて眼を瞠(みは)っていると、その帯のような物は必ずしも水の流れに従ってはいないのだ。言い換えれば、一定の生物の運動動作を以て海草を薙(な)ぎ倒しながら、そいつは騒然たる小魚どもを尻目に懸けて尖った口をパクリパクリ開いて俺の投げ入れた餌を喰(くら)っているのだ。[やぶちゃん注:「石炭酸」フェノール類(英語:phenolbenzenol)。化学式ArOH当該ウィキによれば、『毒性および腐食性があり、皮膚に触れると薬傷をひきおこす。絵具に似た臭気を有する。毒物及び劇物取締法により劇物に指定されている』とある。「イソメ」環形動物門多毛綱イソメ目イソメ上科イソメ科Marphysa 属イワムシ Marphysa iwamushi 。私の『畔田翠山「水族志」 (二四九) イソメ (イワムシ)』を見られたい。残念ながら、「イソメ」は「磯蚯蚓・磯目」で、「磯女」ではない。]

 貞子、それが身長六尺以上もあろうと思われる海蛇なのだ。――お前は恐らく海蛇がどんな動物であるか知るまい。動物! そうだ、彼奴(あやつ)は魚類には相違ないのだが、ふと動物と呼びたくなるほど陸上の毒蛇に近い感じを備えている。全身茶色で一面に黒い斑点(はんてん)がある。ただ腹だけが白い。眼かカツと大きく、吻が尖っていて歯が鋭い。漁師はなだと呼び、喰いつかれたら殺されても放れぬ執念深い妖魚として食用にもならぬままにむしろ恐れ遠去(とおざ)けているのだ。体は縦に扁平で鰭(ひれ)がないからぬらぬら光っている。鰭はただ一個所胸鰭(むなびれ)があるだけだ。しかもそれが極度に発達しているので、砂上ぐらいは這い回り、敵に向かって嚙みつくぐらいの跳躍力はもっている。俺はかつて地曳き網に入った奴を見たことがあるので、其奴(そやつ)が海蛇であることはすぐ判ったが、俺の見たのは高々三尺ぐらいであったので、一間以上もある奴が海底をうねうね這い回っている態(さま)を見て漫(そぞ)ろに寒気(さむけ)を覚えた。心なしか、其奴は俺の存在に気付いているらしく時折瞳を凝らして俺の様子を窺うが、するとまた嘲笑するようにぬらりぬらり這い回り始める。体の向きを代える度に背中の虎班(とらふ)が鈍い色に晃り、それが人の五体を痺(しび)れさす魔薬に似た鬼気を放つのだ。一分……三分……五分……俺はその鬼気に憑(つ)かれ、苦行僧のごとく身動きも出来なくなった。息苦しい無音の時間が刻一刻と過ぎて行った。と、俺はぴょんと跳ね上がった。今眼前の海蛇こそ女の本体なりとの疑惑が通り魔のごとく俺の胸を掠(かす)めたのだ。俺は下駄の角を岩のあちこちに打(ぶっ)つけながら這(ほ)う這(ほ)うの態で我が家に逃げ帰った。[やぶちゃん注:「虎班(とらふ)」立風書房版の読みを採用した。「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、「虎班(こはん)」で、音が硬く、しっくりこない。]

 

 さて、右の事実によって布衍(ふえん)させる俺の悲劇については、お前の想像に委(まか)せる。ただそれをどう処置したら宜(い)いかが問題なのだ。この事実は最凶の疫病よりも恐ろしい。だが貞子よ、安堵してくれ、俺は昨夜来の襖悩(おうのう)の果(はて)、やっと自身満足の行く解決法を見出した。それは女をできるだけ惨虐(ざんぎゃく)な方法でいびり殺すことだ。すなわち復讐だ。動物の頭蓋には頂点に一個所比較的脆弱(ぜいじゃく)な部分があるとのことだ。そこで俺はもう一度女を誘(お)びき寄せ、あいつの脳天に五寸釘を打ち込むことに決心したのだ。

 貞子、以上で俺の近況報告は終わった。お前はことによったら怒っているかも知れぬ。だが、許してくれ、そしてどうか打遣(うっちゃ)っといてくれ、俺が目的を敢行した暁(あかつき)にこそお前を呼び寄せよう。その時こそ俺の生まれ変わる日だ、もう一度都会へ帰り、愛するお前と新しく始めから生活を遣(や)り直す、春の雲のような、愉(たの)しい愉しい希望の燃える日なのだから。……

     三月二十九日   喬太郎(きょうたろう)記

 

     ※  ※      ※  ※

 

 前掲の手紙はかつての絢爛(けんらん)たる浪漫(ろうまん)主義者今日(こんにち)の敗惨の人黒木喬太郎が、その妻わたくしに与えた文(ふみ)でございます。これによってもわかりますように、黒木は思いきって変質者と呼んでもさしつかえのない人で、結婚前からかずかずの不審な行動がございました。今でもはっきり憶えておりますのは、ある日銀座の珈琲店(コオフイてん)で向かいあっておりますと、突然なんの外部的な衝撃もなしに白い珈琲盃(コオフイ・カップ)をとりおとして真っ青になった日のことで、まだあまり黒木の性格をしない許嫁(いいなずけ)時代のわたくしはあっけにとられてしまいました。黒木はその時、僕はいまひどい神経衰弱でささいなことにも驚くのだ、コオフイ・カップの柄をもたずに口へもっていったら、柄が眼球のまじかにせまり奇態な距離の錯覚をおこして、薄(うす)ぐらいテエブルの下から一匹の白鼠(しろねずみ)が組んでいた脚をつたってのどの方へかけあがってくるようにみえたのでギョッとして手をはなしてしまったのです、と説明して額の生汗をぽたりぽたりテエブルに落としたままじっと心臓の動悸をしずめている模様でした。[やぶちゃん注:「珈琲店(コオフイてん)」「珈琲盃(コオフイ・カップ)」ここは、立風書房版と「西尾正探偵小説集Ⅰ」を折衷し、一部に手を加えた。まず、「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、この二箇所は『珈琲(コーヒー)店』・『珈琲盃(コーヒー・カップ)』となっている。立風書房版では、『珈琲(コオフイ)店』『コオフイ・カップ』である。]

 病気はつねづね自分からいっておりましたように婦人病以外はたいてい患(わずら)いつくしたようなもので、その癖ねこむようなことはめったになく体の芯になにかこう強靭な鋼鉄線でも貫いているかのようで、仕事はひとときなど時流(じりゅう)のまにまに三人分くらいは果たしました。同棲してみますと極端なわがままもので、女性の肉体にいだく感情もけっして正常でないことがわかりました。犬や猫や鶏(にわとり)を飼った上で獣姦の文献をあつめたり、家系も血統も調べずに結婚したわたくしを非難する人もございましたが、もともとわたくしはあるったけの愛をささげて黒木の異常な病癖をためられるならためてやろうといういわばヒロイックな気持ちから一緒になったこととて、驚きもし悲しみもしましたがなかなか失望はしませんでした。それだけ黒木がすきだったのでございましょう。

 ところが黒木は昨年の夏から秋にかけて病名のわからぬ病気におかされて突然卒倒してしまいました。医者は全身の極度なる疲労で肺結核もあるし腎臓もわるいし脳組織もめちゃめちゃに破壊されているといい、もはやなおそうともせず死を宣告しましたが黒木は二三年も前からもうなにも書けなくなり、幻想をよびおこすために親しい医師から奪取するさまざまの魔薬を喫して小説をかいたり、一度獲得した名声の喪失をおそれるのあまりワルアガキがひとかたではなくその心労から一種の発狂状態に陥り、自殺企図や誇大妄想や、骨も髄(ずい)もくたくたに亡びて次に卒倒に移行したのでございます。尊(たっと)い自己を犠牲に魔薬の力をかりてまでも小説をかかなければならないというのはなんという愚かなことでございましょう? わるあがきをする前に適度に人生を軽蔑してこころにゆとりの流れるいわば諦観の境地に漬(ひた)ることができれば、それこそ真の積極(せっきょく)の道であるのに黒木にはそういう東洋的な教養がなく、この意味で救われない悲劇的(トラギッシュ)な人でございました。けれど、――黒木の体はどこまで強靭なのでございましょう、三月(みつき)ほどもするとふたたびシャンとして二三本宛名(あてな)のわからぬ手紙を往復しておりますと、突然I岬沿岸に療養かたがた仕事をはじめるのだといいだして、本年正月匆々(そうそう)仕度(したく)もそこそこに放たれた鳥のように飛びたっていってしまいました。空気のいい海のこととてたって反対する筋もないので時期をみてつれもどす考えで賛成してしまいましたが、極端に手紙ぎらいの黒木から三月ぶりで手紙をもらいました時にはなにかしら不吉な胸さわぎのしたのは事実でございます。なにしろ便りのないことは平和を立証することになりますから、ない間はむしろ安心していたのでございます。ですからわたくしは翌朝匆々の列車で、黒木の転地先をおとずれてゆきました。

 

 「I岬」が駅名になっておりますI岬駅をおりたら馬車に一時間もゆられやっと目的の黒木の借家につくことのできたのは、さすがに永い春の陽ざしも斜めにおちかかり赤あかともえた空がもうやがてたそがれどきにくれようとするわびしい夕ぐれでございました。でも駅をでた時は明るい春の光がいっぱいで、早いタクシイもありましたがなんとなくただのんびりと古風な馬車にゆられてゆきたいと思い、馬車をえらびました。家並みのたてこんだ駅前をはなれると馬車はまもなく山と山とのあいまの田圃(たんぼ)にかこまれた道にはいり、そろそろ山間僻地(さんかんへきち)の風貌がひらけはじめました。馬車は海に近よったとみえ、新鮮な磯の匂いがぷうんと鼻にせまりました。やれやれという思いで馬車が山のふもとをめぐるあらたな道を眼をみはって眺めましたが海はまだみえずに左に山、右に岩石のつらなる細ながい道が行く手に、白(しろ)じろと展(ひろ)がります。道はよほどかたいものとみえ馬の蹄(ひづめ)が戛々(かつかつ)と一層たかくなりひびきました。すぐ右手が海なのだが岩にさえぎられてみえぬのだと初老の馭者(ぎょしゃ)が鞭(むち)をうちふりうちふり答えました。なるほど囂々(ごうごう)たる潮鳴(しおな)りが遠雷のように響き過ぎゆく岩と岩とのわれめからは時折どろりと黝(くろ)ずんだ海の面(おも)が古代の想像動物(イマジンド・モンスタア)のおなかのように物倦(ものう)げなスロオ・モオションでゆれている点景がほのみえ、癩病部落はどこだときくと、もっといったらしらせるといい、ほどなく行く手はゆるい登り勾配となり、崖の麓(ふもと)には飲食店や薬屋が軒をならべ、そこをゆきすぎると、のぼりきった右手の崖ふちにちっぽけなあばらやがぽつんとたっておりました。それがとりもなおさず黒木の寓居だったのでございます。

 馭者は今度は下り勾配となる蜿蜒(えんえん)たる道の彼方(かなた)の森を指さし、あのくらいところが部落ですと答え、馬車をひき返してゆきました。雑草のはえた前庭(まえにわ)の道をすすんで素通(すどお)しの格子(こうし)の前にたつと、垢(あか)じみたよれよれの青紬(あおつむぎ)をきて座敷の真ん中にあぐらをかいて蹲(うずくま)っている黒木のなつかしい後ろ姿がのぞけました。それにしてもなんという荒涼とした住居(すまい)なのでございましょう。屋根のかわらはおち、木材という木材はことごとく薄墨色(うすずみいろ)にくちかけ、周囲(まわり)にはえしげる雑草のなかに「水死精靈供養塔南無觀世音菩薩」と刻まれた青苔(あおごけ)の石碑がたち、右手についた木戸も蝶番(ちょうつがい)ははずれ地にひくくたおれかかっております。わたくしはいっそきたことを驚かせてやろうと木戸をあけ、海向きの窗(まど)の方へ薄(すすき)の音をころしころし足音をしのばせて近よっていきました。その三尺にもたらぬ小路(こみち)はそのまま波のあたる崖に通じているらしくみえ、正面の窗には回れそうもないので、幸いあいていた西窗から首をいれ、こんにちはあ! と頓狂(とんきょう)によびかけようとしましたが、三月余(あまり)もみぬまの黒木の横顔があまりにもみじめにやつれはてているさまにせっかくの声ものどの奥につかえてしまいました。転地前の黒木はいかにも病人じみた青瓢簞(あおびょうたん)ではありましたが、髪の手入れもし髯(ひげ)もそり、瞳には微(かす)かながらもはりつめた意欲の輝きがひそんでおりましたのに、眼の前の黒木は東京で苅ったままともみえる蓬髪(ほうはつ)を衿首(えりくび)のあたりまでふさふさとためこみ、肉のいっそう殺(そ)げおちた額から頰に近くおどろおどろに散らしながら一心不乱と形容したいくらい夢中になって、いつのまに買いこんだのか金槌(かなづち)やヤットコや鑢(やすり)をつかいおぼつかぬ手つきで、なにやら太い針金のようなものをギイギイガアガア磨いております。そこへにゅうっと首をだしたので、突嵯(とっさ)にあわてふためきぴょんとはねあがるや、そこいら中(ぢゅう)にちらばっている道具類を部屋の隅に蹴(け)こんでしまってから、なにものだ? と詰問するような眼差(まなざし)で防禦の姿勢をとりつつわたくしにするどい一瞥をなげつけました。かれはちょっとの間(ま)そうしてむかいあっている女がわたくし、自分の女房であることが信ぜられぬように眼の光も暫時(ざんじ)警戒から怪訝(けげん)の色に移りましたが、やがてわたくしであることがわかると一時(いっとき)に緊張のゆるみ、深い溜息をふう……とはきだすと、なんだ貞子だったのかと唇許(くちもと)に安堵の笑(えみ)をうかべてふらふらと部屋の真ん中にくずおれるようにあぐらをかき、するともう、なにしにきやがったといわぬばかりの邪魔者あつかいの色が顔中(かおじゅう)に瀰漫(びまん)し、あらためてわたくしをみかえしました。[やぶちゃん注:「水死精靈供養塔南無觀世音菩薩」は、正字版を電子化出来ない鬱憤ばらしに、せめても、正字で示した。「瀰漫」一面に広がり満ちること。蔓延(はびこ)ること。]

 わたくしは手紙をみてそういう神秘的な土地が急に恋しくなったから無断できてしまったのですと、ことさら冗談めかしくいいながら部屋に上がり、火鉢に火をおこしたり敷きっぱなしの布団やくちゃくちゃの衣類をかたづけはじめました。いいえ、冗談というよりもむしろ本音(ほんね)で、一昔前の怪談ばかばかしいお伽噺(とぎばなし)をもちだし人をかついで興(きょう)がっている黒木はなんという好人物でしょう。黒木が海蛇の精に誘惑されたというのですからふきだしたくなるのもむりがないではございませんか。くる時にはもしや手紙にあるような有閑女(ゆうかんマダム)となにか関係でもできたのではないかと疑ってもみましたが、剥(は)げおちた壁、稜毛(のげ)の逆立った古畳、室内の乱雑さから古手拭(ふるてぬぐ)いのように薄汚(うすぎた)ない黒木のさままでおよそ女でいりのありそうな模様はみあたらないのでございます。けれど、窗から首をだすと、海の形容だけは、黒木の手紙にすこしの誇張もないことがわかりました。崖にあたった波が、沖にひきかえし沖からおしよせるうねりと衝突して真っ白い飛沫を発し、方向を逸した二条の浪脈が互いに嚙みあいぶつかりあい、四分五裂にあれまわる狂い波と変ずるさまは、折りしも夕暮れの暗澹(あんたん)たる空、轟々たる咆哮(ほうこう)とともに凄(すさ)まじい限りで、それに黒木は一口に「窗」とよんでおりますが実際は窗ではなく、海に面した縁先で、それが淵[やぶちゃん注:ママ。「縁(ふち)」であろう。]いっぱいギリギリに崖際(がけぎわ)にのぞんでいるために危険千万ですから、ホンの申しわけのようにあとから急(きゅう)ごしらいの手摺(てす)りをつけたという感じで、この家の持ち主や建てた大工の神経を疑りたくなるくらいトボケた造作で、折しも荒れくるった怒濤(どとう)がこの家の土台岩(どだいいわ)に白い歯をたてて震動をおぼえるくらいがむしやらに嚙みついておりました。思わず吸いこまれそうになるのを手摺りにしがみついて下をのぞいてみると、崖の中腹にたった三尺幅くらいの道が横につづいて一方はみえなくなっているので、この道がどこに通じているのかきいてみると、――I岬へゆく近道だがはじめてのお前には足がすくんで通れやしないよ、と軽蔑するように答えました。道の一方の行方(ゆくえ)はさきほどわたくしが木戸をあけてはいった小路の上り口に通じているのでございます。[やぶちゃん注:「浪脈」このような熟語は見たことない。前のジョイントから「二条(にじょう)の浪脈(ろうみゃく)」と読まざるを得ないが、個人的には、女性の直接話法であるから、「二条(ふたすじ)の浪脈(みお)」と読みたいところだ。]

 かたづけものを終え、座敷もはきだしたころ、すすけた天井からぶらさがっている裸電燈にぽっと灯(あかり)がともりました。やれやれという思いで食事のことを気にかけはじめますとあたかも格子口(こうしぐち)に板草履(いたぞうり)と自転車をよりかける音がして、とりつけの蕎麦屋(そばや)が夕食をとどけてきました。こういう風にして毎日毎日東京の二倍以上もするその癖(くせ)大変そまつな食事をくりかえしているのかと思うと済まない気持ちでいっぱいになり、むりにでも東京へつれもどさなければ身もこころもめちゃめちゃになってしまうにきまっておりますし、仕事も読書もできぬ味気ない毎日では下らぬ妄想の遊戯にふけって人一倍大事にしなければならぬ神経をいっそう不健全にしてしまうのもむりはないと思われました。ところが黒木は、くどくもいう通りわたくしがきたことすら邪魔あつかいにし、いっしょに帰ろうという申し出には、肩を怒らせて反対しました。食事もそこそこにすますと薄くらい電灯の下でせむしのようにかがみこんだままギイギイガリガリ、きた時と同じ作業をつづけます。頑丈な釣針でもつくって例の海蛇でもつりあげようとでもいうのでしょうか? もしそうだとすると文字通り正気のさたではございません。けれど今さからうことは相手をますます意固地(いこじ)にさせるだけですから、ではわたくしはせっかくきたのだから蕎麦屋の一間(ひとま)でもかりて二三日海の空気を吸ってから帰るつもりだ、なにか用でもできたらいつでもよんでくれ、あなたの獲物もたのしみにしている、わたくしがいる間になんとかしてその怪物をとらえたいものですわねと、あたらずさわらずの軽口をききながら帰りかけますと、黒木はもうわたくしの言葉などまったく耳にはいらぬ様子で壁に骸骨のような影をうつしながら、いっそう高だかと鑢(やすり)の音をならしはじめました。

 

 それから数日の間は黒木の生活になんの変哲もおこらぬまま、幸い蕎麦屋の二階があいておりましたので、毎日毎日を付近の近海を歩いたり山端(やまのは)づたいに深緑の森を逍遙(しょうよう)したり、時には一日中部屋の窗をあけてうつらうつら居眠りをしたりして、そぞろ帰京するのがいやになるくらいすがすがしい命(いのち)の洗濯をしてすごしました。黒木はいる時といない時がございました。いない時はたぶんI岬へ釣りにでかけたあとなのでございましょう、嫌がるのでべつに探ってもみませんでしたが、まるたん棒のような太い竿に麻繩(あさなわ)のような糸をつなぎ親指ほどもあるイソメの箱をぶらさげてでかけてゆくところにゆきあわせたことがございます。漁師ですら相手にしない海蛇をどうしても釣りあげるつもりなのでしょうか、そういう途徹もないことに血道をあげている黒木はものずきを通りこしてあわれでございました。

 五日目の夜半、わたくしはなんのいわれもなくハツとめざめたのでございます。ねついてからこころよく熟睡したはずでしたのにめざめると急に胸のあたりがむかむかして今にもはきだしそうな悪寒(おかん)をかんじるので、夕飯のお惣菜を考えてみましたがそれが今ごろまで胃にもたれているはずのない消化のいいものですから、ムカツキがつのるばかりではきだすものがなく、大変くるしい思いをしました。床にうつぷしになったまま凝(じっ)と胸のくるしみを押さえておりました。と、次第に呼吸がらくになるにつれ、なんとなく黒木のことが気になりだしました。これが虫のしらせとでもいうのでしょう、ただむやみに黒木のことが心配でならないのです。今時分黒木は昼の疲れでねむっているか、でなければ暗(やみ)のなかで眼をパチクリさせてなんといって女房のやつをおいかえしてやろうかなどと考えこんでいるに相違ないと、思いこもうとすればするほど底しれぬ不安はますますつのってくる上に、いつからふきはじめたのかなまぬるい烈風が硝子窗(ガラスまど)をがたがたゆすぶり、それがゆけゆけと促(うなが)すように鳴っているのです。もういてもたってもいられません。着がえもいらだたしく蒼惶(そうこう)と蕎麦屋の二階をとびだしてしまいました。[やぶちゃん注:「悪寒」は立風書房版を採用した。「西尾正探偵小説集Ⅰ」では、『悪感』(ルビなし)となっているが、これは「あくかん・あっかん」で、「不愉快な感じ・悪感情」を意味するので相応しくない。「蒼惶と」「慌(あわ)てふためくさま・慌ただしいさま」。]

 ところが戸外へとびでたわたくしは一瞬いすくんでしまいました。中天にまんまるな物凄い月がかあっと耀いているのです。わたくしはきょうまであれほど逞(たくま)しい月に出会ったことがありません。いわゆる花鳥風月にうたわれる「名月」のような、そんななまやさしい月ではございません。なにかしら物質的な、悪魔的(デモニッシュ)な、――そんな感じのする研(と)ぎすまされた途方もなく大きな月で、それがすぐ眼の前にぶら下がっているようにみえるのでございます。わたくしはまずこの圧力に似た眩(まば)ゆさに立ちすくんでしまいました。これではならじと五体をふんばりなおし、濺(そそ)ぎかかる月光をきりはらいきりはらい息つく間(ま)ももどかしく、真昼のような崖道(がけみち)を一心不乱に走りつづけました。勾配の頂辺(てっぺん)についた時、眼前に水平線のむやみに高い夜半の海が展開しました。空には風があおられたちぎれ雲があとからあとから北へ北へと、その怪鳥に似た黒い影が凸面鏡(とつめんきょう)のような海面に伸びたり縮んだりして映ってはしり、その海の中間に首をつっこんだ小舟のような黒木の家がゆらゆらとゆれているようにみえました。わたくしは辛(かろう)じていなおると、――黒木のような夫をもったわたくしはいついかなる時でも己(おの)れだけはとりみだしてはならぬと強制したのでしょう。脚(あし)に力をいれ、一歩一歩格子にすすんでいこうとしましたが、まだ五歩と歩まぬうちに室内からドタンバタンと手足の畳にぶつかる格闘の音と、それに混じってなめし革(がわ)をよじるようなキュウキュウという得体のしれぬ叫びが聞こえてきました。思いきって格子をあけ土間に右足をいれると同時に、格闘の音もやみました。[やぶちゃん注:「かあっと」の傍点は、「西尾正探偵小説集Ⅰ」では「と」まで振られてある。立風書房版を採用した。]

 その時の恐ろしい光景はとうてい忘れることができません。髪ふりみだした猿又(パンツ)一枚の黒木が窗に背をむけ、両腕をだらんとたらしてゴリラのように突っ立っているのです。眼のなれるにつれ、黒木の右手にはしっかと金槌が握られ、しかも全身が血みどろであることがわかりました。青い鱗(うろこ)をはりつけたような顔はぱくりぱくりと痙攣(けいれん)をみせ、眼はうつろにわたくしを睨んだまま、とうとう殺(や)った、とうとう殺(や)っつけてやった!………と喘(あえ)ぎつつ、どうしたことか体が一歩一歩手摺りの方ヘズリ動いてゆくのです。あわててひき戻そうとした時はもう遅かったのでございます。黒木は同じことを呟(つぶや)きつつ歪(ゆが)んだ会心(かいしん)の笑みをうかべたとみるや、二三歩ツツーとあとじさりした時にメリメリッと木のくだける音がして、仰(あお)むけざまに眼のとどかぬ崖下(がけした)へ消えてしまいました。むだとはしりつつみおろせば、今(いま)可哀想な黒木喬太郎をのんだ黒い海は青白い飛沫をあげ砕けつつ、いかに荒れ狂うことができるかとわたくしどもに納得させるように囂々(ごうごう)と鳴っておりました。ああ、わたくしが黒木を殺したのです。殺したも同然なのです!

 おや? 崖の中腹に家守(やもり)のように両手をひろげて吸いつき、真下からわたくしをみあげている若い女はなにものなのでしょう? ああそうだ、この女こそ黒木の狂念の正体なのだ!

 女はたった今(いま)淫楽の逢瀬(おうせ)におもむいたのでございましょう、直前の変事もしらぬげに、それが癖(くせ)のかすかなかすかなあるかないかの媚笑(びしょう)を仄白(ほのじろ)い頰にうかべて凝(じっ)とわたくしの眼にみいったのは、わたくしを黒木とみちがいしたに相違なく、まもなく窗の首が男でないことがわかると一瞬ギョッと眼をみはり慌てて面(おもて)をふせると、横づたいに素早く崖の蔭に姿を消してしまいました。こうして最後に室内の異変をただす時がきたのです。窗際《まどぎわ》から身をおこした時にわたくしのながい影が左にうごいて、昭々(しょうしょう)たる月光が流れこむようにそれまでくらかった部屋の隅をてらしだしました。そこでわたくしははっきりとみたのです、――西窗の下に血しおにまみれた布団がもみくちゃにされ、その上に六尺あまりもある一疋の海蛇が、ぬらりくらりと断末魔の痙攣にもだえている態(さま)を、そしてこの、正しく獣(けだもの)とでも形容したい異形な性物のぬめぬめした脳天には手裏剣(しゅりけん)にも似た太い針(はり)がつきささり、その根元からはまっくろな血しおがドクリドクリとふきだしているのでございました。

 

[やぶちゃん注:さて。この『海蛇』(うみへび)とは何か?

・『身長六尺』(体長一・八二メートル)『以上もあろうと思われる海蛇』

・『魚類には相違ないのだが、ふと動物と呼びたくなるほど陸上の毒蛇に近い感じを備えている(ここで、真正のヘビ類=海生に適応したヘビ脊椎動物亜門爬虫綱 Reptilia有鱗目 Squamataヘビ亜目 Serpentesウミヘビ科 Hydrophiidaeのウミヘビではないことが示される)

・『全身茶色で一面に黒い斑点(はんてん)がある。ただ腹だけが白い。眼かカツと大きく、吻が尖っていて歯が鋭い

漁師はなだと呼び喰いつかれたら殺されても放れぬ執念深い妖魚として食用にもならぬままにむしろ恐れ遠去(とおざ)けている』

以上の条件を総てほぼ満たすのは、私の考えでは、ちょっと長過ぎであるが、水中でくねっている個体を岸辺から見たりした際には、倍近い長さに見えるのは常のことなので、

硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭(しんき)区カライワシ下区ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科ウツボ亜科ウツボ属ウツボ Gymnothorax kidako

と同定比定してよい。なお、同種の最大個体は九十一センチメートル(英文ウィキの同種の数値)である。

 小学館「日本大百科全書」の「ウツボ」(広義・狭義を含む)を引く。『うつぼ』/『鱓』/英名『moray eels』『硬骨魚綱ウナギ目』Anguilliformes『ウツボ科』Muraenidae『の総称、またはそのなかの』一『種。世界には』十五『属』百八十五『種ほど知られているが、日本近海には』十『属約』五十七『種が報告され、そのうちの多くは沖縄諸島以南に分布する。体は細長くて側扁(そくへん)し、皮膚には鱗(うろこ)がなく、一般に肥厚する。鰓孔(さいこう)は小さくて丸く、舌がない。腹びれと胸びれがなく、多くは背びれと臀(しり)びれがあって尾びれと連続する。後鼻孔(こうびこう)は目の前縁の上方に開き、種類によっては』、『よく発達した鼻管を形成する。体色および斑紋』『は多様で変化に富み、種類の判別上重要な特徴となる。また、歯の形状とその配列も属や種の特徴となる』。『ウツボ類はウツボ亜科Muraeninaeとキカイウツボ』(喜界鱓:ネットでは素人方が「キカイ」に「機械」を宛てているのを見受けるが、可笑しい)『亜科Uropterygiinaeに分類される。ウツボ亜科はゼブラウツボ属、ハナヒゲウツボ属、モヨウタケウツボ属、コケウツボ属、タケウツボ属、アラシウツボ属およびウツボ属を含み、多くのウツボ類はウツボ属に入る。垂直鰭(すいちょくき)がよく発達し、背びれは肛門』『より前方から始まる。キカイウツボ亜科はタカマユウツボ属、アミキカイウツボ属およびキカイウツボ属を含み、日本での種数は少ない。その特徴はひれがまったくないか、あるいは尾端部にのみ存在することや、尾部の長さが躯幹(くかん)部(胴部)の長さにほぼ等しいことなどである』。『ウツボ類のレプトセファルス』(leptocephalus:「レプトケファルス」(leptocephalus)とも呼ぶ。ウナギ・ウミヘビ』(この場合は、前に掲げた本物の海蛇ではなく、魚類の顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区真骨亜区カライワシ下区ウナギ目アナゴ亜目ウミヘビ科Ophichthidae、或いは、同科ウミヘビ属 Ophisurus を指す)『・カライワシなどの幼体で、柳の葉形で半透明のもの。変態して稚魚になる)『(葉形(ようけい)幼生)は、一般に非常に退化した胸びれをもち、また尾端部が通常は幅広くて丸みを帯びる。消化管はまっすぐで膨らみがない』。『多くの種類は、浅海の岩礁域やサンゴ礁に生息するが、やや深い所の泥底にすむものもいる。夜行性で、性質が荒く、一般に貪食』『である。鋭い犬歯をもつ種類にかみつかれると』、『危険である。南方産のウツボの仲間には、かみつくときに毒液を出すものや、食べると中毒をおこすものがある。日本産のウツボ類のうち、ウツボ、トラウツボ、コケウツボなどは地方により食用とされている。捕獲には網籠(あみかご)(ウツボ籠)が使われ、餌』『にはタコが効果的である』。『ウツボGymnothorax kidako(英名kidako moray)は岩手県以南の太平洋沿岸、島根県以南の日本海沿岸、東シナ海、朝鮮半島南部、台湾南部の海域などに分布する。学名の kidako は神奈川県三崎』『地域の方言の呼称である「キダコ」に由来する。体は長くて側扁し、体高は比較的高い。前鼻孔は管状で長く、吻端(ふんたん)付近に開口する。後鼻孔には鼻管がない。口は大きく、およそ頭長の』二『分の』。一。『上下両顎』『の歯は』一『列に並び、長三角形で、各歯の縁辺に鋸歯(きょし)』は『ない。鋤骨(じょこつ)(頭蓋床』(とうがいしょう)『の最前端にある骨)に』三、四『本の歯が』一『列に並ぶ。背びれと臀びれはよく発達し、腹びれと胸びれはない。体は黄褐色で、暗褐色の不規則形の横帯がある。臀びれは白く縁どられる。口角部と鰓孔(さいこう)は黒い。水深』二~六十『メートルの岩礁、砂地、軽石帯、サンゴ礁などにすむ。昼間は穴や割れ目に隠れて、頭だけ出している。夜間に外に出て活動するため、夜釣りで釣れることがある。おもに魚類、軟体類、甲殻類、貝類などを食べる。最大全長は』九十二『センチメートルほどになるが、普通は』七十五『センチメートルほど。産卵期は』七~九『月』で、『卵径はおよそ』三・五『ミリメートル。孵化仔魚(ふかしぎょ)は上顎に』三『本、下顎に』四『本の歯を備える。自然の産卵行動は』昭和五五(一九八〇)年『に三宅』『島の水深』十二『メートルで観察されている。そのときの記録では全長約』九十『センチメートルの雌雄が尾部をからませ、突然』、『腹部を押しつけた後、離れて抱卵と放精。卵は丸く、浮性で、卵径は』二『ミリメートルであったとされている。本種はおもに延縄(はえなわ)、籠、筒、突き、釣りなどで漁獲される。日本ではもっともよく利用されているウツボ類で、干物、煮物、鍋物(なべもの)、湯引き、たたき、フライなどにする。和歌山県南部には干物にしてから佃煮』『にするウツボ料理があり、また、滋養強壮の食材として利用し、妊婦に食べさせる風習がある。皮膚は厚くて』丈夫『なので、なめして財布などに利用できる』。『鋭い歯をもつ奇怪な顔つきから、昔から恐ろしい魚とされてきた。ヨーロッパでは古くからタコの天敵といわれ、日本でもウツボとタコの闘争の話が各地に伝わっている。ウツボは実際にタコを捕食するので、この習性を利用し、タコの大好物であるイセエビをタコから守るため、イセエビの増殖を目的とする人工魚礁の中に見張り役としてウツボを飼うというアイデアが出されたこともある』とある。

 何時もお世話になる、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたい。その「生息域」の項に、『海水魚。浅い岩礁地帯』。『島根県〜九州の日本海・東シナ海、千葉県館山〜九州南岸の太平洋、瀬戸内海、屋久島、奄美大島』。『朝鮮半島南部、済州島、台湾』とあるので、本篇のロケ地である「南日本」に合致し、「地方名・市場名」の最後に、『ナダ』として、採集「場所」として『神奈川県三崎』が挙げられてある。なお、博物誌としては、私のサイト版「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「きたご あふらこ 鱓」を見られたい。ブログでは、「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」と、「大和本草卷之十三 魚之下 ひだか (ウツボ)」、さらに、「大和本草卷之十三 魚之下 きだこ (ウツボ〈重複〉)」がある。なお、ウツボは江戸時代には、江戸で「海鰻」と呼ばれた。私の「譚海 卷之九 同所漁獵の事」を見られたい。]

2024/11/22

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 樹竹之用 節 / 卷第八十五~了

[やぶちゃん注:本項を以って、「卷第八十五 寓木類」は終わっている。因みに、カテゴリ『「和漢三才圖會」植物部』を開始した本年四月二十七日から今日まで、二百九日、記事投稿は全二百二十三件で、四巻目の終了となった。

 

Husi

 

[やぶちゃん注:支持線附きのキャプションがある。右上に「節」、中央下方に「筍」、左中央に「筠」(あをかは)、左下方に「籜」(たけのかは)である。]

 

ふし

 

【音切】

 

△按竹中隔而不通者曰節【和訓布之】 两節閒俗云與 竹

 青皮曰筠【音云】禮記云猶竹箭之有筠 筍皮曰籜

 凡竹物之有筋節者也筋節字从竹

 

   *

 

ふし

 

【音「切《セツ》」。】

 

△按ずるに、竹の中《うち》、隔《へだて》て、通≪ぜざる≫者を、「節《せつ》」と曰《いふ》【和訓、「布之《ふし》」。】。

[やぶちゃん注:以下、前「樹」と同様、字空けのある箇所で、項と採り、改行して訓読する。]

「两節《りやうふし》の閒《あひだ》」、俗、「與(よ)」と云《いふ》。

「竹の青皮《あをかは》」を、「筠(あをかは)」【音「云《イン》」。[やぶちゃん注:ママ。不審。「筠」の音は「ヰン」である。]】と曰ふ。「禮記《らいき》」に云はく、『猶≪ほ≫、竹箭《ちくせん》の「筠《ヰン》」の有るがごとし。』≪と≫。

「筍の皮」を、「籜(たけのかは)」と曰《いふ》。

 凡そ、竹は、物《もの》の筋節《きんせつ》、有《あ》る者なり。「筋」「節」の字、竹に从《したが》ふ。

 

[やぶちゃん注:『「禮記」に云はく、『猶≪ほ≫、竹箭《ちくせん》の「筠《ウン》」の有るがごとし。』』これは、「禮記」の「禮器」の冒頭に、

   *

禮器、是故大備。大備、盛德也。禮釋回、增美質、措則正、施則行。其在人也、如竹箭之有筠也、如松柏之有心也。二者居天下之大端矣。故貫四時而不改柯易葉。故君子有禮、則外諧而內無怨、故物無不懷仁、鬼神饗德。

   *

とあるのを指す。国立国会図書館デジタルコレクションの宇野精一・平岡武夫編集になる『全釈漢文大系』第十三巻「礼記 中」(一九七七年集英社刊)の当該部の訓読を示す(幸いにして正字である)。

   *

 禮(れい)は器(き)とす。是(こ)の故(ゆゑ)に、大いに備(そな)はる。大いに備はるは、盛德(せいとく)なり。禮は、回(まが)れるを釋(す)て、美質を增す。措(お)けば、則ち、正しく、施(ほどこ)せば、則ち、行(おこな)はる。其の人の在(あ)るや、竹箭(ちくせん)の、筠(ゐん)、有るがごとく、松柏(しようはく)の、心(しん)、有るがごときなり。二つの者、天下の大端(だいたん)に居(を)る。故に、四時を貫きて、柯(えだ)を改め、葉を易(か)へず。故に、君子、禮、有れば、則ち、外(そと)、諧(かな)ひて、內(うち)、怨(うら)み、無し。故に、物、仁(じん)に懷(なつ)かざる無く、鬼神、德を饗(う)く。

   *

概ね、意味は取れる。苦手な方は、リンク先に「通釈」があるので、見られたいが、にしても、良安の引用は、不全に過ぎる。前の被比喩対象である、『其の人の在るや、』を入れないと、一般の者には半可通だ。東洋文庫訳も、それを、『「(人間にとって礼が必要なことは)ちょうど竹箭』(ちくせん:通常の竹と、短い竹)『に筠』(いん:竹の青い皮。稈(幹相当)の、円形で堅い部分。)『のあるようなものである。」(礼器)』と、そこを補って訳されてあるのは、まことに正当である。

2024/11/21

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 樹竹之用 樹

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 樹竹之用 樹

 

   樹竹之用

 

Ueki

 

[やぶちゃん注:挿絵には、十項のキャプションがある。右→中央→左へ、上から下に向かって起こすと、「葉」・「枝」・「榦」(以上「右」。「榦」の字は「幹」の異体字である。「グリフウィキ」のこちらを見られたい(ぐっと下まで見よ))、「木末」「杪」(孰れも「こずゑ・こぬれ」)「條」(こえだ)・「橗(シン)」(以上、中央)、「翹楚(スハヱ)」(読みはママ。「すはへ・すはえ」でよい。木の枝や幹から、まっすぐに細く長く伸びた若い小枝のことを指す語で、「すわい」「ずわい」「すわえぎ」とも読む)・「枿」(ひこばえ)・「株」(かぶ)である。]

 

うへき    橗【音萠】木心也

       杪     梢【同】

【音孺】 【和名古須惠】

       根  入土𠙚

       株【和名祢

         土上也

         和名久比世

         今云加布】

 

△按樹【宇倍木】植木總名也 大枝曰榦【和名加良】 細枝曰條

 又曰枝柯【和名衣太】 樹岐曰权【音砂】丫椏並同【和名末太布里】 木

 𧄍髙起曰𧄍楚【俗云須波惠】木中之獨髙起者以况人之出

 類拔萃也【今俗用氣條字】 伐木而根復生曰枿【俗云比古波惠】 斫

 過樹根傍復生嫩條曰蘖【與𣎴同。】木幹榦中折而復生支旁

 達者曰𣎴【牙葛切】右枿蘖𣎴三字註有少異而其本字𣎴

 也

 凡樹陰曰樾【音越和名古無良】 木自斃曰柛【音身】立死曰椔【音支】

 木文曰橒【音雲俗毛久】 衆樹蔭蔽曰蓊薆【波江乃之太】

 

   *

 

   樹竹《じゆちく》の用

 

[やぶちゃん注:この中題目は、樹木類・竹笹類の凡例解説を意味する。]

 

うへき    橗《バウ》【音「萠《バウ》」。】。木の心《しん》なり。

       杪《シヨウ》     梢《べう》【同じ。】

【音「孺《ジユ》」。】 【和名「古須惠《こずゑ》」。】

       根《コン》  土《つち》に入《い》≪るる≫𠙚。

       株《シユ》【和名「祢《ね》」。土より、上なり。

              和名「久比世《くひぜ》」。今、云ふ、

              「加布《かぶ》」。】

 

[やぶちゃん注:以下、一字空けになっている箇所と、その他の独立と見なせる部分を、各小項として、特異的に改行して、読み易くした。

△按ずるに、「樹《じゆ》」【「宇倍木《うへき》」。】は、「植木」の總名なり。

「大枝《だいし》」を「榦(から)」と曰《いふ》【和名「加良《から》」。】

「細枝《さいし》」を「條《じやう》」と曰《いひ》、又、「枝柯《しか》」【和名「衣太《えだ/ゑだ》」】と曰《いふ》。

「樹の岐(また)」を「权(また)」【音「砂」。】と曰《いひ》、「丫《ア》」・「椏《ア》」、並《ならびに》同《おなじ》【和名「末太布里《またふり》」。】。

「木、𧄍《ぬきんで》て、髙く起《おこれる》こと。」を、「𧄍楚(すはぎ)」【俗、云ふ、「須波惠《すばゑ》」。】と曰《いふ》。

「木≪の≫中の、獨り、髙く起《た》つ者《もの》。」、以《もつて》、「人の類《るゐ》≪に≫萃《すい》≪を≫拔≪きて≫出≪づ≫[やぶちゃん注:これは全く返り点がないので、良安は「出類拔萃」を音で「シユツルイバツスイ」と読んでいるようだが、勝手に返って、訓読した。]」に况(たと)ふなり【今、俗、「氣條《きえだ》」[やぶちゃん注:気が細長く伸びるの意か。]の字を用ふ。】。

「木を伐《きり》て、根、復《また》、生ずる。」を「枿(ひこばへ)」【俗、云ふ、「比古波惠《ひこばゑ》」。】[やぶちゃん注:「蘖(歴史的仮名遣:ひこばえ)」。原語は「孫(ひこ)生え」の意で、「切り株や木の根元から出る若芽」を指す。「余蘖(よげつ)」とも言う。]と曰《いふ》。

「樹を斫《きり》過《すご》し、根の傍《かたはら》に復《ふた》たび、嫩條《わかえだ》を生ずる。」を、「蘖(わかばへ)」【「𣎴《がち》」と同じ。】と曰《いふ》。

「木の榦(おほまた)、中《なか》より折れ、復た、支《えだ》を生《しやうじ》、旁《かたはら》に達《たつする》者。」を、「𣎴」【「牙」「葛」の切《せつ》。】と曰《いふ》。右≪の≫「枿」・「蘖」・「𣎴」≪の≫三字の註、少異、有れども、其の本字は「𣎴」なり。

凡そ、樹の陰を「樾(こむら)」【音「越」。和名「古無良《こむら》」。】と曰《いふ》。

「木、自《みづか》ら、斃(たをるゝ[やぶちゃん注:ママ。])こと。」を「柛《シン》」【音「身」。】と曰ひ、「立《たち》ながら、死《か》る。」を、「椔(たてがれ[やぶちゃん注:ママ。「立ち枯れ」。])」【音「支」。】と曰《いふ》。

「木の文(あや)」を「橒《ウン》」【音「雲」。俗、「毛久《もく》」。】と曰《いふ》。

「衆樹《しゆじゆ》の蔭蔽《いんぺい》」を「蓊薆(はへのした)」【「波江乃之太《はえのした》」。】と曰《いふ》。

 

[やぶちゃん注:「𣎴」(部首は木部)は、「廣漢和辭典」によれば、第一義で、『切り株。𣡌の古字』とし、第二義で、『木の先が曲がってのびない』とある。

「蓊薆(はへのした)」「蓊」「薆」の字はともに「草木が盛んに茂るさま」の意で、和訓のそれは、恐らく「延(は)への下」で、茂り延びた枝葉で木蔭が出来ることを指しているのであろう。]

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 椶竹

 

Syurotiku

 

しゆろちく  實竹

 

椶竹

 

ツオン チヨツ

 

本草椶竹其葉似椶可爲柱杖

[やぶちゃん字注:「柱」は「拄」の誤記か誤刻。訓読文では訂した。この「拄」は既にして「杖をつく」「棒を当てて支える」という意の動詞で、「拄杖(しゆじやう)」は、「杖」、特に「禅僧が行脚や説法の際に用いる杖」を指した。因みに言っておくと、「拄」の(つくり)は「主」ではないので、注意が必要である。拡大して見ると、はっきり判るが、最上部は「亠」(なべぶた・けいさんかんむり:後者は易の卦算(=文鎮)の形に似ていることに拠るもの)である。なお、「杖」は「グリフウィキ」のこれで、(つくり)が「𠀋」となっているが、表示出来ないので通常字とした。]

△按椶櫚竹來於琉球葉以椶櫚葉而無枝高者𠀋餘身

[やぶちゃん注:「以椶櫚葉」の「以」は「似」の誤記か誤刻。訓読文では訂した。]

 有黒毛節不高喜陰𠙚悪風日霜雪年久者開花亦似

 椶櫚花其竹不中空故雖曰實竹爲笻弱脆

觀音竹  椶竹之小者人植盆玩之初出琉球觀音山

 故名之

 

   *

 

しゆろちく  實竹《じつちく》

 

椶竹

 

ツヲン チヨツ

 

「本草」に曰はく、『椶竹《しゆろちく》は、其の葉、椶《しゆろ》に似≪て≫、拄-杖《つゑ》と爲すべし。』≪と≫。

△按ずるに、椶櫚竹は、琉球より來《きた》る。葉、椶櫚の葉に似て、枝、無く、高≪き≫者、𠀋餘。身、黒≪き≫毛、有《あり》。節、高からず。陰𠙚《いんしよ》を喜(この)み、風日《ふうじつ》[やぶちゃん注:風と日光。]・霜雪を悪《い》む。年久《としひさし》き者、花を開く。亦、「椶櫚」≪の≫花に似≪る≫。其の竹、中空≪なら≫ず。故、「實竹」と曰≪ふと≫雖《いへども》、笻《つゑ》と爲《なす》≪には≫、弱《よはく》、脆《もろし》。

觀音竹《くわんのんちく》  椶竹の小《ちさ》き者≪なり≫。人、盆に植《うゑ》て、之れを玩《もてあそ》ぶ。初め、琉球≪の≫觀音山に出《いづ》る。故に、之れを名づく。

 

[やぶちゃん注:「椶竹」「椶櫚竹」は、日中共に、単子葉植物綱イネ目 Poalesイネ科 Poaceaeタケ亜科 Bambusoideaeとは全く異なる、

単子葉植物綱ヤシ(椰子)目ヤシ科カンノンチク属 RhapisRhapis f.

を指す。なお、既に出た、「棕櫚」、

単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属シュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus

シュロ属トウジュロ Trachycarpus fortunei 'Wagnerianus'(シノニム:Trachycarpus wagnerianus 

とも全く異なる(先行する「棕櫚」と比較参照されたい)。

 ウィキの「カンノンチク属」を引く(注記号はカットした)。『ヤシ科』Arecaceae『の属の一つ。ラテン名を音写してラピス属( Rhapis )ということもある』。十『種程度が中国南部』から『東南アジアを中心に分布している。葉が美しいものがあり』、『観葉植物、古典園芸植物として栽培される。東南アジア原産の亜熱帯植物であるが』、『比較的』、『耐寒性が強く』、『育てやすいため、室内向きの観葉植物として広く利用されている。低木の竹科植物に似ていることから、流通の際は下記二種類のように「カンノンチク」「シュロチク」等、名前にチク(竹)がつくが、タケはイネ科であり』、『本種はタケの仲間ではなく』、『ヤシ科に属する』。以下、「主な種」の項。

カンノンチク(観音竹)Rhapis excelsa は、『中国南部』『原産』『で、日本へは琉球を経て渡来した。別名リュウキュウシュロチク。葉は扇形で』四~八『裂し、筋が入る。雌雄異株。花期は初夏で、花は小さくて黄色い。古典園芸植物として、斑入りや』、『細葉など』、『多くの品種がある。中には非常に高価なものもあり、これを商材にした悪徳商法もかつてはあった』。

シュロチク(棕櫚竹)Rhapis humilis は『中国南部』から『南西部』が『原産』で、『日本には江戸時代に渡来した。カンノンチクほどではないが、古典園芸植物として多くの品種がある。高さは』一~五『メートル。葉はシュロ( Trachycarpus )に、幹は葉痕が節状に残るので竹に似ている。雌雄異株。花期は初夏から挽夏で、葉のつけ根に出る花序に淡黄色の小さな花がつく。耐陰性、耐寒性が強く』、『ディスプレイ用の観葉植物として人気のある品種』であり、『また、古典園芸ではカンノンチクと本種を一纏めにして観棕竹』(かんそうちく)『ということがある』。

 「ウィキペディア」嫌いのアカデミズム崇拝者のために、平凡社「改訂新版 世界大百科事典」の「シュロチク Rhapis 」も引用しておく(コンマは読点に代えた)。『ヤシ科シュロチク属に属し、中国南部、北ベトナム、ラオスに約』二十『種が分布する。葉のとれたあとが幹状となり、茎』は二~三センチメートル、『高さは』一~四メートル『に達し、幹』の『肌は褐色の繊維網でおおわれる。このような幹が叢生』『状態となり』、何『本も立ち上がる。葉は光沢ある鮮緑色の掌状葉、肉穂花序は花梗が初め桃色で、開花すると黄色くなる。雌雄異株。小型のヤシで、観葉植物として栽培される』。『カンノンチク(観音竹)R.excelsa Henry exRehd. は中国南部の原産。沖縄にも自生している。比較的小型で、幹は通常高さ』一~二メートル、『叢生して』、『株立ち状態となる。葉は濃緑色の掌状葉で』六~八『枚に深く裂け、長い葉柄の先につく。この種には葉の形、色彩、斑模様(ふもよう)などの異なるいろいろの変種、品種があり、もっとも多く栽培されている。その代表的なものとして』、『斑入りとなるシマカンノンチクやズイコウニシキが、また小型矮性(わいせい)化した大黒天、達磨(だるま)その他』、『多くの品種(平和殿、小判、小達磨、太平殿、天山など)がある。シュロチクR.humilis Blumeは中国南部の原産。葉姿はカンノンチクに似るが、全体にほっそりとした感じである。幹は高さ』四~五メートル『になり、多数』、『叢生するが、細長い。葉は光沢ある濃緑色で互生し、掌状葉は』七~十八『片と』、『細く』、『深く』、『裂け、裂片はカンノンチクよりも幅が狭い。変種と品種があるが、わずかである。カンノンチクよりも寒さに強く、西南日本では露地植えでも越冬でき、ときには大株を見る』。『どちらの種類も日本では』、元禄八(一六九五)年刊の本邦初の園芸辞典である「花壇地錦抄」(伊藤伊兵衛(三之丞)著)『に記事がみられるほどで、古い時代から観賞用に栽培されている。温室のなかった時代からつくられており、性質は強い。冬は最低』摂氏三~五度『以上』、『保てばよく、生育適温は』十度『以上である。夏は強光下でもなれれば日焼けを起こさないが、美しい葉を眺めるためには』、四『月終りころから』九『月までは明るい日陰におき、つねに水を多く与え、空中湿度を多く保つ。培養土は川砂を主体にし、これに』二『割前後の腐葉土かピートモスを混ぜたものを、植替えや株分けに使う。繁殖はもっぱら株分けにより』、五『月中旬』から六『月に』三~五『本の幹をつけて』、『割る。まれに種子ができるので、実生でもよい』とある。因みに、同属相当の「維基百科」の「棕竹屬」には、十四種の学名が載り、シュロチクには「矮棕竹」、カンノンチクには「棕竹」の中文名が添えられてある。グーグル画像検索の「シュロチク」と、「カンノンチク」をリンクさせておく。後で、棕櫚の花に似ると出るので、「シュロチク 花」と、「カンノンチク 花」と、「シュロ 花」もリンクさせておく。

 なお、標題の「椶竹」「椶櫚竹」の「椶」は「棕」の正字である。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-21a]の二行目末尾に『㯶竹一名實竹其葉似㯶可爲拄杖』とある(「為」を正字に代えた)。

「琉球≪の≫觀音山」現在の沖縄県島尻郡南大東村池之沢にある、この「観音様」(グーグル・マップ・データ航空写真)か。しかし、中国原産なのに、多くの記事が「この観音山」(実際には山という感じではなく、珊瑚隆起の岩のようである)「に自生していたからこの名がつた」と記す点、この説は、ちょっと首を傾げるものである。]

2024/11/20

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 棘竹

 

Sitiku

 

いばらたけ  ※竹

 

棘竹    【※字未詳疑

        竻乎竻卽筋

        本字也】

 

チヨ

 

[やぶちゃん字注:「※」=(たけかんむり)+「刀」。良安は割注で疑義を述べているが、少なくとも、「漢籍リポジトリ」版の「本草綱目」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-21a]の二行目に出るそれは、「※」ではなく、「竻」となっている。東洋文庫訳もこの字体である。但し、この割注があるからには、訓読文で「竻」にするわけにはいかないので、ママとする。

 

本草棘竹是乃竹別種芒棘森然大者圍二尺可以禦盗

[やぶちゃん字注:「芒」は原本では、「亡」の中央に「メ」の二画が入っているものだが、そのような異体字は存在しない。東洋文庫でも、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも、「芒」とする。ところが、同前の「本草綱目」を見ると(「漢籍リポジトリ」版の[090-21a]以下の二行目に画像の嵌め込みで)、「𦬆」となっており、この漢字は音「バウ(ボウ)」で、訓で「のぎ」「けさき」「くらい」「つかれる」「すすき」といった訓があり、意味には「イネ科の植物の先端にあるとげ」の意があって、躓かずに読めるので、これで示した。


人面竹

五雜組云其竹紋一覆一仰如畫人面然

[やぶちゃん注:「畫」は、原本では、下部の四角の中が「メ」になっている「グリフウィキ」のこの「畫」の異体字だが、表示出来ないので、「畫」とした。]

△按人面竹未曽見之棘竹希有之然小竹而未見大者

 

   *

 

いばらたけ  ※竹

 

棘竹    【「※」の字、未だ、詳かならず、

        疑ふらくは、「竻」か。「竻」は、

        卽ち、「筋」の本字なり。】

 

チヨ

 

[やぶちゃん字注:「芒」は原本では、「亡」の中央に「メ」の二画が入っているものだが、そのような異体字は存在しない。東洋文庫でも、国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版でも、「芒」とする。ところが、同然の「本草綱目」を見ると([090-21a]以下の二行目に画像の嵌め込みで)、「𦬆」となっており、この漢字は「のぎ」「けさき」「くらい」「つかれる」「すすき」といった訓があり、意味には「イネ科の植物の先端にあるとげ」の意があって、躓かずに読めるので、これで示した。

「本草綱目」に曰はく、『棘竹は、是《これ》、乃《すなは》ち、竹の別種≪なり≫。芒-棘《のぎのとがり[やぶちゃん注:東洋文庫訳のルビをそのまま採用した。]》、森然《しんぜん》として[やぶちゃん注:樹木が、こんもりと茂ったさま。]、大なる者、圍《まはり》二尺。以《もつて》、盗賊を禦(ふせ)ぐ。』≪と≫。


人面竹(にんめんちく)

「五雜組」に云はく、『其≪の≫竹の紋、一つは、覆(うつふ)き、一つは、仰(あをむ)き、人面を畫《ゑがく》がごとく、然《しか》り。』≪と≫。

△按ずるに、人面竹、未だ、曽《かつ》て、之れを見ず。棘竹《いらたけ》、希れに、之れ、有り。然れども、小竹《こたけ》にて、未だ、大なる者を見ず。

 

[やぶちゃん注:これは、

ホウライチク属シチク(刺竹)Bambusa spinosa(シノニム:Bambusa blumeana f.Bambusa stenostachya

と思われる。邦文の解説的記載は殆んどないので、英文の同種のウィキを見るしかない。それによれば、『「棘のある竹」とも呼ばれ、この点ではBambusa bambos』(南アジア(インド・バングラデシュ・スリランカ・インドシナ半島)原産の群生竹の一種)『と混同されることもあるが、熱帯アジアに植生する群生竹の一種である』。『稈は、長さが、最大で二十五メートルに達し、『僅かに弓状になっている。茎の基部は最大十五センチメートルの太さで、稈の筒の厚さは二~三センチメートルだが、中実の場合もある。茎は、節で区切られた幾つかの短い部分から構成される。主枝は茎の上部半分に生じ、下部の枝は細く、棘がある。葉は互生し、披針形で長さは最大二十センチメートルで、節ごとに一枚ずつ生え、葉の下部は茎を包んでいる』。『本種の原産地は不明だが、インドネシアとボルネオが原産地だった可能性がある。現在の分布域はフィリピン・タイ・ベトナム・中国南部』(☜・☞)『日本にまで及ぶ。また、マダガスカル・グアムや、その他のインド太平洋諸島にも導入されている。自然の生息地は、標高約三百メートルまでの丘陵・谷底・川岸で、絡み合った茂みを形成する。酸性土壌・粘土質土壌や、時折り発生する洪水には耐えるが、塩分を多く含む土壌には耐えられない』。『筍は、地面から最初に出てくる際に収穫され、茹でて野菜として食べられ』、また、『畑の間の生垣、農家の周りの防風林、川岸の浸食を防止に植栽される』。材は『棒』と成し、『軽量の足場としては役立つが、建物の仕様材としては耐久性が足りない。他の用途には、バスケット作り・家具製造・寄木細工・玩具・箸・台所用品などがある。この竹は』竹類の別種『 Dendrocalamus asperの茎とともに、紙を作るのに使用される竹パルプの主な供給源である』。『本種は観賞用植物として栽培されることもある。種子から繁殖することも可能だが、この植物は数年に一度しか、花を咲かないため、種子が入手出来ないことが多い。新芽が伸び始めたら、株分けしたり、茎を切って、挿し木として利用したりすることが可能である』といったことが記されてある。

「人面竹(じんめんちく)」『「五雜組」に云はく、『其≪の≫竹の紋、一つは、覆(うつふ)き、一つは、仰(あをむ)き、人面を畫《ゑがく》がごとく、然《しか》り。』』「五雜組」は既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく(表記に手を加えた)。

   *

「竹譜」曰、「竹之類六十有一。」。余在江南、目之所見者、已不下三十種矣。毛竹最鉅。支提、武夷中有大如斗者。太姥玉壺庵、竹生深坑中、乃與崖上松栝齊稍、計高二十餘丈。其最奇者、有人面竹、其節紋一覆一仰、如畫人面然。又有黃金間碧玉竹,其節一黃一碧、正直如界然。有奯竹、見「雪峰語錄」。今雪峰有之、其它不可殫紀也。

   *

「竹譜」は東洋文庫の書名注に、『一巻。晋の戴凱之(たいがいし)撰。七〇余の竹類をとりあげ、四言の韻語をもって叙述してある。』とある。作者は南北朝劉宋の植物学者である。「漢籍リポジトリ」のここで、「欽定四庫全書」の「子部九」から、一巻総てが視認出来る。私は、これ、反射的に、竹の稈の枝下部分の節間が、交互に膨れており、節が斜めとなっている、特徴的なマダケ属モウソウチク品種(突然変異)キッコウチク(亀甲竹)Phyllostachys heterocycla f. heterocycla であろうと思った。当該ウィキのここと、ここの画像を見られよ。子どもの頃の僕なら、ゼッタイ! 顔を書き入れるゼ! 因みに、そこには、『キッコウチクの別名にブツメンチク(仏面竹)』(☜!)『があるが、これを隆起が大きい別品種として区別する場合がある(そのときの学名はPhyllostachys heterocycla f. subcombexa Miatsum )』ともあった。

「棘竹《いらたけ》、希れに、之れ、有り。然れども、小竹《こたけ》にて、未だ、大なる者を見ず」Bambusa spinosa が、和名がないから、江戸時代に移入されてあった可能性はないから、これはそれではない。中国原産であるが、私の考える候補種は、タケ亜科カンチク(寒竹)属シホウチク Chimonobambusa quadrangularis か、その品種である。当該ウィキを引く。漢字名『四方竹』。『中国原産の多年生常緑竹。四角形の稈が特徴的な植物で、和風庭園や建物周り、生垣に利用される。また、タケノコは珍味として食される。別名シカクダケ、イボダケ』。『一般のタケ類は円柱形の茎をもっているが、シホウチクは鈍四稜形の茎を有する。 高さ』二~七メートル『で』、(☞)『竹稈下部の節のすぐ上には』、『触ると痛いいぼ状の突起(気根)があり』(☜)、『伸びると』、『根となる。葉が』、『細く下に垂れる。タケノコは秋から冬に生えてくるので、日本においては』、『枝を出さずに越年し、春』、『暖くなったときに枝を広げる。鉢植えでも栽培でき、移植が容易。寒さにやや弱く、東北地方以北での植え付けには適さない』とある。丈けも竹としては、低く、肬状突起は、画像を見るに(サイト「庭木図鑑植木ペディア」の「シホウチク」の見よ)、まさしく「トゲ」である。]

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 篠

 

Sasa

 

[やぶちゃん注:キャプションがある。図の上部右方に「兒篠」(ちごささ)の葉の、同左方に「馬篠」(むまざさ)の葉の拡大図が添えられてある。そして、左中段の岩の下に、小さく、「五枚」「篠」と記すのであるが、ゴマイザサ(=現行のクマイザザ。注の最後を参照)の葉の絵は、恐らく、そのキャプションの下の小さなものを指しているものと思われる。]

 

さゝ   筱【同】 小竹

     【和名之乃

      一云佐々】

 

 

和名抄云篠細細竹也

△按篠叢生如草俗用笹字出𠙚未詳凡篠有數種

  有馬山いなのさゝ原風吹はいてそよ人に忘れやはする

[やぶちゃん注:この一首は、「後拾遺和歌集」所収の「大弐三位」の一首だが、第四句目は「いてそよ人を」が正しい。訓読文では訂した。

馬篠【俗云久末佐佐】 葉大一枝六七葉其大者一尺許廣二寸至

 秋出縱文㸃黃白色甚美本草所謂龍公竹葉若芭蕉

 者恐此類矣

兒篠【知古佐々】 高尺許葉最細長八九枚生於項有白縱

[やぶちゃん注:「項」は「頂」の誤字、或いは、誤刻。今まででも、しばしば認められる。訓読では訂した。

 理如線青白相交甚可愛本草所謂龍𮈔竹指此等乎

燒葉篠 【夜木波佐佐】高不過尺葉端周如枯焦故名之

五枚篠 【五末伊佐佐】高尺餘葉㴱青色似篠竹葉而短毎莖

 五葉叢生能繁茂植庭院玩之所謂越王竹高止尺餘

 者此等之類乎

 

   *

 

さゝ   筱《ささ》【同じ。】 小竹《しやうちく》

     【和名「之乃《しの》。

      一《いつ》≪に≫云ふ、「佐々《さゝ》」。】

 

 

「和名抄」に云はく、『篠《ささ》は、細い細《こまか》なる竹なり。』≪と≫。

△按ずるに、篠、叢生して、草のごとく、俗、「笹」の字を用《もちふ》。≪その「笹」の字は、≫出𠙚《でどころ》、未だ、詳≪かなら≫ず。凡そ、篠、數種、有《あり》。

  有馬山

   いなのさゝ原

     風《かぜ》吹《ふけ》ば

        いでそよ人を

             忘れやはする

馬篠(むまざゝ)【俗、云ふ、「久末佐佐《くまざゝ》」。】 葉、大≪にして≫、一枝、六、七葉、其の大≪なる≫者、一尺許《ばかり》、廣さ、二寸。秋に至《いたり》、縱文㸃《たてもんてん》、出《いで》、黃白色。甚《はなはだ》、美≪なり≫。「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆる》、『「龍公竹」の葉、芭蕉のごとし。』と云ふは[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、恐らくは、此の類≪ならん≫。

兒篠(ちご《ざさ》)【「知古佐々(ちござさ)」。】 高さ、尺許《ばかり》。葉、最も、細長《ほそなが》く、八、九枚、頂上に生ず。白き縱理(たつすぢ)有りて、線(いと)のごとし。青・白、相交《あひまぢりて》、甚だ愛すべし。「本草≪綱目≫」に謂ふ所の『龍𮈔竹《りゆうしちく》』は、此等《これら》を指すか。

燒葉篠(やきは《ざさ》) 【「夜木波佐佐《やきばささ》」。】高さ、尺に過ぎず、葉の端《はし》、周《まは》り、枯焦《かれこげ》たるがごとし。故、之れ≪に≫名《なづく》。

五枚篠《ごまいざさ》 【「五末伊佐佐《ごまいざさ》。】高さ尺餘《あまり》。葉、㴱青色《しんせいしよく》。篠竹《ささだけ》の葉に似て、短く、莖、毎《ごとに》、五葉、叢生《さうせい》して、能く、繁茂す。庭院に植え、之れを玩《もてあそ》ぶ。所謂《いはゆ》る、「越王竹、高さ、止(たゞ)、尺餘。」と云ふは[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、此等《これら》の類《るゐ》か。

 

[やぶちゃん注:この「篠」は、まずは、

広義の「ササ」=「笹」=「篠」=「筱」=「筿」=「小竹」、

則ち、

イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideaeに属する植物の中で、その茎に当たる「稈」(かん)を包んでいる葉鞘が、枯れる時まで残るものの総称

である。参照したウィキの「ササ」によれば(注記号はカットした)、『タケ(竹)やササは多くの草本類と同じく茎にあたる稈には年輪がみられないが、一方で木本類のように堅くなる性質がある』。『植物学上はイネ科タケ亜科のうち、タケは』、『稈が成長するとともにそれを包む葉鞘が早く脱落してしまうものを』指し、『ササは』、『枯れるまで稈に葉鞘が残るものをいう。マダケなどタケの場合は』、『芽(タケノコ)の段階にはあった葉鞘が成長すると剥がれ落ちるが、ササ』類『の場合は』、『成長しても』、『葉鞘はそのままである』。(★☞)『タケとササの分類は』、『必ずしも標準和名と一致しない。分類上、ヤダケ』(前項「箟竹」を見よ)『は稈に皮がついたままなのでササ、オカメザサ』(タケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasaca )『は皮が脱落するのでタケに分類される』(☜★)。『地下に匍匐茎を伸ばし、密集した群落を作る。一面に生えた場合、これを笹原という』。『笹のよく生える条件として、日本ではいくつかのパターンがある。一つはパイオニア植物として振る舞う場合である。よく河川周辺や道端などにネザサ類が出現する。これは、草刈りや川の氾濫などによる不定期な攪乱』『に強いためである。また、寒冷地では森林の伐採や山火事跡地でササが優占植生となり、木本類の更新を阻害して無立木地となる例がよくある。ササの優占を打破するためにブルドーザーなどで人為的な掻き起こしを行い、あえて鉱質土壌を露出させて樹木の実生の定着に適した環境を造成することがある』。『もう一つはブナ林の下生えで、日本のブナ林では林床でササ類が優占する例が多い。その種は地域によって異なり、太平洋側ではスズタケ』(スズタケ属スズタケ Sasamorpha borealis )『日本海側ではチシマザサ』(ササ属チシマザサ Sasa kurilensis )『の場合が多い』。『ササは放置すると』、『藪になってしまうが、生物多様性の観点からは小動物の隠れ家や昆虫の食草となっている』。『一方で』、『ササの繁茂は地中の水分を吸い上げて土壌を乾燥化させたり、日光を遮って他の植物の光合成を妨げたりする面もある』。『正確な開花周期は未解明で、約』六十『年から』百二十『年と言われている』。『非常に多くの種がある』。(★☞)『日本のタケ類のほとんどが中国渡来であるのに比べ、ササ類は土着の種が多く、しかも地方変異が多い』(☜★)。以下、甚だ多いので、種名の学名は一部の代表種を除き、追記しない(引用先には学名は冒頭の属名以外には附されていない。それにシノニムがあること、代表種を頭に引き上げたので、引用元とは異なる。項目ではなく、注で解説した関係上煩雑になるので、リンクは張らなかった。冒頭の総論「竹」から、前の「箟竹」で数種について解説をしてある)。頭の属名指示を太字とした。

○メダケ(雌竹)属Pleioblastus  メダケ Pleioblastus Simonii ・カンザンチク・リュウキュウチク・タイミンチク・ケネザサ・カムロザサ・ゴキタケ・アカネザサ・ギボウシノ・ハコネダケ・アズマネザサ

○アズマザサ(東笹)属 Arundinaria(シノニム: Sasaella   アズマザサArundinaria  ramosa ・スエコザサ・トウゲザサ・サドザサ・タンゴシノチク・ヤブザサ・アリマシノ

○ササ(笹)属 Sasa  クマザサ(隈笹) Sasa veitchii var. veitchii ・ヤコザサ・ウンゼンザサ・オオクマザサ・ニッコウザサ・アポイザサ・オオササ・オオバザサ・ミヤマザサ・チマキザサ・クマイザサ・チシマザサ・オクヤマザサ・イブキザサ・トクガワザサ・キンキナンブスズ・ミカワザサ・タキザワザサ

○スズタケ(篶竹)属 Sasamorpha  スズタケ Sasamorpha borealis  ・ケスズ(注:「篶」の字は「煤けたように黒みを帯びた細い竹」を指す)

○ヤダケ属 Pseudosasa  ヤダケ Pseudosasa japonica ・ヤクシマダケ

○インヨウチク属Hibanobambusa インヨウチクHibanobambusa tranquillans(本種はマダケ属 Phyllostachys とナリヒラタケ属 Semiarundinaria 、或いは、上記ササ属との交雑種と推測されている)

以下、『ほかに・葉の幅が広いイネ科植物には・ササの名を持つ例が多い。代表的なものを以下に挙げるが、最もササに似ているのはササクサ』(イネ科ササクサ属ササクサ Lophatherum gracile )『である』として、チゴザサ・チヂミザサ・ササクサ・ササガヤ・ササキビを挙げ、次いで、『それ以外にも、細長くてある程度幅のある葉をササになぞらえる例は多々ある』として、以下を掲げる。ササノハスゲ(カヤツリグサ科)・ササバモ(ヒルムシロ科)・ササバサンキライ(サルトリイバラ科)・ササユリ(ユリ科)・ササバハギ(マメ科)。

『「和名抄」に云はく、『篠《ささ》は、細い細《こまか》なる竹なり。』』「和名類聚鈔」の「卷第二十」の「草木部第三十二」の「竹類第二百四十六」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年板の当該部で、訓読する。

   *

篠(しの[やぶちゃん注:右ルビ。]/さゝ[やぶちゃん注:左ルビ。])  蔣魴《しやうばう》が「切韻」に云はく、『篠【「先」「鳥」の反。和名、「之乃《しの》」。一《いつ》≪に≫云≪ふ≫「佐々《ささ》」。俗に「小竹」の二字を用《もちひ》て、之《これ》を「佐々」と謂ふ。】は、細き細竹なり。』≪と≫。

   *

「有馬山いなのさゝ原風吹《かぜふけ》ばいでそよ人を忘れやはする」「後拾遺和歌集」の「卷第十二 戀二」に所収する、大弐三位(だいにのさんみ:藤原賢子(けんし/かたいこ:言わずもがな、紫式部の娘)の一首(七〇九番)、

   *

   かれがれなる男(をこと)の、

   「おぼつかなく。」など、いひ

   たるに詠める

 有馬山(ありまやま)

    猪名(ゐな)の笹原(さゝはら)

   風吹けば

      いでそよ人を

     忘れやはする

   *

この一首は、「かれがれなる男」、則ち、「暫く、来なかった男」から、不安をかこつ手紙を受け取った大弐三位が、男の身勝手な言い草を、優雅な歌で嫌味を込めて言い返した歌とされている。『新日本古典文学大系』版の同歌集の久保田淳氏の脚注によれば、一首の意味は、『有馬山の近くの猪名の笹原に風が吹くと、笹原は』、『そよ』そよ『と音を立てます。そうですよ、そのように私はあなたのことを忘れるものですか。』とある。「有馬山」・「猪名」は孰れも摂津の歌枕。「有馬山」とは特定の山ではなく、広域の山々の総称で、兵庫県伊丹市等に広がる野であった「猪名野」の背景の山々南東に当たる摂津国の猪名川(いながわ)に沿った平地で、現在の兵庫県川辺郡猪名川町(いながわちょう:グーグル・マップ・データ)・尼崎市・伊丹市・川西市の広域に相当する(高校の「百人一首」の附属教材等では有馬温泉地域の山の総称とするが、採れない)。古くは、この辺りは、一面に笹が生えていた。「小倉百人一首」で五十八番に選ばれた歌として知られる。

「馬篠(むまざゝ)」ササ属クマザサ(隈笹) Sasa veitchii var. veitchii 。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『隈笹、山白竹』。注で、『「熊笹」と書かれることがあるが、これは誤用である』とある。『山地に生育する、大型のササ類一般を』漠然と『指す場合も多い』。『日本特産の笹(キュー植物園系のデータベース World Checklist of Selected Plant Familiesによれば』、『サハリン州の千島列島や樺太 にも見られる』とある)。『九州、中国地方、京都府の一部の山地に生える。葉に白い隈取りがあることが名前の由来で、漢字で「隈笹」と書かれる。標準和名をクマザサとよぶ植物は、高さが』一~二『2メートル』『になる大型のササで、葉は長さが』二十『センチメートル 』『を越え、幅は』四~五センチメートル。『特徴になっている葉の白い隈取りは』、『若葉にはなく、葉が越冬するとき』、『縁が枯れて』、『隈取りになる』。『非常に変異が多く、原名亜種は京都に産するものである。多くの変種が北日本の日本海側を中心に分布する。変種としてオオザサ Sasa veitchii var. grandifolia やチュウゴクザサ Sasa veitchii var. hirsuta がある』。但し、『チュウゴクザサはクマザサや俗称としてのクマザサのような整った隈取りにはならない』。『種としては上記のものがクマザサであるが、それ以外にも近似の種が多く、分類は混乱している面もある』。『日本のブナ林では林床に大型のササ類が密生することが多く、これらもまとめてクマザサと言われることもある。チシマザサ Sasa kurilensis 、スズタケ Sasamorpha borealis 、クマイザサ Sasa senanensis 、チマキザサ Sasa palmata 、ミヤコザサ Sasa niponica などのクマザサと同じササ属 Sasa の笹が往々にしてクマザサ扱いされる。一般的に、多雪の日本海側ではチシマザサ、クマイザサ、チマキザサが、少雪の太平洋側ではスズタケや小型のミヤコザサがその位置を占める』。『葉の隈取りを愛でて、庭園や公園に栽培されることもある。葉の部分は、さわやかな香りと、さっぱりした味があり、飲料用、薬用などに利用される』。『笹の葉には優れた抗菌作用・防腐作用があるため、昔から笹寿司(石川・富山および長野・新潟)やちまき、日本料理に使われている』。『旧飛騨国(現岐阜県北部)では隈笹の実が野麦(のむぎ)と呼ばれ、野麦峠という地名もある。凶作の年にはその実を食べて飢えをしのいだという』。『胃炎、口内炎に効果があるとされ、ビタミンKが多く含まれていることから、歯周病予防、口内炎予防、口臭予防に良いともいわれている。ビタミン、ミネラルなどの栄養素がバランス良く含まれており、漢方では万病に効く薬草として扱われている。葉を薬用するときは収穫はいつでもよく、採集したら細かく刻んで天日干しする。一般に見られるチマキザサなども同様に薬用にできる』。『乾燥した葉をフライパンや鍋などで炒ってから、煎じて健康茶として飲まれたり、エキスが健康食品として市販されている。これは高血圧、糖尿病などに効果があるとされるが、ヒトに対する有効性について信頼できるデータはないようである。クマザサの葉を淡竹葉(たんちくよう)という生薬名でいうこともある(ただし、淡竹葉を他植物とする場合もある)。民間療法で』一『回』二十『グラムほどの新鮮な葉をミキサーで砕いて、青汁を作って』、一『日』二『回服用する用法も知られている。胃腸の熱を冷ます薬草効果があるため、胃腸の冷えやすい人や妊婦には使用禁忌だと言われている』とある。

「秋に至《いたり》、縱文㸃《たてもんてん》、出《いで》、黃白色。甚《はなはだ》、美≪なり≫」と、良安は、「それが美麗である」と言っているのだが、これには、私は大きな疑問がある。これを、単に隈取りの現象を指しているのなら、文句は言わない。しかし、良安は「隈取」と言わず、「縱文㸃」、則ち、笹の葉の縦方向に有意な筋状の線状紋が生ずる(これだけなら、まあ、「隈取」と採ってやっても我慢は出来る)というだけでなく、「㸃」=点状の何らかの有意な白でも黄でもない「斑点」が生ずると言っているから(としか私は採れない)である。試みに、ネットを調べると、「農研機構」公式サイト内の「花き研究所」(「花き」は「花卉」のこと)の「花き病害図鑑」の「ササ類」の「ごま黒やに病」のページがあり、感染する植物名にはクマザサを筆頭にして、『ヤダケ、スズタケ、チシマザサ、ミヤコザサ』を挙げ、「病徴写真」があって、『葉表に黒色で光沢のある盛り上がった斑点が形成される。病斑の周辺は黄化する』とあるのである。無論、我々の美意識からは、「隈取り」が美しいし、このような病変した葉を、我々は「甚だ、美なり」とは言わないだろうが、判らんぞ! 竹の黒斑や、病変個体を愛玩している日本人は、今も、ゴマンといるのだ! 私は、毅然として、これは「ごま黒やに病」に罹患したクマザサであると、信じて疑わないのである! 因みに、リンク先には、病原菌を、子嚢菌門フンタマカビ綱核菌綱クロカワキン目Phyllachoralesクロカワキン科 フィラコラ属Phyllachora tetraspora とする(無性世代は Leptostromella 属とされる)。

『「本草≪綱目≫」に所謂《いはゆる》、『「龍公竹」の葉、芭蕉のごとし。』と云ふ』 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-20b]の六行目後半に出る。しかし、中文サイトを引くと、複数の記載に伝説上の竹の名とするので、良安の推定見解には同意出来ない。

「兒篠(ちご《ざさ》)」これは、イネ科チゴザサ属チゴザサ Isachne globosa であろう。「維基百科」の同種は「柳葉箬」である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『小型のササのような姿の植物で湿地に群生する』。『多年生の草本。根茎は横に伸び、そこから直立する茎(稈)を出す。直立する茎は高さ』三十~六十センチメートル『になる。直立する茎に出る葉身は披針形で長さ』四~九センチメートル、『幅』四~八ミリメートル『ほど、主脈はあまり目立たず、葉の縁はやや固くなってざらつく。葉舌は』一『列の長い毛の形になる』。『花期は』六~八『月で、茎の先端に円錐花序を直立させる。円錐花序は長さ』三~六センチメートル『で、枝は屈曲して小穂を単生するか』、一、二『回』、『分枝して小穂をつける。分枝はやや細く、それが大きい角度を取ってまばらに広がる。小穂には柄があり、その途中に淡黄色の帯状をした腺がある。小穂はほぼ楕円形だが先端に向けてやや幅が広まっており、また』、『基部に向かって細まっていて、長さ』二~二・二ミリメートル、『淡緑色から紫を帯びて淡紫色のものまでがある。また花柱も紅紫色。花柱は開花時には頴の外へ突き出し、美しく見える』。『和名は稚児笹で、その姿が細く』、『小型であることによる』。『この類の小穂は』二『個の小花からなり』、二『個は』、『ほぼ同大で腹背に扁平で、いずれも両性花である。包穎は広楕円形で紙質、小穂とほぼ同長かやや短くなっており、はっきりしない脈が』、『数本』、『走る。護穎は硬くてやや革質、楕円形で縁が内側に巻き、その内側に内穎を抱える。内穎も革質で』、『やや平坦、熟すと淡黄色となる。果実が成熟した際には内穎と護穎は果実を抱えてそのまま脱落し、柄の上には包穎だけが残る。なお』、二『つの小花のうち』、『上のものは両性花で結実するが、下方のものは雄性で結実しないと記述される例があるが、多くの場合に両方共に結実する』。『日本では北海道から琉球列島までと広く分布し、国外では中国、東南アジア、オーストラリアにまで分布がある』。『普通種であり、水湿地に出現してよく群生を作る。水田の畦や溝などにもよく出現し、休耕田では一面に群落を作ることが珍しくない』。『本属の植物は東南アジアを中心に世界の暖地に生育し、約』六十『種がある。日本では本種の他に以下の』二『種がある。いずれも本種より遙かに小型の植物で混同することはまずない』とある。

○ハイチゴザサ Isachne nipponensis(『地を這う植物で本種よりずっと小さく、背丈は』十センチメートル『程にしかならない』)

○アツバハイチゴザサ Isachne kunthiana(『ハイチゴザサに似て』、『やや葉が大きくて厚い。他に北村他』『にはオオチゴザサ I. subglobosa が取り上げられており、やや大きくて紫を帯びず』、二『つの小花のうち』、『下方のものが雄生で結実しない、との記述があるが、長田』『も佐竹他』『もこれには触れておらず、認めていないものと思われる。しかしYListにはこの種が認められている』)

『「本草≪綱目≫」に謂ふ所の『龍𮈔竹《りゆうしちく》』は、此等《これら》を指すか』「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-20b]の六行目中央部に出る(「龍公竹」の前)。これも、同定し得る実在する竹のデータは全くない。やはり、良安の推定見解には同意出来ない。

「燒葉篠(やきは《ざさ》)」「夜木波佐佐《やきばささ》」残念ながら、クマザサの異名に過ぎない。

「五枚篠《ごまいざさ》」「五末伊佐佐《ごまいざさ》」これは、ササ属クマイザサ Sasa senanensis と思われる。ホーム・ページに『筑波大学生物学類の「植物分類学野外実習」は毎年』七『月半ば頃に菅高原実験センターで開講されます。この期間中にセンター付近(根子岳を含む)で見られた花(+ α)を集めてみました』とあるサイト「Flower of Sugadaira in July 菅平の花(7月限定)」(基本統括サイトが筑波大学生命環境群生物学類であるから、その関係者による作成サイト)の「クマイザサ 九枚笹」に、『北海道から九州の温帯域に分布。地下茎は長く横走し、そこから地上茎(稈)が立ち上がる。稈は高さ』一~二メートル、『直径』五~六ミリメートル、『中空、基部でまばらに分枝し、ふつう無毛だが、ときに逆向きの細毛がある。稈鞘は宿存性で革質、表面は無毛。葉は常緑、枝先に数個』(☜)『ずつつく(九枚笹)』(☜:されば、「五枚篠」でも問題ないことになる)。『葉鞘は革質、無毛。肩毛は放射状だが、しばしば欠如。葉身は披針状長楕円形』二十~二十五×四~五センチメートル、『やや革質、表面は』普通、『無毛、裏面には軟毛がある』。『小穂は長さ』二~二・五センチメートルで、四から七枚の『小花からなり、下部には』二『個の小形の苞穎がある。護穎は卵形、長さ』七~八ミリメートル、『鋭尖頭、縁に細毛があり』、七『脈がある。内穎は護穎より』、『やや長いか』、『同長、先は』二『裂し、竜骨の上部に細毛がある。鱗被は』三『個、薄膜質透明、卵形、縁毛がある。雄しべは』六『個。雌しべは』一『個、花柱は短く、柱頭は長く』三『裂して羽毛状。子房は上位、卵形』とある。

「越王竹、高さ、止(たゞ)、尺餘」「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-20b]の五~六行目に出る。これ頭に出産地として『嚴州』とある。これは現在の湖南省沅陵県(グーグル・マップ・データ)だが、ここにクマイダケが植生するかどうか、調べるほど、俺は、お人よしじゃあ、ねえから、ここらで、退場するぜ。]

2024/11/19

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 箟竹

 

Yadake

 

やのだけ  箟【音昆】 菌【同】

       【和名乃】

 

箟竹

 

 

△按箭箟竹葉大於馬篠而竹似鳳尾竹節閒長肉最厚

 硬用作箭箆甚佳也出肥州大村字書云箟美竹名

 可爲矢也者是也

 

   *

 

やのだけ  箟《ゴン/クヰン》【音「昆《コン》」。】 菌《ゴン/クヰン》【同じ。】

       【和名、「乃《の》。】

箟竹

 

 

[やぶちゃん注:現行の呉音・漢音(クヰン「現代仮名遣「キン」)では、「箟」と「昆」は、同音ではない。現代中国音でも音通ではない。「說文解字注(附:六書音均表)」に『王曰昆或言箟簬今之箭囊也箟卽箘之異體』とはある。

 

△按ずるに、箭--竹《やのだけ》は、葉、「馬篠《むまざざ》」より、大なり。而して、竹、「鳳尾竹《ほうびちく》」に似≪て≫、節の閒《あひだ》、長≪く≫、肉、最《もつとも》厚≪く≫、硬く、用《もちひ》て、箭-箆(やの)[やぶちゃん注:単に「箆」で「の」と呼ぶことが多い。弓矢の先端分の鏃(鏃)部分を除いた本体部を指す。]に作《つくり》て、甚だ、佳≪き≫なり。肥州、大村より出≪づ≫。字書に云はく、『「箟《こん》」は、美竹《びちく》の名≪なり≫。矢に爲《つく》るべし。」≪と言へる≫者、是れなり。

 

[やぶちゃん注:これは、「矢竹」で、狭義には、現在の、

単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica

を指す。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『タケ(竹)と付いているが、成長しても』、『皮が桿を包んでいるため』、『笹に分類される(大型のササ類)。種名は矢の材料となることから。本州以西原産で四国・九州にも分布する。別名ヘラダケ、シノベ、ヤジノ、シノメ』。『根茎は地中を横に這い、その先から粗毛のある皮を持った円筒形で中空の茎(桿)が直立。茎径は』五~十五ミリメートル。『茎上部の節から各』一『本の枝を出し』、『分枝する。節は隆起が少なく、節間が長いので』、『矢を作るのに適す。竹の皮は節間ほどの長さがあるため、見える稈の表面は僅かである。地下茎は遠くへ走らない。全長』二~五メートル。『葉は無毛、大型で長さ』二十~三十センチメートル、『鮮緑色で』、『先端が下垂』して『互生』し、『分枝した各枝先に』三~十『枚』、『つく。葉面は緑色で滑らか、革質で裏は白緑色、先の尖った卵長細形あるいは葉被針長形、平行脈で、葉縁はざらつく。葉鞘は革質で剛毛が粗い。退化葉は線形で先が尖る。まれに鞘口』(しょうこう:葉鞘の入り口の部分を言う語。兼子勝明氏のサイト「植物のひみつ」の「イネ科の特徴」を見られたい。画像や挿絵が豊富で、私は、今回、ここでイネ科 Poaceaeの細部の名称と役割を学んだ)『毛を有する』。『夏に緑色の花が咲く。花径は』〇・三~一センチメートル『で茎に枝の長い円錐花序、中軸から小柄を出し先に小穂数個つける。小穂は』二『列の花』の『約』十『個からなり、花(小穂)小枝に密着。花皮は針長形で』一・三~一・四センチメートル、『護頴』(ごえい:前掲リンク先を見よ)『は卵形で』十六、十七『脈あり、内頴は短く背肋が』二『本、おしべが』三~四『本』。『昔は矢軸の材料として特に武家の屋敷に良く植えられた。現在は庭園竹として植栽され、盆栽にも向く。矢の他、筆軸、釣り竿、キセルの羅宇、装飾用窓枠に利用されている』。以下、「変種・品種」二種が挙げられてある。

○変種ラッキョウヤダケ Pseudosasa japonica var. tsutsumiana (『辣韮矢竹』。昭和九(一九三四)年『に茨城県水戸市の庭園で秘培されていたものが』、『柳田由蔵により発見』・『紹介されたもの。桿の高さは』一・五~二メートル『程で、節間がラッキョウのような形に膨れる。地下茎もまた数珠状に膨らむ。かたちの面白さから箸置きなどの細工物などに利用される。枝は中部以上の節から』一『本ずつ出て、更に小枝をつける』)

○品種アケボノスジヤダケ Pseudosasa japonica f. akebonosuji(『曙筋矢竹』。『春先に出る新葉にほのかな曙状の白斑と鮮明な緑色の条斑が入る』)

「馬篠《むまざざ》」ササ属クマザサ(隈笹) Sasa veitchii var. veitchii のこと。当該ウィキを見られたい。なお、そこにも書かれてあるが、「熊笹」という表記は誤りである。なお、「むまざさ」という読みは、次の「篠」の項に、良安のルビで「ムマザヽ」と打たれてある。そちらで詳述する。

「鳳尾竹《ほうびちく》」前項の「鳳尾竹」で考証した通り、第一義は、イネ科タケ亜科ホウライチク(蓬莱(蓬萊)竹)属ホウライチク変種 Bambusa multiplex var. ' Fernleaf ' 園芸品種Bambusa multiplex cv. Fernleaf 'である。

「肥州、大村」現在の長崎県大村市(グーグル・マップ・データ)。]

2024/11/18

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 鳳尾竹

 

Houbitiku

 

ほうびちく 鳳凰竹【俗】

      孟宗竹【俗】

鳳尾竹

 

 

本綱鳳尾竹葉細三分

△按此俗云鳳凰竹也筱竹之類而高五六尺不過葉細

 三分許甚茂竹太如筋及箭箆而肉厚今年生者葉亦

 竹畧肥大舊年者却瘦細九州平戸多有之其笋冬月

 生故俗呼曰孟宗竹

 吳孟宗之母冬好筍天感孝也雪中生筍取令吃之此

 竹雖非其種唯以冬生好事者名之此筍最細長甚苦

 不可食

 

   *

 

ほうびちく 鳳凰竹《ほうわうちく》【俗。】

      孟宗竹《まうさうちく》【俗。】

鳳尾竹

 

 

「本綱」に曰はく、『鳳尾竹は、葉、細きこと、三分。』≪と≫。

△按ずるに、此れ、俗に云ふ、「鳳凰竹」なり。筱竹(しの《だけ》)の類《るゐ》にして、高さ、五、六尺に過ぎず。葉、細《ほそく》、三分許《ばかり》。甚《はなはだ》、茂り、竹の太さ、筋(はし)[やぶちゃん注:これは「箸」の誤字か誤刻である。「筋」に「はし」・「箸」の意はない。]、及《および》、箭(や)の箆(の)ごとくにして、肉、厚し。今年《こんねん》、生≪とずる≫者は、葉も、亦、竹も、畧《ちと》、肥大《こえおおき》く、舊年の者、却《かへつ》て、瘦細《やせてほそ》し。九州平戸に、多く、之れ、有り。其の笋《たけのこ》、冬月《とうげつ》、生《しやう》ず。故《ゆゑ》、俗、呼んで、「孟宗竹」と曰ふ。

 『吳の孟宗の母、冬、筍を好む。天、孝を感じ、雪中に筍《たけのこ》を生ず。取《とりて》、之れを吃《く》はしむ。』≪と≫。此の竹、其の種《しゆ》に非ずと雖も、『唯《ただ》、冬、生ずる。』を以つて、好事(こんづ)の者、之≪れを≫名づく。此の筍、最《もつとも》細長《ほそなが》く、甚《はなはだ》苦《にが》≪くして≫、食ふべからず。

 

[やぶちゃん注:ここで、項目標題とする「鳳尾竹」と、民間で呼ぶとする「鳳凰竹」、及び、「孟宗竹」は、三種とも、現行では、別種である。まず、

メインの「鳳尾竹」は、単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ホウライチク(蓬莱(蓬萊)竹)属ホウライチク変種 Bambusa multiplex var. ' Fernleaf ' 園芸品種Bambusa multiplex cv. ' Fernleaf '

である。これは「維基百科」の「鳳尾竹」で確認した。一方、

◆「鳳凰竹」というのは、現行では、同じホウライチクの別な変種ホウオウチク Bambusa multiplex var. gracillima(シノニム:(品種)Bambusa multiplex ' Fernleaf ' /(園芸品種) Bambusa multiplex var. elegants

であり、

◆「孟宗竹」は、既に出した通り、タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys edulis

である。

 但し、跡見群芳譜」の「花卉譜」の「ほうおうちく (鳳凰竹)」には、『中国語名』を『鳳尾竹(ホウビチク)』とするので、「俗」称は今も生きているようである。

 まず、ウィキの「ホウライチク」を引く(注記号はカットした)。『ホウライチク(蓬莱竹)はイネ科ホウライチク属の多年生常緑竹である。地下茎を伸ばさず株立状となるためバンブー類に分類される。東南アジアから中国南部にかけての熱帯地域を原産とし、桿の繊維を火縄銃の火縄の材料とするため』、『日本へ渡来し、中部地方以西に植栽されている。マダケやモウソウチクと異なり』、『根を地面に垂直に深く張るため、斜面の崩壊を防止する効果を有する』『桿の高さは』三~八『メートル程、直径は』二~三センチメートル、『節間は』二十~五十センチメートル『と長く、節からは多くの小枝が束状に出る。葉は枝先に』三~九『枚ずつで』、『やや』、『密に束生し、長さ』六~十五センチメートル『の狭披針形で先は鋭く尖り、葉脈は平行脈のみで、横脈を欠く。タケノコは初夏から秋にかけて出る』。『桿が肉厚で重く』、『水に沈むことからチンチク(沈竹)、タケノコが夏に生えるので土用竹、高知ではシンニョウダケとも呼ばれる』(この「しんにょう」は漢字表記するサイトがないが、思うに、「之繞竹」ではあるまいか? 「之繞」はお馴染みの部首「辶」の名であるが、この語には、実は、「程度をはなはだしくする・輪を掛ける」意味がある。「ホウライチク」でグーグル画像検索を見ると、同種はワサワサと群生し、前の引用に在る通り、尖った葉もザワザワと生えている。そんな様子を言ったものではあるまいか? 郷土史研究家の方の御教授を得たいものである)。以下、「変種・品種」の項に、十種が挙がる。

○コマチダケ Bambusa multiplex  f. solida(『小町竹』。『孔のない品種で、葉が小さい』)

○オオバコマチ Bambusa multiplex  f. Ohkomachi’ (『大葉小町竹』。『コマチダケの大型種』)

○ギンメイホウライ Bambusa multiplex  f. Ginmei’(『銀明蓬莱竹』。『 緑地に黄色の縦筋が入る』)

○ショウコマチ Bambusa multiplex  f. Shyo-komachi’ (『小小町竹』。『コマチダケよりもさらに葉が小さい』)

○スホウチク Bambusa multiplex  f. alphonso-karri(『蘇枋竹』。『斑入り品種で、冬から春にかけては桿が黄色地に緑色の縦縞があり、夏から冬にかけては赤くなる。別名シュチク(朱竹)』)

◎ホウオウチク(鳳凰竹)Bambusa multiplex  var. elegans(『桿の高さは』二~三センチメートル『程。葉はとても小さくて』、二『列に密に並ぶ形が鳳凰を思わせる』)

○フイリホウオウチク Bambusa multiplex  f. Albovariegata(『斑入鳳凰竹』)

○ベニホウオウチク Bambusa multiplex  f. Viridistriata (『紅鳳凰竹』。『桿や枝が黄色地に緑色の縞が入る。紅色の縞が入るものもある』)

○ミキスジホウオウチク Bambusa multiplex  f. Albostriata(『幹筋鳳凰竹』)

○ホウショウチク Bambusa multiplex  f. Variegata(『蓬翔竹』・『鳳翔竹』。『稈に少数、葉に多数の白条を出現させる変異体。タケノコは秋に出、皮の縁と中央部分に白条が多い』)

 次に、「庭木図鑑植木ペディア」の「ホウオウチク」を引く(画像豊富)。『中国南部を原産とするタケで、ホウライチクの変種。他のタケには見られない小さな葉が密生する様子を、伝説の鳥「鳳凰(ほうおう)」の尾羽に見立てて、ホウオウチクと名付けられた』。『稈の直径が』一『センチほどと細く、刈り込みばさみ等で剪定しやすいことや、病害虫の被害が少ないことから、垣根や庭園の下草として使われることが多い。植栽の適地は関東地方以西の太平洋側。沖縄では垣根としての使用例が多い』。『葉は長さ』四~七『センチ、幅』五~六『ミリでホウライチクよりも小さく、羽根状に規則正しく並ぶ。先端は細く尖り、表面は無毛で緑色。裏面には細かな毛があるため』、『灰白色に見える』。『ササではなくタケであり、若い棹にはタケノコの皮が残るが、しばらくすると落ちる。棹は黄緑色で』、『地下茎は余り伸びず、株立ち状に直立する。広範囲』に『わたって繁茂することがないのも』、『こうした南方系のタケの特徴。タケノコは一年じゅうできるが、』六~九『月が多め』。以下、「ホウオウチクの品種」の項は、前で示したので、カットする。

 最後に、ウィキの「モウソウチク」を引く(注記号はカットした)。『アジアの温暖湿潤地域に分布する』。『中国原産。日本には』十八『世紀に移入されたが』、一九七〇『年代以降は竹林の放棄に伴う分布の拡大が問題視されたため産業管理外来種に指定されている』。『種名は』、本文に出た通り、『冬に母のために寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。中国名は、毛竹(別名:貓頭竹、孟宗竹)』。『高さ』十~二十『メートル』、『径は』八~二十『センチメートル』『になる常緑高木で』、『条件が良ければ、高さが』二十五メートル『になるものもある。モウソウチクの節(環状隆起線)は一輪状であるのに対し、マダケやハチクは節が二輪状であることから区別できる。また、幹の太さは、モウソウチク、マダケ、ハチクの順に太く、モウソウチクの茎の表面は粉がふいたように白いのが特徴である』。『葉は披針形で長さ』四~十センチメートル『とマダケよりも小さく、幅は』四~十『ミリメートル』、『黄緑色で枝先に』二~八『枚ずつ密集して付き、裏面基部には軟毛がある。春に黄葉したあとに新しい葉に入れ替わる。枝は稈の中央部より上の節に』二『本ずつ互生する』。『根茎による繁殖力が強く、地下茎を伸ばして分布を拡大する。タケノコは』四『月頃に出てくる。タケノコを覆う稈鞘(いわゆる竹の皮)は黒褐色で背面に粗い毛が生える』。『花期は』五『月と』九『月だが、花はめったに咲くことはなく』、『開花は数十年に一回ともいわれる。雌雄同株。花は両性花、風媒花である。モウソウチクの場合には開花すると地下茎まで枯れてしまい、ハチクのように地上部分は枯死しても地下茎は枯れないものと』の、『違いがある』。『日本では北海道から南西諸島まで広く分布する。北限は函館市とされている。庭木として植えられたり、里山で見られる』。『日本への移入時期は』享保一三(一七二八)年、享保二一・元文元(一七三六)年『など諸説ある』他、延暦二〇(八〇一)年、『京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った、また』安貞二(一二二八)年(年)『に曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、などの説もあるが』、『全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると元文元』(一七三六)年三『月に』、薩摩藩第四代藩主『島津吉貴』(よしたか)『が、琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入し、元文』三『年に帰国すると』『吉貴のいる仙巌園に孟宗竹を献上したという』(本書の成立は正徳二(一七一二)年であるが、良安の普段のフィールドは大坂・京都であるから、後者の移入の孟宗竹を見た可能性は十分にある)。一九七〇『年代以降は竹林の放棄に伴い』、『分布が拡大し、周辺の植生を破壊していることが問題視されている』(後述される)。『タケノコは』四『月頃に地下茎から発芽する。このタケノコは大型で肉厚で柔らかく、えぐみが少ないため』、『食用に供される。湿潤で粘土質の竹林では良質のタケノコが採れる』。『マダケに比べ』、『完密度や材質の脆さなどがあり』、『表面の緻密さも劣る』ものの、『花器、ざる、かご、すだれ、箸の他、鉄製品や』、『プラスチック製品が普及するまでは』、『建築材料、農業資材、漁業資材などとしても用いられてきた。また』、二〇〇〇『年代以降、野球で使用されるバットの原材料としての利用も盛んとなっている』。『突然変異によって竹に奇形や斑入りを生ずることがあり、その中から園芸的価値のあるものが選抜栽培される』。『平成』二〇(二〇〇八)『年度税制改正において、法人税等の「減価償却資産の耐用年数等に関する省令」が改正され、別表第四「生物の耐用年数表」によれば』、同年四月一日『以後開始する事業年度にかかるモウソウチクの法定耐用年数は』二十『年となった』。『モウソウチクは食用(タケノコ)や竹材として利用されていたが、安価な代替の素材の輸入などにより利用されなくなり』、『放置竹林が問題化した。それによって引き起こされたモウソウチクの他植生への侵入によって、広葉樹の生長が阻害され枯死することが判明している。さらに、他の樹種の影響をうけにくい杉でさえもモウソウチクの特性(』三『ヶ月で最大まで生長する。柔軟なので風が吹く度にしなってスギへ当たる)により生長が妨げられ、放置されたスギ林へもモウソウチクがよく侵入して群落を拡大している』。『地下茎の拡大は根元の周りに地下まで約』一『メートルの仕切板を埋め込むことで防ぐことができる。また、タケノコを継続的に採取して食用にすることも有効な駆除方法とされている』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-20b]の六行目に出る。

「吳の孟宗の母、冬、筍を好む。天、孝を感じ、雪中に筍《たけのこ》を生ず。取《とりて》、之れを吃《く》はしむ。」東洋文庫の後注に、『元の郭(かく)居敬撰『全相二十四孝詩選』孟宗の項に、五言詩とともに、孟宗が雪中に筍を得て病母に食べさせた話が載っている。』とある。私は、高校時代に読んで(何で読んだかは記憶にないのだが、古典の蟹谷徹先生の授業の話に出て、昼休みに図書室で読んだことは確かだ)、何故か知らぬが、ひどく感銘したのを覚えている。「中國哲學書電子化計劃」の同書の電子化から、当該部を引用し(一部の表記に手を加えた)、自然流で訓読する。

   *

 哭竹生筍

竹而泣。孝感天地。須臾地裂。出筍數莖。歸持。作羹奉母。食畢疾愈。有詩爲頌。

 詩曰、

 淚滴朔風寒

 蕭蕭竹數竿

 須臾冬筍出

 天意報平安

 

   竹に哭(こく)して筍(たかんな)生ず

  竹にして泣き、孝、天地、感じ、須臾(しゆゆ)にして、地、裂け、筍、數莖(すけい)、出づ。歸り持ちて、羹(あつもの)と作(な)し、母に奉(はう)ず。食(しよく)し畢(をは)りて、疾(たちま)ち、愈ゆ。詩、有り、頌(しよう)を爲(な)す。

 詩に曰はく、

 

  泪(なんだ) 滴(しただ)りて 朔風(さくふう) 寒し

  蕭々(せうせう)たる竹(たけ) 數竿(すかん)

  須臾(しゆゆ)にして 春笋(しゆんしゆん) 出づ

  天意 平安を報(はう)ず

   *

「頌」原義は「詩經」での詩の形式の中で、「人君の盛徳を褒めたたえて神に告げる祭りの詩」を言った。この故事は後に、本来は「孝心の深い喩え」であったが、後、「有り得ないものの喩え」、或いは、「得難いものの喩え」へとスライドしている。]

2024/11/17

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 虎彪竹

 

Torahudake

 

とらふだけ  俗稱

 

虎彪竹

 

 

△按虎彪竹出於豊後姥之嵩筱竹之類而竹黃白色有

 黒斑文微似虎皮之紋故名之用爲笻爲煙筒佳

 

   *

 

とらふだけ  俗稱

 

 虎彪竹

 

△按ずるに、虎彪竹は豊後、「姥が嵩(うばがたけ)」より出づ。「筱竹《しのだけ》》」の類《るゐ》にして、竹、黃白色、黒≪き≫斑文、有り。微《やや》、虎皮《とらがは》の紋に似、故《ゆゑ》、之れを名づく。用《もちひ》て、笻《つゑ》と爲《なし》、煙筒(ラウ)[やぶちゃん注:煙管(きせる)の筒。先行する「竹」の私の後注「無節竹《むせつちく/ラウだけ》」を見られたい。]と爲《な》≪して≫、佳《よ》し。

 

[やぶちゃん注:この「虎彪竹」=「虎斑竹」は、本来的には、

竹の和名ではなく、黴(カビ)の一種に感染した複数のタケ類に感染をして、自然状態では、黒い汚ない煤(すす)のような斑紋を起こすタケ類の疾患個体(群)を指すもの

である。ウィキの「トラフダケ自生地」によれば、

◎『マダケやトウチクなど様々なタケに寄生する』菌である

とするものの、特に、現在、竹の一種である、

★タケ亜科ナリヒラダケ属ヤシャダケ(夜叉竹) Semiarundinaria yashadake の感染群落

が、岡山県真庭市と同県津山市の二箇所にあり、現在、そこが、

「トラフダケ自生地」という名称で「天然記念物」に指定されている

ため、あたかも

――ヤシャダケの異名のように誤認されている――

向きがあるようである。因みに、このタケに寄生する原因菌は、

菌界子嚢菌門チャワンタケ(茶碗茸)亜門フンタマカビ(糞玉黴)綱ディアポルテ亜綱 Diaporthomycetidaeカロスフェリア目 Calosphaerialesカロスフェリア科Chaetosphaeria  カロスフェリア属カロスフェリア・フシスポラChaetosphaeria fusispora (シノニム:Miyoshia fusispora Kawamura  Miyoshiella fusispora :幾つかの記事は「虎紋菌」と記載するが、正式和名ではない) 

という、子嚢殻中に子嚢を生じることを特徴とするディアポルテ亜綱の菌

で、

竹の稈(=幹)に特徴的な虎斑紋が生ずるものタケ類の疾患

である。ところが、ウィキの「トラフダケ」では、専ら、ヤシャダケのみを述べて、『感染による斑紋の美しさから江戸時代より珍重され、産地では伐採の規制などが行われてきた』と記してあるのである。ウィキの「トラフダケ自生地」へのリンクはあるのだが、他のタケも感染することが、全く記されておらず、語りも簡便に過ぎ、甚だ問題がある。寧ろ、ウィキの「トラフダケ自生地」が、丁寧な解説があり、好ましい。『この黒い斑紋は、煤のような汚いものに見えるが、虎斑菌は稈の表面だけでなく稈組織に深く入り込むため、これを拭い落して磨くと稈の表面に渋味のある美しい模様が浮かび上がり、ちょうど』、『張り子の虎の胴にある模様に似た黒い模様になるので虎斑竹と呼ばれ』、『磨けば磨くほど立派な斑紋が出るという』。天然記念物指定地となった地の種である『ヤシャダケは』、『稈の高さ約』四~八『メートルほどの中型のタケで』、『一説には福井県と岐阜県の県境近くにある』、『夜叉ヶ池畔で発見されたので』、『この名前が付いたと言われており』、『本州中部以西の川沿いに分布している』。『トラフダケのような稈に斑模様のある竹は斑竹(はんちく、まだらだけ)と呼ばれ、寄生する菌類や宿主となる竹の種類により』、『「圏紋竹」「ごま竹」「さび竹」など』の『複数』の変成を受けた『種が知られているが、これらは』疾患個体である『トラフダケに限らず古くから珍重され、日本国内ではキセルの管である「羅宇(らう)」の材質に使用されたり』、『正倉院の御物中の筆』十七『管のうち』、八『管が斑竹が使用されているなど』、『希少な装飾品として紋様が美麗なものは健常なものよりも高値で取引されていたという』。『美しい虎斑(トラフ)の出る条件は、直射日光が当たらない湿気の多い有機質に富んだ雑木林で、具体的には北向きの藪で急傾斜地の登るのが困難な場所、近くに小川の流れる場所が適しているとされ』るとある。最後には、『ヤシャダケが他の樹木と混生した場所に限って生育する』という文言があるが、これは、ヤシャダケがないと、虎斑竹は生じないという意味ではなかろう。ヤシャダケの場合は、全くの単族相では、菌寄生が生じない(極めて生じし難い)の意と思う。

!さて、以上とは別に、ウィキの「トラフダケ」にも、実は、嬉しい一節があるのである!

 則ち――疾患ではない――★虎斑竹が別に存在する★――のである! これは、

◎マダケ属クロチク変種ハチク変種トサトラフダケ(土佐虎斑竹)Phyllostachys nigra var. tosaensis

である。大正五(一九一六)年に牧野富太郎が「土佐虎斑竹」と命名したもので、高知県高岡郡新正村大字安和(現在の須崎市(すささきし)安和(やすわ):グーグル・マップ・データ)に個体群を認めたものである。『形状は淡竹と同じで、表面に多数の茶褐色の虎斑状斑紋がある』とあるのである。なお、トサトラフダケについては、虎斑竹専門店「竹虎」の公式サイト「虎竹のある暮らし」のこちらを見られたい。画像豊富。

「姥之嵩」東洋文庫訳に割注して、『姥嶽という。祖母山』(そぼさん)『の古称。大分・宮崎・熊本の三県にまたがる高峰。』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。この場所からみても、竹の種は「ヤシャダケ」ではあり得ない、と私は思う。]

「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」の芥川龍之介の部の下方に「山茶花の莟こぼるる寒さかな」の自筆短冊を元にした岩波書店復刻版「或阿呆の一生」の箱からトリミング補正して掲載した

サイトの「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」の「芥川龍之介」の部の下方に、死後に岩波書店から刊行された作品集「或阿呆の一生」の箱の裏の背側に白抜きで示された、白抜きでデザインされた「山茶花の莟こぼるる寒さかな」の龍之介の自筆句を掲載した。トリミング補正した画像は、所持する岩波書店の『岩波文芸書 初版本 復刻シリーズ』の二〇〇一年十二月に発行されたものを、OCRで取り込み、汚れを、かなり気を使って除去した。

 

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和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 筱竹

 

Nayotake

 

しのだけ  長節閒竹

      【俗云奈與太介

       兩節閒稱與

       畧言也】

筱竹

      女子竹

なよたけ  【柔軟狀似婦女

をなごだけ  女故名之】

 

△按筱小竹也【和名之乃】篠同【俗云之乃布竹】髙六七尺周二寸許其

 葉深青色節不𮥓其籜白色脆而難脱節閒長其筍味

[やぶちゃん字注:「𮥓」は「隆」の異体字。]

 甚苦硬不可食其竹節際有白粉如濕熱甚浸則愈多

 變黃色人取𭀚天竹黃可辨也其竹民家用爲天井及

[やぶちゃん字注:「𭀚」は「充」の異体字。]

 壁骨菅笠骨本草蘇頌曰肉薄節閒有粉者此竹矣

  夫木我れなれや風を煩ふしの竹のおきふし物の心ほそくて西行

[やぶちゃん注:この一首の第三句目は「しの竹の」は「しの竹は」の誤り。訓読では訂した。]

大妙竹 狀似長節竹而大周三寸許葉亦大也可作笛

業平竹 似長節竹而葉似苦竹葉者名之中將業平之

 容貌人以爲女而也此竹擬之名乎

  著聞集髙しとて何にかはせんなよ竹の一よ二よのあたのふしをば爲家

[やぶちゃん注:「爲家」はママ。後注を参照されたい。]

   *

 

しのだけ  長節閒竹(なよたけ)

      【俗、云ふ、「奈與太介」。

       兩《ふたつ》≪の≫節《ふし》の

       閒、「與《よ》」と稱す。≪その≫

       畧言《りやくげん》なり。】

筱竹

      女子竹(をなごだけ)

なよたけ  【柔軟≪たる≫狀《かたち》、婦女

をなごだけ  に似る。故。之れを名づく。】

 

△按ずるに、筱は小竹《こだけ》なり【和名、「之乃《しの》」。】。「篠」、同≪じ≫【俗、云ふ、「之乃布竹《しのぶだけ》」。】髙さ、六、七尺、周《まは》り、二寸許《ばかり》、其の葉、深青色、節、𮥓《たか》からず。其の籜《かは》、白色。脆(もろ)くして《✕→けれども》、脱《ぬ》け難《がたし》。節の閒《あひだ》、長く、其の筍《たけのこ》、味、甚《はなはだ》、苦《にが》く、硬《こは》く、食ふべからず。其の竹節の際《きは》、白き粉《こ》、有り、如《も》し、濕熱、甚≪だ≫浸《しむ》≪れば≫、則《すなはち》、愈《いよいよ[やぶちゃん注:送り仮名に繰り返し記号「〱」がある。]》、多く≪なりて≫、黃色に變≪ず≫。人、取≪とり≫て、「天竹黃《てんぢくわう》」[やぶちゃん注:先行する「竹」の私の後注の「天竹黃」を参照されたい。]に𭀚《あつ》≪れば、能(よ)く≫辨ずべし。其の竹、民家、用《もちひ》て、天井、及び、壁-骨(かべしたぢ)・菅笠の骨と爲す。「本草≪綱目≫」に蘇頌《そしよう》が曰はく、『肉、薄《うすく》、節の閒《あひだ》、粉《こ》、有る。』と云ふは、此の竹≪なり≫。

  「夫木」

    我れなれや

     風を煩《わづら》ふ

         しの竹は

      おきふし物の

           心ほそくて 西行

大妙竹《だいめうだけ》 狀《かたち》、「長節竹(なよたけ)」に似て、大きく、周《まは》り、三寸許《ばかり》、葉≪も≫亦、大なり。笛≪に≫作≪る≫べし。

業平竹《なりひらだけ》 「長節竹」に似て、葉は、「苦竹(まだけ)」の葉に似たる者、之れを、名づく。中將業平の容貌、人、以《もつて》「女《をんな》」と爲(おも)へば、男《をとこ》なり。此の竹、之れに擬《なぞら》ふ名か。

  「著聞集」

    髙しとて

      何にかはせん

     なよ竹の

        一《ひと》よ二《ふた》よの

             あたのふしをば  爲家

 

[やぶちゃん注:この「しのだけ」は、植物学上の基本的な狭義のタイプ種としては、

単子葉植物綱イネ科タケ亜科アズマザサ属アズマザサ Arundinaria ramosa

の異名「シノダケ」である。小学館日本大百科全書「アズマザサ/東笹」によれば、『常緑のササ』で、『稈(かん)は高さ』一~二『メートル、径』四~八『ミリメートル、上方の各節から』一『本ずつ』、『枝が出る。葉は広披針(こうひしん)形』を成し、『長さ』十五~二十五『センチメートル、幅』二・五~三・五『センチメートル、裏面に毛がある。肩毛(かたげ)』(「けんもう」とも呼ぶ。竹類・笹類の茎を包む筒形の葉鞘(ようしょう)に続いて、種によって異なるが、葉鞘の先端や辺縁部に毛状の突起を指す。それがない種もある)『は基部を除いて平滑。まれに総状の円錐』『花序をつける。小花は大きく、長さ』一・二~一・四『センチメートル、雄しべは』六『本ある。本州、四国、九州に自生し、とくに関東、東北地方の低地に多い。東京都小金井市で初めて発見されたので』、『この名がある。日本に』十三『種あるとされるアズマザサ属の代表種である』とある。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。

 但し、以上の良安が語るそれは、そのアズマザサ一種を指してはいない。記載順に検証すると、まず、

「しのだけ」「なよたけ」「筱竹」は、普通名詞としては、本邦の漢字表記は「弱竹」で、「細くしなやかな竹・なよなよとした竹・若竹・なゆたけ」を指す一般名詞であるが、特に、

メダケ(雌竹)属メダケ Pleioblastus Simonii

を指す。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『関東地方以西の本州、四国、九州、琉球まで広く分布する多年生常緑笹の一種。主に川岸や海辺の丘陵などに群生する。稈の高さは』二~八メートル『ど、直径』一~三センチメートル『程度で笹としては大きい部類だが、その姿はすらっと細く伸び』、『女性を思わせる。別名』(☞)『シノタケ(篠竹)、オンナダケ』、(☞)『女竹』で『メダケ』、『ニガタケ(苦竹)』(これは、既に何度も出た通りマダケの別名でもある)、『カワタケ(川竹)、ナヨタケ』(☜)である。『筍皮』(じゅんひ:タケノコの表皮)『は緑暗色のち白黄色で、緑色の無毛滑らかな円筒形で』、『中空の稈のほぼ中ほどまでの長さがあり、落ちずにいつまでも稈に残る。節間は約』十五センチメートル。『節は低い。稈は柔らかく通常無毛、また』、『ねばり強いので』、『篠笛や煙管、筆軸、かごなどの竹細工に向く』。『葉は互生で無毛、平行脈、細長く』、『その先端部が垂れ下がる。葉柄は短い。葉鞘は無毛。冬にやや葉縁白っぽくなり、披針形あるいは卵長形で先が尖る。葉の基部は円形で急に狭まる。葉鋸歯は細かい』。『上部が密に分枝し、節から』三~九『本ほど出』て、『葉は枝先に』三~六『枚ほど』、『ついて』、『径』一~三センチメートル、『長さ』十~三十センチメートル、『ほどで無毛。地中に直径』二センチメートル『程の太い地下茎が這い、節から筍が出て』、『繁茂する。ニガタケという別名は』五『月頃に出る筍が苦いことに由来する』。『花は』五『月頃(毎年ではない)、緑淡色で、茎(稈)先と枝先に束生密生。先に』五~十一『個の花からなる』十~二十『個ほどの線形扁平で』、三~十センチメートル『の小穂をつける。花皮は針形で長さ』〇・三~一・五センチメートル『ほど。包穎は』二『枚の小形、護穎は大きく先は尖る。内穎』二『竜骨、鱗皮』三、『花柱』三、『おしべ』三。『時々』、『開花し、後に枯れる、花穂は古い皮をつけていることが多い』。『果実は穎果で尖った楕円長形、果長』一・四センチメートル。『農業資材や建築・漁業などに利用されていたため農家の周辺などに植栽されている。現在は利用されることが少なくなり、野生状態となっている』。以下、「品種」の項に以下の六品種が挙げられてある。

○アカメメダケPleioblastus Simonii f. akame(「赤目(眼)雌竹」?)

○キスジメダケPleioblastus Simonii f. aureostriatus(『黄筋女竹』・『葉に黄状斑がある』)

○ハガワリメダケ Pleioblastus Simonii f. heterophyllus (『葉変わり女竹』・一『つの稈に様々なタイプの葉が出る』)

○シロシマメダケPleioblastus Simonii f. variegatus (『白縞女竹』・『葉に多数の白縞斑がある』

○アオメダケPleioblastus Simonii f. viridis(『青女竹』)

○ウタツメダケPleioblastus Simonii f. zigzag(発伊藤浩司氏の報告論文(昭和三六(一九六一)年一月発行『北陸の植物』(第九巻・第三~四号)を入手したところ、下部の添え記事に写真入りで載り、発見者は植物学者正宗厳敬氏で、『金沢市卯辰山山塊の一部にメダケ』『の幹が電光形になっているものがある。面白い変わりものと考えられる』とされ、『数年前に発見したもので』、『他にもないかと探しているがまだ見当たらない。単なる一型なので』、『学名をつけるほどのものではないが』、『和名としてウタツメダケと呼ぶことにしたい。』とあったことから、漢字表記は「卯辰女竹」である)以上以外にも、種々のネット記事には、メダケの別品種が、かなり載るが、キリがないので、やめる。

『「本草≪綱目≫」に蘇頌《そしよう》が曰はく、『肉、薄《うすく》、節の閒《あひだ》、粉《こ》、有る。』と云ふは、此の竹≪なり≫』「本草綱目」の「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-20a]の六行目に出る。「蘇頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。「本草圖經」等の本草書があった(原本は散佚したが、「證類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。時珍は彼の記載を「本草綱目」で、かなり引用している。

「夫木」「我れなれや風を煩《わづら》ふしの竹はおきふし物の心ほそくて」「西行」既注の「夫木和歌抄」に載る西行の一首で、「卷二十八 雜十」に所収する。「日文研」の「和歌データベース」で確認した(同サイトの通し番号で「13264」)。そこでは、確かに、

   *

われなれや-かせをわつらふ-しのたけは-おきふしものの-こころほそくて

   *

である。元歌は、「山家集」の「中 雜」の終りから三つ目の(岩波『古典文學大系』版通し番号1039・「続国家大観」番号8033)で、

   *

我なれや風をわづらふ篠竹は起き伏し物の心ぼそくて

   *

である。

「大妙竹《だいめうだけ》」タケ亜科トウチク属トウチク Sinobambusa tootsik(唐竹)の異名だが、「大妙竹」ではなく、「大名竹」。当該ウィキによれば、『中国南部・台湾原産の多年生常緑竹。造園業界ではダイミョウチク(大名竹)』(歴史的仮名遣「だいみやうだけ」)『と称して流通している』。『庭園竹としては関東地方以西に植栽されている。やや紫色を帯び、高さ』五~八メートル『径』三~五センチメートル、『節と節の間が』六十~八十センチメートル『と日本の竹では最長』である(☜)。『各節から』三『本以上の短い枝が出、枝先に』三~九『枚の長さ』五~七センチメートル『の披針形の葉がつく。葉は葉耳が 発達して』、『その縁に』、『長い肩毛が開出』する。『洋紙質で、裏面に微毛が密生、枯れても落ちにくくそのまま吊り下がる。若い稈には徴毛が密生するが、成長すると抜け落ちる。稈鞘は斑点がなく、背面にまばらに毛があり、基部には 黒褐色の粗毛が密生する。先端には』、『葉片がつき、ナリヒラダケ』(以下の「業平竹《なりひらだけ》」を見よ)『に似るが』、『枝が多く、寒さに弱い。剪定により』、『節部に葉を密集させることができ、マダケの仲間など とはまったく異なる風情を見せ』、『美しいので』、『生垣や庭園竹として人気がある』。『タケノコの時期は』五~六『月頃で、皮が紫色をしている。食用とするが』、『灰汁』(あく)『がある』とある。

「業平竹《なりひらだけ》」タケ亜科ナリヒラダケ属ナリヒラダケ Semiarundinaria fastuosa 。当該ウィキによれば、『別名ダイミョウチク、セミアルンディナリア。 葉は葉枝先に』四~六『枚ずつ付き、長さ』十~十五センチメートル『で、無毛で硬質、葉耳は発達せず、狭披針形をしており』、『先が尖る。稈は直径』三~四センチメートル『と細く、節間は長く枝が短い。若竹は緑色だが、冬には次第に紫色を帯びる。高さは』五~八メートル。『枝は一年目は節から』三『本出るが』、二『年目からは』七~八『本出る。タケノコは』七『月上旬。皮(稈鞘)は、帯紫緑色で無毛』。『メダケに似ているが』、『背面の一部で』、『稈鞘』が『しばらくぶら下がってから脱落する点が異なる。また、トウチクにもよく似るが、稈鞘先端の葉片の基部に肩毛がないことで区別可能である』。『植物学者牧野富太郎によって、平安時代の美男歌人在原業平のように容姿端麗で美しいということから命名された。観賞用として庭園に植えられる。全体のすっきりした小型の竹なので、小さな庭の添景にしばしば利用される。原産分布は四国、九州』。『変種』に『アオナリヒラ(青業平竹)』( Semiarundinaria fastuosa var. viridis )』があり、『ナリヒラダケより大きく、桿や枝は緑色のままで、葉が細い。関東地方南部が原産と考えられる』とある。

「著聞集」「髙しとて何にかはせんなよ竹の一《ひと》よ二《ふた》よのあたのふしをば」「爲家」「古今著聞集」の「卷第八 好色」の三三一段の「第八十七代の皇帝後嵯峨天皇と申すは土御門天皇の第三の皇子なり。……」の中に出る、御嵯峨天皇が人に命じて、「これこれの内容を持った歌は何か」と訊ねたのに対し、為家が紹介する一首である。所持する「新潮日本古典集成」には、

   *

 たかしとて

  なににかはせん

        なよ竹の

      一夜二夜の

        あだのふしをば

   *

である。全文は長いので、「やたがらすナビ」のこちらの電子化されたものを見られたい(但し、新字)。同書の西尾光一氏の訳によれば、『御身分がどんなに高くとも何になりましょうか。なよ竹の節のような一夜二夜のかりそめの契りでは。』とある。但し、この歌、もうお分かりの通り、定家の子藤原為家の歌ではない、古歌である。小林氏は頭注して、『『大和物語』『新勅撰集』巻十二等に載る。ただし、初句は「たかくとも」、三句が「くれ竹の」。「一夜」に竹の「一節(ひとよ)」をかけた。類例、「なよ竹のよながきうへに初霜おきゐて物を思ふころかな」(『古金集』巻十八)。また、「ふし」に「節」と「臥」とをかける』とある。古文が苦手な方は、「おおまろ」氏のブログ「鈴なり星」のここで、全文の訳が読める。]

2024/11/16

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 雙岐竹

 

Hutamatanotake

 

ふたまただけ

 

雙岐竹

 

 

五雜組云武夷城高巖寺後有竹本出土尺許分兩岐直

上此亦從來未見之種  五行志云太平興國寺亦有

△按攝州天王寺有之淡竹之二岐者處處亦希有

 

   *

 

ふたまただけ

 

雙岐竹

 

 

「五雜組」に云はく、『武夷城の高巖寺《かうがんじ》の後《うしろ》に、竹、有り。本《もと》、土を出《いづ》ること、尺許《ばかり》にして、兩岐《ふたまた》に分《わかれ》て、直《ちよく》に上《のぼ》る。此れも亦、從來、未だ見ざるの種なり。』≪と≫。 「五行志」に云はく、『太平興國寺にも亦、有り。』≪と≫。

△按ずるに、攝州、天王寺に、之れ、有り。淡竹(はちく)の二岐《ふたまた》なる者なり。處處《ところどころ》にも亦、希《まれ》に有り。

 

[やぶちゃん注:「日本国語大辞典」の『ふたまた-だけ【二股竹】』に、ここにある通り、『二股になって生えている竹。大阪天王寺』(四天王寺。グーグル・マップ・データ)『にあったのが有名で、人目にふれず』、『これをまたぐと、縁談または子宝が授かるとの俗信があった』とあり、用例に「邇言便蒙抄」(天和二(一六八二)年成立)を挙げる。「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年。「二股の竹」は稀れに生ずるらしい。グーグル画像検索の「二股の竹」をリンクしておく。期待するほどには、あまりズバりの当該写真は少ない。やはり、希少なのだ。

「五雜組」既出既注。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておく(表記に手を加えた)。

   *

武夷城高巖寺後有竹本出土尺許、分兩岐直上、此亦從來未見之種。按「宋史・五行志」、天禧間太平興國寺亦有此。而大中祥符間、黃州・江陵・武岡・晉原諸處且以祥瑞稱賀矣【按陶谷「淸異錄」載浙中有天親竹、皆雙岐、自是一種。】。

   *

これを見ると、良安が、二字空けをして、別個に引用したかのように見えるのは、「後雜組」の丸写しに過ぎないことが判ったので、当初、別に引用記号を用いて訓読したのを、改めた。因みに、この「宋史・五行志」の引用も「維基文庫」の電子化されたここにあるものを以下に同前でソリッドな条で引用しておく奇瑞の植物名数絡みの出現で纏まっているからである)。当該部に下線を引いた。

   *

天禧元年三月、新津縣平蓋下玉皇案下芝草生。鄂州天慶觀聖祖殿芝草生。四月、邵陽等縣竹生穗如米、民饑、食之。又浮梁縣竹生穗如米。七月、漢陽軍太平興國寺異竹一本、生二莖、節皆相對。十二月庚午。內出芝草如眞武像。二年正月庚子、內出眞遊、崇徽二殿「梁上芝草圖」示宰相。五月、兗州景靈宮昭慶殿生金芝二本。三年六月、漢陽軍芝草生一百五十餘本。七月、嵩山崇福宮獲芝草一百本、有重台連理、貫草者、知河南府馮拯以獻。四年四月、梁山軍民王崇扆竹園生金暈紫芝五本。十一月、上饒縣民王壽園中生芝草三本、皆金暈、其二連理。

   *

「武夷城の高巖寺」「武夷城」は、現在の福建省にある名山の山名。江西省と福建省の境界に跨る武夷山脈にある黄崗山(こうこうざん:標高二千百五十八メートルで、昔、武夷君という神仙がいたとされることからの名。福建省崇安県の北西にある。グーグル・マップ・データ)を中心とする山系の総称。山水の名勝として知られ、黄山・桂林と並び、中国人が人生に一度は訪れたいとされる場所の一つとされていると、当該ウィキにあった。寺は現存しないようである。

「太平興國寺」東洋文庫訳の割注に、『(湖北省漢陽県の北。大別寺とも文殊院ともいう。唐代に建てられ』、『宋の太平興国年間に重建された)』とある。「太平興国」は北宋の九七六年から九八四年まで。小学館「日本大百科全書」の「太平興国寺」に拠れば、『河南省開封にあった寺。宋』『の太宗』『が』太平興国二(九七七)年『に重建、太祖の像を安置した。寺の西方に訳経院(のち伝法院と改む)を建て、インドより来朝した天息災(てんそくさい)』・『施護(せご)』・『法天(ほうてん)などが』、『訳経に従事した。神宗の代』の一〇七二年『には、日本の成尋(じょうじん)』・『頼縁(らいえん)』・『快宗(かいそう)らが訪れ、月称(げっしょう)』。『慧賢(えけん)』・『慧詢(えじゅん)』・『定照(じょうしょう)などに謁している。当時の寺のようすは成尋著』「参天台五台山記」(さんてんだいごだいさんき)『に詳しい。徽宗(きそう)の』代、一一一九年『に破却され、その後のことは不明。そのほかにも全国に同名の寺が多くあるが、それは』九七八『年に勅して天下の無名の寺に寺額を下賜し、太平興国寺と称したからである。なかでも有名なのは江西省袁州(えんしゅう)、山西省翼城県、五台山の太平興国寺である。また、江蘇』『省鐘山(しょうざん)の太平興国寺は、梁』『代の名刹』『の開善寺を』九八〇『年に』、『この寺名に改めたもので、明』『代に太祖の孝陵』『を築くために東方に移し、霊谷寺(れいこくじ)と改めた』とある。]

 

 

未明の二時半に起きて二項やった。これでおしまい。今日は母校玉縄小学校で「玉縄まつり」。町内会の出店で、一日中、飲み物の売り子。実行委員会の役員じゃないから、昼飯も出ない。やれやれだぜ……そもそも俺は、大の「祭り嫌い」だからな……【十五時十六分追記】九年目にして、実行委員にされていたので、昼の弁当、あった!

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 銀明竹

 

Ginitiku

 

ぎんめいちく 紗地竹

 

銀明竹

 

 

△按俗云銀明竹者筠色白惟溝中緑色甚美也槁則緑

 變一如尋常竹

一種有金明竹外黃溝中綠色

 

   *

 

ぎんめいちく 紗地竹《さちちく》

 

銀明竹

 

 

△按ずるに、俗、云ふ、「銀明竹は、筠《かは》≪の≫色、白く、惟《ただ》、溝《みぞ》の中、緑色≪にして≫、甚《はなはだ》、美なり。槁(か)れては、則《すなはち》、緑≪と≫變じて、一《いつ》に尋-常(よのつね)の竹のごとし。」≪と≫。

一種、「金明竹《いんめいちく》」、有り。外《そと》、黃≪にして≫、溝の中、綠色なり。

 

[やぶちゃん注:これらは、マダケ属マダケ Phyllostachys reticulata の変種で、ズバり、

ギンメイチク Phyllostachys reticulata var. castilloni-inversa

キンメイチク Phyllostachys reticulata var. castillonis

である。参照したウィキの「マダケ」によれば、おまけに、

オウゴンチク Phyllostachys reticulata var. holochrysa

という変種もある。画像は、サイト「若竹の杜 若山農場」の「竹の品種」ページの「2 マダケ系」の「2.2 キンメイチク」・「2.3 ギンメイチク」を見られたい。

  但し、Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」では、

「ぎんめいほていちく(銀明布袋竹)」のページで、

ホテイチクの品種 Phyllostachys aurea f. flavescens-inversa

とあり、『中国原産の「ほていちく(布袋竹)」の一品種です。桿の直径は』三『センチ、高さは』十『メートルほどになります。地面の近くの節が膨れ、桿に淡黄色の縦縞がはいるのが特徴です。別名で「ぎんめいはちく(銀明淡竹)」とも呼ばれます』とし、

「きんめいちく(金明竹)」のページでは、

マダケの品種 Phyllostachys bambusoides f. castiloni

とあり、『中国原産の「まだけ(真竹)」の一品種です。桿の直径は』三~八『センチ、高さは』十~二十『メートルになります。桿は黄金色で、芽溝部には緑色の縦縞がはいります。庭園用として植栽されています』とある。但し、この学名は、キンメイチク Phyllostachys reticulata var. castillonis のシノニムであるから、前掲と同一種である。

 また、

「おうごんほていちく(黄金布袋竹)」のページでは、

ホテイチクの品種 Phyllostachys aurea f. holochrysa

とあり、『中国の長江流域が原産の「ほていちく(布袋竹)」の黄金型の一品種です。桿の直径は』二~五『センチ、高さは』五~十二『メートルほどで、下部の節間が不規則に短く詰まり、節間の上部は膨れ下部は括れます。桿の色ははじめ緑色ですが、しだいに黄色や黄金色に変わります。枝は、各節から』二『個ずつでます』とある。

 以上、原種学名が異なる二種は、原種がそれぞれ、異なる別種と採るしかないが、或いは、学術的に原種説に異なる見解があるのかも知れない。これ以上は私の守備範囲ではないので、並置して終りとする。御存知の方は、御教授願いたい。

2024/11/15

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 百葉竹

 

Hyakuyoutiku

 

ひやくえふちく

 

百葉竹

 

本綱百葉竹一枝百葉

△按一枝百葉竹未知有也否今苅下枝葉及中心稍項

[やぶちゃん注:「稍」は「梢」の、「項」は「頂」の誤字、或いは、誤刻。訓読では二つとも、訂した。]

 上一𠙚遺枝葉則甚茂盛如一枝百葉作成者也

 

   *

 

ひやくえふちく

 

百葉竹

 

「本綱」に曰はく、『百葉竹、一枝、百葉。』≪と≫。

△按ずるに、一枝≪に≫百葉の竹、未だ、知らず、有りや否や。今、下枝の葉、及≪び≫、中心の梢《こずゑ》を苅り、頂上に、一𠙚《ひとつところ》に、枝葉を遺(のこ)せば、則≪ち≫、甚だ、茂盛《もせい》して、一枝のごとし。「百葉」の≪人の≫作成《つくりな》す者なり。

 

[やぶちゃん注:中文サイトを、複数、見るに、別名を「百叶竹」とし、「酉陽雜俎」の「卷十八」の「廣動植之三」に、『百葉竹、一枝百葉、有毒。』と載る。東洋文庫の今村与志雄訳注には、注がない。一方、「故事類苑」で検索すると、「植物部十一」に、「書言字考節用集」の「六 生植」を引いて、『長間竹(シノベタケ《右ルビ》/シノタケ《左ルビ》) 百葉竹(同《右ルビ》) 篠(シノ《右ルビ》) 細竹(同《右ルビ》)【万葉】』とある(PDF)。この「シノ」を「篠」とすると、「篠竹」で広義には。根笹の総称であるが(「万葉集」の「しの」は、それが候補とされてある)、現行では、狭義に単子葉植物門イネ目イネ科タケ亜科メダケ属メダケ Pleioblastus Simonii を指す。しかし、三項目後に「篠竹」が出るので、違う。結局、「判らない」と言わざるを得ない。

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 暴節竹

 

Hoteitiku

 

こさんちく  虎攅竹【俗】

暴節竹

 

 

[やぶちゃん注:項目標題部の以上の「暴」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、通常の「暴」とした。本文では「暴」である。]

 

本綱暴節竹出蜀中【今之四川】高節𥗼砢卽筇竹也

△按出於日向佐渡原有名虎攅竹者高五六尺其葉小

 自根上一尺許閒有節七八數𥗬砢甚奇也卽筇竹良

[やぶちゃん字注:後で良安が言っているが、「𥗼」と「𥗬」は別字である。]

 恨稍瘦細性不勁是所謂暴節竹乎【𥗬本作磊𥗬砢衆石貌也𥗼當作𥗬】

 

   *

 

こさんちく  虎攅竹【俗。】。

暴節竹

 

 

「本綱」に曰はく、『暴節竹は蜀中』【今の四川。】『に出づ。高≪き≫節≪にして≫、𥗼砢《くれぐれ》[やぶちゃん注:ゴツゴツとして曲がっていること。]なり。卽ち、「筇竹(つえ《だけ》)」なり。』≪と≫。

△按ずるに、日向≪の≫佐渡原《さどわら》より出《いづ》る「虎攅竹(こさん《ちく》)」と名づくる者、有り。高さ、五、六尺。其の葉、小《ちいさく》、根より上、一尺許《ばかり》の閒《あひだ》、節、有り、七、八數《しち、やかず》、𥗬砢《くれぐれ》≪として≫甚だ奇なり。卽ち筇竹(つへ《たけ》[やぶちゃん注:ママ。「杖(つゑ)竹」。])に良し。恨《うらむ》らくは、稍《やや》、瘦細《さうさい》して、性、勁《つよ》からざることを。是れ、所-謂《いはゆ》る、「暴節竹」か【「𥗬《ライ》」は、本《もと》、「磊《ライ》」に作る。「𥗬砢」は衆石《しゆせき》の貌《ばう》なり[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『一般的な石の貌(さま)である』とある。]「𥗼」は、當に「𥗬」に作るべし。】。

 

[やぶちゃん注:先行する「竹」で、私は、これに、『マダケ属ホテイチク Phyllostachys aurea を挙げたい』とし、当該ウィキ『にある「ホテイチクの根元付近の稈」の画像は「暴節」「𥗼阿」と言うに相応しくはなかろうか?』と述べた。而して、この挿絵を見るに、やはり、ホテイチク(布袋竹)であると断定するものである。そこで、複数の引用をしたので、ここでは繰り返さないから、そちらを見られたい。

 「本草綱目」の引用は、基本、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の中で続く「木之五」の「苞木類」の「竹」の「集解」の[090-20b]の部分引用である。

「筇竹(つえ《だけ》)」この「筇」(音「キヨウ(キョウ)」は中国語で、古書に「つえに用いられる竹」の意である。

「日向≪の≫佐渡原」現在の宮崎県宮崎市佐土原町(さどわらちょう:旧宮崎郡佐渡原町。グーグル・マップ・データ)。

「虎攅竹(こさん《ちく》)」良安先生、大正解です! これは、植物「ホテイチク」の異名です。学名は、Phyllostachys aurea で、原産は、中国の長江流域、又は、浙江省・福建省の山地とされ、黄河以南の山野に分布する。また、ベトナムでは、バックカン省などの北部にも分布する。本邦や台湾などにも移入されて自生化しています。個人ブログ「宮崎の食を楽しむ」の「布袋竹(ホテイチク)(通称:コサンダケ)をいただきました」に、『もともとは長江流域が原産の外来種というのが意外なほど、日本の風土や景観にマッチしていますね』。『コサンダケ(小桟竹・虎山竹・五三竹)の名前は、主に南九州での通称だそうで』すとされ、『短く詰まった節の間がぽっこり膨らんでいる特徴が「布袋様のお腹を彷彿とさせる」ところからホテイチクという名称がついたとのこと』。『アク抜きの必要がないほど手間いらずの食材で、ありがたい限りです。』とあった。

『「𥗬《ライ》」は、本《もと》、「磊《ライ》」に作る。「𥗬砢」は衆石《しゆせき》の貌《ばう》なり。「𥗼」は、當に「𥗬」に作るべし』良安先生、これは鬼の首を獲ったようにおっしゃっておられますが、残念ですねぇ、違います。「𥗬」は「石がごろごろしているさま」で、「磊」と同義であり(別に「大きな石がごろごろと折り重なっているさま」の意もある)、「𥗼」も、「石がごろごろと折り重なっているさま」であって、「𥗬」と同義ですよ。

「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」に芥川龍之介の短冊「わが庭は枯れ山吹の靑枝のむら立つなへに時雨ふるなり」の画像を追加

サイトの「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」(横書版の方のみ)に芥川龍之介の自筆短冊「わが庭は枯れ山吹の靑枝のむら立つなへに時雨ふるなり」の画像を追加した。


Waganihahakareyamabukino

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 䇞竹

  

Kuretake

 

くれたけ  呉竹

      【和名久禮太計】

䇞竹

     【初來於吳國而名

      之乎又有漢竹唐

      竹等皆異品也】

 

文字集略云䇞竹似䈽而節茂葉滋者也吉田兼好云呉

竹葉細河竹葉濶

△按䇞【音甘】實中竹也本草無䇞竹者今𢴃倭名抄則淡竹

 之類小細黃潤長不過尺人多植庭院可以爲杖或爲

 格子櫺子佳

[やぶちゃん字注:「櫺」は(つくり)の下部が「皿」になっているが、そんな異体字はないので、「櫺」とした。]

 

   *

 

くれたけ  呉竹

      【和名、「久禮太計」。】

䇞竹

     【初め、吳の國より來《きたり》て、
      之≪れを≫名づくるか。又、「漢竹
      《からたけ》」・「唐竹《からたけ》」
      等、有≪るも≫、皆、異品なり。】

 

「文字集略」に云はく、『䇞竹《かんちく》、䈽≪竹≫《きんちく》に似て、節、茂く、葉≪も又≫、滋《しげ》き者なり。』≪と≫。吉田の兼好が、云はく、『呉竹は、葉、細く、河竹は、葉、濶《ひろ》し。』≪と≫。

△按ずるに、䇞【音、「甘」。】≪は≫、實中《ぢつちゆう》[やぶちゃん注:中がしっかりと詰まっていること。]の竹なり。「本草≪綱目≫」≪には≫、「䇞竹」と云ふ者[やぶちゃん注:「云」は送り仮名にある。]、無し。今、「倭名抄」に𢴃《よ》≪らば≫、則《すなはち》、「淡竹」の類《るゐ》にして、小《ちさ》く、細く、黃潤《わうじゆん》≪たり≫。長さ、尺に過ぎず。人、多《おほく》、庭院に植《うう》。以つて杖と爲《なし》、或いは、格子の櫺子《れんじ》と爲して、佳し。

 

[やぶちゃん注:この「竹」は、総合的に見て、前の「竹」に出た、「淡竹(はちく)」、則ち、

マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis 

とするのが一般的である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『淡竹、甘竹』で、『中国原産の竹の一種。黄河流域以南に広く分布する。日本ではモウソウチク』( Phyllostachys heterocycla f. pubescence :中国原産。本邦には十八世紀に移入された)『やマダケ』( Phyllostachys reticulata :中国南部からミャンマーにかけて自生し、長く中国原産とされてきたが、日本国内の化石が発見され、本邦のものは日本原産とする説が有力である)『とともに日本三大有用竹に数えられている』。『別名アワダケ、呉竹(くれたけ)』。『中国原産の多年生常緑植物で、直径は』三~十『センチ、高さは』十~十五『メートル』。『モウソウチクの節は一輪状であるのに対し、マダケやハチクは節が二輪状である』。『マダケとの区別では、ハチクは全体的に色が白く』、二『本ある節の隆起線は低く黒っぽいのが特徴である』。『開花周期は、マダケなどと同様に約』百二十『年とされており、開花後は一斉に枯死することが知られている。開花後に枯れてしまう現象は他の竹類にもみられるが、モウソウチクの場合には開花すると地下茎まで枯れてしまうのに対し、ハチクは地上部分は枯死しても地下茎は枯れないものがかなりあるとされ違いがある』。『マダケに比べて強靭さは劣るが』、『割り竹には適している。茶筅にするには竹材の先端を』八十『から』百二十『等分する必要があるが、割り竹に適したハチクの特権といわれている。茶道用具では花器にも利用される。枝が細かく分枝するため』、『竹箒としても利用される。正倉院の呉竹笙、呉竹竿、彫刻尺八、天平宝物の筆などはハチク製と鑑定されている。また、内側の薄皮は竹紙と呼ばれ、笛の響孔に張り』、『音の響きを良くする』。『ハチクの筍(タケノコ)は、えぐ味がなく』、『美味とされるが、店頭で見かけることは少ない』。『ハチクの稈(茎の部分)の内皮は竹筎・竹茹(チクジョ)、葉は竹葉(チクヨウ)といい生薬として用いられる(いずれも局外生薬)。また、稈を炙ると流れ出る液汁も竹瀝(チクレキ)という生薬として利用されている』とある。最後に出る「竹筎」・「竹茹」・「竹葉」・「竹瀝」は総て、前項の「竹」に出、私の注も附けてある。

「漢竹」・「唐竹」「デジタル大辞泉」は「からたけ」で「幹竹」に当てて、『マダケまたはハチクの別名』とするが、「日本国語大辞典」は『から-たけ【幹竹・唐竹・漢竹】』とし、『「からだけ」とも』として、『①(唐竹・漢竹)昔、中国から渡来した竹。笛などを作る材料とし、また、庭園に植え、生垣などにもした。寒竹(かんちく)のこととされる』とし、引用例を『からたけのこちくの聲も聞かせなんあなうれしとも思ひしるべく」(「古今和歌六帖」(天延四・貞元元(九七六)年~寛和三・永延元(九八七)年頃成立)の「卷五」、及び、「貞丈雑記」(天明三・四(一七八四)年頃成立)の「第十」から、『「から竹」は「漢竹(かんちく)」也。一說に「から」は「簳」にて矢がらにせし竹を筈になす故から「竹」と云(いふ)。されど、此說、惡(あし)し。「唐竹」と記せし書もあれど、「唐」の字は仮字(かりじ)也。』とするが、『②』では、『 植物「まだけ(真竹)」の異名。また、「はちく(淡竹)」の異名』とし、「類聚大補任」の建長四(一二五二)年「又、寳治の比より唐竹枯始て、建長年中諸國竹皆枯失畢。適相殘分九牛一毛云々」とし、更に『③植物「ほていちく(布袋竹)」』( Phyllostachys aurea :原産は、中国の長江流域、又は、浙江省・福建省の山地とされ、黄河以南の山野に分布する。また、ベトナムでは、バックカン省などの北部にも分布する。本邦や台湾などにも移入されて自生化している)『の異名』とする。

「文字集略」東洋文庫の書名注に、『一巻。梁の阮孝緒撰。字書。』とある。

「䈽≪竹≫《きんちく》」前の「竹」の私の「䈽竹」の注で書いたが、再掲すると、調布市の「つゆくさ医院」公式サイト内の「つゆくさONLINE」の「竹葉(チクヨウ)」の記載の中に、『『本草綱目』によると「竹葉」には、「淡竹」「甘竹」「䈽竹(キンチク)」「苦竹」があり、「淡竹」はハチク P. nigra Munro var.henonis Stapf ex Rendle、「甘竹」は淡竹の属、「苦竹」は、マダケ P. bambusoides Siebold et Zuccarini である。すなわち、『名医別録』にある 「淡竹葉」は、ハチクのことを示している。また、『本草綱目』中には、「張仲景、猛詵は、このうち淡竹葉を上とした」という記載があり、古くは、薬用にハチクを重用していたことが伺える。なお、「䈽竹」は『古方薬議』によるとカシロタケがあてられている』とあった(学名が斜体でないのはママ)。この「カシロダケ」というのは、マダケの品種 Phyllostachys bambusoides f. kashirodake である。

「吉田の兼好が、云はく、『呉竹は、葉、細く、河竹は、葉、濶《ひろ》し。』」「徒然草」の第二百段。

   *

 吳竹(くれたけ)は、葉、細く、河竹(かはたけ)は、葉、廣し。御溝(みかは)に近きは河竹、仁壽殿(じじうでん)のかたに寄りて植ゑられたるは、吳竹なり。

   *

古典学では「吳竹(くれたけ)」はハチク、「河竹(かはたけ)」はマダケとする。「御溝(みかは)」「御溝水(みかはみづ)」の略で、一般名詞では「宮中の庭園を流れる溝」を指すが、特に固有名詞として「清涼殿の東庭の同殿に沿って南北に流れる溝」を指す。「仁壽殿(じじうでん)」は清涼殿の西、内裏の中央にある建物。内裏の中央にあるので「中殿」、清涼殿の東に当たるので「東殿」とも称する。当初は、天皇の常の座所であったが、後に常の座所は清涼殿となったため、ここでは、正月の宴会や角力・歌合・御遊(ぎょゆう)が開催された。南の紫宸殿、北の承香殿とは、ともに簀の子で繋がっていた。但し、平安後期には荒廃していた。ハレの普段は使用されない場所は、逆に魔界との通底器となり、「今昔物語集」では、紫宸殿や仁壽殿での怪異が語られている始末である。私の「萬世百物語卷之五 十九、高位の臆病」の注を見られたい。

『今、「倭名抄」に𢴃《よ》≪らば≫、則《すなはち》、「淡竹」の類《るゐ》にして』「和名類聚鈔」の「卷二十」の「草木部第三十二」「竹類第二百四十六」にある。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版を参考に訓読して示す。

   *

䇞竹(くれたけ) 「文字集略」に云はく、『䇞【音「甘」。「楊氏漢語抄」に云はく、『吳竹なり。和語に云ふ、「久礼太介」。】は、䈽に似て、節、茂(しげ)く、葉、滋《しげ》し者なり。

   *]

2024/11/14

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 附 苞木類 竹

 

Take

 

 

  苞木類


たけ   竹字象形

     【和名多計】

     篁 竹聚也

     【太加無

     良】

 

本綱竹不剛不柔非草非木大抵皆土中苞笋各以時而

出旬日落籜而成竹也莖有節節有枝枝有節節有葉葉

必三之枝必兩之根下之枝一爲雄二爲雌雌者生笋其

根鞭喜行東南以五月十三日爲醉日【或以辰日爲佳】此日栽竹

能茂盛也六十年一花花結實其竹則枯竹枯曰䈙竹實

曰𥳇小曰篠大曰簜其中皆虛其外皆圓其性或柔或勁

或滑或濇其幹或長或短或巨或細其色有青有黃有白

有赤有烏有紫有班

實心竹出滇廣 方竹出川蜀 暴節竹出蜀中高節𥗼

[やぶちゃん注:「滇」は「眞」が「真」であるが、表示出来ないので、正字で示した。]

砢卽筇竹也 無節竹出溱州空心直上卽通竹也 篃

竹出荊南一尺數節 笛竹出呉楚一節尺餘 篔䈏竹

出南廣一節近𠀋 由吾竹出交廣長三四𠀋其肉薄可

作屋柱 䈏竹大至數圍其肉厚可爲梁棟 漢竹出雲

南永昌可爲桶斛【五雜組云羅浮巨竹圍二十尺有三十九節節長二𠀋】 𥳍竹可

爲舟船【五雜組云舜林中竹可爲船猺人以大竹爲釜物熟而竹灼也】

[やぶちゃん注:「猺」は、原本では「グリフウィキ」のこれの(へん)の「玉」を「木」或いは「犭」にしたものであるが、表示出来ないので、この字で示した。東洋文庫訳でも、この漢字を使用している。]

 凡竹譜所謂竹六十一種不悉載之而入藥惟用䈽竹

 淡竹苦竹三種【淡竹爲上】


䈽竹  性堅促節體圓而質勁皮白如霜大者宜刺船

 細者可爲笛

淡竹  卽甘竹也似䈽而茂

苦竹  有白有紫其筍味苦

 堀川百首

                         仲實

 いにしへの七の賢き人もみな竹をかさして年そへにける


五雜組云栽竹特不限竹醉日正月一日二月二日直至

十二月十二日皆可栽大要不傷其根多斫枝梢使風不

揺雨後移之土濕昜活竹太盛宻則宜芟之不然則開花

而逾年盡死猶人之瘟疫也

△按竹諸草中長高故名多計本朝亦有數種而今唯淡

 竹苦竹及紫竹筱竹多有之其他植庭院以爲弄耳

苦竹  眞籜竹【和名加波多計】本朝式爲河竹其筍籜紫斑味

 苦辛其竹色靑節間不促大者周一尺六寸長六七𠀋

一種苦竹生痩地者大者三四寸長二𠀋許節高溝㴱以

 爲墻簀或染家爲晒布帛之柵名茂架籬【上畧曰賀里竹】

淡竹  白竹【俗云波知久】其筍籜白味淡甘其竹亦色白節

 間促於苦竹大者四五寸長二三𠀋【此內亦有賀里竹】

䈽竹亦淡竹種類乎未知何竹也其苦竹山州嵯峨豆

 州大島和州內山遠州瑞雲寺豊州筑州皆佳信州木曾山谷絕無之凡北國少

  河竹のなひく葉風に年くれて三世の仏の御名を聞くかな定家

[やぶちゃん注:この一首、第二句は「なひ(=び)く葉風も」が正しい。訓読では訂した。

凡斫竹秋爲勝冬次之如春夏性萌弱而昜蛀俗謂木六

 竹八言伐木六月伐竹八月可也

凡栽竹根埋死猫則良畏皂刺油麻又忌滑海藻以煑汁

 注根則多枯

凡竹作材用時以鰻鱺魚炙薫竹則經年不蛀

 


竹瀝 可用淡竹【苦竹不宜用也】

本綱竹瀝【甘大寒】 治暴中風𦚾中大熱煩悶中風不語痰

[やぶちゃん字注:「𦚾」は「胸」の異体字。]

在經絡四肢及皮裏膜外非此不達不行【薑汁爲之使】產後不

碍虛胎前不損子大抵因風火燥熱而有痰者宜之

 取瀝法以竹作二尺長劈開以磚兩片對立架竹於上

 以火炙出其瀝以盤承之【若寒濕胃虛腸滑之人服之則反傷腸胃】


竹葉 淡竹葉

   【草有淡竹葉者同名異物也】

淡竹葉【辛苦寒】 除新久風邪之煩熱止喘促氣勝上衝

 煎湯洗脫肛不收同根煎洗婦人子宮下脫


竹筎 俗云竹甘膚

   【可用淡竹削去筠取用皮肉閒】

氣味【甘微寒】 治嘔啘吐血鼻衂五痔隔噎傷寒勞復婦人

 胎動小兒熱癇

△按用竹筎綯糾繩爲火繩以爲行人煙草火獵人爲鳥

 銃用勢州鈴鹿關作之者多


竹實 𥳇

   【俗云自然穀】

本綱今竹閒時見開花小白如棗花亦結實如小麥子無

氣味而濇可爲飯食謂之竹米以爲荒年之兆其竹卽死

必非鸞鳳所食者

一種有生苦竹枝上者大如鷄子竹葉層層包之其味甘

 勝𮔉有大毒須以灰汁煑二度煉訖乃茹食煉不熟則

 戟人喉出血手爪盡脫也是此一物恐與竹米之竹實

 不同

古今醫統云竹多年則生米而死初見一根生米則截去

上梢近地三尺通去節灌入犬糞則餘竹不生米也

△按草實有自然穀者如麥也竹實相似之故俗名自然

 穀乎天和壬戌之春紀州熊野及吉野山中竹多結實

 其竹高不過四五尺枝細而皆小篠其實如小麥一房

 數十顆山人每家收數十斛以爲食餌至翌年春夏然

 大資荒年飢而後五穀豊饒米粟價減半予亦直見之

 然則荒年極當爲豊年之時出乎


仙人杖 【草有名仙人杖者枸𣏌亦同名異物】

      苦竹桂竹多生之

[やぶちゃん注:「𣏌」は「杞」の異体字。]

本綱凡筍欲成竹時立死者色黒如𣾰五六月收之

氣味【鹹冷】 治嘔噦反胃吐乳水煮服之小兒驚癎及夜

 啼置身伴𪾶良又燒末服之


  出柔滑菜下

竹變斑㸃法 神仙巧法云磠砂【一錢】青鹽【五分】五倍子

[やぶちゃん注:「鹽」は、「グリフウィキ」の、この異体字の「目」を「臣」とした字体だが、表示出来ないので、通常の「鹽」とした。]

 【三分各細末】用陳醋調隨意㸃在竹子上用火炙乾卽現黒

 斑其功立見㸃假棕竹亦是用此藥


【音託】 笋皮

      【太介乃古乃加波】

△按籜可以織履可以縫笠又堪裹膠飴淡竹籜淡赤乾

 色苦竹籜黃有黑㸃潤色山城嵯峨爲上丹波次之若

 狹豊後亦次之筑前安藝其次也


竹黃 竹膏 天竺黃

本綱竹黃諸竹內所生如黃土着竹成片者徃徃得之今

人多燒諸骨及葛粉等雜之

氣味【甘寒】 治小兒驚風天弔去諸風熱鎭心明目療金

 瘡治中風失音不語小兒客忤癇疾

△按天竹黃卽諸竹三四月斫者經日破裂之內多有天

 竹黃蓋濕熱熾於內暑熟蒸於外自生蛀然乎未見蟲

 形黃粉輕虛者也藥肆取筱竹外節所有黃粉𭀚竹黃

[やぶちゃん注:「𭀚」は「充」の異体字。]

 不可用

一種有竹蛀屎古竹生蠧者內肌食盡有小孔腐爛而生

 白粉此與天竹黃一物異品也瘡癤膿爛者傅之癒

 

   *

 

 《つけた》り

  苞木類《はうぼくるい》


たけ   「竹」の字、形に象《つかさど》る。

     【和名、「多計」。】

     「篁《こう》」は、竹の聚《あつまり》なり。

     【「太加無良《たかむら》」。】

 

「本綱」に曰はく、『竹、剛《つよ》からず、柔《やはらかならず、》草に非《あらず》、木に非《あらず》。大抵、皆、土≪の≫中《なか》≪にて≫、苞《つつまれ》≪たる≫笋《たけのこ》、各《おのおの》、時を以つて、出づ。旬日(とをか[やぶちゃん注:ママ。])、にして、籜(かは)を落《おと》して、竹と成るなり。莖に、節《ふし》、有り、節に枝、有り、枝に、節、有り、節に、葉、有り。葉≪は≫、必≪ず≫、之れ、三《みつ》にして、枝、必≪ず≫、之れ、兩《ふたつ》にす。根の下の枝、一つを、「雄《をす》」と爲≪し≫、二つを、「雌」と爲《なす》。雌は、笋(たけのこ)を生≪じ≫、其の根の鞭《べん》[やぶちゃん注:地下茎。]、喜《よろこび》て、東南に行く。五月十三日を以つて、「醉日《すいじつ》」と爲《なし》【或いは、辰《たつ》の日を以つて、佳と爲す。】、此の日、竹を栽《うゑ》て、能く茂盛《もせい》す。六十年、一たび、花さき、花、實を結ぶ≪も≫、其の竹、則ち、枯《か》る。竹、枯《か》るを、「䈙《ちゆう》」と曰ふ。竹の實(み)を「𥳇(じねんこ)」と曰ふ。小《ちいさ》なるを「篠(さゝ)」と曰ひ、大なるを「簜《たう》」と曰ふ。其の中《なか》、皆、虛(うつろ)≪にして≫、其の外《そと》、皆、圓《まろ》く。其の性、或いは、柔かに、或いは、勁(つよ)く、或いは、滑(なめら)かに、或いは、濇《しぶ》≪し≫。其の幹、或いは、長く、或いは、短く、或いは、巨(ふと)く、或いは、細(《ほ》そ)く、其の色、青、有り、黃、有り、白、有り、赤き、有り、烏(くろ)き、有り、紫、有り、班(まだら)、有り。』≪と≫。

『「實心竹《じつしんちく》」は滇《てん》[やぶちゃん注:現在の(以下、略す)雲南省。]・廣《くわう》[やぶちゃん注:広東省・広西省。]に出づ。』。『「方竹《はうちく》」は川蜀《せんしよく》[やぶちゃん注:四川省。]に出づ。』。『「暴節竹(こさん《ちく》)」は蜀中《しよくちゆう》に出づ。高き節《ふし》、𥗼砢(くれぐれ)[やぶちゃん注:ゴツゴツとして曲がっていること。]とす。卽ち、「筇竹(つゑ《たけ》」[やぶちゃん注:「暴節竹」の異名であるが、実際に杖にすることから。]なり。』。『「無節竹《むせつちく/ラウだけ》」は、溱州《しんしう》[やぶちゃん注:四川省。]に出づ。空心《くうしん》[やぶちゃん注:節が無いこと。]≪にして≫直《ちよく》に上《のぼ》る。卽ち、「通竹《つうちく》」なり。』。『「篃竹(び《ちく》)」は、荊南[やぶちゃん注:湖北省・湖南省。]に出づ。一尺≪に≫數節《すせつ》あり。』。『「笛竹《てきちく》」は、呉楚[やぶちゃん注:江蘇省・浙江省・湖南省・湖北省。]に出づ。一節《ひとふし》、尺餘《あまり》。』。『「篔䈏竹(うんたう《ちく》)」は、南廣《なんくわう》[やぶちゃん注:四川省宜賓(ぎひん)市珙(きょう)県。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。]に出づ。一節、𠀋に近し。』。『「由吾竹《いうごちく》」は、交・廣《かうくわう》[やぶちゃん注:「交」は交州で、現在のヴェトナム南部に当たる。]に出づ。長さ、三、四𠀋。其の肉、薄く、屋《をく》の柱に作《つく》るべし。』。『「䈏竹《ふくちく》」、大いさ、數《す》圍《めぐり》に至る。其の肉、厚くして、梁-棟(ひきもの)[やぶちゃん注:文字通りの家屋の梁(はり)や棟木(むなぎ)であるが、和訓の「ひきもの」は「挽き物」だろうが、これは、「轆轤で挽いたり、旋盤を用いて作られた木器や細工物」を指し、意味が合わず、おかしい。]と爲すべし。』。『「漢竹《かんちく》」は、雲南の永昌[やぶちゃん注:雲南省保山市隆陽区永昌鎮附近。]に出づ。桶(をけ[やぶちゃん注:ママ。])・斛(ます)に爲すべし』。【「五雜組」に云はく、『羅浮(らふ)[やぶちゃん注:広東省に在る名山羅浮山。]の巨竹は、圍り、二十尺。三十九節、有り、節の長さ、二𠀋。≪と≫。】[やぶちゃん注:この割注は良安による挿入である。]。『「𥳍竹《じんちく》」は、舟船(しうせん)に爲すべし。』。【「五雜組」に云はく、『舜林《しゆんりん》[やぶちゃん注:東洋文庫の後注に、『『山海経』大荒北経に載っている帝舜(俊)の竹林。俊(俊)とは古代の聖帝の舜のこととも、またそれ以前の黄帝の孫の顓頊のことともいう。』とある。]中《ちゆう》の竹、船と爲すべし。猺人《えうじん》、大竹《おほだけ》を以つて、釜と爲す。物、≪煮(に)≫熟して、竹、灼《や》けず≪と≫なり』≪と≫。】[やぶちゃん注:同前で、良安の挿入。]。

 凡そ、「竹譜」の謂ふ所の竹、六十一種、悉く≪は≫、之れを、載せずして、『藥に入《いる》る≪竹≫』≪として、≫惟《ただ》、』「䈽竹」・「淡竹」・「苦竹」の三種を用ふ≪とするのみ≫【『「淡竹」を上と爲《な》す』と≪せり≫。】[やぶちゃん注:これも「本草綱目」にはないので、良安の附言である。]


『䈽竹(きん《ちく》)は』、 『性、堅く、促(みじか)き節、體《たい》、圓《まろく》して、質、勁(つよ)く、皮、白≪くして≫、霜のごとし。大なる者、宜しく、船を刺(さ)す≪棹に作る≫べし。細き者は、笛と爲すべし。』≪と≫。

『淡竹』≪は≫、 『卽ち、「甘竹」なり。「䈽≪竹≫」に似て、茂る。』≪と≫。

『苦竹は』、 『白、有り、紫、有り。其の筍《たけのこ》、味、苦《にがし》。』≪と≫。

 「堀川百首」

               仲實

 いにしへの

   七《しち》の賢《かしこ》き

  人もみな

     竹をかざして

          年《とし》そへにける


「五雜組」に云はく、『竹を栽《うゑる》に、特《ひと》り[やぶちゃん注:「特に」「とりわけ」の意。]、「竹醉日《ちくすゐじつ》」[やぶちゃん注:陰暦五月十三日の称。俗説に、「移植が難しい竹を、この日に植えるとよく繁茂する」とする。「竹迷日」「ちくすいにち」。「遠州茶道宗家公式サイト」の「竹酔日(ちくすいび)」によれば、中国の古書に、「この日は、竹が酒に酔っていて、移植されたことに気づかないため。」と記されていたことに由来するらしいが。根拠は不明。また、この日に竹を移植出来なくても、「五月十三日」と書いた紙を竹に貼るだけでも、同じの効果が得られるとされる、とあった。]に限らず、正月一日、二月二日、直ちに[やぶちゃん注:ここは「各月直ちに=順次に」の意。]、十二月十二日に至《いたり》、皆、栽うべし。大要《だいえう》[やぶちゃん注:大よそ。]、傷(そこな)はず≪して≫、其の根、多《おほく》、枝・梢を斫《き》り、風をして揺《ゆるが》されざる《樣に》せしめ、雨後に、之れを、移せば、土、濕(しめ)りて、活《いか》し昜《やす》し。竹、太くして、盛宻なる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち、宜しく、之れを、芟(か)る[やぶちゃん注:「刈る」に同じ。]べし。然らざる時は[やぶちゃん注:「時」は同前。]、則ち、花を開きて、年を逾(こ)へ[やぶちゃん注:ママ。]て、盡く、死《しぬ》る。猶を[やぶちゃん注:ママ。]、人の瘟疫《おんえき》[やぶちゃん注:流行病。]のごときなり。』≪と≫。

△按ずるに、竹は、諸草の中《うち》、長(たけ)、高し。故に、「多計《たけ》」と名づく。本朝にも亦、數種、有りて、今、唯《ただ》、「淡竹(はちく)」・「苦竹(まだけ)」、及び「紫竹(しちく)」・「筱竹(なよ《たけ》)」、多く、之れ、有り。其の他は、庭院に植《うゑ》て、以つて、弄《もてあそび》と爲すのみ。

苦竹(またけ)は、  眞籜竹(まかは《たけ》)なり【和名「加波多計《かはたけ》」。】。「本朝式」[やぶちゃん注:「延喜式」。]、「河竹」と爲《なす》。其の筍《たけのこ》の籜(かは)、紫斑《むらさきまだら》、味、苦、辛。其の竹、色、靑。節の間《あひだ》、促《みぢか》≪なら≫ず。大≪なる≫者、周(まは)り、一尺六寸、長《たけ》、六、七𠀋。

一種の「苦竹」≪は≫、痩地に生ずる者≪にして≫、大≪なる≫者、三、四寸。長、二𠀋許《ばかり》、節、高く、溝《みぞ》、㴱《ふかく》、以つて、墻(かき)・簀(す)に爲《つく》り、或いは、染家《そめや》、布帛《ふはく》を晒《さら》す柵《さく/たな》と爲し、「茂架籬(もかり)」と名づく【上を畧して、「賀里竹《かりだけ》」と曰ふ。】。

淡竹《は》、  白竹(はくちく)なり【俗、云ふ、「波知久《はちく》。」。】。其の筍≪の≫籜《かは》、白く、味、淡《あはく》甘し。其の竹も亦、色、白く節≪の≫間、「苦竹《まだけ》」より促《みじか》く、大≪なる≫者、四、五寸。長《たけ》、二、三𠀋【此の內《うち》にも亦、「賀里竹」、有り。】。

䈽竹《きんちく》≪も≫亦、「淡竹《はちく》」の種類か。未だ何竹《なにたけ》と云ふことを、知らざるなり。其の「苦竹《まだけ》」、山州の嵯峨・豆州《づしう》大島・和州の內山《うちやま》[やぶちゃん注:現在の奈良県天理市杣之内町(そまのうちちょう)の旧名。]・遠州瑞雲寺[やぶちゃん注:現在の静岡県浜松市中央区佐藤にある曹洞宗龍珠山(りゅうじゆざん)瑞雲寺附近。]・豊州・筑州、皆、佳《よ》し。信州木曾の山谷には、絕《たえ》て、之れ、無し。凡《すべ》て、北國《ほくこく》には少なし[やぶちゃん注:後注で考証するが、この最後の謂いは不審である。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys reticulata は、青森県を北限としており、現在も植生しているからである。]。

  河竹《かはたけ》の

     なびく葉風《はかぜ》も

   年《とし》くれて

    三世《みよ》の仏《ほとけ》の

      御名《みな》を聞くかな 定家

凡そ、竹を斫《き》るに、秋を勝(すぐ)れりと爲す。冬、之れに次ぐ。春・夏のごときは、性、萌《めばへ》、弱《よはく》して、蛀(むし、いり)昜《やす》し。俗、「木六、竹八。」と謂ふ。言ふ心は[やぶちゃん注:「心」は送り仮名にある。]、木を伐るには、六月、竹に《✕→を》伐るには、八月、可なり。

凡そ、竹を栽《うう》るには、根に、死≪せる≫猫を、埋(うづ)みて、則ち、良し。「皂-刺《さいかち》」・「油-麻《ごま》」を畏《おそ》る。又、「滑海藻(あらめ)」を忌《い》む。≪滑海藻の≫煑汁を以つて、根に注げば、則ち、多《おほく》は枯《か》る。

凡そ、竹、材用に作《つく》る時、「鰻--魚(うなぎ)」を以つて、炙《あぶ》りて、薫(ふす)ぶれば、竹、則ち、年を經て、蛀(むしく)はず。

 


竹瀝(ちくれき) 「淡竹《はちく》」を用ふ【「苦竹《まだけ》」は、用に宜しからざるなり。】。

「本綱」に曰はく、『竹瀝【甘、大寒。】 暴《はげしき》中風《ちゆうぶ》・𦚾《むね》の中《なか》≪の≫大熱・煩悶・中風の不語《ふご》[やぶちゃん注:重度の言語障害。]を治す。痰、經絡≪の≫四肢、及び、皮裏《かはのうち》≪の≫膜≪の≫外《そと》に在れば≪良きなれども≫、此れに非ざれば、≪藥、≫達せず、行(めぐ)らず【薑汁《しやうがじる》を之れの使《し》[やぶちゃん注:補助薬。]と爲す。】。產後≪の≫虛《きよ》に、碍(さはり)あらず、胎前の子[やぶちゃん注:出産する前の胎児。]を損せず。大抵、風火燥熱《ふうくわさうねつ》≪に≫因《より》て、痰、有る者、之れ、宜《よろ》し。』≪と≫。[やぶちゃん注:「𦚾」は「胸」の異体字。「竹瀝」マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis の稈(かん:竹の幹)を炙って流れ出る液汁。竹炭製品・炭化装置・蒸留装置の製造・販売を事業とする「株式会社 夢大地」公式サイト内の「竹瀝(ちくれき)」に『竹から収集されるとても貴重な成分で、一般的な作り方は、イネ科ハチク』 Phyllostachys nigra の『青竹の茎を火であぶって流れ出た液汁を竹瀝という。新鮮な竹棹を縦に割って火であぶると』、『両端から液が流れ出る。竹瀝はこれを集めたもので、青黄色ないし黄褐色の透明な液体で焦げた臭いがある。成分には、酢酸・ポリフェノール・クレオソール』(creosol4-メチルグアヤコール(4-methylguaiacol))・『ビタミンK・クロロフィルの他に』三百『種類以上の成分を含み高い抗酸化作用を有する』。『漢方では清熱化瘀・定驚・通竅の効能があり、痰家の聖薬といわれ、脳卒中や癲癇、ひきつけ、熱病、肺炎などで咽に痰の音がして胸が苦しいときに用いる。単独で服用させたり、生姜汁などと混ぜて服用する。また丸剤や膏剤として用いることが多い』。『熱病で粘調稠』(ねんちょうちゅう:粘り気のある痰を出すことか)『のあるときや』、『意識状態が混濁しているときに生姜汁・青礞石』(せいぼうせき:点紋緑泥片岩に曹長石が混じた岩石)『などと配合する(竹瀝達痰丸)。竹瀝は入手が困難なため、天竺黄』(本項で後掲される)『で代用することもあるそうですが、竹瀝は天竺黄よりも痰を除く作用が強いといわれています』とある。]

『「瀝」を取る法。竹を以つて、二尺の長さに作り、劈開《きりひらき》、磚(かはら)を以つて、兩片を對立し、竹を上に架《か》く。火を以つて、炙り、其の瀝を出《いだ》し、盤(さら)を以つて、之れを承《う》く【若《も》し、「寒濕胃《かんしつい》」・「虛腸滑《きよちやうかつ》」の人、之れを服せば、則ち、反《かへり》て、腸胃を傷《いた》む。】。』≪と≫。[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、「寒濕胃」には、『(体内の湿濁によって胃が苦しめられ、脹(ふく)れたり』、『浮腫となったりの症があらわれる)』とあり、「虛腸滑」には、『(白い粘液を伴った下痢の症)』とある。]

 


竹葉(たけのは) 淡竹葉《たんちくやう》

   【草に「淡竹葉」と云ふ者、有り。同名異物なり。】

『淡竹葉【辛苦、寒。】 新・久《きう》の風邪の煩熱《はんねつ》[やぶちゃん注:発熱して苦しむこと。その激しい熱症状を指す。]を除き、喘促氣勝《ぜんそくきしやう》の上衝《じやうしよう》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『はげしく上につきあげてくる症)』とある。]を止め、湯に煎《せんじ》≪て≫、收《をさま》らざる脫肛を洗≪ふ≫。根と同じく、煎じて婦人子宮の下脫するを洗ふ。』≪と≫。


竹筎(ちくじよ) 俗、云ふ、「竹の甘膚(あまはだ)」。

   【淡竹《はちく》を用ふべし。削去《けずりさり》て筠《かは》を皮肉《ひにく》の閒《あひだ》を取≪りて≫、用ふ。】

『氣味【甘、微寒。】 嘔啘《おうゑん》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(嘔血か。嘔血は嘔吐とともに血を吐くこと)』とある。]・吐血・鼻衂(はなぢ)・五痔[やぶちゃん注:先行する「丁子」で既出既注。]・隔噎《かくいつ》[やぶちゃん注:先行する「楊櫨」の東洋文庫の割注に、『(食物がつかえてのどを通らない症)』とある。]・傷寒[やぶちゃん注:漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、具体には、「高熱を発する腸チフスの類の症状」を指すとされる。]・勞復《らうふく》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『(治った病が過度の疲労により再発すること)』とある。]・婦人≪の≫胎動[やぶちゃん注:通常より異常な胎動を指す。]・小兒≪の≫熱癇[やぶちゃん注:これは小児の「瘧(おこり)」で、概ね、熱性マラリアを指す。]を治す。』≪と≫。

△按ずるに、竹筎を用≪ひ≫て、糾繩(みつぐみのなは)[やぶちゃん注:「三つ組みの繩」か。後の「ミ」が異様に小さいので、暫く判読出来なかった。]に綯(な)ひ、火繩《ひなは》と爲して、以≪つて≫、行人《かうじん》の煙草(たばこ)の火、獵人《かりうど》≪の≫鳥-銃(てつぽう)の用と爲す。勢州鈴鹿(すゞか)の關に、之れ、作る者、多し。


竹實(たけのみ) 𥳇《ふく》

   【俗、云ふ、「自然穀(じねんこ)」。】

「本綱」に曰はく、『今、竹≪の≫閒《あひだ》に、時(ときどき)、花を開くを見る。小≪さく≫白《しろく》「棗(なつめ)」の花のごとく、亦、實《み》を結ぶ。小麥の子《たね》のごとし。氣味、無くして、濇《しぶ》る。飯《めし》と爲《な》≪して≫、食ふべし。之れを、「竹米《ちくまい/たけのこめ》」と謂《いふ》。以≪つて≫、「荒年の兆《きざし》」と爲す。其の竹、卽ち、死《か》る[やぶちゃん注:「枯る」と同義。]。必《かならず》、鸞《らん》・鳳《ほう》の食ふ所≪の≫者にも、非ず。』≪と≫。

『一種、「苦竹《まだけ》」の枝≪の≫上に生ずる者、有《あり》。大いさ、鷄子(たまご)のごとく、竹≪の≫葉、層層として、之れを包《つつむ》。其の味、甘《あまく》して、𮔉《みつ》に勝れり。大毒、有り。須《すべから》く、灰-汁(あく)を以つて煑ること、二度、煉《ね》り訖《をはり》て、乃《すなはち》、茹《ゆで》、食ふ。煉ること、熟せざる時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、人の喉《のど》を戟《さ》す。血を出《いだし、》手の爪、盡く、脫(ぬ)けるなり。是れは、此《これ》、≪別の≫一物≪にして≫、恐らくは、「竹米」の竹≪の≫實と≪は≫、同《おなじ》からず。』≪と≫。

「古今醫統」云はく、『竹、多年なれば、則《すなはち》、米を生じて、死《か》る。初め、一根、米を生《しやうず》るを見る時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則《すなはち》、上の梢を截り去《さり》、地に近き三尺≪まで≫、通《とほ》して、節を去り、犬の糞を灌入(そゝぎ《いる》)れば、則《すなはち》、餘≪の≫竹、米を生ぜざるなり。』≪と≫。

△按ずるに、草の實に有「自然穀《じねんこ》」と云ふ者、有《あり》。麥と《✕→の》ごとし。竹≪の≫實、之れに、相似《あひに》たり。故、俗、「自然穀」と名づくか。天和壬戌《みづのえいぬ》の春[やぶちゃん注:一六八二年一月二十八日から四月二十六日まで。]、紀州熊野、及び、吉野山中、竹、多《おほく》、實≪を≫結ぶ。其の竹、高さ、四、五尺に過ぎず、枝、細くして、皆、小篠(こざゝ)≪なりき≫。其の實、小麥のごとく、一房《ひとふさ》、數十顆《すじふくわ》。山人、家《いへ》每《ごと》に、數十斛《しじふこく》[やぶちゃん注:六掛けで一万リットル強。約一升瓶六千本相当。]を收めて、以≪つて≫、食餌《しよくじ》と爲《なす》。翌年、春、夏に至《いたり》ても、然《しか》り。大《おほき》に荒年《くわうねん》の飢(うへ[やぶちゃん注:ママ。])を資(たす)く。後《のち》、五穀、豊饒(ぶによう)にして、米・粟《あは》、價ひ、半《なかば》に減ず。予≪も≫亦、直《ぢか》に之れを見る。然《さ》れば、則《すなはち》、荒年、極《きはま》つて、當に豊年と爲るべきの時、出《いづ》るか。


仙人杖(たけのこのとまり) 【草に「仙人杖」と名づく者、有り。枸-𣏌《くこ》も亦、名、同じくして、異物なり。】

      『「苦竹《まだけ》」・「桂竹《けいちく》」、多≪く≫、之れを生≪ず≫。』≪と≫。[やぶちゃん注:以上は「本草綱目」の「仙人杖」の引用。前の割注も「異物也」以外は同一の文字列である。而して、「桂竹」は、本邦には自生しない中国及び台湾産のタイワンマダケ Phyllostachys makinoi である。

「本綱」に曰はく、『凡《およそ》、筍(たけのこ)、竹と成《なら》んと欲する時、立《ただち》に、死《か》る者、色、黒きこと、𣾰《うるし》のごとし。五、六月、之れを收《おさめとる》。』。

『氣味【鹹、冷。】 嘔噦《おうえつ》[やぶちゃん注:吐き気。東洋文庫訳はルビで『からえづき』と振る。吐き気はするが、物も血も出ない様態である。]・反胃《はんい》[やぶちゃん注:「東洋文庫の、この「仙人杖」の直後の後注を配し、『(治った病が過度の疲労により再発すること)』とある。]、吐乳《とにゆう》≪には≫、水煮《みづに》して、之れを服す。《✕→し、》小兒≪の≫驚癎、及び、夜啼を治す。身≪に≫伴《とも》に置けば、𪾶《ねむり》を良≪くす≫。又、燒末《しやうまつ》して、之れを服す。』≪と≫。

[やぶちゃん注:後注で示すが、この「仙人杖」とは、前掲のマダケが、子嚢菌門Diaporthe 目の近年発見された新たな菌種に感染して発症した「黒色立枯病」(こくしょくたちがれびょう)に罹患した枯死個体を指すものである。


(たけのこ)  「柔滑菜《じうかつさい》」の下《もと》に出《いづ》。

竹を斑㸃に變ずる法。 「神仙巧法」に云はく、『磠砂《けんしや》【一錢[やぶちゃん注:三・七三グラム。]。】・青鹽《せいえん》【五分《ぶ》[やぶちゃん注:一・八七グラム。]。】・五倍子《ふし》【三分[やぶちゃん注:一・一二グラム。]。各《おのおの》、細末≪とす≫。】陳(ふる)き醋(す)を用≪ひて≫、調へ、意に隨《したがひ》て、竹子《たけのこ》の上に㸃じ在(お)き、火を用《もちひ》、炙《あぶ》り乾《かはか》せば、卽≪ち≫、黒斑を現ず。其の効、立処《たちどころ》に見る[やぶちゃん注:「処」は送り仮名にある。]。棕竹(しゆろ《ちく》)を㸃假《てんか》[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(斑点をつけることか)』とある。]するに、亦、是れ、此の藥を用ふ。』≪と≫。

[やぶちゃん注:『「柔滑菜《じうかつさい》」の下《もと》に出《いづ》』これは、「本草綱目」ではなく(実際に「本草綱目」には「卷二十七」の「菜之二」の「柔滑類」があるが(「漢籍リポジトリ」のここ[069-45a]以下にある「竹筍」だが、ここに書かれている内容は記されていない)、良安の「和漢三才圖會」の「卷第百二」の「柔滑類」の「筍」を指しているので注意されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部をリンクさせておく。「神仙巧法」東洋文庫の「書名注」に『不詳』とする。「磠砂」塩化アンモニウム(NH4Cl)の古名。食品添加物。「五倍子《ふし》」白膠木(ぬるで:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis の虫癭(ちゅうえい)。当該ウィキに、『葉にできた虫』癭『を五倍子(ごばいし/ふし)という。お歯黒の材料にしたり、材は細工物や護摩を焚くのに使われる』とある。グーグル画像検索「ヌルデの虫癭」をリンクしておく。「青鹽」平凡社「世界大百科事典」の「青白塩」に、『黄河オルドス』(現在のオルドス盆地、又は、陝甘寧盆地と呼ばれる広域。中国の陝西省・甘粛省・寧夏回族自治区・山西省・内モンゴル自治区に跨る地域)『の内陸乾燥地の湖でとれる塩。陝西と寧夏の境域』、『塩州五原付近には』『烏池(うち)』・『白池など多数の内陸塩湖があり』、『その色合いから青塩』、『白塩と呼ぶ良質の塩を産した。唐から宋初にかけて』、『この一帯に住むタングート(党項)族は』、『これを中国向けの主要な貿易品としてきた』とあった。]


(たけのかは)【音「託」。】 笋《イン/たけのこ》の皮《かは》

      【「太介乃古乃加波《たけのこのかは》」。】

△按ずるに、籜、以≪つて≫、履《ざうり》に織るべし。笠に縫亦ふべし。又、「膠飴(ぢわうせん)」を裹《つつ》むに堪《たへ》たり。淡竹《はちく》の籜は、淡赤≪の≫乾《かは》き色。苦竹《まだけ》の籜は、黃≪にして≫、黑㸃、有《あり》て、潤色《じゆんしよく》。山城嵯峨を上《じやう》と爲≪し≫、丹波、之れに次ぐ。若狹・豊後、亦、之れに次ぐ。筑前・安藝、其の次なり。

[やぶちゃん注:「膠飴(ぢわうせん)」「地黃煎」である。この場合は、「水飴」(みずあめ)のことである。漢方の地黄(解説すると長くなるので、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 枸杞蟲」の私の注を見られたい)を煎じたものに、水飴を混ぜて、飲み易くしたのが元で、後にただの水飴や、竹の皮に引き伸ばした飴(今の「笹飴」)や、固形の飴の名称となったものである。]


竹黃(ちくわう) 竹膏《ちくかう》 天竺黃《てんじくわう》

「本綱」に曰はく、『竹黃は、諸竹の內に、生ずる所、黃土(わうど)のごとく、竹に着《つき》て、片を成《なす》者、徃徃《わうわう》、之れを、得。今≪の≫人、多《おほく》、燒《やき》て、諸骨、及び、葛粉《くずこ》等を、之に雜(まぜ)る。』≪と≫。

『氣味【甘、寒。】』 『小兒の驚風[やぶちゃん注:ひきつけ。]・天弔(てんちやう)[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『天釣(てんちょう)とも書く。心肺の積熱によって生ずるひきつけの一種。また脳脊髄炎で眼球がそりかえったり、手がひきつる症。』とある。]を治す。諸風熱を去り、心を鎭(しづ)め、目を明《あきらか》にし、金瘡を療ず。中風《ちゆうぶ》≪の≫失音・不語、小兒≪の≫客忤癇疾《きやくごかんしつ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳の割注に、『不意に人やものに恐れおびえて、ひきつけのような症状を呈するもの。』とある。]を治す。』≪と≫。

△按ずるに、天竹黃《てんぢくわう》は、卽《すなはち》、諸竹、三、四月、斫《き》る者、日を經て、之れを破裂《やぶりさ》くに、內に、多《おほく》は、天竹黃、有り。蓋し、濕熱、內に熾《さかん》≪にして≫、暑熟、外より蒸《む》せて、自《おのづから》、蛀《むしくひ》を生じて、然《しか》るか。未だ蟲の形を見ず。黃粉≪にして≫輕虛なる者なり。藥肆《やくし》に、「筱竹(しの《だけ》)」の外の節《ふし》に有る所の黃粉《わうふん》を取《とり》て、「竹黃」に𭀚(あ)つ≪る事あれども、其れ、≫用ふべからず。

一種、「竹の蛀屎(むし《くそ》)」、有り。古竹《ふるだけ》≪の≫蠧《きくひむし》を生≪ぜし≫者、內肌《ないひ》、食盡《くひつく》≪され≫、小孔《しやうこう》有り、腐爛して、白≪き≫粉を生《しやうず》。此≪れ≫、「天竹黃」と≪同≫一≪なる如き≫物≪なるも≫異品なり。瘡-癤《かさ》≪の≫膿爛《うみただれ》≪たる≫者、之れを傅《つけ》て、癒《いゆ》。

[やぶちゃん注:「竹黄」後注するが、これは、竹の竹の枝先に寄生した菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門クロイボタケ綱プレオスポラ亜綱Pleosporomycetidaeプレオスポラ目 Pleosporales(所属科未確定= Incertae sedis:インケルタエ・セディス))マダケ赤団子病菌 Shiraia bambusicola によって生じた、枝を巻き込むような、見た目はかなりグロテスクな塊り(結節)を指す。とある中文サイトでは「竹の結石」と表現していた。

 

[やぶちゃん注:本電子化注には、食事と家の仕事、及び、通院の時間を除き、実働は、間違いなく、七十時間を有に越えた「植物部プロジェクト」始動以来、最大の難物であった。それだけに、細部に慎重な再校正を施した。また、通常より長いため、読者の便を考え、訓読文の中への割注を普段より、かなり多くしてある。これは、

単子葉植物綱イネ目 Poales イネ科 Poaceae タケ亜科 Bambusioideae タケ連 Bambuseae のタケ・ササ類

の総論である。無論、「本草綱目」の引用する竹には、本邦に自生しない種が多くあるものと思うが(「維基百科」の「竹族」Bambuseaeの漢名属リストの何んと多いことか!)、特に漢名のみのもの、また、和名が同じでも、異なる種であると疑わられるもの以外は、同定比定考証はしなかった。

当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『竹(タケ)は、広義には、イネ目イネ科タケ亜科』Bambusoideae『に属する植物のうち、木本(木)のように茎(稈)が木質化する種の総称』である。『本項では便宜上、狭義のタケを「タケ」、広義のタケを「タケ類」と表し、タケ類全体について述べる。ただし、「タケ類」はタケ亜科、あるいは狭義のタケの意味で使われることもあるので、注意を要する。漢字の「竹」は人文・産業的な文脈に限って用いる。竹は英語でbambooであるが、「バンブー」と「竹」は狭義の意味で区別されるので注意が必要である』。『タケは気候が温暖で湿潤な地域に分布し、アジアの温帯・熱帯地域に多い。ササは寒冷地にも自生する。タケ、ササの分布は北は樺太から南はオーストラリアの北部、西はインド亜大陸からヒマラヤ地域、またはアフリカ中部にも及ぶ。北アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカの大部分には見られない』。『稈の丈は代表種であるマダケなどで』二十メートル『を超える。稈はとても強く』、『大きくしなっても簡単には折れない』。『通常は、地下茎を広げ、地下茎からタケノコが直接生えることでふえていく。これは、無性生殖の一種である栄養生殖である。次々とタケノコが生えることによって生息域を広げて竹林となるが、これらの竹はすべて遺伝子が同一のクローンである。このようにしてふえた(』一『本の)竹には寿命があるので、やがて竹林全体が花を咲かせて有性生殖を行い、子孫をつくったのちに一斉に枯死する。花が咲くことは極めてまれで、花が咲くときは』四『月から』五『月にかけてである』(私が初めて見たのは一九六八年三月中旬で、今いる鎌倉(と言っても今の二階の寝室の窓の近くの、それを見た裏山は藤沢市である)から富山に引っ越す直前であった。玉縄小学校を卒業した直後である。実も手で擦りほぐして生で食べた。生憎、味は覚えていない。父が前年から単身赴任しており、不安を抱えていた母は竹の花を見て、不吉な予兆を口にしていたのを思い出す。今も斜面に群生しているが、恐らくは、様態と場所等から、タケ亜科メダケ(雌竹)属メダケ Pleioblastus Simonii と思われる)。『一部のタケ類は周期的に開花し』、『一斉に枯れることが知られている。その周期は極めて長く、ハチク』(淡竹・甘竹:マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis )、『マダケ』(真竹:マダケ属マダケ Phyllostachys reticulata)『の場合は約』百二十『年周期であると推定されている。しかし、まだ周期が分かっていない種類も多い(日本におけるモウソウチク』(孟宗竹:マダケ属モウソウチク Phyllostachys edulis )『の例では、種をまいてから』六十七『年後に一斉に開花・枯死した例が』二『例』(一九一二年と一九七九年/一九三〇年と一九九七年)『報告されている)。竹の種類によって開花周期に幅が見られるが、一般にはおおよそ』六十『年から』百二十『年周期であると考えられている』。『タケ類は成長力が旺盛で、ピークの時は』一『日で』一『メートル以上』、『成長する。生長は極めて早く、マダケではタケノコから成竹になるまで』三十『日という記録がある。竹林の近くにある民家の中に竹が侵入する(タケノコが生える)被害もある。放置された竹林で地滑りの発生が多いという研究も報告があり、事例も複数報告されている。また放置竹林によって山地が覆われ、元々植生していた広葉樹や針葉樹の光合成が妨げられ、生物多様性が損なわれ、結果として森林の減少を招くという問題も起こっており、各地で対策が講じられている』。二〇一七『年、林野庁によると、全国の竹林面積は』二〇〇二『年』で『約』十五『万』六千『ヘクタール』、二〇一七『年』で『約』十六『万』七千『ヘクタールと増え、都道府県別竹林面積は、鹿児島県』一『万』七千九百二十七『ヘクタール、大分県』一『万』四千四十二『ヘクタール、福岡県』一『万』三千六百十九『ヘクタール、山口県』一『万』二千一『ヘクタール、島根県』一『万』千百五十七『ヘクタールなど。竹材の生産は』一九六〇『年は年間約』四十『万トン』であったが、二〇一〇『年』に『は』三『万トンを切った』。『乾燥が十分なされたものは硬さと柔軟さを備えており、古来より様々な用途に使われてきた』。『竹細工の材料、建材などのほか、繊維を利用して竹紙も作られている。竹酢液や竹炭としても利用される。前述した放置竹林の問題においても、これらの素材としての活用を求め、様々な研究、試行錯誤が行われている』。『タケの芽を筍と呼び、食用とする』。『葉を食料として利用する動物もおり、ジャイアントパンダはこれを主食としている』。『モウソウチクを除く種の多くは、限られた地域でしか生育しないことが多い。その理由は不明である』。『タケが草本か木本かは意見が分かれている。多くの草本類と同じく茎にあたる稈に年輪は見られないが、一方で木本類のように堅くなる性質がある。また、通常の木本と異なり』、『二次肥大成長はせず、開花後は枯死することが多い。分類上も、タケは単子葉植物であるイネ科植物で、イネ科をはじめとする単子葉植物は大半が草本として扱われている。このようにタケには草本の特徴が多く見られるため、タケを多年草の』一『種として扱う学説が多い』。『タケ類はイネ科タケ亜科に属する。熱帯性木本タケ類と温帯性木本タケ類の』二『つの系統を合わせてタケ連として扱うこともある。タケ亜科にはタケ連のほかに Olyreae 連が属するが、Olyreae 連は典型的な草本であり、タケ連のような木質の茎を作らない』。『Sungkaew et al.2009)の分子系統学的解析によると、タケ連は単系統ではなく、熱帯性木本タケ類と温帯性木本タケ類の』二『つの系統に分かれる。熱帯性木本タケ類が Olyreae と姉妹群となり、温帯性木本タケ類はそれら全体と姉妹群である。彼らはこの結果から、温帯性木本タケ類を Arundinarieae 連に分割すべきとしている』。『タケ類は熱帯性木本タケ類と温帯性木本タケ類の』二『つの系統に分かれ生育型が大きく異なる。このことから、分類学的には従来、タケ連(Bambuseae)にまとめられていた。しかし、その後の研究によって単系統ではないことが判明し、分割が提案されている』。『温帯性木本タケ類は地下茎で生育繁殖するが、熱帯性木本タケ類は分蘖(株分かれ)によって株立ち状になる』。『バンブーは、熱帯地方に産する地下茎が横に這わず』、『株立ちになるもののことを指す場合がある。紙パルプ業界にはタケとバンブーの区別がある』。『タケは狭義にはササと区別され、稈が成長するとともにそれを包む葉鞘(竹皮)が早く脱落してしまうものをタケといい、枯れるまで稈に葉鞘が残るものをササという』。『一般的には丈の低いものが笹竹の略とされる。しかし、オカメザサ』(タケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasaca )『のように膝丈ほどのタケや、メダケのような背の高いササもある。名前に「○○ダケ」「〇〇チク」「〇○ザサ」とついていても実際のタケやササの判断とは異なる場合がある』。(☞)『ちなみに、日本に見られるタケの多くは帰化植物と考えられ、一部種類には日本野生説もあるが、ほとんどは中国原産である』(☜)。『ササは日本産のものが多くあり、地方変異も数多い』。『竹皮の着生』は、『タケは生育後』、『落下するが、ササは生育後も着生している』。『葉の形態』は、『タケは格子目があるが、ササにはそれがなく』、『縦に伸びる平行脈である』。『開花』は、『タケは約』百二十『年周期、ササは』四十『年から』六十『年周期で』、『どちらも開花後には枯死する』。『日本ではタケは青森県(本州北端)から九州の広い範囲で見られるが、ほとんどは帰化植物と考えられる。ササは北海道や高山地帯にも自生する』。『タケ類の種は、世界で』六百『種とも』千二百『種とも言われる。日本には』百五十『種、あるいは』六百『種があるといわれる(いずれも学説によって異なる)。 日本に生育するタケ類のうち、代表的なものを以下に挙げる』(漢字表記は私が附した)。

マダケ Phyllostachys bambusoides

モウソウチク Phyllostachys heterocycla f. pubescence

ハチク Phyllostachys nigra

ホテイチク Phyllostachys aurea (布袋竹)

キッコウチク Phyllostachys heterocycla f. heterocycla(亀甲竹)

ホウライチク Bambusa multiplex(蓬莱竹)

ナリヒラダケ Semiarundinaria fastuosa(業平竹)

チシマザサ(ネマガリダケ)Sasa kurilensis(千島笹・根曲り竹)

トウチク Sinobambusa tootsik(唐竹)

シホウチク Chimonobambusa quadrangularis(四方竹:本種は鈍四稜形の茎を有することから)

カンチク Chimonobambusa marmorea(寒竹:単に晩秋から冬にかけて筍が出ることに由来するだけで、耐寒性種であるからではない)

ヤダケ Pseudosasa japonica(矢竹:シノダケ(篠竹)の別名がある。当該ウィキでは『本州以西原産で四国・九州にも分布する』とするが、辞書類を見ると、どれも、台湾・朝鮮半島・中国の一部にも植生するとある。種小名に騙されないように)

メダケ Pleioblastus simonii

以下、「病気とその利用」の項。『竹笹類に寄生する菌類には、細菌類、藻菌類、古生菌類などの菌類がない点で、近縁のイネ科植物と異なる』。一九六一『年頃の情報では、子嚢菌類が』四十三『科』二百十九『属』四百五十四『種、 担子菌類が』二十『科』五十『属』九十七『種、不完全菌類が』十『科』百六『属』百九十五『種である』。二〇二四『年時点で、「日本植物病名データベース」『(国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構)に集められているマダケ類病名一覧では』、三十『種以上の名前が挙げられている』。『通常、罹患した植物は商品価値が下がるものであるが、特徴的な模様が出る場合は』、『虎斑竹、彪紋竹、日向斑竹、涙斑竹、祖母斑竹、瓔珞斑竹、胡麻竹などと呼ばれ、正倉院に収蔵された御物や平安時代に書かれた』「延喜式」『にも』「斑竹」『の名があるように古来から価値が見いだされている』。『虎斑竹(虎竹)』『虎斑菌(』一九〇七『年に日本人の植物学者川村清一によって Miyoshia 属が新設されるが後に  Miyoshiella 属に改定)に感染することでトラの毛皮のような斑点ができた竹。特徴的な虎模様をもつことから、利用される』。『湘妃竹』は『中国の斑がある竹、病原菌の影響と考えられているが』、『病原菌の特定がされていない』。以下、「利用価値が下がる菌類・病気」の項。『朱病菌( Stereostratum corticioides 、赤衣菌)』は『イギリスの探険船チャレンジャー号が神戸に寄港した際に採取して』、一八七八『年にイギリスの菌類学者Berkeleによって竹笹類で初めて報告がなされた病原菌である。冬胞子堆ができる』。『タケ類天狗巣病』は『麦角菌科の糸状菌の一種( Aciculosporium take )によって、枝に菌』瘤(こぶ)『ができ、罹病枝が箒状・鳥の巣状になり、成長が衰え、最悪の場合は枯れる。罹病竹や老齢竹を間引きして焼却処分することで対策される』。以下「利用」の項。『ある程度大きく育った竹から、水を通さない硬い節で複数に仕切られた稈(かん)と呼ばれる茎などが得られる。伐採後に乾燥させた竹の稈は強靭であり、細工が容易で、木材に乏しい弾力性に富んでいる。そのため、和弓や釣竿など、ばね性の必要な製品の素材として古来広く利用されてきた』。『竹竿は内部が空洞なので、管としての性質を強く持つ。つまり、しなやかで強い素材である。しかもそれを構成するのが細長い繊維細胞であり、これも管である。したがって、特に引っ張りには強い。しかし、横からの力には管が壊れる形での破壊が起こりやすい。また、荷重を支えるのには向かない。状況に応じ、そのまま、また、割って細い板状にして使用される。横からつぶしたものはロープのようにも使用される。さらに細い棒状にしたものは竹ひごと呼ばれる。木とは異なり竹を割り竹にするときは穂先から根元方向に割るとほぼ均等に割れる(俗に木元、竹うらという)』。『伐採したままの竹を青竹(実際には緑色)と呼ぶ。火で焙ったり(乾式)、苛性ソーダで煮沸したり(湿式)して油抜きをした晒し竹、ある程度炭化させた炭化竹、伐採後に数カ月から数年間自然に枯らしたもの、家屋の屋根裏で数十年間囲炉裏や竈の煙で燻された煤竹と、種々の素材が得られる。これらは弾力性、硬さ、耐久性などが異なり、利用目的によって使い分けられる。 青竹は容易に入手できるが、耐久性に問題があり、晒し竹や炭化竹に加工することでその問題点は改善する。煤竹は独特の色(煤竹色)をしており、硬く、耐久性に富むが、入手は困難である』。『桿はほぼ円柱状で中空であり、軽量、丈夫でよくしなる。そのため釣り竿や棒高跳の竿などの特殊な使用例がある』。『伐採年齢は』四『年以上のものが強度、収縮率、比重などから良いとされている。また、伐採時期については、夏から初秋にかけての地下茎の成長期に貯蔵栄養分が糖として利用されるため』、二『月から』八『月(にっぱちと俗にいう)に伐採すると害虫の影響などで耐久期間が短く』、『長期保存に向かなくなるといわれている』。以下は、本項に関係のありそうな、或いは、文化的興味深い項目・解説のみをチョイスした。「生薬」の項。『ハチクまたはマダケの葉は、竹葉(ちくよう)という生薬で、解熱や利尿の作用がある』。『葉を酒に漬けて香りを付けた竹葉青というリキュールが中国にある』。『ハチクまたはマダケの茎の外層を削り取った内層は竹茹(ちくじょ)という生薬で、解熱、鎮吐などの作用がある』。『ハチクの茎を火で炙って流れた液汁は、竹癧(ちくれき)という生薬である』「繊維原料」の項。『竹の内側にある薄紙と、竹を発酵させて得た繊維を漉いて作った紙を竹紙と呼ぶ』。『中国』の『四川省や広西チワン族自治区などの一部製紙工場は竹を原料としたパルプを製造し、紙にまで加工している』。『竹酢液は除菌・殺菌や消臭剤、防虫剤として使われる』。『粉末にした竹(竹粉)は土壌改良に使われる。堆肥などとともに農地にすき込むことで、土中に空気の層ができて農作物の根の張りが良くなるほか、竹粉に付着している乳酸菌が病原菌や雑草を抑える効果がある』。『古代、紙の発明以前は中国および近隣の朝鮮・日本では、紙の代りに木簡および竹簡が広く使われた。しかし、日本では竹簡の使用例は少ない』。「習俗・慣習」の項。『青々としてまっすぐ伸びる様子から、榊(さかき)とともに清浄な植物のひとつとされている』。『地鎮祭などの神事において、不浄を防ぐために斎み清める場所の四隅に立てる葉付きの青竹を、斎竹(いみだけ)という。青竹には清浄な神域を示す注連縄を張り廻らせ、紙垂(しで)を垂らす』。『竹は種類によるが、前述のように』非常に長いスパンで一『度』、『花を咲かせ、結実し枯れる。花が咲くと竹が枯れ、地下茎で繋がった』一『個体の竹は』総て『枯れる。昔は、竹の花はめったに咲かない、咲くのは凶事、冷害凶作の兆候など、悪いことが起こる前兆のように言われていた。竹は花が咲くと枯れるが、大抵は寒冷・乾燥など凶作になりそうな気候条件のときに竹の花が咲くといわれている』(本文の「竹實」の「自然穀(じねんこ)」にも救荒植物としての事実が記されてある)。『地震のときに竹藪へ逃げろ、という言い伝えは、つながった地下茎で地面が守られているという理由から来ている』が、これはアウト! である。朔太郎じゃないが、地下茎がウジャウジャと伸びる結果、土はボロボロになり、大きな地震では、竹林全体が崩れてしまう危険性が高いからである。『竹の花がつける実は野鼠の餌となる。非常に稀な出来事であるため、平時の食物連鎖ではあり得ない野鼠の大量発生を引き起こし、急増した野鼠が他の植物などを食害することが知られている。この現象はインドでmautam''bamboo death)と呼ばれ、壊滅的な農業被害が発生している。このことから「竹の花は不吉の前兆」とする民間伝承が生まれた』という。『松、竹、梅』三『つをあわせて松竹梅(しょうちくばい)と呼び、縁起が良いものとされる。元は歳寒三友と呼ばれ』、『中国画での画題が日本に伝わったもので、符牒としても使われる。他にも竹・梅・蘭・菊を合わせた四君子などもある』。『竹の都』とは、『伊勢神宮に仕えた斎宮』(いつきのみや)『の古称、別称』である。「竹植うる日」は『陰暦』五月十三日で、『夏の季語』。『この日に竹を植えると枯れないという中国の俗信がある。竹酔日』(以下とともに本文に出る)。『竹八月に木六月』は『伐採に適した時期、陰暦』月である。

 「本草綱目」の引用は、基本、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の中で続く「木之五」の「苞木類」([090-19b]以下)の「竹」及び「竹黄」・「仙人杖」のパッチワークではあるが、それ以外の中国の書籍からの引用も含まれる。

「苞木類《はうぼくるゐ》」この意味が、私にはよく判らない。中文サイトを見ると、「掌のような木」とあるが、竹類の葉の形から、判ったような気もするものの、今一、晴れない。「廣漢和辭典」を見ると、②に『もとねもと。草木の根本。』とあり、更に見ると、③で『つつむ。』で『包』と同じとする。⑤で『つとつつみ。』とする。掌のように物を包むのは、確かに粽や笹飴・笹団子でしっくりはくる。しかし、私は製品としての「包むもの」というのが、この意味で、生体である竹を指すようには思えないのである。すると、後の⑥に『むらがるむらがりはえる。』とある。竹や笹の植生には、まあ、しっくりくる。しかし、さらに⑧に『木の根がいりくむ。』とあって、これは、まさに朔太郎の「竹」の如く、地にモジャモジャと蔓延る根の様が想起されて、『これぞ! 竹の根だ!』と快哉を叫んだ。見当違いであっても、私はこれをメインとして、前の意味をハイブリットで勝手に納得したものである。

『「篁《こう》」は、竹の聚《あつまり》なり』「太加無良《たかむら》」「篁」の字の「皇」は「広く高い」の意で、かく訓読する。

「籜(かは)」原義が「竹の上皮」の意。

「笋(たけのこ)」この漢字は「筍」と同字。

「濇《しぶ》≪し≫」ここは「渋い」の意ではなく、反対語で「滑らかでないさま」の意。

「實心竹《じつしんちく》」タケ亜科マダケ属水竹(中文名)品種實心竹(中文名)Phyllostachys heteroclada f. solida 「維基百科」の同種を見よ。本邦には自生しない。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。節の長さが、有意に異なること、真っ直ぐではなく、単節がかなりはっきりと違った角度で伸びているのが、面白い。

「暴節竹(こさん《ちく》)」幾つかの類似性から、候補は、マダケ属ホテイチク Phyllostachys aurea を挙げたい。複数の中文サイトで、これは「笻竹」であるとあるのだが、当該ウィキによれば、『別名多般竹、鹿児島県では』(☞)『コサンダケ(小桟竹・虎山竹・五三竹)と呼ばれ、奄美大島ではくさんでー、だーなとも言う』。『直径』二~五センチメートル、『高さ』五~十二メートル『の中形の竹。表面に毛は無いが、底部には白く短い毛がある』。『枝先に葉が』二~五『枚』、『付く。花は穂状に付き、長さ』三~八ミリメートル。『原産は中国の長江流域、または浙江省、福建省の』『山地で、黄河以南の山野に分布する』。『ベトナムではバックカン省など、北部に分布する。日本や台湾などにも移入され、自生化している。開花周期は』六十~百二十『年』。『稈の基部から枝下あたりまでの節が斜めになって、節間が不規則に短く詰まって膨らんでいる。それが七福神の布袋の膨らんだ腹を連想させることから布袋竹と名付けられた。中国では「人面竹」と呼んでいるが、布袋と同じ連想の「羅漢竹」、「寿星竹」、「仏肚竹」や、「観音竹」、「邛竹」』(☜)『などの別名もある』。『同様の節の形を有するモウソウチクの変種はキッコウチク(亀甲竹)』(モウソウチク品種(突然変異とも)Phyllostachys heterocycla f. heterocycla )『と呼ばれ、その直径は約』十センチメートル『でホテイチクよりも太い』とある。また、そこにある「ホテイチクの根元付近の稈」の画像は「暴節」「𥗼砢」と言うに相応しくはなかろうか?【二〇二四年十一月十五日追記】☆「暴節竹」に進み、考証した結果、百%、ホテイチクに比定同定した。☆

「無節竹《むせつちく/ラウだけ》」種不詳。「ラウだけ」としたのは、小学館「日本国語大辞典」の「ラウ【羅宇】」に、『地名ラオスから』とし、異表記として『ラオ』を挙げ、『キセルの火皿と吸い口をつなぐ竹の管。また、それに使う竹。ラオス産の斑紋のある竹を用いたところからいう』とあって、引用例に『無節竹 今俗云良宇』とあり、これは『多識編』寛永八(一六三一)年刊の『三』とするのに拠っただけのことである。しかし、「空心《くうしん》」で「通竹《つうちく》」などという竹はあるんだろうか? 疑問だ。

「篃竹(び《ちく》)」これは複数の中文サイトで「箬竹」の別称「竹」を挙げているので、オオバヤダケ(大葉矢竹)属オオバヤダケIndocalamus tessellatus としてよい。Shu Suehiro氏のサイト「ボタニックガーデン」の「おおばやだけ(大葉矢竹)」のページに、『中国の中部、四川省に分布しています。標高』千四百~二千四百『メートルの山地に生え、桿は細く、高さは』〇・五~二・五『メートルになります。葉の長さは』二十五~三十『センチ、大きなものでは』六十『センチにもなります。わが国では九州の鹿児島市だけに見られます。ヤダケ属に分類されることもあります。別名で「じゃくちく(箸竹)」とも呼ばれ、中国名では「箸竹(ruo zhu)」』とあった。

「笛竹《てきちく》」豈図らんや、不詳。識者の御教授を乞う。

「篔䈏竹(うんたう《ちく》)」「由吾竹《いうごちく》」「䈏竹《ふくちく》」「漢竹《かんちく》」総て不詳。同前。

「五雜組」複数回既出既注。初回の「柏」の注を見られたい。以下は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを参考に示しておくが、そこでは、節の数を「二十九」とする。「中國哲學書電子化計劃」でも「二十九」であるので、良安の誤りか、誤刻であろう(コンマは読点に代えた)。

   

高潘州有疏節之竹、六尺而一節。黎母山有丈節之竹、臨賀有十抱之竹、南荒有芾竹、其長百丈。雲母竹一節可為船。永昌有漢竹、一節受一斛。羅浮巨竹、圍二十尺、有二十九節、節長二丈。此君、巨麗之觀、一至於此。

   *

「𥳍竹《じんちく》」不詳。「山海經」絡みだと、実在は怪しいな。同前で、引いておく(少し手を加えた)。

   *

廣南多巨竹、剖其半、一俯一仰、可以代瓦。「桂海虞衡志」載徭人以大竹為釜、物熟而竹不灼。少室山竹堪為甑。「山海經」、舜林中竹、一節可為船、蓋不獨為椽已也。

   *

「猺人《えうじん》」東洋文庫訳に割注して、『(広東・広西・湖南・雲南に住む少数民族)』とある。

「竹譜」東洋文庫の書名注に、『一巻。晋の戴凱之(たいがいし)撰。七〇余の竹類をとりあげ、四言の韻語をもって叙述してある。』とある。作者は南北朝劉宋の植物学者である。「漢籍リポジトリ」のここで、「欽定四庫全書」の「子部九」から、一巻総てが視認出来る。そこを見ても、採録している竹の総数は判らないが、「維基百科」の「戴凱之」の最後に、「竹譜」について、『全書記述了六十一種竹類植物』、『是中國最早的一部竹類植物專著』とある。

「䈽竹(きん《ちく》)」調布市の「つゆくさ医院」公式サイト内の「つゆくさONLINE」の「竹葉(チクヨウ)」の記載の中に、『『本草綱目』によると「竹葉」には、「淡竹」「甘竹」「䈽竹(キンチク)」「苦竹」があり、「淡竹」はハチク P. nigra Munro var.henonis Stapf ex Rendle、「甘竹」は淡竹の属、「苦竹」は、マダケ P. bambusoides Siebold et Zuccarini である。すなわち、『名医別録』にある 「淡竹葉」は、ハチクのことを示している。また、『本草綱目』中には、「張仲景、猛詵は、このうち淡竹葉を上とした」という記載があり、古くは、薬用にハチクを重用していたことが伺える。なお、「䈽竹」は『古方薬議』によるとカシロタケがあてられている』とあった(学名が斜体でないのはママ)。この「カシロダケ」というのは、マダケの品種 Phyllostachys bambusoides f. kashirodake である。良安先生、ということです。

「いにしへの七《しち》の賢《かしこ》き人もみな竹をかざして年《とし》そへにける」「仲實」「堀川百首」の中の藤原仲実(なかざね)の一首。日文研の「和歌データベース」のここで確認した「雑」の部にある(01319番)。

『「五雜組」に云はく、『竹を栽《うゑる》に、特《ひと》り、「竹醉日《ちくすゐじつ》」に限らず、……』同前で、当該部(一部が略されてあるので、そこも含んで)引いておく(例によって手を加えた)。

   *

「栽竹無時。雨過便移、須留宿土、記取南枝。」。此妙訣也。俗說五月十三為竹醉日。不特此也、正月一日、二月二日、三月三日、直至十二月十二日、皆可栽。大要、掘土欲廣、不傷其根、多砍枝稍、使風不搖、雨後移之、土濕易活、無不成者。而暑月尤宜、蓋土膏潤而雨澤多也。

宋葉夢得善種竹、一日過王份秀才、曰、「竹在肥地雖美、不如瘠地之竹、或巖谷自生者、其質堅實、斷之如金石。」。夢得歸而驗之、果信。余謂不獨竹為然、凡梅、桂、蘭、蕙之屬、人家極力培養、終不及山間自生者、蓋受日月之精、得風霜之氣、不近煙火城市、自與清香逸態相宜、故富貴豢養之人、其筋骨常脆於貧賤人也。

栽花竹根下、須撒穀種升許、蓋欲引其生氣、穀苗出土則根行矣。

竹太盛密、則宜芟之、不然、則開花而逾年盡死、亦猶人之瘟疫也。此余所親見者。後閱「避暑錄」、亦載此。凡遇其開花、急盡伐去、但留其根、至明春則復發矣。

   *

『竹は、諸草の中《うち》、長(たけ)、高し。故に、「多計《たけ》」と名づく』小学館「日本大百科全書」の「タケ」の「語源」に、『タケは、英語ではbamboo、ドイツ語ではBambus、フランス語ではbambouと書き、いずれもマレー語のbambuから転訛』『したもので、これは、山火事などのとき、タケの稈の空洞が熱気のため破裂する音からきているといわれる。タケの語源については、一般に、タは高きの義、ケは木の古語、すなわち「高き木」の意味であるという説が採用されている。またタケノコの成長が速いことから「痛快茎延(いたくきは)え」が詰まってタケになったともいわれる。タケは万葉仮名で多気、多介、太計、陀気などと書き、現在一般に使われている竹は漢字であって、タケの葉の容姿から出た象形文字である』とある。

「紫竹(しちく)」既に示したカンチクの異名。「筱竹(なよ《たけ》)」タケ亜科メダケ(女竹・雌竹)属アズマネザサ(東根笹)Pleioblastus chino の異名。「なよたけ」も固有名詞としては、本種の別名ともされる。

「河竹《かはたけ》のなびく葉風《はかぜ》も年《とし》くれて三世《みよ》の仏《ほとけ》の御名《みな》を聞くかな」「定家」これは「六百番歌合」(建久三(一一九二)年に九条良経が企画した百首歌による歌合)にある一首(東洋文庫訳では、「夫木和歌抄」からと補訂するが、これは誤りである)。水垣久氏のサイト「やまとうた」の「六百番歌合 目録・定家番抜書」で確認した(0591番)。

「皂-刺《さいかち》」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ(皂莢)属サイカチ Gleditsia japonica

「滑海藻(あらめ)」不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceae アラメ(荒布)属アラメ Eisenia bicyclis 。博物誌は、私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を見られたい。

「竹瀝(ちくれき)」確認のために、小学館「日本国語大辞典」を示すと、『新しい竹を火の上に置き、両端から出る褐色の液を集めたもの。漢方で、清涼・止渇・鎮咳・解熱剤として用いる。たけのあぶら。』とある。

「自然穀(じねんこ)」「自然粳」が一般的。読みも、こちらの「じねんこう」の略である。竹の実の異称。

「棗(なつめ)」バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba var. inermis (南ヨーロッパ原産、或いは、中国北部の原産とも言われる。本邦への伝来は、奈良時代以前とされている。

「古今醫統」既出既注だが、再掲すると、明の医家徐春甫(一五二〇年~一五九六)によって編纂された一種の以下百科事典。全百巻。「東邦大学」の「額田記念東邦大学資料室」公式サイト内のこちらによれば、『歴代の医聖の事跡の紹介からはじまり、漢方、鍼灸、易学、気学、薬物療法などを解説。巻末に疾病の予防や日常の養生法を述べている。分類された病名のもとに、病理、治療法、薬物処方という構成になっている』。『対象は、内科、外科、小児科、産婦人科、精神医学、眼科、耳鼻咽喉科、口腔・歯科など広範囲にわたる』とある。

「仙人杖(たけのこのとまり)」本文中で示した通り、この「仙人杖」とは、前掲のマダケが、子嚢菌門Diaporthe の、近年、発見された新たな菌種に感染して発症した「黒色立枯病」(こくしょくたちがれびょう)に罹患した枯死個体を指すものである。これは、『神奈川自然誌資料』(『(25):79 80, Mar. 2004』)に載る論文『小田原市周辺より発見された仙人杖について』(出川洋介・正木照久・井上幸子・太田順子共著:「J-STAGE」のここからPDFで入手可能)で確認した。それを読むと、この菌の、この時の発見状況からは、『付近に生育するアズマネザサや他のタケ類には全く確認されなかった』とあり、マダケのみに感染していたとある(続けて、発見例の一つに『モウソウチクに発生した』一例を添えて、機序を説明してある)。現在の正式な当該菌の分類は、複数の論文と信頼出来るネットの分類表から、

子嚢菌門Ascomycotaクロイボタケ綱 Dothideomycetesクロイボタケ亜綱 Dothideomycetidaeタテガタキン目 Microthyrialesタテガタキン科Microthyriaceaeマダケ表黒点病菌 Microthyrium sp.

である。

『草に「仙人杖」と名づく者、有り』これは、ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae亜科Chenopodieae連アカザ属シロザ 変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum である。廣野郁夫氏のサイト「木のメモ帳」の「木あそび」の「アカザ(藜)の杖は現在でも存在するか」を見られたい。

「枸-𣏌《くこ》も亦、名、同じくして、異物なり」双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense 「神戸 林商店」公式サイト内の「中華食材」の「クコの実 (枸杞子)」に、『クコの実は『仙人の杖』といわれている』とある。

「竹黃(ちくわう)」「竹膏《ちくかう》」「天竺黃《てんぢくわう》」国立国会図書館デジタルコレクションの現代語訳の『国訳本草綱目』第三冊(鈴木真海訳,・白井光太郎校注/一九七四年春陽堂書店刊)の当該部の頭注(1)(木島正夫氏筆)に、

   《引用開始》

(現在は天竹黄、天竺黄と称するもので、ハチク(淡竹)Phyllostachys nigra Munro var. henonis Henonis Stapf マダケ(苦竹)P. bambusoides Sieb. et Zucc.syn. P. reticulata K. Koch)の茎(竹桿)の節孔の中に病的に生成した塊状物質を採り出したものである。しかし天然のものは極めて得難いので、今は人工的に竹桿を加熱して、竹節中に竹瀝を出させ自然に凝固したものを採り出して天竹黄としている。加熱の方法によっては黒色の炭塊となったようなものや土中に流入して泥を混じえて凝結したものもあり、これらは劣品とされている。(『葯材学』一一三九ページ)

      (木島)

   《引用終了》

とある(学名が斜体でないのはママ)。本文注で述べた通り、これは、竹の竹の枝先に寄生した菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門クロイボタケ綱プレオスポラ亜綱Pleosporomycetidaeプレオスポラ目 Pleosporales(所属科未確定= Incertae sedis:インケルタエ・セディス))マダケ赤団子病菌 Shiraia bambusicola によって生じた、枝を巻き込むような、見た目、これ、かなりグロテスクな塊り(結節)を指す。とある中文サイトでは「竹の結石」と表現していた。個人サイト「Discomycetes etc.」の「Shiraia bambusicolaに『マダケに発生していたもの』の画像がある。なお、サイト「TredMPD 伝統医薬データベース」の「天竹黄」には(一部の学名が斜体でないが、私が斜体に直した)、『天竹黄(てんぢくおう)』について、『生薬別名 竹黄』・『生薬ラテン名 Bambusae Concretio Silicea』・『生薬英名 Tabasheer』とし、『基原』植物を『ハチク Phyllostachys nigra var. henonis Rendle』とし、『薬用部位』は『樹脂』であり、『臨床応用』として、『清涼解熱』・『鎮静薬として』、『中風で口がきけず』、『熱病で神昏譫語するものに用いる』。『また』、『小児のひきつけに用いる』とあって、『頻用疾患』を(以下、コンマを「・」に代えた)、『発熱・中風・夜泣き・痰』を挙げる。『中医分類』では、『清熱薬』とされ、『薬能』として、『清熱豁痰・凉心定驚・熱病神昏・中風痰迷・小児痰熱驚癇・抽搐・夜啼に用いる』とある。『備考』欄に(ここでは一部のコンマを読点に代えた)、『タケ科(Bambusaceae)のハチク Phyllostacys nigra Munro var. henonis Staph、マダケ Phyllostacys bambusoides Sieb. et Zucc. (P. reticulata C. Kock)、その他タケ類の茎(竹桿)の節孔の中に病的に生成した塊状物質を採り出したもの』(☜)とし、『天然品が最佳であるが、得がたいので、現在では人工的に竹桿を加熱して、竹節中に竹瀝(竹桿を切って火炙して切口から滴下してくる液汁)を出させ、自然に凝固したものを採りだし』、『天竹黄と称するが、品質がまちまちで』、『劣品である』。『産地によって雲南竹黄(上等品は瓦片状を呈し、一面白色、一面黒色』。『次品は不斉塊状』を成し、『下等品は粉末状で、米黄とも称する』。『竹黄精(白色玉質の顆粒で上品である)、西竹黄(老竹黄、洋竹黄とも称す』。『ベトナム、マレー、スマトラなどから産し、不斉塊粒、灰白色または透明黄白色、ときに泥塊、炭塊などが混る)、広竹黄(土竹黄とも称し、広東,広西に産するもので、品質には差異がある』。『上等品は老竹黄に似、下等品は泥などが多くて重い)などがある』とあったのだが、最も、その正体と代用品を解説して余りある。 

2024/11/10

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 紫稍花 / 寓木類本文~了

[やぶちゃん注:この項は、実は、二〇〇八年七月に初期形を公開し、昨年二〇二四年八月に再校訂を行った、私のサイト版電子化注「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類   寺島良安」(「和漢三才圖會」中の水族部電子化プロジェクトの『おまけ』の巻)の「龍類」の仮想龍族の一種「吉弔(きつちやう)」の附属項『紫稍花(ししやうくは)』(歴史的仮名遣の誤りは原文のママ)で(凡例の仕儀が、この「植物部」とは異なっているので、一部、補正した)、

   *

吉弔の精なり。多く、鹿と游び、或いは、水邊に于《おい》て遺瀝す。流-槎(うきゝ)に値(あ)へば、則ち、木の枝に粘(ねば)り着(つ)き、蒲槌(かまぼこ)の狀《かたち》のごとし。色、微《やや》青黃【又、寓木類に出づ。】。

   *

とあったため、そこで、一度、電子化注してある。しかし、スマホ等では、重量が大きいので、閲覧し難いことから、今回、それを元に、新たに、電子化注全体を再点検し、挿絵も、注も、新たにすることとした。

 

Yowakaimen

 

ししやうくは

 

紫稍花

 

[やぶちゃん注:「ししやうくは」はママ。]

 

本綱孫光憲北夢瑣言云海上人言龍毎生二卵一爲吉

弔【狀蛇頭龜身乃龍屬】多與鹿游或于水𨕙遺瀝値流槎則粘着木

[やぶちゃん字注:「𨕙」は「邊」の異体字。]

枝如蒲槌狀其色微青黃復似灰色號紫稍花

陳自明婦人良方云紫稍花生湖澤中乃魚蝦生卵于竹

木之上狀如餹潵去木用之

【時珍曰二說不同近時房中諸術多用紫稍花皆得于湖澤其色灰色而輕鬆恐非眞者當以孫說爲止】

紫稍花【甘温】 益陽秘精療陰痿遺精白濁

△按紫稍花江州琵湖中亦有之狀如蒲槌而小褐色蓋

 合于陳氏之說今用者多此也褐卽黃黒色近于紫則

 紫稍花名應之【又出于龍下】

 

   *

 

ししやうくは

 

紫稍花

 

 

「本綱」に曰はく、『孫光憲が「北夢瑣言」に云はく、『海上の人の言《いへ》る、「龍、毎《つね》に、二卵を生ず。一《いつ》は、吉弔と爲り【狀《かたち》、蛇の頭《かしら》、龜の身《み》、乃《すなは》ち、龍屬なり。】、多く、鹿と游び、或いは、水邊に于《おい》て遺瀝して、流-槎(うきゝ)に値《あ》≪へば≫、則ち、粘着(ねち《ねちと》つ)きて、木の枝に蒲(がま)の槌(ほ)の狀《かたち》のごとし。色、微《やや》、青黃、復《また》、灰色に似て、『紫稍花』と號す。」≪と≫。』≪と≫。』≪と≫。

 

陳自明が「婦人良方」に云はく、『紫稍花は、湖澤の中に生ず。乃《すなはち》、魚・蝦《えび》、卵(たまご)を、竹木の上に生み、狀《かたち》、餹潵《みづあめ》のごとし。木を去りて、之れを用ふ。』≪と≫。

『【時珍が曰はく、『二說、同じからず。近時、房中の諸術に、多く、紫稍花を用ふ。皆、湖澤に得。其の色、灰色にして、輕鬆《けいしよう》≪にして≫[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、『ふわふわとかるく』とルビする。]、恐《おそらく》は、眞の者に非ず。當に孫が說を以つて、正と爲すべし。』と。】。』≪と≫。

『紫稍花【甘、温。】』『陽を益し、精を秘し、陰痿・遺精・白濁を療《りやう》ず。』≪と≫。

△按ずるに、紫稍花、江州琵湖[やぶちゃん注:琵琶湖。]の中にも亦、之れ、有り。狀《かたち》、蒲-槌《がまのほ》のごとくにして、小《ちいさ》し。褐(きぐろ)色。蓋し、陳氏が說に合ふ。今、用ふる者、多くは此れなり。褐〔(きぐろ)〕は、卽ち、黃黒色≪にして≫紫≪に≫近《ちかし》。則《すなはち》、「紫稍花」の名、之れに應ず【又、「龍」の下に出づ。】。

 

[やぶちゃん注:以下で証明するするが、これは、植物でも、「寓木類」でもない、動物である。淡水カイメン(海綿)の一種で、具体的には、

カイメン(海綿)動物門尋常カイメン綱単骨カイメン目タンスイカイメン(淡水海綿)科ヨワカイメン Eunapius fragilis Leidy, 1851

である。海綿動物門 Poriferaの内でも普通海綿分類学研究は非常に活発な分野で、時々刻々とタクソン名に変化が起こっている。私が所持する新旧の水生動物図鑑類(二十冊を超える。但し、私の嗜好から海産無脊椎動物のものがメイン)を見ても、それぞれが、目レベルから異なっており、ややこしい。上に示した分類学名は「琵琶湖生物多様性画像データベース」の同種のページ(執筆者は渡辺洋子氏と益田芳樹氏で、二〇二〇年三月に更新されている)のものである。その「特徴」の「海綿体」には、『不規則な平板状から塊状で護岸壁、古タイヤ、水生植物の茎などに着生する。体表には多数の凹凸がある。藻類の共生によって緑色になることがあるが、ふつう汚れた黄褐色である。複数の芽球が集まって共通の芽球殻に包まれ芽球の塊を形成し、この芽球の塊が体の底部に敷石状に並ぶ。冬期は芽球を残して体は崩壊する』とあり、「芽球」には、『芽球は個体の底部に層状に形成される。共通の芽球殻の中に23個から数個の芽球が入る』とし「骨片」の項には、『骨格骨片は両針体(両方の先が尖る)で平滑。長さ約170230µm、直径611µm。芽球骨片は先端が丸いか、または尖った有棘の棒状体で、長さ75145µm、直径515µm。遊離小骨片はない』とある。琵琶湖「湖内での分布」には、『全域の湖岸および平湖、西の湖、東部承水溝、雄松内湖で採集された』とされ、「その他」に、『本種は世界中の淡水域に広く分布する。古びわ湖層の堅田累層から本種の化石が出土する』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷四十三」の「鱗之一」「龍類」にある([090-18b]以下)「弔」(「釋名」の冒頭に「吉弔」とある)の「釋名」の終りで「精名紫稍花」と記した後に語られた部分からのパッチワークである。この際、「弔」の全文を以下に掲げておく。前掲した私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類   寺島良安」の「吉弔」も合わせて参照されたい。一部に手を加えた。

   *

弔【拾遺】

釋名吉弔【時珍曰弔舊無正條惟蘇頌圖經載吉弔脂云龍所生也陳藏器拾遺有予脂一條 引廣州記云予蛇頭鱉身膏主蛭刺云云今攷廣州記及太平御覽止云弔蛇頭龜身膏至輕利等語並無所謂蛇頭鱉身子膏主蛭刺之說蓋弔字似予龜字以鱉至輕利三字似主蛭刺傳冩訛誤陳氏遂承其誤耳弔既龍種豈有鱉身病中亦無蛭刺之證其誤可知今改正之】精名紫稍花

集解【藏器曰裴淵廣州記云弔生嶺南蛇頭龜身水宿亦木棲其膏至輕利以銅及瓦器盛之浸出惟雞卵殻盛之不漏其透物甚于醍醐摩理毒腫大騐須曰姚和衆延齡至寶方云吉弔脂出福建州甚難得須以琉璃瓶盛之更以樟木盒重貯之不爾則透氣失去也孫光憲北夢𤨏言云海上人言龍每生二卵一為吉弔多與鹿游或于水邉遺瀝值流槎則枯着木枝如蒲槌狀其色微青黄復似灰色號紫稍花坐湯多用之時珍曰按裴姚二說相同則弔脂卽吉弔脂無疑矣又陳自明婦人良方云紫稍花生湖澤中乃魚蝦生卵干竹木之上狀如餹潵去木用之此說與孫說不同近時房中諸術多用紫稍花皆得于湖澤其色灰白而輕鬆恐非真者當以孫說爲正或云紫稍花與龍涎相類未知是否】

弔脂【一名弔膏】氣味有毒主治風腫癰毒※[やぶちゃん注:「※」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「隱」。]疹赤瘙瘑疥痔瘻皮膚頑痺踠跌折傷内損瘀血以脂塗上炙手熱摩之卽透藏器治聾耳不問年月每日㸃入半杏仁許便差【蘇頌 出延齡方】

紫稍花氣味甘溫無毒主治益陽祕精療眞元虛憊陰痿遺精餘瀝白濁如脂小便不禁囊下濕癢女人陰寒冷帶入丸散及坐湯用【時珍如又和劑玉霜丸注云無紫稍花以木賊代之】

附方【新二】陽事痿弱【紫稍花生龍骨各二錢麝香少許爲末𮔉丸梧子大每服二十丸燒酒下欲解飲生薑甘草湯 集簡方】陰癢生瘡【紫稍花一兩胡椒半兩煎湯温洗數次即愈總㣲論】

   *

「孫光憲」九五〇年前後を生きた五代十国時代の政治家にして学者。後唐の荊南三代及び宋に仕えた。彼の著作「北夢瑣言」は唐末から五代の士大夫階級の人々の逸話集。引用部は、「維基文庫」の「逸文卷四」に以下のようにある(コンマを読点に代えた)。

   *

南人采龜溺、以其性妒而與蛇交。或雌蛇至、有相趁鬥噬、力小致斃者。采時取雄龜置瓷碗及小盤中、於龜後以鏡照之。既見鏡中龜、即淫發而失溺。又以紙炷火上㶸熱點其尻亦致失溺、然不及鏡照也。得於道士陳釗。又海上人雲龍生三卵、一為吉吊也。其吉吊上岸與鹿交、或於水邊遺精、流槎遇之、粘裹木枝、如蒲桃焉、色微青黃、復似灰色、號紫稍花、益陽道、別有方說。

   *

「蒲槌」単子葉植物綱ガマ目ガマ科ガマ Typha latifolia の穂。

「陳自明」(一一九〇年~一二七〇年)は南宋の医師。健康府明道書院医論(現在の国立医大教授)となる。嘉煕元(一二三七)年 に中国医史にあって初めての産婦人科学の集成である、本文に引用された「婦人良方(大全)」を完成した。

「餹潵」「餹」は「飴」(あめ)の意。「潵」は「廣漢和辭典」には所収せず、不詳であるが、東洋文庫版では、この二字に『みずあめ』とルビを振る。

「輕鬆」の「鬆」は音「ショウ・シュ・ソウ・ス」で、「緩い・粗い・虚しい」という意であるから、「極めて軽量で、質がすかすかとして空隙が多いこと」を言うのではあるまいか。

「當に孫が說を以つて正と爲すべし」とは、時珍は陳自明の記述する淡水産のエビや魚類の卵塊=紫稍花は紫稍花の贋物であって、正しい紫稍花は、あくまで、孫光憲の説いた吉弔の遺精の方に違いない、というのである。私もこれを指示するものである。

「精を秘し」とは、精力(多分に性的な意味合いに傾いた意味で)を内にしっかりと守らせ、という意味か。

「陰痿」は陰萎・インポテンツ。

「遺精・白濁」「遺精」は「夢精」のことを指す。近代以前は多分に異常なものと考えられていた。「白濁」は病的な白濁した小便を言うらしい(次の注参照)。

以上の叙述、及び、私の電子テクスト栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十」に現われた「紫稍花」の記載、そして遂に発見した、あの知る人ぞ知る四目屋の「代替療法事典」の以下の記載(何度も検索したが、現在は存在しないようである)を見よ!(一部句読点等を補正した)

   《引用開始》

紫稍花(ししょうか):温無毒(/甘 別名:紫霄花・紫梢花

 タンスイカイメン科の動物、脆針(ゼイシン)海綿(和名:ヨワカイメン)の乾燥群体。秋~冬に川床・湖畔に樹枝や水草に付着する、長さ3~10cm・直径1~2.5cm、灰白色・灰黄色の棒狀または塊状を採取、天日乾燥、海綿体の繊維を粉末状にしたものする。江蘇・江南が主産地。

 成分:スポンギン・スポンギニン・リン酸塩・炭酸塩など。

 陽を益し精を渋らす効能。陽痿・遺精・(小便)白濁・帯下・小便不禁・陰嚢湿疹を治す。塗布により痒みを生ずる。

 処方例:1日0.51.5銭を粉末にし、丸剤・散剤として服用。

 外用:(失禁・陰嚢下湿痒・陰部寒冷による帯下)温かい煎液で局部を洗う。

   《引用終了》]

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 占斯

 

Kusunokinoyadorigi

 

くすのきの  炭皮 良無極

  やどりぎ

 

占斯

 

 

チヱン スウ

 

本綱占斯樟樹上寄生樹大䘖枝在肌肉其木皮狀如厚

[やぶちゃん字注:「䘖」は「銜」(含む・口に銜(くわ)える)の異体字。]

朴似色桂白其理一縱一横今市人以胡桃皮爲之非真

占斯【苦温】 治血癥月閉令女人有子治小兒蹇不能行又

 能治癰腫諸惡瘡

 木占斯散 治發背腸癰疽痔婦人乳癰諸產癥瘕無

 有不療服之腫去痛止膿消已潰者便早愈也

  占斯 甘草【炙】厚朴【炙】細辛 栝樓 防風 乾薑

  人參 桔梗 敗醬【各一兩爲散酒服方寸匕晝七夜四以多爲善】

 此藥入咽當覺流入瘡中令化爲水也癰疽灸不發敗

 壞者尤可服之內癰在上者當吐膿血在下者當下膿

[やぶちゃん字注:「內」は「グリフウィキ」のこれだが、表示出来ないので、「內」とした。]

 血其瘡未壞及長服者去敗醬【一方】加桂心

 

   *

 

くすのきの  炭皮《たんぴ》

  やどりぎ 良無極《りやうむきよく》

 

占斯

 

 

チヱン スウ

 

「本綱」に曰はく、『占斯《せんし》は、樟(くす)の樹の上に寄生《きせい/やどりぎ》す。樹、大にして、枝を䘖《ふく》≪み≫、肌・肉、在り。其の木皮、狀《かたち》、「厚朴《こうぼく》」のごとくして、色、「桂白」に似る。其の理(すぢ)、一縱一横≪なり≫。今、市人《いちびと》、「胡桃(くるみ)」の皮を以つて、之れと爲《なす》は、真≪に≫非《あら》ず。』≪と≫。

『占斯【苦、温。】』『血癥月閉《けつちやうげつけい》[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(結滞した血が塊りとなり、障害をおこす症。月経停止がおこる)』とある。しかし、「癥」は、中医学の用語で「腹部の内にある『しこり』」の意で、特に「形がはっきりと判り、硬く、痛みの場所が固定しているものを指すとあったので、そうした腫瘍様のものである。]を治し、女人《によにん》をして、子を有らしむ。小兒の蹇《あしなへ》≪して≫、行≪くこと≫能《あたは》ざるを治す。又、能く、癰腫[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『悪性のできもの』とある。]・諸惡瘡を治す。』≪と≫。

『木占斯散《もくせんしさん》』『背≪に≫發≪せる≫腸癰[やぶちゃん注:前部は返り点がないが、返して訓じた。確かに、「本草綱目」では「腸癰」とあるのだが、どうも背中に外部視認で発症する腸の悪性の腫瘍という言うのは、臨床的に不審な謂いである。東洋文庫訳では、「𤻈癰」となっており、この「𤻈」は「瘍」と同義であるから、「背部に生じた悪性の腫瘍」の意であろう。]・疽痔《そじ》[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(化膿しない悪性の腫物や痔)』とある。]、婦人の乳癰《にゆうよう》[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(乳腺炎)』とある。]、諸《もろもろ》≪の≫產≪に於ける≫癥瘕《さんか》[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(腹中の腫瘤)』とある。]を治す。之れを服すれば、療《れう》せざること、有る無し。腫《はれ》≪を≫去り、痛《いたみ》、止《やみ》、膿≪を≫消《け》し、已に潰《つぶる》る者、便《すなは》ち、早く愈ゆなり。』≪と≫。

 『占斯・甘草【炙る。】・厚朴【炙る。】・細辛・栝樓《かつらう》・防風・乾薑《かんきやう》・人參《にんじん》・桔梗《ききやう》・敗醬《はいしやう》【各一兩、散酒《さんしゆ》にして爲《つく》り、方--匕《ちやさじ》を≪を以つて≫服す。晝、七たび、夜、四たび、多くを以つて、善しと爲《な》す。】。』≪と≫。

 『此の藥、咽《のど》に入≪れば≫、當に瘡《かさ》≪の≫中に流入して、化して、水と爲《な》さしむるを覺《おぼゆ》なり。癰疽、灸も發《あらはさ》ず、敗壞《はくわい》[やぶちゃん注:東洋文庫訳に割注して、『(できものが破れて悪化する)』とある。]する者、尤《もつとも》之れを服すべし。內癰《ないよう》≪にして≫、上に在る者は、當に膿血《うみち》を吐《はき》、下に在る者は、當に膿血を≪肛門より≫下す。其の瘡、未だ、壞《くえ》ざる≪もの≫、及び、長く服する者は、「敗醬《はいしやう》」を去る[やぶちゃん注:後述する「生薬『敗醬』を摂取しないこと。」という禁忌注意である。]。【一方。[やぶちゃん注:別な処方。]】、「桂心《けいしん》」を加≪ふ≫。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「占斯 Viscum」でも、「占斯 Viscum クスノキ ヤドリギ Camphora officinarum」でも、全く掛かってこない。「本草綱目」では、「樟樹」とするから、これは、

本邦のクスノキ科ニッケイ(肉桂)属クスノキ Cinnamomum camphora と同一種

を指すが、では、クスノキにのみ、特異的に寄生するヤドリギは見当たらない。本邦の記事で、日本のクスノキに見かける広義のヤドリギ類の一種として、ビャクダン目 Santalalesヤドギリ科Viscaceaeヤドリギ属 Camphora ではない、

◎オオバヤドリギ科Loranthaceaeオオバヤドリギ属オオバヤドリギ Scurrula yadoriki (シノニム: Taxillus yadoriki  

が認められるものの、クスノキに特異寄生するわけではないようである。比定候補としては、これを挙げておくこととはする。なお、ウィキの「ヤドギリ科」によれば、『被子植物の科。すべて半寄生植物からなり、他の樹木の枝に着生する。いわゆる「ヤドリギ類」に含まれる。APG植物分類体系ではビャクダン科に含めているが、クロンキスト体系では独立の科とし、世界の熱帯から温帯に分布する約』七『属』四百五十『種を含めている。新エングラー体系等ではオオバヤドリギ科など、いわゆるヤドリギ類を含めている』とあり、ウィキの「オオバヤドリギ科」には、『すべて半寄生の低木からなり、他の樹木の枝に着生する。いわゆるヤドリギ類に含まれる。世界の熱帯から温帯(特に南半球)に約』七十『属』九百四十『種が分布する。 古い分類(新エングラー体系等)では』、『他のヤドリギ類とともにまとめ』て、『ヤドリギ科としていたが、クロンキスト体系等では独立の科とし、現在のAPG分類体系でもビャクダン科(旧ヤドリギ科を含む)とは別系統として認めている』として、以下に実に七十九属がリストされてある。前項の「桑寄生」では、下部の引用の中に登場しているが、具体には解説しなかったので、ここで、よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「オオバヤドリギ(大葉寄生木)」のページの記事を引用させて戴く。多数の写真もある。

   《引用開始》

半寄生常緑低木

関東地方南部以西〜沖縄のツバキ、モチノキ、マサキ、ヤブニッケイ、ハイノキ、ネズミモチ、ウバメガシ、イヌビワ、スギなどの常緑樹に寄生する。ややつる性で、高さは80100cmになる。樹皮は灰白色。茶褐色の縦縞と赤褐色の横長の皮目が目立つ。新枝には赤褐色の星状毛が密生する。葉は普通対生する。葉身は長さ26cm、幅1.54.5cmの卵形〜広楕円形で、全縁。革質で厚く、裏面は赤褐色の星状毛が密生する。花は両性。葉腋に筒形の花が27個つく。花被は長さ約3cm、外面には赤褐色の星状毛が密生し、内面は緑紫色、上部は4裂してそり返る。果実は液果。長さ78mmの広楕円形で赤褐色の星状毛が密生する。花期は912月。(樹に咲く花)

学名は、Scurrula yadoriki

オオバヤドリギ科オオバヤドリギ属

   《引用終了》

なお、オオバヤドリギの分布については、複数の信頼出来る記事を見るに、関東南部以西・韓国(済州島)、及び、中国に分布することが確認出来た。ともかくも、「占斯」の実態を知っておられる方があれば、是非御教授されたい。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」「寓木類」にある([090-18b]以下)「占斯」のパッチワークである。

「厚朴《こうぼく》」中国で言うこれは、モチノキ目モチノキ科モチノキ属モチノキ亜属ナナミノキ Ilex chinensis 。先行する「厚朴」の私の考証注を参照されたい。

「桂白」不詳。言っておくと、ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum ではない。先行する「桂」を見よ。

「胡桃(くるみ)」ブナ目クルミ科ノグルミ(野胡桃)属ノグルミ Platycarya strobilacea

「木占斯散《もくせんしさん》」「百度百科」の「木占斯散」を見られたい。「薬物組成」に異同がある。「栝樓」がなく、代わりに、後に出る「桂心」がある。

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza当該ウィキによれば、『漢方薬に広範囲にわたって用いられる生薬であり、日本国内で発売されている漢方薬の約』七『割に用いられている』とある。

「細辛」薄葉細辛(コショウ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシン Asarum sieboldii の別名。また、その根や根茎を乾燥させたもの。辛みと特有の香りがあり、漢方で鎮咳・鎮痛薬に使う。

「栝樓《かつらう》」「維基文庫」の清代に書かれた「植物名實圖考(道光刻本)」の「第二十二卷」の「栝樓」の独立͡項があり、その図(上下二図)の実(下方。これ)を見るに、これは実の形状から見て、本邦のカラスウリの類と似ているものの、実の形状が異なる。調べたところ、これはカラスウリ属 Trichosanthes kirilowi 変種キカラスウリ Trichosanthes kirilowii var. japonica によく似ている。まず、邦文の当該ウィキを見られた上で、中文の同原種 Trichosanthes kirilowi のページを見られたい。そこにはしっかり「栝蔞」とあり、さらに「瓜蔞」「栝樓」の異名も記してある。なお、言っておくと、このキカラスウリは、学名から察せられる通り、日本固有種であり、北海道から九州に自生している。

「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎を乾燥させた生薬名。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。。

「防已《ばうい》」長くなるから、「酸棗仁」で既出既注してあるので、そちらを見られたい。

「乾薑《かんきやう》」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎を乾燥させた生薬名。但し、本種は中国原産で本邦には自生はしない。。

「防已《ばうい》」植物名はキンポウゲ目ツヅラフジ科ツヅラフジ属オオツヅラフジ Sinomenium acutum 。漢字名「大葛藤」。漢方薬としては、先行する「酸棗仁」の私の注を見られたい。

「人參《にんじん》」「朝鮮人參」。セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng

「桔梗《ききやう》」キク目キキョウ科キキョウ属キキョウ Platycodon grandifloras の根を乾燥させた生薬名。当該ウィキによれば、『鎮咳、去痰、排膿作用があるとされ』、『代表的な漢方処方に桔梗湯(キキョウ+カンゾウ』(マメ目マメ科カンゾウ属スペインカンゾウ Glycyrrhiza glabra の乾燥させた根を基原植物とする生薬名)『)がある』。『炎症が強い場合には石膏と桔梗の組み合わせがよいとされ、処方例として小柴胡湯加桔梗石膏がある』とあった。

「敗醬《はいしやう》」マツムシソウ目オミナエシ(女郎花)科オミナエシ属オミナエシ Patrinia scabiosifolia 、及び、同属オトコエシ Patrinia villosa は両種ともに、臭いが、「腐った豆醬(とうしょう)」(豆で作った醬(ひしお))に似ているため、中国では「敗醬」の名があり、オミナエシやオトコエシを生けたあとの水には、悪臭がある。薬として消炎や排膿などに用いられた(以上は一部を平凡社「世界大百科事典」の「オミナエシ」の記載に拠った。ウィキの「オミナエシ」には、十『月頃に地上部の茎葉を切り除いて根を掘り、天日乾燥させたものは生薬となり、敗醤根(はいじょうこん)と呼んでいる』。『消炎、排膿、浄血作用があり、婦人病に用いられる』。一『日量』十『グラムの敗醤根を、水』五百『cc』を、『とろ火で半量になるまで煎じ』、三『回に分服する用法が知られている』とあり、『また、花のみを集めたものを黄屈花(おうくつか)という。これらは生薬として単味で利用されることが多く、あまり漢方薬(漢方方剤)としては使われない(漢方薬としてはヨク苡仁、附子と共に調合したヨク苡附子敗醤散が知られる)』とあった。一方、ウィキの「オトコエシ」には、『薬用植物としては古くから知られたもので、『神農本草』(西暦五百年成立)『にも記述が見られる。消炎や排膿、できものや浮腫などに効果があるとされた』。『ただし、木村・木村』(一九六四年)『では』、『敗醤は確かに本種とされてきたが、実際には本種には薬効はないとする。他方、オミナエシには確かに効果があり、薬効成分も知られている。また敗醤の名も中国では別の種に当てられているという』とあった。

「散酒《さんしゆ》」恐らく、配合した生薬の粉末を溶かし込んだ酒のことであろう。

「桂心《けいしん》」双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii の樹皮の外皮を除いた生薬名。]

2024/11/09

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 桑寄生

 

Yadorigi

 

さうき せい 寄屑 寓木

       宛童 蔦

桑寄生

     【久和乃也止里木】

 

 

本綱凡物寄寓他木而生在樹爲寄生在地爲寠藪其高

者二三尺其根在枝節之內其葉圓而微尖厚而柔靣青

而光澤背淡紫有茸四月花白色其子黃色大如小豆子

汁稠粘者良也伹生桑樹上者佳他木寄生恐反有害此

物若以爲鳥食物子落枝節閒感氣而生則麥當生麥穀

當生穀不當生此一物也自是感造化之氣別是一物也

惟取桑上者是假其氣爾第以難得眞者須自采或連桑

采者佳以銅刀和根枝莖葉剉勿見火

桑寄生【苦或云甘】 治腰痛癰腫安胎去產後餘疾主金瘡

△按嫩樹無寄生而養蠺之地老桑亦少故眞者難得唯

 隱岐肥前五島有之俗以爲中風要藥貴之

 

   *

 

さうき せい 寄屑《きせつ》  寓木《ぐうぼく》

       宛童《えんだう》 蔦《つた》

桑寄生

     【「久和乃也止里木《くわのやどりぎ》」。】

 

 

「本綱」に曰はく、『凡《およそ》、物、他木に寄寓《きぐう》して、生ず。樹に在るを、「寄生《やどりぎ》」と爲す。地に在《ある》を「寠藪《くそう》」と爲す。其の高き者、二、三尺。其の根、枝節《えだふし》の內《うち》に在《あり》、其の葉、圓《まろ》≪く≫して、微《やや》尖り、厚くして、柔かに、靣《おもて》、青く、光澤≪あり≫、背、淡紫にして、茸《じよう》[やぶちゃん注:ここは「細くて細かな毛」の意。]、有り。四月、花、≪開き、≫白色≪たり≫。其の子《み》、黃色。大いさ、「小豆《あづき》」の子のごとし。汁、稠粘《ちうねん》する[やぶちゃん注:粘りがしっかりとある。]者、良なり。伹《ただし》、桑の樹の上に生ずる者、佳なり。他木の寄生(やどりぎ)、恐らくは、反《かへり》て、害、有《あら》ん。此の物、若《も》し、以≪つて≫、鳥、≪その≫物の子を食ひて、枝節の閒《あひだ》に落とし、氣を感じて、生ずと爲せば、則《すなはち》、麥《むぎ》は、當《まさ》に麥を生ずべく、穀《こく》≪ならば≫、當に穀を生ず。當に此の一物≪のみを≫生ずべからざるなり。是《これに》より、造化《ざうか》の氣を感じ≪たる物にして≫、別に、是れ、一物なり。惟《ただ》、桑の上の者を取るは、是れ、其の氣を假《か》るのみ。第(たゞ)、以つて、眞なる者を、得難し。須らく、自(みづか)ら采るべし。或いは、桑を連《つらね》て[やぶちゃん注:桑を摘むのと一緒に。]、采る者、佳なり。銅刀を以つて、根・枝・莖・葉を和(ま)ぜて、剉《きる》。火《ひ》を見すること、勿《なか》れ。』≪と≫。

『桑寄生《さうきせい》【苦。或いは、「甘」とも云ふ。】』『腰痛・癰腫[やぶちゃん注:悪性の腫れ物で、根が浅く、大ききなものを指す。]を治し、胎を安≪んじ≫、產後の餘疾《よしつ》を去り、金瘡《かなさう》を主《つかさど》る。』≪と≫。

△按ずるに、嫩(わか)き樹に、寄生《やどりぎ》、無くして、蠺《かひこ》を養ふの地に、老桑《おひくは》、亦、少《すくな》し。故、眞なる者、得難し。唯《ただ》、隱岐・肥前の五島に、之れ、有り。俗、以つて、「中風《ちゆうぶ/ちゅうぶう》の要藥」と爲し、之れを貴《とうとぶ》。

 

[やぶちゃん注:やっと、巻の大項目である「寓木類」(木に宿るもの)の正当な植物が登場した(個人的には好きな寄生植物である)。まず、先に、良安の本邦の知られた自生種のタイプ種を示すと、

双子葉植物綱ビャクダン(白檀)目ビャクダン科ヤドリギ属セイヨウヤドリギ亜種ヤドリギ Viscum album subsp. coloratum

である。而して、「維基百科」の同種(タイプ種 Viscum album )「槲寄生」では、「分類」の上記種を示しつつ、そこで、『中国の植物相の分類規定では、

独立種 Viscum coloratum (Kom) Nagai

として扱われる』とし、『日本に分布するヤドリギとヨーロッパの亜種は同じ染色体系に属しているが、染色体転座の多様性が最も大きいことが確認されている』という興味深い記載がある(以下に示す邦文ウィキも参照されたい)。また、「維基百科」の「槲寄生」では、中国に分布する別種を示していないことから、同一と考えて問題ないようにも思われたが、シメとして、「跡見群芳譜」の「樹木譜」の「ヤドリギ」を見ると、

Viscum articulatum (漢名『扁枝槲寄生・楓香寄生・蟹爪寄生・蝦脚寄生・螃蟹脚・桐樹寄生』。『アジア・太平洋諸島・豪洲の熱帯・亜熱帯に産』する。「中国本草図録」に拠る)

カキノキヤドリギ Viscum diospyrosicola (漢名『稜枝槲寄生』。『臺灣・河北以南に産』する、「雲南の植物Ⅰ」)

Viscum fargesii (漢名『綫葉槲寄生』。『陝甘』(現在の陝西省)『・青海・四川産』)

フウノキヤドリギ Viscum liquidambaricola(漢名『楓香槲寄生・狹葉楓寄生』。『臺灣・河北以南・越南・タイ産』)

Viscum monoicum (漢名『五脈槲寄生』。『中国~インド産』)

Viscum multinerve (漢名『果柄槲寄生』。『中国南部・臺灣・ベトナム・タイ・ネパール産』。「中国本草図録」に拠る)

Viscum nudum (漢名『綠莖槲寄生』。『中国』の『西南産』。「雲南の植物Ⅱ」に拠る)

Viscum orientale (漢名『瘦果槲寄生』。『ヒマラヤ・インド・アフガニスタン産』)

Viscum ovalifolium(漢名『瘤果槲寄生』。『中国南部・東南アジア・豪洲産』)

の九種が載るので、「本草綱目」に載るものは、「槲寄生」属の以上の種等として、ヤドリギ Viscum album subsp. coloratum に加えて、同属異種で掲げておく必要があるように思われる。

 以下、当該ウィキを引く(注記号はカットした)。『ヤドリギ(宿生木・宿り木・宿木・寄生木)は広義には』、『ヤドリギ類(Mistletoe)の総称的通称だが、狭義には』、『特にそのうちの一種、日本に自生する Viscum album subsp. coloratum の標準和名である。英語ではミスルトウ(mistletoe)と呼ばれる』。『狭義のヤドリギ Viscum album subsp. coloratum は、セイヨウヤドリギ Viscum album (英語:European mistletoe, common mistletoe)の亜種である。この項目ではViscum albumと』、『その亜種について解説する』。『なお、学名はラテン語』で『「白い(album)宿り木(viscum)」の意』である。『従来はヤドリギ科』Viscaceae『に属すとされていたが、現在(APG植物分類体系)はビャクダン科』Santalaceae『に含められている』。『ヨーロッパ』、『及び』、『西部・南部アジア原産』の『寄生植物で』、『地面には根を張らず、他の樹木の枝の上に生育する常緑の多年生植物である。他の樹木の幹や枝に根を食い込ませて成長するが、一方的に養分や水を奪っているわけではなく』、『自らも光合成をおこなう半寄生である』。三十センチメートルから一メートル『ほどの長さの叉状に分枝した枝を持つ。黄色みを帯びた緑色の葉は』一『組ずつ対をなし、革のような質感で、長さ』二~八センチメートル、『幅』〇・八~二・五センチメートル』、『ほどの大きさのものが全体にわたってついている。花はあまり目立たない黄緑色で、直径』二~三ミリメートル『程度である。果実は白または黄色の液果であり、数個の種子が非常に粘着質なにかわ状の繊維に包まれている。果実の色は、アカミヤドリギは赤色、セイヨウヤドリギは白色、日本のヤドリギは淡黄色が多い』。『全体としては、宿主の枝から垂れ下がって、団塊状の株を形成する。宿主が落葉すると、この形が遠くからでも見て取れるようになる』。『ヤドリギは多細胞真核生物としては初めてミトコンドリアの複合体Ⅰ』(Complex Ⅰ:呼吸に於ける電子輸送の最初の段階の反応を行なう酵素で、NADHキノン酸化還元酵素NADHnicotinamide adenine dinucleotide))とも呼ばれる。ミトコンドリア呼吸鎖の中で最大の複合体であり、電子伝達系の最初の役割を担っている)『が完全に欠如し』、『電子伝達系全体が変化していることが確認された生物である』。『亜種は一般的に』四『種類まであるとされており、しばしば』、『さらに』二『亜種が加えられる。それらは果実の色、葉の形と大きさ、そして最も特徴的には』、『宿主となる木が異なる』ことである。

● Viscum album subsp. abietis(『中央ヨーロッパに分布』し、『果実は白、葉の大きさ』八『センチメートル』で、『モミに寄生する』)

● セイヨウヤドリギ Viscum album subsp. album (『ヨーロッパ西部・南部アジアが原産。ヨーロッパ、南西アジアからネパールにかけて分布。果実は白、葉は』三~五『センチメートル。リンゴ属、ポプラ、シナノキ属、まれにコナラ属の樹木に寄生』する)

● Viscum album subsp. austriacum (『中央ヨーロッパに分布。果実は黄色、葉は』二~四『センチメートル。カラマツ属、マツ、トウヒに寄生する』)

● Viscum album subsp. meridianum (『東南アジアに分布。果実は黄色。葉は』三~五『センチメートル。カエデ、クマシデ属、クルミ、サクラ属、ナナカマド属に寄生』する)

● Viscum album subsp. creticum (『ベーリング(Böhling)らが』、『近年』、『クレタ島西部から報告した(Böhling et al. 2002)』亜種で、『果実は白、葉は短い。カラブリアマツ( Pinus brutia )に寄生』する)

◎ヤドリギ Viscum album subsp. coloratum Komar (『日本でヤドリギといった場合、主にこれを指す』「中国植物志」(中国科学院中国植物志編輯委員会編・一九五九年~二〇〇六年・科学出版社刊)『では別種 Viscum coloratum (Komar) Nakai として扱われる』)

(以上の太字は私が附した)。以下、「日本のヤドリギ」の項。『標準和名ヤドリギ(学名:Viscum album subsp. coloratum 』又は、『 Viscum album subsp. coloratum f. lutescens  』(』『(狭義)』『は、半寄生性の常緑広葉樹の小低木。日本のヤドリギは上記のようにセイヨウヤドリギの亜種とされる』。『日本、朝鮮半島、中国』(☜)『に分布し、日本では北海道、本州、四国、九州に分布する。宿主樹木は主にエノキやケヤキなどの落葉広葉樹で、クリ・アカシデ・ヤナギ類・ブナ・ミズナラ・クワ・サクラにも半寄生して』、『宿主樹木は幅広いが、基亜種よりは多くない。宿主の枝や幹に根をはって、養分と水分を吸い取って生育し、樹上に丸く茂る。枝は緑色で』二、三『回ほど分枝する。冬になると葉を落とした宿主樹木の上で、常緑の葉が目立つ』。『葉は対生。葉身は倒披針形で長さ』二~六『センチメートル』、『革質で厚い。花期は』二~三『月、雌雄異株で、枝先の葉の間に小さな黄色い花が咲く。果期は』十一~十二『月。果実の直径は』六『ミリメートル』『ほどの球形で、基亜種の果実が白く熟すのに対し、淡黄色になる。まれに橙黄色になるものがあり、アカミヤドリギ  f. rubro-aurantiacum  と呼ばれる』。『キレンジャク・ヒレンジャクなどがよく集まることで知られ、果実は冬季に鳥に食われて遠くに運ばれる。果実の内部は粘りがあり、種子はそれに包まれているため、鳥の腸を容易く通り抜け、長く粘液質の糸を引いて宿主となる樹上に落ちる。その状態でぶら下がっているのが見られることも多い。粘液によって樹皮上に張り付くと、そこで発芽して樹皮に向けて根を下ろし、寄生がはじまる』。『枝や葉は、腰痛や婦人病の薬になる』。以下の「学名」の項には、以下が列挙される。

ヤドリギ(標準学名)Viscum album L. subsp. coloratum Kom. (1903)(『別名タイワンヤドリギ』)

ヤドリギ(狭義)Viscum album L. subsp. coloratum Kom. f. lutescens (Makino) H.Hara (1952)

ヤドリギ(シノニム)

 Viscum album L. var. coloratum (Kom.) Ohwi (1953)

 Viscum coloratum (Kom.) Nakai var. alniformosanae (Hayata) Iwata (1956)

 Viscum coloratum (Kom.) Nakai (1919)

 Viscum alniformosanae Hayata (1916)

『古くからヨーロッパでは宗教的に神聖な木とされ幸運を呼ぶ木とされてきた。冬の間でも落葉樹に半寄生した常緑樹(常磐木)は、強い生命力の象徴とみなされ、西洋・東洋を問わず、神が宿る木と考えられていた』。私の偏愛する、イギリスの社会人類学者『ジェームズ・フレイザー』(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)の名著で、未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である「金枝篇」(‘ The Golden Bough ’)『の金枝とは』、『宿り木のことで、この書を書いた発端が、イタリアの』ローマ県ネーミ(Nemiここ)『における宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られたものである。古代ケルト族の神官ドルイドによれば、宿り木は神聖な植物で、もっとも神聖視されているオーク』(ブナ目ブナ科コナラ属オウシュウナラ Quercus robur )『に宿るものは何より珍重された』。『セイヨウヤドリギは、クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下でキスをすることが許されるという風習がある。これは、北欧の古い宗教観に基づいたもので、映画や文学にもたびたび登場する』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」「寓木類」にある([090-13a]以下)「桑上寄生」のパッチワークである。

「桑寄生」生薬名「ソウキセイ」。「日本薬学会」公式サイト内の「ヤドリギ Viscum album L. subsp. coloratum Komar. (ヤドリギ科)」に以下のようにある(学名の斜体でないのはママ。ウィキぺディアを信頼しないガチガチのアカデミストのために、全文を引用させて貰った)。

   《引用開始》

 冬の落葉した木々に緑の葉を付けて寄生しているヤドリギをよく見かけます。ヤドリギは北海道から九州に分布し、エノキ、ブナ、ミズナラ、ケヤキやサクラなど落葉樹に寄生するため、冬にこんもりした小さな枝のかたまりを容易に見つけることができます。枝は緑色の円柱で、二あるいは三股状に分かれます。葉は対生で、葉質は厚くて細長く、先は丸く、長さ36 cm、幅0.51 cm程です。雌雄異株で、23月に黄色の花は咲きますが、小さくてあまり目立ちません。果実は直径6 mm程の球形で、早春に薄黄色に熟し、半透明になります。果肉はもちのように粘りがあり、鳥黐(とりもち)として、細いサオの先に塗って、小鳥や昆虫の捕獲に使われてきました。また、甘い果実を鳥が好んで食べ、糞中に残った未消化の粘性をもった種子や食べ残しの種子が他の樹皮に付着して、発芽後に新株となります。このようにヤドリギは種子を鳥散布型で他の樹木に付着させる戦略で、種の保存を保っています。

 和名は「宿り木」又は「寄生木」で、まさしく樹の上を宿のように寄生して繁茂することに由来します。また、「ホヤ」、「ホヨ」や「トビヅタ」という古名もあります。英名はJapanese Mistletoeと言います。学名のViscumはヤドリギを表すラテン語で粘性の鳥黐(とりもち)に由来し、種小名のalbumは「白い」を意味します。これはヨーロッパ産のセイヨウヤドリギ(V. album)の果実が白色であることに由来します。この種は1893年以来米国オクラホマ州の象徴花となっています。coloratumは「色のついた」の意味で、日本のヤドリギの果実が薄黄色であることを示しています。これとは別に橙赤色の実を結ぶものはアカミノヤドリギ(V.alubum var.rubro-aurantiacum)といいます。

 ヤドリギやアカミノヤドリギの枝や葉を乾燥させたものを生薬ソウキセイ(桑寄生)といいます。ソウキセイを煎じて飲むと、血圧を下げ、利尿、頭痛の緩和、リウマチ、神経痛、婦人の胎動不安、産後の乳汁不足などに効果があるとされています。漢方では独活寄生丸(どっかつきせいがん)に配合され、腰痛、関節痛、下肢のしびれ・痛みに効果のある処方として市販されています。ちなみに、セイヨウヤドリギエキスは国外でサプリメントとして、高血圧、動悸や頻脈に使用されています。国内では同エキスを含む4種の生薬エキスからなる薬が、緊張緩和やあがり症などにも効果がある催眠鎮静薬として市販されています。

 ヤドリギ科は1,300種もあり、日本にはヤドリギとは属の異なる、葉の大きいオオバヤドリギ(Scurrula yadoriki (= Taxillus yadoriki ))や葉がヒノキに似たヒノキバヤドリギ(Korthalsella japonica)などが生育します。前者は絶滅危惧種に、後者は準絶滅危惧種に指定されています。ヤドリギの仲間は足が地に着くことなく、その存続さえも危ぶまれる気の毒な植物なのです。(高松 智、小池 佑果、磯田 進)

   《引用終了》

とある。

「中風」脳血管障害の後遺症である半身不随・片麻痺・言語障害、及び、手足の痺れや麻痺などを指す症状の総称。]

2024/11/08

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 雷丸

 

Raigankin

 

[やぶちゃん注:竹の類の右下方(半分)と、三個の雷丸が描かれてある。]

 

らいぐはん 雷實 雷矢

      竹苓

雷丸

      【苓矢屎三字

       古通用】

ルイワン

[やぶちゃん注:「らいぐはん」はママ。]

 

本綱雷丸今出於房州金州生山谷及土中竹之苓也無

有苗蔓葉大小如栗狀如豬苓而圓皮黑肉白甚堅實其

[やぶちゃん注:「豬」は「猪」の異体字。]

赤者有毒殺人

雷斧雷楔皆霹靂擊物精氣所化而此亦殺蟲逐邪猶雷

之丸也故名雷丸

雷丸【苦寒有小毒】 殺三蟲逐毒氣除小兒百病主癲癇狂走

 久服令人陰痿

 遯齋閑覽云有人毎發語腹中有小聲應之漸聲大有

 道士曰此應聲䖝也伹讀本草取不應者治之讀至雷

[やぶちゃん注:「䖝」は「虫(蟲)」の誤字の慣用字。]

 丸不應遂頓服數粒而癒【藍汁亦治應聲䖝詳于藍草之下】

△按猪苓【楓木之餘氣所結也】雷丸【竹之餘氣所結】二物共未知必其然乎

 而猪苓自廣東南京福州舶毎年將來凡至一二千斤

 雷丸自處處唐舩及咬𠺕吧舶所將來凡至五六百斤

 價亦賤然則中華外國共有之不珍物也明焉然日本

 朝鮮共竹不少而雷丸無出是亦與琥珀之辨同矣

藥肆以大風子油呼雷丸油販之誤也故令禁誤稱

 

   *

 

らいぐはん 雷實 雷矢《らいし》

      竹苓《ちくれい》

雷丸

      【「苓《れい》」・「矢《し》」・「屎《し》」

       の三字は、古《いにし》へ、通用

ルイ ワン   ≪せし物なり≫。】

 

「本綱」に曰はく、『雷丸、今、房州[やぶちゃん注:現在の湖北省。]・金州[やぶちゃん注:同前で陝西省。]より出《いづ》。山谷、及び、土中に生《しやうずる》、竹の苓《りやう》なり[やぶちゃん注:東洋文庫訳では、「苓」に割注して『(竹の余気の結したもの)』とある。]。苗・蔓・葉、有《ある》こと、無し。大小≪有りて≫、栗のごとく、狀《かたち》、「豬苓《ちよれい》」のごとくにして、圓《まろく》、皮、黑《くろし》。肉、白し。甚だ、堅實なり。其の赤き者、毒、有りて、人を殺す。』≪と≫。

『雷斧《らいふ》・雷楔(《らい》せつ)、皆、霹靂(かみなり)の、物を擊つ物を《✕→の》精氣の化《け》する所にして、此れも亦、蟲を殺≪し≫、邪を逐《おひ》、猶を[やぶちゃん注:ママ。]雷《かみなり》の丸《たま》のごとし。故、「雷丸」と名づく。』≪と≫。

『雷丸【苦、寒。小毒、有り。】』『三蟲《さんちゆう》を殺し、毒氣を逐《お》ふ。小兒の百を病を除き、癲癇・狂走[やぶちゃん注:過剰な驚愕反応を示す神経症、或いは、脳の器質障害に拠る異常な突発的無目的な遁走行動を指す。外傷後ストレス障害でも発生する。]を主《つかさど》る。久≪しく≫服すれば、人をして陰痿(《いんの》なへ[やぶちゃん注:ママ。「なえ」が正しい。「いんい」「陰萎」で、「インポテンツ」(ドイツ語:impotentz)=ED(英語:erectile dysfunction:「エレクタイル・ディスファンクション」。勃起障害)を現在は限定的に指すが、古くは広く「子供が出来なくなること」を指した。]≪にせ≫しむ。

『「遯齋閑覽《とんさいかんらん》」に云はく、『人、有りて、語《ことば》を發《はつ》≪する≫毎《ごと》に、腹中に、小≪さき≫聲、有りて、之れに、應(こた)ふ。漸(ぜんぜん)に、聲、大なり《✕→大《おほ》きになれり》。道士、有りて、曰はく、「此れ、『應聲䖝《わうせいちゆう》』なり。伹(ただし)、「本草」[やぶちゃん注:本草書。]を讀ましむ。應(こた)へせざる者、取《とり》て、之れを、治せよ。」≪と≫。讀《よみ》て、「雷丸」に至≪り≫て、應へず。遂に、頓《とみ》に、數粒《すつぶ》を服して、癒《いゆ》。』≪と≫。』[やぶちゃん注:これは、「本草綱目」の「雷丸」の項の「發明」中にある、時珍の記載になるものである。]≪と≫。【藍汁、亦、應聲䖝を治す。「藍草」の下《もと》に詳らかなり。】[やぶちゃん注:この割注は良安が附加したものであって、「本草綱目」にはない。]。

△按ずるに、猪苓【楓木《ふうぼく》の餘氣、結せる所なり。】≪と≫、雷丸【竹の餘氣、結する所≪なり≫。】≪とすれども≫、二物共《とも》、未だ知らず、必《かならず》、其れ、然《しかる》か。而して、猪苓は、廣東(カントウ)・南京《ナンキン》・福州(フクチウ)より、舶《ふね》、毎年、將來する。凡そ、一、二千斤≪に≫至≪る≫[やぶちゃん注:明治初期に規定された一斤六百グラムで換算すると、六百~一・二〇〇キログラム相当。]。雷丸は處處《しよしよ》の唐《もろこし》の舩《ふね》、及び、咬𠺕吧(ジヤガタラ)[やぶちゃん注:インドネシアの首都ジャカルタの古称。また、近世、ジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところから、ジャワ島のこと。]≪の≫舶《ふね》より、將來する所、凡《およそ》、五、六百斤に至《いたり》、價(あたひ)も亦、賤(やす)し。然《さ》れば、則ち、中華・外國、共に、之れ、有りて、珍物ならざること、明《あきらか》なり。然《しか》るに、日本・朝鮮、共に、竹、少《すくな》からず。而《れども》、雷丸、出ること、無し。是《これ》も亦、琥珀の辨と同じ。

藥肆(くすりや)に、「大風子《だいふうし》の油《あぶら》」を以つて、「雷丸の油」と呼んで、之れを販(う)るは、誤《あやまり》なり。故《ゆゑ》、誤り稱することを禁ぜしむ。

 

[やぶちゃん注:「雷丸」は、竹に寄生する、

サルノコシカケ科カンバタケ属ライガンキン Polyporus mylittae の茸(きのこ)の菌体

を指す。直径一~二センチメートルの塊状を成し、回虫・条虫等の駆虫薬にされる。実は、既に、先行する「楓」で、一度出ており、注も上記の太字部分を出してある。「富山大学和漢医薬学総合研究所」の「伝統医薬データベース」「雷丸」の情報を引用すると、『生薬ラテン名』は『Omphalia』で、『薬用部位』は『菌核』。『選品』・『品質』は、『外皮は黒褐色か』、『栗褐色で』、『處々に凹窩』(おうか)『のある顆粒状塊で、よく枯れた』、『きめの細かい硬いもの程良い』とある。『主要成分』は『Proteolytic enzyme』とする。これは、辞書「英ナビ」のここによれば、『プロテアーゼ』・『タンパク質分解酵素』・『タンパク分解酵素』とあり、『タンパク質分解として知られる作用により』、『タンパク質が』、『より小さいペプチドとアミノ酸に分解するのを触媒する酵素』とあった。『薬理作用』は『條虫駆除作用』と『瀉下作用』とし、『臨床応用』では、『條虫駆除薬として応用する』。一『日』三『回』、一『日』十五~二十グラム『を』三『日連用する』とあり、『頻用疾患』の条には、『回虫駆除』と『腸内寄生虫』に薬効があると記す。古くは「神農本草經」に出ており。『中医分類』でも『駆虫薬』とされてある。『薬能』項には、『殺虫消積』とし、『条虫』・『鈎虫』・『蛔虫』の駆除、『虫積腹痛』や『小児疳積に用いる』とする。『備考』欄『ライガンキン Polyporus mylittae Cook. et Mass.=Omphalia lapidescens Schroeter)の菌核を乾燥したもの』であり、『この菌は一般にタケ類の根茎に寄生するが,ときに棕櫚(Trachycarpus sp.)やキリ(Paulownia tomentosa Steud.)などの枯れた樹の根際にも寄生する』(学名が斜体でないのは、ママ)とあった。邦文ウィキはないので、「維基百科」の「雷丸」を見ると、『食用茸(キノコ)で、中国では経口駆虫薬として使用されており、オーストラリアのアボリジニの食糧の一種でもある』とあり、学名は『形態学的特徴に基づいて』、ギリシャ語の』『「孔空き」+「頭」で、「穴空きのキャップ」に由来する』とあった。『雷丸には、褐色腐朽木材腐朽菌である菌核菌が地下にあり、ニュージーランド、オーストラリア南部、中国に分布している。オーストラリアでは』、『「天然麵包」(Native Bread)』(「ネイティブ・ブレッド」)『として知られており、アボリジニの食べ物の一つである』。シノニムは『 Omphalia lagidescens (Horan) Cohn & Schroet., 1891; Polyporus mylittae Cooke & Massee, 1892; Polyporus mylittae Sacc., 1893』を示してある。『医学的価値』の項には、『雷丸は、回虫・条虫・鉤虫など、さまざまな寄生虫を殺すために使用出来る。その有効成分は中性プロテアーゼで、腸内環境内の寄生虫タンパク質(サナダムシの頭節など)を効果的に分解し、死滅させることが可能である』。「神農本草經」『には『「雷丸」、味、苦冷。主に』(ヒト寄生虫である)『三蟲を殺し、毒氣・胃中の熱を逐ふ。男子には利するも、女子には利ならず。摩膏』(塗布薬)『と作』(な)『し』、『小兒の百病を除く。山谷に生ず』とある。「本草綱目」には、『雷斧・雷楔、皆、霹靂擊物精氣所化。此物生土中、無苗葉而殺蟲逐邪、猶雷之丸也。」とあって』、『これらは、なべて等しく、それが殺虫効果があると認められてある』と言った具合に書かれてある。形状が、今一つ、捉え難いので、学名のグーグル画像検索をリンクさせておく(同キノコでないものの写真もあるので、注意されたい)。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」「寓木類」にある([090-13a]以下)「雷丸」のパッチワークである。

「雷斧《らいふ》」石器時代の遺物である「石斧」(せきふ)や「石槌」(せきつい)等を指す。雷雨の後などに、たまたま、地表に露出して発見されたところから、『雷神の持ち物』と考えて名づけられたもの。「雷斧石」「雷鎚」、本邦では「かみなりのまさかり」等と呼んだ。

「雷楔(《らい》せつ)」同前で石製の斧の内で、所謂、楔(くさび)型をしたもの。「日文研データベース」の「外像」の『「日本の古代の石器.雷斧すなわち稲妻.この図版すべて実寸の半分の大きさ.1.くさび形先端(諸刃).ここに示された雷斧の最大例.蛇紋石.2.くさび形先端(諸刃).碧玉.3.くさび形先端(諸刃).長方形の横断面.角石.4.くさび形先端(諸刃).粘板岩....」 の拡大画像全26枚のうち7枚目を表示』を見られたい。雷斧と雷楔の明確な考古学的な区別は存在しない。

「三蟲《さんちゆう》」東洋文庫訳では、割注して、『(蛔(かい)虫・蟯(ぎょう)虫・寸白(すんぱく)虫)』とする。その『蛔(かい)虫』は、

線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides

を指し、『蟯(ぎょう)虫』は、

旋尾線虫亜綱蟯虫(ギョウチュウ)目蟯虫上科蟯虫科 Enterobius 属ヒトギョウチュウ Enterobius vermicularis

で、『寸白(すんぱく)虫)』は、略して「すんばく」「すぱく」「すばく」「すんばこ」とも呼び、まず、「条虫(じょうちゅう)などの寄生虫」、また、「その虫によって起こる下腹部の痛む病気」を指し、別に、寄生虫由来ではなく、「特に婦人の下腹部の痛む病気、又は、婦人の生殖器疾患の総称」でもあった。現在の研究では、条虫(所謂、「サナダムシ(真田虫)」)類、例えば、ヒトに寄生する、

扁形動物門条虫綱真性条虫亜綱円葉目テニア科 Taeniidae テニア属ムコウジョウチュウ(無鉤条虫) Taenia saginata 等の断裂した切片による命名

ではないかと考えられている。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」を見られたい。

「遯齋閑覽《とんさいかんらん》」北宋の陳正敏(生没年未詳)の随筆。全一巻であったが、佚書となり、幾つかの書物に引用が残っている。奇病「應聲蟲(わうせいちゅう)」病の現存する中国最古の記載の一つとされる。「應聲蟲」は、古くは、『柴田宵曲 妖異博物館 「適藥」』があり、新しいものでは、新字新仮名の『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「応声蟲」』を見られたい。孰れもオリジナル注も完備してある。

『藍汁、亦、應聲䖝を治す。「藍草」の下《もと》に詳らかなり』これは、「和漢三才圖會」の「卷第九十四」の「濕草類」の「藍」の項の中の「藍汁」の中にある。国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版の当該部をリンクさせておく。

「猪苓」菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus 。前項の「猪苓」を見よ。

「楓木《ふうぼく》」先行する「楓」を見られたい。何度も注意喚起しているが、良安はムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer のつもりで認識しているが、中国語のそれは、全くの別種である、ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosanaを指す。

『「大風子《だいふうし》の油《あぶら》」を以つて、「雷丸の油」と呼んで、之れを販(う)るは、誤《あやまり》なり。故《ゆゑ》、誤り稱することを禁ぜしむ』これは、先行する「楓」で、良安は既に語っている。「大風子の油」大風子油(だいふうしゆ)のこと。当該ウィキによれば、キントラノオ目『アカリア科(旧イイギリ科)ダイフウシノキ属』 Hydnocarpus 『の植物の種子から作った油脂』で、『古くからハンセン病の治療に使われたが、グルコスルホンナトリウムなどスルフォン剤系のハンセン病に対する有効性が発見されてから、使われなくなった』とあり、『日本においては江戸時代以降』、「本草綱目」『などに書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などは』、『ある程度の』ハンセン病への『効果を認めていた』とある。]

2024/11/07

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 猪苓

 

Tyorei

 

[やぶちゃん注:双子葉植物綱ブナ目ブナ科 Fagaceaeの類(下部の葉から。上部のモミジ様の葉は同一の木の葉とは思われない。鋸歯から、ブナ科コナラ属コナラ亜属ミズナラ Quercus crispula var. crispula ぽい)と思しい木の下方に五個の猪苓が描かれてある。]

 

ちよれい 豭豬屎 豕槖

     地烏挑

猪苓

 

 

チユイ リン

 

本綱猪苓生山谷是木之餘氣所結如松之餘氣結茯苓

之義他木皆有楓木爲多耳其皮黒色肉白而實者佳削

去皮用其塊黒似猪屎故名【古者屎與苓字通用】肉赤黒者不可用

猪苓【廿平】 升而微降【與茯苓同】治痎瘧利水道解傷寒温疫

 大熱發汗能除温如無濕證者勿服之又久服必損腎

 氣昬人目

 

   *

 

ちよれい 豭豬屎《かちよし》 豕槖《したく》

     地烏桃《ちうたう》

猪苓

 

 

チユイ リン

 

「本綱」に曰はく、『猪苓は山谷に生ず。是れ、木の餘氣《よき》、結する所。松の餘氣、茯苓《ぶくりやう》に結するの義のごとし。他木、皆、有り《✕→るも》、楓木《ふうぼく》に、多く、爲《な》るのみ。其の皮、黒色、肉、白くして、實《じつ》する[やぶちゃん注:十全に中実が緻密である。]者、佳し、皮を、削り去りて、用ふ。其の塊《かたまり》、黒≪くして≫、猪《ゐのしし》の屎《くそ》に似たる故《ゆゑ》、名づく【古《いにしへ》は、「屎」と「苓」の字、通用せり。】。肉、赤黒き者、用ふべからず。』≪と≫。

『猪苓【廿、平。】』『升《のぼ》りて[やぶちゃん注:樹木の根附近から延び上がって。]、微《やや》、降《くだ》る【茯苓《ぶくりやう》と同じ。】。痎瘧《がいぎやく》[やぶちゃん注:熱性マラリア。]を治し、水道を利し、傷寒《しやうかん》・温疫《おんえき》[やぶちゃん注:急性伝染性の熱病。]・大熱を解す。汗を發して、能く、温《おん》を除く。如(も)し、濕證《しつしやう》、無き者、之れを服すること、勿《なか》れ。又、久《しさしく》、服すれば、必《かならず》、腎氣を損《そんじ》、人≪の≫目《め》を昬《くら》くす[やぶちゃん注:眼が曇って見え難く

させる。]。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:「猪苓」は、日中ともに、

菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus

である。「維基百科」の「豬苓」を見られたい。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は『猪苓舞茸』。『株の高さは』十~二十センチメートルm『径は』十~三十センチメートル。『表面の色は栗褐色〜淡茶褐色。根元から枝分かれした先端に』一~四センチメートル『の径の傘をつける。白色腐朽菌』。『ヨーロッパや北アメリカ、中国などに分布』し、『日本では本州中部以北にみられる』。『ブナ林、ミズナラ林』、『或いは』、『これらの伐採跡地の地下』十センチメートル『程の所に宿主の根に沿って固い菌核を形成し、ここから』、或いは、『宿主から』、『直接』、『マイタケ型の子実体を生じる。この菌核は猪苓(ちょれい)と呼ばれ』、『日本薬局方に収録されている生薬である』。『猪苓は、消炎、解熱、止褐、利尿薬、抗がん剤として用い、有効成分は明らかになっていないが、最近は抗腫瘍効果があるとする研究も公表されている。また、猪苓湯(ちょれいとう)、五苓散(ごれいさん)、柴苓湯(さいれいとう)などの漢方方剤に配合される』とある。漢字文化圏の医史・本草史・医薬文化交流史・医薬書誌学の研究者で、北里研究所東洋医学総合研究所の真柳誠氏のサイト「医史学の真柳研究室」の真柳誠『「漢方一話  処方名のいわれ38-猪苓湯」『漢方診療』14巻6号35頁、1996年1月』の「漢方一話  処方名のいわれ38 猪苓湯」に以下のように記されておられる。

   《引用開始》

 猪苓湯は3世紀初の仲景医書が出典で、『傷寒論』陽明病篇・少陰病篇や『金匱玉函経』、また『金匱要略』消渇小便利淋病篇などに記載される。猪苓・茯苓・阿膠・滑石・沢瀉の5味からなり、もちろん本処方名は主薬の猪苓にちなむ。ただし猪苓を配剤する本方以外の仲景医方は五苓散と『金匱要略』にある3味の猪苓散のみで、計3首[やぶちゃん注:「種」か。以下、同じ。]しかない。

 なお五苓散の方名はもともと猪苓散だった。それで3味の猪苓散と区別するため五味猪苓散といい、さらに五苓散になったことは幕末の森立之がすでに考証している。一方、猪苓は『神農本草経』から本草書に収載されたが、これに増補した『名医別録』は効能を追加しない。前漢や後漢の出土医書にも猪苓の記載はない。仲景医書の猪苓配剤方も3首のみなので、かつて猪苓はさほど常用されない薬物だったようだ。

 これには猪苓の古義が関係するかもしれない。『神農本草経』は猪苓の別名に{豕+(暇-日)}猪矢(屎)を記し、それに陶弘景は「塊で皮が黒く、猪屎に似るためこう名づけられた」と注釈する。むろん中国語の猪は日本語のブタをいい、イノシシではない。つまり豚の糞らしい外観からの命名である。

 別な解釈もできる。晋の司馬彪は『荘子』徐無鬼にある「豕零」について、司馬本が「豕嚢」に作るといい、「一名を猪苓、根が猪卵に似て渇きを治す」と注する。獣類の卵とは睾丸をいうので、「猪卵」は豚の睾丸、そして「豕嚢」は豚の陰嚢ということになる。すると豚の陰嚢に類似することから古くは豕嚢とよばれ、のち豕零そして猪苓に変化したと解釈できる。茯苓の和名マツホトが、松の陰嚢をいう古い和語であることも当解釈を支持しよう。

 しかし糞・陰嚢のいずれにせよ、この薬名では服用する気になれない。かつて常用されなかった理由だろうか。猪苓の古義は詮索すべきでなかった。反省!

   《引用終了》

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」「寓木類」にある([090-11b]以下)「豬苓」のパッチワークである。

「豭豬屎《かちよし》」「豭」は原義が「豚」(哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ亜種ブタ Sus scrofa domesticus )で、その原種「猪」(イノシシ Sus scrofa )をも指す。「豭」も同義であるが、特にイノシシを指す漢語である。「屎」は「糞」に同じ。

「豕槖《したく》」「豕」は「いのこ」と訓じ、イノシシ・ブタを総称する漢語。「槖」は「袋(ふくろ)」の意。「屎・糞」を忌んで言ったものであろう。

「地烏桃《ちうたう》」これも「糞」を厭じて、作った名であろう。この名でグーグル画像検索を掛けると、桃の実の画像の合間に、中文サイトの「豬苓」の画像が挟まる。

「茯苓《ぶくりやう》」先行する「茯苓」を見よ。

「傷寒《しやうかん》」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、具体には、「高熱を発する腸チフスの類の症状」を指すとされる。

「濕證《しつしやう》」これは、現行の慢性関節リウマチの症状を指すようである。]

2024/11/06

山之口貘第二詩集「山之口貘詩集」新作分十二篇について原本で正規表現修正を終了

バクさんの第二詩集「山之口貘詩集」――

――昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここから(最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。目次の後の本文開始前の標題はここで、奥附はここである。――

で正規表現での校訂を完了した。

2024/11/05

和漢三才圖會卷第八十五 寓木類 琥珀

 

Kohaku

[やぶちゃん注:下方に、蜂らしきものの他に、昆虫らしきものと、何かの三種が封じ込まれてあるのが、描かれてある。] 

 

こはく   江珠

      【梵書名阿

       濕摩揭婆】

琥珀

      【虎死則精魄入地

       化爲石琥珀狀似

       之故謂虎珀俗作

フウベツ   琥珀】

 

本綱琥珀是松樹枝節榮盛時爲炎日所灼流脂出樹身

外日漸厚大因堕土中津潤歳久爲土所渗泄而光瑩之

體獨存今尚有粘性故以手心摩熱能拾芥【芥者卽禾草也】

䖝蟻有于中者乃未入土時所粘也楓脂入地千年變爲

[やぶちゃん注:「䖝」は「虫(蟲)」の訛字(誤用慣用漢字)である。]

琥珀不獨松脂變也或茯苓千年化琥珀之說誤傳也伏

[やぶちゃん注:「伏」は「本草綱目」のママ。前項の「茯苓」に、異名として「伏靈」があり、「維基百科」の「茯苓」にもそれがあるから、「伏苓」も、音通で、ありだろう。]

苓生于陰而成于陽琥珀生于陽成于陰二物皆自松出

而所禀各異其類有數種西戎之產色差淡而明徹南方

之產色㴱而重濁彼土人多輾爲物形出高麗倭國者色

㴱紅有蜂蟻松枝者佳

 紅松脂如琥珀而只濁大脆文橫者 水珀多無紅色

 如淺黃多皺文 石珀如石重色黃不堪用 花珀文

 似新馬尾松心文一路赤一路黃 物象珀其內自有

 物命 瑿珀卽是衆珀之長也 蠟珀色黃而明瑩者

 也 香珀有香氣者也

琥珀【甘平】 定魂魄消瘀血通五淋明目合金瘡能通小

 便若血少不利者不可用反致其燥急之苦

 

五雜組云琥珀謂松楓之精液多年所化恐皆未必然中

國松楓二木不乏何𠙚得有琥珀而夷國產琥珀者此自

天地所生一種珍寶又如水晶云千年老水所化果爾則

宜出於北方沍寒之地而南方無氷却有水精可知其說

之無稽矣琥珀血珀爲上金珀次之蠟珀最下人以拾芥

爲眞者亦非也僞者傅之以藥其拾芥捷

△按琥珀出於雲南之永昌又自阿蘭陀用琥珀作物形

 或琥珀油等將來也今有金珀銀珀蠟珀三種以色名

 之而中𬜻本朝共琥珀未嘗有之謝肇成之辨可也然

 時珍所謂倭國琥珀深紅者甚非也倭薫陸能相似而

 吸塵或有夾蜂蟻者故以爲琥珀乎伹𤋱火試之眞者

[やぶちゃん注:「𤋱」は「薫」の異体字。]

 有香氣𤋱陸有微臭氣

 

   *

 

こはく   江珠《こうしゆ》

      【梵書、「阿濕摩揭婆《あしばけいば》」

       と名づく。】

琥珀

      【虎、死すれば、則ち、精、魄《はく》、

       地に入り、化《け》して、石と爲り、

       琥珀、狀《かたち》、之れに似る。故、

       「虎珀」と謂ひ、俗、「琥珀」と作《な》

フウベツ   す。】

 

「本綱」に曰はく、『琥珀、是れ、松《まつ》≪の≫樹≪の≫枝・節、榮-盛《さかん》≪なる≫時、炎日《えんじつ》[やぶちゃん注:強烈な太陽光。]の爲めに、灼《やかれ》、流《ながさ》れて、脂《やに》、樹身《じゆしん》の外《そと》に出《いで》て、日《ひ》の、漸《やうや》く≪經(へ)て≫、厚大《かうだい》して、因りて、土中に堕ち、津潤《しんじゆん》[やぶちゃん注:水分が充分に浸透すること。]、歳久《としひさしく》して、土《つち》の爲めに、渗泄せられて[やぶちゃん注:滲み出されて。]、光瑩《くわうはう》[やぶちゃん注:光り輝くこと。]の體《たい》、獨り、存す。今、尚を[やぶちゃん注:ママ。]粘-性(ねばり)。有り。故、手-心(たなごゝろ)を以つて、摩《す》り、熱して、能く、芥(ちり)を拾ふ【芥は、卽ち、禾草《くわさう》[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科 Poaceaeの植物の総称。]なり。】』≪と≫。

『䖝《むし》・蟻、中に有る者≪は≫、乃《すなはち》、未だ、土に入《いら》ざる時、粘《ねばり》する所≪の者≫なり。楓脂《ふうし》、地に入《いる》ること、千年、變じて、琥珀と爲《なる》。獨り、松脂の變ずるのみならざるなり。或いは、茯苓、千年して、琥珀に化《け》する說は、誤傳なり。伏苓[やぶちゃん注:「茯苓」に同じ。]は、陰《いん》に生じて、陽と成る。琥珀は陽に生じて、陰と成る。二物、皆、松より出でて、禀(う)くる所、各《おのおの》、異《い》なり。其の類《るゐ》、數種、有り。西戎《せいじゆう》[やぶちゃん注:中国の西方の異民族の地方を指す。]の產、色、差(やゝ)淡くして、明徹《めいてつ》なり。南方の產、色、㴱《ふかく》して、重《おもく》、濁《にごれる》なり。彼の土人、多《おほく》、輾(き)りて、物の形と爲《なして》、高麗・倭國に出《いづ》る者、色、㴱紅なり。蜂・蟻・松≪の≫枝、有る者、佳なり。』≪と≫。

『紅松脂《こうしようやに》は、琥珀のごとくして、只、濁《にごり》≪て≫、大《おほきに》脆(もろ)く、文《もん》、橫(よこた)はる者なり』。『水珀《すいはく》は、多《おほく》、紅色、無≪く≫、淺黃のごとき、皺文《しはもん》、多し』。『石珀は、石のごとく、重く、色、黃。用《もちふ》るに堪へず』。『花珀は、文、新《わかき》「馬尾松」の心《しん》[やぶちゃん注:芯。]に似て、文、一路は、赤、一路は、黃なり』。『物象珀《ぶつしやうはく》は、其の內に、自《おのづか》ら、物命《ぶつめい》[やぶちゃん注:生命。]、有り』。『瑿珀《えいはく》は、卽ち、是れ、衆珀《しゆはく》の長《ちやう》なり』。『蠟珀は、色、黃にして明瑩《めいほう》[やぶちゃん注:明るき輝き。]なる者なり』。『香珀は、香氣、有る者なり』≪と≫。

『琥珀【甘、平。】』『魂魄を定め、瘀血(をけつ[やぶちゃん注:ママ。「おけつ」。血液のの滞留を言う。])を消し、五淋を通じ、目を明《あきらか》にし、金瘡《かなさう》を合《あは》≪せ≫、能く、小便を通ず。若《も》し、血、少くして、利せざる者には、用ふべからず。反《かへつ》て、其の燥急《さうきふ》[やぶちゃん注:苛立ち、急ぐこと。]の苦《くるし》みを致す。』≪と≫。

 

「五雜組」に云はく、『琥珀は謂はく、「松・楓《ふう》の精液、多年、化《け》する所。」と。《而れども、》恐らくは、皆、未だ、必《かならず》≪しも≫然《しか》らず。中國に、松・楓、二木、乏(とぼ)しからず。何《いづこ》の𠙚に≪か≫、琥珀、有るを、得ん。而《し》かも、夷國《いこく》[やぶちゃん注:中国の東の異民族の地方を指す。]に琥珀を產(いた)すことは、此れ、自《おのづか》ら、天地、生《せい》する所の、一種、珍寶なり。又、水晶のごときも、云はく、「千年≪の≫老水、化する所なり」と。果《はた》して爾(しか)らば、則ち、宜しく、北方沍寒《ごかん》[やぶちゃん注:固く凍って寒いこと。]の地に出《い》づべし。而《しかも》、南方には、氷、無し。却《かへつ》て、水精《すいしやう》、有り。其の說の、稽《かんが》ふること無《なき》ことを知るべし。琥珀は、血珀《けつはく》を上《じやう》と爲し、金珀《きんはく》、之れに次ぐ。蠟珀は最≪も≫下《げ》なり。人、芥《ちり》を拾≪ひて≫、以≪つて≫、眞と爲《なす》者も、亦、非なり。僞る者、之れに傅《つ》くるに、藥を以つて、其れ、芥を拾《ひろふ》こと、捷(すみや)かなり。』≪と≫。

△按ずるに、琥珀、雲南の永昌より出づ。又、阿蘭陀より、琥珀を用《もちひ》て、物≪の≫形を作り、或いは、琥珀の油等を將來す。今、金珀・銀珀・蠟珀、三種、有り、色を以つて、之れを、名づけて、中𬜻・本朝、共に、琥珀、未だ嘗つて、之れ、有らず。謝肇成[やぶちゃん注:「五雜組」の著者「謝肇淛《しやちてうせい》」(現代仮名遣「しゃちょうせい」)の誤り。]が辨、可なり。然《しかる》に、時珍の所謂《いはゆ》る、『倭國の琥珀、深紅なり。』とは、甚だ、非なり。倭の「薫陸《くんろく》」、能く、相似《あひに》て、塵《ちり》を吸ふ、或いは、蜂・蟻を夾《はさ》む者、有る故、以つて、「琥珀」と爲(おも)へるか。伹《ただし》、火に𤋱《くん》じて、之れを試《こころみ》るに、眞なる者、香氣、有り。𤋱陸は、微《やや》、臭氣(くさきかざ)、有り。

 

[やぶちゃん注:「琥珀」は、英語で“amber”(アンバー)の、

天然樹脂の化石

で、古来より「宝石」として扱われてきたものである以下の引用によれば、琥珀の代表的な一種は、

バルト海沿岸地域に古代に生育した、裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora

の樹脂であると述べている。されば、これは、前項の「茯苓」が、旧態の博物学の範疇であったものが、ここでは、

樹脂の地質学的時間をドライヴしてきたものとして、この「寓木類」の二番目に在って相応しいもの

と言ってよいのものであることが明らかになるのである。

 当該ウィキによれば(以下、部分的に引く。注記号はカットした)。『半化石の琥珀は』、『コーパル』(英語:Copal)、『加熱圧縮成形した再生コハクはアンブロイド』(英語: ambroid)と呼ぶ。『西洋でも東洋でも宝飾品として珍重されてきた』。『硬度は天然樹脂よりは硬く、色は飴色、黄色を帯びた茶色』、乃至、『黄金色に近い』。『「琥」の文字は、中国において虎が死後に石になったものだと信じられていたことに由来する。日本の産地である岩手県久慈市の方言では、「くんのこ(薫陸香)」と呼ばれる』。『英名 amber はアラビア語』の「龍涎香」(アンバーグリス(Ambergris):ベゾアール)』(Bezoar:ベゾアール石。動物の消化器などに発生した見つかる結石の一種で、マッコウクジラの腸内に発生する結石であり、香料の一種である)を指す語『に由来する』。『古代ギリシアではエーレクトロン』(ラテン文字転写『ḗlektron』『と呼ばれる。ただし』、『この語は』、『金の合金や銀の合金を意味することもある』。『elector』(ラテン文字転写(ēléktōr)『と関連があるとされた』、この語には、『照らす太陽、四元素説の火、あるいは太陽神の一名』、『という意味がある』。『英語で電気を意味する electricity は』、『琥珀を擦ると静電気を生じることに由来している』。『古代ローマでは、 electrumsucinum succinum)、glaesumglesumなどと呼ばれていた』。『ベルンシュタイン(ドイツ語:Bernstein)はドイツ語で「燃える石」の意で、琥珀を指す。これは可燃性である石であることから名づけられた』。“amber”『(琥珀)の定義は、分野や人によって違う。狭義にはサクシナイト』(Succinite個人サイト「鉱物たちの庭」の「こはく(サクシナイト) -マレーシア、ボルネオ島産」のページによれば、『ラテン語のサクシナム(樹液)に因む言葉で』、琥珀『を意味するものらしい。(ローマ人はコハクをサクシヌス Succinus』、『ギリシャ人はエレクトロン』『と呼んだ』とあり、『スレブロドリスキー著「こはく」によれば、Succinite は現在のバルト海沿岸地域に古代に生育したアカマツのラテン名という。そしてこの地域に産する良質の琥珀を指すようになった』とあった)『だけに限定する者もいる。しかし』、『他の化石樹脂も』 “amber” 『と呼ばれることが多い』。一八九五『年出版』の‘ A system of mineralogy ’ の第六版『(直訳:「鉱物学体系」。『ジェームズ・デーナ、エドワード・デーナ』(James Dwight Dana (父)・Edward Salisbury Dana(息子))『著)では、バルト海産に多い琥珀をサクシナイトと呼んだ。サクシナイトの特徴は』、『コハク酸を多く含むことである。これに対し』、『コハク酸が少ない琥珀類似の物質は総称してレチナイト』(resinite)『と呼ばれた』。二十『世紀末以降、琥珀は鉱物の分類からは除外されるようになった』。一九九五『年に』、『国際鉱物学連合は原則として地質学的過程でできた物質だけを鉱物と定義し』、『サクシナイトは』、二〇二四『年時点の鉱物一覧表に含まれていない』。一九九七『年出版の』‘ Dana's new mineralogy ’『(直訳』:「デーナの新鉱物学」『)にも琥珀類は掲載されていない』。『石炭組織学(石炭岩石学)では、石炭中の微細な樹脂状の粒を resinite(レジニット、レジナイト)と呼ぶ』。『植物化学の分野では』“amber” 『(琥珀)という用語は、広義に樹脂の化石全般を指すことがある』。一九九六『年発行の Amber, Resinite, and Fossil Resins では』、“f ossil resin” 『(化石樹脂)』“amber” 『(琥珀)』、“resinite” 『(レジニット、レジナイト)という用語は特に区別せずに同じ物質を指し、「石炭層などの堆積物中の固体の』個別『な有機物塊のうち、高等植物の樹脂を起源とするもの」と定義している』。『多くの琥珀の主成分はイソプレノイド』(isoprenoid:植物・昆虫・菌類・細菌などによって作り出される生体物質)『の重合体(ポリマー)』(polymer)『である』。『サクシナイトはバルト海沿岸以外にイングランドなどでも産出する。また、バルト海産の琥珀類であっても、サクシナイト以外のものもある』。『鉱物学で、コハク酸が少ない琥珀類似の物質は総称して retinite(レチナイト)と呼ぶ。琥珀類は試料ごとに特性が』、『皆』、『違う。そのため』、『エドワード・デーナは、個々に鉱物名をつけてもきりがなくて無駄だとして、サクシナイト以外のものをレチナイトと総称した』のであった。『日本の久慈産の薫陸』(くんろく)『は、コハク酸の含有量が少ないことからレチナイトの一種に分類された。「レチナイト」を「薫陸」の同義語のように説明している例があるが、「レチナイト」は総称なので、薫陸とは組成が全く違うレチナイトもある』。以下、「成り立ち」の項。『まず、樹液に含まれるテルペンが短期間で重合により』、『硬化して』、『天然樹脂になる。その後』、『長い時間を経るうちに蒸発、さらなる重合、架橋』(Cross-link:クロス・リンク:主に高分子化学に於いて、ポリマー同士を連結し、物理的・化学的性質を変化させる反応を指す)、『異性化などの化学変化により』、『琥珀となる』。『もっとも古い琥珀は』『石炭紀』(三億五千九百二十万年前から二億九千九百万年前まで)の『上部の地層の物とされている』。『ネックレス、ペンダント、ネクタイピン、 ボタンやカフリンクス』(cufflinks(単数形はcufflink)はドレスシャツ(ワイシャツ)やブラウスの袖口(カフ)を留めるための装身具)、『指輪などの装身具に利用されることが多い。人類における琥珀の利用は旧石器時代にまでさかのぼり、北海道の「湯の里』四『遺跡」、「柏台』一『遺跡」出土の琥珀玉(穴があり、加工されている)はいずれも』二『万年前の遺物とされ、アジア最古の出土(使用)例となっている(ゆえに真珠や翡翠と並び「人類が最初に使用した宝石」とも言われる)。また、ヴァイオリンの弓の高級なものでは、フロッグ』(Frog(英語):弓の、手で持つ部分の呼称)『と呼ばれる部品に用いられることがある。宝石のトリートメントとして、小片を加熱圧縮形成したアンブロイド』(Ambroid)、『熱や放射線等によって着色する処理も行われている』。『ロシアの琥珀なら』、『宝飾品に使われるのは三割程度と言われ、宝飾品にならない物が』、『工業用として成分を抽出して使われる』。『熱で分解した琥珀の残留物をテレビン油またはアマニ油に溶解させると、「琥珀ニス、琥珀ラッカー」ができ、木材の表面保護と艶出しに使える』。『その他の利用法として、漢方医学で用いられることがあったという』。『南北朝時代の医学者陶弘景は、著書』「名醫別錄」『の中で、琥珀の効能について』、『一に去驚定神、二に活血散淤、三に利尿通淋』『(精神を安定させ、滞る血液を流し、排尿障害を改善するとの意)と著している』。『ポーランドのグダンスク地方では琥珀を酒に浸し、琥珀を取り出して飲んでいる』。『樹脂の粘性に囚われた小生物(ハエ、アリ、クモ、トカゲなど)や、毛や羽、植物の葉、古代の水や空気(気泡)が混入していることがある。特に虫を内包したものを一般に「虫入り琥珀」と呼ぶ。昆虫やクモ類などは、通常の化石と比較すると、はるかにきれいに保存されることから、化石資料としてきわめて有用である』。『小説』「ジュラシック・パーク」(‘ Jurassic Park ’ :マイケル・クライトン(Michael Crichton 一九四二年~二〇〇八年:私は同書を面白いとは思わなかったが、彼との出会いは、私が中学二年の時、最初に大感激した彼の小説「アンドロメダ病原体」(‘ The Andromeda Strain ’ 浅倉久志訳・一九七〇年早川書房刊)で、ドラマ「ER」まで連綿とラヴ・コールは続いた)『のフィクションの設定は、琥珀内の蚊から恐竜の血とDNAを取り出して復元するというもので、作品発表当時のバイオテクノロジーで実際にシロアリでできたという事例がアイデア元となっている。ただし、数千万年前ともなると』、『琥珀に閉じ込められた生体片のDNAを復元することは実際には不可能である』。『市販の「虫入り琥珀」については、本物』・『偽物も交えて、偽物には精巧』・『稚拙』、『いろいろある。年代の浅い生物入りのコーパルを』、『あえて琥珀の名称で売っているもの、コーパルなどを溶解させ』、『現生の昆虫の死骸などを封入した模造品、樹脂で作った偽物、3Dプリント製など』があるので注意が必要である。『ビルマ琥珀』『は、ビルマ琥珀の古代生物相』『などの古生物を内包した琥珀が発掘される』。『特定の条件で琥珀を燃やした時に松木を燃やしたような香りがするが、近年の琥珀の香りと呼ばれるものは、人工的に再現された香が特許として取得され使用されている』とある。『それとは別に、近年のアンバーと呼ばれる香には、アンバーグリス』(Ambergris)『を再現したものも指している。このアンバーグリスは、琥珀と同様に浜に打ち上げられたマッコウクジラ』(哺乳綱鯨偶蹄目Whippomorpha亜目Cetacea下目ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter macrocephalus )『の結石である』。『琥珀と似たような香木には、同様に樹脂の化石である薫陸というのも存在するが』、『コハク酸を含まない』。『産地だけなら世界中にあるが、産地のほとんどは海岸近くであり、比重が真水より重く海水より軽いことから』、『荒天時に海岸に流れ着いた結果ともされる。質と量が充実しているのはバルト海沿岸地域とドミニカ共和国。日本では岩手県久慈市で、質は良く、量は世界スケールで見れば』、『少ない』。『バルト海沿岸のプロイセンに相当する地域である、ポーランドのポモージェ県グダニスク沿岸とロシア連邦のカリーニングラード州が世界一の産地となっており、ポーランド・グダニスク沿岸とカリーニングラード州だけで世界の琥珀の』八十五%『を産出し、その他でも、リトアニア共和国、ラトビア共和国など大半がバルト海の南岸・東岸地域である』。『琥珀ができた年代は、それぞれの産地でことなり、久慈市で産するものは約』九千年『から』八千六百『年前の白亜紀のもので、バルト海のものは約』五千~四千『年前、ドミニカ産のものは約』三千八百~二千四百『年前の琥珀となる』。『産地であるバルト海沿岸を中心に、琥珀の交易路が整備された。この交易路は琥珀の道(琥珀街道)という名称が付けられた』。『ポーランドは琥珀の生産において圧倒的な世界一を誇り、世界の琥珀産業の』八十%『がグダニスク市にあり、世界の純正琥珀製品のほとんどが』、『このグダニスク地方で製造される』。『グダニスクでは国際宝飾展 AMBERMART が催される。また、琥珀博物館も建てられている』。『バルト海沿岸では、第二次世界大戦に使われた白リン弾から白リンが漏出し、琥珀と間違えて』、『火傷を負う事故が起きている。白リンは海中では発火しないが、人体に接触すると』、『発火発熱するため、注意が呼びかけられている』。『ドミニカ産のブルーアンバー』は、『青い波長のない光の下では普通の琥珀に見えるが、太陽光では青く見える』。『日本の岩手県久慈市近辺』で、『他には福島県いわき市や千葉県銚子市などで産出される』。『中国各地やミャンマー。インドネシアでは青色の琥珀も見つかっている』。『中央アメリカ』の『ドミニカ共和国、メキシコ合衆国。ドミニカ産琥珀』『には、歴史が新しめの熱帯林由来であるため』、『虫や小型爬虫類などが入っている場合が多く、赤や黄色を帯びているものもあるが、有機物質のペリレン』(perylene)『由来の青色も存在する』。『欧州では』、十八『世紀頃までは』、『海洋起源の鉱物だと考えられていた。海に沈んで上ってくる太陽のかけらや、人魚の涙が石となり、海岸に打ち上げられたのだと広く信じられていた。琥珀と黄金の二宝石は、太陽の化身と特別視された。その一方で、紀元』一『世紀』の『ローマの大プリニウスの著書』「博物誌」『には』、『既に植物起源と知られていたことが記されている』。『琥珀を擦ると布などを吸い寄せる摩擦帯電の性質を持つことは今日では有名であるが、歴史上最初に琥珀の摩擦帯電に言及をしたとされている人物は、現在は紀元前』七『世紀の哲学者タレスとされている』。『琥珀の蒸留物である琥珀油は』、十二『世紀に知られていた』。一五四六『年にゲオルク・アグリコラは、コハク酸を発見した。古代ローマの博物学者プリニウスは、既に琥珀が石化した樹脂であることを論じていたが、その証明は』十八『世紀のロシアの化学者ミハイル・ロモノーソフによってなされた』。一八二九『年にイェンス・ベルセリウスは、現代的な手法で化学分析を行い』、『琥珀が可溶性および不溶性成分からなることを発見した』。『琥珀様の色、透明感のある黄褐色や黄金色、黄色寄りのオレンジ色などを琥珀色または英語にならってアンバー(英:amber)と称し、ウイスキーの色あいなどに詩情を込める表現で用いられる。また、方向指示器の黄橙色などもアンバーと称する事例も見られる。 英語では、純色のうちオレンジ色と黄色の中間に当たる色(黄橙色、黄金色っぽい黄色)や交通信号機の黄信号を amber と表現する場合がある』とある。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」「寓木類」の二番目にある([090-8a]以下)「琥珀」、及び、その最後に独立項である「瑿」([090-10b]以下)のパッチワークである。

「阿濕摩揭婆《あしばけいば》」「大蔵経データベース」で検索したところ、法雲編の「翻譯名義集」の「三」に『阿濕摩掲婆。此云琥珀。其色紅瑩。博物誌云。松脂入地千年。化爲茯苓。茯苓千年化爲琥珀。廣誌云。生地中。其上及傍。不生草木。深者八九尺。大如斛。削去上皮。中是琥珀牟婆洛掲拉婆。或牟呼婆羯落婆。此云青白色寶。今名硨磲。尚書大傳云。大貝如車之渠。渠謂車輞。其状類之。故名車渠。渠魁也』とあった。

「楓脂《ふうし》」何度も注意喚起しているが、この「本草綱目」で言う、則ち、中国語の「楓」は、本邦の我々に親しいムクロジ目ムクロジ科カエデ属 Acer のそれとは、全くの別種の、

ユキノシタ目フウ科フウ属フウ Liquidambar formosana

を指すからである。先行する「楓」を参照のこと。

「茯苓」「伏苓」前項「茯苓」を見よ。

「紅松脂《こうしようやに》」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Cembra 節チョウセンゴヨウ Pinus koraiensis の樹脂である。ゆめゆめ、マツ属アカマツ Pinus densiflora と思われぬように!

「水珀《すいはく》」琥珀の一種で、水滴を封じ込んだものを指す。「百度百科」の当該項を参照。画像有り。

「石珀」黄色で透明で、石化の度合いが高く、より硬度の高い琥珀を指す。「百度百科」の当該項を参照。同前。

「花珀」ミャンマー産のものが著名。グーグル画像検索「花珀 原石」の中の原石画像を見られたい。

「馬尾松」マツ属タイワンアカマツ(バビショウ) Pinus massoniana 当該ウィキによれば、『中国の南部を中心に広く分布する松で、針状の葉が』十五~二十センチメートル『と長くなり、ウマの尾を連想させるために、中国ではこの名が付いている。和名』別名『は中国語の漢字を音読みしたもの。アカマツと同じ二葉松であり、日本が台湾を統治した際によく目にしたため、タイワンアカマツ(台湾赤松)とも呼ばれる』。『中国の河南省から江西省、貴州省、海南省までの範囲の低山に広く分布する。特に福建省、広東省、広西チワン族自治区、湖南省の山地に密集している。台湾にも分布し、ベトナム北部から中部にかけても分布する』。『樹高は』二十五~四十五メートル『程度。樹皮は灰褐色で、厚い』。『中国では、松脂を採取する木として重要であり、植林も計画的に行われている。植林後、約』十五『年経つと、幹が松脂の採取が可能な直径に育つ』。『松脂を採取した後の木材は、枕木などの用途に用いられるほか、粉砕して、製紙用のパルプに利用されることが多い』。『葉は、紅茶の一種のラプサンスーチョン』(英語:Lapsang souchong・中国語:正山小種・立山小種・煙茶・烟茶。紅茶の茶葉を、松葉で燻して着香したフレーバー・ティーの一種で、癖のある非常に強い燻香が特徴。産地は福建省武夷山市周辺の一部)『の香り付けにも用いられる』とある。

「物象珀《ぶつしやうはく》」生物体が封じ込まれた琥珀を指す。

「瑿珀《えいはく》」ブラック・アンバー。「百度百科」のこちらを参照されたい。同前。

「蠟珀」ワックス・アンバー。蝋のような雰囲気を持った黄色の琥珀で、気泡を多く含むため、透明度が悪く、比重も低い。「百度百科」のこちらを参照されたい。同前。

「香珀」芳香成分が含まれているために香りが良い琥珀を指す。「百度百科」のこちらを参照されたい。画像はないが、解説動画の中に出る。

「五淋」石淋・気淋・膏淋・労淋・熱淋という膀胱・尿路に関する症状を指す語。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上は「卷十」の「物部二」の一節。「維基文庫」の電子化されたここにあるものを示しておく(コンマその他は読点に代えた。一部の漢字表記に手を加えた)。

   *

昔人謂松脂墜地、千年爲琥珀。又云是楓木之精液、多年所化。恐皆未必然。中國松、楓二木不乏、何處得有琥珀。而夷中產琥珀者、豈皆松嶺楓林之下乎。此自是天地所生一種珍寶。卽他物所變化、孰得而見之。又如水晶、雲千年老冰所化、果爾、則宜出於北方冱寒之地。而南方無冰、却有水精。可知其說之無稽矣。琥珀、血珀爲上、金珀次之、蠟珀最下、人以拾芥辯其眞僞、非也。僞者傳之以藥、其拾更捷。

   *

「雲南の永昌」現在の雲南省昆明市西山区永昌(グーグル・マップ・データ)。

「金珀」「百度百科」の「金珀」には、『黄金の琥珀』とし、『透明な琥珀はアンバーと呼ばれ、不透明な琥珀は緻密なワックスと呼ばれ』、『黄色は金と呼ばれる。明代の謝昭哲の「呉子圖」の「呉布四」の中で、『琥珀、血琥珀が一番上、金琥珀が二番目、蠟琥珀が一番下」と記している』とある。

「銀珀」前掲の「鉱物たちの庭」の「琥珀(バーマイト) Amber(Burmite) (ミャンマー産)」のページに、『雲南産の』、『やや淡い赤黄色のものは金珀で、次品。日本では銀珀と呼んだ。その次が淡い黄色のもので日本では蝋珀といった。蜜蝋に似るため』とあった。

『倭の「薫陸《くんろく》」』小学館「日本国語大辞典」の「くん-ろく【薫陸】」に、『「ろく」は「陸」の呉音』とし、『① インド、イランなどに産する樹のやにの一種。盛夏に、砂上に流れ出て、固まって石のようになったもの。香料、薬用となる。乳頭状のものは、乳香という。くろく。なんばんまつやに。薫陸香(くんろっこう)』とし、次いで、『② 松、杉の樹脂が、地中に埋もれ固まってできた化石。琥珀』『に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産する。わのくんろく』とある。]

2024/11/03

第二詩集「山之口貘詩集」新作分正規表現修正開始

バクさんの第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊。処女詩集「思辨の苑」の全詩篇五十九篇と、同詩集刊行後に創作した詩十二篇を追加したもの)の新作分を、国立国会図書館デジタルコレクションの原本(左のリンクは表紙。扉の標題ページ。次を開くと、著者近影がある。目次はここから(最後に『自二五八三至二六〇〇』とある。なお、バクさんの詩集内の配列は「思辨の花」と同じで、最新のものから古いものへの降順配置である。これには、バクさんらしい新しい詩をこそ自分としては読んで貰いたいという詩人の矜持というか、光栄が感じられる。扉標題はここで、奥附はここ)で、正規表現に補正を開始する。

2024/11/02

山之口貘「詩集 思辨の苑」正規表現修正完了

ブログ・カテゴリ「山之口貘」で、バクさんの処女詩集「詩集 思辨の苑」の正規表現修正を完了した。途中で述べた通り、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの山之口貘「詩集 思辨の苑」(昭一三(一九三八)年八月一日むらさき出版部刊・初版)に想像を絶する十二ページの落丁があったが、三年後の第二詩集「山之口貘詩集」(昭和一五(一九四〇)年十二月山雅房刊)で、取り敢えず、補うことが出来た。その辺りは、それらの落丁部の詩篇で、毎回、指摘してあるので見られたい。

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十五 目録(寓木類・苞木(竹之類)・樹竹之用)・茯苓

[やぶちゃん注:底本・凡例その他は、初回を参照されたい。「目録」の読みはママである。本文同様、濁点落ち・歴史的仮名遣の誤りが多いが、ここでは指摘しない。

 

和漢三才圖會卷第八十五目録

 卷之 八十五

  寓木類

茯苓(ぶくりやう)

琥珀(こはく)

猪苓(ちよれい)

雷丸(らいぐはん)

桑寄生(さうきせい)

占斯(くすのきのやとりき)

紫稍花(ししやうくは)

  苞木 竹之類

(たけ)

竹瀝(ちくれき)

[やぶちゃん注:本文では、ここに「竹葉(たけのは)」の附属項がある。

竹筎(ちくじよ) 【あまはた】

[やぶちゃん注:本文では、ここに「竹實(たけのみ)」の附属項がある。

[やぶちゃん注:本文では、その「竹實」の後に「仙人杖(たけのこのとまり)」の附属項がある。

[やぶちゃん注:本文では、その「仙人杖」の後に「筍(たけのこ)」の附属項がある。

(たけのかは)

竹黃(ちくわう)

䇞竹(くれたけ)

紫竹(しちく)

暴節竹(こさんちく)

百葉竹(ひやくえふちく)

銀明竹(きんめいちく)

雙岐竹(ふたまたたけ)

筱竹(しのたけ)

虎彪竹(とらふたけ)

鳳尾竹(ほうびちく)

箆竹(やのたけ)

(さゝ)

棘竹(いばらたけ)

人面竹(にんめんちく)

椶竹(しゆろうちく)

  樹竹之用

(うへき) 【枝 葉】

 

 

和漢三才圖會卷第八十五

  寓木類 【附苞木類

        卽竹之類也】

[やぶちゃん注:割注はここで訓読しておく。「附《つけ》たり 苞木類。卽ち、竹の類《るゐ》なり。」。]

 

Bukuryou

 

ぶくりやう 伏靈  伏兎

      不死麪 松腴

茯苓    抱根者

       名伏神

唐音

 ホツリン

 

本綱茯苓出大松下附根而生無苗葉花實作塊如拳在

土底大者至數斤有赤白二種或云松脂變成或云假松

氣而生今見之古松久爲人斬伐其枯折槎枿枝葉不復

[やぶちゃん注:「枿」は「切り株」の意。「株」とは別字。]

上生者謂之茯苓撥卽于四靣𠀋餘地內以鐵頭錐刺地

如自作塊不附着根其抱根靣輕虛者爲伏神則假氣生

者外皮黒而細皺內堅白形如鳥獸龜鱉者良性無朽蛀

埋地中三十年猶色理無異也下有茯苓則上有靈氣如

𮈔之形

茯苓【淡甘温】 浮而升陽也 赤者瀉也入氣分 白者補

 也入血分其用有五利小便也【一ツ】開腠理【二ツ】生津液

 【三ツ】除虛熱也【四ツ】止潟也【五ツ】伹陰虛者可斟酌

 雖利小便不走氣淡滲之藥俱皆上行而下降非直

 下行也【惡白斂畏地楡雄黃秦芃龜甲】忌米醋及酸物

茯苓皮  治水腫膚脹開水道開腠理

茯神【抱根者也】 治風眩驚悸多恚怒善忘開心益智安魂魄

△按倭之茯苓𠙚𠙚皆多防州土州讃州豫州及和州吉

 野紀州熊野皆佳最松下有而草山亦有掘葛蕨者時

 得之有茯苓中抱蕨根者謂之蕨茯苓

 赤茯苓真者難多得也多外白內赤此未乾者收櫃故

 變色然耳皆輕虛者不宜今藥肆去皮切片以販之

 

   *

 

ぶくりやう 伏靈《ぶくりやう》  伏兎《ぶくと》

      不死麪《ふしめん》 松腴《しようゆ》

茯苓    根を抱《いだ》く者、「伏神」と名づく。

唐音

 ホツリン

 

「本綱」に曰はく、『茯苓は、大松の下に出づ。根に附《つき》て、生ず。苗・葉・花・實、無く、塊(かたまり)を作《なし》、拳(こぶし)のごとく、土の底に在《あり》。大なる者、數斤《すきん》[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十二・八二グラムであるが、一般に私は「数~」の場合、六掛けするが、それでは、ちょっと重過ぎる。生薬サイトでは、二百グラムから二キログラムとあるので、三掛けで一・八キログラム強ととっておく。]に至る。赤・白の二種、有り。或いは、云はく、「松脂《まつやに》≪の≫、變成す。」、或いは、云はく、「松の氣《き》を假《かり》て生ず。」と。今、之れを見るに、古松、久《ひさしく》して、人の爲めに、斬-伐(き)られて、其《それ》、枯折《かれをれ》、槎-枿(きりかぶ)・枝葉、復《ふた》たび、上《のぼ》り生ぜざる者を、之れ、「茯苓の撥(いかだ)」[やぶちゃん注:「撥」には「棹さす・舟をやる」の意があるので、良安が当て訓したものか。しかし、私は「松の根の変成したもの」としての動詞としての「醸した(もの)」の意、或いは、形状から、楽器の「撥(ばち)」の意のように思われるが、如何?]と謂ふ。卽ち、四靣、𠀋餘《あまり》の地內に于《おい》て、以つて、鐵≪の≫頭《かしら》≪の≫錐(きり)を、地に刺《さし》、如《も》し、自《おのづか》ら塊《かたまり》を作《なし》、根に附-着(つ)かずして、其の根を抱《いだ》く、靣《つら》の輕虛なる者、「伏神」と爲す。則ち、氣を假《かり》て、生ず。者なり。外皮、黒《くろく》して、細《こまか》なる皺(しわ[やぶちゃん注:ママ。])あり。內、堅≪く≫、白《しろく》して、形、鳥獸《てうじう》・龜鱉《きべつ》[やぶちゃん注:カメ・スッポン。]のごときなる者、良し。性、朽-蛀(むしい)ること、無し。地中に埋《うづ》むこと、三十年、猶を[やぶちゃん注:ママ。]、色・理《すぢ》、異なること、無きなり。下に、茯苓、有れば、則ち、上に、靈氣《れいき》、有りて、𮈔の形のごとし。』≪と≫。

『茯苓【淡甘、温。】』『浮≪きて≫升《のぼ》る、「陽」なり。赤き者は、「瀉《しや》」なり。氣分に入《い》り』、『白き者は、「補《ほ》」なり。血分に入る。其の用、五つ、有り。小便を利するなり。』【一ツ。】。『腠理《そうり》[やぶちゃん注:皮膚の肌理(きめ)。]を開く。』【二ツ。】。『津液《しんえき》を生《しやう》ず。』【三ツ。】。『虛熱を除くなり。』【四ツ。】。『瀉を止≪むる≫なり。』【五ツ。】。『伹《ただし》、陰虛の者には、斟酌すべし。』≪と≫。

『小便を利すると雖も、氣に走らず。淡《あは》≪き≫滲《しん》の[やぶちゃん注:かすかに有効成分が滲出するところの。]藥にして、俱に、皆、上行《じやうかう》して、而≪して≫、下降す。直(《ちよ》く)に≪は≫下行するに非ざるなり【「白斂《びやくれん》」を惡《い》み、「地楡《ぢゆ》」・「雄黃《ゆうわう》」・「秦芃《じんぎやう》」・「龜甲」を畏《おそ》る。】。米の醋《す》、及び酸≪の≫物を、忌む。』≪と≫。

『茯苓皮』 『水腫膚脹を治す。水道を開き、腠理を開く。』≪と≫。

『茯神【根を抱≪く≫者なり。】』は、『風眩《めまい》・驚悸《きやうき》[やぶちゃん注:心臓機能が不安定で、驚くと、動悸が昂(たかぶ)る症状を指す。]、多く、恚怒《いど》[やぶちゃん注:病的な怒り方。]、善《よ》く忘≪れするを≫治す。心を開《ひらき》、智を益し、魂魄を安んず。』≪と≫。

△按ずるに、倭の「茯苓」、𠙚𠙚、皆、多し。防州・土州・讃州・豫州、及び、和州・吉野・紀州・熊野、皆、佳し。最も[やぶちゃん注:多くのものは。]松の下に有りて《✕→るも》、草山《くさやま》にも、亦、有り。葛(くづ)・蕨(わらび)を掘る者、時に、之れを得。茯苓の中に蕨の根を抱く者、有り、之れを「蕨茯苓」と謂ふ。

 「赤茯苓」の真なる者、多≪くは≫得難し。多《おほく》は、外、白、內、赤し。此れは、未だ乾かざる者≪なれば≫、櫃《ひつ》に收むる。故《ゆゑ》に、色を變じて、然《しか》るのみ。皆、輕虛なる者、宜しからず。今、藥肆《やくし》に、皮を去《さり》、切片(《きり》へ)ぎて、以つて、之れを、販《うる》。

 

[やぶちゃん注:茯苓は、「寓木」(グウボク:この場合は、「木に宿る」の意で、寄生する生物群を総称する謂いであり、木本植物の名称ではない。しかし、外形から分類する古典的博物学の在り方として、次項の「琥珀」を含めて興味深い但し、「寓木」を「やどりぎ」と訓じた場合は、双子葉植物綱ビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album を指すが、ここでは、無関係である。ヤドリギの中文名は「槲寄生」であり、本巻の後で、「桑寄生」及び「占斯」という名で立項されてある)は、

菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊) Wolfiporia extensa

である。アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora )・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii )等のマツ属  Pinus  の植物の根に寄生する。詳しくは、私の「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の冒頭注で当該ウィキを引いてあるので、そちらを見られたい。因みに、「苓」の字は、「リヤウ(リョウ)」が呉音で、「レイ」が漢音である。

 「本草綱目」の引用は、「漢籍リポジトリ」の「卷三十七」の「木之四」「寓木類」の筆頭にある非常に長い「茯苓」のパッチワークである。

「白斂《びやくれん》」「白蘞」のことであろう。ブドウ目ブドウ科アンペロシッサス属Ampelocissusカガミグサ Ampelopsis japonica 「熊本大学薬学部薬用植物園」公式サイト内の「植物データベース」の「ブドウ科Vitaceae」「カガミグサ」に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『中国原産で、日本には享保年間に渡来した』。『落葉蔓性木本。根は塊状に肥厚し、紡錘形になり』、『数個束生する。葉は互生し、掌状に』三~五『全裂して長さ約』十センチメートル、『裂片は楔形で通常粗鋸歯縁。葉と対生する巻きひげがあり、他の物に絡みつく。淡黄色の小型の両性花を多数、葉と対生する集散花序に付ける』。『解熱、解毒、鎮痛、消炎作用があり、発熱、各種のできもの、打撲傷、熱湯による火傷などに服用するか、粉末を水で練って患部に塗布する』。『江戸時代は花屋に出回るほど』、『栽培が普及していた』とある(画像有り)。同一種ではないものの、白っぽい蔓植物を意味する語として、「日本書紀」に、少彦名命(すくなびこなのみこと)が乗る舟が、「白蘞皮(かがみのかは)」で造ってあったと出る。私の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 母衣』を見られたい。

「地楡《ぢゆ》」バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ(吾亦紅)Sanguisorba officinalisウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』。『「ワレモコウ」の漢字表記には吾亦紅の他に我吾紅、吾木香、我毛紅などがある。このようになったのは諸説があるが、一説によると、「われもこうありたい」とはかない思いをこめて名づけられたという。また、命名するときに、赤黒いこの花はなに色だろうか、と論議があり、その時みなそれぞれに茶色、こげ茶、紫などと言い張った。そのとき、選者に、どこからか「いや、私は断じて紅ですよ」と言うのが聞こえた。選者は「花が自分で言っているのだから間違いない、われも紅とする」で「我亦紅」となったという説もある』。当否は別としてこれ、命名説としては素敵に神がかっていて面白い。『別名に酸赭、山棗参、黄瓜香、豬人參、血箭草、馬軟棗、山紅棗根などがある』。また、根は地楡(ちゆ:中国語。ディーユー dìyú)『という生薬でタンニンやサポニン多くを含み、天日乾燥すれば収斂薬になり止血や火傷、湿疹の治療に用いられる。漢方では清肺湯(せいはいとう)、槐角丸(かいかくがん)などに配合されている』ともある。

「雄黃《ゆうわう》」「牛黃圓」に同じ。牛の胆嚢に生ずるとされる黄褐色の胆石である牛黄を主剤としたを丸薬。

「秦芃《じんぎやう》」「株式会社 ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱 」の「ジンギョウ(秦艽)」によれば(ピリオド・コンマの一部を句読点に代えた)、基原植物をリンドウ目『リンドウ科(Gentianaceae)』リドウ連Gentianeaeリンドウ属『の Gentiana macrophylla Pall., G. straminea Maxim., G. crassicaulis Duthie ex Burkill, G. dafurica Fisch. などの根を乾燥したもの』とし、『秦艽は』、「中華人民共和国薬典」(二〇一〇年版)『では Gentiana 属植物』四『種類の根を規定しています。秦艽は外部形態の違いにより大きく』三『種類、すなわち秦艽、麻花艽、小秦艽に分けられています。秦艽および麻花艽はG. macrophyllaG. stramineaG.crassicaulisに由来し、小秦艽はG. dafuricaに由来します。秦艽は長さ』十~三十『センチ、直径』一~三『センチで円柱形の主根、小秦艽は長さ』八~十五『センチ、直径』〇・二~一『センチで』、『円錐または円柱形の主根からなる生薬です。麻花艽は数本の小さい根が』「麻花」『(中国の油で揚げたねじれたお菓子)』『のようにまとまってねじれています。 これら原植物は日本に分布していませんが、日本では中国からの輸入品を使用しています』。『秦艽という名称について』、「新修本草」には『秦艽は俗に秦膠と書く。もとは秦糺といったもので、糺は糾と同字である』『とあり、関連して』、「本草綱目」では、『秦艽は秦地方から出るもので、その根は羅紋の交糾したものを良品とするところから秦艽、秦糾と名付けた』『とあります』。『原植物について』、「圖經本草」に、『今は河陝(山西省および陝西省)の州郡に多くい。その根は土黄色で相交糾し、長さは一尺くらいで、太いもの細いもの一定しない。草高は五、六寸で、葉は婆娑(バサ;根出葉の多い)として茎梗に連なり、皆青くて萵苣(ワキョ;チシャのこと)の葉のようだ。六月中に葛の花のような紫の花を開き、その月の内に子を結ぶ。毎春、秋に根を採って陰乾する』『とあります。これらの記載から Gentiana 属植物であることがわかります』。『産地について、G. macrophyllaに由来するものは甘粛省産が多く、品質も良いとされています。その他、四川省、陝西省、新疆ウイグル自治区などに産します。G. dafuricaに由来するものは山西省、河北省を中心に、その他甘粛省、青海省、四川省、新疆ウイグル自治区に産します』。「中華人民共和国薬典」『に規定されている原植物以外に由来する生薬もあります。四川省産は G, dendrologi 、山西省産は G. fetisowi 、陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区産は G. wutaiensis 、チベット自治区産は G. tibetica などです。内モンゴル自治区産の「大艽」、「黒大艽」と称する生薬は』、キンポウゲ目『キンポウゲ科のAconitum umbrosumA. sibiricum などで、韓国産の秦艽もレイジンソウ』(伶人草)『A. loczyanumです。いずれも根がねじれている、という点でリンドウ科由来のものと共通しています』。『かつて日本市場でもAconitum属に由来するものが流通していました』。「本草綱目啓蒙」『には』、『漢渡あり、根肥大にして黃白色左ねじ右ねじあり、又枝分れてねじれ其末合して一本となりねじれたるものあり、本根內は空しくして外のみ網の如くなりて末ねじれたるもあり、これを羅紋交糾と云』『とあり、続けて』、『享保年中朝鮮の秦艽の苗來る』。『其後』、『種を傳て』、『今』、『多くあり』。『葉は毛莨』(キンポウゲ科キンポウゲ属ウマノアシガタ変種ウマノアシガタ Ranunculus grandis var. grandis )『の葉に似て』、『毛』、『なし』。『一根に叢生す、方莖直立して』、『葉』、『互生し、淡黃花を開く』。『形』、『烏頭花に似て小し、根黄色にして形ねじれたり、此草は城州の北山及野州・信州に多し、花淡紫色なり、又』、黃『白花もあり、種樹家にて伶人草と云』、……『朝鮮種のもの』、『眞の秦艽に非ず』『とあります。すなわちGentiana属およびAconitum属に由来するもの共に存在したことが記載され、さらに前者が正品であることを認識していました』。『薬効について』「本草綱目」には』、『秦艽は手、足の陽明経の薬で、兼ねて肝、胆に入る。故に手、足不遂、黄疸、煩渇の病に用いるのは、陽明の湿熱を去るのが主たる目的である。陽明に湿があれば身体が酸疼し煩熱し、熱があれば日哺に潮熱し骨蒸するものだ』『とあります。漢方では、祛風湿・清虚熱・退黄の効能があり、リウマチなどによる関節痛や筋肉の痛み、痙攣、結核などによる虚熱、黄疸、小便不利などに用いられます』。『秦艽は日本では使用頻度があまり多くありません。冒頭で記載したように、異物同名生薬が存在することも大きな理由だと思われます。今後研究が進み、品質の差異が明確になれば、より使い易い生薬になることと思います』とあった。

「蕨茯苓」不詳。

「赤茯苓」「株式会社 栃本天海堂」の金沢大学薬学部教授御影雅幸氏の「茯苓の産地を訪ねて~ 1 ~」に(コンマを読点に代えた)、『中国では茯苓の栽培が行なわれていることは周知の事実である』。『日本でも試みられてきたが、中国産の菌糸を使えば可能であるが、日本産の菌糸では満足に菌核が生じてくれないことが判っている』。『最近ではDNA塩基配列も調査したが、現時点では中国産と日本産に決定的な違いが見つかっていない。しかし、ご存知のように、中国産と日本産では明らかに断面の色が異なる。中国産は白く、日本産や北朝鮮産は』、『やや赤みがある。筆者は』、『この色が』、『いわゆる白茯苓と赤茯苓』(☜)『の相違であると考えている。本来』、『使い分けられるべき両者であれば』、『赤茯苓の栽培も必要であろう』とあったので、現時点では、同一種の個体変異ということであろう。]

2024/11/01

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 䑕取樹 / 卷第八十四 灌木類~了

 

Haribuki

 

ねすみとり 俗稱 【正字未考】

 

䑕取樹

 

 

△按䑕取樹遠州竹林中多有之髙一尺許如山橘樣而

 葉似𢎘絃葉長三四寸背莖有細刺觸之人刺入皮膚

[やぶちゃん字注:「𢎘」は「弓」の異体字。]

 難脫不知何因名䑕取乎蓋摘葉用覆置天井上則䑕

 不敢走若栗梂能避天井䑕之類爾秋結赤實大三倍

 似山橘實余國此樹未有矣

 

   *

 

ねずみとり 俗稱 【正字、未だ考へず。】

 

䑕取樹

 

 

△按ずるに、䑕取≪の≫樹は、遠州の竹林の中に多く、之れ、有り。髙さ、一尺許《ばかり》。「山橘(やぶかうじ)」樣《やう》≪の≫ごとくにして、葉は、「𢎘絃葉《ゆづりは》」[やぶちゃん注:「𢎘」は「弓」の異体字。]に似て、長さ、三、四寸。背の莖に、細き刺《とげ》、有り。之れに觸る≪れば≫、人、刺《さ》≪され≫、皮膚に入《いり》て、脫(ぬ)け難し。知らず、何に因りて、「䑕取」と名づくるか。蓋《けだし》、葉を摘(むし)り、用《もちひ》て、覆(うつむ)け、天井(てんじやう)の上に置けば、則ち、䑕、敢《あへ》て、走らず。栗の梂(いが)、能く天井の䑕を避《さく》るごときの類《たぐひ》のみ。秋、赤き實を結《むすぶ》。大いさ、似≪れる≫「山橘(やぶかうじ)」の實より三倍なり。余國には、此の樹、未だ有らず。

 

[やぶちゃん注:東洋文庫訳で、本文の解説の中の『取樹』に割注して、『(ウコギ科ハリブキ)』とする。それは、

双子葉植物綱類セリ目ウコギ(五加木)科ハリブキ属ハリブキ Oplopanax japonicus

である。但し、辞書及びネット記事にハリブキの異名とする記事は見当たらなかった。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記『針蕗』。『雌雄異株』。『高さは』一メートル『くらいになり、茎には針状の刺が密生する。葉は茎に互生し、直径』三十~四十センチメートル『の掌状になり、葉柄にも葉脈にも刺がつく。花期は』六~七『月で、緑白色の目立たない小さな花を多数つける。秋に果実が赤く熟す』。『北海道、本州、四国に分布し、深山の樹林下、特に針葉樹林内などのやや薄暗い場所に自生する』とある。「ブリタニカ国際大百科事典」の同種の解説の中に、『ごく近縁の種類が』、『北アメリカ東部にあり』、『太平洋をはさむ分布として有名である』とあったのが、目に止まった。

「山橘(やぶかうじ)」双子葉植物綱ツツジ目サクラソウ科ヤブコウジ亜科ヤブコウジ属ヤブコウジ Ardisia japonica 。先行する「山橘」を見られたい。

「𢎘絃葉《ゆづりは》」ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ亜種ユズリハ Daphniphyllum macropodum subsp. macropodum 。先行する「讓葉木」を見られたい。]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 白丁花

 

Hakutyouge

 

はくちやうけ 俗稱

 

白丁花

      【花白而微有

       丁香之氣故

       俗名之】

 

 

△按白丁花小樹高二三尺枝莖勁葉似狗黃楊葉四月

 開小白花大三分許一種有千葉者折枝莖寸寸揷之

 能活叢生爲墻籬際限人家檐滴下植之

[やぶちゃん字注:「墻」は、原本では、「グリフウィキ」のこれに最も近い(但し、下方の「面」が「靣」の字体)であるが、表示出来ないので、一般的な「墻」とした。]

 

   *

 

はくちやうげ 俗稱。

 

白丁花

      【花、白≪くして≫、微《やや》、

       「丁香《ちやうかう》」の氣《かざ》、

       有り。故、俗、之れを名づく。】

 

 

△按ずるに、白丁花、小樹≪にして≫、高さ、二、三尺。枝・莖、勁《つよく》、葉、「狗黃楊《いぬつげ》」の葉に似《にる》。四月、小白花《しやうはくくわ》を開く。大いさ、三分[やぶちゃん注:六・一~九・一ミリメートル。]許《ばかり》。一種、千葉《やへ》の者、有り。枝・莖を折《をり》て、寸寸《すんずん》にして[やぶちゃん注:一寸(三センチメートル)ぐらいに断って。]、之れを揷(さ)し《✕→せば》、能《よく》、活《かつ》へ[やぶちゃん注:ママ。]、叢生《さうせい》して、墻-籬《かきね》≪の≫際限を爲《な》し、人家の檐-滴(あまだれ)の下に、之れを植《うう》。

 

[やぶちゃん注:「白丁花」は、

双子葉植物綱リンドウ目アカネ(茜)科アカネ亜科ヤイトバナ(灸花)連ハクチョウゲ属ハクチョウゲ Serissa japonica

である。当該ウィキを引く(注記号はカットした)。漢字表記は別に『六月雪』がある。『ハクチョウゲという和名の由来は、その花が丁字型の白い花を付けるところから、白い丁字花という意味で名付けられている。「白鳥花」と書かれる場合もあるが、この場合は』、鳥の種群の『白鳥』類『とは関係がなく』、『単なる当て字である。中国名は「六月雪」』。『原産地は東南アジア。日本の沖縄、中国、台湾、インドシナ半島、タイに分布する』。『常緑広葉樹の小低木。樹高は』〇・五~一『メートルほどで、よく枝分かれする。葉は揉むと悪臭を放つ。花期は』五~七『月頃であるが、西日本の暖地では秋の気候の良い時期にも開花することがある。日本では、ふつう果実は出来ない』。『緑葉の基本種で薄い藤色の一重花、緑葉で純白色の一重花、一般的な覆輪斑入りの物も、白花と藤色花の個体が散見される。また、白花個体の中から選抜されたポンポン咲きもあり、この品種はカスミソウのように沢山花をつける。英国では 'Flore Pleno''Kyoto''Mount Fuji''Variegata''Variegata Pink' などといった園芸品種名の付けられた選抜個体がある。なお、日本国内の個体との相関関係は不明。紫色の花をつけるシチョウゲ』(紫丁花:アカネ亜科ヘクソカズラ連シチョウゲ属シチョウゲ Leptodermis pulchella )『は、ハクチョウゲの近縁種である』。『強い刈り込みにもよく耐え、細かい枝が容易に分岐し、病虫害にも耐性があり、生垣や庭木として利用されている。また、造園での修景用緑化灌木・盆栽・園芸などで扱われる。挿し木で繁殖させることが容易な部類に入る。刈り込み仕立てが普通だが、自然樹形仕立てにすることもある』。『ハクチョウゲ属( Serissa )はキュー植物園』(Kew Gardens:イギリスのロンドン南西部のキューにある王立植物園)『が携わるデータベースである Govaerts 2019)によれば』、『ハクチョウゲただ』一『種のみが認められているが、Govaerts がハクチョウゲのシノニムの一つとしているシナハクチョウゲ Serissa serissoides (DC.) Druce を独立した種と認める場合がある』。『庭木や盆栽としてよく栽培されるので色々な品種が存在する』として、以下に四品種が紹介されてある(学名は独自に調べたが、フタエザキハクチョウゲは学名を見出せなった)。

○フイリハクチョウゲ Serissa japonica 'Variegata'(『葉に模様が入る』)

○ヤエハクチョウ Serissa japonica 'Flore Pleno'(『八重咲き種』)

○フタエザキハクチョウゲ(『花が二重』)

○ダンチョウゲSerissa japonica cv. Dancyouge(変種としてSerissa japonica var. crassiramea ともする)(『節が詰まり、葉が密に重なり合う』)]

「和漢三才圖會」植物部 卷第八十四 灌木類 臭𦶓

 

Syukou

 

さうこう

 

臭𦶓

 

[やぶちゃん注:「さうこう」はママ。「しうこう」が正しい。]

 

農政全書云臭𦶓生山谷中高四五尺葉似金銀花葉而

尖𧣪五葉攅生如一葉開花白色其葉味甜

[やぶちゃん注:「𧣪」は「角」が「⻆」であるが、そのような異体字は見当たらないので、「𧣪」とした。]

 

   *

 

さうこう

 

臭𦶓

 

[やぶちゃん注:「さうこう」はママ。「しうこう」が正しい。]

 

「農政全書」に云はく、『臭𦶓《しうこう》は、山谷の中に生ず。高さ、四、五尺。葉、「金銀花」の葉に似《にて》、尖《とが》≪て≫𧣪《するどくたちあが》≪れり≫。五葉、攅《こごな》≪て≫生じ、一葉《ひとは》のごとし。花≪を≫開≪けば≫、白色≪なり≫。其の葉、味、甜《あまし》。』≪と≫。

 

[やぶちゃん注:これは、いろいろ検索してみた結果、「東海国立大学機構学術デジタルアーカイブ」の「伊藤圭介文庫 錦窠図譜の世界」の「錦窠植物図説」の「五加科」の「巻次」「065-142」(所蔵機関は「名古屋大学附属図書館」)に興味深い記事を見つけた。その翻刻・翻訳を参考に、自然流で翻刻してみると(「■」は判読不能字)、

   *

 岩崎ノ救荒- -通解云

 臭蕻 未詳 五加ノ一種ヤマウコギ 一名ヲニウコギ

 ニ似レドモ 臭気 甚シカラズ 故ニ的セス 尤 ヤマウコギ

 モ 乾菜トナシテ 味ヨシ

九附

 オニウコギ

 ■ザウツキ 食用

 ニハナラサルベシト

       ■■分モ

          云

   *

この記載から、臭いウコギは「オニウコギ」ということになる。而して、オニウコギは、

双子葉植物綱セリ目ウコギ科ウコギ属ヤマウコギ変種ヤマウコギ Eleutherococcus spinosus var. spinosus

の異名である。取り敢えず、これを候補とはするが、いくら調べても、ヤマウコギが臭いとする記載がないので、確定は出来ないので、当該ウィキをリンクさせるに留める。

 「農政全書」は先行する「山茶科」を見られたい。「漢籍リポジトリ」の同巻の、ガイド・ナンバー[054-21b] に、「臭𦶓」の標題で、以下のように出る(一部表記を改めた)。

   *

臭𦶓 生宻縣楊家衝山谷中科條髙四五尺葉似杵𤓰葉而又似金銀花葉亦尖𧣪五葉攅生如一葉開花白色其葉味甜

  救飢 採葉煠熟水浸淘淨油鹽調食

   *

「金銀花」これは、マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica である。これは日中でも同じである。「維基百科」の同種の「忍冬」を見られたいが、そこに、初っ端で、『花稱為金銀花』とあり、以下、一段落分を「金銀花」に費やして、宋代の「蘇沈內翰良方」に、初めて、本種が「金銀花」の名を載せており、『スイカズラの花は、最初、白く咲き、その後、黄色に変ずることから「金銀花」と名付けられた』とある。しかし……葉は……グーグル画像検索で、ヤマウコギがこれで、スイカズラはこれ。……う~、全然、似てないぜ!]

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